並行世界で何やってんだ、俺 (2) ミカ編

嗚呼、歌姫様

「それ、ちょうーだい!!」
 彼女は、なおも両手を突き出したまま、おねだりを繰り返す。
 キラキラした眼。細い眉。ほころんだ口元。ピンク色の唇。
(満面の笑みも仕草も声も可愛い……)
 もう少し小さな女の子だったら、本当に西洋人形が喋っているように思えただろう。
 そんな彼女が初対面の俺に、甘えるような声で言う。
「ねえ、お願い!」

 こうなると、先ほどまでの警戒心が嘘のようにどこかへ吹き飛び、協力してあげようという気持ちがムクムクと湧いてきた。
(いやいやいや! そうはいっても他人のノートを上げるわけにはいかない)
 思わず渡そうとして前へ動いた腕を元に戻す。

(こういう時は何と言えばいいのだろう……)
 元の世界ではずっとジュリと一緒だったので、こう言えばああ言うというパターンは定型文のようになっていて、ボケとツッコミですら体に染みついていた。選択(チョイス)する言葉が決まっているから、その決まりに乗っかっていれば面白い会話が成り立った。
 味気なく思われるかも知れないが、その同じパターンが楽だったし、しかも会話がタイミング良くポポンと()まると快感すら覚えた。二人で漫才でもやろうかと思った時期もあったくらいだ。

 やっぱりそれは安直だったのだ。
 並行世界へ一人放り出されてからというものは、そんな会話の相手が何処にもいない。
 普段、楽しく会話できていたのは彼女がいたからだ、と改めて思う今日この頃。
 今更ながら、周りの女生徒との接し方や話し方がまるで分からないことを痛感し、後悔し、分からないからどうしても無口になる。
 無口に慣れると、咄嗟(とっさ)に言葉が出ない。
 たまにポツリと喋る話し方が一見クールな印象を相手に与えても、その実、会話に対して心底臆病なのだ。

 俺にベッタリだった彼女が悪いのではない。
 あまりに楽な行動しかしていなかった自分が悪いのだ。
 この並行世界に来て、それがよく分かった。

(『うるせえ!』じゃないよな、『駄目!』でもないよな、『困るなぁ!』かなぁ)
 ここで使う言葉がいろいろ思い浮かぶが、決め手に欠けて汗が出る。
 結局こういう時に便利で無難と思われた言葉を選択(チョイス)した。
「ゴメン!」
 我ながら、芸がなかった。なんで謝るのか……。

 すると、彼女は、「全部欲しいんじゃないの。1枚でいいの。お願い!」と言って右手の人差し指を立てた。
『ゴメン』は『全部のノートはゴメン』の意味に思われたようだ。
 そして、こちらを拝むように顔の前で手を合わせて、目まで閉じる。
 人形のように可愛い彼女にここまで頼み込まれたら、断るには勇気が要る。
(1枚でいいとは、よほど紙が欲しいんだな。……じゃ、俺のを上げるか)

 今持っている音楽ノートにはメモ用の空白ページはないが、最後の方に音符が書かれていない五線紙が数ページある。これは、自分で好きな曲を書きなさいというページなのだが、俺みたいに作曲なんぞ出来ない生徒には無用のページだ。
「何書くのか知らないけど、空白のページはないが、何も書いていない五線紙のページならある」
 彼女は『五線紙』という言葉に目を輝かせた。
「それでいいの! それ、ちょうーだい!」

 そこで踊り場に左膝をついてしゃがみ込み、立てた右膝にノートの山を載せて自分のノートを探した。
 彼女が立ち上がってこちらに近寄ってきたらしく、上履きと足の一部が視界に入った。
 五線紙のページを探すためにノートをペラペラ(めく)っていると、「それ君の?」と彼女が(のぞ)き込む。
 自分のノートを人前で開いて見せるのは恥ずかしいものだが、顔を間近に近づけられるともっと恥ずかしい。
 視界に入った黄色い髪がサラリと揺れ、髪から漂うヘアスプレーの良いにおいが鼻腔を(くすぐ)る。
 ジュリ以外の女生徒の顔、しかもマネキンのように美しい顔が直ぐそこにあるのだ!
 これで平常心を保てるはずがない。

 音符が書かれていない五線紙を見つけると、少し震える右手で最後のページまで(つか)んで勢いよくバリッと剥がしてしまった。
 如何に動揺していたか、この行為を見ればよく分かるだろう。
 血圧が上昇してきたのが分かる。
「そんなにいらないけど、くれるんなら嬉しいな」
 彼女が目の前に両手を出してきたので、慌てて彼女に五線紙を渡してノートを閉じた。それからノートの山の一番上にそれを置いた。

 彼女は腰の後ろに手を回し、上からノートの表紙を(のぞ)き込む。
「それ、なんて読むの? その難しい字」
 彼女は頭を上げ、読めない漢字に困って眉を寄せた。
「俺の名前?」
「うん」
 そして、また顔を近づける。今度は産毛まで見える。
 興味津々な彼女がこちらに向けた双眸(そうぼう)に吸い込まれそうだ。
(近い近い……)
 心臓の鼓動が体内を通って耳にまで聞こえてくる。
「キ……」
「キ?」
 思わず本名の君農茂(きみのも)を言いそうになり、慌ててゴクッと飲み込んだ。
「お、鬼棘(おにとげ)だけど」
「ふーん、オニトゲ マモルくんね。2年6組なんだ。私は4組だよ。ありがとね」

 彼女は右手で五線紙を握りながら踊り場の壁に背を(もた)れ、その場で腰を下ろして両膝を立てた。
 彼女が離れてくれたおかげで、高揚して(しび)れる脳細胞が少し落ち着いてきた。
 我に返った、という感じである。
 それでも団扇が欲しいほど顔に余熱は残っていたのだが。

 手元のノートの山が、自分に言いつけられた用事を気づかせてくれた。
「あのー、授業始まるけど」
「いいの」
 そう言うと彼女は、ポケットから銀色で小さな金属のペンケースを取り出し、それをパカッと音を立てて開けた。そして、中からサッと鉛筆を出す。実に手慣れた手つきだ。
 そして、膝上のスカートに五線紙を置くや否や、何か急かされているかのように鉛筆を走らせた。
「授業始まったぞ」
 もちろん、嘘だ。
 こう言えば相手が焦って腰を上げるだろうと思ったのだが、無駄だった。
 彼女は黙ったまま。一心不乱とはこのことか。
(ま、いいか)
 俺は、彼女はサボりを決めたのだろうと思い、()かすのを諦めて腰を上げた。
 そして、自分こそ早く教室に戻らないといけないことに気づき、階段を駆け上がった。

 階段を上り切ったところで、下の方から声がした。
「あたし、魚万差(うおまさ)ミカ」
 さすがにこのタイミングで声が掛かるとは予想していなかったので、ビクッとして立ち止まった。耳が下からの音をよく聞こうとして動いたように思えた。
(今頃名乗るか?)
 そう思いながら振り返って声の主を見下ろした。
 彼女は五線紙に視線を落としたままだ。
「ウオマサ ミカ?」
 問いかけた言葉にも顔を上げない。
「ミカでいいよ」
 まだ顔を上げない。
「ああ」
 俺は背を向けて足を一歩踏み出す。
 すると、また後ろから声が掛かった。
「今日はありがとね。頭からブワーッって(こぼ)れてくるから助かった」
(こぼ)れる? 何が?)
 振り返ると、今度はこちらを見て微笑んでいる。右手まで振っている。
 会話のタイミングが何かずれている。
 手を振ってあげたかったが、あいにくこちらは手が塞がっていた。
 代わりに笑顔を返してやった。
(それにしても、不思議なことを言うなぁ。別に何も(こぼ)れてないじゃないか)
 そう思いながら、急いでその場を立ち去った。

 二時限目が終わって長めの休憩時間が来た。
 ガヤガヤとうるさい同級生達を眺めているのも退屈なので、妹が作った弁当を早弁しようと思い、机の右横にぶら下っている手提げの中に手を突っ込んだ。
 弁当箱に手をかけたところで、何故かガヤガヤしていた声がスーッと潮を引くように消えていき、廊下の騒がしさだけが遠くで聞こえるようになった。
 俺は顔を上げた。
 同級生達が一斉に教室の後ろのドアへ視線を投げかけている。
 釣られてその方向を見た。
 そこには黄色い髪でマネキンのような女生徒が立っていた。
 ミカだ。
 彼女を見ただけで顔が火照(ほて)ってきた。

「マモルくん、いる?」
 彼女は俺を探してキョロキョロする。
 同級生全員がこちらを振り返るので、彼女はすぐに俺を見つけた。
 そして、何かを持ちながらニコニコ顔で走り寄ってきた。
「ありがとね。これ返す」
 気持ちが高ぶっていて、声が出なかった。

 彼女が手にしていたのは五線紙だ。
 さっき渡した方を返しに来たのかと思ったが、ノートを破いたような跡はなく、きれいな五線紙だ。
 渡した方は使ってしまったので、わざわざ購買部で買ってきたのだろう。

 彼女はそれを手渡すと、足早に教室から出て行った。
 同級生全員の視線が彼女を追う。
 そして、彼女が視界から消えると、一斉にこちらに向き直る。
(なんなんだ、こいつらの一体感は?)

 戸惑っていると、後ろの席にいる女生徒が鉛筆で俺の背中を突きながら言う。
「歌姫とどういう関係?」
 慌てて「何のことやらさっぱり」と答えると、右横の席にいる女生徒が不機嫌そうに言う。
「何であの超有名な歌姫がお前を下の名前で呼んでいるんだ?」
(お、俺も知りたいくらいだ)
 それには答えず黙っていると、前の席にいる女生徒がニヤニヤして言う。
「こいつ、手が早いな」
 この言葉に、同級生達はゲラゲラと笑い始めた。
「いやいやいや、そういう関係じゃなくて」
 この場の誤解を解きたかったが、無駄だった。

 初めて笑いの中心にいる気がした。安堵した。
 しばらく彼女のネタで(いじ)られているうちに、チャイムが鳴った。

 三時限目の授業中にチョークが足りなくなったので、教師が「日直は職員室へ行ってチョークを取ってこい」と言う。
 日直は二人だが、もう一人は一時限目で早退したので、日直と言えば俺と言うことになる。
(授業を受ける権利がある生徒を外に追いやるのか?)と皮肉の一つでも呟いてやろうかと思ったが、黙って立ち上がり、イヤそうな顔を見られないように右横を向きながらノロノロと歩いた。

 ドアを開けて教室を出ると、歩き出そうとしている方向が、教室を出て行ったミカの走り去った方向であることに気づいた。
(記憶に刷り込まれたのか?)
 まあ、どっちの方向に行っても職員室までの距離はさほど差がないので、一度立ち止まった足を前に踏み出した。

 階段のところへ近づいて行くと、廊下と階段の境界から黄色い髪の頭が徐々にせり上がってきた。
(ああ、やっぱり)
 彼女である。
 また階段の途中で座っているのだ。
 顔が少し熱くなってきた。彼女を気にしているのだ。
(俺、どうしちゃったんだろう……)
 彼女がそこにいると言うだけで、逆上(のぼ)せてくるのである。

 やあ、と言うほどまだ親しくはないので、そっと後ろから近づいた。
 彼女が気づく様子はない。
 横に立ってみると、膝を抱えているかと思ったがお腹に手を当てているのが分かった。
 急に心配になって立ち止まった。
「どうした?」
 彼女は苦しそうに言う。
「お腹が痛い」
 弱々しい声の調子から、かなり痛そうである。
 さすがの俺も階段の途中からこの体勢では運べないので「立てるか?」と聞いてみた。
 彼女は黙って(うなず)く。
「手を握って」
 そう言って彼女へ手を差し出す。
 実は、ジュリ以外の女生徒にこんなことをするのは初めてなので一瞬躊躇したのだが、だからといって黙って見てはいられなかったのだ。

 彼女はソッと俺の手を握る。
 ジュリ以外の女生徒と初めて触れ合った戸惑いもあるが、それより手の冷たさにビクリとした。
 手が冷たいだけではなく、顔色も血の気がなく、青くなっている。
 胃の辺りに血が集まって、四肢が冷たくなっている状態ではないだろうか。

「保健室へ行こう。さあ、立って」
 保健室は一階だ。
 彼女は右手で俺の手を握ったままゆっくり立ち上がったが、少し蹌踉(よろ)めいた。
 その拍子に彼女の体重が手に加わってきたので、しっかり足を踏ん張った。肩も押さえた。
「歩ける?」
「……うん」
 左手でお腹を押さえて少し前屈みになり階段をゆっくり一段一段降りる彼女とそれを支える俺。
 こんなことはジュリにもやってあげていない。初体験である。
 全神経を集中して、途中で彼女に異変が起きないか、足を滑らせないか、見守りながら階段を降りた。

 踊り場にたどり着くや否や、彼女がポツリと「駄目……」と言ってヘナヘナと座り込んだ。
 階段はまだ半分しか降りていない。
 今の彼女の様子では、さらに階段を降りるのは難しそうだ。こういう時は、いろいろ抱き方はあるが、おんぶが無難だろう。
「分かった」と言って動こうとした時、彼女がこちらをチラリと見て袖を(つか)んだ。
「お姫様だっこしてくれるの?」
 それは考えていた選択肢の一つではあったが、あえて避けていた。しかし、それを言い当てられてしまったのだ。心が読まれたのか。
 ドギマギしながら答える。
「いや、おんぶ」
 彼女は微笑んで、おねだりする。
「お姫様だっこがイイ」
「……」
 ジュリにもお姫様だっこをしたことがないので、大いに困った。
(どうやるんだっけ?)
 初体験が多すぎる。

 決心するまでの間、彼女は俺が固まっていたように見えていたに違いない。
 しかし、苦しんでいる彼女を前に、どうしようかと悩んでもしょうがないではないか。
「じゃ、首に手を回して」
 言われたとおり、俺の方へ腕を伸ばす彼女。
(え? 両腕?)
 片腕だろうと思っていたが、両腕が伸びてきたのは意外だった。
 彼女が首の後ろで手を握ったように感じたので、ゆっくりと彼女を抱え上げようとした。
 だが、首に手を回すだけでは、彼女の体が俺の腕から落ちそうになることが分かった。
「ちょっと怖い」
 彼女はそう言って、俺の胸の方にグッと体を押しつける。
 さらに、安定する位置を求めて半身をこちらに向け、腕を引き寄せるようにして首へしがみついてくる。
(密着しすぎ……)
 否応なしに鼓動がドクンドクンと波打つ。

 体制が整ったようなので、腰に力を入れてヨイショと立ち上がり、彼女を持ち上げた。
「キャッ」
 彼女は小声で嬉しそうに言う。
 その声に鼓動が益々早くなる。
 そのドキドキが、胸に接している彼女の柔らかい体に伝わっているのではないかと思うと、余計に顔が熱くなってきた。
 逆上(のぼ)せてフラフラしそうになりながらも、慎重に階段を降りていく。
 彼女の体があるので足下が見えないだけに、足を踏み外さないか、一段一段が恐怖だった。
 よく考えると、階段でこういう搬送は危険であるのだが、その時は彼女を助けることに夢中で気づかなかった。

 保健室まで行く間、誰もこの場を目撃しないように、と祈り続けた。
(好きでやっているんじゃない。こうしてくれと言われたからこうなっているんだ)
 と、言い訳まで考えた。
 その道のりの長く感じたこと……長く感じたこと。

 ようやくの思いで保健室にたどり着いた。幸い、途中で誰にも会わなかった。
 ドアの前で彼女を降ろす。同時に安堵の溜息をついた。
 保健室で寝ている人がいるだろうからそっとドアを開け、中にいた保険医の先生に声を掛けた。
「先生、お腹が痛いそうです」
 先生はこちらを向いて彼女を見つけると、「また?」と呆れたように言う。
「昨日も一昨日も。何食べたのかしらねぇ」
 彼女は先生を無視して、ニコニコ顔で俺に手を振ってゆっくり中に入っていった。
 笑顔に釣られてこちらも手を振った。
 そして、また顔が火照(ほて)っていくのを感じていた。

 四時限目の授業中に居眠りをしていた俺は、教師に見つかり廊下に立たされることになった。
 元の世界でもそうだったが、この世界に来ても廊下に立たされるとは、俺はどの世界へ行っても立たされる運命なのだろう。
 窓から(のぞ)くと教師はこちらを見ていないので、ここから逃げることにした。
 いないところを見つかったら、トイレに行っていたと誤魔化せばいい。
 教師たるもの、そこで漏らせとは言わないだろう。
 もちろん、俺の足はあの階段の方向を向いていた。

 階段へ近づくと、また黄色い髪の頭が見えてくるだろうと期待していた。
(そんな訳ないよな)
 期待外れかも知れないので、そう考えておけばショックも和らぐ。
 さらに近づくと、徐々に歩みが(のろ)くなった。
 今に見えてくると思ってドキドキするし、逆に、見えてこなかったらどうしようと思ってドキドキする。天秤の腕のように気持ちが揺れる。

 頭がなかなか見えてこないので、やっぱり期待外れかと思ったその時、踊り場で座り込んでいる彼女が視界に入った。
 おかしな話だが、期待していたはずなのに、視界に入ると、予想外に彼女を見つけた時のように驚いた。
(何故こうも彼女にドキドキするのだろう)
 まだ会ってから数時間しか経っていないのだが、何度も出会うので、なんだか運命的な感じがしていたからだろうか。

 彼女は、踊り場の壁を背にして両膝を立てて座っていた。
 膝上のスカートに紙を載せて何か書いている。
 その紙を見なくても、それが五線紙だと分かった。
 近づいていくと彼女が顔を上げるかと思いきや、書くことに夢中で視線を落としたままだった。
 そこで、彼女の横に少し距離を置いて座り、「やあ」と声を掛けた。
 彼女はチラッとこちらを見るが、さっきはありがとうの一言でもあるかと思いきや、五線紙に向き直り、無言でひたすら何かを書いている。
 まるで別人のようだ。
 言葉が続かないので「何してるの?」と声をかけた。
「写譜」
 彼女の口調には、声を掛けるな的な威圧感があった。
 横から(のぞ)くと、一心不乱に五線紙へ音符を埋めている。
 そのあまりの早さに、ただただ見とれるだけだった。
 置いてきぼりにされた気持ちになっている俺に早く気づいて欲しいのだが、これではしばらく彼女の心は遠くへ行ったきりで無理そうだ。
 俺は諦めて立ち上がった。

 と同時に彼女が、「終わったー!」と叫んで万歳の姿勢をした。
「ちょっと、声が大きい」
 慌てて辺りを見渡したが、人気(ひとけ)がないので安心した。
「あ、さっきはありがとね」
 彼女は外れたタイミングで感謝を伝えてきた。前もそうだった。
「保健室のこと?」
「そだよ」
 普通なら、今更言われても有り難みが半減である。
 でも、いつもの彼女に戻ってくれたのは嬉しかったので、そこは気にしなかった。
「元気になって良かった」
 再び彼女の横に少し距離を置いて座った。
 すると、彼女の方から俺との距離を詰めてくる。
 これにはさすがに焦った。

「さっき、写譜って言ってなかった?」
「ああ、みんなは作曲って言っているけど」
「作曲してたの?」
「そだよ」
「へー、すごいな」
「すごくないよ。天から降ってくる音を書き写しているだけ。だから写譜」
(……天から?)
 俺は目が点になった。
 彼女はニコッと笑う。
「雲の上で即興演奏する人の下にいる写譜師の私が、音を聞き取りながら書いていく、って感じかな」
 ますます分からないので、素朴な疑問をぶつけてみた。
「誰が即興演奏しているの?」
 彼女は困ったように言う。
「分からない。でも、天から音が聞こえてくるんだもん」

 そして、彼女は五線紙の右上に<No.250>と書く。
 それを目敏(めざと)く見つけたので聞いてみた。
「その250って何?」
「作品250」
 さっきから、彼女の言葉は謎だらけだ。
「作品って?」
「250番目に作った曲、という意味」
 彼女はポケットから折りたたんだ紙の束を取り出す。
「これが245、これが246、これが……」
 一つ一つ見せてくれるのだが、チラシや包み紙に線を引いて音符を書いているようだ。
「書きたいときに五線紙がないと、こんな紙でもいいから、ある物で書くの。だって、急がないと音が(こぼ)れるから」
 普通のことのように彼女は言うが、その普通が理解できない俺は呆れるしかなかった。

「いつから作曲しているの? いや、写譜しているの?」
「小学1年生の時から。最初はピアノ曲だけ。最初から番号ついていなかったから何曲作ったのか分からないけど、結構あるよ」
「番号つけたのはいつ頃から?」
「6年生の時から。思い出したくないイヤなことがあって、それがきっかけで歌にはまって、作った歌を数えるため番号をつけたの。今も歌ばっかり」
(歌?)
 まだ彼女のスカートの上にある<No.250>を二度見した。音符の下に小さな文字で歌詞らしいのが書いてある。
「それって歌だったの?」
「そだよ」
 彼女は五線紙を手にして立ち上がった。

 歌を作る時は作詞家がいるはずだ。
「誰かの作詞?」
 彼女はサラッと否定する。
「ううん、作詞も全部私」
(作詞も作曲も一人で??)
 驚きのあまり俺は固まっていた。
「お母さんは、交響曲を書きなさいだの協奏曲を書きなさいだの、うるさいの。でね、仕方なーく小学生の時だけ二、三十曲くらい書いたんだけど」
 彼女が口にする音楽用語がさっぱり理解できなかったが、数だけでも凄いことはなんとなく分かった。
「でもね。それ、6年生の時にぜーんぶ燃えちゃった」
(燃えた?)
 その時、火をつけられた五線譜の束と火事で燃える家の両方を連想して背筋が寒くなった。

 彼女は伸びをしながら言う。
「放課後来る?」
 いきなりの招待に驚いた。
「どこへ?」
「音楽室」
「俺が?」
「そだよ」

ミカ・アーベントへようこそ

 放課後、俺は教室に一人居残り、ボーッと窓の外を見ながら彼女を待った。
 一雨来そうないやな天気だった。
 同級生達は全員が部活に行ったので、俺しか残っていないから、彼女が来ても(いじ)ってくる奴はない。
 でも、部活から戻ってきて俺達に遭遇されては、と気が気でなかった。
(早く来てくれ)
 下校時刻が近づいているので腕時計を何度も見ていると、やっと彼女が教室にやってきた。
 彼女が手招きをする。
 俺は鞄と手提げを持ち、急いでついて行った。
 廊下で肩を並べて歩いているところを見つかるとしばらく噂になるので、彼女のお供をするように距離を取って後ろを歩いた。

 音楽室は3階にあった。
 彼女は「ここ」と指を指し、扉を開いた。
 奥の方に黒板が見える。
 すると、黒板付近からキャーキャーと歓声が上がる。
 (のぞ)いてみると、色とりどりの髪の二、三十人ほどが黒板の前に置かれたグランドピアノの周りに立っていて、入っていく彼女に手を振っている。
 彼女も手を振って応える。

 しかし、歓声はすぐに途絶えた。
 俺が扉の外に立って中を(のぞ)き込んでいるので、不審者に思われたのだ。
 緑色の髪の女生徒が俺を指さす。
「あの人、誰?」
 彼女は嬉しそうに答える。
「ああ、今日の見学者だよ」
 彼女は振り返って手招きする。
「オニトゲくーん! 入りなよ」
 この一言で音楽室の空気が凍った。

 青色の髪の女生徒が俺を指さして言う。
「あいつって、暴力事件を起こした奴じゃないの?」
 その言葉に皆がざわつく。
 銀色の髪の女生徒が俺を指さして言う。
「そんな奴が何であそこにいるの?」
 ざわつきが増してきた。
 彼女は首を(かし)げている。
 赤色の髪の女生徒が腕を組みながら言う。
「でも、あいつ記憶喪失って聞いたよ。しかも、おとなしくなったって。悪さはしていないみたい」
 彼女はその言葉に安心したのか「優しい人だよ」と付け加える。
 その後しばらくザワザワしていたが、最終的に音楽室に入ることを許可された。
 部外者なので遠慮して、扉から入って一番近い席、ピアノからは一番遠い席の椅子に手をかけ、音を立てないように座った。

 彼女はグランドピアノの前に座って、すぐに曲を弾き始めた。
 離れていてもピアノの音は力強い。
 ズシンとくる低音、転がるような高音、歌うような中音。
 そのイントロの後に彼女が歌い始めた。

 その声質は、話し声と全然違う。
 歌う声の中に会話の声の特徴を探したが、無駄だった。
 感情豊かな彼女の歌い方にハッとした。
 声がよく通るだけでなく、心模様まで伝わってくる。
 遠くにいる俺に歌を届けようとしているのだろうか。
 初めて聞く歌詞だが、情景がこの俺にも見えてきて、心が歌の世界に引き込まれていく。
 その凄さにゾクゾクする。
 快感や感動で寒気がするのは何と表現すれば良いのだろう。

 みんながミカを<歌姫>と言う意味がようやく分かった。
 綺麗な声を出すのが歌ではなく、こういう歌い方をするのが<歌>なのだ。

 グランドピアノを取り囲んだ観客がうっとりとした表情で彼女の歌を聞いている中、ゆっくりと名残惜しそうに曲が終わった。
 直ぐさま拍手が起きた。
 俺は目立たないように軽く手を叩いた。
「作品250のお披露目!」
 彼女は万歳をして嬉しそうに笑う。
(こ、これを一日で書いていたのか!)
 度肝を抜かれて、ミカが恐ろしくなってきた。もちろん、畏敬の念であるが。

 先ほどまで何かに()かされるように彼女が鉛筆を走らせ、五線紙の上に生まれ落ちた音符達や歌詞が、ピアノと彼女の声を通じて感動の歌になる。そんな歌が紙の上で生まれる瞬間に幸運にも立ち会えた。
 そう思うだけでも頬が上気し、目が潤んできた。

 周りの観客は次々と賛辞を述べる。
 俺はまだ感動していたので賛辞を述べる心の余裕はなく、ただただ黙っていた。
「次は作品249」
「次行くよー、作品248」
「も一つ、作品247」
 彼女は途切れることなく、作品番号を言いながら歌を続ける。

 作品245を終えたところで休憩になったらしく、彼女は全く感じの違う曲を弾き始めた。
 歌わないのでピアノの曲を弾いているらしいが、俺には何の曲か分からなかった。
 観客はそれをBGMのように聞きながら、雑談している。
 すると、赤色の髪の女生徒が俺の方を向いて立ち上がり、ツカツカと近づいてきた。
 初対面だが、あまり警戒していない様子でこちらに感想を求めてきた。
「どう?」
 そう言われてもこの場に相応しい言葉が出てこない。
 沈黙はまずいと思って咄嗟(とっさ)に答えた。
「あ、ああ。……素敵な歌声」
 情けないことだが、これ以外にうまい言葉が思いつかなかったのだ。
 彼女はニヤッと笑って言う。
「そりゃ、歌姫だもん」
 それは俺を小馬鹿にしたのではなく、同じ感動を覚えた聴衆の一人として歓迎しているように思えた。

 それから彼女は解説を始める。
「今ミカが弾いているのは、バッハのフランス組曲。バッハって一族に何人もいるけど、大バッハの方だよ。ドイツ語でヨハン・ゼバスティアン・バッハ。もちろんミカはバッハが大のお気に入りなんだ。それにしても凄いよね。毎週毎週新曲を書いて来て、私たちに歌って聞かせてくれるの」
「ふーん」
 俺は大だろうが小だろうがバッハと言われても誰のことか分からず、気の抜けた返事しかできなかった。
「あ、次の曲はドビュッシーのアラベスクだ。私この曲好きなんだよねぇ。ミカってドビュッシーをあまり弾かないんだけど、私のために弾いてくれたのかな?」
(さあね)
 俺は興味を示さなかった。第一、単語が分からなさすぎる。

 彼女はミカの方を向いて言う。
「この集まりは<ミカ・アーベント>って言うの。<ミカの夕べ>のこと。ファンが毎週この時間に集まるんだ。ああ、それにしてもミカは歌姫を通り越して神様ね」
 事実、あの曲を目の前で作っているミカを見ているので、これには即座に賛同した。
「確かに」

 彼女は俺の方に向き直る。
「ねえ、知ってる? ミカのフルネーム」
「ああ、確かウオマサ ミカだっけ」
 彼女は(うなず)いて、「だから神様、そして王様なの。なぜだか知ってる?」と謎をかける。
 分かるわけがなく、早々に諦めた。
「いや、知らない」
 彼女は小馬鹿にしたように言う。
「なんだ、知らないんだ。ヒント言おうか?」
「降参降参」
 即座に白旗を揚げる俺を見て、彼女は人差し指を下から上に動かして言う。
「逆から読んでごらん」
 言われるままに名前を一字一字ひっくり返して読んでみる。
「ほんとだ」
「でしょ?」
 微笑む彼女は立ち去り、観客の輪の中に入って行った。
(歌姫様は神様か)
 俺はピアノを弾くミカの姿が天使か何かに見えて、今にも羽が生えてくるのではないかと思ってしまった。
 彼女に超人的何かを感じた。

 後半は、ミカの古い歌を全員で合唱していた。
 3曲終わったところでお開きになったらしく、彼女が立ち上がる。
 緑色の髪の女生徒が「今日は私んちだよね?」と彼女に尋ねる。
 彼女は楽譜をトントンと揃えながら「そだよ。泊めてね。よろしく」と答える。
 銀色の髪の女生徒が彼女の後ろから声をかける。
「明日は私んち」
 彼女は振り向く。
「そだよ、よろしく」
 青色の髪の女生徒が挙手をするように右手を挙げて言う。
「次は私んち」
 彼女も右手を挙げる。
「うん、ありがと」
(これって、連続お泊まり会?)
 人の事情にあまり首を突っ込むタイプではないが、こうも出歩く彼女を許している家族が心配になってきた。

 彼女が俺を見つけて小走りに近寄ってきた。
「待たせてゴメン」
「お、おお」
 彼女のファンの目が気になるので狼狽(うろた)えた。
(抜け駆けは許さない、と後で締め上げられそうだ)
 視線を避けるようにそそくさと教室を出た。

 逃げる俺の背中へ、彼女がソッと声を掛けてきた。
「渡したいものがあるの」
 さらに狼狽(うろた)えた。
(頼む、この場で言わないでくれ!)
 逃げる俺を彼女が追いかけてくる。
「これ、受け取って。お礼」
『お礼』の言葉に足を止めて振り向く。
 幸い、彼女の後ろにはファンの姿が見えないのでホッとした。

 手渡されたのは歌詞と音符が書かれた五線紙。
 端には破れた跡があり、右上に<No.250>と書いてある。
(俺の五線紙だ)
 今日できてお披露目も終わった新曲を『お礼』だと言って渡す。
「何のお礼?」
 腑に落ちない俺を見て、彼女は微笑みながら首をちょっと傾ける。
「保健室の」
(ああ、そうか)
 一礼して受け取ると、素早く鞄の中に隠して辺りを(うかが)った。
 端から見ると怪しい物の受け渡しみたいなので、彼女が笑った。
 その時、下校のチャイムが鳴った。

流浪の民

 翌日から俺は例の階段の踊り場で、よく彼女が座り込んでいるのを見かけた。
 もちろん、作詞作曲のためである。
 話しかけると、紙が欲しい、鉛筆が欲しいと言うので購買部へ走る。
 お腹が空いたと言うので好物のあんパンを差し入れる。

 物を買う時のお金は全て彼女が出したが、少しくらいならこちらが出してもいいと思っていた。
 彼女の役に立ちたい、という気持ちが強くなっていたのかも知れない。
 いや、もしかしたら気に入られたいという気持ちからか。
 しかし、金銭的な繋がりはそれのみの繋がりになるといって良い。
 その行き着く先は、『金の切れ目が縁の切れ目』という言葉が教えてくれる。
 なので、『俺が出す』という言葉は、言いそうになる度に飲み込んだ。

 時折交わす短い会話の後は始終無言の彼女だったが、新曲の作詞作曲の手伝いをしていると思うと、彼女の沈黙は苦にならない。
 いつの間にか彼女の世話係になっている俺だった。
 彼女はいつも感謝してくれた。「嬉しい」とも言ってくれた。
 言い過ぎだろうが、『経済的にではなく、精神的に彼女を支えているパトロン』になっていたかも知れない。
 才能のある彼女を支えていると思うだけでも嬉しかったし、時折見せる彼女の笑顔が(まぶ)しくて、それを見たいために横に座っていたような気がする。

 これは、ジュリと一緒にいた時には一度もなかった感情だ。

 もっと、彼女の(そば)にいたい。
 頼られる存在になりたい。
 そして、
 できることなら、俺にだけ笑って欲しい。

 それは、彼女に対する独占欲なのだろうか。
 徐々に芽生える何かなのだろうか。
 自分はまだそれほど強く彼女を独占したいとは思っていなかったのだが、実は、他人が俺に向ける目にはそうは映っていない。
 どう映っていたのか、それに気づくのは意外に早かったのである。

 2回目のミカ・アーベントも誘われるままについて行ったが、教室へ入るや否や、青色の髪の女生徒から「入ってこないで」と言われた。仕方なく、廊下へ出て彼女の歌を聞いた。
 ミカは俺に「全員の希望だからゴメンね」としか言わなかった。
(ミカの世話係の現場を見られたからに間違いない)
 実は、俺とミカが二人でいるところを青色の髪の女生徒に何度か目撃されている。
 その時の彼女の目は、明らかに俺に対する敵意で満ちていた。
 ミカが「全員の希望」と言っていたが、青色の髪の女生徒がミカ・アーベントの参加者に何か吹き込んだに違いない。彼女を独り占めしようとする男、だと。

 3回目のミカ・アーベントを廊下で聞いていると、休憩の時間に青色の髪の女生徒が音楽室から出てきた。
 彼女は俺を睨み付けながら近づいてきて、強い口調で「帰って!」と言う。
「いや、誘われたし」と弁解したが、女生徒は声を荒げて「もう近づかないで!!」と言ってその場を動かない。帰らないと解放されないらしい。
 俺は、そそくさとその場を立ち去った。

 納得がいかず教室でうだうだしていたが、下校のチャイムが鳴ったので、鞄を抱えて下駄箱のところまで行った。
 下駄箱を開けると、中からヒラリと白い封筒らしい物が出てきて下に落ちた。
(何だろう?)
 足下に落ちた封筒を手にとって見ると、裏に<歪名画ミイ>と書かれている。
(なんて読むんだ?)
 読み方を考えていると、不意に後ろから声をかけられた。
「あーっ、そんな物もらっている」
 ギョッとして振り返ると、ふくれた顔をしたミカだった。ラブレターと思われたらしい。
 俺は早速封筒を握りつぶした。
「いたずらじゃないかな? アハハ」
 そう笑うが、彼女はまだ疑っている。
「本当に? イケメンにはラブレターが相場じゃない?」
「いやいや」
 彼女は悪戯(いたずら)っぽく言う
「実は果たし状かも」
 彼女の言葉に、青色の髪の女生徒の顔を思い浮かべた。
 果たし状ならなおさらだ。拳に力を入れて封筒をクシャクシャにし、ゴミ箱に捨てた。

「ねえ、今日君の家に行っていい?」
 靴を履き替えていた俺は、予想もしなかった彼女の言葉に打たれて蹌踉(よろ)めいた。
「なんで?」
 俺が慌てて質問すると、彼女は困った顔をして言う。
「泊まるとこ、ないの」
(宿無し、か)
 俺は少し考えたが、彼女が可愛そうになってきた。
「いいよ」
「ありがと」
 彼女は安心した様子で微笑んだ。

 帰り道に二人で歩きながら、彼女からいろいろと事情を聞いた。
 彼女は貴族の生まれ。戦争で家が没落し、父親は失踪。
 小学6年生の時に火災で建物を失った。書き溜めた五線譜が燃えたのもこの時だという。
 その後で残っているのは、作詞作曲した歌曲のみ。
 親類の家を転々としていたが、母親の性格や酒癖のせいで喧嘩が絶えず、親戚すべての家から締め出しを食らった。
 それから彼女は友達の家、主にミカ・アーベントの参加者の家を転々とし、母親も友達の家を転々としているとのこと。

 今回の宿無しは、やはり俺が原因だった。
 ミカ・アーベントの参加者は俺が彼女につきまとっているように見えたので、俺を閉め出したい。
 しかし、彼女は俺にも自分の歌を聞いてもらいたい。
 廊下にいた俺が追い返されたことを知った彼女は、あの後、珍しくキレたらしい。
 参加者と喧嘩した彼女は、泊まる先がなくなったと言う。
 俺の日頃の世話が、純粋な善意が彼女に迷惑をかけたのだ。
「ゴメン」
「ううん、悪いのはあの人達だから」
「それでもゴメン、こんなことになって」
「気にしないで」
 彼女の慰めは、俺には痛かった。

 家の前に近づくと、台所付近に明かりが(とも)っていて、トントンと音がする。妹が夕食の準備をしている音だ。
 ハッとした。
(しまった、妹の許可を得ていない!)
 軽率な判断だった。
 どうしようかと迷ったが、ここまで来たからには土下座をする気持ちで玄関から入った。
「た、ただいま」
 俺の高ぶる声を聞いた妹は、台所から顔を出してニコッと笑う。
「お帰りなさい」
 妹はセーラー服の上に割烹着を着たいつもの姿だ。
 すると、ミカが俺の後ろから「お邪魔します」と言って玄関に入ってきた。
 その声を聞くと、妹は俺を睨み付けた。
「誰、連れてきたの?」
「あ、あの、家が焼けちゃって行くところがなくなって」
 俺は今回の件とは直接関係ないが、一応事実を言った。
 妹は冷たく言う。
「被災者の施設があるじゃない」
 これには咄嗟(とっさ)に嘘をつく。
「いやいや、そこが一杯みたいでさ」
 妹は溜息をつきながら言葉を返す。
「戦争で食料品が高騰しているの。一人分は増やせないわ。食事抜きでいい?」
(じゃ、寝るのはいいんだな?)
 半分ホッとした。ミカが妹に向かって深々と頭を下げる。
「お金ならあります。食料品は自分で買います。申し訳ありませんが、しばらく泊めさせてください」
 妹がずっと無言で立っていたので俺は土下座をしようかと考えていたが、ようやく口を開いた。
「事情があってお兄ちゃんが連れてきたんでしょう? 食料は自分で買ってきてください。少しの間なら泊まっていっていいわ」
 ミカは、また深々と頭を下げた。
「ありがとうこざいます」

 ミカの部屋は、ダイニングルームがあてがわれた。
 ダイニングルームとは聞こえがいいが、全員が食事をするちゃぶ台のある部屋のことである。
 この家は台所、トイレ、風呂、ダイニングルーム(6畳)、俺の部屋(4畳半)、妹の部屋(4畳半)、叔父さんが残した開かずの間(広さ不明)しかない。

 ミカは妹の案内で、近所の店へ食料を調達しに行った。
 しばらくして、二人は少しがっかりした様子で帰ってきた。先週より10%も高くなっていたらしい。戦争が物価を高騰させている。
 夕食の準備が出来て、ちゃぶ台の上に俺達の料理が広がった。
 三人分の食事が載ると狭かったが、皆で料理を突き合うのは楽しかった。
 俺はミカの好みをさりげなくチェックしていた。

 妹は、ミカが作詞作曲をしていることを俺から知ると目を輝かせた。
「そんな凄い人とお兄ちゃんは知り合いなの?」
「ああ」
 少し得意げな気分になり、俺はミカからもらった五線紙を見せびらかす。もちろん、作品250だ。
 妹は不思議がった。
「そんなに曲を作って、楽譜の山はどこにあるの?」
 ミカは当然のように言う。
「ないよ。お礼にあげちゃうか、売っちゃうから」
(だからお金を持っているんだ)
 俺はミカの収入源の謎が解けた。
 ミカは自分の鞄の中をのぞく。
「あるのは最近の曲だけ。だから持ち歩けるの」
 妹が感心する。
「だからそんなに鞄が薄いのね」
「そだよ」

 ミカに素朴な疑問をぶつけてみる。
「頼まれて曲を作らないの?」
 ミカは下を向いて言う。
「しないよ。こないだ生徒会長、あの縦ロール頭から、後方支援部隊に協力する生徒の壮行会用に曲を作れと言われたけど、断ったよ」
 ミカは顔を上げた。
「音が降ってくるのは、誰かに頼まれたからじゃないし」

 俺はちゃぶ台を片付けてから、ミカ用に薄い布団を敷いて、申し訳なく思って言った。
「これしかないけど。薄い布団だけどゴメン」
 彼女はそれでも嬉しそうに笑う。
「ありがと。でも夜中は(のぞ)かないでね」
 彼女がパジャマに着替える姿を想像してしまい、カーッと顔が熱くなった。
「だ、大丈夫」
 うろたえる俺に、彼女はニコッと笑って付け加える。
「物音がしてもね」
 この不思議な一言に、鶴が夜中に機織りをする<鶴の恩返し>を連想し、夜中に見てはいけないものが見えるだろうかと不安になった。

 その不安は的中した。
 夜中の0時頃、カリカリと音がする。何か引っ掻いているような音にも聞こえる。
 ソッとダイニングルームを(のぞ)き込むと、彼女が壁に何か書いている。しばらくして、彼女はゴロリと横になった。
 見てはいけない物を見たような気がして、俺は部屋に戻った。
 次は3時頃、またカリカリと音がする。
 ソッとダイニングルームを(のぞ)き込むと、彼女が今度は裁縫用の机に向かって何か書いている。しばらくして、また彼女はゴロリと横になった。
 彼女が自分の黄色い髪の毛で機織りしていたわけではないのだが、それでも彼女の謎な行動にゾッとした。

 翌朝、ミカの奇行の跡を発見したのは妹だった。
 壁と裁縫用の机に歌詞と音符が書いてあるという。
 ミカは俺達に平謝りに謝った。
「ごめんなさい。紙がなくて、つい。頭から音が(こぼ)れるから仕方なく書いたの」
 俺は現場を見た。確かに歌詞と音符が書いてあるが、五線がない。
 ミカにその理由を問いただした。
「線がないけど、なぜ?」
 ミカは苦笑いして言う。
「書いている暇なくて。後で線を引いておいてね」
(おいおい、どうやって線を引けと)
 五線の束縛から離れて、平面に自由に踊る音符の上から五線を引けと言われても、為す術がなかった。
 ミカは壁に書かれた♭の文字を指さす。
「ほら、ここにフラットが1つだけあるでしょう。そこが真ん中」
 俺は、この部屋にミカ・アーベントの連中を呼んで助けてもらいたい気分だった。
 俺も妹もお手上げ状態なので、ミカに五線紙を買ってくるように頼み、自由に踊る歌詞と音符をかき集めて五線譜に閉じ込めてもらった。
 ちょっともったいない気がしたが、ミカに雑巾を渡し、壁も裁縫用の机も綺麗にしてもらった。

悲劇の始まりは突然に

 ミカはしばらくの間、俺の家に寝泊まりしていた。
 俺は彼女の紙切れや鉛筆切れが起こらないように注意し、なくなりそうになったら近所の文房具屋に走った。
 お腹が空くと彼女が言うので、好物のあんパンの差し入れもした。
 妹に頼んで、夕食には彼女の好物の食材を増やした。

 作詞作曲をするのは夜昼ないそうだ。だから、彼女は時々居眠りをする。
 ある時、いつものようにダイニングルームの壁を背に両膝を立てて五線紙に音符を書いている彼女がいたので、俺は彼女のすぐ左横に並んで座ってみた。
 くっつかんばかりに近いと驚くだろうと思ってやったことだが、彼女は気づかない様子だった。
 そのうち、彼女は頭をコクリコクリとやり始めると、だらりと俺の肩に頭を載せてきた。
 これには正直驚いた。頭が重いので本当に眠ってしまったようだ。
(このままにしておくか)
 妹が長風呂に入っているので、俺はジッとしていた。
 すると、寝ているはずの彼女は、俺の右腕に左腕を絡めてくる。
(え? 起きているのか?)
 ギョッとして彼女を見たが、寝息を立てている。
 ジュリ以外の女性に腕を組まれたことはないので、こういうときにどうしてよいのか分からない。俺は顔が熱くなるわ、動けないわで、散々だった。

 またある時、作曲を終えた彼女がちゃぶ台の上の置かれた湯飲みを手にして、飲み残しのお茶をすすりながら、そばにいた俺の方を見て言う。
「ねぇ」
「何?」
「好きな人いる?」
 俺は狼狽(うろた)えた。この手の質問は、前もって質問集に書いて渡して欲しい。
「……」
「私は、いるよ」
「バ、バッハとか? 大バッハだっけ?」
 彼女は笑っていたが、答えなかった。
 こちらはしどろもどろになりそうなので、(俺じゃない、俺じゃない)と心の中で繰り返し、冷静さを取り戻そうとしていた。
「時が来たら言うね。私が好きな人」
「お、おお……」
 動揺する俺を見て、彼女がまた笑った。
 こうしていると、ジュリと俺とは本当に友達止まりなんだなと思えてきた。ジュリが同じことを言っても動揺しないし、それどころか、どうとも思わないからだ。

 彼女が家族の一員に思えてきたある日、俺の通う学校の生徒に事件が起きた。
 後方支援部隊に協力する四名の生徒の壮行会が行われたが、翌々日の朝、四名は赴任した先で遺体で発見された。全員が何者かにおびき出されて刺されたらしい。
 学校は悲しみに包まれ、彼女は葬儀に向けてレクイエムを作曲すると言い出した。それを生徒会長に進言したら、けんもほろろに拒否されたらしい。
「あの縦ロール頭、許さない!」
 俺と一緒に帰宅した彼女は、ダイニングルームに入ると鞄を投げ出して、珍しくキレていた。

 俺と妹が「残念だ」と慰めていると、誰かが玄関の扉をノックしている。
 二人で玄関へ出ると、ちょうど扉が勢いよく開かれ、やせ細って着物を着た黄色い髪の毛の女性がズカズカと入ってきた。俺は扉の鍵を閉め忘れていたことに後悔した。
「どなたですか!?」
 妹が女性の前に立ちはだかると、女性は妹を横にどけて怒ったように言う。
「ここに、うちのミカがいるはず!」
 俺がダイニングルームの方を見ると、ミカはその声を聞いてハッとしたらしく、立ち上がっていた。
 そして、女性は許可もなくダイニングルームへ入って行く。
 ミカは叫んだ。
「お、お母さん!?」
 女性は急に泣き崩れた。
「どんなに探したことか……」

 ミカの母はナオミと言った。いろいろ経緯を話してくれたが、本人の話は自分を正当化しているから、俺達の視点に変えて要約すると以下の通りである。
 母ナオミは友達の家を転々としていたが実は酒癖が悪く、友達の家で世話になっているにもかかわらず、外で働かないし手伝いもしないで、酔っては周囲に当たり散らしていたらしい。
 昔は貴族だったので華やかだった時代を回顧したり、才能ある娘の自慢話をするが、一般市民には鼻につくだけ。
 金の切れ目が縁の切れ目となり、家を追い出されて路頭に迷っていたが、ここでミカを頼ることにした。
 学校で見張っていたら、俺と帰るミカを見つけ、家まで跡をつけてきたらしい。

 母ナオミは土下座をし、額をダイニングルームの床に何度もこすりながら嘆願する。
「……どうか、……どうか、どうかここに置いてください。働きます、手伝います、何でもします!」
 俺と妹は(どうする?)と声を出さずにミカの方を向いて判断を待った。
 当面お金を出すのはミカなのだ。
 ミカは涙ぐんで答える。
「お世話になろう。お母さん」
 母ナオミは娘の言葉を聞いて床に涙をためた。

 しかし、その話は出任せだった。
 来る日も来る日も、母ナオミは家から一歩も外に出ない。
 留守番には有り難いことだが、昼間からミカのお金で酒を飲んでいる。
 俺達が家に帰るときには、すっかりできあがっている毎日なのだ。
 酒の臭いで満たされたダイニングルームで顔を真っ赤にしてぶつぶつ言ったり、叫んだりしている。しかも、止めに入るミカに当たり散らす。
「あの楽譜さえ燃えてなければ売れたのに。畜生! なんで灰になったんだろうね……。やい、てめえ。……歌ばかり書いて売れるか! シューベルトを見てごらん。まともに売れたのは死んでからじゃないか。てめえが生きてる時にもっともっと売れる曲を書きなさいってんだ!」
 母ナオミは、残っていたビールを一気に飲んだ。
「金にならん友達相手に歌ってんじゃないよ! たんまり金を出す客相手に歌え! 従軍してもいいんだよ。音楽隊に入れば好きなだけ曲が弾けて、しかも金まで入る。フン。……どこでどう間違ったんだろうね、この出来損ないめが!」
 そして、次のビール瓶の栓を抜いて言う。
「ケッ! 曲は、売れなければ生ゴミと同じさ! ばかやろ!」
 これにはさすがに頭にきた。
「あなたも働いてください! そうおっしゃったじゃないですか!」
 母ナオミはムスッとした顔で言う。
「てめえ、ばかやろ! こんな世ん中で働けるか-」
 俺はその言葉を遮ってキッパリと言った。
「働くことがこの家にいる条件です!」
 母ナオミは鼻でフンと笑った。話にならなかった。

 次の日の朝、ミカと母ナオミはダイニングルームから荷物と一緒に消えていた。
 何も書き置きがなかった。
 その後、ミカ達を見た者は誰もいなかった。さすがのミカ・アーベントの連中も、行方を知らなかった。
 正論ではあったものの、俺のあの言葉がミカ達を追い出したことに強い責任を感じていた。
 毎日のようにミカとの日々を思い出して胸が苦しかった。
 お礼にもらった楽譜を見て、壁にうっすらと残る音符の跡を見て、涙が止まらなかった。
 ダイニングルームから荷物をまとめて出て行くミカを追いかける夢を何度も見た。その度に、うなされて飛び起きた。

 1ヶ月後、近所の畑で作物が時々荒らされるという農家からの苦情と、近くの山で複数の人影を見た、何者かが隠れているらしい、という情報から、近所の人が総出で山狩りを始めた。
 翌日、スパイが潜伏している恐れがあると考えた軍部も山狩りに兵士を派遣した。
 雨の中の合同山狩り初日は何も見つからなかった。さらに雨の中2日目、3日目と山狩りを続けたが見つからなかった。
 ようやく晴れた4日目の朝、胸騒ぎがした。
 山の中で膝を抱えて座り込み、止めどもなく涙を流すミカの夢を見たからだ。
(人影はミカ達じゃないのか?)
 いても経ってもいられなくなり、4日目の山狩りに名乗りを上げて捜索に協力した。
 俺はカワカミという女兵士と行動を共にした。

 カワカミはフーフーいいながら「こんな山の中、隠れるところないよ。もう逃げたんじゃないかな」と言う。
 俺はそれには耳を貸さず、ミカ達の姿や持ち物を探した。人影はミカ達だと決めていたからだ。
 俺は冗談を言ってみた。
「カワカミさん、そこからワッと出てきたらどうします?」
 カワカミは「ぶっ放す」と拳銃を持って笑う。
(俺が先に見つけなきゃ)
 先を急いだ。

 その時、カワカミは大きな声を上げた。
「そこ、崩れているから近寄るな! 雨で地盤が緩んでいるから危ないぞ!」
 土砂が崩れて洞窟らしい穴まで塞いでいるみたいだ。
 危ないと言われて引き返そうとしたが、土から白い物がのぞいているのに気づき、カワカミの許可を得てそこに近づいて行った。
 それは紙だった。
 かぶった土を払いのけると、五線に見慣れた音符と歌詞の筆跡が見えてきた。
 俺は震えながら紙の右上を見た。<No.291> 間違いない、ミカの筆跡だ。

「カワカミさん! 俺の知り合いの持ち物です! もしかしてここに……」
 ここで言葉を飲み込んだ。
(埋まっているとは言いたくない)
 カワカミは女兵士を何人か集めてきて塞がっている土をのけると、洞窟の入り口が現れた。
 何も出来ないので遠巻きに成り行きを見守った。
 二人ほど洞窟の中に入っていく。すると、中から大きな声が聞こえてきた。
「人がいます! 二人!」
 その二人が誰だかは、落ちていた五線紙から類推できた。
 だから祈った。
(生きていてくれ!)
 しかし、現実は非情だった。
「二人とも息がありません!」
 俺は気を失いそうになった。

 改めて警察の検分が始まった。
『知り合いの持ち物』と言ってしまったために、俺は参考人として遺体に立ち会わされたが、死に顔を直視できなかった。
 彼女達と思いたくなかったからだ。でも、黄色い髪の毛には嘘をつけない。認めざるを得ないのだ。
 さらに、二人のそばに落ちていた所持品が決め手となり、洞窟の奥にあった女性二人の遺体はミカと母ナオミであると断定された。

 どんなに辛い思いをさせたのだろう。どんなに悲しい思いをさせたのだろう。どんなに苦しい思いをさせたのだろう。

 後悔の日々は終わることがなかった。<No.291>の数字『291』から読めるミカのメッセージに苦しんだ。
 俺はどうすればよかったのだろう。

 今日もミカの夢を見て飛び起きた時、突然、左手中指の指輪がブルブルと震えだしたので、さらにギョッとした。
「もしもし」
 胸が苦しいので、やっとの思いで声が出た。涙声だった。
「あら、泣いているノ~? どうしたノ?」
 未来人だった。彼は優しく声をかけてくれた。
 俺は指輪の電話を通してミカの顛末をかいつまんで説明した。

 彼はしばらく黙っていた。
「もしもし」
 俺は交信が途絶えて不安になった。
(人の話を聞くだけ聞いて切る奴じゃないよな。待ってみるか)
 さらに長い沈黙が続いたが、ようやく「調べたわヨ」と彼の声がして安心した。
 ところが、彼は残念そうに言う。
「えーと、そのミカちゃんって子。やっぱ、あんたに出会ったことが間違いね」

 間違い-
 彼女と出会ったことが間違い-
 あれが間違いだった-

 俺は腑に落ちなかった。
「どうして?」
「えーとネ、ミカちゃんはあんたに出会わなければ、24歳まで生きるノ。そして、800曲の歌曲を作詞作曲したということで歴史に名を残すノ。しかも火事で消失したはずの楽譜は、とある叔父さんがほとんどすべて事前に写譜していて。その人、楽譜を隠し持って悦に入っていたというヒドイ人なんだけど。交響曲9曲、協奏曲12曲、室内楽10曲、ピアノ独奏曲が70曲残っているノ。全部で900曲あまりね」
 音楽用語は分からないが、数字で凄さは分かる。
 そんな天才の運命を滅茶苦茶にしたのかと思うと、また胸が苦しくなった。

 涙をすすりながら彼に尋ねた。
「本当に間違いだったのか?」
『出会ったことが間違い』自体を、彼の『言い間違い』にして欲しかった。
 そうなることを半分期待していた。
 しかし、彼は結論を変えない。
「そう。間違いだったのヨ」
 今まで彼女のためを思ってやって来たこと、彼女を支えてきたことが全否定されたのと同じだ。

 ならば、解決の糸口を探すしかない。
「じゃ、どうすればいい?」
 彼は容易(たやす)く言う。
「時間を戻してあげるから、出会わないようにすれば?」
 言われた瞬間はムッとしたが、さっきも『出会ったことが間違い』と言われたので、そういうものかと思うしかない。

 つまり、彼女を救うためには、彼女と出会ってはいけない。
 それがこの並行世界での俺と彼女の運命だったのだ。
 彼女の運命の歯車を俺が狂わせた。
 だから、それを元に戻す必要がある。
 となると、時間を戻すことになる。

 出会わないことで本当に彼女が救えるのなら、
 あの楽しかった彼女との想い出を全て諦めるしかないのだ。
 何を優先するか。
 それは彼女の救済だ。

「じゃ、どうやって出会わないようにすればいい?」
「こっちから時間を戻すから、あんたはそのままで待っていればいいわヨ」
「そんな簡単に?」
「そうヨ。今修理中の装置は、指輪と連動して時間を戻す機能までは壊れていないノ。だから、時間を戻すのは簡単。……でもネ、一つ問題があるノ」
「問題って?」
「それは、あんたがミカちゃんと出会わないように行動できるか、なのヨ」
 これには理解がついて行けなかった。
「単に出会わないようにすればいいんだろ?」
「あのネ。そっちの世界であんたの時間を戻すと、あんたの記憶もその時点に戻るノ。紙で書き置きを残しても、時間が戻ると紙に書いてあることは消えるノ。と言うことは、何かしないともう一度同じことを繰り返すのヨ」

 ようやく意味が分かった。

 時間を戻すのは簡単だが、問題がある。
 昔に時間が戻ったので、記憶も昔に戻る。要するに今までの記憶が消える。
 何かに記録しておいても、記録は消える。
 そういうリセットなのだ。
 そうなると、何もしなければ俺はもう一度ミカに出会う。
 出会うと付き合いが始まる。
 延々と同じ日々を過ごし、そこに母親が転がり込む。
 俺が母親をたしなめるとミカ達は家出をする。
 ミカ達が死ぬ。
 また時間を戻す。
 これを永遠に繰り返す。

「じゃ、どうすれば?」
 彼は言葉を続けた。
「えーと、あんたの記憶に賭けるしかないわネ。今回の悲しい体験は強烈だったでしょうから、時間を戻しても微妙に記憶が残るのヨ。その微妙な未来の記憶で過去の行動を変える。失敗したら同じ悲劇を繰り返すわヨ。やれる?」

 記憶がリセットされても、強烈な体験は未来の記憶として僅かに残るらしい。
 未来の次に過去が来る。
 ということは未来の記憶は前世の記憶と言っていいのだろうか?
 それを何とか思い出して行動を変える。
 僅かな記憶を頼りにミカと出会わないようにするのだ。

 果たしてそんなことが出来るのだろうか?
 否、やらなければいけないのだ。

 俺は考えに考えて決心した。
「俺、やります!」

--(3) 第三章 ミイ&ミキ編に続く

並行世界で何やってんだ、俺 (2) ミカ編

並行世界で何やってんだ、俺 (2) ミカ編

俺は並行世界でミカと知り合った。しかし、俺との出会いがミカの運命の歯車を狂わせたことに最後まで気づかなかった。後悔する俺に、未来人がある提案をする。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 嗚呼、歌姫様
  2. ミカ・アーベントへようこそ
  3. 流浪の民
  4. 悲劇の始まりは突然に