愛され、愛する方法 【第一巻】

愛され、愛する方法 【第一巻】

 男女が恋愛をして、激しく愛されたい女性、静かに愛されたい女性、どんな風に愛されてみたいと望むかは人それぞれだが自分が望むように愛されるには愛され上手でなければならないような気がする。愛し上手と言う言葉はあまり聞かないのでやはり上手に愛されることが大切なのだろう。
 だが実際の人生では自分が望むような形はなかなか得難いのではないだろうか。この小説の主人公秋元紀代もまた苦労に苦労を重ねてようやく意中の男に愛されるのだが幸せも束の間若くして世を去ってしまう。主人公紀代を愛した男は果たしてその後どう生きて行くのか? 

一 伝わらぬもどかしさ

「リョウ、あたしを抱いてぇ」
「……」
「ねぇっ、聞いてるの」
「聞こえてるさ」
 秋元紀代(あきもときよ)は、自分の方からは絶対に言うまいと思っていた言葉が、ついに自分の口から吐き出されてしまって、そんな自分自身にむかついていた。佐竹梁(さたけりょう)とは二年前、場末の酒場で紀代が自棄酒(やけざけ)を飲んでいた時に知り合った。
「ねぇっ、聞いたでしょ」
 紀代はもう一度念を押した。
「聞こえてるが、聞いてない」
「聞いてよ」
「うるさいなぁ。お前が言ったことを聞いても、オレは何もしてやれない。だからよ、聞いてない」

 佐竹は、紀代が飲んでいる時に時々出会った。だが、いつのまにか風のようにすぅっと姿を消してしまうので、付き合っていると言える仲ではなかった。不思議なことに、一ヶ月に一度くらい偶然に出会うのだ。
 出逢って一年が過ぎた時に、名前だけはどうにか聞き出した。だが、佐竹がどんな生活をしているのか、何の仕事をしているのかさえまだ聞かせてもらえなかった。
「今夜はどこに住んでいるのか絶対に見つけてやる」
 紀代はそう思って佐竹の行動を注意深く見ていた。今夜も案の定、トイレに立って、佐竹は席に戻ってはこなかった。

 紀代は急いで勘定を済ますと、表に出た。すると、佐竹の後姿が少し先の角を曲がって消えた。紀代は小走りにその角に辿り着くと、そっと角の向うを見た。佐竹は脇見もせずにすたすたと歩いていた。紀代は後を追った。
飲み屋から1kmも歩いた所で、佐竹は古びたアパートの一階角のドアーを開けて、すっと消えた。
 アパートの扉の前で、紀代が深呼吸をすると、その時、部屋の明かりが点いた。紀代はドアーのノブに手をかけると回してみた。
 回った。
 それで、思い切って中に入った。六畳間に続いてキッチンがあるだけだ。
 佐竹は紀代が後をつけて来たのを知っているかのように、
「来たか」
 とだけ言った。佐竹は畳みの上にジャケットを無造作に脱ぎ捨てて、そこに座っていた。
「なんだ、こんなとこに住んでたんだ」
「……」
「もう少し、あたしの話を聞いてよ」
「……」

「あたしね、今まで色々あったんだ。今はね、今までに遭った死ぬほどの辛い思いと苦しみをバネにしてさ、生きて行こうと思ってるんだ」
「……」
 佐竹は何も言わなかった。今まで飲んでいた時にも佐竹には自分の悲しい想い出を色々話して聞かせたつもりだ。だが、佐竹は時々頷いて見せるだけで、何も言ってくれなかった。
 それで、今夜は思い切って
「抱いて」
 と言ってしまった。身体を許せば、佐竹も心を開いてくれると思ったからだ。
「出てけよ」
 紀代が、
「抱いて」
 と迫った時、佐竹が突然に言った。
「いやよ。あなたも男なら、女がどんな思いでこんなことを言ったか分っているでしょ」
「……」
「なら、オレが出てく」
 佐竹はさっと脱ぎ捨ててあったジャケットを拾い上げると、そのままバタンとドアを閉めて出て行った。

「あたしって、どうしてこうなるんだろ。また悲しみが一コ増えちゃったな」
 そう言いながら紀代は部屋の中を見回した。小さなテレビの下の台に紅寿と書かれた久保田の緑色の壜が三本並んでいた。振って見ると全部空っぽだった。
「くそっ、飲み直しもできないな」
 小さな冷蔵庫を開けると発泡酒の缶が二本と干からびたレタスが入れてあった。他には何もない。キッチンの流しも綺麗で何もなかった。
 紀代は発泡酒の缶を一本取り出すと、元の所に戻ってプルを引いて開けた。ゴクッと一口飲むと、
「リョウのやつ、むかつくなぁ。恨んでやるから覚えてろよ」
 そうぶつぶつ言いながら紀代はまた一口飲んだ。
「けど、あたし、人をむかつかせるあいつ、好きなんだよなぁ」
 紀代はなおもぶつぶつと独り言を続けていた。
「あんたなんか大嫌い」
 そう言うと紀代の頬に涙が零れ落ちた。

二 切ない想い

 家具のないガランとした六畳間に座り込んでいた紀代は、いつの間にか眠っていた。ふと寒くなって目が覚め、押入れから掛け布団を引っ張り出して、掛け布団に包まってまた眠った。布団にかすかに男の臭いがした。

 隣の部屋の扉がバタンと閉まる音に、再び目を覚ました時には、窓から朝日が射し込んでいた。携帯の時計を見ると、七時五分だった。結局、朝まであいつは帰ってこなかったようだ。
 紀代は掛け布団を押入れにしまうと、アパートを出て、そのまま会社に向かった。
 紀代は会社までぶらぶらと歩いた。会社は神奈川県の川崎市に近い鶴見川の河畔にある大きな製菓会社だ。リョウのアパートは京浜急行電鉄のけいきゅうつるみ駅から歩いて300mくらいの場所にあった。だから、会社までは三十分か四十分歩けばバスに乗らなくとも着ける。紆余曲折はあったが、紀代は今では製菓会社の新製品開発室長と言う要職に就いていた。だが独身の身軽さも手伝って、数少ない女性管理職であることを殆ど意識せずに、普段は普通のOLのように振舞っていた。

「紀代、また朝帰りでしょ?」
 会社の更衣室で仲良しのヨネに声をかけられた。紀代は黙っていた。すると、
「夕べ、ラブしたんでしょ? それにしちゃ浮かない顔だよ」
 ヨネはたたみ掛けてきた。紀代はまだあいつのことで腹が立っていた。
「そんなんじゃないよ。むかついてるだけよ」
 ヨネは、
「ふぅーん」
 と頷いたがそれ以上聞かなかった。ヨネはそれ以上聞くと、なんだか紀代が爆発するんじゃないかと思った。今朝の紀代のご機嫌は相当に悪いらしい。

 菓子作りの工場はいつも一日中甘ったるいフレーバーの香りが漂っている。だから、そんな匂いに慣れてしまって、最近ではお菓子を食べても感激が薄くなってしまっていた。

 リョウが自分のアパートを出て行ってしまってから、紀代は殆ど一日おきに、リョウのアパートを覗いて見た。だが、リョウが帰った形跡はなかった。ドアーの鍵は開けっぱなしになっていた。
 アパートの中には何もないので、空き巣が入っても、これじゃがっかりして直ぐに出て行ってしまうだろう。

 あれから一ヶ月が過ぎても、リョウがアパートに戻った様子はなかった。逢いたいと思うと紀代は益々逢いたい気持ちで一杯になった。それで毎日のようにアパートを覗いて見たが、やはり戻った形跡はなかった。
「どうしちゃったんだろ? 二ヶ月も家に戻らないで、いったいあいつはどこで過ごしてるんだろ? もしかして交通事故とか。ま、それはないな」
 紀代はぶつぶつと独り言を言っていた。

 紀代は、鶴見から一駅先の京浜急行鶴見市場駅近くの、一応ワンルームマンションに住んでいた。会社へは一旦けいきゅうつるみ駅に出て、そこから歩いてJR鶴見駅前から会社往きのバスで通勤していた。

 ある日、紀代は会社の営繕係の男の子に、
「鍵の付替えして欲しいんだけど、あんたやってくれない? お礼はさぁ、あたしとデート一回で」
 と頼んで了解を取り付けた。男の子は二十歳半ばの童顔のやつで、時々製造ラインが停止した時に直しにくるので、いつの間にか顔見知りになった。紀代は去年無情にも三十歳のラインを越えてしまったので、男の子は多分二コか三コ年下だ。男の子は橋本徹(はしもととおる)と言う名前だ。

 男の子は気の良いやつで、紀代に言われた通り紀代が示した携帯の写真を見て、休日の土曜日、日用品の量販店で写真とほぼ同じ錠前一式を買って持ってきてくれた。それで二人は揃ってリョウのアパートに行った。

 錠前は元の物と規格が合っているらしく、螺子(ねじ)を外して簡単に付け替えができた。
「徹君さすが営繕の星、手際が完璧だなぁ。早いわね。ありがとう」
 新しい鍵でドアーを閉めるときちっと閉まった。
「よしっ、これで良し」
 鍵は二本付いていた。それで一本はテレビの下に隠すとスペアキーを紀代は自分の財布に入れた。

「約束のデート、どこに行きたい」
「オレ、いいっすよ。帰ります」
「お姐さんとじゃイヤ?」
「そんなんじゃねぇっす」
「何か予定あるの」
「別に」
「じゃ、遊びに行こうよ。横浜にする?」
「任せます」
 それで紀代は横浜駅で地下鉄に乗り換えてみなとみらいに連れて行った。
 中華街で小籠包を腹いっぱい食べてから、赤レンガ倉庫のあたりをぶらついて、最後は山下公園を散歩した。一応デートらしくしたつもりだ。

「徹君、なんか忘れてない?」
 徹は首をかしげた。
「今日はデートしたんだよね」
「ああ」
「じゃ、キスしてよ」
 徹は驚いて紀代の顔を見た。
「早くっ」
 そう言いながら紀代は徹の両頬を手で挟んで引き寄せてキスをした。紀代に襲われて、徹は明らかに動揺していた。
「もしかして、ファーストキスだった?」
「参ったなぁ」
「やっぱ初めてなんだ」
 それから二人が京急鶴見駅に戻るまで、徹は無口になっていた。

 日曜日に、紀代はカーテンや鍋、茶碗など日用品を買い込んでリョウのアパートに運び込んで室内を整えた。家電の量販店で掃除機と洗濯機も買ってアパートに届けさせた。それから赤帽に頼んで、自分のワンルームから自分用の布団一揃えをリョウのアパートに配達させた。
 夕方食材をスーパーで買い込むと、リョウのアパートの冷蔵庫に入れた。勿論六個パックの発泡酒も買った。アパートは二階建てで上下八戸、リョウの所も含めて全部塞がっていた。

 その夜から、紀代はリョウのアパートに住み着いて、そこから会社に通い始めた。

三 予期せぬ訪問者

 紀代がリョウのアパートに住み着いてから、早いもので十日が過ぎた。紀代は勤めを終えてアパートに帰って来ると、帰り道に買い込んで来た食材を使って、自分で調理をした。 最近はどこの店にも出来合いの惣菜が沢山並んでいるが、紀代は出来上がった惣菜は殆ど買ったことがなく、揚げ物でも煮物でも自分で作った。糠漬けだってちゃんとしていた。毎日糠床をかき混ぜるのは面倒だし、自分用だけじゃ量が少なくて漬け難くかったが、それでも習慣的にちゃんとやった。

 最近、地球温暖化が原因なのか、秋刀魚(さんま)が不漁だそうで、一本二百五十円もしたが、今夜はそれを買って来てガスコンロで焼いた。今夜のメインディッシュだ。リョウが使っていたらしい小さな卓袱台(ちゃぶだい)の脚を開いて畳みの上に置くと、そこに焼きたての秋刀魚、味噌汁、お新香、昨日作った金平ごぼうなどを並べた。
「焚きたてご飯に秋刀魚、最高だなぁ」
 紀代は独り言を言いながら秋刀魚を食った。

「ママ、缶ビール、もう一本いいだろ?」
「だめだめ、家計を考えて下さいな。あなたの月給じゃ、一日一本が限度。分った?」
 紀代は誰も居ないのにおどけた声を出して一人芝居をして、笑った。
「あいつとこんな会話ができたら幸せなのにぃ。あいつはバカだなぁ。あたしみたいにいい女に振り向きもしないでさ、一体どこをほっつき回ってるのよ」

 その時、ドアーのノブをガチャガチャと外から回す音がした。紀代は飛び上がるほど嬉しかった。
「やっと帰ってきたの」
 そう言いながら、無意識にトイレの扉にぶら下がった鏡に自分の顔を映して、そっと髪をなでた。ブラウスの衿を立てると、
「よしっ!」
 と言ってから、出入り口に向かって、
「今開けますから待っててぇ」
 と甘い声色(こわいろ)に変えて大き目の声で答えた。
「……」
 ドアーの外からは返事がなかった。リョウはいつもこうだ。自分が何かを言っても三度に一度くらい返事をしてくれるだけで、それも無愛想だ。

 紀代は内側からかけた鍵を開けて、ドアーを開いた。
「お帰りなさい」
 と言いかけて、言葉を呑み込んだ。

 ドアーの外に見知らぬ男が二人立っていた。二人とも目付きが鋭く、ダークスーツにサングラス、着ているYシャツは黒だ。見て直ぐにその筋の者と思われるいでたちに紀代の身体は固まってしまった。

「佐竹、居るんだろ?」
「……」
「おいっ、佐竹、顔を出せや」
「そんな人、いません」
 紀代はようやく口がきけた。一言声を出してしまうと、不思議と落ち着いてきた。
「ウソつけぇ、さっきよぉ、外から話し声が聞こえたぜ」
「あれは、あたしの一人芝居ですよ」
「いい加減なことを言うな。上げてもらうよ」
 男二人は靴を脱ぐとずかずかと上がってきた。

 トイレと風呂の中を調べ、押入れの中を調べると、もう他に隠れる場所はなかった。キッチンと六畳間だけの小さなアパートだ。

 すると男の一人がポケットから飛び出しナイフを取り出して、カチッと刃を出した。そのナイフを畳に突き立てると、手馴れた仕草で畳の角を引き上げ、出来た隙に手を入れると、あっと言う間に畳を一枚剥がした。一階だから床下に人が入れる程度の空間がある。畳を持ち上げると、畳の下の床板をバリッと一枚剥がして、ジッポの蓋をカチッと開いて火を点けて床下を覗いた。

 覗いた男は相方の顔を見ると首を振った。どうやら居ないらしい。男が立ち去ろうとした時、
「ちょっとぉ、あんたこのままで帰ってしまうの?」
 男が二人とも振り向いた。
「畳、元通りにしてよ」
 飛び出しナイフの男が戻り、畳を元通りに戻して角を踵でドンドンと踏みつけてから、紀代の顔を見た。
「良く見ると、あんたいい女だなぁ。佐竹にほったらかされて寂しいんと違うか」
 飛び出しナイフの男はすっと手を出すと紀代の顎を掴んだ。紀代が掴んだ男の手を払おうとすると、男に手首を掴まれた。
 男は顎を掴んだ手を引き寄せて、紀代の唇を吸った。と、紀代は男に抱きすくめられて、男の舌が紀代の口の中を泳いだ。

 もう一人の男も戻って来て、
「姉ちゃん、佐竹の代わりにオレたちでちっょっと可愛がってやるぜ」
 紀代は畳の上に倒されて、その上に男が被さってきた。男は乱暴に紀代のブラウスを剥がしにかかった。

「あんた、ちょっと待ちなさいよ。あたしとやりたいならやれば。乱暴しなくても、自分で裸になってあげるわよ」
「物分りのいい女だな」

 紀代は咄嗟にお芝居を考え付いた。
「あたしを優しく抱いてくれるでしょ?」
「ああ。やさしくたっぷりといい気持ちにしてやるぜ」
「でもさぁ、後で恨まれると困るからさぁ、最初に言っとくけど」
「何か言いたいこと、あるのか」
「病気。病気のことよ」
「お前病気してんのか」
「ん。なかなか治んない病気。あたし、エイズ患者なの。それに梅毒の陽性反応が出てさぁ、どうやら罹っちゃってるみたいで、今病院に通ってるの」
「おい、ほんとかよぉ」
「ほんとよ。あたし欲求不満なの。こんな身体だけどセックスしてもらいたいの。ねぇ、してぇ」

 二人の男の顔に動揺が走った。
「やべぇっ、オレ、こいつの唇を吸っちゃったよぉ」
 先ほど紀代の口を吸った男は慌てて台所に行くとガラガラと口を漱いだ。
 二人の男は怖いものを見たような顔をして慌てて出て行った。

「あはは、可愛いものね」
 紀代は一人で笑い転げた。話しが上手く行き過ぎた。
「あたしのお芝居も大したもんだわ」
 紀代はまだ笑いが止まらなかった。
「それにしても二人とも小粋な男だったな。佐竹もいいけど、あんな奴に溶かされるほど愛撫されたらたまんないだろうな」
「佐竹のやつ、どうなっちゃってんの? あたし、ずっと待ってるから早く帰って来てね」
 その夜リョウを訪ねてと言うか探しにきた男たちを思うと、紀代は今まで想像もしていなかった佐竹の横顔を見たような気がした。以前から何か得体の知れない所があったが、
「一体リョウのやつ何をしてるんだろ?」
 紀代は改めてリョウに逢いたい気持ちがこみ上げてきて
「あいつに抱かれてみたいなぁ」
 と思った。

四 予期せぬ二度目の訪問者

 毎日、佐竹が戻るのを待つのは辛いことだと紀代は思った。
「好きになっちゃったんだから仕方ないか」
 次の日も、その次の日も、夕方アパートに戻ると、ちょっとした外の音にも敏感になっていた。

 そんなある日、扉をトントンと叩く音がして、テレビを見ていた紀代は飛び上がった。テレビのドラマに夢中になっていたから、気付くのが少し遅れたのかも知れない。
 紀代は身支度をチェックしてから、
「はぁーいっ、只今」
 と扉の方に行った。

 扉を開けると、若い女が立っていた。
「明かりが点いてましたから、大家さん、お戻りになられてると思いまして」
「えっ?」
 紀代は相手の言っていることが呑み込めなかった。
「もしかして、大家さんの奥様でいらっしゃいますか」
「いいえ。ここは佐竹と言う者が借りている部屋ですよ。あたしは秋元です」
「ああ、佐竹さんは大家さんですの。今いらっしやいます?」
 紀代は唖然とした。佐竹はこのアパートの大家らしい。道理で住み着いて二ヶ月にもなるのに家賃の催促が一度もないのだ。

「ここのとこ二ヶ月間、一度も戻りませんが、何か」
「あのう、トイレのタンクの水が止まらなくて。大家さんではないことは分りましたが、話を持っていく所がありませんので、恐れ入りますが、水道屋さんにご連絡するなりして、対応して頂けません」
 紀代は困った。けれど、佐竹がいないなら仕方がない自分で何とかするっかないと思った。後で冷静に考えてみれば、
「あたしは関係ありませんから」
 ときっぱり断れば良かったのだろうけれど、ついうっかり引き受けてしまった。

「どちらの方ですか」
「この上の三号室ですの。添田と申します。よろしくお願い致します」
 紀代は、
「分りました」
 と答えてしまった。
 添田と名乗った女性が帰ってから、紀代は
「さて、どうするかなぁ」
 と迷った。
 それで考えている内に、
「あっ、あいつだ。あいつに頼んだら何とかなるな」
 紀代は錠前を交換してくれた橋本徹に電話をした。
「徹君、今何かしてる」
「DVDを見てた」
「じゃ、今から出れるよね」
「今から? もう遅いじゃん」
「あのさぁ、この前鍵を交換してもらったアパートにあたし居るんだけど、トイレのタンクの水が止まらなくなってさ、困ってるのよ。ねぇ、今から来てぇ」
「秋元さんの頼みじゃ仕方ねぇか。行くよ」
「嬉しい。じゃまたキスしてあげる」
「キスは要らねぇよ。何か上手いものを奢ってよ」
「いいわよ。待ってるから、お願い」
 紀代は携帯を耳にあてたままで頭を下げた。

「今晩は」
 あれから一時間ほどして原付のエンジン音が聞こえて、徹がやってきた。
「遅かったわね」
「ん。トイレのタンク、ちょい下調べしてて遅くなった」
「そう言うとこがあなたのいいとこよ」
 それで紀代は徹と一緒に階段を上がって三号室の添田の所を訪ねた。

 徹はちゃんと作業用のジャンパーと工具箱を持ってきたので、添田は水道屋が来てくれたものだと思ったようだ。徹が添田に案内されてトイレに入ってから十五分程で出てきた。
「ボールタップの所が緩んで止水栓がちゃんと閉まらなくなってました。一応直しておきましたから当分大丈夫だと思います」
 徹は丁寧に説明をした。

「水道屋さん、ちょっと待ってて下さいね」
 紀代と徹が帰ろうとすると、添田夫人が徹を呼び止めた。
「これ、つまらないものですが、お礼の気持ちです。直ぐに対応して下さってありがとうございました」
 添田は紙袋を徹に手渡した。ちょっと綺麗な感じの添田に丁寧にお礼を言われて、徹は嬉しそうに頭を下げた。

「痛てぇなぁ」
 徹が添田に気があるように見えたので、紀代が徹の左腕をつねったのだ。
「徹君、頼りになるなぁ」
 紀代は徹を持ち上げて、
「あたしの手料理でもいい」
 と聞いた。
「何か作って食わせてくれるの」
「お礼だから。ねぇ、さっきもらった袋の中、何が入ってたの」
「袋の中? 内緒だ。家に帰ってからのお楽しみにするよ」
 そう言われると紀代は少し妬けた。それで中味を知りたくなった。
「いいじゃない。見せなさいよ」
「いやだよぉーっ」
「おい、徹、意地悪はなしだよ」
「分ってるけどさぁ」

 紀代は手短に麻婆豆腐とポークソテーを作って徹に出してやった。
「原付でしょ?」
「ん」
「じゃアルコールはダメね」
「少しなら大丈夫だよ」
「でも、徹君に何かあつたら、あたし悲しくなるから我慢してぇ」
「ん」
 徹は、
「秋元さん、味付け抜群だよ。すごく美味いよ」
 と言いながら出した物を綺麗に食べた。こんな時は綺麗に食べてくれると出した方も嬉しいものだ。
 食事が終わって、二人並んでテレビドラマを見て寛いでいた。紀代が徹の手にさりげなく触れると、ピクッと反応したが、手を引っ込めるでもなかった。紀代が徹の太ももに手を置くと、しばらくして、徹が腕を紀代のウエストに回してきた。紀代は久しぶりになんかドキドキした。

五 思い出したくない日々 Ⅰ

 日本の三大ラーメンと言えば、札幌ラーメン、博多ラーメン、それに喜多方ラーメンだ。 喜多方ラーメンで有名な喜多方市(きたかたし)は、福島県会津地方の北部にある小都市だ。そこに野菜や魚介類を扱う生鮮食料品店、秋元商店があった。秋元の長男だった辰夫(たつお)は地元の高校を卒業すると家業を手伝い、父親から商いの道を教わった。辰夫は痩せぎすで一見なよなよしく見えたが芯の強い男で、冬の寒い季節にも不平一つ言わずに黙々と仕入れや商品の下ごしらえの作業をこなした。生鮮食品は店頭に並べる前に商品の見映えを良くするために、下ごしらえは大切な作業だった。例えば、農家から仕入れた大根、そのままでは泥が付いていたり、黄ばんだ葉っぱが付いていたりする。それらを点検して、泥を落とし、不要な葉っぱをそぎ落とすと高く売れるのだ。父子の地道な努力で、家業は安定しており、母と妹、それに祖父母を入れた六人家族は平和な日々を過ごしていた。

 辰夫が二十五歳になったある日、
「辰夫、来週見合いをしろ」
 と突然父に言われて生まれて初めて見合いをすることになった。辰夫は高校生の頃、クラスメイトの翔子(しょうこ)と付き合っていて、翔子とはまだ続いてはいたが、翔子が会津若松にある会社に勤めるようになってから疎遠になっていた。それで辰夫は父親の話しに従った。

 喜多方市から西に10キロ少し行った所に山都町(やまとちょう)がある。正確には福島県耶麻郡山都町だ。山都町の相川温泉で温泉旅館をやっている清水家の次女由紀(ゆき)はある日突然、
「喜多方の秋元商店の長男と見合いをしろ」
 と父に言われた。母方の実家で野菜を秋元商店に納めていた関係で見合いの話しがまとまったのだ。由紀は突然の話しに戸惑ったが、姉に背中を押されて、渋々見合いを承諾した。

 由紀はぽっちゃり形で可愛らしい感じの女の子で、地元の農業高校を卒業後家業の温泉旅館を手伝っていた。彼女は可愛らしい感じだったので、旅館を訪れる客には人気があって可愛がられた。そんな客の中に、毎年夏休みに東京からやってきて、数日滞在して行く須藤浩二(すどうこうじ)と言う青年が居た。由紀はいつの間にか須藤に片想いをしていたが、どうやら姉に見破られて見合い話しが持ち上がったらしい。見合い話しが出た時は丁度二十三歳だった。

 清水由紀は秋元辰夫と見合いをして、辰夫を気に入った。自分は少し小太りのぽっちゃり形だが、辰夫は痩せて細身だったから、そんなとこが自分と相性が良いと思ったのかも知れない。それに、辰夫が真面目な青年だったことも好感を持てた。

 結婚後、辰夫と由紀の間に最初は男児、続いて女児が誕生した。長男は父親の一字をもらって辰仁(たつひと)、娘は母親の一字をもらって紀代(きよ)と名付けられた。結婚当初は祖父母を入れて家族九人、義母も辰夫の妹も紀代に優しかったから、家族睦まじく平和に暮らしていた。

 結婚して長男の辰仁が誕生した頃、辰夫は生鮮食品の他に日用品も取り扱うようにして、店を拡張、地元ではちょっとした大きな商店になった。売上は順調に伸びて、一頃は繁盛していたが、紀代が誕生した後、市内にいくつかのコンビニが開店して、多くの客を取られてしまい、売上が思うように行かなくなった。それで、辰夫は父と相談して、銀行から借金をして、思い切って店舗を拡大して、今で言うスーパーマーケットの様式に業態を変えて差別化をした。この時、個人事業を株式会社に改めて法人化し、屋号をスーパーアキモトに変更した。市内には大型スーパーがなかつたので、狙いは当たって業績が急速に伸びた。特に代々得意としていた生鮮食料品に力を入れたので、生鮮食品を置いてない当時のコンビニとは大きな違いができた。

 紀代が四歳になった頃、喜多方で成功した勢いで、辰夫は会津若松市に進出、喜多方の店の三倍もある大型店を開店した。急速に業容を伸ばしたので、従業員の教育が追いつかなかった。ちょうどその時、辰夫は会津若松出身の女性で、東京のコンサルティング会社で主に店舗指導を仕事にしていた市川雅恵(いちかわまさえ)に出逢った。彼女は辰夫のクラスメイトだった翔子の紹介だった。彼女には三歳と二歳の年子の娘が居たが、離婚をして地元に戻り職を探していたのだ。辰夫は彼女が適任と見て、社員教育係りとして会社に入ってもらった。実家が地元にあるので、子供は母親に預けられるから、仕事には支障がないと言ったが、仕事をさせてみると、思った通り良く働いてくれた。

 喜多方の店には父親が居るので、辰夫はスーパーアキモト喜多方店を父に任せて、自分は会津若松店の仕事に没頭した。この時、市内に小さな中古住宅を買って、由紀と子供たちを呼び寄せて、家族四人、会津若松市に移り住んだ。

 辰夫の仕事は多忙だった。早朝から深夜まで辰夫は身を粉にして働いた。いつも家に戻るのは深夜だ。だから、辰夫と由紀は次第に会話が少なくなってしまっていた。
 紀代が小学校に上がった頃、長男の辰仁は二年生になっていた。会社が順調だったため、家計には余裕があり、紀代はピアノ教室に通ったりして裕福なお嬢様として育てられた。 しかし、紀代の一番の楽しみは、母の由紀と一緒に台所に立って夕食の料理をすることだった。由紀は生家が旅館だったせいか、料理はまめに色々なものをこしらえたので、紀代も母に教えられて調理が趣味になっていた。だが、その頃、台所に立っている母から時々夫婦仲が上手く行ってない話を聞かされるようになった。原因は辰夫が仕事一筋で家庭をほったらかしにして全て由紀に押し付けていることだったようだが、紀代は子供心にも母の悩みを理解できた。

 辰夫は真面目なやつだったから、仕事以外には変な噂は一切なかったが、夜遅くなると
「今夜も会社に泊まるよ」
 と電話が来ることが多くなり、母とせっかく作った料理が無駄になり、それが由紀も紀代も我慢できなかったのだ。
「ママとせっかく美味しいのを作ったのにね」
 紀代はそんな時母親の気持ちを察した。

 辰夫が深夜まで仕事をしている時、雅恵が付き合って遅くまで居残ることが多くなった。雅恵が時々辰夫に色目を遣うのを辰夫は知っていたが、なるべく知らん顔をして相手にしなかった。
 だが、その夜は魔がさしたとか言いようがないが、辰夫は遂に雅恵の誘惑に屈してしまった。

六 思い出したくない日々 Ⅱ

「あたし、離婚をしてからずっと男なしで我慢してきたけれど、最近とても淋しい気持ちになるの。男なら誰でもいいってことでなくて、素的な辰夫さんになら、たとえ将来結婚できなくても抱かれて見たいな。ねぇ、あたしのこの気持ちに応えて下さらない」
 雅恵は辰夫に今まで一度だって自分の気持ちを素直に伝えたことはなかったが、今夜はもう我慢の限界を越えてしまって、自分の気持ちを押さえ込むことができなかった。
「ダメッ、僕には妻子が居るし、雅恵さんほどの器量なら、好きになってくれる独身男性、きっと居るよ」

 雅恵はこれ以上辰夫と議論をしたくなかった。それで、突然辰夫の首に腕を回して唇を吸った。そこまでされると、辰夫も抗い切れなくて、雅恵のキスに応えてしまった。
「社内じゃ拙いよ。外に出よう。あ、市内は誰かに見られる可能性が高いからダメだな、どこか遠くに行こう」
 結局、辰夫は猪苗代湖まで車を走らせて、国道沿いのラブホに入った。辰夫は多忙で三日に一日くらいしか帰宅しておらず、妻の由紀とはもう三ヶ月間も夫婦の関係はご無沙汰していた。その夜、雅恵は溜まっていたものを吐き出すかのように辰夫を愛し、辰夫も汗をかくほどに雅恵ともつれ合った。

 一人でも人を殺すと、その先は何人殺しても同じだと、一度悪の道に踏み込んでしまうと、そんな風に気持ちが変ると言われる。あんなに妻への貞節を守ってきた辰夫も一度雅恵と関係を持ってしまうと、罪悪感が薄れて、その後三回も雅恵に許してしまった。
 心理は雅恵も同じだったらしい。従業員が全部退社した深夜に、雅恵は辰夫と二人っきりになると、辰夫にキスを求めてきた。
「今夜もいいでしょ? ダメ?」
「仕事を片付けてしまわないと、溜めちゃうと後が大変だから」
 それで、雅恵は長い間辰夫にしがみついてキスをした。

 由紀は毎晩辰夫が帰るかも知れないと、紀代と一緒に辰夫の分まで夕飯を作って待っていた。だが、十一時を回っても辰夫は戻らない日が多くなった。
「お母さん、たまにはパパの所に届けに行かない? あたし、パパに会いたくなっちゃった」
 娘の紀代に手を引かれるようにして、由紀はスーパーアキモトを訪ねた。由紀は今まで書類の届けものがあった時以外には店に行くことはなかった。だから、夕飯を持って行くなんて初めてだ。
 近くまで行くと、事務所だけ明かりが灯っていた。由紀と娘の紀代は明かりを頼りに事務所に行くと、ドアーをそっと開けた。

 その時、由紀は見てはならない光景を見てしまった。辰夫と事務服を着た女が抱き合ってキスをしていて、女の胸元がはだけて乳房が出て、それを夫の辰夫がモミモミしていたのだ。由紀は慌てて紀代の目に手を当てて、目隠しをした。

「あなたっ!」
 静かな事務所いっぱいに由紀の悲鳴ともとれる声が響き渡った。辰夫と雅恵はギクッとして由紀の方を見て、辰夫は開いた口を開けたまま呆然としていた。雅恵は辰夫とは対照的に由紀を蔑むような薄ら笑いを浮かべて由紀を見ていた。

 由紀は辰夫に近付くと、作ってきた夕飯の入った重箱を辰夫に投げつけた。そして、向きを変えると雅恵のほっぺたを思い切り引っ叩いた。
「泥棒っ!」
 そう言い終わると紀代の手を引いて逃げるように事務所を出た。

 由紀は今まで人に手を上げたことは一度もなかった。実家では可愛がられて育ち、学校でも喧嘩をするような相手はいなかったから、兎に角人をぶつなんてことをしたことがなかったのだ。だから、雅恵を思い切り引っ叩いた手が痛んだ。

 その夜は、悔しくて悔しくて、由紀は一睡もできなかった。涙がぽろぽろと出て、目が真っ赤に腫れた。
 娘の紀代はその夜の光景を三十歳を過ぎた今も鮮明に思い出すことができた。あの淫らでおぞましい光景は紀代の心に大きな傷を付けてしまったのだ。
 翌日由紀は息子の辰仁と娘の紀代の手を引いて、山都町相川温泉の実家に帰った。由紀の母は昨夜のことを何も知らずに、久しぶりに戻った娘と孫の世話を焼いた。

「紀代ちゃん、何かあっべした?」
 祖母は紀代に聞いたが、紀代は口を真一文字に閉じて返事をしなかった。

七 思い出したくない日々 Ⅲ

 紀代の祖母きぬえは、いつも快活で可愛らしい孫が、泣きそうな顔で口を真一文字にして黙り込んでいるのを不審に思った。
「紀代ちゃん、何かあっべした? なんかしらっちゃ?」
 すると紀代は目に一杯涙を溜めて、わっと泣き出した。
「パパが……」
 それで祖母の清水きぬえは娘の由紀を呼んで問い質した。
「もごさいなことや、辰夫許せんわな」
 店員との不倫の話を聞かされて、きぬえは信じられなかった。婿の辰夫はとても真面目なやつで、そんなことをするやつだとは到底思えなかったからだ。しかし、現場を由紀が見てしまったのだから間違いはない。きぬえは夫と相談して、その夜辰夫の父親の秋元辰吉に電話をした。秋元のおやじ辰吉は寝耳に水、相当驚いた様子だった。それで、直ぐに調べて改めて電話をすると言った。

 翌日、辰吉からきぬえに電話が来た。
「きぬえさんよ、誠にすまんかった。うちとこの辰夫、なしてそないことしよったか、魔がさす言うな。店員と不倫しちょった。由紀ちゃん、ごせっぱらやけとるやろ」
 辰吉は二度と不倫などさせないから、
「今回だけは許してけろ」
 と謝ってきた。きぬえは腹を立てる由紀をなだめて、今回だけは許してやれとどうにか由紀の気持ちを鎮めた。
 だが、由紀は辰夫を信用できなかった。それで、私立探偵を探して不倫の調査を依頼した。

 相手が分っているから調査は簡単だった。十日後、探偵は喫茶店に由紀を呼び出し、そこで報告をした。写真には日付が入っており、猪苗代のラブホに雅恵と肩を組んで入り、出てくる様子がはっきりと写っていた。写真の時刻を計算すると、ラブホに約一時間半居たことになる。日付が違う他の写真もあり、ちょくちょく出かけていると容易に想像できた。探偵は調査報告書を差し出すと、手数料十万円を受け取って立ち去った。

 由紀は実家の両親や姉と相談して、離婚を決意した。それで、市川雅恵を相手取って慰謝料五百万、夫の辰夫を相手取って慰謝料一千五百万、子供二人が成人するまでの養育費三千万、合わせて五千万円を請求することにした。
 喜多方市と耶麻郡は福島地方・家庭裁判所会津若松支部が管轄だ。それで、由紀は会津若松市追手町の家裁に申請をした。勿論弁護士も頼んだ。

 不倫相手、市川雅恵に請求した慰謝料の金額五百万円は世間一般の常識的な金額だ。だが、離婚訴訟しても和解するまで十年、十五年かかる場合もまれではない。だから弁護士は、
「長期戦を覚悟しておいて下さい」
 と念を押した。

 実際に訴訟を起こして見ると、秋元辰吉は田舎の商店の旦那で真面目な男だったから、慰謝料はすんなりと了解してくれた。だが、子供の辰仁と紀代はどうしても自分の方、秋元家で預かりたいと譲らなかった。
「由紀ちゃん、おめは若いし、再婚してくんにが? 子供はすげねぇが、よくたかりせんで、あちらさんに置いてけろ」
 きぬえは由紀に子供は秋元家の希望通りにしろと言った。

 家裁で一度会ったきりで、辰夫と由紀の離婚は成立し、辰仁と紀代は秋元家に引き取られて行った。しばらくの間、由紀は毎晩泣いた。

 清水家から由紀に手を引かれて秋元家に辰仁と紀代は連れてこられた。二人とも親どうしの約束など全く聞かされていなかった。一週間たっても母の由紀が顔を見せないので、紀代は不審に思い祖母に、
「なして?」
 と聞いた。
 そこで、祖母は両親が離婚をしたことを分り易く紀代に言って聞かせた。

 夏の終わりに、相川温泉に須藤浩二が友達三人を連れて四人で泊まりで遊びに来た。
 須藤は滞在中由紀と親しくなった。由紀は以前は子供子供していたが、結婚後離婚をしたせいか、女らしくなり、艶かしい感じが備わってきていた。それで、須藤は長年の顔見知りも手伝って、由紀に惹かれた。
「ひまがあったら、東京に遊びに来ない?」
 須藤が東京に戻る日、由紀は四人に加わって東京に遊びに出かけた。この時、由紀は三十三歳になっていた。

八 思い出したくない日々 Ⅳ

 由紀は東京から遊びにきた須藤たちにくっ付いて東京に出かけたが、そのまま地元へは帰らぬ人となった。由紀の母きぬえは心配して須藤が書き残した宿帳を頼りに探したが、宿帳には在りもしない住所と電話番号が書かれていたことが分り、連絡のしようもなく、由紀の消息は断ち切れてしまった。

「あなた、結局離婚させられたのね」
「ん」
「慰謝料はどうしたの」
「雅恵の分は五百万円だよ。僕の分は一千五百万円」
「それ、あなたが支払ったの」
「いや、喜多方のオヤジが払ってけりを付けた。雅恵の分もオヤジが肩代わりをしたよ」
 例によって、夜遅くまで仕事をしている辰夫に合わせて雅恵も残業をしていた。

「ねぇ、だったら辰夫さんはもう独身でしょ? 誰にも気遣いせずにあたしを抱けるわよね」
「バカなことを言うなよ。僕は後悔してるんだ。雅恵に誘惑されなかったら、今だって平和な家庭を守れていたんだ」

 しばらくの間は辰夫は雅恵の誘いを避けて、付き合わなかった。辰夫は愛する妻だった由紀の悔しい気持ちを思うと、自分が間違っていたと深く反省をしていた。由紀が許してくれるなら、復縁をしてもいいとまで思っていた。
 だが、男の性欲は別だ。一ヶ月も経つと、辰夫は女を抱きたくなった。目の前に雅恵は居たが、離婚騒動で雅恵との気持ちが萎えて、雅恵とはやりたくなかった。

 辰夫は猪苗代のホテルに予約を入れると、デリヘルを斡旋している所にも電話をして予約を入れた。デリヘルは大都会だけじゃない。猪苗代だってあるのだ。
 辰夫はデリヘルを呼ぶのは初めての経験だったが、この先女を抱きたくなった時は後腐れのない関係で一夜を過ごせる方法をキープしておきたかった。

 雅恵は辰夫がデリヘルを利用していることを知らなかった。それで最近雅恵に興味を示さない辰夫は離婚を後悔して悩んでいるものとばかり思っていた。
 雅恵にしてみれば、自分の性欲の捌け口を気心の知れた相手に求めた。それに何回もセックスを重ねてきた辰夫にまだ未練があった。初めて抱き合った時には東京で離婚をして会津に戻ってから長い間押さえつけてきた自分の性欲を一気に吐き出したくて無我夢中で辰夫を吸った。だが、回数を重ねる間に落ち着いてきて、改めて辰夫の優しい愛撫が好きになっていた。だから、何としても辰夫と以前のような関係に戻りたかった。だが、最近辰夫に深夜まで仕事を付き合っても辰夫は知らん顔で相手にしてくれないのだ。そこで、雅恵は一計を案じた。

 辰夫が離婚をして三ヶ月が過ぎた。秋元の実家に預けられていた辰仁と紀代は、会津若松の小学校から喜多方の小学校に転校させられて、ようやく落ち着いた所だ。子供たちの面倒はもっぱら辰夫の母よね、子供たちにとっては[よねおばあちゃん]が見ていた。紀代は最近すっかりお婆ちゃんっ子になり、よねに懐いた。紀代ががっかりしたことと言えば、ようやく少し上手になったピアノ教室に通えなくなったことだ。会津若松の家には居なくなった母の由紀が買ってくれたピアノがあり、学校から帰ると、ピアノ教室に行かない日には自宅でピアノの練習ができた。紀代はピアノが大好きだったから、先生からも上達が早いと褒められたくらいだった。そのピアノに縁遠くなり淋しかったのだ。

 そんなある日、祖父母と子供たちにとお土産をいっぱい抱えて、喜多方の秋元家に市川雅恵が訪ねてきた。不倫のお詫びと慰謝料を肩代わりしてもらったお礼を兼ねてと言うのが表向きの理由だった。
 秋元辰吉は家裁で会ったきりの雅恵の顔を見ると、
「あや起こしよったおめの顔さ、見たくばねぇ」
と嫌な顔をして
「けえってけれっ」
 と追い返そうとした。雅恵は怒る辰吉の脚にすがり付いて泣き出し、
「あたし、辰夫さんが好きねん。許してけろ。辰夫さんと夫婦(めおと)にしてぇ」
 と頼み込んだ。辰吉は生来人が良い。雅恵にそこまで懇願されるとすっかり雅恵に騙されてしまった。すると奥から辰夫の妹の恭子が顔を出して、
「あんたさ、子供たちをどうすべか?」
 と言った。雅恵の思う壷だ。
「わらしめら、あたしに任せてくなんしょ。大事に育てるさけ」

 その夜、辰吉は妻のよね、娘の恭子を交えて辰夫と子供たちのことを話し合った。それで、辰夫が好きで不倫までしたんだから、この際一緒にしてやった方がいいだろうと言うことになった。特に雅恵が子供たちも大事に育てると言い切ったのが決め手となった。いつまでも子供を宙ぶらりんのままにしておいては可哀想だと思ったからだ。

 父親辰吉の勧めで、辰夫はしぶしぶ市川雅恵と再婚することになった。雅恵の実家の市川でも勿論賛成だった。雅恵の実家としてもいつまでもコブ付きの出戻りの娘が家にいるのが目障りだったからだ。雅恵には前夫との間に留美(るみ)久美(くみ)の二人の娘が居た。留美は紀代よりも一歳下、久美は年子だったから二歳下だ。再婚なので、改めて結婚式をせず、内々で簡素な挙式をしただけだった。

 雅恵は娘二人を連れていそいそと辰夫の家にやってきた。喜多方の秋元家から辰仁と紀代も連れてこられた。紀代たちはまた元の会津若松の小学校に転校させられた。
 一気に子供が四人の賑やかな世帯になった。最初の一週間は雅恵は辰仁にも紀代にも自分の娘と分け隔てなく優しく接した。だが、再婚後十日も過ぎると、雅恵は辰仁は可愛がったが、紀代にはつらく当たるようになった。子供は敏感だ。母親の真似をして、留美と久美も紀代に意地悪を始めた。

九 思い出したくない日々 Ⅴ

「ママぁ」
「ママじゃないでしょ? お母さまと呼びなさい」
「……」
「黙ってちゃ分らないわよ。分った?」
「はい。お母さま、ピアノ教室の先生が、今月分の月謝、まだだからって」
「あら、紀代の月謝なんて聞いてないわよ。お父さんからお金を頂いてませんよ」
 紀代はその日ピアノ教室の帰りに先生に呼び止められて月謝が未納だと知らされた。実母の由紀の時は一度も滞納したことはなかった。仕方がなくて、紀代は父の辰夫に月謝の未納を言い渡されたことを話した。辰夫は夜遅く家に帰ると、
「雅恵、紀代のピアノ教室の月謝、月々余分に渡している中から払っておいてくれ。未納だそうじゃないか」
 と改めて月謝を届けろと言った。雅恵は、
「あら、おかしいわね、先日茶封筒に入れて紀代に渡しましたよ。あの子、大金を何に使ったのかしら」
「おいおい、そりゃおかしいよ。紀代はウソをつくような子じゃないよ。小さい時から金銭には清潔だよ」

 翌日、
「紀代、この前ピアノ教室の月謝、あなたに渡したでしょ」
「お母さま、あたしもらってないよ」
「ウソ、おっしゃい。お母さんはお父さんに叱られたわよ」
 紀代は月謝を預かった記憶が全くなかった。
「そんなウソを言うなら、ピアノ教室なんて止めなさい。今度から行っちゃダメよ」
 紀代は大好きなピアノの稽古を出来なくなって悲しくなった。仕方がなく、次の日から学校から帰宅してピアノの前に座って自分で練習を始めようとした。所が鍵がいつも置いていた場所になかった。
「お母さま、ピアノの鍵、知らない」
「そんなもの知りませんよ」
 紀代はがっかりした。

 次の週、雅恵は留美と久美をピアノ教室に入会させた。それで、二人が帰ってくると、早速交互に自宅のピアノで練習を始めさせた。あんなに聞いたのにないと言われた鍵はちゃんとあった。ピアノは元々紀代の練習用に由紀が買ってくれたものだ。それで、留美と久美が練習を終わった所で紀代が代わると、
「このピアノは留美ちゃんと久美ちゃんの練習用ですからね、あなたは使っちゃダメ」
 と言って雅恵は鍵をかけてしまった。紀代は自分の部屋に戻ると悔しくて悔しくて泣き続けた。

 紀代に辛く当たる雅恵も辰仁には優しかった。遅くまで運動をして戻った辰仁に
「おなか空いたでしょぅ」
 と作り置いたおやつを出し、
「直ぐに夕飯にしますからね」
 等と言っている。

 翌日朝食の時刻になった。食卓のテーブルの上に三人分の玉子焼き、サラダ、味噌汁などが並べられていた。留美と久美は並んで食べ始めていた。紀代が残った料理の前に座ると、
「そこはお兄ちゃん」
 と留美に言われた。
「お母さま、あたしのは?」
「紀代、生意気に朝ご飯食べるの?」
「いつも食べてるでしょ」
「じゃ、今朝は自分で勝手にやりなさい」
 仕方なく紀代は台所で何か作ろうとした。ところがあれはダメ、これもダメと使って良い食材がない。ご飯の電気釜の蓋をあけると空っぽだ。今からご飯を炊いていたら学校に間に合わない。紀代は仕方なく朝ご飯なしで学校にでかけた。

 会津若松市では、幼稚園から小中学校まで完全給食を実施するために、学校給食センターが集中して配食を行っており学校給食が徹底している。だから、紀代は朝ご飯にありつけなくとも、お昼まで我慢をすれば学校のある日にはお昼は必ず食事にありつけた。
 朝抜きだったので、給食は美味しかった。だが、度々朝抜きされてしまったので、紀代は友達が残した分も食べることが多くなり、いつの間にか[大食漢]などと言うあだ名を付けられてしまった。紀代はそんなあだ名を気にせず、朝抜きの時はなるべく沢山食べた。

 夕飯も抜きにされることが多くなった。卵を使おうとすると、
「紀代の分はありませんよ」
 と意地悪され、夕方は振り掛けや佃煮、梅干で済ますことが多くなった。

 継子虐めはどこにでもあるものだ。紀代の虐められ方は食事や下着などの汚れ物の洗濯が主だった。辰仁と留美と久美が汚した下着や服は雅恵がちゃんと洗濯をして干しておいてくれた。だが、紀代のものはいつも弾き出して汚れたままだったから、自分で洗濯をして朝出がけに干した。昼間にわか雨があっても出しっぱなしだったが、紀代は気にもしなかった。

 普段に着る洋服が身体のサイズに合わなくなり、
「お母さま、あたしのも買って下さい」
 と頼んだが、
「そんなお金どこにあるの」
 といつも断られてしまって、ちんちくりんな物を着ていることが多くなった。仕方なく、紀代は解いて別の洋服と合わせてサイズを大きくしようとした。それで、ミシンを使うと、
「ミシンが壊れるから使っちゃダメ」
 と言われた。仕方なく手縫いを始め、ミシンの所から糸をもらうと、
「勝手に使わないで下さいな」
 と睨まれた。それで、小さくて着られない洋服を(ほぐ)す時丁寧に糸を抜き取り、その糸を使ってリフォームをした。学校に行くと、
「紀代ちゃんの洋服、変なの」
 と友達に笑われた。磨り減った靴もサイズが小さくなり穴が開いてしまった。工作の時間に使う接着剤で補修したが上手く行かなかった。それで、靴もゴミ捨て場に捨てられているまだ履けそうな物を拾ってきて使った。
 紀代が小学校の四年生の時だから、雅恵の継子いじめで付けられた心の傷は紀代の心の奥深くまで沁み込んでしまっていた。

 辰仁、留美、久美は月々二千円のお小遣いをもらっているらしかつた。だが、雅恵は紀代には一銭もくれなかった。だから文房具を買う金もなく、鉛筆やノートは使い古して捨てられたものをごみ箱から拾い出して使うしかなかった。

 ある日、その様子があまり可哀想で担任の教師に呼ばれて聞かれた。だが紀代は何かを言うと雅恵に報告されてまた叱られるので黙っていた。教師は家庭訪問の時に日ごろ気づいていた点を母親の雅恵に話した、すると雅恵は、
「月々二千円のお小遣いを渡しておりますのに、あの子何に使ったのかしら」
 とか、
「洋服はちゃんと買い与えても気に入らないと解いてしまうので困っていますのよ」
 などとしゃぁーしゃぁーと言ってのけた。そこまで言われると教師は反論のしようがないのだ。

 紀代は時たま父の辰夫に愚痴をこぼしたが、辰夫は、
「母さんに全部任せてあるから、母さんに相談しなさい」
 と取り合ってくれなかった。けれども、紀代はもう泣きじゃくる涙は涸れてしまっていた。それで、格好はどうでも、自分は人から見て可愛らしく見えるように振舞おうと毎日それをモットーに明るく生きようと決めていた。

十 思い出したくない日々 Ⅵ

 紀代のひどい格好や、粗末な文房具について学校の職員室で話題になった。教頭から指示があり、数名の若い教員が担任教師を中心に紀代のことで放課後に会議になった。そこで分ったことは、顔が似ていないので今まで気付かれなかったが一人の教師が三年生と二年生に妹が居ると報告して全員が知ることとなった。それで次の会議には三年生の秋元留美、二年生の秋元久美の担任も加わることとなった。

「へぇーっ? その三年の留美ちゃんと二年の久美ちゃんはいつもそんな贅沢な物を着てるの」
「そうなのよ。留美ちゃんはハローキティーが大好きらしくて、着てるものから靴や文具まで全部キティーブランドでね、うらやましがる生徒の親から苦情が来たほどなの」
「あたしは二年生の久美ちゃんの担任なんですけど、この子も凄いのよ。帽子からジャケ、トレーナー、ブラウス、スカート。パンツ、ソックス、シューズ、バッグや傘までさ、どこのブランドだと思う?」
「最近キッズブランド増えたからなぁ、何だろ」
「メゾピアノなのよ。あたし最初知らなくて、別の子のママに教えてもらったの。そのママが言うのね。あれを全部新品で揃えたら、上から下まで合わせて十万以上にもなるんですって」
「メゾピアノってナルミヤの?」
「そう、そうよ。ナルミヤ」
「最近はね子供ブランド。凄いんですってよ。一番人気があるのは今はラルフローレンですって」
「兎に角、二人とも下着まで同じブランドで統一してるのよ」
「それはすげぇこめらっこだな」

「なして紀代ちゃんだけあんな乞食みたいな格好してるんだべ」
「親は農家?」
「父親は会津一の小売業って言われてるスーパーアキモトのオーナーよ」
「喜多方と同じのか」
「そうよ。知らなかった? 今郡山に会津よりも大きい大型店を建設中なんですってよ」
「じゃ、金持ちだっぺ?」
「そう。地元じゃ相当の資産家らしいですよ」

「そんな所の娘の紀代ちゃん、確かに何かおかしいな」
「そう思うでしょ」
 紀代のみすぼらしい格好について全員疑問に思った。会議に集まった教員の中に加藤と言う男が居た。加藤はこれには何か裏の事情があると気付いていた。
「加藤君に調べていただいて、少し詳しいことが分ってからまた集まりましょう」
それで二回目の会合はお開きになった。

 加藤は生まれつきしつこいと言うか、何か疑問に思うと徹底的に調べないと自分で納得ができない性格だった。そこで、加藤は休日に喜多方市に出向いて、秋元家の家族関係について近所の聞き込みなどをして調べた。
「あんたさ、探偵か?」
 と言われたほどだ。
 加藤は秋元辰夫が社員の市川雅恵と不倫、怒った妻が離婚を迫り、離婚をして妻の由紀は東京に行ったきり帰らず消息不明、その後雅恵は辰夫と結婚して子供を引き取り、前妻の子供の辰仁と紀代、自分の連れ子留美と久美の六人で会津若松市で暮らしていることまで突き止めた。

「なんだ継子虐めじゃないか」
 三回目に集まった教員たちは口を揃えてそう言った。だが、雅恵の虐め方は巧妙で決め手がなかった。
 一般に子供を虐める、いわゆるDV(ドメスティックバイオレンス)は体罰を伴うものだ。だから、多くの場合身体のどこかに体罰を加えられた痕が残る。だが雅恵は体罰を一切与えずに、メンタル的なダメージを狙っていた。雅恵が紀代を虐める理由(わけ)は由紀に引っ叩かれて[泥棒]と罵られた恨みの仕返しだ。それで雅恵は紀代を心理的に徹底的に苛め抜くつもりだった。子供への虐めは体罰よりも心に深い傷を付ける方がずっと惨いことを知っていた。

 三回目の会議を終わって、結局市の児童相談所に話を持ち込むことになった。もちろん代表は加藤が引き受けた。

 親か親権者が自分の十八歳未満の子供を殴ったり蹴ったり、熱湯をぶっかけたり、良くあることだが、火が点いた煙草を肌に押し付けたり、寒い冬屋外に締め出したり、脚を吊り上げて逆さ吊りにしたりするのを[身体的虐待]、子供を裸にして写真やビデオを撮影したり、性器や性交を見せて辱めたり、子供に対してレイプをすることなどを[性的虐待]、着ている服や下着を長い間不潔にしたままほっといたり、重い病気に罹っていると知ってて病院へ連れて行かないとか、幼児だけを車の中に放置するとか、ちゃんとメシを食わせないなどを[ネグレクト]、子供たちの間で著しく差別的な扱いをするとか、子供が頼んでも冷たくあしらって希望に応えないとか無視したり、言葉で陰湿に脅したり、子供が見ている所で配偶者の片方に暴力を振るったりすることを[心理的虐待]と区分されていることを会議で話し合い、紀代の場合、[ネグレクト]と[心理的虐待]を受けていると通報することにしたのだ。

 会津若松市には一箕町に児童相談所があるが、他に市役所の児童家庭課、会津若松市少年センター、会津若松市教育委員会小中学校課、家庭児童相談室(女性児童課)、会津保健福祉事務所などの窓口があり、広域の窓口として児童相談所全国共通ダイヤルなどもある。会議の結果、加藤が会津若松市女性児童課(家庭児童相談室)を訪ねることにしたのだ。

 相談の結果、女性児童課の係員と教師の加藤が一緒に秋元家を訪ねた。玄関のチャイムを押すと、中から雅恵が顔を出した。要件を聞くと、雅恵は客間に二人を通して茶菓を出して、にこやかな表情で応対した。最初に加藤が概略説明をして、その後係員が詳しいことを次々と質問した。

「あらぁ、そんなことがありましたの? 紀代がいつも家を出る時は身奇麗にして明るくいってまいりますと言って出かけるものですから、あたし、お恥ずかしいですが、全く知りませんでしたわ。あの子どうしたのかしらねぇ、いつも可愛がっていますのに。子供たちの身の回りのものや必要な費用はもちろん全て母親のあたしが見ておりますが、他にお小遣いも下の子二人には月々二千円を持たせておりますが、紀代はお姉ちゃんなので三千円を持たせてますのよ。ですから、文房具などはあたしが揃えたものが気に入らなくとも、自分でも買えるはずですわね」
 雅恵の答えは全てこんな感じで係員もそれ以上突っ込んで聞き出すわけには行かなかった。

「身体的虐待や性的虐待ですと大なり小なり証拠が残っていますから、実態を掴みやすいのですが、紀代ちゃんの場合は難しいですわね」
 加藤に同行したベテランの女性の係員もお手上げの様子だった。
「兎に角、もう少し様子を見ることと一度紀代ちゃんご本人を役所の方にお連れ願えませんか」

 要は公的な家庭児童相談室で出来ることはここまでが限界だったのだ。加藤は何かがっかりしたと言うか虚脱感を覚えた。
「わたしはね、陰湿な継子虐めだと思っています」
 加藤は係員にそう呟いた。係員も歯がゆい顔をしていた。

十一 思い出したくない日々 Ⅶ

 紀代の担任教師は今年二十九歳になる檜山佳世子(ひやまかよこ)と言う女だ。檜山は地元の高校を卒業すると東京女子大に進み教師の資格を取ると地元に帰って小学校の教師になった。教師になってから既に七年が経ち、生徒の指導に自信を持てるようになっていた。だが、不幸と言えば不幸だが、過去七年間の教師生活でまだ一度も児童虐待問題に遭遇することがなかったのだ。だから、紀代のことでは檜山も毎日悩んだ。女の子も十歳にもなると急にお姉さんっぽくなる。綺麗な顔立ちの紀代が毎日ボロをまとって登校し、給食はガツガツと食べる様子を見ると、恐らく家庭では食事も衣服も満足に与えられていないように思えて、トイレに行くとしばしば可哀想で涙が出た。チビた鉛筆を大切に使っているのを見ると、つい、
「良かったらこれを使ってね」
 と自分の鉛筆をあげてしまう。鉛筆を受け取る時の紀代の嬉しそうな目を見ると、檜山は思わずその場でハンカチで目頭を押さえてしまうのだ。生徒をえこひいきしてはいけないことは分っているのだが、そうせざるを得ない自分の気持ちに抗えなかった。

 小学校教師加藤太市は東京の国学院大学を出て、檜山と同じで地元の先生になった。彼は体育の授業に力を入れているが、学校では風紀と児童の不良化防止の役目も引き受けていた。兎に角曲がったことが嫌いで指導は厳しかったが、反面優しい心を持っていて、生徒たちにも人気があった。

「檜山先生、紀代ちゃんのことですが、ネットで継子いじめの事例を色々と調べてみました。すると多くの場合、昼間仕事に出ている父親が実態を殆ど知らずに放置して、その結果虐めがエスカレートしている場合が多いそうです。どうでしょう、紀代ちゃんの学校での在りのままの姿を写真に撮って、一度紀代ちゃんの父親を会社と言うかスーパーアキモトの事務所を訪ねてお伝えして見たいのですが、ご協力願えませんか? 今の所、紀代ちゃんは不良化していませんが、そんな方向に転落するのは時間の問題のような気がしてるんですよ」
 加藤は担任の檜山にこんな風に話を持ちかけた。
「加藤先生、あたしも同じようなことを考えておりましたの。ご協力させて頂きますわ」

 檜山と加藤はこのことを教頭に報告して許可をもらった。万一秋元家と学校の間でトラブルになれば、組織として対応して行くことの大切さを二人とも常識としてわきまえていた。教頭は正義感を持ち生徒の間でも人気のある加藤を信頼していた。

 お天気の良い金曜日の放課後、檜山は紀代を職員室の隣にある会議室に連れて行った。
「紀代ちゃん、帰り仕度をして、お靴も持っていらっしゃいね」
 紀代は優しい檜山先生を信頼していた。だから、素直に檜山の言いつけ通り帰り仕度をして会議室に行った。加藤は覗き見をする生徒がいないか部屋の周囲を入念にチェックして、小さなデジカメを持って会議室に入った。そして、紀代の在りのままを出来るだけ分るようにして数枚の写真を撮った。

 翌日土曜日、加藤がA4の用紙にプリントをした紀代の写真を持って檜山に相談した。プリントの他にワープロで書いた説明が印刷されていた。
「どうだ?」
「あたしはとても良いと思います。ボロの靴とか、手縫いでつくろった洋服の感じ、とても分かりやすく撮れてますわ」
 檜山は手縫いでつくろったのは紀代が自分でやったことを紀代に確かめていた。それを聞いた時、檜山はまた涙が自然にポロポロ出て困ったほどだ。十歳の少女が着るものがなくて、一人で自分の洋服をリフォームしている様子を想像すると可哀想でならなかった。

「出かけましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
 二人はスーパーアキモトの会津若松店を訪ねたが、生憎秋元辰夫は郡山の新店舗建設現場に出かけていて留守だった。それで小さな応接室で一時間ほど待った。夕刻秋元が部下と一緒に戻ってきた。

「わざわざお越し頂いて」
 と秋元は汗を拭うと話を聞いてくれた。写真を見て檜山と加藤の話を聞いている間に、秋元は涙を流していた。
「そうか、全然知らなかったなぁ。紀代も家内も何も言わないから上手く仲良くやっているものとばかり思ってました」
 案の定仕事が多忙で秋元は全く目が通っていなかったのだ。更に児童相談所の職員が家庭訪問をした時に答えた内容と写真の現実のギャップが信じられないとも言った。

 その夜、秋元辰夫は厳しく妻の雅恵を叱った。だが、それが返って雅恵の継子虐めに火を点けてしまった。

十二 思い出したくない日々 Ⅷ

 雅恵が辰夫に叱られた腹いせに、雅恵は翌日の夕飯から紀代に食べさせないようにした。今までは夕飯だけは残り物を与えていたが、それも止めた。紀代は分っていた。学校の先生は紀代のことを思って、父親に話をしてくれたことも、父が義母の雅恵を叱る話を聞いて知った。紀代は先生たちが自分にとって余計なことをしてくれたとは思わなかった。あの優しい檜山先生がしてくれたことだ。だから、紀代は義母の仕打ちに我慢出来た。平日は学校給食があるから我慢ができたが、学校がお休みの日は食事をさせてもらえないので、空腹に耐えねばならなかった。どうしようもない時は水を飲んだ。

 だが、土曜日一日我慢できても、日曜日一日空腹でいるのは我慢ができなかった。それで日曜日、初めて父親が経営するスーパーアキモトの店に行ってみた。行って見て驚いた。美味しそうな惣菜、お寿司や海苔巻き、パンや麺類、何でも揃っていて繁盛していた。紀代の家では義母はあまり料理をしないと言うか母の由紀のように上手に作れないらしい。それで、いつも出来上がった惣菜が食卓に並ぶことが多かったが、どうやら自分の店から売れ残った惣菜を持ち帰ってくるらしいことが分った。

 紀代は美味しそうな巻き寿司を一パック手に取ると、周囲の人に気を付けながらトイレに入った。トイレに入るとパックを開けて巻き寿司をがつがつ食べた。食べ終わると、透明のプラスチックのパックを目立たないように便器の裏側にそっと押し込んで、トイレを出た。洗面器の蛇口を捻って水を出し、少し飲んで口を潤すと、何食わぬ顔でトイレを出た。お腹が少し満たされた所で、紀代は手ぶらでスーパーを出た。誰にも咎められることはなかった。

 こうして、学校が休みの日には、お腹が空くと紀代はスーパーに行って、トイレで食べた。そんなことが習慣になってしまうと、次第に罪悪感が後退して、二ヶ月も経つとごく自然に店頭で好きな果物や弁当を取り、トイレでゆっくりと食べた。ここに来ればお金がなくても好きな物をいつでも食べられるのだ。スーパーを出る時はいつも手ぶらだから、万引きで取り押さえられることはなかった。

 紀代は店内を見て回る間に、スーパーの試着室は場所により殆ど店員が見ていないことを発見した。それで。一度可愛らしいショーツを一つ持ってきて、試着室で値札を取って今履いているショーツの上に重ねて履いて試着室を出てみた。階段脇のごみばこに値札を捨てて、紀代はいつものように手ぶらでスーパーを出た。後を追って来る者は誰も居なかった。それが上手く行くと、同じ方法でTシャツ、下着、レギンスなど欲しいものを持って試着室で値札を取って着てから手ぶらでスーパーを出た。毎回一点か二点にして欲張らなかったせいか、一度も見付かることがなかった。

 雅恵は紀代が着ていた物を洗濯してやることはなかった。だから紀代が新しい下着を干していても気付かなかったし、妹二人の物はブランド物で安物はなかったから、間違えて紀代の下着や洋服を妹の衣装箪笥にしまってしまうこともなかった。毎朝学校に行く時も、休日に出かける時も紀代はほったらかしにされていたから、着ている物が少し変っても義母の雅恵に気付かれることはなかった。

 会津若松は少し歩くと直ぐに郊外にでる。そこには蕎麦畑、田んぼ、野菜畑が広がっていた。畑の小道を歩くと色々な可愛い草花に出会えたし、広い庭や畑の脇に花を植えている農家も沢山あった。そんな時の紀代は明るい表情で日焼けして野性的な美しさがあり、毎日継子虐めをされている少女の面影はなかった。畑の中の道を歩いていると、間引きした菜っ葉や規格外の大根や里芋などが無造作に捨てられていた。いつも腹を空かせている紀代は[食べられるのにもったいない]と思った。それで農作業をしているおじさんやおばさんに断って要らない物をもらって持ち帰ってサラダにしたり、野菜炒めにしたりして食べた。雅恵は気付くと邪魔をするから、なるべく雅恵のいないときに調理をした。そうして農家のおじさんやおばさんと何度も会う内に可愛がってもらうようになり、紀代の顔を見ると色々な物をくれたりするようになった。ある時、庭で鶏を放し飼いしている農家のおばあさんと出会い、仲良くなった。すると、おばあさんは会う度に卵を二個か三個持たせてくれた。うさぎを飼っていて、農道で拾い集めた野菜を持って行って食べさせると良く食べてくれるので、可愛いうさぎの世話が楽しみになったりした。

 紀代は義母の雅恵に食事をさせてもらえなくても、空腹を感じることがなくなった。自然に生きる(すべ)を身に付けはじめていた。農家のおばあさんの仕事着のほころびを直してあげると、手間賃だと言って三百円とか五百円をくれたりもした。自分で作った巾着袋を持っていると、同じものを作ってくれと言うおばさんがいて、手間賃をくれたりした。紀代は頂いたお金は無駄遣いをせずに貯めておいた。

 悪いことは長続きしないものだ。スーパーアキモトの盗み食いはちょっとしたことでバレてしまった。トイレを掃除に来たオバサンが時々便器の後に包装用パックなどが押し込まれていることを管理人に報告したのだ。それで、スーパーでは会議があり、万引き防止専門の係員が重点的にトイレを監視始めたのだ。係員は男も女も居た。特に女性用のトイレには男は踏み込めないので、そこは女の係員が監視をした。

 ある日曜日、女の係員は紀代が惣菜パックとおにぎりパックを持ってトイレに入り、出て来る時は手ぶらなのを確かめて、
「ちょっと、おじょうちゃん」
 と声をかけた。紀代が逃げて走り出した先に男の店員が大きな手を広げて待ち伏せしていて、捕まってしまった。

 事務室に引っ張られて行って、
「やったことを正直に言いなさい」
 と睨みつけられた。だが、紀代は口を真一文字に閉じて何も言わなかった。

十三 思い出したくない日々 Ⅸ

「この子、しょうがないわねぇ。学校とか、お家とか言わないなら警察に連絡しますよ」
 紀代に質問をしていた女性は四十歳半ばの店内警備に当たっている者だった。紀代は尚も口を一文字に閉じて、何も言うまいと頑張っていた。入り口からおめかしをした四十代前後の婦人が入ってきた。秋元雅恵だった。 事務員たちは皆立ち上がって丁寧に頭を下げて挨拶をした。
「村瀬君、社長は? また郡山?」
「はい。朝ちょっと顔を出した後、直ぐに出かけられました。今夜も帰りは遅いそうです。何かご伝言あります?」
 村瀬は今年丁度四十歳になる男で社長の片腕として管理部長をしていた。秋元社長とは仕事だけの付き合いで、家族と言えば奥さんの雅恵と喜多方に居る社長の実父の辰吉くらいしか顔を知らなかった。
「そう? ありがとう。特に伝えて欲しいことはないわね。あたしは帰りますが、あっ君、ちゃんと従業員の指導をしてますか?」
 あっ君と言うのは雅恵が結婚をして仕事から手を抜く時に雅恵の後任として社内から引っ張った及川敦(おいかわあつし)と言う青年だった。

 出入り口付近から雅恵の声が聞こえて、皆が立ち上がった時、紀代は机の陰に咄嗟に身を隠した。それで、雅恵が立ち去るまで気付かれることはなかった。
 雅恵が出て行くと、
「最近奥方、一段と綺麗になったなぁ」
「あら、最近のアラフォーは女にとって一番魅力のある年代ですよ」
「色気も備わって」
別の女が同意した。
「ほら、あたしだって」
 三十代後半の事務員の秀子がしなを作っておどけたので、皆どっと笑った。事務室の中ではしばらくそんな冗談が飛び交っていた。
 と、紀代を取り調べていた青年が、
「あれぇーっ、逃げられちゃったよ」
 と大きな声を出した。どうやら雅恵に皆が気を取られ、その後しばらく談笑している間に、机の陰に隠れていた紀代はもう一つの出入り口から逃げ出してしまったらしい。

 一同は紀代の存在を全く忘れていたことに気付いて、
「いけないっ、どこに行っちゃったんだろ」
 と手分けをして後を追いかけたが、紀代の姿はどこにも見付からなかった。

「やべぇ、警察に連れて行かれなくて助かったな」
 スーパーの広い駐車場を抜け出て外に逃げ切った紀代はその足で、いつも可愛がってくれる農家のお婆ちゃんの所に行った。お婆ちゃんの家は辻本でお婆ちゃんの名前は[なつえ]と言うらしいがどんな漢字なのかは知らなかった。紀代は最近はすっかり孫娘のように懐いて、
「なつえ婆ちゃ、なつえ婆ちゃ」
 と甘えた。なつえはそんな紀代が可愛くて仕方がなく、今では顔を見せない日は寂しい気持ちになっていた。

「紀代や、はらへってねぇが?」
「ん。はらくっち。ほらっ」
 紀代はお腹を突き出して見せた。先ほどスーパーのトイレで腹いっぱい食べてきたから、今日は満腹だった。
 紀代は畑の道の脇から菜っ葉を取ってきて、可愛がっているうさぎにやった。近頃ではうさぎも懐いて、紀代が餌を持っていくと、前足を上げて背伸びをする格好で餌をねだった。紀代は、こんな時が一番幸せだった。うさぎは白いのが二匹、褐色のが一匹居た。

 兎は猫のように長い髯がある。紀代は白いやつの長い髯をそっと撫でてから、耳を持って囲いから取り出して別の囲いに入れた。
「こい、こいっ」
 他のも手元に呼んで耳を持って別の囲いに移した。元の囲いの中には豆ころのような糞が沢山溜まっていた。紀代は箒と熊手を納屋から持ってきて綺麗に掃除をすると糞を庭先の畑の脇に捨てて、移した兎たちをまた元の囲いの中に移した。

 兎の世話が終わると、庭じゅうにあちこち散らかっている鶏の糞をかき集めて、それも畑の脇に捨てた。鶏小屋の中も綺麗に掃除をしてから、なつえに教えてもらった通り、菜っ切り包丁で菜っ葉を細かく刻み、石の上で細かく砕いた帆立貝の殻を菜っ葉に混ぜて、鶏の餌を作り、餌箱に入れてから、
「コッコッコ」
 と鶏たちに声をかけると鶏たちが餌箱の周りに集まってきた。ちょっと大きな雄鶏が一羽、他は雌鳥が二十羽くらい居た。
 兎と鶏の世話が終わると、なつえがお茶と草餅を出してくれた。紀代はなつえにもたれかかって草餅を食べた。口の中に甘い餡子が一杯になった。

 辻本家には四十歳を少し過ぎた息子の一郎と一郎より二つ年下の妻のみねがいた。みねは子供が出来ないらしく、辻本の家には子供が居なかった。だから、一郎もみねも紀代を自分達の子供のように可愛がってくれて、みねは時々紀代を一緒にお風呂に入れてくれた。みねは紀代のみすぼらしい格好を見て、最近では時々ワンピースやスカート、パンツなど可愛らしいのを買ってくれたりもした。

 辻本家に可愛がられ大事にしてもらっている紀代は、辻本の家に泊めてもらうことはなかった。一度無断で友達の家で外泊をしたことがあったが、その時、雅恵にこっぴどく叱られたためだった。

 紀代が時々卵をもらってきたり、最近は新しい洋服を着て帰ってきたりする。雅恵は紀代がどこかで盗みをしているのではないかと思った。それで、紀代が休日出かけた時、雅恵は見付からないように用心しながら紀代の後をつけた。

十四 思い出したくない日々 Ⅹ

 紀代に食事を与えなくなってから、もう二ヶ月以上も過ぎているのに、紀代があまり(こた)えていないことに雅恵は不思議や驚きを通り越して、最近では紀代のしぶとさと生命力に不安と恐れさえ感じていた。
 朝食も夕食も抜いたら、最初のうちは見ても明らかにひもじい思いをしている様子で、雅恵は近いうちに反省して自分の前に跪いて許しを乞うだろうと思っていた。だが、紀代は夕方になると、どこからか野菜や里芋、(さや)いんげんなどを持ってきて、台所で自分で炒め物や煮物を作った。雅恵は料理が得意でなかったから、紀代に教えた覚えはない。きっとあの憎らしい由紀に教えてもらったのだろう。夕方紀代が台所に立つと、まもなく美味しい匂いが漂い、居間の方にも流れて来た。最初は母親の顔色を窺っていた娘の留美と久美は今では、
「お姉ちゃん、美味しそう」
 と台所に入りお裾分けをもらっている。
「留美と久美にもあげるからさぁ、あんた達のご飯をお姉ちゃんに少し分けてよ」
「いいよ。あげるからそれ食べさせて」
 それで最近紀代と娘たちの間でご飯とおかずのバーター(物々交換)が始まった。そんなことが始まった時、さすがに雅恵は許せなくて、娘たちを叱った。だが殆ど毎日スーパーの売れ残りの惣菜を食わされている留美と久美が新鮮な野菜で作った美味しそうなおかずを欲しがるのを止められなかった。紀代は留美と久美から牛乳をもらうとデザートまで作って三人で分けて美味しそうに食べた。雅恵は料理をしないので調味料は塩、砂糖、醤油くらいで他に味噌がある程度だ。だが、紀代が自分で調理をするようになってから、びっくりするほど色々な調味料が増えていた。
「どこから手に入れてくるんだろう?」
 それも不思議の一つだ。
「きっとどこからか盗んできた物に違いない」
 雅恵はそんな風に思っていた。

 着ている物だって、虐めを始めた最初の内は、幼児の頃着古した洋服を解いて今の自分のサイズに合うように手縫いで上手にリフォームをして着ていた。靴もどこかで拾ってきた物を履いていた。それなのに、近頃は時々新しいワンピやTシャツを着て帰ってくる。
 紀代は再婚して雅恵が預かった頃から脚がすらっとして長く、同学年の児童の間では背が高い方で器量も良い。だから、最初はみすぼらしい乞食のような格好をしていたが、見方によってはわざと一九八〇年代に大流行したプアルックでまとめているようにも見えるのだ。
 そんなだから、紀代は学校では決して虐められることはなく、今では紀代のファッションに憧れて真似をする子も現れた。真似をして登校した子の親から苦情が持ち込まれるほどだ。

 そんなこんなで、雅恵は日常自分の目が届かない紀代の行動に疑問を持った。雅恵の心の中では紀代は相当に非行に走っているのではないかと思っていたのだ。

 田舎道を紀代は草花を見たり田んぼの畦道を突っ切ったりしながらゆっくりと歩いていた。その姿はとても楽しそうに見えた。田舎道では視界を遮る物が少ない。仕方なく、雅恵は遠く離れて紀代の後を追っていた。

 人には第六感があると言われている。学問として科学が進歩した現代でも、解明されていない鋭い勘だ。それは遠く離れている母の死を予感したり、二股に差し掛かってたまたま選んだ道が災難を避ける方の道だったりするのだ。多くの人々がそんな経験を持っている。

 雅恵の尾行を紀代はその時予感して振り返った。雅恵の尾行は今までに一度もなかったことなのに、神様が教えてくれたとしか言いようがない不思議な予感だった。
 紀代が振り返った遥か後方に、確かに雅恵と思われる人影が見えた。紀代は自分の予感が的中したと思った。

「どうすべか?」
 紀代が雅恵の尾行を振り切る方法を思案していると、農道の前方から軽トラが土煙を上げて走ってきた。見ると、いつも野菜くずをもらっているおじちゃんだった。紀代が手を振ると、軽トラは停まってくれた。
「おぅ、紀代でねが?」
「んだ、のっけてくなんしょ」
 軽トラのおじちゃんは目で助手席を指した。紀代が乗り込むと、軽トラは紀代が歩いて来た方向とは逆に走り出した。
「どこさいくべ?」
「もりとこのおばちゃんのややこ見るだ」
「もりとこは真直ぐ行っで、左さむずってすぐの家だべ」
「んだ」
 おじさんは農作業で多忙な森家の赤ん坊を紀代が見ると聞いて、偉い子だと思った。

 農家のオヤジと紀代が笑いながら軽トラに乗って前を通り過ぎるのを雅恵は悔しそうに見送った。すれ違いざま、紀代の目がちらっと雅恵を見た。雅恵は両手を広げて軽トラを停める勇気はなかった。通り過ぎた後、軽トラが巻き起こした土煙の中で雅恵は自分の尾行が失敗したと悟った。

「今日はなんも予定が入っとらんなぁ」
 日曜日、その日は朝、辻本の家の兎の世話を終わると、紀代は珍しく一日することがなかった。それで、昼過ぎに久しぶりにスーパーアキモトに行って、前にやっていたトイレに商品を持ち込んで盗み食いをした。

 だが、店内監視係りの女は紀代の顔を覚えていて、密かに紀代の後を追った。案の定、紀代はトイレに寿司や鶏のから揚げを持ち込んで食べ、食べ終わると何食わぬ顔でトイレから出てきた。トイレを出た所で女は紀代の腕を掴むと直ぐに連絡を入れて、そのまま警察に突き出してしまった。パトカーに乗せられると紀代は警察に連行された。

 非行防止担当の係官は紀代に色々質問をしたが、前と同様に紀代は口を一文字にして一言も口をきかなかった。係官は持ち物を調べたが、ポケットに小銭が入っていただけで、身元も学校も全く分らなかった。相手が子供だから無茶な取調べは出来ない。それで、係官もどう対処すれば良いのか途方に暮れてしまった。

十五 思い出したくない日々 ⅩⅠ

 二十歳未満の少年少女が犯罪を起こした場合、成人の取扱とは別の取り扱いとなる。十四歳以上の場合には、家裁とか少年鑑別所送りとするのだが、見た所、少女は十四歳未満と思われた。警察署の青少年非行防止担当の係官は。紀代が黙秘をして何も話さないので、児童自立支援施設に送る手続きに入った。児童自立支援施設は昔は感化院とか教護院(きょうごいん)と呼ばれた施設で、犯罪を起こしたとか非行をしたとか、そう言う恐れがある児童とか、家庭環境等が悪くて生活指導をしてやらなきゃならない児童を入れる施設だ。ここで指導をして自立を支援する仕組みになっているのだ。余程の非行を繰り返す子供でなければ縁のない施設だから、子供を持つ親でもこんな施設を知らない者は多い。

 福島県内の児童自立支援施設は郡山から一つ東京寄りの須賀川市にある福島県立福島学園だ。児童とは言え、途中事故でもあると始末が悪いので当然ながら係員が付き添いで護送をしなければならないので手間がかかる。

 紀代を脇に立たせて、入所の依頼書を作成していた警官の背後で、
「あれっ、紀代ちゃんじゃないか。どうして警察に居るんだ」
 と声がかかった。紀代が振り向くと、加藤太市が立っていた。
「あっ、加藤先生、いい所で会いました。困ってるんですよ」
 紀代と同時に振り向いた警官は加藤を良く知っていた。

 加藤は各学校の非行防止担当者の横の連絡会議があって、警察にやってきていたのだ。
「今日は会議ですから、終わったら寄ります」
「僕はこの子との付き合いで会議に出られないんですよ」
 警官は苦笑した。

 「へぇーっ、なんだスーパーアキモトのお嬢さんかぁ。おかしいな、なんでスーパーアキモトが社長の娘さんを突き出して寄越したんだろ」
 警官は加藤から紀代について詳しく聞かされて疑問に思った。
「普通はありえないですよね」
 と加藤も首を傾げた。
「そうですよ、自分の店の物を盗んだと言って、それを知った親が警察に自分の娘を突き出すなんて、余程のことでもなければ考えられないですよね」
 と警官も同意した。

 加藤の話を聞くと、どうやら家庭内で児童虐待があるらしいことも分り、スーパーアキモトから通報してきたスーパーの担当者に照会するのはまずいと思われたのでここは加藤と相談をしてどうするか決めることにした。多分担当者は紀代が社長の娘さんとは知らなかったのだろうと思われたからだ。だから、ことを大きくすると、通報してきた担当者は社内の立場が悪くなる可能性だってあるのだ。

「児童虐待ってのは始末が悪いんですよ。児童虐待は勿論刑法で定められた犯罪なんですがね、明らかな証拠があれば引っ張れますが、証拠がいま一つはっきりしない場合は起訴が難しいんですよ」
「僕も今まで色々調べてみましたが、難しいみたいですね。身体的虐待とかレイプなら分り易いですが、紀代ちゃんの場合、親のネグレクトとか心理的虐待をされているようで、はっきりとした証拠がつかめません」
「ですよね。どうでしょう、母親の秋元雅恵さんを参考人として呼んでみましょうか?」
「参考人とは良い考えですね。それだったら本人も供述し易いでしょう」
 警官と加藤先生が協議をして、明日雅恵を警察に呼ぶことにした。

「加藤先生、紀代ちゃん、どうしますか?」
「あ、特に問題がなければ私が引き取って連れて帰ります。彼女とも話しがしたいですし」
「助かったなぁ。福島学園送りの手続きをする所だったんですよ。スーパーの商品を窃盗したと言っても元々お父さんが経営している店のものですから、娘にやったんだと言われたら窃盗罪なんて成立しませんからな」
 警官はやれやれと言う顔で加藤に、
「後をよろしく」
 と頼んだ。

 加藤は紀代とタリーズコーヒーでお茶しながら、紀代の気持ちを聞いてみた。紀代は優しい加藤には心を開いて色々話をしてくれた。話を聞いている内に加藤は何とか紀代の力になってやりたいと思った。

 翌日秋元雅恵に警察から
「参考にお聞きしたいことがありますので」
 と電話が来て、雅恵は警察に向かった。警察に着くと粗末な内装だが、応接室に通されて、雅恵は係官の質問に答える形で話し始めた。雅恵はそこで意外な話を始めた。

十六 思い出したくない日々 ⅩⅡ

 参考人として出頭を命じられた秋元雅恵は、警察署の非行防止担当官の質問に答え始めた。
 紀代は加藤先生と隣の部屋から義母の雅恵と担当官の話を傍聴していた。雅恵の部屋からは紀代達は見えない。紀代の所には加藤先生とは別に刑事も同席していた。

「秋元雅恵さんですね」
「はい」
「確か秋元さんはスーパーアキモトの社長さんと再婚されたんですよね」
「はい」
「紀代ちゃんはあなたが産んだ娘さんですか」
「いいえ、秋元の前妻の子です」
「そうですか。継子と言うことですね」
「刑事さん、あなたあたしが継子虐めをしていると決め付けているんじゃないですか」
「とんでもない」
「でしたらいいんです」
「お子様は全部で何人?」
「紀代の上に長男が居ます。下には娘が二人です」
「下の娘さんも前妻のお子さんですか」
「いいえ」
「では、長男の方と紀代ちゃんが継子で、下の二人は連れ子さんですね」
「はい」
「ご自分の娘さんの方が可愛いでしょ?」
「当たり前じゃないですか。でも、それってあたしが紀代と自分の娘を差別していると言わせたいのと違いますか」
「えっ? そんなこと聞いていませんよ。差別されているんですか」
「刑事さん、あんた憎たらしい言い方をなさいますね」
「別に……」
 刑事は苦笑した。

「わたしどもで調べさせてもらった所、今のご主人の前妻との間で離婚が成立するずっと前からあなた秋元さんと不倫の関係にあったそうですね」
「はい。それは認めます。ですが、刑事さん、聞いて下さい。あたし、何も好き好んで秋元と不倫をしたわけじゃないんですよ」
「えっ? そうだったんですか」
「あたしはずっと東京に出てましたから会津若松に戻ってくるまで主人のことは何も知りませんでした」
「そのようですね」
「実はあたしの弟が秋元に借金をして返せなくなってまして、あたしがこちらに戻った時、弟はしょっちゅう貸した金を返せと秋元から脅されていました」
「どれくらい借りてたんですか」
「約二千万です」
「大金ですね」
「はい。主人は(たち)の悪い仲間を使って、そいつらがあたしの実家に乗り込んできて乱暴をするものですから、あたしの両親も怯えてどうにもならなかったんです」
「弟さんはそんな大金を何に使ったんですか」
「自分の店を持つ資金として借りたようです。でも」
「でも?」
「二千万では少し足りなくて、新潟の弥彦競輪に通って増やそうとしました」
「それが上手く行かなかったんですね」
「はい。最後はすっからかんになって、借金だけが残りました」
「それでどうなりました?」
「どうしても返せないなら、あんたの身体で返せとあたしに脅しをかけてきました」
「それをOKされたんですね」
「はい。あたしが秋元の言うなりになれば弟の借金をチャラにしてやると言われて」
「で、どうなさいました」
「秋元が会社を手伝えと言うので会社の手伝いを始めました。でも毎晩秋元に身体を求められて、その頃はあたし、毎日地獄でした」
「警察には届出なかったんですか」
「はい。当時は怖くてそこまで気が回りませんでした」
「秋元さんの離婚で何か聞かれてますか」
「秋元の前妻は嫉妬深い方で、あたしとの関係を窺って、何の前触れもなく会社にやってきました。あたし、気を付けていましたが、ある晩、とうとう不倫の現場を見られてしまいまして」
「そんな方なら怒ったでしょ?」
「それはもう。あたし、生きた心地がしませんでした。あたしの髪の毛を掴んで押し倒して殴る蹴るの仕打ちです。もう恐ろしくてあたし、いっそのこと死のうかとも思いましたのよ。今思い出すと生き地獄でした」
「それで前妻の方はご主人と離婚されたんですね」
「いいえ」
「帰り道待ち伏せされまして、連れてきた若い男に殴る蹴るばかりでなくて、レイプと言うか彼女の目の前で回されて。思い出すとぞっとします」
「ご主人はそのことをご存知でしたか?」
「はい。度々やられましたので、その都度言いました。でも」
「でも?」
「主人は、お前は借金のかたに、オレが貰い受けた(もの)だから、それくらい我慢をしろと言いました」
「じゃ、ずっと我慢されてたんですね」
「はい」

 加藤は自分の知らない意外な話しに驚いていた。加藤は雅恵の作り話だと思ったが、それにしても小説になるような内容で、紀代と雅恵とどっちが正しいのか混乱していた。更に、話しが大人の話しになったので、加藤ははっとして、紀代を話が聞こえる所から遠ざけた。紀代は相変らず口を一文字に閉じて耳を立てて聞こうとしていた。

「では離婚されたのは?」
「あたし、やられてばかりでは悔しいですので、ある日自宅に押しかけて行きまして、そこで仕返しをしました」
「やはり殴る蹴るをされたんですか」
「いいえ。そんな程度じゃあたしの気持ちが治まりません」
「ではどんな風に仕返しをされたんですか」
「あたし、弟と弟の友達を連れて押しかけて、彼女の手足を縛り上げて、弟たちに虐めさせました」
「と言うとレイプ?」
「はい。淫らな写真を沢山撮って、今度あたしをやったらインターネットで公開すると脅してやりました」
「それで?」
「その脅しが効いたのか、それ以降あたしに乱暴をしなくなりました」
「その時の写真、まだ持ってますか」
「もちろんです。彼女の脅しから守る御守みたいなものですから」
「見せて頂くことは可能ですか」
「はい」

 加藤はそこまで傍聴して、物事は双方の立場から聞いてみないと何が正しいのか分らないものだと思った。継子虐めと言う先入観で、雅恵を一方的に悪者だと思って居たが、頭の中が混乱していた。

十七 思い出したくない日々 ⅩⅢ

 秋元雅恵に対する警察署の非行防止担当官の事情聴取は続いていた。
「それで、離婚話が持ち上がったのは先方からですか? それともご主人から?」
「あたしに敵わないと思ったのかどうかは知りませんが、前妻の由紀さんの方から慰謝料を出せと言ってきました」
「ご主人は応じられたわけですね」
「はい。再婚前なので詳しくは知りませんが、家裁で簡単にけりがついたようでした」
「離婚後直ぐに再婚されたんですか」
「いいえ。最初、しばらくの間子供たちは実家で面倒を見てましたから、秋元は若松に単身でいました。それで、食事や洗濯を時々秋元の家に行って手伝ってあげました」
「じゃ、その後自然に再婚に至ったわけですね」
「はい」
 ここで、担当官は冷めたお茶をすすった。

「今までの秋元さんの話が本当なら、憎い前妻のお子さんを引き取るなんて普通では考えられませんね。それでも引き取ったんですか」
「あたしは娘しかおりませんから男の子が欲しかったですし、主人も跡継ぎが欲しいと言いますから引き取りました。長男の辰仁だけ寄越せと言うわけには参りませんから、二人とも引き取りました」
「それじゃ、紀代ちゃんは憎いのと違いますか」
「刑事さん、聞いて下さい。普通は憎らしいですよね。ですから、虐めてもおかしくはないですよね」
「常識的には虐めがあっても不思議じゃないですね」
「そうなんです。あたし、そんな世間の目があるってこと分ってますから、子供たちを引き取ったら絶対に可愛がって世間の人が思う通りにはしないつもりでした」
「つもりと言うと? やはり虐めずには居られなかったのでしょ」
「刑事さん、どうしてあたしが虐めたと言う方に話を持って行くんですか? あなた、先入観で言ってもらっちゃ困りますよ」
 雅恵はキッと刑事を睨み付けた。
「先入観でものを言ってませんが」
「言ってます。言ってますよ」
 雅恵は目を吊り上げていた。かなり興奮している様子だ。
「刑事さん、あたし、本当に紀代を可愛がってますよ。着る物や食事だって、自分の娘より良くしてますのよ」
「信じられんなぁ」
「何を根拠にそんな風に言われるんですか?」
「いやね、学校で皆が紀代ちゃんをどんな風に見ているか分ってますか?」
「スーパー秋元の愛娘で贅沢な暮らしをしていると見られてると思いますが」
「それは全然違います。紀代ちゃんの学校の非行防止担当の加藤先生が皆さんに乞食みたいで可哀想だと言われていると言ってますよ」
「まさか。先日担任の先生の家庭訪問がありました時も同じような話を聞かされて、あたし驚いてますのよ。主人からも学校で撮った写真を見たと言ってひどく叱られましたが、あたしは信じられませんでしたのよ」
「学校に授業参観に行かれたことはないのですか」
「いいえ。ありません。いつも紀代が来なくてもいいって言うものですから」
「下の二人の娘さんは?」
「下の子たちの授業参観は必ず行ってます」
「そりゃ、可笑しいですね。紀代ちゃんが来なくてもいいと言っても、母親なら普通は我が子の学校での様子を知りたいんじゃありませんか?」
「知りたいですけど、紀代が頑なに来るなと言うものですから」
 担当官は少し言い訳に無理があるように感じた。

「紀代ちゃんがみすぼらしい格好をしていて、食べる物も家では与えていない様子だと言う話も聞いてますが?」
「そんなことウソですよ。家を出る時はいつも綺麗な洋服を着せて出してますよ」
「お小遣いはあげてますか」
「もちろんですよ」
「月々どれくらい?」
「三千円よ。下の二人は二千円」
「可笑しいな」
「何がですか?」
「三千円もあれば、鉛筆や消しゴムくらいは買えますよね」
「そりゃ買えますが、文房具はあたしが必要なものを買って与えてます」
「変だなぁ」
「刑事さんこそ、変なことを言わないで下さい」
「担任の先生の話ではいつも鉛筆はチビたのを使っていて、それもゴミ箱から他の生徒が捨てたものを拾って使っているそうで、見かねた先生が自分のをあげることもあるそうですよ」
 これには、雅恵は答えなかった。担当官は話を変えてみた。
「紀代ちゃんは普段食事を沢山食べますか? 下の娘さんと比べて」
「そうねぇ、少し多く食べるかしら。でも特別に多いと言うほどじゃないですわね」
「そりゃ可笑しいですね」
「何が可笑しいのですか」
「紀代ちゃん、学校でどんなあだ名が付いているか知ってますか」
「さぁ?」
「大食漢ですよ」
「えっ、どうして大食漢?」
「毎朝お宅で朝ご飯を食べさせてもらえないそうで、給食を友達の残した分までもらって食べているようです」
 雅恵はそれ程驚いた様子でないことに担当官は何か可笑しいなと思った。だが、質問を続けた。
「何か心当たりはありませんか」
「そう言えば時々朝は食べたくないと言って朝抜きで登校する日があります。そうだったんですか? あたし最近何となく疑問に思っていることがありますのよ」
「どんなことですか」
「あたしが最近感じてますのは、前妻が恨みを晴らすために、どうやら紀代を利用してあたしと主人が困るようなことを仕掛けているんじゃないかと思いますの」
「どうしてそう思うのですか? 例えば紀代ちゃんが前妻の由紀さんに頻繁に会っているとか、そんな証拠があるんですか」
「会っている所はまだ押さえてませんが、最近買ってあげてない新しい洋服や下着を着て帰ってきたり、家には置いてない調味料を持ってきたりしますの。おかしくありません? 月に三千円しかやってないのにですよ」
「それを由紀さんからもらったものと思っているんですね」
「はい。他には考えられませんから」
 窓の外はもう薄暗くなってきた。それで、担当官は今日の所は話を切り上げることにした。

「奥様、お疲れ様でした。また日を改めて話を聞かせて下さい」
「はい。あたしならいつでも構いませんよ。在りのままをお話ししているだけですから」

 担当官との長い話し合いは終わった。雅恵が帰り仕度をしている時、隣の部屋で刑事と加藤先生と一緒に話を聞いていた紀代が、初めて真一文字に閉じていた口を突然開いた。
「義母さんのウソ付き。ウソばっかりしゃべって……」
 加藤と刑事はぎょっとして紀代を見た。紀代の目から一筋の涙が零れ落ちていた。

十八 思い出したくない日々 ⅩⅣ

 警察に参考人として出頭以来、雅恵は紀代を今までより厳しく虐めてやろうと思っていた。
 そんなある日、紀代が学校から帰ると、
「お母さま、来週の金曜日、学校でピクニックに行くんですって」
「そう? 良かったわね。楽しみよね」
「ん」
 紀代は言うまいか言わずに黙っているか迷っていた。
「紀代も行くんでしょ?」
「ん。行きたい」
「じゃ、行ってらっしゃいよ」
「ん」
「何か他に言うことあるの?」
 紀代は思い切って言った。
「あのぅ、先生が交通費を持って来なさいって」
 言ってしまうと紀代は何だか胸がすっとした。
「えっ?」
「交通費千五百円、明日集めるんですって」
「あら、そんなお金ありませんよ」
「うちは貧乏なの?」
「貧乏じゃないけど、あなたにあげるお金はないの」
「どうして」
「そんなお金、どこから出てくるの? 紀代のはありませんよ」
「そんなぁ」
「お黙りなさい。いつも遊んでばかりで家のお手伝いをしない子には出せませんよ」
 紀代はまたかと思った。そう言われると思った通りだ。それで、紀代はそれ以上何も言わなかった。

 翌日ピクニックの交通費の集金があった。
「秋元さん、忘れたの?」
 担任教師の檜山佳世子は紀代の分が出ていないので聞いた。
「あたし、行きません」
 紀代が泣きそうな顔で答えた。
「そう?」
 檜山は周囲に生徒が居るので、その場はさらっと言ってから授業に入った。

 授業が終わって、紀代が帰ろうとすると、担任の檜山に呼び止められた。
「秋元さん、ちょっと職員室に来てちようだい」
「はい」
 紀代は檜山の後について職員室に行った。
「ピクニック、紀代ちゃん、行きたいんでしょ」
「はい。でも……」
「お母さんに交通費のこと、お話ししたの」
「はい」
「分ったわ。じゃ、先生が交通費は何とかしますから、ご一緒に行きましょうね」
「はい」
 紀代が少し嬉しそうな顔をしたので、檜山はほっとした。

 ピクニックは会津若松からバスで天元台高原まで行く予定だった。天元台高原は福島県と山形県の県境に連なる吾妻連峰の西吾妻山の山麓にある高原で見晴らしが良くこの地域の観光地になっている。近くに泉質の良い白布温泉があり、白布温泉の湯元からケーブルカーで高原まで登るのだ。コースは会津若松から裏磐梯に出て、そこから桧原湖畔に沿って走るので四季を通じて景色の良い所だ。
 当日は各自スケッチブックとクレヨンとお弁当だけ持参することになっていた。紀代はスケッチブックを持っていなかったが、新聞の折込広告で裏に印刷がないパチンコ屋の広告などを大切に保管していたので、それを使うことにしていた。クレヨンは幼稚園の時、実母の由紀が沢山買ってくれたのを今も大切に使っていた。

 ピクニックに行く当日、紀代は早起きをして自分の弁当を作った。料理は得意だから、前日までに畑のわき道で拾ったり農家のおばさんにもらった食材を貯めておいたのでそれを使っておかずを作った。

 弁当は良く冷ましてから蓋をしないと腐り易いと母の由紀から教わったので、綺麗に作り終わると、テーブルの上に蓋を閉めずに置いた。
 いつもの時間に起きてきた留美と久美が美味しそうな匂いをかいで、テーブルの所にやってきた。
「お姉ちゃん、美味しそう」
「綺麗なお弁当だぁ」
「あたしのお弁当は摘まんじゃだめよ。留美と久美の分もあるから、後で食べてね」
 紀代はそう言い残すと自分の部屋に行って仕度を始めた。仕度と言っても着ていく洋服を決めて、チラシ広告の紙を袋に入れるだけだ。弁当を入れる手作りのショルダーも持った。苦労して自分で作ったショルダーだ。
 もう冷めた頃だろうとテーブルの所に行くと、誰かがちゃんと蓋を閉めてくれたらしく、蓋が閉まっていた。紀代はそれをハンカチで包んで箸と一緒にショルダーに入れた。

「行ってきまぁーす」
 そう言って家を出た。雅恵は紀代が自分で弁当を作っているのは知っていたが知らん顔をしていた。弁当作りで時間が少し遅れたので、紀代は小走りに学校に急いだ。途中水筒を忘れたことに気付いたが時間がないので諦めた。

 学校に着くと、観光バスが二台停まっていて、既に半分くらい生徒が乗り込んでいた。紀代は檜山先生に丁寧にお辞儀をすると、
「秋元さんはこのバスよ」
 と教えてくれた。檜山は紀代の明るい顔を見て、なんだか嬉しくなっている自分を感じていた。

 良く晴れた日で、天元台高原には生徒達が躍動していた。昼食の時間になると、仲良しが集まって輪を作り、各自が持参した弁当を広げ始めた。紀代も仲良しの智子と並んで自分が早起きをして一所懸命に作ってきたお弁当を見せようとしていた。

「キャーッ」
 突然紀代が大きな悲鳴を上げた。その声は高原中に広がるほど凄ましかった。紀代の隣にいた智子も紀代と同様に悲鳴を上げ、二人は真っ青な顔をしてぶるぶる震えていた。

 悲鳴に驚いて、担任の檜山佳世子が駆け寄った。
「智ちゃん、何があったの」
 先生に言われて智子が震える手で恐る恐る紀代の弁当箱を指差した。檜山は、
「お弁当がどうかしたの」
 と言いながら紀代の弁当箱を取り上げて蓋を開けた。
「キャーッ」
 今度は檜山が悲鳴を上げた。
 周りには生徒達が何事かと集まってきた。その様子を加藤先生が遠くで見ていた。加藤は何かあったんだろうと全速で坂を駆け下りて檜山の側に来た。
「檜山先生!」
 檜山も真っ青な顔をして冷や汗を流していた。

 加藤が弁当箱を開けると、
「こりゃひでぇや」
 と言った。蓋を開けた弁当のほぼ中心に大きなゴキブリがぺシャッと潰れてへばり付いていたのだ。
 加藤は他の先生の助けを借りて群がる生徒達を元の位置に戻らせた。

 学校に帰ってから、職員の間でゴキブリ事件が話題になった。紀代の驚きようから、紀代が自分でわざとやった、いわゆる狂言とはとても考えられなかった。加藤は、
「ありゃ、どう見ても陰湿な継子虐めですよ」
 と自分の意見を披露した。

 翌日檜山は雅恵に電話をした。檜山はゴキブリの話をするつもりはなかった。
「秋元さんの奥様でいらっしゃいますか」
「はい、秋元です」
「あのぅ、申上げ難いのですが、紀代ちゃんのピクニックの交通費をこちらで勝手に立て替えさせて頂きました」
「どう言うことですか」
「紀代ちゃんがお家で頂けなかったと言いましたので、千五百円をわたくしが立て替えさせて頂きました」
「可笑しいですね。千五百円は紀代が言い出した翌日持たせてやりましたが、一体どうなっているんでしょう」
「そうでしたか。分りました」
 檜山はこれ以上秋元と押し問答をするつもりはなかった。それで電話を切ろうとすると、
「あなた、分りましたとは変じゃありません? 何が分ったんですか」
 とつっかかって来た。
「いえ、何かの手違いがあったのかも知れません。学校でもう一度紀代ちゃんに確かめてみます」
「あの子、時々渡したお金をもらってないと言いますのよ。先生がきっちりと問い質して下さいな」
 それで檜山は、
「失礼します」
 と言って電話を切った。どちらかがウソをついているのだ。檜山は日頃紀代と付き合っているので紀代を信じたいと思ったが、何かもやもやとしたものが心の中に残った。

十九 思い出したくない日々 ⅩⅤ

 非行防止担当係官はれっきとした刑事でバカじゃない。先日秋元雅恵が参考陳述をした内容で自分が納得できないことは裏を取った。
 先ず雅恵の実家の家族関係について調べた。
 警察では地域毎に設置されている交番の巡査が戸別訪問をして家族関係を掌握しているから、わざわざ市役所の手を煩わせずとも担当している交番の巡査に電話をすれば直ぐに分かる。だから簡単に分ることなので調べたと言うのは大げさかも知れない。それで分ったことは、雅恵は長女で妹が一人、両親は健在であり、オヤジは市役所勤めだ。
「待てよ、弟が秋元に借金したなんて話し、弟が居ないのに、ありゃデタラメだな。すると、借金を雅恵の身体で秋元に返したなんて話は全部ウソだな」
 刑事は職業柄雅恵の話しはかなりいい加減だと推測した。

 それで、担当官は喜多方市の警察に連絡して、秋元の前妻、秋元由紀について調べてくれと頼んだ。直ぐに返事があった。
「秋元の前妻の由紀だがね、離婚して直ぐに東京に行ってしまって、今じゃ消息不明らしいよ」
「じゃ、それ以来地元には戻ってないのか」
「ああ、こっちで調べて見たとこじゃ一度も戻ってないそうだ。旧姓は清水で、山都町の相川温泉の温泉旅館の次女だそうだから、そっちも聞いてみた。どちらも何の音沙汰もないので心配していたな」
 それで、担当官は会津若松周辺に居住している秋元姓と清水姓の女について調べてみたが、会津若松に潜伏している様子もなかった。
「由紀が紀代をけしかけて悪さをしているなんて話もナシだな」
 担当官は雅恵と言う女は相当の悪だと思った。そこで、担当官はスーパーアキモトの社長にも出頭の依頼をした。もちろん参考人としてだ。

 秋元社長は警察からの電話で娘の紀代が自分の店で万引きをして警察に突き出されたと聞いて相当に驚いた様子だった。もちろん告訴は手違いで直ぐに取り下げの手続きをさせて欲しいと言っていた。
「自分の娘を告訴したら、世間の物笑いになりますな」
 秋元はそんな風に答えた。

 秋元社長は直ぐに警察にやってきた。
「お手間を取らせてすみませんな」
「いえ、先日奥様にも参考意見をお聞かせいただきました」
「えっ? 家内が?」
 秋元はこの話しに反応した。それで、雅恵は夫に何も話をしていないらしいことが分った。

「所で、奥様の弟さんに二千万を貸したが返せなくて借金の代わりに奥さんの身体を貰い受けたなんて話しがありますが本当ですか」
「あなた、いきなり失礼なことを聞きますね。今の家内は元々わたしの地元の友人の紹介で会社に入れて仕事をしてもらってましたから、借金なんて話は関係がないですな」
「そうですか? 何か心当たりはありませんか」
「そう言えば、家内と結婚後に家内の従兄弟が二千万円融通してくれと言う話はありましたな。二千万位なら話しによっちゃ、出してやっても良いと思って、従兄弟本人の話を聞いてみたんですよ」
「それで?」
「いやぁ、話を聞いてみて驚きましたな。何でもカラオケルームの事業をやる開業資金だと言うんですわ。今時カラオケルームをやるのに店舗を確保しようとすれば、保証金だけでも最低二千はかかります。改装費、設備費、当面の運転資金を合わせると最低二億は必要です。それでマーケティングについて質問をしたんですよ」
「マーケティング?」
「ああ、マーケティングは市場調査のことです。事業を新しくやりたいなら、市内に同業の店舗数はどれほどあるか、そんなもんはカラオケ専門の第一興商かヴァリックにでも聞いて見れば直ぐに分かります。細かい数字は商工会議所とか金を出して商工リサーチのような調査会社に頼めば正確な数字が出ますよ。各店年商はいくらか、粗利益はどれくらいか、店舗の大きさ、従業員数、平均給与、いろいろありますな。全部調べるとA4で1センチ位の厚さの資料になりますが、そんなもんは開業するなら事前に調べて良く検討しておくのが常識ですわ。だがね、従兄弟の奴はそんなことを何も調べないで思いつきだけで金を貸せですわ。わたしはアホらしくて笑い転げましたな」
「じゃ貸さなかったんですね」
「アハハ、金をドブに捨てるようなもんですよ」
 秋元は今思い出してもバカバカしい話だったと笑った。
「流石大企業の社長さんですね」
「大企業でなくても、最近はこれくらいのことはどこでもやります。でないと銀行さんだって金を貸しません」
「いゃぁ、勉強になりました。悪い奴を捕まえることしか能がありませんから」
 と担当官も笑った。担当官は秋元の話は正しいし、正直に答えてくれたと思った。

「所で、娘の紀代がご迷惑をおかけしました。面目ないですな」
「店の品物を万引きしたのは事実のようですが、社長の店の品物をわざわざ盗むなんておかしいです。私どもは何か訳があったのだと思ってます」
「今郡山にどでかい店舗を建設中でして、わたしはそちらに忙しくて家のことは家内に任せっぱなしにしてます。お恥ずかしい限りです。紀代は家内にとっては継子なので、多少のトラブルは覚悟をしとりますが、可哀想なことをしましたな。一度本人と良く話し合ってみますので、どうか今回のことはご容赦頂けると助かります」
 秋元は担当官に深々と頭を下げて謝った。
「奥様には色々なお話を聞かせてもらいましたが、最後にもう一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「前の奥様とは今でもお付き合いをされておられますか」
「いや、それはないですな。そんなことをすれば、今の家内とトラブルになります。わたしはね、そう言う人の道を外すようなことはしません。不倫一回の前科者ですから、そんなことを言う資格はありませんがね」
「そうでしょうね。娘さんの紀代さんが会っている可能性はありますか」
「それは絶対にないと思います」
「どうして絶対と言えますか」
「ああ、この春に家内には内緒で探偵に消息の調査をさせました。目的は元夫として、前の妻の安否だけは知りたいと思いまして。知って会うつもりは全くありませんが、実は内々のことをお聞かせして済まないですが、離婚は前の妻の申し出でして、わたしは前の妻を愛してましたし、今でも悪く思ってはないからですよ。ですから、元気にしているかだけは気になります」
「調査の結果、どうでした」
「腕の良い探偵にかなりの金を使って頼みましたが、不思議なことにまったくの行方不明でした。残念ですが」
 担当官はそこで話を打ち切った。
「社長、ご多忙の所、ありがとうございました」
「いえ、これからも紀代のことをどうかよろしくお願いします」
 担当官は秋元社長は人格者だと言う印象を持った。

二十 思い出したくない日々 ⅩⅥ

 学校で、紀代に新しいあだ名が付けられた。[ゴキブリ]だ。女子生徒は紀代に気を遣って殆どこのあだ名を口にしなかったが、男子生徒の何人かから[ゴキブリ]と囃したてられた。そんな中、紀代をかばってくれる男の子が居た。その子は吉村啓(よしむらはじめ)と言う名前で、友達からはケイ君と親しまれていた。紀代は啓が紀代に好意を持っていることを知っていたが、いつも知らん顔をしていた。

 だが、紀代が校庭の隅っこで[ゴキブリ]と虐められていた時、身体を張ってかばってくれた時から、紀代は啓の好意を認めざるを得なかった。紀代が六年生になった時、啓に日曜日に市内の御薬園(おやくえん)に誘われた時、
「ん。行く」
 と返事をしてしまった。

 男の子は小学校の六年生ではまだ子供子供しているが、女の子は精神的な成長が早く、六年生なら異性を意識する者が多い。紀代も五年生の後半あたりから、男子生徒を異性として感じることが多くなっていた。啓は男子生徒の中では大人っぽくて力もあり、男子からも女子からも慕われていた。だから啓に、
「御薬園に行ってみないか」
 と誘われた時、啓を単なるクラスメイトではなくて、
「僕と付き合ってくれ」
 と言われたように感じていた。御薬園は、会津若松市内にある美しい日本庭園で、室町時代に葦名盛久が霊泉が湧き出たこの地に別荘を建てたのが始まりと言われていて、会津松平氏庭園とも呼ばれ国の名勝に指定されている所だ。

 啓にデートに誘われた日、紀代は自分が一番気に入っている洋服を着て、おにぎりと水筒を持って家を出た。庭園の出入り口の前に紀代が着いた時、啓が待っていてくれた。小学生の入場料百五十円は啓が払ってくれた。
「僕ね、歴史が好きなんだ」
 そう前置きをして、啓は庭園の歴史や会津松平家のことを色々と話してくれた。
「一人でこんなとこに来るのは恥ずかしいからさ、紀代を誘ったんだ」
 とはにかんだ顔で誘った言い訳をした。丁度桜の蕾が大きくなりちらほらと咲き出す季節で、園内は思ったより空いていて、二人はゆっくりと散歩を楽しめた。紀代がそっと啓の手に触れると、啓は驚いたように手を引っ込めた。

 お昼は園内の[心字の池]の畔に座って紀代の手作りのおにぎりとおかずを食べた。ご飯は前日留美と久美の分を分けてもらったから、小さなおにぎりが四個しか出来なかったので、紀代は玉子焼きや煮物のおかずを多めに作って持ってきた。
「これ全部秋元が作ったの?」
「そうよ」
「自分一人で?」
「ん」
「秋元、料理が上手だなぁ。みんなすごく美味しいよ」
 啓は転校生で、小学校の三年生まで、父親の仕事先の東京で育ったので言葉は福島弁ではなかった。紀代はそんなとこも好きだった。

 紀代の父の辰夫は警察で非行防止担当官と話をした後、一度紀代とゆっくり話をしたいと思いながら、郡山の大型店の開店作業に追われてまだ話をするチャンスがなかった。その間、紀代は毎日のように義母の雅恵にチクチクと虐められて、最近では家に居るのが嫌で、休日はもちろん、平日も夜遅く帰宅をすることが多くなっていた。東京と違って、田舎町の会津若松は店が閉まる時刻が早く、夜8時を過ぎると商店街は人の往来も少なくなり、時間を潰す場所は限られた。小学生が夜繁華街に居れば夜警の巡査か学校の先生に見付かって家に戻されてしまうか補導されてしまう。だから、紀代は仕方なく、市街を外れた田舎道をぶらぶらと歩いたり屋根とベンチのあるバス停で時間を潰した。父親の経営するスーパーは二十一時まで店を開いているが、盗み食いと万引きで捕まったことがあるので、入るのを躊躇した。

 六年生になって、啓とデートしてから数日が過ぎた日に、紀代は父の辰夫からスーパーの事務室に一人で来いと呼ばれた。紀代は事務室に行きずらかった。事務室には前に自分を捕まえて警察に突き出したオバサンたちが居るからだ。それを言うと、辰夫は会津若松駅から二十分位歩いた所にある、デニーズ会津インター店で待っていると言った。
 紀代がデニーズの店に入ってあたりを見回すと、奥の方で辰夫が手を振っていた。辰夫の隣に若い女性が同席していた。

「紀代と一度ゆっくり話したいと思っていたんだが、郡山の仕事が忙しくてね、ほったらかしでごめんな」
「パパは家に居ることないもんね。お休みの日も仕事でしょ?」
 すると脇に居た女性が、
「社長、あたしを先に紹介して下さいな」
 と口を挟んだ。
「いや、すまん。久しぶりに娘に会ったんで嬉しくてな。こちらは会社の事務員さんだが、パパの仕事の秘書もやってもらっている今井秀子さんだ。今後紀代の相談役になってくれるように頼んだんだ。秀子さん、こんな娘だが、よろしく頼むよ」
「可愛くて綺麗な子ねぇ。あたし気に入ったわ。紀代ちゃん、これからお姐さんと仲良くしましょうね」
 紀代は秀子と初対面だが、秀子の優しい眼差しを見て、
「よろしくお願いします」
 と答えた。
「去年だが、警察の担当官と紀代の学校の加藤先生に色々紀代のことを聞かせてもらったんだがね、後妻の雅恵に大分虐められているようなんだ。秀子さん、紀代に会っても、そのことは雅恵には黙っていて欲しいんだよ。余計なトラブルは困るからね。男の子は継母と上手く行く場合が多いらしいが、調べてみると女の子は上手く行かない場合が多いらしくてな、うちの紀代もそりが合わんらしい。頼むよ。紀代、これからは何でもこのお姐さんに相談しなさい。お金の相談、何か買って欲しいものの相談、悩んでいることがあれば何でも正直に相談してくれよ。たまにはどこか楽しい所にも連れてってもらいなさい。東京だっていいよ」

 辰夫は話しが終わると仕事が残っているからと後を秀子に任せて先に帰ってしまった。
「紀代ちゃん、良かったらこれからあたしのマンションにいらっしゃいよ」
 レストランの勘定を済ますと、秀子は紀代を自分のマンションに案内した。

 秀子が住んでいるマンションは小奇麗な所で、部屋も広かった。
「秀子さん、旦那様は?」
「ああ、あたしね、まだ独身なのよ。でも今日から紀代ちゃんがあたしの娘だわね」
 と秀子は笑った。
「合鍵を渡しておくから、あたしが居ない時でも自由に出入りしてもいいわよ。その代わり、戸締りと火の用心だけはしっかりと守って下さいね」
「はい。嬉しい。あたし、時間を潰す場所なくて困ってたの。家に居るといつもネチネチ虐められるから、なるべく家に居たくないの」
「そう。ここで過ごすのは構わないけれど、お泊りはダメよ。お泊りをするとお家で色々と穿鑿(せんさく)されるでしょ? 穿鑿って言葉分かる」
「ああ、どこに泊まったのかとか、誰の家だとか聞くことでしょ」
「そう。根掘り葉掘り細かいことまで知ろうとすることよね」

 その日、紀代は秀子に尋ねられるがままに、今まであった雅恵の虐めについて秀子に話をした。話を聞いているうちに、秀子は涙声になって、
「可哀想だわねぇ。紀代ちゃん、辛い時、苦しい時はいつでもあたしの所にいらっしゃいよ」
 と紀代の頭を撫でた。秀子は当面の経費として辰夫から十分な金を預かっていた。だから、これからは紀代の母親代わりとして紀代を可愛がってあげたいと思った。

二十一 思い出したくない日々 ⅩⅦ

 学校が終わると、その日、紀代は秀子のマンションの冷蔵庫の中の食材や、流しの下の引き出しの中の調味料などををチェックしてから、秀子からもらったお小遣いでスーパーに行って少し野菜や肉などの食材を買い足してマンションに戻った。それから、秀子のエプロンを借りると、キッチンに立って夕食の仕度にかかった。ご飯は電気釜に二人前位残っていたので、それで間に合うと思った。

 ようやく料理が出来上がった時、玄関の扉を開ける音がして、
「ただいま」
 と秀子が帰ってきた。秀子は玄関の鍵が開いていたので、多分早速紀代が来たのだと思った。部屋に入って驚いた。部屋中美味しそうな匂いが満ちていたからだ。キッチンの前のダイニングテーブルの上を見て、更に驚いた。沢山のご馳走が二人分並べられていたからだ。

「あらぁ、こんなにどこで買って来たの」
「お野菜とか買い足して、全部自分で作ったの。お姐さんにあたしと一緒に食べて欲しいの」
「じゃ、急いでシャワーして着替えてくるわね」
 秀子が部屋着に着替えて食卓に着いた。
「美味しいっ!」
 一口食べて秀子は思わず感動した。
「紀代ちゃん、凄いわね。これってどこで覚えたの」
「ママ、あっ、別れたママに教えてもらったの」
 秀子は他の料理にも口を付けた。
「あらぁ、こんな手の込んだ煮物、食べるのは久しぶりよ。全部とても味付けがいいわね」
 正直、秀子は紀代の料理上手に改めて感心した。紀代が作ってくれたサラダに薄黄色の綺麗な花びらが使われていた。
「これなぁに」
「花オクラ」
「へぇーっ。オクラの花より随分大きいわね」
「初めて?」
「初めてだわ」

 それから、殆ど毎日、秀子が帰ると、洗濯物が取り込まれていて、丁寧に畳んであるし、食卓には美味しい料理が並んでいた。紀代のレパートリーは相当なものだ。秀子は最初の日から、仕事が終わって帰宅するのが楽しみになった。食事が終わって、二人でソファーに並んでテレビドラマを見ていると、まるで母子が睦まじくしているような錯覚さえ覚えた。

 最初の日に秀子は、
「紀代ちゃん、携帯持ってないのね?」
 と聞くと、
「はい。妹たちにお母さんが買ってあげたから、自分も買ってと頼んだら、継子のくせに生意気だって言って買ってくれなかったんだ」
 と答えた。それで、
「じゃ、今から買いに行きましょう」
 そう言ってソフトバンクのショップに出かけて、秀子の名義で買って与えた。
「これからは、あたしの携帯に連絡をしてちようだいね」
「はい」
 今の子供は操作を覚えるのが早い。一度取り扱いを説明すると、直ぐに一通り操作を覚えてしまった。紀代がマンションに来ない日には紀代からメールが入っていたし、秀子が帰りが遅くなる日には秀子は紀代にメールを入れた。それで、秀子と紀代の間のコミュニケーションは一気に良くなった。

 秀子は最近流行(はやり)のSNSでブログを書いていた。大抵寝る前に最近買ったアップルのiPadで日記の更新をしていた。ハンドルネーム(HN)は[クマ]にしていた。子供の頃、秀子が可愛がっていた愛犬の名前だ。

 紀代が来るようになって十日目、食事が終わってから秀子はSNSとかパソコンの使い方を紀代に教えた。紀代は相当に興味深く秀子の説明を聞いていた。
「あたしの携帯でも見れる」
「もちろんよ。やってみる?」
 それで秀子は携帯からネットにアクセスする方法を教えた。
「すごぉーいっ。あたし、はまりそう」
紀代は喜んだ。
「今のお母さんに携帯を持っているのは内緒になさいよ」
「はい。家では絶対に使わないよ」

 この一週間の間に、憎らしい紀代が明るい顔になり、それに着ている物が垢抜けてきたのを雅恵は鋭く感じていた。
「何かが違う」
 もちろん紀代に聞いても口を真一文字に堅く閉じて答えない。それで、雅恵は探偵に紀代の写真を渡して尾行を頼んだ。一番癪(いちばんしゃく)にさわったのは、紀代が自分の実子の下の妹たちに比べて、可愛くて綺麗で魅力的な女の子に変身したことだ。
「何かあるに決まってる。覚えてらっしゃい」
 雅恵は紀代を睨みつけていらついていた。

二十二 思い出したくない日々 ⅩⅧ

「奥さん、頼まれた件ですがね、一応調べが終わりました」
 雅恵が探偵に紀代の素行調査を依頼してから数日後、探偵は写真とメモを雅恵に届けにやってきた。
「待ってたわよ。なかみを確認してOKなら謝礼を払うわよ」
 と言いながら雅恵は探偵が出したものを確かめた。写真には今井秀子と紀代が揃って出かける様子がはっきりと写っていた。メモを見ると秀子のマンションの住所もきっちりと調べられていた。紀代が何日の何時ごろ秀子のマンションに入ったか、秀子が留守らしい時も合鍵で勝手に出入りしていることも書かれていた。雅恵は内容を確かめると、
「いいわ、これでいいですよ」
 と言って約束の八万円を探偵に支払った。

「奥さん、ちっと苦労をしましたぜ。プラスして下さいよ」
 探偵はもう少し出してくれとねだった。
「仕方ないわね」
 雅恵は2万円をプラスしながら、
「あんたみたいな商売をしていると、気の利いた腕っ節のいい男、知り合いに居るんでしょ?」
 と聞いた。
「そりゃ、居ますよ。それなりに仕事はしますぜ。ただし、仕事によっちゃ、こんなはした金じゃ動いてくれませんな」
「お金? もちろんそれなりに出すわよ」
「具体的に言って下さいよ。ダチの中から役に立つのを選びますから」
「そう? じゃ、この写真の女、あんたの友達に頼んでちょっと虐めて下さいな」
「どの程度痛めつけてやりゃいいんですか」
「そうねぇ、女が恥ずかしくて娘から手を引く程度でいいわよ。警察沙汰になるようなことをしたら、一銭も払いませんよ」
「任せて下さい。で、いつ頃やりゃいいんですか」
「明日、この女に会ってわたしから脅しをかけておきますからね、明後日か明々後日あたり、一週間以内ってとこでどう?」
「わっかりました。明日にでも大体の謝礼の金額を電話で知らせます」
「頼んだわよ」
 探偵は薄ら笑いをしながら去って行った。

 翌日、雅恵は久しぶりにスーパーアキモトの事務所に行った。早朝に出かけた夫の辰夫は既に郡山に向かっていて留守だった。雅恵は事務所では社長夫人として威張っていて、余計なことを言えば意地悪をされるので、雅恵が事務所に来た時は社員は皆ピリピリしていた。

 今井秀子はいつもの通り出社して事務の仕事をしていた。雅恵が来たのは知っていたが、気付かないふりをして、机の上のパソコンの画面に集中していた。
 雅恵はいつものように雑談を終わると、突然皆に聞こえる声で、
「今井さん」
 と今井に声をかけた。秀子はぎくっとしたが動揺を隠して、
「はい。あたしですか?」
 と答えた。
「今井さん、最近変ったことはありませんか」
「何か社長にお伝えすること、あります?」
 ととぼけた。
「ちやんと社長に必要事項を報告してますか」
「はい。もちろんです」
「だったら娘のことも報告してるわね?」
「えっ? 娘さんのことですか? 何でしょう」
「あなたねぇ、とぼけるのもいい加減になさい」
 雅恵の目じりが吊り上がった。事務所に居る者たちは、雅恵が目じりを吊り上げると次に何を言いだすのかとぶるった。女子社員は脚が震えるほどだ。

「あたしはね、あんたの私生活にもちゃんと目が届いてますよ。とぼけても無駄よ。あたしに楯突いたらどうなるか分ってるわね」
「はい」
 秀子は消え入るような声で答えた。既に脚がブルブル震えていた。

「あなた、最近娘の紀代にちょっかい出してるでしょ? 何が目的? まさかうちの旦那に媚を売ったりはしてないわね」
「そんなことしてません」
「大きい声ではっきりおっしやいよ。そんな小さな声じゃ聞こえませんよ。どうなの?」
 念を押され、
「してません」
 とやや声を大きくして秀子が答えた。事務所の中は静まり返り、皆顔を背けていたが、耳だけは一言も聞き漏らさずにいた。今日は秀子が血祭りに上げられて、皆内心同情をしていたが、雅恵に口を挟む者はいなかった。

「最近、娘をあんたのマンションに上げてるでしょ? どうなの」
「遊びに来てます」
「分ったわ。今夜から遊びに来たら追い返しなさい。必ずよ。あんたが追い返さずにマンションに入れたのが分ったら、お仕置きしますから覚えてらっしゃい」
「はい」
 秀子は真っ青になっていた。

 雅恵が帰ると、事務所の中は元通り明るくなったが、皆は直ぐには口をきかずに黙り込んでいた。以前、事務所を出て直ぐにあれこれ言いだした者が居たが、たまたま戻ってきた雅恵に捕まって、こってりとお灸をすえられた苦い経験があるので、しばらく誰も話をしなかったのだ。

「雅恵女王はさっき駐車場から出て行きましたよ」
 外から戻った社員がそう告げると、皆急に話を始めた。
「秀子さん、今日は生贄(いけにえ)になってしまったね。ご愁傷様です」
「あらぁ、葬式じゃあるまいし」
「いや、葬式よりひどいよ」
 だが、いつもは明るい秀子は今日はだんまりを決め込んで無口になってパソコンとにらめっこをしていた。
 その夜も紀代が遊びに来ていた。昼間雅恵にいびられたが、秀子はそのことを紀代には一言も話さなかった。

 夜、紀代が帰った後、秀子は社長の辰夫に電話を入れた。
「紀代ちゃんがうちに来ていること、バレたみたいで、今日、あたし、事務所で虐められました。これからも紀代ちゃんをかばって差し上げたいのですが、どこまで頑張れるか自信がありません」
 どうやら電話の向うで辰夫は続けるように頼んでいるらしかった。

 雅恵のお仕置きは直ぐに来た。夕方暗くなって、秀子がマンションへと急いでいる時、急に物陰から男が二人飛び出してきて、秀子の腕を取り、建物の陰に引っ張り込んだ。

 秀子は声を出して助けを求める暇がなかった。男の一人が羽交い絞めにして、手で口を押さえて声を出せない状態にされてしまった。もがくとぐいぐい腕を締め上げてくる。
 もう一人の男は秀子の前側に立って、Gパンのウエストから手を突っ込んで秀子の乳房を鷲摑みにして揉んだ。次にGパンのファスナーを降ろして、ショーツのウエストから手を入れて、陰毛をまさぐった。

「おいっ、なんでやられてるか分ってるな? 娘さんから手を引け、そうでないと今度はもっと恥ずかしいことをするから覚えておけよ。サツに通報してもいいけどよ、そうすりゃ、あんたがどんな目に遭うか考えとけよ」
 二人の男はそういい終わると秀子を放して、さっと暗闇に消えた。逃げ足の速いやつで、プロっぽい手口だ。

「ただいま」
 と奥の紀代に声をかけたは良いが、玄関に入ると、秀子はその場にへたり込んだ。
「オネェサン」
 紀代の声が遠くから聞こえてくるようだった。秀子は血圧が下がって眩暈(めまい)がしてその場に倒れこんだ。
 五分もして気が付くと、紀代が抱きついて泣いていた。

 翌日雅恵から秀子に電話が来た。
「あなた、約束を破ったわね。いい度胸じゃない? このままずっと続けるおつもり?」
「……」
 秀子は黙っていた。
「なんとかおっしやいよ。続けたら、この程度じゃ済まないわよ。しっかり覚えておくことね」
 電話はガシャンと切られたようだ。

 真っ青な顔の秀子を見て、万引き防止の係りをしている年配の女性が、
「秀子さん、あまりひどいようなら、あたし警察に顔見知りが居ますから応援しますよ。頑張りなさい」
 と勇気付けてくれた。秀子は脚が震えて、しばらく仕事に手が付かなかった。

二十三 思い出したくない日々 ⅩⅨ

 紀代がいつもの通り、学校を終わって秀子のマンションにやってきて、ポケットから合鍵を出して、ドアーの鍵を開けようとした時、背後から大人の男に口を塞がれ抱きつかれた。男は紀代から鍵を奪うと、もう一人の男が合鍵を受け取って、持参したプラスチック粘土のような成形材に押し付けて型を取った。
 男は二人とも帽子を目深に被り、サングラスをしていたから、顔は良く分らない。

「お嬢ちゃん、オジサンにいやらしいことをして欲しくなかったら、このまま帰りな」
 男は低い声で紀代の耳元に囁いた。
「帰らなきゃ、ほら、こんな風にしちゃうぞ」
 男の一人が紀代のスカートに手を入れて捲り上げた。
「鍵は返してやるよ。とっとと帰りな」
 鍵を受け取ると、紀代は男たちの下をかいくぐって一目散に駆け出して逃げた。

 紀代は秀子に携帯で電話をして襲われた一部始終を報告した。だが、紀代は子供だ。男の一人が素早く合鍵の型を取ったことまでは分らなかった。
 合鍵の型を取った二人の男は、馴染みの合鍵屋に行って合鍵を作らせた。殆どの鍵は出来合いの何百通りかの鍵のどれかに当てはまる。だから、それほど正確でなくとも、鍵屋が見ればどのタイプか直ぐに分かる。後はギザギザを型に似せて削るだけだから簡単にもう一個合鍵が出来てしまう。最近の高性能の鍵は簡単には複製ができないが、秀子のマンションの玄関の鍵は普通にある鍵だった。

 男たちは周囲に用心をしながら、マンションに戻ると、鍵を開けてみた。
「カチッ」
 鍵は直ぐに開いた。一人の男が少し離れて駐車してあった車から大き目の紙袋を抱えて戻ってきた。
「よしっ」
 男は秀子のマンションの中に消えて、ほんの五分もすると出て来た。紙袋も持って出て来たが、車に戻る途中でぽいと捨てた。

 男たちは何事もなかったような顔で立ち去った。

 夕方、秀子がマンションに戻って、いつも通りシャワーを使いに風呂場に入った。
「キャーッ!」
 秀子は真っ青な顔で風呂場の扉をバタンと閉じて飛び出して来た。秀子は出てからしばらくの間放心したようになって震えていた。

 恐怖が遠のいてから、
「どうしよう、どうしよう」
 と秀子は独り言をいいながら携帯で会社の警備をしている男に話をした。
「やっさん、お願い。あたしのマンションの風呂場に大きな蛇が居るの。どうにかして下さらない?」

 三十分ほどして、男がやってきた。
「どれどれ」
 男が風呂場を覗くと大きな蛇が風呂の蓋の上に居た。
「こりゃ、青大将だな。こいつは大人しい蛇だからつまんで外に出せばいいよ。ゴム手袋ある?」
「あります」
 やっさんが来てくれて、秀子は少し落ち着いた。やっさんは手袋をはめた手で蛇の頭の直ぐ下を掴んで、窓から蛇をマンションの外に放り投げた。
「もう大丈夫だよ。それにしても可笑しいな? 蛇が入れるよう隙間がどこにもないんだよなぁ」
 やっさんは首を傾げていた。
 秀子はやっさんにお茶を出してから、
「ありがとう。すごく助かった」
 と礼を言った。
「ん。女の子の一人住まいはこんな時厳しいね。何かあったらまた電話をくれよ。遠慮は要らないよ」
 やっさんが出て行く時、秀子は何度も頭を下げて見送った。

 秀子はマンションのドアーを閉めると、おしっこがしたくなって、トイレに行った。
「キャァーッ」
 蛇を見た時より一層大きな悲鳴を上げて、秀子は真っ青になった。どうしたことか、秀子はお漏らしをしてしまった。こんなことは初めてだ。顔は真っ青になり、震えが止まらなかった。
 秀子はどうにか気を取り直して帰ったばかりのやっさんにもう一度電話をした。
 だが、前のように突然貧血を起こして、その場に倒れこんで意識を失ってしまった。

「今井さん、大丈夫か?」
 やっさんの声で秀子は意識を取り戻した。やっさんは秀子のマンションに戻ると、秀子が倒れて意識を失っていたので慌てた。それで秀子を揺すりながら声をかけていたのだ。

「トイレ……」
「トイレがどうかしたのか?」
「ネコ……」
 変なことを言うなぁと思いながら、やっさんはトイレを覗いた。
「ウワッ」
 やっさんは思わず尻餅をつきそうになった。
 トイレの中に首を掻っ切られて血を流して死んでいる大きな黒猫が居たのだ。ネコの横にA4のプリントが落ちていた。ネコの血でプリントの一部が赤く染まっていた。

 A4の紙には、やや大きな字で[紀代を返せ]とだけプリントされていた。
 やっさんが110番に通報してくれて、間もなくパトカーが到着、警官が二人入ってきた。
「悪質な悪戯だなぁ」
 警官も驚いていた。警官は指紋や足跡を調べたがこれといった証拠はみつからなかった。プリントの意味を秀子から聞かされて、
「これだけでは起訴まで持ってくのは難しいので、また何かあったら連絡をして下さい。当分重点的に見回りをします。ネコの屍骸は業者に始末させますが、手数料が五千円かかりますがいいですか」
 と言った。秀子が了解すると、間もなく業者がやってきて綺麗に清掃をして五千円を受け取ると帰って行った。

 秀子が倒れた時お漏らしをした後がまだ濡れていた。その夜、秀子は恐ろしさで寝付けずに朝までぼけぇーっとテレビを見ていた。

二十四 思い出したくない日々 ⅩⅩ

 雅恵は由紀に泥棒と言われた恨みを晴らすために、前妻由紀の実の娘、紀代をとことん虐めてやろうと思っていた。最初は気が晴れた所で虐めを止めようと思って居たが、虐めている間に、次第に紀代本人を憎たらしいと思うようになり、更に虐めを続けている間に、虐めに快感を覚えるようになっていた。世間では児童虐待防止法などという法律までできているが、現実には明らかな物証がない限り、この法律で罰せられることはまずないことを知っていた。だから、虐めるにしても、体罰のように、誰が見ても虐めた痕跡が残るようなバカなやりかたはせずに、もっぱら殆ど物証が残らない精神的な虐めに徹していた。だが、今井秀子と言う邪魔者が現われたので、雅恵は今井を徹底的に排除しようとあれこれ策略を練っていた。

 いつもの通り、紀代が秀子のマンションに合鍵で入って、びっくりした。玄関を入ると、部屋一面に本や食器などが散乱していて、相当に荒らされていた。紀代は直ぐに秀子に電話をした。
「大変、お部屋の中が荒らされていて、冷蔵庫まで倒されているの」
 これには秀子は驚いた。先日のネコの屍骸や大きな蛇騒ぎで気持ち的に参っていたが、またまたやられたようだ。雅恵の仕業だと分っていても、証拠がなくてどうにもならないのだ。

 仕事が終わると、秀子は家路を急いだ。マンションでは散らかった家財の中で、紀代が泣きそうな顔をして待っていた。テーブルまでひっくり返されていた。
 秀子は先日警官から教えてもらった連絡先に電話をした。警官は仲間を一人連れて、二人組みでやってきた。
「随分ひどく荒らされてますね」
「おまわりさん、相手が分っているのに何も出来ないなんて……」
 警官は済まなそうな顔で
「カード、預金通帳、現金、宝石類なんかで何が無くなっているか調べて下さい」
 と言った。秀子はいつも隠している秘密の場所に入れてある貴重品を調べた。不思議なことに、何も盗られていなかった。
「どうやら嫌がらせのようですね」
 警官はそこらじゅうの指紋を調べてから、
「ダメだなぁ。あなたと紀代さん、それに会社の警備担当の安井さん(通称やっさん)たちの指紋しか無いようです」
 とがっかりしていた。

「玄関以外から侵入した形跡はありません。なので、荒らしまわった奴は恐らくここの合鍵を持っているとしか考えられません」
 警官は合鍵があるのではないかと疑った。
「今井さん、管理人に頼んで錠前を交換してもらって下さい。そうしないと、留守中にまた入られます」
「そんなぁ、でも直ぐに取り替えてもらいます」
 翌日マンションの管理人は出入りの建具屋を呼んできて、秀子のマンションの錠前を別のものと取り替えた。

「このやろう、錠前を換えてしまいやがってぇ」
 雅恵が探偵を通じて差し向けた二人組のならず者は合鍵で簡単に入れると油断をしていたので、合鍵が合わなくなっていて、ぶつぶつと悪態をついていた。その日は彼らは他にも油断があった。部屋にさっと忍び込めるつもりだったから、いつもは顔が見られないように変装をするのだが、しないで来たのだ。それで、玄関前でもたもたとしている間に警備用の監視カメラにバッチリ顔を撮られてしまっていた。二人組は鍵が合わないのに気を取られて、監視カメラのことさえ忘れていた。

「なんだ、今井さんのマンションを荒らした奴等はこいつ等かぁ」
 先日のマンション荒しの件でマンションの管理室を訪問した刑事は、監視カメラの映像を分析していたが、顔見知りの男の顔がはっきりと写っていたので直ぐに署に連絡して指名手配をした。それで、二人が市内の飲み屋でチビチビやっている所に踏み込んで、二人とも逮捕をした。

 捕まった二人はネコの屍骸の件と部屋荒しをあっさりと認めたので直ぐに起訴された。だが、住居侵入罪は、三年以下の懲役または十万円以下の罰金で軽い。二人組みは僅かな保釈金を積んで直ぐに出てしまった。

「今回はたまたま監視カメラの映像にバッチリと証拠が残ってましたから、簡単に行きましたが、普通はこんなに簡単じゃなくて、起訴まで漕ぎ付くためにはしっかりと裏を取るのに多額の税金を使うんですよ。なので、被害者のお気持ちが分っていてもなかなか本格的に捜査ができません。世間の方々には警察の苦しい台所事情をご理解頂けなくて。沢山税金を使ってやっと起訴をしても、悪い奴等は安い保釈金を積んで直ぐに出てしまうんです。私どもはそんな時はいつも遣る瀬無い気持ちになります」
 秀子の所に報告に来た刑事は愚痴をこぼして帰って行った。話しに拠ると、捕まえた悪党どもは口が堅く、誰の指示で動いたのか、金をいくら掴まされたのかなどは暗闇の中だったと悔しがっていた。

 雅恵がスーパーアキモトの事務所に入って来たので、秀子は別の入り口からさっと逃げてトイレに行った。一時間もすれば雅恵は帰ってしまうだろうとトイレを出てから倉庫に行って一時間以上時間を潰して事務所に戻ると、ちゃんと雅恵が待ち構えていて、ついに捕まってしまった。
「あなた、長い間仕事をサボってどこにいたの」
「仕事をサボってなんて、とんでもありません。あたし倉庫で仕事をしていました」
 さぁ、恐怖の劇場が始まったとあたりは静まり返ってしまった。雅恵は既に目を吊り上げていた。
「あなた、上の者にウソを報告したらどうなるか、就業規則、ご存知よね」
「はい」
「何て書いてあるの?」
「……」
 秀子はもちろん知っていたが黙っていた。
「ここに就業規則を持ってらっしゃいっ!」
 耳を塞ぎたくなるような金切り声だ。秀子は観念して就業規則を手渡した。雅恵はページをめくると、
「懲戒免職、減給、程度に応じて罰すると書いてあるわよ。今回は減給で許してあげるわよ。いいわね、来月から三割減給ですよ」
「そんなぁ」
「ウソをついたのはあなたよ。悪いことをして、自覚がないのは最低だわね」
「……」
「あなたね、不満そうですけどね、ここにちゃんと証拠があるのよ。良くご覧になって」
 雅恵は社内のあちこちの監視カメラの映像の録画を巻き戻して、倉庫の部分を出して見せた。秀子は絶句した。そこには時間つぶしをしていた自分がはっきりと写っていた。もちろん時刻表示もあるから言い訳のしようがないのだ。
 雅恵は秀子の上司に、
「この子反省が足りませんからね、当分の間仕事を干してやりなさい。いいわね」
 雅恵は夫の辰夫の秘書の関係上夫に断りも無しに異動させることまではできなかったのだ。
「今井さん、あなた随分度胸がありますわね。今日はこれくらいにしておきますが、これからもまだ紀代にちょっかい出すなら許しませんよ。覚えてらっしゃい」
 そう捨て台詞を放って、雅恵は事務所を出て行った。

二十五 思い出したくない日々 ⅩXI

 その日、秀子が仕事を終わって帰宅するのを見張っている奴が居た。一人は会社の近くのバス停で秀子がバスに乗り込むのを確かめて、
「女が乗った」
 ともう一人に携帯で連絡を入れた。
 秀子がいつも下車するバス停の側でもう一人の男が原付に跨って見張っていた。何も知らない秀子はいつも通りマンションに向かって歩いていた。仕事が終わって携帯を見ると、紀代から、
「マンションで待ってるよ」
 とメールが届いていた。秀子は、
「今夜の紀代ちゃんのメニューは何だろう」
 と考えながら歩いていた。紀代は小学生にしては驚くほど料理のレパートリーが豊富だ。だから最近では帰宅して紀代が作ってくれた料理がとても楽しみになっていた。紀代と仲良く座って食べる夕食の一時はとても幸せ気分で、秀子は紀代に癒されていた。多分、紀代も同じ気持ちだから、毎日のように秀子のマンションを訪ねてくるのだろうと思った。

 秀子が人通りが途切れた道にさしかかった時、背後から静かにつけている原付バイクに全く気付かなかった。
 突然バイクのエンジンをふかす音がしたかと思うと、背後から走ってきたバイクに跨った男は、秀子を追い抜きざま、黒い液体が入ったペットボトルを握りつぶして、飛び出た黒い液を秀子の頭からぶっかけて、そのまま全速力で走り去った。秀子は突然襲われて。原付のナンバーを確かめる余裕はなかった。

 ねばねばして、石油臭い、そう、タール分を含む廃油のような液体が頭から雫になって垂れ落ちて、着ている物を汚した。慌てて頭に手をやった秀子の手にも臭いタール性の液体がべっとり付いた。
 両手がベタベタで、携帯を出したくても出せない。出せば携帯がベタベタになり使えなくなりそうだった。

 困った秀子はそのままマンションに急いで帰り、ハンカチを取り出して汚れた指を包んでチャイムを押した。
「お帰りなさい」
 と紀代の声がしてドアーが開いた。
「お姉ちゃん、大変。ちょっと待ってて」
 そう言って紀代が奥からタオルを二枚持ってきてくれた。そのまま上がると床がべとべとになってしまう。

 秀子はタオルで頭や手を拭い、玄関でブラウスやスカートを脱いでショーツ姿で風呂場に駆け込んだ。秀子はボディソープやシャンプー、洗濯用洗剤など、持っている全ての洗剤を使って洗い流してみたが、とても綺麗には落せなかった。顔は黒い液体が皮膚に沁み込んで薄汚く、洗っても洗っても綺麗に落ちない。身体中に石油臭い臭いが沁み込んで、相当にごしごし洗ったが臭いが取れなかった。秀子は泣きそうになっていた。途中から紀代も風呂場に入ってきて手伝ってくれたが、綺麗にならなかった。一番困ったのは髪の毛だ。シャンプーや洗剤で洗い流しても髪の毛がベタベタしていて悪臭が消えないのだ。タオルでごしごしと髪の毛を拭くと、タオルが汚れ、なかなか落せない。

 夜、雅恵から電話が来た。
「今夜も紀代はそちらでしょ? あなた強情な女ねぇ。何度言ったら分るの? いつまでもそんなことをしていると少女誘拐で訴えますよ。言っておきますが、あたしは親権者よ。親権者が子供を返せと言うのに返さなければ誘拐罪が成立しますよ。ご自分が何をしているのか分ってるの?」

 秀子は雅恵に何も答えなかった。今日の事件も雅恵がやったことは分っていたが証拠がなくどうにもならなかったのだ。秀子は悔しくて悔しくてならなかった。だが、雅恵に虐められている紀代をこのまま雅恵の元に返す気にはなれかった。秀子が紀代に冷たくすれば、紀代が悲しむのは分っていた。それに、最近は紀代に情が移って、自分の娘とも妹ともつかぬ何とも説明のしようがない愛情が芽生えてしまっていたのだ。

 汚れをどうにか落として、落ち着いた時、玄関のチャイムが鳴った。開けると初めて見る顔の警官が二人立っていた。
「警察の者だ。少女監禁、誘拐罪で現行犯逮捕する」
 そう言うと秀子に手錠をかけて、紀代と一緒に黒塗りの乗用車に押し込まれた。
 乗用車は秋元家の門の前で待っていた雅恵に紀代を引き渡すと、そのまま走り出した。

 ルーフに赤色灯がない乗用車はパトカーではなく、どうやら覆面パトカーだと秀子は思っていた。だが、窓の外を見ていると警察署には行かずに、どんどん郊外に向かって走っていた。
「おまわりさん、どこに連れて行かれるんですか?」
 秀子が聞いても運転席と助手席に乗っている警官は無言だった。
 秀子は次第に恐ろしくなり、身体が震えてきた。
「もしかして、偽警官?」
 秀子の中では新たな恐怖が渦巻いていた。

二十六 思い出したくない日々 ⅩXⅡ

 秀子は、玄関先で不意に少女監禁、誘拐罪容疑で現行犯逮捕されてしまったので、携帯はおろか、財布も何も持っていなかった。それだけでも不安だったが、乗せられた警察車両と思われる乗用車は市街の警察署と離れる方向の郊外に向かって走っていたからますます不安になった。会津若松署は会津若松駅から約1キロしか離れていないのだ。だから、警察なら秀子のマンションからそう遠くはないから直ぐに着く。生まれて初めて手錠をかけられ拘束されたことだけでもショックが大きい。

 秀子は街灯がまばらな道路を走っていたから、自分がどこを走っているのかさっぱり方向が分らなかったが、秀子を乗せた車は国道118号を走り、下郷町から国道121号に入って南会津町の方向に走っていた。国道121号に入ると、やがて山間部にさしかかり、あたりはすれ違う車が減り、人影もない寂しい道になっていた。

 と、車は急に右折して林道に入った。右折してから間もなく、古びた山小屋の前で停車した。

「降りろ」
 男たちは秀子を後部座席から引きずり出した。
「歩け」
 秀子は抵抗したが、脚を蹴られた。
「ギギィッ」
 小屋の扉を開けると、秀子は小屋の中に突き飛ばされて倒れこんだ。中は明かりがなくて暗闇だ。男の一人がライターを点けると、倒れこんだ所は藁が積まれていた。

「おめ、あっぱとっぱ? (あんた、気が動転してるだろ)あばかかねから、あんしんすろ(襲わないから安心しろ)」
 どうやら郡山方面の方言らしい。するともう一人が、
「あんね、あんもけっけはえどるだが? わいのいもっこいっちだかんなぃ(ねえちゃんよぉ、陰毛生えてるだろ? オレの物を入れてやるからさぁ)えへへぇ」
 と薄ら笑いをした。秀子はぞっとした。男たちは自分をレイプする気だろう。

「やめてぇ、やめて下さい」
 秀子は思わず悲鳴に近い声で叫んだ。
「あーん、やだおらけ? あんねやろこしらねだ? もごせだのぉ(あぁ、やりたくねぇんだな? ねえちゃん男を知らないんだろ?可愛いネェ)」
 男たちはわざと方言を使っているようだ。

 秀子は精一杯抗ったが、疲れ果てた様子を見て、男の一人が秀子の下半身を裸にした。藁の上で股を広げられて、男の突っ張った一物を突っ込まれた。秀子は初体験は済ませていたが、それでもレイプされた時の衝撃は大きかった。
 男たちが交代で果てると、泣いている秀子をそのまま置き去りにして、
「紀代っちに手を出すな」
 と投げ台詞を言い置いて小屋を出て行った。
 鈍いエンジンの音が遠ざかると、あたりは静まり返り、悲しさと恐ろしさに振るえ、秀子は泣き続けていた。

 隙間から差し込む光であたりがうっすらと明るくなってから、秀子は周囲を見渡した。藁が沢山積み重ねてあるだけで、他には何もない小屋だった。秀子は乱れた洋服を調えて小屋の外に出た。周囲は林で人影はない。仕方なく、秀子は坂道を下って林道に出た。寂しい林道で車も通らない。さらに林道を下るとようやく軽トラックがのろのろ走って来た。

 秀子は必死で軽トラを停めて、
「広い道路まで連れてって下さい」
 と頼んだ。軽トラを運転していたおじさんは親切な男で、
「おめ、どっちにいくだ?」
 と聞いたので、
「会津若松です」
 と答えた。
「すかたね、下郷までさ乗ってけ」
 と下郷町まで乗せてくれた。財布はないし、携帯もなく、髪の毛はボサボサ、着ているものはしわくちゃだ。誰が見てもホームレスみたいな格好だったが、土地の人は親切で理由も聞かれずに三台乗り換えて秀子は会津若松に辿り着いた。

 だが、マンションに戻って愕然とした。またまた部屋中が荒らされていたのだ。秀子は泣きたくなった。とりあえず風呂場に入って、シャワーで乱暴されたその部分を丁寧に洗い流して、着ているものを全部着替えた。それから、荒らされた家財を一つ一つ元通りにした。
 その日は会社に行くのも億劫で、上司に電話をして休みを取った。秀子はもう限界だった。それで社長の辰夫に電話をした。

 秀子は今まであった色々な出来事を報告して、今月から給料を三割も減給されてしまった話もした
「もう、あたしダメ。紀代ちゃんが可哀想だけど、とても無理です」
 だが辰夫に、
「必要な金は出すから、もう少し頑張ってくれないか」
 と説得されてしまった。

 翌日秀子は出勤すると、昨夜書いた辞表を上司に出してから会社を出た。もう悪魔のような雅恵とは二度と顔を合わせたくなかったのだ。
 夕方、真っ青な顔をして、紀代が秀子のマンションにやってきた。

二十七 思い出したくない日々 ⅩⅩⅢ

 雅恵は紀代に全く食事を与えなくなったが、最近は家で何も食わせてもらえなくとも、紀代は全くダメージを受けていない様子で、それを雅恵は我慢できなかった。憎らしい紀代を虐めてやるつもりで食事を抜いても、紀代は今井秀子のマンションに上がりこんで腹いっぱいご馳走を食べてくる様子だからお手上げだ。特に最近紀代の着る物が垢抜けて、下の実子の妹たちより綺麗になったのが癪にさわって仕方がなかった。

 紀代の顔を見てむしゃくしゃしていた時、夫の辰夫から電話が来た。電話の内容は秀子のことだ。
「おまえ、最近会社の秘書の今井さんを随分虐めているじゃないか」
 辰夫は今井秀子から聞いて、驚いて妻の雅恵を電話で叱った。雅恵は、
「まぁ、そんなお話し、あなたどこからお聞きになったの? そんなことがあったなんて、あたし全然知らなかったわよ。誰がそんな(むご)いことをするんでしょうね」
 と逆に雅恵に質問されてしまった。これには辰夫も声がしどろもどろになった。考えてみれば、雅恵の仕業だという証拠は何もないばかりか、秀子の告げ口でありもしないことを色々言ってきたとも考えられるのだ。
「本当にお前、何もしてないのか」
「当たり前でしょ、可愛い紀代にあたしがそんなことをするわけもないし、あたし、秀子さんには何も恨みはありませんからね」
 雅恵はかえって夫が何故自分に辛く当たるのかと文句を言う始末だ。辰夫は振り上げた拳を下ろす場所がなくなってしまった。

「お前の言うことが本当だとしてもだ、何で今井さんを三割も減給させたんだ? お前、職権乱用じゃないのか?」
 辰夫がそう言うと、
「あなた、郡山に行ったきりで、何も目が通ってないのね。秀子さんはずうずうしいったらありゃしないですよ。あたしはクビにしてもいい位に思ってますのよ。三割減給は就業規則通り罰を与えただけですわ。あの人はあたしに一時間以上も倉庫で仕事をしていたと言い訳なすったのに、監視カメラの映像に仕事どころか、仕事をサボってブラブラしているのがはっきりと残ってましたのよ。しょうがない社員だわね。皆が忙しくしているのに自分だけサボって、月給泥棒よ」
 雅恵は月給泥棒と言ってしまってから、かって前妻の由紀に「泥棒」と罵倒されたことを思い出していた。

 辰夫はちゃんと証拠を掴んで、本人も承知で就業規則に従って減給処置を命じたと知って、返す言葉がなかった。すっかり雅恵のペースに嵌まってしまったのだ。
 秀子を雅恵が直接手を下して虐めたわけでもなくて、証拠もないし、警察も起訴を躊躇している様子だから、辰夫はそれ以上雅恵を攻め立てることはできなかった。

 辰夫からの電話が切れると、雅恵は学校の校門で紀代を待ち構えていて、紀代が秀子のマンションに行く前に紀代を家に連れ戻した。紀代が雅恵の手を振り切って逃げようとするのを雅恵はしっかりと掴んで紀代の手を離さなかった。下校中紀代が雅恵に引き摺られるように連れて行かれる様子を担任の檜山が見ていたが、それだけでは手を出せなかった。

 家に戻ると、雅恵は紀代の髪の毛を掴んで引っ張り、外から鍵がかけられる部屋に押し込んでしまった。水も食事も与えずに雅恵はほったらかしにしておいた。
 紀代は空腹に耐えることには慣れていたから、何の苦痛もなかったが、困ったことにおしっことうんちをする所がなかったのだ。勿論トイレットペーパーがあるはずもない。紀代はおしっこが我慢出来なくなって、戸をドンドン叩いて訴えたが、雅恵はもちろん妹たちも知らん顔でほったらかしになっていた。

 仕方がなく、紀代は部屋の隅っこにしゃがんで放尿した。もう限界になって、泣いてもほったらかされてどうしようもなかったのだ。夜大便をもよおした時だってほったらかされ、仕方なくおしっこをした部屋の隅にうんこをしてしまった。紙がなくて、困ったがどうしようもなく、持っていたハンカチで尻を拭った。

 翌日は勿論学校に行かせてもらえずに休んだ。心配した檜山先生が電話をしてきたが、
「あらぁ、朝ちゃんと学校に行くと言って家を出たきりですよ。あの子ったら、どこに行ったんでしようね。時々学校をサボってどこかへ出かけているの、先生もご存知ですわね。その内戻ってきましたら電話でお知らせいたしますわ」
 雅恵にそう返事をされて、檜山はそれ以上何も言えなかった。

 紀代は何も食わせてもらえずに、その日一日閉じ込められていた。夕方雅恵が様子を見るために外から部屋の鍵を開ける音がして、紀代は扉の方に駆け寄った。その時、電話が鳴って雅恵が電話機の方に行った。紀代は、
「今だっ!」
 と咄嗟に判断してドアーから抜け出て、屋外に走り出ると裸足で一目散に逃げて秀子のマンションに向かった。まる一日水を一滴も飲まず、夜もろくに眠れなかったから、顔は真っ青になり、足元もふらついたが、それでも紀代は必死に走った。

二十八 談合屋

 秋元辰夫は郡山に大型ショッピングセンターを建設する際に、数々の難問にぶち当たった。その中で最も苦労をしたのは、建設に反対する色々な勢力との衝突だった。先ず、土地の買収で、確保したい用地の一部に頑固な地主が居て、なかなか買収に応じてくれなかったこと、地元の商店街からは死活問題だとして相次いで苦情が持ち込まれたこと、周囲の景観を破壊すると環境保護団体から日夜陳情があったこと等など一つ一つ上げたら数え切れない程だ。

 そんな揉め事の間に立って暗躍する組織があった。談合屋の存在だ。談合屋は俗にダンゴヤとも呼ばれる奴等で、敵に回すと始末が悪いのだ。多くは地元の暴力団と繋がっていたりする。談合屋は揉め事の仲裁に立って双方から金を取って揉め事を丸く納める役割があったが、弱い立場の方を攻めて、潰さない代わりに金を搾取する悪質なものまであるのだ。

 辰夫は会津若松の時は地元で顔が利く有力者と馴染みがあって、力になってもらったから大した揉め事もなく開店まで漕ぎ着けたが、郡山ではそんな有力者がおらず、最初は相当に苦労をした。そんな時、元暴力団の若頭だった男、堂島士道(どうじましどう)に出会って、そいつに揉め事を取り仕切ってもらい難問の解決をしてきた。そのため、今では士道と飲み友達になっていた。士道が本名かどうかは知らなかったが、子分が大勢おり、兄貴、士道さん、士道兄貴と皆から慕われていた。

「士道さんよ、個人的な頼みを一つ聞いてもらえんか」
「秋元さんの頼みなら聞きますぜ」
「実はな、会津若松のマンションに居るオレの女が最近わけの分からん二人組みに痛めつけられて困っているんだ。その二人組みを捕まえてくれんか」
「捕まえてどうするんだ」
「そいつらのバックを吐かせて欲しいのよ」
「分りました。やりましょう」
「すまんなぁ、女のマンションを張ってれば必ず近々仕掛けてくるはずだ」
 そう言って辰夫は今井秀子の名前とマンションの住所を教えた。

 辰夫が士道に頼んだことを知らずに、探偵とつるんで秀子を脅している二人組みの男たちはその日も秀子のマンションを襲った。先日秀子をレイプした日に、二人はマンションに戻って部屋の中を荒らしたついでに玄関の鍵を見つけて合鍵を作ったから、玄関の扉が閉まっていてもどうってことはなかったのだ。一度錠前を交換されてしくじった経験から彼らは慎重だった。

「紀代ちゃん、お買い物お願いね。欲しいものはこのメモを見て下さいな」
 紀代は秀子に頼まれて食材と日用品の買い物に出かけた。

 突然、先日秀子をレイプした二人の男が施錠をしたはずの玄関から堂々と入ってきて、薄ら笑いをしながら、
「ねえちゃんよ、またHしようぜ」
 と秀子を部屋の隅に追い詰めた。秀子は身体が固まってしまって、怖ろしくて身動きができなかった。

 その時、開けっ放しの玄関から知らない顔の男たちがどやどやと入ってきた。男の一人が振り向いて、
「あんたら何しに来た?」
 と聞いた。後から入ってきた男たちは無言だ。秀子は二人でも怖いのに、新たに五人くらいの男たちが侵入して来たのを見て、身体中が震えた。

 後から入ってきた男たちは二人組と格闘を始めた。二人組みの男はセミプロだ。そう簡単には屈しなかったが、キラリと光るドスを見て観念した。二人組みは停めてあったベンツに押し込まれて、郡山方面に走り去った。男たちが皆出て行った後もしばらく秀子は震えが止まらなかった。

「お姉ちゃん、どうしたの? またあいつらが来たの?」
 紀代がお使いから帰ると真っ青な顔で震えている秀子を抱きしめて聞いた。秀子はさっき遭った怖ろしい出来事を紀代に話すと、少し気持ちが落ち着いてきた。

 郡山の士道の事務所で二人組みは痛めつけられて、最後には××と言う会津若松の探偵から金をもらってやったと吐いた。士道の子分は会津若松に戻って、探偵をおびき出して捕まえ、郡山に連れてきた。探偵は口が堅く頑張ったが、結局拷問に耐えられずボロボロにされて、
「秋元雅恵と言う女から金が出ている」
 と吐かされた。

 辰夫は士道からの報告を聞いて、秀子が正しかったと納得した。秀子を虐めていたのは妻の雅恵だったのだ。秋元辰夫は複雑な気持ちになったがこの時、実の娘紀代を守るために、いずれ雅恵とは別れることになりそうだと思った。

「奥さん、今井秀子から手を引きます。済みません」
 突然の探偵の申し出に雅恵は驚いた。
「あら、どうして? 美味しい仕事でしょ」
 だが探偵は何も説明をしなかった。探偵は秀子のマンションの合鍵を雅恵に渡すと逃げるように去って行った。

 その日から、今井秀子を襲う者は居なくなった。紀代は相変らず秀子の所に一緒に住んでいた。監禁されて逃げた日から怖くて家には戻りたくなくて、ずっと秀子と一緒に住んでいた。秀子はスーパーを退職したので、新しい仕事が見付かるまで紀代と一緒に暮らすことにしたのだ。紀代は秀子の所から学校に通った。

 雅恵は探偵に秀子の虐めを辞退されていたから、毎日腹が立ってむしゃくしゃしていた。それで、どうにも癪にさわる秀子を自分で懲らしめてやるつもりで、雅恵は変装をして家を出た。

 探偵から受け取った合鍵を使うと秀子のマンションのドアーは簡単に開いた。秀子が家の中に入ると、丁度秀子と紀代が楽しそうに夕食を食べていた。
「秀子、紀代を監禁して、あんた何が楽しいの?」
 そう言うなり、椅子から紀代を引き摺り降ろして、紀代の頬っぺたを引っ叩いた。紀代は雅恵に思い切り引っ叩かれて、床の上に転がった。雅恵は食卓をひっくり返すと、秀子の髪の毛を掴んで頬っぺたを引っ叩いた。秀子も力いっぱい抗った。それを見て、紀代は携帯を取りに行って、
「何かあったら連絡をしなさい」
 と常々言われていた警官に電話をした。運良く警官に電話がつながった。
「お願い、直ぐに来てぇ。あたしとお姉ちゃんが殺されるぅ」
「分った。直ぐに行く」

 食卓をひっくり返した雅恵は、抵抗する秀子の顔面をぶん殴った。秀子の鼻から鮮血が飛んだ。
「あんたなんか、殺してやる」
 そう言うと雅恵はキッチンのテーブルに置いてあった包丁を持つと、秀子に切りつけた。秀子も椅子を持ち上げて抵抗したが、雅恵が振り回す包丁が左腕をかすって、秀子の腕から鮮血が飛び散った。阿鼻叫喚、秀子の悲鳴が部屋中に響いた。

 その時、パトカーのサイレンがマンションの前で止まり、続いて警官が二人、秀子の部屋に飛び込んできた。
 雅恵は殺人未遂、児童虐待の現行犯でその場で警官に取り押さえられた。

二十九 離婚

 雅恵は殺人未遂、児童虐待容疑の現行犯逮捕されて、翌日から取調べが始まった。
 一方、秀子と紀代も参考人として、警察に出頭命令が出た。夫の秋元辰夫は妻の雅恵との児童虐待容疑に関わる連帯責任を問われて逮捕され、会津若松署に連行された。

 取調べは厳しかった。以前から秀子の周辺を特別に警戒していたこともあり、今までは雅恵を逮捕する糸口がなかなか見付からず、警察はこの日が来るのを待っていたきらいがあった。

 翌日の新聞には雅恵の殺人未遂事件が地元紙の三面に大きく報じられて、スーパーアキモトの事務所の中は騒然となった。当然のこと、雅恵の実家や辰夫の喜多方の実家にも知られることになって、親戚筋でも大騒ぎになっていた。
 新聞には紀代に対する児童虐待について、学校の加藤教諭と檜山教諭のコメントまで掲載されていた。

 辰夫は、加藤教諭と檜山教諭の口添えがあり、辰夫本人が犯行当時郡山に居たこともあって、翌日釈放された。

 辰夫は秀子のマンションに立ち寄った。
「秀子の話しだが、先日その話を雅恵に話した時はもしかして秀子がウソをついているのかと一時疑ってしまって申し訳なかったな。その後、僕の知り合いに頼んで、秀子が言っていた二人組みとバックに居た探偵を捕らえて全部白状させたよ。これからはもう襲って来ることはないだろう。その時探偵が雅恵から金をもらって、あんたたちを襲ったことも突き止めた。本当に済まなかったな」
 辰夫は秀子と紀代に事件のいきさつを話して謝った。
「紀代、長い間辛い思いをさせて済まなかった。可哀想なことをしてしまった。当分の間、秀子さんをお母さんだと思って、一緒に仲良く暮らしてくれないか」
 紀代は父親の辰夫の願いがかえって嬉しかったし、その話を聞いて秀子が抱きしめてくれたので思わず泣いてしまった。秀子はこの時、今までで一番紀代に優しくしてくれたと思った。

 雅恵の尋問が終わって、警察は殺人未遂と児童虐待の罪で雅恵を起訴した。辰夫はこの知らせを受けて、家庭裁判所に離婚の訴訟手続きを取った。手続きはスーパーアキモトの顧問弁護士が全て処理してくれた。

 一ヵ月後に、辰夫と雅恵の離婚が成立した。辰夫は雅恵の実子、留美と久美を雅恵の実家に引き取ってもらった。長男の辰仁は喜多方の辰夫の実家の両親が面倒を見てくれることになった。紀代は当分の間、秀子に預けた。
 こうして辰夫の家族は離散してしまった。辰夫は単身で郡山に住み、開店直後の大型ショッピングセンターの仕事に傾倒した。喜多方の店は父親の辰吉と母のよねに任せ、会津若松店は辰夫が不在の時に実質的に店の管理を引き受けていた部長を店長に昇格させて、全てを任せた。

 郡山のショッピングセンターは予想以上の客の入りで、順調な滑り出しとなった。この地域にはない大型店とあって、近隣の市町村からも客が集まった。辰夫は駐車場の隣に確保しておいた広い敷地に遊園地を増設して、遠路から来てくれる客が買い物だけでなくて、家族で行楽を楽しめるようにした。更に遊園地の一角にボーリングをして天然温泉施設も建造した。これが当たった。買い物ついでに温泉でゆっくりして行く客が大勢居て、温泉は連日盛況となった。

 ようやく軌道に乗ったのは、歳を明けて春になっていた。紀代もこの年、いよいよ中学生になる予定だ。
 辰夫は紀代が中学に進むのを機会に、秀子と紀代を郡山に呼び寄せ秀子に、
「結婚してくれ」
 と頼んだ。秀子は会津若松店時代に社長秘書として良くしてもらった思い出があり、辰夫のプロポーズを受けることにした。こうして、紀代は三人目の母、秀子の一人娘となった。

 裁判の結果、雅恵は懲役十年、執行猶予なしの実刑判決を下されて、長い監獄生活を強いられた。裁判員制度がスタートしてから、児童虐待に対する裁判員の判決が相当に厳しくなったようだ。雅恵は四十歳を過ぎていたから、刑期を終えて出所する時には五十歳を過ぎているだろう。雅恵の心休まる幸せな時代は辰夫と結婚する前のほんの一年か二年間だったと言える。運命の悪戯か、本人の不徳か、人の人生は分からないものだと親戚中で囁かれた。

 郡山の中学校に進んだ紀代の三年間は幸せだった。秀子は我が子のように可愛がってくれたし、秀子と並んで新しい家の素的なキッチンで料理を作る時も紀代は最高に幸せだった。父の辰夫も紀代の調理上手の才能を認めてくれた。紀代が中学三年生の時、秀子は辰夫の子供を懐妊した。紀代は自分の弟か妹が出来ると思って楽しみにしていた。

三十 幸せ過ぎるのは怖い

「秀子ママはあたしにとても優しいし、パパが稼いでくれるから、お金に不自由してないし、学校でも仲良しのお友達ができたし、最近のあたしって、幸せ過ぎてなんか怖いみたい。突然に悪いことが起こったらどうしよう?」
 郡山の中学に上がってから、紀代の生活は充実していた。雨の日や寒い日は秀子が車で送り迎えをしてくれる。それで、学校から帰って、紀代は秀子にそんな風に言ってみた。
 家は辰夫が秀子と再婚したのを機会に、市内の閑静な住宅街に大きな家を建てた。紀代の部屋は広くてゆったりしているし、居間は友達を連れてきてパーティーをやっても余裕がある広さで、隅に紀代用のグランドピアノが置いてある。紀代は学校から帰ると、夕食の仕度を秀子と並んでやるまでの少しの間、幼い頃に覚えたピアノの練習曲を演奏して楽しんでいた。

 家に友達を呼ぶと、紀代はいつも腕を振るって美味しい手料理を作ってもてなした。そのため、学校ではちょっとした話題になり、男の子たちも食べ物に釣られて、
「たまには誘ってくれよ」
 と紀代に言い寄った。だが、紀代は男の子の誰とも深い付き合いはしなかった。それが返って男の子たちの関心を呼んだのだ。だが、紀代の小さな胸の中では、紀代が辛い悲しい思いをしていた時に優しくしてくれた吉村啓がまだ暖かく残っていた。会津若松の小学校を卒業した直後に、啓は前にデートした御薬園に誘ってくれて、その時、紀代が郡山に引っ越すのを知って、記念に携帯のストラップをくれた。紀代はその大切な想い出を今も大事に心の中にしまっていたのだ。初めてのデートで、二人で食べたお弁当のことを今でも鮮明に覚えている。

 辰夫は相変らず帰りが遅い日が多かったが、遅くなっても必ず帰宅をして、出張以外で一人で外泊をすることはなかった。
 [一人で]と言うのは、結婚後、紀代が年頃の女の子なので、夫婦の営みは家の中を避けて、紀代に留守番を頼んで、秀子と二人で郡山から近い安達太良山山麓の岳温泉などに出かけていたのだ。秀子は温泉が大好きで、夫の辰夫にして欲しい時は、
「ねぇ、明日温泉に連れてって」
 とせがんだ。辰夫は秀子の気持ちを良く理解していた。だから、雅恵の時とは違って夫婦は円満だった。そんなことも紀代が幸せを感じている一因かも知れなかった。

 紀代に、
「幸せ過ぎてなんか怖い」
 と言われた時、秀子は紀代に話をした。
「紀代ちゃん、今まで悲しいことが一杯あり過ぎたから、きっとそんな風に感じるのよ。今の紀代ちゃんの生活は普通の家庭と同じよ」
「そうかなぁ、学校ではお金持ちのお嬢様なんてからかわれたりするよ」
「そうねぇ、サラリーマンのご家庭よりは少しはましな方かも知れないわね。パパのお陰よ」
「そう言えば、秀子ママもパパに愛されてて幸せでしょ」
「こらっ」
 秀子はおどけた顔で紀代を睨んだ。
「ママ、顔が赤くなってる」
「もうっ、紀代ちゃんたらぁ。この頃おませになったわね」
 だが、秀子は紀代にからかわれても悪い気はしなかった。事実、辰夫は秀子をとても愛してくれていたし、秀子も心から辰夫を愛していたからだ。

「紀代ちゃん、過ぎたるは、なお及ばざるが如しって言葉知ってる」
 食事の後でも紀代の、[幸せ過ぎてなんか怖い]話を秀子は話題にした。
「良くは知らないよ」
「この言葉はね、紀元前五百年位の中国の春秋時代に生きていた孔子と言う賢い人、つまり子供の頃から勉強好きで、大人になってからは日本の昔の寺子屋みたいに生徒を集めて自分が学んで得た知識を教えていた人で、後に中国で初めて学校を作ったと言われている人の言葉なのよ。なので今で言えば大学の先生みたいな方の言葉ね。その孔子に子貢と言う他人の噂話が大好きなお弟子さんが居たの」
「随分昔の話しね」
「そう。大昔だわね。その弟子の子貢がね、二人のお弟子仲間のことを、『どっちが頭がいいかなぁ』って孔子に聞いたんだって」
「それで?」
「そうしたら、孔子がね『片方の奴は頭が良過ぎるし、もう一人の方ははやや頭が悪いなぁ』って答えたんですって。それで、子貢が、『じゃ、片方の奴の方が優秀ってことですよね』と念をおしたら孔子がね、『過ぎたるは、なお及ばざるが如し』って答えたんですって」
「それってどう言う意味なの」
「孔子はね、ちょっとぐらい頭が良くても、多少頭が悪くてもおなじようなものだよと言う意味でそんな風に答えたんですって」
「そうかぁ、そう言う意味かぁ」
「孔子はね、頭が良過ぎたら威張らないで少し慎んだ方がいいんだよと言う意味で弟子の子貢に話したんですって。つまり、本当はね孔子は、『オレは頭がいいんだ』といつも威張ってる子貢に、『お前も少しはつつしめよ』と言いたかったそうね」
「それであたしの[幸せ過ぎてなんか怖い]とどうつながるの」
「それはね、紀代ちゃんが幸せ過ぎると感じた時は辛くて悲しかった時のことを思い出して、例えばお金を遣ったりする時に大事にお金を遣ったり、学校での立ち居振る舞いに気を付けて、あたしは幸せ者なんて顔をしてないかいつも心の隅で反省をすることね」
「そうなんだ?」
「そうよ。正直は大切なことですけど、正直過ぎてバカ正直になると、時には他人を傷つけてしまうことだってあるのよ。だから、物事はほどほどがいいのね」

 紀代は秀子の話を聞いている間に、最近の自分が少し有頂天になり過ぎていることに気付いた。有頂天になっていると、突然不幸が訪れた時、谷底にまっ逆さまに堕ちて立ち上がれなくなるけれど、有頂天にならずに、いつも[過ぎない]ように気を付けていればどん底に堕ちずに済むような気がした。それに、学校で自分が幸せだと言う顔をしていると、もしかして、以前の自分のように辛い思いをしている友達が居たら、知らず知らずにその友達の心を傷つけてしまっているのかも知れないと言うことにも気付いた。紀代は、
「秀子ママって偉いなぁ」
 と改めて義母の秀子を尊敬した。

 秀子は辰夫が経営する郡山の大型ショッピングセンターの取締役に就任しており、毎日二時間か三時間センターの事務所に顔を出していた。事務所には会津若松と違って、ちゃんとした役員室があり、その中に秀子の大きなテーブルと椅子も用意されていた。辰夫には二十代後半の岩谷由佳さんと言う秘書が居たので、秀子は社長秘書の仕事をする必要はなかったが、新しい出店計画や、経営内容の月次報告などがあり、秀子が出勤すると必ずマネージャーが挨拶にやってきて、説明をしてくれた。大きな問題は役員会で審議をした上決済されるので、秀子が直接決済をする事項はなかったが、マネージャーの説明は役員会の審議事項や会社の業績を掌握する上で役に立った。

 施設を見回る時には秘書の由佳が必ず同行して説明をしてくれた。だから、店内を秀子が回る時は、店員は秀子に一礼をして秀子に失礼のないように気遣っている様子だった。しかし、そんな時、秀子は雅恵と違って、決して人を見下すような素振りを見せずに丁寧に会釈を返していた。[過ぎたるは、なお及ばざるが如し]は秀子のモットーでもあったのだ。

 紀代が心配した悪いことは案外早くに訪れた。それは会津若松店での事故だった。

三十一 犯行計画

 雅恵が紀代を秀子から引き離すために、探偵の仲間に秀子虐めを依頼したが、仲間の二人組みと探偵は堂島士道の手下に捕まって、半殺しにされた挙句、全てを吐かされ、雅恵が失墜、刑務所生活になってからは雅恵からの金はピタリと止まってしまった。探偵の仲間の二人組みは岸辺次郎(きしべじろう)原英明(はらひであき)と呼ぶ三十代後半の男たちだった。探偵と二人組みの間では支払われた金が多いとか少ないとかで揉めていたが、探偵が折れて次郎と英明に相当額を支払い一応仲直りをした所だった。

 次郎と英明は探偵から聞いて自分達を半殺しにした奴等の親分は士道だと分かってはいたが、彼等に仕返しをする勇気はなかった。仕返しをすれば、今度は命があるかないか分からない手荒い奴等だ。士道に自分達を邪魔させた大元はスーパーアキモトの社長秋元辰夫だと言うことは分っていた。

 次郎と英明はどうにも気持ちが治まらず、士道の代わりに秋元に仕返しをしようと考えていた。秋元には士道のバックがある。だから下手に手出しをすれば、自分達がやられる畏れは十分にあった。
「おいっ、秋元のスーパーをめちゃくちゃに出来ないかなぁ」
「店の中にダンプかショベルカーでも突っ込めば相当に破壊できそうだけどな、そんなことをしたらおれたちがサツに捕まってしまうよな。もうちっとましな方法を考えようぜ」
 次郎と英明はない知恵を絞ってスーパーアキモトを攻撃する方策を毎日のように考えていた。

 そろそろ夏の暑い日が近付いた頃、大学の後輩の昇を脅して、
「感染するとさぁ、ちょい病気になるような細菌と培養方法を教えろよ」
 と話を持ちかけた。最初は、
「警察に訴える」
 とか言って反抗したが十万円を掴ませると、
「ノロでもいいですか」
 と応じた。
「ノロって何や?」
「ノロウィルスですよ」
「下痢とか熱を出すやつか?」
「そうです。めったに死ぬようなことはないですが」
「おお、それがい。そいつ、簡単に殖やせるのか?」
「殖やすのは簡単ですよ」
 昇は薬学部の大学院生で、研究室に菌体が保管されているから簡単に手に入ると言った。

 昇に教えてもらって、次郎と英明は新潟県新発田市(にいがたけんしばたし)の海岸沿いにある一軒の空き家を借りた。借りた理由はしばらく釣りに使うからと説明した。
 次郎は大きなプラスチックの箱を二個買い、英明は魚市場からアサリを10キロも買ってきた。
 二人は海岸から海水を汲んでくると、プラケースに海水を少なめにはり、あさりを二つに分けて入れた。
 昇の話しだと、ノロウィルスは二枚貝の中でよく増殖するらしい。
「よっしゃ、これでいい」
 次郎は昇からもらったノロウィルスの菌体をそれぞれのプラケースにたらした。そしてその日から、ノロウィルス菌の培養を始めた。

 一週間が過ぎた頃、
「どや、テストしてみるか」
 と相談を始めた。
「お前が付き合ってる君子に飲ませろよ」
 英明が言うと
「君子かぁ、最近オレに冷たくしやがるから、やったるか」
 と次郎が同意した。
「昇がよ、死ぬことはめったにねえって言ったから大丈夫だよな」
 自分の気持ちを確かめるように次郎は呟いた。やはり付き合っている女の子をモルモットにするんだから、少しは後ろめたい気持ちがあった。
 英明はプラケースの水槽からアサリを五個取り出して、ナイフで殻をこじ開けて汁を小瓶に絞り出した。全部終わると蓋をきっりと閉じて、手を良く洗い、小瓶もティッシュで綺麗に拭き取った。

 ノロウィルスの小瓶を持って、二人は会津若松に戻ると、
「ちょっと飲まないか」
 と君子を誘った。
「あんたから誘いが来るなんて珍しいわね」
 君子は普段よりおめかしをしてやってきた。
「暑いネェ」
 そう言いながら、次郎は君子が英明と話をしている間に、君子のお冷に小瓶の液を少したらして、そ知らぬ顔で自分のお冷を飲んだ。君子は英明と話をしている間に、お冷を取って、ぐっと飲み干した。
「あらぁ、このお冷、少し潮の香りがするなぁ」
 君子がそんな風に言ったので、一瞬次郎はギクッとした。

 効果は直ぐに出た。翌日携帯に電話をすると、君子は元気のない声で、
「あたし、風邪引いたのかなぁ? 頭痛くて、お腹も少し痛いよ」
「ほんとか? 後で見舞いに行くよ」
 夕方次郎と英明が君子のアパートに行くと、朝食べた物を吐いて、下痢がひどいと言った。
「昨日飲み屋で食った物が悪かったのかなぁ。そうだ、君子酢牡蠣食っただろ? それかも知れねぇな」
 結局君子はまる二日間寝たままで、二日目の夕方ようやく熱が下がって落ち着いてきた様子だ。昇に教えてもらった症状と同じだった。

 雅恵がスーパーアキモト会津若松店で威張っていた頃、雅恵が可愛がっていた熊谷と言う青年がいた。次郎たちより少し若い男だ。以前雅恵と一緒に居た時に紹介されて顔を知っていた。

 英明と次郎は熊谷を呼び出した。
「秋元の社長夫人、刑務所にぶちこまれて可哀想なことをしたな」
 次郎が水を向けると、
「あの秋元社長はひでぇ奴です。雅恵さんが刑務所に入ってから一度も面会に行ってないらしいです。オレは月に二回か三回今でも面会に行ってます」
 熊谷が社長を罵った。
「あのな、頼みがあるんだ。聞いてくれるよな」
「オレに出来ることなら」
「あんたとこのスーパーのバックヤードじゃ手洗いをやかましくしてるだろ」
「ああ、今の暑い季節は特に厳しいっす」
「手を洗う時、石鹸水を使ってるんだろ」
「はい。でかいポリ容器から小さい容器に分けて毎日使ってます」
「すごい量を使うのか?」
「まあ、多いですね。一日ででかいポリ容器が空になりますから」
「相談だけどよ、オレの友達が洗剤を扱う商社やっててよ、手の消毒用洗剤の試供品と言うかサンプルを一度タダでいいから置かせてもらえないかと頼まれているんだ。あんたとこの今の洗剤の代わりに二、三日置かせてもらえないか? 使い終わったら、容器を全部回収して捨てちゃってくれよ」
「捨てても構わないんですか? なんだ、そんなことですか。無料でサンプルを出してくれるなら明日でもいいですよ」
「じゃ、友達に話してOKが出たら連絡をするよ。あっ、今日のメシ代はこっちで持つよ」
「いつも悪いっすね」
「いいのよ、いいのよ。今度雅恵さんに会ったらよろしく言っておいてよ」

 約束してから三日後、水槽のアサリを半分開いて、汁を集めて手洗い用の洗剤らしく淡いブルーの色を付けたノロウィルスの入った溶液を20リットル入りのポリ容器二個に入れて、次郎と英明はスーパーアキモトを訪ね、店内のバックヤードの片隅に置いてあった今まで使っていたポリ容器と交換した。ついでにポリ容器の一個を開けて、小分けした小さなポリ容器を作って、店内のあちこちにあるものと交換した。もちろん客用のトイレに置いてあるものも交換した。熊谷はずっと次郎たちに付きっ切りでいたから、どことどこを新しいものに交換したのか良く覚えた。
「明日から明後日が楽しみだなぁ」
 スーパーを出ると、英明と次郎は薄ら笑いをして去って行った。

三十二 汚染の波紋

 二人組みの次郎と英明、そしてスーパー店員の熊谷が三人で交換した手洗い洗剤消毒用溶液は交換した翌日の夕方には残っていた20リッターのポリタンクのも含めて全て使い切ってしまった。熊谷は、次郎に言われた通り、回収した小出しの容器とポリタンクをその日の内にゴミに出して捨ててしまった。小出しの容器には元々使っていた手洗い洗剤消毒用溶液と似たラベルが貼ってあったから、誰も一時的に違うものと交換されたことに気付かなかった。食品衛生を徹底するため、皆が頻繁に使うものなので、容器の交換は日常的に行われていたから余計気付かれなかったようだ。

 ノロウィルス入りの洗剤に交換された翌日から、バックヤードで作業をしている店員が頭痛、発熱、嘔吐、下痢の症状を訴え、続々と会社を休み始めた。驚いたスーパーの管理部長は警察と保健所に届け出た。
 店員ばかりでなくて、刺身や生魚、弁当の寿司、レタスなどの生鮮野菜など様々な食品を買った客も店員と同様に頭痛、発熱、嘔吐、下痢の症状で病院に運ばれる者が続出した。スーパーには市内だけでなく、近隣の市町村からも大勢の客が来るので、食中毒を起こした者たちは広い地域にわたり、思いの他急速に汚染の広がりを見せた。

 保健所には相次いで病院などの医療機関から情報が寄せられ対応に忙殺されていた。
 スーパーのバックヤードから大勢の患者が出たことから、保健所では今回の食中毒は恐らくスーパーの従業員の誰かが保菌者でそれが急速に伝染したと睨んでいた。

 情報を受けた警察は保健所からも[調査の結果ノロウィルスによる食中毒であります]と報告を受けていた。会津地方は丁度夏に毎年開催される磐梯・猪苗代ウルトラマラソン大会の準備で関係者は多忙だった。警察もコースの警戒体制の整備があり多くの警官を割かざるを得ない状態で、折から皇族の視察旅行の計画が翌月に予定されていたため、食中毒関係に係員を張り付ける余裕がなかった。
「今回は保健所の管轄だからな、単なる食中毒で犯罪性も考えられんからな、二名ほど待機させておけばいいよ」
 警察署のトップからこんな指示が出ていた。

 しかし、事態が大々的に新聞やテレビで報道され、スーパーから仕入れた食材を使った給食を食べた老人ホームで死者が出たことから、事態を重く見た厚生労働省が動き出した。更にスーパーで買った食品を食べてノロウィルスに罹った一時感染者の他に、一時感染者から感染されたと思われる二次感染者が増加する兆しを見せていたからだ。兎に角、会津若松を中心に、福島県内は勿論のこと、近隣の新潟、茨城、栃木、山形、宮城と汚染地域が拡大して、ニュースは全国版でも大きく報じられることとなった。新聞やテレビで[ノロウィルスは本来冬季に流行しやすいものだが、真夏に流行するのは珍しい]と医師のコメントが寄せられていた。

 食中毒患者が続出したスーパーアキモト会津若松店のバックヤードは人手不足でてんやわんやしたのは二日間だけで、新聞に報道された三日目から客足がパタリと止まり、殆ど開店休業の状態に追い込まれていた。だから、人員不足だった前日までがウソのように、バックヤードも暇になってしまった。おまけに四日後からスーパーアキモト会津若松店は十日間の営業停止処分を受け、休業となつてしまった。

 生鮮食料品は日持ちが悪い。だから、客足が止まれば、即売上は落ち、在庫がだぶつき、売れ残りの処分品の山になってしまうのだ。
 社長の秋元辰夫は食中毒事件が発生以来、毎日被害者への見舞い、メディアへの対応とむちゃくちゃ多忙になり殆ど徹夜続きを強いられていた。客足が止まり、売上が急落したのも痛かった。

 紀代は学校に行くと、
「不潔」
 とか言われて多くの友達が離れて行った。紀代はこの時何故だか分らないが、秀子に教えられた[過ぎたるは、なお及ばざるが如し]と言う諺を思い出していた。

三十三 人の恨みの怖さ(Ⅰ)

 振り返って見ると、スーパーアキモト社長秋元辰夫と再婚した雅恵が、夫を取られた前妻の由紀に[泥棒]と罵られた恨みを前妻の娘、紀代を虐め抜いて晴らそうとしたことに端を発して、今や南東北全県に跨る大事件に発展して、雅恵の私怨に全く無関係な人々数千人を巻き込んでノロウィルス感染被害で苦しめているのだ。恨みとは恐ろしいものだ。

 だが、発病が始まって一週間もすると、被害は沈静化に向かっていた。高齢者介護施設で発生した食中毒で命を落とした一部の老人を除いて、死者は少なかったため、厚生労働省では
「何らかの経路で感染したスーパーマーケットの従業員が取り扱った食品から生鮮食料品を中心に感染が拡大したものと考えられるが、当初の感染者は特定できず、初期の感染原因は不明である。しかし、潜伏期間を考慮に入れて判断すると沈静化に向かっている」
 と発表、
「尚当分の間十分な注意と手洗いの徹底等の対策が必要である」
 と補足された。この発表を機会に警察では[犯罪性はなかった]と判断して、捜査員をこの事件から外した。
 結局事件の真相は闇の中に葬られて一ヶ月も経つと世間の騒ぎは次第に忘れ去られる兆しがあった。

 しかし、この事件の被害を生々しく今も耐えている者がいた。スーパーアキモト社長秋元辰夫、妻の秀子、それに娘の紀代だった。
 今回の騒ぎは会津若松店から広がったことは公知の事実と断定されていたから、損害賠償請求は全てスーパーアキモトに向かった。
 事件の結果、生鮮食料品を主力商品とするスーパーアキモト三店(喜多方本店、会津若松店、郡山店)の客足は激減し、十日間の営業停止処分が明けてから営業再開後も、益々客足は遠のいた。仮に一人平均治療費、休業補償、慰謝料を含めて十万円としても、被害者が六千人にもなると、賠償金だけで六億にもなる。一人平均三十万円なら実に十八億円もの金が必要だ。売上が急減した最中、そんな金はどこからも出て来ない。

 辰夫は悩んだ末に会津若松店を閉鎖することにした。閉鎖すると言っても簡単ではない。従業員に退職金を払わなければならないのだ。弱り目に祟り目とは良く言ったものだ。辰夫は積立金などの内部留保を取り崩して、何とか従業員に退職金を支払う目処を付けた。被害者への賠償金の方は秀子に強く勧められて加入していた損害保険が相当に役立った。
「全て秀子のお陰だ。今回はこれがなかったら、僕等はホームレスに転落していたな」
 辰夫は今になって、秀子の存在に感謝した。

「あなた、今のこの家、売っちゃいましょうよ」
 ようやく会津若松店の処理に目処を付けた夜、秀子が唐突に辰夫に勧めた。
「えっ、ここも売っちゃうのか?」
「あたし、以前紀代にも色々話しましたから、紀代も分ってくれますわよ。躓いた時に思い切りの良い人は立ち直れますけれど、いつまでも良い時の栄光にしがみ付いている人は必ず転落して再起はできないそうですよ」
 辰夫の中では妻の秀子の存在がこの時ほど大きく見えたことはなかった。即断即決は辰夫の良い性格だった。辰夫は翌日不動産会社に相談して自宅をあっさりと売却してしまった。秀子は、
「足元を見られて安値で買い叩かれても売ってしまって下さい」
 と釘を刺していたから、辰夫は何の抵抗もなかった。大きな家土地は九千五百万円にしかならなかった。時価なら数倍はするだろう。

 辰夫一家は街中(まちなか)の小さなアパートを借りて移り住んだ。余計な家具や調度品は全てリサイクル業者に売却した。紀代が大切にしていたグランドピアノも人出に渡ってしまった。
「賠償請求者をはじめ、世間の方々の目で見ると、あたしたちはこれで良かったのよ。もしも今までの豪邸に居座っていたら、鼻血が出なくなるまで搾り取られますわよ」
 と秀子は笑った。

 不思議なもので、秀子の言う通り生活を落としてボロアパート住まいになると、紀代に学校で[不潔]とか言って去って行った友達が同情して徐々に戻ってきてくれた。
 秀子は紀代の顔が明るくなったのを見て、自分の主張が正しかったのだと安堵していた。そんな時、ヤクザの士道から辰夫に電話が来た。
「秋元さんよ、新聞で読んだぜ。大変だったなぁ。久しぶりに飲まねぇか」
 それで辰夫は士道の誘いに応じていつもの居酒屋に行った。士道は先に来て待っていてくれた。辰夫は落ちぶれた時の友達が本当の友達だと思った。士道の顔は温かかった。

 飲んでいる内に士道は、
「秋元さんよ、今回の事件だがね、あれは世間で言う偶然と思うかね」
「厚生労働省の関係者が何度も立ち入り検査した結果だからなぁ、僕みたいな素人には分からんなぁ」
 すると士道は、
「オレは長い間裏街道の仕事をしてきたから、何となく勘が働くのよ。今回の事件はオレの見方じゃ偶然じゃねぇよ。あんたとこの店だって監視カメラを付けているんだろ? それをチェックしたのかね?」
「いや、まだ全然。僕はそんなことにまで気が回らなかったな」
「うちの若いのを貸すからよぉ、あんたとこの社員と一緒に一度調べて見ろよ」
 辰夫は士道の話しに驚いたが、やはりその道での苦労人にはかなわないと思った。それで、翌日早速人手に渡る寸前の会津若松店の監視カメラの映像を調べて見ることにした。

「おいっ、こいつの顔に見覚えがあるぜ」
 朝から会津若松店の監視カメラの映像を十人ほどで精査していた時、士道が出してくれた若いのがそう言った。もう一人の若いのが、
「あっ、こいつ等二人の顔は良く覚えてるぞ。前に絞り上げた奴等だ。こいつ等一体何でこんなとこをうろうろしてんだ?」
 会津若松店の監視カメラは紀代が盗み食いや万引きをした時以来台数を増やし、ピンホールカメラでトイレの中まで密かに撮影されていたのだ。
 次郎と英明は士道の手下に半殺しにされた男だ。その時に痛めつけた士道の子分は二人の顔を良く覚えていた。おまけに、事件が発生した二日前の映像だ。

 十人で検討の結果、次郎と英明と一緒に歩いていた店員も分った。それで、その時の店員の熊谷が店に呼ばれた。同僚が、退職した熊谷の家に行って連れてきてくれた。熊谷は厚生労働省の見解を新聞で読んでいたし、交換した洗剤のことは単なる試供品をタダで置かせてやった程度の理解しかなかったから、まさか自分が何かに関わっていたなんて夢にも思っていなかった。だから店の事務所に来ても悪びれた顔は全くなかった。

 早速、士道の子分が熊谷に尋問を始めた。それで当日行われた奇怪な映像の理由が次第に明らかになってきた。

三十四 人の恨みの怖さ(Ⅱ)

 士道の手下は熊谷を締め上げた。だが、熊谷は犯行計画の内容を全く知らされていないらしく、大した情報は取れなかった。
「お前、次郎か英明と言う男の携帯番号知ってるだろ」
 鼻血で顔中真っ赤にした熊谷は震えながら頷いた。
「電話をしろ。ヤツラがどこに居るのか探れ」
「は、はい」
 熊谷が次郎に電話をすると、出た。
「次郎さん、今どこですか」
「……」
 電話の向うで躊躇っている様子だ。手下は熊谷の背中をどついた。すると、熊谷は信じられない言葉を発した。

「次郎さん、逃げて下さい。オレ、今捕まって痛めつけられてんだ」
 電話は切れた。
「コノヤローッ!」
 結局熊谷は半殺しにされて、店外の駐車場の片隅に捨てられた。死んではいなかったが、ぐったりとして身動きをしなかった。

 新聞やテレビで大騒ぎになって、次郎と英明は恐ろしくなった。それで、二人は新潟県の新発田市で借りた空家に行って潜伏していた。だから、会津若松中を探し回っても見付かるはずがなかった。そんな時、熊谷から電話が入って、居場所を聞かれその後に発した熊谷の言葉に一瞬凍りついた。以前半殺しにされた時の光景が脳裏に浮かんで、次郎は身震いをした。
「何かあったのか」
「英さんよ、やべぇよ。またオレたちを半殺しにしたヤクザがよぉ、オレたちのことを嗅ぎ回ってるらしいぜ」
 その話を聞いて、英明も震えが来た。

 それからと言うもの、次郎と英明は用心して借りた空家の中に閉じこもり、買い物やカードで預金を引き出すために町に出る時は変装して顔が分らないようにした。
 結局、熊谷は口を割ったのはいいが、肝心の次郎と英明とか言う奴等を捕まえる糸口を失くしてしまった。だから、真相はわからないままに、監視カメラの映像の解析チームは解散した。

「秋元さんよ、逃げやがった次郎と英明とか言うやろう、オレに始末をさせてもらえませんか? 警察に情報を流しても、多分重い尻を上げないでしょうな。仮に尻を上げてだ、二人を逮捕しても、ムショ暮らしが明けたら、奴等はまた秋元さんの商売を妨害しますぜ」
 辰夫は並みの人間より士道の方が余程信頼できる男だと思っていた。それで、
「士道さん、どれくらい用意すりゃいいですか?」
と聞いた。
「五千だな」
 人を二人も消すのだ。辰夫は高いとは思わなかった。問題は金だ。今は苦しくて、以前のように余裕はない。だが、先日家土地を手放した金がそのまま手元にあった。
「いいでしょう。振込みより実弾の手渡しがいいですな?」
「ん。税務署にいらん腹を探られるのは嫌だからね」
 それで、翌日現金五千万を直接士道に手渡した。士道は頼んだことはきっちりと約束を守るし、第一に口が堅いから安心だ。

 翌日から士道は子分を使って動いた。だが、手がかりが見付からずに苦労をしていた。
「なに、狭い日本に住んでいるんだ。とことん追い込めば必ず網にかかるさ」
 士道は動揺をするってことを知らなかったかのように落ち着いていた。

 意外な所から、次郎と英明の情報が流れてきた。地元紙の三面に小さく[新発田市で新たにノロウィルス患者が発生]そんな見出しだった。
 名前は伏せられていたが、文面にいずれも[患者は二名で三十代の男性]と書かれていた。士道の勘が働いた。それで、士道は早速子分を新発田市に飛ばした。

 レポーター筋からどうにか聞き出した所、二人とも同じ場所に住んでいて、現在は入院中だと分った。もちろん病院も聞き出した。
 病室に行くと、ネームカードに[岸辺次郎][原英明]と書かれていた。
「まちげぇねぇ。あの二人だ」
 だが子分たちは慎重で、決して二人に面会はしなかった。顔を覚えられたら、ろくなことがないのだ。

 士道の子分二人はその日から病院に張り付いて監視を開始した。二日後に退院して二人はタクシーで空き家に向かっていた。そのタクシーを少し距離を置いて士道の子分が尾行をしていた。
 士道の子分は空き家に入る二人を確かめると、仲間に連絡を入れた。一時間もすると、新たに三人加わって、全部で五人が空き家のそばに潜んで相談をした。

「おいっ、お前等何しに来た?」
 英明が士道の子分の五人が踏み込んで来た時、そう言ったが、前に半殺しにした奴の顔を知って、脚に震えが来た。男たちは無言だった。
 結局空家の中で締め上げられて、次郎と英明はノロウィルス騒ぎの事件の顛末を全て吐かされてしまった。
 事件の全容を知った子分たちは、次郎と英明を縛り上げ、二人を乗用車のトランクに突っ込んでどこかへ消え去った。

三十五 人の恨みの怖さ(Ⅲ)

 次郎と英明が拉致されてから、四日目の朝、一隻の大型クルーザーがオーストラリア東海岸の北端、ヨーク岬半島と、パプアニューギニアのアロタオの間くらいの位置をゆっくりとソロモン諸島の方に向かって航行していた。このあたりは、サンゴ海と呼ばれている通り珊瑚の多い美しい海域だ。
 船員は六人、キャプテンは郡山の元ヤクザ、堂島士道、他の五人は横浜の二人と士道の手下の三人だ。船底には男が三人手と足を縛られて転がされていた。岸辺と原と熊谷だ。三人共船酔いで真っ青な顔でぐったりと横たわっていた。

「おいっ、着いたぜ」
 士道が言うと、他の五人のクルーたちは錨を降ろしてデッキに上がってきた。皆疲れた顔だ。
「兄貴、4000キロは長旅ですねぇ」
 そう言うと皆腕を空に向かって高く上げて深呼吸をした。晴天で海は穏やか、清々しい朝だった。横浜からここまで4000キロメートルを少し越えていた。大型クルーザーは平均時速約60キロで来たから、約七十時間交替で操船してきたのだ。ここまで昼夜休まず三日間もかかった。航空機なら直行便で七時間もかからないが、今回は空を使うことができない。

「さてっと、朝飯を食ったら、釣り場探しだな」
 士道は横浜のダチから大体の穴場を教えてもらつてきたから、GPSでチェックすれば大体の位置は当てられる。
 クルーザーは周辺の海域をゆっくりと航行した。
「GPSじゃこのあたりですぜ」
 横浜の一人が士道に言った。
「どれ?」
 士道は澄み切った海中を見ていた。
 やがて、
「いる、いる、ホホジロが団体さんで居るぜ」
 と士道が言うと、皆海中を見た。
「いた、いた、すげぇっ」
「どうだ、このあたりでやるか」
「いいですね」
 と士道の子分。

「おいっ、起きろ。海水浴させたるぜ」
 男たちは匕首(あいくち)で船底に転がされていた三人の衣服を切り開いて三人共素っ裸にした。足を縛っていた紐だけほどいて、一人だけデッキに上がらせた。
「これから海水浴させたるぜ」
 そう言うと、匕首が朝日にキラリと光った。
「痛てぇっ」
 最初にデッキに上げられた次郎が悲鳴を上げると、ケツを蹴飛ばされ、次郎はザブンと海に落ちた。匕首で切られた太ももから鮮血が出て、海面を赤く染めた。

 その時、近くでザブッと音がして大きなホホジロザメ(鮫)が飛び跳ねた。と次の瞬間、海面でもがいていた次郎が悲鳴を上げ、海底へと引き摺り込まれた。少しすると海面は穏やかになり、脂が少し海面に広がった。
 恐らく、次郎はこの辺りに沢山棲息する鮫の中では最も獰猛で肉食のホホジロザメが群がって、餌になったようだ。

 船を少し進めて停めた後、二番目に英明がデッキに上げられた。最初の次郎と同様に、匕首で太ももを切られて、海に蹴落とされた。英明は叫ぶ暇もなく海中に引き摺り込まれて海面には鮮血と脂が少し浮いているだけだった。

 船を少し移動した。三人目は熊谷だ。様子が妖しいので抵抗したが、手を縛られていたので簡単にやられてしまった。熊谷は海面でもがいていたがやがて、
「ギャァーッ」
 と壮絶な断末魔のような悲鳴を上げて海中に消えた。
 士道とクルーの五人はことが終わるまで無言だったが、
「よしっ、これで終わりだ」
 と士道の合図で一人がプラスチックケースから塩を一掴みして海面に撒いた。そこで六人は合掌して三人の冥福を祈った。

「おいつ、お祓いの代わりに島に上がって女でも抱いてから帰るか」
 士道がそう言うと皆は賛成した。
 オーストラリア東海岸のこの海域は昔から鮫が多く生息する所で知られている。中でも長さ数センチの鋭い鋸のような歯を持つ体長4m以上もあるホホジロザメは肉食で獰猛、この海域で毎年数十人が被害に遭い、命を落とす者も多いと言われている。士道は今までこの海域で何人もの男たちを鮫の餌にして海に沈めてきたから、仕事は初めてではなかった。

 船をパプアニューギニアのニュー・アイルランド島の北端にある町カビエン(Kavieng) の湊にクルーザーを入れた。観光ビザで入国を済ますと、マラガン・ビーチ・リゾート・ホテルに部屋を取った。
「二日ほど遊んでいこうや」
 士道は皆にそう告げて、自分もスウィートの部屋に落ち着いた。このあたりは周囲が海で大小の島々が散らばっていて、景色は良いしシーフード料理も美味い。カビエンは昔ドイツの植民地として栄えた所で、二次大戦中一時日本軍が占領していたが、文化は西欧文化だ。

 (じゃ)の道ヘビ、子分たちがどこからか女を六人連れてホテルに戻ってきた。
「頭、どの子がいいですか」
 士道は日焼けした健康そうな目のきつい女の子を目で指した。
 子分たちはバーに行って女の子たちと飲み、ほろ酔い加減になった時に女の子と一緒に夫々の部屋に戻った。

 士道はバーでは飲まず、部屋に附属している広いベランダの椅子に座り、ルームサービスで取り寄せた料理とワインを楽しんだ。思った通り女の子はなかなかいい身体つきで、士道に寄り添って付き合ってくれた。

 水平線に向かって落ちる美しい夕日を見ながら、士道は昔自分の女だった恭子のことを思い出していた。もう十年も前になるが、この島で夕日を見ながら別れたのだ。
「あの綺麗な夕日がぐるっと回って、明日の朝東の海に顔を出す頃、お前は独りだ。これからはお前の好きなように生きてくれ」
 士道はその夜恭子を起こさないようにホテルを出て、空港から修羅場が待っている日本に戻った。今こうして生きているが、あの時は死んでもおかしくなかったのだ。隣に居る女の目が、どこか恭子に似た面影があった。

三十六 始末の果て

「岸辺と原と熊谷だが、三人の始末は終わりましたぜ。奴等はこの先二度とあんたの前には出てこんだろう」
 堂島士道は辰夫を呼び出して、始末した結果の報告をした。
「どんな風に始末したんだ?」
「あんたは聞かん方がいいだろ。人間、一旦聞いてしまうとな、何かの弾みに他人に漏らすことがあるんだ。聞いとらんかったら、話しが漏れるこたぁねぇのよ」
 士道は秘密を守ることに徹底していた。
「そうだ。人は興味本位で秘密を聞きたがる。だが本当に信頼を置ける奴は聞かれても必要なこと以外は口にすら出さないのだ」
 と辰夫は改めて士道の口の堅さを知らされた。

「秋元さんよぉ、今回の事件で警察が役に立たん場合もあるってこと、分っただろ」
「ああ、良く分った。あのままじゃ僕の店はまた妨害される可能性があったな」
「世の中、オレたちみたいな奴でも役に立つこたぁあるのよ。所で、あんたとこの商売は相当厳しいのか」
「ああ、厳しい」
三月(みつき)くらいは持ちそうか?」
「危ないが頑張るしかねぇな」
「人の噂は七十五日、昔から三月も経てば少しずつ忘れてもらえるさ」
「そうだな」
 辰夫の眉間には深いしわが出来ていた。

 喜多方の店は実家のオヤジが長い年月食料品店をやっていた延長だから、昔からの顔馴染みのお得意さんが応援してくれて、売上は然程落ちなかった。問題は郡山だ。会津若松店を閉鎖してから、辰夫は郡山店に全精力を注ぎ込んでいた。だが、既に二ヶ月近く経つのに、客足は平常時の五割に満たなかった。
 一番苦労したのは運転資金の回転だ。スーパーは現金商売だから、資金の回転は速い。辰夫は売れ筋商品を真剣に検討して仕入れを絞込み、在庫が残るような商品を出来るだけ減らして資金の回転を上げるように頑張った。売上が減れば、人手は少なくて済むのは常識だ。だから、従業員を減らせば楽なことは分っていたが、従業員の整理はしなかった。業績が回復した時に、必ず減らさなくて良かったと思うに違いないと確信していた。

 不思議なことに人の噂も七十五日と言う諺通り、三ヶ月を過ぎたあたりから客足は戻り始めた。特に特売日を多くして、新聞の折込広告の頻度も増やした。そんな努力が実を結んで来たのは半年も過ぎてからだった。
 辰夫は辛い毎日を振り返って思い出した。一時は倒産も覚悟をして戦ったのだ。一番身に(こた)えたのは、取引業者の離散だ。一旦風向きが悪くなると、掌を返したように取引条件に難ぐせを付けられた。あんな惨めな思いは一度だけで沢山だ。
 商工会議所の役員の椅子も降ろされた。兎に角、事件後の最初の間は四面楚歌だった。

 ようやく、生活のリズムが戻ってきた時、辰夫は妻の秀子に相談した。秀子は会社が厳しい時に随分心の支えになってくれた。辰夫はもしも雅恵だったら、とっくに逃げられてしまっただろうと思った。
「そろそろ凍結していた出店計画を引っ張り出したいんだが、どう思う?」
「あなた、それでしたら会津若松店を買い戻したらいかが?」
 折からの不動産不況で売却した店舗の買い手が付かず、最近見に行ったら売却したそのままで、駐車場には雑草が生えていた。

「また客を取り戻せるかなぁ?」
「あたしはね、スーパーアキモト会津若松店は死んだと思ってますのよ。ですから、店名を変えて新しいお店として出店するのがいいわね。塞翁が馬と言いますけど、あの事件でどの地域からお客様が来て下さっていたかはっきりと分りましたよね。ですから、今度は商圏をはっきりと捉えてお店を出せると思うの」
「さすがの秀子だな。オレの奥さんにしておくのはもったいないなぁ」
「ダメよ、成功してからお世辞を言って下さいな」
 秀子はまんざらでもない顔で笑った。

 新しい店は「Kyoliss Aizoo (キヨリス・アイヅ)」に決まった。Kyo は勿論愛娘の名前紀代から取った。若者向けの商品を増やしてお洒落な店と言うコンセプトで内装や商品の選択には紀代のクラスメイトに集まってもらって企画会議まで立ち上げた。近頃は中学生と言っても豊富な商品知識を持っているのだ。それに、取引先からカタログやサンプルが沢山集まり、アルバイト代も用意したので、十人も集まった紀代のクラスメイトたちは張り切っていた。
 店は全体にホワイトと淡いピンク調の内装にしてスーパーアキモトのイメージを一新した。店内の入り口付近には可愛い系の商品を陳列して、生鮮食料品も若者中心に買い易く陳列棚を改めた。秀子の考えを入れて、アラフォー中心の化粧品などにも力を入れることになった。
 元々自社で使っていた建物を改装したこともあって、改装は早かった。改装にあたり、紀代の友達十人も揃って建築業者との打ち合わせに加わった。だから、完成してみると、辰夫には考えられない斬新な内装に仕上がっていて驚かされた。

 開店に先立って、紀代の仲間はホームページは勿論、ツイッター、携帯メール、SNSなど今までスーパーで使っていなかったチャンネルに広告を載せ、友達の友達からソフトウェア開発会社を紹介してもらって、インターネットの通販まで立ち上げた。辰夫は中学生だからと最初は上から目線で見ていたが、開店に漕ぎ着けた頃には彼女達を見る目が下から目線に変っているのに気付いて苦笑した。

 開店すると、先ず店内に流れるBGMの選曲に驚いた。スーパーアキモトでは最初からBGMなぞ流していない。だが[キヨリス]は違った。
 開店当初心配した客足は予想以上で紀代世代が口コミで伝えた結果、親や祖父母たちも一緒に買い物にやってきた。今までは親が子供を連れてくるパターンだったが、この店は子供が親を連れてくるパターンに変っていた。[情報は子供、財布は親]ってことだ。辰夫は大入り袋を出す代わりに、紀代と十人の仲間たちに五泊六日の海外旅行をプレゼントした。旅行先は欧米ではなくて、韓国、中国、ベトナム、インドネシア、マレーシアなど新興諸国の商業地区の見学コースだった。秀子も一緒に行かせることにした。駆け足旅行だが、多分何かをつかんで戻ってくるだろうと辰夫は思った。

三十七 想い出の旅

 禍転じて福を成すと言うが、ノロウィルス事件で、辰夫は厚生労働省は勿論のこと、県庁や市庁の要職者と積極的に面会、お詫びをしたことが縁で、県庁や市庁の要職者たちと太いパイプが出来た。だから、新しい業態の[キヨリス]の立ち上げについては、事前に官庁に挨拶回りをしたため、官庁から陰の支援を受けることができた。
 キヨリスの社員の採用は旧スーパーアキモト会津若松店の社員だった者を優先して復帰をお願いした結果、約三十名の復帰が決まったが、計画人員八十名の内五十名が未定だった。その採用に当たっては、ノロウィルス事件のお陰で厚生労働省傘下のハローワークが親切に協力してくれた。この時、辰夫は役所を味方に付けることの大切さを身に沁みて知った。

 面接に当たって、紀代とクラスメイトの女の子達も面接官として加わった。面接を受けるためにやってきた求職者は誰も子供みたいな面接官がずらっと並んでいるのに度胆を抜かれたが、鋭い質問が一杯飛んできて二度驚かされた。
 だが、それだけではない、丁度国として雇用促進政策に力を入れている折だったので、厚生労働省の職員から、紀代とクラスメイトたちは雇用の仕組みや雇用保険、国が進めているセーフティネツトなどについて勉強をさせられた。
「将来あななたちが経営者になられた時、今日のわたしの説明がきっとお役に立ちますよ」
 と職員は結んだ。試験こそないが、社会教育として勝れたものがあると、学校からも見学に教師達がやってきた。
 八十名の採用が決定した時、紀代とクラスメイトの女の子たちはすっかり成長していた。面白いもので、精神的に成長すると、顔や立ち居振る舞いまで大人っぽくなるのだ。

 秀子は旅行社に相談して、東南アジアへの研修旅行のプランの立案を頼んだ。三日ほどして、旅行社から連絡があった。それで、秀子は旅行社の担当者と紀代とクラスメイト九人をスーパーアキモト郡山店の役員室に招いた。
 そこで、旅行社の担当者は一同に日程、コース、費用、注意事項などを話し、各自パスポートを用意するように頼んだ。欧米と違ってビザが必要な国が多いので、日数がかかると言った。

 計画は以下の通りだった。
一日目 成田→ソウル(ソウル泊)
二日目 ソウル→上海(上海泊)
三日目 上海→ホーチミン(サイゴン)(ホーチミン泊)
四日目 ホーチミン→バンコク→シンガポール(シンガポール泊)
五日目 シンガポール→マニラ(マニラ泊)
六日目 マニラ→成田

「改めて行く機会がなかなかないと思いますので、フィリピンを追加しました。相当駆け足の旅行になりますが、皆様お若いので大丈夫でしょう。あ、ベトナムのホーチミンからタイのバンコクまでは羽田から札幌に飛ぶより近いですよ」
 と旅行社の担当者は説明した。

 全員が初めての海外旅行とあって、皆ワクワクしている様子だった。
「今回は観光旅行ではなくて、東南アジアの現在の繁栄している光景を見ることと、繁華街のお店でどんな物を売っているかとかそんなことが目的ですから、それぞれの国の繁華街を見て歩くことになります。人数がまとまっていますから、団体扱いにさせて頂いて、添乗員を一名同行させます」
 そんな風に追加説明をした。

 旅費は一人当たり二十五万円、十一名で二百七十五万円だと見積もりが出てきたが、辰夫は、
「かまわん、出してあげよう。僕等の将来を引き継いでくれる子供たちへの投資だな」
 とニコニコしていた。
「土産代を入れると三百万だな」
「はい。思ったより予算が膨らみました」
「子供たちの親に一度こちらにお出で願って、旅行社に説明をさせてくれ。特に旅行中の傷害保険は万全に頼むよ」
 辰夫は秀子が勧めた損保のお陰で倒産を免れたことが強く脳裏にこびりついていた。

 待っていると長く感じるものだが、出発の日は直ぐにやってきた。郡山~成田を結ぶ福島交通の高速バスに旅行の添乗員を含めて十二名がバスに乗り込み、成田からソウルに向けて飛び立った。バスターミナルには子供たちの父母が心配顔で見送りに来ていた。だが、子供たちは親の気持ちに関わりなく、初めての海外旅行に皆興奮していた。ソウル(仁川国際空港)には三時間足らずで着く。それでお昼過ぎには皆はソウル市内に向かうリムジンバスの中に居た。小公洞にある五ツ星ホテル、ロッテホテルソウルに到着すると、直ぐにランチになった。ランチが終わると、皆揃って東大門(トンデムン)市場に出かけた。
「あたし、一度は絶対にここに来ようと思ってたんだ」
「あたしも。洋服安いから買って帰ろう」
 中学生とは言え、子供たちは韓国事情に詳しい。食料品市場を回った後は、ファッションブロックに移り、夕方まで自分達が着たい洋服探しで目が血走っていた。添乗員は篠原麻実と言う若い女性だった。彼女は女の子達のために、韓国の人気アーティストでハーモニーが綺麗な男性R&Bトリオ、V・O・Bのライブをセットしてくれていた。紀代と女の子たちは喜んだなんてものじゃない。ホテルに戻ってからも夜更けまではしゃいでいた。

 翌日は仁川から上海・浦東国際空港に飛んだ。所要時間は二時間位だから、朝飛び立って、直ぐに上海に着いた感じだ。空港からリムジンでクラウンプラザ美蘭湖ホテル(美蘭湖皇冠假日酒店)に向かった。ホテルは南国調ですごく豪華なホテルだった。昼食を済ますと、タクシーに分乗して南京東路に行った。このあたりは下町の繁華街的雰囲気がある街だ。
「スゴッ、渋谷と同じだぁ」
 渋谷に行ったことがある女の子がそう言った。ソウルも人出が多いと感じていたが、上海は新宿や渋谷に劣らないくらい人が多い。添乗員の麻実は女の子が迷子にならないか相当に神経をすり減らし、ホテルに戻った時はぐったりしていた。秀子も疲れた。

 この旅行で、子供たちはデジカメ撮影、ビデオ撮影とレポート係りと分担を決めており、ホテルに戻ると寝る前にビデオや写真の映像を皆で見て、検討会をやっていた。秀子はそんな彼女達を感心して見ていた。

 三日目はベトナムのホーチミンに飛んだ。ホーチミンは旧サイゴン、ベトナムの南の方なので、早朝に上海を出て、タン・ソン・ニャット国際空港に着陸したのは午後だった。空港からエアポートタクシーに分乗して、市街地へ出た。ホーチミンはベトナム最大の商業都市で、子供たちの旅行目的に合っていた。
 ホテルはアシアナ・サイゴンだった。ホテルは街の中心地にあり、商店の立ち並ぶ所は近い。添乗員の麻実は女の子たちに、
「ここはバイクでのひったくりが凄く多いのよ。だから、持ち物は全部ホテルに置いて出なさい。お財布なんかは胴に巻きつけて歩きなさい」
 ときつく注意した。街に出ると、バイクの多いのに驚いた。少し前までは殆どの者がヘルメットを被らず、事故で死ぬか後遺症で廃人になる者が多く、今ではヘルメツトを被らないと厳罰になると説明された。人出は多く繁栄しているが、女の子たちは物価が安いのに驚いていた。

 夕方ホテルに集まり、直ぐに空港に行き、タイのバンコクに飛んだ。スワンナプーム国際空港は大きな空港だった。女の子たちは成田空港しか見ていないから、成田は東南アジアの国々では抜き出てでかい空港だと思っていたのに、仁川、浦東、そしてこのスワンナプームは成田よりでかいみたいで近代的なのに驚いていた。
「日本がね、何でも一番と言われた時代は今から二十年以上も前の話よ。あなた達が生まれる前だわね。どう? 最近の日本は東南アジアの国々に比べて決してすごくないってことが分っただけでもいいお勉強をなさったわね」
 添乗員の麻実が皆に言った。女の子たちはめいめい頷いていた。休憩に部屋を取ったのはデュシタニ ホテル バンコクだった。麻実は子供たちに良き時代のシャム(タイ)文化に触れてもらいたいと思って、歴史のあるこのホテルを選んだらしい。
「タニヤ通りは大人が行く所だから、絶対に行っちゃダメですよ」
 と麻実は子供たちに釘を刺した。タニヤ通りは歓楽街で有名な所で、いかがわしい売春窟まである場所だ。

 午後スワンナプームを飛び立つと、シンガポールのチャンギ国際空港に着陸した。ここもハブ空港ででかい空港だ。子供たちは今まで通ったどこの国よりも清潔な感じを受けた。ホテルはショッピングのメッカと言われるオーチャード・ロード沿いにあるトレーダースホテル・シンガポールだった。もちろん一流のホテルだ。麻実は計画時辰夫から、
「予算の範囲で出来るだけハイクラスのホテルに泊めてやってくれ」
 と頼まれていたのだ。
 シンガポールは清潔で美しい街だった。街中を歩いていてもゴミが殆ど落ちていなかつたのだ。

 本当に駆け足の旅行だった。翌朝子供たちは最後の目的地、フィリピンのマニラに向かって飛んでいた。午後、無事にニノイ・アキノ空港に着陸した。ホテルはヘリテージホテル・マニラだった。このホテルはパサイ地区にあり、繁華街と離れているのだが、麻実は治安を考えて日本大使館などがあるパサイ地区にした。マニラの繁華街はマニラの中心街の海沿いにある下町風情のあるイントラムロス、エルミタ、マラテなどにある。
 ホテルで一服させてから、秀子と麻実は子供たちを連れて繁華街に出た。昨日のシンガポールが綺麗な街だったので、()えた臭いの漂うマニラの市街に子供たちはがっかりしていた。
 最後の日なので、夜ホテルでプチパーティーをした。アルコールを飲んではいけない年齢なのでお茶パーティーだ。

 翌日ニノイ・アキノを飛び立って、子供たちは全員無事に成田に帰ってきた。福島交通の高速バスが郡山のバスターミナルに着くと、子供たちの父母が笑顔で出迎えた。秀子も麻実もどっと疲れが出て、秀子は紀代と家に戻るとそのままベッドに倒れこんで寝てしまった。

三十八 巣立ちたい気持ち

 紀代が中学三年生になっても、クラスメイトと一緒のキヨリスの企画会議は続いていた。一年以上もすると、皆とても中学生とは思えない位、企画力が身に付いて、今では経営指標の月次報告まで理解できるようになっていた。これには秀子は勿論のこと、財務担当役員の努力があった。だが、こう言うことはメンバー全員それぞれの資質と言うか能力に拠る所が大きい。たまたま紀代が集めてきた女の子たちだが、やらせて見ると成長が著しく、皆良い素質を持っていた。
 この推移を辰夫は父親の目でずっと見ていた。それで、辰夫は紀代が大学を卒業したら絶対に跡を継がせようと決心した。辰夫には長男の辰仁が居た。今は高校生だ。だが、辰夫は後妻の雅恵に懐き、雅恵が刑務所暮らしになってからもちょくちょく面会に行っている様子で、辰夫の事業には一向に顔を向けようとしなかったから、辰夫は辰仁を跡取りにするのをとっくに諦めていた。

 秀子は、辰夫の子供を身ごもり、秋に出産した。男の子だった。子供を産むと、秀子は子育てに多忙になり、少しずつだが、紀代との間が今までのように親密には行かなくなっていた。子供の名前は辰夫と秀子の名前を取って秀夫と名付けた。秀子は朝から晩まで
「秀夫、秀ちゃん」
 と赤ん坊べったりになっていた。高齢出産だから、可愛さが普通以上なのだろう。秀子はかろうじて母乳が出たから、毎日できるだけ母乳を与え、足りない分だけミルクを与えるようにしていた。自分がお腹を痛めて生まれた赤ん坊に乳首を吸わせている間、秀子は言葉では言えない刺激と、幸せな気持ちをもらっていた。そんなだから、今までのように紀代を可愛がる余裕がなかった。
 子供は親の心の機微に敏感だ。秀子の気持ちが少しずつ紀代から離れていくことを紀代は秀子よりも早く察していた。紀代が学校で進路希望を聞かれた時、
「東京の高校に入学希望。将来料理や食品について大学で学びたい」
 と答えた。
 学校から紀代の希望について知らされたとき、辰夫は怒った。
「親の気も知らずに!」
 紀代は父親の跡を継がせたいと言う希望を知っていたから、黙って怒られていたが心の中では、
「パパは娘の気持ちを知らないくせに」
 と呟いていた。

 ここのとこ、紀代の進路について夫の辰夫と紀代が度々ぶつかるのを見て、秀子は辰夫に、
「可愛らしいたった一人の娘なんだから、紀代ちゃんが希望する方向に進ませてあげたら?」
 と怒る辰夫をなだめた。
 こんなことが何回かあって、秀子が紀代を東京に行かせてあげようと決心した時、秀子は自分がお腹を痛めて生まれた秀夫に辰夫の全財産を継がせようと言う気持ちが自分の中に芽生えているのに気付いた。そんな自分の気持ちを抑えて、秀子は東京の高校の受験資料を紀代と一緒に集め始め、
「どこがいいかしらねぇ?」
 と紀代の相談に乗ってやった。もちろん紀代は秀子の心の奥底に蠢くものには何も気付いていなかった。

 紀代が東京に出たい気持ちにはもう一つの理由があつた。それは、紀代が密かに片想いをしていた小学校のクラスメイトだった吉村啓が東京に引っ越すと言う噂が小学校の友達から入ったことだった。紀代が郡山に引っ越す時、啓が記念にくれた携帯のストラップを紀代は今でも大事にしていたのだ。だから、紀代は父親は反対しているが、秀子に応援してもらって、絶対に東京の高校に入るんだと思っていた。

 都立の高校は九月に入ると新規の入学希望者に説明会がある。紀代は継母の秀子に相談すると、
「あたしが学費と生活費を応援してあげますから、私立でご自分で行きたい学校を探したら?」
 と私立への入学を勧めてくれた。
 それで、紀代は東京の私立高校について調べてみてがっかりした。行きたいなと思う高校は全部偏差値が70以上、75位はないと受験をしても合格しないのだ。紀代は学校での成績は良い方だったが、田舎の中学だ。いくら上位に居たとしても、難しいことが分った。紀代が受けた模試結果、偏差値は70しかなかった。紀代はすっかり落ち込んでしまった。慶応や早稲田と言わずとも、A学園だって73以上ないと危ないのだ。高校入試の偏差値はどこで模試を受験したかで変るのだ。その時受験をした生徒全体のレベルで自分の実力より大きく出たり小さく出たりする。だから、例えば郡山で偏差値が70もあったとしても、東京の有名予備校の模試を受けると63とか65しか出ない。大学入試の場合は独立行政法人大学入試センターが行う全国的なスケールのセンター試験があるから、こんな恐ろしいことは起こらないのだが、高校入試の場合は自分がどれ位の実力があるのか客観的なデータがない。

「紀代ちゃん、本当に行きたい学校があるなら、今から東京に出て予備校に通ったら? 来年春に受験をして落ちたら一年浪人するつもりで行きなさいよ」
 秀子はいとも簡単にそう言ったが冗談じゃない、紀代は高校浪人なんて絶対になりたくなかった。仕方なく、今の自分の実力で入れる可能性のある学校を三校選んで受験したいと秀子に伝えた。調べてみると、男女共学の私立高校は競争倍率が三倍以上もある。女子校だって、平均は一倍を超えているから、受験をすればそのまま入れてくれるなんてものじゃないことが分った。それにそこそこ名前の通った学校は全部偏差値が68以上ないとダメなのだ。
「兎に角、実力を付けなくちゃ」
 その日から紀代は猛勉強を始めた。まだ受験日まで三ヶ月か四ヶ月ある。紀代はすっかり生活のリズムが変り、毎晩一時過ぎまで勉強机にしがみ付いていた。

三十九 巣立ちの準備

 十二月に紀代は上京して有名予備校の模試を受けてみた。その結果、偏差値は丁度70だった。紀代は自分なりに良くやったと自分を褒めてやりたい気分だった。受験は一月下旬に集中していた。紀代は受験日が重ならないように気を付けて、三校を選んだ。受験まで後一ヶ月あるから、頑張って少し上を狙えると思った。予備校で偏差値ランクのリストをもらって、第一志望をA学園高等部、第二志望は渋谷のT女学館高校、滑り止めの第三志望は杉並のS大学附属高校にした。試験日はA学園が一月三十一日、T女学館が二月十一日、S大学附属は二月十日で重なっていないことも確かめた。

 年が明けて、紀代にはお正月はなかった。元日早々から勉強机にかじりついて頑張った。一つのことに集中していると、あっと言う間に受験日が来たような気がした。
 東京に出るつもりが、困ったことがあった。泊まる所だ。試験は朝早くにスタートするから、郡山を始発で出ても間に合わない。それで、手当たり次第都内のホテルの空き室を調べたが、一月下旬から二月中旬までは全国から受験生が集まるのでどこも満室だった。シングルが一杯になって、スゥィートまで満室になっていた。
「ママ、東京のホテルに予約が取れないよぉ」
 泣きそうな顔で紀代は秀子にどこも満室だと話した。

 秀子は浅草橋に住んでいる伯母に電話をした。娘の紀代のことを話すと、女の子一人ならいつでも大歓迎よと好きなだけ泊まっていいと返事があった。
 それで、紀代は義母の秀子と一緒に一月中旬東京の浅草橋まで出た。秀子の伯母は相好を崩して歓迎してくれた。どことなく秀子に似た所があって、紀代は安心した。

 試験が終わる二月の十二日まで、紀代は浅草橋の家に世話になることになった。トップで始まるA学園の試験結果は二月二日に出る。
 運、不運は時には悪戯なものだが、紀代は幸運に恵まれて、第一志望のA学園高等部に合格した。合否結果の発表を見る寸前までは諦めていた。だが、掲示板に張り出された合格者名簿に[秋元紀代]と言う文字があったのを見つけた時、思わずその場で小躍りしてしまった。その日は秀子の伯母が秀子の代わりに付き添ってくれていた。伯母も紀代の名前を確かめると、紀代をしっかりと抱きしめてくれた。

「ママ、あたし、第一志望のA学園に合格したよ」
 紀代の電話の声は上ずっていた。
 紀代からの電話を受けて、秀子は予定通り、これでこれからは秀夫と二人で静かに暮らせると思った。紀代は大学も東京だろうし、多分これから先ずっと離れて暮らすことになるだろうと思った。

 政府の学費の助成措置で、私立の高校の学費も昔に比べてずっとかからなくなっていた。だから、紀代の一ヶ月の生活費は学費とは別に二十万円程度で済みそうだった。スーパーアキモト郡山店も会津のキヨリスも業績は順調だったから、秀子にとって、紀代の学費は大した金額ではなかった。
 紀代は秀子の伯母に相談をして、東急新玉川線沿線の三軒茶屋近くの太子堂と言う町のワンルームマンションを契約した。子供は契約できないので、伯母の名前で借りてもらった。
 便利な場所で、渋谷に近く、渋谷からメトロで表参道に出れば学校までは直ぐだ。

 マンションが決まった所で、二月末、紀代は当面必要な洋服だけ持って三軒茶屋に引っ越した。父の辰夫は最後まで怒っていたが、秀子がとりなしてくれて、どうにかおさまった。
 紀代は学校が始まるまでの間、住んでいる場所から遠くない所で料理教室を探した。すると世田谷にTガス料理教室があるのを知って、そこへ出かけて見た。

 ガス会社がやっている料理教室なので、受講料が安く、色々なコースを選んで好きな時間を予約できることも分った。OL向けに夜や日曜日に参加できるコースが多く、例えば[ごちそうレシピ][チャレンジMy Cooking][スローフード・ワークショップ][ラ・クチューナ・エスプレッサ]など受けてみたい講座が沢山あった。

 A学園高等部の入学式には秀子と秀子の伯母が来てくれた。辰夫は来なかった。紀代は本当は父親にも認めて欲しかったので、寂しい思いがした。
 学校が始まると、紀代は吉村啓の消息を調べ始めたが、会津若松の友達に教えてもらった住所は空き家で誰もおらず、結局空振りに終わり、探し出すことができなかった。

四十 紀代の巣立ち

 紀代の高校生活が始まった。A学院の高等部だから、A学院大学へは進みやすいことも分ったから、我武者羅に受験勉強に明け暮れるよりも、大好きな料理教室の方に力を入れることにした。

 中学校を卒業して、郡山から単身で東京に出た。普通の女の子なら子供子供していて、自分の身の振り方を勝手に好きなようにする勇気がないのだが、小学校の時に相当に虐められたから、紀代は普通の女の子よりずっと大人だった。兎に角、小学校の時から、一般家庭の主婦が料理屑として捨ててしまうような食材を使って上手に美味しく料理をすることを覚えたから、食べる方は不自由がなかった。住む場所があり、食べるのに苦労がなければ暮らしは楽だ。だが、大学には進むつもりでいたから、そこそこ勉強もした。

 料理教室での紀代は若年だし、知識が豊富、さじ加減も得意だったからどの教室でも先生に可愛がられた。一年が過ぎて高校二年になった時、料理学校の先生に薦められてコンクールにも参加した。紀代はどのコンクールでも良い成績を修めた。だから、いつの間にか先生達の間でちょっとした有名人になった。紀代は母親ゆずりで子供の頃から器量が良かったから、それもプラスに利いた。
 高校二年の夏休みを過ぎた頃には、料理学校の助手を務めさせてもらえるようになり、アルバイト料としてお小遣い程度を稼ぐようになった。
 だが、紀代のように門前の小僧として得た知識だけでは助手は務まらないことが分り、紀代は料理の専門書を何冊も買って来て本格的に勉強を始めた。

 昔は紀代の母親のように、生活の必要性から料理をちゃんとするのが普通で、上手下手はあるが、主婦なら一通りの料理を下ごしらえからちゃんと出来た。料理のコツは親子代々つながっているもので、紀代の母親は紀代の祖母から教わり、紀代は祖母から伝わったことを母から教わった。
 だが、今はどうだろう? スーパーに行けば惣菜やなにやら自分で作らなくとも僅かな金で買って来て間に合う世の中になり、料理を下ごしらえからちゃんとできる女は次第に少なくなってきた。ちょっとした灰汁(あく)抜きも知らずに、前日から一晩浸けておくべき食材を灰汁も抜かずに洗ってそのまま俎板(まないた)でばさばさ切って使う乱暴な女も居る。だが、紀代は小学校に上がる前から母親のすることを興味深く見ていたし、分らないことをいちいち説明してもらったりもしたから、そんな知識が役に立っていた。
 だから、料理教室にやってくる女たちは紀代の説明を聞いて感心する者が多く、紀代はいつの間にか紀代よりずっと年上の女性から[秋元先生]などと呼ばれるようになっていた。

 高校三年生になった時、紀代は助手から講師に格上げされて、月々まとまった給料が入るようになった。それで、紀代は秀子が振り込んでくれる生活費を使わないで預金をして、大学に上がった時の学費に充てることにしていた。
 紀代は他にも色々やった。八百屋のオヤジと親しくなって、野菜や果物の知識を教えてもらったり、魚屋のオヤジと親しくなって、魚の捌き方も教えてもらった。肉屋の女将さんとも親しくなって肉の取り扱いや食べ時など色々なことを教えてもらった。どこでも高校生だから可愛がられたと言っても良い。
 それで、紀代は包丁をはじめ調理道具を集め始めて、日本橋の木屋や、台東の合羽橋界隈に度々足を運ぶようになった。そこで紀代は自分が知らなかった道具の世界に嵌まってしまった。
 親の脛をかじっている間は巣立ちとは言い難いが、紀代はいつの間にか実質的に郡山の両親の力を借りずとも一人で暮らして行けるようになっていた。紀代の巣立ちだ。毎日悲しみに暮れていた小学校の頃を思い出すと、今の幸せがウソのように思えた。

 父親の秋元辰夫は、紀代のそんな成長も知らずに、将来スーパーアキモトとキヨリスの後を継いでもらいたい気持ちを持ち続けていた。辰夫は妻の秀子の心変わりに気付いていなかったのだ。

愛され、愛する方法 【第一巻】

愛され、愛する方法 【第一巻】

地方の小さなスーパーマーケットの娘紀代は父が再婚してから人生の風向きが大きく変わる。 継母に虐められている紀代を父が引き合わせた女性が救おうとするのだがそう簡単には行かなかった。 やがて少女から大人の女性に成長する紀代に男との出会いと別れが訪れる。物語は紀代の心の中にすきま風が吹いている時代の場面から始まる。 男女いずれも再婚と言う条件で再婚するカップルは年間二十万組に迫る世の中で、再婚による子供たちの歪みは少なくないと思われる。そんな境遇の中で紀代は頑張って自分が選んだ道を歩き始めるのだが…… この物語は主人公秋元紀代が生きた道を辿ったものだ。

  • 小説
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更新日
登録日
2016-08-31

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  1. 一 伝わらぬもどかしさ
  2. 二 切ない想い
  3. 三 予期せぬ訪問者
  4. 四 予期せぬ二度目の訪問者
  5. 五 思い出したくない日々 Ⅰ
  6. 六 思い出したくない日々 Ⅱ
  7. 七 思い出したくない日々 Ⅲ
  8. 八 思い出したくない日々 Ⅳ
  9. 九 思い出したくない日々 Ⅴ
  10. 十 思い出したくない日々 Ⅵ
  11. 十一 思い出したくない日々 Ⅶ
  12. 十二 思い出したくない日々 Ⅷ
  13. 十三 思い出したくない日々 Ⅸ
  14. 十四 思い出したくない日々 Ⅹ
  15. 十五 思い出したくない日々 ⅩⅠ
  16. 十六 思い出したくない日々 ⅩⅡ
  17. 十七 思い出したくない日々 ⅩⅢ
  18. 十八 思い出したくない日々 ⅩⅣ
  19. 十九 思い出したくない日々 ⅩⅤ
  20. 二十 思い出したくない日々 ⅩⅥ
  21. 二十一 思い出したくない日々 ⅩⅦ
  22. 二十二 思い出したくない日々 ⅩⅧ
  23. 二十三 思い出したくない日々 ⅩⅨ
  24. 二十四 思い出したくない日々 ⅩⅩ
  25. 二十五 思い出したくない日々 ⅩXI
  26. 二十六 思い出したくない日々 ⅩXⅡ
  27. 二十七 思い出したくない日々 ⅩⅩⅢ
  28. 二十八 談合屋
  29. 二十九 離婚
  30. 三十 幸せ過ぎるのは怖い
  31. 三十一 犯行計画
  32. 三十二 汚染の波紋
  33. 三十三 人の恨みの怖さ(Ⅰ)
  34. 三十四 人の恨みの怖さ(Ⅱ)
  35. 三十五 人の恨みの怖さ(Ⅲ)
  36. 三十六 始末の果て
  37. 三十七 想い出の旅
  38. 三十八 巣立ちたい気持ち
  39. 三十九 巣立ちの準備
  40. 四十 紀代の巣立ち