十年越しの季節

終わってしまった青春についての物語。

 金属音を残して舞い上がった白球は、夕焼けに染まる空高く、どこまでも上昇を続けるかのように感じられた。しかし当然のことながら、物理法則に逆らうことなど出来るはずもない。放物線の頂点まで辿り着き、一瞬静止したかと思うと、やがて力尽きたように落下を始める。始めはゆっくりと、重力を受けるにつれて次第に速度を増しながら。
 地上では、遊撃手がグラブを掲げて待ち構えていた。まるで吸い込まれていくかのように白球がそのグラブの中に収まると、同時にスタンドから大きな歓声が湧き上がった。三塁側のベンチからは選手たちが勢いよく飛び出してきた。延長十三回の激戦を制した彼らは、まるで優勝したかのような喜びようで、互いに抱き合ったりハイタッチを繰り返したりなどしている。
 一方、結果的に最後の打者となってしまった選手は、一塁ベースを回ったところで膝から崩れ落ち、背番号「3」を天に向けたまま、両手を地面について肩を震わせていた。ベースコーチャーに抱き起こされてようやくのことで立ち上がると、口を大きく開けて人目もはばかることなく嗚咽をもらし、覚束ない足取りでホームベース前の整列に向かっていった。

 彼は、三塁側の内野席スタンドからその光景を見下ろしていた。勝者があればその影に敗者があるのは当然のことではあるが、いざ眼前でその残酷な対比を見せ付けられると、いささか気の毒な感じが拭えなかった。
 彼は、十年前のことを思い出していた。十年前のこの七月十九日、この球場の第三試合で、さきほどショートフライを打ち上げた背番号3の選手に代わって最後の打者として崩れ落ちる役割を果たしたのは、まさしく彼自身だった。彼の中で昨日のことのように鮮明に記憶がフラッシュバックした。あの日もちょうど今日のようなうだるような暑さで、今日の試合と同様に延長戦だった。ただひとつ違っているのは、あの日のラスト・バッターはバットを振らなかったということだけだ。
 勝利校の校歌斉唱も終わり、両校の選手たちは既にグラウンドから引き上げていた。スタンドの観客も応援団も、ほとんどが帰り支度を始めていた。そんな中で、彼だけはどうにも腰を上げる気になれなかった。ベンチに入れなかった背番号のない部員や球場の係員たちがグラウンド整備を行っているのを、眺めるともなく眺めていた。そのうち整備車がやって来て、後部に取り付けた大きなブラシで地面をならし始めた。ピッチャーマウンドを中心にぐるぐると大きな同心円が描かれていく。
 一体俺は何をしているのだろう、と彼は思う。毎年七月十九日になると、こうしてこの県営球場を訪れ、その日の第三試合だけを、どちらの高校を応援するわけでもなく観戦して帰る。それがここ数年間ずっと続いていた。そもそもの始まりは、大学を卒業して就職したばかりの年のことだった。新人研修も終わり、本格的に割り当てられるようになった業務に右往左往していたあの頃、たまたま休日で実家に帰っていたこともあって、気まぐれに近くのこの球場に足を運んでみたのだ。その日がちょうど七月十九日だったことは単なる偶然のはずだった。しかしいざ球場に行ってみると、そこには、球児たちの姿に知らず知らずのうちにかつての自らの姿を重ねている自分がいた。そうしてその翌年からというもの、この日になると自然と球場に足が向かってしまうようになった。それも、年を経るにつれ次第に思い入れも強まってきているようで、最近では有給をとってまで通う始末だ。
 そんなに俺はあの日のことを悔やんでいるのだろうか、と彼は再び自問自答した。しかし彼にはそれが分からなかった。確かに負けはしたものの、プロ注目と言われていたエースピッチャーのいた強豪校を相手に大いに善戦し、自分たちの力はこれ以上ないくらい出し尽くせた。あそこで自分の高校野球は終わったのであり、野球に対する未練があるわけではない。しかし、現実にはこうして毎年何かに引き寄せられるように球場にやって来ている。いつまでこんなことを続ける気なのだろう、と彼は一つ溜息をついた。
 さきほどまで斜陽の橙色を反射して輝いていた雲は、いつのまにか薄紫の影となって頭上を流れていた。そこから未だかすかに夕暮れの光を残す空の端にかけて、鮮やかなグラデーションが広がっていた。球場の向こうでは、木々が音を立てて揺れていた。昼間の熱気を残した湿っぽい風に頬を撫ぜられて、彼ははっと我に返ったような心持ちになった。
 彼が聞き覚えのある懐かしい声を背後に聞いたのは、そろそろ帰ろうかと立ち上がろうとしかけた、まさにそのときのことだった。
「高橋くん?」
 それが自らの名前を呼ぶ声であることに気がついて、驚いて振り返ると、席の後ろの通路に背の高い一人の女性が立っていた。背中まで届く長い髪が風にそよいでいる。
「ああやっぱり、高橋くんだ。久しぶりだね」
 嬉しそうにそう言った彼女の左目のすぐ下には、小さな泣き黒子があった。彼は確かにそれに見覚えがあった。突然何年も前に引き戻されたような懐かしさが彼を襲った。
「――千絵(ちえ)さん?」
 それは、彼が高校性だったころ、野球部のマネージャーをしていた一つ年上の先輩だった。よく気が利き、誰に対しても隔てなく親切で、それでいて一本芯の通ったようなしっかりとしたところのある女性だった。そのため、部員たちは彼女のことをとてもよく慕っていた。もちろんそこには彼自身も含まれていた。
「全然変わってないね、高橋くん。ちょっと見ただけですぐ分かったよ」
 千絵は、久しぶりの再会にも特に興奮するようなところもなく、かえって落ち着いた口調で話した。彼は、何か答えなければ、と思い慌てた。
「千絵さんは、変わりましたね。何て言うか……髪が伸びて、大人っぽくなった」
 言ってから、つまらないことを言った、と後悔した。そんなことをひとに言われて喜ぶ歳はとうに過ぎている。しかし千絵はそれを気にかける様子もなく、
「私ももう来年三十だからね」
 とそっと微笑んだ。その表情には、昔と同じような穏やかさこそあったものの、高校生の頃の透き通るような純真さはどこかに立ち消えているように感じられた。
 千絵は、通路から一段降りて、彼の席の隣に腰を下ろした。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
「ええ、まあ……」
「私は、さっきの試合、従兄弟の子が出てたから応援に来てたんだ。負けちゃったけどね。高橋くんは?」
 聞かれて、彼はどう答えればよいのか即座には判断しかねた。言葉に詰まって、
「ここは、十年前、俺の高校野球が終わった場所だから――」
 と答えにならないような答えをした。
「そういえば、そうだったね」
 千絵は彼の言葉に一言だけ返した。そしてそれきり後が続かなくなった。流れる風を頬に受けて、千絵は気持ち良さそうに目を瞑った。彼も黙ったままで、人のいなくなったグラウンドをしばらくぼんやりと眺めていた。
 その沈黙を先に破ったのは、千絵の方だった。
「ねえ、飲みにでも行かない? 久しぶりに会ったんだし、さ」
 そう言って立ち上がり、彼のほうを見た。突然の誘いに、彼は少し驚いて千絵の顔を見返したが、断る理由などどこにもなかった。むしろ、彼自身も久しぶりに会った千絵ともっと話をしたいと思っていた。彼はうなずいて立ち上がると、答えを聞く前から既に歩き始めている千絵の後に続いて、球場を出ていった。

 球場から少し歩いたところには繁華街が広がっている。その中の一軒の居酒屋に彼らは店を決めた。照明の抑えられた、落ち着いた雰囲気の店だった。
 隅のテーブル席につくと、彼はビール、千絵はウーロンハイを注文し、乾杯した。
「今もこっちに住んでるの?」
 と千絵が尋ねた。
「いや、今は東京」
「そう。私は大学終わってから、こっちに戻ってきたんだ。こっちの会社に就職して、こっちで結婚もしたしね」
 何気なく話す千絵の言葉の中に出て来た、「結婚」という響きに、彼は敏感に反応した。そのときになって初めて、グラスを持つ千絵の左手の薬指にプラチナの指輪が光っていることに気がついた。
「結婚、したんですか」
「うん、去年の春にね。そっちはどうなの?」
「いや、俺はまだ……」
「そう。いい人とかいないの?」
「まあ、彼女ならいますけど」
 それは、大学のサークルで知り合った女性だった。在学中は単なる友人としての付き合いしかなかったものの、卒業してからしばらくして街中で偶然出くわしたことがきっかけとなって交際を始め、かれこれもう四年になる。だが、彼には自分が彼女と結婚する姿を想像することは、どうしてもできなかった。
「そうだ、覚えてる? 高橋くん、私が高校卒業するときに手紙くれたよね」
 不意に千絵が、彼の顔を覗き込みながら、ずるそうな笑みを浮かべて言った。
「私さ、あのとき、うわあラブレターもらっちゃった、って、ちょっと舞い上がったようなふわふわした気分になってさ、それで家に帰ってからドキドキしながら開けて読んでみたんだけど。そしたらそこには、『千絵さんの笑顔はとても印象的でした。これからもずっとその笑顔を絶やさないでいてください』とかなんとか書いてあってさ、他にはどこを読んでも、好きです、とか、付き合ってください、とかは書かれてなかったんだよね。私、それでなんだかおかしくなっちゃって。ねえ、あれ、一体どういうつもりだったの?」
 そう言うと千絵は本当におかしそうに笑い出した。
「そうでしたっけ。忘れましたよ、昔のことは」
 と彼はとぼけて見せたが、もちろんそれは嘘だった。彼ははっきりと覚えていた。千絵が卒業する直前、どうしても伝えなければいけないことがあるような気がして手紙を書いたのだが、自分でもそれが何なのか最後まで分からなかった。仕方がないので、自分の思ったことを思ったままに書いた。その結果が、千絵が言った通りのよく分からない文章だった。十年も前のその手紙のことを今さら持ち出されて、彼は自分でも顔が紅潮していくのが分かった。それを千絵に悟られまいと、必死で平静を装った。
 ひとしきり千絵が笑い終わると、ふと会話が途切れた。二人の間に一瞬の沈黙が流れた。それは、ほんの数秒の間のことだったのに、彼には永遠のように長く感じられた。
「それにしても、高橋くん、よっぽどあの最後の試合のことが悔しかったんだね」
 グラスの表面についた水滴を指先でなぞっていた千絵が、軽く咳払いをしてから、思い出したようにしみじみと言った。
「わざわざあの日と同じ日に、東京から球場まで来ちゃうなんてさ。知ってた? 私もあの試合、応援に行ってたんだよ。大学の講義サボってさ。でも、惜しかったよね、延長までいったのに」
「いくら惜しかろうが、負けは負けです」
 手紙から話題が移ったことに一安心して落ち着きを取り戻した彼は、吐き捨てるように返した。
「でも、あの時の相手にはすごいピッチャーがいたじゃない」
「――戸波(となみ)」
 彼は口の中で小さく呟いた。それが、相手のエースピッチャーの名だった。
「確かにあいつの球は凄かった。サウスポーからの、右打者の内角をえぐるような鋭いクロスファイヤー。あんなストレートは、それまで目にしたこともなかった。でも、俺達にも意地があったから、どれだけ相手が凄くても簡単に負けるものか、って粘りに粘って。それで最後は二死満塁の一打逆転サヨナラっていうところまでもっていったんだ。で、そのここぞと言う場面で打席が回ってきたのが、俺だった。実を言うと、俺、あの打席のことはよく覚えてないんですよ。きっと、緊張やら興奮やらで、頭の中が真っ白になっていたんだと思います。だけど、それでも最後の一球だけは、はっきりと覚えてる。カウントツースリーからの六球目、アウトコース低目のストレート。見えていたのに、手が出せなかった。それで、ゲームセット。不思議なもんでね、この頃になって、やたらとその一球のことを思い出すんです」
 彼は珍しく饒舌に語った。それは、得意ではない酒に酔ったためなのか、あるいは喋るうちに自ら興奮して、自然と内なる思いが溢れ出たのか、分からなかった。
「でも、残念とか悔いがあるとか、そういうのとは違うような気がするんです。なんせ、精一杯やりましたしね」
 彼は自らに確認するように、あるいは言い聞かせるように、一言一言、言葉を噛み締めた。
 しかし千絵は、それを聞いて不思議そうな顔をした。
「そうかな。精一杯やってたからこそ悔いが残るんじゃない? 真剣にやっていればやっていた分だけ、目標が達成できなかったときの落胆は大きいはずだもん。むしろ、悔いが残って当然だと思うけどな」
 彼は口をつぐんだ。千絵の言うことの意味を頭では理解できたが、どういうわけか素直に正面から認める気にはなれなかった。
「ねえ、今でも野球、やってるの?」
 続けて千絵が言った。彼は、「いえ」と小さく首を横に振った。
「それじゃあさ、明日久しぶりに野球やろうよ。うちの旦那が地元の草野球チームに入っててさ、私もそこでまたマネージャーの真似事みたいなことやってるんだ。楽しいよ、きっと。高校時代に戻ったみたいでさ」
「え? いや、でも――」
「いいからいいから。どうせ明日も休みで暇でしょ」
 彼は、千絵の誘いにあまり乗り気になれなかった。とても高校時代に戻ったような気持ちになれるとは思えなかった。もとより、高校の頃でさえ野球を楽しいと思ったことはあまりない。単調な基礎練習の繰り返しに、厳しいトレーニング。それらを乗り越えることができたのは、十代特有の尽きることのない情熱があったからだ。今の自分が野球などやったところで、得られるものはせいぜい翌日の筋肉痛くらいのものだ、と彼は思った。
 しかし、目の前の千絵は、そんな彼の内心の憂いなどまるで気にかけず、アルコールで火照った頬を緩ませて、穏やかな視線を彼に投げかけている。そんな彼女の表情を見ると、断るわけにもいかなかった。
 彼は手元のジョッキを傾けて、残りを一気に飲み干した。気の抜けて温くなったビールは、やたらと苦いだけだった。
 
 明くる日、言われた通りの時間に河川敷のグラウンドへ行くと、すでに何人かがキャッチボールを始めていた。その中に千絵の姿もあった。土手の上に立っている彼の姿を見つけて手を振った。彼はそれに応えて手を挙げながら、グラウンドへと降りていった。
「旦那を紹介しようと思ってたんだけど、急な仕事入っちゃって今日は来れなくなっちゃった」
 と千絵は詫びた。彼はむしろ良かったと思った。千絵の旦那を紹介されたところで、どんな顔をしてどんな挨拶をすれば良いのか、彼には分からなかったからだ。
 千絵が一通り草野球チームのメンバーに彼を紹介したあとで、彼もキャッチボールに加わった。周りが皆チームのユニフォームを着ている中、彼だけはTシャツにジャージという格好だった。昨夜久しぶりに帰った実家で探し回ったのだが、どういうわけか高校時代の試合着も練習着も見つからなかったのだ。ただグラブだけは、勉強机の上で埃をかぶっていたのを見つけて持ってきていた。
 もう何年も本格的に体を動かしていない彼にとっては、草野球の練習といっても相当堪えるものだった。キャッチボールの距離が塁間を越えると、途端に球に勢いがなくなった。肩が鉛のように重く感じられた。その後に受けたノックでも、まるで足が付いていかない。だが意識だけは現役だった十年前と同じつもりでいるので、今の彼では追いつけるはずのないボールでも必死になって追いかけてしまうのだった。 
 練習が始まってから一時間ほどで、とうとう息が切れた。フラフラになりながら、ちょうど木陰になっているベンチに下がって一息つき、千絵が差し出したタオルで汗を拭った。
 そのとき、何気なく土手の上のほうを見遣った彼は、そこからグラウンドに下りてくる人影があるのを見つけた。同じ草野球チームのユニフォームを着ているところを見ると、どうやらメンバーが一人遅れてやって来たようである。
 千絵もその姿を見つけると、「やっと来た」と呆れたように呟いてから、彼のほうを向いた。
「今日、私の旦那は紹介できなかったけど、その代わりもう一人面白い人を呼んでおいたんだ」
 千絵が面白い人、と呼んだその人物は、ゆっくりと彼らのほうに向かって歩いてきた。どんな人だろう、とぼんやりと考えていた彼は、その男が近づいてくるに従って、次第に奇妙な感覚に陥っていった。その男に以前どこかで会ったことがあるような気がしたのだ。だがそれが誰なのかということは、思い出せそうで思い出せなかった。
 男は、「おはよ、千絵ちゃん」と手を振りながら近づいてきた。そして彼らの前までやって来ると、
「この人が昨日言ってた人?」
 と、彼のことを親指で指し示した。彼は何のことか分からず千絵の方を見た。
「分かんないかな? 彼、戸波くんだよ。ほら、夕べ言ってた、十年前の。今はこのチームでこうやってたまに一緒にやってるんだ。高橋くんのことは、昨日、電話で話しておいたの」
 彼は驚いて、もう一度目の前に立っている男の顔を正面から見直した。あごに生やした無精ひげのために多少印象は変わっていたが、言われてみれば、確かに十年前バッターボックスから仰ぎ見た相手エースの面影があった。
「あんた、千絵ちゃんと同じ高校なんだってな」
 戸波だというその男は、気軽い調子で彼に話しかけた。 
「三年の夏の試合のことは、俺も覚えてるよ。なんせ、楽勝だと踏んでたのにようやく勝ちを拾ったようなもんだったからなあ」
 十年前自分たちを負かした戸波が今目の前に立っている。そして他ならぬその戸波自身の口から十年前の試合のことが語られている。そう考えた瞬間、彼は頭の中に見覚えのある光景が広がっていくのを感じた。
 鮮やかな夕暮れに照らし出されたグラウンド。バックスクリーンのスコアボードは、延長十二回の裏、ツーアウト、カウントツースリーを示していた。マウンド上に視線を移すと、今まさに投手の足が上がり、球が放たれるところである。だが、打席でそれを迎える打者は、バットを振ろうとはしない。振れば手の届く距離のボールを、半ば祈りにも似た気持ちで、ただ見送った。次の瞬間に聞こえてきたのは、背後でバッターアウトをコールする審判の声だ。
 それは、彼の中でこれまで何度も繰り返し再生されてきた光景だった。しかし、今回はひとつだけ、いつもと違うところがあった。彼はこのとき初めて、体中にこみ上げてくる言いようのない悔しさに気がついたのだ。いやむしろ、思い出したというべきかもしれない。確かにあのとき、彼は悔やんでいたのだ。バットを振ってさえいれば結果は変わっていたかもしれないのに、振らなかった。そのことをずっと、悔やみ続けてきたのだ。
「あのときの最後のバッターは俺だった」
 遠い目をしたままで、彼は呟いた。
「ああ、そうか」
「戸波、もう一度俺と勝負してくれないか。一打席だけでいいんだ」
 それは、彼の意識しないうちに、自然と発せられた言葉だった。そんなことを口にした自分自身に対して、彼は驚いた。今さらそんなことをしたところで、遡って結果が変わるわけではない。それでも、どうしても抑えることが出来ない衝動のようなものが彼をとらえていた。
 戸波はベンチに座ってスパイクに履き替えていたが、靴紐を締め終えると顔を上げた。
「十年前の再戦ってわけか。面白え、やろうじゃんか」
 そう言って白い歯を見せて笑った。
「いくら一度肩やっちまったとはいえ、元ドラフト候補生だ。甘く見んなよ」
 それから立ち上がってチームメイトのもとへと走っていき、ウォーミングアップを始めた。
 彼は近くにあった金属バットを手に取り、力を入れてグリップを握り締めた。その横で、千絵が何か言いたげな表情で彼のことを見つめていた。
「こうなると分かっていて、俺を誘ったんですか」
 千絵の視線に気づいて、彼は尋ねた。だが、それに対して千絵は曖昧に首を傾げるだけで、肯定も否定もせず、代わりに別のことを言った。
「高橋くんって、もっとこう、ドライな人かと思ってた」
「ドライ?」
「うん。過去は過去、いくら悔いがあっても過ぎ去ったことはどうしようもない、って、割り切ってるっていうか、悪く言えば諦めてる、って感じ」
「きっと、ドライな『振り』をしていただけですよ」
 彼は低い声で自嘲するように囁いた。
「それより、さっき戸波が言ってた、肩をやった、とかいうのは?」
「ああ、戸波くんね、高校卒業してからもプロ目指して社会人野球チームに入ってたんだって。だけどそのチームにいたときに肩を壊しちゃって、それで結局プロには行けなかったらしいのよ。それでこっちに戻ってきてね、今は車の整備工場で働いてる。今でこそ明るく振舞ってはいるけど、その当時は結構荒れてた、なんて本人は言うけどね」
「そうですか」
 道理であれほどのピッチャーがこんなところにいるわけだ、と彼は納得した。十年という月日は、戸波に対しても平等に流れ、その中で戸波には戸波自身の人生があった。そんな当たり前のことが、彼にはなぜか新しい発見のように感じられた。
 肩慣らしのキャッチボールを済ませた戸波は、マウンドに上がって投球練習を始めた。ボールがミットに収まる小気味良い音がテンポよく響いた。チームのメンバーもそれぞれの守備位置へと散らばった。どうやら本格的に試合形式でやるらしい。
「準備できたぜ」
 と戸波がマウンドから声をかけた。彼はうなずいて右打席に入った。フェンスもスタンドもない河川敷のグラウンドで、用いるボールは軟式球。状況は十年前とまるで異なっていたが、打席に入る緊張感だけは変わらなかった。
「一打席だけでいいんだな。場面は延長十二回裏、二死満塁。アウトなら俺の勝ち、それ以外ならあんたの勝ちだ。シンプルにいこう」
「わかった」
「それじゃ行くぜ」
 戸波はゆっくりと振りかぶって投球モーションに入った。だが、右足を上げかけたところで、ふと思いついたように動作を止めた。
「ランナーがいたら振りかぶっちゃまずいよな」
 そう言って今度はセットポジションに構えなおした。いるはずのないサードランナーを肩越しにけん制する仕草も見せた。本当に十年前と同じ設定で対戦するつもりらしかった。
 再び戸波の足が上がった。軸足の左足から、マウンドの傾斜を利用して徐々に前へと重心が移り、ホームベースに向かって真っ直ぐ右足が踏み出された。次の瞬間、上半身が鋭く回転して、少し遅れて左腕がしなったかと思うと、突き刺すような切れのあるストレートがインコース低目に投げ込まれていた。全く手が出なかった。何年ぶりかで打席に入って目が慣れていなかったとはいえ、とても一度肩を壊した投手の球とは思われなかった。
 キャッチャーからボールが返され、さきほどと同じ投球フォームが繰り返された。だが今度は少し力みすぎたのか、ホームベース手前でワンバウンドになった。彼にはそれを目で追うだけでも一苦労だった。
 三球目は、初球よりもさらに厳しい内角ぎりぎりのコースに来た。目がそれを確認し、脳が運動神経を通して筋肉にバットを振れと指示を出すが、そのスピードよりもボールがキャッチャーミットに届くスピードの方が速く、結局中途半端なハーフスイングに終わってしまう。
 それでも、次の二球は外に外れるのを何とか見極めることができた。これでカウントはツースリー。どうにかしてフルカウントまでもってこられた。そう思ってマウンド上の戸波に目を向けると、戸波はにやりと不敵な笑みを浮かべていた。それで、わざと外したのだと分かった。戸波はあくまで十年前を忠実に再現しようとしていたのだ。
 彼は手を挙げてタイムの合図をし、一度打席を外した。グリップに滑り止めのロジンをまぶしながら、何年もろくに運動すらしていない今の俺が戸波の球を打つのは無理だろう、と彼は思った。しかし、それでも、「何かが起きるかもしれない」という可能性が残されている限り、バットは振らなければならない。見逃しだけはもうごめんだ。そう決心して、一つ大きく息を吐いてから打席へと戻った。
 最後の一球のモーションに入った戸波の動きは、やけにゆったりと感じられた。指先から弾けるように球が放たれ、風を切り裂くような鋭い音を立てて勢いよく近づいてくる。アウトコース低目だ。その球筋をはっきりと目で捉えると、彼は左足を思い切り踏み込んで、渾身の力を込めてバットを振った。
 次の瞬間に響いたのは、バットがボールに衝突する音ではなく、ボールがミットに収まる音だった。
「よっしゃ」
 マウンド上の戸波は、嬉しそうに拳を握った。
「また俺の勝ちだな」
 そう言いながら歩み寄ってくる。
 結局、何も起こらなかった。バットを振ったところで、結果は変わらなかった。
「でも、振れた」
 握り締めたバットをしみじみと見つめながら、彼はぽつりと呟いた。
「あ?」
「あの時と違って、バットを振れたんだ」
 それだけで満足だ、と彼は思った。今、胸のつかえがとれたような清々しさを自分が感じていることに、彼は気づいていた。
 だが、そんな彼を横目に、戸波は素っ気無く言った。
「振れたっつってもよ、最後のはありゃ、ボール一個外に外れてたぜ。振らなきゃ良かったのに」
 彼ははっと顔を上げて、戸波の顔を見た。
「そうか」
 上手くいかないものだな、と思って彼は苦笑した。ずっと振らなかったことを気に病んできたというのに、今度は振らないのが正解だったなんて。
「残念だったね」 
 ベンチで見ていた千絵が彼の隣に来て、声をかけた。
「そうですね」
 と彼は答えたが、実際にはそれほど残念な気はしなかった。ただ、どういうわけか無闇におかしくて、体の奥のほうから湧き上がってくる笑いを抑えるのに苦労した。
 ひとつ伸びをしながら、彼は天を仰いだ。梅雨明けの澄み切った空に、厚みのある大きな入道雲が浮かんでいた。さらに高いところで輝く太陽からは、身を刺すような激しい陽光が降り注いでいた。彼は、その日差しの強さに今初めて気づいたかのように、慌てて右手を顔の前にかざした。
「なんだか、長かった夏が、ようやく今終わったような気がします」
「何言ってるの、夏はまだこれからだよ」
 と言って千絵は笑った。

十年越しの季節

ベタな話をベタに書いてみました。

十年越しの季節

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-01-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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