むかし、むかしのことだよ

 むかしむかしのことだけどね。
 ぼくがまだ海にいた頃のことで、ぼくの生まれ育った家の近くに、イルカ堂、というパン屋さんがあってね、そこのクリームパンはたいへん美味しかった。イルカ堂をやっていたのは白髪頭のおじいさんだったのだけど、イルカ堂にはクリームパンと、食パンと、うぐいすあんパンしかなかったけれど、イルカ堂は朝七時の開店と同時にお客さんが押し寄せて、三種類のパンはどんどん売れて、昼前には売り切れ店じまいしてしまうのでした。イルカ堂のおじいさんは、ひとりで店を切り盛りしていたのでね。
 おくさんがいるとか、息子がいるとか、孫もいるとか、いないとか、おじいさんの家族のことは巷でいろんな噂が立っていたけれど、どれも嘘くさくて、どれも本当のことのように思えた。おじいさんはまいにちパンを焼いて売るばかりで、ご近所付き合いはほとんどないようだったが、なんせ美味しいパンを焼くものだから、みんな悪いことは言わなかった。ちなみにぼくのおとうさんはうぐいすあんパンが好きで、おかあさんはイルカ堂の食パンをフレンチトーストにするのが好きだった。おかあさんのフレンチトーストはパンの耳がついたままで、いつも角が黒く焦げるのだが、バニラアイスクリームを添えるものだから焦げの苦味も気にならなかった。
 そういえば、イルカ堂で一時期、クラスメイトのKが働いていたっけ。
 Kといえば学校でも有名なちゃらちゃらしたやつで、肩につきそうなほどの長い髪を茶色に染め、制服のズボンを少し下げて、見るたびにちがう女の子と手をつなぎ、たらたらと歩いているようなやつだった。そんなKがイルカ堂でアルバイトをはじめたのは、そろそろ卒業後の進路を決めなくてはいけないという時期で、海を出るか残るかでみんなが考え悩み情緒がちょっとばかし不安定になるときで、ぼくもそんな感じで、ちゃらちゃらしているKが朝早くからまじめにパンを売っている姿を見て、ぼくは「こなくそっ」とイライラしていた。パンを買いにきたおばさま方にちやほやされて、Kはにこにこ笑っていた。ぼくはそのへんにいたタコと、イカと、ウミガメと、シュモクザメにけんかを売って、殴り合いのけんかをして、五日間の停学をくらった。
 まァ、もうむかしむかしのことだからさ、忘れてしまったことも多いのだけど。
 KのともだちにMというのがいて、そいつはアイスキャンディを売り歩くペンギンの団体にアルバイトで雇われて、そのままどこか遠くの世界に行ったのだった。学校の近くにあった、クジラの頭くらいおおきな岩と岩とのあいだに、名も知らぬ遠くの世界につながる道があったのは有名な話だ。ぼくのともだちのEは、海を出て音楽をやっている。Eの作る音楽は、歌詞がとてもいいらしいのだ。恋をしている女の子から絶大な支持を得ていると聞く。
 ぼくだって海を出てそれなりにお給料のいい会社に入って、良くも悪くもない立ち位置にいて、実に平凡な暮らしを送っているが、何事もふつうがいちばんではないかと思う。今の生活に不満はないよ。ただ上げるならば、さすがに百年、二百年とおなじ世界で生きるのは退屈だってこと。それから百三十年前に食べたイルカ堂のクリームパンよりも美味しいクリームパンに、まだ巡り会えていないということ。
 おかあさんのフレンチトーストの、黒く焦げた角のかりかりが恋しくなる日も、あるよ。

むかし、むかしのことだよ

むかし、むかしのことだよ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-20

CC BY-NC-ND
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