夜の砂浜を歩いた

 夜の砂浜を歩いた。
 夜だったけれど、月明かりがまぶしいくらいの夜だったので、こわくなかった。
 波はおだやかで、砂はざりざりしていて、靴の裏で踏みつけるたびにキュッ、キュッ、と悲鳴のような音を発したけれど、なにもこわくなかった。
 テトラくんが、いたからかもしれない。
 テトラくんは、となりの席のライオンである。
 テトラくんは勉強ができる。授業中、先生の話をまじめに聞いているようである。授業のときだけ、黒縁のめがねをかけている。塾には通っていないので、家でたくさん勉強していると思われる。
 テトラくんは運動もできる。サッカー部でもないのに、体育のサッカーでばんばんシュートを決めるし、野球部でもないのに、野球ではがんがんホームランを打つ。バスケットボールでも遠くからシュートを投げてゴールに入れられるし、バレーボールではバレーボール部の人がするブロックをものともしない。
 テトラくんは、女の子に人気がある。けれどテトラくんは女の子が、あんまり好きではないようである。「よりどりみどりなのに、もったいない」という人がいれば、好きな女の子がテトラくんのことを好きなために、テトラくんを妬んでいる人もいる。女の子に対してテトラくんは冷製パスタみたいに、つめたい。女の子たちはそんなツレナイところも素敵と、ますます色めく。
「今の時間、魚は眠ってると思う?」
 焼きかけのホットケーキみたいな色のまんまるい月を眺めていたテトラくんが、ふいにそう言った。
 金色の稲穂のようだ。月明かりに照らされた、テトラくんのふさふさの髪。
 ぼくはテトラくんの背中を見ながら、うん、と頷いた。
「魚はおじいさんおばあさんみたいに、早寝早起きな気がするよ」
「そうだね。うん。そんな感じだ」
 テトラくんは海の底を思わせるような深く、静かな声で答えた。
 あした、テトラくんは転校する。
 どこに引っ越すのと訊ねたら、アフリカだとテトラくんは言った。
「うそ。ほんとうはアメリカ」
 テトラくんがめったに見せない微笑みを浮かべたので、アメリカというのもたぶんうそだと思った。
 ぼくにとってテトラくんは、いちばんのともだちだ。
 テトラくんにとってもぼくがいちばんのともだちであることは、自惚れではないはずだ。
 学校では毎日いっしょにお昼ごはんを食べた。
 放課後は毎日いっしょに帰った。
 月に二、三回はテトラくんがぼくの家に泊まりにきて、いっしょに眠った。テトラくんとぼくは、おなじ布団で寄り添い合って眠ったけれど、だからといってどうこうということはなかった。せまいとか、男同士なのに気持ち悪い、とか。はじめてテトラくんが泊まりにきて、いっしょに寝ていいかと訊かれたときも、ぼくは然程迷わずにいいよと答えたのだったか。小さな子ども同士がひとつの布団で寄り添い合って眠るような、そんな感覚を想起したのだった。
「キミとね、離れるのは苦しいよ」
 ぼくの前を歩くテトラくんが苦い薬を飲んだあとの、苦さがまだ口の中に残っているときに発するような声で、つぶやいた。
 ぼくはふいに、テトラくんとならば結婚できるなァと思った。漠然と、そう思った。
 けれど、したいかしたくないかといえば、したくないとも思った。
 テトラくんとはこうやって夜の砂浜を歩いたり、学校の通学路になっている寂れた商店街を歩いたり、自転車に乗っている人や犬の散歩をしている人が行き交う土手を歩いたりする関係でいられたらと思うし、もしテトラくんが女の子よりもぼくを好きだと言うのならば、テトラくんのことをそういう意味で考えるのもやぶさかではない。
「ぼくもだよ、テトラくん」
と答えたぼくの声はテトラくんの、ぐおああああ、というとつぜんの咆哮にかき消されてしまったけれど、でも、テトラくんには伝わった気がしたので二度は言わなかった。
 水中めがねをせずに水の中で目を開けたときのように、テトラくんの姿が揺れ動いていた。

夜の砂浜を歩いた

夜の砂浜を歩いた

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-17

CC BY-NC-ND
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