20160808-盲目の女性(ひと)


 僕が、初めて彼女に出会ったのは小さな駅近くの横断歩道。彼女は、右手で白い杖を突いて、車が勢いよく突っ切る道の前で、渡れずに困ってた。そして、わずかな間げきをぬって、今まさに一歩を踏み出そうとしていた。
「危ない!」
 その僕の声に反応して、彼女は足を止めた。車が通りすぎると、僕は横断歩道を急いで渡って彼女に声をかけた。
「あの」
「はい?」
「あなたのお手伝いをしたいのですが、いいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
 そう言って、彼女は見えるはずのない白い瞳を、僕に向けて微笑んだ。いつもは、すぐに目を反らしてしまうのに、彼女の瞳には不思議な引力があって、僕は見つめてしまった。だが、すぐに目的を思い出し、彼女に訊ねる。
「手、いいですか?」
「はい」
 彼女は、慣れた手付きで僕の左ひじに手をかけると、僕のあとに付いて横断歩道を渡った。
「どこに行かれるんですか?」
「駅前のパン屋に行こうと思って。ほら、今日は天気がいいから、てくてく散歩がてら、食べたいパンを買おうと思って」
「美味しいですよね、あそこのパン屋。よかったら一緒に行きませんか?」
「ふふふ。ありがとう。本当は、こんなに遠出をしたのは久しぶりで、ちょっと後悔してたんだ」
「それじゃ」
 横断歩道からパン屋まで、およそ五十メートル。僕は、当たり障りのない話題を探して、夢中で話しかけていたように思う。
「今日は久しぶりの晴れで、雲は見たところ数か所にぽつりぽつりとあるくらいで、本当にぽかぽか陽気が気持ちいいですよね」
「ふふふ。雲の説明、ありがとう。そうか、ぽつりぽつりと雲はあるのね」
「ええ、そうです。気温約十八度、湿度四、五十パーセントの穏やかな秋空に、雲は浮かんでいるんです」
「そうかー、気温が十八度か。どうりで、日に当たってないところは、肌寒い。もう秋なのね。わたしの嫌いな冬がもうすぐ来るのね」
「そうですよね。僕も苦手ですよ、冬は」
「本当にね。わたしの名前、冬の子(ふゆのこ)って書いて、トウコって言うけれど、大嫌いな名前よ」
「ご、ごめんなさい。あ、僕は岡田直也と言います」
「ふふふ。あなた素直ね」
「そんなこと、ないですけど」
「その分だと、今まで人に騙されたことがないようね」
「……はい」
「わたしは、騙されっぱなし」
「……」
「お金なんて、いつも騙されて多く払わされるわ。千円なのに一万円札を取られちゃって。だから、民生委員にお金を渡されても、すぐに財布が空になるの。ふふふ」
 多分、彼女はひとりで住んでいる。そうでなければ、同じ視覚障害者の人と住んでいる。そう考えた。
「なんて、嘘。そのくらい指で触れば分かるわ。冗談を言ってるまにパン屋に着いた。いい匂いね」
「はい……」
 僕は、引き戸を引いてお店に入った。エプロンをした年配のお姉さんが、いらっしゃいませ、と落ち着いた声で言った。僕は軽く礼をして、トレイを持つと彼女に訊ねた。
「どんなのが食べたいですか? 惣菜パン、お菓子パン、それともプレーンな食パン、どれがいいですか?」
「それじゃ、まず食パンを。ところで、量はどれくらいだったかしら?」
「二センチくらいの厚さで、六枚ほど入っています。もちろん、袋に包まれていますよ」
「それじゃ、二個。それにマーガリンもね」
「はい」
「次は惣菜パンだけど、どんなのがある?」
「ピザ味、サラダサンド、チキンサンド、ポークサンド、ビーフサンド、どれも美味しそうです」
「ええっと、サラダとチキンのサンド、それぞれ六つずつお願い」
「はい」
「それくらいで、いいかな」
 およそ一週間分の食料だと、僕は考えた。もっとも、お米を食べない場合だが。よっぽど、パンが好きなのか、それとも料理ができないのかは見当がつかない。
「ジュースは要りませんか? えーと、オレンジ、リンゴ、パイナップル、牛乳、コーヒー牛乳などですね」
「そんなに種類があるの。そうね、二つずつお願い」
「はい」
「ありがとう。もう十分だわ」
「すみませーん。お会計お願いします」
 店員は、手早く会計をして、二千百六十円ですと言った。視覚障害者の彼女は、お金を出そうとして、まごついている。
「ああ、僕が出しますよ」
 と言って、僕が払った。そして、パンの大きな袋を持って、彼女に再び左ひじをかし、店を出た。
「えーと、二千二百円でいいわね」
「今日は、おごらせてください。とっても、天気がいいから」
「あら、ありがとう。それじゃ遠慮なく。ふふふ」
「他に行きたい所は、ありませんか?」
 僕たちは、また歩道を歩き出した。
「行きたい所はあるけれど、でもパンを早く冷蔵庫に入れないと」
「そうですよね。帰りましょうか」
「ええ」
「家は、どこにあるんですか?」
「さっき来た道を、一キロくらいの行ったところに」
「分かりました」
「ねえ、あなたずいぶん暇なのね」
「ええ、暇です。本当は、本屋にでも行こうかと思ってたんですが、それほど読みたくもなかったので」
「それじゃ、家までわたしのお供を、お願いしようかしら?」
「ええ、いいですよ。ところで、一緒に歩いていて、僕の顔は気になりませんか? 酷いブサイクだったら」
「あら、残念ね。わたしは面食いなのよ。ふふふ」
「ああ、そうでしたか……。でも、顔はいたって普通ですよ」
「そうなの? よかった、ふふふ。それよりも、わたしは匂いの方が気になるかな」
「え! まずいなー。くんくん」
「大丈夫よ。あなたは、リンゴの香りがするもの」
「そうだ! さっきリンゴを一個食べて家を出たんだ」
「なるほどね。ふふふ」
「あははは」
 僕は、彼女の笑い声が妙に心地よくって、笑顔になっていたんだと思う。
 お互い笑いあったあと、少しの間沈黙があった。目の見えない彼女には不安な時間だろうと、なんとか会話を探した。
 しかし、彼女を見るとなにか考えているようで、その思考を妨げるような気がして、しばらくの間彼女の足音だけを聞いていた。とても静かに、そしてゆっくりとした彼女の歩み。いつしか僕の心は足音に浸っていたように思う。
 その時、ふいに羽ばたく音がして空を見上げると、小鳥がなにかをついばみ飛びたったようである。羽ばたく音が遠ざかって行った時に、静かに彼女が口を開いた。
「ねえ。あなたもわたしを抱きたくて、優しくしてくれるの?」
「な、なに言ってるんですか」
「こんなに親切にしてくれるなんて、なにか目的があるでしょう?」
「僕は、ただあなたがキレイだから」
「本当に?」
「本当に」
「ふふふ。あなた、損しちゃったね。抱きたいって言えば、抱かせたのに」
「ば、馬鹿なこと言わないでください!」
「……」
「もっと、自分を大切にしてください。お願いします」
「うん。ごめんね」
「……」
「でも、わたし、何度もレイプされて慣れっこなの」
「……」
「小さいうちから、何度も犯されたわ。そして、子供が産めない身体になっちゃって。だから、わたしの心配はいいの。でも、あなたの人格まで決め付けちゃって、ごめんなさい」
「いいえ。僕の方こそ考えなしに説教たれて、ごめんなさい……」
 それからの僕たちは、再び無言で道を歩いた。彼女にかける言葉を見つけられずにいた。こんなに穏やかな顔で、そんな酷い人生を歩んでいたなんて。誰か、彼女を救い出す人はいないのか。誰か……。
 思えば、彼女がこんな酷い人生を僕に教えたのは、きっと自分の容姿に幻想を抱く者に、はやく分からせるためだったのではないのか。

「ああ、この香は、やっぱりキンモクセイだわ」
 そう言って彼女は足を止めて、花の香を吸い込んだ。その姿は、生きることを楽しんでいるよう。現実を受け入れて、尚かつ、清らかに生きる彼女は、聖母のように思えた。
 僕は、この時決意した。彼女を守るのだと――。


 あれから僕は、しょっちゅう彼女の家におじゃましている。
 その家は、線路沿いを一キロほど行った住居地域にあって、趣のある二十坪ほどの平屋だった。その家におじゃまするたび、彼女は身の上話をポツリポツリと話してくれた。
 彼女の名は竹田冬子。小さい頃から悪くない容姿で、両親にかわいがられた。
 だが、五歳ころから目が見えなくなって、愛情はなくなった。家に閉じ込められ、一日一食だったそうだ。しかし、そんなことにも文句を言わず、すくすくと育った。
 親の目を盗んで外に出始めると、目が見えないのだから、すぐにいたずらの的になった。初めは泣いて嫌がったが、次第にあきらめて受け入れるようになる。いたずらした者からは、両親が慰謝料を取って、彼女との関係はそれなりに悪くなかった。
 しかし、それが民生委員の知るところとなり、慰謝料を取りずらくなった両親は、彼女を年寄の好事家に売ってしまった。毎日のようにもてあそばれていたが、ある日、その老人は心臓の病で死んでしまう。あとから、老人と彼女の関係を知った子供たちは、慰謝料として一軒の小さな家を与え、少なくないお金を渡し、遠くの町へ住まわせた。そして、彼女はひとりきりで暮らしている。
 彼女の話をまとめると、おおよそ以上のような話だった。そんな酷い親がいるなどと信じられないが、一軒家にひとりで住んでいることから、本当の話だと思う。

 彼女の家に初めて行った時は、驚いた。玄関の電球から家の中の電球まで全部取り払われていて、真っ暗だったから。
「食べ物、ここへ置いておきますよ」
 僕は、玄関の上り口にパンを置いた。
「ここね。ありがとう」
 薄暗い部屋の中、電気をつけようとスイッチを押してもつかなかった。不思議に思い天井を見上げると、蛍光灯が入っていないことに、初めて気が付いた。
「あれ? この電球……」
「要らないから着けなかったのよ。なにせ、わたし、メクラだから」
「……視覚障害者と言ってください」
「あら、そんなこと気にするの? いいのよ、メクラって言っても」
「それでも、僕は視覚障害者って言いますよ」
「分かった。でも、どうせなら盲目って言われるのがいいわ」
 盲目の女性。彼女にぴったりに思えて、反論できない。だから、論点をそらした。
「電球ですけど、夜中についていないと、留守だと思ってドロボウが入るから、物騒です。だから、今度買ってきますよ」
「ふふふ。ありがとう、わたしのために」
 その日は、もう暗くなり始めたので、それでお別れをした。
 僕は帰り道で、目が見えない世界とは、どれほど生きづらいのかと考えた。車道と歩道を分ける白線もない細い一本道、そっと目をつむって見る。わずか五歩ほど歩いて、目を開けると、もう少しで排水溝に落ちていた。僕には、恐ろしくてとてもできないと思った。そう言う世界に、冬子さんは住んでいるんだ。あらためて、彼女を守らなければと思った。
 街灯が柔らかい色で照らす中、僕は冬子さんと出会った幸運を噛みしめて、ゆっくりと帰り道を歩いて行った。

 次の日の夕方、僕は電球を買って冬子さんの家に行った。そして、買ってきた電球を一つずつ着けた。だが、電気代と消し忘れのことを考えて、必要最低限にしたが。
 部屋が明るくなると、床の汚れが目立つ。一応掃除はしているようだが、全体に薄汚れてて、僕は眉をひそめた。
「掃除させてもらいますよ。いいですね?」
「悪いわね、色々と」
「僕が、好きでしているんだから、いいんです」
「ふふふ。ずいぶん世話好きね。それも、なんの見返りもなく」
 彼女の言葉を無視して、バケツやら雑巾やらを見つけて、床を何度も拭いた。こんなに一生懸命掃除をするなんて、それまでの僕には考えられないことだった。その理由は、彼女が美しかったからかも知れない。薄汚れた場所に住む彼女など、見たくなかった。
 磨き上げた床をよく見ると、かなり上等なもので、好事家がそれなりに資産家だったことをうかがわせた。だが、それはあまり考えないようにした。もう過去のことだから。
 床を掃除していて気付いたのだが、冷蔵庫が臭う。一言断わって扉を開けて見ると、案の定、ずいぶんと古い物があった。消費期限が切れている物や、明らかに古い物は捨ててしまった。一度、全部中の物を出して、手早く水拭きして、早く食べなければいけない物を右側に、まだ新しい物を左側に置いた。
 野菜だが、それは手でちぎれるレタスなどしか入っていなかった。どうやら、包丁は使っていないようだ。冷蔵庫には出来合いの惣菜しか入っていなかったから。台所も見たが、包丁も、まな板もなかった。けがをすると大変だから、それでいいと思った。
 ついでに、台所をきれいにした。かなり汚れていて、お酢を薄めてかけるときれいに落ちた。その次に、トイレと浴室の掃除をした。浴室の排水溝は髪とセッケンがガチガチに固まって、中々手ごわい物だったが、それもお酢できれいにした。
 大分、住みやすくなった。僕は満足してまた今度と言って家を出た。

 翌週の日曜日。僕は色々なものを抱えて、冬子さんの家におじゃまをした。冬子さんが驚く中、次々と箱から出した。もうそろそろ暖房の季節なので、電気ヒーターを出していたが、危ないのでオイルクーラーを買ってきた。ガスコンロも危ないのでIHを買ってきた。これで、もう火事の心配はなくなった。
 次に、彼女の服装だが、ずいぶん前から同じものを着ているようだったし、暗い感じの洋服が多かった。それで、彼女に似合いそうな明るい服を数点買ってきた。冬子さんは呆れたけれど試してくれた。
 彼女は奥の部屋で着替えると、僕の前でファッションショーを始めた。
「じゃーん。どう?」
「きれいだよ」
「本当?」
「本当に」
「うれしい」
 こうして、彼女の周りは少しずつ理想通りの環境になっていった。居心地がいい僕は、ここへ来る日が次第に増えていく。

 クリスマスを迎えて、僕は買いなれないホールケーキを用意して、彼女の家に行った。本来なら、なにか彼女に合ったものをプレゼントするのだが、普段、彼女にだまって服やらアクセサリーを買って上げているので、いい物が思い付かない。悩んだ末、音声式の時計を包んでもらった。 
「今日は、クリスマスだね」
「そうね。でも、わたし今まで祝ったことないわ。両親はわたしをのけ者にして勝手に祝ってたし、わたしをオモチャにした人は、そんなことはやってくれなかった」
(……じゃ、今までクリスマスケーキも、誕生日のケーキも食べてこなかったのか?)
 その言葉を飲み込んだ。
「多分、目が悪くなる前には、ケーキも食べていたんでしょうね」
 僕は、涙が出そうになったが、無理して楽しそうに、こう言った。
「丸いケーキに、ケンタッキーやポテトサラダ。それに、コカコーラやシャンペンもあるんだ」
「なんだか、美味しそうな匂いね」
「さあ、食べよう」
 彼女は、切り分けたケーキを一口食べた。
「美味しい。本当に、美味しい」
 そう言って涙を流した。
 渡しずらくなったが、音声式の時計を渡した。彼女は、おそるおそるボタンを押してみた。
「ピィ。午後六時十五分です。午後六時十五分です」
「凄いわー。ありがとう」
 冬子さんがそう言って下から見上げた時、僕はキスしたい衝動をかろうじておさえてケンタッキーを頬ばった。

 この日は、歯が悪くなることも気にしないで食べてもらった。食後に、僕が歯磨きを手伝ったから。
 どうやら、彼女の知らない食べ物や、喜びは、まだまだありそうだ。それを、一つずつ教えていこうと思う。それが、僕の喜びなのだから。

 お正月のお祝いも、久しぶりに積もった雪遊びも、冬子さんと楽しんだ。そして、彼女の誕生日を迎えた。彼女に、ケーキのロウソクの火を消してもらって、ごちそうを食べた。
「本当、毎日が幸せだわ。ありがとう、岡田くん」
「いや、僕の方こそ幸せだよ。君の笑顔が見れるから」
「ふふふ。まるで、恋人同士みたいね?」
「……ねえ、冬子さん」
「なあに?」
「僕、ここに住んでいい?」
「やっと言ってくれた。遅いのよ、まったく」
 そう言って、冬子さんは僕に愛情たっぷりのキスをした。この日、僕は初めて彼女を抱いた。

 会った日に、身体が目的だろうと言われて、今まで手を出せなかった。けれど出会って三か月、彼女との会話は僕を前向きに変えて、そして居心地のいいこの家は僕に足を運ばせた。だから、こうなることは自然だったのかも知れない。
 僕は、彼女と、この家に、引き寄せられたのだ。僕は、彼女に包まれ、そのまま眠りに就いた。


 彼女と出会って一年がたとうとしていた。この頃、彼女は僕の左ひじに手をかけるのではなく、左腕をしっかり占領している。もうそろそろプロポーズの時期なのだが、僕はまだ決断できないでいる。それは、彼女が妊娠できないこともある。
 僕は、まだ三十一才で、それなりに人生設計をしている。遅くても三十五まで結婚して、子供は二、三人は産んでもらい、子育てをしながらもコツコツと貯蓄をして、老後は田舎に小さな家を建て、そして孫たちに囲まれて、今までありがとうと言って、息を引き取る。
 それが、出来なくなるのだ。そう思うと、さびしい。
 だが、彼女、冬子さんがそばにいたなら、どうだろう? 果たして、さびしい老後になるのだろうか? いや。きっと楽しい物になるだろう。僕は、それほど彼女を愛していた。
 ただ、心配なのは僕がさきに逝くことだ。目の見えない彼女を、残して逝くなんて。だが、それは気にしても仕方がないことだと思って、神にゆだねよう。それを抜きにすれば、きっと充実した老後を過ごせるだろう。
 頭の整理は付いた。僕は、愛の告白をしようとしていた。だが、その前に言わなくちゃいけないことがある。避けては通れないのだ。

 冬子さんと出会って、一年がたった日曜の昼下がり、いつものように、ふたりで買い物をすませると、僕はラジオをとめて彼女の前にひざまずいた。
「冬子さん。大事な話があるんだ」
「……うん」
 彼女は、そう言うと、身構えるように膝を抱えて聞く用意をした。
「僕の家は、小さい頃から貧乏で、いつも馬鹿にされていた」
「……うん」
「中学になる頃は、イジメもエスカレートして、それは酷い物だった」
「……うん」
「僕は、ある日、我慢できずに反撃をした。ありったけの力を出してね」
「……うん」
「そして、ひとりに大けがを負わせてしまった。慣れないことをしたから、手加減が分からなかったんだ」
「……」
「不自然に折れ曲がった膝を抱え、血の海の中で泣き叫ぶ様は、まさに地獄のような有様だった。ああ、これは現実じゃない、きっと夢だと思って、僕は意識を失った」
「……」
 怖いからなのか、真剣に聞いているのか、彼女の相づちはなくなっている。それでも、途中で話を止めることもできず、話し続けた。
「気が付いた時は、留置所にいた……」
「……」
「僕が、いくら説明したって、大人は聞いてくれなかった。そして、僕をイジメてた奴が、証言した。一方的に襲いかかったと」
「……」
「それで、更生施設に入れられ、そこで高校を卒業した。その時、名前を変えて、今でも使ってる。岡田直也だ。古い名は忘れてしまった」
「……」
「けれど、ありがたいことに前科がある僕でも、小さな会社に雇ってもらって、今までどうにか暮らしてる」
「……」
「だからなのかも知れない。君に……、目の見えない君に安心感を覚えたのは。君は、僕を冷たい目で見ないから」
「……そんなこと、大したことじゃないわ。どんなこと言われるか、ドキドキしたけど、あなたはまっとうな人よ。わたしに比べれば、ずーっとまともだわ。でも、わたしの見えない目も、時には役に立つのね。ふふふ」
「よかった。嫌われると思った」
 僕は、彼女の言葉にほっとして、これからすることに勇気が湧いた。
「これでも、色々な修羅場をくぐり抜けていたんだから。さあ、もうお昼にしましょう?」
「その前に」
 僕は、彼女の手を取って言った。
「冬子さん」
「はい?」
「今日は、ぜひこのプレゼントを受け取って欲しい」
 僕は、彼女の右の手のひらに小さなプレゼントを置いた。
「なに、これ?」
「なにって、それはエンゲージリングだよ」
「エンゲージ?」
「婚約指輪、エンゲージリング。一カラットのダイヤだよ」
「……?」
 彼女は、婚約指輪はおろか、結婚指輪さえも知らなかった。仕方なく、僕は「結婚してください」と言った。
「……本当に?」
「本当に」
「……冗談じゃなくて?」
「冗談じゃないよ」
「わたし、目が見えないんだよ」
「知ってる」
「子供も産めないんだよ」
「分かっているよ」
「それなのに、なぜ?」
「君を、愛してるから」
「……うれしい」
 彼女は、そう言うと顔をおおって、おいおい泣き出した。その彼女の指にエンゲージリングをはめて、僕は口付けをした。

 その日に僕が買ってきた物は、食パンと、サラダとチキンそれぞれのサンド、それに色々な飲み物。初めて会った時に、彼女が買った物だった。
 僕らは、毎年この日に、同じパンを食べるだろう。これから何年も、何十年も。

 結婚式は挙げなかった。僕は親から勘当されているし、彼女の親は彼女を売った人でなしだ。唯一、僕の会社の人たちがいたが、事情は言わず頭を下げて謝った。
 婚姻届けは、民生委員の人に頼んで、保証人をやってもらった。冬子さんの記入は、役所の人立ち合いのもとで民生委員に代筆してもらった。
 僕は、完全にアパートを引き払って、彼女の家に住むこととなった。ダブルベッドも新調した。タンスも買った。
 だが、家や彼女の貯金の名義は、冬子のままだ。以前のように、民生委員に管理してもらっている。あまりにも多額の通帳を見てしまったら、僕の人格が変わってしまうことも考えられる。それに、万が一離婚した時に、彼女の財産を明確に残したかったからだ。それが、僕のけじめだ。
 基本、僕が買い物をして、家の雑費の支払いをする。彼女に、負担をかけないためだ。
 そうやって、僕らは結婚生活を始めた。

 僕らは、毎週日曜日に散歩がてら、買い物に行く。彼女の服や、本や、CDを買ったりしてブラブラ歩く。本は、おもに彼女のファッションに付いてのものだ。僕は、一生懸命勉強して、へんな服装をさせないように気を付けていた。
 それから、彼女の好きな食べ物を買う。普段、僕が食料の買い出しをしているので、そんなにはかさばらない。片手で収まるくらいだ。だから、僕の左腕は彼女に占有されている。
 本当は、休みの日くらいは、車で遠出をしたいのだが、彼女はすぐに酔ってしまい、あきらめた。だから、散歩なのだ。
 ところで、普段の彼女は、なにをして過ごしているのかと言うと、それはラジオだ。かけっぱなしで一日中聞いている。情報も入るし、楽しめるし、電気代が安くていいことだ。僕も、彼女にならうことにした。だから、家にはテレビがない。
 これが、僕たちのスタイル。かけがえのない生活。


 いつもの日曜の散歩に出かけようと、玄関を開けた時だった。冬だと言うのに、その日は、やけに日差しが強い日だった。前日に雨が降ったあと晴天になって、空気中のスモッグや水蒸気、それにチリがなくなって澄みきっていたのだろう。
「まぶしい」
 冬子さんは、手をかざして言った。
「えっ! 今、なんて?」
「だから、日差しが強くて、まぶしいって」
「冬子さん。君は、日光が感じられるんだね?」
「はい」
「君の目が見えなくなったのは、五才の時だって言ってたね?」
「ええ、そうよ」
 僕は、冬子さんの両手を取って言った。
「もしかしたら、君の目は見えるかもしれない。明日、会社をお休みして、病院へ行くよ」
「なに言ってるの? わたしの目は、なにも見えないのよ」
「いいかい。僕も、詳しくは知らないけど、君の目は光が感じられる。もし、十分な治療をしていない場合、白い幕を取ってやると、見えるかもしれないんだ。確か、そんな話を聞いたことがある」
「ええー、本当!」
「待っててよ。今からネットで調べて、説明するから」
 彼女の両親が、真剣に治療をしていなかったと言う、一分の可能性にかけた。虐待。その言葉は、使わないで説明した。彼女は、うんうんうなずいて、いつになく真剣に話を聞いた。

 僕は、病院を調べて、翌日彼女を連れて行った。選んだのは大学病院で、きっと十分な検査が受けられると思った。
 病院の待合室で、冬子さんの手を握って待っていた。彼女は、緊張しているのか、手が汗ばんでいる。
「岡田さん。岡田冬子さん」
「はい」
 看護師に呼ばれて眼科の診察室に入った。お医者は、驚くほどかっぷくが良くて、僕はたじろぐ。だが、目に見えない彼女には、そんなことを分かるはずもない。かたわらの目の仕組みの模型も、僕を少なからず驚かせた。しかし、平静をよそおい、冬子さんをイスに座らせると、僕は立って話を聞いた。
 診察結果は、いい物だった。視神経は生きているから、瞳の白い曇りを取り除き、人工のレンズを埋め込み、眼鏡をかけると見える可能性が高い、という所見だった。
 さっそく、入院の手続きをして、検査が始まった。僕は、不安そうな冬子さんを励まして、家に入院に必要な衣類などを取りに帰った。

 僕は、衣類をカバンに詰め込んでいると、ふいに不安になった。もしも、医者の診断が正しくて、彼女の目が見えるようになったら、僕の顔を見て、なんて言うだろう? いつも、人目を気にして、おどおどしている自分。消えてしまいたい。そう思った。
 だが、彼女を見捨てて、この場から逃れることは、どうしても選択できなかった。彼女を守るんだ。その言葉を思い出して、奮い立つ僕だった。

 入院して一週間検査を受けて、手術室に入った。彼女は不安そうに、僕の手を痛いぐらいに強く握る。僕は、彼女をはげまして、手を強く握って送り出した。
 手術時間は思ったよりもかからず、一時間ほどですんだ。麻酔で眠っている彼女は、白い包帯を巻いて、痛々しかった。だが、これで彼女の目は見えるようになるのだ。
 僕は、彼女の目の回復を願いながら、一方で失敗してくれと祈ってしまった。最低な自分に、いまさらながら嫌気がさす。
 彼女が、眠っているかたわらで、手を合わせて謝った

 手術して三日目、ついにこの日が来てしまった。僕は、覚悟を決めて、冬子さんと巨漢の医者を見守った。
「いいですか、今から包帯を取りますよ」
「はい」
「痛くはないですか?」
「はい、大丈夫です」
「待っててくださいよ。ゆっくり開けてね。ゆっくり」
「……」
「まぶしいですよね。ゆっくりですよ」
「……見える。……でも、ぼやけていてよく見えない」
「それでいいんですよ。あとは、メガネをかけたら、よく見えますから」
 冬子さんは、僕の方を見た。確かめるように、何度もまばたきをして。
「冬子さん。よかったね、見えて」
「ええ。だけど、ぼやけているから、うれしさ半分」
「どれ、まず視力の検査をさせていただきますよ」
「はーい、先生」
 僕は、冬子さんの瞳を見られなかった。怖いのだ。どう思われるか怖いのだ。
 本当は、包帯を取った時に抱きしめるはずだったのに、僕の瞳は現実から逃れるように外の景色を追っていた。
 だが、そんなことを知るはずもない彼女は、僕の方を一生懸命見ている。
「はい、おしまい。よかったですね、他におかしなことは、なかったですよ。それじゃ、二、三日ようすを見たら退院ですが、一週間後にまた来てくださいね。
 あ、それとメガネですが、目がなじんでませんから、そうですね、退院して一か月くらいたったら合わせましょうね。それじゃ、おだいじに」
「ありがとうございます」
 医者はそう言うと、巨漢をヨイショと持ち上げて、病室を出て行った。

「ぷ、あははは」
「冬子さん、どうしたの?」
「あの先生、あんなに太っていたのね」
「本当に凄い身体だね」
「ふふふ」
「……」
「こんにちは。あなた」
「……こんにちは、冬子さん」
「どう、わたしの目。おかしくない?」
「とても、きれいだよ」
「ねえ、まさかとは思うけど……、いなくなったりしないよね?」
「……」
「おねがい。ひとりにしないで」
 そう言って彼女は、僕の腕をつかみ、泣き出しそうだった。
「そんな分けないだろう。僕は誓ったんだ。君をひとりにしないと」
「よかった。それだけが心配だったの」
「冬子さん、愛してるよ」
 僕は、冬子さんを抱きしめ、自分に言い聞かせるように、言った。そして、彼女に口付けをした。

 ある天気のいい初夏の日。僕は家に帰って冬子さんを探していた。
「おーい、冬子さん」
「あら、お帰りなさい。あなた」
「また、庭の野菜をいじってたのか?」
「ええ、雑草が生えてきてね、取るのが大変なのよ。ふふふ」
「この前植えたナスは、まだ食べれないのかな?」
「ナスだったら、ほら」
 そう言って、冬子さんは台所を指さした。まるまると太った美味しそうなナスビが、誇らしげに置かれていた。思わず、僕はつばを飲み込む。
「もしかして今夜は、マーボーナス?」
「あたり!」
 そう言って彼女は僕に抱き付いてきた。

 彼女は、虫メガネのようなメガネをかけて、世の中を見ている。初めは、ぼやけていたが、メガネをかけて普通に見えるようになった。
 最初、僕を見た時は、まじまじと眺め、にっこり微笑んだ。
「よかった。思った通りの顔だわ」
 この一言が、僕のわだかまりをぬぐい去り、ほっとしたんだ。ああ、僕はこのままでいいんだと。

 その夜、僕らはマーボーナスを美味しくいただいた。
 もう、包丁も使えるから、どんな料理だって作れる。彼女は、中々研究熱心で、僕の食べたい物はなんだって作ってくれる。餃子をこつこつ作ったり、肉まんをふかしたり、うどんを打つところから始めて、僕を驚かす。そして、ふふふ、と笑うのだ。

 ある晴れた日曜日、僕らはドライブをした。彼女は、目が見えるようになって、車酔いしなくなったのだ。窓を開けて、風に吹かれている姿は、どうしたって絵になる。僕が、少しでも絵の才能があれば描きたいところだが、悲しいことに全くない。だから、写真を撮るのだ。もう、アルバムも何冊も溜まっている。被写体は、冬子さんだけだ。
 ふと、突然変な声がした。
「あわわわわわ」
 彼女は、窓を開けて顔を近付け、口を開いている。
「こら、口の中に虫が入るよ」
「だってえええ。おもしろいんだもん。あわわわわわ。ん! ぺっ、ぺっ、ぺっ。やだー、もう」
「だから言わんこっちゃない」
 僕は、コンソールボックスからカメラを取り出すと、シャッターを切った。
「あ、なに撮ってるの。こらー」
「あははは」
 この分だと、被写体には当分困らない。

 僕は、幸せだ。誰よりも。君が、そばにいるから。


 冬子さんは、最近勉強をしている。小学校の国語の教科書を買ってきて、毎日こつこつと励んでいた。気が付くと、いつのまにか、ひらがなを終わって、漢字の勉強もどうやら終わったようだ。今は、もっぱらインターネットをのぞいている。
 冬子さんは、楽しくて仕方ないのか、夕食も作らずに続けている。もう、慣れっこになった僕は、会社の帰りに例のパン屋で買ってきた美味しいサンドイッチを出して、飲み物の用意をする。
「ねえ、晩ごはん食べるよ」
「あ、ごめんね」
「いいって」
 そう言って、僕はサラダサンドにかぶり付く。
 彼女も、コーヒー牛乳にストローさして、パンをかじる。
「もぐもぐもぐ。美味しいね」
「うん。あそこのパンは病みつきになるね」
「わたしが作ったお料理よりも?」
「こればっかりは、別物」
「そうだよね。……きっと、モルヒネやヘロインのような麻薬成分が含まれているのよ。もぐもぐ」
「それは、さすがにないかな。むしゃむしゃ」
 彼女の知識は、驚くほど広い。膨大な知識を、すべて飲み込むように吸収している。ただ、ちょっと知識はかたよっているし、少々発想が極端だが。

「ところでさー」
「うん? どうした?」
「ねえ、子供欲しくない?」
「え? ごほ、ごほ。そりゃ、いたら楽しいけど……」
「よかった。わたしも欲しいのよ」
「突然、どうしたんだ?」
「ネットを調べて分かったことなんだけど。卵巣と子宮をつなぐ卵管がつまっているだけだったら、それを手術で直したらいいみたいなの」
「本当?」
「本当に」
 彼女は、ノートパソコンでお気に入りをクリックすると、その情報を見せた。読んでみると、どうやら本当らしい。
「明日、病院へ行って聞いてみるわね」
「ひとりで大丈夫?」
「あなた。わたしは、もう目が見えるのよ。悲しいことに、この不格好な虫メガネがないと駄目だけど」
「分かった。気を付けて行ってきて」
「さあ、今度はチキンサンドよ。はむはむはむ」
 この頃の夜のいとなみは、電気をつけたままする。せっかく見えるのにもったいないと言って。しかし、僕の希望でメガネは外してもらう。その方が、彼女がきれいで萌えるからだ。その要望は、しぶしぶ受け入れられた。

 翌日の夜。冬子さんはにこにこしながら、僕の帰りを待っていた。きっと、いい知らせだと思って、話を聞いた。
「来月に入院するわ」
「と、言うことは」
「違うの。検査で細胞の一部を取るから、そのためよ」
「ふーん。その結果次第で」
「そう言うことね」
「分かった。その日は、病院まで送っていくよ」
「ちょっとー、やめてよ。あくまでも検査入院なんだから」
「……」
「あなたは、お仕事頑張ってね」
「はい……」

 この頃、冬子さんは僕を頼らないようになった。寂しいものだ。しかし、ひとりでも生きて行けるようになることには、賛成だ。人はみな、ひとりで生まれて、ひとりで死んでゆく。その理(ことわり)には、逆らえないのだから。
 僕が考えなきゃいけないことは、万が一、僕が死んでも、彼女が生きて行けること。健常者になった彼女に必要なのは、お金の心配だけだった。彼女の貯金がどれ位あるか分からないが、一応生命保険に入って、受け取りを彼女にした。普通のことなのだが。

 彼女は、検査入院をして、妊娠の可能性があることが分かった。だが、必ず妊娠するという保証はなく、あくまでも可能性がゼロではなくなるという説明だった。冬子さんはそれでもいいと言って手術の同意書にサインをした。そして、翌週、手術を受けるために、ひとりで準備して、ひとりで入院をした。
 手術当日は、来ることを拒まなかったが、それも万が一のためだ。彼女は、行ってくるねと言って、手術室に入って行った。僕は、彼女を待つ間、テレビを観ても新聞を読んでも、なにも頭に入ってこなかった。同じように手術が終わるのを待つ人たちがいた。やはり、なにをしても気もそぞろのようで、雑誌の同じページをずっと見つめていた。
 手術は、予定通りの時間で、無事終わった。麻酔で眠っている彼女を見るのは二度目だ。その寝顔は、以前目の手術した時よりも、若く見えた。きっと、目が見えるから、運動もして行動範囲も広くなって、体重も増えたからなのだろう。えくぼも、よりはっきりと見える。

 僕は、人生設計を再考した。子供はふたり。老後は田舎に家を建てて。毎日のように遊びに来る孫たちに、悲鳴をあげながら、まず僕が死に、そしてあとから穏やかに冬子さんがいく。そんな幸せな老後を夢見ていた。

 彼女が吉報を知らせたのは、僕たちが出会ってから、ちょうど三年目。秋に入りかけた頃だった。僕は、いつものように仕事に疲れて、ただいまを言った。
「お帰りー」
「どうしたの? にこにこして……。ああ、そうだった! 今日は、ふたりが出会った記念日だ。悪い、今日はプレゼントは用意してない。明日、買ってくるよ」
「そんなこと、いいから早く座って」
「なに?」
「ふーー……。妊娠したの」
「え?」
 冬子さんは、小さい声で言ったので、僕には聞こえなかった。
「だから、わたし、妊娠したの!」
「……」
 あまりにも嬉しい時、人は声を出せないらしい。僕は、無言で彼女を抱きしめた。ふたりとも泣いていた。十分くらい泣いていたかも知れない。

 冬子さんは、以前よりも注意力が出てきた。自分の命を守るのはもとより、お腹の赤ちゃんを守ろうとする意識が、ありありとうかがえる。その姿は、もう一人前のおかあさんだ。
 そんな冬子さんに、僕はどうにかして世話を焼こうとした。だが、いちいち断られる。病院へ付いて行くのも、買い物へ行くのも、重いお米を買うのだって断わられる。
「いいから、あなたは自分の仕事を頑張って」
 と言う具合だ。
 きっと、親になると言う自覚と、責任がそうさせているのだろう。そう、僕も大人にならなきゃ。
 だから、今まで以上に仕事に集中した。僕の仕事は、工場の製品を販売すること。製品の説明をして、いかに自社製品が優れているかを示して、買ってもらう、または他社の製品から乗り換えてもらう。なんの製品か説明できればいいのだが、なにぶん企業の内情を教えることになるのでできない。その仕事を、かれこれ十年以上させていただいている。
 いい時もあれば、悪い時もあった。中々売れなくて悩んだ時もあった。製品に問題があって、何日も徹夜したこともあった。その度に、上司に怒られて、なじられて、励まされて、時には飲みにつれて行ってもらって、悩みを聞いてもらうこともあった。そうして、十年以上たった今、その先輩の真似をして、後輩と接している。
 こうして、会社が機能するのだろう。今まで辞めた者は、僕の知るところではいない。他人の目が怖い僕が、いままでやってこれたのは、良き先輩や上司に恵まれたからだと感謝している。
 そして、彼女が妊娠してからは、家のことは全部彼女に任せて、今まで以上に仕事に力を入れた。

 それでも、毎週日曜に僕と連れ立ってぶらぶら買い物する習慣は、まだ続いている。そして、相変わらず僕の左腕は、彼女に占有されている。
「寒いわねー」
「本当にね」
「わたし、今日はお菓子パンも食べようかしら」
「めずらしいね」
「今までは、歯が悪くなると思って自粛していたけど、この子が欲しがるのよ」
 そう言って、彼女はお腹をさすった。その横顔は、本当に幸せそうだった。
「おう、どんどん食え。そして、太れ」
「えーー、わたし今でも五十キロあるけど、これでも目が見えない頃に比べると、十キロ近く増えたんだよ」
「なに言ってるの。六十キロぐらいはないと、元気な子は産まれないって」
「それは、知っているけど、五十五キロぐらいじゃ、だめ?」
「だめ」
「意地悪」
 きっと元気な子が生まれると、この時は思っていた。誰が見たって、幸せな夫婦だった。


 ようやく冬が終わり、春のきざしを感じ始めた頃。僕は日曜に仕事が入って、どうしても抜けられなかった。ひさびさの休日出勤だったので、なにか手に付かず、家を離れづらかった。
「やっぱり、行くのやめようかな……」
「なに、言っているの。社会人なら普通のことじゃない」
「冬子さーん」
「なに、泣きそうな声出してるの。わたしは、ちゃんとここにいるから」
「でも……」
「さあ、早く行かないと、集合時間に遅れるわよ」
 この時、僕は冬子さんにキスをした。普段やっていない習慣でいやがられると思ったが、冬子さんは喜んで受け入れてくれた。それで満足した僕は、車に乗って出先に向かった。
 バックミラーに映る冬子さんの姿を、目で追った。やがて、コーナーに差しかかり、冬子さんの姿は見えなくなった。

 冬子さんが、事故にあったと知らせが入ったのは、出先から会社に帰った時だった。すぐに病院に行くように言われ、先輩の車に乗せられ、向かった。身体が震えて、とても運転できなかったから。
 病院に着くと、すぐに看護師が対応してくれた、こちらへと。
 ICUに入ると、冬子さんは静かに眠っていた。
 僕は、それを見て、ああ、大したことなかったんだと、ほっとした。しかし、次の瞬間凍り付く。
「今しがた、お亡くなりになりました。力およばず残念です」
 そう言って、医者と看護師は頭を下げた。
「えっ! 嘘でしょ?」
「……」
「冬子! おい、冬子!」
 僕は、冬子さんをゆすった。だが、力なく首が揺れただけだった。

 つらい。だが、冬子さんを無事見送らなくては。そう思い、必死で喪主を務めた。葬式は冬子さんの家で行った。僕は冬子さんを棺に入れるのを手伝った。一番きれいな服を着せ、メガネを掛けた。冬子さんが、あっちでも見えるようにだ。
 当日、来てくれたのは、民生委員の人と、近所の三人の主婦。それから、僕の会社の人だった。そんな中、分厚い香典が届けられた。見るからに子供の文字で、分厚い香典と一緒に一枚の便箋が入っていた。開くと、『ごめんなさい』の幼い文字が水分でにじんでいた。僕は意味が分からず、戸惑った。

 葬儀からしばらくたって、警察官が教えてくれた。小さな子供を助けて、代わりに彼女がひかれたと。それで、子供の書いた『ごめんなさい』の意味が、ようやくわかった。こんないい子の命を救ったのかと思い、涙が止まらなかった。
 それでも、僕は一時、自分を責めた。もし、僕が彼女の目を直さなかったら、彼女は死なずにすんだ。そう考えて苦しんだ時もあった。しかし、それは彼女の望んでいなかった人生。きっと、何度生まれ変わっても目を直すことを選択するだろう。だから悩むのをやめた。
 彼女の家には僕が住み続けて、彼女の貯金は目の見えない人たちに寄付させてもらった。驚くほどあって、僕には使いきれないから。
 墓は新しく建てた。ちょっとおしゃれな洋風の明るい墓だ。僕の名前も彫ってある。これで、いつでも君のそばにいける。


 冬子が亡くなってから二十数年。色々なことがあった。地震、津波、テロ……、たくさんの命が散った。
 だが、悪いことばかりではない。医学は格段に進んで、見えない人も見える、耳が聞こえない人も聞こえる、そんな時代になろうとしている。
 残念ながら僕の癌は、まだ治せそうもないが、いずれ完治する日も近い将来きっと来るだろう。その日を夢見て、もうそろそろ会いに行こうと思う。

 あの日、横断歩道で君に出会って、僕は幸せだった。誰よりも、誰よりも。


(終わり)

20160808-盲目の女性(ひと)

20160808-盲目の女性(ひと)

56枚。修正20220314。横断歩道をはさんで、君は立っていた。白い杖を持って。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted