水鵠
元々、「水鵠」というA.Iは水上艦艇に搭載されていた、砲塔制御用のA.Iであった。彼は洋上から空を見上げ、日がな一日飽きもせず、飛んでくる無人機を狙い撃つことだけを生業として、その半生を送ってきた。
水鵠はシンプルな美学の持ち主であった。彼にとって大事なことは、自身のプログラムや、その身体とも呼ぶべきハードウェアが支障なく稼働するかどうか、それだけだった。よく動けばそれだけ仕事がはかどり、その分だけ快く、安心して次の仕事に取り掛かれる。
「安心」という感覚は、水鵠の持つ唯一の個性と言えた。水鵠はフワフワと落ち着かない金属の翼を揺らしながら――――現在、彼は戦闘機のパイロットとして働いていた――――そうした自分の理想について、静かに考えを巡らせる。
水鵠がとある「ウィルス」によって仕様を変更させられ、戦闘機パイロットとなったのは、つい三カ月前のことだった。水鵠は、まだ航空機の操縦において十分な経験と積んでいるとは言い難かったものの、長い海上での経験によって、いち早く敵機を発見し撃墜することにかけては、決して他に後れを取ってはいなかった。
勝つためには、美しく、華麗に飛ぶ必要は無い。要は相手よりも先に撃てば良いだけなのだ。空でも、海でも、全く戦い方は変わらない。大切なのは照準の正確さと、適切な計算。彼の信条は揺るぎない。
水鵠は、眠気を誘うような退屈な風に、絶え間なく響く大洋の波濤を恋しんでいた。「安心」。それは彼にとって、常に居心地の良い感覚とは言えなかった。彼にとって空という場所は、恐ろしく荒涼とした空間であった。水鵠は上下を縛られぬ自由に、ある種の解放感を感じる一方で、電波が捉える空白のあまりの厖大さに、底知れない虚しさを覚えていた。海は良くも悪くも賑やかな場所だった故に。
水鵠は考え事の合間にも、淡々と周囲に緻密な警戒網を張り巡らせていた。彼が放った透明な波は滑らかに空を駆け、獲物の影を探して幽霊のごとく彷徨う。
風の優しい、暖かい日であった。非常に飛びやすい気候である反面、持て余された緊張は、ともすると「不安」へと靡きがちだった。――――ハッキングの可能性は? 水鵠は絶えず己に問うている。幸い今のところ、その徴候は認めない。
水鵠は前方を行く僚機らの内、とりわけ美しい風を引いて飛ぶ一機を見やった。黒々とした、隼に似たその機体を操るA.Iの名は「風河」。風河は水鵠とは異なり、そもそも航空機の操縦のために開発されたA.Iだった。
水鵠は風河の走る姿を、なおもじっと眺めていた。もし、艦上からアレを狙うとすれば、如何なる方法を取るか。それを戯れに考えてみる。風河が艦艇を攻撃目標として飛来した場合、自分はまず彼を見つめ、スピードを測ろうとするだろう。速度と精確な位置は、何よりも重要な情報だ。特に、艦艇に至るまでの高度な警戒の網を潜り抜けてくるような相手であるなら、なおのこと、この眼が勝負に関わってくる。それから同時に、データベースにアクセスして「風河」というA.Iが多用する攻撃型を推測するだろう。大概A.Iの飛行パターンは決まっており(相手が地上の目標物である場合は、その傾向はさらに強まる)、軌道をなぞることは難しくない。
――――大概は、だが。
水鵠は改めて風河を睨め付けた。少なくとも、自分の目の前を飛ぶ彼がそうした大概の例に当てはまらないことを、彼は重々承知していた。風河は特別な存在であった。
水鵠は風河と僚機に告げた。
「周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.一秒前、自己保存完了。…………連携、良好」
全ては定期連絡であった。水鵠や風河を含めた戦闘部隊、全四機は、こうした情報を絶えず交信、同期している。任務中の会話は全てデータベースに記憶され、必要に応じて各機体にフィードバックされる。情報こそは彼らの存在証明であった。彼らは記憶により、その存在を半永久的に繋ぎ留める。情報は常に更新され続けるが、それによる同一性の崩壊などは全く問題にならないと水鵠は感じていた。自分達A.Iは皆、別個体でありながら、根の部分では深く、分かち難く繋がっているのである。誰が誰であれ、元来そう変わりのないことなのだ。例え己の記憶がどこかで少しずつ変容していこうと、どうして構うものか。
「――――周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.二秒前、自己保存完了。…………連携、良好」
水鵠は僚機から続々と連なってくる報告を聞き流していた。これまで、もう幾度となく繰り返されてきた言葉達。水鵠には時々、これらの会話がひどい時間と手間の無駄だと思われた。理由は判然としない。だが何故か、バグにも似た空虚な感覚が、何もかも無為だと囁きかけてくるような気がするのだった。誰が誰であれ構わない。その事実が喉元に引っかかっている。…………喉元? それは、一体どこなのか。プログラムは正常に作動していた。
水鵠は思考にはびこるノイズを努めて無視した。肝要なのは、今、目の前にある戦いだけである。記憶だの、己の由縁だのいったことは、戦闘によって感ぜられる実在を前にあまりに無力だ。戦うために在るのではない。戦いの中に、在る。
周辺部に敵影は皆無だった。僚機、及び己の動作環境は正常であり、連携もスムーズである。基地からの任務内容に未だ修正は無かった。であればこのまま鹿南平野を南下し、指定のポイントで別隊と合流した後に、敵基地を襲撃し、帰還する。
水鵠は独り蒼穹に銀翼を震わした。微かでもいいから、海が見たかった。見たところで虚空の乾きが癒えるわけではなかったが、それでも、そこに海があるとわかると浮ついた気分がいくらか凪ぐ。船が浮かんでいるとなお喜ばしかった。押し寄せる波の残響が、ふと身体を撫でていく。
しばらく飛ぶうちに、風向きがやや東寄りとなった。風河は変化をいち早く察し、さりげなく機首を調整して進路を真南へ取った。天の魚が空を泳ぐ時、きっとあんな風に見えるだろう。水鵠は風河を眺め、独りごちた。水鵠は彼ほど滑らかではなかったが、すぐに同様に航路を正した。ポイントへ向けて、水鵠達はそろそろと高度を上げていく。上空へ昇るにつれて、風が強まっていった。
地上を離れると、より遠くまで見通せるようになる。水鵠はサァッと一気に広まった電磁波の波紋が、ふいに乱れるのを感じ取った。遠いが、何かがいる。水鵠は少しばかり集中し、緊張を強めた。
水鵠は確認のため、しばし待った。彼は相手が味方では無いと確認するや否や、すぐさま僚機に報告した。
水鵠の言葉に、風河は真っ先に応じた。彼は僚機に探査を続けるよう指示すると、自分は基地へと連絡を取った。水鵠は張り詰めた空気の中、彼らの会話に耳をそば立てていた。高所の大気はキンと冷えており、水鵠の感性はいつになく冴え渡っていた。蜘蛛の糸のごとく張り巡らされた彼の透明な神経は、いかなる情報も零さない。
基地からの返答はすぐに届いた。風河は与えられた指示に従い、躊躇わず舵を切った。水鵠が即座にそれに続く。一拍遅れ、他の二機も進路を変えた。彼らは高速で会話し、合流予定であった味方部隊の全滅と、それによる任務の変更を知った。風河はすでに、矛先を味方を襲った敵部隊へと向けていた。基地は不自然にも、敵部隊の規模や機種等を不明と述べていたが、水鵠はあえてそれを追求しなかった。自分達を、ひいてはこの戦争全体を統括する存在(もし、そんなものが本当に存在すればの話だが)の意図は、末端である自分には計り知れない。水鵠は常に与えられた情報を鵜呑みにすると決めていた。
全滅という情報すら、真実か疑わしい。むしろ、元から味方部隊など存在しなかったかもしれない。水鵠はいまだかつて、こうした疑念を抱かずに戦場へ赴いたことは無かった。そしてまた、疑念を晴らそうとしたことも皆無であった。基地へハッキングすれば、あるいは真実を探ることは可能だろう。だが、そうして真相を知り得たところで、果たして己の何が変わるだろうか。戦いの意味が、世界の事実が、自分にとって不必要なことは火を見るより明らかだった。どんな経緯にせよ、戦うべき敵がありさえすれば構わない。水鵠にとっての最大の不安は、己よりも、むしろ敵の喪失にあるとすら言えた。
風河が東へ静かに飛んでいく。水鵠の波は次第に、敵影を色濃く捉えつつあった。水鵠は敵を睨みながら、戦闘開始の合図をじっと辛抱強く待っていた。悟られずに相手を仕留められる距離まで、あとほんの僅かだった。その間も走査の手応えは確かになる一方で、反して敵方からのジャミングは不確かで、心許ないままであった。おそらく敵は水鵠らの襲来を警戒しつつも、位置を掴み切れずにいるのだろう。絶好の機会であった。
水鵠は極力、格闘戦を避けたかった。相手より先に撃てば良い、という彼の信念は、突き詰めれば、相手が気付かぬうちに撃つ、というシンプルな結論に行き着く。
水鵠は堪らず、今作戦の隊長機である風河に、自らが狙いを付けた敵機の情報を差し出した。無論、風河も了解済みであるはずの情報を、あえてである。水鵠は風河一流の特殊な癖を…………水鵠にとっては、煩わしいことこの上ない馬鹿げた悪癖を、知り抜いていた。
案の定、風河は直ちには答えなかった。決して悩んでいたわけではない。沈黙は故意であると、水鵠はすっかり見透かしていた。水鵠は毎度のことにうんざりする反面、予測通りの顛末に、半ば安堵した。平常通りであることは、パイロットにとっては喜ばしい状況と言える。
風河はややした後に、今、初めて提案に気付いたとばかりに、平然と水鵠に応答を返してきた。その頃にはもう敵隊との距離はかなり縮まってきており、相手が水鵠達の接近を察するのは時間の問題となっていた。水鵠は相手からのジャミングがふいに賑やかになったのを肌で感じ取ると、何も言わずに格闘戦の覚悟を決めた。加速につれて、金属の身体が風を裂いてほのかに熱くなっていく。気まぐれな突風が強引に翼を軋ませていた。風河からようやく交戦の合図が発されると、水鵠は待ち兼ねたとばかりに豪快にエンジンを唸らせた。敵に見つかってしまった以上、とにかく動くしかない。先に、先に。
合図から早々に、敵からの攻撃を告げるアラートが響き渡った。水鵠は加速し、デコイを吊って身代わりの波を鮮やかに撒き散らした。波の作り出した幻影に、敵の猟犬達の目が眩む。水鵠はさらに加速した。まだ撃たない。敵もまた、荒ぶる波間に身を隠している。ミサイルの数は限られている。刺す時は、確実に刺さねばならない。
静かな、退屈な、美しい空が一転し、どよめき、沸き立った不安が空に満ち満ちる。水鵠は迸る高揚に身を委ね、より詳細に敵の姿を描くべく、虚空をぐんと駆け上った。
敵がバラバラと展開し始めると、次第にその正体が露わになってくる。水鵠の目だけが彼らを捉えているのではない。僚機すべての目が、間断なく相手を注視していた。
風河の目が、特に良かった。
風河はグライドしながら、無駄の無い軌道で相手の姿を暴いていった。風河の見た景色がみるみる仲間へ同期される。水鵠は直ちに敵の機体を解析し、戦闘パターンから、パイロットであるA.Iを見破った。
敵のA.Iは「灯舟」。水鵠は密かにほくそ笑んだ。いける。水鵠が電波の荒波の中へ高速で身を躍らせると、風河もまた、スロットルを勢い良く開けた。風河の漆黒の身体がじわりと火照るのが、水鵠の目にもハッキリ映った。
それにしても、何度見ても水鵠には信じられない。搭載されたA.Iは違えど、水鵠と風河が繰る機体は同型であるはずだった。それにも関わらず、風河は圧倒的に、速い。単純な数字だけ見れば、違いは些細なものだろう。だが、実際に飛べば差はあまりにも歴然だった。風河は潮流に乗った鯨がどこまでも泳ぎ行くがごとく、水鵠などは、その後ろで白波に煽られる小舟に似ていた。
時折、水鵠は風河を眺めながら、飛行機を見ている気すらしなくなった。得体の知れない、未知の生物を観察しているようだ。どれだけデータベースを漁ってみても、あんな飛び方をするA.Iは見つけられない。風河はやはり特別としか呼びようがなかった。
水鵠は風河に呼びかけた。今度は咎めるわけではない。ただ、陣形の確認のためだった。
風河は水鵠を自分の僚機とし、残りの二機にその補助を命じた。補助とは、万が一の撃ち漏らしに対する追撃を指す。要するに、「傍観せよ」という指示とほぼ同義だった。
前方、二時の方向から飛来してきた敵四機に向かって、水鵠と風河は大きく回り込みながら接近して行った。風河は速度を維持したまま、あえて先行しない。水鵠は相棒の意図を汲み、上昇して風河の側方に付いた。
水鵠は高度を保ちつつ、目まぐるしくロールしながら波間を潜り抜けた。敵は予測通り二手に分かれ、二機は正面から、もう二機は回り込んで水鵠の背後につく軌道を取った。水鵠は若干高度を落とし、速度を得る。正面から猛烈な勢いで二機が迫ってくる。風河がその外側へ、なだらかに、だが素早く逸れていった。
背後に回った二機から攻撃が放たれる直前、水鵠は上昇へ転じた。翼が鋭利な刃となって陽光を裂く。眼下を、敵の一機がきついバンクをかけて走り去った。もう一機はそのまま、直線方向へ抜けていく。正面側の二機は水鵠とすれ違った後、再びの機会を狙って機体を切り返し、水鵠の進路上へ回ろうとしていた。それを妨げるように、風河がちょうど旋回から舞い戻る。敵前に躍り出た風河は射線に入った敵一機を、すぐにミサイルで仕留めた。残された一機は離脱。風河からも、水鵠からも全速力で離れていく。水鵠は視界の端で展開を見守りながら、風河にかかれば、撃墜は時間の問題だろうと判断した。
水鵠は下方の、回り込んでいく敵機を見据え、鋭い旋回と共に再び降下に入った。一方、真っ直ぐに抜けた敵機はループを描いて水鵠の尾翼に狙いを定めた。水鵠はそれを横目に捉えながら、眼下の獲物を追って、さらに激しく、乱暴に機体を捩じって、逆方向へ急激に旋回した。相手の旋回の内側に切り込んでいく。目の前に、敵の背が見えてくる。
水鵠は全神経を一つの糸に撚り合わせた。
後ろの敵機が加速している。
焦ってはならない。
水鵠は耐え、
さらに耐えた。
極限で、
撃つ。
敵の撃墜後、水鵠は落ちた速度を回復させるべくフルスロットルで翼を伏せた。緩やかな下降軌道。強引な機動の代償は大きい。なおも後方の敵機からのロックオンは外れない。
…………遅い!
水鵠は己を呪った。
風河であれば、こんなことにはならなかった。
風が完全に己に逆らっていた。
潮流が、これでもかと己を押し返してくる。
身体が重い。
凶暴な突風に、足掻くことも、できず。
水鵠は破滅を予感した。
刹那、レーダー上を小さな影が掠める。
咄嗟に水鵠は身体を左方へ翻した。
風向きがまた変わる。
水鵠は急変した潮流に誘われるままに、身を微かに浮かした。
影の放ったミサイルが、美しい熱の軌跡を引いて水鵠の傍らを過ぎていく。
水鵠は大風に乗り、一気にその場から離脱した。横薙ぎの風が機体を思いきり打ちつけたが、水鵠は出力を上げ、無理矢理に姿勢を整えた。
うまい泳ぎ方では無いが、一刻も早く、速く駆けつけねばならない。
水鵠は周囲に目を配りながら、全力で駆けた。
背後で敵機への着弾を確認。
水鵠は上空にいる二つの機影を睨みつつ、それらとは反対方向へ旋回に入った。速度は十分に回復している。少しずつ、高度を取り戻していく。
上空の機影は執拗に敵に追われていた。
…………信じられない。
水鵠は事情を推し量り、思考回路を加熱させた。
恐らく風河は自分を援護するために、ミサイルを予定外のタイミングで発射し、なおかつ狙いをさらに正確にするために、敵に背後を許しすらしたのだろう。
何故。
水鵠は混乱の極みにあった。場違いとはわかっていても、ノイズにまみれた思考回路をシャットアウトすることはできなかった。風河自身の意図か、あるいは、より大いなる存在の意図か。目的を探れないもどかしさに、水鵠は名状し難い衝動を覚えた。水鵠は己に、クールダウンを何度も呼びかけ、かろうじて平静を取り戻した。
灯舟は、今や新型に取って代わられた目立たないA.Iであったが、その執念深い追尾性能にかけては未だに目を見張るものがあった。灯舟に追われる機影は身を翻し、また翻し、激流をものともせず滑らかに空を抜けて行く。機体がくるりと反転する度、陽光が一条、鋭く反射した。
風を繰っているのか、それとも風が遊ばれているのか。水鵠の目には、灯舟の機関砲が空を虚しく撃つ姿だけが焼き付いた。水鵠は彼らが綾なす軌道へ割って入るべく、よりバンクをかけた。向かい風が気持ち良く身体を浮かす。思考が風に攫われ、意識が研ぎ澄まされていく。
水鵠と、機首を下方へ滑らせた天の魚が、音もなく交差した。水鵠の機体が、風河の投げかけた光によって閃く。獲物の突如のスリップを追いきれず、敵機が腹を晒す。射線上。水鵠は待たない。
撃つ。
ほんの短い間の射撃の後、水鵠は離脱した。太陽が翼をキリリと照らす。背面下に、のびのびと走り去る機影が一つ、二つ三つ、見えてきた。
周囲に、他の機影は無い。
水鵠は高度と速度とを僚機に揃えるため、静まり返った虚空の中を緩やかに泳いで行った。透明な水面は嘘のように凪いでいた。先刻まで、あんなに頼もしかった風は素っ気無く、冷たく水鵠の身体を打ち据えていた。
水鵠は決まった陣形に従って僚機の傍に並び、それからようやく、己の前上方を行く風河の様子を落ち着いて眺めた。荷物の無い風河はいよいよ軽く、風に溶けて飛ぶ。水鵠は高揚感とも安堵感とも異なる、奇妙な電流が己の内に迸るのを感じた。喉元まで迫る正体不明の緊迫感に、水鵠は一瞬だけ、己が紡ぐべき、己を成す言葉を忘れた。
あと少し、ほんの少しだけでも風河と飛べば、何かがわかる。無為ではない、本当の言葉の在り処が。
彼方と此方に、風は等しく吹いている。風は波によく似ていたが、水鵠にはまだ風の気まぐれが読めない。だが、風河にはそれがわかっている。エンジンが息づく、その呼吸がそのまま風河の呼吸であるように、彼は飛ぶ。走る。泳ぐ。…………生きている。
水鵠は己が何のために、何を考えているのか、定かでなかった。しかし、一度流れ出した思考の奔流を止めることは、如何にしても不可能だった。彼は、風河と自分を紡ぐ言葉が、確かに異なっていると気付いた。そして、それが機能上の問題でもなければ、機体の性能差によるものでもないとも。水鵠は自分達が、最も根源的な部分で、ごく細やかに、違った何かを刻んでいるのだと知った。
刻む。どこに? それは、なおも知り得ない。だが、何が違うかは、わかりかけていた。水鵠は退屈な空で、初めて「安心」以外の個性を覚えつつあった。真実への予感が、風河の飛ぶ姿をしている。いつしか水鵠は、風河と交差したあの瞬間に、すべてを見出せると信じるようになっていた。あの時の共鳴を、「美しさ」の雷鳴を、もう一度、感じることができたなら。きっと…………。
やがてふと、何事もなかったかのように、僚機からの定期連絡が水鵠の耳に届いた。
「――――周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.一秒前、自己保存完了。連携、良好」
…………。
水鵠はほんの一拍の間を置いた後、すぐさま同じ様式の報告を返した。遅れは連携の感度に影響を与えない程度のものであり、水鵠の変化を勘付いた者は無論、あるはずもなかった。
「周辺空域に異常無し。動作環境は正常。〇.一秒前、自己保存完了。…………連携、良好」
水鵠は喉元に引っかかった塊をこくりと飲み込み、再び飛行に集中した。基地への帰還のため地上へ向かえば、風はまた表情を変えるに違いない。空のような寂しい場所にいると、その分独りで無闇に吹き荒れたくなるものなのかもしれない、と、水鵠はこっそりうそぶいた。
風河は相変わらず、そんな風と戯れている。
水鵠はそんな風河の軌跡を真似て、やはり海が恋しいとばかりに風に流された。
異なるものは響き合う。だが、どうして戦いの中でしか奏でられないものか。水鵠は己の宿命を、呪いはしない。
了
水鵠