森の中

 鹿の子どもと、食事をした。
 名もない森の中であった。
 鹿の子どもはぼくのことを、鹿だと思っているようだった。ぼくは鹿の子どものように草を食んだり、木の実をばりぼり食べたりはしなかったのだが、鹿の子どもには、ぼくが、自分とおなじ姿かたちの生き物に見えていたようだ。ぼくは二本足で立っていたし、草も、木の実も、まったく食べなかったのだけれど。
 鹿の子どものことは、メロン、と呼んでいた。
 ほんとうの名前を知らない(訊ねたところで、わかるわけもない)ので、ぼくが好きな果物の名前で呼んでみたら、メロンは、まじまじとぼくの顔を見るのだった。メロン、という名前が気に入ったのか。そうではなくて、単純にぼくの声に反応しているだけと思うが、ぼくは、メロンが、ぼくに意識を向けてくれることが嬉しくて、用もないのに「メロン、メロン」と執拗に呼んだ。メロンは面倒くさがることなく、メロン、と呼ばれる度にぼくの顔を見た。名もない森の中で、メロン以外の鹿は一頭も見受けられなかった。
 ぼくはスナック菓子を食べ、メロンはそのへんに生えている草や、落ちている木の実を食べた。しとしと雨が降っていたが、森の木々が空を覆い隠すほど伸びていたため、服や髪が濡れることはなかった。森は静かだった。他の生き物の気配は、まったく感じられなかった。雨のにおいが充満していた。空気は冷ややかだった。
 けれども、椅子の代わりに座った切り株の下に、なにかいる感じはあった。
 おしりがもぞもぞとするときがあって、心地よくなかった。メロンと別れてから、それは、動物や、虫の類ではなく、おそらく切り株になった“木”の気配だろうと思った。ぼくはまだ生きているよ、と、木が訴えていたのかもしれないと思った。メロンが草を食みながら時折、ぼくのおしりのにおいを嗅いでいたのは、メロンには、木の声が聞こえていたからかもしれない。切り株から、あたらしい芽が出てくる様を想像したら、なぜだか目頭が熱くなった。
 メロンとは食事のあと、からだを寄せ合って眠った。
 冬でないとはいえ、雨で一層冷えた森の空気は、からだの体温をみるみるうちに奪っていった。どちらかといえば寒がりであるぼくが、寒さでぶるぶる震えているのがメロンには、理解できたようだった。脚を曲げ、ぼくのからだに己のからだをすり寄せた。メロンのからだは、湯たんぽのように温かかった。
「あったかいよ、メロン」
と言ったらメロンが、
「よかった」
と答えた気がしたけれど、気のせいだったかもしれない。
 でも、気のせいではなかったかもしれない。
 メロンがもし人間ならば、ぼくより幼い子どもであるだろうと思った。聞こえた気がするメロンの声に、小学一年生くらいの子どもの姿が脳裏に浮かんだ。ぴかぴかのランドセルを背負っているメロン、とか。上級生のあとをぽてぽてついて歩くメロン、とか。
 それから夕方になり、雨はすっかり上がって、メロンとさようならをして森を抜けた。森を抜けるまでずっと、メロンの視線を背中に感じていた。振り向いてはいけないと思って、一度も振り向かなかった。
 家に帰ると、おかあさんとおばあちゃんが夕ご飯を作っていた。
 そのうちにお兄ちゃんが帰ってきて、その三十分後にはお父さんが帰ってきた。おじいちゃんはすでに晩酌を始めていて、家の中は夕ご飯のカレーのにおいに満ちていて、暖房器具を使っていないのに春みたいに暖かかった。
 ぼくはメロンのことを薄ぼんやりと思い出しながらカレーライスを食べて、お風呂に入って、明日のテストの予習をして、それから眠った。

森の中

森の中

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-10

CC BY-NC-ND
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