雪島の扉

雪島は不思議なやつだった。

あいつとの出会いは中学2年の暑い初夏の日だった。俺は掃除時間はいつも体育倉庫に隠れて時間をつぶしていた。その体育倉庫は外にあり運動場の側の目立たない場所に併設されていた。いつものようにこそこそと体育倉庫に近づいていった。入ってしまえば誰も来ないし、誰にも見つからない。ここの体育倉庫にくるやつなんていない、と思っていたが、その日体育倉庫に行くと先客がいた。

ここに人がいることだけでも驚きだったが、そいつはこの暑い日に冬服を着ていた。そういえば校則を守らずいつも冬服で登校しているやつがいると二年になって噂になっていた。

そう確か名前は雪島。
髪型がショートカットの男っぽい女子だと友達が言っていた。確かクラスは隣の二組だ。

「あれ、君もここで掃除をさぼるつもりかい?」
雪島はにやりと口角を上げながら尋ねてきた。

ふざけるなここは元々俺の隠れ場所だぞ、と言いたくなったが、考えてみればひとりでいてもいつも退屈だったから黙って頷いた。

「ふーん、君もか」

雪島はふぅと体を翻して跳び箱の上に座った。跳び箱の上はちょうど窓越しに朝顔の花が見える特等席だった。掃除時間には、朝顔にスプリンクラーで自動的に水やりが行われる。水を纏った朝顔の花のきらめきが、俺は大好きだった。

特等席を取られてしまった俺は仕方なく平均台の上に腰かけ、風通しがよくなるよう体育倉庫の入り口をめいっぱいに開けた。引き戸なのだが、いかんせん古く開けるのに余分な力を要した。

「今日は暑いね~ 死んじゃいそうだよ」

手でぱたぱたと顔を仰ぐ雪島は気だるげに言った。

じゃあ夏服で学校来ればいいじゃん、と言いかけたが、なんだかまずい気がしてやめた。

朝顔に水をまく音がする。聞いているだけで身も心も涼しくなるものだ。

「君はいつもここで掃除をさぼっているの?」

そう問われた俺は頷き、中学一年の頃からそうしている事を伝えた。

「へぇ~、見かけによらず君はけっこう不真面目くんなんだね」
にやにやしながらそう言われた俺は少しムッとしたが、言われてみれば一年のころから掃除をさぼり続けている事に対しての少しの罪悪感が湧いてきてただ、そうだね、と返した。

「でも君は見る目があるね。ここは外より少しひんやりしてて、そして少し薄暗くって居心地がいい」
雪島は跳び箱の上で仰向けになり、天井を見つめながら続けて言った。

「しかもこうやって跳び箱の上で寝ることだってできる。体育の授業に使う用品をバカにしているみたいで小気味いいね」
ふふんと鼻を鳴らした雪島はその後しばらくの間ぼーっとしていた。

俺はここの体育用品をバカになんてした気持ちは無く、どっちが不真面目くんなんだか、と思いながら体育倉庫の入り口から見える運動場を眺めていた。

運動場には眩しい光が照らされ、時折どこからともなく犬の鳴き声が聞こえた。ふっと風が吹くと砂煙が舞い、運動場の焼けるにおいがした。体育倉庫の石灰のにおいと混ざって少し鼻がつんとする。

「ねぇ明日から毎日ここに来てもいいかな」
跳び箱の上からひょいと降りた雪島がわくわくした顔つきで言った。

一年からここに通っているが、ここは俺の場所ということでもないので好きにすればいい、と答えると
「やった!ここから見える朝顔がとても綺麗でまた来たくなったんだ!ありがとう!」
雪島はぴょんぴょん跳ねながら言うと、掃除時間終わりのチャイムが鳴った。

「じゃ、また明日ね!」
そういって雪島はぱたぱたと駆けていった。

石灰のにおいではない甘いかおりが体育倉庫内を少しの間だけ広がった。

俺はさっきまで雪島がいた跳び箱の上に座り朝顔を眺めた。
きらきらした朝顔がさっき運動場を焦がしていた太陽に照らされて輝いていた。

それから雪島は、毎日体育倉庫に来た。大体は雪島のほうが先に来ていて、跳び箱の上の特等席はほぼ雪島の物になっていた。
平均台の上が定位置になってしまった俺はが不平を漏らすと雪島は決まって、

「欲しいものは己の力で獲得するのだ、少年よ」

と鼻歌交じりによくわからないメロディの歌を歌った。

「しっかしぼろい跳び箱だなぁ」
と雪島が言うので、じゃあ俺にその席をよこせ、と言うと
「やーだね」
と、にこっと笑いながら言った。

体育倉庫以外で顔を合わせることもたびたびあったが、俺たちは一言も言葉を交わさなかった。俺たちが会話をするのは体育倉庫内だけだった。

体育倉庫内では色々な会話をした。定期テストのカンニング方法、先生が辞めさせられちゃった真相、雪島が部活の先輩から怒られた話、俺の家族の話、将来の話。学校内では全く会話のしない俺たちだったが、体育倉庫内では不思議と会話が弾んだ。
朝顔は見られなくなったけど、これはこれでいいな、と俺は思った。

雪島が体育倉庫に来るようになって半年、もうすっかり外は寒くなって運動場は白い防護服を纏い、焦げるにおいをさせなくなった。

体育倉庫内はあの夏のひんやりとした空気は変わり、外の寒さに比べればほんのりと温かさを感じるような空気になっていた。
幸い体育倉庫の入り口から雪は入ってこないようになっていて、相変わらず体育倉庫の入り口は開けっ放しだった。

いつものように掃除時間になり、次の時間が体育だった俺は体育着を入れた袋をもって体育倉庫に向かうと、体育倉庫に着くと雪島はすでに定位置にいた。

「もうここに来るようになって半年か~」

いつものように跳び箱の上で寝そべりながら雪島は言った。
「冬になっちゃったけど、ほんのり温かくもある場所なんてここは最高だなぁ。やっぱり君は見る目があるよ」

初めて会った時を思い出し、もう半年もたったのかとしみじみと感じられた。

「あ~やっぱり私は冬の方が好きだなぁ。寒いのなら多少我慢できるけど、熱さはどうもねぇ」

苗字に雪が付くだけに冬の方が好きなのか、なんていう他愛もない事を話している時にふと考えた。
俺は自分の家族の話をしたが、雪島の事は聞いてない。そもそも雪島なんて苗字ここらに多いものでもないのだ。

相変わらず天井を見上げてぼーっとしている雪島を見て、俺は急に雪島についてのいろいろな事が気になりだした。

俺は胸に浮かんだ雪島についての疑問をいろいろとぶつけてみた。

「出身?あぁ、なんか元は静岡のほうらしいけど引っ越してここに来たんだ」
「そう、君の知る通り中学二年生からここでの生活さ」
「その前はまた別なところにいたよ」
「そう、引っ越してばっかりだからさ、あんまり友達もできないんだよね。部活仲間はいるけど友達っていうのかどうかわからないなぁ」
「部活?もうやめちゃったよ。あの先輩に怒られちゃった後すぐに。せいせいしたね~」
「クラスにもそんなに仲いい人はいないかなぁ。みんな優しい人ではあるけどね」

色々聞いた後、特に気になっていた事を聞いてみた。休日は何しているのかだとか、家族の事とか。

雪島は、俺の質問に対して休日は寝ていると答えた後、俺が家族の事について質問すると急に黙った。

さっきまで聞こえなかった微かな音たちが体育倉庫内を満たした。遠くの室外機の運転音、どこかで雪かきしている音、何かが風に煽られパイプにあたる金属音。

まずい、と俺は思った。質問してはいけない事だった。考えてみれば今まで半年間あんなに色々な話をしたのに自分から家族の話をしないなんておかしかったのだ。

雪島は微動だにせず、跳び箱の上でぼーっと天井を見つめている。外は風が止み、さっきまで鳴っていた金属音は消え去り、体育倉庫内の寒さもすこし和らいだ。しかし、体育倉庫内は張り詰めた空気に包まれていた。

このままじゃまずい。そう思った俺はなんとかこの雰囲気を変えようと別な質問を試みた。とりあえずこの雰囲気を変えられればそれでよかった。そして雪島が喜んでくれるような質問をした。

「お、俺、体育倉庫以外で雪島を見つけるとちょっと嬉しいんだけどさ、この頃はみんな冬服着てて雪島の事見つけづらいんだよね~ むしろこの際雪島が夏服を着てくれれば見つけやすいけど、雪島はいつも冬服だもんね~、ははは、」

さっきまで鳴っていた雪かきの音、室外機の運転音さえ消え去り、体育倉庫内は完全な静寂に包まれた。
風の音さえせず、体育倉庫内のほんのりとした温かさが増しているのがわかった。
雪島はぼーっと天井の一点を見つめている。

また失敗してしまった。やはり俺に会話なんて向いてなかったのだ、不必要な人とのやりとりを避けるためここに逃げ込んでいたが、半年の雪島との関わりの中で自分に力がついたと勘違いしてしまった。そう考えて落ち込み、ただただ黙っていた俺に、雪島が天井を見つめたまま口を開いた。


「寒くなってきたね。扉、閉めてくれない?」


俺は突然の提案に驚いた。

今まで二人でいる時、体育倉庫の扉は一度として閉じられたことは無かった。いきなり雨が降り出した7月の日、台風が接近し、激しい砂埃が舞った強風の日、近くで道路工事が始まり耳をつんざく騒音が体育倉庫に響いた時、いつでも扉はめいっぱいに開いていた。

俺は激しく動揺した。これは閉めていいのだろうか、と。何か、決定的な何かが変わってしまうのではないかという不安が胸に沸いた。雪島の一言によって体育倉庫内は、完全な静寂から脱したものの、依然として張り詰めた空気に満ちていた。やはり物音はひとつとして聞こえなかった。

どうするか激しく悩んだ挙句、俺は平均台から立ち上がり、扉へと向かった。じゃりじゃりと砂を踏む音が響き渡る。扉の取手がひんやりと冷たい。雪島の呼吸が荒くなっているのが後ろの方から微かに聞こえた。俺はゆっくりと扉を動かした。


その時チャイムが鳴った。掃除時間終了の合図だ。


体育倉庫内の張り詰めた空気が一瞬にして緩んだ気がした。

俺は一刻も早くこの状況から逃げ出したかった。とりあえず今はここから逃れ、明日また普段通りに雪島と接しよう、と思った。雪島はむくりと起き上がり、黙ってこちらを見ていた。

チャイム鳴ったぜ、次の時間体育だから、人が来る前にさっさと行くよ、じゃな、俺は早口にそう言って体育倉庫を後にした。いつの間にか風が吹き出し、金属音が鳴っている。遠くで室外機が働きだし、スコップの雪に突き刺さる音が、枯れ果てた朝顔に染み入っていた

次の日から雪島は体育倉庫に来なくなった。

体育倉庫外以外で見かけることはあったが、体育倉庫以外で話はしなかった。それは変わらなかったし、あれ以来どうやって雪島に声をかけていいかもわからなかった。

いつか体育倉庫をに行くと雪島が跳び箱の上で仰向けに寝そべっているのを夢みて、毎日体育倉庫に足を運んだが、もう二度と雪島が体育倉庫に来ることは無かった。


中学三年生の夏のある日、この学校から冬服の人間が消えた。どこかへ転校してしまったらしい。


俺は悔やんでも悔やみきれない。あの日ついた嘘を。

あの体育倉庫は第二体育倉庫で使わなくなった体育用品を置いておく物置小屋みたいなものだったのだ。頻繁に使用する体育用品は運動場と体育館のちょうど中間付近にあり、体育の授業があるなら用品はそこにあるものが使われていたのだ。

つまり、あの日そのまま第二体育倉庫にいても人なんて誰も来ない事を俺は知っていた。ただ、雪島を受け止められない恐怖からその場をすぐにでも去りたかった。雪島を受け止める気持ちがあれば次の授業なんてサボれたはずだ。

そして今でも鮮明に覚えている。
俺が、じゃな、と言い第二体育倉庫を後にしようとした時、雪島の目には涙が溜められていた事を。


あの日みたいに暑い日になった。相も変わらず人と喋るのが苦手な俺は不必要な交流を避けるため、掃除時間はここに逃げ込む。

雪島はもういない。

俺は跳び箱の上で天井の一点を眺めながらあのよくわからないメロディーを思い出した。おんぼろの跳び箱の上段が涙でぬれた。
窓から見える朝顔に目をやると、スプリンクラーが壊れてしまい散水できなくなったにも関わらず、朝顔は水を纏ったように綺麗で一年前と同じようだった。

開いてくれた雪島の心の扉を俺は拒絶してしまった。俺は跳び箱の上に寝そべって天井を見つめるようになった。



いつも体育を欠席していた雪島が、ここが第二体育倉庫だということを知っていたかはもうわからない。

雪島の扉

雪島の扉

掃除時間はきまって体育倉庫に逃げ込む。誰も来ないここは俺の安息の地だったが、その日だけは違った。夏なのに冬服を纏う女子、雪島がいたからだ。それから、雪島は毎日体育倉庫に来るようになり、体育倉庫だけでしか会話しない俺たちの変な関係が始まった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-06

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