雨の夜の追憶

雨が降った日に帰省する途中で、突然頭の中に降ってきたシーンを描きました。

これからある思い出を語ろうと思う。あるひとのこと。このひとを語るときに、単に「彼女」という代名詞だけで済ませてしまうには、彼女はあまりにも僕にとって強烈な存在である。だから、今日だけは、遥香さんと呼ぶことを許してください。
連絡が取れなくなって暫く経った今では、遥香さんは、静かに降る雨のイメージに凝縮されて、僕の夢の中に住み続けている。



僕らがはじめてお互いを視界に入れたのは、僕らが務める出版社のしがない会議室においてであった。入社してしばらく経ったある六月のこと。朝からの雨がやっと降り止んで、少し蒸し暑かった昼下がりの会議室。僕は昼休みについ買ってしまったイチゴシェーキの、存外の甘さに辟易しながら、午後の眠気を紛らわしつつ、書類と上がってきたばかりの雑誌の見本を運んでいた。

始業時間になる。けだるい雰囲気が漂う部屋に、ただひとり、凛とした雰囲気を纏って、白い上着をまとった遥香さんが、入ってきた。

どうしてこうもあのときの彼女が心の中に残っているのかはよく分からない。若いのに妙に老成した落ち着きを持っていたからだろうか。とにかく年齢の割に随分大人びている、というのが第一印象だった。そのときは、彼女は僕に特に気づいていなかったように思う。
彼女は僕よりも一つ上の先輩で、何かしらのプロジェクトを任されていた。確か、雑誌の特集のコーナーかなにかの。下っ端の僕は、多少の羨望をもって彼女を見ていた。
テキパキした喋り方、まっすぐな姿勢、迷いのない視線。
心惹かれた。これを一目惚れ、というのかもしれない。

その彼女が、半年後、現代詩の公募で大賞をとったのであった。僕は文芸誌でたまたまその詩を読んで驚いて、会議室での彼女の所属する部署まで行ってしまった。衝動的に会いにまで行った理由は特にない。ただ、彼女の鮮烈な詩の言葉は、確かに、生きていた。当時忙殺され死んだように日々を「こなし」ていた僕とは対極に在る言葉たちだった。このような言葉の紡ぎ手の顔を、改めて見てみたかった。

有名な賞ではなかったが、出版業界にいる分彼女の受賞に気づいた同僚もいただろう。突然の来訪者は多くいたかもしれないし、迷惑だったかもしれない。それでも、はにかみながらわずかに頭を傾けて、僕の感想を聞き、ぽつぽつと、言葉を選びながら受け答える様が、いかにも誠実そうな女性だと思った。僕は、思わず、今度お茶でもどうですか、と誘っていた。
少し戸惑った後、喜んで、と彼女は微笑んだ。心開く音が聞こえてくるような微笑であった。

やはり、あの来訪を契機として、僕らは距離を縮めていったのだろう。彼女と話した瞬間から、僕は遥香さんという人間に掴まれてしまったのだと思う。知性と教養はもちろんだが、他者や他の生き物、そして自然に対する細やかで真摯な眼差しの繊細さといったら。語弊を恐れずに言うと、あのような、都会にまだ染まっていない純粋さのようなものには、久しく出会ったことがなかった。何よりも、生きるという行為を丁寧にしている人であった、と思う。僕は彼女と会うたびに、心が洗われるような気がして、あえて食堂で一緒に昼食をとれるよう、偶然を装って時間を合わせたり、月に一回はお茶に誘ったりした。
彼女は、土曜は都合がつかないことが多かった。何か習い事があるのか、それとも恋人と過ごしているのか、気になったが訊けないままだった。遥香さんからも、読んだ本とか試作については語り合うことがったけれど、個人的なことを話すことはあまりしなかった。
僕も会社のシステムに慣れるのが大変であまり余裕がなく、もう少し時間をかけて、ゆっくりこの人のことを知っていこうと思っていた。

初めての出会いから二年ほどたって、僕は週刊誌の記事の枠を、小さいながらも任されるようになった。その間に遥香さんも短編数本と詩を少し文芸誌に掲載したり、女性誌のコラムを担当したりと、全ては順調にいっているように思えた。

しかし、忘れもしない、あの夜のこと。
彼女は唐突にやってきた。

その日、僕は雑誌編集の仕事で取材に行き、その後記事のたたき台を作るのに奮闘していた。夕食のコンビニおにぎりを片手に、取材相手の経歴や読者に対する予備知識、そして本命のインタビュー内容を織り込みながら掲載用記事の原型をつくる。あの日は全然うまくまとまらなくて、なんとか仕上げ終わるまで、社に残っていた。だから、帰路についたのが遅くて。自宅にたどり着いたのは、もう日付が変わった頃だった。自宅と言っても二階建ての宿舎の一室で、台所が付いた一つの部屋と、寝室、トイレ、シャワーがあるだけの簡素な住まいだ。仕事柄家を空けていることが多いので、僕の寝室はベッドで半分以上閉められているが特に問題を感じたことはない。むしろ、寝るためだけにあつらえられた空間は、かえって僕に落ち着きを取り戻させる。仮の住まいにしては悪くない『帰る場所』だ、と僕は思っている。

僕の部屋は一〇二号室、一階の廊下の奥から二番目にある。ドアの前にたどり着いた瞬間、その日の疲れがどっと出てきて、ほうっと長い息をつく。鍵を開けて入ろうとしたとき、鍵が閉まっていないことに気付いた。
――あれ、今朝閉め忘れたか?
まずいな、と今になって内側から二重ロックをかけている自分に少し呆れる。そこでふと、自分の履いているものより他に靴などあるはずのない玄関に、見慣れない靴がきれいにそろえられて並んでいることに気づく。シンプルで、淡い色のハイヒールだった。
――遥香さんのものだ。
何の理由もないのに、直感がそう告げる。なぜ、家に入れたのだろうか。家に入ってすぐのダイニングと玄関を隔てるために、入り口に吊るしてあるカーテンをそっとめくると、案の定、遥香さんが紅茶を一人で飲んでいた。なぜか、傍らにはマグカップがもう一つ。こちらに横顔を向けている。何やら考え事をしていて、僕には気づいていない。
美しかった。
僕は音を立てずに玄関の辺りに荷物を置いて、遥香さんに忍び寄った。遥香さんが僕の気配に気付いて顔をこちらに向けようとした瞬間に、僕は斜め後ろから、彼女の首にそっと両腕を絡めた。どうして自分にそんな行動ができたのか、自分でもよくわからない。どうやらあの夜は、僕も遥香さんも少しおかしかったのだろう。
遥香さんの髪はしっとりと濡れていて、よい香りがした。
「…どうして、遥香さん、よく家に入れたな」
「ごめんね、勝手に。でもヤスが悪いのよ。できたてほやほやの合鍵をデスクの下に無防備に落としておくなんて」
「あ、」
 そういえば、昨日から、作ったばかりの合鍵を書類に紛らわしてしまっていた。どうせ出てくるから後で探そうと思っていて、忘れていた。
「はい、これ鍵。落とし物には気をつけてね。」
僕が絡めた腕をそっと解いて、遥香さんは鍵を差し出す。
「ありがとう、拾ってくれたのがあなたでよかった。」
受け取って、靴入れの中にその合鍵を仕舞った。
「でも、いくら遥香さんでも不法侵入はちょっと…」
「まあ、そうよね。でも、本当に鍵を返しにきただけよ。もう終わりだから…。返しそびれたら困るでしょう。」
――もう終わり?って
「何それ、どういうこと」
遥香さんはそれには答えず、目をそらした。そして、小さくくしゃみをした。僕は我に返った。
「おいおい、頭は濡れてるし、しかもこんなに薄着でどうしちゃったの…。風邪引いたらどうするの。」
「ヤスの帰りが遅かったから、勝手にシャワー借りちゃった。」
「…えっ?」
普段の理知的で、かつ常識人な彼女からしたら、考えられない行動だった。いたずらっぽく笑って、遥香さんはまた話題を逸らす。
「紅茶、ちょうど入ったところなの。飲む?」
なんだか、化かされているような気分だ。すべてが夢であると言われた方が納得がいく。一日の終わりの気だるさも手伝い、僕は追及することをやめた。
「ありがとう、いただきます」
そういって、僕は遙香さんの隣の椅子に腰掛けた。差し出されたマグをありがたく受け取り、一口飲む。疲れて冷えた体がやさしい香りと温度で満たされていくのが分かった。
 ふと、遥香さんが僕の動作をじっと見つめていることに気付く。
「…観察されているようで大変やりづらいんですが…」
「ねえ、ヤス。」
僕の言葉を全く聞いていない様子で、遥香さんはさらりと言った。
「今日、泊まっていい?」
「っ、いいですよ。」
唐突な問いに戸惑ったけれど、僕が迷ったのは一瞬だった。それを認めた遥香さんは、困ったような、それでいてどこか安堵したようなため息をついた。
「あなた、恋人でもない女を家に泊めていいの」
「さあ」
僕はそっぽを向いた。言われてみれば、そして遥香さんの行動の不可解さが鼻につく。そして、自分の言動の軽さに、多少の後ろめたさが鎌首をもたげる。
「でも、もう夜更けだし。今から帰れと言っても、もう終電には間に合いませんよ…」
実際のところ、これはただの体のいい言い訳であることは僕自身が一番わかっている。自宅まで車で送れば良いだけの話なのだ。本当は自宅というこの安全な空間に、二人だけでいられる時間に終わりを告げられるのが嫌だったのだ。

遥香さんを恋人にしうる人間が、どうやら自分ではないという事実に、僕は薄々気づいていた。彼女の言動は、いつも、そばにいてくれるようでいて、肝心な時に僕を遠ざけている。彼女は自分のことをあまり話さない。何かが大変な仕事があった時も、相談することや頼りにすることも、一切なかった。そして、そのことに対し、どうしようもなく苛立つ自分を僕は自覚していた。自分の奥深くに封印してある感情を、一回試しに掘り返したら、何か取り返しのないことになりそうで、僕は遥香さんに対する自分の気持ちに封をしていた。そもそも僕は、自分の中の都合の悪い感情に対し、知らないふりをしてやり過ごす癖を、すでに身につけてしまっていたのである。

「とりあえず、寝室はこれです。」
僕は、例のベッド部屋に遥香さんを案内した。遥さんはベッドに座ると、ふかふかだ、とにこにこした。
「でも寝る前に、髪をちゃんと乾かしなさい。僕がシャワーを浴びている間に。」
理性をフル稼働させ、僕がドライヤーを取りにいこうとしたとき、遥香さんに服の裾を引っ張られた。
隣に座るように目で促され、僕もベッドの上に腰をおろした。彼女の髪の表面で、乾いた毛がわずかに数本、ふわりと立っている。その一本一本が、小さな窓から差し込んでくる月光に縁取られて眩しかった。
「本当はね、今日は、話があって、きたの」
囁くように遥香さんは言った。
「あなたに、お別れを告げにきたの。」
唐突に何を言われたのか理解が出来なかった。
遥香さんの方を見れば、何かをたくさん湛えた目にぶつかった。心の準備をしないで、まともに彼女の眼を覗き込んだから、僕は動けなくなってしまった。

遥香さんは、固まっている僕の正面に回り込むと、いきなり口づけた。僕は文字通り茫然自失としてしまって、そのまま、されるままになっていた。彼女の体が冷え切っていて、目が潤んでいることにようやく気づいた僕は、思わず遙香さんを引き寄せた。こんなに隙のある姿の遥香さんを見るのは初めてで、ましてや遥香さんを抱きしめるなんてことは初めてで・・・くらくらした。

「・・・なんだって、いきなりそんなことを言うんですか?それに、そもそも、職場で会えるじゃないですか。」
別れると言ったその口でいきなりキスまでして、一体どうしちゃったんだ。何を考えている。
「引っ越すの。海外の大学院に留学するのよ。」
「え?」
ほらきた。いつも突然。相談もなし。恋人ではないけれど、友としても頼られていないのか、という寂しさが胸をよぎる。
「何で、突然、」
「だから、もう、会えないの」
「いつまで」
「・・・いつまでも」
「いやだ」
僕は腕に力を込めながら遥香さんを抱きしめた。だめよ、と言いかけた遥香さんの口を塞ぐように、キスをした。長く。抵抗を諦めたのか、遥香さんは体重を僕に任せた。自分がただの駄々を捏ねている子供のような行動をとっていることは承知だった。しかし、駄々を捏ねる権利はある気がした。そして、いったん行動をとると、抑えが飛んでしまうものらしい。僕はずっと告げたかった自分の正直な想いを、今なら言えそうな気がした。
「遥香さん、僕はあなたにずっと言っていなかったけれど、僕はあなたがすきで」
白い手が口を塞いで、僕の言おうとしていた言葉は尻切れとんぼになって着地点を失った。
「言葉にしては、だめ。」
切ない目とは、このときの遥香さんの目の色のことを言うのだろうと思った。
「少しは知ってる、言われなくても何となく判ってはいた」
そっと耳元で囁かれた吐息まじりの言葉は、僕たちが初めて知り合った三年前から今までに、公私両方のメールのやりとり、たまに二人で会ってずっと語り合った時間の中で、築かれてきた何かを裏付けていた。

「私だって、ヤスのこと…。だからこそヤスには幸せになってほしいの」
ここで遥香さんは少し言葉を切って、ついで堰を切ったように遥香さんは喋った。
「あなたには、心置きなく幸せな生活を送ってほしいの。あなたの隣にいられないのはとても悲しいけれど・・・このことはずっと前から決まっていたの。・・・あなたの顔を見るたびに、苦しかったわ。でも苦しいのも、切なさも全部承知だった。別れがいつか来るという結末は承知の上で、あなたを好きになった。だから、気持ちが一線を越えないように、頑張らなければならなかった。あなたと仕事以外の日に二人で逢って、デートまがいのことしているのだって、全部茶番だ、って自分に言い聞かせて・・・。その時が来てもためらわずに身を引けるように。でも・・・」
遥香さんは言葉を切って、遠い目をした。
「その時が来たみたい。私、もうあなたのそばに居られない。」
僕は混乱していた。
「茶番って・・・僕はいつも本気でしたよ。隣にいようとしなかったのは、どっちなんだ、いつも何もかも突然で、こちらは突き放されてばかりじゃないか」
「ごめん」
「・・・」
「一回だけ、はるかってよんで。私、それを自分に刻み付けるから。そしたら、・・・」
「そしたら、勝手に満足して、それでさよならなのか?ふざけすぎだろ・・・僕の気持ちは」
遥香、なんて呼んだら本当に目の前から消え去りそうな気がして。遥香さんは寂しそうにちょっと笑っただけで答えなかった。
「第一、会えないにしても、メールをする、とか」
「私は帰ってこないのよ、あなたは前へお進みなさい。」
「友人として今まで通り、でもダメなのか?今までも、恋人というわけではなかったじゃないか。」
そう言うと、遥香さんはまた寂しそうな顔をした。
「そんなことされたら、私も前に進めない」
「本当に、全部、終わるのか・・・?」
そう口にしたら、急に遥香さんとの訣別が現実味を帯びてきて、すうっと体の力が抜けてしまった。意味がわからない。疲れた頭がガンガンする。僕はベッドではない場所で寝ようと思っていたのに、結局そのまま、遥香さんを抱きしめたまま眠ってしまったらしい。



その翌朝、僕が目覚めたとき、遥香さんの姿は消えていた。起きたとき遥香さんのぬくもりがまだ腕に残っていて、ベッドがやけに大きく感じた。
あの夜は雨が降っていたらしい。窓の際まで伸びている木の葉が、雨露で濡れそぼっていた。遥香さんの髪と、あのときの瞳のように。

いつもより少し遅めに出社し、遥香さんのデスクを覗くと、物が全てなくなっていることに気が付いた。それを目の当たりにしたとき、僕はしばらくその場に凍り付いてしまった。編集長に聞いたところによると、彼女は心臓を患っていて、療養を理由に、数週間前に退職届受理の申請があったそうだ。土曜日も毎週のように病院に通い、騙し騙し仕事を続けていたが、限界が来たらしい。彼女と懇意にしている僕が、その事実を知っていなかったことに、編集長は少なからず驚いていた。僕はどこか遠いところで編集長の話を聞くような感覚であった。前日の夜の彼女の言葉が、腑に落ちた。昨夜もっと僕の頭が働いていたら、と思っても後の祭りだった。
その後、彼女からの連絡はない。いくら連絡しても、返信が来ることはなかった。

彼女は強い人だったのだろう。あんなに近くにいたのに、心臓のことなど三年間一切僕に悟らせることはなかった。優しくて、強くて。
彼女の去り方は、鮮やかすぎて、未だに信じられないほどだ。
遥香さんは、結局、僕に寄り添わせてくれることをしなかった。僕も、側にいるからもっと頼って欲しい、と遥香さんに呼びかければよかった。しかし、彼女の心臓のことを全て知って、その場でそこまで覚悟ができたかどうかは、僕もわからない。遥香さんは、覚悟ができない僕を見るのが嫌だったのかもしれない、と今は思う。
しかし、彼女と出会い、わずかでも心を通わせたことは僕に不思議な感情を教えてくれた。僕の人生に突然現れ、忽然と姿を消した遥香さんとの間にあったものは、一体何だったのだろうか。人を好きになり、愛するとは、いったいぜんたいどのようなものを言うのだろうか。

あれから、何となく、僕は独り身でいる。遥香さんが届けてくれた合鍵は、家の下駄箱の中にまだあるはずだ。
先の問いにはきっと正解はないのだろうが、僕は遥香さんを思い出す度に、ふとこのことに思いが巡る。今でも、僕は朝食の卓上にはあの時と同じ銘柄の紅茶が香る。ただ、不思議なことに、時々、遥香さんのまとっていた花のような香りが、混ざる気がするのだ。

雨の夜の追憶

これを思いついたのは随分前ですが、メモを文章の形に起こしてみました。
初めての小説になります。
お付き合いいただきありがとうございました。

雨の夜の追憶

僕の同僚、遥香さん。自分の多くを語ることはない彼女が、雨の夜、なぜか僕の家に居て・・・

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-08-01

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