20160718-17才年上だった彼女

あでゅー 星空文庫

一・旅立ち

 あれは、まだ雪深い三月上旬のことだった。長靴を履いて、重い色のコートを羽織って、上野修は掲示板を目指して歩んでいた。東北大学医学部。その狭き門を三度挑んできた。だが、毎年落ち続けて、もう限界まできていた。四度目の今年こそはと挑んだが、試験を受けた感触は思わしくなかった。年を重ねるほど、落ちたらどうしようと思う気持ちが強くなって、悪夢にうなされる日々が続いたからだろう。それでも、わずかな望みを抱いて、番号を探した。
「一一一、一一三、一一六、一二〇……」
 一一八番はなかった。修は深くため息を付いた。目を閉じて再び見たがやはりなかった。天を仰ぎ涙をこらえる。
 そんな人は、ここにはたくさんいる。泣いたって、なにも変わりはしない。修は、重い足取りで駅へ向かった。
 これからのこと、どうしようかと思った。それよりも両親に報告するのがつらい。きっと表面ばかりの慰めの言葉を用意しているだろう。本当は心の中で、さげすんでいるのに。
 四回も落ちるなんて、なんて馬鹿な息子だろう。
 妹のわたしがもう受かっているのに、にいさんは恥ずかしくないの?
 代々、東北大医学部を母校にする上野家の恥だ。一族の落ちこぼれが。
 きっと家族は、皆そう思っているだろう。黙っていたって、それが態度に現れる。
 唯一、母だけだ。自分のせいだと思い悩むのは。だが、それが一番つらい。
 いっそ、電車に飛び込んでしまおうかと思い立ち、駅のフォームに立った。
 電車が来た。今飛び込めば、もうこれ以上苦しまなくていいんだ。さあ、一歩前へ出てしまえ。
 一、二、三、今だ!

 足がすくんでできなかった。惨めだ。

 家に黙って入った。不合格通知はもう家に届いたのであろう。誰も顔を見せなかったから。その方が助かるが。
 冷たい水を、喉を鳴らして飲んだ。登ってくる胃液と混じり合って、味は最悪だった。そのまま、自分の部屋にこもった。
 修は、ベッドにうつ伏せになって、前からおぼろげに考えていたことを整理した。
 もう、この家にはいられない。出て行こう。
 どこへ行く? 北海道がいいな。自然が豊かだし、食べ物は美味しいし、知っている顔もない。
 でも、どうやって食べて行く? 高卒だし、推薦もないから正社員は無理だ。初めはバイト生活は覚悟しないと。
 それよりも、どこに住むのかが問題だ。保証人がないと部屋は借りられない。仕方がないから、札幌のおじさんに頼もう。
 金はどうする? これは出世払いすることにして、二、三十万拝借しよう。
 考えは直ぐにまとまった。準備ができたら実行しようと思った。

 その日の夕食時、これからのことを母に聞かれた。
「修さん」
 母が改まった口調で名前を呼ぶ。その優しく柔らかい声は、東北大の医学部を出たなんて、誰も思わないだろう。その優しい母に、もうこれ以上の苦痛は味合わせたくはなかった。
「はい」
「もう一度、医学部受けるんでしょ? 明日、予備校の申し込みをしてきてね」
「わかりました。おかあさん。あの……、いえ、何でもありません」
 あまりのも呆気なく、心の準備ができていないのに、決行日が決まってしまった。だが、ここで決行しないと、また地獄の日々の始まりだと思って、修は言葉を飲み込んだ。
 真夜中、ふたつのカバンに衣類と必要な物を詰め込んで、仙台駅のコインロッカーに入れた。そして、札幌に住んでいる、おじさんの上野平一に携帯電話を掛けた。
「もしもし、平一おじさん?」
「はい、そうだけど。その声は修だな?」
「はい、そうです」
「なにかあったのか? こんな夜中に」
「いえ、そんなたいしたことじゃないですけど」
「よかったー。それで、なんだい?」
「実は、今年も落ちて、しばらく骨休めに札幌へ遊びに行こうかと思って」
「わかった。それで、いつ来る?」
「明日の夕方は駄目ですか?」
「あははは。これまた急だね。うん、明日は珍しく休みなんだ。よし、来いよ。待ってるから」
「よろしくお願いします」
 こうして、修はとりあえずの寝床は確保した。あとは、平一おじさんが母に確かめないかが心配だが、それは考えても仕方のないこととして割り切った。
 眠たくもないのに、明日に備えて無理に布団にくるまる。やはり、色々なことを考えて、眠りに付いたのは随分と遅くなってからだった。

 翌日の決行日。修は朝、母の顔色をうかがうと、どうやら平一おじさんからは電話は入っていないようで、安心した。いつものように顔を洗い、朝食を摂る。普段から食事中に話をしないことが助かる。そして、出がけに予備校のお金を貰い、母に言った。
「それじゃ、かあさん。行ってくるね」
 それが、別れの言葉になった。
「なに、泣きそうな声出してるのよ。来年こそ、絶対に受かるわよ。元気出して行ってらっしゃい」
 修は、うん、と言って家を出た。
 思えば、母には苦労ばかりさせてきた。最後に、こう言う形で別れるのはつらい。今、思い直すならまだ間に合う。
 だが、それはまた一年もの間、地獄の苦しみを味わうのだと思うと、できなかった。
 修は、挫けそうな決心をまた新たにして家を出た。仙台駅へ続く道を歩いていると、小川が水かさを増して流れている。その中に一匹の大きな鯉を見つけた。自分はその鯉の生命力にも勝てないように思い、酷く自分がちっぽけな存在に思えて、ねたましくなった。
 仙台駅に着きコインロッカーから荷物を取り出し、札幌行きの切符を買った。北海道へは行ったことがなかったで、電車の発車標を確かめていると、修の肩を叩く者がいた。振り向いてみると、高校の同級生だった佐竹みゆきが立っていた。
「よっ! どこ行くの?」
「佐竹……」
「行先、言えよ」
 佐竹は、修の横腹を小突きながら言った。
「いたたた。札幌の親戚の家に遊びに行くんだ」
「いいなー、わたしも行っちゃおうかな?」
「駄目だよ。親戚んち、男しかいないから女性はお断りだよ」
「ちぇ。けちー」
 佐竹は修の顔色を見て気遣ったのか、大学の話をしなかった。しかし、しつこく携帯の番号を聞くので、仕方なく教えた。
 この携帯だが、支払いの関係でUCカードを持っていないと、中々手に入りづらい。だから、まだ働いたことがなく、UCカードを持っていない修は、この携帯を一度手放すと二度と手に入らないのだ。
 それに、生きてると知らせるためにも、携帯を持って置こうと思った。また、万が一死んだ時には、やはり両親に知らせてくれる安全装置にも。
 佐竹は、修をわざわざ見送りにホームまで付いて来た。
「ねえ、本当は親戚なんて札幌にいないよね?」
「いるよ」
「本当? だったらいいけど。上野は、しばらく羽根を休ませたらいいのよ。たまには電話してよね。せっかく番号、交換したんだから」
「おい、佐竹。このことは」
「わかってるって。誰にも言わないよ。安心して」
「ありがとう」
「ねえ、ちょっと耳貸して」
「なに?」
 佐竹は耳にではなく、口にキスをしてきた。
「な!」
「じゃあな、元気でね」
 発車のベルが鳴り、あわてて修は飛び乗った。
 佐竹は、閉まったドアの窓に手を当ててきた。仕方なく、修も窓越しに手のひらを当てる。
「ずっと、待ってる」
 そう口の形は言っていた。
 この時初めて、修は佐竹みゆきをいとしいと感じてしまった。別れる時にわかっても、仕方がないのに。
 電車は修の思いを引きずるように、仙台駅を出発した。佐竹は、はじめは元気に手を振っていたが、顔をおおってうずくまってしまう。そのとき、修の目から不意に涙がこぼれた。涙でにじんだ佐竹の姿は豆粒ほども小さくなり、やがて見えなくなった。
 修は、電車の自由席を示す車両へ向かって歩きながら、佐竹と初めて会った時を思い出していた。あれは高校二年の新学期だった。佐竹は、顔はそれなりに可愛いのだが、その口調には驚いた。いきなり、よおっ、と言って話し掛けてきたのだ。あまりにあけすけな態度に、拍子抜けしたのを覚えている。それから、何かに付け修の周りにまとわりついてきた。しかし、全然異性の感じがしないから、まるで男友達のような付き合いをした。
 その佐竹は、一発で東北大学の医学部に受かり、離ればなれになってしまった。もう、会うこともないだろうと思っていたのに、突然現れてキスをしてきたのだ。修は、驚きつつもいとしいと思ってしまった。
 だが、修はこれから故郷をすてて、札幌へと逃げ落ちるのだ。佐竹のことは、忘れなきゃと思った。
 しかし、そう思えば思うほど、頭の中が佐竹で一杯になった。それでも家出を思いとどまる理由にはならなかった。修は、空いてる席を見つけると、どかっと腰を下ろした。そして、目をつむって佐竹との思い出に浸った。

 受験の疲れが出たのだろうか、それとも生まれ故郷を出て安心したのか、仙台駅を出ると直ぐに寝てしまった。しかし、悪夢にうなされて目が覚めてしまう。何度か繰り返したあと、車内アナウスで目が覚めて、電車は青森駅に停車することを知らせた。ホームを眺めると、乗車する人はまばらで、閑散としていた。やがて、ブザーが鳴り電車が発車すると、おばあさんがぜいぜい言いながら修の席の前に立った。
「ここ、空いてますか?」
「はい、空いてますよ。どうぞ」
「どうも、すいませんね」
「いいえ」
 おばあさんは、荷台に風呂敷を上げると、ほっとして窓の外を眺めていたが、しばらくして風呂敷を開けて、大きなリンゴを取り出した。修は、珍しい光景に目を離せない。
「おにいさん。リンゴ食べる?」
 おばあさんは、まるで息子にでも勧めるように、リンゴを修の手元に置いた。
「ありがとうございます」
「いいって」
 そのリンゴは食べてみると瑞々しくて、修は思わず、うまい! と声をあげてしまう。おばあさんは、そうだろうと言って誇らしげに笑った。
 そのあと、おばあさんはうるさく話し掛けるでもなく、かと言って冷たくするのでもなく、終始にこにこしていた。思わず修も笑顔になった。
 笑顔になったのは、何日ぶりだろう? 修は、思い返してみたが、記憶にはなかった。そこで、なぜか他人の境遇が気になって、想像してみた。
 このおばあさんは、これから函館の娘夫婦の家へ遊びに行く。観光は疲れるので娘の家で二、三日話して、最後に一万円を置いて別れを言う。目に溜まる涙は、娘との別れが、これが最後かもしれないと流す涙だった。
 そこまで想像して、修の目がしらは熱くなった。こんな気持ちは、初めてだった。
「どこまで行くんですか?」
「よく聞いてくれた。これから、娘のところに遊びに行くんだよ」
 おばあさんは、誰かに話したかったのか、せきを切ったように話し出した。その会話は思ったよりも弾んで、修は本当に楽しかったのを覚えている。こんなに人と話し込んだのは、久しぶりだった。
 気付くと、車内アナウスが、これから海底トンネルに入ることを告げる。心なしか、肌寒く感じた。
 トンネルを照らす暖かい光が、電車の中に差し込む。修は飽きることなく、オレンジ色の電灯が次々に見えて、そして遠ざかっていくのを見ていた。
「きれいだね」
 おばあさんが、不意に口に出した。
「ええ」
 ふたりは、夢の中にいるように、いつまでもその光景を眺めていた。

 やがて電車は函館駅について、おばあさんは降りて行った。
「またね」
 と言う、言葉を残して。
 修はおばあさんを見送りながら思った。あのおばあさんは神様からの使いではないかと。こんなに、心穏やかにさせてくれたのだから。
 一度だけ瞬きすると、おばあさんの姿は視界から消えていた。

 電車は函館駅を出て、大沼公園の沼を横目で見て、やがて海沿いを走った。東北よりも数段明るい海に、身体が軽くなったような気がした。
 室蘭、苫小牧と通り過ぎ、北上を始める。お腹が少し減ったが、もう直ぐ札幌に着くと思い我慢した。
 途中、雪の中に岩と砂の荒れ地を見た。なぜそこだけ、そしていつからかは、わからない。土とアスファルト以外の地面を見たのは、初めてだった。
 
 日が暮れる頃、電車は札幌駅に到着した。昨日の晩、修はおじさんの上野平一に電話して、遊び行くとだけ伝えたが、不審に思って母に電話した気配はなかった。きっと、家出したことは、ばれていないと思う。修は、JRの北口改札へ歩いて行くと、平一の姿を発見する。
「よお、修」
 平一は、くったくのない笑顔で修に手を振った。
「おじさん。お世話になります」
 修は、ぎこちなく頭を下げる。
「なんだ、そんなに荷物があるのか?」
 確かに、修の両手には重いカバンがぶら下がっていた。思わず、口をつぐむ。
「……」
「ふーーん。やっぱり家出か? おっと、責めている訳じゃないよ」
 修は、ちょっと考えて平一に訊ねた。
「それで、僕の生き方はどうですか? 無謀ですか?」
「いいや、立派だよ。いきなり家を出るだなんて、俺の若い頃には考えられなかった。だから、君の生き方には憧れてしまうよ。ああ、これじゃいつ帰れるかわからないな。行こうか」
 駐車場に止めた軽のワンボックスに荷物を詰め込んで、地下駐車場を出た。札幌のネオンは仙台よりも明るくて、眩しさに目を細めた。これから始まる生活に期待半分、不安半部だった。
 おじさんの家は古い一戸建てだが、修理がなされており居心地のいいものだった。修は、居間に入るとテーブルに並べてある料理のかずかずに心躍った。すき焼きに、ケーキ、それにオレンジジュース。修の家では、最近誕生会もしないし、ここ四年は暗い雰囲気だったから、妙にわくわくした。
「さあ、腹減ったろう? 早く手を洗ってきなよ」
「はい」

 平一は、食事中も話を止めなかった。修の家とは、生活習慣が違うようで戸惑った。
「いやー、久しぶりのお客さんだから、なにしてもてなそうか考えたんだけど、結局昔やって貰った誕生会しか思い浮かばなくて」
「僕も、こんなのは久しぶりで嬉しいです」
「ああ、よかった。ほっとしたよ。さあ、どんどん食べて」
「はい」
 平一おじさんとの食事と会話は楽しかった。ふたりともコーヒーが好きで、お代わりをして料理やケーキにぱく付いた。
 平一おじさんは、食べてる物を口から飛ばして話していたが、それ程気にはならなかった。修の家が、なにか間違っていたように思えて、修も食べながら話をした。

 修と平一は、食事の片づけを終えて、お茶を飲んでいた。修は、こんなに食べたのは久しぶりで、心が解放されのがわかった。やはり、家を出たのは正解だったと思った。
「なあ、修」
「はい、おじさん」
「そのおじさんって言うのは、とりあえず止めてくれ」
「はい、平一にいさん」
「お! いいね」
 平一は、そう言って相好を崩した。本当に笑顔が似合う人で、患者もきっと頼りにするだろうと思った。
「ところで、住むところは、まだ決まっていないだろ?」
「……ええ」
「それじゃ、一緒に住まないか?」
「……」
「いや、俺が今、恋人がいないからなんだけど、ひとりはやっぱ寂しいし。それに、一軒家にひとりってのも、なんだか不用心でさ。だから、働くとこが決まっても、このまま家に住んでくれないか? 頼む。このとおりだ」
 平一は、やはり東北大の医学部を出て、しばらくは大学病院に勤めた。そこで、お偉いさんのご令嬢に求婚されるがそれを断り、病院を追われてここ札幌の小さな私立病院の勤務医となった。もうどこの大学病院でも雇ってくれないし、一族の経営する病院でも、お偉いさんの影響力を恐れて受け入れてくれない。全く、ツイていない人生なのだ。
 しかし、家を追い出された時に、お金だけはたっぷり貰った。だから、中古の一軒家に住んで、余生を刻んでいるのだ。と言う話を、以前修は母から聞いている。
 修は、正直、この申し出は有り難かった。こちらこそ、よろしくお願いしますと言って、頭を下げた。
 こうして修は、平一の家に住むことになった。
 その晩は、平一おじさんのパジャマを借りて眠ったが、やはり悪夢にうなされて目が覚める。修は、この夢と折り合いを付けて行こうと思い、また枕に顔を埋めた。


二・新しい生活の始まり

 翌日、修は朝早くから台所に向かっていた。お世話になっているのだから、これ位はしないと。
 ストーブに火を入れ、お味噌汁を作り、納豆をかき混ぜる。漬物が冷蔵庫にあったので刻んで用意した。
 そこへ、寝ぼけた顔の平一が、パジャマ姿で起きてきた。
「おはよう、修」
「おはようございます、平一にいさん」
「朝食作ってくれたのか?」
「はい」
「くんくん。ああ、いい匂いだ。待っててくれよ。直ぐに顔洗ってくるから」
 昨日はあれから夜中に電話があり、平一は出て行った。多分、急患だろう。小さい私立病院ではよくあることだろうけれど、もう四十近い身体にはきっときついことだろう。けれど、それをおくびにも出さない平一を、修は少なからず尊敬の眼差しで見ていた。
「いただきまーす」
「いただきます」
「うん! 絶妙だよ、この味噌汁」
 平一は、そう言って納豆ご飯を掻き込んだ。同時に、新聞を読み、テレビを付ける。
 どんだけ忙しいのかと、修は唖然として平一の動作に見入る。だが、これも患者のためと思うと納得した。
「修。今日はなにする?」
「今日は、一日バイト探しします」
「なに? 今日くらい休んで、観光でもすればいいのに」
「そうしたいですが、バイトが決まるかが心配で、観光どころじゃないでしょう」
「そうか。まあ、焦るなよ。ひとつひとつ着実にこなすんだ」
「はい」
「ところで、修。お前、お金はあるのか?」
「はい。予備校代が五十万ほど」
「はははは! ああ、腹痛い。それだけあれば、とうぶん大丈夫だな?」
「はい」
「うん、わかった。それじゃ、なにかあったら直ぐに電話くれよ」
「はい。ありがとうございます」
 平一の心配りは、修にはありがたかった。やはり、平一おじさんの所に来て、正解だと思った。
 洗い物をしている間に、平一は行ってきますと言って、病院へ向かった。なんとも忙しい。嵐が去った後のようだ。そんな平一を修は、頼もしく、また羨ましくも思い、朝食の後片付けをした。

 昨日貰った鍵を掛けて、改めて家の外観を見る。確かに中古のようだが、それなりに整った家だ。修は、こじんまりとしたこの住みかを大切にしようと思った。
 修は、バイトを探す前に、何かあった時のために平一の勤める病院の位置を確かめた。病院の場所は直ぐに見つかった。平一の家から直ぐ近くの、三階建てのコンクリートの古い建物。築二十年くらいか。クリーム色が、暖かく患者を迎えてくれそうだ。修は病院の周りを一周すると、駅の方へ向かって歩き出した。
 道路は、真っ直ぐな片側一車線の小さい道で、途中に女子高があった。それを過ぎると、太い横道に差し掛かる。札幌駅にはまだ距離があるが、その横道を歩いてみた。
 途中、文房具店があったので、履歴書を買い込み、書き込みをする場所を探していると、小さな喫茶店を見つけた。二階が入り口のどこかモダンなたたずまいのお店だった。
 店へ入ると、エプロンをしたウエイトレスが、修を席に案内してメニューを出した。修はコーヒーを頼むと、おもむろに履歴書を書き始めた。
「お待たせしました。ブレンドです」
「どうも」
「ねえ、ひょっとしてそれってバイト用の履歴書?」
「はい、そうですけど」
「マスター!」
 ウエイトレスが厨房に向かって大声を張り上げると、熊五郎のような風体の男が現れた。にこにこして、いかにも客商売が板についているようだった。
「はい、はい」
「この子、バイト探しているだって。ねえ君、うちでもいいわよね?」
「えっ!」
 修は心の準備ができていなかった。ボールペンが書きかけで止まってしまった。
「あ、その履歴書はちゃんと書いてね」
 ウエイトレスとマスターが見守る中、修は履歴書を書き続けた。
「へー、あんた宮城第一高校の出か。たしか頭のいいところだよね」
「え! 大学へ行ってないの? これまた珍しい」
 マスター独り言のような解説を聞いて、心配になった修は聞いてみた。
「それで、僕は落ちましたか?」
「いいや。今の言葉で採用を決めたよ。素直が一番。よろしく、上野君」
 そう言ってマスターは、にっこりして右手を差し出した。
 思いがけなく、あっけなく、バイトは決まった。明日から朝の七時にくるように言われる。終わりの時間は聞きそびれてしまった。
 ウエイトレスに聞かされたが、この喫茶店はマスターがママさんとふたりで始めたお店だった。しかし、去年の暮れママさんは亡くなったと。
 そして、このウエイトレスはマスターの娘で、名前を長内美里と言う。全然、マスターに似ていないのだが、それはママさんに似たらしい。二十五才くらいで、髪を金髪に染め、裾の広いパンツを履いている。さばさばした性格の様で、一目見た時に、修の採用を決めたらしい。とにかく、よく笑う親子で、修もつられて笑ってしまった。
 修は、明日からよろしくお願いします、と言って喫茶店を後にした。

 修は、それから目的を札幌探索に切り替えて、引き続き札幌駅へ向かって歩きはじめた。パソコンショップ、コンビニ、ホテル、食堂、ガソリンスタンド、そして見飽きた大きな予備校があった。
 道路は、札幌駅の真裏に着いて、昨日車に乗った場所を確かめる。いずれ車を買った時は、この駐車場は使おうと思った。浪人一年目の春休みに、いやいや免許を取らされたが、今は母に感謝している。
 札幌駅には、映画館、JRタワー展望台、ビックカメラなど、興味を引く商業施設があった。修は、迷わずビックカメラへ入って行く。欲しいものはあるが我慢して見て回る。特にノートパソコンとデジタルカメラは余裕ができたら買いたいが、一体いつになるのかわからない。現金は確かに五十万ほどあるが、病気になったりしたら保険証がないので、なるべく使いたくない。ため息を付いて腕時計を見ると、お昼になっていた。修は、ハンバーガーを買い込むとビックカメラを後にした。
 ハンバーガーを頬張りながら駅の南側に出ると、正面には札幌大通が三、四車線という広さで中央分離帯に分けられている。両側の建物の高さは十数階と決められているのか、大体同じようだ。有名デパート、都市銀行、有名ホテル、などが連なっている。
 やがて大通公園に着いて左右を見渡すと、およそ幅百メートル、長さ一点五キロの東西に渡って大通公園はあった。町中にこれだけ大規模な公園は珍しく、まだ雪が残る公園をぐるぐる歩いた。
 そして、さきほどから気になっていた左側のテレビ塔へ向かって、歩き出した。
 高さが百四十七メートルあると書かれたテレビ塔の展望台の入場料は、思ったよりも安く、迷わずチケットを買ってエレベーターに乗り込む。
 修は、これから住む町を見下ろした。近代的な建物の中に、レンガ造りの建物が所々に見える。美しい町だと思った。それに、町は山に囲まれ、まるでシールドに守られたシェルターのようだった。北に北大、東に旧ビール工場、南の遠方には札幌ドーム、そして西には旧道庁が誇らしげにあった。
 修は、それらを心ゆくまで眺め、展望台を降りた。

 展望台の景色に満足した修は、もと来た道路を引き返して、平一の家へ向かって歩いて行った。片道およそ二キロの行程で、運動不足の身体には丁度いい距離だった。
 途中、スーパーで晩ご飯の買い出しをした。この年代で昼間に買い物に来る男は、限られている。風俗の黒服か、夜勤が多いガードマンだと思われたのだろう。若いのに大変ね、と言われ、ことごとく安くしてくれた。
 久しぶりに運動して少々疲れた修は、平一の家に着いた。西日が当たっているせいか、玄関から床を見ると、埃が所々に溜まっているのが目立つ。修は、バケツと雑巾を探し出し、拭きあげていった。
 埃のこびり付いた床の掃除と、大量の洗濯物を片付けで、へとへとになって炊事をしていると、時間はあっという間に過ぎて八時を大分回っていた。平一の帰りを待つのは、無駄なことだと思い、仕方なく先に頂いた。
 その夜、平一は帰ってこなかった。修はあきらめて布団に横になると、直ぐに眠りに就いた。だが、相変らず悪夢は修を悩ませた。


三・バイト開始

 翌日、修は早くから起きて、多めのおにぎりにたくあんを添えて、病院に差し入れた。平一は感激して、修に抱き付いて来た。誰か、この医者に愛の手を、と祈らずにはいられなかった。その平一の手を引きはがしてバイトへ向かった。

 バイト初日。七時十分前に喫茶店に着いたのだが、マスターはもう既に仕込みに掛かっていた。
「マスター、おはようございます」
「おお、上野君。もう来たのか。中々見どころがあるぞ」
「僕は、なにをしたらいいでしょう?」
「とりあえずテーブルを拭いて、ナプキンをあれに真似て作ってみてよ」
「はい」
 修は、濡れたオシボリでテーブルを磨き上げていった。修は、フキンを使うのを嫌う。なぜなら、雑菌が繁殖して不潔だからだ。
 それを見ていたマスターは、にこにこして言った。
「やっぱり頭がいいな。ふふふふ」
 テーブルとカンターを拭き終え、ナプキンを作った。十枚まとめて形を折ると、それを一枚いちまいナプキン入れに刺してゆく。二百枚程折った所で、床をモップ掛けした。モップは、中性洗剤を薄く入れた水にざぶざぶと浸し、何度かすすいだものを使った。店内がいい匂いになり、マスターが感激したのは言うまでもない。
 お客が入って来ると、修はオーダーを取り、マスターに知らせ、料理を運んだ。皆一様に、モーニングを頼んでくるので、初めてにしてはよく回したと褒められた。ただ、時々イレギュラーのオーダーで料金を少なく取ってしまい、マスターに注意された。それでも、モーニングが終わる頃にはミスは少なくなっていったが。
 そして、引き続きやって来た忙しいランチの時間が過ぎて、マスターの娘、長内美里が修と入れ替わりに入った。修はマスターに、帰る? それとも、調理してみる? と聞かれて、後者を取った。
 マスターは、まず修にハンバーグのソース作りを見せてくれた。これは、朝、修が掃除をしていて見てない工程だった。マスターはまず、バターを温めることから始めた。
「ねえ、上野君。君、お料理作ったことある?」
「はい。簡単なものだったら大体は」
「親が教えてくれたの?」
「はい」
「いい親御さんだ」
「そうですか? 小さい頃は、いやいや作らされていましたが」
「なにいってるんだよ。親心さ。息子がひもじい思いをしないように」
「そんなもんですか……」
「それで、最近のお宅じゃ、雑菌対策の教育もしてるのか?」
「え? 実は、母がきれい好きなもので」
「へーー、上野君のおかさんて、きれい好きなんだ。もしかしたら、そう言った関係の職業だとか?」
「ええ、そうです。母は、ハウスキーパーをしてます」
 口から出まかせだが、医者と言うとなにかと言われるから、それは避けた。
「それじゃ、一度、研修を受けてみようかな? そう言ったことはしてるの?」
「さあ、詳しくは知らないです。すみません」
「まあ、いいや。ところで君、包丁とフライパンは大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「よし、できた。どう、ソースの作り方、簡単だろ?」
 そう言って、マスターは出来上がったソースをステンレスのポットに入れた。
「はい、ありがとうございます」
「暇な時、練習しておいてね」
「はい」
「よし。それじゃ、まずハンバーグを作ってもらおうかな。作り方は見てわかってるよね?」
「はい、大体は」
「あ、これは俺と上野君の昼飯になるから、ふたり分ね。あははは」
「はい」
 仕込んだ合いびき肉に、玉ねぎ、玉子、パン粉、角切りしたチーズ、調味料を入れてよく混ぜて形を整え、サラダ油で焼く。最初強火で、そのあと弱火で中までぐつぐつと。仕上げにさっきマスターが作ってくれた特性ソースを掛けて、蒸した野菜を添えてでき上がり。
 このチーズが美味しそうだった。修は、まだ食べたことのないレシピに生唾を呑み込む。
 マスターは、皿に盛ったハンバーグを一口食べて言った。
「うん。うまい! 合格だ」
「本当ですか?」
 そう言うと、修も一口食べてみた。
「美味しい! 美味しいですよ!」
「そうだろう。どうよ、俺のレシピは?」
「だから、お客はあんなに美味しそうに食べているんですね」
「おい、あんまり褒めるなよ。それよりも、上野君の腕は素晴らしいな。数回見ただけで作れるなんて。これだったら、いつ俺が死んでも大丈夫だな」
 そこに、オーダーを伝えに来た娘の美里が、腹立たしそうに言ってきた。
「ちょっと、なに悟ったこと言ってるの。勘弁してよね、二十五才で天涯孤独なんて」
「悪い……」
 まだ、ママさんを失った痛みは癒えていない。マスターと美里は暗い表情で、手だけ動かしていた。どんなにつらい時でも、お客を待たせない、その精神だろう。修は、プロの仕事を実感した。
 その後、ハンバーグは指摘を受け何度か作り直して、ようやく客に出せるレベルになった。やはり、最初に修の作った料理は、次点だった。
 マスターは、こうやって人を育てるのだろう。褒めながら、伸ばす。この方法でやる気にならない人は、きっといないだろう。人の使い方も勉強になった。
 この日は、遅くまで調理を見させて貰った。しかし、覚えることは、まだ山ほどある。トースト類の作り方、飲み物の作り方、ケーキの作り方などなど。修は、それらをひとつひとつ覚えていこうと思った。

 そして、数か月があっという間に過ぎた。何かもが順調で修は少し怖く、そして物足りなかった。
「上野君、どうした?」
「え? ああ、マスター、何でもないです」
「何か心配事があるんだろう。言ってごらん」
 修は、正直に話した。
「なに? 順調すぎて怖いだと? 馬鹿だな。いいことじゃないか?」
「ええ、そうなんですけど」
 何かが足りないとは言えなかった。たった数か月でわかったふりをするなと、自分を戒(いまし)めた。マスターの言うとおり、日々のバイトをこなそうと思った。

 そんな修を、美里は何かに付け気遣った。休憩時間に修の話し相手になってくれることもあったし、どこそこに行けばパソコンが安く手に入るだとか、どこそこの飲食店は美味くて安いだとかを教えてくれたりして、修の物足りないと言う気持ちを紛らわせてくれた。
 そんな美里を、修はいつしか好きになっていた。だが、中々言い出せずにいる。それは、もしもふたりが付き合って、万が一別れることがあったら、この喫茶店にいられなくなる。そのことが一番のネックだった。
 けれど、修と美里はその距離を少しずつ縮めていき、ふたりはごく近い距離で、会話をするようになっていった。それが、普通なように、修は付き合うことを真剣に考えていた。もう、故郷で待っているだろう佐竹みゆきへの想いは、修の頭の中から、少しずつ消え去っていった。

 平一おじさんは、相変わらず忙しいそうだ。たまに、家に帰って来て、シャワーを浴びると、作り置きの料理を美味しい美味しいと言ってかき込み、また、あわただしく病院へ戻っていく。労働基準法ってなに? 修はそう思って、医者が特に少ない北海道の未来を憂いた。そう言う修は、リタイヤしてしまったが。
 これでは、いつか身体を壊してしまう。せめて、平一の面倒を見てくれる人がいればいいのだが。押しの強い親戚のおばさんが、近くにいないことが返す返すも残念に思う。
 もっとも、人の心配をしている暇はないと、修自身分かっているのだが。もっとしっかりしなくてはと、気を引きしめる修だった。


四・出会い

 北海道に思ったより暑い夏が来た。冬が長くて厳しいが、夏の暑さは仙台以上に暑い。その暑さの中、修は仕事が物足りないと言う気持ちはもはや限界まできていてた。
 このままではいけないと思い、目標を作ることにした。自分の店を持つことだ。それをマスターに話すと落胆する姿が浮かんだが、黙って目標を目指すことにした。
 バイトが入っていない時、修は色々な店に調査に行った。地下街の喫茶店、一階にある喫茶店、高層に位置する喫茶店、いろいろ回ってみたが、大きな違いはケーキやパンケーキなどの軽食だった。中でも、ワッフルは珍しくて、修は何度も足を運んでメニューを試してみた。お陰で、財布の中はいつもギリギリだったのだが。
 そのお店にいつも食べに来ている四十才前後の女性が、美味しそうにアイスをワッフルに乗せて食べていた。本当に美味しそうに食べるのもだから、思わず見とれてしまった。
「あ」
「なーに見てるの?」
 思い切り目線が合って、修はにらまれる。
「すみません。あまりにも美味しそうに食べるから」
「エチケット違反よ。罰金一億円」
「えーー」
「なんてね。今度からは気を付けてね」
「すみませんでした」
 古典的なギャグに、思わず吹き出しそうになるのを我慢した。あの年代では、皆そう言うことを言う。勿論、落ち着いたスーツ姿の彼女とて、例外ではなかった。
 その女性を、その後、何度か見掛けた。毎回違うメニューでワッフルを味わっていた。そのうち、どちらからともなく挨拶をするようになる。
 修は、この四十才前後の女性にいつしか恋をした。こんなに年の離れている女性の一体どこに惹かれたのかと聞かれると、きっとこう言うだろう。
 知的な横顔が、どこか母のようで、それでいて明確な目的を持って人生を生きている聖人なようで、惹かれたのだと。
 五度目に見掛けた時、修は勇気を出して声を掛けた。
「あの、すみません」
「なーに?」
 楽しい食事を邪魔された子犬のように、彼女は不機嫌に目線を上げた。
「席、同席しても構わないでしょうか?」
 修の物言いがおかしかったのか、修の申し出は笑って受け入れられた。近くで見ると、目尻にシワが目立つ。だが、そんなことは気にならないほど、彼女には引力があった。
「ありがとうございます」
「あなた、いつもここへ来ているのね。よっぽどワッフルが好きだとか?」
 まさか、あなたに会いたくてとは言えない。用意していた無難なセリフを出した。
「本当、ここのワッフルは美味しいですよね。アイスと果物も豊富に種類があって、飽きませんよね」
「本当よね。病みつきだわ」
「それに、ここはコーヒーが主力のお店だから、本当に美味しいし」
「コーヒーだけ頼むんだったら、カフェオレやカフェラテもいいわね」
「でも、ワッフルと一緒にカフェラテ、いつも飲んでるでしょう?」
「カフェラテはね、胃に優しいのよ」
 話は、身体のことにまで及んだ。いつもは、マスターや美里と話すだけで、それ以外に会話をする友人は、修にはいなかった。みんな仙台に捨てて来たから。それゆえ、この女性との会話は、久しぶりに心躍った。
「あら、いけない。もうそろそろ行かないと」
「あの」
「なーに?」
「電話番号、教えて頂けませんか?」
「ふふふ。いやよ。変な所へ番号売られたら嫌だし」
「そんなことしません。せめて名前だけでも」
 よほど、可愛そうに見えたのか、彼女は名前と電話番号を交換してくれた。修の満足そうな顔を見て、彼女は言った。
「こんなおばさんに、なに真剣になっちゃって。もしかしたら、あなた、そんなに女に飢えているの?」
 彼女の名前は、深沢玲子。その玲子から、そんなセリフを聞くとは思わなかった修は、悲しそうに言った。
「あなたには、そんなセリフは似合いません。自分を卑下しないでください」
 まじめに言った修の言葉が響いたのか、玲子は慈愛に満ちた顔で、修に謝った。
 ほんのわずかだが、ふたりの年齢が近付いたと感じた。

 それからの深沢玲子と上野修の関係は、言うなれば雇い主とツバメような関係だった。ただひとつ違うのは、肉体関係がないことだった。
 玲子の家の細々とした修理を修がする。その報酬として玲子が修に食事をおごる。持ちつ持たれつかも知れないが、はたから見れば立派なツバメだ。
 玲子の家は、築十年のアパートだったが、ところどころ経年劣化が進んでいた。点滅する蛍光灯の交換、水道の蛇口のパッキンの交換、閉まらなくなったドアの修理、換気扇のこびり付いた油の洗浄、はがれた玄関タイルの修理、電気がビリビリする洗濯機のアース取り付け、などなど。玲子は、ずいぶん住みやすくなったと喜んだ。
 そのお礼として玲子は修の希望する店に連れて行った。その食事で、修は多くのことを学んだ。美味しいパンとはどう言う物か。スパゲティのソースとはどういった物が美味いと感じるか。パンケーキの美味しい焼き方は。ふっくらしたハンバーグの焼き方とソースの隠し味は。など、様々な食べ物を短い期間で学んでいった。
 それは、修の舌が人よりはよかったことによる。それを試しに作って食べることにより、修は自分の才能を再認識するだった。
 あとは、お金があればこの業界での成功は目に見えていた。だが、その金がない。それを溜めるには、ちょっとくらい節約したって間に合わない。修は、その現実を知り、このまま雇われて終わるのかと落胆した。
「これで、お金があればね」
「どれくらい?」
「一千万もあれば、とりあえずは店を出せるかな」
「それくらいだったら、わたしが出すわ。ねえ、いいでしょう?」
 修は、玲子の言葉に苦い顔をする。
「いや、それはまずいよ。完全なヒモじゃん」
「そんなことない。わたしが出資して、あなたがそこで働くの」
「……それじゃ、今までと同じじゃん。違うのは、僕がマスターって言うだけだよ」
 そう修が言うと、玲子は黙ってしまった。
「だったら、そのお金、あなたに上げるわ。それだったら、いいでしょう?」
「……深沢さん。嬉しいけど、それはできない。僕のプライドが許さない」
「……ごめんなさい」
「深沢さん。どうして、そんなにこと言うんだ? 教えてくれよ」
 玲子は、かなりの長い間躊躇していたが、ようやくその答えを言った。
「それは……、あなたは、わたしの希望だから。そして、そんなあなたを愛してしまったから」
「玲子さん」
 修は、初めて名前で呼んだ。そのいとしい人を。
「僕も、愛しているよ」
 いつの間にか、修はこの世の誰よりも、玲子を愛してしまった。倍ほどもも年齢が違うのに。
 もう、誰に言われても後悔はしない。この人でいい。いや、この人だから修は愛してしまったのだ。全てを投げ出すように、修は玲子を抱いた。
 修は、玲子と身体を合わせて、一時の安らぎを享受した。まるで、赤子がお母さんに抱かれるように。そのせいか、悪夢を見ずに朝まで深い眠りをむさぼった。実に、三年ぶりのことだった。


五・結婚

 札幌の暑い夏がようやく終わる頃、玲子はちょっと具合が悪いので病院へ行くと言った。
 修は、心配して付いて行こうとしたが、それ程悪くないと言って断った。それでも、修は心配してバイトが終わってから、玲子のアパートを訪ねた。
「玲子さん、上野です」
「はーい。今、開けるわね」
「で、どうだった?」
 修は、玄関を開けると真っ先に聞いた。今日一日は心配で、バイトに集中できなかった。
「それが、病気じゃなかったの」
「えっ?」
 玲子は、不安そうな顔をして言った。
「わたし、妊娠したの」
「……」
 初めは何を言っているのか、修にはわからなかった。しかし、だんだんその意味を理解する。
「玲子さん! ありがとう」
「うれしい。喜んでくれるのね」
「そうだ! 玲子さん。結婚しよう」
 そう修が言うと、玲子は顔をおおって泣いてしまう。
「よかった。そう言ってくれて」
 修は、玲子を抱きしめ、キスをした。それは、ふたりが結婚を承認する証だった。
 ほどなく、上野修と深沢玲子は婚姻届けを出して、玲子のアパートにふたりで住み始めた。そのふたりの結婚だが、誰にも知らせることもなく、誰に祝福されるでもなかった。婚姻届けを出す時に、窓口の人にお祝いを言われただけだ。唯一、叔父の上野平一だけは説得をして、なんとか保証人になって貰ったが。
 修は、幸せで怖いくらいだった。ただ、お店のお金を出してもらうのは、躊躇した。子供のためと言われて、ようやく決心したのだった。

 修は結婚したあとも、そのことを隠して喫茶店に勤めた。
 だが、修の胸はずきずきと傷んだ。マスターの娘の長内美里に、申し訳ないと言う気持ち。期待して育ててくれたマスターに、すまないと言う気持ち。ふたりに囲まれて、修の返事は自然、暗くなった。
 そして、秋の気配がする頃、とうとう修は、堪え切れずに言ってしまう。
「マスター。すみません!」
 修は、頭を深々と下げた。
「え! 上野君、いきなりどうしたんだ?」
 訳を話したが、やはりマスターの落胆は大きかった。せっかく、いい人材を拾って、全てを注ぎ込み、ゆくゆくは娘と共にこの喫茶店を継いで欲しいと思っていたのに。
 修は、今までなあなあでやってきて、煮え切れない態度をしてきたことを、深く恥じた。
 マスターは、普段吸わない煙草をどこからか引っ張り出し、思い切り吸い込んだ。
「それで、美里にはまだ言ってないんだな?」
「はい……」
「まあ、仕方ないさ。こっちが勝手に美里と一緒になって、店を継いで貰いたいと思ってただけだから」
 眉間にシワを寄せて、目尻に涙をにじませ、マスターは考えていた。
「それで、いつまで働ける?」
「はい、来年の四月までは」
「そうか。じゃ、それまでよろしく頼むよ」
「はい。すみません」
「それから、美里には俺から言うから、黙っててくれ」
「はい……。やっぱり僕から頭を下げさせてください」
「ば、馬鹿やろうーー! はあはあはあはあ」
「……」
「ふーー……。頼むよ。君からは、言わないでくれ。このとおりだ」
 そう言って、マスターは頭を下げた。それは、修が見た初めての光景だった。

 修は、最悪の気持ちだった。これだけ人を傷付けたのは、二度目のことだった。相手の気持ちを知っているのに、そのことを口にしないで、相手の気持ちに甘えて、返事をずるずると先延ばしにして、そして最後に裏切る。
 この世で、一番愚かで、一番汚く、一番ずるいことをしてしまった。そう思うと、自然に土下座をしていた。
 だが、ここで引き返せない。もしも、ここで深沢玲子を裏切って美里とこの店を選んだら、子供はどうなる? あまりにも可愛そうだ。
 子供のことを考えて、つらくても一度決めた道を行こうと、歯を食いしばった。

 店が終わると、修は一言玲子に電話を入れて、久しぶりに平一の家へ帰った。こんな気持ちで玲子に会う気になれなかったから。
 もう、既に夜中の十時だった。まだ、平一は帰ってこないのかと、玄関の鍵を開ける。すると、既に平一は帰っていた。
「平一にいさん?」
「おお、修か。久しぶり」
 そう言って、平一はノンアルコールビールをあおった。酔うと、急患に対応できないかららしい。いつにも増して上機嫌な平一は、修が驚くことを言った。
「いやー、実はさー、おせっかい焼のおばあさんに、お見合い、勧められっちゃって」
 まんざら、嫌と言う感じではないようだ。四十を迎えて、もうそろそろみそぎは済んだと思ったのだろう。それに、修の結婚にも刺激されたのは明らかだった。とくかく、よかったと相槌を打ちつつ、修はご飯を炊き、部屋の掃除をした。それが終わると、冷蔵庫を眺めて、お握りを作る。明日の弁当だと言うと、平一は喜んだ。しかし、あらかた今、平一の胃袋に収まってしまうのだが。

 修は、平一の嬉しそうな顔を見て、物思いにふける。思えば、修の人生は仙台を出た時からジェットコースターだった。バイト、それに伴う将来のビジョン、そして最愛の人、深沢玲子との結婚と子供。
 しかし、いいことばかりではない。お世話になったマスターと長内美里。それなのにあだで返してしまって、何度謝っても償えない気持ちがある。それは、これから続くであろう、長い人生に置いても、きっと忘れ得ぬものだろう。この戒めを忘れていいのは、死ぬ時だけだと思う。
 こんな風に、人生はいいことと悪いことの繰り返しで、それは永遠に続くルーレットのように、死ぬまで続いているのではないかと思う。
 いっそ、死んでしまいたいと思うときがあったが、まだやり残したことがあるのではないか、もしかしたら自分を待っている人がいるのではないかと、踏みとどまった。
 だから、深沢玲子に出会えた。この喜びは、何物にも代えがたい。その幸運を神に感謝したい。
 この日は、平一の家に泊まった。久々にいびきと言うものを聞いた。


六・別れ

 それは、とても寒い日だった。深沢玲子が、いなくなった日だ。
 いくら待っても玲子は帰って来なかった。テーブルには置手紙が置いてあった。だた、探さないでくださいと。
 修は、混乱した。なぜ、結婚して数か月でいなくなってしまったのか? それも、お腹には大切な子供がいるのに。
 初めは、修のことが嫌いになったと思った。しかし、いなくなる日の朝も、玲子は修と抱き合ってキスをした。だから、そんな訳はない。
 それとも、悪い業者に騙されて、払えきれない借金を背負って、どこかに逃げている、または捕まっているとも考えたが、郵便受けに催促状とか、取り立ての人がくるなんてなかった。
 いくら考えても、なぜいなくなったのかわからなかった。つてを頼りに探そうとしても、修は玲子の働き口さえ知らなかった。玲子がいなくなって初めて、玲子の働き口を調べて問い合わせてみると、すでに辞職の手続きが済んでいて、行方はわからなかった。そして、平一に聞いても、はやりわからなかった。完全に行き詰まってしまい、修は何もできずに呆然とするだけだった。
 なんの手掛かりもないままに年を越して、正月と、ドカ雪がやってきた。修は、いつ連絡が入るかと、できるだけ深沢玲子のアパートにいようとしたが堪え切れず、平一の家を訪ねた。
 そこで、衝撃的なことを聞く。
「平一にいさん、久しぶりです……」
「修。大丈夫か? その顔は、寝てない顔だな」
「ええ、そうです。玲子さんは、一体どこへ行ったんでしょう……」
 そう言って、修は涙を流した。
 それを痛々しそうに見ていた平一は、重い口を開いた。
「実はな……、玲子さんは今、ホスピスにいるんだよ……」
「え! なぜそんな大事なこと、隠していたんですか?」
「それは、玲子さんがそう望んだんだ」
「……それで、玲子さんはどこのホスピスにいるんですか?」
「悪い。それだけは言わないと、約束したんだ」
「そんな……」
「でも、修の言葉を伝えることはできる」
「それでも、いいです。おねがいします」
 修は、平一に頭を下げてお願いした。人に頭を下げることは、修にとっては何の躊躇もなかった。ただ、玲子に会いたいと願う気持ちで一杯だった。例え、病であと数か月の命だったとしても、どんなにやつれていたとしても。
 それから、数日がたった。修は、玲子から手紙を受け取る。急いで封を開け、手紙を広げた。

『拝啓、修様。
 もうすっかり冬ですね。わたしがここに来た頃は、まだ、ちらほら小雪が舞い散っていたのに、いつのまにか樹々も深い雪に埋もれています。
 この雪が消える頃、きっとわたしの命も消えてしまうでしょう。でも、そんなことはいいんです。自然の理(ことわり)ですから。
 それよりも、あなたには酷いことをしてしまいました。突然、目の前から消えるなんて。本当にすみませんでした。
 実は、こうなることは大分前にわかっていました。去年の春に調子が悪くて病院へ行った時に、癌を見つけたのです。初めは、いい病院に掛かれば全て取り除いてくれると楽観していましたが、思ったよりも病巣は広がっていて、もう手の施しようがないと言われてしまいました。
 そんな時、あなたと出会いました。わたしは、病気のことも忘れてあなたとの日々を過ごしました。本当に幸せでした。これが、最後の恋だと思って。
 それで、わたしはある計画を思いつきました。それは、あなたに遺産を残すことです。二十年間、溜めてきたお金、五千万円をあなたに残そうと考えたのです。けれど、あなたは簡単に受け取ってはくれませんでした。
 そこで、わたしはあなたに妊娠したと嘘をついて、婚姻届けを出させたのです。これで、わたしの遺産は全て、あなたの物です。その罠に、あなたはまんまとはまったのです。
 こんな不謹慎なことを言って申し訳ありません。けれど、あなたを愛していたことは、本当です。それだけはわかってください。

 あなたは、わたしに多くの物を与えてくれました。それは四十年生きてきたわたしが、まるで二十代の頃に戻って、あなたと会話しているように。
 今まで、仕事一筋に生きてきたわたしですから、あなたとの出会いは何もかもが新鮮で、今までセピア色に見えていた景色も、鮮やかな色彩を帯びて見えました。本当に、あなたには感謝をしています。
 だから、
 だから、せめてこのお金を、わたしからあなたに贈りたいのです。店を出すのでもいいですし、なにに使っても構いません。どうか、受け取ってください。おねがいします。

 最後に、もしわたしを許してくれるなら、K病院のホスピスへ来てください。本当は、こんな姿、見せたくないのですが、最後に、どうしてもあなたに会いたくて。

 それでは、もうそろそろ、ペンを握るのも疲れてきました。
 あなたと、あなたにこれから出会う人に、幸せを。そして、わたしにできなかった子供を作って、天国にいるわたしを喜ばせてください。

 それじゃ、さようなら。わたしの愛した人へ。』

 こんな現実があるなんて、誰が思う?
 僕の愛する人が、なんの抵抗もなく神にめされようとしている。それを、ただ見てるしかない僕は、あまりにも無力だ。
 せめて、僕の手で彼女の苦痛を和らげて、清らなかな最後を迎えられたらいいのに。
 そう、修は心から思った。

 修は、それから急いでホスピスへ向かった。
 タクシーが付いた場所は、郊外の森に囲まれた二階建ての建物。その入り口の扉を開けると、管理人らしき人が現れた。その人は、訳を話すと、こちらへ、と言って修を案内した。
 途中、三、四人の人が悲しんでいるのが見えた。ここは、そういう人ばかりを受け入れてくれる所。きっと、安らかな最後を迎えたのだろう。
 その病室には、色鮮やかな紫陽花が、鉢に植えてあった。普通は、鉢植えは嫌われるが、病人が望んだのだろう。それは、みんなの悲しみようでわかった。この季節に、よく探したものだと、修はしみじみと思う。こんな最後を迎えられて、患者はきっと幸せだったろう。
 そして、修はひとつの病室へ案内される。表札は、確かに深沢玲子と書かれてあった。
 修は、深呼吸をして、ノックをして扉を開けた。
「やあ、久しぶり」


七・再出発 

 三月の初旬、深沢玲子は穏やかに逝った。修に手を握られて、微笑みを湛(たた)えて。
 修は、泣かなかった。ただ、玲子の亡骸を胸に抱いて、背中をぽんぽんと叩いた。よく頑張ったねと。
 葬儀には、会社の人が数名来たが、家族や親戚はひとりも来なかった。だから、修は玲子の墓を建て、一生供養することにした。義務ではなく、修がそうしたいのだ。
 そして、修は玲子の遺産を引き継ぎ、再び医学部を目指した。今までは、落ちたらどうしようと考えて、本番で力を発揮できなかったが、今は違う。受かることしか考えなかった。

 暑い夏が来て、もの悲しい秋が訪れ、凍えるような冬が過ぎようとする頃。修は、見事医学部に受かった。それを、札幌郊外の緑豊かな霊園にある深田玲子の墓に報告に行く。
「やあ、久しぶり」
 そう言って、修は墓に掛かった雪を、手のひらで払う。
「僕、北大の医学部に受かったんだよ。褒めてくれよ」
 雪をあらかた除いて、鉢植えを置く。玲子の好きな福寿草の花だ。春に固い地面を割って伸びてくる、生命力に飛んだ花だ。
「四月から大学で勉強するけど、応援してくれよ。ああ、それから朝は、起こしてくれよ。学校とバイトで忙しいから、あまり寝てられないんだ」
 線香に火をともし、線香立てに刺した。凉やかな香りが辺りを満たす。それは、この世とあの世を渡す煙のように。
 バイトだが、修にはやっぱり玲子のお金を使うことはできなかった。全額を終末医療の協会に寄付させて貰った。奨学金とバイトでようやく学費が工面できる目途がたったのだ。
「あ、ワッフル忘れた! 悪い悪い。明日、必ず持ってくるから」

 お墓には、深沢玲子の名前と上野修の文字が、彫ってあった。夫婦別姓がいいと言っていたが、あれは余命が少ないことを考慮した玲子の配慮だろう。印鑑も、会社での名札も、なにも変わることなく、玲子は逝ってしまった。女の幸せは、名字が変わることだと言う人がいる。だが、玲子にはそんなことはどうでもよかったようだ。心の中で繋がっていれさえばいい。そう、言っていた。

「そう言えば、平一おじさん。今度結婚するんだって。相手は、なんとおじさんを窮地の追い込んだ、あのご令嬢だってさ。信じられる?
 全く、人の人生なんてわからないよなー。ご令嬢が、いつまでも待っているのを知って、いじらしくなったなんて」
 それなら、なぜ出会った時にご令嬢を拒否したのかわからない。もしかして修のために、神様が平一を札幌へ寄こすようにしたのではないかと思う。なんの根拠もないことだが、そう思えてきた。
「まあ、平一おじさんが幸せになってよかったけどね」
 修は、遅くまで玲子と話していた。会いに来たのは久しぶりのことだったので話は尽きなかった。

 修が北大の医学部で学んで一年、二年、三年、そして六年がたった。修は人よりも五年遅れてようやく医者となった。これからは、さまざまな医療を学ぶために、研修を受けなくてはならない。修は、望んで平一が働く病院へ入った。真新しい白衣が似合っていない、どこかたどたどしい三十に来年手が届く新卒の修は、気を引きしめていた。
「おい、修」
「は、はい」
「あまり、緊張するなよ。患者が怯えるから」
「す、すみません」
「まあ、いいや。まず、お前には問診を覚えて貰う。それからだ、手術なんかを覚えるのは」
「は、はい。頑張ります」
 修は看護師や他の医者からも教えて貰って、ひとつひとつ着実に覚えて行った。

 一日の仕事が終わったのは、夜もとっぷり暮れた頃。修は、やっとの思いで、表札に深沢玲子と書いてあるアパートにたどり着いた。まだ、表札にその名前を置いておくのは、いつまでも忘れないと言う気持ちがあるからだった。
 ふと、家の前に誰かいる。それも、大きなカバンを足元に置いて。修は、怪訝(けげん)そうに顔を覗いた。
「佐竹!」
 それは、高校の同級生、佐竹みゆきだった。
「よ、上野! お疲れ!」
 相変わらず男の口調。だが、それが佐竹には良く似合っていた。確か、仙台の病院に勤めていたはずだが、旅行に行く暇があるのかと、修は驚いていた。
「一体、どうしたんだ?」
「ねえ、それよりも家に入れてくれない? 一日待っていたから、もう足、パンパン」
 そう言って、佐竹はケタケタ笑った。
 修は、急ぎ、鍵を開けて佐竹をアパートに入れた。修に異性を家に入れると言う考えなかった。故郷を出る時は寂しくなって、佐竹を好きだと思ってしまったが、あれは一時的な物だったのだろう。そんな気持ちは、全く起きなかった。
「ところで、この住所はどこで知ったの?」
「ああ、それは修のおかあさんから」
 思わず絶句した。きっと、平一が教えていたからではないかと推察した。
「もしかして、僕が結婚していることも?」
「うん。聞いているよ。凄いじゃん。このマダムキラーめ。ふー疲れた。ねえ、水頂戴」
 そう言うと、佐竹はまたケタケタ笑った。そして、このことも確かなきゃいけない。
 修は、ミネラルウオーターをコップに入れて、佐竹に差し出した。
「それで、妻が亡くなったことは?」
「お水、ありがとう。うん。聞いてる」
 そう言って、佐竹は水をごくごく飲んだ。
「はー、生き返った。ねえ。それよりも、わたしお腹減っちゃってさー」
「……」
 ご飯の上に、白菜の漬け物を乗せて、お茶をざぶざぶ掛ける。最近の、修のお気に入りのメニューだ。疲れが一気に取れるような気がする。
 佐竹はごくりと生唾を飲み込むと、一気に掻き込んだ。
「ざばー。むしゃむしゃ。うん。美味い!」
 わざわざお箸をテーブルの上に置いて、親指を立てて見せる。昔、映画でやってたトップガンの真似だ。佐竹は、ああ言う男くさい映画が大好きだ。
 修は、笑ってご飯を喉に詰まらせる。お茶を飲んでようやく収まった。
「こら、あまり笑わせるなよ」
「てへへへ」
 こんな風に、佐竹は修の領域に、やすやすと入って来た。

 ご飯を食べ終えると、修は佐竹に事情徴収した。自白をまとめると、以下のようなことだった。

 修が家を出る時、修の母から連絡を受けて、急きょ駅で待ち伏せていた。
 何とか行先を聞いて、電話番号を手に入れた。
 修の母は、平一と密に連絡を取り、修の動向を見守った。
 佐竹が、修に電話しなかったのは、刺激しないためだった。
 年上の女と結婚した時は、佐竹は一晩中酒を飲んで、泣き喚いた。
 その結婚相手が死んだ時は、佐竹も泣いた。あまりのも修が可愛そうで。
 医学部の受験を再び始めた時は、応援していた。
 受かった時は、佐竹も祝杯を挙げた。
 そして、今回、研修を始めた時は、もうそろそろ自分の出番だと思って、働いている病院を辞めて、修の下へ来た。

「……」
「ねえ、何とか言ってよ。今まで待っていたんだから」
「……」
「十年だよ。こんなに待ってくれる奴は、他にいないよ」
「……」
「嘘。本当は男っぽくて誰も貰ってくれそうもないから。ねえ、貰ってよ」
「……」
「おかあさんが、もうそろそろ顔を見せろって。一度、帰ろう、仙台へ」
 母を出され、修は泣いた。
「わたし、死んだ深沢玲子さんも、あなたと一緒に受け入れるから。一緒に墓参り行こうよ」
「うううう」
「そして、深沢さんの願いどおりに、子供たくさん産むから。ねえ」
 修は、佐竹みゆきに抱き締められて、泣いた。涙腺が壊れたと思うほど、盛大に泣いた。こんなに泣いたのは、故郷仙台を出て、初めてのことだった。
 この夜、ふたりは寄り添うようにして眠った。もう二度と、離ればなれにならないように。お互いの隙間を埋めるように。


八・十七年

 北海道に新幹線が通る年。そして札幌駅に路面電車の乗り入れが計画された年。深沢玲子が亡くなってから十七年がたっていた。
 修は、ひとりで深沢玲子の墓に来ていた。初めの頃は、妻のみゆきと一緒に来たが、やはりどこか違うと感じて、それ以来一緒に来ることはなかった。けれど、墓の周りはいつもきれいに掃除されてた。きっと、みゆきと子供たちがやってくれたのだろう。修は、心の中で感謝をした。
 修は、きれいなお墓に花を添え、線香を立てて手を合わせた。そして、クーラーボックスからワッフルとアイスクリームのセット、それとアイスカフェラテを取り出して、墓にお供えをした。
「玲子さん。忙しくて中々来られなくてごめん。でも、玲子さんの大好きなワッフルは、忘れずに持って来たよ。どう、美味いでしょう?」
 修も、もうひとつの持って来たワッフルをかじる。炎天下、寝不足の喉に染みるバニラアイスクリーム。その昔のままの味に、ほっとする。
「そう言えば、今年で玲子さんの年を追い越すんだ。十七年。十七年も掛かったよ。これでやっと僕の方が年上だね」
 修は、この十七年を噛みしめていた。長く苦しい日々だったように思う。けれど、充実した毎日だった。
「だから、これからは玲子って言うよ。いいね?」
 その時、いいよ、と耳元で囁く声がした。修は、周りを見渡した。けれど、夏の風が吹き抜けるだけで、誰もいなかった。
 そんな風に、修は玲子に話し掛けながら、ワッフルをぺろりと食べた。久しぶりのワッフルは、思いのほか美味しくて、修は生きている喜びを感じた。

 思い起こせば、修は多くの人に助けて貰った。
 仙台を出る時に「ずっと、待ってる」と言った佐竹みゆき。
 電車の中で、話し掛けてくれたおばあさん。
 修を自分の家に留まらせた上野平一。
 バイトに雇ってくれたマスターと長内美里。
 ワッフルが縁で結ばれた深沢玲子。
 修と結ばれるために、わざわざ仙台の病院を辞めてきた佐竹みゆき。
 そして、修を陰ながらずっと見守ってきた母。

 その恩に報いるためにも、修は医者の道を歩み続けねばならない。終末医療と言う、医者が最も嫌う世界で、修は誠実に患者に寄り添っている。それは、修の命が尽きるまで……。


(終わり)

20160718-17才年上だった彼女

20160718-17才年上だった彼女

78枚。修正20190425。受験に失敗して、故郷の仙台をすてて札幌に逃げ落ちた主人公、修。彼と多くの人々との出会いを描きます。

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