声がえり

「おい、もう一週間以上続いてるな。牧田、病院に行った方がいいぞ」
 部長の広野にそう言われ、牧田は自分がまた咳込んでいたことに、ようやく気づいた。
「すみません、うるさかったですか?」
 広野は仕事の手を止め、牧田の席まで歩いて来た。
「そんなことは思っとらん。おまえの体を心配してるだけだ。部下が一週間も変な咳をすれば、気にするのは当然だろう。何だったら、今からでも近所の医者に診てもらったらどうだ」
「ありがとうございます。でも、大したことないんです。そんなに苦しくないし、熱もないんで」
 すると、二人の話を聞いていた女子社員の一人が割り込んで来た。
「あら、牧田さん、そういうのが一番コワイのよ。軽い風邪だと思って放っておいたら、実は、っていう話を時々聞くわ」
 広野もうなずいた。
「そうだぞ、牧田。かまわんから、今すぐ行ってきたまえ」
「はあ。それじゃ、お言葉に甘えます」
 勧められるまま、会社から外に出たものの、牧田には咳の原因がわかっていた。
(やっぱ、カラオケのやり過ぎだよな。昨日も、一人で二時間歌いっぱなしだったもんな)
 牧田は本来、歌うことが好きではない。いや、本当のところ、かなりのオンチなのだ。ところが、来月開催される部の歓送迎会で、若手社員は必ず一曲歌うよう、カラオケ好きの広野が決めてしまった。そのため、なるべく恥をかかないよう、密かに練習しているのだ。だが、普段使わないノドを酷使した結果、少し痛めてしまったようだ。理由が理由だから、広野に事情を説明できなかった。
(まあ、咳が出るのは確かだから、何か薬を処方してもらえばいいか)
 何度も咳込みながら、最寄りの耳鼻咽喉科をスマホで検索していると、後ろから声をかけられた。
「先ほどから咳をしているようじゃが、風邪かね?」
 牧田が驚いて振り返ると、白衣で白髪の老人が立っていた。
「あ、いえ、カラオケでちょっとノドを痛めたみたいで。っていうか、どちらさまですか?」
「わしは通りすがりの古井戸というものじゃ。まあ、それはさて置き、ちょうどいいものがある。わしが発明したノドアメじゃ。ひとつ、しんぜよう」
「え、でも」
「心配ない。カネはいらん。ただ、結果だけ、あとで教えてくれたまえ」
「はあ」
 スタスタと去って行く老人の後ろ姿を見送りながら、牧田は「あっ」と声を上げた。
「古井戸って、あの有名な」
 テレビで何度か見たことのある博士だった。そうであれば心配あるまいと、牧田は、もらったアメを口に放り込んだ。
「うわっ」
 口の中に入った途端、アメは気化した。ミントのような強烈なシゲキが口からノド、ノドから鼻へ一気に抜けて行った。
「ぷはあっ。う、う、なんだ、こりゃ」
 気化したアメが通り過ぎた箇所に、何とも言えない爽快感がやってきた。ずっと気になっていたノドの違和感も、スーッと消えて行く。それどころか、今まで味わったことがないほど、快調な気がする。
「あ、ああ、あああー。すげえ。いい声が出るぞ」
 病院に行く必要がなくなり、会社に戻ろうとして、ふと、牧田は考えた。
(せっかくだから、ちょっと歌ってみようか。病院で治療してもらうのに時間がかかりました、ってことにすればいいや)
 急に声を出したり、何か思いついてニヤリと笑ったりする牧田を見て、かわいそうにという顔で通り過ぎる通行人には目もくれず、牧田は、会社から一番近いカラオケボックスへ向かった。
 昼間から背広姿で一人カラオケというので、店員からは思い切り不審がられたが、牧田はそれどころではなく、早く歌ってみたくてたまらなかった。ボックスに入り、歌ってみてわかったのは、確かに声は良くなっているが、オンチが治ったわけではない、ということだった。ただし、今まで出なかった高い声が楽々と出せるのは、自分でも気持ちが良かった。
 だが、楽しい時間は、突然終わった。
「牧田!勤務中に、おまえは何をやっとるんだ!」
 いきなりドアを開け、怒鳴りながら入って来たのは広野だった。
「ど、どうして、ここが」
「わかったのか、というのか。この店から、社員割引券を使って入店した客がどうも挙動不審なので、本当にお宅の社員ですかという問い合わせがあったのだ、このバカモノ!」
「すみません。つい、声が良くなったのが、うれしくて」
 さらに追撃しようと身構えていた広野は、牧田の声を聞いて、おや、という表情になった。
「どうした、牧田。その声は」
「はい、有名な博士にアメをもらって。あれ?」
 自分でも、やっと気がついた。まるで子供の声だ。思わずノドに手を当てて、牧田は、さらに驚いた。
「ない。ノドボトケが、ない」
 そこへ、別の人間が入って来た。
「いやあ、すまんすまん。間違えて、強力タイプの方を渡してしまったようじゃ。細胞が若返り過ぎて、声変わりの前に戻ってしまったじゃろう。中和剤を持ってきたから、これを飲みなさい」
「あ、この人です。アメをくれたのは」
 最初、怪訝な顔をしていた広野も、あっ、という表情に変わった。
「おお、あなたは古井戸博士」
「そうじゃ。ところで、あんたはこの人の上司のようじゃが、許してやってくれんかね。これは、わしの責任でもある」
「ええ、それはもちろん。博士とお近づきになれて、むしろ光栄です。実は、わたしもカラオケが大好きでして。牧田の気持ちが、わからなくもないんです」
「ほう、そうかね。じゃあ、あんたにもアメをあげよう」
 だが、広野は苦笑して首をふった。
「すみません。子供の声では、部長としての威厳が保てませんので」
(おわり)

声がえり

声がえり

「おい、もう一週間以上続いてるな。牧田、病院に行った方がいいぞ」部長の広野にそう言われ、牧田は自分がまた咳込んでいたことに、ようやく気づいた。「すみません、うるさかったですか?」広野は仕事の手を止め、牧田の席まで歩いて来た。「そんなこと......

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-23

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