大空に散った十字架

「村上、俺たちもそろそろ戦地に駆り出されるかな」
「そうだな。こう戦況が悪化するといつまでも学窓に留まることは許されないだろ。葉山は陸海どちらを選ぶつもりだ」
「俺は海軍で飛行機乗りになろうと思うんだ」
「それはやめた方がいいんじゃないか。生きて帰るのは難しいぜ」
「どうせ戦争に行けばいつかは死ぬんだ。飛行機乗りになって一瞬で大空に散れば本望だよ。ジャングルを徘徊して飢えや病気で死ぬのはご免だからな」
「ずいぶんと勇ましいんだな」
「俺は子供のころから剣道で鍛えてきたから飛行機乗りに向いていると思うんだ。防具を着けて竹刀で相手に打ち込むのは空中戦で敵機に銃弾を撃ち込むのと似てると思うよ。一瞬のスキを見つけて瞬時に打ち込み離脱する。まさに戦闘機の空中戦と同じじゃないか」
「そうかな。俺は何とか生き延びる道を探したいな。親爺が早く死んでしまったのでお袋一人残すわけにいかないからな」
学帽にゲートルを巻いた地下足袋姿で芋掘りをしながら村上と葉山は自分たちの将来を語り合った。ここは東京帝大の検見川農場。食料増産のために動員された学生数十人が汗だくになって芋を掘っていた。暑い日差しの下、鍬を握って土を掘り起こす慣れない作業に学生たちは手に豆を作りながら芋ほりに取り組んでいた。学内では勤労動員で文系学生の殆どが工場や農場に出ていた。薄暗い大教室では黒板を前に教授が数名の学生に向かって講義をしていた。ひっそりと静まり返った構内には木の葉が寂しく舞っていた。
昭和十八年になると軍靴の音が学窓にも響き渡り葉山たちもおちおち机に向かっていられなくなった。昭和十六年十二月、真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたをきった日本軍は各地で目覚ましい戦果をおさめ南方方面に資源を求めて戦火を拡大していった。しかし、戦争開始から半年後のミッドウェー海戦で大敗したのをきっかけに戦線への物資の輸送ルートは次々に断たれ戦況は次第に悪化していった。軍部は前線の兵の消耗を補うため、それまで工場勤務などに限定していた学徒を動員して戦地に送り込むことを考えた。葉山たちが戦地に赴くのも今や時間の問題であった。
「葉山、俺の下宿に寄らないか。お袋がジャガイモを届けてくれたんだ。ふかして食べようじゃないか」
「それはありがたいな。ちょっと寄らしてもらおう」
本郷界隈の路地裏にある古びた下宿屋の二階に村上は部屋を借りていた。玄関わきの階段をトントンと上がるとガラス戸から入る太陽をさんさんと浴びて長く続く廊下に障子戸が並んでいた。障子戸を開けて中に入ると八畳の部屋の隅に文机と本棚が置かれていた。しみだらけの襖を開けて押入れの中から布袋を引っ張り出すとジャガイモが畳の上に転がり出た。
「下でふかしてもらってくるからな」
村上はそう言って階段を下りていった。再び顔を出した村上の後ろから急須と湯飲み茶わんを盆に載せて若い女性が入ってきた。
「ようこそいらっしゃい。下宿屋の娘の和子です。お見知りおきください」
もんぺ姿の和子はそう言って手際よく茶を入れて葉山と村上の前に差し出した。和子は女学校に通いながら時間の空いた時に下宿を手伝っていた。色白で三つ編みの髪が良く似合う和子は大きなひとみを愛くるしく輝かせて笑顔を絶やさなかった。葉山は和子をじっと見つめながら部屋から姿が見えなくなるまで視線を離さなかった。
「おい、村上。こんなに綺麗なお嬢さんにかしずかれて住むなんて羨ましいよな。俺も引っ越して来ようかな」
「何をばかなこと言ってるんだ。俺たちはほどなく戦地に駆り出される身だし下宿に居られるのもあとわずかだぜ」
「まあそうだな。それじゃ、それまで度々寄せてもらうとするか。せめて彼女の顔なじみになっておきたいからな」
「あれ、葉山は飛行機乗りになって華々しく散るんだって言ってなかったか」
「そうだったな。はっはっは、村上が何とか生き延びたいと言っていたのがようやく分かったぜ。お前、あの子に気があるんだろう。戦に出るというのに花があるのは羨ましいぜ。生きる希望が湧くからな」
会話が盛り上がった頃、障子戸が開いて和子がふかしたてのジャガイモと塩を盛った皿を手に入ってきた。
「和子さんも一緒に食べないか。いい匂いがするだろう」
「あら、うれしいわ。それじゃ私もお相伴にあずかろうかしら」
和子が加わって薄暗い部屋の中は太陽が上ったように明るくなった。
「葉山さんと村上さんも兵隊に行くのかしら」
「うん、戦況がここまでくると学窓に留まることは許されないからね。大学では上級生たちが繰り上げ卒業で次々と入隊しているんだ。俺たちも間もなく徴兵されるだろうね。葉山は飛行機乗りになりたいんだって」
「へ~え。葉山さんて精悍な感じがすると思っていたけど戦闘機にでも乗るの」
「長い間、剣道をして一対一の戦いには慣れているからね。戦闘機搭乗員に向いていると思うんだ」
「でも搭乗員って撃ち落とされたら確実に死ぬんでしょ。そんな危ないことしないで戦争が終わるまで生き延びてくださいな」
「はっはっは。和子さんがそんなこと言うから村上はいつも生き延びたいなんて言っているんだな。生きて帰れればそれに越したことはないけどね」
「そうよ。二人とも生きて戻ってくださいな。そうすればまた皆でこうして楽しくジャガイモをいただけるでしょ」
「和子さんと話していると気持ちが明るくなるね。戦地に行っても今日のことは忘れないからね」
葉山と村上が徴兵検査を受けたのはそれから一か月ほどしてからだった。
昭和十八年十月二十一日、秋雨が降る神宮外苑競技場で出陣学徒の壮行会が催された。葉山と村上は歩兵銃を担いで「海ゆかば」の大合唱の中、泥水をはね上げながら二万五千人の学生とともに行進した。東条英機首相が学生に向かって戦意を鼓舞する激励の訓示をしたのに対し、学生代表が声も高らかに「必殺の銃剣をひっ提げて身をもって敵を撃滅せん。我らもとより生還を期せず・・・・」と答辞を述べて競技場は熱い興奮の渦に包まれた。観客席から女子学生の声援が飛び交い、「生きて帰ってきてください」という声が村上の脳裏にしっかりと焼きついた。
壮行会が終わって葉山たちは新宿に繰り出した。薄暗い裏町のひなびた飲み屋ののれんをくぐると裸電球に照らされて黒く汚れた狭いカウンターに腰を据えた。カウンターの隅には日焼けした顔の老人が一人腰かけて、日本酒を味わうようにちびりちびりと杯を傾けていた。
「熱燗をつけてくれないかな」
「あいよ。熱燗、一丁」
安い酒とわずかな佃煮を肴に二人は将来を語り合った。
「今日の壮行会はすごかったな。女子学生が大勢見守ってくれたから気持ちが高揚したよ」
「でも、生還を期せずなんていう答辞をされるとまるで生きて還ってはいけないみたいだな」
「おい、言葉に気をつけろ。心で思っていても口に出すのはやばいぞ。しかし俺達も西洋の歴史を学んでいるからギリシャやローマの遺跡を一度この目で見てみたいよな」
「ところで葉山、戦争に行くとなれば死を覚悟せねばならないだろ。怖くないか」
「怖くないと言ったら嘘になるが、どうせ逃げられないんだ。当たって砕けろだ。それっきゃないだろう。いろいろ考えたって死んでしまえば皆同じだよ」
「そうかな。実は俺はキリスト教徒なので死に対してちょっと違った考え方をしているんだ」
「そうか。確かキリスト教の世界では死んだ人間は復活することになっているんだろ。そう思えば死も怖くないかな」
「キリスト教徒だって死は怖いよ。十字架に張りつけにされたキリストだってあれだけ苦しんだからな。でも一旦死の境界を乗り越えたら明るい世界が待っているような気がするんだ」
「そりゃそうだろう。信仰を持つということは来世を信じることだからな」
「俺は宇宙に存在する全てのものがエネルギーによって成り立っていると考えているんだ」
「へ~え。面白い考えだな。しかし俺たちは現にこうして肉体を持っている。人間の体は細胞や水分でできているんだろ。エネルギーによって成り立っているという考えがちょっと腑に落ちないんだな」
「エネルギーは固体や液体、気体と姿を変えていくがこの世に存在することは間違いない。目に見えなくたって電気のようなエネルギーが現に存在することは誰も疑わないからな。宇宙の星は寿命を終えて爆発するとガスや塵に姿を変え、再びその中から新しい星が生まれるじゃないか。俺たち人間も宇宙の仕組みの中で生きている以上、同じくエネルギー循環の結果として死後に復活してもおかしくはない」
「なるほど、そう考えれば理解しえないわけではないな」
「そして宇宙に存在する巨大な根源的エネルギーによって地球上の生きとし生けるものが創られているわけだ。この巨大なエネルギーを人は神と呼ぶ。死という形で肉体が消滅しても神によってつくられた俺の魂は何らかのエネルギーとしてこの宇宙に存在するはずだ。俺はそう信じているよ」
「そうか。俺たちの人生そのものがエネルギーの循環にすぎないというのだな。そう考えると死ぬことをあまり恐れなくてよさそうだ。でもな、死後のことは分かったとして俺たちはなぜこの世に生を受けたんだ。生きる意味を考えずして死後の事を考えてもしょうがないだろう」
「まさにそこだよ。この世に生を受けたばかりの魂は真っ白なペーパーみたいなもんだ。そこにいろいろと書き記すことによって魂が肥えていくんだ。つまり意識を豊かにすることによって魂は成長するんだな。年頃になって女性を愛したり子供を持って可愛がれば人を愛することを学ぶ。様々な人の不幸に遭遇すれば他人を憐れむ気持ちが身につく。要するに様々な経験をして意識を豊かにすれば魂を肥やしてあの世に行くことができる。そうすれば復活したときに豊かな人生を送ることが出来るわけだ。この世で生きるとは復活のための準備だと思うんだ」
「なるほど。でも俺達みたいに戦争に駆り出されて生存を全うすることができない者は生まれた意味すら無いんじゃないか」
「いや、そうでもないな。普通の人間は日々の糧を得たり、子育てをしたり財産を蓄えるのに殆どの時間を使っている。だから意識を豊かにして魂を肥やす活動なんてしてないんだ。俺達みたいに長く生きられないのが分かっていれば生きる意味を真剣に考えるじゃないか。かえって魂の成長のためには恵まれた環境にいるといえなくもない。ただ限られた人生の中で実生活の体験が積めないとなればせめて書を読む時間くらい欲しいものだ。書物の中で疑似体験をすれば意識を成長させることができるからな。要するに人生とは限られた時間の中でどれだけ意識を豊かにできるかだ」
「お前はすごいことを考えているな。大学で一緒に机を並べていたけどそんなことを考えているなんて全く知らなかったよ」
すすけた天井から吊り下がった裸電球が二人の顔を照らしていた。
「死ぬのはやむを得ないとしてキリスト教では人を傷つけたり殺したりすることが禁じられているんだ。俺は戦争に行って人を殺すなどとてもできないよ」
「それは大変なことだな。人を殺すのが嫌だからって戦地で銃撃戦が始まればそんなこと言ってられないぜ。撃たなきゃ殺されちまうからな。軍隊は個人の主義信条が通るような世界じゃないぞ」
「そうなんだ。軍隊は厳しい訓練で個人の主義信条などぶち壊して一個の戦闘マシンを作る所だからな。俺のような人間が果たして務まるかどうか心配なんだ」
「お前の気持ちは良く分かるが、こんな時勢では時の流れに身を委ねるほかないだろう。命の保証すらないんだからな」
「そうだな。キリストでさえ最後は運命に身を委ねたからな」
村上は葉山と話しながら内に込めた不安が少しづつ遠のくのを感じた。
二人が大竹海兵団に入団したのは昭和十八年十二月の初旬だった。到着すると直ちに身体検査が行われ、ジョンベラと称する水兵服を着て厳しい日課が始まった。屈強な体の葉山は希望通りに飛行機乗りとして適正が認められた。村上もどうしたわけか飛行機乗りとして適正になった。極度の搭乗員不足がそうさせたのか。ここでは娑婆気を抜き海軍精神を教え込むのが重要な課題になっている。規則にのっとって生活する軍人としての生活態度を身につけさせるのが教官の仕事だ。これまで学窓で自由に育った学徒たちにとって、ここは人間を根底から造り変える改造工場だった。大学では教授を交えて自由な討論をおこない十人十色に各自の思考をふくらませていく。当然の結果として学生たちは個性を伸ばし生き方も考え方もそれぞれ異なっていった。行動的な葉山のような学生や、それとは対照的に内省的で哲学者のような村上が育ってくるのは当然のことであった。しかし軍隊ではそんなことは許されない。決まった鋳型に鉛を注ぎ込んで同じ型の製品を作り出すように、海軍と言う鋳型に若者を投入して全て同じ行動をする戦闘マシンを作り出すのだ。長引く戦争で前線では搭乗員の消耗が甚だしくその補充が軍の急務になっていた。戦地帰りの教官たちは厳しかった。骨の髄まで神聖天皇に身を捧げたつわ者たちは厳しい態度で新兵教育に当たった。夜の温習時間に突如、教官がやってきて手荷物検査を行なった。
「皆、机の上に手荷物を広げて整列しろ。急げ」
厳しい掛け声に煽られて村上たち学徒兵は棚から手荷物を出して机の上に並べた。机の上の手荷物を一人一人巡検しながら教官は村上の前で一冊の本を取り上げた。
「村上、これは何だ。聖書じゃないか。貴様、こんな物を読んでいるのか。敵の連中が信じる耶蘇だぞ。貴様、こんな物を読んでアメリカ兵と戦えると思っているのか。畏れ多くも我が国には現人神の天皇陛下がおられるのだぞ。それ以外に神を信じるなぞとんでもない。考えを改めさせてやるから一歩前に出ろ。足を広げて歯を食いしばれ」
教官はそう言って村上の顔を何度も殴りつけた。他の者は起立したまま村上の顔が腫れあがるのをじっと見守るしか術がなかった。
「いいか。今度こんな物を読んだらただじゃ済まないからな。とんでもない奴だ」
教官は倒れて動けなくなった村上を足蹴にして聖書を持って部屋を出ていった。
「おい村上、大丈夫か。だいぶ顔が腫れあがったな。水で冷やして横になれ」
葉山は床に倒れた村上を抱え起こして釣り床に寝かせてやった。
それ以来、村上はことあるごとに修正と称して教官に殴られた。葉山はあまり丈夫でない村上がつぶれてしまうのではないかとはらはら見守っていた。しかし、おとなしそうな村上のどこにあんな打たれ強い根性があるのか不思議だった。顔が腫れあがるほど殴られながら村上はキリストに我が身を重ねて耐えているのか。これほど芯の強い男とは信じられなかった。海兵団では毎日分刻みで日課が組まれている。分隊長の精神訓話、漕艇訓練、野外行軍、通信解読、掃除、洗濯と息もつけないほどの忙しさの中で葉山と村上は徐々に鍛え上げられていった。体を限界まで酷使し一日中空腹に苛まれながら教官たちの鉄拳制裁に耐えねばならない。訓練が進むにつれ肉体と精神は命令で動く一個の兵器と化していった。担当教官は前戦で豊富な戦闘経験を持つ下士官たちである。大学出の学徒兵との間に微妙な空気が生じるのは止むをえなかった。学徒兵は予備学生試験に合格し定められた日課を無事に終えれば少尉として士官の待遇が保証される。遠からず自分たちよりも階級が上になり、逆に命令を受ける立場に立たされるのだ。生死をかけた戦場で生き残った下士官たちが昨日まで大学で青春を謳歌していた学徒兵を指導するのだからその軋轢はいかばかりであろう。新米学徒兵の生意気なひと言が時には教官の逆鱗にふれることがあった。
ある日、学徒兵の一人が教官に向かって横柄な一言を発した。
「教班長殿。戦地へ赴けば逆の立場で一緒に戦わねばならないのですから互いにうまくやりませんか」
この一言が教官を激怒させた。
「貴様あ。いま何と言った。大学出だからといって図に乗るなよ。根性を叩き直してやるから前に出ろ。海軍精神を叩き込んでやる」
教官はそう言ってバットで学徒兵の尻を腫れあがるまで叩き続けた。どんな反抗も海軍という組織の前では全て摘み取られてしまうのだ。そんな日々が続く中、村上は夜中に厠に立って一人静かに祈りを捧げるのを日課にしていた。厠の中は誰にも邪魔されず一人静かに過ごすことができる唯一の場所だった。村上は厠で祈りを捧げることにより毎日の厳しい日課を何とか凌ぐことができた。日頃の教官たちの話から戦況はかなり悪化しているのがひしひしと伝わってきた。真珠湾攻撃から半年後のミッドウェイ海戦では四隻の空母と大量の航空機を失い、最近のマリアナ沖海戦では三隻の空母と六百機の航空機を失うなど日本海軍は壊滅的な損害を被った。葉山と村上は死の影が自分たちに一歩一歩近づいてくるのを否が応でも感ぜずにいられなかった。
一か月余りの海兵団教育を終えて十四期予備学生試験の合格者発表があった。葉山は希望通りに飛行機乗りとして土浦航空隊に行くことが決まった。飛行機乗りになるのを避けていた村上まで一般兵科ではなく飛行科に決定して土浦行きになったのは意外であった。搭乗員不足がそんなにひどいのか、あるいはキリスト教信者であるが故に命の危険が高い飛行科に追いやられたのか真相は分からない。土浦航空隊に移ってから服装だけは士官服に変わったが新兵としての教育は海兵団にも増して厳しくなった。ここでは航空技術の習得を目的としながら死への覚悟が徹底的に叩き込まれた。身辺の整頓が悪いといっては総員ビンタ、敬礼の仕方が悪いといって鉄拳制裁、分隊対抗の棒倒しに負けたからといって夕食抜きの制裁が課せられた。日々の訓練の中で個としての人間性は全て剥ぎ取られた。行動を終始見張られ精神の緊張と体の疲労は限界に達していた。思考する意欲が衰える中でいずれおとずれる死への覚悟が皆の脳裏を過りはじめた。分刻みの集団生活の中にあって葉山と村上は殆ど口を交わす機会がなかった。立話などは絶対に許されないからだ。
土浦に移って間もなく訓練生には飛行服と飛行帽が支給され外見だけは一人前の搭乗員になった。赤トンボと称する複葉の九三式中間練習機が格納庫前のエプロンに整然と並べられ、早速飛行訓練が始まった。赤トンボは操縦安定性に優れているので戦時中を通じて中間練習機として使用され続けた。訓練が始まると葉山の技量に教官たちは目を見張った。剣道で鍛えた反射神経が飛行機の操縦に遺憾なく効果を発揮したのだ。操縦のバランス感覚は抜群だった。初心者は操縦桿を強く握りがちだが、竹刀で鍛えた葉山は操縦桿を柔らかく握って素早く動かすコツを心得ていた。最初の滑走訓練では飛行機を真っ直ぐ走らせるのが難しい。プロペラの反動で飛行機が片側に向きを変えてしまうからだ。それを方向舵で調整しながら真っ直ぐ走らせるのだがなかなか思うに任せない。葉山は二三度の練習で素早くコツを飲み込んでしまった。天性の搭乗員候補といってよかった。ゴトゴトと車輪の音を響かせながら練習生たちは滑走訓練に必死だった。ようやく機体を真っ直ぐに走らせるようになり一週間ほどして教官同乗の初飛行が始まった。初めて空を飛ぶ体験に訓練生たちは夢見心地の毎日だった。しかしいつまでも客扱いは許されない。伝声管から伝わる教官の厳しい声に促されて徐々に操縦のコツを身につけていく。空に上がると地上にある遠くの木々や建物だけが目標で、自分が乗っている機の状態はそれで推し量るしか術がない。慣れてくると外の景色を見ずに操縦席の計器を睨みながら機の高さを答えねばならない。着陸するときは大変だ。高度を誤れば飛行機が地面に激突したり横転して命の危険に曝される。教官の声が一段と厳しくなるのは当然だった。前席の教官の操縦桿操作が後席の操縦桿に連動して伝わってくる。教官の操縦を後席の操縦桿を通して体で覚えるのだ。慣れてくると教官は操縦桿を手放して後席の練習生が独自に操縦桿を操り飛行機のバランスを取る。
ここでの訓練は熾烈を極めた。作業は全て分刻みで、行動するときはいつも早がけだ。申告をするときは声を振り絞って大声を出さなければならない。気持ちを張りつめて全神経を操縦に集中させるのだ。飛行機の操縦は一瞬の気持ちのゆるみが墜落事故につながる。いつも死と壁ひとつ隔てて生きているのだ。教官たちは精神の緊張が可能なぎりぎりのところまで訓練生を追いつめた。死刑を宣告された服役囚だってここまでひどい扱いは受けないだろう。心身ともに疲労がたまって思考もおかしくなる。ある日、訓練生の一人が飛行機から飛び降りて自ら命を断ってしまった。あまりの過酷な訓練に耐えられなかったのだ。一緒に飛行訓練をしていた練習生たちは大きなショックを受けたが教官たちは何事もなかったように訓練を続けた。もはや一人の人間の死などに構っていられないほど事態は切迫していたのだ。
ある日、村上は教官同乗の飛行訓練の最中に祈りを唱えて聞かれてしまった。
「天におられる我らの父よ。どうかこの危難からお救いください」
急降下や反転飛行に肝を冷やして思わず救いを求める祈りの言葉が口から漏れたのだ。エンジンの轟音が響く中で唱えた祈りは誰にも気づかれないはずだった。しかし一部が伝声管を通して教官の耳に届いてしまった。飛行訓練が終わると村上は教官に呼ばれた。
「村上、貴様は飛行訓練の最中に何をしていたんだ。俺が命がけで指導しているというのに貴様は何か祈っていただろう。貴様は西洋の耶蘇にかぶれているそうだな。そんなことでこの厳しい戦いに勝てると思っているのか。根性を叩き直してやるから足を広げて歯をくいしばれ」
戦場で何回も死地をさまよった教官は気合いを入れて村上に鉄拳制裁を加えた。死ぬほど殴られて村上はもうろうと意識を失った。次の瞬間、茨の冠を被ったキリストが十字架に張り付けにされる光景が村上の目にはっきりと映った。法悦に満たされて体が宙に舞うような不思議な感覚を味わった。こんな安らぎを感じたのはいつの頃だったろう。母親に抱かれて乳房を吸った幼い記憶が甦ってきた。次の瞬間、冷たいバケツの水を浴びせられて意識を取り戻すと自分の顔を覗き込んでいる仲間たちのたくさんの目が瞼に映った。
「村上、おい大丈夫か。意識が戻ったようだな」
「目を白黒させて倒れたので死んだかと思ったぜ」
「よかった。早く寝かせてやれ」
仲間たちは親身になって村上の介抱に努めた。
土浦に入隊して一か月たち初めての上陸許可が下りた。各自、紺の制服や身なりを点検して列をなし隊門を出ていった。上陸といっても葉山や村上には行くあてもない。行動範囲が制限され飲食店などへの出入りも禁止されているのでやむなく街をうろつくしかない。
「おい、村上。元気にやっているか」
久しぶりの自由な時間が持てて葉山は村上に声をかけた。
「おお、なんとかやっているよ。おれもずい分と変わっただろう」
「そうだな。貴様がつぶれやしないかといつも心配していたが案外タフなんだな。見直したぜ。久しぶりにいろいろ話したいこともあるがどこか静かなところに行かないか」
葉山と村上は街を少しはずれた麦畑を散策しながら尽きぬ話に時の過ぎるのを忘れた。時折、ひばりが空高く舞い上がる光景が二人の目を楽しませた。
「どうだ、キリスト教精神はまだ健在か。あれだけしごかれると物を考えることすらうっとうしくなる。言われるままに体を動かしているのが一番楽だ。そうしなければ生きていけないからな」
「そうだな。最近では体の疲労がひどくて思考が停止してしまったよ。自分がまだ生きていることを確認するのがやっとだ。そんな状態だからキリストの教えを考える余裕さえない。こうして俺たちは戦闘マシンに変えられていくんだな」
「ところで本郷の下宿にいた和子さんのことだが連絡はあるのか。あのままお別れしてしまったが、貴様は葉書の一枚でも出したほうがいいんじゃないか」
「ああ、そうそう。先日、和子さんから葉書をもらったよ」
「ええ、何で黙っていたんだ」
「そんなこと言ったって隊内じゃ話すらできないじゃないか。貴様が考えるようなことは何も書いてないよ。ただ葉山にもよろしくと言ってたな」
「そうか。俺のことも覚えていてくれたか。いつか外出が許されたら二人で訪ねてみないか。本当にいい子だったな。嫁にするならあんな子がいいと思うぜ。村上、貴様は顔なじみだから結婚を申し込んでみたらどうだ。きっといい返事が来ると思うぜ」
「冗談じゃないぜ。俺たちこれから何をしようとしているか分っているのか。戦地に赴いて敵と空中戦をやるんだ。生きて還れると思ったら大間違いだぜ。そんな俺が結婚なんかできるわけないだろう」
「そうだな。それもそうだがせめて婚約くらいしておいてもいいだろう。万一生きて還ったら嫁にすればいいんだ。他の男にとられないための方策だよ」
「貴様はいつも楽天的だな。キリスト教では結婚は重要な意味を持っているんだ。軽々と申し入れができるようなことじゃない。家庭を持って子供を生み神をほめたたえるのが結婚の目的なんだ。命の保証のない俺が考えるべきことじゃないよ」
「へ~え、そんなもんかね。男と女が愛し合って一緒に暮らせばそれでいいじゃないか。貴様の宗教では愛を説いているんだろ。男女の愛だって神聖なはずじゃないか。結婚を愛の実現だと考えれば一緒に住もうが子供を持とうが関係ないはずだ。二人が愛し合うことが一番大切だと思うんだがな」
「葉山はいつも物事を単純化して考えるから幸せだよ。俺もそんな風に生きれたら楽なんだがな」
「人間の生き方なんて五十歩百歩だぜ。何を考えて生きたかじゃなくて実際にどう生きたかが問題じゃないのか。男と女が惚れあったのなら素直に気持ちを打ち明けて愛し合えばいいじゃないか。いろいろと屁理屈をつけるから簡単にできることができなくなってしまう。神を信じるというのは神に身を委ねることだろ。人間が理屈をこねてああだこうだと言うのは神を冒涜することにならないか」
「貴様、すごいことを言うな。まさにその通りだ。人間の浅はかな知恵でああだこうだとやるから人生はおかしくなる。神に身を委ねて生きればもっと人間らしく生きれるはずだ。今の戦争だって人間が浅はかな知恵で無茶をするからこんな悲惨な状況になってしまう。隊内では口にできないがここまでくれば勝負ありだよ。俺たちが命をかけたって大勢は変わらないぜ」
「本心では皆そう思っているんだろうな。俺も同感だ。俺たちの将来が暗いだけに村上には和子さんが足元を照らす希望の光に映ると思うんだ。やみくもに彼女の愛を拒む必要はないよ」
「貴様の気持ちは嬉しいがやはり俺には無理だよ。何とか日々を生きることが先決だからな。よけいなことで心を乱したくないんだ」
「戦地に行くからといってそう人生を悲観的にとらえることもないだろう。死ぬやつもいるし生きて還って来るやつもいるんだからな。うちの教官たちを見てみろ。歴戦のつわものぞろいじゃないか。生きて還ると思えば生きれるかもしれないぞ。初めから死ぬことを考えていたら生きる機会さえ失ってしまう。まずは和子さんに愛を告白して生きる希望を持つことだな」
「勘弁してくれよ。今の俺にはそんな余裕がないんだ。神のことを思い出すのすら困難なのに女のことなんか考えられないよ」
「そうか、人はそれぞれだな」
土浦での厳しい訓練はその後も続いた。
一か月が経って二度目の上陸の日、葉山は村上に声をかけられた。
「葉山、貴様、今日はどこか行く予定があるのか」
「おう、相変わらずだ。どこに行くあてもないから街でも歩こうかと思っている」
「そうか。実は和子さんから連絡があって今日土浦まで来てくれるそうなんだ。よかったら一緒に会わないか」
「へ~え、こんな遠くまで和子さんが来るのか。それは驚いたな。貴様、結構やるじゃないか。俺が参加したら邪魔にならないか」
「そんなことないよ。和子さんも貴様のことをいつも気にしているようだから顔を出せば喜ぶと思うよ。それに若い女性と二人だけになるのは人目も悪いからな。貴様に同席してもらうと助かるんだよ」
「なんだ、結局、俺は貴様の隠れ蓑か」
「まあ、そういうなよ。ともかく来てくれよ」
「よし、分った。邪魔はしないからな」
約束時間が来て二人は土浦駅に向かった。列車が着くと改札口で二人は和子を迎えた。
「お久しぶりです。皆さんお元気の様子でなによりです」
和子は村上と葉山の姿を認めて愛くるしい笑顔で挨拶をした。三人は村上たちが以前に行った麦畑まで足を運び草むらに腰を下ろした。和子が風呂敷包みを解くと赤飯や牡丹餅などご馳走が重箱に一杯詰めてあって葉山たちを驚かせた。
「よくこんなものが用意できましたね。大変だったでしょ」
「村上さんと葉山さんに面会に行くといったら母が大はりきりで朝早くから準備してくれたんですよ。よろしくって言ってましたよ」
「これは嬉しいな。ひとつご馳走になりましょうか」
話もそこそこに葉山は牡丹餅をわしづかみにするとうまそうに口に運んだ。
「和子さんのお宅は皆様元気でお過ごしですか」
村上の問いかけに和子は優しい微笑みで応えた。
「ええ、両親も妹も皆元気で暮らしています。先日、家の床下で野良猫が赤ちゃんを産んだので家じゅう大騒ぎなんですよ。父はどこかに捨てて来いというし、母は可愛そうだから家の中で飼ってやれっていうしね。人間が生きるのも大変な時代だから猫も大変なんでしょうね」
「いい話ですね。ここにいるとそういうこととは縁がないから家に帰ったような気がしますよ。家の中に入れないで床下で餌をやって飼ったらどうですか。家じゅうの話題になるような猫がそばにいるだけでも殺伐とした気持ちが和らぎますからね」
「ええ、両親にそう話してみますわ。村上さんがそう言っていたといえば父も案外納得してくれるかもしれませんね」
「おいおい、村上。貴様、和子さんの両親にまで好意を持たれているようだな。この赤飯食ったらもう後に引けないぞ。何とかしろよ」
「何をばかなこと言ってるんだ。俺たち、そんなこと考えられるような状況じゃないだろ」
「あら、お二人で何の話をしているの。秘密の話かしら」
「和子さんに結婚を申し入れるように村上に話しているんだけど、こいつなかなかうんと言わないんですよ」
「おい、葉山、こんなところで言うべきことじゃないだろ。和子さんも迷惑だと思うよ」
「あら、私なら平気よ。うちの両親もそんなことをほのめかしていますからね」
「みろ、ぐちゃぐちゃ言っているのは貴様だけじゃないか。さっさと腹をくくったらどうだ」
「葉山はどうしてこう単純なんだ。そんなに結婚が大事ならお前が和子さんと一緒になったらいいじゃないか」
「それができれば嬉しいよ。だがお前の許嫁を奪うわけにはいかないからな」
「ほっほっほ、お二人とも面白い話をしているのね。早く戦争が終わって家庭を持てたら素敵だわ」
「俺も旦那の候補に入れてくれたら嬉しいんだけど。戦果を挙げて凱旋した奴が和子さんの旦那になると決めたらどうだ。はっはっは、それならおれも自信があるぞ」
「葉山はいつもこうだ。戦地に行ってもこういう単純なやつが結構生き残るのかもしれないな」
三人は門限が近づくまで話に打ち興じた。

土浦で操縦の基礎訓練を受けた後、葉山らは鹿児島県の出水海軍航空隊に移された。ここで本格的な実地訓練を受けるのだ。これまでの復習をひととおり済ませた後、葉山たちは教官なしで単独飛行訓練に入ることが許された。飛行手順は今までと同じだ。教官に教わった通りに操縦桿を動かし同じような飛行ルートを飛ぶ。教官に毎日教わってきた感覚を頼りに操縦桿を操ると機はこちらの思惑通りに動いてくれる。上空に上がると天草の島々や美しい海岸線が訓練生の目を楽しませてくれた。編隊飛行訓練も無事終えて半年後には葉山たちは飛行機をなんとか操ることができるようになった。
出水の訓練を終えて村上は大分県の宇佐航空隊で艦上攻撃機の訓練を受けることになった。魚雷を抱えて敵の艦船を攻撃するのだ。機体はようやく調達した時代遅れの九七式艦上攻撃機で、毎日、急降下や低空飛行などの訓練が間断なく行われた。訓練がようやく最終段階に入ったある日、訓練生たちに召集がかかった。飛行隊長から現在の戦況が説明された後、爆弾を抱えて敵艦に突っ込む特別攻撃隊の編成が伝えられた。昭和十九年十月、大西瀧治郎中将の発案で関行男大尉率いる神風特別攻撃隊が初めて編成され、フィリピン沖で敵の空母を撃沈するなど大きな戦果を挙げることに成功した。相次ぐ戦闘で航空機と搭乗員を失い戦力に支障を来すと軍は体当たり特別攻撃を作戦の要として態勢の挽回を試みた。
「現在のように飛行機の数が少なくては空中戦で勝利を治めることは到底おぼつかない。そこでだ、数少ない航空機を効率的に使って最大の戦果を挙げるには爆弾を抱えて飛行機もろとも敵艦に突っ込むのが最も有効と考える。これによって戦局を挽回できれば日本の勝利の可能性はまだまだ期待できる。諸君にはお国のため先陣をきってこの役を担ってもらいたい。後日、特別攻撃隊の任務に参加する者の希望を問うので全員迷わず参加してもらいたい。日本男児として潔くお国のために命を捧げて欲しい。以上だ」
飛行隊長の話が終わると訓練生の間に深い沈黙が支配した。誰もが一点を見つめたまま口を開こうとしない。遂に恐れていた死が間近に迫ってきたのだ。
翌日、特別攻撃隊への参加の是非を問う紙が配られ教官室わきの箱に入れるように指示された。村上は迷った。戦いで死ぬのならともかく、これは自殺行為ではないか。神から固く禁じられている自殺行為に参加することは到底できない。迷いに迷ったあげく村上は「望まず」に丸印をつけて投函した。予期した通り教官から部屋に来るように呼ばれた。
「村上、お前は特別攻撃に参加を望まずと回答したがどういうことだ。お前を除いて全員が希望を表明しているのだぞ。一人だけ残って卑怯だとは思わないか。お国の一大事だということがお前にはよく分かっておらんようだな。もう一度チャンスを与えるからよく考えて明日までに返事を出せ」
教官に諭されて村上は部屋に戻った。
真っ青な顔をして椅子に座り込んだ村上を仲間が取り囲んだ。
「村上、特攻を拒否したそうだが大丈夫か。俺たちだってこんな死に方はしたくないよ。だけど戦況がこう悪化してはどうにもならんだろう。基地にいたって爆撃を受けて死ぬ者が後を絶たない状況だ。どこにいたって死ぬときは死ぬんだよ。飛行機に乗って突っ込み艦船の一つでも沈めたら本望じゃないか」
「一人残って上官たちにいじめられたらこの世の地獄だぞ。飛行機で突っ込めば一瞬のうちに楽になる。教官たちに殴られたりしごかれたりするのはもうたくさんだ。死ぬ決心さえすれば気持ちはかえって楽になるよ」
仲間たちの話に晒されながら村上はうつむいたまま一言もしゃべらなかった。
「どうせ生き残ったってこんな時勢じゃろくな人生は歩めないぜ。飛行機で突っ込めば軍神として歴史に名を残せるんだ。一晩じっくりと考えてみてはどうだ。俺たちと一緒に行こうじゃないか」
その夜、村上はまんじりともせずに夜を明かした。祈りながら神の声を聞きたかったのだ。明け方近くになってようやく全てを神に委ねる決心がついた。生きるも死ぬも神のみ心次第だ。特攻に出たってエンジンの故障で生還するやつはいる。自分の生存を神が望むなら飛行機で突っ込んだって死ぬことはあるまい。あるがままに身を委ねよう。翌朝、村上は教官を訪ねて特攻に参加する意思を伝えた。それから三日後、兵舎の入口わきに第一次特別攻撃に参加する者の氏名が掲載された。横に長く掲示された巻紙の上の文字を探るように若き搭乗員たちの目が追った。
「おお!あった。」
あちこちで驚愕の声が上がった。覚悟ができているといっても掲示された名前を見るまでは皆半信半疑だった。名前が確認されればその瞬間から死へ向かって否応なく手続きが開始されるのだ。死刑囚が刑務官に呼ばれて教誨師の言葉を聞き処刑台に向かうのと同じだ。もう後戻りはできない。名前が出た者は翌朝鹿児島の鹿屋飛行場に移り、そこから沖縄に向けて出発することになる。
この夜、特攻に出る者を集めて最後の上陸許可が下りた。軍の指定の旅館に女性を集めて宇佐最後の夜を心ゆくまで楽しませてくれるのだ。
特別攻撃隊参加者の氏名は毎夕、決まった時刻に玄関わきに張り出された。三日後、「村上功平」の名を見つけて村上はたじろいだ。一瞬、頭の中が真っ白になり体中の力が抜けるのを感じた。ふらつきそうになるのを何とかこらえて部屋に戻ると椅子にへたれこんでしまった。
「おい、村上も決まったか。おれたちもすぐ行くからな。元気を出せ。今夜は女を抱かせてくれるそうだから思い切り楽しんでこい」
仲間の一人が気を利かせて励ましてくれた。
その夜、上陸許可が下りると村上と一緒に飛ぶ数名が指定の旅館に案内された。大広間に食事の用意がされ一人おきに綺麗な女性がついて酌をした。
「兵隊さん、さあ、もっとお飲みなさいな。そんなに暗い顔をなさっちゃダメじゃないの。飲んで気持ちよく酔えば元気が出ますよ。その後は私たちが慰めてあげますからね」
沈んでいた宴会場は次第に飲めや歌えの華やかさに包まれ、村上たちは肩を組んで軍歌を歌いまくった。酒に酔って歌っていると気持ちが晴れ晴れしてくる。二日後にはこの世にいないというのになぜこんなに朗らかに騒げるのか不思議だった。まさに酒のなせるわざだった。
宴も盛りを越え女性に手を引かれた兵隊が一人、二人と小部屋に移っていった。
「少尉さん、さあさあ、こちらにいらして軍服をお脱ぎになってくださいな。浴衣に着替えて床にお入りください」
「いや、いいんだ。このままにしておいてくれないか」
「あら、どうしたんですか。最期の夜をゆっくりと楽しんではいかがですか。私が心ゆくまでお慰みをして差し上げますよ」
「二日後にはあの世に行くんだ。そう思うととてもそんな気になれないよ。男と女の営みはね、人間が生存を維持するために神から与えられたものなんだ。俺のように生きる見込みのない者がそんなことをするのは摂理に反すると思うんだ」
「あら、大学出の少尉さんはずい分と難しいことをおっしゃるのね。私のような無学の者にはとても理解できないわ。男と女の契りは子つくりだけが目的じゃないでしょ。二人で抱きあえば安らかな気持になって死の恐怖なんか吹き飛ばしてくれるんじゃないの。・・・・でも気が進まないならしょうがないわね。お酒でも飲んで今夜は語り明かしましょうか」
二人は杯を交わしながら夜がふけるまで語り合った。

「おい、村上じゃないか。貴様、遂に決まったのか」
「おう、久しぶりだな。宇佐で訓練を受けていたが行くことになったよ。」
鹿屋基地に降り立った艦上攻撃機を迎えに出て葉山は飛行機から降りて来る村上を見つけ駆け寄った。葉山は操縦の腕をかわれて鹿屋基地から飛び立つ特攻機をゼロ戦で掩護する任務に就いていたのだ。
「そうか、じゃあ少々話す時間は取れそうだな。今夜でも部屋に行くからな」
葉山はそう言って別れた。
夕食の後、葉山は村上のいる部屋を訪ねた。部屋の中ほどでは何人かが円座になって酒を酌み交わしていた。村上は部屋の隅で遺書でも書いているのか一人静かに机に向かってペンを握っていた。
「おい、邪魔していいかな」
「やあ、今、親たちに手紙を書いていたとこだけど構わないから座ってくれ」
「宇佐にいるとは聞いていたがこんなに早くこちらに来るとは思わなかったぜ」
「そうなんだ、艦攻の訓練生もまだ十分な訓練が済まないうちに次々と送り出されているんだ。戦局が思わしくないので促成栽培をしなければ間に合わないのだろうな」
「どうだ、特攻が決まって心の準備はできたか。俺たちもいずれ行くから遅いか早いかだけの問題だよ」
「うん、俺は飛行機乗りになってからいつも死のことを考えていたよ。なんとか生き延びたいと思っていたが飛行機乗りになってみるととても無理だということが分かった」
「そうだな。だけど貴様が信じる宗教では死後に復活が約束されているんだろ。そう思えば楽じゃないか」
「そうは言ってもな。キリストでさえ自分の死を知って苦しんだんだ。いくら神の子だからといって人間として肉体を与えられた以上、死の苦しみから逃れることはできないからな」
「十字架に張り付けにされるのも特攻に出るのも同じか。貴様は神を信じながら突っ込めるから幸せだよ」
「そう言ってもらうと気持ちが楽になるよ。最後の祈りを捧げてもやはり身近に迫った死は怖いからな。でも、今は気持ちの整理もついて穏やかに死んでいけそうな気がするよ」
「あれほど生きて帰りたいと言っていた貴様が特攻に駆り出されるんだからこの戦争で生き延びることは殆ど不可能なんだろうな。俺は直掩機だから貴様が確実に目的を達せられるように付ききりで守ってやるからな」
「それはありがたい。葉山に最期を看取ってもらえれば本望だよ。ところで、もう一度本郷の下宿の和子さんに会う機会があったらよろしく伝えてくれ。心ひそかに好意を持っていたとな」
「貴様、やはり和子さんが好きだったのか。でも俺もいつまで生きていられるか分らない身だ。約束はできないぞ。もし会えたらそう言っておくよ。それじゃ、邪魔するといけないからこれで帰るぞ。気を強く持てよ。貴様にはキリストも和子さんもついているからな」
「世話になったな。これまでの長い付き合いに感謝するよ」

まだ明けきらない東の空に茜雲がたなびいていた。鹿屋基地では出撃する攻撃機の暖気運転で轟音が辺りの空気を震わせていた。搭乗員たちは○五○○に指揮所前に集合し別盃式が行われた。司令から別れの盃を受けて激励の言葉が下された。後は心静かに攻撃機に乗り込むだけだ。村上が他の搭乗員とともに攻撃機に乗り組む寸前、葉山は駆けつけて声をかけた。
「村上、俺がついているからな。キリストも一緒だぞ」
「おう、ありがとう。じゃあな、互いに頑張ろうぜ」
村上は葉山に笑顔を送ると整備兵の手を借りて機に乗り込んだ。葉山も急いで愛機のゼロ戦に乗り込み操縦桿を動かして機の調子を確認した。滑走路に並んだ特攻機と直掩機は轟音を上げながら次々と飛び立っていった。滑走路わきで待機している仲間の搭乗員や整備兵たちが帽子を振って最後の別れを告げた。上空で編隊を組んだ二十機ほどの特攻機と直掩機は朝の太陽に赤く照らされた雲間を縫って飛び去った。相次ぐ特攻機の来襲で敵機動部隊は戦闘機を奄美大島上空付近に配置して襲いかかろうと準備していた。葉山は終始上空に目を凝らして敵の動きを監視していたが、雲間にきらりと光るものを見つけて翼をバンクし仲間に敵機の存在を知らせた。直掩機は特攻機を守るために直ちに展開した。敵は上空から急降下して一気に襲ってくる気だ。葉山は小隊長として自分に着いてくる二番機と三番機を伴い急上昇した。できるだけ敵に近づいて戦をいどみ敵機が特攻機に近づけないようにする狙いだ。上空の敵機が突如一列に並んで旋回しながら急降下を始めた。葉山は列機を連れて上昇を続け敵機と同じ高さになったところで反転して下降に転じた。急降下する敵機を上から追いかけるように機首を下げ距離を見計らって七ミリ機銃と二十ミリ機関砲を撃った。一列に並んだ敵機十数機のうち後列付近にいた二機が銃弾を浴びて火を吹き、きりきり舞いをしながら落ちていった。葉山は全速力で敵機の後を追って急降下し間合いを見ては銃撃を加えた。敵も後ろから追う葉山の部隊を気にしているので下を飛ぶ特攻機にはなかなか照準を合わせることができない。やみくもに機銃を発射しているがなかなか当たらない。下の方では敵味方が乱れて空中戦を展開していた。葉山は列機とともに急いで村上が乗った特攻機に近づき付近の敵機を追い払った。その時、上空から急降下してきたグラマンが放った銃弾が後ろを飛んでいた二番機に命中し火を吹いて落下していった。葉山は咄嗟にペダルを思い切り踏み込んで機を横滑りさせ銃弾を回避した。しかし相次ぐ敵機の攻撃で葉山の機も銃弾を浴びてビシビシという音が機をゆすらせた。幸い燃料タンクを外したせいか機は火を吹くことはなかった。葉山は一瞬宙返りをして自分の機を襲ってきた敵機をやり過ごし、後ろに回って機銃を発射した。敵機は一瞬にして火だるまになって落下し、搭乗員が風防を開けて機外に脱出するのが見えた。白く広がる落下傘をしり目に葉山は再び高度を上げて次の機会をうかがった。機の高度を上げては急降下を繰り返すこの戦法は先輩のベテラン搭乗員から教わった九死に一生の必殺戦法である。葉山はこの戦法で幾度となく命を救われてきた。剣道の学生選手権に出場したときのあの必殺の一撃が葉山の腕を磨き上げたのだ。相手が面を狙って打ち込んできたあの一瞬に無心に放った小手の一撃が見事に相手を仕留めたのだ。この一瞬の動作が勝敗を決する。敵味方が乱舞して空中戦を展開する中、葉山は村上の機を見失ってしまった。
「おい、うまく突っ込んでくれよ」
祈るような気持ちで機を上空に反転させた次の瞬間、上から突っ込んで来たグラマンの弾丸が葉山の機のエンジン付近に命中し火を吹き始めた。葉山は咄嗟に操縦桿を前に倒して急降下態勢に入った。幸い操縦桿はまだ機能しているようだ。機は葉山の意思どおりに動いてくれた。エンジンは雑音とともにくすぶり始め遂にプロペラが停止してしまった。葉山は厳しい訓練時代を思い出しながら機をなんとか滑空させようと試みた。みるみる島の海岸線が視野に近づいてきた。何とか海に着水できないかと考え葉山は最後の力を振り絞った。島の海岸線に並行して葉山は機を着水させようと海面すれすれまで滑空し一瞬機体を上に向けた。三点着陸のいつもの癖がそうさせたのだ。その途端、機はバランスを崩して海面に突っ込み葉山は操縦計器に体を強くぶつけて気を失った。冷たい海水が機内に入って葉山の体を包み込んだとき葉山は正気を取り戻して機体のベルトを取り外した。風防ガラスを開けて痛む体に歯をくいしばりながら機外に脱出すると機は静かに暗い海の底に沈んでいった。葉山は再び気を失って波間を漂っていた。どれほどの時間が経っただろうか、葉山が目を覚ますと見慣れぬ部屋に寝かされていた。すすけた天井板が目に止り、人の話し声が耳に入った。
「あら、ようやく気がつかれたようね」
若い女性の声だった。
「ここは・・・どこでしょうか」
葉山は痛む胸を押さえながらやっとのことで声を出した。
「心配しなくていいんですよ。ここは奄美の民家です。墜落して海に漂っていたのを父が漁船に引き上げて家まで担いできたんです。島の上空で空中戦が始まり火を吹いた飛行機が落ちていくのを見て父が仲間の漁師と一緒に救助に向かったんです。先ほど島のお医者さんが応急手当てをしてくれたから大丈夫ですよ」
「う~ん。痛い。どんな具合ですか」
「頭を打って頭部に切り傷がある他、肋骨にひびが入っているらしいんです。足も相当ひどく怪我をしているみたいね。痛みが取れるまでしばらくじっと寝かしておくようにお医者さんから指示されましたよ。心配しないでゆっくりと養生してくださいな」
「あ~あ、それは・・・どうもご心配をおかけしまして。・・・・そう、そう基地に連絡を入れないと・・・戦死扱いになってしまう。連絡を取っていただけませんか」
「まあ、そんなことを今心配しなくてもいいんじゃありません。体が動くようになってから連絡を入れたらいかがですか」
「はあ、・・・そうしましょう」
葉山の言葉は途切れて再び深い眠りに陥った。
一方、大型爆弾を抱えた村上の艦上攻撃機は次々と迫りくる敵機の銃弾をかいくぐりながら逃げ回っていたが、遂に弾丸が燃料タンクを貫き機は一瞬のうちに猛火に包まれた。操縦系統も麻痺して機はみるみる高度を失い海に向かって落ちていった。
「主よ。御許にまいります。これまでの人生に感謝いたします。残された母親を守ってあげてください。それからお願いです。葉山を助けてあげてください。・・・・天におられる我らの父よ、み名が聖とされますように、み国がきますように・・・」
次の瞬間、機は轟音を上げて海に突っ込み水柱を高く上げながら機体は木端微塵に砕け散った。村上は激痛を感じる間もなく一瞬のうちに意識を失った。暗いトンネルをものすごい速さで天に向かって押し上げられるような感じを覚えた。再び意識がはっきりすると村上は大きな光に包みこまれ体が軽くなるのを感じた。疲労や不安がすっかり消え去り安らかな気持ちで空中を漂っているようだった。村上を包んだ大きな光はゆっくりと天に向かって上っていった。

一週間ほど床に伏した後、葉山はようやく起き上がることができ鹿屋基地に電報を打って生存を知らせた。ほどなく基地から電報が届き○月○日、奄美大島沖合に潜水艦を派遣するから帰還準備をするようにと指示された。残された数日間、葉山は体を慣らすために松葉杖をつきながら付近をゆっくりと歩き回った。内地と違って戦時中とは思えない静けさが葉山にひとときの安らぎを与えた。海辺を散策しながら吸う空気のなんと美味いことか。葉山は容体が日増しに良くなるのを感じた。爆音が聞こえて上空に目をやると遠く彼方に飛行機が十数機列をなして南方に向かうのが見えた。
「奴らも突っ込むのか」
葉山はそう思いながら空に向かって手を合わせた。
指定された○月○日になると葉山を助けてくれた民家の親爺が漁船を出して目的地まで送ってくれた。夕暮れ時、敵の航空機が現れない時間帯をぬって潜水艦が葉山を迎えに来た。
「いろいろとお世話になり感謝いたします」
「いや、いや、兵隊さんこそお国のために命を捧げられて本当にご苦労さまです。ご武運をお祈りしています。元気でお過ごしください」
親爺はそういって艦に移るのに手を貸してくれた。
狭い艦内には同僚の搭乗員で負傷した者が何人か救助されていた。撃ち落とされて島のどこかに生存していた搭乗員を潜水艦が密かに回収に来たのだ。
鹿屋基地に戻った葉山に転勤命令が下った。体がまだ本調子でなかったので出水航空基地で教官を務めるように指示された。いずれ特攻に出るのが分かっているので早く決着したいと願ったがこの体ではどうにもならない。松葉づえをつきながら教壇に立って新しく配属された予備学生に操縦の仕方を座学で教えることになった。ついこの間までの自分の姿を見ているようで葉山には辛い日々だった。今さら飛行訓練などして何になるんだ。日本の敗戦は明らかじゃないか。旧式の飛行機に促成栽培した新米搭乗員を乗せて戦に勝てるはずがなかろう。葉山は教壇に立ちながら予備学生を何とか救う方法はないものかと考えていた。時間をかけてしっかりとした飛行技術を身に着けさせることが最良の方法だろうと考えたりもした。そんな日々が続いたある日、葉山たちが仰天するような大事件が出水航空基地に伝えられた。四月の二十一日、村上が訓練を受けた大分の宇佐海軍航空隊がB29の爆撃を受けて壊滅したという情報が伝わってきたのだ。宇佐基地の兵舎や指揮棟は勿論、訓練中の搭乗員や教官ら三百人以上が爆弾で木端微塵になり、基地内は首や手足を吹き飛ばされた死体があちこちに散乱する有様となった。近くの駅館川の川辺では遺体を焼く煙が辺り一面を覆い異様な光景を呈していた。当然のことながら基地に置いてあった飛行機は全て破壊され基地は完全に壊滅してしまった。
「村上は特攻に出なくても遅かれ早かれ死ぬ運命にあったのだな」
葉山は村上の面影を追いながらそう思わずにはいられなかった。訓練用の航空機が全て失われてしまったため特攻で命を落とす予備学生が減るのではないかと葉山は一抹の期待を抱いた。ともかく彼らのために時間を稼いでやることが自分の仕事だと葉山は肝に銘じた。葉山の体調も次第に良くなり飛行機に乗れるほど回復すると予備学生の同乗訓練に教官として手を貸すことになった。飛行訓練を積んで何とか飛べるようにしても到底戦地でまともに戦える技量ではない。こんな状態で戦地に出せばあっという間にグラマンの餌食になってしまう。葉山は懇切丁寧に予備学生の操縦訓練に当った。八月の初旬になって葉山に特別攻撃隊の指揮をとるよう命令が下った。いずれは来ると覚悟していたが今さら自分が突っ込んでどうなるというんだ。全く理解できない命令だった。もはや戦で意地を見せることだけが軍の使命になっていた。死ななくてもいい若ものを次々に戦地に送って軍部のお偉方は戦争を遂行している形だけ作れば良いのだ。敗戦にでもなったら自分たちの軍人としての職業も人生も奪われてしまう。自分の生活を守るためには若者を戦地に送り続けねばならないのだ。葉山は命令を受けて鹿屋基地に移った。出撃準備の最中、八月六日に広島に新型爆弾が落とされて壊滅的な被害を受けたという情報がもたらされた。続いて八月九日には長崎にも同じような爆弾が落とされて何万という死者が出たニュースが伝わった。この間も特攻は間断無く行われ若者たちが次々と命を散らしていった。そして八月十四日、遂に葉山に特攻の命が下った。翌早朝、出発を命じられたのだ。葉山はどうせ行かねばならないのなら早く事を終えて楽になりたいと願った。戦況の悪化と物資の欠乏で特攻兵士のための慰安会はもう催されなかった。葉山は女を知らずにあの世に旅立つことになんら未練はなかった。村上が待っているところへ早く行ってやりたかったのだ。村上が言う復活というものに自分も遭遇できるかもしれない。その時に人生をやり直せばいいのだ。葉山は自分をそう納得させて旅立ちの準備をした。翌早暁、葉山たち特別攻撃隊の搭乗員が司令室前に集まると飛行隊長から思いがけない指示が下された。
「本日の特別攻撃は延期する。今日の正午に重大な放送が行われるそうだ。それを聴いてから再度攻撃の予定を告げる。それまで待機して待て」
飛行場の周りを散策したり自分が乗る飛行機を点検したりして葉山は時間をつぶした。正午を迎えると司令室の建物が突然騒がしくなり大声で怒鳴り合う声が聞こえた。何事かと駆けつけると司令が建物の前に青ざめた顔で出てきた。飛行隊長の指示で皆は整列した。
「本日、正午に玉音放送があり天皇陛下御みずから戦争を終結するよう命令が下った。我々、前線の部隊は今後どうすべきか本部の指示を待たねばならない。それまで一切の戦闘活動を停止する。各員、静かに待機して次の命令を待つように。以上だ」
攻撃に備えて待機していた搭乗員たちは滑走路わきの草むらに座りこんで煙草をふかし始めた。このまま戦争が終わって自分たちは助かるかもしれない。皆、口には出さないが考えていることは同じだった。黙りこくったままふかす煙草の煙が静かに漂っていた。葉山はあらためて特攻に選ばれた搭乗員の顔を眺めまわした。飛行服に身を固めた搭乗員たちはまだ童顔が残る若者ばかりだ。このままなんとか生還させてやりたかった。葉山は心の中で祈った。不気味な静けさのうちに一日が過ぎ、夕刻近くになって基地の兵が全員集められた。
「今夕、本部から命令があり各隊員の原隊復帰と武装解除が指示された。諸君らは取り乱すことなく最後まで整然と行動して一糸乱れず指示に従って欲しい」
基地司令から訓示があって隊員たちは基地の後片付けに入った。米軍上陸に備えて機密文書は全て焼却し、残った航空機も油を注いで全て焼き尽くすことになった。張りつめた気持ちから解放されて気落ちした重々しい空気が基地内を覆った。

その頃、東京は一面の焼け野原と化していた。昭和二十年に入ってから米軍機による東京空襲は猛威を振い、三月十日の未明にはB29爆撃機三百機余りが低空で侵入し下町を中心に焼夷弾の絨毯爆撃を行った。この日は冬型の気圧配置で強い季節風が吹いたため爆撃による火災は旋風を伴って荒れ狂い、市街地の三分の一を焼きつくして十万人の死者を出した。本郷界隈の路地裏は見渡す限り焼け跡が広がり、各所に廃材を利用したにわか作りのバラックが立ち並んで悪臭を放っていた。
よれよれの国民服を着た葉山は以前に村上が下宿をしていたとおぼしきあたりを探しあて付近のバラックを一軒一軒訪ね歩いた。
「すみません。少々お尋ねしますが、つい最近までこの当りに本郷荘という下宿屋があったのですがご存じないでしょうか」
バラックの前で火を起こして鍋に湯を沸かしていた老婆が立ち上がって応じてくれた。
「三月十日の大空襲でね、このあたりは火の海になってしまったのよ。あちらの通りにあった本郷荘も猛火に包まれて焼けてしまったの。ちょうどあちらの方角だけどね」
老婆はそう言って東の方を指さした。葉山は老婆に教わった方角へ向けてバラックが立ち並ぶ通りを五分ほど歩いてみた。崩れ落ちそうなバラックの周りではボロをまとった人々が木切れを運んだり汚れ物を洗ったりして懸命に生きのびる姿が見られた。
「葉山さん、葉山さんじゃありませんか」
突然、若い女性に声をかけられて葉山は振り返った。数歩離れたところでこちらをじっと見つめる一人の女性の姿が目に映った。ボロボロのもんぺを穿いて髪を振り乱したその女性をしばし見つめていた葉山はハットして息を飲んだ。
「和子さんじゃないですか。本郷荘にいた和子さんでしょ」
葉山はかけ寄って手を握った。
「はい、和子です。ご無事でお戻りになられたんですね。村上さんもご無事かしら」
「いや、彼は特攻に出て戦死しました。私が彼の機を掩護して沖縄に向かう途中、待ち伏せしていた敵機に猛攻を加えられ撃墜されたんです。私も撃墜されましたが幸い不時着して一命をとりとめたんですよ。そうそう、村上から伝言を預かったんだけど、和子さんに密かに好意をもっていたと伝えて欲しいと頼まれました」
「そうだったんですか・・・・・・」
和子は遠くの空に目をやりしばらく黙りこくってしまった。
「和子さんのご家族は無事でしたか。このあたりはひどくやられたようですが」
「私の両親も妹も三月十日の空襲で焼け死にました。私は学校に所用があり
寄宿舎に泊めてもらったので命拾いしたんです」
和子は目に涙をいっぱい溜めて空襲の模様を語った。
「それで今はどうしているんですか」
「親戚が九州にいるんですが消息が分からないんです。訪ねて行くお金もないので近所の方に面倒を見てもらって何とか命をつないでいる状態です。こんな姿じゃ私が分らなかったでしょ」
「そりゃ大変難儀されましたね。こんなところでは生きていくのも大変でしょ。どうですか、僕の実家に来ませんか。神奈川県の秦野です。何もない田舎ですが衣食くらい賄えますから」
「葉山さんにそんなご心配をおかけして申し訳ないですわ」
「遠慮なんかしないでください。亡くなった村上もそうして欲しいと願っていますよ。さあ、行きましょう」
「本当によろしいんですか。それじゃお世話になっている方にお話ししてお別れをしてきます。ちょっと待っててくださいな」
和子はきびすを返すとバラックの中に飛び込んでいった。しばらくすると初老の女性と一緒に和子が戻ってきた。
「葉山さんですか。この子は身寄りが亡くなってしまって気の毒なんですよ。昔のわずかなご縁でこんな親切をいただけるなんて和子さんも幸せな方ですね。くれぐれもよろしくお願いしますね」
葉山は着の身着のままの和子を連れて焼け跡を東京駅まで歩き続けた。崩れかかった駅舎に入って最近ようやく復旧したばかりの山手線に無理やり乗り込んだ。押し合いへし合いしながら通路まで人があふれかえった電車内で和子の体を抱きかかえるようにして新宿駅まで行き、小田急線に乗り換えて夕暮れ時にようやく秦野の実家にたどりついた。
「母さん、戻ったよ。今日はお客さんを連れてきたよ。以前に本郷の下宿でお世話になったお嬢さんが焼け出されて困っているんだ。家族が皆空襲で亡くなって身寄りがないのでしばらく世話をしてあげたいんだけど」
「これは、これは。ようこそお出でくださいましたね。勇一がいろいろお世話になったようで。家が焼かれて身寄りも無いんじゃさぞお困りでしょう。自分の家だと思ってゆっくりと羽をのばしてくださいな」
人の好さそうな母親の春子は和子を家にあげて茶の間に通した。
「あら、お客さんなのね。お兄ちゃんのお友達かしら。一人分追加しなくちゃ」
台所から顔を出した妹の洋子は明るい笑顔で挨拶すると台所に戻って夕食の準備を続けた。父親の繁は畑仕事を終えて物置で道具の片づけをしていた。腰の手拭いで汗をふきふき茶の間に入ると野良仕事で深くきざまれた顔のしわをくずしながら和子に声をかけた。
「せがれがお世話になったそうですな。どうぞ、どうぞ、ごゆっくりなされてください。そうそう、風呂がわいているようだから食事前に入ってもらったらどうだね。私は後にするから」
「ああ、それがいいね。東京の焼け跡じゃ風呂なんか入れなかったからね。おい、洋子。お前の下着や服を和子さんに貸してあげてくれないか」
「は~い。今取ってくるわ」
勇一に言われて洋子は自室の押し入れを開けて和子に着せる下着や服をそろえた。
「こんなにしていただいて本当にありがとうございます。今まで人間らしい暮らしをしていなかったので救われる思いです」
和子は涙ぐみながら洋子に案内されて湯殿に向かった。
「あら、すごいべっぴんさんだこと」
風呂から出て着替えを済ませた和子を見て母親の春子は思わず声を上げた。
「そうだろう。戦死した村上が熱をあげていたくらいだからな。あいつは和子さんのために何としても生きのびるんだなんて言ってたけど可愛そうなことをしたな。こればかりは替わってやれないからな」
和子を囲んでこの日の食卓はいつになく華やいだ。和子は洋子の部屋で一緒に寝起きしながら家事を手伝った。葉山は父親を助けて畑仕事に精を出した。庭先に飼われている鶏と山羊の世話は和子の日課になった。
「お兄ちゃん。あの人をお嫁さんにしたら。そうすれば私のお姉さんになってもらえるでしょ」
「ばかな。村上が思っていた人をそんな簡単に女房になんかできるか」
「でも村上さんはもう戻ってこないのよ。あの人を幸せにしてあげたら村上さんも喜んでくれるんじゃないの」
「まあ、そういう考え方もあるな。でも今はまだそういう時期じゃないからな」
静かな田園生活の中で、和子は愛する家族と村上を失った衝撃から徐々に立ち直っていった。和子が時折作る笑顔を見ながら葉山は村上の最期を思い出した。
「村上、どうだ。そっちの世界は。お前の信じるキリストの光に照らされて幸福に過ごしているか。和子さんのことなんだが、いつまでも居候させるわけにいかないから俺の女房にしようと思うんだ。貴様は許してくれるか」
畑仕事に汗を流しながら葉山は一人つぶやいた。鍬をふるう葉山の体を日中の太陽がギラギラと照りつけていた。熱さで一瞬の目まいを感じたその時、葉山は幻覚を見た。搭乗員姿の村上が目の前ににっこりと立ちはだかり葉山を見つめていた。
「おい、俺はここにいるぞ。和子さんを貴様の嫁にしてやれよ。俺はそのことが気がかりなんだ。貴様と和子さんが一緒になってくれたら俺は嬉しいよ。貴様は生還したんだから和子さんの面倒をみてやれよ」
我に返ると黒々と掘り起こされた畑が太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。近くの林では蝉の鳴き声がやかましく響いていた。
「和子さん、今日、横浜まで行ってみようと思うんだけど付き合ってもらえないかな」
「あら、めずらしいこと。何か特別な用でもあるのですか」
「うん、一緒に来てもらえば分るよ」
葉山は要件を言わずに和子を連れ出して横浜に向かった。電車は相変わらずリュックを背負った買い出しの人々でごった返していた。横浜駅で電車を下りると二人は見渡す限りの焼け跡を山手の丘に向かって歩き始めた。桜木町周辺にはバラックに交じって米軍のかまぼこ兵舎が整然と立ち並びMPのジープが走っていた。
「村上はね。キリスト教徒だから人を殺すことも自から死ぬこともできなかったらしいんだ。あいつは大型爆弾を抱えたまま敵の戦闘機に追い回されていたから到底逃げきれなかったと思うんだ。こんなことを言うと非国民と言われるかもしれないが、村上は敵機に撃ち落とされて良かったと思う。もし予定通り敵艦に突っ込んでいたらキリスト教で禁じられている人殺しと自殺を同時に行うことになるからね。敵に撃たれて死ぬのなら間違いなく天国に行けるだろうからね」
汗をふきふき山手の丘に上がると尖塔が聳えた青い屋根の大きな教会が二人の目に映った。葉山は和子の手を引きながら教会入口の門に立ち青空に聳える尖塔を仰ぎ見た。
「和子さん、実は今日ここに来たのは戦死した村上の冥福を二人で祈ってやろうと思ったんだ。村上はキリスト教を信じていたから教会で祈るのが良いと思うんだよ」
「あら、そうでしたの。それは良いお考えだこと」
「それからね。もう一つ大事な話があるんだ」
「大事な話って何」
「それは後でね」
二人が門を入ると聖堂横の古びた司祭館から外国人神父が出てきて笑顔で近づいてきた。
「キョウカイハハジメテデスカ」
「ええ、初めてまいりました。友達がキリスト教徒だったので」
「ソウデスカ。オトモダチモイッショデスカ」
「彼は戦争で亡くなりました」
「ソウデスカ。オキノドクデシタネ。ドチラデナクナッタノデスカ」
「彼は特攻隊員でした。奄美大島の上空で飛行機が撃墜され亡くなりました。今日は彼のために教会で祈ってあげようとやってまいりました」
「オトモダチノオナマエハナントイイマスカ」
「村上功平と申します」
「ソウデスカ。ワタクシハアメリカカラコノキョウカイニキマシタガ、ニホントアメリカガセンソウヲシタノハホントウニザンネンナコトデスネ。ワタクシモイッショニオイノリイタシマショウ。ドウゾ、オミドウニオハイリクダサイ」
神父はそう言って祭壇に蝋燭をともしひざまずいた。葉山は和子とともに聖堂の長椅子に腰かけて静かに頭を下げた。
「テンニマシマスワレラノチチヨ。センソウデナクナッタムラカミコウヘイサンヲシュクフクシテクダサイ。ワカクシテ、ミモトニメサレタムラカミコウヘイサンガシュノミモトデ、トワニイコウコトガデキマスヨウニ。テンニマシマスワレラノチチヨ、ミナガトウトマレンコトヲ、ミクニガキタランコトヲ・・・・」
慣れない日本語で祈る神父の声だけが静かに聖堂内に響いていた。
「村上、安らかに眠ってくれ。和子さんをもらうぞ」
葉山は心の中でそうつぶやきながらしばらく瞑目した。
アメリカ人の神父が村上の冥福を祈っているのが葉山には不思議な光景であった。ついこの間まで敵として戦っていたアメリカ人ではないか。互いに憎しみ合い英知の限りを尽くして殺し合いをした間柄である。しかし今、この静かな聖堂にひざまづいて村上のために祈りを捧げてくれるアメリカ人神父の姿を見ていると葉山の心は複雑だった。かっての敵と味方が一人の人間の死を悼み一緒に祈っているのである。気持ちが通じれば敵も味方もない。なんというつまらない戦で多くの人が命を落としたことか。瞑目しながら残虐な戦闘場面が次々と葉山の脳裏を過った。目頭が熱くなり冷たいものが葉山の頬を伝った。
「村上よ。静かに眠ってくれ」
しばしの祈りの後、神父に見送られて二人は聖堂の階段を下りた。
「葉山さん、さっき私に言いかけたことがあったわよね。大事な話って何なの」
「実は先日、夢の中で村上と話し合ったんだけど・・・和子さん、僕のお嫁さんになってくれないかな。これは生き残った者どうしの運命だと思うんだ。今日はそれを村上に報告したくてね」
「・・・・私なんかでよろしいんですか」
葉山は黙ったまま和子の手をぎゅっと握りしめた。
さんさんと降り注ぐ昼間の太陽が二人を祝福するように明るく照らしていた。
教会の尖塔は日の光を浴びていつまでもまぶしく輝いていた。
                                  完

大空に散った十字架

大空に散った十字架

太平洋戦争最中の昭和十八年、軍靴の音が葉山と村上が在籍する大学にも響きわたり、二人はおちおち机に向かっていられなくなった。村上が滞在する下宿の娘の和子に葉山は強い興味を示す。二人は徴兵されて兵学校に入るが、キリスト教徒の村上は西洋の邪教を信じていることを理由に上官の激しい体罰に会う。やがて二人は戦闘機搭乗員として巣立つが村上は特攻隊に無理やり志願され沖縄に向かう。卓越した操縦技能を持つ葉山は支援機の搭乗員として村上たちの特攻機を掩護するが、二人とも米軍機に撃墜され村上は戦死、葉山はかろうじて助かった。8月15日の終戦の朝、今度は特攻機の指揮官として攻撃命令を待つが、天皇の玉音放送で戦争は終結する。戦後、東京の焼け跡で和子に再会した葉山は実家に連れ戻り世話をしていたが、村上の戦死を弔うため訪れた横浜の教会で和子にプロポーズする。

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更新日
登録日
2016-07-19

CC BY-NC-ND
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