走れ俊介

「ちくしょう、なんでこんなに道が悪いんだ」
砂利道で倒れたオートバイを引き起こしながら俊介は吠えた。芸備日報の記者をしている俊介は、がっちりとした体格にスポーツ刈りがよく似合う。
関西の大学を卒業後、俊介は岡山に本社を置く芸備日報に職を得て尾道通信部に配属された。
地場産業の動きや農産品の出荷状況、地元のスポーツ団体などの取材に加え市内の警察を回って事件を追うのが日課だった。記者生活も三年目を迎え、ようやくそれらしい雰囲気が身についてきた。駆け出しの頃は無理に記者らしく振舞っていたが今では自然体で話を聞くことができるようになった。不自然に記者を演じると相手は警戒して本音を語ってくれないのだ。
青地に芸備日報の文字が白く浮かび上がる社旗をはためかせながら俊介はメグロ製の古い大型オートバイを加速させた。今日はフェリーに乗って三日ぶりに島に渡ったので取材先を一気に回ってしまおうと考えていた。通信部では尾道の他、瀬戸内海の主だった島々をわずか二人の記者でカバーしているのでこまめに走れるオートバイは欠かせない。
「今日は」
島にある小さな駐在所を訪ねると俊介はオートバイを停めて声をかけた。
「やあ、いらっしゃい」
駐在所に勤務する年配の巡査が愛想良く俊介を迎えた。島では大きな事件がめったに起きないので巡査はのんびりとしていた。
「何か変わったことはありませんか」
出されたお茶をすすりながら俊介は会話のきっかけをつかもうと切り出した。
「そうだね、わしらのところでは特に変わったことはないがの、この先の家で赤ちゃんが死んだことぐらいかな。先ほど岡島医院から連絡があって様子を見に行ったら歩行器が倒れて火鉢に頭をぶつけたそうだ」
「え、歩行器ってそんなに危険なんですか。欠陥商品だったら大変じゃないですか」
「そうだの、そういう危険があるなら本署の報告書に書いておこうかの」
巡査は気乗りしない様子で早々に話題を変えた。面倒ごとには関わりたくないという表情がありありとうかがえた。しばらく世間話をして俊介は駐在所を出た。現場を見ておこうとオートバイを走らせると五分ほどで着いた。鬱蒼と繁った木々の間の門をくぐって玄関の呼鈴を押すと若い女が引き戸を開けて出てきた。
「芸備日報記者の日比野と申します。赤ちゃんが亡くなられたそうですね。お気の毒でした。お話を聞かせてもらえませんか。」
色白の痩せた女は目を伏せがちに疲れた表情でぽつりぽつりと事故の様子を語り始めた。誠実そうな人柄が顔ににじみ出て痛々しげに語る話の内容に疑いの余地はなかった。
「お気の毒でしたね。ご冥福をお祈りいたします」
これはやはり欠陥商品の線で攻めるしかないか。俊介はそう考えながら玄関を出た。その時、家の主人が門から玄関に向かって歩いてきた。新聞社の旗が着いたオートバイを見て一目で記者と分かったのだろう。目があった瞬間、視線を反らして急ぎ足で玄関に入ってしまった。俊介は男のぎごちない様子に何か引っ掛かりを感じながらオートバイにまたがった。奥さんは嘘をついていやしまいな。そんな思いが俊介の脳裏をよぎった。
翌日、俊介は尾道警察署に出向いた。一階の大部屋は交通課と防犯課の机が並び、奥の署長室前の机で次長の渡辺警部が青々と剃りあげた頬をさすりながら新聞に目を通していた。
「おはようございます」
「やあ、おはよう。今日はずいぶんと早いんだね」
渡辺は署の広報担当として新聞記者の応対をしていた。
「今日は何かニュースが入っていますか」
「そうそう、島の駐在所から赤ん坊が死んだという報告が来ているね。歩行器が倒れて火鉢に頭をぶつけたようだ」
渡辺はいつもの記者発表の要領で事件を説明しながら手元の報告書を見せてくれた。俊介は書類を一読しながら次長に昨日の出来事を語った。
「実は昨日、事故があった家を訪ねて奥さんに話を聞いてみたんですよ。奥さんは詳しく事故の話をしてくれたので納得はしたのですが・・・。帰り際に外出から戻った旦那に玄関先でバッタリ出会ったんですよ。急に目をそらして早足に玄関に入っていったので気になってしょうがないんです」
俊介の報告を聞いてそれまでにこやかに話していた次長の目が鋭く光った。
「次長さん、この件はもう一度調べた方がいいんじゃないですか。簡単に事故として処理するには何かひっかかりを感じるんですよ。現場で見た歩行器は足がしっかりして簡単に倒れるとは思えないんです。仮に歩行器に問題があるとすれば欠陥商品として公にする必要がありますからね」
「ふ~む、あんたの姿を見た旦那が目をそむけただけで事件にするわけにはいかないよ。誰だって新聞記者が家にくればギクリとするからね。まあ、いずれにせよもう一度当たってみるとするかのう」
次長の渡辺はそう言って席を立ち署長室に入っていった。
二日後の夜遅く俊介の下宿に電話がかかってきた。
「日比野さん、警察から電話ですよ」
下宿屋の娘の万里子が電話を取り次いでくれた。万里子は大きな瞳を持った愛くるしい子で目を輝かせながら俊介の部屋に声をかけた。
「ありがとう、こんな遅くに何の用だろう」
俊介は部屋の障子を開けて薄暗い廊下を茶の間まで出向いた。家の者はまだ起きてくつろいでいた。
「おじゃまします」
俊介はそう言って茶の間の受話器を耳にあてた。
「もしもし、日比野ですが」
「尾道署の渡辺だけど、日比野さん、あんたの勘が当たったようじゃな。あの奥さんは旦那が浮気をした腹いせに旦那の目の前で赤ん坊を畳に投げつけたようだ。鑑識に行かせたところ火鉢に頭をぶつけたくらいではあんな大きな頭蓋骨陥没は起きないと言っとるのでな。逮捕状を用意して明日の午前中に殺人容疑で逮捕する予定ですわ。あんただけには知らせておきたかったのでね」
「いや、それはありがとうございます。他社にはまだ黙っていてくださいね。ところで逮捕は署に任意同行して執行するのですか。それとも現地ですか」
俊介は逮捕の瞬間を写真に撮って特ダネにしたいと考えた。
「明日の午前中、刑事を現地に派遣し自宅で逮捕する方針ですわ。現場に来るときはオートバイの旗をたたんで気づかれないようにしてくださらんかの」
次長の渡辺はそう言って電話を切った。地方ではこんな大事件にはめったにお目にかかれないので俊介は興奮して寝付かれなかった。
翌日、早朝のフェリーにオートバイを積んで俊介は島に渡った。朝の太陽が瀬戸内の海をギラギラと照りつけていた。フェリーはエンジン音を轟かせながら島の入江にゆっくりと接岸した。上陸すると俊介は現場から少し離れた道路脇にオートバイを停めて警察が来るのを待った。しばらくすると尾道署の刑事を乗せた車が一台埃を舞い上げながら俊介の横を通り過ぎていった。俊介はオートバイにまたがり猛スピードで追った。
三人の刑事が玄関前で訪問を告げると容疑者とされたこの家の主婦が青白い顔をうつむかせながら玄関に立った。
「殺人容疑で逮捕します」
刑事は逮捕状を示しながら女性を両側から挟むようにして車に乗せた。門柱の陰から様子をうかがっていた俊介は急いでシャッターを切り逮捕の瞬間をカメラに収めた。腕時計で時刻を確かめると急いでオートバイにまたがり地元の造船所に向かった。俊介は夫が造船所に勤務していることを突き止め、会社を訪ねて同僚から夫婦関係などを聞き出したかったのだ。同僚の話によると、妻が子供を産んだあと夫は構ってもらえず出入りのスナックのママと親しい関係になったようだ。
「夫婦喧嘩で愛児を殺害!」
こんな大見出しで一面トップに記事が掲載されるのを楽しみに俊介は急いで通信部に戻った。通信部は尾道駅にほど近い民家を借りていた。機材を運び込み、記者歴七年の先輩記者が住み込みで岡山の本社と連絡を取っていた。俊介は先輩の大垣記者に事件の概要を説明した後、本社に事件を伝える電話を入れた。本社デスクからは一面トップを開けておくので事件の顛末だけでなく夫婦の日頃の生活ぶりも書くよう指示が来た。夫の浮気が原因で妻が激怒し腹いせに愛児を殺してしまった顛末を詳しく書いて欲しいというのだ。殺人事件とはいえ第三者に影響を及ぼしかねない浮気の事実をどこまで書いてよいものか俊介は考えあぐねた。
「大垣さん、本社からは浮気で夫婦関係が壊れてしまったいきさつも詳しく書くよう指示が来てるんですが。そんな事まで書いていいんですかね」
大垣はしばらく考え込んでから口を開いた。
「俺たちは興味本位で記事を書く週刊誌とは違うんだよ。しかし、今回の事件は単なる子殺しではなく浮気による夫婦喧嘩というどこの家でも起こりそうな問題が背景にあるんだな。そこを避けて子殺しの事実だけ書いても事の本質は伝わらないと思うんだ」
「ではやはり浮気の事も書かなきゃいけないんですか」
「そこが問題なんだ。旦那の浮気は事件のきっかけになったのは事実だが、そこまで記事にするのは人権侵害になるんじゃないか。やはり単に夫婦喧嘩がこじれて子殺しに至ったと書くのが限度だろう。本社のデスクには俺のほうから上手く話してやろう」
「分かりました。記事は夫婦喧嘩がこじれて子供が犠牲になったと書きましょう」
俊介はそう言いながら素早く原稿用紙にペンを走らせた。書き終わって時計を見ると午前十一時半を指していた。午後二時の締切にどう間に合わせるかが問題だ。原稿は電話で送ればよいが特ダネ写真はなんとしても本社まで配送する必要がある。列車の時刻表を調べてみたが時間的には間に合わない恐れがある。俊介は地図を取り出して岡山本社までの陸路の距離を調べてみた。車で行けばおよそ二時間で着くことが分かった。俊介はとっさにオートバイで原稿と写真を運ぶ決断をし大垣に相談した。
「そうだな、特ダネ写真があるんだから一面トップに掲載しなきゃもったいないよな。日比野がオートバイで本社に乗り付けるのが一番かもしれないね。本社には締め切りを少し遅らせるよう頼んでおくから事故を起こさないよう気をつけて行ってこいよ」
そう言って大垣は俊介を送り出した。
原稿と写真のフィルムが入った鞄を肩からかけて俊介はオートバイのエンジン音を響かせながら岡山に向かった。鉄工所などが建ち並ぶ海沿いの国道二号線はトラックで渋滞していたがオートバイにまたがった俊介は車の間隙をぬって器用に走り抜けた。好天に恵まれた久しぶりの遠乗りに俊介の心は躍った。芸備日報の社旗をはためかせて走っていると少々のスピード違反も気にならない。俊介はアクセルを一杯に絞って加速し午後一時を少々過ぎた頃、岡山の本社ビルに飛び込んだ。
「おお、日比野か。よく来たな。でかしたぞ」
報道部は地方紙としては稀な特ダネ事件に部屋中が沸いた。
その日の夕刊は一面トップに大きな写真を載せて俊介の記事が紙面を飾った。新聞の中には夫の浮気を書いたものもあったが、日本を代表する新聞やテレビの殆どが浮気の事実を伏せたことに俊介は記者の良心を感じて安堵した。

夕暮れ時、疲れた体を引きずって下宿に戻ると家族が総出で迎えてくれた。
「日比野さんの大手柄ね。素敵だわ」
次女の万里子は瞳を輝かせて俊介を見つめた。
「すみません、まだ夕食を食べていないので何かいただけませんか」
「そんなことだと思って今日はお酒も用意しておきましたよ。茶の間にいらしてくださいな」
下宿の世話をしている母親の聡子は息子が帰ってきたかのように気持よく俊介を招き入れた。俊介が滞在する下宿は古くから伝わる尾道の旧家で主人の政木直太朗が婿養子に入っていた。付近に家作を何軒も持つ裕福な家庭で下宿屋を営むような必要はなかった。しかし銀行勤めの政木が九州に転勤になったため女だけの留守が心配で身元のしっかりとした俊介に部屋を貸したのだ。山肌に沿って家が立ち並ぶ尾道は急な坂道が多く俊介は愛用のメグロ製オートバイで坂を上り下りした。猫が徘徊して路地裏から飛び出すので坂道は特に気をつけねばならない。高台に建つ下宿屋は長い風雪で黒ずんだ板壁に大きな瓦屋根が乗った二階建ての日本家屋だ。狭い庭の生垣越に尾道水道を望むと船の航跡が白い糸を引いて遠くに見えた。俊介には玄関わきの小部屋があてがわれ深夜の帰宅も気遣いをしないで済んだ。二人の娘たちは二階に起居していたが俊介のオートバイの音が聞こえると降りてきてお茶の相手をしてくれた。色白で細面の長女の雅子は地元の短大を卒業して嫁入り修業をしていた。おっとりとした優しい性格が旧家育ちの奥ゆかしさをかもし出していた。次女の万里子は短大の一年生で、まだあどけなさが残る顔はいつも好奇心に満ちていた。初めて身近に接する異性の俊介はいつも好奇の的だった。些細な用を見つけては俊介の部屋を訪れるのが楽しみだった。男兄弟だけの俊介には笑顔でつきまとう万里子が可愛い妹のように感じられた。家族と食事を共にするのは朝食のみで夜は殆ど外食で済ませた。
「日比野さん、時には私達と一緒に外で食事をしてみません。お母さんもいいでしょ」
万里子は甘えるような表情で俊介の返事を促した。
「そうだね、もう少しすると夏休みがもらえるからそうしたら皆さんと外に出ましょうか」
万里子に押し切られて俊介は約束せざるを得なかった。
「万里子、日比野さんは忙しいんだから無理をお願いしちゃだめよ」
母親の聡子は万里子を制しながら俊介の顔をうかがった。
「いいんですよ。僕だって時には一息入れないと体がもたないですからね」
俊介はこれまで女性と深く付き合ったことが無いので積極的な万里子の態度に戸惑いを覚えた。実は入社直後に本社に挨拶に出向いた折、大学の先輩から飲みに誘われたことがあった。
「おい日比野、おもしろいところに連れて行ってやろう」
何軒か飲み歩いた後、先輩記者は俊介を個室風呂へ誘った。受付を通って案内されるままに風呂に行くと水着姿の綺麗な女性が愛想よく招き入れてくれた。湯をかけて背中を流してもらった後、湯船につかってくつろいだひと時を過ごした。
「おい、どうだった」
先輩記者が意味ありげに聞いてきた。
「ええ、結構な湯でしたね。おかげで久しぶりにすっかり疲れが取れました」
「女性が一緒に入ってきただろう」
「ええ、湯をかけて背中を流してもらいました」
「お前、何もしなかったのか。バカヤロウ、せっかくいい女を世話してやったのに」
あまりにもうぶな自分を思い知らされた出来事だった。若い健康な身だから女性を求めてもおかしくないのだが、今の俊介は仕事をこなすのに精いっぱいでとても女のことまで頭が回らなかった。下宿に戻って万里子がまとわりついてきても女として意識することは殆ど無かった。ある夜、下宿に戻って風呂に入ると万里子が引き戸の外から声をかけてきた。
「日比野さん、背中を流してあげましょうか」
「いや、いいよ。万里ちゃんにそんなことさせられないからね」
「遠慮なんかしなくていいのよ」
万里子はそう言って引き戸を開けてスカートをたくし上げながら入ってきた。
「万里ちゃん、ダメだよ。男が裸のところに入ってきたりしちゃ」
「日比野さんなら心配ないわ。お母さんも安心だから日比野さんに部屋を貸したのよ」
どう言っても出て行かない万里子に閉口しながら俊介は万里子の手に背中を委ねた。
「日比野さんて逞しい体をしているのね」
「うん、学生時代に剣道部で厳しい稽古に励んだからね。記者の仕事は激務だから体が資本なんだよ」
俊介は裸を万里子の視線に曝しながら照れ隠しに喋り続けた。ようやく万里子が出ていったので俊介は腰のタオルを外して湯船に深々と身を沈めた。
暑い夏がそろそろ終って俊介は遅い夏休みを取ることができた。部屋で横になっていると母親の聡子がお茶に誘ってくれた。茶の間に入ると聡子と万里子がお茶の支度をしていた。雅子は外出しているようで姿が見えない。
「日比野さんもそろそろ身を固めていい頃じゃないの。うちの雅子なんかどうかしらね。いいカップルだと思うけど」
聡子はお茶を俊介に差し出しながらさりげなく探りを入れた。
「いや、まだまだですよ。仕事がしっかり固まるまで結婚などとても無理ですよ。記者は普通の仕事と違って家庭生活をするのが難しいんです。未熟な身で結婚などしたら仕事も家庭も両方ダメになってしまいますからね」
俊介はどぎまぎしながら返事をするのがやっとだった。
「ああ、よかった。お姉ちゃんに日比野さんを取られないでよかったわ」
万里子はあっけらかんと語り俊介を驚かせた。
「万里ちゃん、何を言っているの。あんたみたいな子供を日比野さんが相手にするわけないでしょ」
「あたしだって女ですからね。お姉ちゃんには負けないわよ」
聡子と万里子のやりとりを聴きながら俊介は思わず吹き出してしまった。
「万里ちゃんはもっといい男性に巡り合えると思うよ」
「そんなの無理よ。学校に行ったって女性ばかりだし日比野さんみたいな素敵な男性に巡り合う機会なんてそうそう無いと思うわ」
「そんなことないよ。世の中は広いんだからね。お父さんが銀行勤めだから素敵な銀行員に巡り合うことだってあるはずだよ」
「日比野さんはそんなこと言って私のことが嫌いなんでしょ」
「いやいや、そんなこと言ってないよ。だけど記者の女房になるのは本当に大変なんだ。夜昼なく旦那の仕事に巻き込まれちゃうからね。万里ちゃんはもっといい仕事の人と結婚した方がいいよ」
「私なら大丈夫よ。毎日、日比野さんの仕事を見ているから覚悟はできているわ」
ここぞとばかり万里子は日頃の思いをぶちまけた。
「万里ちゃん、日比野さんをそんなに困らせるんじゃありませんよ」
聡子は二人の顔をうかがいながら助け舟を出した。
「だってお母さんが日比野さんにお姉ちゃんを薦めたりするから私も落ち着いていられないのよ。あたしだって同じ屋根の下で暮らしているんだから資格はあるはずよ」
いつものことながら万里子の積極的な態度に俊介は思わず苦笑してしまった。
「万里ちゃん、まだまだ互いにしなきゃならないことが一杯あるんだよ。結婚のことなどまだ考える時期ではないと思うよ」
俊介がそういうと万里子は悲しそうな目をして席を立ってしまった。
「あの子はまだまだ子供でしょうがないのね。日比野さんに迷惑をかけないか心配だわ」
聡子はそう言って俊介に詫びた。
「万里ちゃんは異性に目覚める年頃で結婚を夢見ているんですよ。そのうち世間が見えてくれば僕なんかさっさとお払い箱ですよ」
聡子と俊介は笑いながら茶をすすった。

木々が色づき秋の深まりを感じる季節になった。そんなある日、夜明け前の暗がりで誰かが俊介の部屋の障子を開けた。次女の万里子だった。
「ねえ、日比野さん。起きて、起きて。会社から電話よ」
万里子はパジャマ姿のまま俊介の寝込みを襲った。
「何なの。こんな時間に」
俊介は寝ぼけ眼をこすって万里子を見つめた。
「何言っているの。会社から電話よ。早く起きて」
「え~、電話だって」
驚いたように俊介は蒲団から跳ね起きて茶の間に急いだ。
「日比野か。本社から連絡で福山駅構内で列車が火災事故を起こしたらしい。ご苦労だけどひとっ走り様子を見てきてもらえないか。事故の原因は本社の方で岡山鉄道管理局
に取材させるから現場の状況だけ書いて欲しいんだ」
電話をかけてきた大垣は興奮した口調で事故の一報を伝えた。
「分かりました。すぐ行ってみます」
俊介はそう言って受話器を置いた。身支度をしていると万里子が部屋に入ってきた。
「日比野さん、お出かけなの。それじゃ朝ごはんにサンドイッチを持っていくといいわ。今すぐ作ってあげるからちょっと待ってね」
「それはありがたい、助かるよ」
「お嫁さんにしてくれたら毎日お弁当作ってあげるからね」
万里子はそう言ってパジャマ姿で台所に走った。
肩掛け鞄に万里子が作ったサンドイッチとお茶のポットを入れて俊介は玄関を飛び出した。隣近所が寝静まっているのでオートバイを押して俊介はいつもの坂道をブレーキをかけながら降りていった。夜明け前の国道に出ると勢いよくエンジンをかけて福山へ突っ走った。時折、長距離運転のトラックが地面を明るく照らしながら轟音をあげてすれ違っていった。
記者腕章を巻いて福山駅構内に駆けつけると山陽本線の夜行列車が下りホームに止っていた。駅の職員や鉄道公安官が中ほどの車両を取り囲んで調べていた。周りには腕章を着けた記者やカメラマンが大勢群がっていた。前から五両目の客車の床から火が出て燃えあがり車両は殆ど黒焦げに焼けていた。乗客は出火と同時に別の車両に避難したためけが人は出ないで済んだようだ。夜行特急は電気機関車がけん引して走っているのになぜ客車の床下から火が出たか謎であった。俊介は焼けた列車の写真を撮ろうとストロボをつけて客車の外側と内部の写真をカメラに収めた。後続の列車のダイヤが大幅に遅れる様子なので復旧の見通しなどを聞いて駅構内を走り回った。尾道通信部に電話を入れて事故の概況だけ伝えた。取材の合間に万里子が用意したサンドウィッチとお茶を頬張り俊介は急いでオートバイにまたがった。列車が不通になってしまったので写真を本社に送るにはオートバイで行くしかない。俊介はまだ薄暗い国道をエンジン音を響かせながら岡山に向けてとばした。岡山の本社では報道部の泊り記者や呼び出された記者があわただしく電話に飛びついていた。福山駅は岡山鉄道管理局の指揮下にあるので鉄道管理局にも記者が出向いていた。俊介は現場では事故原因が分らないことをデスクに伝え写真の現像を頼んで原稿に着手した。朝刊には間に合わない時間なので急ぐ必要はなかった。原稿を書き終えて現像した写真を皆で見ていると、昔、個室風呂に誘ってくれた先輩記者がやってきた。
「よう、日比野。相変わらず頑張っているようだな。その後、女の方は進んでいるか」
そう言って俊介に声をかけた。
「通信部は二人で広範囲をカバーしているから遊んでいる暇なぞないんですよ」
日比野は先輩の言葉をかわしながら言い訳した。
「そうか、仕事もいいけど人生も学ばないとな。良い原稿はなかなか書けないぞ」
先輩はそう言って俊介が撮った写真に目を凝らした。
列車火災は夕刊紙面のトップを飾り俊介は大仕事を終えた充実感に浸っていた。

春になると千光寺公園や山沿いの桜の名所は一斉に開花して大勢の人出で賑わった。
春のうららかな日差しに照らされて尾道水道がキラキラ輝くのが観光客の目を楽しませた。俊介はカメラを片手に行楽地の様子をネタにしようと歩き回った。観光名所の人出は地方新聞の大事なニュースだからだ。
「日比野さん」
若い女性の声に振り返ると花見客の中で万里子が手を振っていた。
「あの人、誰なの。万理ちゃんも隅におけないわね」
学校の友人と花見に来ていた万里子は仲間の好奇の目に晒された。
「素敵な人ね。ねえ、紹介してよ」
「ダメ、ダメ。日比野さんは芸備日報の記者で私の家に下宿しているのよ」
「へ~え、それじゃもう万理ちゃんといい仲なのね」
「そんなことないわ。日比野さんは筋金入りの堅物で私のことを女だと思っていないみたい」
「あら、一度試してみたら。彼だって男だからいつまで無視できないわよ」
「そうね、一度試してみようかしら」
俊介は若い乙女たちの好奇心を一身に集めていた。
桜の花が散り汗ばむ陽気になった。そんなある日、万里子の父が会社で倒れたという知らせが九州から届いた。勤務中に気分が悪くなり県立病院で検査をしたら心筋梗塞の疑いが出てきたのだ。妻の聡子は長女の雅子を連れて夫が入院している福岡の病院に行く準備を始めた。
「日比野さん、九州から連絡が入って夫が入院したの。心筋梗塞を起こしたらしいのよ。しばらく日比野さんのお世話をしてあげれないけど後をよろしく頼みたいの」
聡子は通信部に電話を入れて夫の病気を俊介に告げた。
「僕のことは心配しないでください。通信部に仮眠部屋があるのでしばらくそこで寝起きしましょう。ご主人のことだけ考えてあげてください」
「そうじゃないの。夫の付き添いに雅子を連れていこうと思うので万里子が一人になってしまうのよ。家に一人だけ置いておくわけにはいかないので日比野さんに留守を頼みたいの。お願いできないかしら」
「そうですか、分かりました。家のことなら心配しないで行ってらしてください」
その日の夕方、聡子は雅子を伴って九州へ旅立った。俊介は大垣と相談してしばらくの間、早めに帰宅することにした。夜は通信部の代わりに下宿で待機すればよいと考えたのだ。
「日比野さん、迷惑をかけてしまうけど許してね。その代り私が夕食の準備をしてあげるから外で食べないでね」
万里子は父親が危篤だというのにウキウキした様子で俊介に電話をかけてきた。俊介はこれまで聡子に頼んでいた洗濯を自分でしようと汚れ物を部屋に溜めておいた。
「日比野さん、今晩、洗濯機を回すから汚れた下着は出しておいて」
夕食の席で万里子は給仕をしながら俊介に催促した。
「自分でするからいいよ」
「遠慮なんかしないで」
万里子は無理やり俊介の汚れ物を奪い取って洗濯機に突っ込んだ。俊介が一風呂浴びて部屋で横になっていると万里子が顔を出した。
「日比野さん、お願いなんだけどお風呂に入っている間、台所にいてくれない。風呂場が離れているので一人じゃ怖いのよ」
「台所にいればいいんだね」
俊介は乞われるままに台所の椅子に座って新聞に目を通した。
「ねえ、日比野さん」
「何だい」
「バスタオルを忘れてしまったの。悪いけど茶の間に洗濯物をたたんであるから持ってきてくれない」
日比野は暗い茶の間の電気をつけて洗濯物を見つけるとバスタオルを持って風呂場の脱衣室の戸を開けた。脱衣かごに無造作に脱ぎ捨ててある万里子の下着にどぎまぎしながら俊介はバスタオルをかごに入れた。
「万理ちゃん、バスタオルはここに置いておくからね」
俊介が脱衣室を出ようとすると風呂の引き戸がいきなり開いて万里子の豊満な裸が目に飛び込んできた。
「そのバスタオル取ってちょうだい」
万里子はそう言って手を差し出した。俊介はあわててバスタオルを掴んで手渡した。
「日比野さん、そんな目で見ちゃいや」
万里子は俊介を非難するように引き戸をピシャリと閉めた。
何言ってんだ。自分から見せておきながら。
俊介は万里子の白い裸が脳裏に焼き付いて気持ちが高ぶった。
夜になって寝支度をしているところに万里子がやってきた。
「日比野さん、隣に布団を敷いてここに寝かせてもらっていいかしら。だだっ広い二階に一人で寝るのは怖いのよ」
「だめ、だめ。夫婦でないのに同じ部屋で寝るなんてだめだよ。そうだな、茶の間で寝ればいいじゃないか。何かあれば僕の部屋に音が聞こえるし電話番もしてもらえるからね」
俊介はそう言って万里子が布団を一階に下ろすのを手伝った。俊介は布団に入ってからもさっき見た万里子の白い裸が目に浮かんでなかなか寝つけなかった。
翌日、仕事が終わって解放されると万里子のことが脳裏に浮かび体の芯がうずいた。
万里子の父は心臓手術を受けたので聡子と雅子は当分帰れそうになかった。こんな気持ちで万里子とあの広い屋敷に住んでいたら過ちを犯してしまうかもしれない。
俊介は下宿に戻るのが不安で万里子に電話を入れた。
「急な取材が入って今夜は遅くなるから戸締りをして先に寝てくれないかな。食事は外で済ませるから」
俊介は通信部にオートバイを置いて夜の街に出た。細い路地が入り組んだ歓楽街の中にある一軒の飲み屋の扉を開けた。店は明るく丸いテーブルが六卓置いてあった。奥のテーブルには女学生風の若い女が三人、ビールを飲みながら会話を楽しんでいた。入口近くのテーブルには二人の会社員風の男がつまみを口に放り込みながらビールを飲んでいた。店内には若者の魂を揺さぶるようなビートルズの曲が流れていた。俊介はビールを一杯注文して時間をつぶした後、店のレジで代金を払いながらマスターに奥のテーブルに座っている女の子の一人を指名した。
実はこの店は出会いパブといって小遣いを稼ぎたい女性と求める男性の出会いを取り持つ飲み屋なのだ。店ではビールの飲み代として仲介料を受け取り警察の目を逃れていた。俊介は以前に記者クラブの仲間からこの店の存在を聞かされていたので立ち寄ってみたのだ。店の外で待っていると指名された女性が出てきて俊介を近くのホテルに案内してくれた。宿泊代金を払って部屋に入ると服を脱ぎ女性も後から風呂に入ってきた。体を洗ってもらいながら俊介の気持ちは次第に高ぶってきた。ベッドに身を横たえるとそれまで封印してきた欲望が一気に爆発し、狂おしいように女性の体をむさぼった。心地よい疲労感に襲われてひとときの眠りに落ちた後、俊介は女性に金を払ってホテルを出た。生まれて初めての経験にうしろめたい思いもあったが爆発しそうな欲望をすっきりとさせ俊介は安らかな気持ちに包まれた。下宿に戻ったのは十二時近かったが万里子は起きて待っていた。
「食事は済ませたのね。すっきりした様子だけどお風呂でも浴びてきたの」
「取材先から汗だくで戻ったので通信部でシャワーを浴びてきたんだ」
俊介は万里子の鋭い観察にギクリとしながらあわてて話を取り繕った。
万里子の父が倒れてから一か月経っても聡子は戻って来なかった。夫の容体がかんばしくないようだった。雅子は家の様子を見に一度戻ったが荷物をまとめて再び九州に出かけていった。

梅雨に入って万里子の父の容体は急変し遂に帰らぬ人となった。長い間の一人暮らしが祟ったようだ。悲しみに暮れる間もなく聡子は気丈に後の始末を済ませて無事に葬儀を終えた。初七日の法要も終わり訪問客も一段落すると家の中はひっそりと静まり返った。もともと父親は家にいなかったはずなのに家庭の雰囲気は重苦しく変わってしまった。財産に恵まれた旧家で暮らし向きの心配は無かった。しかし一家の大黒柱を失った喪失感は大きく、茶の間の会話も以前のようにはずまなくなった。今や家の中の男は俊介一人で二人の娘の思いがひしひしと俊介に伝わってきた。
「日比野、そろそろ下宿を出たほうがいいんじゃないか。このままいたら婿にされてしまうぞ」
大垣記者は俊介の身を案じて下宿を出ることを勧めた。
梅雨が明けて初夏の暑い日差しが戻ってきた。寝苦しい夜が続く中、俊介はけたたましいサイレンの音で目を覚ました。明りをつけて時計を見ると夜中の三時過ぎであった。
「日比野さん、大変よ。火事よ。起きて」
階段を転げるように駆け下りて万里子が俊介の部屋に入ってきた。
「サイレンの音がするので二階から見たら崖の下のほうが真っ赤になってキナ臭いのよ」
「消防のサイレンからみると第三出動がかかったようだな。火事はかなり大きいんじゃないかな」
俊介と万里子はパジャマ姿で庭に出て生垣越しにサイレンの行方を追った。
「こりゃいかん。火元は近いようだ。空気が乾燥しているから火が上がってくるかもし
れないよ」
日頃の火事場の取材に慣れた俊介は大火災になる危険を予感した。
「万里ちゃん、万一、火が移るといけないのでお母さんに大事な物をまとめてすぐ逃げ出せるように伝えてきて。通帳や印鑑、写真それに当面の着替えなどを旅行鞄に詰めて用意しておいたほうがいいよ」
俊介は急いで茶の間に戻ると通信部に電話を入れた。
「大垣さん、火事が発生したんです。火元が下宿の近くなので燃え移る恐れがあるんです。悪いけど取材をお願いできませんか。僕は荷物をまとめて避難の準備をしなければならないので」
「よし、分った。くれぐれも気をつけてな」
大垣は快く取材を引き受けてくれた。俊介は二階に上がって聡子に手荷物をまとめて逃げる準備をするよう告げると庭に出てホースを水道の蛇口に取り付けて放水を始めた。
「日比野さん、何しているの」
「火の粉が飛んでくると危ないので家に水をかけているんだ。万里ちゃんも手伝ってくれないかな」
万里子に長いホースの移動を手伝わせながら俊介は必死で家に水をかけた。火はなかなか収まる気配を見せず崖沿いに上の方に徐々に延焼し始めた。そして遂に隣の家の板壁が火の粉を浴びて燻り始めた。
「万里ちゃん、もう危ないからお母さんに荷物を持って千光寺に避難するよう伝えてきて。僕も後から行くから」
尾道は山沿いに住宅が広がって細い路地が入り組んでいるため消防車はなかなか火元に近づけない。長いホースを引いて消火するのがやっとだった。そのため、これまでにも火が広がって大火になることが珍しくなかった。何本も延びたホースが隣家に放水を始めるとザーという激しい水音が家族を恐怖に陥れた。
「みんな早く逃げて。火が隣まで来てるんだ。急いで」
俊介は聡子たちを追いたてるように家から出すと自分の肩掛け鞄に取材用のカメラやストロボを詰め込んで急いで外に出た。玄関脇に置いたオートバイを離れた場所に移すと火事の現場に戻って写真を撮り始めた。
ホースをたどって道の曲がり角まで来ると取材中の大垣記者に出くわした。
「日比野、家のほうは大丈夫か」
「いや、それが隣家が燻り始めたので家の者を避難させてきたんです。消防が必死で放水しているので何とか食い止められるといいんですが」
火は出火から二時間ほどしてようやく収束した。取材フィルムを大垣記者に預けて下宿に戻ると庭木は貰い火ですっかり焼け焦げていた。庭に面した窓ガラスは割れ板壁の一部も焼けて黒焦げになっていた。
俊介は急いで千光寺に向けて坂道をかけ上った。境内にたどり着くと万里子たちが不安そうに眼下の火事を見守っていた。
「ようやく火は収まりましたよ。でも庭に面した壁が焼け焦げて窓ガラスも放水でかな
り割れてしまったようです。家の中も水が入って相当やられているかもしれませんね」
俊介は家族と一緒に家に戻り被害の状況を見て回った。懐中電灯をつけると二階の部屋も一階の茶の間も水浸しで手がつけられない状態だった。
「大変だけど焼けないでよかったですよ。水は乾けば自然に収まりますから」
俊介は呆然とたたずんでいる聡子を慰めるのに必死だった。
これまでの取材経験から被害は大したことないと思ったのだ。
「主人が亡くなったばかりなのにどうしてこう嫌なことばかり続くのかしら」
聡子は目に涙を浮かべてつぶやいた。一週間ほどして家は元の落ち着きを取り戻した。消防の放水で汚れた家の中を掃除し割れたガラスも入れ替えて何とか日々の生活を取り戻すことができた。しかし黒く焼け焦げた家の壁はまだ手が回らず庭に出ると崖下の火災現場は廃墟のように無惨な姿を曝していた。

夏の盛りを迎えると尾道や瀬戸内の島々では夏祭りが各地で催される。
夏の風物詩として俊介は祭りの取材で各地を走り回った。中でも因島の水軍祭りは島中の人たちが総出で勇壮な村上水軍の出陣を再現し瀬戸内を代表する祭りのひとつに数えられていた。
「日比野さん、私まだ水軍祭りを見たことがないの。取材に行くとき一緒に連れていってくれない。このところ嫌なことばかり続いて気が滅入っているのよ」
「そうだな、夜の火祭りなら人目につかないからいいかな。それじゃ祭りの夕方、フェリーで落ち合うことにしよう」
俊介はそう言って約束した。
火祭りが催される八月の末、因島に向かうフェリー乗り場は祭りを見に行く客で混雑していた。俊介はオートバイをフェリーに乗せて甲板に出ると約束どおり万里子が待っていた。エンジンの轟きが一段と高くなって床が振動し始めると船はゆっくりと桟橋を離れた。瀬戸内海を渡る心地よい涼風が俊介と万里子の頬をかすめて通りすぎていった。甲板の手すりにもたれて二人は夕暮れの島々を見つめていた。この数ヵ月、政木の家では不幸な出来事が続いて家族は傷心の日々を送っていた。静かな瀬戸内の島々をじっと見つめる万里子の気持ちが痛々しいほど俊介に伝わってきた。父親を亡くし火事で被災した万里子を穏やかな瀬戸内の海が優しく慰めてくれた。島に上陸すると陽はすでに沈んで夕闇が辺りを覆っていた。
俊介は社旗をたたんだオートバイに万里子を乗せエンジンをふかした。島の道路は舗装されていない荒れたところがあるので俊介は道を選びながらゆっくりとオートバイを進めた。
祭り会場に着くと浜辺はすでにたくさんの見物人で賑わっていた。
松明を持った大勢の甲冑姿の兵士が入陣して勇壮なほら貝の音が響き渡ると村上水軍の末裔が挨拶に立ち大勢の拍手を浴びた。海からは小早川隊の兵士を乗せた舟が松明に照らされて上陸し和太鼓の競演も加わって祭りは最高潮に達した。地元の長老から祭りの歴史を聞いた後カメラの写真撮影を終えて俊介が戻ってくると万里子は手を振って迎えた。
「すごいお祭りなのね。こんなの初めて見たわ」
万里子は興奮した面持ちで俊介に語りかけた。
「そう言ってもらうと連れてきた甲斐があるよ。でも原稿を仕上げなくちゃならないのでそろそろ戻りたいんだ」
俊介は未練そうに立ち上がった万里子をオートバイの後部に乗せてエンジンをかけた。暗い夜道にエンジン音を響かせながらオートバイを走らせると俊介の背に身を寄せた万里子のぬくもりが体に伝わってきた。
「日比野さん、こうして背中にしがみついているとすごく安心するの。いつまでもこうして私を支えてもらえると嬉しいんだけど」
「うん、そうだね」
風を切る音に話を遮られながら耳元でささやく万里子の声に俊介の心は動いた。海の向こうに点々と灯る人家の明かりが二人の将来を祝福するように輝いていた。

尾道通信部で五年間の勤務を終えて俊介は広島支局へ移動になった。広島は中国地方の中心的大都市である。日本を代表する新聞やテレビが取材競争にしのぎを削っていた。尾道で俊介が世話になった政木家では長女の雅子が地元の信用金庫職員と結婚し、次女の万里子は短大卒業後、俊介の世話で芸備日報の尾道通信部でアルバイトとして働くことになった。万里子は俊介の仕事ぶりをいつも身近に見ていたので電話の応対や原稿の送付などを器用にこなし重宝がられていた。
「日比野、尾道のお姫様から電話だぞ」
夕方になると尾道通信部から毎日のようにかかってくる万里子の電話に広島支局の先輩たちは大いに興味を示した。
「何も無いですよ。尾道の下宿で世話になった娘で尾道通信部でアルバイトをしているんです」
意味ありげな表情で電話を取り次ぐ先輩に俊介は言い訳をした。
「ねえ、俊介さん。今度の日曜日に広島に行ってもいいかしら」
万里子は最近では俊介の名を親しげに呼ぶようになった。
「今度の日曜日は出番なんだ。次の週にしてくれないかな」
俊介は互いに休みが取れる次の週の日曜日に会う約束をした。広島支局は県庁に近い裏通りの古いビルの中にあった。俊介を含めて四人の記者が広島県内をカバーしていた。沼田記者が警察と裁判所、望月記者が県庁と市役所、鈴木記者が国鉄と第六管区海上保安本部を担当し、俊介は記者クラブに属さない遊軍記者として先輩たちの応援に駆り出されていた。広島は世界で初めて原子爆弾が落とされた街である。夏になると平和記念式典に出席する要人が世界各国から集まってきた。広島支局は毎年この時期になると紙面づくりに追われていた。
七月のある日曜日、俊介のアパートに万里子がやってきた。
「あら、こんなに汚れ物をいっぱい積んで洗濯していないの」
俊介の部屋に入るなり万里子は洗濯機を回して汚れ物を洗い始めた。敷きっぱなしの布団を持ち上げると畳表が薄青く変色していた。青かびがはえていたのだ。
「どうしてこんな汚い生活をしているの。尾道の時はもっとちゃんとしていたじゃない」
俊介のだらしない生活ぶりに万里子はいらだちを隠しきれなかった。
「こちらに来てアパート暮らしを始めたら掃除や洗濯をする時間が取れないんだ。シャツなんかいっぱい買って置いといたんだけど洗う暇がなくて洗濯かごの中から拾って二度着ているありさまなんだ」
「まあ嫌だ。もうお嫁さんをもらうっきゃないわね」
「パジャマやシーツを洗濯屋に持ってくと店のおかみが同じことを言うよね」
「ねえ俊介さん、私でよかったら何時でもお嫁に来てあげるのよ」
「そうだね、万理ちゃんなら記者の生活が良く分かっているから適任だね」
「あら、それだけなの。まるでお手伝いさんに来てもらうような口ぶりじゃない」
「そうじゃないんだけどね。先輩たちが嫁さんもらってもお手伝いが来たぐらいの気持ちじゃないとこの仕事は勤まらないぞって言うんだよ。家庭的には悲惨な仕事だからね」
万里子とたわいのない会話をしていると部屋の電話が鳴った。
「日比野か。本川沿いの住宅密集地で火災が発生したんだ。強い風にあおられてかなり燃え広がっているんだ。休みのところ悪いんだけど応援に来てもらえないか」
「分かりました。すぐ行きます」
俊介はそう言って電話を切った。
「万理ちゃん、ちょっと出なきゃならなくなったんだ。大火事が発生したらしいんだ」
「いいわよ。行ってらっしゃい。部屋の掃除をして夕食の準備をしておくわ」
俊介はアパートの横に停めてあるオートバイのエンジンをかけて現場に急行した。広島市の中心部を流れる本川沿いには戦後、被災者たちが集まってバラック建ての住宅を次々に建て一大スラムを形成していた。毎年のように火事を出すので消防局の頭痛の種になっていた。現場に来ると黒い煙と真っ赤な炎が空高く舞い上がりスラムを包みこんでいた。着のみ着のまま飛び出した被災者の怯えた姿が俊介の目にとまった。おびただしい数の消防車が駆けつけてスラムを取り囲み路地裏まで長いホースを引いて懸命の消火活動に当っていた。消防司令の指揮でいたるところで放水が行われ滝のようなしぶきがスラムを包み込んだ。俊介は日曜出番の沼田記者と落ち合い手分けして取材を開始した。昼間の火事なので住人は無事に逃げてけが人などはいないようであった。消防の発表では昼食準備中の天ぷら油に火が燃え移ったのが原因のようだった。消防隊の懸命の消火活動で火は二時間ほどしてようやく収まった。支局に戻って原稿を書き終えると空はすでに夕焼け色に染まっていた。沼田記者に後を頼んでアパートに戻ると万里子は夕食の支度を済ませて待っていた。
「万理ちゃん、まだ帰らなくていいの。あれ、部屋の中がずいぶんときれいになったね」
「俊介さんが出ている間に部屋を片付けておいたのよ。尾道通信部に電話して明日は休ませてもらおうかな。そうすれば今晩ここに泊まれるわね」
「おいおい、そりゃ困るよ。ただでさえ支局の先輩たちに仲を疑われてるんだから。万理ちゃんが朝帰りしたのが分かったらアウトだよ」
「あら、いいじゃない。いずれそうなるんだから」
いつもの万里子らしい押しの一手に俊介はたじたじだった。
「万理ちゃん、お願い。今日だけは帰って。明日は原爆の関連で大事な取材があるから下調べをしなければならないんだ」
「記者って本当に大変なのね。自分の時間がまるで無いじゃないの」
「それが記者なんだよ。万理ちゃんも分かっているだろうけど楽しい家庭生活をしようと思ったら記者の嫁さんだけはやめたほうがいいよ」
「俊介さんがいつも私に距離を置くのはそういうことだったのね。俊介さんが心配してくれる気持ちはうれしいけど私は大丈夫よ。尾道通信部でも夜遅くまで仕事を手伝っているから記者の家庭がどんなものかよく分かっているつもりよ。それじゃ、今日は夕食を済ませたら帰るわ」
万里子はそう言って夕食のテーブルを用意した。
テレビをつけるとNHKのニュースで先ほどの火事が放映されていた。すさまじい火焔と立ち上る黒煙が画面いっぱいに映し出され、万里子は食入るようにテレビ画面を見つめていた。
「すごい火事だったのね」
万里子は今さらながら記者の仕事がいかに大変であるか思い知ったようだった。
食事の後片付けを終えると万里子は手荷物をまとめて帰り支度をした。
「俊介さん、ちょっと」
「なんだい」
万里子が玄関扉の近くで俊介を呼んだ。俊介が近づくと万里子はいきなら抱きついて熱い口づけをした。
「万理ちゃん、どうしたの」
「それじゃ、またね」
万里子は何も無かったかのように扉を開けて出て行った。
万里子の柔らかい頬と濡れた唇の感触が俊介の脳裏に焼きついた。

毎年夏が訪れると広島の街は原爆で亡くなった犠牲者の慰霊行事が各所で催され街は原爆一色に包まれる。この時期は芸備日報も紙面の多くを割いて原爆関連の記事を掲載するため広島支局は猫の手も借りたいほど忙しくなる。今年も尾道通信部から記者が一人応援に駆り出されてきた。どういう事情か、尾道通信部で内勤のアルバイトをしている万里子も本社の指示で支局へ派遣された。一日中出ずっぱりの記者の留守を守るため支局で臨時の内勤をすることになったのだ。現場から届けられる原稿と写真のフィルムを袋に詰めて広島駅から岡山の本社に配送することも万里子の重要な仕事になった。記者が取材の打ち合わせ会議をする時はお茶や弁当の手配をしたり、取材で使ったタクシー代の精算をするなど戦場のような支局で万里子はてきぱきと仕事をこなした。応援の記者と万里子のために支局では駅前のホテルに部屋を取って用意した。万里子は俊介のアパートから通うつもりだったが俊介の猛反対でやむなくホテルから通うことになった。支局は夜遅くまで原稿を書く記者たちの熱気でむせ返り、タバコの煙が立ち込める中、夜食のどんぶりや湯飲み茶わんが机のあちこちに散乱していた。
部屋の壁にはいたるところ取材用のメモが画鋲でとめてあった。本社デスクからかかってくる電話の取次ぎなどで万里子も夜遅くまで仕事に精を出していた。俊介と街に出て
夕食でも一緒にしたいのだが、当の俊介は汗だくで支局に帰ってくると脇目もふらずに原稿に取り組んでいて取り付くしまもない。汚れっぱなしのシャツや靴下を繰り返し穿いているのかしらと万里子は俊介のそばを通る度に臭いを確かめた。原爆被災者の証言や国際シンポジウムの取材などであわただしかった広島支局も八月六日の平和祈念式典が終わるといつもの落ち着きを取り戻した。仕事の後片付けを終えて万里子が尾道へ帰る日、俊介は万里子と外に出て夕食を共にした。
「大活躍だったね。支局の連中も本当に助かったよ」
俊介は万里子をねぎらうため海が見える高級レストランに誘った。
「こんな素敵なところで俊介さんと一緒に食事できるなんて夢みたい。俊介さんの懐具合は大丈夫なの」
「心配しなくていいよ。実は支局の連中が万理ちゃんに感謝して僕と一緒に食事をするため金一封を包んでくれたんだ。本来ならば打ち上げ会を開いて万理ちゃんに感謝の意を伝えるんだけど気を利かせて二人で食事をするように取り計らってくれたんだ」
「あら、そうなの。それじゃ俊介さんのお嫁さんになったら毎日支局に手伝いに行かなければいけないかしら」
「おいおい、何言ってるんだ。毎日職場で顔を合わせていたら息がつまっちゃうよ。記者の嫁さんは疲れて帰ってくる旦那に居心地のいい家庭を用意するのが仕事じゃないか。最近、万理ちゃんは記者みたいな雰囲気になってきたね」
「俊介さんがぐずぐず言って私をお嫁さんにしてくれないからいけないのよ。このままいたら本当に記者になっちゃうかもよ」
俊介は久しぶりに仕事から解放されて心地良い酒に酔った。
「万理ちゃん、今日は僕も記者を忘れて男になっちゃおうかな」
いつもと違う俊介の態度に万里子の胸はときめいた。素敵な夜景と美味い酒に酔いしれながら二人の気持ちは急速に接近した。
「俊介さん、明日は勤めが休みだから今夜は広島のホテルに泊まることにするわ。俊介さんもホテルまで付き合ってくれない」
俊介は万里子の誘いに応じて駅に近いホテルの門をくぐった。
「万理ちゃん、後悔しないかい」
「私、ずっと以前から俊介さんとこうなりたかったの」
心地良い酔いと仕事の解放感も手伝ってこの夜の二人は激しく燃えた。熱いぬくもりを体に感じながらホテルを出た俊介は万里子と二人で暮らす決心がようやくついた。

秋も深まり紅葉が瀬戸内海の島々を彩る季節になった頃、俊介は万里子を妻に迎えた。広島市内のホテルで親族と同僚記者を招いただけの簡素な挙式をすませて俊介と万里子は郊外の牛田にある一戸建て貸家に居を定めた。働き者の万里子を迎えて俊介の生活は一変した。いつもこぎれいな身なりで仕事に向かうことができ休日は洗濯や掃除から解放されてゆっくりした一日を過ごせるようになった。独身時代は喫茶店のモーニングサービスや夜食の店屋物で命をつないでいたが、万里子が来てからは朝も夜もしっかりとした家庭料理を味わうことができた。夜遅く汗だくで銭湯に行っても閉店でやむなく戻った独身時代が嘘のように今は暖かい風呂と快適な寝床が俊介を待っていた。家庭を持つことでこんなにも生活が快適になるとはこれまで夢想だにしなかった。家庭を持ったら家に縛られて仕事が思うにまかせなくなるのではないかと恐れ、結婚をこれまで引き延ばしてきたのだ。もっと早く万里子を迎えてやればよかったと思いつつ俊介は今の幸せに浸っていた。

木々の緑が色濃くなった五月の中旬、世間を震撼させるような大事件が勃発した。盗難車に乗って少年二人を引き連れた若者が山口県で検問の警察官に怪我をさせて逃走し少年二人が逮捕された。しかし若者は逃走して広島市内の銃砲店からライフル銃や猟銃を奪い、四国に向かう旅客船に乗り込んだのだ。犯人は乗員、乗客四十人余りを人質に取り追跡中の警察の警備艇にライフル銃を乱射して警察官に重傷を負わせた。のみならず取材中のセスナ機も銃撃を受けて危うく墜落するところであった。
この日、外の取材を終えて支局に戻った俊介は県警本部の記者クラブにいる沼田記者から事件の発生を知らされ急いで駆けつけた。県警本部の広報官が現場から上がってくる情報を整理して三十分ごとに記者会見を開いていた。記者クラブにつめかけた報道陣はその都度、原稿をまとめて支局に送った。犯人が旅客船を奪って人質を取ったことが分かり俊介は沼田記者の指示で宇品港へタクシーで駆けつけた。港を見渡す建物の陰にたくさんの記者やカメラマンが身を寄せていたので俊介も仲間に加わって様子を見守った。時折、ライフルを発射する乾いた銃声が聞こえて建物に当たるにぶい炸裂音が辺りに響いた。記者たちが支社との連絡用に持ってきた携帯無線のザーザーいう通話音があちこちから聞こえてきた。旅客船はしばらく広島港に停泊した後、夕刻、四国に向けて港を出て行った。その後を警察の警備艇や海上保安部の巡視艇、それに海上自衛隊の掃海艇など二十隻余りが一定の距離を保ちながら追跡を始めた。照明で旅客船を照らし出すとライフル銃で狙われる恐れがある。巡視艇は夕闇に溶け込むようにしずかに併走した。時折、旅客船からライフル銃の発射音が聞こえるので巡視艇はジグザグ行進して弾丸を回避した。旅客船の姿が島影に消えると宇品港に集まった警察官や報道陣の間に安堵の色が広がった。記者たちは原稿を仕上げるため一旦支局へ引き上げていった。ただテレビの中継車だけは現場に残って中継を続けていた。俊介は支局に戻って先輩記者たちとテレビ画面を食い入るように見つめていた。旅客船は松山港に入港して乗組員を除く乗客全員が解放されたとテレビが伝えた。
記者たちは原稿を仕上げて帰路についたが、警察担当の沼田記者だけは万一の事態に備えて支局に泊まり込んだ。
深夜の一時頃になって旅客船は再び松山港を出港し朝九時前に広島港に戻ってきた。
俊介は早朝に沼田記者の電話を受けて急いで宇品港に駆けつけ旅客船の到着を待った。すでに各社の記者やカメラマンが県営桟橋付近にたむろして今や遅しと船の到着を待っていた。旅客船が宇品港に入港した後、犯人は駆けつけた父親の説得にもかかわらず仲間の釈放を要求して銃を乱射しつづけた。あらたに警察官が重傷を負ったほか偵察中の警察ヘリコプターも燃料タンクを銃撃されて墜落しそうになった。犯人の傍若無人な行動に被害の拡大を恐れた警察は犯人の狙撃を決断し大阪府警の狙撃手が桟橋付近に陣取った。
「おい、あれは狙撃手じゃないか。犯人を撃つつもりなのかな」
建物の陰にかくれて取材を続けていた他社のカメラマンが目ざとく見つけて記者に告げた。俊介はそれを耳にした瞬間、カメラに望遠レンズを取り付けて旅客船に焦点を合わせた。芸備日報は自分しか現場に来ていない。写真は自分が撮らなきゃおしまいだ。
はやる気持ちを抑えて俊介はじっとカメラを構えた。そのとき犯人が旅客船のデッキに出てきて警察官に向かってなにか叫ぶのがカメラのレンズに移った。次の瞬間、狙撃手のライフル発射音が耳に入った。俊介は急いでカメラのシャッターを立て続けに押した。報道陣のカメラが一斉にシャッターを切ったのでガシャ、ガシャというシャッター音が辺り一帯に響き渡った。
「あ、倒れた」
現場に集まった記者の一人が大声で叫ぶのが俊介の耳に入った。記者たちの携帯無線があたりで鳴り響きこれまで建物の陰にひっそりと隠れていた報道陣は一斉に岸壁近くまで駆け出した。犯人射殺の様子はテレビで生中継されていたので日本中がテレビ画面にくぎ付けになった。俊介は近くの公衆電話を見つけて沼田記者に連絡を取り射殺の瞬間をカメラに収めたことを伝えた。
「撮れているかどうか心配なんですが。とりあえず支局に持って上がって本社に発送してもらうよう手はずを頼んできます。今すぐ送れば夕刊には間に合うと思うのですが。写真が上手く撮れていなかったらどうしましょう」
「そうか。とりあえず写真は撮ったんだな。それは良かった。万一撮れていない時は時事通信から配信してもらうしかないだろう。まあ、あまり心配するな」
「それじゃ、急いでフィルムを支局に届けて現場に戻ります」
俊介は待機させてあったタクシーに乗ると急いで支局に戻った。今は丁度九時五十分。本社に送れば夕刊には十分間に合う時間である。うまく撮れてますようにと祈るような気持ちで俊介は宇品港の現場に戻った。事件が一段落し現場の報道陣にも安堵の色が広まった。
「おい、こんなところに銃弾の穴がいくつもあいているぜ。俺たちが隠れてた場所のすぐ近くじゃないか」
カメラマンの一人が顔色を変えて叫んだ。
「やばかったな、知らぬは仏だぜ。一歩間違えばあの世行きだったな」
今さらながら自分たちがどんなに危険な取材をしていたかあらためて思い知った瞬間だった。
夕刊が届くと俊介が撮った犯人射殺の写真が一面に大きく掲載されていた。
「日比野、よく撮ったな。あの状況でこんな写真を撮れるとはあっぱれだよ。大手マスコミはみな写真を掲載しているからこれがなかったらわが社はアウトだったよ」
警察担当の沼田記者は率直に俊介の仕事をほめてくれた。
「いやあ、自分でも驚いているんですよ。他社のカメラマンがシャッターを切ったので一緒にシャッターを押したんです。きっとカメラの性能が良かったんでしょうね。助かりました」
この事件で俊介は本社から報道部長賞として金一封を贈られた。もともと警察担当の沼田記者の手足として掴んだ幸運だった。俊介は沼田記者に相談してその金を広島支局の打ち上げ会に当てた。
「テレビで見ていたけど凄い事件だったのね。無事に戻って安心したわ。警察の人が何人も撃たれたってテレビが伝えていたので俊介さんの身を心配していたのよ」
「そうなんだ。事件が一段落して周りを見たらあちこちに銃弾の跡が見つかったんだよ。報道関係者は皆青くなっていたね。今回だけは本当にやばかったよ」
俊介はこれから長い人生を共に歩む万里子に記者の本当の姿を知らせておきたかった。万一の事態が起きてもそれだけの覚悟はして欲しかったのだ。テレビの画面では連日のようにベトナム戦争の戦況が報道されていた。銃弾が飛び交う戦地でリポートをする記者の姿を見て、万里子は俊介もいつの日かこんな危険な取材に行かねばならないのかと胸を詰まらせた。
シージャック事件が終わって間もなく尾道から聡子がやってきた。
「大変な事件だったけど俊介さんが無事で本当によかったわ。結婚したばかりで万理ちゃんを未亡人になんかできないものね」
「お母さん、そんなの考えすぎよ」
「だって警察の人が何人も負傷したっていうじゃないの」
「記者はいつも警察の背後で取材しているからそんなに危険じゃないのよ」
万里子は聡子を心配させまいと本当のことは言えなかった。一休みした後、万里子は聡子を誘って街に出た。平和記念公園を歩いていると木々の間から本川沿いに原爆ドームの廃墟が垣間見えた。聡子は足を止めてたたずみ感慨にふけっていた。
「あれから二十五年しか経っていないのによくここまで復興できたものね」
「お母さんは尾道にいたから原爆は関係ないわよね」
「そうでもないのよ。実は学徒動員というのがあってね、お母さんは呉の海軍航空廠で大勢の女学生と一緒に飛行機の部品を作っていたの。たびたび米軍の空襲があって防空壕で焼け死んだり機銃掃射を受けたりしてたくさんの人が亡くなったのよ。お母さんは運よく難を逃れることができたのね。八月六日の朝は工場に出勤する途中だったの。雲一つない真っ青な空がまぶしく輝いていたわ。突然、ピカっと光る感じがしてものすごい轟音がしたのよ。一瞬、市内の弾薬庫が爆発したのかと思ったんだけど、しばらくすると西の方角に大きなキノコ雲が上がってすごい高さまで登っていったわ。何が起こったのか分らないまま怖くなって急いで工場へ駆けつけたのよ。皆が何だろうと話していたら工場の主任が来て広島に新型爆弾が落ちたらしいと教えてくれたの。その後が大変だったわ。服がボロボロで皮膚がただれた人たちが呉駅の方から街に流れてきたの。広島から逃げてきた人たちなのよ。あまりの凄惨な光景に思わず目をそむけてしまったわ。広島市内では数えきれない死体が川に浮いていたというじゃない。戦争なんて絶対しちゃいけないわね」
聡子の話を聞きながら万里子は口をつぐんでしまった。広島に来てから資料館を訪ねたり本を読んだりして原爆のことはある程度知っていたが経験者の話は格別だった。
それも実の母親が原爆投下の瞬間を目撃したなんて夢想だにしなかった。聡子が今まで娘に話さなかったのはいまわしい記憶を思い出したくなかったのであろう。
「ところで万理ちゃん、おめでたの兆しはまだないの。そろそろ孫の顔を見せて欲しいのよ」
「俊介さんは取材の妨げだと思ってなかなか結婚しなかったくらいだから、しばらく子供は無理みたいね。赤ちゃんの夜泣きで睡眠不足になるのを恐れているみたいよ」
「そうは言ってもいつまで子供を持たないわけにはいかないでしょ。あなただって年を取っていくんだから」
「そのうち俊介さんと話してみるわ」
万里子はそう言って話をかわした。

重い雲が垂れ込めて時折激しい雨粒が降り注ぐ梅雨の季節、市内の江波地区で凶悪事件が発生した。深夜、盗みに入った若者が家の主人に見つかり、隠れていた物陰から襲いかかって刃物で刺し殺したのだ。通報を受けた警察はただちにパトカーを出動させて市の中心部に通じる道路を全て封鎖した。広島市は太田川の河口に開けた三角州の上に街が広がり幾つかの川で分断されている。したがって橋を渡らないと他の場所には移動できない。江波地区は南は海に、東と西は川に面した三角洲の上にある。警察は北の出口を塞げば犯人は袋の鼠になると確信し包囲網を狭めていった。
「朝毎新聞が逮捕は間近と書いているがうちの原稿はどうしたんだ」
本社のデスクが怒鳴りながら支局に電話をかけてきた。朝毎新聞の新人記者が警察の発表を鵜呑みにして書いたのだ。こうした記事は本当に迷惑だ。支局の沼田記者がデスクに事情を説明してこの件は落着した。
事件発生から二日経っても犯人の手掛かりは全くつかめずようやく捜査陣に焦りの色が見えてきた。俊介は警察の取材情報をもとに夜遅く事件現場周辺を歩いてみた。自分が犯人ならどちらの方角へ逃げるか考えてみたのだ。北へ向かえば橋を封鎖するパトカーのサイレンが聞こえたはずだ。犯人は北へは行かないだろう。南は三菱重工広島製作所の工場があり、夜中も警備員が常駐しているので逃走するには無理がある。残るは東と西しかない。東は大通りで警察車両が警戒に当たっているので目につく恐れがある。結局、犯人が逃げるのは西側しかない。俊介はそう考えて静かな住宅街を歩きながら天満川の川岸に出た。暗い川面を目の前にたたずんでいると追いつめられた犯人が川に飛び込んで向こう岸まで泳ぎきることは十分に可能だと確信した。翌日、俊介は対岸の観音地区を歩き回って川岸に近い倉庫や工場の聞き込みを始めた。川の堤防のすぐそばにある製材工場を訪ねると、事件の翌日に濡れたシャツが工場の片隅に落ちているのを早出の従業員が見つけてゴミに捨てたという情報をつかんだ。俊介が警察の捜査担当者に知らせたところ直ちに工場付近の捜索が行われ堤防のそばで濡れた運動靴が見つかった。この時点で警察は捜査方針の見直しを迫られた。これまで続けていた江波地区の聞き込み捜査を対岸の観音地区まで広げることにしたのだ。
「我々捜査に関わる者はどうしても過去の経験に縛られて川を泳いで逃走するなど考え及ばなかったですよ。記者の皆さんの直観力には感服いたしました」
記者会見の席で捜査課長は捜査方針の変更理由を言い訳がましく語った。観音地区で濡れたシャツや運動靴が見つかったことを新聞、テレビが報じた翌日、犯人が父親に付き添われて警察に出頭してきた。父親は息子が上半身裸ではだしのまま帰ってきたのを不審に思っていたがマスコミの報道で犯人と確信したのだ。言い逃れをする息子を問いつめたところ犯行を認めたので警察に出頭したのだった。犯人逮捕までの四日間、俊介は警察担当の沼田記者を手伝って夜遅くまで記者クラブに詰めていた。深夜に家に戻っても万里子は起きていて暖かい風呂と夜食を用意してくれた。広島は大都会だけあって事件には事欠かない。日本中を震撼させたシージャック事件や暴力団の抗争事件、それに瀬戸内海の海難事故などを通じて俊介は一人前の記者に鍛えあげられた。大きな事件が起きる度に深夜の帰宅が続き、時には徹夜になることも珍しくなかった。そんな時も万里子は記者の妻として俊介の疲れを癒すためできうる限りの努力をしてくれた。
忙しい日々が続く中、俊介は体の不調を感じるようになった。みぞおちに差し込むような痛みを感じて悩まされていた。我慢して仕事を続けていたがある時あぶら汗をかいてうずくまってしまった。
「俊介さん、お願い。一度診察を受けてちょうだい。このままじゃ体をダメにしちゃうわ」
万里子に哀願されて俊介は広島大学の病院を訪れた。
「十二指腸潰瘍ですね。なぜもっと早く来なかったんですか」
診察した医師は病状を説明しながら俊介を責めた。
「記者をしているのでなかなか休めないんです」
「どんなに良い仕事でも命あっての仕事じゃないですか。入院して完全に治してください」
医師にそう言われて俊介はしぶしぶ入院手続きをした。
「後のことは心配しないでゆっくり療養してこいよ」
先輩記者たちから労りの言葉をかけられて俊介は病院のベッドに身を横たえた。
「薬を飲んで規則正しい食事をするだけなら仕事をしながら治せばいいんだよ」
毎日ベッドで寝起きするだけの生活に俊介は不満をぶちまけた。
「何言ってるの。仕事をしていたら規則正しい生活なんかできないでしょ。俊介さん、よく分かっているじゃない」
万里子に諭されて俊介は観念せざるをえなかった。結局、一か月ほど病院にいて俊介はようやく退院した。
まだ本調子でない体を労わりながら現場に復帰した俊介に岡山の本社から電話がかかってきた。
「報道部長の池谷だが三次通信部へ行ってもらえないか。奥さんも尾道の通信部で働いた経験があるから夫婦で住み込んでもらえればありがたいのだが」
三次通信部への転勤を打診してきたのだ。
「分かりました。喜んでお受けいたします」
駿介はそう言って電話を切った。万里子を妻に迎えてからこの三年間まともな家庭生活を殆どしてこなかった。三次通信部に行けば時間に追われることもなく落ち着いた生活ができると思ったのだ。
「本社の部長から電話のようだったが何の用だ」
「三次通信部へ転勤を打診されました」
「そうか。日比野もずいぶん活躍したからここらで奥さんと一息いれるのも悪くないな」
栄転とは言えない移動に支局の先輩は微妙な言い回しで俊介を励ましてくれた。しかし俊介はこの移動に全く不満はなかった。記者生活は長く厳しいロードレースのようなものだ。大都会ばかり渡り歩いていたら体がもたない。若くして亡くなった記者を何人も見てきた。それもやり手の記者が多かった。出世も大事だがまずは生き延びねばならない。今は万里子と一緒に人生を楽しむ絶好の機会と思い俊介は快く返事をしたのだ。
「万理ちゃん、今度、三次の通信部へ転勤することになったよ。今まで忙しすぎたから二人で落ち着いた生活をするには丁度いいかもしれないね」
「あら、そうなの。よかったわね。俊介さんもこのあたりで一息入れたらいいと思うのよ。病気もしたことだし。子供を生んで育てるには良い機会かもしれないわね」
万里子は子供への期待で胸をふくらませた。しかし俊介は子供を持つことなど全く念頭になかった。家庭は記者の生活を支えるオアシスのようなものだ。子供に憩いの場を奪われることなど考えたくなかった。しかし万里子が母性本能のおもむくままに子供を持ちたいと願うのは当然のことであった。
広島支局の仲間に見送られて俊介は三次通信部へ移った。

三次市は広島県の北部、中国地方のほぼ真ん中に位置する人口三万六千ほどの街である。盆地の中を流れる江の川と西城川、馬洗川が大きくカーブを描いて合流する地点に街は広がっている。夏から秋にかけて深い霧が発生し神秘的な光景を生み出すので霧の街とも呼ばれていた。「中国太郎」の異名を持つ江の川のはん濫に備えて古来から治水工事が行われ流域には多くの竹が植えられていた。盆地に熱気が漂う夏の季節には鵜飼祭りが催され一服の涼を求める観光客でにぎわった。
通信部は三次駅に近い商店街の一角にあった。芸備日報の小さな看板を掲げているだけなので注意しないと通りすぎてしまう。一階は事務所と応接室、二階は記者家族の居室になっている。
「なかなかいい家じゃないの。職住接近というのもいいわね」
俊介と一緒に過ごせる時間が増えると思うと万里子は喜びに胸がはずんだ。住居費がかからないのも家庭をあずかる万里子には魅力だった。三次通信部は記者が一人しかいないので俊介は三次市内と周辺地域を一人でカバーしなければならない。着任するとただちに警察や市役所に挨拶回りに出かけ明日からの取材に備えた。
「こんにちは。このたび広島から参りました芸備日報の日比野です。よろしくお願いします」
「ようこそいらっしゃい。三次市長の田中です。広島のような大都会と比べたら辺ぴな場所ですが結構おもしろいこともありますよ。街の発展に力を貸してくださいな」
田中市長は愛想よく俊介を迎えてくれた。
三次に移ってから俊介は穏やかな日々を過ごすことができた。警察や市役所を回っても紙面を飾るようなニュースは殆どなく、地元の祭りや農産物の出荷などが新聞の片隅を埋めるだけだった。大雨によるがけ崩れで芸備線や福塩線が停まったときだけ新聞は紙面を割いてくれた。
この時期、日本国内では大事件が相次いだ。作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地でクーデターを呼びかけ割腹自殺した三島事件、連合赤軍が浅間山のふもとの山荘に立てこもって人質を盾に警察官と銃撃戦を演じた浅間山荘事件、それに大阪の千日デパートの火災で百人以上が死んだ大火災事故などが続いて日本中を騒然とさせた。また政治面では戦後初めて日中平和友好条約の調印が行われ、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されるなどして連日新聞紙面をにぎわしていた。俊介は新聞各紙に目を通しながら第一線から退いた悲哀を味わっていた。記者として忙しく走り回った広島時代が忘れられなかったのだ。
「このままローカル記者で終わっちゃうのかな」
俊介は万里子の前で愚痴をこぼすようになった。
「あら、いいじゃないの。今は体を休ませることが先決でしょ。そのうちまた大事件を取材する日がきっと来るわよ」
万里子は俊介と一緒に過ごす時間が増えて充実した日々を送っていた。三次に来て俊介はすっかり健康を取り戻し夫婦の営みも回を重ねるようになった。そして万里子が待ちに待った新しい命が万里子の体内に宿った。
「万理ちゃん、よかったわね。お母さんも本当に嬉しいわ」
聡子は喜びを隠しきれずにはるばる尾道からやってきた。
「通信部ってこんな風になっているのね。住まいと仕事場が一緒になっていれば俊介さんと過ごす時間が増えていいわね。雅子も子供が生まれたことだし万理ちゃんのところで生まれれば万々歳だわ。お父さんもきっと喜んでいると思うわ」
万里子と聡子の喜ぶ姿を見て俊介の心は重かった。これで俺も普通のサラリーマンになっちゃうのか。子供と楽しく過ごす家庭を持つだけで俊介は満足できなかった。朝起きてから夜寝るまでピリピリして過ごすあの緊張感がどうしても忘れられないのだ。こんなのんびりとした日々を送っていたら記者の感性が錆びてしまう。万里子の幸せな日々とは裏腹に俊介の気持ちは日増しに落ち込んでいった。
「万理ちゃん、生まれてくる赤ちゃんの名を考えてみたのよ。男の子だったら俊介さんの一字をもらって俊男、女の子だったら俊子でもいいかしらね。万理ちゃんの一字をもらって万沙美なんてどうかしら。赤ちゃんが生まれたらしばらく尾道で過ごすといいわ」
太郎でも花子でも勝手につけてくれ。聡子のはしゃいだ姿を横目に俊介は悶々と時を過ごした。
御用聞きのように、毎日、警察や役所を回って発表記事を書いている我が身にうんざりしていた。三次ののんびりとした環境がそうさせるのだ。記者は大きな事件を次々と経験することによって成長していくものだ。俊介はそう思うと居ても立ってもいられなかった。悶々とした日々が続く中、俊介の憂いを一気に吹き飛ばす未曾有の災害が三次市と周辺地域を襲った。
七月の初旬、山陰沖に発達した梅雨前線が次第に南下して瀬戸内付近に停滞し広島県全域に大雨をもたらした。広島県の中部から北部にかけては断続的に強い雨が降り各地で川の氾濫や土砂崩れが相次いだ。三次市周辺では江の川と西城川流域で十一日の日中に集中的な豪雨が降り、川の水位は上昇して殆どの地点で警戒水位を超えてしまった。
深夜には三つの川が合流する三次市で馬洗川の堤防が決壊して濁流が市内全域に流れ込んだ。この災害で三江南線の道床が陥没し、芸備線は山崩れで線路が塞がれるなど列車の不通が相次いだ。市街地はすっかり水没し山間部は山崩れや山津波による家屋倒壊で死者や負傷者が相次いだ。周辺道路も寸断されて三次市は完全に孤立状態に置かれてしまった。広島県内では死者・行方不明者は三十九名、家屋の全壊三百四十九、床下浸水一万一千戸余りという未曽有の災害を記録することとなった。
俊介はテレビの天気予報で大雨の危険を察知するとリュックにカメラや無線機をつめ、雨具と長靴に身を固めて市役所に向かった。通信部を出る前に一階事務所の大事な機材は全て二階に移し万一の出水に備えた。万里子には食料の買い出しと飲み水の確保を
頼み、雨が降り続く場合は二階から降りないように指示した。電話の不通に備えて取材用の携帯無線機を充電して必ず二階に置くように伝えた。これまでの取材経験が俊介にそうさせたのだ。市役所に入ると会議室に災害対策本部が設置され、田中市長を初め多くの職員が防災服を着用して地図を囲んでいた。大きな机の上には電話や防災無線機が数台置かれ警察や消防と連絡を取っていた。日頃温厚な田中市長は別人のように目を光らせてきぱきと指揮をとっていた。対策本部の緊張した空気の中にいると俊介の気持ちは高揚した。しかし気がかりなことが一つあった。万一の事態に際して万里子をどのように救出するかだ。記者は災害に直面して家族より取材を優先すべきというのが不文律になっている。しかし万里子のお腹には新しい命が宿っている。万全を期して親子の身を守らねばならない。俊介は考えあぐねた末、記者の特権をこの際に利用しようと思いついた。日頃、顔なじみの消防局の広報課長に万里子の救出を頼んだのだ。こちらの立場を理解して広報課長は快く承諾してくれた。
「万理ちゃん、水が出た時は消防に救助を頼んでおいたからあわてないで指示に従ってね。大丈夫だから心配しないで」
俊介はそう言って万里子を安心させた。記者室に待機しながら対策本部を見回ると時間の経過とともに職員の動きが忙しくなってきた。防災無線のスピーカーからは河川の警戒に当たっている市の職員や消防署員から増水状況が逐次報告されてきた。
「ただいま馬洗川の左岸警戒地点の水かさが警戒水位に近づいています。濁流が渦を巻いて危険な状態です」
「よし、十分に気を付けて引続き警戒に当たってくれ」
市の担当者が無線機のスイッチを入れて応答した。
俊介は家に戻れないと思い万里子に電話を入れた。
「万理ちゃん、今日は帰れそうにないんだ。川の水位が上がって危険なんだ。泊りになると思うので家の方は頼むよ。万一の浸水の場合は消防が救助に行くから心配しないで欲しいんだ。お腹の子には十分注意してね」
「大丈夫よ。俊介さんこそ気を付けてね。これからお父さんになるんだから危ないことはしないでね」
万里子のこの一言に俊介は強烈な衝撃を覚えた。そうだ、今までとは違うのだ。独身の時のように無謀なことはもうできない。俊介は自分が置かれている立場を思い出した。雨は一日中やむことなく降り続け、時折、強い雨足が地面を激しく叩いた。対策本部は腕章を巻いた記者が詰めかけて次第に騒然としてきた。深夜に日付が変わると消防から緊急無線が入り対策本部には緊張が走った。
「馬洗川左岸の堤防が決壊し十日市町方面に水が流れ出しています」
「馬洗川右岸の警戒地点です。ただいま川の堤防から水が溢れ出し三次地区が水に浸かり始めました」
「芸備線の西三次、志和地間で山崩れが発生。線路が遮断されました」
消防や警察から次々と情報が寄せられ記者たちはスピーカーから流れる音声を聞きのがすまいと必死にペンを走らせた。市庁舎内にいると分らないが市内の水かさは急速に増しているようだった。俊介は記者室に戻って万里子に電話を入れた。幸い電話回線はまだ生きていた。
「万理ちゃん、川の堤防が決壊して水が押し寄せてきたんだ。そちらの方はどんな具合だい」
「大変なのよ。水がどんどん流れてきて一階の事務所はもう水に浸かってしまったわ。水かさがどんどん増えるので二階に避難してきたんだけど水が上がってきたらどうしましょう」
「もうそんな状態になっているのか。一階が水没したら二階の窓から屋根のひさしに出て欲しいんだ。消防がボートを出して救出に行くからそれまで頑張ってね」
「大丈夫よ。言われた通りにするわ。それより俊介さんも無理な取材はしないでね。子供が生まれるっていうのにお父さんに何かあったら大変だからね」
「分かってるよ。こちらは市役所の災害対策本部に詰めているから大丈夫だよ。通信部を離れるときは無線機を必ず持って出てね。そうすれば僕と連絡が取れるから」
「分かったわ。もう少し様子を見てまた連絡するわ。あら、水かさがどんどん増えてきたわ。そろそろ家を出る手はずをした方がよさそうね。じゃあ一旦切るわね」
万里子はそう言って受話器を置いた。俊介はこれまで集めた情報を原稿にまとめて電話で広島支局に送った。
「日比野、大変なことになったな。水が引いたら応援を出すからな。飲み水や食料も届けるからそれまで頑張ってくれ」
電話に出た沼田記者は心配そうに俊介と万里子の身を案じた。
「市内全域が冠水し駅前通り商店街は二階付近まで水位が上昇しています。これよりボートを出して救助に向かいます」
消防無線から緊迫した声が流れ対策本部の職員と報道陣の間にざわめきが起った。俊介は急いで記者室に戻り万里子に電話を入れたが回線はつながらなかった。手持ちの携帯無線機で呼び出すとしばらくガーガーという音が続いた後、万里子の緊迫した声が聞こえてきた。
「俊介さん、今二階の窓からひさしの上に出たところよ。真っ暗でよく見えないけれどひさしのすぐ下まで水が来てるみたい。遠くの方に灯りが動いているのが見えるわ。消防のボートかもしれないわね。間に合うといいんだけど」
「そうか、そりゃ大変だ。懐中電灯を点灯して振ってごらん。ボートが気づいてくれると思うよ」
「あら、そうね。やってみるわ。ボートに乗れたらまた連絡するわね」
バッテリーの消耗を心配して万里子は無線機のスイッチを切った。俊介が気をもみながら待っていると無線機が点灯した。スイッチを入れると万里子からの連絡だった。
「今消防のボートが助けに来てくれたわ。これから避難所の小学校に行くらしいのよ」
万里子の救出を知って俊介はほっと胸をなでおろした。避難所へ行けば毛布もあるし食料もあるから大丈夫だ。俊介は家族の心配から解放されてようやく安堵した。対策本部では一時間おきに記者発表が行われ浸水状況や被災状況が詳細に伝えられた。記者はその度に原稿を差し替えて支局に送った。朝刊締め切りの深夜二時になると新聞記者たちはしばしの仮眠を取った。しかし、この間もテレビ各社は朝の放送に備えて徹夜の取材を続けていた。翌朝、雨が小降りになった頃合いを見計らって俊介は市役所の屋上に上がった。三次駅を初め周辺地域は一面の泥海と化し、建物の一階部分は殆ど水に浸かっていた。俊介はカメラのシャッターを押し続けてできるだけ多くの映像を記録に収めようと努めた。報道各社のカメラマンも競い合って写真を撮っていた。その時、遠くから双発のプロペラ機が爆音を響かせて近づいてきた。雨の合間をぬって大手新聞社が写真撮影に寄越したのだ。
「大手の新聞は機材が豊富でいいよな」
地元の西国新聞の記者がぼやいた。飛行機から撮影すれば市内全域の水没写真が撮れるし列車が不通になった崖崩れの現場も写真に収めることができる。芸備日報の夕刊は写真なしの記事だけが紙面を埋めることになるだろう。どんなに素晴らしい記事を書いても一枚の写真にはかなわない。昼のNHKニュースを見ると市役所の屋上から撮影した写真が画面に映っていた。ポラロイドカメラで撮影して電送したのであろう。さすがにいつも使っているベル社製のヘリコプターをこの天気で飛ばすことはできなかったようだ。大手マスコミの強力な取材体制を目の当たりにして俊介は打ちのめされる思いだった。
二日ほどして水が引くと沼田記者が広島から川上記者を連れてタクシーでかけつけた。川上記者は俊介の後任だった。借り上げタクシーを使って飲み水と食料を満載してきたのだ。通信部の一階は泥につかっているので二階にある居室の一つに取材の前線本部を設けた。避難所から戻った万里子は隣の部屋で寝起きしながら三人の記者の世話をすることになった。ガスが止まってしまったので七輪で火を起こさなければならなかった。
「日比野、地方紙の宿命で出遅れたのは否めないが、被災者の体験を連載して挽回しようと思うんだ」
さすが経験豊富な沼田記者の機転に俊介は感嘆した。
「日比野の奥さんは浸水直後にボートで救助されたのだから、まず手始めにその辺りから取材を始めよう。ちょっと奥さんを呼んでくれないか」
万里子は沼田記者の求めに応じて浸水当時の模様を語り始めた。
「ボートの中で消防の人から聞いたんだけど臨月の女性が産気づいてボートで病院に運ばれたんですって。無事に生まれているといいんだけど」
「おい、おい。これは特ダネになるぞ。日比野、消防に聞けば運び込んだ病院が分かるから早速調べてくれないか。明日の朝刊に間に合わせてくれ」
そう言って沼田記者はてきぱきと取材の指示を出した。
沼田記者は借り上げタクシーを走らせて堤防の決壊個所や列車の崖崩れ現場に向かうことになった。川上記者は泥沼の街から立ち上がる市民の姿を取材することになった。沼田記者らの応援を得て三次通信部はにわかに活気づいた。泥につかった街を歩きながら俊介は久しぶりに心地よい緊張感を覚えた。万里子は三人の記者の食事や取材の世話をしながら一階の事務室と応接室の片づけを始めた。事務室の機材や応接セット、それにオートバイなどは泥につかって廃棄するしかなかった。街では水に浸かった家屋や道路が太陽の光を浴びてキラキラ輝いていた。道路端では畳を並べて水洗いする光景がいたるところで見うけられた。
妊婦が担ぎこまれた中村医院は川から少し離れた高台にあった。馬洗川の堤防が決壊して濁流が市内に流れ込んだときも医院は下の道路が三十センチほど冠水しただけで無事だった。
「すみません。芸備日報記者の日比野と申します。浸水の最中に妊婦さんが担ぎこまれたと聞いてうかがいました。その後、容体はいかがですか」
「無事に生まれましたよ。母子ともに元気ですよ」
取材の申し込みをすると看護婦が愛想よく病室に案内してくれた。部屋に入るとベッドに若い女性が赤ん坊を抱いて座っていた。傍らにはベビーベッドが置いてあった。
「おめでとうございます。大災害の中で赤ちゃんが無事に生まれてよかったですね。暗いニュースばかりなので赤ちゃんの誕生を報じて被災者を元気づけたいのです。取材にご協力いただけませんか」
「私でよかったら構いませんよ。でもこんなことがニュースになるのかしら」
「多くの人が亡くなった中で新しい命が誕生したことは社会に希望をもたらすんです。赤ちゃんを抱いた姿を写真に撮らせてもらえませんか」
俊介はそう言って笑顔で赤ん坊を抱く女性の姿をカメラに収めた。その日の夕刊の一面には嬉しそうに赤子を抱いている女性の写真が大きく掲載された。他の新聞がいずれも被災地の写真を前面に掲げて報じている中で、この日の芸備日報の記事は異彩を放っていた。泥水に浸かって気落ちした三次市民に明るい希望の灯を点したのだ。
大災害から一か月。三次市はもとの平穏な生活を取り戻した。俊介は以前のように役所や警察を回って新聞の片隅を埋める記事を書いていた。取材用のオートバイやその他の機材は中古品を調達して使うことになった。万里子は生まれてくる子供を楽しみに甲斐甲斐しく家事をこなしていた。全てが以前の単調な生活に戻った。そして翌年の春、
万里子が待ちに待った初めての子を授かった。女の子だった。万里子を病院に見舞った俊介は初めて対面する我が子の姿に感慨を覚えた。
「俺もこれで人の子の親になったのか」
我が子の顔を見ながら記者として歩んだ十年の人生が走馬灯のように俊介の脳裏に甦った。

十二

水害で万里子とお腹の子を危険な目に遭わせてから俊介は自分の暮らしを見つめなおすようになった。子供を抱えて暮らすには家族に安全な生活を保障してやらねばならない。去年のような大災害は家族には二度と経験させたくない。退院して赤ん坊に乳を含ませている万里子の姿を見ながら新しい生活への思いが俊介の心に芽生えてきた。そんなある日、広島の芸陽テレビが取材経験豊かな記者を募集している情報を入手した。
創立して何年も経たない芸陽テレビがニュース部門を立ち上げるためデスクワークのできる記者を探していたのだ。
「万理ちゃん、広島のテレビ局が記者を募集しているので応募してみようかと思うんだ。子供も生まれたことだしそろそろ生活を安定させなければと考えているんだ」
「新聞とテレビではメデイアの性格がかなり違うと思うんだけどテレビ記者としてやってく自信はあるの」
万里子は一抹の不安を覚えながら俊介に質した。
「確かに活字媒体と映像媒体という違いはあるけれどニュースを伝える報道の本質は新聞でもテレビでも同じだよ。それにこれからは何といってもテレビの時代だと思うんだ。大事件が起きるたびにテレビの後を追いかけている新聞にむなしさを感じることがあるんだ」
「俊介さんがそこまで考えているのならやってみる価値はありそうね」
万里子の一言で俊介の気持ちは固まった。早速、履歴書と写真を芸陽テレビに送ると面談の連絡が来た。芸陽テレビは広島城の近くに真っ白な新しい三階建てのビルを構えていた。受付で来意を告げると二階の報道部に案内された。まだ若い報道部長の秋山が机から立って俊介を迎えた。
「よくお出でくださいました。うちは創立してから間がないのでニュース部門を立ち上げるのが大変なんです。これまでは共同通信や時事通信から記事と写真を配信してもらいアナウンサーがスタジオで読み上げていたんです。独自の取材でニュースを送るようにしたいと考えているのですが、日比野さんのようなベテラン記者がどうしても必要でね。それで記者の採用を決めたのです。待遇の方は満足いただけるように手配しますからご協力願えませんでしょうか」
報道部長の秋山はテレビ局内を案内しながら熱く説いた。履歴書を参考に俊介の広島時代の活躍は全て調べ上げているようだった。何人もの記者の応募があった中で秋山部長は俊介の容姿に目をつけたようだった。東京の大手民放では記者がスタジオからニュースを伝える報道番組が人気を呼んでいた。秋山部長は芸陽テレビでもいずれこのような報道番組を企画したいと考えていたのだ。報道部の部屋に戻ると秋山部長は具体的な勤務条件を切り出した。
「当分の間、ニュースデスクとして現場の若い記者の指導に当っていただきたいのです。ニュースは朝と昼、それに夕方と夜の時間帯にそれぞれ十分づつ放送することを考えています。放送が開始したら他のニュースデスクと交代でデスクワークをお願いしたいのです」
詳細な打合せが済んで俊介の採用が内定した。翌日、俊介は岡山の本社に足を運び辞表を提出した。
「日比野君、いったいどうしたんだ。君にはこれから芸備日報を背負ってもらおうと思ってたんだよ。三次にいるのが嫌なら転勤を考えてもいいんだよ」
池谷部長は必死に俊介を説得した。記者歴十年の俊介を失うことは誠にしのびなかった。記者は一朝一夕には一人前にはなれない。数々の事件をこなした経験が物をいう世界なのだ。財政基盤が弱い地方紙の宿命としてわずかな人員で切り盛りしている報道部から十年のベテラン記者を失うのは何とも手痛い。池谷部長は三次に俊介を移動させたことを今更のように後悔した。
「長い間お世話になりましたが広島で体を壊してから自信がなくなってしまったんです。子供も生まれたのでそろそろ生活を一変したいと思い転身を考えました」
「それは分からないでもないが、一体これからどうするつもりなんだい」
「広島の芸陽テレビでデスクとして働かせてもらうことになりました。これからは内勤の仕事に就こうと思います」
「そうか。そこまで決心ができているのなら止めるわけにいかないが、これまでの経験を生かして頑張ってくれたまえ」
池谷部長はそう言って俊介を送り出した。広島に戻った俊介は長年世話になった沼田記者を訪ね退社の意向を伝えた。
「突然のことで本当に驚いたよ。でも芸陽テレビに行くなんて羨ましいよな。我が社とは資力が雲泥の差だからニュースも充実するんじゃないかな。日比野が行けば間違いなく良くなるよ。同じ業界の仲間としてこれからは互いに戦うことになるが健闘を祈っているよ」
地方紙の悲哀を長年かみしめてきた沼田記者は羨ましい気持ちを隠さずに気持ちよく俊介を送ってくれた。三週間後、俊介は後任の記者と引継ぎを済ませて広島に移った。家族には市内の社宅があてがわれた。取材には運転手付きの車両が二台配置され、報道部の機材も最新の高価なものが用意されていた。これまで俊介が籍を置いていた芸備日報とはえらい違いであった。迅速にニュースを伝えることを使命とするテレビ局ならではの措置であった。俊介が赴任してから一か月間は現場を取材する新人記者の研修が続いた。大学を卒業したばかりの五人の若者をこれから記者として仕上げていかねばならないのだ。事件現場で実際に取材をさせ、書き上げた原稿は全て俊介が手を入れた。テレビ放送用の原稿は会話体で書くので俊介は当初とまどいを覚えたが、研修メンバーに加わったテレビ局のアナウンサーが言葉の使い方を全てチェックしてくれたので作業は順調に進んだ。原稿が仕上がると現像を終えたフィルムをモニターに映し、原稿と映像の齟齬がないかチェックする。テレビニュースには映像取材をするカメラマンが必要で映画会社から引き抜きで三名が加わった。研修期間中には放送スタジオに若者を連れてゆきカメラテストも実施した。スタジオの壁際にアナウンサーが座る机と椅子が置かれている。その前に大きなテレビカメラが設置されカメラ技師がハンドルを握りながら操作していた。研修生は一人づつ交代に机に座り原稿を読んだ。スタジオの照明が明るく照らされるとカメラの赤いランプが点灯して研修生の顔が近くのモニターに大きく映し出された。研修生たちは慣れない作業に口ごもったり目をキョロキョロさせたりして緊張と戦っているようだった。
「日比野さんもやってみてはいかがですか」
研修現場を見にきた秋山報道部長にうながされて俊介はカメラの前に座った。長年の取材現場で極度の緊張を強いられた経験を持つ俊介は慌てる様子もなく淡々と原稿を読み上げた。モニター画面をじっと見つめていた秋山部長は満足そうな表情で何度もうなずいていた。一か月の研修期間を終えて芸陽テレビのニュース番組が新たに編成された。新人記者が市役所や警察の記者クラブに配置され毎日原稿を報道部に送ってきた。俊介は窓際のデスクに座ってこれらの原稿に手を入れていった。放送原稿は大きな字がボールペンで三枚綴りのカーボン紙に書かれている。アナウンサーが一目で読めるようにする工夫だ。俊介は青色の太い色鉛筆で加筆訂正しながら原稿を仕上げていった。仕上がるとストップウオッチで時間を計りながら声を出して読み上げていく。時間を集計して丁度十分に収まるように原稿を調整するのだ。俊介が原稿に手を入れながらストップウオッチ片手に読み上げる姿を報道部長の秋山が部屋の隅からじっと見つめていた。放送三十分前になるとアナウンサーが俊介のところにきて原稿の下読みをする。最終チェックをするためだ。初めてのニュース番組がスタートした日は報道部のテレビモニター前に秋山部長をはじめデスクや編集担当者が二十人ほど集まって画面を食い入るように見守った。初日からの失敗は絶対に許されない。報道部員の顔に緊張が走った。ニュース担当のアナウンサーが笑顔で挨拶した。この日のトップニュースは広島市内の交差点で発生した出会い頭の死亡事故だった。道路わきに倒れて車輪が曲がったオートバイの無残な姿がモニターいっぱいに映し出された。事故の衝撃がそのまま伝わってくるようだった。次は列車の架線事故で芸備線のダイヤが乱れたニュース、その後は市内の幼稚園で催された子供たちの人形作りであった。不細工だがほのぼのとした感じが滲み出た人形の姿が次々とモニターに映し出されなごやかな雰囲気をかもし出した。俊介は自分が手を入れた原稿がアナウンサーによって次々と読み上げられていくのを見ながら体の芯から湧き上る興奮を覚えた。十分のニュースが終わると報道部員の中から割れるような拍手が沸き起こり部屋いっぱいに響いた。俊介は極度の疲労を感じていたが素晴らしい仕事をやり終えた充実感に浸っていた。
「日比野さん、よくここまで仕上げてくれましたね。これでニュース番組を安心して続けることができます。今後ともよろしくお願いします」
秋山報道部長はニュースを俊介に託した自分の判断に間違いはなかったと満面の笑みで俊介を称えた。デスクワークは中途採用で集まった三人のベテラン記者が担当し、朝、昼、夕方、夜の番組を交代で担当していくことになった。夜の泊り勤務は現場の記者とカメラマンが交代で当たることにし、報道デスクは万一の場合に呼び出しで対応することにした。新人記者たちは彼らなりによく頑張ってくれた。しかし、駆出しのヒヨコであることは間違いない。大きな事件が起きたり他社にすっぱ抜かれたりすると俊介は自分で局を飛び出したい衝動に駆られた。しかし、今は新人記者を育てるのが自分の仕事だ。何があっても忍耐第一と決めて記者たちを指導した。時には声を荒げ、時には優しく励まして記者たちを叱咤激励した。こうして一年間、ニュース番組はつつがなく放映されていった。ある日、俊介は秋山報道部長に呼ばれた。
「この一年間、本当にご苦労さまでした。おかげで立派なニュース番組を作ることができました。実は、今日は日比野さんに相談に乗っていただきたいことがありましてね。少々お時間をいただきたいのです」
秋山部長は未だに俊介には気をつかって敬語で話しかけた。
「ご存じのように東京のキー局ではベテラン記者がスタジオでニュースを解説しながら放映して人気を呼んでいます。我が社もそろそろ取材体制が整ってきたので同じような番組を作ってみたいと考えているのです。実は番組のキャスターを日比野さんに勤めていただきたいと前から考えていたのですよ。日比野さんはルックスが良いし音声も明瞭なのでキャスターにはぴったりだと思うのです。アナウンサーではニュースの解説ができないのでベテラン記者の日比野さんにニュースキャスターを務めていただきたいと考えているのです」
「新聞記者あがりの自分にキャスターなんか務まるでしょうか」
「その点はご心配なく。東京の大手民放のニュースキャスターはいずれも新聞記者出身ですよ。長い取材経験を持つ方がスタジオに座れば原稿に出てこない微妙なニュアンスを分かりやすく解説できますからね。考えていただけませんか」
「分かりました。気持の整理をする時間を少々いただけないでしょうか」
俊介は前向きで検討する意向を伝えて席を立った。
「万理ちゃん、えらいことになったよ。報道部長からテレビニュースのキャスターを務めないかと打診されたんだ。原稿を書くのには自信があるけれどテレビカメラの前で話すとなるとどうなんだろう」
「あら、それは素敵じゃない。迷うことなんかないでしょ。俊介さんは今までだって様々な困難をくぐって今日まで来たんじゃない。俊介さんならきっとできるはずよ」
いつも積極的な万里子は俊介のよい応援団だった。というより万里子に話した瞬間から後戻りができなくなるのを俊介はよく知っていた。自分で決められない時はいつも万里子に話して後戻りの道を絶つ習慣がついてしまったのだ。勿論、万里子にもそれなりの算段が無いはずはない。キャスターを務めれば収入が増えるかもしれないし自分たちを見る社会の目も変わってくるだろう。何といっても尾道の母を喜ばせてやりたかった。父を亡くして寂しい日々を送っている母が俊介の顔をテレビで毎日見ればこんな心強いことはない。万里子はどんな重要なことでもいつも身辺の利害関係だけで片付けていた。それに俊介はうまく乗せられてきたのだ。しかし万里子の積極的な生き方は俊介の人生にいつも幸運をもたらしてくれた。万里子なしで生きてきたら今頃ローカル記者で野垂れ死にしていたかもしれない。万里子はいつも人生の方角を示してくれる羅針盤のような存在だった。そう思うと万里子が非常にいとおしく感じられた。
三か月の訓練を経て俊介は遂にニュースキャスターとしてスタートすることになった。
「皆様こんばんは。ニュース六○○を担当することになりました日比野俊介です。最新のニュースを優しく解説しながら皆様にお伝えしていきたいと思います。それでは最初は広島で核廃絶の国際大会が開かれたニュースです。世界十五か国から・・・」
俊介のさわやかな笑顔とともにニュース六○○は始まった。
「万理ちゃん、見たわよ。俊介さんのニュース六○○。本当に素敵だったわ。俊介さんは男前だからキャスターに適任だわ。すごい出世なのね」
尾道の聡子から興奮冷めやらぬ電話が万里子にかかってきた。
「お母さんの言うのももっともだけど男前だけじゃニュースキャスターは務まらないのよ。血が滲むような十年間の取材経験を経て初めてニュースを分かりやすく解説できるのよ。俊介さんも仕事を楽しんでいるようなので何よりだと思っているの。俊子もこれから大きくなることだし父親がニュースキャスターをしていたら誇りに思うでしょうね」
聡子と万里子の会話はいつものことながら身辺の小さな利害に終始していた。しかし家族が幸せになるのなら自分の転身は無駄ではなかった。俊介は仕事一途で家庭を省みなかった自分の変わりように驚いていた。大人になるというのはこういうことなのかもしれない。家族が幸せになってこそ意味がある仕事ではないか。俊介はそう思いながら毎日定刻になるとテレビカメラの前に座った。
「皆様こんばんは。ニュース六○○です。今日の最初のニュースは・・・」
俊介のさわやかな声が今日も茶の間に流れていた。
                                           完                                

走れ俊介

走れ俊介

日比野俊介は地方紙の新人記者として尾道の通信部で取材活動をしていた。仕事に追いまくられて女性には全くの無関心。そんな俊介を下宿の万里子がまとわりついて俊介に好意を示す。広島に転勤した日比野を追いかけて万里子は俊介と所帯を持つ。一人前の記者として著しく成長した俊介だが激務がたたって体を壊し、夫婦で三次通信部に転勤する。俊介を待っていたのは多数の死者をもたらした三次市の大水害。家族を危険にさらした記者生活に疑問を感じた俊介は、新しくできた広島のテレビ局に移る。やがて俊介はニュースキャスターに抜擢されて茶の間の顔になる。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-18

CC BY-NC-ND
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