南予のトッポ話

x南伊予の トッポ話 (第一話)

は じ め に   
   トッポ話について
 トッポ話とは、単なる頓智話ではない。 実は「トッポの里」と言われている愛媛県の南予で親しまれている「極めつけ」の頓智話なのである。
 「トッポの里」とは、獅子文六が、風俗小説家として認められる発端となった名作の小説「てんやわんや」と「大番」を書き上げた所、北宇和郡岩松村(まつむら)の事である。現在は、宇和島市と合併して宇和島市津島町になっている。以前は。劇作家で小説家の獅子文六が、終戦を挟んで10年余、岩松に疎開していた。津島町の北側は、広大な御槇高原を経て峻険な鬼ヶ城連山に連なり、北側の隣接地・宇和島市と南側に接する南宇和郡との境界にも、共に鬼ヶ城連山からの峻険な支脈が立ちはだかっている。宇和海に面する海岸線が海へ向けて、口を開けているのは、近家部落港の僅か150㍍程しかない。その港の両側には、標高100㍍を越す半島が、これまた、、宇和海からの侵入者を制限するかのように、九州路へ向けて細長く、突き出している。昭和一桁の時代まで、津島郷は陸の孤島だった。しかし、おいしい米の名産地としても有名。第96代・後醍醐天皇は1318年、即位と同時に「御料野」に指定。収納の役人として岩城・山城守(いわき・やましろ・のかみ)を派遣。津島郷の人々は御料野の指定を縁に、子々孫々、南朝方として忠節を尽くした。
 後醍醐帝の皇子・懐良(かねよし)親王は、征西将軍となって九州への途次、津島郷へ立ち寄られ約3年間も駐留されている。津島郷の人々は大昔から、「縁」を大切にする。また政治と政争も大好き。一度こじれると対立は国政並となり、妥協する事をしらない。その強烈な政争ぶりに獅子文六が驚嘆。その実態を、そっくり模写した2編が大当たり。紙価を高める事になった。  
 「トッポ話」とは何か? 辞典に其の字句は無い。電子辞書に「トッポ話」と入力すると「とっぽい」と出る。意味は、気障で生意気である。とっぽい奴。南伊予のトッポ話とは全く違う。似たうような熟語に突飛がある。意味は、思いもよらないこと。言行や着想などが並外れて奇抜なこと。人の意表を突いていること。突飛な服装。とある。トッポ話とは、突飛な話と思って貰えればよさそうだ。
 南伊予(みなみ・いよは南予(なんよ)とも言う)のトッポ話も, 大まかに言えば、突飛ばなしと同じようなモノ --とは言えるが内容は全く違っいる。全国各地の突飛な話や民話は、冒頭から「嘘の塊」と判明するが、トッポ話は、嘘と誠が判然としない、トッポ話は、南予の人々の、日常の会話や生活の中に混在しているモノなのです。一読に値します
      運 の 強 い 男  
         幸せの原点は近家の里

 五平(ごへい)さんは,  生まれついての強運な男である。天気に恵まれた秋の, ある朝、愛用の種子島銃(たねがしま・じゅう)を肩に、久々の猟に出かけた。林の中の小道を抜けると、見晴らしの良い原っぱに出た。見上げると、空は青く澄み渡り, 雲一つ無い, 素晴らしい秋日和!! 空気も肌寒くなった今日この頃である。あと一旬も, すれば師走である。柄にもなく五平さんは、しばし, 行く秋を惜しんでいた。ふと気が付くと、近くの空を9羽のカモが、ゆっくりと飛んでいる。しかも、五平さんが立っている方へ向かって, 飛んで来るではないか。
 五平さんは「しめたっ」と, ばかりに, 種子島を腰だめに構えた。カモの編隊は、さらに近づいた。頃や良し! 五平さんは素早く、カン射ちで一発・発射した。その時、五平さんは、カモの「への字」の編隊に, なぞらえ, 銃床(じゅうしょう)を「への字」に, くねらせていた。
 案の定、9羽のカモは一度にバタバタと墜落して来た。五平さんは大急ぎで、カモを拾い集めた。腰にぶら下げて来た、細引き(ほそびき=麻で作った細くて丈夫な縄)に、数珠つなぎ。うち、最後に林の傍に落ちたカモは、ご丁寧にも枯枝を一抱え程も、もぎ取っていた。
 なんと五平さんは、たった一発の弾丸で9羽のカモと、一抱えの薪(たきぎ)を撃ち落としていたである。ニンマリと、ほくそ笑まずにはいられなかった。

   続 け て カ モ を 20羽                                                                                                        
 五平さんは, 予想以上の獲物に大喜び。「なんと 今日は上々の収穫じゃあ。ぼつぼつ 帰るとするかあ」と, 家路へ向かった。 
 すると今度は、直ぐ左手に見える大池に、カモが20羽, 降りていた。ほとんどが動かない。撃ちそこないは、まず、ないだろう。「運の良い日は、得てして、こういうものよ!」と呟きながら、そっと、足音を忍ばせ近寄った。
 よく見ると、池は凍っていた。カモたちは 水面に降りて、眠っている間に,
凍り付いて、しまったらしい。身動き一つ 出来なくなっていた 。カモは水面でも眠れるのである。「カモの浮寝」と言う。喜ばずには, おれない 。今度は銃を撃つ必要もない訳だ。 
 五平さんは早速、凍った池の上を走り回り、20羽のカモを「ごぼう抜き」に引き抜き, 腰に下げていた細引きに括りつけた。意気揚々である。 
 「さあて、今度こそ、本当に帰るとするかあ」五平さんは、カモの束を「よいしょっ」と力を入れて、引っ担いだ!!さあ~大変“ 獲物の重みと、五平さんの体重が諸(もろ)に、2本の足先に集中した! 氷が割れた! 五平さんは, 獲物もろとも“”ジャボーン〝“ 
 池の水は 凍り水だ“”そら!急げ! 岸に向かって, 大慌てに手を伸ばした。指先に何か当たった。木の根っこだろう。しっかりと握りしめた!!??
あーら, 不思議”!? 木の根っこが, 五平さんの体を、一気に, 岸の上へ引きずり上げた!! ???
 なんと、木の根っこと思っていたモノは、山ウサギの後足だった。ウサギはグッタリ?と、死んだように、なっている。身動き一つ出来ない。その横には、なんと見事な山芋が一貫目(3・75キログラム)ほども転がっている!。ウサギも必死だった。もがきに、もがき、その前足で、太くて・長くて・立派な・山芋を掘り出したらしい。
 五平さんの、その日の収穫は、実に、一人で、カモ29羽に、ウサギ一匹、山芋3・75キログラム、タキギ一抱えー という、前代未聞の大収穫! になっていた。 ,
 我ながら「本当かいな?」と首を傾げながながら、ドッサリの獲物を肩に、五平さんは、フラフラ・ヨロヨロ、家路を急いだ。 
  
  着物の中から コイ・フナ・ウナギ
 
 五平さんは、獲物を肩に、やっとの思いで、我が家に辿り着いた。獲物を下ろすと、大きな声を張り上げた。
 「嬶(カカア)よう、早う着替えを出してくれやあ、急いで湯も、沸かせろやあー」と、肩で大きな吐息を一つ。急いで帯を緩めた!その途端! 不格好に大きく, 垂れ下がっていた腹の部分から、コイとウナギとフナが、どさりと落ちた。これまた、締めて一貫目もあった。因みに, 一貫目は3・75キログラム。

  カマドノの中から ネギとカモが
 一方、奥さんは、着替えを出した後、湯を沸かしに掛かった。カマドの中にマキを入れた! 途端に? 何やら おかしい? 変なんじゃっ? 何時もと、手触りが違う? 柔らかい? 急ぎ!懐中電気を取った。照らした!?? 覗いた? なんと、カマドの奥には、ネギを、体に巻き付けた、カモが1羽、蹲(うずくま)っていた? ネギの目方は、目算で2キログラムは下るまい。なんと? まあー? ネギが, カモを捕まえとるヮ?! 驚いたあーー
 このカモは、五平さんに撃たれた9羽のカモのうちの一羽だった。一番、後ろを、かなり遅れて飛んでいた為、弾丸の速度が緩くなり、手負いには、なったが生き長らえた。カモは、苦しまぎれに、あちら・こちらと這いずり回わった。最後に辿(たど)り着いた所が、五平さん家(ち)の「カマドの中」だったー と言うワケ。 
 五平さんの嘘のような、一日の大収穫を伝え聞いた、世の中の人々は、予想も出来ない程の「うまい話」の事を、「ネギ鴨(カモ)」とか、「カモがネギを背負って、やって来た」などと、言うようになった!  

      予 防 医 学
 パンティー とか、ズロ~スやの言うものが、なかった時代のことじゃあ。その頃の女子衆(おなごし)は、すべて「湯文字(ゆもじ)」という名の「腰巻き」を、腰に巻き付けていた
 五平さんの家は娘が三人がいる。そのうちの長女が十四歳になった。着物の模様にも「注文を付ける齢ごろ」である。「お父さん今度、作って貰う私の湯文字も(ゆもじ)なんやけどなあ、珍しい模様に染めてよなあ」と、ねだった。
 五平さんはニコ・ニコと「そうじゃネエ~ 綺麗で・・・うん、清潔と言えば、そうやねえー、黄色の銀杏の模様が良いかのう」と一人頷(うなず)き, ほくそ笑んでいる。娘さんは真っ向から反対! 「銀杏はイヤヤ!」と言う! しかし五平さんは少しも動じない。頭を縦には振らなかった。娘さんも引き下がらなかった。「なんで、お父さんは銀杏に、こだわるのヨー?」と食い下がる。
 五平さんは徐(おもむろ)に口を開いた。「銀杏はネエ~ 銀杏は昔から、虫が、ツキニクイ、と言われて来たんじゃヨー! お前だって、虫に食われるのは嫌じゃろうがあー」と五平さん、今度は、ニヤニヤ!。
     セキレイは 長 生 き 鳥 ?
 南伊予の人は昔、農閑期になると、対岸の大分県大分市の別府温泉まで,よく湯治に出かけた。五平さんも御多分に漏れず、近所の人達と連れ立っては大分市へ渡り、農繁期の疲れを別府温泉で癒(いや)していた。 
 田植えが終わった5月の下旬、五平さんは隣の若い洋市さんと相談。6月には上旬のうちに「別府」へ行く事にした。そのことを知った近くの有造さんが、やって来た。「五平おじさん、一緒に行きたいのやがナー、私を入れて三人おるんやけんどなァー?」と言う。みんな、気兼ねのない者, 同士である。即決。計五人での「湯治行」となった。 
 茂平さんと洋市さんには、既に馴染みの温泉宿があった。五平さんらの予約の条件は、部屋から「直接・海が見えない所」と言う事。案内された部屋は、目の前に、池付きの立派な庭園があった。その後(うし)ろには、小高い緑の丘があった。文句の付けようもない。
 何故、海に拘(こだわ)るかと言うと、五平さんらが、住んでいる近家(ちかいえ)地区は、海岸の村。海は毎日、眺めている.。「海の人」なのだ。せめて 、久々の湯の町で、寛(くつろ)ぐ時ぐらいは、目の前に見えるのは、海ではなく、庭園が見える部屋が良いー と言うだけの事
 一行は予約どうりの部屋に案内された。5人ともに久々の温泉である。荷物を置くと、当然のように「サアー まずは, 一風呂(ひとふろ)を」と、元気よく、温泉場へ急いだ。
 時は、夏至(げし)の7日前!! 昼間の時間が、一年中で最も長くなる夏至が、目前に来ている! 夏至の時期の、天気は変わり易い。この時期とは五月下旬から六月末に、かけてである。また、この時期に降る雨を、五月雨(さみだれ)と言う。その五月雨は、雨足(あまあし)にも変化が激しい。長時間降り続いたり、かと思うと一時に、ドット土砂降りになって、みたり? 全く油断が出来ない。
 近年は大企業の労働組合が、抜き打ちにストライキを打ったり、急に途中で止めたり、おかしな事をするようになった。サミダレ式ストというそうな?。規則正しいストに比べると影響は、かなり大きくなる・そうだ。その五月雨(さみだれ)の凄(すさ)まじいまでの激しさを、松尾芭蕉は、次のように詠んでいる。五月雨(さみだれ)を・集めて早し・最上川(もがみがわ)ー
 空模様の変化も激しい季節であるー ここ当分、天気が穏やかに安定する事は先ず有り得ない。という事は、近家(ちかいえ)に帰っても、慌てて、5人を待っいるような農作業はないー と言う事だ。という事は、のんびりと、温泉を楽しんで来いー と言う事でもある! 大いに楽しもう!!と五人は・正に、心の底から寛いでいた!!   
 湯上りのビールも正に格別の味だった! ゆったりと、コップを傾ける。ゆるゆるー と、時が流れるー いつの間にか、池の中の岩の上に、1羽のセキレイが止まっていた。セキレイは・綺麗な小鳥である。しばし、ビールの、ツマミの代役をしていた。
 突然、若いサービス嬢が「あの小鳥さん、変ですねえー 何時まで同じように、シッポを振り続ける積り、なんやろう?」と首を傾(かし)げた。
 頓才に冨み雄弁家の有造さんがニコ・ニコと受けたて立った「あれか、あれはナァー、あの小鳥は、羽を休めている間は大昔から、あんな風に、シッポを振り振り・振り続けよるんよ」
 サービス嬢 ?? しばし、ポカーンー としていたが「ヘエー あの小鳥さん、そんなに長生きしよるんですかァー 」と、目を大きく見開き、驚いていた??

     セキレイは月下氷人を 
        雌雄・和合の教師役も
 夕食までには、少し間があるようだ。有造さんが、暇潰(ひまつぶし)でもするかのように、薀蓄(うんちく)の程を傾け始めた。
 ー セキレイはネエ、驚くことに、神話の中にまで出とるのじゃぞー 神話によるとやネェ、日本の国は、イザナギ・イザナミ、という二人の神様によって作られた。イザナギのミコトが、ある日の事、天(アマ)の浮橋(うきはし)に立って、アマノ・ヌホコで、海の中を、掻き回し、引き上げた時、鉾(ホコ)に付いていた潮水(しおみず)が、海の中に滴(したた)り落ちて、出来たのが日本の島国だったーと神話の中に、ハッキリ書いてあるのじゃーー。
 ところで、その、お二人の神様は、「国づくり」は出来たものの、残念ながら肝心の「人づくり」のことに、ついては、なんにも知らなんだという。
 そこで、心配された親神様が、セキレイを呼び寄せた。セキレイには、神代の時代から嫁教鳥(とつぎ・おしえ・どり)とか、嫁ぎ鳥(とつぎ・どり)と言う仇名(あだな)まで、付けられている。その名が示すとおり、セキレイは「月下氷人(げっか・ひょうじん)=仲人=と、しても天下にそ、の名を轟かせていたワケなんじゃあ。
 その上にじゃな、セキレイは、生き物の「密か事(ひそかごと=ひそやかに、すること」の教師・役まで、親神様に押し付けられて、いたのじゃぞー
 その親神様から、お呼び出しが掛かった。セキレイは急ぎ、大空へ飛び上がった。親神様は、フンワリとした座布団のような、雲の上に座っておられた。どの周りには、それは、それは美しい紫色の雲が棚引いていた。セキレイは、厳かな気持ちになり、恐る恐る、親神様の右肩に止まって、次の指示を待った。
 親神様は静かに下界を指差した。見下ろすと、イザナギと、イザナミの二神が、小高い丘の草原(そうげん)に仲良く、お座りになり、周囲の風景を楽しんで、おられるように見えた。直ぐ近くには、綺麗な水の、小川も流れている。
 親神様は右に顔を捻(ひね)り、「セキレイや、お前が行って、あの若い二人の神に・夫婦・和合の道を教えて、やってくれ」と囁(ささや)かれた。
 セキレイは直ぐ様、滑空に移った。音もなく、静かに、若い二神の近くに舞い降りた。幸い手頃な岩もあった。それに飛び乗ったセキレイは、早速、シッポを振り始めた。 一心不乱に! 日の暮れるまでーー 
 セキレイの願いが、若い二人の神様に届くのは、いつの事になるのだろう?

    セキレイに感謝しよう!
 セキレイは見ての通り、スズメより少し、大きくて、シッポが長い。その長いシッポを、何時までも振り続けるのが特徴で、良く知られている。水辺の鳥で、昆虫をエサにしている。 
 その、セキレイはネー 世界中で、僅か十一種類しか、いないのじゃぞー。そのうち、日本で見られるのは ①キセキレイ ②ハクセキレイ ③セグロセキレイ ④ツメナガセキレイ ⑤イワミセキレイの五種類だけじゃ。⑤のイワミセキレイ以外の四種類は、日本で繁殖もしている。
 面白いのは、日本に遊びに来るイワミセキレイじゃあー。 世界中に居る
セキレイ十一種類のうち、十種類が、シッポを縦(タテ)に振りよるーと言うのに、イワミセキレイだけが、シッポを左右(ヨコ)に振っとるそうやァー
偏屈(へんくつ)じゃのう。じゃが、面白いではないか。貴重な鳥でもあるようじゃあー?? 大事にしてやろうではないか。
 いずれにしても、セキレイは、偏屈者(へんくつ・もの)ぞろいじゃ。神代の時代から、一生懸命シッポを振って、人間界に、人口の増加を呼び掛けているが。日本に限っては、このところ、人口は減少の一途でしかない。それでも、セキレイたちは、ひたすらに、シッポを、振り続けているーー
 いずれにしても、セキレイには、人間界の発展の為、永遠に、①嫁教鳥(とつぎ・おしえ・どり)とか、②嫁ぎ鳥(とつぎどり)と言う名の、「月下氷人(げっか・ひょうじん)役」を、果たし、続けて貰わねばならない。感謝する、ほかはあるまい!・・・と、一息ついた有造さんは、冷や酒の入ったコップを両手で包み込み、少しずつ、美味そうに啜り込んだ。

   紫は極楽浄土の色!
 美味しそうに「冷や酒」を飲む有造さんを、珍しそうに眺めていたサービス嬢が、徐(おもむろ)に口を開いた。「ねえー お兄さん、さっき、神様が座っていた雲の周囲に、紫色の雲が、美しく棚引いていたと言われたが?、私は未だ紫色の雲を見た事がないんです。どんな所に行けば、見られますか?」と、またまた、首を傾げた。
 五平さんらは、いずれもニコ・ニコと静かに盃を傾けている。うち、五平さんは、有造さんとサービス嬢の顔を見比べながら、ニヤニヤもしている。二人のやりとりを、心から楽しんでいる様である。
 「うーん・・・それはワシも未だ見た事がないんじゃあー、それは昔から言われとるやろう、極楽というのは天上にあって、何時も紫の雲が棚引いていると、あっ、五平おじさんっ、さっきからニヤニヤばっかりして、早う辻褄(つじつま)を合わせてやー 話が噛み合わんようになったんよっ、この間、聞いたばっかりやのになあ、本気で聞いてなかったんよ」と苦笑い、頭を掻いた。
 五平さんが直ぐに引き継いでくれた。「その事なら此の間、私らの村のお寺の和尚さんに聞いたとこなんよ。それに、よるとなあー 極楽には何時も紫色の雲が棚引いているそうな。それで極楽のある所を「紫の雲路(くもじ)」と言い、紫の雲が棚引く天上を「極楽の空」と教えられている。
 このように紫の色は大昔から尊いもの、有難いもの、目出度いものーとされて居り、「紫の雲」と書いて「天皇の皇后(正式な配偶者)、天皇の中宮(皇后以外の配偶者)の異称ーともされている。また宮中の庭は「紫の庭」とも言う。この他、念仏行者の臨終の時には、仏が紫色の雲に乗って迎えに来ると言われ。また、善行を重ねた人が往生した時には、極楽には紫色の雲が棚引き、妙なる琴の音が、厳かに流れて、善人を誘(いざな)い寄せるーとも伝えられている。
 まだまだ、あるぞうー 花の中でもねェー 特に上品で美しい花ー とされている「藤の花」の事を昔から「紫の雲にも見える藤の花」と称える人が多い。枕詞にも取り上げられて居るぞうー 「紫」は雲と藤の花に掛けられて居り、歌人や俳人、歌心のある人たちに親しまれているのじぞ。

困 っ た お 手 伝 い さ ん
 
 近家(ちかいえ)の庄屋さんの家に、若くて綺麗な娘さんが「お手伝いさん」として、やって来た。名前は「花」という。やたらと「お」を付けるのが好きな、娘さんじゃった。
 おトマト、おゴボウ、おピーマン、といった調子。あまりにも、耳障(みみざわ)りなので、庄屋の奥さんが「何にでも、オを付けるのは、おかしいんですよ」と注意した。
 娘さんは「ハイ, 分かりました。これからは十分に注意します」と「オ」を、省くことを固く心に決めた。
 翌々日の朝のこと、庄屋さんの家にマツタケが届けられた。奥さんが「お花さん、このマツタケ、大切に仕舞って置いてネ」と頼んだ。「ハイ」と元気よく答えた。お花さんは、マツタケを、台所の桶(オケ)の中に入れた。
 やがて夕方が来た。夕食の準備が始まった。奥さんが「お花さん、今朝のマツタケ、どこに、仕舞いましたか?」と尋ねた。お花さんは、大きな声で「ハーイ、ケの中に、入れてありまーす」??

    マツタケの 値段
     
魚でも野菜でも果物でも、「ハシリ」は、値段が高くなる。ある街の、防火用水の横の日陰で、一人の行商人が、大きな竹かごの上に、マツタケを並べ、商売をしていた。通りがかりの主婦が一人立ち止まった。
 「このツボミは、何とも形がよいですねえ、高いでしょうねえー」  
「そうでも無いですよ、二千円です」 &「ホーラ、高いワァ。そっちの開いたのは?」 &「この、ヒラキですか、これも二千円です」 &「こっちの虫が食った小さいのは?」 &「あー その、コロですか、コロも二千円です。虫が食うて、ボロボロやー 言いなはるが、虫が食うと言うことは、ウマイという証拠ですぜー! それにナァー、どれも、これも 一晩、水に漬けとけば、シャントしますぜえー !] 「ねえ、マツタケ屋さん、どれも、これも 同じ値段と言うのは、どういう事なの? 」・・・ 「へー マッタケはなあし、どれも、これも、みな突っ込み、なんですらい!」??? 
 &因みに、マツタケは、キシメジ科のキノコ。独特の香りを持ち「食用キノコ」の代表種とされる。日本全土の赤松林に発生。花崗岩地の浅い根に付きやすい。主産地は、京都・岡山・広島など。上品な食べ物として好まれるように、なったのは平安時代からという。
 平安時代とは、第五十代・桓武天皇(かんむ・てんのう)=在位737-806年=の794年から、源頼朝(みなもとの・よりとも)が鎌倉に幕府を開いた1180年までの三百八十六年間をいう。
 ところで京都で逸早(いちはや)くマツタケが人間の目に止まり。食べられるように、なったのは当時、京都では神社、仏閣の建設が盛んになった事が主な原因だった。建築が盛んになると木材が沢山、必要になる。建築用の木材が多く切り出された。
 建築用材として好まれない木材は取り残された。柱にすると直ぐに腐(くさ)るーと、毛嫌いされていた松材だけが目立つようになった。広葉樹林が減少すると、周辺の土地、そのものが痩せてしまう。普通の樹木は痩せ地を嫌うが、アカマツだけは大好きーと言う。それにアカマツは根に、マツタケ菌を呼び寄せるーと言う独特の力を持っているそうな。赤松の林が広がれば, マツタケも沢山、収穫できる。マツタケが、沢山、出回わなれば、当然、下々の食膳にも上るようになった。
 斯くて「京都の秋の美味しいモノは?」と言えば、京都の人々は、上下の区別なく「京都の秋の味覚は、なんと言ってもマツタケどすえー」と言う事になった。京都は、いつの間にか「日本一の美味しいマツタケの産地じゃあ」と言う評判が高まったのである。    
 &なお、マツタケは、香りを楽しむなら、ヒラキを。美味しさなら、ツボミを。ツボミの前のコロは、更に味が良く、食感も申し分が無いと言う。
       思 い 過 ご し

 マツタケ売りが、街中(まちなか)へ商いに来た。柔らかな売り声を流していると、直ぐ、近くの家の格子窓が開いた。齢頃(としごろ)の娘さんが、顔を出した。そして囁(ささやく)ような、小さい声で「マツタケ屋さん」と、呼び止めた
 行商人は、娘さんが恥しがって、小さな声で、話しかけて来たー と、思い込んだ。同じように、小さい声で「へえー どれに、しなはるか?」と静かに聞き返した。
 すると、娘さんは、眉を顰(ひそ)めながら、心配そうに、「マツタケ屋さんも、風邪をひいて、声が出んのですか?」?。

      以上が第一部

     ここから第二部


人間は好き勝手にせえー 
       神様がブチギレた?

 十月は神無月(カミナシづき)! 全国中の神様が、日本の神社の総本山である島根県出雲市の出雲大社に集結。年に一度の大宴会を催すのである。日本中の神様が揃って、出雲に集まるワケだから、出雲大社以外の神社には、神様が一人もいない。だから十月は、神無月(カミナシづき)!と言う。
 この神無月について、五平さんは、次のように話している。
 大昔のこと、世の中が、まだ、キッチリと治まっては、いなかった頃のことじゃ。地球上の、あらゆる生き物は、それぞれの代表、百人ずつを、出雲大社に送り込み、「それぞれの・願い事」を、各・担当の神様に陳情していた。
 各生物の代表が「神様に、雌雄(しゆう)の交合の日取りを決めて頂く時」は、それこそ大変な騒ぎになったんじゃ。その混乱に乗じて一番、ほくそ笑む結果を手に入れたのが、人間だったのじゃァ。      
 神様たちは、諸々の氏子たちの願いを、スムーズに聞き届け、結論を即決する為、地域ごとに分かれて、対応する事にした。「折角の酒盛りじゃあ、おいしく飲むためには、少しでも早く処理してやる事じゃ。神々よ、直ちにカカレエー」となった!! 
 &「猫か、お前は春先にせよ。梅がツボミを持つ頃に致せ」&「次は犬か、お前は猫よりチョット、時期をずらして春の盛りにせよ」&「猿か、お前は犬と犬猿の仲と言うから秋が良かろう」&「ウン、次は、馬か?」と言って神様は一つ大きなアクビをした。そして徐(おもむろ)に、お神酒を、ゆっくり一口、口に含んだ。
 宴会を開きながらの応対である。神様とはいえ、かなりシンドイ話だった。最初のうちこそ順調だったが、時間が経(た)つにつれ、段々と雲行きが怪しくなった。だからーといって神様を責めては、いけない。十月は、神無月(かみなし・づき)と言うが、そればかりではない。十月は新米(しんまい)で新酒を造る月でもある。醸成月(かもなし・づき)とも言う。
 また年末年始には、神様を必要とする行事が山積している。特に酒づくりという仕事には、神様を外せない。というのも十月には全国・各地の酒造場で一斉に、仕事始めの儀式が開催される。次いで新酒が出来ると火入れの式。火入れが終わって新酒が完成すると、その完成の祝いである。杜氏(とじ)たちの努力の成果を、労う祝いの宴へー と続く。
 それに酒造家と言うのは、一つの町や村に、一箇所と言う事は、先ず有り得ない。特に米どころ、ともなると、数箇所が犇(ひしめ)き合っている。その酒造家の総てが神様の出席の時間に合わせて「祝宴の開催時間を決めている」神様が欠席する事は出来ない。そして新年には初荷の神事が待っている。このように、年末年始は神様が休む日など一日として無い。何処かで息抜きしなければ、ならない。
 そもそも・神無月(カミナシづき)とか、醸成月(カモナシづき)という異称(いしょう)からして、紛(まぎ)らわしいのである。耳で聞く限り「カミナシづき」と、「カモナシづき」と言う異称の違いは、神の「み」と、醸の「も」の一字が違っているだけだ。
 神様が一休みしている所へ、待ち臥(くたび)れていた馬が、蹄(ひずめ)を鳴らした。それも当然の成り行き。神様の酩酊ぶりや、酔眼とは関係ない。やがて馬が「神様ようーいつまで、待たせるのぜえー早ようー決めて、下せえーようー」と大きく嘶(いななき)、蹄(ひずめ)で床板を打ち鳴らした。
 ホロ酔い機嫌の神様たちは大慌て、ただ・ただ、口を、もぐ・もぐ、さらには、オロ・オロ!する・ばかり・・・
 陳情団は、やっと半数に減ったところだ。この調子だと終了までには、未だ、四・五日は掛かるだろうーと、人間の代表たちは予測した。「遅くなった上に、もし期待どうりの結果が得られなかったら、どうしよう。罵倒だけでは済まないかも? 大変じゃあ。なんとしても、早急に決定して貰わねば??」と、スクラムを組み直し、気合を合わせて、神様の近くへ、近くへと、強引に突進を開始。遂に神様たちに近寄った。
 そして、あらん限りの声を振り絞り!一斉に「神様あー 人間は何時が、宜しいかあー!」と喚(わめ)いた。途端に神様たちが、一斉にブチ切れた!!「ウルサーイ!! 勝手にせーい!」
 人間の代表団も一斉に声を揃えて!!「ハハァー! 恐れ入りましたァー! 勝手に、させて頂きまース!! 誠に有難うーーございましたァー!」と、最敬礼!! 頭を上げるや否や胸を張り、意気揚々と引き上げ開始!! 腰にぶら下げた大きな瓢箪(ひょうたん)に口を当て、進軍ラッパよろしく、去年の残りの古酒を、心ゆくまで飲んだのである。
   
   ブチギレの短慮を かみがみは大後悔
 人間代表の質問に神々が、立場を忘れて「勝っ手にせえー」と怒鳴ったばっかりに、人間どもが取り返しの、つかない方向へ走り出して仕舞ったのである。
 もともと、生類は色事が大好きだ。お陰で種族が増加し発展し続けている。ところが、生きとし生けるもの総てに自制心が欠けている。放任して置くと「シ放題・ヤリ放題」になって仕舞う。日本全国の神社の総本山である出雲大社で、各種族にとって「最も適正である時期」を伝える筈だったのに? それが、あろう事か、最も危険な人間に対し「勝手にせー」と放任したのだ。神々にとっては悔やんでも悔やんでも、悔み切れない結果になった。あの大会後、神々は「今後は一切、酒を飲まない事にする」と断酒を宣言した! 神棚のお神酒が、少しも減らないのが、その証拠である。
   勝つ手に楽しんで 堕落する人間  
 人間に関する神々の心配は、直ぐに現実のものとなって現れ、神々の眉を曇らせた。神々が断酒を宣言。反省していると言うのに。人間どもは、毎晩のように酒を喰らい、酔うては正体を失い、繁華街の大通りを道一杯に千鳥足。交通渋滞を引き起こしている。その辺・一帯で酔いどれ達が「神々の勝手に、さらせえーに、バン・ザーイ」と喚き・叫び・大歓声を挙げている。出雲大社に陳情団が押し掛けた日もそうだった。意気揚々と引き揚げる人間どもの代表団が振り絞る歓声と足音は、大きなどよめきとなって、出雲大社の広い境内を、揺るがしていたのである。 #ああ、「これからが、だあー」と、天を仰いで長嘆息しているのは、独り・神だけではあるまい。心ある人間の中にさへ、心配している人が、かなり存在してるー のである。
 神々が恐れる酒には、次のように、古来から数々の格言がある。①酒いれば(飲めば)舌(した)出(い)ず=余計な口を挟む ②酒が言わする悪口雑言 ③酒・極まって乱(らん=争い)となる ④酒と朝寝は、貧乏の近道 ⑤酒に飲まれる ⑥酒に酔って件(くだん)の如し=(クダ)を巻く ⑦酒飲みは半人足(はんにんそく)=半人前 ⑧酒は先に友となり後に敵となる ⑨酒は百毒の長 ⑩酒は飲むとも飲まるるな ⑪酒は飲むべし飲むべからず=酒は飲んでも良いが、とかく失敗が多いから大酒は飲むな ⑫酒を嗜(たしな)む、なかれ、狂薬(きょうやく)にして佳味(かみ)に非(あら)ず=酒を自分の好みにしては、いけない。酒は人の心を狂わす薬である。それに、それ程、美味しいモノでも無い ⑬酒と色事には懲りた者なし ⑭酒の終わりは何時も色話(いろばなし)。


       里 帰 り

 婚礼が済むと「里帰り」と、いうのがある。三日目に帰るので昔は「三日帰り」とも言った。里帰りになると、出里には、未婚の女友達や、妹の女友達などが、手ぐすね引いて待ち構えている事が多い。好奇心の塊(かたまり)のような瞳を輝かせている! 両親への挨拶が終わると、妹さんが並み居る友達を代表して、新妻(にい・づま)となった姉の訪問着の袖を引き、連れて来た。
 「お姉さん! お婿さんと一緒におるのは、本当に、エエーもんなのかあ? 楽しいもん、なのかあ?!」
 「エエー に、決まっとるやろう。早うー 夜が、来んかいなー と思うだけよ」と姉は、澄まし顔! 妹さんたちの表情は「たったの二日しか経って、いないのに?? もう一年も二年も経験した、ベテランのような顔をして??」と、不審な表情?? 暫し、ポカンとして、姉の顔を斜めに、見つめる、だけだった??   
    姉 さ ん は 嘘 つ き

 オボコ娘にも婚期という時期が来た。姉が嫁いだ翌年の暮れに、結婚した。そして姉と同じように、三日帰りをした、ところ、お姉さんが、大きなお腹を抱えて里帰りしていた。妹さんは早速、姉さんを人のいない部屋へ連れて行き「姉さんは、私に嘘を吐いて、いたのよ。私はねええ、お姉さんと違って、夜の明けるのが恨めしゅうて、恨めしゅうて、泣けてくるのよ」と、目を潤ませていた・・・

         雪 は 体 に 悪 い

 雪景色は綺麗! しかし、舗装していない道路では、溶け始めると「泥濘(ぬかる)んで、歩きにくく、なるから」ーと言って、毛嫌いする人も多い。
 ある町の庄屋の隠居さんも、どちらかと言うと、「綺麗な雪景色」を敬遠する人である。昨年の師走(しわす)の事。二十日ごろから暖かい日が続いていた。「今年の年末・年始は、雪が降る事はあるまいー」との予想も流れていた。雪は降らないと言う予報に、ご隠居さんは大喜び。年末は早めに、本宅から少し離れた妾宅に、泊まり込んでいた。
 元旦の朝、雨戸を開ける音で目を覚ました。「まあー なんと綺麗な雪景色!」と、言う嘆声が聞こえた。さあー大変! ご隠居さんは大慌て、急いで着物を着始めた。続いて「大雪ですよー ゆっくり、お休みになって下さーい」と言う艶(なまめかしい声が伝わって来たー ご隠居さんは更に慌てるー 帯を締め、綿入れを着込み、首には「エリマキ」も巻き付けた。そして、ご隠居さんは考えた。「これ以上ここに、おったら命が縮まる。今日は何としても実家で、ゆっくり休ませて貰いたい」と、こっそり勝手口に回った。
 静かに戸を開けてビックリ! なんと! 残念! 外は一面の銀世界!  積雪量も30センチは下るまい! ここ当分、妾宅から本宅へ帰ることは出来そうも無い!大雪は大豊作の前兆と大昔から言い伝えられている。南伊予で正月早々、積雪が30センチになるのは30年ぶりの事だ。さて、今年の行く末は、吉と出るか! 凶と出るか? この雪で不機嫌になっているのは、ご隠居さんだけかも?

       雪について・お知らせ 
       
 近年には珍しい大雪を、目(ま)のあたりにして驚き、慌てふためいている、ご隠居さんの心の悩みは未だ、お妾さんには通じていない。お妾さんの動きは普段よりも軽やかだった。「お茶を入れますねえ」と茶の間に入った。先ず、ラジオのスイッチを入れた。・・・現在、シベリア上空には、強烈な、寒気団が居座り、南下のチャンスを窺(うかが)って、おります・・・
・・・ 遅くとも、節分(せつぶん=2月3日)までには南下し、更なる・大雪を・齎(もたら)す・畏(おそ)れが多分にあるようです・・・ 
 年末年始に色々な御馳走(ごちそう)を沢山(たくさん)お食べに、なられた高齢者と、普段、高血圧と診断されている方(かた)は、栄養の摂り過ぎが心配されます。ご注意下さい・・・
 なお、シベリア上空の寒気団は、一段と勢力を強めて、いるようです。くれぐれも、ご用心を・・・ 
 この天気予報に、お妾さんは全く、気付いていない。実は、それどころではなかった。南伊予に住んでいる人が、これ程の大雪に出会うのは30年ぶりの事なのである。ましてや、30歳そこそこの人が物心ついてから、これだけの大雪を目の当たりに、するのは生まれて、この方、初めての事なのである。
 お妾さんは、初めての大雪を見て、心は子供に帰っていた。ウキウキしていた。ご主人様の心の動揺など斟酌(しんしゃく)する暇(ひま)など全く無かった。例え分かって、いたとしても、今日は元日である。然も、生まれて初めて見る大雪だ。「コタツの中で雪見の・お酒を!と、洒落こんでみたいー」と幸せな一日を夢見ていた。楽しかった幼い頃の正月を思い描きながら、母さんと一緒に良く歌った大好きな、お正月の童謡を口ずさみ、お茶を立てていた
       七種粥(ななくさ・がゆ)が     
        ノ ゾ キ を 薦 め た
 元旦の朝、例年になく、南予地方に大雪を齎(もたら)した寒気団は、なにを思ったのか、三日には、大慌てのように急反転。久しぶりに太陽が、拝めるようになった。正月の三が日が大雪のため、庄屋のご隠居は、妾宅から出る事が出来なかったが、四日の夕方には、本宅へ帰えれたー という。
 翌・五日の夕方には、岩松川の上流域の積雪も、完全に溶けた。七日の朝には、若菜で、緑に萌える堤防は、七種粥(ななくさ・がゆ)に入れる、春の七草(ななくさ)を摘む、女や子供たちで賑わった。
 春の七草とは、①せり ②なずな ③ごぎょう ④はこべ ⑤ほとけのざ ⑥すずな ⑦すずしろー の七草をいう。
 この春の七草を、入れて炊いた粥(かゆ)が七草粥である。この七草粥を、正月七日に食べると、その一年間は家族全員が、安全・息災に過ごせるー と、言い伝えられている。旬の野菜を十分に食べて、健康になろうー という、日本人の、地道な・健康つ”くり、の風習である。
 岩松(いわまつ)の隣りにある近家(ちかいえ)村でも、七日は朝早くから、ここ・かしこの草原(くさはら)で、女・子供が春の七草(ななくさ)摘みを楽しんでいた。
 五一さんも、久々の陽射しに誘われて、部屋の庭先に立った。五一さんの家は小高い山の山裾に建っている。直ぐ下は岩松湾(いわまつ・わん)。少し冷たいが、爽(さわやか)な風が、潮の香りを乗せて、吹き上げて来た。思いっ切り、両手を広げ、深呼吸をした。
 そこへ、隣の洋市さんが顔を出した。「五一さん、七日に七種粥(ななくさ・がゆ)を食べるのは, 何か、謂(いわ)れが、あるんかいなー 」
 「うん、正月七日に七種粥を食べると諸病(しょびょう)を除(のぞ)き、家族皆が健康になれると、昔から、言い伝えられて、おるでなあー 皆が食べるのよ」 「へえー そうなんだー? しかしなあ、皆が大勢で、覗(のぞ)きをしても? 大丈夫なんかいなあ?? 誰も怒らんの、かいなあ??」と目をパチクリさせた??
 「大丈夫じゃあー 諸病を除(のぞ)く、時の、除(のぞ)く、はナァー、黒板塀ごしに、他人の家を覗(のぞ)いたり、風呂場を覗(のぞ)いたりするのとは、大違いなのじゃあ。七種粥(ななくさ・がゆ)で、除(のぞ)くのは、悪い病気を追い出すとか、追い払うーと、言う事なんじゃあー、心配しなさんな!!」。         
 「ああー そうなんだあー 七種粥(ななくさがゆ)の日は覗きが許さるとは? これは面白いことを聞いたぞうーー 今日の夕餉時(ゆうげとき)は、忙しゅうなるぞうーー」と呟きながら、洋市さん、家へは帰らず、緩やかな坂道を、楽しそうに、小走りで消えた。
 洋市さんは、陽気で元気な働き者。農作者としては、彼ほど打って付けの男は、近家にもいない。しかし、彼は「稀代の早とちり屋」である。早とちりが玉に疵(きず)の男だった。足早に走り去った洋市さんの胸の中を、五一さんは、知る由もなかった。
         
       冗 談 も 言 え ん・・ ・・・
 
 岩松の、お薬師様の縁日には、近家(ちかいえ)からも大勢の人が、お参りに出掛けた。その中の一人に、頭は抜群だが、途轍もない、おどけ者の幸太郎さんもいた。近所の人々と連れ立って参詣に加わったのである。
 お薬師様に到着した。幸太郎さんも村人と共に、本堂前で手を合わせ「ナンマイダブツ」と唱えていた。そのうち、本堂内で営まれている法事の内容が知りたくなった。彼は密かに本堂に潜り込んだ。 
 幸太郎さんが、お薬師様の本堂へ上がるのは、これが初めての事。その頃から空模様が怪しくなっていた。一雨・来る気配。そのせいもあってか、本堂は大入り満員になった。幸太郎さんは、薬師如来像に向かって右斜め前に陣取った。仏像の直ぐ近くまで押し付けられていた。
 その場所は、本堂の板の間より10センチ程も高くなっていた。畳が敷いてあった。幸太郎さんの周囲には誰もいない。幸太郎さん唯一人である。
 4人の和尚さんたちも、一段下の板の間に座っておられる。高い所に上がっているのは、幸太郎さん一人である。本堂一杯に押し掛けた信者たちに、押し込められた、のではなく、幸太郎さん自らが勝手に潜り込んでいたのである。その事をハッキリ自覚が出来てからも、幸太郎さんには、板の間に下りる気持ちなんぞ、さらさら、生じなかった。
 お調子者の幸太郎さん、静かに、念仏を唱えているうちに、厳かな気持ちになった。やがて、なにやら、偉くなったような、いい気分になった。いい気分になると、すんなり納まならないのが、幸太郎さんだ! ナム・アミ・ダブツ」だけでは、妙味がなくなった。「ナンマイダ~ー ナンマイダァ。一日も早く、極楽に送り、幸せにして、やんなせや~ ナンマイダ~ 」と、頭まで下げた。
 薬師如来像の下は、同寺・一番の、いたずら小僧・珍念(チンネン)が、盗み食いする時に使う、秘密の隠れ場所である。幸太郎さんが、横道に逸(そ)れだした頃、珍念は丁度、葬式マンジュウに、かぶりついた、ところだった
 罰当たりな、幸太郎さんの念仏を、間近に聞いた、罰当たりな珍念が、黙って見逃す筈がない。早速、得意の作り声で、「善哉(ぜんざい)、善哉、善哉かなー、直ぐにも、極楽往生の願い、聞き、取らせてー 進ぜよう~ ナーム・アミ・ダ~ブツ・ナ~ムァミ・ダ~~ブ~ツ~~」
 幸太郎さんは、ビックリ仰天!? おじゃらけの願いを、仏様が即座に、聞き届けてやると言われた? そんな馬鹿げた話がある筈もない? 即座に極楽に送ってやろうー? なんて? とんでもない話じゃァー? 必死になって? 打ち消したが? 確かに? 厳かな声で? ハッキリと答えられた? ハッキリと聞いたのであるー? 幸太郎さんの顔は真っ青!? 一目散に本堂から飛び出した?「ウワァァ! これが、堪るかやァー!ここの仏様には、冗談も言えん」!一目散に、逃げ帰った。
 薬師寺のイタズラ小僧・珍念さんは、「おじゃらけの第一人者」と謳(うた)われる、幸太郎さんに、「何時の日か、必ず一泡(ひとあわ)吹かせてやりたい」と、手ぐすね引いて、待ち構えて、いたのである。自慢の作り声に、まんまと引っかかった幸太郎さんが、大慌てに逃げ出す姿を見て、仏像下の穴の中で、珍念は、こっそりと独り、ほくそ笑んでいた。 

以上が第二部

南予のトッポ話