大地と息吹
土に触れたのは本当に久しぶりだった。
湿った、懐かしい泥の匂いを嗅いだ途端に、心まで幼い頃に返ったようだった。
私は興奮し、夢中返って大地を掘り起しながら、爪の合間に土が挟まる不快な感覚を心の底から楽しんでいた。生々しく、ギュウギュウと外界が身の内へ食い込んでくる、遠い昔に忘れ去ってきたはずの圧迫感、やや痛みにも似たその心地は、この上なく不潔であるはずなのに、ひどく快かった。
私はその時、確かに人生の「真実」を見出していた。この原始的な体験こそ、実際の「生」の姿なのだ。大地の上で長いこと過ごし、大地の産物にぬくぬくと育まれてきたと言うのに、私はなんと薄情で、浅はかな暮らしをしていたことだろうか。これが「真実」に違いなければこそ、私は今更、病を得、大地へ還らざるを得ない段となって、みっともなく怯え惑い逃げ、絶望していたのだ。土が汚物の終着点であるという、己で好んで作り出した幻想に、自らが落ちるのだとわかって、ようやくそれまでの「清潔」な自分もまた、脆く儚い虚像に過ぎなかったと気付けたわけだ。
私は、土と変わらない。
私は、汚れ、同時に、なおも豊かだ。病で穢され、いかに擦り切れたとしても。私は未だ「生」を育むことができる。真実の、より深い「生」を。
私はなおも土を掻き分けて、時を忘れて穴を掘り続けた。自らの汗と、吐息が穴の中でむらむらと蒸され、土の香が余計に湧き立って鼻腔に沁みた。一掻き毎に、掌へ伝う土の冷たさが気持ち良く、私は息を切らせて、幾度も次の快感へと手を伸ばした。
土が、土が、土が、むせ返る程に迫ってくる。
私はじっとりとした幸福感に包まれていた。
頭上から照りつけてくる太陽は、依然として苛烈だった。私は滝のように汗を流しながら、時折仰ぎ、生い茂った草の合間から差し込む鋭利な日差しを細目で眺めた。無慈悲な太陽は容赦なく、燦々と降る。その真下で大地は、
コホォー…………、コホォー…………
と、深く、しぶとく息衝いていた。おそらく大地は太古の昔より、片時も休むことなく、こうして人知れず濃厚な時を過ごしてきたのだろう。「清潔」の妄想に囚われていた頃は、全く気付かなかった。私には、ともすると大地の呼吸が聞こえなくなりがちだった。偽りの生の濁り、真実からあえて目を背けたがる、くだらない衝動が、雑音となってしまうのだった。
脳がドロリと融ける、その限界まで呼吸に集中する必要があった。ほんの少しでも油断すると、空も割れんばかりの蝉しぐれに、あっという間に意識が掻き消されてしまう。私の身体は墓の中にあってなお、新たな生のかたちを疑ってしまうようだった。無理からぬことなのかもしれない。身体はそのかたちを極限まで維持したがる。そういう風にできている。私は身体の習性をどうにか宥めるべく、さらに土を掻いた。
変わらず響く大地の息吹に耳を澄ませながら、私は、
「鼓動か」
と、胸の内でこっそり呟いた。蟻の巣にも劣るような、ほんのちっぽけな穴を穿っただけで、どうして大地の心の臓に近付いたと言えるものか。だが私は、掌に、足裏に、脊髄に、大地の鼓動をずんと重く感ずるようになってきていた。大地は常に蠢いている。神聖な鼓動は神代の太鼓のごとく、深淵な律動を成す。私は己を飲み込まんとする大いなる圧力に、芯から震え上がった。恐怖、畏怖、あるいは、歓喜。鉄砲水となって押し寄せてくる感情に、最早名は付けられない。
私の墓穴は、どんどんと深まった。もう汗も垂れない。少しずつ、身体が冷えて凍え始める。歯がガチガチと鳴る。必死で食いしばるも、止められない。
スコップがあればもっと美しく掘れたかもしれない。だが、そんなものは無粋だ。私の身体で、自ら掘り進まなくてはならない。私は土になりたいのだ。
歯がガチガチと鳴る。必死で食いしばるも、止められない。もうすぐ土が崩れて、私は途方もない苦しみの中で死ぬだろう。私はなおも、なおも掘り続けた。
土の色が次第に黒ずんできていた。心なしか匂いも違ってきている。地上から漂ってくる草いきれはもう遥か彼方だった。もうすぐ私の手では土に歯が立たなくなるかもしれない。段々と岩がちになってきた。
私は勢いよく土に手を差し込み、ミミズを一匹、腹から引き裂いた。ミミズは二つの破片となって私の足下に落ち、しばらく苦しそうに悶えていたが、やがてぷっつりと息絶えた。
まだ生きている別のミミズが、仲間の死を悼むがごとく私の裸足の上で静かにのた打ち回っていた。
コホォー…………、コホォー…………
大地の息が先程より、大きく鮮明に響いてくる。ついに本当に脳が融け出したのだ。
憐れな千切れたミミズはすぅと冷たくなったきり、微動だにしなかった。
私は穴の底から、すっかり遠く、狭まった空を見上げて、長い溜息を吐いた。太陽はもう西へ帰るべく、心許なげにうっそりと傾いていた。まだ生きているミミズが大地の懐へ、もぞもぞと潜り込み帰って行く。
カラスの甲高い鳴き声が、私の耳を劈いた。
――――いつからか、滲む日を背負って、穴の淵に誰かが立っていた。えらくのっぽな男で、黒々と影に染まり、死神然としていた。
私は自分を見下ろしてくる相手の顔を、じっと見返した。
この地域では、ありふれた男であった。瞬きをすると消えてしまいそうな、仄かな陰のある面差しと、薄い乾いた唇。病的に痩せた手と、窪んだ眼。青緑色の粗末な作業服。私とよく似た風貌であった。
額からぽとりと垂れ落ちた汗の雫が、私の視界をじわりと滲ませた。男の姿が覚束なくなると同時に、私はふと懐かしい寒気に襲われた。視界の端で、死んだミミズが蘇るのが見えた。キンと張った耳鳴りが、聞こえるすべての音に取って代わっていく。
何が理由だったろうか。この寒気は、私に安堵をくれる。
男は胸元のポケットから煙草を取り出すと、平然とそれに火を点けた。その眼差しは仮止めの針のように私へ向けられたままであったが、そこにはどんな感傷も込められてはいなかった。
私は寒気の終焉と共に、全てを思い出した。
彼が――――私と同じ病に伏した彼が、とうの昔に喪われていたということを。
私はその瞬間、自分の掻き分けた土の山が崩れ落ちてくるのを知った。湿った、甘い匂いが怒涛の勢いで迫ってくる。
あの寒気は、死者への手向けだった。傍らで死に行く人間が、ついに事切れる時、誰もが感じる、祈りに最も近いもの。
男は花束を贈るように、あえかな火の灯った吸殻を穴へ放った。踵を返す彼の背が、私の目に映った最後のものだった。私は土に押し潰されながら、目を閉じた。
これで、私の身体は、ようやく新たな生を受け入れ始めるだろう。
やっと眠れる。また目覚めるまでの一時に過ぎぬだろうが、病に蝕まれた身には、それは本当に喜ばしいことだった。恐怖も、苦痛も、いずれ全て土がくるみ込む。太古の混沌が寝かしつけてくれる。
やがてまた「生」を歩むために、今は休もう。
土は生きている。
コホォー…………、コホォー…………
年古りた永い子守歌に、我が声が、重く、冷んやりと重なっていった。
終
大地と息吹