さきたまのひ

 この作品は、浦辺えぐの漫画作品「たまゆら」の二次創作小説です。
 書き出したのは、もう三年も前です。驚きです。
 構成を変えてみたりなんだりしてる内、色々あって一度、書くのをやめてしまい、このほど完結させました。
 色々あって、と一言で言ってはいますが、色々ありました。誰しもそうであるように、色々色々ありました。
 出来たら、ネット上で浦辺えぐの「たまゆら」を見つけていただいて、それを見てから読んで頂けたらと思います。その方が、わたしとしても助かります。
 ちなみに、わたしは二次創作というものをしたことがなくて、二次創作という言葉も知りませんでした。
 微かながら縁あって出会った「たまゆら」が非常に魅力的で、説明の省かれたその世界を、自分で補完したい、という業めいた欲望を覚えたのが、これを書いたきっかけです。 
 楽しんでいただけたら、嬉しいな。


 香を焚き染めた手紙を、少年は胡坐をかいて睨んでいた。
 
 陰間の場を襖一つ隔てた四畳半切、茶室程の広さの部屋、窓から届く初夏の風が手紙の香を少年の鼻先に届ける。
 『これは女の仕業や・・・』
 甘い香の向こう、像を結ぶ女の姿に、彼は一人悶えた。
 「あれまあ柘榴さん、何をしてるんです?」
 丁度、叩きを持った黒鵐(くろじ)の登場に、少年は慌てて表情を繕い、何時もと同じに退屈そうな顔をしてみせた。
 「何もしてへん、涼んでるだけや」
 半年前に此処、市松屋に現れ、有らゆる雑事を一手に担っている黒鵐は、典型的な女丈夫と比喩されているが、実際は半陰陽。キメイラ状と呼ばれる複雑な性を抱えているが、性別に関しては「無性」を自称し、利便から女丈夫な風を作り上げている。
 「あれ、こりゃ上品な」
 黒鵐は手紙を手に取り、鼻先でその香を愉しんだ。丁寧に漉かれた紙の隅に一筋、青い滲み。
 「まあ、まあ、きれいな色・・・」
 感嘆を漏らす黒鵐に、柘榴は、独り言のように呟いた。
 「翡翠宛て、という意味や」
 夏の予感を湛えた風が、彼の口元を揺らす。
 合点のつかない様子の黒鵐。翡翠という名の、とびきり可愛い顔立ちの陰間を思い浮かべるも、手紙に一筋刷かれた青とは繋がらず、ただただ翡翠の赤毛を思い出すばかり。苛立ちを隠すという作法を知らない柘榴が、責める様な口調で続けた。
 「カワセミの色や、カワセミは翡翠と書くやろ」
 へえ!と他愛なく感嘆を漏らし、黒鵐は部屋の隅に置かれた小さな文机の上に、丁寧に手紙を置いた。
 「なあ、黒鵐」
 柘榴は、胡坐をかいたまま身を翻し、コンコンと文机を小突き、口の端だけで喋る。
 「この手紙、こういう気障を平気でする女は、どんな女やと思う?」
 「なんでしょう、柘榴さんとは真逆の人でしょうねえ」
 
―陽は落ちかけ、風は橙。
 緩やかな覚醒で、柘榴は自分の眠りを知った。
 「お目覚めですか?」
 未だ薄ら呆けた視界の真ん中に、陽に透けた赤髪が揺れている。
 深い井戸に石を落とす様に、長い時間をかけて、ようやく焦点は正しく結ばれた。
 「翡翠、どこ行ってたんや」
 クスクスと小動物じみた笑いを浮かべ、翡翠は小さな口を開く。
 「わたしが出掛ける度に、柘榴さん、その質問」
 「何がおかしいんや!道理やろ其れが!!」
 ちょっとした言葉の摩擦で、すぐに声を荒げる彼に、翡翠はとうに慣れ、今では親しみさえ覚えている。だから、こんな風に返す。
 「気になる?」
 いよいよ柘榴が声を荒げようとする刹那、着物からちろりと覗かせた人差し指が、窓の方向を指す。
 瞬間、さらさ、と。 水の揺れるような音―。
 「風鈴?」
 二人の頭上で、揺れるたまゆら。
 「そろそろかな、と思って、買いに行ってたんです。この色がなかなか見つからなくって」
 落ち行く陽の橙が、硝子に刷けた色を照らす。それは熟れる寸前の果実に似た、瑞々しくて儚い猩々緋 。
 「日暮れ前なればキレイな赤紫だったんですよ。こうして見たら、いっそう紫。赤いくらい」
 風。
 また、水揺れる音。
 遮るように、階下から二人を呼ぶ声。
 急かされ立ち上がる翡翠に、起きもせず柘榴。
 「手紙来とったで、青の引かれた、香焚いた気障な手紙」
 「もう見ましたよ」
 「そう」
 再び階下から声。
 「はやく行かないと、黒鵐さん、あれで短気ですから」
 翡翠は、小走りに部屋を出る。
 寝そべったまま風鈴を眺め、目を閉じる。
 瞼の裏、橙と紫の明滅。
 ―気障な事、考えるもんやない
 柘榴は、起き上がり、自分の名前と風鈴の色との、ささやかな因果を消し去った。
 さらさ、と、もう一度だけ、揺らいで鳴った。

 蝙蝠、蜘蛛の巣、蛸に蛇に化け猫。果てには訳のわからない異形の怪物。
 「さあ、どうです?どれも心にくいでしょう?」
 町一番の便利屋を自称する石田屋は得意満面で、様々な柄の着物が描かれた紙を広げた。
 柘榴は壁に身をあずけたまま、退屈そうに応える。
 「ゲテモノばっかりやんか、何が嬉しゅうて蛸の柄、纏わなあかんねん」
 大袈裟にかぶりを振り、石田屋。
 「柘榴さん、お洒落は言わば酔狂です。蝙蝠柄なんてどうです?」
 足の指で器用に紙をはさみ、石田屋の顔面にポイと投げつけると、柘榴はため息をついた。
 「あぢきないわ、もうちょっとええもん持って来い」
 「なんか、元気無いですね柘榴さん、暑さにあたりました?」
 リン、と風鈴、ゆるい風。
 早生まれの蝉が、細く鳴いた。
 「そうだ!南蛮渡来の薬でも持ってきましょうか?」
 「いらん、人を病人にするな、もう帰りぃや」
 ―それから、石田屋の饒舌に十数分ほど付き合わされ、柘榴はいよいよ目を閉じ、まどろんだ。瞼の裏に昨日の手紙の青が浮かんでは消える。
 誰からのどんな手紙か。
 そうした些細な事が聞けない理由を、彼は『自分は翡翠のことが好きだからだ』という、あまりに短絡に過ぎる答えでしか理解していなかった。その幼稚さや純粋さが果たして少年らしいと言えるのかどうかはわからない。彼が未だ少年であるという事実があるだけだ。
 
 「あれ、柘榴さん、お出掛けですか?」
 「なんや気が物憂い、晴らしに出る」
 黒鵐がせわしなく駆け寄り、履物を柘榴の前に正す。いかにも景気のいい彼(彼女)の「いってらっしゃい」を背に、柘榴は振り向きもせず街へ出る。
 通りは賑やかで、少し前から流行している、椿や朝顔の描かれた団扇が界隈を彩る。街は暑い季節に向かって開いていた。
 一度街に出れば、彼の美貌に様々な形で多くの賛辞が寄せられる。
 あからさまで下世話、密やかな羨望、嫉みを含んだ悪意、憧憬の眼差し、無自覚な鑑賞。
 色街で一、二を争う陰間である彼は、そうした声に一切の感応を示さない。彼は自分を『糞みたいな客の慰み者』と解釈し、同時にそれを卑下ではなく唯の事実、出来事として捉えている。
 「やあ、柘榴さん、お久しぶりじゃないか」
 長さ二丈程の短い橋の上、真っ白い肌の男が、鋏を片手に手を振った。恐ろしく切れ長の目が、爬虫類の様に何処か艶かしく、柘榴の輪郭を嘗めた。
 「南路(なんじ)やんか、鋏なんて持って、何してるんや?」
 辻芸人の南路。
 歌や踊りや楽の音ではなく、創作の奇妙な御伽噺ばかりを語る柘榴曰く、けったいな蜥蜴野郎。
 「この鋏ね、新しい芸さ、練習がてら見せようか?」
 「なんや物騒な芸ちゃうやろな、血ぃは見たないで」
 眉を顰める柘榴の前に、何処から出したか藍色の千代紙を突き出す南路。
 「新しい芸はな、紋切り遊びや」
 「まともやんか」
 「いつだって、まともさ。見ていろよ」
 三白眼を震わせて南路は千代紙を畳み、ゆっくりと鋏を入れた。待つこと三十秒「完成」の言葉と共に、小さくなった紙を広げて見せた。
 「此れは・・・何や?」
 目を凝らすも、柘榴には完成図から知った形を読み取る事が出来なかった。と、南路がジトリと笑い、紙を逆さまに。
 「蜘蛛の巣にかかった蝙蝠と、其れを見つめて儚む少女。どうだい?」
 柘榴はため息と共に小さくかぶりを振った。
 「まとも言うたんは間違いや。紋切りやったら、麻の葉やとか花とかそんなんやろ」
 「お気に召さなかったかぁ」
 「ゆゆしいもんは嫌いや」
 
 ―昼も終わろうという頃、茶屋では翡翠と黒鵐が一枚の紙を囲んで談笑していた。丁度、柘榴が戻ると、翡翠は笑顔を伴った手招きで彼を呼び「見てください柘榴さん」と満面の笑顔を向けた。
 「石田屋さんにもらった着物の変り柄目録ですよ、面白いですよー」
 蝙蝠、蜘蛛の巣、蛸に蛇に化け猫。果てには訳のわからない異形の怪物。
 「もうええねん、ゆゆしいもんは好かん」
 草臥れた調子で呟く柘榴に、翡翠は変わらぬ笑顔で言った。
 「これなんて似合いますよー柘榴さん」
 小さな指が示した先に、蝙蝠。
 「石田屋といいおまえといい、なんで蝙蝠やねん!」
 声を上げた刹那、ふわり、と何処からか紙が舞い、地につく前に俊敏な動作で黒鵐が受ける。
 何時の間に何処に仕込んだか、南路の見事な紋切り。
 「其れな・・・翡翠への土産や」
 柘榴が溜息と共に言い、二階へと去る。翡翠は無邪気に喜んで、紙を広げた。
 「わ!すごいですねー」
 蜘蛛の巣、蝙蝠、少女。 閃いた、とばかりに黒鵐。
 「これは翡翠さんと柘榴さんですよ」
 「私と、柘榴さん?」
 いっそ微笑んで、翡翠は頬を紅くした―。
 
 夜。
 粘膜の夜。
 『嗚呼、また此れや・・・』
 嫌な客にあたった訳でもない、体調が悪い訳でもない、一月に一度、唐突に訪れる、耐え難い夜。
 口の中に残る体液の温度。
 なめくじの様に全身を這う舌と指。
 こんな夜、柘榴は祈るような気持ちを知る。
 『なんでもいいから、はよう、おわってくれ』
 重力を持った闇の中、何処へとも無く沈んでいく先を地獄と定めて笑う。
 不意に上がった柘榴の口角に、男の唇が重なり、いっそ夜は深くなった。

 「感激だなあ、また来てくれたのかい?」
 けったいな蜥蜴野郎、辻芸人の南路は何時もと同じに橋の上。柘榴を見るや手をふって道化た。
 「南路、今日は本間に気が憂いとる、おもろいもん見せてぇや」
 爬虫類じみた、裂けんばかりの唇からチロリと舌を覗かせて、南路。
 「昨晩、よほどの変態でもお相手したかな?」
 「そんなようなもんやな」
 本来の彼であれば、声を荒げるところ。不思議と南路に対してはそうした素振りをあまり見せない。大抵、人は辻芸人の事を河原乞食と呼び、端的に乞食と呼んで茶化す事も日常茶飯事。ただ、柘榴はその呼称で南路を呼んだ事は一度も無い。
 「其れでは、情欲に草臥れた貴方にうってつけの作品を差し上げよう」
 言うなり、何処からか千代紙と鋏。
 「また紋切りかいな。昨日みたいのはあかんで」
 「んん?昨日は何をつくったっけ?」
 目をしぱしぱと逡巡する南路。
 「わたしと柘榴さんですよー」
 と、丁度橋の向いから、翡翠。ぱたぱたと小走りで寄る様子は子犬のように愛らしく映る。
 「これは翡翠さん、なんとも素敵なお召し物だね」
 藍墨の市松紋に、暑さで紅潮した頬と似た珊瑚色の小袖。今朝方、黒鵐に可愛らしいと絶賛を受けた着付けだ。
 「昨日の紙切りは南路さんの作品だったんですね」
 「そう、ところで僕はどんな柄を作ったっけかな?」
 「わたしと柘榴さんですよー」
 二人のやり取りに業を煮やした柘榴が割って入り「ええからなんか作ってくれ」と溜息を吐いた。
 「じゃあ予定変更、今回は翡翠さんのために作りましょう」
 無邪気に声を上げ喜ぶ翡翠。
 小さく紙を折り畳み、小気味よい音をたてて鋏。俄かに道行く人の視線が集まり、空気が緊張感を纏い始める。南路は、少しだけ笑う。どんなものであれ芸を披露した時の、無関心を含んだ試されるような視線が彼は好きだった。
 「完成」の言葉と共に勢いよく紙を広げる。
 紙のいたるところに咲き乱れる、様々な形の花々。
 人々の感嘆。
 「さ、どうぞ」
 遠慮がちに翡翠が受け取ると、ささやかながら拍手が起こり、翡翠は照れながら笑った。
 拍手をきっかけに、南路は芸の前口上で客寄せを始め、橋の上には人だかり。
 水面が照り返す白、煌々と乱反射。
 早生まれの蝉が頭上で鳴いて細い風が口元を撫ぜる。
 『こんなんきらいやねん』
 足元に蟻の行列。何を何処へ運ぶ。また風が吹いて誰かが言った「涼しい」ゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり額から汗が流れて親指の爪と人差し指の爪とが擦れあって鳴った。
 『こんなんきらいやねん』
 調子のいい前口上で跳ねて跳ねて跳ねて跳ねて跳ねる跳ねる言葉、震えている南路の眼球が時々そうなるみたいに、ほら、ほら、また震えている。聞こえる。水の音が聞こえる。橋の下を流れる水の音が聞こえる。何処から来て何処へ何のために流れる聞こえる水の音形容できない音。水の音。
 『こんなんきらいやねん』
 翡翠の笑顔が揺れている。珊瑚色の頬に喜びの色が隠れもしないで咲いている。手元の千代紙、切り抜かれた花。花。花。きれいでかわいらしくてそれはよい。よい。よいよ。ぴったりだよ。すてきだよ。喋った。翡翠が喋った。でもなんだろうなんていってるんだろう。言葉は堕した。言葉は堕してしまった。言葉はただの音に堕してしまった。だからよみとらなくちゃ翡翠の顔から声から読み取らなくちゃいけないのになんにもなんだかわからないしわかりたくないんだきっと。
 
 「こんなん きらいやねん」

 言って、柘榴は踵を返す。
 呆気にとられた翡翠は、彼の背中を黙って見つめ、少し遅れて「柘榴さーん」と声を投げた。
 不意に、背後で拍手と歓声
 美しい紙の花々が、風に舞い、そのうち落ちた。

 「そりゃあ簡単な事ですよ」
 黒鵐は炊事の手を止めず、翡翠に背を向けたまま言った。
 「柘榴さんには不気味な蜘蛛と蝙蝠、翡翠さんには愛らしいお花。心無い事じゃないですか」
 「でも、そんなことで怒ったって感じじゃなかったんですよー・・・」
 柘榴の背中に見た拒絶の色を反芻し、翡翠は不安を覚える。
 些細な事ですぐに怒る彼を、最早十二分に知っているつもりだったが、昼間の出来事にそうした経験則では抑えられない感覚を翡翠は覚えていた。そうでなければ、わざわざ黒鵐に相談などせず、少しの間をおいて笑顔で柘榴を迎える処だ。
 背をむけていた黒鵐が、ゆっくりと振り向き、身をかがめ、小柄な翡翠に目線を合わせる。
 「たとえば柘榴さんが、その南路さんを好きだったら?」
 思わず翡翠は「あ!」と声を上げそうになった。何かが思い当たった訳では無い、ただただ純粋な驚き。どうしてそれを思わなかったのかという、自分に対する驚きも含んだ感嘆だった。
 黒鵐は、翡翠の肩に優しく手を置いて、続けた。
 「こんなこと翡翠さんはおわかりでしょうけど、人間ってとっっっっっても残酷になれてしまうんですよ」
 翡翠は、黒鵐の目を真っ直ぐに見た。
 透明の目。そんな風に黒鵐は思った。
 「当たり前の事なんです。人が人に理由のわからない仕打ちをして仕舞うのは。知りたければ聞くことです。そう、知りたければ聞くことなんですよ。それがお互い出来れば、大抵の事は何でもない事です」
 優しく笑ってから、黒鵐は背を向け炊事へと戻った。
 「―嘘つき」
 翡翠の呟きは、誰にもとどかず、ただ空を舞って消えた。

 四畳半切り、風鈴の鳴る部屋で、柘榴は寝そべり、薬指を齧っては痛みの感覚に神経を寄せ、途切れればまた違う指を齧る。
 粘膜の夜が訪れた次の日は、いつでも体内に異物感が残り、其処から来る我が身の不自由と不快感を、痛覚で殺すのが彼の処世。時折無自覚に「嗚呼」と声を漏らしては指を齧り続ける。
 彼は、自分の此の一連の感覚、感情を人に話した事は無い。土台、そうした夜々の訳の解らない感覚を言葉にする術など持ってはいなかった。
 「柘榴さーん」
 襖の開く音と、翡翠の声。
 身を起こし、遊ばせていた焦点を正す。
 「なんや」
 「お話があります」
 翡翠は、彼の横に腰掛け、いつもするように、柔らかな口角を上げた。
 「わたしに届いたお手紙のこと、気にしてます?」
 「・・・」
 柘榴は押し黙り、それについて整理されていない自分の心を嘲笑う。答えを待たずに、翡翠
 「御伽噺です。わたしのお客さんで、自作の御伽噺を手紙で届けてくれるんです」
 言って、翡翠は柘榴の耳を甘く嚙んだ。
 其のまま、耳元で囁く
 「恋文だと、思いましたか?」
 「これまで何通か来てたん、ぜんぶ御伽噺なんか?」
 未だ目の見えない子猫がそうする様に、翡翠は身を寄せた。
 「幸御魂(さきたま)の御伽噺・・・長くて、まだ何通も続きそう」
 「さきたまて、何やねん」
 「わかったら、教えますよ」
 風鈴が鳴った。
 柘榴を抱き寄せながら、翡翠は自分の心を不思議に思った。
 『どうして、わたしの胸は痛まないのだろう?』
 人間は何処までも残酷になれるという、先刻の黒鵐の言葉を思い出す。
 『知っていますよ、そんなこと。とうに知っていますとも』
 もう一度、自問してみる。
 『どうして、わたしの胸は痛まないのだろう?』
 「ごめんなさい」と、不意に漏れそうになった言葉を、柘榴の唇で塞いだ。

 半陰陽。
 キメイラ。
 複雑に絡んだ性。

 黒鵐は自分の性別を無性と自称しているが、其処に辿り着くまでの道のりを人に語る事は無い。
 彼(彼女)は、一言「地獄下りでした」と抽象するのみだ。
 此処、市松屋に来てから、黒鵐は女中としての完璧な仕事ぶりと物腰の柔らかい大らかな人格で、高い評価と人望を得ている。無性とは言いながらも、典型的な女丈夫といった風は愛される要素を多分に含んでいた。
 無論、口には出さないが、黒鵐はそうした来し方を「地獄下りの終点」と名付け、自分に向けられる愛着に対しては非道く乾いた感情を持っている。
 そんな黒鵐が、此処でただ一人、水気を湛えた感情を持って接している存在がいる。
 それは、翡翠。
 此処に来て三月経った頃、客に首を絞められ、翡翠が失神し一騒動起きた事がある。
 彼の首筋には紫色の痕が浮かび、瞳を覗けば其の瞳孔は平時では考えられないほど大きく開き、小さく脈打つ心臓に黒鵐は祈りを寄せて翡翠の名を呼び続けていた。
 其のうちに、なんとか意識を取り戻した翡翠を、黒鵐は手厚く看病し、自分でも不思議なほど愛情を注いだ。時に鬼と揶揄される赤毛を湛えた少年に、何がしかの感応を抱えた自分に、黒鵐は其の時、気付いたのだった。
 翡翠の首を絞め失神させた客を、見世は一切咎めなかった。
 其れなりの対価を払っていたのだと。
 『命でさえも対価で献ず』
 対価さえ払えば命も売るという、翡翠に科せられた規律に、黒鵐は戦慄し、何より、透明な目で其れを享受する彼に、言い知れない恐怖と畏敬、それに愛情を覚えたのだった。

 「なあ、母ちゃん」
 雑巾を絞りながら、首だけで黒鵐は振り向いた。
 「母ちゃん、柘榴は?」
 声の主は、瑠璃。
 此処、市松屋の年少組を一手に可愛がっている、兄貴分である陰間。黒鵐のことを何故だか母ちゃんと呼び慕っている。
 「柘榴さんはお出掛けですよ、最近昼間はいつも出てますね」
 瑠璃は露骨に舌打ちをし、胸に抱えていた風呂敷包みを黒鵐に差し出した。
 「これ、石田屋からの預かりもん。あの莫迦が戻ったら渡しといて」
 「莫迦だなんて言うもんじゃありませんよ」
 「だってあいつ莫迦だもん。兎に角、渡しておいて」
 包みを半ば無理やり預け、瑠璃は近頃巷でよく聴く流行歌を口ずさみながら、外へと出て行った。
 
 掃除、炊事にあらゆる雑用を終えると、何時も通り夕暮れ前。
 都合よく柘榴が戻ったので、黒鵐は預かっていた包みを柘榴に手渡した。
 「あの莫迦が?ろくなもんちゃうやろ」
 「莫迦だなんて言うもんじゃありませんよ」
 「莫迦に莫迦言うて何が悪いねん!わしゃここ数日気が憂いとるんじゃ」
 憎まれ口を叩き、柘榴は粗雑に包みを抱え、階段を上り風鈴の間へ。
 襖を開けると、翡翠が風鈴を息で揺らし、音を愉しんでいた。
 「あ、柘榴さん、おかえりなさい、何処に行ってんですか?」
 「南路の芸を見とった。えらく人気やで、あいつの紋切り」
 「そう・・・ですか」
 部屋の真ん中にドンと包みを置き、結び目に手を伸ばす。
 「なんや石田屋からの預かりもんらしいわ、何やろな?」
 翡翠も近寄り、包みを覗き込む。
 そうして「あ!」と二人同時に声を上げた。
 中身は、浴衣が三着。
 蜘蛛の巣柄に、蛸の柄、それに蝙蝠柄に小さな一筆箋が一枚。
 ―試しにどうぞ、お気に召したら是非に是非に。 石田 博真―
 「何が是非じゃ!」
 筆箋を丸めて荒ぶる柘榴をよそに、翡翠は黄色い声を上げながら三着それぞれを床に広げ、早くも吟味し始めた。
 「すごーい、柘榴さんは蝙蝠ですよね」
 「なんでやねん、こんなゆゆしい柄はぜんぶ嫌いじゃ!」
 と、襖がゆっくりと開き、瑠璃。
 「あ、浴衣」
 言うなり、柘榴が声を上げる。
 「なんや、お前にくれてやるんは一着もないで」
 それぞれの柄に一瞥をくれて、瑠璃
 「そうだね、どれも柘榴にお似合いだ」
 「余計な世話や!!」
 他愛なく口論をはじめる二人。
 いつもの事。
 そのうち瑠璃が捨て台詞を吐いて部屋を出るのが通例。
 でも、今回は違った。
 「その不気味な浴衣で、明日も河原乞食に会いに行け」
 瑠璃のその一言に、柘榴は手を出した。
 尋常でない平手が瑠璃の顔を襲い、一瞬、忘我。
 「南路をその呼び方するんは、絶対許さへん」
 幾秒かの間を置いて、瑠璃は耳が千切れるほどの大声で、泣きながら柘榴に飛び掛かった。成す術なくただ狼狽する翡翠。いち早く騒ぎを止めに来た黒鵐が、声一つ上げず、揉み合う二人の首根っこを掴んで引き剥がした。
 途端、またとんでもない大声で泣き出す瑠璃。
 「翡翠さん、悪いのはどっち?」
 黒鵐に聞かれ、翡翠は曖昧な表情を浮かべ、言葉を詰まらせた。
 柘榴が、黒鵐の手を振り払い、乱暴に襖を開け部屋を出る。「あいつのせいだ!!!」と喚く瑠璃を黒鵐がなだめる間、翡翠はただ立ち尽くし、蜘蛛の巣柄の浴衣の裾を、握り締めた。
 『南路をその呼び方するんは、絶対許さへん』
 柘榴の声が、頭の中で繰り返し繰り返し響いていた。

 夕暮れ。
 芸を終え、橋の上で身支度をしている南路のもとに、憔悴した顔の柘榴。
 「なんだ柘榴さん、俺の事がよっぽど好きか」
 裂けた口を結んで、クックと笑う南路。
 真っ白い肌が陽の橙を浴び、人間離れして透き通る。
 「今日は見世を休んだんじゃ」
 地に落つ様な彼の声に、南路は瞬間、目を細めた。
 「おいで、柘榴さん」
 歩き出す南路の背を、ほぼ無意識のまま追う柘榴。
 「何処に行くん?」
 「喋っていれば何処かに着くよ。喋ろう、柘榴さん」
 歩を早め、隣に並び、柘榴は自分よりずっと背の高い彼の顔を覗く。
 「わし、喋ることなんてないで。自分で来といてあれやけど」
 「大丈夫、そういう時は思い出話をすればいい」
 そうして、ふたりは出鱈目に歩きながら、他愛の無い思い出話を始めた。
 出会ってからまだ、二ヶ月しか経っていない事。
 橋の上で奇妙な御伽噺を客に聴かせ、その中で一番つまらなそうにしていたのが柘榴だったという事。
 そのくせ、客も引けた頃、また現れて「自分、おもろいな」と話しかけてきたという事。
 「辻芸人として色んな村や街を渡ったけどね、柘榴さんぐらい美しい人はいなかったよ」
 「わしも南路ほどけったいな人間には会った事ないで」
 少しづつ、少しづつ、陽の橙が遠くなる。
 「いつも不機嫌顔だからね、俺は柘榴さんはもっと滅茶苦茶な人だと思ってた」
 影が伸びる。
 伸びて伸びて、繋がる。
 「そらわしは常識人や、他のもんと一緒にしたらあかんで」
 話しながら、ふたりは、お互いが出会う前の事も、普段、誰と何をして、何を考えて過ごしているかという事も、一切の個人的な来し方を知らないことに気付く。
 けれど、どちらもそれについては話さない。
 ふたりはふたりが目の前で共有した記憶と感情だけで、緩やかに繋がっている。
 「柘榴さん、そろそろ戻らないといけないんじゃないですか?」
 夕暮れは閉じ始め、夜の気配が空気を冷やす。
 「なんや、本間に出鱈目に歩いただけやんか、何処かに着く言うたくせに」
 「此処が其のうち、思い出の場所になるよ」
 意味が解らず、言葉を無くす柘榴。
 緩い風、水の匂い、遠く川の音。
 「わしは時々、お前の言う事がわからん」
 「いつかわかるよ」
 「気障という事だけはわかるで、わしと真逆や」
 そうして、ふたりは出鱈目に歩いてきた道を戻る。
 夜に追われながら、来た時よりも少しだけ、緩い歩調。
 見世に近づき、柘榴は「ここでええ」と言い、歩を進めた。
 「さよなら柘榴さん、元気で」
 永の別れじゃあるまいし、と、柘榴は小さく笑って、振り返る。
 いよいよ開いた夜の入り口、細長い南路の影が、揺れていた。
 「南路!!」
 不意に、柘榴は大きく名を呼ぶ。
 手をふって、手をふって
 影はもう、闇に消えた―。
 ―頭の中が、冷たい。
 柘榴の心は、震える手足に反して非道く落ち着いていた。
 踵を返し、見世へ。
 扉を開けると、何人かが声をかけたが、彼の耳にはひとつとして届かなかった。
 ほとんど忘我したまま、滑るように歩いた。
 
 陰間の場。
 襖を開けると、肌も露に着崩れた翡翠。客の姿は無かった。
 突然現れた柘榴に、言葉を無くす。
 幽かな灯りが明かす彼の表情は、翡翠の知るそれではなかった。
 「ついさっき気付いたんや、ほんの数十秒前や・・・」
 シンと冷えた頭の中に、いつかの黒鵐の言葉が響く。
 『柘榴さんとは真逆の人でしょうねえ』
 こんな気障な手紙を出すのは、どんな奴やという柘榴の問いに、黒鵐が答えた言葉。
 南路が紋切りに使っていた千代紙と、丁寧に漉かれた紙。
 出会った頃、橋の上で彼が客相手に語った、いくつもの御伽噺。
 「あの手紙は、自分の客が出したもん言うたな」
 声は、震えていた。
 黙って頷いた翡翠の目は、真っ直ぐに柘榴を見据える。
 そうして、水が流れるように抵抗の無い声が、彼の唇からこぼれた。
 「ええ、南路さんです」
 柘榴は、棒立ちのまま、ただ翡翠を眺める。
 雫が顎を伝う感触で、ようやく自分が泣いている事に気付いた。
 「何で泣いてるんやろ」
 無自覚に言葉が漏れた。
 何故涙が流れているのか、自分の感情はいま、どう動いているのか。柘榴は心身を失い顔は人形染みて白く、ただ唇は小刻みに震えて胃の腑で冷めた熱が暴れている。
 本当に柘榴は、自分が何故泣いているのか全く解らなかった。
 翡翠に対しても、南路に対しても、柘榴は自分の想いそのものについて馳せた事など無かった。
 手の届く距離にある快い大切なものという、本来の想いと比べ粗雑な解釈しか、彼はしてこなかった。何がどうなって欲しいという希望にも欲望にも、彼は形を与える事なんてしなかったのだ。
 柘榴の、ふたりに対する想いには、既に名前がついている。
 「恋をしていたから、泣いているのでしょう」
 翡翠は、いともかんたんに答えを言った。
 「知らんかった」
 間抜けな言葉を吐いて、柘榴は幼児の様に鼻水を垂らした。
 女の喘ぎが響く。
 瑠璃の女客だろう。
 着物も正さず、翡翠は柘榴に近寄り、言葉無く抱き寄せた。
 夏の虫が羽を摺りあわせる。
 膝の上に、彼の頭を誘う翡翠。
 そうして、子守唄。
 鬼を眠らせる逆歌と、村で忌まれた子守唄。
 いつか母が翡翠に教えた、静かな、静かな子守唄。
 柘榴は赤子のように無抵抗で、翡翠は母のように彼を負い、歌う。
 けれどその光景は、
 親子のそれではなく、人形相手に子守唄を歌う、幼児のひとり遊びに似て、不気味で滑稽。
 いっそう大きく、女の喘ぎ。
 子守唄はつづいて、
 そのまま そのまま 夜は開いた。

 畜生腹が生んだ赤毛の鬼子。
 それが、一つの村で語り継がれるほど忌む様なものだとは、南路には思えなかった。
 「とうに村を出て、噂じゃ陰間になったと」
 村唯一の小さな茶屋の主人は、退屈そうに言った。
 南路は、鬼と呼ばれた赤毛の陰間について、他愛なく思いを馳せた。辻芸人として放浪する日々の中で、珍奇な話は腐るほど聞いたが、その話には何とはなしに惹かれるものがあった。
 「どんな子だったんですか?」
 茶屋の男は、唸りながら目を閉じ、回想する。
 「非道く迫害されてましてね・・・並みの暴力じゃなかった」
 黙って茶を啜る南路、男は言葉を続ける。
 「大人も子供も関係無くね、ずいぶん残酷な仕打ちをしていましたよ」
 男は、少年が受けた迫害の様々を語り始めた。
 ―南路は、数日その村に滞在し、赤毛の少年についての証言を集めた。
 人間がどこまでも残酷になれる生き物だという事など、とうに知っていたが、それでも彼の胸は痛んだ。
 そうして、次に行くのは、その少年がいるであろう色街にしようと決めた。街に出て『赤毛の陰間』と尋ねまわれば、幾度も『翡翠』の名を聞いた。その陰間は命でさえも対価で買えると、一部で有名な存在だった。
 各所で芸をし、銭を集めながらおよそ二ヶ月をかけ、南路はその色街へ。
 翡翠との出会いを果たしたのは、街についてから三日後の事。
 市松屋の門を叩き、彼は客として翡翠の元へ。
 鬼子と呼ばれた少年は、キレイな丸い目をしていた
 「君が鬼子かい?」
 表情一つ変えずに、少年は答えた。
 「はい。名は、翡翠と申します」
 薄明かりの中、南路は翡翠の手をとり、薬指の小さな爪を撫でながら、真っ直ぐに彼の目を見つめる
 「逢いたかった、俺は貴方を知っている」
 小首を傾げる翡翠。
 南路は、かまわずつづけた。
 「俺は貴方と同じなんです」
 言葉の意味を量りかね、翡翠は曖昧な笑顔を浮かべ、己の薬指を愛でる彼に身を寄せた。
 ただ、翡翠の胸は、大いに揺れていた。
 言われたことの無い言葉。
 貴方と、同じ。
 頭の中で反芻すると、その言葉は翡翠にとって、感じたことの無い甘美な気配を纏って響く。
 蜥蜴の様に裂けた口が、空気を揺らす。
 言葉は角無く、優しく緩く、容易に鼓膜に染みゆき、溶けた―。

 橋の袂。
 つい昨日まで往来を賑わせた辻芸人の姿は無く、そこには何処か生気の失せた―それでも充分に美しい―顔立ちの少年が立ち尽くすばかり。
 柘榴の心は、落ち着いていた。
 怖いぐらいに落ち着いていた。
 手には、まだ感触が残っている。
 暖かな、翡翠の体温と、皮膚の感触。
 「おい、柘榴」
 ゆっくりと、首だけで振り向く柘榴。
 視界の真ん中、瑠璃が鬼の形相で睨みつけていた。
 「お前、どういうつもりだよ・・・」
 柘榴は、小さく笑った。
 「なんや、どないしたんや。怖い顔して」
 言い終わるのを待たずに、瑠璃は柘榴の手首を掴み、力任せに引き寄せる。
 「お前がやったんだろ!昨日の夜、翡翠と一緒にいただろ!!」
 喚く瑠璃の目に、かすかに涙が浮かんだ。
 掴まれた手首をほどく事も無く、小さな笑いを浮かべたまま、柘榴。
 「お前、なんで泣いてるんや?関係ないやんか」
 手首を掴んでいた瑠璃の手は、空気が抜けるように脱力した。
 同時に、ぽろぽろ、ぽろぽろと、涙が落ちる。
 弱いな、と柘榴は思った。
 瑠璃の心は、弱いなと思った。
 自分とは直接関係ない他人の事で涙を流すことも、胸を痛める事も、柘榴にとっては心の弱さの露呈に過ぎない。それが真心や愛情や或いは優しさというものである事を、彼は知らない。
 蚊帳の外の人間が、それでも心を揺らす瞬間を。
 遠い町の悲劇に胸を痛める心模様を。

 風鈴の間。
 黒鵐はただ黙って、翡翠の顔を見つめていた。
 顔は青く、瞼が開く気配は未だ無い。
 最初、黒鵐は翡翠を見た瞬間、死を思った。
 投げ出された四肢は壊れた人形の様に歪で、生命など宿っていない様に見えた。抱き起こすと、首筋に青い青い指の痕。忌まわしい記憶が走馬灯のように黒鵐の頭を巡った。
 すぐに手配した医師の処方は「安静」のひとつのみ。
 過去の経験そのままに黒鵐は介抱し、今、ただ彼の目覚めを祈っている。
 見世は今朝から犯人探しに躍起になっており、手の空いた者は皆、聞き込みに回っている。今朝一から柘榴の姿が無いことも俎上に載り、雰囲気は非常に険悪だが、黒鵐はただ目の前の翡翠の安否しか考えていなかった。
 「何故でしょうねえ・・・」
 翡翠の髪を撫でながら、呟く黒鵐。
 「もっと楽に生きるのは、無理ですか・・・?」
 リン、と、風鈴 細い風。
 「どんな風に生きたって、どんな想いを持ったって、私は咎めなんかしませんよ。覚めて下さいね、翡翠さん」
 祈る。
 黒鵐は祈る。
 祈りながら、不条理なほど彼に愛情を覚えた瞬間を思い出す。
 いつか、同じように絞首で気を失った彼が、目を覚ました日。彼は、正とも負とも、さしたる感慨を示さなかった。
 命でさえもー。と、陰間として科された過酷な規律に、抵抗無く従う透明な目。
 「死んでなかったのですね」
 呟く翡翠を不透明な感情で抱きしめた。
 涙が流れた。
 瞬間、翡翠は、非道く曖昧な顔をした。
 それは
 『どうして泣いているの?』
 そんな言葉を呑んだ顔
 嗚呼、そうか、と黒鵐は思った。
 私はこの子に、愛情を注いであげねばならない、と思った。
 そして、それは使命なんかではない、と。
 今この瞬間、私は抗いようも無く、この子を愛し始めている、と―。

 歩いた。
 柘榴は出鱈目に歩いた。
 色街を、ぐるぐるぐるぐると。
 彼は、あの橋以外に南路に会える場所を知らない。
 だから、昨日、南路とそうしたように、出鱈目に歩く。
 「恋をしていたから、泣いているのでしょう」
 不意に、昨夜の翡翠の言葉を思い出す。
 胸が痛む。
 足を止め、川沿いの木陰。
 目を閉じて心の埒に立ち、覗く。
 曰く、自分は南路に恋というものをしていた。その南路が翡翠と春を鬻いだ事が許せなかった。自分を蚊帳の外に置き、手紙をやりとりしていた事が悲しかった。
 ―欠けている
 柘榴のその発想には大事なものが欠けていて、あまりに不完全。
 木陰を離れ、再び歩き出す。
 そうして、一時間ほど歩き、ようやく柘榴は、南路を見つけた―。

 市松屋。
 年少組の陰間達が色めき立っている。兄貴分である瑠璃に「しばらく誰も話しかけるな」と命じられたからだ。それは、あくまで彼らの前では闊達で大らかな瑠璃には、ありえない事だった。
 業を煮やした弟分の一人が、風鈴の間へ赴き黒鵐の元へ。
 常日頃、瑠璃に母ちゃんと慕われている彼(彼女)なら、との思い。事の成り行きを聞いた黒鵐は、翡翠の元を離れたくはなかったが、笑顔で弟分を諭し、瑠璃の部屋へと向かった。
 呼吸を整え、ゆっくりと襖を開ける。
 「瑠璃さん、入らせてもらいますよ」
 返事は無かった。
 胡坐をかき、背を向け窓の景色を眺める瑠璃の隣に、そっと座る。横目で覗き見た瑠璃の目は、少し腫れていた。
 「母ちゃん」
 予想に反して、瑠璃は自分から口を開いた。
 黒鵐は、笑顔を向ける。
 「あいつじゃないよ」
 相変わらず、窓を見ながら、瑠璃。
 「翡翠のあれ、みんなが疑ってるけど、柘榴じゃないよ」
 「なんでそんなこと言うんですか?」
 「嫌だから、すごく嫌だから、柘榴のせいにされたら、嫌だから」
 語尾が、少し震えていた。
 黒鵐は、柘榴が犯人だという事は考えていなかったが、瑠璃の言葉が他愛の無い(あくまで、大人の黒鵐にとって)感情論であった事から、柘榴がやったのだなと確信する。
 「どうして柘榴さんが疑われてるんですか?」
 瑠璃が振り向き、黒鵐の目を見つめる。
 瞬間、瞳は表面張力を破り、揺れた。
 「俺、今朝言ったんだ。翡翠は柘榴と一緒にいたって」
 黒鵐は、瑠璃を胸に抱き寄せ、優しい声で囁く。
 「それの何が悪いんですか?瑠璃さんは何も悪くありませんよ」
 胸の中、言葉無く震える瑠璃。
 背中をさすりながら、黒鵐は目眩に似た感覚を覚える。
 『人間は、どうしてこんなに愚かしいのだろう。何て不完全で不明瞭で、莫迦げているのだろう』
 犯人が柘榴である事を知っていて、日頃いがみ合う関係でありながら、稚拙な感情論でそれを隠そうとする。瑠璃が何を知っているか、どんな気持ちでいるのかは知らないが、黒鵐はそれを知りたいなどとは思わなかった。
 痛む心を癒す糸口が、他人の言葉の中にあるという事実を、黒鵐は嫌う。
 幾度も訪れる地獄下りのその中で、自分の行動で強かさを勝ち取る以外、傷を癒す方法は無い。そんな風に、黒鵐は生きてきた。
 自分の来し方を押し付けるつもりは毛頭無いが、今ここで何も知らずに「大人の許し」を、あまつさえ自分を慕うこの少年に与える事は、彼の中では許せない行為のひとつであった。
 「母ちゃん」
 震える声、顔をうずめたまま、瑠璃
 「俺、柘榴に会ったんだ。橋で・・・たぶん河原乞食を待ってた」
 優しく相槌を打ち、言葉を待つ。
 「見たことない顔で、俺を見たんだ」
 「柘榴さんは、どんな顔をしてたんですか?」
 ゆっくりと、顔を上げる。
 涙の膜が瞳を揺らす。
 ただ、唇だけが、瑠璃本来の気丈さをその色に湛えている。
 真っ直ぐに目を見つめ、その唇が開き、空気を震わせた。
 「悲しそうな顔」
 嗚呼、と、黒鵐は声を漏らしてしまいそうになる。
 少年の優しさと愚かさと、怖いくらいの幼さを、黒鵐は抱きしめた。
 大きな音をたてて、心臓が、ひとつ、高鳴った。

 柘榴は、遠くに見えた南路の背に向かって駆けた。
 何を言い、何思う。
 何時もと同じに整理などされていない心。
 右、左、右、左。走れと命じた身体はこんなにも従順に、的確に、機能的に、無駄がなく。例えばそうして命じた全部が、念じた全部が、自分が自分の身体を動かすみたいに。そしたら南路。お前はこの手を握ったり、たくさんの愚にもつかない御伽噺を何時間も何時間も何時間も語り続けるだろう。翡翠が言うには恋。翡翠が言うには恋をしていたらしい。それが一体何なのかわかりかけ続けているからわからないままだった。今ようやく何となくわかるような気がしている。夜、耳元でやかましい蚊の羽音で覚ます様な邪魔くさい神経の尖り方。下らない糞みたいな客に春を鬻ぎ続けた夜々の、時に死んでしまいたくなる様な、それは粘膜の夜。開け放たれた窓からナメクヂの様に夜が這い入る瞬間を見ていた。ズルズルずるずる音を立てて―非道く耳障りな―そういう夜、いつもいつもいつも耳を塞いだ。何かがいつでも隣りあわせでそれは怖くて時々、不躾に心を安心させた。本当は、本当は、本当は、本当は、生まれて生きて何でも。何でも出来ると思っていたし何でも叶うと思っていたし何処へでも行けて何にでも成れると思った。思っていた。思い続けていた。時々疑いながら、でも本当にそう思っていたんだよ。暑い。暑い。暑い。光。太陽。夏になるんだね季節が明日にも今にも。何処にも行けないし何にだって成れない。何処にも行けないし何にだって成れない。何処にも行けないし何にだって成れない。それは誰のせい。それは誰のせいでもない。でも誰かのせいに違いなくて疑いながら、でもそれでも信じていたんだよ。本当だよ。気に喰わないのは何でだろうって考えてた。よく考えてた。下らないとか莫迦げてるとか、そういう全部を兎に角。つい昨日だよ。つい昨日、夜、夜。子守唄を聴いていた。聴いた事の無い子守唄を聴いていた。信じながら、それでも時々疑いながら、そういう風に信じ続けた赤毛の翡翠の歌った子守唄を聴いていたのが昨日なんだよ。全部許せなくなってしまったのはどうして?とか、何かを独り占めしたくなるのはどうして?とか、手と手を繋いで唇を合わせてそのままそのまま全部ぜんぶ物みたいに壊れてしまえばいいとか、物みたいに壊れてしまいたいとか、そういうまるっきり莫迦げた空想が嫌で嫌で嫌で嫌で、だから急いだ。はやくしなきゃって思った。そうだよ、そういう風に思ったんだよ。尖った簪の赤く光る先端で傷つけてしまいたい張り詰めた粘膜を突き刺して、決壊、穴は裂けて広がって、いつかの夜、窓から這い入るナメクヂの様な夜が溢れて流れて止まらなかったよ。でも溺れなかった。だから腕に力を込める事が出来てしまったんだよ。右目を閉じたら左目から、左目を閉じたら右目から涙が流れて、ああ、なんだそういう事かってそういう風に思ったよ。ごめんねと言ってみたりありがとうと言ってみたり好きだとか嫌いだとか色んなことを言ってみた。どうしてまだ歌っているの?死んでほしくなんかないけど壊れてほしかった。殺したくなんてないけど壊してみたかった。生まれて初めて大好きだよって言った。泣いていたから笑えなかった。虫が鳴いていたけどそれに意味はなくて、でも、じゃあ、とか思った。でもじゃあ何にどんな意味があるのとか例えばどうして歌っているのとかどうして笑っているのとか。右、左、右、左。走れと命じた身体はこんなにも従順に、的確に、機能的に、無駄がなく南路お前に近づいている。本当は、本当は、本当は、本当は、生まれて生きて何でも。何でも出来ると思っていたし何でも叶うと思っていたし何処へでも行けて何にでも成れると思った。思っていた。思い続けていた。そうじゃなきゃ嫌だ。そうじゃなきゃ嫌だ。そうじゃなくちゃ嫌なのに。糞喰らえとか莫迦げてるとか。何で笑っているのか聞いた。こんな夜に、こんな時に、こんなにこんなにこんなに暴力的な夜に、どうして今、この瞬間笑っているのか聞いたんだ。でも答えてもらえなかった。答えることはできなかったしきっと答えようなんてなくって、だから笑っているのかなとか思ったけど、きっとそれは違うから、もう一回大好きだよって言ってしまった自分は何かを叶えようとしたんだと思う。
でも、じゃあ、一体何を?
 「南路」
 柘榴の声に、南路は振り向く。
 息を切らす彼を見て、裂けた口角がいっそう上がり、子供の様に笑った。
 「柘榴さん、嬉しいなあ、会いに来てくれたんですか?」
 肩に下げている大きな風呂敷包みを見て、柘榴。
 「何処に行くんや」 
 「次の街だよ」
 事も無げに言う彼に、柘榴は大きく笑った。大きく大きく笑った。
 つられてか、南路も笑った。大きく、大きく。
 笑いは続いた。
 行きかう人々が、誰も彼も不振な目でふたりを盗み見た。
 「俺たちは狂っている!!」
 ゲラゲラ笑いながら叫ぶ南路。
 「何で笑ってるんや!」
 笑いながら、柘榴も叫んだ。
 息が切れて苦しくなってもふたりは笑いつづけた。
 不意に、南路は身を屈め、柘榴の唇に其れを重ねた。
 人目もはばからず。そうする事で想いを遂げる生き物のように、舌をからませて。
 「柘榴さん、俺はもう行くよ、さようならだ」
 狂笑の尾はまだ影を残す。
 「何処に行くんや」
 「出鱈目に歩いていれば何処かに着くよ」
 「そんな来し方をしてきたんやな」
 南路は、柘榴の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
 「どんな話で客を笑わせても、いつもつまらなそうな顔をしてたのに、こんなに柘榴さんが笑うなんてね」
 「何がなんだかわからへん、なあ、南路、なんでわしはこんなに笑ったんやろ?」
 もう一度、今度は小さく、笑って、言った。
 「悲しいからだよ」
 柘榴も、また笑った。
 「知らんかった。悲しい時は、笑うんや」

 幸御魂の精霊―。人はそれを、さきたまのせいれい、と呼んだ。
 さきたのせいれいは、人々に幸福を齎すが、其の恩恵を、無論の事、全ての人間が得られる訳では無い。
 例えば圧倒的な生まれの負により、理不尽な不幸に苛まれる彼や彼女を、せいれいは救おうなどとは思わない。
 誰にどんな形でその幸福を与えるかは、それ全てせいれいの気まぐれに他ならない―。
 昏睡の翡翠の脳裏に、南路が手紙に描いた、御伽噺の語り出しが浮かんで消える。
 物語の中、少年は精霊を探す旅に出る。
 此の世に蔓延る理不尽な不幸、その全てを、精霊に消してもらうために。
 翡翠の頭の中で、彼の描いた物語が、生々しく再生される。
 少年は、親を持たずして生まれた。
 村の青年に森の中で発見された時、彼の左腕の凡そ半分は彼岸猪に食われ、右の目玉は獄司蟻に持ち去られ、唇は血胤虫の鋏に切られ、爬虫類のように裂けていた。
 それでも尚、すやすやと寝息をたてる其の赤ん坊を、村の人々は畏怖の念を抱き、それを育てる事に取り決めた。
 赤ん坊は、死刑を待つ罪人達によって育てられ、五年も経つと、その義理の家族全員が首を刎ねられた。言い難い孤独と共に、赤ん坊は少年と成った。
 何年も何年も繰り返される迫害。
 それは翡翠が最も読み返した頁のひとつ。
 昏睡の翡翠の身体の中で、それは克明に再現され、図らずも自分の過去さえ想起する。
 森の奥深くに住む老人だけが、少年の味方であった。
 老人は気狂いで、愚にもつかない御伽話を毎日毎日、彼に語った。文脈も糞もあったもんじゃない気狂い老人の話を、少年はいつも目を閉じて聞いていた。此処ではない世界を夢想する事だけが彼の救いで、語られる御伽噺は彼にとって、唯一、此の世で与えられる救いへの糸口になっていた。
 気狂い老人は、ある日「幸御魂の精霊」という話を語る。
 少年は、魅入られた。
 おそらく、彼もまた気が狂っていたのだろう。
 精霊を探す度へと、彼は出掛ける。
 出発の朝、少年は、希望に満ちた気持ちで、一つしかない其の目を、ゆっくりと開いた―。

 ・・・さん  ・・・さん  ・・・翡翠さん! 翡翠さん!!
 唐突に訪れた光
 暈けた視界の焦点が、水のように揺れて、やがて正しく結ばれる。
 「黒鵐さん・・・」
 視界の中央、何処かやつれた印象の黒鵐が、曰く喩えがたい表情で覗き込んでいた。
 「翡翠さん・・・よかった」
 両手で自分の顔を覆い、安堵の息を漏らす黒鵐。
 目覚めを知ると同時に、翡翠はその意識を保っていた最後の瞬間を思い出す。
 「ああ・・・」
 無自覚に、声を漏らす翡翠。
 昨夜、息が止まる瞬間に、目の前で揺れていた柘榴の涙と、苦悶の表情
 「夢ではなかったんですね」
 闇のように深い眠りが、彼の声から生気を奪い、その声は黒鵐には届いてはいなかった。
 「とても煌々、世界がキレイに見えました・・・」
 もう一度、瞼の奥で、柘榴の涙が ゆらゆら 揺れた―。

 川に足をひたす。
 身体の中が透明の水で満たされる。
 何か心が浄化されるようで、柘榴は心地よさに目を閉じた。
 南路は、いなくなった。
 これから、どうしよう。
 数日ぶりに(或いは、生まれて初めて)柘榴は自分の身の振りについて思いを巡らせてみる。
 両の手にはまだ、翡翠の皮膚感が張り付いてほんの少しの熱を放っている。頬にはナメクヂの這った感触と網膜には未だ南路の背中。耳には遠く、子守唄。
 「南路」
 無意識のうちに、唇が名を呼ぶ。
 「南路、南路、  なんじ  なんじ」
 小さく飛沫を上げ、魚が応える。
 「南路」
 また、 呼んだ。
 夕暮れが思い出したように、色街を包み始める。  
 「南路、お前は何でこの街に来たんや?どうして辻芸人なんてやってるんや?わしのことはどう思ってた?好きな食いもんは何や?どんな街で育ったんや?兄弟はおるんか?どうやって噺を考えるんや?どうしてそんな気障なんや?」
 穏やかな声。
 水のように流れ続ける無自覚な呟き。
 「お前のことを教えてくれ。手を繋いでくれ。出鱈目にわしも歩く。本間はお前の噺が大好きやったぞ。紋切りなんぞよりずっと好きやった。つまらん事を忘れさせてくれたから」
 遠く子供が、石を投げ、大きな飛沫。 跳ねる音。
 「なんで翡翠やったんや」
 柘榴は、目を閉じて、両の手を川の水へ。
 手に残っている感触は、決して流れて消えやしない。
 しつこくもしつこくもしつこくも、また、涙。
 「見世しか戻るとこ、あらへん・・・」
 と、突然背後から耳を裂くような大声。
 次の瞬間、柘榴の身体が衝撃に揺れ、人形の様にゴロゴロと川辺を転がった。
 事態が一切把握出来ずに、柘榴は真っ白な頭のまま、衝撃の来た方向を見やる。
 そこには、肩で息をし、目を見開いて震える、瑠璃。
 「大莫迦野郎!!何で翡翠が助かってお前が死ぬんだ!!」
 大声で喚く瑠璃。
 「な、何やねん・・・」
 未だ状況の呑めない柘榴に、瑠璃が喚きながら詰め寄る。
 「入水自殺なんて俺が許さないぞ!お前は俺と見世に戻るんだ!!」
 「あ、阿呆・・・誰が入水なんか・・・」
 未だ若干呆け気味の柘榴の襟首を、力任せに瑠璃が引っ張り揚げる。
 「何がどうしてどうなったか知らないけど、死ぬ暇があったら帰るんだ!」
 言い終えるやいなや、何故か幼児の様に大声でわんわんと泣き出す瑠璃。
 「かえるんだ~!!一緒にかえるんだ~!!!」
 泣き喚きながら、柘榴の着物を力任せに引っ張る瑠璃。
 「待て瑠璃!わし履物はいてへん!!」
 「ウワアアアアァァァァァァンウワアアアアアアン!!」
 もはや手の付けられなくなった瑠璃の頭を、ゲンコツで殴りつけ、手を振りほどく。
 「裸足で帰れるかいな!ちょっと待っときや!!」
 「あああああんああああああああん!!!」
 なおも泣き喚き続ける彼に、たまらず柘榴は、問いかけた。
 「瑠璃、おまえなんで泣いてんねん?」
 「うわああんうわああああああん」
 夕暮れの澄んだ空気の中、瑠璃の喚き声は、きっと街中に響き渡った。
 「なあ、なんで泣くねん・・・もうええやんか」
 「あうあうあうああああんああああああん」
 仕方なく、柘榴は瑠璃の背中をさすりながら、ゆっくりと見世にむかって歩き出す。
 「あああああんわああん!!おまえのせいだーー!!!」
 歩き出してからもしばらく、瑠璃は幼児の様に泣き続けた。
 手もなく、柘榴は
 「ごめんなごめんなわからんけどごめんごめん」
 あくまで適当に宥めながら、柘榴。
 二人の影が、ゆっくり伸びて、繋がった。

 夜。
 柘榴は一人、風鈴の間で、時折吹く緩い風に目を細め、他愛無く思いを巡らせる。
 翡翠を襲ったのは、何処からか忍び込んだ変質者という事で処理されており、翡翠自身は絶対安静として部屋に半ば隔離されている。
 柘榴は犯人を追って朝から不在だった、という事にされており、それら全ては黒鵐の手引きによるものだった。ただの女中に過ぎない黒鵐の発言権たるや、わずか半年で絶大なものとなっていた。中には、翡翠の回復さえも黒鵐によってしか成しえなかったという評判さえたっている。無論、彼(彼女)の適切な処置は見事であったが、それとは異質の評価が見世の一部では囁かれていた。
 襖がゆるやかに開き、瑠璃。
 数時間前まで号泣していた気配は微塵も無く、落ち着き払っている。
 「柘榴、ちょっと話させろよ」
 不躾に、文机の上に腰掛ける瑠璃。
 「なんやねん、泣きっぱなしで話なんかでけへんかったくせに」
 「うるさいな、お前が死ぬと思ってムカついて興奮しただけだ」
 窓辺に背をもたれ、柘榴。
 「なんで死ぬと思ったん?」
 ガジガジと親指を嚙みながら、瑠璃
 「そりゃお前、あの、その、翡翠と無理心中だと思ったんだ」
 「阿呆」
 「阿呆って言うな阿呆!なんでお前あんなことしたんだよ」
 柘榴は、小さく笑った。
 「その癖やめたほうがええで、親指齧るん、子供や」
 「うるさいな!!」
 そうして、少しの間をおいて、文机の上にドンと胡坐をかき、瑠璃は咳払い一つ、喋り始める。
 「いいかい柘榴、お前なあ、なにがなんだかわからないけど、人を傷つけたらいけないんだぞ。殴ったり蹴ったり首を絞めたり突き飛ばしたり、そういう事はしちゃいけないんだぞ。わかるか?」
 「わし、お前に突き飛ばされたで」
 また、苛々した様子で親指をガジガジと齧る瑠璃。
 「それは違うだろ!助けようとするなら蹴っても殴ってもしょうがないんだよ!」
 「どんな理屈やねん」
 兎に角、と続ける瑠璃。
 「そういう事はしちゃいけないんだぞ。何日か前、俺の顔も思いっきり張っただろ、あれも絶対にだめなんだぞ」
 至極、冷静に、柘榴。
 「あれはお前が南路を河原乞食呼ばわりしたからや。南路を守るためなんやから、ええっちゅう理屈や」
 ガジガジ、ガジガジガジ
 「わかった、それは百歩譲る。でもな、二度とそういう事は駄目だからな。暴力的なことは全部ぜんぶぜんぶ禁止だからな」
 「わざわざそんなこと言いにきたんか?」
 柘榴の目に冷笑の色が宿る。
 彼の耳には、瑠璃の言葉が非道く程度の低いものに聞こえていた。
 「なんだよ!大事なことだろ!?」
 「すまんな瑠璃、お前とは同じ次元で話されへん」
 瑠璃は、思わず飛び掛りそうになった自分を必死でおさえた。おまけに苛立ちで泣き出しそうである。
 「正直に言わせてもらうわ。わしは暴力があかんという意味がわからへん。暴力があかんというのは人間をやめろという事ちゃうんか?全部何もかも黙って受け入れろって事ちゃうんか?そうするぐらいなら死んだほうがなんぼかマシや」
 もしこの場に黒鵐がいたならば、柘榴に大人の許しと、正しき通念で優しく諭す事も可能だったろう。ただ、瑠璃にそうした能力は無い。血も出んばかりに親指を齧り、叫んだ。
 「駄目なもんは駄目なんだよ!!!!」
 あまりの大声に、柘榴は目を丸くして言葉を失った。
 その声は、何処か複雑な感情を湛えているように聞こえ、痛ましく響いた。
 「わめかんでもええやんか」
 柘榴の狼狽に一切構わず、文机から降り、詰め寄る。
 「俺だけに教えろ、柘榴。どうしてあんなことしたんだ」
 「お前だけには教えへん」
 「教えろ」
 「教えへん」
 「教えろ」
 「教えへん」
 「教えろ」
 「教えへん」
 「・・・・・・」
 押し問答の末、瑠璃は脱力し、力なく呟いた。
 「じゃあ何で教えないか教えてくれ」
 あきらめた様に、一呼吸し、柘榴。
 「教えへん どっか行け 阿呆」

 ―駆けつけた見世の者達が襖を開けると、ふたりは縄張り争いをする猫の様に部屋中を転げまわり滅茶苦茶にもみあっていた。事に瑠璃は鼓膜を突き刺すような尖った声で喚き散らしていた。大人数名の力でようやく引き剥がすと、例によって瑠璃は、堰を切った様に尋常でない大声で泣き叫び、遅れて現れた黒鵐に抱きつき、「アイツのせいだ!!!」と泣き喚いた。
 黒鵐は、泣き喚く瑠璃の頭を優しく撫で、柘榴を見やった。
 裾から覗く腕には、いたるところに瑠璃の歯型と引っかき傷。
 むくれた様な表情で、黙って立ち尽くしている。
 黒鵐は、思った。何故、誰も柘榴に声をかけないのだろう?と。
 皆、一様に瑠璃を気づかう様な表情で、彼とは何処か一線を引いているように黒鵐には感じられた。
 市松屋はおろか、色街随一の人気を誇る、美しい陰間。
 そういう存在が、例えば腫れ物の様に扱われる事は承知出来るにせよ、そうでは無い何かを黒鵐は感じ取る。
 「すみませんが、皆さん、部屋を出てくれませんか。柘榴さんと、お話したいです」
 黒鵐による人払いで、二人きり。
 部屋にはまだ、人の香気が俄かに残っている。
 蹴飛ばされ、逆さまになっていた文机を直し、黒鵐は柘榴にむかって微笑んだ。
 その微笑に、柘榴は寒気を覚える。
 潜在的に彼は「大人の子供に対する作法」を嫌っている。構わずに黒鵐は「座って下さいな」と、微笑んだまま柘榴を促した。
 不躾に足を崩して座る柘榴の正面、美しい姿勢で正座の黒鵐。
 「柘榴さん」
 呼ばれて尚、柘榴は膝の上に置いた肘で頬杖をかき、視線を外に向けている。
 「柘榴さん、翡翠さんはきっと無事ですよ。明日にでも元気になるでしょう」
 落ち着いた、優しい声。
 相変わらず視線を外したまま、柘榴は艶の無い声で言った。
 「翡翠の首絞めたんは間違いなくワシや。咎めるならはようしてくれ、こんなん嫌いや」
 ふっ、とひとつ、細い息を吐き、黒鵐。
 「女中が看板を咎めるだなんて、以ての外です」
 「あんだけ見世のもんがいて、平気で人払いする女中が何処におんねん」
 「此処にいますとも」
 柘榴は、小さく笑った。
 「黒鵐は不思議や。けったいな奴ばっかりや」
 「よく言われます」
 「で、なんやねん。何を話したいんや」
 と、帯に挟めた白い紙を取り出す黒鵐。それは翡翠の元に届けられていた何通かの手紙。香を焚き染め、青の刷けられた。
 「これをね、勝手に読ませていただきました」
 ニッコリと微笑む黒鵐。
 柘榴は開口し、目に見えて狼狽した。
 「な、なんちゅーことしてんねん。人のもんを勝手に」
 「私、そういう人間ですから。悪いとも何とも思いません」
 尚も微笑む黒鵐。
 「あかんやろ、あかんぞそんなもん」
 「わかってますとも。で、柘榴さん、内容を知りたくはないですか?」
 「知りとうない、そんなもん、道理に反しとる」
 黒鵐は、ケラケラと笑った。毒気の無い、明るい笑い。
 「道理なんて、在って無い様なもの。そもそも道など、在りゃしませんよ」
 口に手をあて、黒鵐の顔を見る。
 試すも図るも無い様な表情。けれど、其処に隙は無く、柘榴は言葉を翻するのをやめた。
 「好きなようにせえ、もう、訳がわからへん」
 「では、そうさせてもらいます」
 言うと、黒鵐は手紙を滅茶苦茶に破り、口の中に放り込み、飲み込んだ。
 呆気にとられ硬直する柘榴をよそに、涼しく微笑んだまま、黒鵐は二通、三通と手紙を破いては飲み込み、最後には大きなげっぷを一つ、両手を合わせた。
 「な、何をしとんねんお前・・・頭いんどるんか?」
 「此の世から消しました」
 身を乗り出し、眉を顰めて顔を覗き込む柘榴。
 「大丈夫なんか、そんなもん飲んでもうて・・・」
 正座をし、美しい姿勢のまま、黒鵐は答えた。
 「大丈夫です。 柘榴さん、手紙は此の世からなくなりました」
 弾けた様に柘榴は笑った。
 「化け物かお前は!人のもん盗んで食って、おまけに澄ましよって!」
 ニッコリと笑い、黒鵐
 「化け物みたいなものですよ」
 「翡翠がかわいそうやろ!」
 言いながらも、相変わらず無邪気に笑う柘榴。
 「香の染みた紙が好物なんですよ、私」
 しばらく、柘榴の笑いは続いた。 
 そのうちに黒鵐は仕事がある、と部屋を出て行った。
 『本間にけったいな奴ばっかりや』
 手紙を食べる黒鵐の姿を反芻し、また、笑った。

 目が覚めたら、もう夕方で、部屋には誰もいなかった。
 翡翠は緩慢に身を起こし、首筋を撫でた。
 既に消えた感触を、もう一度、頭の中で再現しようと、目を閉じる。
 子守唄で眠りについた十数分後、柘榴は膝の上で目を開いた。
 暗がりで弾いた揺れる光を、翡翠は鮮明に記憶している。
 「お前は、選ばれる人なんやな・・・」
 膝の上に頭を置いたまま、柘榴は何処か遠い声でそう言った。
 翡翠は、南路に選ばれた我が身について、特別何の感慨も無かった。土台、選ばれたという解釈などした事も無く、つまり、ただ一つの出来事として、南路との逢瀬を数えていた。
 「選ばれたのではなく、南路さんが選んだのですよ」
 子守唄を止め、翡翠は素直な言葉を口にする。
 ―彼は、柘榴の南路に対する恋心にとうに気付いていた。
 そして、柘榴の中に「恋」という概念が無い事も知っていた。名前の無い当て所なく浮遊する特別な感情としてしか、それを処理出来ない柘榴を、とうの昔から知っていた。
 なにより、自分に対する柘榴の恋を、ずっと前から知っていた。
 『仮に私が選ばれる人なら、貴方は選ぶ人なのですね』
 そんな風に、翡翠は、思った。
 「お前は南路が好きなんか・・・?」
 身を起こす事無く、問う柘榴。
 「別に、好きではないですよ」
 言った瞬間、翡翠は初めてそれが嘘だと気付いた。
 何となく、世界が一瞬、止まった気がした。
 柘榴の目が、揺れて揺れて、耐え難くこぼれた。
 「畜生・・・」
 力無く呟いて、彼は身を起こし、同じ呟きを数度繰り返す。
 いつか黒鵐が透明の目と評したその目で、じっと翡翠は彼を見つめる。
 「憎いですか?」
 問う、翡翠。
 「そうするだけの感情が貴方にあるなら、殺して下さってかまいません。対価はいただいています。余るほど」
 そうして、目を閉じた。
 次に開いたとき、視界の真ん中、柘榴が緩く緩く涙を流しながら、首に手をかけていた。
 ―苦しみに痛みは伴わなかった。
 瞼は痙攣し、閉じない口から唾液が嘘のように溢れ、四肢が内なる叫びで爆ぜる。
 客にこうされた時、いつもならそっと遊離させる心を、翡翠は身体の中にとどめた。
 「鬼が来た!鬼が来た!!」
 頭の中に、響く声。
 石を投げられ、毎日のように負った傷と、血の匂い。
 村の子供たちに手を引かれ、昼夜問わず藪の中で玩具にされた。
 本当に玩具なら、壊れてしまえばそれまでなれど、傷はいつでも癒えては閉じた。
 母はいつでもきれいな声で、子守唄を歌ってくれた。
 私と夢とを優しく繋ぐその歌は、逆か歌と言われ疎まれた。
 畜生腹から産まれた鬼子。
 お母さん、と私は言った
 お母さん、と私は呼んだ
 いつも いつも いつも いつも
 抱かれたまま眠る夜、お母さんは時々泣いた。どうして泣くの?と聞くと、もっともっと泣いた。私は思った。私の代わりに泣いているんだと私は思った。私はあまり泣かなくなったから。だから泣いているのかなと思った。それからそれからそれからお母さんは私の代わりに悲しんだり儚んだりまた泣いたりした。村の子供たちは私の代わりによく笑った。ある朝、私は羽化を待つ蝉を見つけ、じっと眺めた。羽化し、飛び立つその瞬間を思い、じっとじっとじっと眺めていた。とっくに季節は夏で、頭上でけたたましく蝉が鳴いていた。いよいよ背中が開いた時、私は髪を引っ張られ、気がつけば水の中、呼吸を失い目を閉じた。刹那盗み見た太陽が、水に揺れて非道く不吉に見えたのを覚えてる。引き上げられた私は水を吐きながら、けらけら笑い去って行く子供たちの背中を見ていた。家路の途中、羽化を待つあの幼虫は、殻だけ残し、何処かへ消えていた。私は久しぶりに泣いた。声もなく泣いた。きっときっときっと羽化する時をどうしても見たかったのだと思う。どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしても見たかったのだと。日暮れが近づき、いっそ蝉達けたたましく。「悲しいよう」と私は言った「つらいよう」と私は言った。たくさん涙が溢れてこぼれて水中から見た太陽のよに、景色が揺らいで遠くなる。毎日毎日毎日毎日毎日毎日傷が出来た。追いかける様に癒えては閉じて、また傷。いつどこでどうやってそれができたかんてもうどうでもよくなった。傷はただの傷。ねえお母さんだなんて、何かを聞く事なんてなくなってなくなって。でも、ねえ、やっぱり、ほら、ねえって、歌ってよって、それだけ、それだけ―。
 途切れ始めた神経を、必死に結んで視界を正す
 涙に震える貴方が、こんなに、こんなに
 呼吸は終わりを示して失せる
 柘榴さん、不思議ですね
 世界が こんなに   きれい

 見上げるのも鬱陶しい快晴の真昼間。
 柘榴は橋の袂で、汗を滲ませながら、ただ立ち尽くし、景色を眺めていた。
 南路に会いたい。自分でも驚くほどの単純な欲望を持て余し、唯一、彼との逢瀬が叶った小さな橋へ。
 無論、彼はいない。言葉通り、次の街へと去ったのだろう。
 「出鱈目に歩いていれば何処かに着くさ」
 彼の言葉に、なんとはなしに柘榴は思いを馳せてみた。先など見えない出鱈目行脚の途中で、偶然に出会ったのだな、と。
 この街だけは、翡翠に会うという確固たる目的のもと彼は訪れたのだが、柘榴はそれを知る由もなく、南路との出会いという偶然に、形のない感慨を覚えていた。
 何でも出来る
 何にでも成れる
 そんな尊大な柘榴の心が、少し、変わり始めている。
 出会いひとつも操れず、別れひとつも止められない。
 心を知るも、出来ずに泣いた。
 「また此処にいるのか」
 振り向くと、紫陽花柄の団扇で顔を扇ぐ瑠璃。
 柘榴は深く溜息をついた。
 「瑠璃、お前しつこないか?なんやねん一体」
 昨夜、大喧嘩の末大泣きをした影は無く、瑠璃はにやにやと笑っている。
 「まあまあいいからさ、団子屋にでも行こうぜ、おごるからさ」
 「なんでお前なんかと行かなあかんねん、御免やそんなもん」
 柘榴の剣幕などお構い無しに、いいからいいからとニヤつきながら諭す瑠璃。五分ほどの押し問答の末、根負けして一路、団子屋へ。
 客は無く、二人きり、隅の席へと腰掛ける。
 「そうや瑠璃、お前これを見ろ阿呆」
 言いながら袖をまくると、腕中に瑠璃の嚙み痕と、痛々しい青痣が無数に残っていた。
 「これでどう客の相手せえ言うねん、最悪や」
 さらに逆の腕には、これまた無数の引っかき傷。
 「瑠璃、お前は猫や。さかりのついた阿呆猫や」
 「うるさいな!それよりさ、ちょっと聞かせてくれよ」
 「なんやねん」
 瑠璃はククッと、含み笑いを噛み殺しながら言った。
 「母ちゃん昨日、紙食ってたろ!!」
 言うなり、けらけらと大笑いをする瑠璃。つまり、昨夜の二人を襖の隅から盗み見ていた、という事だ。
 お腹を抱えて、なおも笑い続ける瑠璃に、柘榴はまたも大きな溜息を吐いた。
 「何をそこまで笑うねん、子供かお前」
 「お前だって笑ってただろー!」
 尚も大笑いの瑠璃。
 「怒ったり泣いたり笑ったり、せわしない奴やのう・・・」
 店の旦那が団子と茶を出すが、笑いを抑えきれずに手をつけない瑠璃。
 数分後、ようやく笑いの尾が引いて、咳払いひとつ、話し始める。
 「母ちゃんが食べてたの、あれ、手紙だろ?なんなんだあれ?教えてくれよ」
 頬杖を着き、少し遠い目の柘榴。
 そうした事が堂々と聞ける彼を、少し羨んだ。
 「わかれへん」
 「嘘だ」
 「ほんまや」
 緩く目を閉じ、柘榴
 「もう此の世にないから、わからへん」
 瑠璃は団子をゴクリと飲み込み、串を弄びながら言った。
 「あれはあの河原こ・・・辻芸人が翡翠に宛てた手紙だろう?」
 頬杖のまま、瑠璃の目を見る。好奇心に光る目が、少し、揺らいでいる。
 「わからへん、本間に知らんねん」
 大袈裟に舌打ちし、串で椀を叩く瑠璃。
 「じゃあさ、お前はなんであの橋に行くんだ?あの蜥蜴みたいな奴が好きだったのか?」
 「もう此の世にないから、わからへん」
 「死・・・死んだのか!?」
 目をまん丸に驚く瑠璃。小さく笑う柘榴。
 「死んだようなもんやな」
 と、瑠璃は身を乗り出し、真っ直ぐ柘榴の顔を見た。
 「なあ、俺聞きたいことがいっぱいあるんだ」
 「いらっしゃーい!!」
 店の旦那の威勢のいい声。十人程の団体客の賑々しい声と音。
 柘榴は立ち上がり、顔も見ずに言った。
 「わしかて聞きたいことだらけや」
 水のように流れた素直な言葉。
 そのまま柘榴は振り返らずに店を出る。
 『瑠璃の好奇心に答えれば、少しは楽になるんかな』
 橋の袂に人は無く、退屈そうに風が吹く。
 死んだようなもんやな。
 呟いて、また、立ち尽くす―。
 
 午後二時、一時休憩しようと息をついた黒鵐。
 翡翠の様子を見ようと階段を上り、襖を開けると、そこには丁寧に畳まれた布団と半襦袢。彼の姿は無かった。
 「柘榴さん」
 瑠璃と別れた後も、変わらずに橋に立っていた柘榴。振り向くと、そこには少しだけやつれた顔の翡翠。
 向けられた笑顔を痛ましく思い、思わず柘榴は視線を地に向けた。
 「もう、出歩いて平気なんか・・・?」
 翡翠は、微笑んだ。
 「全然大丈夫です、あのくらいのこと、なんでもないですよ」
 小さく、トントンと跳ねて、尚も微笑む翡翠。その愛らしさに、往来の娘もまた、和やかに微笑んだ。
 「南路さんは、いないんですね」
 「知らんかったんか?あいつは違う街に行ったんや」
 翡翠は、小首をかしげて言った。
 「じゃあ、柘榴さん、どうしてここに?」
 南路に会いたかったから。そうした言葉を、柘榴は呑みこんだ。瑠璃を幼稚と笑えない目の前の自己矛盾に、少し気が遠くなる。自分の知らなかった自分に出会ってしまった柘榴に、それを上手に説明する術など無かった。
 「それでも、会いたかったからですか?」
 微笑みながら、翡翠は容易く答えを言う。―恋をしていたからですよ―あの晩と同じように。
 「柘榴さん」
 言葉を待たずに、微笑んだまま、翡翠は言った。
 「私は柘榴さんが好きです」
 思わず、吹き出すようにから笑う柘榴。
 「知っていました?」
 両手で目をゴシゴシと擦り、柘榴は唸った。
 「翡翠、阿呆や。お前は阿呆や」
 からかうような笑顔を浮かべて、翡翠はピョンと跳ね、柘榴の胸元に抱きつき、あくまで明るい声で囁く。
 「此のまま死んでもいいと思えました、喩えじゃなく」
 道行く人達が怪訝そうに、或いは微笑ましく二人を眺める。
 柘榴は顔を真っ赤にして彼を引き剥がそうともがくが、いっそう力を込めて抵抗する彼に思わず叫ぶ。
 「は、はなれろや!お前頭いんどるんか!?」
 「上方の言葉はわかりません」
 手を代え、耳元で囁くように諭すも、翡翠に離れようという様子は全く無い。
 いよいよ往来からふたりをからかう野次が飛び、柘榴は恥ずかしさから『もう死んでもええ』と胸中、呟いた。
 あきらめて脱力した柘榴に、翡翠は囁いて笑う。
 「お願いを聞いてくれたら、離します」
 「わかった、なんでも聞いたる、はよ離してくれ」
 聞くと、翡翠はそっと手を離し、柘榴の目を、真っ直ぐに見た。
 「二度と私を傷つけようとしないで下さい」
 また、微笑んだ。
 人として当たり前の事を『お願い』された柘榴は、言葉に出来ない何かを感じ取り、非道く曖昧に頷いた。
 本当に言葉通りなのか、何がしか裏の意味があるのか考えあぐね、彼の心は焦燥する。
 他愛なく乱れてしまう心
 不意に翡翠はよろめき、微笑んだまま膝をついた
 今度は柘榴のほうから彼を抱き寄せ、その身を負った
 反射的に伸びた手には、まだ、あの晩の感触が残っていて、柘榴は、もしかしたら、それは死ぬまでこの手に佇み続けるのかと、そんなことを思った。
 たぶん、それは、きっと 残り続ける。
 そんな気がして、柘榴はよろけた翡翠の身を、優しくその手に負った。
 何度も何度もその手に負って、いつか塗りかえられればいい。
 そんな風に、思った。

 「不要なものは此の世から消してしまえばいいのです」
 黒鵐は、かつて母から聞いたその言葉を、座右の銘としている。
 いつ、どんな状況で出た言葉か、今はもう明確には覚えていない。
 黒鵐は母を思うとき、同時に、何処で手に入れたか、母が愛用していた長い長い包丁を思い出す。それは料理道具としてだけではなく、人を殺す道具として使われた。
 母の気が少しおかしいという事は幼い頃から知っていた。村の誰もがそう言っていたからだ。狂人の子として生を受けた黒鵐は、ほとんど奇跡的にその負を払拭する処世を身に着けて生を受けた。
 男とも女ともつかない顔立ちは、その時々でどちらにも色を代え、狂人の子である負をいつでも見事に切り抜けた。
 同情も買えば羨望も受け、兄とも姉とも弟とも果ては妹にさえも代わる代わる色を代え、小さな村の子供達の中で、黒鵐は決して傷つけてはいけない存在となっていた。
 子供時代、肉体的な性の介在しない、抽象としての性を利用する事において、黒鵐は天才的だった。
 それは半陰陽である事と自分の才能が、唯一輝かしさを与えてくれた短い季節。
 地獄下りが待っていようとは、想像だにしていない時代―。
 「どうしたんです?黒鵐さん」
 共に炊事に勤しむ女中の声に、黒鵐は我に帰る。
 翡翠の身を案じてか、昨夜柘榴に「此の世から消した」という言葉を使ってからか、包丁を片手に呆けた黒鵐。
 「いえ、ちょっと寝不足で」
 事実、眠る翡翠の横で寝ずの番。疲れと眠気は随分と溜まっている。そこに来て仕事の合間に姿を消した翡翠。多少呆けるのも無理からぬ事。
 だが、黒鵐は隣で共に仕事をする女中に、呆けた姿を見られた事に、強い後悔を覚えていた。
 何時からか、黒鵐は「完璧な存在」である事を指標し、それに固執し続けている。それは此処、市松屋に来てからも変わらない。
 「黒鵐、頼むわ」
 戸が開く音がして、柘榴の呼ぶ声。
 翡翠の身を負う彼を見るや、黒鵐は駆け寄った。
 その場に何人かいた見世の者は、黒鵐を見とめ、口を挟もうとも手を出そうとも、ただ傍観者と成り様子を眺める。
 「柘榴さん、翡翠さんは何処に?」
 手早く黒鵐はその身を負い、歩き出す。
 「橋におったら、来たんや」
 追いかけながら、柘榴。
 翡翠が小さな声で「ごめんなさい」と囁く声に、黒鵐は優しく背を撫でる事で応えた。
 布団を敷き、翡翠を横たえると、黒鵐はすぐに仕事へ戻った。
 色々と質問されると思っていた柘榴は拍子抜け、少しばかり複雑な面持ちで翡翠の枕元に座る。
 少しの間で彼が寝息をたてはじめると。
 「入るぞ」
 と、瑠璃が襖を開け、無遠慮に部屋へ。
 「母ちゃんから聞いた。大丈夫なのか?」
 「今寝たとこや」
 寝顔を覗き込む瑠璃。
 眠っているのを確認し、小さな声で喋り始める。
 「なあ、柘榴」
 同じく、小さな声で返す。
 「なんや」
 「あの河原こじ・・・辻芸人との事とか、教えてくれよ」
 溜息をひとつ吐き、柘榴
 「なんやお前最近おかしいで、わしに自分からえらい寄ってきたり、なんやねん」
 瑠璃は、口を尖らせて、少しむくれたような顔で言った。
 「母ちゃんがお前らのこと気にかけてんだもん」
 眉をしかめて「はあ?」と柘榴
 ガジガジと、瑠璃は親指を齧った
 「お前らのことばっか、気にかけてんだもん」

 夕方。
 賑々しい城下の往来で、南路は拍手と歓声を浴びながら、芸を締めた。
 御伽噺をしながら、その情景を紋切りで再現するという芸は、早くも街の話題になり始めていた。
 今日は最も新しい演目「幸御魂の火」を披露し、上々の反応に胸を撫で下ろした。
 そぞろ散り行く聴衆の中、一人の少年が南路に近づき、声をかける。
 「さっきの話、ようわからんかった。教えてくれ」
 思わず息を呑む南路。
 「上方から来たのかい?」
 少年は少し遅れて、目線をそらしてから、頷く。
 どこか不遜な態度と、下から突き上げるような目線。ボサボサの頭。
 「どこから解らなかった?それともぜんぶ?」
 聞くと、少年は口を尖らせ、睨みつけるように南路の目を見る。
 「ぜんぜん納得でけへん、なんで人間が蝙蝠になんねん。何で蝙蝠が蜘蛛の巣なんかにひっかかんねん。滅茶苦茶やんか」
 南路は背を曲げ、少年と同じ目線になり、裂けた口角を上げて、優しく言った。
 「君は頭がすごくいい。みんな簡単に騙されてたろう?そうだよ、君の言葉は正しい。とびきり正しいよ」
 ピン!と背筋を伸ばし、誇らしげに少年
 「せやろ。嘘はつうじひんで、そんなゆゆしいこと、楽しくもなーんともあらへん。明日はもっと違うのにしーや」
 言うと彼は、不躾に踵を返す。南路は呼びとめ、「名前は?」と聞いた。
 数歩向こうで少年、体ごと振り返り
 「若榴(ざくろ)や」
 南路は目眩に似た感覚と共に、けらけらと笑った。
 現実が御伽を真似したとしか思えない、そんな風に思い、笑った。

 夕暮れ時、商人宿のやけに広い部屋の真ん中で、南路は目を閉じ、御伽噺を夢想する。
 だが、どうにも集中出来ず、だらしなく大の字になり、小さく、嗚呼と声を漏らした。
 柘榴と若榴。
 出会ったばかりの少年の顔を思い出す。
 柘榴の様な凛とした美しさこそ無いものの、朴訥とした雰囲気は少年特有の輝かしさを湛えていた。重ねて言えば不遜な態度は柘榴そのもの、おまけに上方。
 ひとり小さく笑い、今度は柘榴の事を思い返す。
 おそらく、と彼は思う。
 あれほど美しい少年に出会う事は無いだろう、と。
 ―今でも、南路は考えあぐねている。果たして柘榴は自分の事をどう思っていたのかを。恋と言ってしまえば他愛の無い事、彼は柘榴の自分に対する感情は、あらかじめ名付けられたそうしたものでは無かったと考えている。が、その正体は解らない。
 そういう事が叶うならば、南路は別れの前日、共に出鱈目に花街を歩き回ったあの日に、柘榴を連れ去ってしまいたいと思っていた。その自分の欲望も、恋という名前のものでは無いと彼は考える。無論、正体は解らない。
 客として翡翠に会いに行ったあの日。
 そもそも、彼が強烈に「翡翠に会いたい」と思った動機そのものが厳密には不透明。名前の無い感情に突き動かされた、としか言い様が無かった。
 そうして、無遠慮に言えば、彼は翡翠に対する性衝動を抑えることが出来ず、自分がただの客に成り下がった事を知った。
 だから彼は、手紙という手段をとった。
 一度客となった自分が、伝えたい御伽噺を自分の口で伝えれば、翡翠もまた、自分にとっての「客」になるという事を恐れ、また、俗で汚した聖性を払拭する為に、彼は香を焚き染め青を刷いた。それが上手くいったかどうかは定かではないが、兎に角、彼にとって翡翠との逢瀬という念願は、決して自分の夢想した美しい着地を見せなかった。
 そうした、ささやかな後悔を抱えたある日、柘榴は現れた。
 聴衆の中、誰よりも退屈そうに、つまらなそうに、それでも最後まで話を聴く美しい少年。
 不躾で不遜だが、決して無遠慮では無かった。いつもどこかで距離をおき、ついぞ自分の事など何一つ喋りはしなかった。また逆に、聞かれる事も無かった。
 いつか彼は
 「南路、お前の話はようわからん」
 と言い、これまで話した御伽噺の気に入らない点を次々と指摘した事があった。南路は非常な驚きと共に、柘榴の話を聞いていた。誰よりもつまらなそうな顔をしていた柘榴が、自分の話した御伽の、そのひとつひとつ、微に入り細に入り覚えていた。
 南路は、嬉しかった
 それは、大袈裟でなく
 此の世に生を受け、最も嬉しかった瞬間
 それ故に、彼はこうも思った
 己の俗が、またこの聖性を汚す前に、去らなくてはいけない
 大切な縁を、別れでしか守ることが出来ない自分を、南路はとうに知っていた
 それは、寂しくも悲しくもなかった―。

 時々、ぜんぶなにもかも壊してしまいたくなる。
 計算通り紡ぎ続けた日常を、ぜんぶ、ぜんぶ。
 黒鵐はこれまで、そんな事を繰り返してきた。
 幻想としての性が終わり、肉体を伴う物理的性へと自分を含めた周囲が目覚め始めた頃から、黒鵐の言う「地獄下り」が始まった。
 これまで男にも女にも巧みに化けて紡いだ立ち位置は、あまりにも簡単に崩壊し、生き方を変える必要があった。明確にそれを理解したのは十四歳の頃。
 聡明な黒鵐は、それでも自分の複雑に絡んだ性を無闇に嘆く事は無かった。
 気の違った母を見るうち、黒鵐はどう転んだにせよ自分は特別で、尋常な存在には成り得ないと理解していた。なにより先に、自分が男であるか女であるかを決めて、それに準じて全てを作り直さねばと考えていた。
 そうして、十四歳の梅雨時、母は村の人間二十四人を何処で見つけたとも知れない長い長い包丁で次々と刺し殺した。
 「いらないものを此の世から消してくる」
 そう言い残して、家を出た。それが最後の言葉であるが、黒鵐はその言葉が最後に交わされたものという記憶を持っていない。何時何処で聞いたかわからないが、母の言った印象的な言葉の一つとして記憶している。
 気の違った母は引き回され磔にされ拷問され死んだ。
 残された黒鵐は村中にその性を暴かれ、残酷な仕打ちを受ける。
 気狂いが生んだ化物と呼ばれ、そのうちに村を追放される。十四歳の終わり。
 糧無く、死と隣り合わせの放浪の末行きついた街で、黒鵐は女を選んだ。
 そこに計算はなかったが、結果として黒鵐は如何わしい見世物小屋の旦那から寵愛を受け、その街で生き延びる足掛かりを作る。
 その見世物小屋は、連日連夜、河童だの人魚だの、造られた異形を並べ立て、かなり大きな収益を得ていた。
 何人かの職人が毎日毎日、動物の死骸をあの手この手で壊しては繋いで異形を作り上げる。黒鵐は女中として職人達に食事を作り、小屋中を掃除し、女中としての作法を学んだ。
 そんなある日、黒鵐は見世の旦那に呼ばれ、暗い暗い夜の帳を抱いて眠った。
 大方の計算通り、旦那は黒鵐の性を喜んだ。
 毎夜毎夜、黒鵐は「異形として」愛された。
 救いの一つの形として、黒鵐はその夜々を胸に刻むが、決して福音などとは思わなかった。見世の異形の怪物共を、次々と職人達が作り変える様に、異形も慣れれば異を失する事を黒鵐は理解していたからだ。
 寵愛を受ける日々の中、黒鵐は女中や職人を含む見世の者全員の性格を観測し、それに合わせて自分を操作する事に奔走する。
 無骨も細心も黒鵐の手の内。
 かつて村の少年少女の全員を味方につけた様に、そこでもまた、黒鵐は手を尽くす。
 もはや幻想ならざる物理としての性を行使するに恐れを失くした黒鵐は、時にどちらの性も使い分け無償で春を鬻いだ。
 尋常も異形も、性を通じて何処かで普遍の尻尾を持っている。
 見世物小屋で学んだ処世を、その後もしばらく、彼(彼女)は使い続ける。
 一年、二年と経ち、見世物小屋の経営は目に見えて傾き始める。
 手をかえ品をかえ異形を作り続けたが、もはや種も切れ、街の関心は目に見えて薄らいだ。
 旦那の気は荒れ、手を尽くそうにも打つ手無し。
 職人達は毎夜叱責され、一人二人と辞めていく。
 土台、知名度もある立派な小屋。舞台だ芝居だと商売変えすれば存えそうなもの、ただ、旦那はそれを許さなかった。見世物小屋として一代で築いた功に彼はこだわり、決して異形の見世物を捨てようとはしなかった。
 そして、ある晩。
 夜の帳の向こう側。
 簪を首筋に。  黒鵐は旦那を殺す。
 数日後、街には「見世物小屋の主人、其の身を用いて最後の見世へ」と数百枚の 引札が配られ、彼の最後がペテンか真か、小屋には街中の人間が集まり大盛況となる。
 旦那の死体は、職人達の手によって、人の顔を持つ猿に造り変えられ、舞台の中央で観衆の度肝を抜いて見せた。
 舞台裏、黒鵐は見世の者達からの素晴らしい賛辞を受け、そのまま主人に成り代わり、見世物小屋を芝居小屋へと仕立て上げ、それは新たな街の娯楽として暖かく受け入れられた。
 ちなみに、旦那が死んで自らを怪物として見世物となる、というのは表向き彼本人の遺言として街には伝えられていたが、見世の者は黒鵐の書いた絵図だと無論、知っていた。
 その狂気に対する説得力を、見世の者全員に対して黒鵐は獲得していたという事。
 その後、黒鵐は見世を去る。
 少しの金と、幾つかの着物を抱えて。
 その夜、街中が橙色に染められた
 華やかで立派な芝居小屋は、いつまでも燃え続けた
 大きな音と共に崩れ行く瞬間、黒鵐は頭の中で呟いた
 ―いらないものを此の世から消しただけ。
 焼け跡から見つかった二十四人の遺体は、其の日のうちに埋葬された
 関係者全員が、黒鵐の消息を追ったが
 ついぞ見つけることは出来なかった―。

 風鈴の間。
 柘榴と翡翠は、足を伸ばして窓辺に並び、背に風を受け涼んでいた。
 頭上に鳴るたまゆらに似た音が、静やかに響く。
 「なんや最近、見世を休んでばっかりやなあ・・・」
 紫陽花柄の団扇で、ゆっくりと扇ぎながら呟く柘榴。
 「瑠璃さんの嚙みあとが消えるまでは、お休みですね」
 ククク、と小さく笑う翡翠。
 リンとまた、頭上で鳴る。
 「静かやなあ・・・」
 「静かですね」
 と、早生まれの蝉達が、細く長く時雨を降らす。
 「黒鵐さん、何処に行っちゃったんでしょうね」
 翡翠の目が、少し遠くなる。
 二日前、何の予告も無く黒鵐は見世から姿を消した。
 ただの住み込み女中の夜逃げ。過去幾度かはあった事だが、彼(彼女)のそれは、見世をあげてのちょっとした騒動となった。
 何も金品を盗んで逃げた訳では無い。何枚かの着物、それも私物を持って去っただけ。問題は残された女中を始めとする、見世の者達の喪失感だった。
 黒鵐が去った日、見世の者達は互いを牽制しながら、各々の意見を伺った。
 しかし皆、一様に「夜逃げする理由など見つからない」と口を揃えるばかりで、参考となる意見など一つも出なかった。
 そもそも黒鵐は身寄りも無く、嫁ぎ先の夫も死に、天涯孤独。そうした過去だけを語り、この見世に女中として入り込んだ。逃げる理由もその行く先も、ろくに浮かびはしなかった。
 しかし、何より大変だったのは瑠璃である。
 母ちゃんと呼び、誰よりも黒鵐を慕った彼の落胆は二日経った今、尚続いている。
 「瑠璃のやつな」
 団扇の手を止め、柘榴。
 「黒鵐がわしと翡翠ばっかり気にしてるって、やきもち焼いたんや」
 小さく笑う、翡翠。
 「それは私達に問題があるからでしょう?瑠璃さん、あれで立派な人ですからね」
 「立派なことあるかいな。近頃やけに絡んできよると思ったら、八つ当たりやったんや」
 憎々しげに腕をまくり、瑠璃の歯型を抓る柘榴。
 翡翠が手を伸ばし、そっと、撫でる。
 「黒鵐さんも南路さんもいなくなって、寂しいですね」
 透明の目。
 緩やかな口角。
 水の様な声。
 ずっと前から、
 柘榴はそれらに心を捉えられている。
 ふいに、彼は思った
 『南路も黒鵐も、何処か翡翠に似ている―?』
 けれど、何故そう思ったのか。何処がどう似ているのか、上手く考えられない。
 嚙みあとを撫ぜたまま、柘榴の肩に頭を置き、まどろむ翡翠。首筋には、まだ薄く薄く、指のあと。
 「寂しいですね」
 もう一度、今度は囁く翡翠。
 「元に戻っただけや」
 嘯く柘榴。
 「それもそうですね」
 優しく微笑んで、騙されてみせる翡翠。
 本当は、色んなものが変わった。
 けれど、ふたりは何問うでも無く、優しい夕涼みに身をまかせ、目を閉じた。
 「黒鵐さんのご飯、おいしかったのになぁ」
 翡翠の声が、眠りの尻尾をそっと掴んで、そのまま、そのまま、遠く離れた。

 翌日、朝も早くから市松屋に招かれざる客。
 三人の岡っ引きを連れた同心が、ある男の死について聞きたい、と訪れた。
 昨日、翡翠の上得意の客が遺体で発見されたらしく、その男は街では有力な存在。事の整理のため聞き込みに来たのだと言う。
 当然のこと、見世は知らぬと突っぱねたものの、同心は一切引く事無く、一本の簪を見世の御用聞きに突き付けた。
 「死んだ男の首に突き刺さってた簪だ、この見世に持ち主がいないか調べてもらいたい」
 美しい漆の簪、その先には赤黒く、血のあと。
 「翡翠ってぇ陰間に話が聞きたい」
 凶暴な野良犬の様な目の同心。
 御用聞きは『こんな時、黒鵐がいれば』と心中嘆き、瞬間、思い当たる。
 が、頭の中でそれを否定する。
 黒鵐は間違ってもそんな狂気を犯す人間では無い、と。
 「また後で来る。翡翠ってえのを段取りつけといて下さいよ」
 静まり返る見世先に、蝉が時雨を、また、降らす。
 夏は既に開き始めていた―。

 『お、また来たな』
 御伽語りの南路、観客の向こうからホテホテと歩いてくるボサボサ頭の小さな少年を見つけ、心中微笑む。
 
 若榴だ。
 今や街の人気者となった南路の、四十名にも及ぶ聴衆の人垣に、小さな小さな身体で無理やり分け入り、最前列、彼の目の前へ。
 じっ  と南路を見上げる。
 話も終盤、異様に長い手指を巧みに使い、奇術師の様な所作で御伽を御伽たらしめる南路の不思議な話術。
 今日の演目もまた「幸御魂の火」
 毎回話の構成と切り口、それに挿話も主人公も変え、目くるめく重層な世界を描き出す南路。
 喝采を浴び仕事を終え、四方に散る観客達の中、若榴一人がぽつんと残る。相変わらず憮然とした顔で南路を見上げている。
 「今回もお気に召さなかったかい?」
 聞くと、若榴は首を縦に振る。
 「やっぱり最後おかしいで、人は蝙蝠にはならん、蜘蛛の巣なんかにもかからん」
 南路は、裂けた口角で微笑む。
 「やっぱり君は賢いよ、他の人はそんなこと言いやしないよ」
 「みんな嘘つきやからな」
 「若榴は嘘をつかないのかい?」
 と、若榴は質問には答えず、突然に目を輝かせて言った。
 「名前、覚えててくれたんやな!」
 こらえきれず、南路は笑った。
 それは、泣いてしまうのと似た笑い。
 時々、涙と笑いは同じ空気を吸って存える。
 人は人の純粋に、時々泣いたまま笑うという事を、南路は知っていて、だから若榴の言葉が少し寂しくて悲しかった、けれど泣くようなことではないので、彼は笑った。
 自分の仕事を一人で見に来る子供が、どんな子かというのを彼は経験上知っている。友達がいなくて、孤独な子。
 それはあの色街にいた美しい少年もきっと一緒。
 これまで南路は色々な町や村で孤独な少年少女との出会いを繰り返してきた。時には彼らから特別な感情を引き出してしまう事もあり、その度にまた、出鱈目に歩いて新しい場所へ向かい続けた。辻芸人としての南路の行脚は幼い孤独との別れの記録でもある。
 だから、心には標本の様に、少年少女達の孤独が、たくさん、たくさん。
 「若榴、俺の口、裂けてるだろう?どうしてだと思う?」
 少しだけ考えてから、若榴。
 「わからん、生まれつきやろ」
 「違うよ、これはね、赤ん坊の頃に蟻に喰われたんだ、凄いだろう?」
 大きく口を開けて、その裂け目を見せる。
 「嘘やろ?どうせ」
 「いいや、これが本当なんだな。俺は嘘をつかない」
 肩を揺らしてケケケと笑う若榴。
 「大嘘つきやんか自分!!嘘つき嘘つき嘘つき!嘘つき!!」
 若榴はボサボサの前髪をかきあげて尚も笑う。
 目の上に、額に、前髪の生え際に、幾つもの傷痕が浮かんでいた。
 南路は膝を曲げ、彼と同じ目線になり、言う。
 「なあ、若榴。俺の名前を知りたくないか?」
 「どうせ嘘つく気ぃやろ?」
 手を伸ばし、若榴の頬に触れた
 瞬間、彼は怯えたように震え、瞳を揺らす。
 かまわずに、もう片方の手でボサボサの前髪をかきあげ、その揺れた瞳孔を真っ直ぐに見る。
 親指が傷跡に触れ、若榴はきつく目を閉じた
 それは痛みから来る身体の反応では無く、心の反射
 涙と手を繋ぐ南路の微笑み
 ゆっくりと、少年が目を開けてから、醜く裂けた口で言葉を紡ぐ
 「俺の名前は南路だよ。南路、な、ん、じ」
 そうして、手を離す。
 若榴は、身を固めたまま非道く曖昧に口を歪めた。
 袖口から鋏、小さな白い紙。
 奇術のような早業の紋切り。
 とたんに少年らしい好奇に気を寄せる若榴。と、目の前に、白い白い、少しだけ歪な形の花。
 「すごい・・・なんやの?これ」
 南路は、その白い花をきれいに畳んで、彼の手の中へ。
 「耳蝙蝠という名前の花だよ、蝙蝠の羽にね、花弁が似ているのさ」
 「も、もらってええんか?」
 優しく微笑む南路。
 「もちろん、差し上げよう」
 ガシガシと頭をかきむしる若榴、ボサボサ頭がより乱れ、もはや獣の様相。
 「どうしたんだい?」
 ピタっ・・・と動きを止めて、若榴
 「人から物貰うたんはじめてやねん!」
 歯を見せて、微笑む。
 そして、礼も言わずに突然駆け出し、去っていく。
 途中、一度振り向き、大声で若榴
 「か、返せって言っても返さへんから!!」
 答えを待たずに、また駆け出して、遠くに消える。
 そうして、莫迦だな、と自分に言って、南路もその場を離れた。
 親指で触れた感触が、少し、疼いた。

 ―色街。
 瑠璃はぐるぐるぐるぐると街中を歩き回っていた。
 『なんかの間違いだ』頭の中で繰り返す。
 同心が持ってきた、ある男の首に突き立てられた簪。
 瑠璃だけは、それを一目見ただけで誰のものか解った。解ってしまった。
 『なんかの間違いだ出鱈目だ嘘だ陰謀だ』
 頭の中で、ぐるぐるまわる、黒鵐の姿。
 夕刻、再び現れた同心と数名の岡っ引きが、殺された男の素性を見世に告げた。その男は見世では有名な嗜虐の男。数ヶ月前、翡翠の首を絞めて失神させた得意客。
 愛すべき翡翠の為に復讐した黒鵐。その絵図を描いては消し、描いては消しを繰り返す瑠璃。
 そうして、思い当たる
 自分は、黒鵐のことを何も知らない
 ただ、大好きだっただけ
 知ろうとは、しなかった
 小さく、呻く。
 早足で歩きながら、また呻く。
 蝉の合唱、いっそ大きく、盛大に
 街中、色鮮やかな流行の団扇
 呻きは途切れ、行きかう人々の視線が、瑠璃に注がれた
 歩きながら、
 歩きながら、
 出鱈目に歩きながら、
 瑠璃は大声で泣いていた
 子供の様に―。
 どうして上手く出来ないの?
 その言葉を聞く度に、瑠璃はいつでも泣いてしまいそうになる。
 瑠璃の母は幼い彼を完璧に教育する為に、どんな習い事でも通わせた。
 けど、藩校の勉学も遊芸も、彼は上手になんて出来なかった。
 「どうして上手くできないの?」
 母は言う。
 「どうして上手く出来ないの?」
 どうしてだろうと、幼い瑠璃はいつもいつも考えた。
 いつもいつも考えるけど、答えなんて出なかった。
 「どうして上手く出来ないの?」
 わかんない
 わかんない
 わかんない
 街で尊敬を勝ち取る為に、瑠璃の母は他人の心を操った。
 態度で、仕草で、言葉で。
 健気で上品で教育熱心な母親として、彼女はある種、一つの見本と見なされ同じ子を持つ母親達に愛され、尊敬もされた。
 確かに、実の子である瑠璃から見ても、母は健気で上品な尊敬すべき母。だからこそ瑠璃は「上手く出来ない」自分をいつでも疎ましく思い、焦燥していた。
 尊敬する母の為、彼は自分の不器用を呪いながらも、それでも一生懸命に臨む。
 時々、人は彼のその愚直を笑ったが、彼にそうしたものは見えていなかった。
 そのうちに、瑠璃は母親との差から、出来損ないと陰口を叩かれるようになり、それを恥じた母はいっそう彼を叱る。
 「どうして上手く出来ないの?」 
 わからない。
 母の教え通り、人の話も聞いている。一生懸命臨んでいる。頭だって使っているつもり。けど、上手になんか出来なかった。母に応える事は叶わずに、日一日と時がたち、季節は容易に巡る。
 ―ある日、母が牡丹色の見事な着物に身を包み、美しく装った。
 「母ちゃん、すごいね」
 瑠璃の拙い感想に、母は笑いもせずに言った。
 「その呼び方はいいかげんやめなさい。品の無い」
 言って、彼女は酷薄な唇に紅を引き、外へ。
 母の呼び名を生れて初めて、それも唐突に咎められた瑠璃は、訳もわからずただベソをかいた。
 その日以来、彼は何度も美しく装う母を見る。
 「勉学と芸事、調子はどう?」
 聞かれて、瑠璃は正直に答える。
 一生懸命やっているけど、周りの子達にどんどん抜かされ、おまけにすぐベソをかくため、先生やお師匠さん達も困っている、と。
 そうして、母は息をのむ様に言う。
 「どうして上手く出来ないの?」
 ごめんなさい、と瑠璃。
 わからない、どうしてなんだか、わからない。
 「瑠璃は私に似てると言われたこと、ある?」
 ないよ、と彼は答え、母は、緩く笑う。
 瑠璃は、今はもういない父のほうに似ていた。
 だが、それを彼は知らない。父という存在を認識するより前に、父はいなくなっていた。また、母からそれについて語られることはなく、瑠璃にとって親は母だけ。尊敬する、大好きな。
 「なんでも勉強して、一人で生きれる様にならなくてはね」
 母の言葉に、瑠璃はうなづいた。
 「泣いてばかりいても、何も変わらないからね」
 たぶん、それが、瑠璃の記憶に残る、母の最期の言葉。
 出来損ない、の陰口を開き直って自称する様になった頃、瑠璃は十二歳で、同じ様に出来損ないの仲間達と共に毎日を刹那的に過ごしていた。
 母はもういない。
 理由は知らない。
 生活は三味のお師匠さんの世話になり、変わらずに藩校にも遊芸にも通っていたが、応えるべく存在の母の不在から、それに臨む態度は一変していた。
 母の思いを浮かべながら一生懸命やっていた彼が、その発想を捨てざるをえなくなった日から、勉学の方は相変わらずだが、不思議と遊芸が上達の兆しを見せ、三味も唄も人並みににはこなせる様になり、性格もずいぶん明るく変わり、出来損ないの仲間たちがいつでも彼を囲んだ。
 母のよからぬ噂は、何度でも聞いた。
 健気で上品で美しかった母のこと、その噂は様々な負の感情を孕んだ、聞くに堪えないものも多かった。
 最初は、そうした噂を直接耳にしても、黙ってベソをかくばかりだった瑠璃だが、いつからか激しく喰ってかかる様になり、それは大泣きを伴う過剰な反抗。母の為に心に焼き付けたある日の愚直は、彼の中でそうした形で生き続ける。
 どうして上手く出来ないの?
 「出来損ないだから」
 そう答えられる様になった頃、瑠璃はふいに、母親というものについて思いを巡らせてみた。
 何かを教えてくれることはなかった。
 でもご飯をつくって食べさせてくれた。
 そだてて、くれた。
 蒸発を許す許さないなど、瑠璃にとっては些細な事。出来損ないの自分が、なんでも上手に出来る、きちんとした完成品にさえ成れれば、そんなことはどうでもいい事のように思えた。
 瑠璃の心は、とっくの昔に欠けていた。
 母ちゃんは、なんでも上手に出来る。母ちゃんだから。
 俺は母ちゃんの子だから、いつかそうなる。
 「お前がここまで出来るようになるとは、正直思ってなかったよ」
 三味のお師匠さんの言葉に、瑠璃はいつしか生えた八重歯を覗かせ、笑った。
 「すぐに泣く根性無しだと思ってたけど、思えば泣くぐらい悔しかったんだね、瑠璃」
 そして、瑠璃は小さな手を器用に操り、細く、鳴らす。
 「上手に出来てるか?」
 上等、上等、とお師匠さんは笑った。
 俺は母ちゃんの子だから、いつかそうなる。
 瑠璃がまだ、母の行方も、父についても、何も知らなかった季節―。

 ―死体が、また見つかった。
 喉に、数十個の小さな穴が穿たれて。
 またしても、翡翠の客だった嗜虐の男。
 「なんなんやろな、ほんまに」
 風鈴の間、柘榴の呟きに翡翠は小さく答える。
 「わかんないです、なんにも」
 翡翠は、嘘をついた。
 本当は、わかってる。黒鵐がやったのだと。
 確証など無いが、彼は黒鵐の愛情を一身に受けた皮膚感覚を持っている。
 『きっと黒鵐さんなら、人殺しも手際よく行ったものでしょう』そんなふうに彼は想像して、少しだけ笑う。笑ってしまう。
 そうして、翡翠はこんな風にも思う。
 殺すのは、誰の為?
 わたしの為でしょうか?
 あなたの為でしょうか?
 黒鵐さん、あなたにひとつだけ
 もし、わたしの為ならば―
 わたしは
 人の施しなど死んでも受けません
 生憎、知っているのです
 人の正体を
 人の心の在り様を
 「なあ、翡翠、あんまり気にせんとき。ゆゆしい話やこんなもん」
 柘榴が、彼の横顔に悲壮を映し、優しく諭す。
 「犯人、誰だと思います?」
 不意な問いかけ。
 真っ直ぐに見つめる透明な目。
 小さな唇。白い首筋。かすかに残る青い痣。指先の陶酔。脈動と静止。残されてしまった感触と消え行く痕。
 「わからへん、そんなもん」
 「予想も出来ない?」
 「できひん」
 嘘。
 嘘。
 嘘つき。
 翡翠は、心の中、小さく小さく笑う。
 本当は黒鵐さんだって、思ってるでしょう?
 でも、思いたくないんですよね。
 もし、本当に見当がつかないとして、
 どちらにしろ、それが柘榴さんの優しさだと、わたしは思います。
 大好きです。
 そんな、あなたの弱いところ。
 風鈴が鳴る。
 蝉が鳴く。
 「黒鵐さんは何処に行ったんでしょうね」
 興味無さげに、柘榴
 「知らん、出鱈目にどっか行ったんちゃう」
 「寂しいんですね」
 「阿呆」
 翡翠は、目の前の彼が密かに泳がせる心模様に、喪失感という名前をつけた。
 「失い続ける事に慣れていないんですね」そんな風に、翡翠は、思う。
 あらかじめ喪失を湛えて生まれた自分自身の過去。
 だからですよね
 と。
 だから、愛してくれるんですね、と。
 水の中から、揺れる太陽を見上げたあの日、私は蝉の羽化を最後まで見たかった。見てみたかった。殴られ蹴られ苦しくて吐き出して揺れる揺れる揺れる揺れる揺れる光、陽の(それは網膜が拒んだ?から?わからない、なにかが、なにからかなにかが)痛みが痛みじゃなくなるまでなんて思えなかったけど願ったけどある日唐突に叶ったのにやっぱり痛いは痛いで思えば恐いは無くなってしまっていた、そういう日もあった。そんな日は幸せだった。赤毛の鬼は怖いという感覚が不思議と失せるある昼下がり幸福の尻尾をつかんでいました。怖くないから痛くて泣いたが時間と季節が巡って溶けてきれいな空。破綻はわたしの胸の中にあるよ。お母さんお母さんお母さん、わたしは死にたいと思ったりしなかったよ、お母さん、だから辛かったねきっと、でも生きてしまいます、わたしはいつまでも死ぬ日が来るまで。お母さん、教えてくれたね、失うということの意味を、お母さん、それは何かを得ることと同じだって。わたしは信じてみています、今でも。
 
 そうして、夜。
 瑠璃の嚙み痕が消えた柘榴は、久しぶりに陰間の場で客を迎えた。
 女客であればいつでも拒む柘榴の事、客は、男。
 空気が熱の重力に負けて凝っている。
 客の男は、無言のまま柘榴の顔を眺め続ける。
 細い風が熱に穿つ穴を合図に、男は柘榴に寄り添い、ほぼ完璧な作法で彼はそれを受け止める(或いは、受け流す)
 水際の戯れで男は不意に身を引き、着崩れた柘榴が見せる白い肩をそっと撫で、立ち上がり、物言わず去った。
 残された柘榴、ただ壁を見つめ、複雑な心境のまま、肩を隠す。
 男は見世の者に見送られ、夜の中へ。
 瞬間、陰間の一人が弾ける様に見世を出て、男の後を追いかけた。
 そして、男の袖口を後ろからぐいと引っ張り、振り返るを待つ。
 「母ちゃんだろ・・・?」
 男は、振り向きもせず、瑠璃の手を振り払い、歩を進める
 走って、先回り
 男の顔を見上げた。
 「母ちゃんでしょ、ねえ?」
 泣きそうな瑠璃
 「柘榴に、逢いに来たの?」
 震える声
 「母ちゃん」
 男は、笑った。
 笑って、瑠璃の頬を両の手でふれ、言った。
 「最後だから、泣いたらいけませんよ」
 瑠璃は、大声で泣いて泣いて泣いて黒鵐の袖を力任せに振り回した。
 「わたしといたら、捕まってしまいますよ」
 黒鵐の言葉は、ほとんど耳には入らなかった
 どうして人を殺したの?
 なにしに柘榴に逢いにきたの?
 どうして何処かに行ってしまうの?
 黒鵐は瑠璃を優しく抱きしめた。
 「わたしの変身を見破ったのは、瑠璃さんが生まれて初めてですよ」
 うううう、と呻く瑠璃。
 「母ちゃんなのに」
 嗚咽と涙を必死に殺して、言葉を吐き出す
 「母ちゃんなのに」
 「母ちゃんなのに」
 「どうして何処かに行くんだよぅ」
 そうして、異変を感じ取った見世の者達が駆けつけ、瑠璃を黒鵐から引き剥がす。
 「瑠璃、御客さんに無礼な真似するんじゃないよ!」
 黒鵐は、見世の者達に一礼して、去った。
 大声で泣いて暴れる瑠璃を、四人がかりでやっと押さえつけた頃、騒動を遠く、窓の上から見ていた翡翠が、慌しく柘榴のもとへ。
 「なんや、翡翠、えらい不躾に」
 目を丸めて驚く彼の顔を見て、翡翠は透明の目を瞬かせて、安堵の息を吐いた。
 「殺されたかと思いました」
 訳がわからず眉を顰める柘榴
 遠く、もう一度、瑠璃の声が響いた
 言葉にならない、喚き声。
 それは、たぶん、お別れの。

 八月。
 南路と黒鵐が去り数週間、季節は夏に向かって完全に開いていた。
 嗜虐の男達の死も止まり、見世は緩やかにではあるが、もとあった形へと戻り、今は翡翠も柘榴もこれまでそうして来た様に、客達との夜々を重ねている。
 金魚売の気持ちの良い口上と蝉時雨、街中に踊る団扇の紫陽花。
 知らぬ軒先の風鈴が細く長く鳴り、川面を揺らす魚の気配。
 長さわずか二丈ほどの、短い短い橋。
 袂に、南路。
 けど、それは柘榴が見る幻。六月の残像。
 冗談じみて空は青く晴れ上がっている。
 雲なんて、初めから此の世に無かったみたいに。
 橋の袂に、そっと足を伸ばす柘榴。
 見上げる、空。
 「お前とこういう空を見てみたかったぞ」
 そう、呟く。
 街を行きかう、上手に夏と戯れる、軽やかな人達。柘榴一人、物憂げな(しかし極めて微細な)色を湛えて、青空の下、彼のいつも立っていた端の袂、いたずらに白昼夢。
 六月、早生まれの蝉が死を覚える頃、柘榴は南路に恋をした。
 それは欠落を、孤独を、手に余る全ての形を体よく埋め合うような拙いものに違いなかった。欠けた何かで糾う心は、いつでもすぐに恋に化け、時々人を傷つける。
 だから、南路は決して彼に恋なんてしなかった。
 触れざる美しき聖性として、汚れた自分を遠ざける。そんな意図的な構図をつくっては、自分を律して、彼も彼で苦しんだ。
 蜘蛛の巣にからまる蝙蝠と物憂げに見つめる少女。
 鋏で切り取った架空の瞬間。
 黒鵐との別れのとき、
 瑠璃は泣いて叫んで暴れて、胸の奥から別れの言葉さえ吐いてしまえた。
 柘榴は、
 柘榴は南路との別れに涙も言葉も使う事は無かった。
 出鱈目に歩いて着いて出会って別れて離れて、後は喩えれば風とおんなじ。
 言えば、瑠璃にとって別れは耐え難い悲しみ。柘榴にとっては、止められない現実。
 ふいに思い出すのは、初めて市松屋に来た日。
 赤い髪の鬼と出会い、赤い眼の怪物に買われ、自分とは無縁だと思われた絶望という感情を植えつけられた、あまりにも特別な日。
 「盆暗の飛脚、今日も今日と違わず腑抜けて、ちんたらちんたら手紙をくばる」
 橋の袂、ぼそぼそと、小さな声で、柘榴が言葉を紡ぐ。
 「昨夜も夜通し世迷言、眠くて眠くて千鳥足。それでも配らにゃ手紙が腐る。しゃんと背伸ばし宛先聞きゃあ、なんと異界の獄門通り、こいつは難儀でけれども上等。久しく異界もご無沙汰音頭。一丁行くかと褌しめる」
 南路の裂けた唇が、何度も語った創作御伽。
 ぼそぼそ、ぼそぼそ、風よりも小さな声で、呟く柘榴。
 呟きながら、頭の中、爬虫類のよな彼の像。
 ゆゆしい話は嫌いや。
 訳のわからん話は嫌いや。
 お前の話を、せえよ。
 お前の事を、聞かせてくれや。
 いつどこで生まれて、どんな風に生きて、どんな事を考えて、どんなしてお前はお前になったんや。
 もうぜんぶ過ぎて終わり。
 翡翠みたいに、手紙を残しちゃくれへんかった。
 わけのわからん、御話だけや。のこってるんは。
 頭ん中に残ってるだけや。
 暑い季節と軽やかに手を繋ぐ人達の中、小さく小さく、言葉を編み続ける柘榴。
 こんな風にして、出会えてしまえる事が、
 悔しかった。
 悲しいんじゃなく
 すごく
 すごく―。
 夏の終わり。
 蝉の、声。
 世界にはそれしか無いとさえ錯覚させる尋常で無い無数の鳴き声。
 柘榴は、今朝方に石田屋を呼び、用意させた浴衣を来て、街を歩く。
 それは、ある日彼から紹介された、ゆゆしい蝙蝠柄の浴衣。
 誰が見ても美しい柘榴の顔と、奇抜なそれは、周囲とは質を異とし、人々の目線をいくらでも手繰る。
 前を見て、柘榴は歩いている。
 出鱈目に。
 何処へも向かっていないが、何処かへ向かっている。
 歩いて、歩いて、歩いて、やがて色街を出る。
 景色は突然、絵に描いたように朴歌的。
 歩く、歩く。
 「此の世にいらないものは消してしまえばいい」
 そう言って、むしゃむしゃ手紙を食べてしまった黒鵐。手を叩いて笑う自分。
 心を煩わせた手紙は此の世から消えたのではない。黒鵐の体の一部になったのだ、と、今になって柘榴は思う。
 南路と自分の心象は黒鵐の体の中で彼(彼女)の業となり、また、息衝く。
 此の世にいらないものを消すことは出来ない。
 唯一、自分の中に閉じ込める以外に。
 柘榴は、思う。
 想像と憶測に過ぎないが、思う。
 黒鵐は、きっとこれまで、此の世にいらないもの全てを自分の身体の中に閉じ込めてきたのだろうと。
 嗜虐の男達を殺したのは黒鵐だと言う事を、つい数日前に瑠璃から聞いた。瑠璃は泣くかわりに、とびきり悲しい顔でそれを伝えた。その事実を受け入れる事が、尋常で無く悲しくて辛かったのだろう。だから、救いを求めて他人と共有したのに違いない。
 此の世にいらない人間を、殺した。
 閉じた命は、黒鵐の身体の中に閉じ込められ、それは深い業になる。
 自分の手のひらに残る、翡翠の首筋と脈動。つまり、これも身体の中に閉じ込めた、消えない業なのだろうと柘榴は理解する。
 『あの日、自分は翡翠を、此の世にいらんと、思ったんやろか・・』
 つまりそれは、自分の身体の中に、翡翠を閉じ込めようとした、という事。
 そうして、今になって柘榴はまた考える。
 どうして、南路でなく、翡翠の首をしめたのか。
 「それは、恋をしているからですよ」
 あの夜、翡翠はそう言った。
 それは、答え。
 では、誰に?
 粘膜の夜、いつもいつも思った。
 なんだってできるし、なににだってなれる。
 怖いものなんて無かった。
 なにもかも手に入れようなんて考えなかったけど、なにもかも自分の手の届くところにあると思っていた。
 本当は、見世に来た時、自分の身体で春を鬻ぐ事が陰間の仕事だなんて思ってなかった。赤い目の怪物に買われ、何人もの男に玩具にされたその日から、身体と世界は粘膜を隔てた不可触なものになった。
 その日、同室だった翡翠は遊ばれた後の、傷だらけの玩具である自分に触れたが、それさえ粘膜を隔てた遠い遠い関係。
 それでも、触れた。
 なんだってできるし、なににだってなれる。
 誰にだって文句を言われない陰間になって、赤い目の怪物を膝まづかせて笑ってやりたかった。
 どうあれ、現実、色街で一、二を争う陰間に成れた。
 その結果得たものは何なのかわからない。明確にわかる事は、陰間でない自分を失ったという事。今の自分は過去の自分にはなれない。なににだってなれる事の不可能性。高く、遠く。
 
 木々揺れる獣道。
 相変わらずけたたましく続く蝉達の嘶き。
 夏がもうすぐ終わるのを、知っているみたいに。
 この道を通って、南路もあの街に来たのだろう、と、柘榴は何とはなしに思う。
 賑々しい色街から少し離れただけで、もう獣道。
 造られた街。
 造られた自分。
 創られた御伽と意図せざる出逢い。凶暴に爆ぜた感情と去っていった全て。
 残されたのは幾つもの御伽噺と紋切りの蜘蛛の巣、蝙蝠、少女。
 「何処かに着くさ」
 出鱈目に歩いていれば、何処かに着くと南路。
 定められた場所で定めし陰間になった自分。
 「ありがとう」
 一人歩きながら、柘榴。
 「ありがとう、南路。翡翠のもらった御花の紋切りなど、記憶になんて残らへん。普通やあんなもん」
 細い風、
 さざめく木々と同じに、蝙蝠柄が小さく揺れる。
 そうして、立ち止まる。
 瞬間、また、蝉時雨。
 高い空。
 雲ひとつ無く。
 今の自分になるために、何を犠牲にしたろう?
 今この身体と心は、なりたい自分だったろうか。
 本当は
 本当は
 いつか 言った
 いつか たぶん 言った
 翡翠に
 きっと、何でもない夜だった
 此処は地獄だから、せめて違う地獄に行こう
 そんな風な曖昧なこと
 はっきり覚えてるのは、嬉しそうに笑った翡翠と、彼を受け入れてしまえた身体、心。
 でも
 ほんの少し前のこと、
 南路のことを、好きになった。
 ぜんぶ過ぎて、今はもう無い。
 振り返り、ゆっくり、歩き出す。 元来た色街へ。
 出鱈目に歩いて何処かへ、なんて出来ない。
 あの場所へ帰る。
 何にでもなんて、なれない。
 夏が終わるまで、あと何日
 透明の羽とはかない命、存えるを捨て断末魔
 駆け出す
 子供のころのように
 帰る場所があるのは、幸福やから、お前と何処かへ行く幸福は得られへんかった。
 好きな人がいたから、もうひとり、好きな人とは思いを遂げられへんかった。
 此の世にはいらんねん、ふたつも、ふたつも。
 ―だから、身体の中に、閉じ込めた

 「ねえ、柘榴さん」
 風鈴の間。
 久しぶりに雨の降った、夏の終わりの昼下がり。
 ふたりは畳の上に寝そべり、手をつないで天井を見つめている。
 「なんや」
 そっと翡翠の顔を盗み見る柘榴。相変わらず、ただ天井を見つめている。
 「わたしね、子供のころ、羽化を待つ蝉の幼虫を見つけたんです」
 「べつに、珍しくもないやんか」
 手をにぎる翡翠の力が、少しだけ、強くなる。
 「わたしは見たことなかったんです。それでね、どうしても羽化するところが見たかったんだけど、見れなかったんです」
 「なんでや」
 「用事があって・・・」
 雨の音。
 そのむこうに、わずかばかりの蝉の声。
 「どうしても見たかったのに見れなくて、それ以来、羽化を待つ幼虫とは一度も出逢ってないんです」
 退屈な話。
 湿り気を帯びた、感触を持つ空気。
 曖昧な時間と薄暗い部屋。視界の隅、羽虫。
 「来年の夏、さがしたらええやんか。ざらにいんで、幼虫」
 ごろりと身をひるがえし、翡翠、手をつないだまま、柘榴の胸へ顔を埋め、小さく、少しはやく、脈をうつ。
 「柘榴さんはね、出逢えちゃうんです。わたしはね、無理なの」
 なんとなく、
 なんとなく、
 柘榴はそれが解る気がした。
 きっとどんな出逢いだって、翡翠のもとには相手から向かってきたのだと、なんとなく思う。木の幹で羽化を待つ蝉達と、自分の足で出逢いを重ねたのは、自分の方であろう、と。
 翡翠のもとにだって、南路のもとにだって、自分の足で、行った。出逢った。
 自分は、選ばれたりなんかしないから、いつも探して見つけて、出逢ってきた。
 胸に顔を埋めたまま、翡翠が言う。
 「来年の夏、一緒に蝉の羽化を見たいな」
 それは、ひどく遠慮がちな温度。
 きっと、翡翠にとって蝉の羽化を見るのは、容易でないひとつの夢。だから、そんな遠大なものをお願いするのは、と、気が引けているのだろう。
 いわば、わがままを言った。彼は、柘榴に。
 「見たいよぉ、見たいなぁ・・・」
 「おもろいもんちゃうで」
 顔を上げて、翡翠。
 「面白くなくてもいいんです、見たいの。見れなかったから」
 頭の中、あの日見れなかった羽化。村の子供達の暴力と無抵抗の自分、水面、歪む太陽。
 畜生腹から産まれた鬼。
 羽化を待つ蝉。
 存えて十日。
 一度きりの季節と次の夏へ託す命。
 悲鳴。
 小さな身体から、考えられない大きさの。
 なんで生まれたのかな、
 そんなことを考えたこともあった。
 時として、命を落とすのではないかと、そんな恐怖を覚えるほどの際限の無い暴力。動物のように殴られて蹴られて唾をかけられ石を投げられ、傷のうえに傷をつけられ口の中に生きた虫を投じられ、その時だって子供達は笑っていた。母の子守唄で眠りにつく夜、いつもいつも頭のなかを空っぽに出来た。そうやっていれば、たぶん、生きていける気がした。馬乗りで飽く事無く殴られ続けて、もういいかげん死んでしまうだろうと思ったとき、同じように頭は空っぽになり、漠然と生きていけるような気分になった。何かを思うから、死はいつでも人を見るのかもしれないと、そんな風なことを何とは無しに思った。それを訳も無く母に言った事があった。何かを思えば、何かを考えれば、死が自分を見るのだと。泣いた。母は泣いた。何かを思ったんだ。何かを考えたんだ。ごめんなさいと思った。こんなこと二度と言いませんと思った。それから、何をされたって頭の中さえ空っぽなら怯えないですんだ。それが上手く出来るようになった頃、痛み以外の何かで泣いたりすることは無くなった。無くなったんだよ。そして、見つけたのは木の幹にしがみつき、背中の裂け目を震わせる蝉。透明な羽が少しだけ覗いていて、どうしてもどうしても見たかった。産まれる瞬間を。飛び立つ瞬間を。残された抜け殻と、その全てを見届けた自分を。揺れて歪んで壊れて木々の葉と太陽の白と土の色と自分の血が混ざって混ざってきらきら輝いて青い青い青い青い青い空が見た。それはつまり見られてしまった。思ってしまった、考えてしまった。頭をつかまれ水の中に閉じ込められた時、思ってしまった、考えてしまった、描いてしまった、見てしまった、願ってしまった、望んでしまった、喩えがたく強くささやかに、自分は、自分は、自分は、嗚呼、裂けてしまえれば、背中の裂け目に刃を入れて開いて震えて待ち続け望めば、透明の羽で、たぶん、きっと、わずかな時を、キラキラ輝いて存える。そして青い空の真ん中、死が見つめて目をそらす。勝ったんだ、勝ってしまったんだ。死に。恐怖に。人間に。
 ―出逢った日、柘榴さんは叫んだ。こんな鬼と同室なんて死んでも御免だと。それから幾時間、地獄を経て彼が虫のように地面をはいつくばりながら部屋へと戻り、睨んだ。睨んでいた。死と世界と目の前の鬼を。疲弊しきった彼に触れると、それでも彼は触れるな鬼と罵りながら目を閉じた。そして、そして、こうなることを知っていた。自分は知っていた。地獄と知らずに堕ちてきた彼が、こうして傷を負う事を知っていた。知っていたのに止めない自分に何も思ったり考えたりなんかしなかった。もしかしたら、もしかしたら、あの日の羽化を見届けてしまえていたら、言えたのかもしれない。思えたのかもしれない。「逃げて」って。

 「今からでも、間に合うんちゃう?蝉の羽化」
 ふいに、柘榴が呟いた。
 「間に合う?って?」
 つないだ手をほどいて、身を起こす柘榴。しんしんと、雨の音。
 「おんねん。産まれ遅れの出来損ないが。今日あたり、土から出て来てるんちゃうかな」
 ほどけた手をおいかけて、翡翠。
 「こんな雨の日に産まれたら、死んじゃう」
 揺れる目。色を持つ声。少し、悲しげな。
 「しゃーないやん、運がわるいねん」
 短く、蝉の声。
 翡翠は、身を起こし、柘榴の膝へ顔を埋めて腰に手を回す。よろけて柘榴、再び横臥。
 「傘をさして、あげたいよう」
 「え、冗談やろ?」
 ぶんぶんと、柘榴の膝の上、首をふる。
 「お願い、柘榴さん」
 「ほんまにほんまか、お前阿呆ちゃうか?」
 「じゃあ・・・ひとりでいく・・・」
 柘榴は溜息を吐き、身を起こす。
 「見つからんかったら、すぐ帰るで」
 膝の上、翡翠は子供の様に笑った。
 
 そうして、二人は羽化を待つ蝉の幼虫を見つける。
 長さ二丈ほどの、短い、赤い橋。
 わざわざ雨の日に出た、修羅選ぶ蝉。
 翡翠は傘を蝉に差し出して、柘榴の差す傘の元、何時間も何時間も待った。
 果たして、彼は羽化を見届けられたろうか。
 「雨雲も、そのうちに何処かへ行くやろ」
 そう言って、柘榴は南路のことを思い出し、束の間、傘を翡翠に渡した―。

さきたまのひ

 これを読んでいる、ということは本編を全て読んだと考えて、いいよね。ありがとう、ありがとう。
 あとがきって、なに書いたらいいかわかんないね。
 わたしは、予感的なものや暗示めいた小説が好きなので、そういうものになっている、と思います。
 これはこれを指している、とか、これはこういうことを暗示している、とか、そんなふうに思ってもらえたら、優しいね。
 読んでくれてありがとう、ありがとう。またいつか。

さきたまのひ

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更新日
登録日
2016-07-13

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