ラピスラズリの篝火

ラピスラズリ (Lapiz-Lazuli) とは瑠璃のことである。世界で初めてパワーストーンとして認められた。

 重くのしかかる空気を振り払うように師走の暗闇の中を足早に進んだ。火崎朔(ひざきさく)は自分がたった今目にした光景が現実なのか幻覚なのか分からないでいた。おそらく現実だが、そう信じたくはなかった。必死に自分に言い聞かせた。あれは現実じゃない、空想だ、と。
『痛えな、ちゃんと前見て歩けよ』
はっと我に返って顔を上げると柄の悪い男がこちらを睨みつけていた。気づけば周りには色とりどりのイルミネーションが眩いくらいに光っていた。でも気のせいかくすんで見える。一体どれだけ歩いたのだろうか。火崎朔は思い出そうとした。どうやってここまで歩いてきたのか、どうしてここに来たのか、さっぱり分からなかった。唯一思い出せるのはあの残酷で信じがたい光景だった。

 右肩に鈍い痛みを感じ、自分がすれ違いざまに男にぶつかったのだと悟った。
『すいません』自分の声の小ささに驚いた。声を発したというよりは漏れたという感じだ。今の自分の姿を周りが見たらどう思うのだろう。朦朧とした意識の中ふと考えた。
 早く立ち去ろう。そう、空想の世界から現実の世界へ戻るのだ。暖かくて居心地の良い場所へ。そう思っても火崎朔の二本の脚は立ち止まったままだ。
俺も永遠に静止するのか。遠のく意識の中、火崎朔の耳には店から漏れ出てくるクリスマスソングが鳴り響いていた。
『全く、どうしようもねぇな、最近のガキは』吐き捨てるように男は言った。その吐息は青白く、一瞬にして消え失せた。
火崎朔はその場に立ち尽くし、雑多の中、真空の空を睨んだ。通行人たちはそんな少年に目をくれることも無く決められたレールの上を進むように過ぎ去っていった。

十二月一日  [火]

 朝の授業前の教室はいつも生徒たちの話し声や笑い声で溢れていた。
『なぁ、聞いたか?清水のこと』菊地傑は小声で火崎に聞いた。
『ん?』火崎はなんのことだかさっぱり分からなかった。
『清水涼介だよ』少しばかり大きい声で菊地が言った。
『ああ、涼介か』
清水涼介というのは隣の2組の男子生徒だった。『で、涼介がどうかした?』
『転校するらしい』菊地は深刻な面持ちで言った。
『え』寝耳に水だった。驚いて声が喉に詰まって変な音が出た。涼介とは幼馴染で小中高と一緒だった。家も近所で幼いころからしょっちゅう一緒に遊んでいた。最近はなかなか会えなかったけれど、どうしたのだろうか。
『俺何も聞いてないけど』
『まぁ俺も今朝知ったんだけどな。何か家庭の事情で引っ越すらしい。せっかく受験して入ったのにもったいないよな。親の都合で振り回されるのは御免だな、俺は』
火崎朔の頭をある考えがよぎった。もしかして・・・去年のことが関係しているのでは?しかしすぐにその考えを頭の中の消しゴムで掻き消した。あれはもう終わったことだ。
『あいつ、何も言ってなかった』火崎は裏切られた気がした。何でも言い合える仲だったはずなのに。疑念よりも虚しさがこみあげてきた。
『今週いっぱいらしいぜ』菊地が言った。チャイムが鳴り、つい先ほどまで談笑していた生徒たちも各自の席にちらほらと戻り始めた。
今日、水曜日じゃんか。
『菊地、今日の放課後ちょっといいか?』火崎は慌てて菊地を呼び止めた。
一瞬きょとんとした後、火崎の意図が分かったのか、親指を立てて言った。『ああ、いいよ』


 [炭]

 炭谷康平(すみたにこうへい)は三階の教室の窓から校庭を眺めていた。樹々の葉は枯れ落ち、地面にこびりついていた。昨日降った雨のせいでどうにか落ちずに残っていた葉も地面で砂まみれになっていた。ところどころに水たまりができていて晴れ晴れとした冬の群青の空を断片的に映していた。高校二年の二学期ももうすぐ終わろうとしている。炭谷は去年の冬のことを思い出していた。

 高校一年の冬、本城学院高校一年三組ではある話題でもちきりだった。
『なぁ、それ本当なのか?あの水瀬公美(みなせくみ)が?俺は信じないぜ、そんなの』ラグビーの練習から戻ったばかりで汗だくの菊地傑が隣の席の生徒の机をばん、と叩いた。
『僕はただ聞いただけだから本当かどうかは分からないけど、みんなはそう言ってる』若干のけぞりながらその生徒が言った。大変迷惑そうだった。菊池が叩いた机は汗まみれだ。
『あーあ、俺終わったな、ちくしょう』と言って菊地はうなだれた。
『だから本当かどうか分からないって』必死になぐさめようと言うがもう菊地は全く聞いていなかった。
『もう意味分かんねーよ、よりによってあいつなんかと』そう言って菊地は駄駄をこねる子供のように床に座り込んでしまった。
そんなやり取りを炭谷康平は目と口を閉じ、耳をそばだてて聞いていた。
 
 水瀬公美とは隣のクラス(一年二組)の女子生徒だった。学校一の美人で中学のときに渋谷でスカウトされたこともあるという噂だった。鼻筋の通った聡明そうな顔立ちと、細くて長い手足が特徴的だった。水泳部で、練習を見に男子生徒がプールに詰めかけるほどの人気だった。文武両道で成績は常に学年トップ。水泳は県大会で入賞するほどの実力だった。男子はもちろん、女子からも人気があり、女子生徒らの憧れの的だった。その水瀬公美が昨日、一組の男子生徒と一緒にいるところを三組の生徒が見かけたということだった。それがきっかけで水瀬公美がその生徒と交際しているのではと噂になっていた。水瀬公美は常に暇で噂好きの生徒たちの注目の的であるわけで、彼女の噂は常に生徒たちの話の種になっていた。それでも、あそこまで話が盛り上がった理由はその一緒にいたという男子生徒にあった。
和気遼(かずきりょう)ってあれだろ?あの暗くて陰気で何考えてんのか分からないやつだろ?』菊地は苛立ちを抑えきれないようだった。
『僕は一度も同じクラスになったことないから』隣の男子生徒はあえてそっけない返事を返した。早く菊池の質問攻めから解放されたいらしい。
『ったく、あんないけすかない野郎のどこがいいんだよ』菊地は完全に不貞腐れていた。
炭谷が瞼を持ち上げ、菊池の方を向くと、菊池と目が合った。それはまさに獲物を見つけた獣の目だった。このままでは炭谷が次の質問攻めのターゲットにされる。こういう時の菊池はちょっぴり面倒臭い。
『ちょっと僕トイレ行ってくる』そう言って炭谷は急いでその場を立ち去った。

 炭谷は教室を飛び出した後、廊下を渡り、階段を上り、屋上へと向かった。普段は屋上への扉は閉められていたが炭谷はその開け方を知っていた。一学期が終わる頃、暑い夏の日、用務員の村田という男に教えてもらった。
『最近の若いのはすぐに自殺だの何だのと色々とやらかしちまうからな、いつもこうやって閉めておくんだよ。で、必要なときにだけこうやって開けるんだ』そう言って村田は扉の脇に置いてある用具入れの扉を開け、その内側に手をやった。歳のせいなのか、煙草のせいなのか、痰の絡まったようなかすれた声だった。『ここにガムテープで貼り付けておくんだ。いちいち鍵を職員室まで取りに行くのは面倒だからな』村田の手の上には鍵が乗っていた。『お前ならいつでも使っていいぞ』そう言って村田は鍵をガムテームにくっつけ、用具入れの内側に貼り付けた。
炭谷は用務員の村田と関わる機会が多かった。緑化委員会に所属する炭谷は校庭の脇に樹々を植えたり、世話をしたりする際、村田に手を借りることが多かったからだ。かつてガーデニング会社で働いていたという村田は植物についての知識が豊富だった。どの樹々を一緒に植えると良いかなど詳しく教えてくれた。
 その夏は猛暑で、緑化委員会では少しでも校舎内を涼しくしようと屋上を緑化することに決まった。屋上にグリーンゾーンを作り、そこで野菜や観葉植物を育てるということだった。炭谷はその担当になり、一年生ながら全てを任されていた(半分押し付けられたようなものだったのだが)。そのときも村田に相談した。何を植えたらいいか、屋上のどこにグリーンゾーンを作ればいいか、などいつも通り丁寧に指導してくれた。
屋上の緑化が完了した後も炭谷はときどき屋上へ行った。屋上の植物の様子を見るという口実でいつも独りになりたいときに自分だけの場所として愛用していた。
 本城学院高校の校舎は田舎では珍しい五階建てだった。屋上はだだっ広く、灰色のコンクリートの床と壁だけの味気ない空間だった。グリーンゾーンの植物は冬の凍るような寒さのせいでしょんぼりと枯れていた。空には厚い灰色の雲が立ち込めていて、その隙間から薄青い色が覗いていた。炭谷はここから見る景色が好きだった。埼玉の草原や田んぼに囲まれ、ぽつんとそびえる校舎からは高い建物など一つも見えなかった。ひたすら続く田畑と不似合いなコンクリートの道が複雑に絡み合っていた。教室で息詰まると決まってここへ逃げてきた。
 優しい風が吹き、枯れ草の匂いを運んでくる。すぅっと息を吸い込むとひんやりした空気が肺に流れ込んだ。
 水瀬公美が和気遼と付きあっている、か。高校生はいつもその類のことで頭がいっぱいだからなぁ。
昨日、なぜ水瀬公美と和気が一緒にいたのかを炭谷は知っている。知っているが誰にも言わなかった。
ふぅっと息を吐き出した。息に混じった水蒸気が吐息を白く染め、ふわっと広がり、しばらくすると消えた。

 チャイムが鳴り、授業の開始を報せる。急に教室が賑やかになり、炭谷は我に返った。散り散りになっていたクラスメイトが各自決まった席に着き、教科書やら筆記用具やらを取り出し始める。炭谷は落ち葉が風に押され地面の上を滑るように這っていくのを見届けた。
僕もあんな感じだな。そう思った。

 炭谷康平は放送部に所属していた。毎日昼食の時間に決まって放送される『ランチタイムアップデート』を担当していた。主にお知らせや、時事問題を取り上げていたが、たまにトークショー的なものもやっていた。炭谷はあまり人前で喋るのは好きではなかったが、マイクを通してなら気恥ずかしさも減少され、喋りやすかった。原稿は自分で用意し、二時限目と三時限目の間の休み時間の二十分間は打ち合わせやリハーサルが行われた。今日はトークショーが行われることになった。炭谷はいつも三年生の生徒とコンビを組んでやっていたが、今日はその先輩が体調不良で休みだったので一人で行うことになった。いつもは先輩がリードしてトークを回してくれていたため、一人でやるとなると炭谷は少し不安だったが、リハーサルでは何とかうまくいった。
十二時十五分。四時限目の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、生徒たちはそれぞれ昼食の準備をし始めた。本城学院高校はお弁当制でそれぞれがお弁当を持参していた。大半の生徒は教室で食べていたが、教科ステーションと呼ばれる図書室の隣にあるソーシャルスペースで食べることもできた。炭谷は授業が終わると、廊下に溢れかえっている生徒たちの間を縫うように四階の放送室へと向かった。
十二時二十分、ランチタイムアップデートの放送が開始された。放送時間は十分、十二時半まで。校内に炭谷の低く、安定感のある声が響く。短いお知らせの後、トークショーのコーナーに移った。
『今日は二年一組で陸上部の火崎朔くんに来てもらっています。僕は火崎朔くんとは一年の頃同じクラスでした。なんか久しぶりだね』
『そうだな』照れ気味に火崎が答えた。
『先月の県大会すごかったね。準優勝おめでとうございます』
『ありがとうございまーす。結構みんな応援に来てくれて、励みになりました』
『このコーナーでは毎回ゲストをお迎えして、その人の素顔を暴こうということなんですが、よろしいでしょうか?』
『はい、どんどん聞いちゃってください』
『了解しました。ではまず一問目。この本城学院の敷地内で一番落ち着く場所はどこですか?』
『落ち着く場所、どこですかね?あ、あそこかな』
『え、どこですか?』
『う〜ん、やっぱり秘密ということで。言っちゃったら落ち着けなくなるじゃんか』
『まぁ、そうだね。では火崎くんの落ち着ける場所は秘密ということで』
『炭谷はあるの?落ち着く場所』
『ありますよ、でも火崎くんと同じでやっぱり言えないですね』
『なんだよ、みんな言えないんじゃんか』そう言って二人は笑いあった。
 炭谷はなぜか懐かしい気持ちになった。そう、火崎朔はこういう人物だった。お調子者のようで実は一番周りに気の使えるやつ。気さくで人気者なのだけれど炭谷のようにクラスの影のような存在にも変わりなく接してくれる。そんな火崎に、炭谷は密かに憧れていた。

 [火]

 もうすでに外は暗くなりつつあった。太陽はすでに地平線の下に潜りつつあるが、その周りを蒼く照らし出していた。火崎は菊地の筋トレが終わるのを待っていた。
『筋肉は毎日育てないとな』そう言って毎日欠かさずトレーニングに励んでいた。そんな菊地を火崎はいつも教室で適当に時間を潰しながら待っていた。たいてい6時頃までは教室にもクラスメイトが結構残っていた。宿題をしたり、無駄話をしたり、読書をしたり、人それぞれ自由に過ごしていた。今日は火崎を含め八人が残っていた。そのうちの六人は勉強をしていて、残りの二人で暇つぶしに話していた。
『清水の家行くんだろ?この後』田村が聞いてきた
『うん、ちょっと様子も気になるし』火崎はこれから菊地と共に清水涼介の実家へ行くつもりだった。なぜ転校することになったのか、どこへ引っ越すのか、など色々と聞きたいことがあったからだ。それに、ただ会って話がしたかった。
『あいつも色々あったよな、一年の頃とかは特に』そう言ってすぐ田村ははっとした顔をし、ごめん、と謝った。
『別にいいよ、気にしなくて。もう過ぎたことだし』火崎は慌てて言ったが自分でも顔が引き攣っているのが分かった。それが田村に気づかれないように外に目をやった。あのときもこんな空だったな。

『おー待たせてごめんなぁ』息を切らしながら菊地が教室に入ってきた。その額には大きな汗の粒がいくつも滲み、顔は火照って赤りんごのように真っ赤だった。肩を激しく上下させながら息をしていた。
助かった、そう口走りそうになった。いいところに来てくれた。このままでは気まずい空気になるところだった。
早くこの場から立ち去りたくて急いで鞄を手に取り菊地を引っ張るようにして教室を出た。
『ナイスタイミング』火崎はぽん、と菊地の肩を叩いた。
『は?何が?』菊地は全く何がなんだか分からないという顔をした。
『なんでも。ほら、早く行こうぜ』そう言って火崎は走り出した。自分でも気づかないうちに脚が勝手に床を蹴っていた。

 火崎と菊地は並んで自転車を走らせた。頬に当たるつんとした風が心地よかった。二人が県道105号沿いの清水涼介の家にたどり着いたのはちょうど6時をまわったころだった。もうとっくに陽は沈み、静かな闇が空気を覆っていた。先程蒼く照らされていた部分も漆黒の闇に呑み込まれていた。
『俺も付いて行ったほうがいいか?』菊地は自転車に跨ったまま聞いた。
『いや、いいよ。俺一人で行く』そう言って火崎はゆっくりと玄関に向かって進んだ。ドアホンに手をのばすと何故か鼓動が早くなった。嫌な予感がした。

 ドアホンを鳴らしてしばらくすると玄関に人影が見えた。そしてまたしばらくすると今度はドアホンを通して『どちら様ですか?』という声が聞こえた。
聞きなれた声ではなく、一瞬その声に冷たさを感じたが、『あの、朔ですけど、涼介くんはいますか?』と返した。
ドアの隙間から顔を覗かせたのは見知らぬ女だった。もちろん、清水の母親でも姉でもなかった。火崎はどうしていいか分からず、たじろいだ。
『あなた、もしかして涼介のお友達?』火崎を一通り観察した後女が訝しげに聞いた。
『一応、幼馴染です』なんだか照れ気味に返した。
『そう、今涼介出かけていてね、いないのよ』
火崎が困惑しているのを表情から読み取ったのか、『私は涼介の叔母です。涼介の父親の弟の妻。茨城に住んでいるのだけど、今週は色々と忙しいようだから手伝いに来ているの』
その後も延々と話は続いた。内容は主に愚痴だった。わざわざ茨城から手伝いに来させるのは間違っているだとか、家の中が散らかっていて片付けるのが大変だとか、火崎にとってはどうでもいいことだった。火崎はこの中年女が一瞬で嫌いになった。服装は派手で、化粧は濃く、太い首にはネックレスが喰い込んでいた。口を開けるたびに漏れ出てくる口臭ときつい香水の匂いが交わって気を失いそうだった。それでも話はなかなか終わらず、火崎はただ玄関口でそっけない返事をしながら突っ立っていた。
『あの、それで涼介くんはどこに?』思い切って話を遮った。
『涼介ならついさっき学校へ行ったわよ。手続きがどうとか言っていたわよ』作り笑いがなんとも気味悪かった。真っ赤な口紅が塗りたくられた唇の間から黄ばんだ歯が顔を覗かせていた。
だったら最初からそう言えよ、火崎は心の中で舌打ちをした。軽く挨拶をした後逃げるようにその場を立ち去り、菊地の待つ裏の空き地まで走った。
『おい、どうたった?』菊地は缶ジュースを買ったらしく、缶を傾けながら訊いてきた。
『涼介いなかった。学校に行ったらしい、手続きがどうとかで』あえて叔母のことは言わなかった。
『まじかよ、じゃ学校戻んのか?』菊地は少し嫌そうな顔をして見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
『悪いな、つき合わせちゃって』火崎はぽん、と菊地の肩を叩いた。気温5度の中待っていたのにも関わらず菊池の体は制服の上からでも感じられるほど熱を帯びていた。
二人は勢いよく自転車に跨ると力強くペダルを押し込み、さっき来た道を引き返した。


十二月二日 [火]

 その日、各局の朝の情報番組では昨日江東区で起きた中学生の自殺に関するニュースが繰り返し流されていた。こういう類の暗いニュースを読み上げるとき、アナウンサーは一瞬で表情と声色を切り替える。自殺した中学生はたった十四歳だったという。どうやら自殺の原因が不明のようで、学校も困惑しているらしい。担任の教師は心労がたたり早々に病休をとっている様だ。コメンテーターの中にはいじめが原因と決めてつけている人もいる。別に特に興味があるわけではない。ただこの事件が朔に一年前の出来事を思い出させていた。

 『何ぼうっとしてるの。早く食べちゃいなさい。何時だと思ってるの?』
まだいたのか。てっきりもう出勤したのかと思っていた。
『分かってるって』火崎はテレビの画面から目を背け、右手に持っていたトーストを口の中に押し込んだ。
 火崎朔の母親、火崎由美子は大手出版社で働いていた。バリバリのキャリアウーマンという感じに見えるが、仕事よりも家族を優先してくれるし、朝は早いが帰りは決まって七時。朔が覚えている限り、七時よりも遅く帰ってきたのは指で数えられるほどだった。朔が高校受験のときも、さりげなく支えてくれた。妹の茜が本城学院高校を受験したいと言ったときも快諾してくれた。母子家庭で金銭面でもギリギリだろうに。
 息子が言うのもナンだが、由美子はとても美人だった。今ではもう四十代後半だが、まだまだイケる、と思う。朔の同級生でも見惚れてしまうくらいだ。田村とかの連中は由美子が独身だと聞くと『マジかよ。俺のこと紹介して』などとほざく。小さい頃はよく周りの人に『お母さんにそっくりね』だとか『お母さんに似てよかったわね』だとかを言われて不機嫌になっていた。俺は男なのに、母親に似てるってどうゆうことだよ。でも今では朔も男らしい顔つきになってきて、そうゆうことを言う人も少なくなった。妹の茜もまた母親に似て整った顔立ちをしている。朔自身は特に意識したことはなかったが、友達が家に遊びに来ると『お前の妹めちゃくちゃカワイイじゃん』とか言うので、多分側から見ると『めちゃくちゃカワイイ』のだろう。歳が近いのにもかかわらず、兄妹の仲はとても良好だった。喧嘩という喧嘩はしたことがなく、せいぜい幼少期におもちゃを取り合ったくらいだ。兄の通う高校に進学したいと言うくらいだから尊敬してくれているのだろう。朔も妹のことを可愛がっていたし、勉強を教えてやったりもしていた。数学が苦手だと言っているが、要点をちょこっと教えると、すぐに『わかった、ありがと』と言ってあっと言う間にすらすらと問題を解いてしまう。呑み込みが早く、おそらく朔よりも遥かに優秀だった。もっと上の高校にだって余裕で受かるはずだ。今は中学二年生で部活に励んでいるらしい。夕食のときには決まって背泳ぎのタイムが縮まったとかなんとか、水泳の話ばっかりだ。由美子は昔水泳をやってたらしく、話が通じるが、朔にはさっぱりだった。本城学院高校に入りたいと言うのも水泳部があるからかもしれない。
そんなことを考えているうちにもう先ほどの中学生の自殺のニュースは終わり、次のニュースへと移っていた。
『じゃあ行ってきます。二人とも遅れないようにね。あ、それと今夜は遅くなるから』ガチャンとドアの閉まる音がして、それから由美子が足早に歩いていく音が聞こえた。

 由美子が行ってから数分して茜が一階へ降りてきた。『お母さんなんだって?』
『ん?あ、今日遅くなるって』自分で行ってから気がついた。なんでだろう?
『へー珍しいね、お母さんが遅くなるなんて。なんか聞いてる?』
『俺は別に聞いてないけど。仕事っしょ』空になった皿を流しの方へ持っていく。
『もしかしてデートとか?』いたずらな笑みを浮かべて茜が言った。
『そんなこと言ってないで早く準備しろよ』ふと時計に目をやるともう七時半を過ぎていた。
『うわ、やっば、俺もう行くから茜、皿洗っといてくれる?』そう言って急いで自分の部屋に駆け込むと鞄に教科書とノートと筆記用具を入れ、ブレザーの上からコートを羽織った。コートの袖に腕を通しながらふと、茜が本城学院高校の制服について言っていたことを思い出した。
『グレーのブレザーはおしゃれでいいのよ。でも無地の紺のスカートはちょっと残念よね。私ならチェックにする。でも男子の制服は結構いい線いってると思う。紺と白のストライプのネクタイは私好き』
自分の着ている制服のことなんか全く気にしたことなどなかった。せいぜい中学のときの学ランよりはこっちの方が着心地いい、などと思っていただけだ。女子はそんなところまで見ているものなのかと感心したのを覚えている。こういう面で女子力の高い妹がいると便利だ。妹が興味あることを話のネタにすると女子ウケがいい。最近流行ったアクセサリーの話題にも、ちょうど茜が話していたため、参加できた。それでも茜はそこらのチャラチャラしている女子たちとは違う。なぜなら茜は女子の中で上手くやっていく術をマスターしているからである。茜にとって(朔もそうだが)学校という狭い世の中で成功することなど朝飯前なのだ。大抵の人間は(少なくとも朔の周りの人間は)学校内、またはクラス内の人間関係に苦戦する。挫折はしなくとも、つまづくくらいはする。でも極少数は目を瞑って渡れる。その道がどんなにデコボコでも、急斜面でも、何ら問題ない。なぜなら、彼らは知っているから。
挫折した人間、すなわち途中で立ち止まった人間がまた歩き出すことはまずない。立ち止まった人間には三つの選択肢がある(選択肢というよりは定めといった方がいいのかもしれない)。一つ目は永遠に静止すること。そう、石のように。二つ目は自我を捨てること。そう、石のように。そして三つ目は・・・


『おい、朔ちゃん!』
火崎朔がペダルを漕ぐスピードを緩め振り返ると菊池が必死の形相で迫ってくる。さすがラグビー部だ、脚力が半端ない。
『おう、なんで走ってんだよ』
息遣いが激しく、汗が滝のように額から吹き出ている。息をするのが精一杯らしく、うつむき、両手で膝を掴みながら肺に酸素を流し込んでいる。
『お前、まさか家から走ってきたの?』ペダルを漕ぐ足を止め、菊池と向き合う。
しばらくは沈黙が続き、朔は菊池が落ち着くのを待った。やっと呼吸が整ったらしく、顔を上げたが、そのときやっと朔はさっき汗だと思ったものが汗ではなかったことに気がついた。
泣いている。菊池傑(きくちすぐる)は号泣しているのだ。目の毛細血管が切れるほどに。
『どうした・・・どうしたんだよ!』そう叫ぶ朔の頬を冷たいものがつたっていく。俺、泣いてる・・・だって、だって、多分これから菊池が嗚咽を堪えて口にしようとしている事を朔はもうすでに悟っているから。
菊池は朔の顔を仰ぎ、また俯いてから言った。『朔ちゃん、ご、ごめん。』
何で謝るんだよ!
朔は天を仰いだ。ガラスのような冷たく澄みきった空が見下ろしていた。二人とは対照的に渇ききった空だった。


 [炭]

 その日の朝、一時限目の授業の代わりに全校集会が開かれた。本城学院高校は県内の私立の進学校にしては比較的生徒数が少ない方だ。高校一年から三年までの三学年で、一学年あたり百五十人といったところだ。だが、校舎は生徒の規模に比例しない、広々とした比較的新しいものだった。文武両道を理念とし、スポーツに力を入れているので体育館(スポーツホールと呼ばれている)は特に不必要に大きかった。全校集会のため集まった生徒たちと教諭陣はその体育館の半分の面積も満たしていなかった。体育館の入り口の右手にはこれまた必要以上に大きなステージがあり、その奥の壁には紋章が刻まれている。本城学院高校の紋章は柊の花がモチーフとなっている。炭谷康平は以前、校長が朝礼か何かで言っていたのを思い出した。
『我が校の紋章はヒイラギの花ですね。よくクリスマスの時期になると見かけると思うのですが、それは赤い実であることが多いと思います。ですから、ヒイラギの花を見たことのある人は少ないと思うのですが、みなさんどうでしょうか?私自身も、もうそろそろ還暦ですが、実際にこの目で確かめたのは一度や二度だと思います。ヒイラギの花は十一月から十二月の間の初冬に開花します。その花は白く、キンモクセイにとても似た芳香があります。皆さんご存知の通り、葉には棘があり、不用意に触ると痛い思いをしますよね。それに比べて、ヒイラギの花は目立たず、ひっそりと咲くのです。しかし、小さいながらにも花弁は力強く反り返り、冬に咲く花の生命力を感じ取ることができます。そんなヒイラギの花言葉は(先見の明)です。本校の創設者はあなた方に先見の明を持ってほしいという願いからこのヒイラギを我が校のシンボルにしたのだと私は思います。みなさんの制服の胸ポケットに刺繍がされていますよね。ぜひ、このヒイラギの花の話を胸に深く刻み、本校の生徒として誇りを持って勉学に励んでください。』

 清水涼介には先見の明があったのだろうか?ふと炭谷康平は思った。物事を深く考えてしまう、そんな印象があった。そのせいで将来を悲観したのだろうか。清水涼介とは同じクラスになったことがなく、部活も炭谷はチェス部、清水は水泳部とまるで接点が無かった。それ以前に学校内での立場が違いすぎた。炭谷は影が薄く、可もなく不可もなくという感じだが、清水涼介は火崎朔に負けず劣らずの人気者だった。クールな雰囲気で水泳部のエース。社交的で親しみやすい火崎朔とは対照的に寡黙で心の底の見えない生徒だった。それでも多くの女子生徒はそんなミステリアスな彼に惹かれていたのだという。

 一年生から三年生まで全員が体育館に集まっていた。皆突然の全校集会に困惑しつつも一時限目の授業が潰れて嬉しそうだ (ごく一部の生徒は不満そうにしているが)。そんな中、二年生のエリアだけが重い空気に包まれていた。女子生徒の中には涙を流している者も多数いた。炭谷康平は右手前方に火崎朔と菊池傑を見つけた。菊池が火崎に寄り添い必死に何かを言っている。火崎はこうべを垂れ、表情は硬く、目の周りは赤く腫れていた。

ラピスラズリの篝火

続く

ラピスラズリの篝火

高校二年の冬、悲劇が起きた。火崎朔と炭谷康平は高校一年の時に起きた、ある出来事を思い出す。 果たして今回の惨事は昨年のあの事件と関係あるのか? 対照的な「二人」が共に難解な事件に挑む ー その先に待っている真実とは? 友情、恋愛、葛藤、様々な感情が蠢く青春ミステリー!

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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