独白 2 後
両親の離婚、高校中退の翌年、祖父母が引き取った幼い兄弟とは別れて、城谷直樹は一人、母方の叔父夫婦に引き取られていた。年金生活の祖父母で養うには、三人の孫は負担が重かったのだろうと推測する。それを察した彼自身の要望だったのかもしれない。以降、城谷直樹が一学年遅れで新たに入学した定時制の夜間高校を卒業するまでの三年間、叔父夫婦は彼にとっての保護者であった。手記にはそれとなく書かれているが、叔父夫婦が快く引き受けたものではない。
彼を引き取った叔父夫婦は共働きの公務員で、夫婦の間には彼よりも年下の二人の娘がいた。殺伐とした仮初めの家庭、そこでも彼は確かな居場所も探していたようだ。だが結局のところ、この家族の誰もが彼の事を除け者としか思ってはいなかったのは明らかで、特に思春期を迎えた二人の娘は、同世代の従兄である彼の存在に、深い嫌悪感さえ抱いていたのが如実に明らかだった。叔父の家族にとって邪魔者である事実を自覚しながらも、彼はそれも三年間の辛抱であるという事を悟っていた。
高校卒業後の上京、そのために必要な自分にとって第二の高校生活であり、そのために住まわせてもらっていた家であったと、彼は自らの手記で当時を振り返っていた。強い自制心と目的意識が、孤独だった彼の心を支え続けていたに違いない。
昼はじっと部屋に閉じこもり、夜は夜間高校で授業を受ける生活が続いた。そんな中、それまでこれといって取り柄のなかった彼は絵画への関心と才能に目覚める。それまで絵画に執着する事も、まして真剣に絵を描く事もなかった彼は、ある日から何かにとり憑かれたように、来る日も来る日も絵を描き続けた。時には誰もいない授業前か放課後深夜の美術室で。時には独り閉じこもる自室の中で。
当時、同じく夜間高校で授業を共にしていた同級生達も、城谷直樹の印象を訊くと皆口々に「無口で何を考えているのかよく分からないが、やけに絵の上手い男だった」と語っていた。彼は絵画の中の美しい空想に、何か救いを求めていたのだろうか。それとも現実逃避の方法に過ぎなかったのか。或いはもっと深い意味の、彼にとってはそれこそ信仰めいた対象だったのかもしれないし、絵画だけが当時の彼にとって、唯一自分の心情を他者に訴えるためのコミュニケーション手段だったのかもしれない。少なくとも彼は絵を描いている時間だけが心の安らぎであり、この時期が最も自分の趣味に没頭出来ていた事が手記の文面からは窺えた。
彼は実に多くのデッサンノートとキャンバスに向き合い、時には繊細に触れ、時には描き殴り、時には自分の心を自己否定するように引き裂き、そうして彼は自身の秘めていた感性を研ぎ澄ましていった。鋭く、黒光りを帯びた、そんな感性を。
『あの寂れた校舎に辿り着くまでの夕暮れの細道を、私はきっと忘れないことでしょう。あの美しさと物寂しさを。私は結局、自分のキャンバスには上手に描けなかったけれど。私の記憶の片隅にはいつまでも留めておきたい(城谷直樹 独白 希望などなかったあの日々に)』
独白 2 後