宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第一話

以前掲載した『宗教上の理由』の続編にあたります。ここから読み始めても十分筋が追えるようなつもりで書いていますが、以前の作品もお読みいただくとより背後関係が分かるかと思います。
今回新たな語り手が登場、教師を目指して奮闘するひとりの女子大生のサクセスストーリー、にはならないだろうなぁ…。

 「ほ、本日より、教育実習でお世話になることとなりました、金子あづみと申します…み、皆さん、よろしくお願いします!」
 緊張した。足がガクガク震えていたと思う。朝礼で挨拶なんて初めての経験だ。全校生徒合わせても私の母校の一学年に遠く及ばないくらいなので大丈夫だろうと油断していたが、いざ壇上に上ると急激に緊張ゲージが上がる。
 でも悪い気はしていなかった。たくさんの生徒の前に立つことが夢だったからだ。

 けれども、この夢は一時期頓挫しかけた。
 私は中学からの女子校育ちでそのまま上の女子大に進んだのだが、不景気のためか皆安定志向が高く、教員志望者が多くて実習の申し込みも殺到、キャパを超えてしまったので抽選となり、それに見事外れてしまったのだ。
 あぶれた者は自力で実習先を探さねばならなくなったが、コネのある人はまだいい。高校から来た子は出身中学に話をつけてきたし、親の知り合いが教師ということで決まった子もいる。ゼミの先生のコネという子もいたが、私の先生のつてが使えるところはすでに先客で埋まってしまっていた。
 系列の学校で実習が受けられないのは外の世界を知るいい機会だとも最初のうちは思っていたが、そもそも外とのつながりが少なすぎる。コネというやつが少なすぎる。すぐに行き詰まり、エスカレーター式箱入り娘量産システムを恨む気にもなった。
 でも困った末、ある人のことを思い出した。私が付属にいた時やってきた教育実習生。まだ当時は実習生の受け入れに余裕があったのか、逆に外部から紹介されてきたとの話。一応お嬢様学校と呼ばれていたうちの学校では見ないタイプの、言ってしまえばヤンチャな人だった。指導の先生からはしょっちゅう叱られていたようだが、生徒からは人気があった。
 その年は一応と思って年賀状を出した。私は何もかも平凡で目立たない存在だった。成績も平均点、運動や芸術も人並み。逆に悪さをしたり派手な身なりをしているわけでもない。私のことなど覚えてくれているはずもないと思っていたら、返事には些細な出来事を拾った思い出話がびっしり書かれていたのに感動した。こんなことまで覚えていてくれたなんて! というかそもそも私のことを覚えていてくれたなんて! 嬉しくて、その後も年賀状と暑中見舞いのやり取りは続いていた。
 だから実は、母校での教育実習がポシャったことも悪くは無いと思い直した。こうなったら何が何でもあの先生の下で実習がしたい! きっと楽しくて有意義な実習になるはずだ! きっと生徒から慕われる、いい先生になっているはずだ!
 先生にお願いの手紙を出した。もう書類の締め切りは迫っていた。

 高速バスを降りると、涼風が肌を撫でた。ゴールデンウイークもとっくに終わり、梅雨が近づいている時期とは思えないひんやり感。ここはすでに標高千メートル近くあるから東京より気温が低いのは当然なのだが、私がこれから向かう村はさらに高みに上ったところにあるので、朝夕など寒いくらいだろう。
 私が憧れるもと私の学校の教育実習生、渡辺史菜先生が東京を離れ、とある山村の中学校に赴任したことは聞いていた。私はその学校には縁もゆかりもないし、先生とて私とは数週間の付き合いでしかない。そんな人間の依頼を引き受けてくれるとも思えなかったが、ダメもとで出したお願いの手紙への返事は、
「歓迎する」
感動した。返事が戻ってきた日にちこそギリギリだったが、数週間の付き合いでしかない自分を受け入れてくれると言ってくれたこと、そしてゲームオーバー寸前で救ってもらえたことに喜びを隠せなかった。実習校には早めに挨拶に行くこと。大学の事前指導できつく言われていたことだが、逆に中学校の側からそんな気遣いは無用と言われた。東京からは遠いのだし、実習初日に顔を出してくれれば良いと。
「あなたの人となりは渡辺先生にお墨付きをもらっていますから直接会わなくても大丈夫です。しばらくは準備と学業に専念しなさい」
これはその中学校の校長先生が電話越しでおっしゃってくれたお言葉だ。なんとありがたい。もっともそこは大人の礼儀として、いえいえそういうわけにはと食い下がったが、結局私が説得に折れる形で収まった。そんなわけで私はこの学校にも良い印象を抱いていた。

 というわけで今は日曜の午後。明日から実習が始まるというタイミングだ。駅のロータリーは観光客で賑やか。日本どころか世界にも知れた観光地なので当然ではある。外国人の姿もちらほら。
 駅からの交通手段であるが、渡辺先生が迎えに来てくれる手はずになっていた。かさねがさねありがたいことだと思う。ただそれらしき車が見当たらない。いる車はバスとタクシーと、仕事用の車。つまりコンビニのトラックとか、清掃用品会社のバンとか、軽トラックとか…。
 「よっ!」
その軽トラの中から声がした。聞き覚えがある。ということは…。
「先生!」
と、感動の再会のはずだったのだが、
「…なんで軽トラなんですか?」
という疑問のほうが先に口に出た。でも積荷を見た瞬間その理由を悟って、感謝の念が一気に湧きでた。それを察した渡辺先生は、
「あー気にするな。この布団とかは余ってたやつをもらってきただけだからな。ともかく乗ってくれ」
お礼を言いながら、私は助手席に乗り込んだ。ハンドルを握る先生の横顔が凛々しい。

 実習先は決まった。受け入れ先の学校も歓迎してくれていた。しかし唯一のネックは私の寝床だった。けれどそのことを相談するまでもなく先生のほうから先に、
「宿は確保しておいたので安心するように」
という連絡が来ていた。有難いことに私が滞在するための部屋まで準備してくれていたわけだ。しかもこうやって軽トラで荷物の運搬までしてくれている。
 正直それなりの出費は覚悟していた。しかし村が持っている宿舎を激安の値段で借りられることになった。もしかすると都内のネットカフェに寝泊まりするより安いくらいだ。
「元々安宿だったんだがな。そこがつぶれたので村が引き取ったんだ」
先生が解説してくれた。過大な期待はするなのと笑うのだが、到着してみるとなかなかどうして。ちょっとしたアパートみたくなってて、六畳くらいの部屋にキッチンもついていて自炊ができる。トイレやお風呂は共同だが綺麗に使われている。これなら快適に暮らせそうだ。ゆっくりしたい気もするがとりあえずは、
「ま、荷物置いたらメシでも食い行こう。当然奢るからな。拒否権は無し」
と、気前の良さを発揮してくれている先生のお言葉に甘えることとなった。気がつけばもう夕方だ。

 食事は中華料理だった。結構庶民的な価格だったが、いろいろ一品料理を頼んだ上にお酒もずいぶん頂いてしまった。申し訳ない気もする反面、生徒と酒を飲むという夢が叶ったと満足顔の先生を見ると、いいことをしたのかな、とも思う。
 ほろ酔い気分で少し歩くと宿舎に戻れる。先生は職員住宅に住んでいるそうだがそこも目と鼻の先だ。軽トラは同じ棟に住む人から借りてきたのだそうだが食事前に返してきたので大丈夫。先生はもう帰るだけだし、私もこれからは明日に備えて準備をするつもりだ。そのはずだった。が、先生が自分の部屋からまだ酒を持ってくると言い残して去っていったので、私の部屋での二次会が確定した。相変わらず豪快な先生だと思う。
 私は先に宿舎に戻って座布団とかをセッティングすることにした。が、部屋の前に来てみるとなんだか騒がしくて人だかりがしている。その中から声がした。
「あ、戻ってきた。ええっと、ここに荷物置いてった人?」
ええそうですけど、と私は戸惑いつつ答えた。
「あの、何でしょうか?」
それに対する答えは明らかにトゲのある口調だった。
「困るなぁ、勝手に部屋を使われちゃ」
一瞬何のことかわからなかった。
「…ええと、こちらの部屋を借りているのですが」
「いやだから、それが困ると言っているのだよ。ここは公共の施設なのだから、勝手に使わせるわけにはいかんのだ」
「でも私は、ここを使っていいと言われて…」
全然話がかみ合わないが、相手が絶対的に自分が正しいと思って、その正しさを上から目線で押し付けてきているのは感じ取れた。どんどん勢いづいていくのもわかる。逆に私は勢いに押され、泣きそうになってきた。
「あんたにその許可を出したのがどこの馬の骨だか知らないが、勝手はやめてもらいたいね。はっきり言おう。あなたのやっていることは不法占拠。つまりあなたは盗人と同じだ。そもそもこの場所も宿舎の敷地内だからすでに不法侵入だ。とっとと立ち去ってもらいたい」
「…嫌です」
恐怖の中、私は必死に言葉を絞り出した。相手は三十歳くらいだろうか、細身だがとにかく目付きが鋭くて直視できない。だが、最初の一言が絞り出せたことで、なんとか自分の意志を言葉にできた。
「ちゃんとした人に、許可をもらっています。…私は明日から中学校で教育実習をするので、先生にこちらを使っていいと言われたのです。その先生がきちんと許可を」
「うるさい! たかが学生が生意気な!」
私はよろめいた。男の人に胸をドンと突かれたのだ。痛くもないくらいだったが、親以外の人に手を出された経験がなかったので、恐怖を感じた。男の人は間髪入れず、
「どうせどこぞのフーテン学生が、ここのセキュリティが甘いのをいいことに無断で借りているに決まってる! 荷物を全部運び出せ! そっちにゴミ捨て場があるだろう、全部そこに持っていけ!」
やめて、と言いたいのに足が震えて言えない。目に涙が溜まってきた。どうしよう、私の教育実習、ジエンドだ…。

 そのとき、背後から声がした。
「…誰が、馬の骨だって?」
渡辺先生だった。
「彼女に部屋を貸す判断をしたのは私なのだが。これでも一応村の中学校で教師をしているのだがね。それともあなたは、教師ってのはどこの馬の骨か分からない人間に任せてもいい職業だとお思いなのかね?」
男性はすっと話を逸らした。
「ここのセキュリティが甘いのは事実です。門扉も開けっぴろげだし、近所のガ…子どもが入って遊んでる。まさかこんなところだと知っていたら、借りはしなかったのですがね」
男性は相変わらず高圧的に話してくる。結構仕事では偉い地位なのだろうか、周りの人たちがおそるおそる敬語で話しかけたりしている。
「この部屋は弊社の新入社員が使うことになっているのです。建物のすべてを借り上げるということで、この通り契約も成立しています」
なるほど、その紙にはしっかりと許可する旨が書いてあるので、一瞬納得しそうになった。勢いに押されたのもある。しかし先生もすかさず、
「それならこっちにだってある。ちなみに許可をくれたのは私と同じ棟の住人だから呼びつければ証明してくれる。そっちこそそんな紙切れ一枚、偽物じゃないのかね?」
「失礼なことを言わないでいただきたい! ちゃんと担当部署を通して出された許可です!」
押し問答が続いた。私はどうすることもできずオロオロするばかりだったが、ふとあるものが目についた。
「…担当者の名前が違う」
言い争っている二人がはっとして、互いの手にある紙を見合う。
「…ダブルブッキングだ」

 要は、渡辺先生とこの男性がほぼ同時に部屋を使いたいという申請をした結果、別々の担当者が別々に話を進めてしまったのだった。
 先生は早速同じ棟に住むという村役場の職員さんを呼びつけた。その人は私達に平謝りして、代わりの部屋を確保しようと色々電話してくれたのだが、すでに宿舎は満室。
 渡辺先生は困り顔をしているだけだが、くだんの男性の方は明らかにイライラし、どうなの? 何とかしてよ! としきりに担当者さんを煽る。
「何考えているのかねぇ? ウチを邪険にするってのは? おたくの村のインフラだってウチがつくってやったようなもんだ。まったく、こんなあばら屋借りてやるだけでも有難いと思ってくれなきゃ困るというのに」
ああわかったぞ、と渡辺先生がつぶやいた。聴き慣れたCMソングをちょっと口ずさむと、
「てな感じで最近テレビでガンガン宣伝してるだろ。このへんにも進出して来ていてな。公益法人とか各市町村ともつるんで色々やってるって評判だ。あそこの社員だな、よく見ると背広に社章が付いてる」
ああ、そういえばここの社長さんもテレビで観たことがある。介護の現場を良くしようとか、発展途上国に学校をつくろうとか、色々社会貢献してて良い人なのかな、とは思ってた。
「あの会社だからこそ、リーズナブルなここを新入社員の研修所に使ったのだろうな。ま、三流企業の考えそうなことだ」
横目で男性たちを見やり、唇を片方だけ上げて笑うと、先生は続けた。
「あ、ここは決してあばら屋なんかじゃない。清潔だし手入れもしっかりしているからあの値段では勿体無いくらいだ。でも、いち企業まるごと借り上げってのは気に入らないな。大体借りておいて文句垂れてるような奴に貸すお人好しもないだろうに」
 もっとも、一介の教育実習生と大会社ではあっちに勝ち目があるのは見えている。向こうは正式な仕事の研修。こっちは就職も決まっていないただの学生。悲しいかな優先権はあちらにあると認めざるを得ない。
「おそらくうちの村に商談を持ちかけてきたのだろう。それで便宜をはかるだの何だの言って、かわりにここをタダみたいな値段で借り上げた。そういう寸法だと思うがね。ともかく」
先生は揉めている間に割って入り、男性とは打って変わった穏やかな口調で私の部屋を確保するよう頼んでくれたが、ない袖は振れないとの返事。数歩退いた先生は腕組みして考えはじめたが、やおら携帯電話を取り出すとどこかに電話を始め、それが終わると、
「金子、安心しろ。泊まり先が確保できた。かつて私もお世話になっていたところだから安心しろ。悪い人達では決してない」
男性のほうを横目でチラチラ見ながらそう言った。良かった、一安心だ。私は心の底から叫んだ。
「ありがとうございます!」
渡辺先生にはいくら感謝してもしきれない。私も異存はない。これで一件落着、と思ったのだが。
「何とかなりましたか。ならば速やかに荷物を運び出して下さい」
男性が事務的な言葉を吐いた。特に感情も込められたようには思えないし、私もそれに従おうとした。その時だった。
「…クソ。たかが教員が偉そうな口を」
その一言が収まりかけた炎を再燃させた。
「ほほう。そのたかが教員に正論を語られたのがそんなに悔しいかね。この頭でっかちのモヤシよ」
瞬間、男性の顔に赤みがさすのが分かった。確かにひょろっとした体格はモヤシと言われたら図星とばかり怒りだしても不思議ではない。
「…おっと、これは失礼だったか。モヤシにな。全世界のモヤシに全力で謝罪せねば。済まなかった。こんな礼儀知らずのいちびりと一緒にしてしまって」
と、天に向かって呼びかける先生に対する男性の怒りは頂点に達した。が、
「なんだね君は! 失礼にも程がある!」
と大声で叫んだ直後に思い直したように冷静になった。
「…ともかく、早急に退去してくれ。いつまでもあんなものを置かれては迷惑だ」
しかしそれで先生の方の怒りは収まらなかった。
「…あんなもの、だと…」
先生の怒りの頂点はもっと高かったようだ。
「こっちが必死こいて集めた家財をあんなものとは何だ! そもそも人のことを馬の骨呼ばわり、ダブルブッキングは困った話だがそれをネタにさんざうちの村の人間をいびりやがって!」
「…さっきから聞いていれば、あなたこそ何だ! 私に対する失礼な言動の数々は十分叱責に値するものだ! 謝罪しろ!」
「…謝罪だぁ? 先に喧嘩売ってきたのはそっちだろ! まず貴様が謝れ!」
私は、オロオロするばかりだった。でも先生の怒りが爆発したのは何よりも、私のためであるとわかった。
「まぁ百億歩譲って、仮に我々が許すとしよう。でもな」
先生は一旦声のトーンを下げると、その反動で一気に大声でまくしたてた。
「ダブルブッキングの可能性も考慮しないで彼女を不法占拠呼ばわりした、その根性が腐ってるというのだ、この頭でっかちが!」

 「ほらほら、腰入れてしっかり歩け!」
先生が男性を叱咤する。痩せ気味の身体なので結構大変だろうと思い、手を貸そうとしたが先生に止められた。
「やらせなきゃダメだ。ケジメがつかない。他人の物を勝手に処分しようとした盗人としての罪と、暴力を振るった落とし前はつけてもらわねばな」
「暴力などふるってないだろう」
男性が反論したが、すかさず先生が、
「彼女の胸を押しただろうが。つうか黙って歩けっつってんだよ! 無駄口叩く余裕があったら気合い入れて運べ!」
と怒鳴りつけるだが、布団を男性の乗ってきていた外車に積み込んだところで、
「まぁお前の言い分をも聞いてやる。暴力を振るってはいないと言ったな?」
男性の顔がニヤッとなる。
「してないと言っている。ちょっと身体が触れただけだ」
しかし先生のニヤケ顔はその上を行っていた。
「ほほう。ならばアンタがやったこと、そのまま再現してやんよ」
 ドスッ!
 ゲホッ!
数メートル離れていても聞こえるくらいの打撃音ととともに、男性が倒れこむ。
「げほ、げほ、げほっ」
みぞおちに入ったってやつだ。先生は武道の心得があるので、人体の急所をよく知っているのだと思う。それにしても。確かに私はドンと突かれたけど、こんな勢いはなかったはず…。
「あのなぁ、アンタがやったのはこういうことなんだ。パワーの有無は関係ない。仮にも名の知れた企業の看板背負ってる貴様が、前途ある女子学生に手を出したという事実が問題だってんだよ!」
一喝すると、男性の襟首を掴んで無理やり立たせる。
「ほら、まだ荷物残ってんだ、とっとと働け!」

 要はこういうことだ。軽トラは返してしまったので、荷物を運ぶ手段がない。だから先生は不法占拠および盗人発言のお詫びとして車を出せと言った。渋々応じた男性は部下の人に指示を出したのだが、
「悪いのはお前なんだからお前がやれ」
彼の襟首を後ろから引っ張り上げると、ズルズル引きずりはじめた。伸びるじゃないかと抵抗する男性に対し、
「ほう。ご立派な会社に優秀な成績でお入りになったのでしょうから高給取りに決まってるし、このスーツくらいどうなってもいいですよねぇ? それともそんなお金もらう資格のないでくの棒だって自覚でもお有りなのですか? 肩書きだけはご大層なクソガキさん?」
先生の悪口は止まらず、無理やり彼の外車に布団などを押しこんだ。
「ちょ、ちょっと。シートが汚れ…」
「汚れるだぁ? シートだって布団だって人間が触れるんだから汚れるのは当たり前だろう。つかさっきから聞いてれば他人の物を汚いだの何だの言ってくれてるよなぁ。あのな、教えてやる。貴様の腐りきった心根より百兆倍は清らかで美しいんだよ!」
さすがにかわいそうにも思えてくる反面、この光景は痛快だった。そう、私が先生に憧れたのって、こういう曲がったことが大嫌いなところが理由だからだ。先生の武勇伝はそのうち話す機会もあるだろう。

 車は村の中を進んでゆく。正直車内の雰囲気はピリピリして居心地の良くないものだった。男性はすっかり先生の剣幕に押されている。先生も機嫌が悪くなってるのではないだろうかと思っていたが、
「ま、気にするな。明日から実習なんだから、楽しくやろうぜ。」
私のことを気遣ってか明るい言葉をくれる。もっとも、
「教育実習ってのは大事なことだからな。教育を現場で支える人間が増えるのはいいことだ。少なくとも何で儲けてるのかわからない会社にホイホイ入った奴と違ってな」
と、嫌味をつけるのは忘れなかったが。
 「あ、話は変わるが。君の家の宗派は何かね?」
はい? と思わず聞き返してしまった。あまりに唐突な問いだったからだ。
「いや、差し支えなければ答えるって形でいいのだが。今から行くところは家業が神社なのだよ。それについては問題無いかね?」
うん、問題ない。なので我が家は一応仏教徒だが仏壇以外に神棚もあるし、クリスマスも祝う。なので、きわめて日本的ないち庶民の宗教感覚ですよと答えた。それは助かったと安堵の表情を浮かべる先生。だがすぐ次の質問が発せられた。
 「あともう一つ聞くが、男は平気かね?」
これまた突飛な質問だ。でもこれも事情はなんとなく想像がつく。女子校生活が長いとどうしても異性が苦手という子は出てくる。おそらくこれから行く先に男の人がいるのだろう。でも私は安心して答えた。
「私は女子校通い始めたの中等部からですし、男の兄弟もいます。塾にも通ってたから男子とも話したことありますよ? そちらに男の人がお住まいなんですね? 大丈夫、気にしません」
安心してくださいね、と付け加えたら、他人の顔読むなよとたしなめられたが怒ってはいない。顔がほがらかに笑っていた。さっきとは打って変わって。そう、これが私の知る先生の最高の表情だ。強い者の横暴には立ち向かい、生徒にはとことん優しい。先生の武勇伝はそのうち話せればいいと思う。

 「もうすぐ着くぞー」
東京のそれよりも明らかに深くて重い夜の闇に、赤い鳥居が浮かびあかる。そこから一直線に連なる石段。その脇をかすめるように山腹をなでながら上へ上へと伸びてゆく狭くて細い道。高級外車にはちょっと窮屈だが、
「飛ばせ飛ばせー! 汚れも傷も気にすんな!」
先生が煽る煽る。あっという間のような、本当に脇をこすりやしないかと心配で長く感じられたような不思議な感覚のまま坂道を登り切ると、暗闇の中に白い家が浮かび上がった。まるでペンションのような可愛らしいおうち。車はそこの玄関先に滑りこむ。
「着いたぞ」
へえ、ここが。神社と言うから住居も和風かと思いきや、こういった家に住むのもありなのかと思った。目が暗闇に慣れてくると、白樺林の奥に神社の建物があるのがわかった。
「よーし、最後のひと仕事だ」
男性に荷物を持たせる先生。すべてを運び終えさせると一言、
「これできみは無罪放免…」
ひと呼吸おいて、
「と思ったけど口ごたえが多いからやめた。改めて関係各所に君の悪行は報告しておくから、首洗って待っておけ」

 「いらっしゃーい」
「こんばんわー。すまんねー突然」
家の奥から声がしたので、先生が通る声で返事した。挨拶が前後したのは先生が呼び鈴も鳴らさずに玄関のドアを開けて荷物を搬入させたから。
「…子供もいるし、私が怒鳴り散らしている姿を見せるのもアレだろう」
「あの方が恥かくからですか?」
「なんであんな野郎のために気ぃ遣わなきゃいけないんだよ。子供には刺激が強すぎるってことだよ」
と言いつつ、男性にシッシッと手で合図する。なんか男性は、木々の間にのぞく神社の建物を見てアタフタしている。それを見て先生は、
「いいから行けって!」
と叱り飛ばす。慌てて車に乗り込み立ち去る。
 「ここは村の守り神だからな。ここの関係者に無礼なことをすると村人全員が黙っちゃいないってことは言い含められたのだろう。ま、これで村にとっても悪いようにはならないはずだ」
と小声で私に教えた先生に、声をかけた人がいた。
「どうか、したんですか?」
 …かわいい。
 声を発したのは、清楚とか可憐とか、という言葉がピッタリくる子どもだった。
「ああ、親切な人に荷物を運んでもらったんだ。キー子はいるかね?」
うーん、親切というか先生が無理やりやらせたんだけど…と思いつつ自分も助かったので文句は言えない。そう思っていると、
「おおっ、フミ姉おつかれ。つか最初からこれで良かったんじゃない?」
と笑いながら女性が出てきた。もともとあの布団などはここの家で余ったものを借りてきたのだと車の中で聞いた。確かに最初からここでお世話になる手はずだったら手間はかからなかったわけだが、それは図々しい話になる。
「まあな。うちでも良かったんだが狭いし。本当に助かったよ」
「いいよいいよ。うちはそういうトコだから。一夜の宿に困った人を泊めるのも神社の役目だし」
「先生もそれで助かったんですもんね」
女の子が横から口を挟む。さっき先生もここにお世話になったことがあると聞いていたから、そのことを言っているのだろう。学生時代は一人で全国を旅していたと聞いているので、その途中で立ち寄ったのだと思う。
 二人のやり取りをボーっと見ていたが、はっと気がついて、慌てて挨拶した。
「あ、金子あづみと申します。と、突然来て申し訳ありません、よ、よろしくおねがいします!」
思わず大声になっていたと思う。この家のお二人が笑いを噛み殺していたように見えたので、相当テンパッていたのだろう、私は。
「こちらこそよろしく。そして、ようこそ天狼神社へ」
と余裕のある笑顔を返された。

 「どうだ、普通の家とそう変わりないだろう? ま、リラックスして暮らすといいよ。って私が言うのもなんだがな」
と、先生は笑う。私たちは家の中にお呼ばれし、リビングのテーブルでお茶をいただいている。並んで座る私と先生の前に、この家の人達が対面して座っている。
 向かって一番右が家主の嬬恋希和子さん。家主といってもまだ若い。先生と仲が良いことは、あだ名で呼び合っていたのでわかる。隣には後からやってきたちっちゃな女の子が座っている。
「こんばんわ、はじめまして。つまごい、かやと申します」
と礼儀正しく挨拶をする。名前は花耶と書くのだそう。その隣にいるのが先程まっさきに出迎えてくれた子で、真耶ちゃんと言う。
 なんといっても目を引くのは、二人の髪の毛と目。キラキラ光るブロンドの髪に、ブルーの瞳。
「この子たちのお母さんがフランス人の血を引いててね。お父さんの家系にもヨーロッパの人がいたりするから。私は普通にこんな髪なんだけどね」
希和子さんが説明してくれた。あれ、ということは希和子さんは二人のお姉さんとかじゃないのかな?
「ちなみに私はこの子たちの叔母だから。ご両親は東京にいるの。神社の決まりでね」
 予想どおり、三姉妹ではなかった。真耶ちゃんと花耶ちゃんの二人は、東京に生まれたのだがまもなくこの神社に連れてこられた。嬬恋家では一族の子が巫女を務める習わしで、幼い時こそご両親が頻繁に来て子育てするのだがやがて親元を離れた形で育っていくのだという。さらりと説明されたが、大変なことだと思う。幼い子どもにとっては寂しいこともあったんじゃないだろうか?
「というわけで、この家には以上三名が住んでるってわけなの。これだけ広い家でこの人数だから部屋は余ってるの。安心してね」
希和子さんが微笑む。私もつられて微笑む。あれ、でも…。
 「あの、すみません」
私は尋ねた。
「確か、男の方がいらっしゃると伺っていたのですが…」
ちょっと間があった。が、先生は希和子さんと示し合わせるような仕草をすると、
「目の前にいるだろ?」
…はい?
 目の前には希和子さんと、真耶ちゃん、花耶ちゃんの姉妹。それ以外に人はいない。まさか幽霊? いやいや先生はそういうのを信じる人ではない。だとすると…。
 「こら。このタイミングで私を見るな」
つい横にいる先生を見てしまった。まぁ行動が男らしい先生ではあるが確かに失礼だし、いるとしたらこのお家に住んでるはずだ。でもだとしたら、一体誰が?
 「えっと、実は…私が…」
声がした。一瞬声の主が誰だか分からなかったが、もう一度聞こえてきた、
「…あ、驚かせてごめんなさい…これも神社のしきたりで…」
という声の源をたどると、そこには。
 サラサラロングの金髪ストレート。
 フリルの付いたワンピース。
 内股で椅子に座るおしとやかなポーズ。

 ええええええええっ!?

 「まあ最初は誰しもびっくりするよ。本人も言ったとおり神社の習わしなんだ。ここでは巫女を男の子がやることもあるっていう」
この神社が祀る神様はもとはメスのオオカミ。言ってみれば女神様みたいなものである。そしてこの神社を守る嬬恋家では代々その女神に仕える「神使」を輩出してきている。神道において「神使」という場合、大概それは神に仕える動物のことを指す。例えば稲荷信仰における狐などがその典型だが、ここ天狼神社ではその役目を人間の女子が務めるのだという。そのため彼女を「巫女」と呼ぶこともあるがこれはあくまで便宜上の呼び名。実際は「神の子」、最近は「神の娘」と表記することもあるようだが、ともかくそう呼ばれるべき女子の誕生を待ちわびていたら生まれてきたのは男子だった、なんてことも時々ある。
 その場合どうするか。答えは「神使は女子でなければならない」という絶対的な掟である。つまり、男子でも女子として育てなければならない。そして今、私の目の前にいる嬬恋真耶さん。彼女、いや彼こそがその「男子でありながら女子として育った神の娘」なのだ。
 というふうに先生が解説してくれたが、私は口をあんぐりしながら聞くしかなかった。
「村の中では普通なんだけどね。東京とかから来た人にはインパクト大きい話よね。拒否反応示す子もいるんだけど、大丈夫、かな?」
希和子さんは気遣ってくれるのだが、拒否も何も他にいくところ無いし、それに今はただただビックリするばっかりで。
「とりあえず、どうしても無理だったら言ってくれ。なんとか他の策考えるから。今夜はいきなりのことで頼めるのがここしか無かったし、何とかうまくやってくれ」
という先生の言葉には、
「え、ええ」
とだけ曖昧に答えたが、あとから考えると失礼な話だ、真耶ちゃんに対して。好きで女の子やってるとは限らないし、しきたりでやっているのならそれが原因で拒絶されたり、戸惑いをあからさまにされるのは気分がいいはずがない。思い直したように私は精一杯の笑顔を作って、
「よろしくね」
と彼女に答えた。彼女も笑顔で、
「はい。でもダメだったら、言って下さいね?」
と答えてくれた。自分からそんなこと言うなんて。いい子すぎる。でもきっと同じような経験を重ねてきたのだろう。けなげさに心を打たれる、と言ってもまだうわべだけでしか理解できていない私だが、いずれ実感が深まっていくのだろう。

 「んじゃ私は帰るぞー」
先生が玄関に立った。交通手段が無いのでは? と思っていたら携帯でさっきの男性に電話しているようだ。また迎えに来させるらしい。彼が私にきつく当たったのは確かに怖かったし、それへの罰とすればいいんだろうけど、さすがに災難だと思う。
 見送った後、真耶ちゃんと目が合った。
「あ、あの…」
と口ごもる私。気の利いたことを言いたいがうまく言葉が見つからない。まごまごしているうちに真耶ちゃんの方から話しかけてくれた。
「あ、最初はみなさん戸惑うんで。あたし、ちょっと人より変わってるじゃないですか、男なのに女の子のカッコしてて。だから…」
ちょっとうつむきながら、こういった。
「少しずつでも慣れてくれると、嬉しいです」
 私は全力でうなずいた。真耶ちゃんはまだ何か言いたそうだったが、その時。
「おおっ、大事なこと言うの忘れてた」
突然ドアが開き、再び先生が登場。
「明日からの実習だがな、君には一年B組についてもらう。私のクラスだ」
ははっ。それは本当に大事なことだよ。まぁそういうの忘れるあたり先生らしいといえばらしいか。ただその話に続きがあって、
「あと、ついでに言っとくとな。真耶…嬬恋も、うちのクラスだから。そういうことで」

 さっそうと去っていく先生。残された私達。真耶ちゃんが閉まったドアのほうを見ながら一言、
「今から言おうと思ってたのに」
というか、それが一番大事なことなんじゃないかなあ、先生。というか男の子がどうこうとかより一大事じゃない?
 先生と生徒が同じ屋根の下に住む、って。

 いろいろあった教育実習開始前日だったが、夜が明けていざ実習が始まってみるとなんのことはなかった。あのあと嬬恋家では自分用の部屋をあてがってもらったのでそこで準備を軽くしてから就寝。真耶ちゃんたちとも普通にやり取りできている。学校でも先生方は親切だし、生徒さんたちも歓迎してくれた。朝礼では緊張したが、いっぺん話し終わると変に度胸がついたというか、全校生徒を一度相手にすれば一クラスくらいはなんとかなるんじゃないかと思えてきた。
 何もかもが、順風満帆だった。

宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第一話

この作品は以前書いた『宗教上の理由』の続編です。ただ語り手が交代したので、少し変わった目線からのお話になっていると思います。また、この作品から読み始めても楽しめるように心掛けて書いたつもりなので、最初から読まないとダメとかそういうことではありません。もちろん以前の作品にもどれば新たな発見もあるかとは思います。また読む順番によって感想も変わってくるかもしれませんので、作者の親心としてはこちらを読んだ後さかのぼっていただければ嬉しいです。
タイトルの最後は「めがみのこ」と読みます。「教え子」と、韻を踏んでいるのですね、って説明するまでも無いかもしれないですけど。ともかく、ゆりるゆると続けていく予定です。『宗教上の理由』ほどきっちりした続き物にはしないつもりですので、どこからでも読めるような柔らかい内容になるかと思います。お気に召しましたら今後共ご贔屓にお願いいたします。

宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第一話

かつて自分の学校にやってきた教育実習生に憧れ、自らも教師になると決意した女子大生、金子あづみ。その憧れの人が勤務する中学校に東京からはるばる実習でやってきたのだが、ちょっとしたトラブルをキッカケに神社を営む嬬恋家と深く関わることとなる。そこに住まう真耶という子の清楚で可憐な雰囲気に見とれるあづみだったが、隠された秘密を知ってビックリ…。不景気とかの世相も交えつつシリアスにはなりきれないお気楽コメディ、スタートです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-08

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