永久に、安らかに

永久に、安らかに

 トワ、という自分の名前が嫌いだった。
 ユカとかエミとくらべて、普通じゃないから。イコール、変だと決めつけていたから。実際、親が適当に携帯の予測変換で見つけてきたらしい変な当て字が付いてもいたし。
 苗字は普通だっただけに、十代の私にはこの名前がすごくアンバランスな感じがして嫌だった。(今から思えば、苗字まで変わったものだったらかえってもっと気になっていたことだろう)
 スズキ・トワ。
 車の名前みたいだと思っていた。
 鈴木・兎羽。
 何だか芸名のようでもある。
 だけどある日を境に、私は一転してこの名前が大好きになった。
 意味不明な漢字もまあ良いかと思えるようになったし、初対面の人にも、無理のない笑顔でためらわずに自己紹介ができるようになった。
 それはありふれた理由からだった。
 私の名前を褒めてくれた人と出会ったのだ。


 とあるボイスチャットサイトの中での話だった。
 私はありふれたハンドルネームの、見知らぬ男性と話を始めた。
 しばらく付き合いを重ねるうちに私たちは意気投合するようになって、やがて二人だけの部屋へとこっそり移って行った。
 彼は宇宙人だったけれども、とても優しい人だった。
 宇宙人というのが本当なのか比喩なのかは秘密だと言われていた。
 私も最初は面食らったものの、彼の喋り方は本当に繊細で澄んでいて、何だか真実、遠い銀河から話しかけられているような気がしていた。
 いつしか私は彼が、本当に別の銀河から来たのだと信じるようになっていた。


 私が自分の名前を気に入ってないと話した時、彼は、
「名前というのはとても大切なものだよ」
と語った。
 彼は名前を食べる宇宙人なので、それがよくわかるのだという。
 グルメな彼は漢字のこともよく知っていた。
 彼は私に、「兎」という字には、「月」という意味もあるのだと教えてくれた。
 太陽の中には鳥が、月の中には兎が宿っている、という伝説のことも、それに添えて伝えてくれた。
 鳥の羽と、兎の月。
 兎羽。
 一見意味不明で貧弱そうに見えるけれど、本当は広く、大きな名前なのだと彼は言った。
「永遠とも音が繋がる」
 彼は最後にそう言うと少し笑って、きっとすごく美味しいだろうな、と、独り言みたいに呟いた。
「ナンパしているの?」
と私が尋ねたら、彼は、
「そう聞こえるかい?」
と事もなげに返してきた。
 私は急に恥ずかしくなって、話題をはぐらかした。


 ところで、彼はEmyoというハンドルネームを使っていた。
 でもこの名前は、実のところ、誰か個人を指す名前としてはまるで機能していなかった。
 Emyoというハンドルネームはあの頃ネット上で流行していた、思想上のアイコンみたいなものだった。
 本来は「悟りの知恵を生命に例えたもの」といかいう意味の言葉だったらしいけれど、あの時期にはもうそんなことはお構いなしに、同名のロックバンドの歌詞に影響された人達が、各々好きに練り上げた適当な意味合いでもって使い回していた。
 だから、あの時代あの世界には、たくさんのEmyoがいた。
 たくさんの「誰か」がいた。
 私は、彼とのチャットを終えた後随分と経ってから、言葉本来の意味を辞書で引いて知った。
 おそらく彼は最初から、どちらの意味も知っていたのだろう。
 小説でも宇宙人は大概器用に人の隙間に潜り込むものだ。
 彼はいたずらに誰の名前を食べることもなく、それでいて自分もきっちり満足しながら、ひっそりと潜み過ごしていた。


 私と彼の会話はいつも空想に始まって、空想に尽きた。
 もっとも、彼の方は自分が見聞きした世界のことを話しているだけで、まるっきり夢物語を話しているつもりではないようだった。
 少なくとも相手にそう思わせるだけの迫力が彼の話にはあった。
 ある時彼は、この宇宙には無数の時間が流れているという話をした。
「唯一つでなければ、差異が生まれくる」
 特殊相対性理論の話も参考にと聞かされた。
 わかったような、わからなかったような感じであったが、彼はそんな私を特段気に掛けることもなく話し続けた。
「人だけではなく、この宇宙に生きる様々な生き物が、見出した差異に名前を付けたがる。
 それが命の本性で。
 命と呼ばれるものは命ある限り、仕切りを張って、色を付け、違いを明らかにしようとし続ける。
 そこには厖大なエネルギーが費やされる。
 僕たちはそのおこぼれを食らって、生きている」
 私には正直彼の話がよくわからなかった。
 結局エネルギーを元に生きるというのなら、私たち人間と彼らには一体何の違いがあるのだろうと考えた。
 あるいは、もしかしたら。
 ひどく回りくどいやり方ではあったけれど、彼は
「自分も君たちと同じだよ」
と、伝えて私を安心させたかったのだろうかと思った。


 名前のことにちなんで、彼から聞いた話がもう一つある。
 どんな流れだったかは忘れてしまったけれど、私が神話を元にしたある歌の話をした折のことだった。
 その日の彼はやけに神妙な口調で話していた。
「あまりに名前を付けることが普遍的になって、かえってそれが無い存在が特別視されることもある。
 正確に言えば名前が全く無いというのはありえない話で、存在する物である以上すべては、少なくともその存在が何者かに知られている限りは、必ず呼び名を持っているものだ」
と。
 私にはそれが、自分が語った歌とどう関係してくるのかわからなくて、首を捻って尋ねた。
「すごく大袈裟な話ね。私の知っている限りではそういう存在ってひとつしか思い浮かばないけれど…………それより、どうしてそんな話になるの?」
「いいや、大した意図はない。僕の中で唐突に飛躍してしまった」
 重ねて首をかしげる私の姿が見えるはずはないのに、彼は私の様子を見透かしたように切々と話を紡いだ。
「…………実は、なぜか僕には、君の名前の奥に太陽が輝いていることがすごく眩しく感じられる時があるんだ。だから歌詞に出てくる翼を持った少年、思わず陽に手を伸ばして地に墜ちた少年が、哀れに感じられた」
「安心して。私はそんなに熱くないわ」
「知っている。君は太陽の懐で飛ぶ鳥だ。太陽そのものではない。だが僕は、君を包むその存在に近付くことができない」
「わからないわ。その存在って、太陽のこと?」
 私が尋ね返すと、彼は何かを話しかけてつと口を噤んだきり、黙り込んでしまった。


 私達は時にはもっと簡単な、たわいもない会話もした。
 そういう調子で交わされた会話の中にはみかんの話があった。
 彼はある晩、
「つい最近、みかんを知ったんだ」
と私に言ってきた。
「そう。美味しかった?」
 私が尋ねると、彼はやや間を開けてからこんな風に返してきた。
「食べ物を美味しいと感じたのは初めてで、何と言い表すべきかわからない」
「え? 今、美味しいと言ったじゃない」
 私の返答に、彼はこちらがちょっと驚くぐらいの勢いで訴えた。
「君たちは楽しいことに関して、あまりに大雑把過ぎる。
 辛さに関しては、孤独がどうだの、絶望がどうだのと、こちらが混乱するぐらい細かな表現があるのに」
「それは、あなたがまだ十分に地球の言葉を知らないからよ」
「では、満足できるように教えて欲しい」
 私は彼の頼みを喜んで引き受けて、私の好きな、たくさんのもの…………例えば食べ物とか、音楽とか、映画とか、動物とか…………を彼に伝えてやることにした。
 私は彼に夢中になっていたんだ。


 だが、そうした愉快な夜もまもなくして終わりを迎えた。
 ある日突然、何の前触れも無しに、私と彼のチャットルームに鍵がかかってしまったのだった。
 私は慌ててチャットサイトの管理室に問い合わせた。
 返事はすぐに届いたが、そこに書かれていたのは予想通りの、ごく当たり前の回答だった。
 法的に明らかな問題がない場合、管理人が各チャットルームに制限をかけることはない、という。
 では誰が鍵をかけたのか。
 私でないなら、答えは一つしかない。
 私は独りぽつんと地球に取り残された。


 私はパスを開くべく八方手を尽くしたが、どうしても開けることは叶わなかった。
 思いつく限りのキーワードはどれもあえなく拒絶されて、私は途方に暮れた。
 私はすっかり無気力になってチャットサイトを退会した。
 失恋、と言えば良かったのか。
 だがあの頃の私は頑なにその表現を拒んでいた。
 一人で浮かれていた自分が惨め過ぎて、絶対に認めたくなかったのだ。
 それに、信じられもしなかった。
 あれだけ熱心に自分の話を聞いてくれていたはずの人が、急に背を向けて、忽然と消えてしまうということが。
 じれったいぐらい律儀だった彼が、さよならの一言も無しにいきなり消えてしまったということが。
 それもおそらく、自分の意思で去ったということが。
 …………そういうこともあるのだと納得できるようになるには、かなりの時間を経る必要があった。
 その間、腹いせみたいに他サイトで恋人ごっこをしてみたりもしたけれど、何だか凄まじく空々しかった。
 多分、私がしたかったのは恋愛ではなかったからなのだけれども。
 それでもわかっていて、私は何度も過ちを犯した。


 そんなこんなで月日は流れ流れて、私はごくごく平凡な大人へと成長していった。
 大人になってからも、たくさんの恋人ができた。
 都会の人。外国の人。
 スーツの人。制服の人。
 山男に、船乗り、探偵に、傭兵とかも。
 みんな宇宙人と比べても遜色のない個性豊かな人達だったけれど、それでも私は、あの不思議な宇宙人はどこに消えたのだろう、と頭の片隅で考え続けていた。
 まだ太陽系を巡っているのかな。
 それとももう、遥か彼方の光の果てへと帰ったのかな。
 月の煌々と明るい夜には、彼と最後に交わした会話が今なおつまびらかに思い起こされる。


 …………
 Towa 〉名前を食べられたら、どうなるの?
 Emyo 〉食べられたものは形を失うよ。君がものを食べた時みたいに、少しずつ少しずつ小さく砕かれて、溶けていくんだ。
 Towa 〉つまり、私はどうなってしまうの?
 Emyo 〉「食べられる前という過去」がどこへ行くのか? ってこと?
 Towa 〉ううん、違うの。名前が失せた後の「私」の行方が知りたいと思って。
 Emyo 〉「私」かぁ。
 ううん…………。
 その問いに答えるためには、僕はもっと君について知らなくてはならないようだ。よければ、その「私」について僕にもっと教えてくれないか?
 Towa 〉積極的!
 Emyo 〉そうかな?
 Towa 〉気にしないで。
 えっと、何を話せばいいかな? 今、話しているという状況だけではだめよね?
 Emyo 〉僕はそれでも構わない。君と話すのはとても楽しいし。ただ、それでは君の正体は永遠にわからない。
 Towa 〉うーん。一体どうしたらいいのかしら。そもそも、言葉にできることなのかどうか。
 Emyo 〉そうだね。難しい問題だと僕も思う。
 Towa 〉ところで、あなたはまだ地球にいるつもり?
 Emyo 〉ああ。まだしばらくは滞在するつもりだ。
 Towa 〉そうしたらね、私、あなたにお願いがあるの。
 Emyo 〉どんなこと?
 Towa 〉あのね、私にニックネームを付けて欲しいの。あなたと私だけの、特別な名前を作りたいの。
 Emyo 〉驚いたな。これまで色んな宇宙を旅してきたけれど、そんなことを頼まれたのは初めてだ。
 僕は名前を食べるのに?
 Towa 〉食べるからこそよ。それに、地球ではよくあることなの。特別な人と特別な名前で呼び合うこと。
 Emyo 〉特別。
 相変わらず捉えきれない言葉だ。
 それで、名前を付けたらどうするんだい?
 Towa 〉どうもしないわ。あえて言えば、その名前が絆になるだけ。
 Emyo 〉絆?
 Towa 〉絆は、「私」と「あなた」を繋ぐ糸。さっき、あなたは私を知りたいと言ってくれたでしょう? だから、その助けになるかなって考えたの。
 Emyo 〉なるだろうか?
 何よりそうした糸もいずれ誰かに、あるいは僕に食べられてしまうのなら、あまり意味がないように感じられるが。
 Towa 〉それでも、あなたには「私」が付けた名前が残っているわ。
Emyo 〉僕の名前が。
    君は僕にも名前をくれるつもりだったのか。
 Towa 〉そう。
 あなたは前に、自分自身の名前は食べられないと言っていたわ。
つまり「私」は、自分の名前を失っても、あなたの名前の名付け親として、存在としては残り続けられるというわけ。ちょっと強引な感じはあるけれど。
 Emyo 〉だが、もし僕が君のことを忘れてしまったら?
 Towa 〉忘れてしまうの?
 Emyo 〉そのつもりはない。しかし。
 Towa 〉私はあなたを信じるわ。
 私は、それだけがあなたに「私」を伝える方法だと思っている。
 Emyo 〉…………。なるほど。
 …………うん、わかった。
 気に入ったよ。そんな風にストレートに伝えられたら、な。
 そうしたら、次までに必ず考えてこよう。僕が味わった中で、一番素晴らしい名前を君にあげよう。
 Towa 〉ありがとう。あなたにも、とびきり美味しそうな名前をあげる。実はもう考えてあるのよ。
 Emyo 〉そうか。すぐにでも聞きたいところだけれど、折角だから楽しみに待つことにしよう。
 …………


 私は今も彼の名前を大切に取って置いてある。
 今更まさか本気でそんな日が来るとは思っていないけれど、万が一、また彼に会えるようなことがあったならきっと伝えたい。
 例え彼が私のことなどもうすっかり覚えていなかったとしても、おそらく彼はまだ名前を必要としているのではないかと私は思っているから。
 彼が本当はどんな形の生き物なのかは知らない。
 わかっていることはただ、彼が名前に飢えて悠久の空を漂い続けていたってことだけだ。
 私は彼に、私はまだ鈴木兎羽だよと告げたい。
 最後の夜、さよならの前に、せっかくあげると言ったのに。
 彼は私の名前を食べなかったんだ。
 彼は力なく「できないよ」とこぼしただけで、訳も話してくれなかった。
 結局彼は嘘つきだったのだと、それを聞いた昔の私は思った。やっぱり彼は宇宙人なんかじゃなかったんだって、ほんの少し、本当にわずかに幻滅しもした。
 でも今は全くそうは感じない。
 たとえ一つ嘘が混じっていたとしても、彼がずっとずっと話しきてきた本当のことと比べれば、それはほんの些細な問題だとわかるから。
 私はそんなことをつらつら考えながら、今日は久しぶりに勇気を出してみることにした。
 別に明日でも明後日でもよかったのだけれど、何だか今夜が良いと思った。
 私は机の上のノートパソコンを開き、かつて彼と使っていたチャットサイトの名を検索してみた。


 机の上の、カゴに積まれたみかんたちがじっと私を見つめていた。
 私は例のチャットサイトがまだ存在していたことについてさすがに驚きを禁じ得なかった。
 もう十年近く前のことだというのに。
 サイトの画面をスクロールしていくと、懐かしいような、ちょっとぞくぞくする気持ちが胸によぎった。
 ところどころ内装のデザインは変わっていたけれど、メインの書体や管理者のハンドルネームから間違いなく同じ場所だとわかった。
 私はそそくさと受付を済ませると、そっと、古い廊下を辿って奥へと進んでいった。
 真ん丸なみかんたちがこぢんまりと、私の一連の行動を見守ってくれていた。
 長く更新されていないはずの古い部屋が未だに残っているというのは、せわしないネット空間においては奇跡とも言える。
 私はその部屋を発見した時、あまりに現実味がなさ過ぎて、何だか大気圏にいる感じさえしなかった。
 私は部屋の前で長らく立ち竦んでいた。
 訪れてどうしようというのか、自分でもわからなかった。
 つい勢いに任せてふらりとやって来てしまったけれど、まるで考えがまとまらずに、戸惑いだけがどんどん胸中で増幅していった。
 私は画面に見入りつつ、かつての染み入るような無力をまざまざと思い出していた。
 過去の亡霊がセーターの袖に纏わりついて離してくれなかった。
 アパートの外では高く昇った冬の月が、しみじみと冷たい月明かりを街に振り注いでいた。
 私は満月の中の動物の影に一度目をやって、深呼吸をし、お化けの手をやんわりと握って戸に手を掛けた。


 その時、鮮烈な閃きが私を支配した。
 不思議な文字の羅列がふっと自分の中に湧いたのだ。
 私はその言葉に、確かにどこかで聞いた響きを覚えて戦慄した。同時に、なぜ忘れていたのかわからないほどにずっと身近にあった語であるとも感じられた。
 全く意味不明な音の繋がりだった。
 擬音でもないし、知っている外国の単語のようでもなかった。思い出した今、なぜ忘れずにいられるのかも謎だった。
 あたかも言葉の方が、この時に至るまでずっと私を待ち受けていたかとすら思われた。
 とにかくその瞬間は、偶然にせよ必然にせよ、今夜私の元に訪れた。
 私は素早くキーボードを叩き、パスワード欄にその語を入力した。
 奇妙な確信で身体が震えていた。
 ダメかもという一抹の不安はあったし、ダメで元々、という開き直りもあった。だがそれよりも「いける」という高くて荒々しい波が私を揺さぶっていた。
 なぜ今まで思い付かなかったのか。
 どうして今思い出したのか。
 傍らに立っていた亡霊が恨めしそうに画面を見つめていた。
 今更開いてどうなるという疑問は最早宇宙の端っこにまで追いやられていた。
 私は伏し目がちな亡霊と共に、エンターキーに指を乗せて軽く力を入れた。


 …………

 Emyo 〉おかえり。

 息の止まるような胸の高鳴りは、極まって私の目の前を滲ませた。
 私は表示されている文字列に付与された日付・時刻表示を、目をこすって何度も確認した。
 だがどれだけ見直してみても、数字の列は今日のものと変わらなかった。
 トーク用のマイクは、当然ながら用意していなかった。
 私は記憶の中に残っているやり方に従い、たどたどしい手つきで文章を入力し始めた。緊張のあまり一回、誤送信してしまった。

 Towa 〉
 Towa 〉ただいま。

 待っていると次行に新たな文字列が追加された。

 Emyo 〉信じられない。本当に君なのか?

 私は言葉を打ち込んだ。

 Towa 〉うん。そうだよ。ずっと待っていてくれたの?
 Emyo 〉ああ。
 Towa 〉それならどうして、鍵なんてかけたの?
 Emyo 〉信じてもらえる自信がない。
 Towa 〉何でもいい。
 話して。
 あなたと、話がしたい。
 Emyo 〉同じ気持ちだ。ああ、夢を見ているようだ。
 Towa 〉どちらだって構わないでしょう。夢だって現実だって、同じよ。
 Emyo 〉ああ、知っている。だが。
 Towa 〉わかる。夢じゃないよ。
 Emyo 〉兎羽、すまないが、まずは君に伝えなくてはならないことがある。
 Towa 〉
 Towa 〉ごめんなさい、久しぶりで操作に慣れない。
 何?
 Emyo 〉今夜を限りに、僕は地球を発つ。
 そしておそらく、二度と戻って来られないだろう。もうあまり時間がない。
 Towa 〉そんな。せっかくまた会えたのに。
 Emyo 〉僕はあまりに長く、同じ時間に留まり過ぎたんだ。君と最後の約束をした時にはすでに、警告を受けていた。
 Towa 〉警告って、誰から?
 Emyo 〉思い切って例えるなら、君たちが言うところの「神」のようなものからだ。
 Towa 〉神様って…………どうして?
 Emyo 〉恒常性を保つために。
 Towa 〉恒常性? 待って、話について行けない。
 Emyo 〉申し訳ないが、待ってあげられない。できれば無視してほしい。本来人間である君が知る必要はないことだ。
 とにかく僕は、その神に逆らうために禁忌を犯した。
 僕は最初の警告を受けたあの夜、ある大きな名を食らうことで時空を捻じ曲げた。今のこの星の在り様に最も関与した名を、禁を破って食べた。
 信じてもらおうとは思っていない。消えた名のことを君が知るはずはないから。だが、頼む。
 あともう少しだけ僕に話をさせてくれないか。あの晩のことを、弁解がましくとも、君に伝えたい。
 Towa 〉わかった。
 続けて。
 Emyo 〉結果、時空は変わった。概ね僕の期待した通りに。
 世界の在り方はほとんど変わらなかった。見越しての行動ではあったものの、名はなくとも、かの者が残した言葉が無事生き続けたゆえだった。
 僕は安堵した。これだけ変化が少なければ、神もしばらくは気付かないだろうと。事実、今日まで隠しおおせた。
 だが唯一つ、誤算があった。気付いた時僕は、天罰という場にぴったりの言葉を脳裏に浮かべたよ。
 Towa 〉それが、あのキーだと言うの?
 Emyo 〉そうだ。
 完全に偶発的な、時空のずれだった。
 僕の力ではどうしようもなかった。
 Towa 〉じゃあ、あなたが鍵をかけたわけじゃなかったのね?
 Emyo 〉それは答えかねる。
 僕がしでかしたことには違いない。
 Towa 〉…………そんなの、わかるわけがないじゃない、
 Towa 〉そんな事情。それに
 Towa 〉
 Towa 〉
 Towa 〉ごめん、取り乱して失敗した。相変わらず使いにくい場所。
 それにあのパスワードだって、どうして今になって思い付けたのか、自分でも信じられない。
 Emyo 〉…………僕にもわからない。君がそれを知る術はないはずなのに。なぜ。
 太陽は僕を焼いたのではなかったのか?
 どうして…………。
 Towa 〉また会えて良かった。
 Emyo 〉せめて昨日にでも会えたら、もっと良かったのだけれど。
 Towa 〉今夜会えただけで十分。
 Emyo 〉寂しいことを言う。
 Towa 〉違うよ。私だって名残惜しい。でも、会えないよりはずっと良かった。心からそう思うの。
 Emyo 〉まったくだ。
 Towa 〉私、あなたにずっと伝えたかったことがあるの。
 Emyo 〉うん。
 Towa 〉あなたはまだ、あの約束を覚えている?
 Emyo 〉忘れるわけがない。
 Towa 〉私ね、ずっと考えていたの。
 最初に考えていた名前は、「彗」(スイ)だった。ちょっと外れた軌道で、色んな星の合間を貫いて去って行く。あなたは彗星みたいな生き方をしているなと感じたから。
 でも、長い間離れていて、何だか段々違うような気がしてきた。
 Emyo 〉違うかな。
 Towa 〉ええ。あなたはもっと私に似ているわ。
 さっきの経緯を聞いて、さらにそう思うようになった。
 あなたは素知らぬふりをしたがるけれど、とても本性を誤魔化しきれていない。私はそんなあなたを好きになった。
 Emyo 〉
 Towa 〉あなたは旅人。小さな渡り鳥。私とおんなじ。
 私はあなたを「燕」(ツバメ)と呼びたい。
 Emyo 〉
 Emyo 〉ああ、違う。
 Tsubame 〉
 Tsubame 〉ありがとう。兎羽。
 Towa 〉どういたしまして。
 Tsubame 〉僕も兎羽が好きだよ。
 宇宙と引き換えにしても構わないぐらい。
 君に会えて幸せだった。幸せ以外の言葉が見つからないのがもどかしい。
 Towa 〉燕、あなたは私に名付けてくれないの?
 Tsubame 〉君は「兎羽」だ。
 何度も何度も心の中でそう呼んでいたから、もう変えることができない。
 不満だろうか?
 Towa 〉いいえ。何となくそう言われる気がしていた。
 私は、兎羽ね。
 Tsubame 〉そう。とても素敵な名前だから。
 君の声が聞きたかった。
 Towa 〉私も、もっとたくさんあなたと喋りたかった。
 Tsubame 〉すまない。
 Towa 〉謝ることないよ。
 Tsubame 〉そろそろ時間が来る。
 Towa 〉そう。
 Tsubame 〉兎羽。最後に、わがままを言ってもいいかい?
 Towa 〉何でも。
 Tsubame 〉どうか僕を忘れないで。
 Towa 〉もちろん。
 Tsubame 〉名前をあげるだなんて、もう二度と、誰にも言わないで。
 Towa 〉言わない。宝物だもの。
 Tsubame 〉燕はいつも君といる。
 Towa 〉大切にするよ。
 Tsubame 〉もう行かなくてはならない。
 Towa 〉さようなら。
 永遠に信じているわ。
 Tsubame 〉さようなら、僕の唯一つ。
 これからも、永久に安らかな日々を。
 …………

 彼がいなくなったのを見届けて、私はログアウトした。
 月は輝きながら静かに街を見下ろしていて、みかんはまんまると物寂しげに私を見守っていた。


 春になると私のアパートの軒先に燕が巣を作る。
 せっせせっせと巣と近くの餌場を頻繁に行き来するその様は、生きているとつい忘れてしまいがちな労働本来の意味をふと思い出させてくれる。
 夜勤明けの平日、私は窓際の日向に座ってぼんやりと過ごしていた。
 箱で買ってきたはずのみかんはとうの昔に尽きてしまっていたから、二番目の好物である温めた梅酒を傍らに置いてのんびりと寛いでいた。
 半日つけっぱなしのラジオからは三十年前の懐かしい歌謡曲が景気よく流れてきていた。
 いつかの冬もそうだったけれど、奇跡というのはこんな何てことのない折にふと舞い降りてくるものだと信じている。
 無論、期待が外れたからといっていちいち肩を落としたりはしない。
 もう大人だし、宇宙の終わりぐらい気長に待てるつもりだ。
 それに些細な奇跡であれば、案外頻繁に起こってもいる。
 昨日仕事先の子供に、「かわいい名前だね」と言われて、とても嬉しかった。

永久に、安らかに

永久に、安らかに

あの頃、私が好きになったのは宇宙人だった。 繊細で澄んだ喋り方をする、遠い銀河からやって来た男の人。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-17

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