*星空文庫

赤の紋章

新澤 りお 作

赤の紋章
  1. 序文
  2. 国土について
  3. 王族について
  4. プロローグ
  5. 第一章 明けない朝
  6. 父親の痕跡
  7. 塩の谷
  8. 薬草畑の夫婦
  9. 火種
  10. 言の葉の一族
  11. 第二章 王妃の幸せ
  12. 五番目の王女
  13. サルトゥスの悲劇
  14. 王女の行方
  15. 第三章 エレナ
  16. 出国禁止令
  17. 事実上、盗賊頭
  18. アルフェンドラ
  19. 自由の船
  20. 第四章 セレスティア
  21. 暴動
  22. 赤の紋章
  23. 『最後の章』
  24. エピローグ

新澤が高校生の頃に思いつき、以来10年かけて完成させた作品です。至らない部分も多くありますが、どうぞ読んでやってください。
※作中、『』で表現されている台詞は、古代語で話されています。
※この作品は自サイトにて重複掲載しています。が、こちらは加筆修正版です。サイトにはないおまけがあるかもしれません。いらないかもしれません。

序文

 「海のむこうにはなにがあるの?」




 
 その国の名は、ベルスの王国。絶海の孤島にある、小さな島国だ。かつては神々の領域にあり、生ある人間の侵入は赦されなかった。あるときまで、生きた人間がその目で神々の土地を目にしたことはなく、また、そこへ足を踏み入れようと航海すれば、死の海流によって遠く流され、近付くことさえ不可能であった 。

 あるときまでは――。

 とある一族の、命をかけた行いに、ファリガーナと呼ばれるその島と近海の守り神が心を動かされ、人間と親交を持つようになるまでは。
 これから語る物語は、ある一族がファリガーナと契約を交わし、人間がベルスの王国を築いてからの物語である。

国土について

 ベルスの王国は、非常に複雑な地形をしている。北方に、消えることのない雪を頂く山脈が聳え立ち、国の中ほどまでを豊かな水源で満たしている。国土のほぼ全土で、四季折々に多くの花が咲き乱れ、豊かな水と安定した気候の恩寵を謳歌していた。その山脈を背にし、小高い丘の上の平野に、王家の住まう、王都カルブンクルスがある。王都は非常に美しく、石造りの堅固な城塞にぐるりと囲まれている。人々はその壁を、スペレッシオ――『守りの壁』と呼んだ。王家はかつて行われた戦の惨劇を忘れることはなく、万が一再びこの国が他国から攻め入れられるようなことがあれば、民をこの城塞の中へ呼び込み、剣を合わせることなく、平和裏に和平を打ち立てようと願われ、作られたものであった。
 スペレッシオの外は、標高は少し下がり、肥沃な土地が広く広くどこまでも広がっており、農工民や商人が自由に住み、行き交い、また唯一の港から外国との貿易も盛んに行われていた。 ベルスの民は、王族に非常な敬意を払い、季節を問わず、多くの農作物や細工物を献上した。また、王族もそれに応え、平民には自由と、ベルス騎士団による安全な生活を与え、非常に豊かで、かつ平和な王国を築き上げていた。 港の外れから、肥沃な大地から痩せた土壌に変わる土地の周辺にも、島を横切る巨大な城壁がぐるりとめぐらされていた。これをオプタリエ――『願いの壁』と呼ぶ。王家はかつて行われた戦の惨劇を忘れることなく、もし再び戦が起きたとき、民を苦しめ、悲しませることのないよう、願われて作られたものであった。また、ベルス騎士団も、万が一の時に備え、日々鍛錬を積んでいる。
  
 オプタリエの外は、乾いた大地、岩山、砂丘、深く生い茂る原生林など、いまだ人の住むことのできる環境ではない土地が広がっている。 島の南端から西には断崖絶壁の岩山が続き、港以外から国内に侵入することは不可能だ。そしてオプタリエの外の僅かに残された人の住める土地には、罪人や盗賊など、国を追われたものたちが棲み付き、騎士団の統制も利かぬ、無法地帯と化していた。彼らはオプタリエに侵入し、略奪を繰り返すものもあれば、何とか城壁内に住む者と繋がりを持ち、内密に働かせてもらうか、物乞いをする生活を送っていた。ただ、彼らも、城壁から遠く離れることはできなかった。それほどまでに、オプタリエの城壁の外の環境は、人間にとって厳しいものであったのだ。その代わり、人間に荒らされることのない、豊かな自然が広がっている。
 それを目にしたものは少ないが、国土の全てを見渡したものは、みな同じことを口にした。

 「この国は楽園だ」

 と――。

王族について

 ベルスの王国は、国王を国の第一位の統治者とし、その家族を王家と呼ぶ。国王と王家は、国の繁栄と民の幸福のみを一心に祈り、平和の象徴として崇められていた。また、執政官の立案した案に采配を振るのも、国王の役目である。
 国王は、王冠は被らず、大きな赤い花を模った首飾りを首から提げている。その赤いリエンゼルの花が、王家の紋章であった。リエンゼルは本来純白の花で、世界中で死者に手向けられる花である。赤いリエンゼルはこの世に存在しない。 国王の首飾りの大きさは手の平ほどで、円い石を刻んで作られていた。いつ、誰が、どうやって作ったものなのか、なぜ赤いのか、知る者はあまりに少ない。 石は金色(こがね)の太い鎖に繋がれ、そこへ手の平ほどの大きさの石がついているのだから、さぞ重かろうと思われるが、正統な王位継承者が身につけると、羽根のごとく軽く、手に持ったときにだけその重みを感じるのだという。
 国王を祈りの象徴とし、実際に政を司るのが執政官である。かつては二つの一族が執政官として仕えていた。騎士団を強化し、統治する護民官一族と、各王族、貴族の紋章を管理し、また歴史を綴り、書を司る、紋章官一族がいた。 しかし、後に二つの執政家に亀裂が入り、現在では護民官一族だけで執政権を握っている。
 他に五家門の特別な地位を与えられた王族がおり、各地を治めたり、国王や執政官の命令により、外国からの賓客をもてなすなどの仕事をする。
 次に、五王族ほど権力を持たないが、王族から分家が多く別れ、貴族と呼ばれ、一族ぐるみで王族に仕えたりするものもあった。
  
 以上、王家、執政家、五王族、貴族がそれぞれの役割を果たし、国を治めている。 尚、執政官一族も、呼称の上で王族と呼ばれる。

プロローグ

 オプタリエの外の寂れた町、トリストティリス。かつて、数百年前にはラウレントゥマスと呼ばれていたが、今では廃れ果て、人気(ひとけ)のなくなった、崩れたレンガばかりが並ぶ、オプタリエの外の小さな集落だ。何とか形を残したアーチ型の橋の下を流れる水も、薄茶色に濁っている。
 夕刻時、かつての大通りであったのだろう、広い小路で、小さな男の子が二人、棒切れをかざしてチャンバラ遊びに興じていた。
 「いくぞ!この悪党め!」
 悪党役の子に思い切り振りかぶって掛かっていったが、悪党役の子どもは楽しそうに笑いながら彼の剣――、木の枝を、似たような棒切れで弾き飛ばした。
 「もう!ジェフ!」
 「何だよ、ルドア」
 「たまにはてかげんしろよ!」
 「手加減なしだといったのはお前だろ!」
 「おれがてかげんしねえぞって言ったんだ!お前はてかげんしろよ、年上だろ?」
 いつもは子ども扱いするなと騒ぐくせに・・・。ジェフは笑いながらルドアの棒切れを拾ってやった。
 「もう一回だ!この悪党!」
 ルドアがもう一度棒切れを構えようとすると、頭の上から大人の男の声がした。
 「そこまでだ、ルドア、ジェフ」
 「父ちゃん」
 ルドアの顔が輝いた。
 「二人とも、騎士団には手加減なんてもん、ハナからねえからな。ジェフ、腕を上げたな」
 「ありがとうございます」
 ルドアの父親は、元は騎士団にいた人間だった。ジェフは嬉しそうに礼を述べた。
 「ジェフ、お前どこでそんな堅っ苦しい言葉覚えてくるんだ?もっとコイツみたいにガキのままでいいんだぞ」
 ルドアの父は息子をひょいと肩車しながら言った。
 「子ども扱いするなよ」
 「ほら出た」
 ルドアが不服そうな顔をすると、ジェフはニヤリと笑った。
 「そうそう、それでいいんだ」
 ルドアを肩車した父親の鎖骨辺りに、焼印の痕が見えた。罪人の焼印だ。民は罪を犯すと、鎖骨の辺りに『罪人の証』と呼ばれる烙印を押される。そして罪を償うと、再び『贖罪の証』と呼ばれる烙印を押され、『罪の証』は消え、釈放される。ルドアの父の鎖骨の火傷の痕も、罪人の印と贖罪の印が織り交った文様になっていた。ベルスの王国の牢獄は非常に堅固で、これを破るのはほぼ不可能とされている。
 ルドアの父が何の罪で捕まったのかは、二人とも知らなかったし、聞こうともしなかった。子ども好きの、優しく力強い父親であった。それだけで、子らは十分に安心できる。
 「ルドア、母さんが夕飯を作って待ってる。帰るぞ。ジェフも食べていくか?」
 「僕はじいさんがいるので」
 「そうか。それじゃあまたな・・・と、一人で帰れるか?」
 「子ども扱いしないでください!」
 ルドアの父はハハハと笑い、それでいいと言った。
 「それじゃあまたな」
 ジェフの頭をくしゃっと撫で、ルドア親子が肩車をして家路につくのを、ジェフは立ったまま、じっと見つめていた。それから思い出したようにジェフも家路に着いたが、その途中、急な雨に見舞われた。今は天気の変わりやすい気候だ。雨宿りをしようと手近な廃墟に忍び込んだが、入ってからぎくりととした。 ジェフが我知らずと立ち寄ったのは、立ち入り禁止とされている最古の教会だった。祭壇には見たことのない文様が彫り込まれていた。それはまるで、侵入者を威嚇でもするような――。
 この周辺が廃れてオプタリエの外に出されてしまった理由の一つには、この辺りが地震の多い地域であったことも含まれている。そしてこの教会は、度重なる地震で今にも崩れ落ちそうになっている。
 ――かのように見えた。
 ジェフは今、実際中に入って、外から見るほど崩れてはいないと思った。そしてふと、キラッと何か金色の光が目に飛び込んできて、不意に天井を見上げた。建物は残っていても、やはり半球状の天井に描かれた天井画はほとんどが崩れ落ち、神の擬人と思われる人物が、赤ん坊を抱いた女性に何かを手渡している様子だけが、はっきりと残っていた。その天井画の金色の絵の具が夕日に反射し、ジェフの目に入ったのだった。外を見ると、雨が降っているものの西日が輝き、それが反射したのだろう。
 その絵はなぜか深くジェフの心に入り込んだ。じっと天井を見つめていると、頭上でバサバサッと羽音がし、白い鳩が数羽、外へと飛び去って行った。早く帰れという印かと思い、東の空に虹が掛かる中を、無駄な抵抗と知りつつも、ジェフは頭を雨からかばいながら、今度こそ家路へと着いたのだった。
 びしょ濡れになって勢いよく家の扉を開けると、安楽椅子に座った祖父と、腰から長い剣を下げた背の高い男が一人、立っているのが目に飛び込んできた。祖父が何か言う前に、ジェフは咄嗟に、手近にあった火掻き棒を引っ掴んだ。
 「誰だ!」
 ジェフは、誰だか知らない男に向かって叫んだ。この町は、無法者の町。寝所の奪い合いでの小競り合いなどしょっちゅうだ。何があっても、いつ誰が何をしにやってきてもまったくおかしくないのだ。ジェフは本能的に、祖父と自身の身を守る為、こんな大人に勝てるはずがないなどと考える間もなく武器を手にした。
 「ジェフ、それを置け。こいつは安全じゃ 」
 祖父がようやく口を開いたが、ジェフは男を睨んだまま動こうとしなかった。すると、男の方からジェフに向き直り、胸に手を当てて礼をした。状況が飲み込めないジェフは、そのまま立ち尽くしていた。
 「これがラクテウスの息子、アクウィラスじゃ」
 そんな孫を尻目に、祖父は男に孫を紹介した。しかも、じいさんは今、何と言った?
 ――おれの名前はジェフリーだ。父親の名前はカルロスじゃないのか? まずい。じいさんもそんな年になったのだろうか。ジェフは祖父を心配している間も、火掻き棒を持ったまま突っ立っていた
 「ウェルバ一族にお仕えしております、ガルシアと申します」
 ガルシアと名乗った男は、もう一度ジェフに頭を下げた。
 「ジェフ、いい加減下ろさんか」
 ジェフにはちんぷんかんぷんだった。ただ、祖父に言われたとおり、とりあえず火掻き棒を壁に立てかけた。
 「さて、どこまで話したかの?」
 祖父はガルシアに向き直った。
 「フリーギダで作物が・・・」
 二人はひとしきり、ジェフを放って話の続きを続けた。ジェフもその場に突っ立ったまま聞いていたが、祖父がこんなに深刻な顔をしながら話すのも、そもそも知らない人間を家に招くなどありえないことだし、何の話をしているのかさえさっぱりわからなかった。ただ、自分が空気のように放置されていることだけはわかった。
 「・・・さて」
 話が済んだのか、祖父が改めてジェフを見た。
 「お前も今日で七つになる」
 そうだ、今日はおれの誕生日だ。ジェフは突然思い出した。
 「ガルシアもここへ来てくれたし、お前に話したいことがある」
 そうしてくれ。
 ジェフは先程から、自分が知らない家に転がり込んだのではないかと心配になり始めたところであった。
 「こいつは、誰なんだ?」
 ジェフは尋ねた。
 「今本人が言ったとおり、ガルシアじゃ。代々、我がウェルバ一族に仕えているガルシア一族の末裔じゃ」
 「ウェルバ・・・?」
 もっとわかるように話してくれ!ジェフは幼心にもどかしさと憤りというものを感じていた。
 「お前には、今日から、我が一族として生きるか、違う道を生きるか選択してもらうことになる」
 ・・・じいさん、おれ、まだ七つなんだけど・・・これからの生き方って・・・。
 突然の通告に、ジェフは気が遠くなる思いがした。というより、今までお気楽に見えていたじいさんは一体何だったんだ。今、真剣な顔で話しているこのじいさんは誰なんだ。
 「ジェフ、お前にはまだ話していなかったことが山ほどある」
 そうだろう。この様子では、山ほどでは済まなそうだ。
 「先にこれだけ言っておく。まだ七つの子どもにこんな話をするのは酷じゃろうと思うておる。しかし、七つになるその日、一族の仲間入りをするかどうかを決めるのが、代々の慣わしなのじゃ。お前がその慣わしすら拒むようであれば、今まで聞いたことは全て忘れろ。話はここで終いじゃ」
 「じいさんも七つで?父さんも?」
 「そうじゃ。皆、七つでこの選択をしてきた」
 「・・・なら、聞くよ」
 ジェフはまだちんぷんかんぷんのまま、心もとなげに頷いた。ガルシアは気配を消すように、ひっそりと佇んでいた。
 「よし。では始めるぞ。・・・我らには、我らの一族にはある秘密がある。我らはウェルバ一族、数百年前に滅んだとされる紋章官一族の末裔じゃ」
 「もんしょうかん・・・?」
 「我らは、元々は王族なのじゃ。この国の王族は、神から与えられた恩寵を背負っている。不老長寿と常人には敵わぬ身体能力。知っているか。儂の齢を」
 そういえば、聞いたことがない。
 「知らない・・・」
 「二百三十だ」
 「二百三十?」
 ジェフは度肝を抜かれた。普通の人間の寿命は七十歳から八十歳だと思っていた。しかも、祖父はそんなに年を取っている風には見えない。ただ髪と髭は白くなっており、それだけが、辛うじて老人であることを示していた。
 「それと、お前の頭脳だ」
 「頭脳?」
 「七つでこの国の読み書きが完璧にできる子など王族の他にない。特に我らはウェルバ一族だ。特別に明晰な頭脳を、代々受け継いでいる」
 そうなんだ・・・。
 ジェフは、ルドアに何回読み書きを教えても、かの少年が全くジェフの教えを吸収しないことを一度や二度ならず、心底不思議に思っていた。
 「しかし、それらの恩寵と共に、果たすべく使命もある。お前はこの先、ウェルバ一族として生きるか、あるいは常人と同じ人生を歩むか、今ここで決めねばならん」
 「どういう意味・・・?」
 「ジェフ、決めるのじゃ。我が一族の秘密を背負い、ウェルバとして生きるか、常人として生きるか」
 「・・・常人として生きると言ったら、おれはどうなるの?」
 「どうにもならん。儂が生きている限りこの家で過ごし、その後はお前の自由だ。何もお前を縛るものはない。しかし、父とは二度と会えない」
 「父さんは生きてるの?」
 ジェフは驚いて大きな声を上げた。
 「三月ほど前まで、カルロスと一緒におりました」
 ガルシアが微笑んだ。
 「ウェルバとして生きると言ったら・・・?」
 ジェフは恐々と尋ねた。
 「その命に代えて、この国を守りぬく使命がある」
 「父さんも、ウェルバとして・・・?生きる為におれを置いていったの?」
 「・・・そうじゃ」
 ジェフは幼心に理解した。何となく分かっていた。自分が他の子どもたちとどこか違うことが。知りたい。自分は何者なのか。
 「わかった」ジェフは慎重に言った。「おれ・・・秘密を聞きたい」
 「ならば、よいのだな?この国の責を負うことになっても」
 「うん」
 まだ七つの自分にそんなことができるわけがないと思っていた。それでも、ジェフは父親に会いたかった。ルドアがいつも父親に肩車されて帰っていくのが、たまらなくうらやましかった。どんなに読み書きができて、多少難しい会話ができても、子どもらしさのない自分を不思議に思っていた。ずっと長い間、死んだものと思い込んでいた父親に会いたい、そう思う心だけが、ジェフに残った子どもらしさだった。
 「おれがウェルバとして生きることを選べば、父さんに会えるんでしょ?」
 祖父とガルシアは顔を見合わせた。
 「それは約束できん」
 祖父は残念そうに言った。
 「というのも、カルロスもこの責を負い、流浪の身になっている今、あいつと行き会うのは至難の業じゃ。可能性がないとは言わんが・・・」
 「なら、おれも父さんと同じ道を行くよ」
 ジェフはしっかりと頷いて見せた。
 「・・・よろしい」
 しばらくジェフを眺めていた祖父だったが、やがて口を開いた。
 「この国の秘密をお前に話そう。これらは、伝説やおとぎ話でなく、事実だ」
 
 全ての話を聞き終えたジェフは、我知らず膝が震えるのを感じていた。
 「すべては古文書に記されておる」
 祖父はゆっくりと立ち上がると、暖炉の奥の隙間から古びた本を取り出した。ジェフの心臓がどくんと高鳴った。
 「まさか、これが・・・?」
 「さあ、アクウィラス」
 祖父はジェフに古文書を手渡した。
 「何年かかってもよい。これを読み解くのはお前自身じゃ。その目でこの国の歴史を追い、この国を守る為何ができるか、一生その責を負うのだ」
 「これからは身を守る為、剣術も必要になります」ガルシアが進み出た。「私がしばらくここに滞在させていただくことになりました。その間に稽古を付けさせていただきます」
 「剣――」
 子ども同士のチャンバラしかしたことのないジェフにとって、まさか自分が本当に剣術を習う日が来ようとは思わなかった。
 「よいか、ウェルバの名を名乗れば命はないと思え。今でも紋章官一族は逆賊として殲滅の命が出ておる。古文書と古代語の扱いにも気をつけるのだぞ」
 ジェフはずっしりと重い古文書を開いてみた。しかしそこには、見たこともないような文字がびっしりと並んでいた。それは、先ほどの教会の祭壇に刻まれた文様と同じものであった。
 「・・・読めない。何語だ?これ」
 「今話したじゃろう、古代語だ」
 祖父はこともなげに言った。
 「どうしたら――」
 「私が生きている間は手伝ってもよい。しかし、それを読み解くのはお前自身だ」
 ジェフは再び古文書に目を落とした。 これを読みきれるのは一体いつになるのだろう。見知らぬ文字の海は、本物の深い深海を見つめているようでもあった。

第一章 明けない朝

 三十年後――。
 「長官!レヴィナス長官!」
 王都の騎士団本部の兵舎で、若い騎士が一人、部屋から部屋へ回って長官を探していた。
 「長官!」
 食堂を覗いたが、探している姿はどこにもない。
 「またジェフか、クレスト」
 酒を飲んでいた非番の騎士が、苦笑を浮かべて振り返った。
 「ここにはいねえぜ」
 「今度は何やらかしたんだ?ジェフの奴」
 一緒にいた仲間たちも笑いながら尋ねた 。
 「いつものことさ」
 クレストは食堂の隅々まで一応眺め回しながら答えた。
 「ジェフの縦横無尽ぶりにはときどき肝を冷やすが、あんなにいい上官は他にいねえぜ?」
 「ジェフが執政官に盾突いてんの見てると、なんか溜飲が下がるよなぁ」
 「しっ、聞かれたらどうするのさ」
 クレストは慌てて遮ったが、仲間たちは杯を挙げた。
 「我らの長官に!」

 ここまで探していないとなると、あとは――。
 クレストは厩にやって来た。
 「長官」
 くたびれきった声で呼びかけると、ジェフは馬の世話をしながら、振り向きもせずに「何だ」と言った。
 「コルニクス執政官が」
 「お呼びか」
 ジェフはニヤッと笑って、ようやく振り向いた。
 「放っとけ」
 「放っとけって、私が危ないじゃないですか!」
 「冗談だ」
 藁を束ねながら、ジェフは静かな声で尋ねた。
 「なあ、俺の言ってることは間違ってるのか?」
 「・・・・・・」
 クレストは返す言葉を失った。
 「国で飢饉があったとき、物資を届けるのは誰の役割だ?」
 「・・・我々です」
 「フリーギダで飢饉で喘いでいる今、俺たちはどこにいる?何をしている?」
 「・・・・・・」
 「なぜ俺たちは動けないんだ?動かしてもらえないんだ?」
 「それは――」
 「俺たちの存在意義が分からなくなるときがある」
 ジェフはため息をついた。
 「我々は、王族をお守りする為に――」
 「民の痛みも分からずに何が王族だ!」
 ジェフが突然大きな声を出したので、馬が驚いて嘶いた。ジェフは馬の首をさすってやりながら「すまない」と言った。
 「お前に当たっても仕方ないよな」
 「長官のお気持ちはわかります。ですが、あなたにもお立場というものがおありでしょう」
 「民が救われるなら俺の首くらい安いもんだろ」
 「そういうわけには参りません。我々は皆あなたを慕っています。こんなに素晴らしい上官は他にいないと皆言っています」
 「おだてても何も出ないぞ」
 ジェフは肩をすくめた。
 「冗談ではありません。我々にはあなたが必要なのです」
 クレストの真剣な表情に、ジェフはやがて息をついた。
 「お前、生まれはどこだ?」
 「は・・・ウィンザの西・・・ですが」
 急な問いに、クレストは戸惑いながら答えた。
 「お前はなんか懐かしい感じがするよ。何でだろうな」
 ジェフはよっこらしょと水桶を片付けた。
 「今度ウィンザの話を聞かせてくれ」
 ジェフはひらひらと手を振りながら厩を出て行った。
 取り残されたクレストは、
 「わからない方だ・・・」
 と、ジェフの馬によろりと寄りかかった。

 厩を出たジェフは、この世で最も嫌いな場所へ向かった。コルニクス執政官の執務室だ。嫌々扉の前までやって来ると、嫌々ため息をついて、嫌々扉をノックした。
 「レヴィナスです」
 「入れ」
 ジェフはもう一度ため息をついて、嫌々扉を開けた。
 「お呼びでしょうか」
 冷たい灰色の目をした執政官が一人、執務室の机に座っていた。
 「座れ」
 コルニクスは革張りの長椅子を顎で差したが、ジェフは拒否した。
 「いえ、ここで」
 「では単刀直入に訊くが、昼間のあれは何だ?王に対しあのような発言をするなど」
 「王の行いが禍を招いているのは確かではありませんか?」
 「王のどの行いだというのだ」
 「民が飢饉に喘いでいるときに豪遊三昧――。あれでは民に示しがつかぬではありませんか」
 「その話ならば昼間に聞いた」
 「ならば私は王に諫言したまでです」
 「王に諫言など!」
 コルニクスは大声を出した。
 「お前のどこにそのような権利があるというのだ?」
 「民を思い、統治するのが王の務めではありませんか」
 「お前のような青二才に王の務めの何が分かる!この国の平穏の為の祈りならば毎朝の祈請(きせい)の儀で一心に祈っておられる!お前も毎朝同席しておろう!」
 コルニクスは立ち上がった。
 「お前はこの国の伝承を知らんのか。王家と我らコルニクス一族が民の為血を流したお陰で今の国があるのだぞ。王族に生かしていただいているお前に何を言う権利がある!」
 そしてコルニクスは突然、話を切り替えた。
 「ウェルバ一族を知っているか」
 「騎士団にいるならば、誰もが知っている一族です」
 ジェフは一瞬たじろいだが、何とか表情を崩さずに答えた。
 「ならばわかっておろう。数百年前に滅んだ一族だ。お前と同じような思想を持っていた。王を侮辱し王権をその手に納めようとした逆賊だ」
 コルニクスはジェフの周りを歩き回り、その表情を窺いながらゆっくりと話した。
 「お前もあまり陛下に無礼を働き続けると、逆賊の嫌疑をかけられるぞ」
 「私は逆賊ではありません」
 古文書を受け継いだあの日、祖父は言った。

 「名を名乗れば命はないと思え」

 と。
 この男の一族がウェルバ一族を陥れたのだ――。今尚ウェルバ一族が殲滅の命にあるというのは本当のようだ。
 「私には関係のない話です。それでお話が終わりでしたら私はこれで失礼します」
 ジェフはコルニクスを振り切り、一礼して部屋を出て行った。

 ジェフは自室に戻ると、力の限りに机に拳を振り下ろした。
 ――何が「王に救われた」だふざけるな!今生かしてやっているのはどっちだと思ってんだ!
 国王へはもとより、現在政権を握っているコルニクスにも腹は立つが、それと同時に何もできない無力な自分にも嫌気が差す。
 ――どうしたらいい。どうしたら救える――。
 何度も机を殴りつけているうちに、骨ばった彼の手から血が滲み出した。怒りと憎しみに加え、混乱もしていた。以前、コルニクスを尾行しているときに聞きつけたことがある。

 「五番目の王女が生まれる日は近い」

 と。その言葉は、ジェフが七つになったあの日、祖父から託された古文書に記されていた内容だった。
 ――他にも伝承を記した古文書があるのか?それとも、あいつは別なところで伝承を知って、尾行されていることも知りながら俺を謀ろうとしただけか・・・?
 「くそ・・・」

 真夜中。
 「コルニクス様」
 執政官の私邸の一室。豪奢な内装の部屋には、数本の蝋燭が灯っているだけだった。その部屋の主であるコルニクスの元を、黒い外套に身を包んだ数人の男たちが訪れていた。
 「レヴィナスの嫌疑は如何に・・・?」
 一人の男が、鋭い刃をした短刀の切先を撫でながら言った。 コルニクスは毛皮のかかった、ゆったりとした大きな寝椅子に身を沈め、テーブルに置かれた蜀台の炎をじっと見つめていた。
 「・・・わからぬ。だが、あの男の思想は限りなくウェルバに近い」
 「では、やはりレヴィナスはウェルバの生き残りだとお考えですか?」
 「確証は無いが。だが、殺れ」
 コルニクスは立ち上がって懐から鍵を取り出し、一人の男に渡した。
 「奴がウェルバであろうとなかろうと目障りだ。邪魔な芽は早いうちに摘むのがよい。根絶やしにな」
 コルニクスは額に深い皺を寄せ、不愉快な記憶でも思い出したときのように、不快な表情をしていた。鍵を受け取った男は、無言で頭を下げた。
 「忘れるな、相手はレヴィナスだ。決して気取られず、確実に殺れ。誰にも気付かれるな。血痕も残すな。あくまで奴自身による出奔とするのだ」
 「御意」
 「死体は重石をつけて崖へ棄てろ。そして何としても古文書を探し出せ」
 「仰せのままに」
 男達は揃って頭を下げ、するすると音も立てずに部屋を出て行った。

 午前二時。ジェフは、先程殴り続けていた机で調べ物をしていた。あの日祖父から受け継いだ古文書は、もう隅から隅まで読み尽くした。ただ、最後の章はいまだに解読できずにいた。読めないというより、どちらかというと一部のページが切り取られているようにも見えた。どちらにしろ祖父の話では、その章を読み解いた者は未だかつていないということだった。
 しかし、今はそれを調べているときではない。もしかしたらこの中に、もう一冊の古文書について、何か暗号のようになって書かれているのではないかと思ったのだ。もちろん、そんなものが本当に存在するのならの話だが。落ち着きを取り戻したジェフは、コルニクスは大方、聖堂に残された数少ない資料を読み解いたのだろうと推測した。現在では使われなくなった言語だが、執政家の現在の宗主、コルニクスが聖堂の者と共に古代語を学んでいても何ら不思議はない。
 じっと書面を見つめていたそのとき、風もないのに蝋燭の火が微かに揺れた。動きを止めて耳をそばだてると、廊下から僅かに衣擦れの音が聞こえ、ジェフは本能的に身の危険を感じた。何しろ、コルニクスにあんな質問をされた昨日の今日だ。音も無く立ち上がって蝋燭を消し、寝台に適当な枕や外套を詰め込んで、自分は物陰に隠れた。こんなもので相手を騙すことができるだろうかと、自分でも訝ったが、月も無い、新月の暗い夜だった。僅かな間、目を眩ますことはできるだろう。
息を潜めて気配を殺し、じっとしていると、やがて、カチリと小さな音がして鍵が開き、ゆっくりと扉が開いた。予感が的中したようだ。ジェフはそっと剣を握り締めた。
フードを目深に被り、顔を隠した三人の男がゆっくりと近付いてくる。三人の動きをじっと見ていたジェフは、一瞬眉根を寄せた。
 ――ロクスタ――。
 部屋に入ってきた男の一人は、以前ジェフと同じ部隊にいた同僚だった。フードを被っていようと、五年間もの間四六時中同じ場所にいたのだから、顔は見えずとも気配だけでもわかるようになる。
 ――裏切られていたか・・・。
 ジェフと近しかったが為、コルニクスの息がかかったのだろう。ロクスタが、物陰に隠れたジェフには気付かず、彼の前を素通りして、他の二人と寝台を囲うように立ち止まった。全員がジェフに背を向けた瞬間、血が散った。

 「・・・用意周到なこって」
 ジェフは、返り血を浴びた顔を袖で拭いながら、一人の男が腰紐に手挟んでいた黒い布を見つけてため息をついた。暗殺のつもりだったのだろう。ジェフも声は出さなかったが、彼らも騒ごうとはしなかった。一人目は、騒ぐ暇もなかったかもしれないが。 しかし、さすがに物音は近くの部屋や階下に聞こえたかもしれない。何より、コルニクスに正体がばれてしまったようだ。もうここにはいられない。ジェフは手早く必要なものをズタ袋に放り込むと、誰にも気付かれぬよう兵舎を抜け出し、夕方世話をしていた馬に飛び乗った。
 城や兵舎から、松明を持った衛兵たちがすぐに飛び出してきて追跡犬まで放ったが、彼と馬はもう手の届かないところにいた。城門の抜け道を破り、城が見えなくなる頃、ジェフはちらりと後ろを振り向いた。夕方のクレストの言葉がちらりと頭をよぎった。

 「我々にはあなたが必要なのです」

 ――俺はウィンザのことを聞かせてくれとも言ったな・・・。
 ジェフはまた前を向いて呟いた。
 「悪いな・・・」

父親の痕跡

 それから一ヶ月後――。
 首都カルブンクルスの遥か南、サルトゥス地方の農村部。ここは畑や果樹園が多く、土地はよく耕されているが、日照り続きで葉は萎れ、花も枯れていた。閑散とした通りの外れにある民家から女性の悲痛な泣き声が聞こえてきて、ジェフは足を止めた。
 「お願い・・・お願いよ・・・お水を・・お水を飲んでちょうだい・・・」
 戸口の窓からそっと中を覗いてみると、女性が一人、小さな子どもを抱いて泣いていた。
 「お願い・・・目を開けて・・・・・・。息を・・・してちょうだい・・・!」
 泣き崩れる女性に声をかけることもできず、ジェフは目を伏せて立ち去ろうとした。しかし、
 「おい」
 後ろから男に呼び止められ、ジェフはゆっくりと振り向いた。
 「この辺の者じゃないな。うちに何か用か?」
 男は痩せていて、着ているものもぼろぼろだったが、手には蜂蜜の入った小さな瓶を持っていた。
 「・・・いや・・・。女性の泣き声が聞こえて・・・」
 その言葉に、男は血相を変えて家に飛び込んだ。
 「あ・・・あ・・・」
 女性が泣きながら腕に抱いた小さな亡骸を見て、彼は愕然として妻の横に座り込んだ。ジェフはもう一度頭を下げると、森の奥へと向かった。 そこには、以前ジェフの父親が住んでいた小屋があった。ジェフが家を出てから、二十年以上かけて父親の消息を追い、やっと会えたのがこの村だった。やるせない思いで、ジェフは埃の積もった小屋を見渡した。もう何年も誰も住んでいなかった。父親のカルロスは、ジェフがようやく彼を見つけ、再会した翌年に、その頃にいた村の疫病にかかってこの世を去った。
 この小屋は、ラクテウスが四十代の頃に使っていた、数少ない紋章官一族の隠れ家の一つだそうだ。ラクテウスはジェフをここへ連れてきて、何かあったときにはここへ身を隠せと、そう言っていた。ジェフが父親と過ごしたのはたったの一日だけだった。ラクテウスがこの世を去ったとき、彼はまだ五十歳だった。あれからまだ数年しか経っていない。一族の寿命から見ても、彼の死はあまりに早すぎた。

 この村で隠遁生活を始めてから数週間が経った頃、夕方に村の商店で少々の買い物をした後、元来た道を戻ろうとしていた。通りを出ようと角を曲がったとき、深緑色の外套がちらりと視界の端に入った。つけられているようだ。城塞内にいた頃でさえ、常に周りを警戒していた。ウェルバの末裔であると知られたら殺される。そう教えられて生きてきたし、現にあの夜それが証明された。ここに彼の素性を知る人物がいるとは思えなかったが、何があってもおかしくない。
ジェフは小屋に戻る道を逸れ、森へと入って行った。買ったものは懐へしまい、いつも持ち歩いている短刀をそっと取り出した。急に脇道に逸れて姿をくらますと、後ろから慌てたような足音が聞こえた。
 ――ああ、やっぱり一般人だ。
 騎士団にいれば、追跡術くらいは誰でも身につけるものだった。ジェフは木陰に隠れ、タイミングを計った。そして、相手がきょろきょろと周りを見回しながらやって来た瞬間、緑の外套の襟元を掴んで木に打ちつけた。
 「うゎっ!」
 かなり若い、赤毛の男だった。一般人であれば、いきなりつけていた人間が現れ、その上短刀を首筋に突きつけられたら、驚かない方がおかしい。その男も例外ではなく、口をパクパクして自分を睨んでいる男を見上げた。
 「何の用だ」
 ジェフは低い声で訊いた。
 「べ、べつに、ちょっと話があっただけで――」
 男は冷や汗をかいてあわあわしながら言った。
 「ちょっと話すくらいなら、なぜ声をかけなかった?なぜ尾行するような真似をした?」
 「悪かった。悪かったよ――。ただ、だって、あんたちょっと怖かったから、声かけられなかっ――」
 「仲間はどこだ?」
 「仲間?」
 男は素っ頓狂な声を上げた。
 「仲間って、何の仲間だ?粉挽きの組合仲間か?」
 ああ、これは嘘ではない――。男が浮かべた恐怖の表情を見て、ジェフは確信した。掴んでいた襟元を放すと、男はホッとしたようにぜえぜえと息をして、怯えたようにジェフから数歩離れた。
 「悪かった。何の用だ?」
 「あんた、カルロスって男を知らないか?」
 ためらいがちに問われたその言葉に、ジェフは目を見開いた。
 「・・・お前、誰だ?」
 カルロスとはジェフの父親、ラクテウスが身を隠す為に使った名だ。息子であるジェフにも、もう一つ名前があるように。
 「俺はチャドだ。何年も前に、カルロスに助けてもらったことがある」
 「・・・どうして俺がその男を知ってると思ったんだ?」
 「いや・・・、何となく、似てる気がしたから・・・」
 チャドという男があまりにも怯えた様子で話すので、ジェフは思わず吹き出した。チャドはその表情のあまりの変わりように、驚いてぽかんとした。
 「・・・え、何?」
 「いや、なんでもない。ああ、俺はカルロスを知ってる」
 ジェフは笑いながら短刀を腰の鞘に納めた。
 「本当に?」
 「ああ。カルロスは俺の父親だ」

 「本当にそんなことを訊く為にわざわざ俺をつけてきたのか?」
 ジェフの小屋で、彼はお茶を淹れながら笑った。お茶と言っても、野草を干して炒っただけのものだが。
 「だって、あんた怖いんだよ・・・見てくれとか、いろいろ」
 「怖そうな奴の後をつけるほうが勇気がいると思うんだが」
 ジェフはいたって素朴な疑問を口にしながら、湯気の立つマグをチャドに渡した。
 「つけてたって言うと人聞きが悪いな。声をかけたくてもかけられなくて、まごまごしてるうちにあの有り様になっただけだよ」
チャドはブツブツ言いながらマグを受け取り、けどやっぱり想像以上に怖かったけど、と付け加えた。
 「悪いな。用心深くてね」
 「ああ、その辺もカルロスによく似てるよ」
 チャドは皮肉るように笑った。
 彼は元行商人で、機会があれば様々なところで詐欺を働いていた。そして昔、この村にやって来たときに一番初めにカルロスに詐欺を働きかけた。が、ことごとくばれた上に、一晩中長々と説教をされたらしい。しかしその後、三日間何も食べていなかったと判明したチャドに、カルロスは寝食を与えたとのことだ。それからというもの、チャドは詐欺をやめて、この村で農耕を始めたと言った。カルロスは死んだと聞くと、彼はがっくりと落胆したため、ジェフはチャドを小屋まで連れて来た。
 「ところでお前、親父に何言って騙そうとしたんだ?」
 ジェフは興味本位で訊いてみた。
 「ああ、よくあるやつだ。ほら、この国の王族のおとぎ話でさ、何でも願いが叶う石ってのがあるじゃないか。あれと同じ魔法を封じ込めた石だって言ったんだよ」
 「・・・それって、引っかかる奴いるのか?」
 呆れたような反面、ジェフはそのあまりに幼稚な大胆さに驚いて訊いた。
 「ああ、たまにね。昔は、今みたいじゃなかったから、それが嘘だとわかってても、こっちの事情を察してくれて、買ってくれた人もいたよ。俺もほんとガキだったし」
 チャドはクスクスと笑った。
 「・・・そうか。だが残念だったな。親父はそういう方面の知識には強かったんだ」
 なにせあの古文書を暗記していたらしいと聞くからな――。本当かどうか知らないが。
 それにしても。と、ジェフはチャドを眺めた。こいつも何だか能天気に見えるが、さっきから話を聞いていると、言葉の端々がどこか物悲しく感じる。このご時世、辛い経験をしてきた人間はごまんといるだろうが、彼もまたその一人なのかもしれない。
 「だけど、本当にカルロスと一緒じゃなかったのか?」
 チャドがお茶をすすりながら言った。
 「ああ。父親とは二歳のときに生き別れた。俺は十五まで祖父に育てられた」
 「その後は?どうしてたんだ?」
 ジェフはため息をつき、チャドから目を逸らして答えた。
 「・・・騎士団に志願した」
 「騎士団に?あんた騎士団にいたのか?」
 チャドの声が急に険しくなった。
 「ああ・・・。一月(ひとつき)前まで長官だった」
 それを聞くと、チャドは驚いて目を丸くした。
 「長官ってあんた、そんな地位にいたのに、何でこんなとこにいるんだ?」
 「いろいろあってね」
 ジェフは肩をすくめてごまかした。
さすがに、初対面の人間に、暗殺されかけただの、自分の一族は名を名乗れば殺されますとは言えない。チャドはしばらくジェフを眺めていたが、おかしそうに笑った。
 「何だ?」
 「ほんとによく似てるよ」
 「何が?」
 「カルロスも、よくわからないやつだった。この村を出て行こうとしていたときも、なぜ出て行くのか、なぜ何十年も放浪しているのか、何度聞いても答えなかったらしいよ」
 ジェフはひょいと眉を上げただけで、何も言わなかった。
 「なあジェフ。あんた、このままここにいるのか?」
 「さあ、どうかな。しばらくはいるつもりだが」
 「なら、村の仲間に紹介するよ」
 チャドは嬉しそうだった。
 「は?」
 「カルロスの息子がいるなんて、みんな知ったら喜ぶよ!」
 「・・・親父はそんなに人気者だったのか?」
 ジェフは眉根を寄せて怪訝そうな顔をした。自分が父親に会ったときは、少なくとも人好きのする風貌ではないなと思ったことを覚えていた。
 「人気者って言うより、恩人なんだ。俺達の。そりゃたしかに近寄りがたい雰囲気はあったけど、俺たちを、この村を救ってくれたらしい。俺はその頃はまだここにいなかったからよくわからないんだけど」
 褒めているのか何なのかよくわからないが、ジェフは首を振り振り笑った。
 「なら、今夜酒屋にみんな集まる。今夜は月一回の酒の解禁日なんだ。って言っても、酒らしい酒はないけどね」
 「ああ、ありがとう」
 一人でウキウキしているチャドを眺めながら、ジェフはようやく少し冷めたお茶を傾けた。

 日が沈むと、ジェフはチャドに連れられて、村外れの酒場へやって来た。酒場の中は蝋燭の温かい光が溢れ、笑い声が外まで聞こえてきた。
 「ねえ、その顔どうにかならないの?」
 歩きながら、チャドが渋い顔をしてジェフを見た。
 「は?」
 「その、何ていうかさ、何でそんな仏頂面してんのさ。あたりかまわず睨みつけて!」
 そう言われても。
 「いや・・・べつに仏頂面してるつもりも、あたりかまわず睨んでるつもりもないんだが・・・」
 ジェフは困ったような顔をしてチャドを見たが、チャドはいつまた胸倉を掴まれるか知れたもんじゃない、とばかりに、ジェフから数歩離れて歩いていた。
 「まずその眉間のしわをどうにかしなよ」
 チャドは自分の額をぺぺんと叩いて忠告したが、ジェフはさらにしわを寄せるばかりだった。ジェフはうるさそうに自分の額を拳で擦りながら、何だって今日初めて会った男に自分の顔についてこうも文句を言われなければならないんだと、内心情けなく思った。
 「どういう顔だろうと仕方ないだろう、仏頂面が俺の地顔なんだろ」
 「ふぅん、損な顔だね」
 チャドは不思議そうな顔でジェフを見上げ、かなり失礼なことをのたまいながら店のドアを開けた。カランカランとドアベルが鳴ると、中にいた村人たちは一斉にチャドを振り向き、どやっと杯を挙げた。
 「ようチャド!」
 「鶏の色はどうなったい!青くなったか!」
 「変わってないよ」
 チャドはブツブツ言いながらジェフを連れてカウンターへと向かった。
 「・・・鶏の色って何だ?青?」
 ジェフは怪訝な顔をして聞いたが、チャドは「なんでもないよ!」とごまかすように手を振り、店のカウンターへと進んでいった。
 「よう、一月ぶりだな」
 カウンターの中で、生え際と頭頂部の寂しくなった、この酒場の主人らしい男がチャドに声をかけた。
 「よう親父」
 「見ねえ顔だな、あんた」
 親父はジェフとチャドに酒を注ぎながら言った。
 「ああ。最近越して来た」
 「越してきた?ここへか?わざわざ?」
 親父はマグを渡しながら驚いたように笑った。二人はそれを受け取り、代金を渡した。
 「こんな辺鄙な村へ越してくるなんざ、あんたもついてねえな」
 「彼はジェフリーだ。カルロスのせがれだよ」
 チャドがジェフを紹介すると、親父は手にしていたマグを落とした。
 「カルロスの?」
 「ああ」
 ジェフは苦笑を浮かべ、マグに口を付けた。中身は、極限まで薄めた葡萄酒、というより、水に申し訳程度の葡萄酒が入っているようなものだった。この農村部では仕方がないのだろう。それに比べて、都では頭に来るような濃い上等な酒が浴びるように消費されていた。ジェフは、そんなことは口が裂けても言えなかった。農村と都でこんなにも差があることを、ただただ申し訳なく思った。
 「驚いたな。どっかで見たことのある顔だと思ったら。俺はパウルだ」
 酒場の親父、パウルは、カウンター越しに手を差し出し、ジェフはその手を握って返した。
 「パウル?ポールじゃなくてか?珍しいな。ジェフだ。よろしく」
 「俺の親父が大陸の出身なんだ。まあパウルでもポールでも何とでも呼べよ。ああっと、ハゲ親父はごめんだぜ。これでも気にしてんだ」
 パウルの言葉にジェフが笑うと、テーブルの方から声がした。
 「おいチャド!こっち来て飲めよ!」
 チャドは「わかった」と示すように杯を挙げ、ジェフを振り向いた。
 「行こう。あいつらは、猟師と木工職人の連中だ」
 二人はパウルにまた後でと声をかけ、テーブルに向かった。
 「よう。どっかで会った顔だな」
 二人がテーブルに着くと、金髪の男がジェフに言った。
 「誰かな?ずいぶん前に見た覚えがあるんだが」
 「彼はカルロスの息子だ」
 チャドが再び紹介すると、そのテーブルはしんと静まり返った。
 「カルロスの・・・?」
 「ていうかあいつ子どもがいたのか?しかもこんなにでかい?」
 ジェフは苦笑を浮かべて首をかしげた。
 「ルーカスだ」
 先程の金髪の男が、ジェフに杯を挙げた。
 「ジェフリーだ」
 ジェフも杯を挙げ、それに応えた。
 「レオだ」
 「チャーリー」
 「フランクだ」
 そのテーブルにいた他の男たちもそれに倣い、一人ずつジェフに杯を挙げた。
 「カルロスは今、どうしてるんだ?」
 レオが嬉しそうに聞いた。ジェフは、一瞬目を伏せてから、「死んだ」とだけ言った。その言葉に、そのテーブルにいた全員が驚き、俯いた。
 「そんな・・・」
 「少し前、オソで疫病が流行っただろう?あそこにいたんだ」
 ジェフがマグをテーブルに置いて言った。
 「オソ・・・あそこはもう、完全に封鎖されたと聞いた」
 「ああ」
 「あんたはそのとき、どこにいたんだ?一緒じゃなかったのか?」
 ルーカスが言った。ジェフは、目を伏せたまま答えた。
 「・・・騎士団にいた」
 ジェフがそう言った瞬間、ルーカスは突然酒の入っていたマグを床に叩きつけた。そしてそのまま席を蹴って立ち上がり、ジェフの胸倉を掴んだ。
 「団の人間だったのか貴様!」
 酒場中がしんとしてジェフを見た。
 「ルーク!」
 チャドが叫んだ。
 「お前もお前だチャド! なぜこんな奴を連れてきた!!」
 「ジェフは悪い奴じゃない!」
 「フリーギダがどうなったか聞いただろう! こいつらは俺たちから金と食糧を巻き上げて、用がなくなったら皆殺しか!」
 ジェフは驚いて眉根を寄せた。
 「皆殺って何だ?どういうことだ?」

塩の谷

 皆殺しってどういうことだ?国が飢餓に喘ぐ民を見棄てたこと、それにも皆殺しという言葉が当てはまるだろう。 だがルーカスの声は、そういったことを言っているのではないようだった。そもそも地方の市民が、国庫に食糧があるということも知らないだろう。
 「ヘタクソな芝居すんじゃねえぞ、ふざけるな! フリーギダの農民を見棄てた挙句に、お前たち国が、あの谷に貴族の獣を放したんだろう! 獣にやるような餌がないからな!」
 ジェフは愕然とした。岩塩の産地として栄えたあの一帯の民が、飢餓の苦しみにさらされた挙句、獣に食い殺されたと?それを、国が?そんな事実は、少なくとも彼が城塞内にいた頃にはなかった。
 ――いや・・・、俺が知らなかっただけなのか?
 「俺たちはな、フリーギダの連中と何十年も何百年も交流してきた! 俺たちからは作物を、フリーギダからは塩を分け合った! あの飢饉の時だって俺たちは必死であそこへ食糧を運んでいた! お前たちは何をした!」
 ルーカスの声は、一言ごとに大きくなっていた。
 「あの谷にいた子どもたちがどんな姿だったのか、お前たちは目にしたのか!」
 何ということだ――。
 ジェフはあまりの衝撃に、しばらく言葉を失ってしまっていた。もし彼が言っていることが真実なら、恐ろしいことだ。夜な夜な貴族の館へ忍び込む夜盗の仕業などとは比べ物にならない。ジェフは我を取り戻すと、ようやく口を開いた。
 「・・・すまない」
 「謝って済むことか! 何百という人間が死んだんだ!」
 「本当に、すまない・・・。今初めて聞いた話だ」
 ジェフの思いもかけない言葉に、店中の視線がジェフに突き刺さった。この嘘吐きの責任逃れの国の犬め――。彼らの視線がそう物語っていた。
 「嘘をつけ!」
 怒りのあまり、ルーカスはついにジェフを殴りつけた。
 「ルーク、ちょっと――」
 チャドが心配そうに、恐ろしそうな声を上げた。しかしルーカスの怒りは治まらず、ジェフの胸倉を掴んでそのまま壁に叩き付けた。ジェフは何の抵抗もせず、ただルーカスを見据えた。
 「それは――、獣が放されたのはいつのことだ?」
 「いつのこと? もう一月も前だ!」
 一月――。ちょうどジェフが城を追われ、都を離れた頃のことだ。
 「俺はその頃にはもう、城塞にはいなかった」
 「また嘘をつくのか!」
 「本当だ。一月前、俺は騎士団から追われ、当然都からも追い出された。馬で城を出たが、途中で徒歩(かち)に変えた。徒歩でここまで一月で着くのは無理だ」
 ルーカスは、自分より背の高い男を相手に、物怖じすることもなくジェフを睨み続けていた。
 「・・・だが、そんな悪魔のような仕業を止めることができなかったのは、本当に申し訳ない」
 ここでお前たちに殺されても仕方がない、と、ジェフは静かに告げた。
 「そうか、殺してもいいんだな」
 ルーカスは目だけが笑っていない、ゾッとするような笑顔になって、手近にあったナイフを掴んだ。
 「ルーク、よせ!」
 店の戸口の近くに立っていた金髪の男が大声を出した。
 「アール・・・」
 チャドが驚いて言った。
 「フリーギダのことは、その男一人が計画したことでも実行したことでもないはずだ。しかも本人は知らなかったそうじゃないか・・・」
 アールと呼ばれた男は外套の散らかった床やテーブルを避けながら、ルーカスの近くまでやって来た。
 「聞けば、そいつはカルロスの息子なんだろう?俺達の恩人の息子だ」
 「何の恩人だ・・・」
 昼間、チャドもそんなことを言っていたが、どういう意味だったのだろうとジェフは思った。
 「そうだ。あんたの父親は数年前、私たちが見たことも聞いたことない疫病から、この村を救ってくれた」

   『黄金の季節、麦の里の民に雪が舞うだろう』

 ジェフの脳裏に、古文書の一文がよぎった。彼がカルロスを見つけ出すことができたのも、その古文書の言葉を追ったからこそなしえた業だった。紋章官一族として生きることを決めたカルロスは、予言を頼りに国中で起こるさまざまな災厄から民を守る為、村から村へと放浪して歩いていたことは知っていたが、こんなにも恩人扱いされていることは知らなかった。
 「・・・ニクソランダと言っていたか?」
 ジェフが問うと、店中が気味悪げにざわめき、ルーカスも眉根を寄せてジェフを見た。
 「ああそうだ。二度と聞きたくない言葉だ。どこにも前例がない奇病だった。ついでに言っておくが、私は医者だ。あの時村人たちは、ある日突然倒れたかと思うとそのまま息を引き取り、その遺体には雪が積もったような結晶ができた。カルロスは薬草になる野草を探してくれた。そのお陰でこの村は救われたんだ。私もあんたの父親に助けてもらった」
 「だがこいつはカルロスではない!」
 ルーカスが怒鳴った。
 「そうだ。カルロスではない」
 アールは落ち着いてルーカスを見据えた。
 「だが、恩人の息子を殺すのが、恩人への恩返しになるのか?」
 ルーカスはぐっと詰まったが、言葉を返した。
 「それでもこいつらは、都で俺たちの払った税を使ってのうのうと暮らしている! 我慢できるのか!」
 「彼はもう騎士団の人間ではないそうじゃないか。それに、この男が私たちに何か危害を加えたとか、何か罪があるのか?」
 誰も何も言わなかった。しかし、ルーカスだけはやはり我慢できないように再び怒鳴り声を上げた。
 「ならばこの村を出て行け! 二度と戻ってくるな!」
 「・・・そうだな、分かった。そうしよう」
 ジェフは静かに頷いた。
 「――せっかくの日に、不快な思いをさせて悪かった」
 そしてそのまま、ジェフは誰とも目を合わせることもなく酒場を後にし、後ろ手で静かに扉を閉めた。彼らが自分に反感を抱き、憎悪するのも仕方がない。農民が生活にすら苦しんでいる間、都では毎日のように宴が開かれ、酒も食べ物も浴びるように消費されているのだ。その現状を、彼一人ではどうすることもできなかった。
 今夜にもここを出よう。それから先は、しばらくふらふらするしかない。と、これからのことを考えながら歩き出そうとしたとき、すごい勢いで酒場の扉が開いた。ジェフが驚いて振り向く間もなく、誰かががっしりと彼の腕をつかんでまた酒場の中に引っ張り込んだ。
 「何だ――」
 「いいのかそれで」
 アールが厳しい顔をして酒場の中の村人に問い掛けた。ジェフを引き戻したのも彼らしい。
 「何なんだ――?」
 ジェフは唖然としたようにアールを見たが、アールの方はジェフには言葉を返さずに話を続けた。
 「さっきも言ったが、彼は私たちの恩人の息子だ。この中にも、自分自身がカルロスに助けてもっらた者や、家族が助けられた者もいるだろう」
 アールが酒場の中を見渡すと、何人かが気まずそうに目を背けた。
 「私の妻もカルロスに助けられた。カルロスがいなければこの村は崩壊していただろう。その恩人の息子を村から追い出して、それでいいのか?」
 「俺が自分で出て行くと言ったんだから、追い出したことにもならないだろう」
 ジェフが口を挟んだが、アールはそれを無視して続けた。
 「最近の夜盗や盗賊の話もみんな聞いているだろう。もし、彼が、家を失って放浪しているうちに、そういう連中に殺されてしまっても、何とも思わないのか? ――私は嫌だが」
 夜盗や盗賊ごときに殺されるほどヤワではない――。ジェフは思わず反論しそうになったが、また聞き流されるのだろうと察して黙っていた。
 「俺も、嫌だ・・・と思う」
 チャドが隅から、ルーカスを見ないように見ないようにと目を逸らしながら声を上げた。
 「だって、ジェフは、ここに来てから何も悪いことはしていない・・・よ?」
 恐る恐る、チャドはルーカスの顔色を横目で覗き込んだが、思い切り睨まれて慌てて目を逸らした。
 「これで二票だ――。ジェフを追放するべきではないと思っているのは私だけではないようだ。ジェフがここに住むのに反対する者は、今ここで意見を言え」
 アールがきっぱりと言った。
 「おい――」
 ジェフは思わず口を挟んだ。
 「あんたも、ここに住みたいのか住みたくないのかどっちなんだ」
 口髭を生やした、恰幅のいい男がジェフに尋ねた。
 「どっちって――」
 「あんたがここにいたいと思うならいればいい。ここは俺たちの土地じゃないんだ。都じゃないんだ。誰も領主に許可をもらって住んでるわけでもない」
 口髭の男はみんなに「だろう?」というように肩をすくめて見せた。
 「ありがとうメルロス」
 アールがその男に礼を述べ、ルーカスに向き直った。
 「いいな、ルーク」
 ルーカスはしばらく何も言わずに座っていたが、やがて立ち上がって店を出て行った。ジェフの横を通るときにすごい顔で彼を睨みつけて行ったが。
 「よし、いいぞ」
 アールがほっとしたようにジェフに言った。
 「え?」
 「あれはあいつの了解のサインだ」
 「おい! あんたカルロスの息子だって? 知らなかったぜ、一緒に飲まねえかい!」
 アールの言葉にかぶせるように、陽気な声が響いて、酒場の中はまた騒がしくなった。たった今までの険悪な雰囲気はどこへ行ったのか。
 「基本、こんな感じだ、ここは。誰しもそうだろうが、ここの人間は揉め事を嫌う。陽気な連中が多い」
 アールが賑やかな店内を見渡して、穏やかに言った。
 「ルークがみんなにとって特別なんだ。ルークはああだが、ここいる者は、誰もあんたを追い出したいとは思っていない」
 「村人全員がここにいるわけじゃないだろう」
 ジェフが渋い顔をすると、アールもくつくつと笑い返した。
 「言っただろう、ここの連中はそんなに冷たい人間じゃない」

 ジェフが今度こそ酒場を出て、裏の通りへ入って行こうとすると、後ろから声を掛けられた。
 「おい」
 無意識に腰に手をやって、いつも持ち歩いている短刀を抜きながら振り返ると、アールがやってくるところだった。その姿に、ジェフは安心したように短刀を鞘にしまった。
 「何だ?」
 「すまなかったな」
 「すまなかった?」
 突然詫びられて、ジェフはオウム返しに聞き返した。
 「あいつはどうも、口と手が一緒に出る性質だ。突然あんなことになって、すまなかった」
 「いや、あんたが詫びることはないだろう。むしろ詫びるのは俺の方だ。あんたにはあいつに殺されずに済んだ借りもある」
 アールは笑って手を差し出した。
 「アールだ」
 「・・・ジェフリーだ」
 ジェフはその手を取って握手をしながら、怪訝そうに尋ねた。
 「あんたは俺が憎くないのか」
 「そうだな、国の人間には言ってやりたいことが少なからずあるが、あんた個人には全く何の恨みもない。そもそもさっき会ったばかりだ」
 それとも恨んだ方がいいか?と、アールは悪戯っぽく笑い、ジェフもご遠慮願いたいものだと苦笑した。
 「それで、何の用だ?」
 「ああ。あんたにはこの村にいてほしいんだ」
 アールは、立ち話では長くなるからと、彼の施療院の隣にある薬倉庫へジェフを案内した。
 「おい、いいのか。俺をこんな所に連れ込んだところを村人に見られたら、何を言われるか知れたもんじゃないぞ」
 「問題ない」
 心配そうに手近の椅子に腰掛けたジェフを、大して気にも留めずに、アールはランプに火を灯して持ってきた。どう問題ないのか、ジェフは内心首を傾げていたが、アールが古い椅子に腰を落ち着けると静かに言った。
 「アール」
 「何だ」
 「すまないが、フリーギダの事件を、あんたが知ってる限り、詳しく話してくれないか」
 「本当に知らなかったんだな」
 「嘘だと思ったのか」
 「半々だった。嘘にせよ何にせよ、あんた一人の責任じゃない。あんたがここで私たちに殺される義理はない」
 アールはふと遠い目をしてから話し始めた。
 「そこの塩の袋」
 アールはジェフの頭上の袋を差して言った。
 「それも、フリーギダで採れた物だった。この村も、昔から麦や果物の作物と、あの谷で採れる塩とで交易をしていた。ところが、ある日、フリーギダへ続く主要街道が、地滑りで通ることができなくなった。それに加えて、しばらく前からの日照り続きで、フリーギダで採れる数少ない作物も大きな被害を受け、谷では食糧があっという間に底をついてしまった。谷は当然、国に救援を求めたが――、この辺りのことはそっちの方が詳しいだろう。国はフリーギダに、救援物資を与える代わりに、その分の金を払えと・・・。おかげで谷の人々は、街道が復旧される間、他所の土地へ移ろうにも金を稼がねばならなくなり、ほとんど谷に閉じ込められた。この村をはじめ、近隣の土地は、残された獣道のような道を使って食糧を運んだが、街道で馬車を使えない限り、人の手だけでは運べる量や物に限度があった。いつしか谷では年寄りが続けて死に始め、子どもたちも飢饉の犠牲になった。谷は、国に必ず金は納めるから、とにかく街道を復旧して食糧をくれと何度も訴えたが、何も変わらなかった。その頃だ。地方の貴族の道楽の為に飼われている獣の積まれた馬車が、あの閉ざされたも同然の谷の上から落ちてきたそうだ。人々は逃げ場を失い――」
 アールはそこで言葉を切った。その後のことは、皆まで言われずとも簡単に想像がついた。
 「当然国は、事故としてそれを処理した。実際、あの谷の上の土地も、かなり荒れているだろう?今までも馬車が横転したり、曲がりきれずに落ちてきたなんてこともあったそうだ。それでも、この辺の村人たちは、フリーギダは暴動を起こす前に潰されたんだと、そう思ってる」
 アールは深いため息をついた。
 「私が話せるのは、そんなところだ」
 「・・・そうか・・・」
 ジェフは窓枠に肘を掛け、手を広げてこめかみを押さえるようにうな垂れていた。
 「酷すぎるな・・・」
 「ああ・・・。あんたは、いつまで都にいたんだ? なぜここへ来たんだ?」
 「ちょうど一月前だ・・・。話せば長くなるが、城を追われたんだ。フリーギダの飢饉のことは、ずっと議会へ訴えようとしていたんだが・・・」
 ジェフは苦しげに大きなため息をついた。
 「議会へ? そんな権力者だったのか?」
 「名ばかりだ。騎士団の長官だった」
 「長・・・っ?」
 アールは驚いてジェフをまじまじと見た。
 「本部のだろう? 長官なんてやってて、何だって除籍したんだ? 都を追われたと言ったか?」
 自分から進んで除籍したというより、正確にはさせられたという方が正しいかもしれない。
 「色々あったんだ」
 ジェフは曖昧に言葉を濁したが、アールもそれ以上追求しようとはしなかった。
 「そうか。じゃあ質問を変える。あんたはどうしてあの奇病の名を知っていたんだ? カルロスから聞いたのか?」
 「・・・いや」
 「なら、なぜ知っていたんだ?」
 「・・・古い文献に記されていたことだ」
 「文献?」
 「悪いが、あまり深く話せる話ではない。だが、それがどうした」
 「実は、あんたにはこの村にいてほしい」
 思いもかけない言葉に、ジェフはしばらく返す言葉を失った。
 「・・・何故だ」
 「カルロスがこの村を出て行ってから、村人たちは何か月も不安に陥った。またああいった奇病が発生したらどうなるのかと。正直、何年も経った今でも、風邪が流行ったりするとこの村はパニックになりかける。少なくともあんたも、何を知っているか知らないが、あの病のことについて知っていた。だから、当時からこの村にいる村人が、あんたを見てカルロスを思い出せるように、ここにいてほしい」
 ジェフは黙って聞いていたが、やがて目を閉じて首を振った。
 「無理だろう。ルーカスと言ったか、あの男の反応を見ただろう。騎士団や国側の人間に恨みや怒りを抱いている人間は多いはずだ。俺がここにいても、彼らの不快な思いを煽るだけだ」
 「そうでもないと思うが」
 アールは足を組み直した。
 「あんたがカルロスの息子だと分かったときの彼らの反応も見ただろう。カルロスは私たちの村を救ってくれた大恩人だ。この村は、村全体が家族のようなものだ。カルロスも、私たちにとっては家族も同然だった。彼は、あまり私たちと馴れ合おうとはしなかったが――。あんたがたとえ、騎士団に在籍していた人間でも、さっき言っていただろう、飢饉からあの谷を救おうとしていたと。都の人間全てが、地方や農村を見棄てていたなどと思うことは愚かしいことだ。その辺りは、この村の人間たちは分かっているはずだ。農民からも盗賊や人殺しが出るように、全てが悪で、全てが善ではないと」
 「もしそうだとしても、俺がここにいても何の助けにもならない。俺は親父ではない。親父に奇病を治す知識があったとしても、俺にも同じようにできるとは限らない。俺は医者でもない。・・・申し訳ないが、中途半端に希望を持たせることはしたくない」
 「かまわない」
 アールはきっぱりと言い切った。
 「カルロスがこの村を出て行こうとしたとき、みんな必死で引き止めた。それでもあいつはやることがあると言って出て行った。また戻るとは言っていたが、結局は帰ってこなかった」
 「なあ、アール」
 ジェフは困ったように、アールの言葉を制止するように手を広げた。
 「あのな、さっきも言ったが俺は親父じゃない。俺にまで感謝する必要はこれっぽっちもないんだ。それに、あんたが俺に留まってほしかろうが、村人たちは必ず反対する。あんたも下手に俺の味方をして、村八分にされたくはないだろう」
 「・・・そうか」
 アールは頷いて、ジェフの言葉に納得したような顔したが、やがてとんでもないことを言い出した。
 「わかった。じゃあこうしよう。あんたが本部の長官だった頃、国中の飢饉やフリーギダについて何の手を打つこともできなかったことに対して、少しでも申し訳ないという気持ちがあるなら、その詫びとしてここにいていくれ」
 「何だって?」
 ジェフは、さっぱり意味が分からないという顔をした。
 「アール、何だって言うんだ――」
 「どうなんだ、あんたには多少なりとも罪悪感があるのか」
 「・・・・・・・」
 アールは、どことなく優越感を帯びた目でジェフを眺めているように見えた。多少なりともどころの騒ぎではない。そもそも彼がコルニクスに自分を抹殺する為の引き金を引かせることになったのは、飢饉について国王に諫言したのがきっかけだった。何も実行に移せなかった己の非力さを、どれほど呪ったことか。
 「ない・・・はずがないだろう」
 「よし。なら決まりだ」
 アールは晴れ晴れしく息をついた。
 「おい――」
 「大丈夫だ。村人のことは私に任せてくれ。問題ない」
 どう問題ないんだ。ジェフは先ほどと同じ疑問を再び抱かずにいられなかった。

薬草畑の夫婦

 次の日、ジェフはアールの家に招かれた。アールは薬商もあまり通らないこの村でただ一人の医者で、病院と呼べる場所も、彼の小さな施療院しかない。年寄りも多いこの村ではアールはかなり忙しく、ジェフが彼の家を訪ねたのは日が沈んでからだった。施療院の看板の下がったドアをノックしかけると、上の方からアールの声がした。
 「ああ、そっちじゃない。悪いが裏へ回ってもらえるか」
 アールは建物の二階の窓からジェフに呼びかけていた。
 「わかった」
 言われたとおりに裏手へ回ると、畑に奇妙な形の花が咲いていた。おそらくアールが治療で使う薬草だろう。暗くてどこまでが薬草畑になっているかわからないが、かなりの広さがあるようだった。
 「悪いな、呼びつけて」
 木の軋む音がしたと思うと、古い戸口からアールが顔を出して出迎えてくれた。
 「こっちこそ、忙しいのに悪いな」
 アールはジェフを中へ招き、階段を上がった。住居と施療院が繋がっているせいか、かすかに薬の匂いが漂っていた。都やその周辺の医者の自宅というのは豪奢な家が多いが、彼の家は質素で、贅沢品など一つも見当たらなかった。
 「妻が、あんたが来るんで張り切って料理してる」
 アールが灯りの点いたドアを開けながら、振り返って笑った。部屋に入ると暖炉では暖かな火がパチパチと爆ぜていて、アールの言ったとおり、何かの料理のいい香りがした。
 「アリス」
 アールが部屋の奥に声をかけた。アリスと呼ばれた女性は、奥の竈の前からパッと立ち上がって、二人のほうへやって来た。長い金髪を一つに束ねた、見たところかなり若い、可愛らしい女性だった。
 「彼が、カルロスの息子のジェフリーだ。ジェフ、妻のアリシアだ」
 アールが両者を紹介すると、ジェフは彼女の手を取って挨拶しようとしたが、それより先にアリスの方が熱烈に彼を歓迎した。
 「ああ! お会いできて嬉しいわ! 私、あなたのお父様には本当に助けていただいたの」
 アリスは目に涙を浮かべそうな勢いで、嬉しそうにジェフの両手を握り締めた。
 「あ・・・、いや・・・」
 ジェフは俺にまで感謝する必要はないと言いかけたが、もはやそんな雰囲気ではない。
 「私、アリシアです。みんなにはアリスと呼ばれています」
 「ジェフリーだ、ありがとう。あの・・・」
 アリスがいつまでもジェフをじっと見つめたまま手を握っているので、ジェフはいたたまれなくなってしどろもどろだった。しかも旦那の目の前だ。
 「アリス、ジェフが困ってるよ」
 アールが苦笑して妻に言った。
 「あ、ごめんなさい、嬉しくて。だって本当にカルロスとそっくりなんですもの」
 アリスはもう一度ふふっと笑うと、食事ができましたから、と言ってまた奥へと戻っていった。
 「昨日、あんたに会ったと話してからずっとあんなだ」
 アールは困ったように笑って、ジェフに座るように促した。
 「何て言ったんだ?」
 「別に、ただカルロスの息子がここへ越してきたと言っただけだ」
 「俺に会って何がそんなに嬉しいんだ・・・? 俺は親父じゃないんだぞ?」
 あんなに喜ばれても・・・とジェフが困惑しきって首を傾げたが、アールはそんな彼を横目で見ながら水差しを取り上げた。
 「彼女は、本当に死にかけたんだ。あの病が流行ったときに。私は幸い、“あれ”には感染しなかったが、アリスが倒れたときは、もうこの村に“あれ”が蔓延していた頃だった。村の半数以上の人間が感染して、一人、また一人と、毎日何人もの村人が死んでいった。私も、アリスについていてやりたかったが、何しろこの村には他に医者がいない。“あれ”の治療に役立つような手立ては何もなかったが、それでもできることはしなければと思った。・・・もうダメかと思ったとき、カルロスが薬草を見つけて戻ってきた。自分を実験台にしてから病人たちの元へ回り、私にもその使い方を教えてくれた。カルロスと私と、あの頃ここにいた助手と三人で、村中を回った」
 アールは思い出しながら、ゆっくりと話していた。
 「・・・もちろん、間に合わなかった者もいた。だが、あの薬を使ってからは、みんなすぐに目を覚ました。アリスも、倒れてから五日目、普通なら死に至る日数だったが、奇跡的に助かったんだ。後で聞いた話なんだが、カルロスは薬草を探しに出かけてからの数日間、ほとんど一睡もしなかったそうだ。おかげで、あの事件が終わった後に過労で倒れてね――」
 笑っちゃ悪いが、と言いながら、アールはそのときのことを思い出したのかクスクスと苦笑を漏らした。
 「楽しそうね、カルロスの話?」
 アリスが、パンとスープの鍋を盆に載せて戻ってきた。
 「どうぞ」
 彼女はにこっとしてジェフにパンの皿を渡し、湯気の立ったスープを盛り分けた。
 「ありがとう」
 「ごちそうだなアリス・・・」
 パンに胡桃が混ぜてあるのを見て、アールが呟いた。
 「だってカルロスの息子さんよ?」
 アリスは嬉しそうに、自分も食卓についた。
 「アリシア、あの・・・」
 彼らが自分の父親に感謝しているのは理解できるが、自分までそんなに丁重に扱われてはいたたまれたものではない。ジェフが先程アールに言った言葉を繰り返そうとすると、アリスが遮った。
 「自分はカルロスじゃないから?」
 「何?」
 ジェフは言おうとしていたことを先に読まれて少し驚いた。
 「ごめんなさい、聞こえたの」
 アリスは依然にこにこしていた。
 「わかってるわ、あなたがカルロスじゃないってことくらい。彼にはもちろん、ものすごく感謝してるわ。亡くなられたと聞いて、とても残念だわ・・・」
 お気の毒に、と、アリスは静かに言った。
 「だけど、私があなたに会えて嬉しいのも、こうしてもてなすのも、あなたももうこの村の人だからよ。この村では、みんな家族のようなものだから。とくに、あの一件以来はみんな結びつきが強くなったと思うわ」
 そこまで言って、アリスは急に目を逸らした。
 「もてなすって言っても、大した料理じゃないけど・・・」
 その様子を見て、ジェフはうっかり吹き出した。料理に自信がないのだろうか、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。
 「すまない、ありがとう」
 ジェフはアリスの言葉に感謝した。恩人の息子とはいえ、見ず知らずの男にこんな言葉をかけてくれる人間も多くはないだろう。アールの話では、この村の大部分がそうらしいが。アリスはジェフが笑ったのを見て、安心したように自分も微笑んだ。
 「アリス、大丈夫だ、おいしいよ」
 豆のスープを口にしながら、アールが言った。
 「本当?ああよかった」
 アリスは心底ほっとしたように夫を振り向いた。
 「客が来たり、緊張すると匙加減が分からなくなるそうなんだ。薬の調合に関しては、私より優秀なんだが。でも今日は大丈夫だ」
 アールはジェフにも食べるように勧めながら、アリスの秘密を教えてくれた。
 「大丈夫大丈夫って、アール、あなたねえ」
 ジェフは元から猫舌であったが、アリスを安心させる為にも、熱いスープをありがたくいただいた。城を追われてから、まともな温かい食事は久しぶりだった。ジェフは今日ここへ招いてくれた夫婦に感謝した。
 食事の後、しばらく三人で談笑していたが、アリスがふと時計を見て立ち上がった。
 「さて、二人で何かお話があるんでしょう?」
 ジェフとアールも彼女に倣って立ち上がると、アリスはにこっとして二人を見た。
 「私はここを片付けてしまうから、ゆっくりしていってくださいな」
 「ああ、ありがとう」
 アリスはもう一度にっこりすると、空の鍋や皿を持って炊事場へと消えて行った。
 「で、何なんだ?」
 アリスを見送ってから、ジェフはアールに向き直った。いくら恩人の息子だからといって、昨日の今日で知り合った人間を、わざわざ家にまで呼んで食卓を囲うくらいなら、何か用があるのだろうと思ったのだ。案の定、アールは人差し指だけでこいこいと手招きした。
 「本当はこの用だけだったんじゃないのか?」
 ジェフはアリスに声の聞こえないところまで来てから言った。
 「そう言ってはおしまいなんだが、彼女がどうしてもあんたに会いたいと言ってね」
 ジェフにはどうしても、アリスのその辺りの気持ちがいまひとつ理解できなかった。
 「気をつけろ、そこ段差がある」
 アールは廊下の奥の部屋の扉を開けて、暗がりを振り向きながら注意した。さすが医者、と言うべきだろうか。全く医者らしくない彼の家の中で、ここだけは違っていた。広い部屋の四方の壁に、外国の医学書や理化学の本までが、びっしりと本棚に収まっていた。ここはきっと、彼ら夫婦の書斎なのだろう。ジェフは、幼い頃祖父に連れられて初めて一族から受け継いだ物――ほとんどが書籍だった――を収めた場所へ連れて行ってもらったときのことをぼんやりと思い出した。彼が一族から受け継いだ物の量は、ここにあるものの比ではないが、それでも大切に守られてきた書庫として、どこか似たようなものを感じた。
 「すごい本だな」
 ジェフは暗い室内を見渡して言った。
 「ああ。私とアリスが集めた本が、全部ここにある」
 アールは窓際やテーブルの蝋燭に火を灯していた。
 「アリシアも、医者なのか?」
 「いいや。彼女は医者の認可を受けていないが、薬師ではある。かなり優秀だ」
 「夫婦揃って医術関係者か・・・」
 ジェフは一瞬眉根を寄せたが、アールはそれに気付かないふりをして蜀台に手を伸ばすと、それを持って机の下にもぐりこんだ。
 「カルロスから預かっていたものがあるんだ」
 「親父から?」
 ジェフは眉を顰め、若干緊張した。アールはガタガタと音をさせながら、床の板を外しているようだった。そんな場所に隠さなければならないものを、父は人様に預けていったのだろうか。
 「カルロスは、あんたがいつかここへ来ることを知っていたようだな」
 アールは埃を払いながら立ち上がり、布に包まれた一冊の本をジェフに差し出した。
 「私には読めなかった」
 ジェフは何も言わずにそれを受け取った。何の装飾もない黒い革表紙の本をパラパラとめくると、紛れもなく古文書の文字と同じ古代語が書かれていた。ジェフは無表情にそれを見ていたが、「こんなものを人に預けるなあの親父!」という言葉が思わず喉まで出かかった。しかし、紙の劣化具合から見ても、あの古文書よりずっと新しいことがわかった。もしかしたら、これがコルニクスの言葉を聞いてからずっと気になっていた、もう一冊の古文書なのではないかと思ったが、どうやらまったく違うらしい。
 「読めるのか?」
 アールに尋ねられて、ジェフは正直に答えていいものかどうか迷った。
 「・・・親父は、何と言ってあんたにこれを渡したんだ?」
 答える代わりに、ジェフは質問を返した。
 「“いつかこの村に、俺の息子が来るかもしれない。もしも会ったら、これを渡してやってくれないか”と言っていた。ついでに、私も読んでもいいかと聞いたら、読めるものなら読んでもいいぞと笑ったよ。そのときはまだ、この文字を見ていなくてね」
 と、アールは苦笑した。
 父親は、アールに何を話したのだろうか。自分がウェルバの末裔であることを明かしたのだろうか?ジェフは、アールをどこまで信じていいのか、まだわからなかった。昨日、彼はジェフにこの村に留まるように言った。村人が安心するから、と。しかし、彼は医者だ。この国の医者は、都心部の出身のことが多く、また医学も都でないと学べない為、国の中心地に連絡網や関係者が多くあることが多い。自分がこれを読めると言ったときに、彼はそれを国へ報告するつもりだろうか。現在では、この文字を読めるものは、聖堂の聖職者で、かつ国に許可を与えられた者か、ウェルバの一族しかいない。聖堂の外へこの言葉が記されたものを持ち出すことが禁止されているのも、コルニクスなら知っている。それも、そもそもかつてコルニクスの一族が禁止したことだ。一般人がそれらを持っているのが発見された場合、ほぼ間違いなくウェルバの末裔と判断されるだろう。ジェフは、時間稼ぎをするようにパラパラとそれをめくり続けていたが、やがてパタンと本を閉じた。
 「いや、俺にも読めない」
 「そうか」
 その答えを聞いたアールは、すっきりしたように言った。
 「それに何が書いてあるのか、何年もずっと気になっていた。だがこれですっきりした。この国の人間には読めない文字なんだな」
 「かもな」
 ジェフは父親の遺した黒い本を持ったまま、それとなくアールの様子を窺っていた。
 「読めないものを押し付けるようで悪いが、カルロスの形見だと思って、それは持って行ってくれないか。ここにあるとどうしても気になってしまうから」
 アールは諦めたように笑った。
 「わかった。ありがとう」
 ジェフがそれを懐へしまおうとすると、アールはため息をついた。
 「だけど、残念だ」
 「何がだ?」
 「あんた。まだ私を信用してないんだな」
 穏やかな口調だったが、ジェフはその言葉を聞いて、警戒するような目つきでアールを見た。
 「どういう意味だ」
 ジェフは無意識に、腰に差した短刀の柄を握った。
 「試すような真似をして悪かった」
 アールは両手を軽く挙げて、机の端に腰をかけた。
 「カルロスに、ちゃんと聞いてあるんだ。それが何なのか、なぜあんたに渡せと言うのか・・・。そんな聖堂の古代文字の書かれた、いかにも怪しげな文献を、普通見ず知らずの人間に預けるか? カルロスがそんな浅はかな男ではないと、あんたも知ってるはずだろう?」
 「何を聞いた――?」
 「彼は、それに何が書かれているのかは決して言わなかったし、絶対に他の人間に知られるなとも言った。もし誰かに奪われるようなことがあったら、燃やしてしまえと。それくらい、大切なものだと言っていた」
 「・・・なぜ、親父がこれをあんたに預けたのかわかるか?」
 「どうかな・・・でも」
 アールは考え込むように首をかしげた。
 「カルロスがここを出て行くといったとき、最後に引き止めに行ったのは私だった。そのとき、不思議な話をしてくれた」
 それから、アールは記憶を辿りながら、カルロスが何を言っていたのか、ゆっくりと話し始めた。

 数年前――。
 アールは、あの病が流行って以来、カルロスから多くの薬学を学んだ。
 その日、アールはいつものように村を回って、いつものようにアリスと薬を作り、いつものように施療院の扉を閉めようとしていた。そのとき、カルロスの小屋のある森のほうから、村人たちが数人、がやがやと話しながら村の方へ帰ってきた。
 「どうしたんです? みなさんおそろいで」
 アールは柵に手をかけたまま、村人に尋ねた。
 「そうだ、アールに言ってもえらばいい」
 バートという粉引きの男が、アールの顔を見てふと閃いたように膝を打った。
 「なあ、カルロスがこの村を出て行こうとしてるっつー話は聞いただろう?」
 ダンはひそひそと声を落としながら言った。
 「それは、聞きましたけど、今すぐではないと――」
 「それが、あの野郎もう荷物をまとめてやがった。今にも馬に乗って出かけそうな勢いよ」
 アールは仰天した。
 「なっ、本当ですか?」
 昨日まで何も言わずに、彼の聞いたことのないような薬の調合を教えてくれていたのに。今日発つなんて、カルロスは一言も言わなかった。
 「本当も何も、俺たちはカルロスに考え直せと掛け合って来たんだがよ、あいつ取り付く島もねえようなことばっかり言いやがって」
 「そうなんだ、俺たちの話なんか聞きゃしねえんだ」
 「終いにゃバーニーを泣かせやがった!」
 「あー、泣かせたっつーのはどうかと思うが・・・」
 バーニーはダンの妻だ。
 「ともかく、準備だけはもう万端だった」
 「だがもう日も暮れる頃だ。明日の明け方にでも発つんじゃねえかと。アール、アリスもだが、カルロスとは随分行き来してたみてえだし、わざわざまた知らん土地に移り住む必要もねえって、ちょっと言ってやれよ」
 「俺たちは先に旅籠で先に一杯やってるから、後でカルロスも連れてきてくれ」
 それだけ言うと、村人たちは薄暗くなり始めた通りを、がやがやとまた歩き出した。
 アールは薬庫の整理をしていたアリスの元へ走った。
 「アリス!」
 「なあに?」
 アリスは珍しく夫が取り乱しているのを見て驚いた。
 「カルロスが、ここを出て行くって、本当だったらしい」
 「ええっ?そんな、昨日だって何も言わなかったわ」
 「でも、今、村の人が教えてくれた。もう荷物をまとめてたって――」
 「でも、もう暗いわよ?まさか今日?」
 「アリス、相手はカルロスだ!」
 アールはそれだけ叫んだが、アリスはそれですべて納得したような顔をした。
 「そうね、カルロスだものね。もしこれから発つなら、私たちお礼くらい言わないと――」
 アリスが立ち上がると、子どもの泣き声が聞こえてきた。
 「ほらほら泣かないの!」
 半分開いた柵を通って入ってきたのは、村の小さな男の子を抱いた母親だった。
 「ごめんなさい、ガラスを踏んでしまって。診てもらえるかしら?」
 子どもの足の裏からは、ぽたぽたと血が流れていた。今にも出かけようとしていたアールだが、すぐに引き返してきた。
 「よし、大丈夫だ、さあおいで――」
 アールが泣き叫ぶ子どもを引き受けようとすると、アリスがその腕を押さえた。
 「大丈夫、私が診るわ。あなたは先にカルロスのところへ行って」
 ね?と念を押され、アールは頷いた。
 「頼む」
 アールは子どもの手当てをアリスに任せ、薄暗い森へと急いだ。

 「カルロス!」
 彼の小屋の前まで来たとき、ランプの微かな光が見えて、アールは彼の名前を呼んだ。
 「アールか、どうした」
 馬の影から顔を覗かせたのは、旅支度を整えたカルロスだった。
 「どうしたじゃ――」
 走って息が切れたアールは、馬に寄りかかった。
 「出て行くって、本気だったのか」
 「ああ。言っただろう」
 カルロスは素っ気なく答えた。
 「言ったけど――、村の人たちは、あんたが今日はもう出かけないと思って引き返してきてしまったのに」
 「諦めたんじゃないのか?」
 カルロスは特別気にかける様子もない。
 「違う、私たちは普通夜には村を出ないから、みんな明日の朝にでも出るんだろうと思ってる」
 夜更けに人里を離れてフラフラするなど、夜盗たちにどうぞ殺してくださいと言うようなものだった。ただ、アールもアリスも、彼がそれくらいならやりかねない男だと重々承知していた。案の定、カルロスはアールが来なければ、今にも馬に跨ろうとしていたところだった。
 「別にいいだろ。俺がどこへ行こうと、お前たちはもう大丈夫だ」
 「カルロス――」
 アールが懇願するような目を向けると、カルロスは困ったような顔をした。
 「アール、お前が俺の薬やら何やら、学びたい気持ちはよくわかってる。俺だってできるなら、お前の為に他の薬や薬草も全部調べて教えてやりたい。だが俺はここばかりにはいられないんだ」
 アールはあの一件以来、カルロスから様々な薬の調合を教わってきた。どんな医学書にも載っていないようなものばかりだった。
 「どこへ行くんだ?」
 「悪いがそれは言えない。どうしてもやらなければならないことがあるんだ」
 「カルロス、頼む。もう少し待ってくれ。まだ教えてもらいたいことが山ほどあるんだ。私だけじゃない、アリスもそうだ」
 「アール」
 カルロスは、少し強めの口調で彼の名を呼んだ。
 「なら、せめて理由だけでも教えてもらえないのか」
 梃子でも動きそうもない――。そう判断したのか、カルロスはため息をついた。
 「なら、アール、約束してもらわなけりゃならん。俺が今から言うことを、秘密にできるか?」
 「当たり前だ。口は堅い」
 「アリスにもか?」
 アールは一瞬詰まったが、カルロスが「どうだ?」と言うと、
 「言わない。誓う」
 と、ほぼやけっぱち気味に頷いた。カルロスは、仕方がない、と、頭を掻いてから話し始めた。
 「唐突な話だが、俺の一族には秘密がある。一族に伝わる史書には、様々な予言が書かれているんだ」
 アールは不思議そうな顔をしたが、カルロスは彼が何か言いたそうなのを手で遮りながら続けた。
 「一から話すと壮絶に時間を食うから簡単に済ますが、ここで流行ったあの病も、それに記されていたことだ。俺はその史書を頼りに、この村へやって来た。そしてここの病は過ぎただろう?今度は、別の、次の災厄の予兆がある」
 わかるな?と、カルロスは言った。
 「信じられなければ仕方ないが、そういうことだ」
 アールは、何かが自分の中ですとんと落ち着くのを感じた。それが本当なら、それを頼りにカルロスはこの村へやって来て、自分たちを救ってくれた。次に救う必要がある者がいるなら、彼を引き止めることはできない――。
 「私に、なにか手伝えることは?」
 カルロスはきょとんとしたが、やがて笑った。
 「いいや、気持ちだけでありがたい」
 「・・・そうか」
 この人には教えを乞うだけで、何も返すことができなかった。アールは口惜しさに唇を噛んだ。
 「じゃ、そういうわけだから、納得してくれたなら俺は行くぞ」
 カルロスはアールの肩をポンポンと叩いて、馬に跨ろうとしたが、ふと思いついたように動きを止めた。
 「そうだ」
 アールが彼を見ると、カルロスは積んだ荷物の奥から何かを引っ張り出していた。
 「これを、俺の息子に渡してくれないか」
 カルロスが差し出したのは、ぼろきれに包まれた、本のようなものだった。アールはそれを受け取ったが、その目は衝撃に見開かれていた。
 「こっ――、あんた子どもがいるのか? 結婚してたのか?」
 「俺に嫁と子どもがいちゃ悪いか!」
 アールの驚きように、カルロスは逆に衝撃を受けた。
 「いや、悪くは――、ただ、だってあんた、え――」
 「やっぱり返してもらおう」
 「いやいやわかった悪かったよ預かる!」
 アールは慌てて本を引き取った。
 「本か?」
 「そんなもんだ」
 「私も、読んでみてもいいか?」
 すると、カルロスはハハハと声を上げて笑った。
 「読めるものなら読んでもいいぞ」
 「読めるだろ」
 アールはこのとき、中身の文字が何なのか知らなかったのだ。
 カルロスは、急に真剣な顔をした。
 「いいか、アール。覚えておけ。これは、大切なものだ。誰にも渡してはならない。いつか俺の息子はこの村に来るだろう。それまで、誰にも知られず、どこかへ隠しておいて欲しい」
 「わかった――」
 アールは頷いたが、不思議に思って尋ねた。
 「なぜ、自分で渡さないんだ?」
 カルロスは、ただ曖昧に笑っただけだった。
 「もし誰かに奪われるようなことがあったら、いっそ燃やしてもかまわない。それくらい、大切なものだ。――そんなものを、預かってくれるか?」
 「それが、あんたにできる恩返しになるなら」
 アールの言葉に、カルロスはもう一度笑った。
 「頼んだぞ」

 「・・・それで、預かってくれていたのか」
 昔の話を終えると、ジェフが口を開いた。
 「これを持っていること自体、危険なことだった――。すまなかった」
 「私が彼にできることはそれしかなかったからな」
 アールは苦笑した。
 「他には何か言っていたか?」
 「ああ、あんたのことも話していた」
 アールはニヤリと笑った。
 「何だって?」
 ジェフは嫌な予感がしたが、一応尋ねた。
 「あんたがここへ来る頃には、もしかしたら息子はかなりの人間不信になっているかもしれないと言っていた。誰かに追われているかもしれないとも言っていたな。だが決して悪人ではないはずだから安心してくれと言われたよ」
 ――巨大な世話だ・・・。
 ジェフは心中でひそっと毒づいた。
 「それから、もし息子が私を信用せずに無礼な態度をとったとしても、大変申し訳ないが俺に免じて勘弁してやってくれってな」
 アールはおかしそうにケラケラと笑い、ジェフは「あの野郎・・・」とため息をついた。
 「それで、カルロスの言ったことが本当かどうか、つい試してみたくなったんだ」
 アールは笑うのをやめた。
 「あんたは、カルロスの言った通り、私を信用していないようだ。昨日の今日の知り合いでは無理もないかもしれないな。だが逆に、そんな男を家に招いてまで自分の妻に会わせた時点で、私はあんたの敵ではないとわかってほしかった」
 「・・・すまないな」
 大げさに人間不信、というわけではないが、ジェフが容易に人を信用しないのは事実だった。
 「いや、私も試すような真似をして悪かった。ただ、カルロスの言葉はあまりにいつも正しかったんで、たまには外れないものかと思ってしまったんだ」
 もうカルロスを疑ったらいけないな、とアールは苦笑した。
 「だが、この村の人間は、少しお人好しすぎるんじゃないか?」
 ジェフは渋い顔をして尋ねた。
 「なぜ?」
 「昨日の、俺のこともそうだ。よそ者にこれほど甘いようじゃ、この先何があるか――」
 ジェフは村人を心配してそう思ったのだが、アールはさらに渋い顔をして答えた。
 「あんな反応をするのもあんたにだけだろう。こう言うとあんたは嫌がるかもしれないが、彼らがあんたを受け入れたのは、あんたがカルロスの息子だからだ。たしかに彼らは揉め事を嫌うが、誰彼構わずというわけではない。こんな時代だからな。・・・みんな口には出さないが、もう誰も国を信じてはいないだろう。いや、一人だけ堂々と言ってる奴もいるが・・・」
 ジェフは、それがルーカスのことだと分かった。
 「あいつも、悪いやつじゃないんだ、悪い奴じゃ・・・。ただちょっと・・・」
 アールが困ったようにブツブツ言うので、ジェフは苦笑した。
 「カルロスは、それに何が書いてあるのか決して言わなかったが、何にしろ、それに何が書いてあるのか、無理に知ろうとは思わない」
 アールはやがて、すっきりしたように顔を上げた。
 「ただ、もし医学のことが何か書いてあったら、是非教えてほしい」
 「ああ、わかった」
 そう請合ってから、ジェフはふと尋ねた。
 「アリシアは、このことは――?」
 「いいや、知らないと思うよ。本当に誰にも話していないんだ。カルロスと話して以来、初めて口にした内容だ」
 彼女に隠し事をしたのはこれが初めてだ、とアールは苦笑し、ジェフは何だか余計に申し訳なくなった。
 「すまないな、本当に・・・」
 「いいんだよ」
 アールはくすくすと笑い、いつかカルロスが自分にそうしたように、うな垂れたジェフの肩をポンポンと叩いた。

 ジェフは小屋に戻ると、カルロスの遺していった書物を早速読み始めた。
 「・・・・・・」
 日記か?
 自分の日記を読めというほど親父は何か勘違いしているのだろうか。確かに子どもの頃は父親の存在というものに憧れていたが、今となっては同志としか思っていない。そもそも、なぜこれを自分に会ったあの日に渡さなかったのか。ジェフには分からない事だらけだった。しかし、カルロスがそこまで重要なものだと断言したのだったら、ただの日記ではないのだろう。ジェフは幼いころ古代語を勉強した記憶の中にある、見覚えのある筆跡を再び目で追い始めた。

火種

 ジェフがサルトゥスに住んで三か月が経とうとする頃だった。ある朝、チャドがジェフの元に血相を変えてやって来た。
 「ジェフ!」
 「ようチャド。いい朝だな」
 「うん、おはよう・・・って挨拶してる場合じゃなくて!」
 チャドは元々大げさな身振り手振りを、さらに大きくしながら騒ぎまわった。
 「騎士団が来てる! あんたお尋ね者なんだろう? 隠れないと!」
 「団が? そうか、助かった、チャド。帰ってくれ」
 「えっ、もう?」
 「俺を隠す為に来たんだろう? 隠れるから早く――」
 ジェフは言葉を切った。馬の蹄の音がかすかに聞こえる。
 「チャド、こっちだ」
 ジェフは小屋の中に入り、天井の板を開けた。自分はそのままそこへ入り、チャドに縄梯子を下ろしてやった。チャドは慌ててそれを上り、ジェフの横に身を伏せた。
 「ジェフすごいな。あんな高さの隙間に飛び上がれるなんて」
 「いや」
 そうは言っても、常人には難しいことだ。ジェフは天井の板を張り直しながら答えた。
 「ところであんた、何でお尋ね者になったんだい? 何か悪いもげっ――!」
 「うるさい、黙ってろ、連中が来る」
 すぐそばで蹄の音が止まった。ジェフは「黙ってろよ」と小声で言って、チャドの口から手を離し、天井の割れ目から下を覗いた。すると、すぐにどんどんとノックの音がした。
 「誰かいるか!」
 さらにノックの音。
 「開けるぞ!」
 騎士団の人間は三人いた。ドアを蹴破って入ってくると、ジェフの小屋の中を歩いて回った。火の気のない暖炉、埃の積もった床に机。
 「人のいる気配はないな」
 「無駄足だったか」
 「行くぞ」
 三人は馬に跨り、もと来た道を戻って行った。
 「やっぱり、俺を探しに来てたのか」
 ジェフは大して驚くこともなく、納得したように呟いた。
 「あの騎士団の人たちが、ジェフの人相書きと懸賞金を書いたビラを配って行ったんだよ。だけど、この村の人は誰もあんたを知らないって答えたよ」
 蹄の音が遠くなってから、二人は天井裏から降りてきた。
 「そうか、まずいな」
 「まずいって、なにがまずいのさ」
 チャドは不思議そうに尋ねた。
 「俺は一級犯罪者になってるはずだ。肩入れするものは同罪とみなされる」
 「同罪って・・・」
 「死刑だ」
 「死・・・」
 チャドは言葉を失った。
 「何であんた、そんな落ち着いてるんだ? びっくりとかしないのか?」
 チャドの方がびっくりしていた。
 「慣れてる」
 子どもの頃から。
 それからふと気付いたように、チャドはジェフの小屋を見回した。
 「ところで、あんたの小屋、ほんとに人気がないな。鍋とか火とか寝床とか、どうしてるんだ?」
 「ああ、煮炊きなら外でしてるし、寝る場所は今の屋根裏だ」
 「あんた飯食ってるのか?」
 「食ってるさ。ほら」
 ジェフは懐から干し肉のかけらを取り出して見せた。
 「それだけ?」
 「いまのところ」
 するとチャドは急に血相を変えた。
 「あんたアリス行きだ! みっちり説教されろ!」
 「何で俺がアリスに説教されなきゃならないんだ? 何をチクるつもりだ」
 「あんたがまともに飯を食べてないってこと! よくわかんないけどアリスは栄養学? っていうのにとっても詳しいんだ! あんたの食生活知ったらアリス悲しみのあまり気を失うぜ?」
 「じゃあ黙ってりゃいいじゃないか。俺が何を食って生き延びてようと関係ない」
 「ほら出た! カルロスチックな発言! 親子そろって何でもかんでも関係ないで済ますなよ!」
 「あのな、俺はオプタリエの外で育った。何でもありの場所だった。早々簡単にへこたれやしない」
 「そういう問題じゃないって! とにかく今日、急だけどアリスのところへ行こう!」
 昼頃までチャドは暖簾に腕押しの説教を続けたが、どうも効力がないと判断したようだった。そこで、引きずってでもジェフをアリスのところへ連れて行く決心をした。
 というわけで今、ジェフはチャドに引きずられるようにアリスの元へ向かわされていた。
 「何だろう?」
 村の中心の教会に人だかりができており、制札が立てられていた。
 「あんたの手配書と・・・すごい額だな」
 チャドは何か言いたそうな目でジェフを見上げた。
 「何だ、俺を売ろうってのか」
 「うん・・・ちょっと思っただけ」
 「いい度胸だ」
 「それと、その隣は何だろう? ジェフ、字、読めるよね?」
 「・・・税率上昇の知らせだ」
 「これ以上? もうたくさんだよ!」
 チャドは頭を抱えてしゃがみこんだ。
 「もう我慢できないぜ」
 一人の男が、ジェフの隣で息巻いた。
 「あの連中、巻き上げるだけで何も還って来やしねえ・・・!」
 ジェフには耳の痛い話だった。
 「俺・・・どうしよう・・・このままだと生活できなくなるかも・・・」
 チャドがしゅんとしょげてしまった。
 「とりあえず、今はアリスのところへ行くんだろ?」
 ジェフなりに気を使って、チャドの思考を方向転換させた。
 「ああっ、そうだ、アリスにみっちり叱ってもらわないと!」
 チャドはすぐに顔を上げ、ジェフの腕をつかんで彼を連行して行った。アールとアリスの施療院まで来ると、ちょうど薬草畑の世話をしていたアリスが顔を上げた。
 「あらチャド、ジェフ。どうしたの? 怪我でもした?」
 「聞いてくれよアリス!」
 チャドは勝手に柵を越え、薬草畑の奥方に事の次第を話して聞かせた。
 「ジェフが何だって?」
 昼食を取りに、アールも往診から戻ってきた。
 「ほらこれ!」
 チャドはまたも勝手にジェフの懐に手を突っ込み、先程の干し肉の欠片を取り出して見せた。ジェフはされるがままに、やれやれとそっぽを向いた。
 「この人、こんなものばっかりで生きてるんだって!何とか言ってやってよ!」
 チャドは息巻いた。
 「・・・ジェフ、あなた生きてる?」
 アリスは不思議そうに尋ねた。
 「一応な」
 「あなた、ここへ来てから痩せたんじゃないの? そうでしょう?」
 「さあな。自分の容姿に興味はない」
 「だからそのカルロスチックな発言やめろって! 物悲しくなるだろ!」
 遺伝だろ、とジェフは肩をすくめた。
 「とにかくあなた、他に何か食べた方が良いわ。ちょうどお昼だし、上がっていって? チャドも」
 「そうだ、ジェフ。私もあんたに訊きたいことがある」
 ちょうどいい、と、アールも頷いた。ジェフは食事に招かれてばかりでは申し訳ないと思う間もなく、アリスの細い腕のどこにそんな力があるのかというほどの力で引きずられていった。柔らかな言葉よりもかなり怒っているらしい。
 やたらと引きずられる日だ・・・。
 ジェフはあれよあれよいうまにアールとアリスの家に引きずり込まれた。

 「だいたいね、人間は三食きちんと食べて成り立つものなのよ! こんな干し肉の欠片を一日一つだなんて!」
 食事の後、ジェフはチャドの希望通り、アリスにみっちりと説教を食らっていた。それを眺めるチャドはどこか清々しそうな顔をしていた。
 ジェフは王族の人間だ。一般の人間とは身体のつくりそのものが違う。たしかに、干し肉の欠片だけでは少なすぎるが、かといってそれが原因で死んだりはしない。と言ってやりたいがそうもいかない。
 「あのな、アリス。さっきチャドにも言ったが、俺はオプタリエの外で育った」
 「オプタリエの・・・?」
 アリスとアールの目が丸くなった。
 「そうだ。だからひもじさにも様々な危険にも慣れてる」
 「でも、今は違うわ。もっと自分を大切にしないといつか――」
 「その辺にしておけ、アリス」
 アールが苦笑混じりに仲裁に入った
 「私もジェフと話がしたい」
 「何だ?」
 ジェフはようやく説教の嵐から解放されてホッとしてアールを見た。
 「あんたの手配書を見た。すごい額だった。何をしたんだ?」
 今度はそれか。秘密を守る為にこれほど苦労したことはない。父親がなぜ村人と関わろうとしなかったのか、ようやく理解できた。
 「・・・悪いが、言えない」
 「なぜ」
 「あんたたちはもうすでに危険な状態にある。村人たちは俺を知らないと言ったそうだな? それだけで、俺に肩入れしたことになる。俺と同罪とみなされたら死刑だ」
 その場がしんと静まり返った。
 「だから、何をしたんだ」
 「俺は今夜にもここを出なければならない。長く居すぎた」
 「何だって?」
 「俺と関わってもろくなことにならない」
 「待て」
 アールが真剣な声で言った。
 「罪人に肩入れするものは同罪と見なす――それくらい、みんな知ってるはずだ。みんなあんたの罪を一緒に被ろうとしてる」
 「だから、それがまずいんだ」
 「村人の思いを無駄にするのか? ルークでさえあんたを知らないと言ったんだ」
 「ルーカスが・・・?」
 「あんたが何をしたにせよ、みんなあんたの味方だ。それに私との約束を忘れたか?」
 「ここでそれを持ち出すのは卑怯だろう・・・」
 「何と言われようと、あんたはここにいるのが一番に私には思える」
 「話したくないことを無理に訊くのはよくないわ」
 今度はアリスが割って入った。
 「とにかくジェフ、あなたがまともに生活できない事情があるなら、毎日ここへ一人分の豆や野菜を持ってきてちょうだい。うちで助けてあげるわ」
 「そんなわけには――」
 「もう一人、その方向で話を進めてる奴がいる。気が合うかどうか分からんが、食事のときだけだ――」
 「おいアール!」
 そこへ、外から切羽詰ったような大声がした。アールが窓から顔を出すと、メルロスが慌てたようにやってくるところだった。
 「どうした?」
 「村の連中が騒いでる。鎮めてくれないか」
 「わかった」
 「あんたは医者じゃないのか?」
 ジェフは不思議に思った。酒場での騒ぎを鎮めたのもアールだった。
 「色々な医者さ」
 アールは医療者の紋章、ヘビの紋章が入った濃紺のローブを纏いながら苦笑した。
 アールが出て行った後、アリスが真剣な声でジェフに言った。
 「いいわね?ジェフ。しばらくでかまわないから。少し生活を立て直さないと」
 「・・・ありがとう」

 その晩のことだった。ジェフが寝支度をしていると、どんどんと扉がノックされた。ジェフは無意識のうちに剣を抜き、裏口からそっと抜け出た。そして表口の様子を窺うと――。
 「ルーカス」
 ルーカスが、外套のフードを目深に被り、佇んでいた。ジェフは剣を鞘に収めた。
 「あんた、騎士団にいたんだろう?」
 唐突な問に、ジェフは戸惑ったが、「ああ」と頷いた。
 「反乱を起こしたい」
 小さな火種に火が灯った瞬間だった。

言の葉の一族

 ジェフはルーカスに連れられて、村の教会へやって来た。そこには、村の大半の人間がいるようだった。皆一様に重々しい表情で座り込んでいる。ジェフは殺気のようなものすら感じた。その中にはアールとアリス夫妻もいた。
 「反乱を起こしたい」
 教壇の前まで来ると、ルーカスはフードを脱ぎ捨て、もう一度言った。
 「あんたの知識と力が必要だ」
 「ルーク」
 「黙ってろアリス」
 アリスが反論するような声を上げたが、ルーカスが圧し留めた。
 「もうみんな、国のやり方には我慢の限界を超えてる。誰かが動かなきゃ何も変わらない」
 「・・・反乱って・・・、何だか分かってるのか?」
 ジェフは考え込むようにゆっくりと言った。
 「当たり前だろう、馬鹿にしてんのか」
 「じゃあ、ここにいる全員が死ぬことになることもか?」
 「俺たちは死なない。死んでも次の村の希望になる」
 「ならない」
 ジェフはため息を吐いた。
 「農民が反乱を起こせば、国は今以上に農村部に辛く当たるだろう」
 「ならこのまま我慢し続けろってのか?」
 「どこに仕掛けるつもりだ? 王族か? 貴族か? 奴らを襲うのか? それでは夜盗のすることと変わらない」
 それに――、と、ジェフは付け加えた。
 「力の差がありすぎる。あんたたちは、“普通”の人間だ。だが王族ともなれば、普通の人間とはまったく違う。身体のつくり自体からすでに違っている」
 「どう違うんだ?」
 チャドが尋ねた。ジェフが言い淀んでいると、ルーカスが言った。
 「だから何だって言うんだ?」
 「剣の稽古もしたことがない一般の人間が、十人束になってかかって行っても、訓練を積んだ王族の人間には傷一つ付けられないということだ。悪いことは言わない。連中にかかっていこうなんて、思わないでくれ」
 「お前は連中をかばうのか?」
 「そうじゃない。ただ、・・・お前たちは連中の前ではあまりに弱すぎる。無駄な犠牲を出して何の意味がある」
 「だから、俺たちにはあんたが必要なんだ」
 レオが言った。
 「連中を知ってるあんたが」
 ジェフはため息を吐いた。どうしたらいい。
 「いいか、俺は連中をかばうつもりはない。だが王家が滅ぶことは、この国の滅亡を意味する」
 「俺たちでは国としてやっていけないってことか。少なくとも今の王政よりマシな政治ができるぜ!」
 教会の中からどやっと声があがった。
 「そうじゃない」
 ジェフは声を鎮めながら言った。
 「この国の伝承だ。・・・王家と共に王国は栄え、王家と共に王国は没する。・・・古文書の一文だ」
 「古文書・・・?」
 「連中に手出しをして、万が一国王を殺したとなれば、世継ぎがまだ生まれていない今、この国は滅亡する。だからやめてくれ」
 「何の話をしてるんだ?」
 メルロスが不思議そうな声を上げた。
 昼間の出来事もあった。ちょうどいい機会かもしれない。ジェフは一息ついてから話し始めた。
 「この国の伝承と、俺が賞金首になった話をしよう。俺を売れば、一生遊んで暮らせる」
 教会の中が、しん・・・と静まり返った。
 「それと反乱の話がどう――」
 ルーカスが言いかけた言葉を遮って、ジェフは話を続けた。
 「まず、この国の伝承だ。ファリガーナが現在の王家に王権を与えた話だ」
 「あんた、そんな話信じてるのか?」
 メルロスが言った。
 「信じようと信じなかろうと、どっちでも良いが、後で話すことを裏付けるにはこの話を信じるしかなさそうだ。・・・二千年以上前、この島は神々の領域にあった。この島の神、ファリガーナが、人間に島を開くよう、最高神に直訴した。初めは、住みついた人間も少なく、島は平和だった。しかし、神の領域の島が開かれたと聞き、外国の者たちも多くこの島へやって来た。そして長老の一族と外国との間で争いが起きた。島の長老はその惨劇を嘆き、どうか島を、民を救い給えと神に祈り続けた。そしてある満月の晩、ついにファリガーナがこの地に降り立った。神は言った。「お前たち一族をこの地の王としよう。私欲や業に走ることがなければ、二度とこの島で争いは起こるまい」と。それが現在の王家と王族だ」
 「その話が本当なら、この国とっくに滅んでるんじゃないのか?」
 「俺もそう思う。だがまだ話には続きがある。王家はファリガーナに誓って、この国の民を守ると言った。すると、ファリガーナは王家に恩寵を与えた。恐るべき身体能力と、不老長寿の力だ。連中が百を超えても若いツラしてるのは知ってるだろう? 決して不死ではないが、常人と比べたらものすごい長寿だ。その力で、民を守るようにと、ファリガーナは言った。そしてその後、大きな津波が起こった。外国から攻め入ってきていた船は皆沈んだが、長老の一族も外国の人間も、とにかく人間は助かった。すべてはファリガーナの力だった。外国の連中は侵攻を止め、この島を崇めるようになった。そして、大平歴が始まった」
 「えっ、大平歴って、この国が建国されてから始まったの?」
 アリスが驚きの声を上げた。
 「そうだ。そしてその後約二千年以上、争いらしい争いは起こっていない」
 「だが、そんなものおとぎ話だろう? 信じられない」
 ルーカスが言った。
 「おとぎ話で一つの王朝が二千五百年も続くと思うか? ルーカス。大陸では一つの王朝が続いても三、四百年だ。この島の伝説・・・、ファリガーナの伝説は、今では侵攻しようとした外国での方が詳しく語られている」
 「うん、俺も聞いたことあるよ、今の話」
 チャドが言った。
 「俺、大陸の出身なんだ。向こうでは、ここは神様に守られた至福の国だって言われてる。それで俺も子どもの頃ここへ来たんだ」
 現実はこんなだけどね、とチャドは苦笑した。
 「そうか、大陸の出身だったのか。・・・俺は元は、王族の人間だ」
 どよめきが広がった。
 「何だと――っ!」
 「だが何百年も前に、逆賊としての嫌疑をかけられ、滅亡させられた紋章官一族の末裔だ。俺の親父・・・カルロスもそうだ」
 「カルロスが・・・?」
 「俺は王族の中でも叡智に優れたウェルバという一族の末裔だ。ウェルバの一族は古くは“言の葉の一族”と呼ばれた。そしてそれが仇となり、俺の祖先は逆賊の嫌疑をかけられることになった。古くは、二つの家門が執政として働いていた。書と歴史を司る紋章官一族――俺の一族だ――と、護民官側のコルニクス一族。この二つの家門が執政官として働いていた。紋章官一族には、代々受け継がれる古文書というものがある。それによると、王家の心が業や私欲に傾くと、各地で災厄が起きる。奇病、地震、日照り、飢饉――そして、やがては国の滅亡を迎える。そういったものが起きる前に、王家に警鐘を鳴らすのが紋章官一族の勤めだった。やがて王家は、紋章官一族により深い信頼を置くようになった。コルニクス一族にとっては面白くない話だ。その頃にはすべての実権を掌握したかったんだろう。・・・そんな折、飢饉が起きた。紋章官一族は何度も国王に諫言した。王族の心はいまや業に傾いていると。しかし年若き国王は、何の手立ても打とうとしなかった。・・・あの時も何百という人が死んだ。しかも悪いことに、それらを予言した古文書は、今では使われなくなった古代語で書かれている。かつては共通語だったが、次第に廃れ、扱えるのは紋章官一族と聖堂の一部の者だけになった。そこでコルニクスは時を得た。あの一族は国王や王族に吹聴して回った。災厄が起きるのは、紋章官一族が王権を狙い、古文書を使って呪いをかけ、それを王家の責任として王家を滅亡へと導こうとしているからだとな。若き国王は、王権を奪われることを恐れ、紋章官一族への信頼も忘れ、一族を殲滅するよう勅命を出した。古文書には呪いのかけ方など一つも書かれていない。あるとすれば、あの紅玉の力のことくらいだ。もし本当に呪いのかけ方なんかが書いてあれば、俺が今王家を呪ってるところだ。紋章官一族には寝耳に水の話だったが、彼らは獣のように狩立てられ、半数以上が殺され、残りの半数はオプタリエの外へ逃げ込んだ」
 アリスが痛ましそうに口元を押さえた。
 「オプタリエの外へ・・・?」
 「そうだ。だから俺もあそこで育った。以来、紋章官一族へかけられた嫌疑は消えることなく、今でも逆賊として捕らえるよう、または殺すように勅命が出ている。・・・俺はそれで殺されかけた。俺を殺そうとしたのは、コルニクスの補佐官三人だった。その三人を殺し、俺は追われる身になった。お前たちも、下手な動きをすれば、俺の一族と同じ運命を辿ることになる。だからやめておけ」
 しんと静まり返った教会の中、ジェフだけが息をついていた。
 「あんた、それ、俺たちに話しちゃまずいんじゃないのか」
 「ああ。まずいな」
 ジェフは苦笑した。
 「だがあんたたちを止められるなら、俺の首くらい安いもんだ」
 「・・・それでも俺は納得いかねえ」
 「ルーカス」
 ジェフはなだめるように言った。
 「フリーギダのことも、今回の税のことも何もかも忘れろってのか? どうすることもできねえのか?」
 ルーカスの声には憎しみそのものが宿っていた。
 「だいたい、今の話が本当かどうかもわからねえ。のらくら昔話なんかして、お前も実は国から放たれた犬なんじゃねえのか?」
 「ルーク、今のジェフの話を聞いただろう」
 アールが割って入った。
 「それに昼間の手配書はどうだ? ジェフが本物のお尋ね者だという証だろう」
 「アール、あんたは」
 ルーカスはアールに詰め寄った。
 「フリーギダの子どもたちの姿を忘れたのか?俺たちが奇病に見舞われたとき、国は何かしてくれたのか?」
 「いいや、忘れはしない。だがここでジェフを疑うのは愚かだ。カルロスも同じことを言っていた。ジェフ、すまない、彼との約束を破る」
 アールは、一言ジェフに詫びてから話を続けた。
 「カルロスが旅立つとき、彼も同じ文献の話をして行った。次の予兆があるからと、不思議な話をして行った。そして古い言葉で書かれた書物を私に預けて行った。これを俺の息子に渡してくれと言って。親子揃ってそんなホラを吹くためにこんなところまでやってくると思うか?」
 「それでも俺は連中が憎い!」
 ルーカスが叫んだ。
 「俺もだ」
 「俺も」
 他の何人かの人間も立ち上がった。
 「さっきも言ったはずだ。お前たちはあまりに非力だ」
 「やってみなきゃわかんねえだろ!」
 「ならまず俺を殺してみろ。全員で掛かってきたっていい」
 「ジェフやめて!」
 アリスが声を上げた。しかし、ルーカスと他の数名は、手にしていた短刀で、一斉に丸腰のジェフに掛かっていった。
 一瞬だった。ジェフは自分を斬りつけてくる短刀をかわすこともなく、全員を一気になぎ倒した。
 「わかったか」
 ジェフはルーカスに言った。
 「これが王族の力だ。俺より強い奴などいくらでもいるだろう。丸腰の俺にすら勝てないようなら、命の無駄だ」
 「この野郎! てめえも王族なんじゃねえかよ!」
 ルーカスは再びジェフに斬りかかっていったが、ジェフは手を下さず、ただ避けるだけだった。
 「王族のもう一つの特徴は」ジェフは短刀を避けながらルーカスに言った。
 「異様なまでの自然治癒能力を持っていることだ」
 そう言うと、ジェフはルーカスの振り下ろした短刀の前に腕を出した。
 血がボタボタと床に流れ始めたかと思うと、次の瞬間にはその出血もおさまっていた。
 「どうだ。お前は確かに俺の腕を斬ったはずだろう」
 ジェフは袖を捲くり、ルーカスに見せてやった。血で汚れてはいるものの、そこには傷跡らしいものは少しも見当たらなかった。
 「こんな人間にお前がどうやって勝てる! 命を無駄にするな!」
 ジェフが大声を出した。その凄みは圧倒的で、その場を支配した。
 「それでも俺は死んでもかまわない!」
 「お前がよくても他の者たちはどうなる! 遺された子どもたちは? 年老いた親を抱えた者たちだっているだろう!」
 「もうやめて!」
 アリスが二人の間に割って入った。
 「こんなことして何の意味があるの? ジェフ、あなたもあなたよ!どうして――」
 「どけアリス!」
 ルーカスはアリスを押しのけた。
 「お前はこいつらが憎くないのか? こいつらだけこんな恩寵を授かって、俺たちはべたべたと地べたで暮らしてるんだ!」
 「ルーカス」
 狂気じみたルーカスの声を聞いて、アールは観察するようにルーカスを見据えた。
 「お前、薬を飲むのをやめたな?」
 「だったらどうした! 薬なんかで憎しみが抑えられるとでも思ってるのか! アリスだって分かってるはずだ! 薬なんて役に立たないときがあると――お前たちだって王族に子どもを」
 次の瞬間、バシッと乾いた音が教会に響いた。アリスがあらん限りの力を込めてルーカスの頬を打ったのだ。
 「そうよ! 薬で抑えられないものもあるわ! だけど私たちの子がいなくなってしまったのはジェフのせいじゃない! 彼がただ王族の生まれだからといって、それだけでジェフまで憎まなければならないの? あなたが一日中物も食べずに人を殺すことだけ考えてるなんて、そんなのフィオナとルーサーが喜ぶとでも思ってるの?」
 「アリス、もういい」
 アールがアリスの肩をぎゅっと抱いた。アリスはボロボロと涙を流し、ルーカスを睨んでいた。
 ルーカスは我に返ったような表情で、自分が今何を言おうとしたかを知った。
 「すまない・・・」
 「とにかく」
 ジェフが息をつきながら皆に向って言った。
 「馬鹿な真似はやめてくれ。どう考えても無謀すぎる」
 俺の一族と同じ道を辿るな、と、ジェフは言った。
 そのとき、ドサッと音がして、ジェフはそちらを振り向いた。ルーカスが倒れていた。
 「大丈夫だ」
 アールがすぐにやってきて、彼の脈を取りながら言った。
 「このところ、こいつはずっと食べ物を口にしていなかった。あんたと同じだ」
 「なぜそんなことに?」
 「ルーカスにはフィオナという妻がいた。フリーギダから嫁いできた娘だった。飢饉があってから、フィオナは実家を手伝う為に里帰りしていたんだが・・・、あそこで命を落とした。弟のルーサーも死んだ。それ以来、精神的に非常に不安定になった・・・。こいつは人一倍、王族を憎んでる」
 「いい機会だから入院の話、決まりにしましょう」
 アリスが涙を拭いながら言った。
 「まともに食べるようになるまで帰さないんだから」
 「食事の相方ってこいつか」
 若干びくつきながらジェフが尋ねた。
 「すまないがこの近所の誰か、荷車を貸してもらえないか。ルークを運ぶ」
 アールがルーカスに外套をかけてやりながら声をかけた。
 「いや、俺が運ぼう」
 ジェフが進み出た。
 「体力使わせたのも、興奮させたのも俺だ」
 「だが、結構距離あるぞ」
 大丈夫か?と、アールはジェフを見上げた。
 「今見てただろ」
 力だけはある、と、ジェフはルーカスを肩に担ぎ上げた。

第二章 王妃の幸せ

 一方、王都カルブンクルス。物語はジェフが都を追われてから一が月が経った頃に遡る。

 「今でも信じられねえよ」
 王城の中庭を警護していた見張りの若い騎士が、ぼやき声を上げた。
 「あのジェフが執政補佐官を三人も殺しただなんてよ・・・」
 「その話はもう諦めるしかないだろ」
 隣に立っていたクレストがため息を吐いた。
 「俺だってまだ信じられない。あの人が謀反を働いただなんて。だけど、あの人の思想からしたら、突発的過ぎるけど王家が敵に見えたのかもしれない」
 「王家が敵だなんてよ・・・騎士団がいる意味がねえじゃねえか」
 そこへ、金髪の美しい王妃が通りかかった。その後にはぞろぞろと侍女たちが群れをなしてついて来ていた。
 「ご苦労様」
 王妃は優雅に二人に声をかけると、中庭へと消えていった。
 「王妃が懐妊してから、宴がますます多くなったな・・・」
 クレストが呟いた。
 「何だって?」
 「ジェフが言ってたんだ。民が飢えで苦しんでるのに、宮廷では豪遊三昧が続いてる・・・。これじゃ民に示しがつかないだろって」
 「そうは言っても一大事だ。外国からの客人も増えてるし、だから俺たちもこんな中庭まで見張ってなきゃいけないんだろ」
 「そうだけどさ・・・俺、たまにジェフが正しいんじゃないかって思うときがあるんだ」

 「妃殿下」
 侍女長のファナが呼びかけた。
 「本日はゴルドアの王妃が贈ってくださった御子の産着が届く予定ですよ」
 若き王妃、ディーウィティアは、それほどにこりともせず「ええ」とだけ言った。王妃が花壇へ近付くと、侍女たちもそちらへぞろぞろと移動する。やがてディーウィティアはきつい口調で言った。
 「少し一人にしていただけませんか?」
 「そうは仰いましても・・・」
 ファナが困ったような顔をした。
 「これだけの方に見守られていれば、中庭で迷うこともございません。ほんの少しで結構ですから、少し離れていていただけませんか」
 物腰は丁寧に戻ったが、これは命令だった。侍女たちは顔を見合わせたが、一礼して、一歩下がった。
 ディーウィティアは噴水の縁に腰をかけ、小さくため息をついた。自分が懐妊してから幾月が経ったのだろう。
 あれは春も浅い頃、王家の催す宴でのことだった。ディーウィティアには、騎士団の騎士の一人に、アウリスという秘密の恋人がいた。 王族の中でも珍しい金髪の彼女に、アウリスが一目惚れしたのだ。当時未婚であったディーウィティアは、親にも隠れてアウリスと密会していた。しかし、彼女は知らなかった。国王の花嫁という最高の白羽の矢が、まさか自分に当たろうとしていたことなど。
 
 「陛下」
 聖堂の聖職者が、宴の最中に国王、ウィリデウスに声をかけた。
 「先日お話いたしました、花嫁探しの件はご検討いただけましたかな?」
 「またその話か。面倒な」
 ウィリデウスは大きな肉の塊をナイフで切りながら鬱陶しそうに返事をした。
 「なにせこの時勢です。何か祝い事がなければ人心も荒んでしまいます。本日の宴には、王族の選りすぐりの美女が揃っておりますぞ」
 いつまでも後宮通いでは・・・と、聖職者は言葉を濁した。
 宴の席でつらつらと説教をされる国王は、齢百五十になろうとしていた。とうに妻を娶り、跡継ぎを作らなければならない歳であった。
 ウィリデウスは聖職者と話しながら、上座から下座をざっと眺めた。しかし、ウィリデウスには後宮にレグレティアという最愛の愛妾がいた。愛妾は愛妾であって、処女ではなくなった彼女は、今の法律では国王の妻となることはできない。またこの国の王位継承者は、分血の儀を終えた正式な妻との間にしか生まれない。
 そのとき、ウィリデウスの目に留まったのが、アリウスと密会する為に立ち上がった、ディーウィティアであった。黒髪の美しいレグレティアと正反対の、金髪の美女であった。ウィリデウスは一目で彼女を愛した。
 「あの娘だ」

 「発表する」
 アリウスの元へこっそりと抜け出そうとしていたディーウィティアは、聖職者の声に立ち止まった。
 「今宵、国王陛下は、アルクス伯爵の娘御、ディーウィティア嬢を花嫁としてお迎えする」
 ディーウィティアにはわけがわからなかった。何かの間違いではないか。 さっと会場に目を走らせると、皆が祝福の拍手を送り、賞賛の眼差しで自分を見ていた。その中に、アリウスが、呆然として彼女を見つめていた。
 国の官長たちがディーウィティアの元へ来て、恭しく礼をした。
 「今宵、国王陛下はあなたを花嫁としてお迎えする」
 「何という栄誉だ!」
 隣席の父親のアルクスも、歓喜してして立ち上がった。
 違う、嫌だ、私には恋人がいる。そんなことを言える状況ではなかった。国王からの求婚を断りなどすれば、首が飛んでもおかしくはない。ディーウィティアはなす術を知らず、ただ婚儀の流れへと飲み込まれていくしかなかった。
 
 そしてその十日後、婚礼の儀が執り行われ、分血の儀も行われた。国王の血を混ぜた葡萄酒を飲み干すのである。そうすることで身体中の血が王家のそれへと変わり、王族の中でも取り分けに強く、美しくなるのである。それと同時に初夜の儀も執り行われ、先程まで処女であったディーウィティアの血が流された。そのたった一度の契りで、ディーウィティアは子を授かったのである。国王と褥を共にしたのはその一晩限りで、ウィリデウスはディーウィティアを愛しながらも、レグレティアから離れることができなかったのである。

 ある晩、ディーウィティアがなかなか寝付けずに、褥を抜け出したことがあった。
 すると、回廊の奥から聞き覚えのある声が聞こえてきた。アリウスだ。しかし、彼は一人ではなかった。クスクスと笑う、女の声が聞こえる。ディーウィティアは、衝撃のあまり立ち尽くしてしまった。
 「僕には君だけだよ」
 同じ言葉を、自分にも・・・。
 やがて口付けを交わす音と衣擦れの音、控えめな女の喘ぎ声が聞こえてきて、ディーウィティアは耐えられなくなり、駆け出した。アリウスを本気で愛した自分が愚かに思えた。
 「妃殿下!このような時間にどちらへ?」
 寝室の警護をしていた衛兵が驚いて声を上げたが、ディーウィティアは何も答えず、ただ褥に泣き崩れた。あれほど愛していると囁いてくれたあの人が。こんなにも早く自分の代わりを見つけ、同じように愛を囁いているなんて。信じられなかった。信じたくなかった。
 「あ・・・」
 ディーウィティアは急に腹部に違和感を覚え、声を上げた。

 その夜、ディーウィティアは自分の懐妊を知ることになった。

 現在――。
 ディーウィティアはそっと、膨らみ始めた下腹部に手を添えた。百年に一度、授かることのできる、国王のたった一人の子。一人で出歩く自由も、両親に会う自由も、誰かを愛する自由も、すべての自由が、一夜にして何もかも奪われた。しかし、自分の地位を熱望している女性はこの世にごまんといるはずだ。
 中庭の噴水から水鳥が数羽、バサバサッと羽音を立てて飛び立っていった。
 ――自由が欲しい・・・。
 でも・・・。
 「これがきっと、女の幸せというものなのでしょうね・・・」
 下腹を押さえた手の甲に、ぱたりと涙が落ちた。

 ある朝、ウィリデウスはいつものように後宮で目を覚ました。隣ではレグレティアがすやすやと眠っていた。
 緩慢な動きで寝巻きから服に着替えると、衛兵を従え、顔を洗い、玉座の間へと足を運んだ。そこには聖堂の数人の聖職者、コルニクス、騎士団の長官、そして顔色の悪いディーウィティアが頭を垂れて待っていたが、ウィリデウスは彼女の顔色になど全く気付かず、
 「いい朝だな、ディーウィティア」
 と言った。
 「おはようございます、陛下」
 ディーウィティアは膝を折って礼をし、それを見たウィリデウスは、満足げな笑みを浮かべ、玉座の上にある祈りの座への階段を上り始めた。そしてそこでウィリデウスは跪き、この国象徴である赤いリエンゼルの花が織り込まれた機の前に、首から下げていた同じ花をかたどった首飾りを置き、その前に頭を垂れた。それと同時に、聖職者長が古代語で詠唱を始めた。

 『麗しきこのベルスの守護神、最高神よ、我らが国民(くにたみ)を守り、永久の繁栄をもたらし給え』

 その言葉に、その場にいた全員が跪き、頭を垂れた。
 これが、二千年以上続く、毎朝の王家の祈請の儀式だった。

 『国王と王家、王族が国民の幸福のみを一心に祈れば、二度とこの国で争いは起こるまい』

 この伝承は、今でも王家に継承されてきた。現在でも、この儀式によって神に祈りを捧げている。――はずだった。
 しかしウィリデウスは、内心この儀式を面倒に思っていた。
 ――このような儀式、形式上のもので、神などこの世におるものか――。
 そう思いながら、ウィリデウスは頭を上げた。
 跪いていた聖職者やディーウィティアも立ち上がり、礼の姿勢を解いた。ウィリデウスは首飾りを首にかけ、もう一度赤の紋章に礼をすると、階段を下りてきた。
 「腹が減った。朝食にするぞ!」
 ディーウィティアはぎこちなく笑いながら、「はい」と返事をした。
 朝食中、ウィリデウスは斜め向かいに座ったディーウィティアがほとんど食べ物に手を付けないことに気がつき、声をかけた。
 「どうしたディーウィティア。口に合わんか」
 「いえ、そうでは――」
 「身篭った身だ。しっかり食べんと元気な世継ぎが産めんぞ。世継ぎさえ生まれれば、この国は安泰なのだからな」
 満足そうに大笑いし、果物を口に運ぶウィリデウスに、ディーウィティアはどうしても嫌悪感を抱いてしまうのだった。
 「申し訳ありません・・・」
 しかし彼女はそんな感情をおくびにも出さず、静かに微笑んで見せるのだった。
 そしていつだったか、騎士団の前長官が、国を追われる前、自分を気にかけてくれていたことを思い出した。

 「妃殿下、差し出がましいようですが、あまりお顔の色が優れないようですが――」
 ディーウィティアが人目を忍んでこっそり中庭に抜け出し、花を眺めていたときだった。不意にかけられた言葉に、ディーウィティアはすぐに返事をすることができなかった。
 「あ・・・」
 「私でお役に立てることがございましたら、何なりと」
 「あなたは・・・?」
 ディーウィティアは長身のその男を見上げた。
 たしか騎士団の長官だと紹介された覚えがあったが、あまりに覚えなければならない顔が多すぎ、自分の記憶に自信がなかった。すると、彼は微笑み、胸に手を当てて礼をした。
 「これは失礼いたしました。ベルス騎士団長官、ジェフリー・レヴィナスと申します」
 「ああ、よかった。間違ってなかったわ」
 ディーウィティアはほっとしたようにくすくす笑った。
 「ごめんなさい、紹介された方があまりに多すぎて、みなさんのお顔とお名前がまだ覚えられないの」
 「さようでしたか。ですが、私に対してそんなにお気を使われることはありませんよ」
 ジェフも笑い返した。
 「急に慣れない場所へとお越しになって、不便な思いもしておられることでしょう。ファナも心配しておりました」
 「いえ――あ、ごめんなさい・・・」
 ディーウィティアは多くの者に心配をかけていること知り、申し訳なく思った。
 「お気になさる必要はございません。環境が変われば、人は戸惑うものです」
 ディーウィティアはその言葉に顔を上げた。この人は、自分を「人」として扱ってくれた。王妃としてではなく。
 「・・・ありがとう」
 ディーウィティアは、王家に嫁いでから、初めて心から微笑んだ。
 「必要があれば、何なりとお申し付けください」
 もう一度礼をして去って行こうとするジェフに、ディーウィティアは慌てて声をかけた。
 「あの、なら――」
 「はい」
 ジェフが振り向くと、ディーウィティアは言いにくそうに言った。
 「私がここにいること、内緒にしてくださらない? ファナにも内緒で抜け出してきたの」
 その言葉を聞いたジェフは、笑って言った。
 「宮廷での暮らしは窮屈でしょう。妃殿下が望まれるなら、私も口を閉ざしましょう」
 「ありがとう!」
 ディーウィティアはほっとしたように笑った。
 「では、失礼いたします」
 ジェフはもう一度礼をして、中庭を後にした。

 城の中で唯一、自分を「人」として扱ってくれたあの人ももういない。彼が逆賊だなどと、ディーウィティアにも信じられなかった。
 ディーウィティアは、自分がどんどん小さな檻の中に追い詰められていくような錯覚を覚えていた。

 そんなある日、ディーウィティアは重い気分と、身籠って重くなり始めた腹部を抱えて、城の中を散策していた。が、昼近くになって、自分がどこにいるか分からなくなってしまった。  今日に限って、侍女であるファナは、やがて生まれくる世継ぎの生誕祭の会議に出席していた。 しかしそれを承知で、内緒で部屋を抜け出したディーウィティアに非があった。
 長い長い回廊を、途方に暮れて歩いていると、突き当りの豪奢な部屋から物音が聞こえてきた。ディーウィティアは、助かったとばかり、ためらいがちにそのドアをノックした。 ややあって、中から「誰」と、ぶっきらぼうな声がした。
 「あの・・・、ディーウィティアです。あの・・・」
 ディーウィティアが剣呑な声に怯み、遠慮がちに名乗ると、ドアが開いた。
 「ああ、あなたがウィルの正妻になった人?」
 ウィルとは、国王ウィリデウスの愛称だ。 ウィリデウスをウィルと呼ぶ人間などベルスの中でも彼女しかいない。ふふふと、どこか優越感を漂わせた笑みを浮かべて、女は言った。
 ディーウィティアは少し驚いた。彼女の着ているものは、薄手の絹のガウンのみ。そして、別にかまわなかったが、自分が名乗って跪かなかったのは、彼女が初めてだった。
 「どうぞ」
 彼女は名乗りもせず、部屋の扉を大きく開けて、ディーウィティアを中へ誘った。中には大きな寝台が一つ、テーブルには酒や果物の乗った盆が置かれていた。
 「ありがとう。あの・・・あなたは・・・」
 「レグレティアよ」
 ディーウィティアはざわっと悪寒を覚えた。ウィリデウスが夜毎通っている後宮には、彼の最愛の女がいる。その名は――。
 「私の名前が変?」
 レグレティアは相変わらず愉悦に浸った笑みを浮かべている。
 「え?」
 「淪落の姫君。それが私の呼び名よ」
 「まさか、最初からそんな名前だったはずないでしょう。本名は何ていうの?」
 「忘れたわ」
 レグレティアは大して気に留める様子もなく、手近にあった烟草に手を伸ばし、火を付けた。
 「私は元々娼館で働いていた三流貴族。後宮にいい女がいないってウィルがごねて、私のところに後宮に行かないかって話が来たの」
 レグレティアはおかしそうに笑った。
 「最高よね。ウィルの夜の相手さえしていれば、食べるものにも着るものにも困らないんですもの」
 そのうえ、と、レグレティアは付け加えた。
 「私は元々処女じゃないから、正妻にはなれない。分血の儀さえしなければ彼の子を身籠ることもないのよ」
 ふーっと煙を吐き出したレグレティアは、「あなたは大変ね」と言った。
 「別に、彼のこと愛してるわけじゃないんでしょう。なのにあんな男の子なんか孕まされて。そのあとは夜も昼も相手にしてもらえないんでしょう?夜の間は私が相手してるんだから」
 「っ」
 ディーウィティアは次々に浴びせられる言葉の数々に唇をかんだ。
 「でも、あなたはその分、私より確立された立場も身分も手に入れた。そして美貌も強さも、不老長寿の力も」
 「本館はどこ」
 その場にいられなくなったディーウィティアは、やっと言葉を絞り出した。
 「やだ、後宮に迷い込んだの?私に会いに来たのかと思ったわ」
 レグレティアは小ばかにしたような笑い声をあげた。
 「本館はどこ」
 レグレティアはもう一度煙を吐き出すと、「この回廊を突き当たって右の階段を上って、そのまま歩いていけば食堂に着くわ」と教えてやった。そして最後に白々しくも言い添えた。「妃殿下」
 ディーウィティアは踵を返すと、言われた通りに、体が許す限り早足で歩いて行った。歩きながら、必死で涙をこらえた。レグレティアの言葉はすべて正しい。それを、加減することもなく次々と浴びせられて、ディーウィティアは精神の限界を感じた。
 何もかも失い、それでも他人からはああして不老長寿の力、美貌、子宝を授かった世界一の幸せ者だと思われている。
 やがて食堂に差し掛かると、ファナがあわてて顔を出した。
 「妃殿下! どちらへ? お探し申し上げました」
 「ファナ、お願いがあるの。今日は、一人にして」
 ウィリデウスは今夜もレグレティアのもとへ通うのだろう。
 別にウィリデウスに相手にしてほしいわけではない。ただ、自分が子供を産むための道具にしか思われていないことが、たまらなく悔しく、悲しかった。
 なぜ、私なのか――。
 もはや逃げられない運命の中で、ディーウィティアは、次第に生きる気力を失っていった。

 月日は流れ、冬が来た。ディーウィティアは、王宮での生活に慣れることなく、またアリウスへの思いを捨てきれずに苦しみ、次第に心を病んでいった。
 しかし何より彼女を悩ませたのは、満月の夜に必ず見る悪夢だった。どこかの戦場のような場所で、阿鼻叫喚の中、人々は逃げ惑い、殺し合い、子どもが泣き叫ぶ――。王家に嫁いでから、満月の夜に必ず同じ夢を見るようになった。ディーウィティアはやせ衰え、出産間近にもかかわらず、相変わらず食事も取ろうとしなかった。
 そして二月のある日、ディーウィティアはついに出産の日を迎えた。さすがのウィリデウスも、王妃の部屋の前で世継ぎの誕生を待っていた。
 「まだか」
 「今しばしお待ちを」
 ウィリデウスは、ディーウィティアの元を訪れなかった数々の夜の事を悔やんでいた。これからはもっと妻との時間を持とう。遅まきながらそう心に決めていた。

 「あああああああっ!」
 ディーウィティアは壮絶な痛みに耐え、力の限り叫んだ。そして、やがて産声を上げたのは、小さな女の赤ん坊だった。
 「妃殿下、お生まれになりましたよ! 可愛らしい王女です!」
 ファナが赤ん坊を取り上げながら歓喜した。
 レグレティアの言った通り、愛してもいない男の子を孕まされたのだと、ディーウィティアはずっとそう思っていた。しかし、新たな命を目にした今、その瞳は喜びに満ち溢れた。
 ――この子には自由に育って欲しい・・・。海よりも遥かに自由に・・・。
 「セレスティア・・・」
 ディーウィティアは赤ん坊に名付けてそう呼んだ。母親が子に名を授けるのが、ベルスの王族の慣習だった。
 「セレスティア・・・天空の舞姫。素敵なお名前でございますね」
 しかし、それがディーウィティアの最期の言葉となった。出産にすべての生命力を使い果たしたのだ。
 「妃殿下!」
 意識を失い、やがて静かに息を引き取ったディーウィティアに、ファナが何度も呼びかけた。しかし、何度呼びかけても、ディーウィティアはわが子を腕に抱くこともなく、冷たくなっていった。
 「生まれたか!」
 ウィリデウスが赤ん坊の産声を聞き、待ちかねたとばかりにやって来た。しかし、彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、生まれたばかりのわが子ではなく、死んでしまった妻の姿であった。
 「ディーウィティア!」
 ウィリデウスも幾度も妻の名を呼んだ。しかし、ディーウィティアが二度と再び目を開くことはなかった。
 「御子をお産みになるのにすべての力を使い果たされたのです・・・。こんなに痩せ衰えられて・・・」
 ファナが涙を拭いながら言った。
 「何ということだ・・・!」
 「五番目の王女ですな・・・」
 傍に控えていたコルニクスが言った。
 「何のことだ」
 「狂女王シレンティアの予言です。“五番目の王女はすべて海に還すべし”・・・意味は分かりませんが、聖堂の文献に記されている言葉です。陛下の御子は歴史上五番目の王女となります」
 「今は難しいお話はさておき」
 ファナが産まれたばかりの王女の湯浴みを済ませ、産着に包んだ赤ん坊をウィリデウスに差し出した。
 「王女様を抱いて差し上げてください。セレスティア王女と、妃殿下は名付けられました」
 しかし、ウィリデウスにはディーウィティアの死の方が衝撃であった。王家の者となった人間が、これほどまでに簡単に死んでしまうとは。彼は後ずさり、呟くように言った。
 「悪魔の子だ・・・」
 「何と?」
 ファナは驚いて尋ねた。
 「悪魔の子だ! その子を産んだが為にで我が妻は死んだのだ! 私の子ではない! コルニクス、先ほどの言葉をもう一度申せ!」
 「五番目の王女はすべて海に還すべし」
 「ならば海へ流せ! 我が子ではない! 海へ還すのだ!」
 ウィリデウスは狂ったように叫び続けた。
 時は満月の夜だった。

 次の昼のサルトゥス――。
 国中に鐘の音が響いた。
 「生誕の鐘だわ」
 外で庭仕事をしていたアリスが顔を上げた。
 「お産まれになったのね!」
 たまたまアールの元を訪れていたジェフも顔を上げた。しかし、その後で、最初に鳴った鐘より低い音の鐘が響いた。しかも、長く、長く、二人分の死を意味する鐘の音が。
 「そんな・・・王妃様も御子も亡くなられたということかしら?」
 「おかしい」
 ジェフは呟いた。そして、気がついた。前回王女が生まれてから五百年が経っていることに。 歴史書によれば、初代の女王が王位に就いてからの後、五百年ごとに王女が生まれている。そして、今度は五番目の王女ということになる。
 「くそっ、何てこった!」
 今までそれに気づかなかった自分に、ジェフは悪態をついた。
 「アール、俺はしばらく村を空ける」
 「どうかしたのか」
 「一大事だ。ここへは恐らく戻ってくるだろうが、戻らなかったときは――」
 死んだと思ってくれ。
 ジェフの真剣な眼差しに、アールは「わかった」と頷いた。
 ジェフは小屋に戻り、馬に飛び乗ると、一年ぶりに王都を目指して駆け出した。

五番目の王女

 数日後、ジェフは王都に辿り着いた。夜間、聖堂に忍び込むと、夜衛たちに少し眠ってもらった。月明かりを頼りに史書を取り出し、その中を読んでみた。この歴史書にだけは、王家の間で起こったことの真実の歴史を確実に書き記すことになっているはずだ。そこに記されていたのは、王妃ディーウィティアの死と、そして――。

 ジェフが出て行って一月が経った頃、アリスは薬に使う海草を採りに海辺へ出てきた。かつてから憧れていた海が、アリスは今でもたまらなく好きだった。そのとき、どこかから赤ん坊の声が聞こえてきた。
 ――こんな寒い日の朝早くにこんな場所へ赤ちゃんを連れて出歩くなんて、どんな用事のあるお母様かしら。
 アリスはそんなことを思いながら岩場へと足を踏み入れた。しかし、彼女が歩みを進めるごとに、赤ん坊の泣き声は大きくなっていった。不思議に思ってその声を辿り、小さな洞窟に入ってから、愕然とした。赤ん坊の声は、小さな棺の中から聞こえてきていたのだ。
 「何てこと――!」
 アリスは洋服が濡れるのもかまわずに、ざぶざぶと海に入り、棺を取り上げた。
 「どういうこと――?」
 必死で棺をこじ開けると、産着を着た、生まれてそう経たないであろう赤ん坊が声を限りに泣き声を上げていた。一体いつからここにいるのだろう。桐の棺に入れられていたおかげで濡れてはいない。棺には何か文様のようなものが彫り込まれていたが、今はそんなものに頓着している場合ではなかった。
 「こんなに冷たくなって・・・!」
 アリスは採取した海草も何もかも放り出し、すぐに馬に飛び乗り、アールの元へと急いだ。

 「アールっ!」
 アリスはガタンッと施療院の扉を開けた。
 「どうしたんだ?」
 往診に行く準備をしていたアールは立ち上がり、そしてアリスの腕の中で泣いている赤ん坊を見た。
 「その子は?」
 すぐに手当ての用意をしながらアールが尋ねた。
 「わからない。海辺に捨てられていたの。棺に入れられて」
 「棺に?」
 「お願い、アール、この子、助かるかしら?」
 アリスは息を切らして、必死にアールに縋った。アールも驚きながら、すぐに赤ん坊の産着を捲り、脈を取った。
 「弱いが脈はある。とにかく温めて、ミルクをあげないと」
 しかし、赤ん坊は冷え切っていた。このままではいつまでもつかわからない状態だった。今生きていることさえ奇跡だと、アールは思った。
 「アリス、君も着替えておいで。風邪を引いてしまう」
 「アール、お願い、この子、見ていてね」
 アリスの悲痛な声に、アールは胸が苦しくなった。アリスは数年前、アールとの間にできた子どもを、彼女の父親に強制堕胎させられた経験があり、子どもを産めない身体になっていたのだ。
 「ああ、大丈夫だよ」
 アールは妻が着替えている間に外套を羽織り、すぐに出かけられる準備をした。それからアリスが戻ってくると、立ち上がって言った。
 「アリス、今はとにかくこの子を抱いて、温めてやってくれ。私は村で赤ん坊にミルクをあげられる女性がいないか探してくる」
 「ええ」
 この子を生かすためなら何でもする――そんな声で、アリスは頷いた。それを見届けたアールは、足早に馬に乗り、村中を回り歩いた。

 昼頃、アールが戻ってきたが、一人だった。
 「どう?」
 「だめだった。最近赤ん坊を産んだ女性は誰もいなかった・・・」
 「そう・・・でも、この子、ずいぶん脈が強くなったわ。身体も温まってきたし」
 「ああ。もう少ししたら、お湯に入れてやろう。本当に、いつから海にいたのかわからないが、生きていたことが奇跡だ」
 アールは外套を脱ぎ、壁に掛けた。
 「本当ね。アール、この子、少し抱いていてくれる?人工ミルクの材料を用意しておいたから、調合したいの」
 「ああ、わかった」
 アリスは赤ん坊をアールに渡すと、すぐに薬の調合を始めた。この国は薬学医術が非常に発展しており、アリスはその中でも指折りの薬師だった。アールが赤ん坊の顔を覗き込むと、赤ん坊はほんのうっすらと目を開けた。深海のような青さを湛えた瞳だった。
 「今更聞くけど、女の子かい?」
 「ええ、そうよ」
 しばらくの後、薬が出来上がった。
 「さあ、できたわ」
 アリスが薬を人肌に覚ましながらやって来た。小さな匙にあたたかい薬をすくい、赤ん坊の口元へ持って行くが、なかなか口を開いてくれない。
 「お願いよ、飲んでちょうだい――」
 祈るような声でアリスは辛抱強く赤ん坊を抱いた。
 「頑張れ――」
 アールも静かに赤ん坊の頭を撫で、二人で四苦八苦しながら、なんとか薬を飲ませようとした。
 「お願い、飲んで・・・飲んで・・・のん・・・! やったわ! アール! この子飲んでくれたわ!」
 「よかった。この調子でもう少し量を飲ませてやらないと」
 「ええ。さあ、もっと飲んで・・・いい子ね・・・」

 数日後――。
 「それじゃあアリス、往診に行ってくるよ」
 アールは赤ん坊を抱いた妻に声をかけた。
 あの赤ん坊は奇跡的に持ち直した。そしてアールとアリスが赤ん坊を授かったと、村中でお祭り騒ぎになった。村の皆が産着やおしめを作ってくれ、中には子どもの古着をくれる者もいた。この国――、とくにこの辺りでは、捨て子の親を探したところで見つかることはほとんどありえなかった。アールは、アリスが命を懸けて守ろうとしているその小さな命を、本当の家族にしてやろうと提案すると、アリスは狂喜して顔中の笑顔で喜んだ。こうして、深海のような色をした瞳の赤ん坊はアールとアリスの本当の娘になったのだ。
 「アリス、調子はどうだ?」
 アリスの食事療法で、ずいぶん調子を取り戻したルーカスが、薬をもらいにやって来た。
 「ええ、ずいぶんご機嫌よ。ほら、ルークおじさんよ」
 「おじさんはないだろう、おにいさんだ」
 「若ぶるんじゃないわよ、ねー」
 アリスが軽く赤ん坊を揺すってやると、赤ん坊は「うー」と嬉しそうな声を出してルーカスに向かって手を伸ばした。
 「まだ名前は決まらないのか?」
 ルーカスが赤ん坊をのぞき見ながら尋ねた。その瞳には愛情が宿り、この赤ん坊がアールとアリス夫妻の元にやって来てからというもの、ルーカスの精神はかなり安定した。
 「ええ、まだ迷っちゃって」
 アリスははにかんだように笑い、赤ん坊の頬を撫でた。赤ん坊がやって来てから、アールとアリスの娘の名付け親になりという村人が続出した。ルーカスもその一人だった。アールとアリスにとっても、村人は皆が家族のようで、なかなか決められずにいたのだった。
 「俺もつけてやりたい名前があるんだけどな」
 アリスは嬉しそうに、ふふっと笑った。
 「ありがとう。ジェフにも早く見せてあげたいわ」
 「あいつどこ行ったんだ?ずいぶん見ないが」
 「あの日鐘が鳴ってから、情報を集めてくると言って出て行ったわ。王妃様とお世継ぎが亡くなったことは、本当に悲しいことだわ」
 「どうでもいいだろう、王家のことなんか」
 「やめて、ルーク。赤ん坊の前でそんなこと。それに、王族だろうと盗賊だろうと、命にはみんな等しく価値があるわ」

 ジェフがサルトゥスの村へ戻ってきたのは、村を出てから二か月後のことだった。戻ったことを告げようと、朝になってからアールの元へやって来た。
 「アール」
 「ジェフ! 無事だったんだな」
 ジェフとアールは握手して再会を喜んだ。
 「ああ。だがまたすぐに出なきゃならん」
 「どうしたんだ? 何があった?」
 「王女は生きてる」
 「何の話だ?」
 「聖堂にもぐりこんで史書を読んで来た。生誕の鐘と弔いの鐘が鳴ったあの日、王妃は確かに死んだ。だが、生まれた王女は生きたまま海へ流されたと書いてあった」
 「・・・・・・」
 アールは、まさかと思いながら、ジェフの話を聞いていた。
 「もちろんこれは極秘中の極秘だ。公には王女は誕生と共に死んだとされている」
 そこへ、アリスがやって来た。
 「あら、ジェフ! お帰りなさい!」
 嬉しそうにジェフを歓迎するアリスのその腕には、赤ん坊が抱かれていた。
 「・・・この子は・・・?」
 深海のような青さを湛えた瞳の赤ん坊。ジェフは嫌な予感がした。
 「海辺に捨てられていたの。それで、私たちで育てることにしたの」
 「・・・いつのことだ?」
 「一月前よ。かわいいでしょう? まだ名前は決まっていないのだけど」
 嬉しそうに赤ん坊をあやすアリスをじっと見つめて、ジェフはさらに尋ねた。
 「・・・洞窟があったか?」
 「ええ。どうしてわかるの?」
 ジェフは質問に答えずに、再び踵を返し、アリスが訪れたであろう海岸に向かった。

 その日の夕方、ジェフはアールとアリスの施療院へ向かった。その途中、チャドに出会った。
 「やあジェフ!久しぶりだね!」
 「ああ」
 「相変わらず不愛想だね。どうしたのさ、深刻な顔して」
 「お前こそ変な声出してどうした。風邪か?」
 「うん、たぶんね。頭が痛くて、のども。アールのところに――」
 「後から来い」
 チャドの言葉を、ジェフは遮って言った。
 「何でさ! 俺は病人なのに! あんたの人相は治らないかもしれないけど、俺の風邪は薬で治るんだ!」
 「俺が先に用がある」
 「あんたの用と俺の風邪と、どっちが大事なんだい? こんなにふらふらしてるのに!」
 たしかに、チャドはいつもよりよろよろしている。声もがさがさして気の毒だ。
 「俺の要件が最優先だ」
 「あんた悪魔か?」
 チャドにワーワーとまとわりつかれているうちに、施療院に着いてしまった。窓から見えた室内には、ルーカスもいた。ジェフはどうしたものかと深いため息をついた。できればアールとアリスにしか話したくないことだ。チャドは何とかなるとして、ルーカスをどうするかが問題だった。
 「あ、ルークもいる。診察中かな? 赤ちゃんを見に来てるのかな?」
 「ルーカスが赤ん坊を?」
 ジェフは驚いてチャドを見下ろした。ジェフにはルーカスは子ども好きだという風にはとても見えなかったのだ。
 「知らないのかい?ルークはあの子のお気に入りだし、ルークも子供が大好きなんだ。ほら、ルークは――」
 チャドはそこで言葉を切った。反乱を起こしたいと言われたあの夜、ルーカスが妻を亡くしたことは、ジェフも聞いていた。おそらくルーカスも、アールやアリスと同じくらいに子どものことを気にかけているのだろう。
 ジェフは半分諦めて、施療院の扉をノックした。
 「ジェフ。突然どこへ行って来たんだ? 何だ? それ」
 扉を開けたアールは、ジェフが小脇に抱えた小箱のようなものに目を留めて言った。
 「ああ・・・、少し、話がある」
 「それはいいが、チャドはどうしたんだ?」
 「聞いてよアール。ジェフってば酷いんだ。俺が――」
 「来い、風邪だろうが、一応診せてみろ」
 チャドのがさがさの声を聞いた途端、アールは話を遮って施療院の中に引っ張り込んだ。ジェフはため息をついて、その後に続いた。
 「あら、ジェフ。どこへ行ってきたの?」
 ジェフは気取られぬように桐の棺を脇へ置き、アリスの手元を見た。
 「赤ん坊は?」
 「さっき寝ちゃったわ。このところ夜泣きがひどかったから、疲れてるのね」
 「見せてもらってもいいか?」
 「あら、今朝はすぐに出かけちゃったのに」
 アリスはくすくすと笑った。
 「ニ階にいるわ。見に行く?」
 「・・・ああ」
 「えーっ! 俺も――」
 「ほら、動くな」
 チャドが向こうで声を上げたが、診察中のアールにぐりっと首を曲げられ、痛そうな顔をして大人しくなった。
 「アール、チャドの風邪、赤ちゃんに大丈夫かしら?」
 アリスが声をかけると、アールはチャドに薬を飲ませながら答えた。
 「ああ、流行性のものじゃない。あまり近寄らなければ大丈夫だろう」
 「なら、みんなで行きましょう。みんなあの子に夢中なの」
 「いや――」
 一人でいいと言いたかったジェフだが、ちょっぴり自慢げなアリの声に何も言えなくなってしまった。チャドが毛布に包まれてから、一行はぞろぞろとニ階へ上がった。ジェフはそっと、誰にも気づかれずに赤ん坊が入れられていたのであろう棺を再び小脇に抱えた。
 「静かにね。きっと寝てるから」
 ニ階の小さな部屋がすでに赤ん坊の部屋にされており、中は村人たちからのたくさんの贈り物や花で埋め尽くされていた。
 「このゆりかごはルークが作ってくれたのよ。・・・さあ、いらっしゃい」
 眠っている赤ん坊をそっと抱きあげるそのアリスのその仕草は、本物の母親のそれだった。
 「いい子ね。さあ、ご挨拶なさい。ジェフよ」
 赤ん坊はぐっすりと眠ったまま、ぴくりとも動かなかった。
 「ジェフはお顔が怖いから起こさない方がいいんじゃないの」
 チャドの的確な忠告に、ジェフ以外の大人たちはくすくすと笑い声を漏らした。
 ジェフは迷っていた。この赤ん坊が五番目の王女であることは、この棺の紋章から見てもほぼ間違いない。この幸せそうな夫婦と村人たちの平穏を乱すようなことはしたくなかった。しかし、確かめなければならない。どうしても――。
 「みんな、騒がないでくれ」
 ジェフは静かに、小さな棺を取り出して見せた。
 「どこでこれを――」
 アリスの表情が一変し、その部屋が水を打ったように静まり返った。
 「・・・西の海岸、だろう?アリス」
 ジェフは静かに言った。それから、いつも持ち歩いている短刀を取り出した。
 「な、何をするの」
 ジェフは何も言わずに自分の指先をその切先でほんの少し切りつけた。よく研ぎ澄まされた短刀を指に滑らせると、鮮血がほとばしった。しかし、ジェフが外套の裾で血を拭う頃にはその傷口はふさがっていた。
 「この間、王族の特徴の話はしたな?」
 アールとアリスは驚かなかったが、嫌な予感がしたように顔を見合わせていた。
 「アリス、すまないが、怒らないでくれ」
 「何をするの」
 「確かめる」
 「何を」
 アリスは一歩、また一歩と後ずさりした。
 「その子が王家の娘かどうかだ」
 アリスは愕然とし、アールは予感が的中したような表情で、顔を曇らせた。しかし、ルーカスとチャドはジェフに言い返した。
 「王家の娘って、王妃と一緒に死んだんだろう」
 「そうだよ、あんたも弔いの鐘聞いたろう?」
 「そうだ。それでおかしいと思って調べに行ったんだ。・・・五番目の王女が生まれるはずだったからな」
 「五番目の王女?」
 「今はその話はいい。俺は世継ぎが本当に死んだのかどうか調べて来た。王妃は確かに死んだが、世継ぎ――、王女は城では死ななかった。その代わり、王家の紋章の彫られた箱に入れて海に流されたと」
 「どうやって調べたんだ?」
 アールが尋ねた。
 「王城の聖堂にもぐりこんで史書を読んで来た。王家で何があったのか、絶対に真実を書き記すことになっている史書があるんだ」
 「あんた、賞金首なんだろ。どうやってそんなところへ行けたんだ?」
 「その辺のことでは俺をあまり心配しなくていい」
 ジェフはルーカスをちらりと見やり、それからアリスに近付き、できる限り静かに言った。
 「頼む、少しだけだ」
 「何をするの」
 「この子の肌に少しだけ傷をつける。王家の子でなければ、多少血が出る程度だ。王家の子ならば――、血は流れない程度と言った方がいいか」
 「こんな赤ん坊にそんなナイフで傷をつけようっていうの? あなたどういう神経?」
 アリスの怒声に、赤ん坊がぐずり出した。
 「ごめんね、大丈夫よ・・・」
 アリスは赤ん坊を揺すりながら、ジェフを睨んだ。
 「この子が王家の子じゃなかったら? ただ痛い思いをするだけじゃない! それにこの子は女の子なのよ? 傷が残ったらどうするの?」
 「アリス、国の滅亡に関わることなんだ」
 ジェフはアールに目配せをした。アールも気が進まないような表情をしていたが、アリスの腕を抑えた。
 「アリス」
 「アール、あなたまで・・・! ジェフ、やめて!」
 「すまない」
 ジェフはアリスの一瞬の隙を突いて、赤ん坊の肌にうっすらを短刀を滑らせた。
 絹を裂くような泣き声が上がった――。
 しかし、赤ん坊の肌には、傷一つ残らなかった。それどころか、一滴の血さえ流れなかった。何より、切先が触れるそのそばから肌の傷が閉じていくのを、その場にいた全員が目にした。
 「そんな・・・、そんな・・・王家の娘だと何かいけないの?」
 赤ん坊をあやすことも忘れて、アリスはぽろぽろと涙を流しながら、泣き叫ぶその小さな命を見つめていた。アリスの反応から、ジェフの推測が正しかったことをその場の全員が知った。確かに、あの海辺へと流され、どのくらいの時間そこにいたのかは分からないが、それでもアリスが彼女を見つけるまで生きていたこと自体が、王家の尋常ならざる生命力から起こった奇跡ではないのか。
 「今朝、あの海岸に行った。そしてその子が入れられていた棺を見つけた。さっき見せたこれだ。ここに紋章が彫り込まれているだろう? これは王家の紋章だ。・・・その子は、レグリアード王朝の五番目の王女だ」
 「違う、違うわ、この子は、この子は――」
 アリスは自問した。
 この子は私が産んだ子・・・?
 私が、拾った子・・・。
 アリスの瞳からはぽろぽろと涙が溢れ続けた。
 「この子はもう私とアリスの子だ。私たちの子をどうするつもりだ」
 ようやくアールが、赤ん坊を抱いたアリスとジェフとの間に立ちはだかって口を開いた。
 「そもそも、王家はなぜ王女を海に流すような真似をしたんだ?」
 「五番目の王女伝承が間違って伝わっている可能性がある」
 「五番目の王女の伝承?」
 「・・・“五番目の王女はすべて海に還すべし”・・・“王家とともに王国は栄え、王家と共に王国は没する”・・・“その者を最も愛したるもの剣によってのみすべてが赦される”・・・」
 ジェフは我知らず、古文書の伝承を呟いていた。
 「何を言ってるの? 海へ還すって・・・またこの子を海に捨てるっていうの?」
 アリスが赤ん坊をぎゅっと抱きしめて後ずさりした。
 「いや、違う・・・。俺にも意味がわからないんだ。ただ、この間話した古文書に記されている、狂女王シレンティアの予言だ」
 そして国王は私情から自らの子を海に流したのだと、ジェフはあまりのことに真実を言うのに躊躇ったが、やがて口を開いた。
 「それに、国王ウィリデウスはその子が生まれたことで、奴が愛した正妻が死に、その子を悪魔の子と呼んだそうだ」
 「やっぱり最低な人間だな、王族って連中は」
 それまで押し黙っていたルーカスが口を開いた。
 「ルーク、やめて、子どもの前でそんな言葉――」
 「王家と共に王国は没するって言ったな。この国は一度終わった方がいい。切り刻んで送り返してやるか。俺たちをこんな風にした連中に――」
 「あなた自分が何を言ってるかわかってるの?」
 アリスが悲鳴のような声を上げた。「この子には何の罪もないわ!」
 ルーカスが「王族」という言葉に途端に攻撃的になることを理解しているアールが静かに言った。
 「ルーク、その子は私とアリスの子だ。そんなことはさせない」
 「そういうわけにもいかない」
 今度はジェフが言った。
 「王家には必ず王位継承者が必要だ。そしてその継承者が生きているうちは、次の子は絶対に生まれない。それが王家だ。そしてこの子がいつか王位を継承し、また王国を支えていかなければ・・・」
 国は滅びる。
 その言葉を、ジェフは口にできなかった。
 こんな国は滅んでしまえばいいと、多くの農民たちが思っていることは知っている。もし彼らの怒りがこの赤ん坊に向けられたら、本当にこの子の命はないだろう。しかし、国を支えていく?何かを還さなければならないのに、どうやって?ジェフは自分の言葉の矛盾に考え込んだ。
 「この子をどうするの」
 アリスがもう一度聞いた。「親元へ帰すなんて思ってるんじゃないでしょうね? 国王自らの手で今度こそ殺されたっておかしくないわ!」
 ジェフはじっとアリスの睨みつけるような視線を受け止めた。
 「お願い、私たちの手で育てさせて。いつかこの子が王になる日が来るのだとしても、成人するまでは、せめてそれまでは・・・」
 アリスの懇願するような声に、ジェフは応えることができなかった。
 罪のない一人の赤ん坊の命と、国の存亡――。

 “その目でこの国の歴史を追い、この国を守る為自分に何ができるか、一生その責を負うのだ”

 あの日の祖父の言葉がジェフの脳裏に蘇った。こんな形で歴史の節目に遭遇しようとは、ジェフ自身想像だにしていなかった。
 「私もこの子を育てたい。わが子として」
 アールもアリスの肩を抱いて、静かに言った。
 「ルーク・・・? ルークはこの子を憎むの・・・? あれほど可愛がっていたのに・・・」
 「そのゆりかごも、ルークが作ったんだろう?」
 ルーカスが心を鎮めるよう、チャドも口添えをした。ルーカスはじっと赤ん坊を見つめていた。
 赤ん坊はすでに泣きやみ、いつものように無邪気にルーカスに向かって小さな手を伸ばしてくる。
 「ルーク、この子の名付け親になってくれ」
 アールが言った。ルーカスは、しばらく何も言わなかった。この子が王家の娘と知った今、ルーカスが心の中で葛藤しているのが手に取るようにわかった。この村で、この国で、誰よりもこの地獄のような圧政を終わらせたいと願っているのは、恐らくルーカスだろう。しかし、やがて彼はやがて、赤ん坊の額に手を乗せ、
 「・・・エレナだ」
 と、呟くように名をつけた。
 「エレナ・・・いい名前ね・・・。エレナ・・・、ルークに感謝なさい」
 エレナと新たに名付けられた王女は、ルーカスの大きな親指をつかんで嬉しそうに笑った。
 「笑った!今笑ったよね!」
 チャドが、エレナの笑顔に狂喜した。
 「ええ、本当ね!」
 「まだ笑うような月齢じゃないが、これも奇跡なのかもな」
 アールも赤ん坊の頭をそっと撫でながら幸せそうに笑っていた。
 ジェフは幸せなこの瞬間を、黙って見つめていることしかできなかった。

 ジェフは一旦、小屋へ戻った。そして、古文書を開いた。
 『その者を最も愛したる者の剣によってのみすべてが赦される・・・』
 民衆の国への不満が高まった今、王政を終わらせたいと願う人間はどれほどいるのだろう。王家を憎しみによって殲滅させてしまえば、この国は滅亡する。平和に全てを終わらせたくば、王家の人間――最後の世継ぎが、自分を最も愛した者に殺してくれと頼み、その者がその手で世継ぎを殺めなければならない。あの子どもが言葉を覚えるのはそう遠くないだろう。そのときに、意味も分からぬままアリスに向かって「自分を殺してくれ」と言わせろと? そもそもそんな残酷な運命になってしまったのは、初代の王家が――。
 『五番目の王女はすべて・・・』
 これも意味が分からない。五番目の王女は何かを海に還さなければならない。
 ――何かって何だ?
 ジェフは古文書の最後の章を開いた。この章だけが読み解けない。全てはこの章に隠されている気がした。

 全ての始まりの地へ戻ろう――。

 ジェフは決心した。何かあるとは思えないが、何もしないよりましだ。王女のことは、一旦アールとアリスに預けるほかないだろう。もう一度王都へ連れ戻しなどすれば、アリスの言うようにそのまま王女は首をはねられるだろう。あの王女だけは何としてもても生かしておかなければならない。ジェフは旅支度をして、アールとアリスの元を訪れた。
 「俺は少し、旅に出る」
 「どこへ?」
 アリスが言った。
 「オプタリエの外だ」
 「オプタリエの――? 危険すぎるだろう! あんたは自分の首にいくら懸かってるか知ってるだろう! あそこは夜盗や盗賊の巣窟だ」
 「わかってる。だがどうしても行かなきゃならない。・・・王女のことだが」
 ジェフがその名を口にすると、アリスはごくりとつばを飲んだ。
 「任せていいか? 結論が出るまで、何としても生きていてもらわなければならない」
 「結論て、何の結論だ?」
 「・・・王家の世継ぎは代々、残酷すぎる運命を背負って生まれてくる」
 「残酷すぎる運命・・・?どんな運命だ・・・?」
 「・・・言えない。だが俺はその子どもにそんな運命から逃がしてやりたいと思ってる。古文書の全てはまだ読み解かれていない。俺はこれからそれを読み解く為に旅に出る。この子にそんな運命を歩ませたくはない」
 「いつか私たちにも話してくれるの?その運命を・・・」
 「・・・ああ。いつか、時が来たら。その子のことは、頼んだぞ」
 それからジェフは、長い長い旅路へとついた――。

 ジェフは騎士団の検問が敷かれている街道を避け、野山を通ってオプタリエを抜けた。その途端に賞金稼ぎや夜盗に目をつけられ、何度も危うい目に遭った。
 「お前な!」
 ある夜、自分を襲ってきた夜盗と剣を交えながら言ってやった。
 「俺が金なんか持ってると思ったら、大間違いだぞ!」
 夜盗はジェフの剣の前に、声もなく崩れ落ちた。

 しかし、オプタリエから離れ、その先に続く砂丘に近付くにつれ、生きた人間の気配も減っていった。もはや人が住める環境にない域に足を踏み入れたのだ。人目につくとまずいので、馬は連れず、徒歩での旅だった。砂丘の先からは次第に原生林が広がり始め、北方では見られない花が咲くようになった。二千五百年前、初代の王家も、島中をあまねく旅したと言われる。
 先人達もこの景色を目にしたのか――。ジェフは茂みを掻き分けながら先へと進んだ。やがて足元が岩場へと変わり、ジェフは不意に崖に出た。断崖絶壁のそこからは、広く青い海がどこまでも広がっていた。ジェフは絶壁がなだらかになる東に回って崖を降り、広い浜辺に出た。
 波の音だけがこだまするその場所には、見たこともないような美しい花に混ざって、純白のリエンゼルが群生する茂みがあった。この国が楽園だと言われる所以がそこに広がっていた。
 
 ここが、すべての始まりの場所――。

 この場所に、かつての長老の一族――、現在の王家の一族がやって来たのだ。そして、彼らがファリガーナと契約を交わした場所――。ジェフはどこまでも続く広い海を前に、頭を垂れ、祈りを捧げた。

 ――この島の守護神、ファリガーナよ、どうか我らの行く末を見守り、国民を守り給え――。

 ジェフはしばらくそうしていたが、やがて顔を上げ、近場の洞窟に入った。自分の一族の始祖も、この場所にいたのだ。古文書を書いたのは現在のオプタリエの近くでのこととされているが、数々の謎と最後の章を読み解く手がかりがあるかもしれない。
 ・・・あっても、波に流されていそうだな。
 ジェフはぼんやりとそんなことを思いながら辺りをくまなく歩き回ったが、やはり何の収穫もなかった。ただ、この島の本来の姿、その壮麗さと優美な様は、ジェフの目と心に、深く深く刻み込まれた。

サルトゥスの悲劇

 ジェフが旅に出て五年が経った。あれからも島中を旅して歩いたが、相変わらず古文書の謎も最後の章も読み解けずにいた。また、城壁内にいる間は相変わらず夜盗や賞金稼ぎの標的になっていたが、ジェフの剣に勝てる者は一人としておらず、ジェフも何とか生き延びていた。
 そしてそろそろ王女も五歳になる頃になった。ジェフはサルトゥスの村へ帰ることにした。
 
 西の端側からオプタリエをくぐり、ジェフは再びサルトゥスの地を踏んだ。まず向かったのは、やはりアールとアリスの施療院だった。 扉をノックしてしばらくすると、アリスが顔を出した。
 「まあ! ジェフ! お帰りなさい!」
 アリスは狂喜した。
 「変わりないか」
 ジェフは微笑んで、アリスの歓迎を受け入れた。
 「ええ、みんな元気よ。もちろんエレナも。さあ、入って。疲れているでしょう? もうすぐお昼だから、何か食べて行ってちょうだい」
 「ああ。ありがとう。助かるよ」
 旅に出てから、当然だがきちんとした食事を取れることは稀にしかない。ジェフはアリスの申し出が心底ありがたかった。
 「アールは今、往診に行っているわ。もうすぐ帰ってくるはずだけど」
 階段を上り、いつかアリスの食事療法を受けた部屋に入りながらアリスが言った。
 「そうか」
 「待って。今お茶を入れるわ」
 そのとき、ジェフは膝のあたりに何かがぼふっと抱きつくのを感じて下を見下ろした。
 「エレナ」
 アリスはクスクスと笑いながらエレナに呼びかけた。
 「お父様だと思ったんでしょうね。エレナ、ご挨拶なさい。お客様よ」
 しかし、エレナはジェフを見上げ、非常に嫌そうな顔をした。そして、そのまま無言でアリスのスカートに隠れてしまった。
 「・・・まさか、覚えてるのかしら?」
 その様子を見て、アリスがまさか、という顔をした。
 「可能性はあるな」
 ジェフは困ったようにため息を吐いた。ジェフは、エレナが二歳のときにも一度サルトゥスに帰ってきていた。そのとき、エレナはやはり父親――アールとジェフとを間違えて、ジェフの外套によじ登ってきたことがあった。ジェフが何か重い、と思って振り返ると、エレナはゴッと棚に頭をぶつけ、べちゃっと地面に落ちてしまった。以来、ジェフはエレナに非常に嫌われていた。
 「何せ生まれが生まれだ。いくつの頃のことを覚えていても不思議はない」
 ジェフは諦めたように言った。
 「エレナ」
 アリスはしゃがんでエレナと視線を合わせた。
 「ジェフよ。覚えてるの?」
 すると、エレナはやはり、こくりと頷いた。
 「すごいわこの子。天才だわ」
 アリスは親馬鹿全開だった。
 「でもこの子、普段は全然人見知りしないのよ」
 ジェフは逆に傷ついた。
 
 昼食時になると、アールが帰ってきた。
 「ジェフ!」
 アールは幾分年を感じさせる風になっていたが、相変わらずジェフを歓迎した。
 「変わりないか」
 同じように挨拶をしながら、ジェフは言った。
 「ああ。でも最近少し年を感じるよ。・・・あんたは荒野に出ても少しも変わらないな」
 アールは苦笑しながら言った。
 その夜は、ルーカスとチャドも招かれ、ささやかな食事会が開かれた。
 「久しぶりだな」
 ルーカスがジェフと握手しながら、ジェフの腕を叩いた。
 「ああ。変わりないか」
 「ああ。何も」
 「そんなことないわ」
 アリスが割って入った。
 「ルーク、隣村のウェトゥムで家具職人の賞を取ったのよ」
 「すごいじゃないか」
 農耕が盛んなサルトゥスの隣村、ウェトゥムでは、工芸が盛んだった。
 「たまたまいい材料が手に入っただけだ。おい、チャドは?」
 「ジェフ!」
 チャドがエレナを抱っこしてやって来た。
 「ひっさしぶりだな!」
 「お前、大人びたな」
 ジェフはエレナの次に成長したチャドを見て驚いた。
 「いやだな、俺だってもう二十四だよ。なー、エレナ」
 エレナは意味が分かっているのかいないのか、にこにこと頷いた。
 しかし、ジェフと目が合うと、瞬時に笑顔が消え、ぷいとそっぽを向いてしまった。
 「さあ、支度ができたわ。夕食にしましょう。ジェフ、旅の話を聞かせてちょうだいな」
 ひとしきり食事が済み、落ち着いてくると、アリスが言った。
 「エレナったら、もう読み書きができるのよ。さすがね」
 「ああ。私も驚いている」
 アールも頷いた。
 「理解しているのかいないのか分からないが、私たちの医学書を読んでいろいろと言葉を覚えたんだ」
 「ねえ、私思うんだけど」
 アリスが言った。
 「この子に、あなたの一族に伝わる言葉を教えたらどうかしら」
 「何――?」
 ジェフは驚いてマグを置いた。
 「この子も――、来たるべき日が来るんでしょう? 王位を継ぐ日が・・・。そのとき、あなたの一族の誤解も解いてもらえるようにしたらどうかしら」
 「それはいい考えだね」
 チャドも賛成した。
 「それは・・・、どうだろうな。ウェルバの嫌疑はもう何百年も前の話だ。今更うちに罪がないと誰が言っても、信憑性がなさ過ぎる」
 ジェフは考え込んだが、やがて「だが」と言葉を続けた。
 「王家の人間も古文書は読めた方がいい。昔は紋章官一族が、その後は聖堂の者が王家の連中に教育をしてきたんだが、言葉が面倒すぎてやめることになったんだ」
 俺も昔古代語を学んだときには先祖にキレたくなった、とジェフは苦い顔をした。
 「どうやって教えるんだ?」
 ルーカスが尋ねた。
 「あんたはまた旅立つんだろう?」
 「・・・・・・」
 そんなわけで、大人たちは古代語を猛勉強する羽目になってしまった。

 ジェフはしばらくの間サルトゥスに滞在した。
 「カラビーメ・・・平和・・・と・・・ラクファイメ・・・戦争・・・が? の?」
 「単語だけ覚えてもだめだぞ」
 ジェフがチャドに言った。
 「だって、めんどくさすぎるんだよ、あんたの一族の言葉!」
 「正確には俺の一族の言葉じゃない。元は大陸出身の長老の国の言葉だ」
 「今ではあんたの一族しか使えないんだから同じことだよ!」
 チャドは逆切れしながら再び羊皮紙に顔を戻した。
 「エレナのためだから頑張るけど・・・」
 チャドはブツブツ言いながら、それでも時折こっくりこっくりと舟を漕いでいた。

 一方、ルーカスは、碁盤のおもちゃに絵を彫り、それに古代語を書き込んだ。アールとアリスも時間のある限りは古代語の学習に励んだ。
 そしてジェフは。
 「エレナ」
 大嫌いなジェフと二人きりにされたお姫様は大そうお冠で、そっぽを向いたままジェフを見ようとしなかった。
 「・・・・・・」
 ジェフは、子どもが苦手だった。というより、子どもに嫌われる性質だった。子どもは正直なもので、人相の悪いジェフを見ると泣き出すのである。都にいた頃もそんなことがあった。以来、ジェフはなるべく子どもに近寄らないようにしていた。
 「エレナ、秘密の言葉を教えよう。秘密の言葉だ」
 秘密、という言葉に、エレナは少し興味を見せるような素振りを見せた。
 古文書の一部を開き、ジェフは言った。
 「『満月の昇るとき』・・・繰り返せ。『満月の昇るとき』だ」
 「『満月の昇るとき』」
 さすがだ、とジェフは舌を巻いた。
 「民の希望もまた上らん。『民の希望もまた上らん』」
 「『民の希望もまた上らん』」

 そうして、一か月が過ぎていった。ジェフは再び旅に出る支度をした。
 結局、古代語を一番多く覚えたのはエレナで、大人たちは惨敗だった。ジェフはエレナの為に、古代語で本を作った。自力で読めるとは思わなかったが、何もないよりマシだろう。大人たちに、カルロスがそうしたように、他の誰かに見つかるようなことがあれば燃やせと、そう言い残して。
 「さあ、エレナ、ジェフが旅に出るわ。ご挨拶は?」
 結局、エレナはこの一か月、ジェフとほとんど口を利かなかった。
 「アリス、無理させなくていい」
 ジェフは手で制しながら言った。
 「あら、案外甘いのね」
 そうではなく、あまり強制されて挨拶されても逆に心が痛むからだ、とジェフは心中で思った。
 「気をつけて」
 「ああ。みんなも」
 ジェフは村人たちに見送られ、再び旅路に着いた。

 やがて月日は流れ――。
 再び二年が経ち、エレナが七歳になる頃になった。自分は七つで人生の選択をした。ジェフはある日、エレナは今どうなっているのだろうと、ふと心に思った。そして、再びサルトゥスへやって来た。常のごとくアールとアリスの施療院へやってくると、建物の横に、革張りの大きな荷馬車が止まっていた。そこへ、ルーカスの姿見えた。そして。
 「ルークーっ!」
 エレナと思しき少女が、二階の窓から荷馬車の荷台に飛び降り、ルーカスの胸に飛び込んだ。
 「エレナ!」
 窓からアリスが顔を出し、悲鳴を上げた。
 「窓から飛び降りちゃダメって言ってるでしょう!」
 「だって、ルークがいたから」
 エレナはけろりとして、ルーカスの腕の中から母親を見上げた。
 「君も人のこと言えないだろ」
 アールも笑って二階のアリスに声をかけた。
 ああ・・・平和だ。ジェフは苦笑しながら、皆の元へ向かった。
 「ジェフ!」
 二階の窓から、真っ先にアリスが気付いて呼びかけた。
 「お帰りなさい!」
 アールとルーカスもジェフの方を向き、相変わらずの歓迎振りを示した。
 「エレナ、挨拶しなさい」
アールに言われて、エレナは嫌そうな顔をしたが、しかし、
 「『こんにちは』」
 と、古代語で言った。それを聞いたジェフは大いに驚いた。まさか本当に覚えているとは思わなかったのだ。
 「『久しぶりだな』」
 ジェフも古代語で返すと、エレナはふいとそっぽを向いてしまった。これも相変わらずか・・・。 ジェフは苦笑しながら中へ通された。

 その夜も相変わらずの面々で食事会が催された。今回はジェフは鹿の肉を土産に狩って来ていた。
 エレナが眠りにつくと、アリスが言った。
 「ねえ、私、気になることがあるんだけど。エレナのことで」
 「何だ?」
 「あの子、大体一月に一度、夜中に泣き叫んで目を覚ますのよ」
 「・・・それは、満月の晩じゃないか?」
 ジェフはことりとマグを置きながら尋ねた。
 「ええ・・・そう言われれば、そうかもしれないわ」
 「・・・それは・・・、エレナが王女である証だ」
 「泣き叫ぶのが、どうして王女の証なんだ?」
 チャドが言った。
 「王家の女性・・・王女と王妃のことだが、彼女たちは、以前に話した戦の夢を見るんだそうだ。満月の晩に。シレンティアという三番目の王女は、その夢のむごさに正気を失い、王位に就いてからも狂女王と呼ばれた」
 「そんな・・・毎月そんな夢を見るなんて・・・。エレナは耐えられるかしら・・・」
 「わからない。本人の精神力と、周りの支えがあれば大丈夫だ」
 ジェフは励ますようにアリスに言った。

 ジェフは再びしばらくサルトゥスに滞在し、エレナの古代語の習得ぶりを見て、本気で驚いていた。
 「この島の神ファリガーナが、人間の為島を開き、人間が住めるよう島を整えた。島の長老はこれを・・・」
 ジェフが作って行った本を、エレナは小さな声で訳しながら読んで聞かせた。しかし、会話はない。なぜここまで嫌われるのか、ジェフにはわからなかった。 あの時振り落としたのが相当痛かったのだろうか。それともやはりこの父親譲りの風貌のせいだろうか。どちらにしても、エレナは古代語の学習の時間以外、ジェフを避けて過ごした。

 そうしてしばらくを過ごすうち、秋が近付き、収穫祭の季節になった。村は祭の準備に追われ、賑わいを見せていた。
 そんなある日、森の方から、男が一人、息せき切って現れた。
 「た、助けてくれぇーっ!」
 男は大通りまで逃げてくると、ぜえぜえと息をついた。
 「どうしたんだ?」
 「どこから来たんだ?」
 村人たちが男に問い掛けた。見ると、腕を怪我して血を流している。
 「アール! アール!」
 往診に来ていたアールを、村人が呼び止めた。
 「どうしたんだ?」
 「わからない。急に現れて・・・」
 「お、俺・・・俺たち・・・」
 男はすがるような目で村人たちを見回した。
 「ウェトゥムから来た。俺たち・・・俺たち殺っちまったんだ。王族の人間を・・・! もう、我慢できなくて・・・! あいつら、盗賊連中と・・・!」
 「追っ手が来るぞ!」
 男の話を遮り、誰かが叫んだ。一気にパニックになった。人々は逃げ惑い、男は一人取り残されたが、アールが手を貸した。
 「さあ、こっちだ。施療院は村の奥だ。気付かれにくい場所にある」
 アールは男に肩を貸し、歩き出した。すると、森の奥から、騒がしさと同時に多くの人間が駆け込んできた。
 「助けてくれ!」
 「助けてくれ!」
 村は完全にパニック状態に陥った。そして、馬の蹄の音が聞こえてきたかと思うと、矢が飛んできて、アールが抱えていた男が倒れかけた。
 「大丈夫だ、肩を掠めただけだ。頑張れ、もう少しだ」
 「だめだ、あんた、逃げてくれ。毒が、塗ってあるんだ――」
 その言葉を最期に、男は倒れ込んだ。
 ――アリス・・・エレナ・・・!
 アールは男を道の端に横たわらせ、施療院に走りこんだ。
 「アリス!」
 「なんだか村が騒がしいわ。どうしたの?」
 畑仕事をしていたアリスが顔を上げた。
 「ウェトゥムの人間が謀反を起こして、ここへ逃げて来てる。追っ手もだ」
 「そんな――! エレナ!」
 「エレナはどこだ?」
 「上で遊んでるはずよ」
 「逃げるんだ。一刻も早く!」
 「ジェフ!」
 アリスは悲鳴のような声でジェフを呼んだ。施療院の厩で手伝いをしていたジェフが顔を出した。
 「ジェフ!」
 「どうした?」
 「ウェトゥムの人たちが謀反を起こして、ここまで逃げてきてるそうよ――」
 エレナ――。
 ジェフは反射的に飛び出した。
 「アリス、エレナと一緒に西の森へ入れ!」
 そう言うと大通りに向かい、逃げ惑う村人たちに叫んだ。
 「みんな落ち着け! すぐに家に入って静かにしていろ! 自分たちはこの村の人間で、何も知らないと言え!」
 「ジェフ!」
 ジェフが振り向くと、アールとアリスがエレナを連れてジェフを追い、走ってくるところだった。
 「怪我人は放っておけない。施療院へ連れて行く」
 そう言うと、アールは村の男たちの手を借りて怪我人を運び始めた。
 「どうしたの?」
 いつもと村の様子が違うことに気付いたエレナが、不安そうにアリスを見上げた。
 「エレナ、逃げるのよ」
 アリスはそう言うと、ジェフに視線を向けた。
 「私も治療に回るわ。エレナを――、騒ぎが収まるまでエレナを守って。お願い」
 「だが俺は何かあったとき騎士団を――」
 しかし、ジェフが言いかけると、大通りの騒ぎが次第に大きくなっていった。
 「アール!」
 「助けてくれ!」
 ルーカスが、怪我をしたウェトゥムの人間を連れてきた。アールは通りに飛び出し、怪我人に手を貸した。しかしそのウェトゥムの男を狙った矢が飛んで来て、男は声もなく崩折れた。ジェフが応戦に飛び出そうとすると、アリスがジェフの腕をつかんで引き戻した。
 「ジェフ待って! あなたまで混乱のさ中に落ちて行ってどうするの!」
 「お母様?」
 アリスの怒声に、エレナはますます不安そうな顔をした。アリスはエレナと視線を合わせるように跪き、小さな娘の肩をしっかり抱いて言い聞かせた。
 「父様と母様はお医者よ。これから怪我をした人たちを助けに行くわ」
 「いや!わたしもいっしょに行く!」
 エレナが泣き声を上げた。
 「大丈夫。お仕事が済んだら、必ず迎えに行くわ」
 「母様、はなれたくない・・・!」
 何かが起こっていると、幼心に理解しているのだろう。エレナの青い瞳からぽろぽろと涙が零れ落ち、必死にアリスにしがみついた。
 「大丈夫、ジェフが守ってくれるわ。ジェフのそばを離れないで。ジェフと逃げなさい」
 「おい、俺は逃げないぞ――」
 「いや! わたしジェフきらい!」
 「エレナ! 聞き分けなさい!ジェフ、この子だけは何としても守らないといけないのはわかってるでしょう! あなたはこの村で誰よりも強い! それができるのはあなただけよ!」
 アリスの凄まじい怒声に、ジェフも言葉を飲み込んだ。
 「エレナ、いいこと? ジェフはこの村で一番強い方よ。この人のそばを離れないで。いい?」
 「お母様ぁ・・・!」
 アリスはエレナをぎゅっと抱きしめた。
 「エレナ、愛してるわ。世界中で、誰よりも。母様も父様も、あなたを一番、誰よりも大切に思っているわ」
 もう一度エレナをぎゅっと抱き締めると、アリスは立ち上がった。
 「ジェフ、この子を安全なところへ連れて行って。あなたも追われている身なんだから、ここは危ないわ。行って。お願いよ」
 そのとき、王族の者と思われる男の大声が響いた。
 「サルトゥスの民よ! 罪人に手を貸すことなかれ! さもなくば反逆者と同罪とみなす!命の保証はせぬぞ!」
 「王族よ!」
 アールが叫び返した。
 「サルトゥスの民に罪はない!またウェトゥムの民全てに罪があるわけでもなかろう!」
 「アール! よせ!」
 走ってきた村人が叫んだ。
 「私は医者だ! 罪人であろうとなかろうと、命は等しく尊いもの! 医術の前に差別があってはならない!」
 「ならばそなたをも殺めることになるぞ! 医者であろうとなかろうと、謀反は死罪となる!」
 「構わん!」
 アールは振り向きざまに叫ぶと、怪我をしたウェトゥムの男を担ぎ直したが、王族は一段と激しく荒い声を上げた。
 「その農民どもは我が父を殺した!王族である我らの血縁を傷つけた者に温情をかけようとする者は、誰であろうと殺せ!」
 「これだけの人間を殺せばお前も罪に問われるぞ!」
 アールが叫ぶと、王族の男は矢筒から一本の矢を取り出した。
 「謀反は最大の罪! 謀反を企てた者には容赦なき鉄槌をくれてやるのが我が国の法だ!」
 「みんな逃げろ! 上等だ! 俺が相手をしてやる!」
 ルーカスだった。
 抜き身の短刀を持ち、その前後左右にはサルトゥスの男たちが武装して集まって来た。
 「ルーク、よせ!」
 「貴様は今死んだぞ!」
 「知ったことか! お前たち王族は俺たちの人生をぶち壊しやがった! 俺たちにも復讐の権利がある!」
 「命も惜しまぬということだな?」
 「当り前だ!」
 「その言葉、後悔するな!」
 そして、始まってしまった。
 ギリッと弓がしなると、矢が放たれた。その矢はルーカスの心臓を打ち抜いた。
 祭りのために用意されていた作物は踏みつけられ、打ち壊され、倒れた農民は王族の馬に踏みつぶされ、また剣や弓で貫かれ、大地には多くの血が流れた。
 「ルーク!」
 エレナが悲鳴を上げた。ジェフは反射的に飛び出そうとしたエレナを押さえつけたが、この場を収めねばならぬ義務感と、エレナを何としても守らなければならないという使命の間で揺れ動いていた。
 「ルーク! ルーク!」
 「エレナ! 逃げるのよ! ジェフ、行って!」
 そのとき、アリスの視界の隅に飛び込んできたのは、アールを狙って引き絞られている弓矢を構えた男の姿だった。
 「やめて!」
 「アリス! 行くな!」
 何も考える暇もなかった。アリスは悲鳴を上げて、アールを狙って放たれた矢の前に身を投げ出した。
 「お母様!」
 弓矢に貫かれた母の姿が、エレナの網膜に焼きついた。
 「お母様ーーーーーーっ!」
 「くそっ、エレナ!」
 倒れた母に駆け寄ろうとするエレナを抱き上げ、ジェフは走り出した。
 
 「アリス!」
 アールは妻の倒れた姿を見て叫んだ。
 「アリス!」
 しかし、彼もまた、王族の手に掛かって命を落とした。

 ジェフは森に入ると手近の木に上り始めた。
 「エレナ、暴れるな!」
 「お母様!お母様!」
 人の視界に入らない高さまで来ると、幹に腰を掛け、エレナを抱き寄せた。かなりの高さがあるがエレナは王家の人間だ。飛び降りても簡単に着地してしまうだろう。
 「放して!母様が!父様が!」
 「エレナ・・・頼む、静かにしてくれ」
 ジェフは自分の不甲斐なさを心底呪った。目の前で友人を二人も失った。アールが生きているかどうかは、今のジェフには分からなかった。 そのとき、森にまで追っ手がやって来た。ジェフは騒ぎ立てるエレナの口を押さえつけた。
 「――――――っ!! ――――――っ!!」
 村が静かになるまで、二人はそこに身を潜め続ける他なかった。エレナはジェフにしがみついて、ひたすら泣きじゃくっていた

 やがて日が傾き、村の騒乱が収まったかのように見えた。ジェフはエレナを連れて木を降り、村へ戻った。その目に飛び込んできたのは、村人たちの夥しい死体だった。村の半分以上の人間が殺されていた。
 「お父様!」
 通りに倒れていたアールに、エレナが駆け寄った。しかし、彼女の父が再び目を開くことはなかった。
 「お父様・・・お母様・・・」
 エレナはボロボロと涙をこぼし、ただただ泣き続けた。ジェフも落胆し、がっくりと膝をついた。
 また、何もできなかった・・・。
 そのとき、物影から声がした。
 「エレナ・・・? ジェフ・・・?」
 「チャド!」
 エレナが駆け寄り、チャドに抱きついた。
 「エレナ・・・! 無事だったんだね・・・!」
 チャドも泣きながら、何度もエレナの頭を撫でた。
 「父様と母様とルークがね・・・っ、死んじゃったのっ・・・!」
 チャドはぎゅっとエレナを抱き締めた。
 「でも・・・、君とジェフは無事だった・・・。今はそれを喜ぼう。あんたも無事でよかったよ」
 チャドは何とか立ち上がったジェフを見上げた。
 「エレナを・・・頼まれたんだ・・・アリスに・・・」
 人々が自分の目の前でむざむざと殺されていったのを、ただ傍観することしかできなかった自分が憎かった。いつも、何もできない――。
 その言葉に、ふとエレナが呟いた。
 「おうぞくって・・・だあれ?」
 ジェフもチャドも、二人ともどきりとした。
 「わたし・・・おうぞくがきらい・・・大っ嫌い!」
 エレナは泣きじゃくりながら叫び続けた。
 「みんなを・・・っ、殺し、っ、ちゃったんでしょう?おうぞくって、いうひとが・・・! お父様とお母様は、何も悪いことしてないのに・・・! 困ったひとは、っ、助けなさいって、いつも、言ってた・・・! 困ったひと、助けただけなのに、何で殺されちゃうの? みんなも、なんで、殺されちゃったの・・・? お母様は、私のこと、むかえに来るって、言ってたのに・・・!」
 二人の大人は何も言えず、ただ、幼い嘆きを聞くことしかできなかった。やがて、チャドが静かに言った。
 「エレナ、今夜は休もう。大変な日だったからね・・・」
 「おうちに帰っても誰もいない!」
 エレナが叫んだ。
 「お父様も、お母様も、死んじゃったの・・・!ジェフは、強い人なのに、どうしてみんなを助けてくれなかったの?」
 エレナはジェフの外套の裾をつかんで、力の限り揺さぶった。
 「・・・すまない」
 詫びて済む話ではない。しかし、今の彼には、詫びることしかできなかった。
 「エレナ・・・。ジェフは、エレナを守っていたんだよ。君の母様は、一番強いジェフに、君を守ってほしかったんだよ」
 チャドが彼を責めてはいけないと言ったが、エレナは聞かなかった。
 「どうして私を守ったの? どうして私一人だけ・・・! どうしてお母様とお父様も守ってくれなかったの?」
 エレナはジェフをどんどん叩いた。
 「エレナ・・・」
 チャドがエレナを抱き寄せ、やめさせたが、エレナはまた泣き始めた。
 「ジェフのばか・・・!」
 ジェフは残って戦わなかったことを心から悔やんだが、何も言うことができなかった。

 その後、他にも数人の生き残りの村人と行き会い、哀しみを分け合った。
 ジェフはいてもたってもいられず、ウェトゥムへ行くことを決心した。
 「ウェトゥムへ行くって、どうして?」
 チャドが言った。
 「真実を知りたい。本当にウェトゥムの人間が謀反を謀ったのかどうか」
 「どうやってそんなこと調べるんだ?」
 「前も言っただろう。常人が王族の人間を殺すなどほとんど無理に近い。何があったのか知りたい」
 「ジェフ・・・」
 「エレナを頼めるか?」
 「もちろんだよ」
 「頼んだ。すぐ戻る」

 ジェフはすぐにウェトゥムに入り、伯爵家のある丘へやって来た。外からこっそり中を覗き込むと、確かに弔いの儀の準備をしているところだった。
 「何をしている」
 門番に見つかった。しかしジェフは、一瞬でその門番を這い蹲らせた。
 「何があった」
 「お前は誰だ?」
 ジェフは答えずに剣を抜いた。門番の男の喉元にひやりと剣の切先が当たった。
 「死んだのは誰だ? 何があった?言え!」
 門番の男はジェフの怒声に驚き、慌てて話し始めた。
 「亡くなったのはこの家の当主だ。村人に殺された」
 「村人がどうやって王族の人間を殺したんだ?」
 「当主が散歩しているところを、十人くらいの村人たちが一斉に斧で切りかかったらしい。当主は生まれつき足が悪かった。だが頭を割られて、それは見るも無残な姿だった――」
 貧相な村人たちの家と、伯爵家の異様なまでの豪奢なつくり。いつかのサルトゥスのように、王族への不満が爆発したのだろう。
 ――本当だったか・・・。
 ジェフは門番の男を気絶させ、ウェトゥムを後にした。しかし、サルトゥスの方角から炎が赤々と燃えるのを見て、何事かと駆け出した。

 ジェフがサルトゥスに戻ったのは真夜中過ぎだった。
 ほぼ全ての家屋に炎が放たれ、焼け崩れていた。死体の焦げた臭いが辺りに立ち込めていた。
 「チャド! エレナ!」
 ジェフは叫びながら村中を回った。この数時間に何があった。ジェフは不安と絶望に駆られながら、二人の姿を探した。
 「チャド!」
 ジェフはようやく、通りの隅に倒れていたチャドを見つけた。チャドは生きていた。
 「チャド」
 チャドを抱き起こすと、ゆっくりと目を開けた。
 「ジェフ・・・」
 「どうした、何があった? エレナはどこだ?」
 「盗賊だ・・・。みんな盗まれて、最後は火をつけていった・・・」
 「エレナは?」
 「攫われてしまったんだ・・・。俺、何もできなくて・・・」
 ジェフは頭を固いもので打たれたような衝撃を覚えた。あの伯爵家は、盗賊と組んでいたのだと、ジェフは理解した。 時たまウェトゥムの村を襲わせては、その甘い汁を吸っていたのだ。村人たちはそれに気付き、伯爵を殺したのだ。そして今夜、伯爵家は崩壊したサルトゥスの情報を流した――。
 ジェフは怒りに震える拳を押さえた。
 「ジェフ・・・ごめん・・・俺、頼まれてたのに・・・」
 「もういい、わかった。休んでくれ」
 盗賊の本拠地はそう遠くないはずだ。ジェフは盗賊たちの馬車の跡を追い、夜闇へと消えていった。

王女の行方

 一方、宮廷では、ジェフの言った通り、後妻が娶られていた。国王ウィリデウスが法を改正し、後宮に勤めていた愛妾も王妃となる権利を与えられた。そこで当然、レグレティアが王妃の座に就いたが、子に恵まれることはなかった。いつしか聖堂を始め、宮廷内では、ディーウィティアの娘、セレスティアが生きているのではないかと噂になった。ウィリデウスは不安に駆られ、心を病んでいった。
 約二千五百年続いた王朝もこれまでか。
 コルニクスはほくそ笑んだ。しかし、万が一にも、王女が生きていたなどという事実があってはならない。王家が滅亡した後、その後釜にありつくのはわが執政家なのだ。王女の行方を探るにはどうしたものかと、このところつらつらと考えをめぐらせていた。

 一方ジェフは、盗賊の居所を突き止めた。日が上ってからのことだった。単身でその隠れ家に乗り込み、盗賊を片っ端から斬って捨てた。ただし、止めは刺さず、重症、で済む程度にしておいた。そして最後に残った盗賊頭を問い詰めた。
 「攫った子どもはどこだ?」
 「し、知らねえ!」
 「嘘をつくな!」
 「本当だ。子どもはみんな人攫いの連中に売った。嘘じゃねえ!」
 売っただと――?
 「その中に女の子どもがいただろう。髪の長い少女だ」
 「いたかもしれねえ」
 「その子は生きていたか?」
 「子どもはみんな生きたまま売った。わかったら剣をどけろ!」
 「お前たちの過ちを思い知れ」
 ジェフは盗賊頭の首だけを刎ねた。
 
 結局、人攫いの一団を見つけることはできず、エレナの生死も不明のまま、ジェフは一旦チャドの元へ戻った。チャドはまだぐったりしていたが、それでもジェフを見ると立ち上がった。
 「大丈夫か」
 ジェフは井戸から水を汲み、チャドに飲ませてやった。
 「エレナは――?」
 「見つけられなかった」
 「・・・血の臭いがする」
 チャドはジェフをよくよくと見た。
 「すごい血じゃないか!あんたこそ大丈夫なのか?」
 「大丈夫だ。・・・俺の血じゃない」
 チャドは恐ろしそうな顔をして、それ以上追求しようとしなかった。
 「これからどうするつもり?」
 「エレナを探す。見つけるまで」
 「どうやって?」
 「・・・わからない。お前はこれからどうするつもりだ」
 「俺は・・・またどこかの村に入って働かせてもらうよ・・・」
 チャドは肩を落とした。
 「なら、王都に近い街に、大規模な農園がある。その主人と俺は顔見知りだから、紹介してやろうか」
 「本当?」
 チャドは嬉しそうな顔をしたが、ハッと気がついた。
 「でも、あんたお尋ね者じゃ・・・」
 「そうだ。だが、あの人は恐らく俺を信じていてくれているだろう。数少ない俺の信用できる人だ」
 「王都の近くって、そこまでたどり着けるのか?危なくないのか?」
 「・・・この返り血を見ろ」
 お前には二度と人の血を見せたくないが、と、ジェフは肩をすくめた。
 「・・・サルトゥスは、おしまいだね・・・」
 しばらくして、チャドが言った。
 「ああ・・・。しばらくすれば、国が処理に来るだろう。農民たちは今以上に辛い立場におかれることになるだろう」
 「・・・・・・」

 一月後、ジェフはチャドを連れて王都の近く、リアトリスの街に入った。ジェフは布を顔に撒きつけ、行商人の変装をしていた。夜、ジェフは農園主の家の扉をノックした。
 「誰だ」
 中から中年の男の声がした。
 「俺だ」
 ジェフはそれだけしか言わなかったが、慌てて鍵を外す音がした。
 「ジェフ!」
 「シーッ! 黙れ馬鹿!」
 ジェフは慌てて農園主の頭を押さえつけた。
 「ああ、すまねえ。一体、何があったんだ? そいつは誰だ? どうしてここへ?」
 「質問攻めにする癖も変わらないな、ハンス。とりあえず入れてくれないか」
 「ああ、そうだな」
 ハンスは禿げ上がった頭を撫でながら扉を大きく開けた。

 「・・・というわけで、俺は無罪なんだが信じてくれるか?」
 ジェフは一族のことはさておき、謀反を起こそうとしたという手配書は全くの嘘だと説明した。
 「信じるも何も、お前の言葉は信じなきゃならねえだろ。俺の息子の恩人だ」
 「あんた、ここでも恩人なのか?」
 チャドが小さな声で尋ねた。
 「ジェフは、俺の子どもが人攫いに攫われそうになったところを助けてくれた偉ーい騎士様よ。ああっと、今では違うのか」
 「ハンス、遅くなったがこいつはチャドだ。俺の友人だ」
 「ハンスだ。よろしくな」
 「チャドです」
 二人はテーブル越しに握手して挨拶を交わした。
 「俺の住んでいた村で、酷い事件があって村が壊滅した。チャドはその生き残りだ」
 「酷い事件・・・サルトゥスか?」
 「なんだ、もう知っているのか」
 「ああ。何でも、隣村の謀反の巻き添えを食らったって聞いてる」
 「・・・大体事実だな。だが、その隣村の農民たちの怒りももっともなところだ」
 ジェフは伯爵家と盗賊の繋がりを話してやった。
 「なんてこった!」
 ハンスは息巻いた。
 「そんなことが本当にあるんだな?」
 「ああ。間違いない。俺が盗賊頭に直接聞いた」
 「盗賊頭に?」
 ハンスは目を丸くしたが、ジェフは気にせず続けた。
 「それで、あんたの農園でチャドを雇ってくれないか」
 「ああ、お安い御用だ。猫の手も借りたいくらいなんでな」
 王都の周辺は、城壁の付近と違って気候が良いため、年中様々な作物が採れる。
 「それで、お前はどうするんだ?」
 「俺は、ちょっと探しものがあるんで、その辺をウロウロする」
 「まーたうろうろか。まあお前がうろうろしてくれてたお陰で、うちの息子は助かったんだがな」
 「そういうわけだから、俺は今すぐにでも出なきゃならない。わかってると思うが、俺と会ったことは――」
 「ああ。誰にも話さんよ」
 「恩に着る。チャドを頼んだ」

 それから十五年が経った。
 王家では、未だに二人目の世継ぎが生まれなかった。心を病んだウィリデウスは、あれほど愛したレグレティアを役立たずの女と呼び、毎日のようにあの美しい顔を殴り、終いには自殺に追い込んでしまった。ウィリデウスはますます動揺し、不安感を募らせた。そこで三人目の王妃が娶られたが、やはり子どもは生まれなかった。
 コルニクスも内心焦りを感じ始めていた。
 まさか、本当に王女は生きているのではないか――。
 コルニクスは、新たに任命した執政補佐官、クレストを肖像画庫に連れてきた。
 「よいか、これは内々の仕事だ」
 従順なクレストはコルニクスの命を聞き、一礼して立ち去った。
 コルニクスは、忌々しそうに肖像画庫の絵を見回し、自らもその場を後にした。

 一方、クレストは、コルニクスの前では平静を装っていたが、その場を立ち去った後では動悸が止まらなかった。
 ――王女は生きている――?

 『勤めを果たせ』

 彼の父親の言葉が、脳裏に響いていた。

 その頃、ジェフは――。
 未だエレナの消息は掴めずにいた。エレナがあの時外国に売り飛ばされていないことだけを祈りながら、各方々を訪ね回り、若い女性をしらみつぶしに探していた。王家に次の世継ぎが生まれていないことだけが、ジェフを確固たる信念と共に動かしていた。エレナは今頃二十三になる頃だった。
 ――どこにいる・・・。
 ジェフはその日も同じことを思いつつ、各地を訪ね歩いていた。生活の資金はどうしたかと言えば、自分と同じ賞金首の連中を捕らえ、顔を隠してその連中を売るか、国の情報も得る為に騎士団の下働きもした。ジェフがお尋ね者になってから長い時間が経っていたので、今ではそれほど回りを警戒せずにすんでいた。ただ厄介なのは、不老長寿の恩寵の為、人相書きが何年経っても当て嵌まってしまうという点だった。しかしそれも、最近はほとんど見かけなくなったように思えた。
昼過ぎ、通りかかった酒場で若い騎士を二人見つけた。聞き耳を立ててみると――。
 「面倒くせえなあ」
 「ああ。これから王都まで馬車だなんてよ」
 「ただ馬で行くだけならあっという間なのにな」
 王族への献上物を運ぶ仕事らしい。ジェフはフードを目深に被り、二人に近付いた。
 「その仕事、俺が引き受けよう」
 「ああん?誰だてめえ」
 酒の入った若い騎士はジェフを見上げた。
 「名を名乗れ」
 「カリオレンの三等騎士団員だ。本部への伝令に行く途中だ。ついでにあんたたちの仕事も引き継ごう」
 「面倒くせえし、いいか」
 良くないだろう!最近の騎士団はどんな教育をしているんだ!
 元長官のジェフは心中怒りを覚えたが、今はそれどころではない。情報を集める為に王都へ入る恰好の手段を目の前にしているのだ。若い騎士たちは、自分たちよりよほど年上の騎士団員に仕事を引き受けてやると言われたことで安心したのか、ジェフに多少の銀貨が入った袋を渡した。
 「よし、あんたに任せる。気をつけて行けよ」
 「ああ、そうそう」
 もう一人の騎士が思い出したように言った。
 「この先の森には魔女がいるって話だ」
 「魔女?」
 「ああ。何でも、通る馬車通る馬車みんな消えちまうんだ。御者もな。間違えて魔女の森に入ったら、二度と出られねえって話だ」
 「魔女でも何でもいいから、まず女ってもんに惑わされてみてえよなあ」
 下世話な話が始まり、二人が盛り上がってきたところで、ジェフは銀貨の袋を懐に収め、するりと姿を消した。
 
 ジェフはガラガラと街道で馬車を進めていた。ここから王都までとなると、馬車で三日はかかる。日も暮れようとする頃、男の子どもを見つけた。どこにといえば、高い木の上に。どうも降りられなくて困っている様子だ。ジェフは馬車を降り、木に登り始めたが、エレナを抱いて上ったあの日のことが思い出され、軽くため息をついた。
 「ほら、こっちへ来い」
 金髪の男の子はふるふると首を振り、何か言いたそうな顔をしていた。また顔が怖いからいやだとか言われるんだろうか、などと身構えていると、視界に青い筋が走った。その直後、カラカラという乾いた音が聞こえたのと、腕に焼けつくような痛みを覚えたのはほぼ同時だった。
 青蛇だった。文字通りの真っ青な蛇で、この蛇への抗体は薬学医術の発展したこの国ですら未だ見つかっていない。子どもを何とかつかまえ、地面に下ろしてやると、彼は礼を言うでもなく、逃げるように走って行ってしまった。
 ジェフは一気に意識が遠のくのを感じた。すぐに傷口に切り傷を作り、血液ごと毒を吸い出したが、すぐに傷口がふさがってしまう。何度も何度も腕を切りつけては毒を吸い出し――。それでも、焼けるような痛みは腕から全身へと回り始めた。青蛇の毒はじわじわと神経を蝕み、やがて獲物を死へと導くのだ。ジェフは王族の力で抵抗していたが、常人ならばすでにあの世へ逝っていてもおかしくはなかった。
 とにかく、次の村まで行こう。
 ジェフは再び馬車に乗った。日が暮れると、雨が降り出した。最悪だった。今では全身がズキズキと痛み、目は霞んでいた。そしてさらに――。
 ――最悪だ。
 道端に人が倒れているではないか。この降りしきる雨の中、身じろぎもせずに横たわっている。生きているのだろうか?

 「この先の森には魔女がいるって話だ」

 先程の若者の言葉が甦る。まさか、魔女の仕業でもあるまい。
 「おい」
 ジェフが馬車の上から声をかけたが、反応がない。ガタガタと震える身体を奮い起こし、馬車から飛び降りた。
 「おい、大丈夫か――」
 倒れていた人間を抱き起こした瞬間――。
 長い短刀が喉元を掠めた。ジェフの持って生まれた反射神経で避けることができなければ、今頃は確実に死んでいただろう。チッという舌打ちと共に、その人間は飛び起きて、細身の剣を抜いた。盗賊だ――。 最悪のめぐり合わせだった。ジェフは本能的に剣を抜き、相手と剣を合わせた。王族であり、その中でも選り抜きの剣の使い手であるジェフですら驚くほど素早い動きだった。
 「命が惜しくばその荷馬車を置いて行け」
 荷車はともかく、馬だけは今奪われるわけにはいかない。ジェフはガタつく身体で応戦していたが、やがて剣を弾き飛ばされた。そんなことは初めてだった。毒さえ回っていなければ、こんな盗賊ごときに殺られたりはしないものを――。 盗賊はドンッとジェフを木に叩きつけ、狙いを定めてその喉元に剣を振り下ろし――。
ジェフは覚悟した。エレナを、王女を救えなかった。この国も――。しかし、ジェフは痛みを感じることがなかった。不思議に思って目を開けると――。
 「あら、久しぶりね、ジェフ」

第三章 エレナ

 ジェフは朦朧とする意識の中をさ迷っていた。いつかの平和なサルトゥスの風景が見える。アールとアリスが笑って手を振り、その傍らにルーカスとチャドがいる。アールとアリスの間には、アリスのスカートを握った幼いエレナの姿もあった。
 赤いような光を放つ黒い髪に、真っ青な瞳の少女――。

 エレナ・・・。
 どこにいる・・・。

 「エレナ・・・」
 うわごとを言っているのが自分でも分かった。
 「なあに?」
 と、返事があるのはきっと蛇の毒のせいで幻聴が聞こえているのだろう。
 「どこへ行った・・・」
 「ここにいるわ」
 と、返事があるのはきっと蛇の毒のせいで幻聴が――。
 蛇の毒?俺は生きているのか?
 ジェフはぼんやりと目を開けると、どこか柔らかいものの上に寝かされているのに気がついた。さらに、雨の音は聞こえるのに雨が自分に当たっている気配はない。しかし、朦朧とする意識の中、自分が置かれている状況をはっきりと把握することはまだできなかった。
 「エレナ・・・」
 何が何だか分からないが、ジェフはもう一度呟いた。
 「だから何よ」
 今度こそはっきり聞こえる。幻聴ではない。ジェフは勢いよく起き上がった。途端に頭を殴られたように、ガンガンした頭痛と共に眩暈がした。身体も燃えるように熱く、ジェフは頭を抱えた。
 「馬鹿ね、急に起きるからよ」
 「・・・・・・」
 ジェフは、誰だか知らないその女性を、自分の手当てをしてくれたらしいその女性を、恐らく何らかの方法で自分を生かしてくれたその女性を、まじまじと見つめた。
 「・・・大変失礼だが、誰だ?」
 「今名前呼んでたじゃないのよ、馬鹿ね」
 「・・・・・・」
 まさか。
 「それとも、もうわからないかしら?」
 悪戯っぽく笑うその青い瞳。流れるような赤黒い髪。
 「エレナよ。昔サルトゥスで会ったでしょ? あんたは何も変わらないのね。さすがというべきかしら」
 ジェフは眩暈がした。違う意味で。
 何だってこんなに――こんな形で――。
 どれほど探したか。
 「エレナ――」
 ジェフが感極まってエレナを抱き締めようとしてと動こうとすると、エレナが驚いたようにそれを押し留めた。
 「だめよ、まだ動いちゃ」
 「何してるんだ?」
 眩暈のする頭を押さえながら、ジェフが尋ねた。
 「不本意ながら、あんたの看病よ。あと編み物」
 「そうじゃなくて、ここはどこだ? 今はどうして暮らしているんだ?」
 「ここはオプタリエのすぐそばの森よ」
 エレナはそれだけ言った。
 「ほら、もう寝て」
 「俺はなぜ助かったんだ?青蛇に噛まれたんだぞ?」
 「助かったんじゃなくて助けてやったのよ」
 ジェフを寝かせながらエレナが訂正した。
 「父さんと母さんは青蛇の毒に抵抗する抗体の研究をしていたわ。私は両親の論文と研究書を読んで、それを作るのに成功したのよ。その証があんたよ。生きてるわ。今のところね」
 「お前――、医者になったのか?」
 「まさか。私があの後どうなったか知ってるでしょ。都の医学院になんて行けるわけないじゃない」
 だけど、と、エレナは言葉を切った。
 「その辺の薬師には負けないつもりよ。焼け残ってた父さんと母さんの論文もとても分かりやすかったわ。血が繋がってるのね」
 「・・・・・・」
 そうだ。エレナはまだ知らない。自分が憎むべき王家の世継ぎだと――。
 「さあ、おしゃべりはもうお終い。もう真夜中を過ぎてるんだから。病人は寝てちょうだい。ああ、その前にこれを飲んでみて」
 人体実験か――。
 しかし今は文句を言える立場にない。ジェフは甘い香りのする温かい飲み物を渡され、一口飲んだ。途端に体中が温かくなり、痛みも消え去った。ジェフは何も考える間もなく、暖かな眠りに引き込まれていった。

 次にジェフが目を覚ますと、日はかなり高く上っていた。暖炉には小さく火が燃え、自分の傍らにはりんごと飲み物が置かれていたジェフは腕に再び鋭い痛みを感じた。見ると、蛇に噛まれた箇所に包帯が巻かれていた。包帯を取ってみると、驚くことに、腕に傷ができていた。エレナは一体どうやって青蛇への抗体を見つけたのだろう。どうやって自分の手当てをしたのだろう。
 ジェフは不思議に思いながら、恐る恐る起き上がってみた。 まだ眩暈はするが、あの頭痛はなかった。体の震えも治まっている。
 エレナはどこだろうと、ジェフは表に出た。日の光がやたらと眩しく見えた。エレナは、厩で昨日自分が乗ってきていた馬車の馬を世話していた。
 「エレナ――」
 ジェフが声をかけると、エレナは驚いたように叫んだ
 「ちょっとだめじゃない、まだ起きてきちゃ!」
 エレナはジェフに駆け寄った。
 「ほんとに体力馬鹿なんだからあんたたちは・・・」
 王女であるお前に言われたくない。そう思ってから、ふと気がついた。エレナは昨日も、ジェフが年をとっていないことに対して「さすがというべきかしら」と言っていた。
 「お前・・・知ってるのか?」
 「何を?」
 「俺を」
 「知ってるわよ。頭おかしくなったの?」
 どうして、どうしてこうなった。どうしてこう口悪く成長した。
 「俺が――」
 「紋章官一族だって?」
 「どこで知った?」
 ジェフは大きな声を出し、途端に再び頭痛に襲われた。うめき声を上げると、エレナは呆れたようにため息をついた。
 「だから、まだ起きるのは早いって言ってるのよ。戻りなさい。ああ・・・包帯まで取っちゃって」
 エレナはジェフに肩を貸し、家に入っていった。
 「・・・まだ熱も高いわ。無理しないで寝てないと」
 ジェフの額に手を当ててエレナが言った。
 「でも、何かお腹に入れたほうが良いかしら・・・」
 エレナは竈にあった鍋を温め始めた。
 「どこで知った?」
 ジェフは先程の質問を繰り返した。
 「あんたが紋章官一族だって?」
 「あまりでかい声で紋章官紋章官と言うんじゃない」
 「ここには誰もいないわ。・・・そうね、都の手配書の原本で見つけたわ」
 「都の・・・? 騎士団の本部へ入ったのか?」
 ジェフは度肝を抜かれた。
 「そうよ。ついでだったからあんたの記録に死亡って書いておいたわ。感謝して? あんたはもうこの世にいないのよ」
 「・・・・・・」
 ジェフは目を丸くしたまま何も言うことができなかった。いつの頃からか自分の手配書を見なくなった気がしたのは、時が経ったからではなく、エレナが自分の存在を抹消してくれたから――?
 「なぜそんなことをした」
 「あんたにこの世から消えて欲しかったからよ」
 エレナの声が急に低くなり、真剣みを帯びた。
 「あんたがあのときサルトゥスで剣を揮っていれば、私たち親子もルークも、みんなもまだあそこで平和に暮らしていたかもしれないわ」
 「・・・・・・」
 ジェフには何も返す言葉がなかった。確かに、そうだ。
 「なら、なぜ俺を助けた?」
 「毒の実験をしたかったからよ」
 エレナはやれやれとため息を吐きながらやって来た。その手にはスープとパンを乗せた盆があった。
 「はい、どうぞ」
 ぐいっと強引に押し付けるようにジェフに盆を手渡し、エレナはふいっと向こうへ行ってしまった。その姿は七つのときと変わらなかった。
 「殺したい相手に、なぜこんな施しをする? 蛇毒の実験は済んだはずだろう?」
 「殺したいとは言ってないわ」
 エレナはそっぽを向いたまま返事をした。「昔は思ったけど」
 「今は?」
 「もうそんなに子どもじゃないわ」
 エレナはジェフの元へ戻ってきて、腰掛けた。その手には小刀が握られていて、ジェフはギクッと身を引いた。
 「何よ。殺したりしないわよこんな小刀で」
 「この流れでそれを持ってこられた日にはビビって当然だろう・・・」
 「殺るならもっと切れ味の悪いナイフでじわじわ殺ってあげるわよ。冗談はいいから早く食べて。冷めるわ」
 冗談に聞こえない。ジェフはそう思いながらも大人しく食事をご馳走になった。アリスの作る料理とよく似た味だった。
 「なぜ本部へ侵入したんだ?どうやって?」
 「そうね――」
 エレナはリンゴを小さく削り取りながら、ジェフの盆にぽいぽい投げてよこした。
 「私の仲間があんたと同じように賞金首になって、その記録を抹消しに行ったのよ。それだけ」
 「私の仲間って・・・何の仲間だ?」
 あまり聞きたくなかった。
 「仲間は仲間よ。色々いるわ」
 ジェフが食事を終えると、エレナはジェフの手から盆を取り上げた。
 「ほら、レディに対して色々詮索しないの。とりあえず今は寝なさい」
 たしかにエレナは正真正銘のレディだ。ジェフは昨日の薬を飲まされ、再び眠りについた――。

 ジェフの熱は、その後もなかなか下がらなかった。むしろ上がり続ける一方の日もあった。エレナは薬が失敗しているのでは、と不安になっていた。
 ジェフはある夜中、朦朧とする意識の中、ひやりと冷たいものを額に感じて目を覚ました。エレナが絞った冷たい布を自分の額にのせてくれていた。
 「お前は寝ないのか・・・」
 「目が覚めたの?」
 エレナの声はいつもより幾分優しく感じられた。
 「いいから、眠って・・・。じきに夜が明けるわ・・・」
 囁くような声。エレナもこんな声を出すのかと思えるほど美しく聞こえた。そのあとも何か言っているのが聞こえた気がしたが、眠りに引き込まれていく中、その言葉を聞き取ることはできなかった。

 ジェフとエレナが再会してから、二十日が経った。
 ジェフはすっかり回復し、腕の傷も閉じた。傷跡は残ったが、ジェフにとって、怪我は腐るほど経験してきたものの、痕になって残るということは初めてだったので、その傷跡というものが新鮮だった。そうエレナに言うと、「ほんと気味悪いわね、王族って」と返された。これで自分が王女だと知った日には、エレナは一体どうなってしまうのだろう。
 だが伝えなければ・・・。
 「エレナ――」
 「ねえ」
 エレナはジェフの話を遮った。
 「いつまでいるつもり?」
 「い――」
 「もう治ったでしょう?いつまでいるの?」
 ジェフは返す言葉に困ってしまった。これから肝心要の話をしようというときに。
 そのとき、家の扉をノックする音がした。
 「俺が出る」
 「いいから!」
 エレナの制止も聞かずにジェフが扉を開けると、若い男が立っていた。
 「誰だ」
 「お前こそ誰だ」
 「ウィル」
 エレナが割って入ると、ウィルと呼ばれた男は急に大声を出した。
 「しばらく姿を見せねえから心配してきてやったら男なんか連れ込みやがって!」
 「この人――」
 エレナが口を挟もうとするが、ウィルは完全に頭にきているようだった。
 「てめえも人の女に手ぇ出しやがって!」
 「いつ誰があんたの女になったのよ!」
 エレナがさらに大声を出した。
 「この人がジェフよ! 前に話したでしょう?」
 「何でそいつがこんな所にいるんだよ!」
 「拾ったのよ!」
 俺は猫か何かですか。ジェフは完全に蚊帳の外に追いやられ、若い二人を眺めていた。
 「仕事相手がこの人で・・・、怪我してたから助けてやったのよ。今日にも洗いに行くわ」
 何の話だ?
 ジェフにはさっぱり訳が分からなかった。
 「何の話だ? 仕事相手?」
 「そういうわけだから」
 エレナの声が急に冷たくなった。
 「あなたとも今日でお別れね」
 ジェフの言葉を無視してエレナが言った。
 「ちょっと待て」
 「私も忙しいのよ。いつまでもあんたの相手ばっかりしてられないわ」
 「こいつは盗賊だ」
 ウィルがどこか勝ち誇ったように説明した。
 「単身のな。あんたは国を追われたのに、なぜ国の紋章が入った荷馬車に乗ってたんだ?」
 「その話は後よ。ジェフ、出て行って」
 「・・・それは困るな」
 ジェフはさてさてと首を振った。
 「俺はお前を探して十五年も放浪して歩いた」
 その言葉に、エレナは怪訝な顔をした。
 「なぜ・・・?」
 「それはお前がおう――」
 王家の娘だからと、この男の前で言ってもいいものだろうか?エレナにも色々と立場があるのでは?
 「私が、何よ」
 「とにかく」
 ジェフは開き直った。
 「俺はもう二度とお前を見失わないと神に誓った」
 ジェフの言葉に、その場がの空気が凍りついたように静まり返り、やがて、エレナがぼそっと呟いた。
 「・・・やめてよ、何言ってるの・・・」
 しまった。ジェフは大変な誤解を招いたことに気がついた。
 「いや、そういう意味じゃなくて――」
 「やっぱりてめえエレナに気があんじゃねえかよ!人の女に!」
 「だから誰があんたの女なのよ!」
 「ない!」
 ウィルの言葉に、ジェフとエレナは同時に叫んだ。
 「ならもういいでしょう?」
 しかしその後、エレナが最大級の声を出したが、その声はどこか悲しみに満ちていた。
 「私は今は王族専門の盗賊よ。ここにいればあなたにも危害が及ぶ。だからもう出て行って」
 「嫌だと言ったら?」
 ジェフは剣に手をかけた。
 「おい、女相手に手ぇ出そうってのか?」
 ウィルも剣に手をかけた。
 「ウィルあんた、私と打ち合って一度でも勝ったことがあるの?」
 エレナも剣を手にした。
 エレナとジェフはウィルを無視して、互いを睨み合ったまま動かなかった。
 そして――。
 「バッカじゃないの?」
 エレナが剣を放り出した。
 「回復した本気のあんたと私が打ち合って、私が勝てるわけないでしょう!」
 そうでもないと思う――。
 ジェフは喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。
 「じゃあ、いてもいいんだな?」
 「好きにすれば? その代わり薪割りとか水汲みとか、他にもいろいろコキ使うんだから!」
 急に子どもじみたエレナに、ジェフは吹き出した。
 「あんた、ここにいてエレナをどうしようって言うんだ?」
 ウィルが警戒するように言った。
 「どうもしない。話があるだけだ」
 「ならさっさと済ませて――」
 「無駄よ、ウィル」
 エレナはため息を吐いて腰掛に腰を下ろした。
 「この人は言の葉の一族。口で勝とうたって無理よ」
 負けてる。全然負けてる。口ではエレナには絶対に敵わないと、ジェフは本能的にそう思った。
 
 その日、ウィルは恨めしそうに帰って行った。
 「エレナに手ぇ出したら承知しねえからな!」
 と釘を刺して。
 「あのウィルって男」
 ジェフが暖炉に薪をくべながら言った。
 「お前に気があるんだな」
 「どうだか。そこら中の女に手出してるし。それに、だったら何よ」
 エレナは暖炉の前に腰を掛け、小さな靴下を編んでいた。
 「いや。お前もいい年だし、男と落ち着かないのかと思っただけだ」
 「私は結婚しないわ。子どもも産まない」
 「なぜ?」
 エレナの冷めた言葉に、ジェフは驚いた。
 「明日をも知れない身で、子どもを守れないわ・・・。幼いうちに親を失う気持ち、わかるでしょう」
 「なら盗賊なんて危険な真似するのは――」
 「あのね」
 エレナはイラついたように顔を上げた。
 「たらたら説教するんだったら出てってもらうわよ、本当に」
 ジェフは「わかった」と手を挙げた。
 「なら、興味本位で聞く。なぜ盗賊なんて危険な真似してるんだ?しかも王族専門と言ったろ?」
 「王族に恨みがあるんでしょうね」
 エレナの言葉はやたらとトゲトゲしていた。
 「それにしたって、お前が王族への献上品や金をそう身につけてるとは思えない」
 「それは・・・、明日分かるわ。今日は結局行けなかったから」
 「どこへ?」

 次の日。エレナはジェフの乗ってきた荷馬車と馬を使って、オプタリエの外へ抜け出した。王家の紋章だけは隠してあった。
 「どこへ行くんだ?」
 「資金洗浄」
 二人が着いた先は、古ぼけた小屋のような店だった。エレナは店先で、店主と何か話していたが、やがて店主を伴って外へと出てきた。
 「おや、今日は一人じゃないんだね」
 いかにも胡散臭そうな男が、ジェフの存在に気がついて言った。それから店主は馬と馬車の中身を丸々値踏みした。 店主の計算が終わると、エレナとジェフは店の中に入って行った。
 「今回は、これくらいかな」
 そう言って、店主は金貨の入った小さな袋を二つ並べた。途端にエレナが短刀を抜き取り、ドンッと机に突き刺した。
 「これっぽっちなわけないでしょう」
 「ったく、あんたには敵わないよ。だが、うちも財政難なんでね――」
 店主は笑って、もう一袋、銀貨の入った袋を手渡した。
 「そんな大金、どうするんだ?」
 二人は店を後にすると、馬に乗って、もと来た道を戻ってオプタリエに入り、そこから海の方へ走り出した。
 「今度はどこへ行くんだ?」
 馬に乗りながら、ジェフが尋ねた。
 「ついて来るの? 来ないの?」
 ジェフは肩をすくめ、エレナについて行った。
 やがて着いた先は、大き目の教会のような場所だった。
 「教会・・・?」
 エレナは荷袋と先程の金を持つと、つかつかと歩き始めた。ジェフは何も言わずにその後をついて行った。階段を上り、エレナは一つの部屋にノックして入っていった。
 「神父様」
 「エレナ!」
 書き物をしていた神父は顔を上げ、エレナを歓迎したが、ジェフに気がついた。
 「そちらの方は?」
 「私の知り合いです。ジェフといいます」
 「ジェフリーです」
 「どうも・・・この方は・・・」
 「大丈夫。何も心配ありません」
 そう言うと、エレナは持っていたものを、金を含めて全て神父に手渡した。
 「またこんなにたくさん・・・。あなたはまた・・・」
 「いいんです、私のことは」
 神父が袋の中を改めると、手作りの子ども服やおもちゃが入っていた。
 「あなたは本当に、危険なことはしていないんですね?」
 「知らなくていいんですよ、そんなことは」
 エレナは微笑み、部屋を後にした。
 「ここは・・・」
 ジェフが言いかけると、「そうよ」と、エレナが肯いた。
 「ここは孤児院よ」
 「なぜお前がこんな施しをするんだ?」
 長い回廊を歩きながら、ジェフが言った。
 「昔――」
 エレナは小さな声で話し始めた。
 「あの日・・・、私たちがすべてを失ったあの日よ。あの日、人攫いに攫われた私は、同じような境遇の子どもたちと同じ荷馬車に乗せられたの。私は運よく縄をほどいて逃げることができた・・・。だけど、他の子を助けることができなかったの。必ず助けると言ったのに、その約束を守れなかった・・・。あの子たちがどうなったか、私にはわからない。だけど、せめて今、同じ孤児であるここに住む子どもたちが、少しでも平穏に暮らせればいいと、そう思っているだけよ。・・・彼らを助けられなかった罪滅ぼしにもなればとも思ってるわ・・・」
 そして二人が中庭に出た途端、子どもたちが、わっとエレナを歓迎した。
 「エレナ!」
 一人の女の子が、エレナの膝のあたりに抱きついた。
 「ベラ」
 エレナも少女を抱き締めた。
 「また大きくなったわね。あなたに似合うスカートを作ってきたんだけど、合うかしら」
 「本当?」
 「ええ。あとで神父様にもらってちょうだい。名前をつけておいたから分かっていただけると思うわ」
 「エレナ」
 次にやって来たのは、若い女性だった。
 「久しぶりね、ジュリア」
 「ええ。元気?」
 「ええ。相変わらずよ」
 「こちらの方は・・・?」
 「ジェフよ。私の知り合い」
 「初めまして」
 ふっくらとした金髪の、可愛らしい女性だった。
 エレナは木の陰に隠れた金髪の男の子に声をかけた。
 「ブルーノ、隠れてちゃダメよ。またいじめられるわよ」
 ジェフは、ブルーノと呼ばれた少年に見覚えがあった。
 「あっ!あいつ!」
 思い出した。ジェフが蛇に噛まれたときの、木登り少年だ。ブルーノはすごすごとエレナの元にやってきて、何事か彼女にに耳打ちをした。
 「えっ」
 エレナが声を上げた。
 「じゃあ、きちんとお礼を言わなきゃ」
 「・・・ありがとうございました」
 ブルーノはぺこりと頭を下げると、さっと走って行ってしまった。
 「あの子を助けて青蛇にやられたのね」
 「ああ」
 「この近くの村の子どもたちにいじめられて、木の上まで逃げていったそうよ」
 「それであんなところに・・・」
 「ありがとう」
 「何でお前が礼を言うんだ?」
 「・・・何となく」
 エレナもまた、ふいっと向こうへ行ってしまった。
 「あの方は」
 気がつくと、ジェフのそばに神父が立っていた。
 「いつもああして、ここへ贈り物を下さるんです」
 エレナを見つめるその視線は、どこか悲しげでもあった。

 数年前――。
 エレナがまだ、自分の為に盗みをして稼いでいた頃だった。追っ手に追われ、逃げ込んだのがこの孤児院だった。エレナはそこで、目も当てられない光景を見た。ボロボロのぼろ切れをまとい、痩せこけた子どもたち――。エレナはサルトゥスの悲劇以来、自分自身も孤児だったが、あるときから環境には恵まれたため、こんな姿になることはなかった。
 エレナはそれ以来、王族の献上品を積んだ荷馬車を襲っては、それを足がつかないように金に換え、この孤児院に寄付するようになった。

 「私は、本当は知っているんです」
 神父が言った。
 「あの方が、危険を冒してここの子どもたちの為に金品を下さっているのだと。自分の暮らしもあるでしょうに、自分のことはいいからと言って聞かず・・・。いつかあの方が、本当に危険な目に遭うのではと、恐れているのです」
 「彼女は・・・」
 ジェフは考えながら言葉を紡いだ。
 「私にとっても特別な存在です。そばにいられる間は、可能な限り、守りましょう」
 「・・・よろしくお願いします・・・。彼女は、神のご加護をと言っても、神は信じないと・・・」
 昨夜、エレナが編んでいた小さな靴下。あれも、孤児院へ寄付する為のものだったのだ。子どもたちのために剣を揮い、彼らの為に手製の服や小物を作り、貧しい思いをしている子どもたちと笑顔で接している姿は、まさに女神そのものだった。

 エレナは孤児院を離れ、苗売りの屋台へやって来た。そこで、不思議な形をした苗をいくつか買い、再び海へ向かった。今にも崩れそうな海岸の泥沼に、エレナは汚れるのも構わずじゃぶじゃぶと入っていった。そして、丁寧に苗を植えていった。
 「ここは・・・?」
 見渡す限り、似たような木が植えられていた。
 「・・・私なりの贖罪よ」
 「まさかお前――」
 「自分と仲間の命が危ないとき以外、人を殺めたことはないわ。だけど、どうしても仕方がなかったときは・・・、こうして、殺した人数分だけ苗を買って植えるの。ここはまだ人が住める場所じゃないけど、この木が大きく成長する頃には、地盤もしっかりするはずよ。何百年先になるかわからないけど・・・。この景色を見て」
 エレナは笑顔でジェフを振り返った。
 「海がよく見えて、綺麗な場所だわ。ここに人が住めたら、さぞ幸せでしょうね。・・・そんな人間の高望みが、この島の惨劇を招いたのね・・・」
 エレナは呟くように言った。
 ジェフは覚悟を決めた。正統な王位継承者であるエレナが、これほどまでに人を殺めていたとは――。王家の滅亡の日は近い。
 
 「だれか!」
 女性の悲鳴が聞こえる。
 「誰かこの子を助けて!!」
 阿鼻叫喚の中、剣のぶつかり合う音、子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえる。
 「そなたらの行いへの報いに――」
 「―――・・・を・・・―――」
 「私にはできません――」
 「その代わりに――」
 彼女の目の前に血の海が広がる――。

 その晩、ジェフが居間で眠っていると、隣室で眠っているはずのエレナの悲鳴が聞こえ、目を覚ました。窓の外を見れば、満月の夜だった。
 ――そうか、あいつは今夜は・・・。
 王女と王妃は、満月の晩に必ずかつての戦の夢を見るのだ。ジェフは寝椅子から飛び起きると、エレナの部屋に入らせてもらった。
 「エレナ、エレナ!」
 エレナはハッと目を覚ました。彼女の頬を涙が伝い、呼吸は浅く乱れていた。
 「酷くうなされていた・・・。悪いが部屋に入らせてもらった」
 「何でもないわ・・・」
 エレナは震える身体で起き上がった。
 「ただの夢よ・・・」
 「・・・・・・」

 次の朝、エレナは珍しくぼんやりしていた。満月の晩のことを考えているのだろうか。
  「エレナ」
 ジェフに声をかけられて、エレナは我に返ったような顔をした。
 「何?」
 「大丈夫か。ぼんやりしていた」
 「何でもないわ」
 「なあ、聞いてもいいか」
 「何?」
 「昨日海で、「人間の高望みがこの島の惨劇を招いた」と言っていただろう?覚えてるのか?」
 「覚えてるのかって・・・」
 エレナは呆れたようにため息をついて、ふと思い当たったように叫んだ。
 『あんたが変な本預けて行ったんでしょう!』
 エレナが叫んだ言葉は古代語だった。ジェフは驚いた。
 『まだその言葉が話せるとは思わなかった』
 『あんたが子どもの私に壮絶なもの読ませるから、私は毎度毎度悪夢を見るようになったんだわ!』
 ジェフがエレナに書いた古代語の本には、この国の歴史が綴られていたのだ。
 「読めるお前がすごいと思わないか」
 「面倒くさすぎて死ぬかと思ったわよ」
 「なぜお前がそれほど頭が良いのか、気になったことはないか?」
 「え?」
 エレナはきょとんとした。
 「普通、あの言葉を独学で学ぶのは紋章官一族だけだ。俺だって祖父に手伝ってもらった」
 「・・・だって、あんたが読み聞かせして行ったじゃない・・・」
 「お前は――」
 そのとき、どんどんと扉がノックされる音がした。
 またか――。ジェフはがっくりと肩を落とした。
 満月の晩の話から入れば、エレナも自分が王家の人間であると受け入れてくれるかと思ったのに、肝心なところで必ず邪魔が入る。
 「ウィルだわ。こんな朝に何かしら」
 エレナは立ち上がって扉を開けた。
 「ウィル」
 「・・・あいつまだいたのか」
 ウィルは忌々しげにジェフを見た。
 「どうしたの?こんな朝早くに」
 「帆が出来上がった。見に行かないか?」

出国禁止令

 ジェフは、エレナとウィルについてオプタリエの外へ抜け出た。エレナはいつもこんな危険な真似ばかりしてるのだろうか。ジェフはエレナには危機感というものが備わっていないのだろうかと思った。
 しばらく馬を走らせ、着いた場所は、入り組んだ入り江の洞窟だった。
 「ここは?」
 「船を作っているの」
 「船?」
 「大陸への船よ。この国には希望がないから・・・。だからと言って、まともに船に乗るお金もない人たちが集まって、船を作っているの」
 「そっちの方が大変じゃないか?」
 「ええ・・・でも、ここにいる人たちは、あの孤児院の出身の人が多いわ。それに、船を造ることは別に禁止されていないでしょう?」
 「エレナ」
 船の影から、一人の大きな男がやって来た。
 「久しぶりね、アダム。帆ができたんですって?」
 「ああ。ようやくだ。出航できる日も遠くない」
 アダムは大きな帆を運んでいる数人を顎でしゃくった。
 「そいつは?」
 アダムはジェフを見た。
 「私の知り合いよ。大丈夫、喋ったりしない人だから」
 「なんだ、お前にもついに男ができたのかと」
 にやりとしたアダムの腕を、エレナは思い切りひっぱたいた。

 ジェフは、船の見学をしているエレナを眺めていると、そこへ、ウィルがやって来た。
 「本当に、エレナとは何もないのか?」
 「? ああ」
 「・・・・・・」
 ウィルは、相当妬いているようだった。
 「あいつは、必要以上に人と馴れ合おうとしない。俺ともそうだ。結婚もしないと言っていた。愛した者が死んでいくことに耐えられないからと言って・・・」
 あんなに子ども好きなのに、とウィルは言った。
 「それなのにあんたは、なぜこんなにエレナと親しいんだ?あんな顔をしてるエレナは初めて見た」
 「なぜと言われてもな・・・」
 ジェフが返答に困っているときだった。
 「大変だ!」
 と、誰かが走りこんできた。
 「国から新しい勅令が出た――」

 エレナとジェフはすぐに馬に乗り、近くの街中へ入った。
 大通りに人だかりができている。二人は人ごみを掻き分け、掲示された制札を読んだ。
 「「ベルスの民は何人も出国を禁ず」・・・どういうこと?」
 「財政難だ」
 ジェフが呟くように答えた。
 「国から人が出すぎたな・・・。そのせいで税を巻き上げるにも限界が来た。これ以上人が減らないように、苦肉の策だ。以前にも発令されたことがある」
 「そんな・・・じゃあみんなのしていることは・・・」
 「見つかれば違法になる」
 「・・・見つからないわ」
 エレナは自分に言い聞かせるように言った。
 「あそこは港と反対側の岸辺よ。・・・騎士団も来ない。だから、大丈夫よ・・・」
 それでも、エレナは不安そうに唇を噛んだ。

 ジェフとエレナは帰路に着いたが、会話は少なかった。ジェフは、今民の思いを形にし、民衆を救ってやれるのはエレナだと思っていた。エレナを都へ連れ戻し、その王位継承権を明らかにすれば――。それでたとえ自分が捕らえられ、死刑になっても。
 ジェフは、馬を止めた。
 「エレナ」
 「何?」
 エレナも馬を止め、振り向いた。
 「都へ行こう」
 「え?」
 「お前は――」
 駄目だ。説得力がない。今突然、お前は王位を継ぐ者だと言っても、何の説得力もない。それに今のエレナは、ひどく傷ついているように見えた。あの船を作るのに、どれほどの労力と時間を費やしたか、エレナは洞窟で、自分のことのように嬉しそうに話していた。
 そのとき、ふと、ジェフの視界に入ったものがあった。ジェフが幼い頃住んでいた、トリストティリスの最古の教会の屋根だった。
 「私が、何?」
 「いや、何でもない。悪いが、先に帰ってくれ。用を思いついた」
 「・・・都の話は何だったの?」
 「忘れてくれ」
 今は――。
 「寄り道するな。ここは壁のすぐ近くだ」
 「大丈夫よ。ここでは私は顔が通ってるわ」
 「どういう意味だ?」
 「そうね、帰ってきたら話してあげる。あなたはどこへ行くの?」
 「トリストティリス」
 「あなたこそ大丈夫なの?あそここそ無法地帯じゃない!」
 エレナは驚きを隠せないように言った。
 「俺はあそこで育った」
 「え・・・」
 「帰ったら話してやろう。気をつけろ。日が暮れる」
 ジェフはエレナの剣の腕を信じて、馬首を変えて走り出した。
 二十年近く、ジェフは放浪して歩いたが、故郷へは寄らなかったことを思い出したのだ。
 最古の教会――。なぜ立ち入り禁止になったのか、考えもしなかった。純粋に、地震で崩れているからだろうか。
 ジェフは数十年ぶりに、故郷の地を踏んだ。

 トリストティリスに入ると、ジェフは幼少期を過ごした家を素通りし、祖父が眠る墓地へとやってきた。
 やっと答えにたどり着いたかもしれないぜ・・・。
 ジェフは祖父の墓前に佇んだまま、しばらく動かなかった。
 仮にあの教会に古文書の最後の章を読み解く鍵が隠されていたとして、自分はそれを受け入れる覚悟があるのだろうか。それがエレナにとってやはり悲惨なものであったら?
 ジェフは冷たい土の下に眠る祖父に別れを告げると、踵を返して教会へと向かった。
 教会は、ジェフの幼少期の頃よりさらにみすぼらしくなり、もはや禁止されようとされまいと誰も近付きさえしないような様相を呈していた。
 ところどころ崩れ落ちた壁の隙間から身を滑り込ませ、幼いころと同じように天井を見上げた。松明の光に照らされた天井画は、ほとんどが崩れ落ち、まるで今のこの国の状態を表しているようだった。
 瓦礫に足を取られないように進んでいくと、埃にまみれた祭壇が見えてきた。
 あの頃は読めなかった文様、古代語が、今では読める。
 
 『我ら言の葉の一族は、姫君たちを守るため、真実をここに隠す』

 ジェフは祭壇を回り込み、あちこちに手を突っ込んだりして手がかりはないかと探し回ったが、何も見つからなかった。
 もしや、誰か先に見つけてしまったとか、崩壊してゆく建物とともになくなってしまったのではないかと思ったが、床石が松明の光に照らされて、一瞬何かが反射した。ジェフは跪いて反射した個所を探した。
 そして、見つけた。ウェルバ一族の紋章の彫り込まれた床石を。
 ジェフは震える手でその床石をめくり、埃をかき分けた。

事実上、盗賊頭

 ジェフがエレナの家にたどり着いたのは、夜中近くだった。酷い雨に降られ、びしょ濡れのまま中に入った。
 「濡れねずみね」
 起きていたエレナがぷっと笑った。
 「やられた・・・」
 ジェフは外套を脱ぎながら、頭を振った。
 「ねえ」
 エレナがジェフに髪を拭く布を手渡しながら尋ねた。
 「どうして急にトリストティリスなんて行って来たの?」
 「・・・探し物だ」
 ジェフは、今はその話題に触れたくなかった。
 「それより、お前があの辺で顔が通ってるって話を聞かせてくれ」
 「ああ・・・」
 エレナは、ちょっと苦笑してから話し始めた。

 昨年か一昨年のことだった。いつも買い物に行く村が、盗賊に襲われた。
 「ああ・・・エレナ・・・」
 疲れきった様子の店の女主人が、エレナを見て弱々しく微笑んだ。
 「女将さん、どうしたんです?」
 「盗賊が来たのよ・・・。みんな持って行かれてしまったわ・・・」
 その後を、王族の荷物が平然と運ばれて行った。エレナは心中に怒りを覚えた。
 村がこんなことになってるのに・・・!
 エレナは単身、盗賊の本拠地へ乗り込んだ。幼い頃、サルトゥスを襲った盗賊への恨みも甦ってきた。
 雨の夜だった。見張り役を眠らせ、思い切り扉を蹴破った。
 「誰だ!」
 「盗賊よ」
 フードを目深に被ったエレナは言った。盗賊たちは顔を見合わせ、笑い声を上げた。
 「なんだい姉ちゃん。うちに入ろうってのか?」
 「見張り役はどうした?」
 「眠ってもらったわ」
 「眠って?」
 「殺さなかっただけ感謝しなさい」
 エレナはフードを脱ぎ捨てた。かがり火に明々と照らされる赤黒い髪に、ゾッとするほど真っ青な瞳。
 「何だと?」
 「うちの連中をやっちまったてのか?」
 「だから、殺してはいないわ。今日、ルーメンの村から盗んだものを返しなさい」
 「何だと!」
 「馬鹿言ってんじゃねえ!」
 「面倒くせえ、殺っちまえ!」
 大男たちが一斉にエレナに襲い掛かってきた。しかし、エレナの方が圧倒的に強かった。手下たちを使い物にならなくすると、盗賊頭に詰め寄り、地面に這い蹲らせた。
 エレナは細身の剣を頭の喉元に突きつけて言った。
 「今後、平民の村や家を襲うことは一切禁止するわ」
 「なっ、何言ってやがる・・・!」
 「どこかの村を襲えばすぐに私の耳に入るわ。そのときは」
 エレナはぐっと剣に力を込めた。
 「あんたと、あんたの家族を殺しに行くわ」
 威厳に満ちた、高貴なものが生まれ持つ、その場を支配する圧倒的な力。盗賊頭はエレナを畏怖し、すぐに言った。
 「わ、わかった。もう村は襲わねえ」
 「誓いなさい」
 「誓う」
 エレナは頭を解放してやった。その光景を見ていた手下の者たちも、エレナから後ずさった。
 「あんたは頭の器がある」
 盗賊頭が言った。
 「うちの頭にならねえか?」
 「私が?馬鹿言わないで」
 エレナは笑い転げた。そのまだ幼さの残る仕草に、盗賊たちは心底不思議なものを覚えた。

 「だから、あの辺りの盗賊は私に手出ししないわ」
 現在。
 「でも、だからって気をつけろよ」
 「大丈夫よ。負けたりしない」
 あなたって意外と心配性ね、とエレナは言った。
 「あなたはどうしてトリストティリスで育ったの?」

 ジェフは、紋章官一族が国を追われることになった理由、その後の運命を、詳しく語って聞かせその夜は珍しく二人で遅くまで話しこんだ。
 今、彼は、できるだけ気を逸らしていたかった。今日、トリストティリスで見つけてしまった、探し物から。

アルフェンドラ

 次の朝、二人はいつもよりゆっくりと起きだした。 ジェフが水を汲んでいると、エレナがあくびをしながら外に出てきた。その顔には、まだどこかあどけなさが残っていた。
 「雨、上がったわね」
 「ああ」
 「風邪、引いてない?・・・って、聞くだけ無駄ね」
 王族の人間が、一晩雨に打たれただけで風邪を引くなどありえない。
 「おかげさまで」
 ジェフは苦笑した。そのとき、バサバサッと伝令用の鳥が飛んできた。足に手紙と小さな石をくくりつけられている。
 「お前、伝令石なんて持ってるのか?」
 「ええ。いけない?」
 いけなくはないが、高い。伝令石とは、鳥が覚えこむ磁石の力を利用した石だ。手紙を送りたい相手の石を持ち、鳥にくくりつけることで、鳥は放たれたときにそのもう片方の石を持った相手の元へ飛んでいく。最近外国から輸入された伝達方法だった。昔からこれがあれば、ジェフは父親やガルシアと簡単に連絡を取り合えたかもしれない。
 「アルフェンドラのみんなが来てるんだわ」
 「アルフェンドラ?」
 「ゴルドアの吟遊詩人の一座よ。友達なの」
 エレナは笑顔で顔を上げた。
 「都で稼ぐから、来ないかって」
 嬉しそうなエレナの横顔に、ジェフもふっと笑みを漏らした。
 「ジェフ、あなたもどう?」
 「おい、俺は賞金首だぞ――」
 「来たくなきゃいいわよ。ここでお別れね」
 ぐっとジェフは言葉に詰まり、そしてほぼやけっぱち気味に「わかったわかった」と両手を挙げたエレナを再び見失うなど、それだけは、絶対に避けなければ・・・。

 その日はエレナが旅支度をする為、まだエレナの小屋に留まった。雨は上がったとはいえ、空気はまだひんやりとしていた。ジェフは自分の寝床に宛がわれている寝椅子に腰をかけ、父親の遺した日記を読んでいた。
 この日記の謎もまだ解けていない。
 と、そこへ、エレナがやって来た。
 「何読んでるの?」
 「俺の親父の日記だ」
 「・・・日記を遺していく人ってどんな人?」
 「こんなやつだ。読んでみるか?」
 「え?いいの?」
 「かまわない」
 ジェフが日記をパタンと閉じてエレナに差し出すと、彼女は驚きながらも受け取り、最初のページを開いた。
 「古代語じゃない」
 「古代語で書かないと意味がなかったんだろう」
 「あなたはもう読み終わったの?」
 「ああ。だが、なぜそれを遺して逝ったのかがわからない」
 「ほんと、相変わらず面倒くさい言語ね・・・。この言葉が廃れていったのも理解できるわ」
 エレナはパラパラとページをめくっていた。
 「・・・女好きな人だったのね」
 「なぜそこだけ勘付く」
 「だって、女の人のことしか書いてないわ、この人。エリーナ・・・」
 「エリーナは俺の母親の名前だ」
 ジェフは伸びをしながら答えた。
 「じゃあ、このデーナっていう人は?」
 「わからん」
 「劇的な恋愛でもしたのかしら」
 「かもな」
 ジェフは苦笑した。
 「そういえば、ジェフは古代語の名前を持ってるの?」
 エレナは何気なく尋ねた。
 「ああ。アクウィラスだ」
 「『鷲の眼光』・・・確かに目つき悪いわね」
 「余計な世話だ。紋章官一族の紋章は鷲の羽根を象られている。かつて執政官だった頃、政を行うときには鷲羽のペンを使っていたらしい」
 「コルニクスの『カラス』っていう意味は?」
 「コルニクスは武芸に長けた。戦の折には死肉漁りの鳥――カラスがその後をついて回るようになって、そう呼ばれるようになった」
 「なるほどね。私のエレナってどういう意味かしら」
 「お前の名付け親はルーカスだからな。エレナはフリーギダでよく見られた名だ」
 「ルーク・・・懐かしいわ」
 そう言うと、エレナは少し身震いした。
 「寒いか」
 「ええ・・・少し」
 ジェフが暖炉に薪をくべる為に立ち上がろうとすると、エレナがその袖を引いて引き止めた。
 「大丈夫、くっついてれば何てことないわ。薪ももったいないし」
 再び腰を下ろしたジェフに、エレナはそっと寄り添って上掛けをかけた。
 ――まったく・・・。
 ジェフは軽く眩暈を覚えた。いくら相手が俺だからって、無防備すぎるんじゃないのか?しかし、エレナがこうしてジェフに甘えるようになったことに、ジェフも内心嬉しく思っていた。
 ジェフは父親の日記を取り上げ、おそらく隠されているのであろう、その暗号に何度目かもわからず挑戦した。そして――、ふとしたことでそれを読み解いた。何十ページにもわたる文字の海の中から、文章が浮かび上がってくる。ジェフはどくんどくんと脈が早まるのを感じた。これが本当なら大変なことだ。

 アクウィラスへ――お前には・・・。

 しかし、決して悪い報せではなかった。ジェフに会いたいと思う人物を想起させた。
 そのとき、エレナの首がかくんとジェフの肩にもたげられた。いつの間にかエレナはジェフに体を預け、うとうととうたた寝を始めていた。ジェフは上掛けをもう一度エレナにかけ直し、体にかかる重みを心地よく受け止めようとしたが、どうしても心に重くのしかかるものがあった。

 それからジェフは、エレナが起きて旅支度を再開すると、父親の日記の余ったページに古代語で走り書きを始めた。

 数日後、ジェフとエレナはアルフェンドラの一座と合流した。
 「エレナ!」
 「サーシャ!」
 若い異国の女性が、キャーッと黄色い悲鳴を上げてエレナと抱き合った。
 「久しぶり!何年ぶりかしら?」
 「もう二年は経つわ」
 「エレナ」
 「アラン!」
 エレナは飛びつくようにしてアランに抱きついた。すごい喜びようだった。
 「踊れるか?」
 「わからないわ。もうずっと踊ってないもの」
 クスクスと笑って、エレナはアランから離れた。
 「ジェフよ」
 エレナがジェフを紹介した。
 「サーシャよ」
 「アランだ」
 サーシャは踊り子風にお辞儀をし、アランはジェフに手を差し出した。
 「ジェフリーだ」
 アランの手を取って握手しながら、ジェフは挨拶した。
 「エレナの恋人?」
 サーシャが色っぽい目でジェフを見やった。
 「まさか!ただの知り合いよ」
 エレナはふいっとそっぽを向いた。
 「ふぅーん。よろしくね、ジェフ」
 「あ、ああ・・・」
 ジェフは落ちつかなそうに頷いた。
 「この人、ワケありなの。だから、あんまり表に出さないであげて?」
 エレナがやんわりとジェフの境遇を説明した。
 「大丈夫さ。俺たちの中に紛れれば、わからない」
 それより、と、アランは手をさすり始めた。
 「早速手合わせと願おうじゃないか、エレナ」
 「ええ、いいわ」
 「そうこなくっちゃ。おい!」
 アランは楽器の手入れをしていた数人に声をかけた。
 「手合わせ?」
 ジェフが不思議に思っていると、エレナは外套を脱ぎ、アランから曲剣を二振り手渡されていた。
 「何するんだ?」
 「いいから見てて」
 エレナはイタズラっぽく笑うと、剣を構えた。音楽が鳴り始めた。途端に、エレナとアランが、速い曲に合わせて打ち合いを始めた。激しくぶつかり合う剣の音。エレナは楽しそうに曲剣を振ってアランを挑発する。しかし、途中で――。
 「ああ、だめだわ。完全になまってる」
 エレナが剣を下ろした。
 「おいっ、エレナ!」
 行き場を失ったアランの剣は、エレナの首元を掠めたが、エレナはひょいと一歩下がって何でもなさそうに首を振った。
 「急に止まるなって前から言ってるだろ! 危ないだろ! これ真剣なんだぞ!」
 「大丈夫よ」
 「お前がじゃなくて俺の心臓がだ!」
 アランは肝を冷やした。もっと肝を冷やしたのはジェフだった。そのジェフの様子を見たエレナは、鈴を転がしたような笑い声をあげたのだった。

 数日間、ジェフとエレナはアルフェンドラのテントに滞在した。
 ジェフも王族の嗜みとして習い覚えた剣舞を一座に披露し、喝采を受けた。エレナは衣装に着替え、何度もアランと練習していた。かなり息を合わせて踊らないと、本当に怪我では済まなくなってしまうような舞だ。
 「はぁっ、疲れた」
 エレナは久しぶりにジェフの元へやって来た。
 「あなた、剣舞なんて踊れたのね」
 「もう何十年も前に習ったものだ」
 覚えてるもんだな、と、ジェフは苦笑した。
 「お前もあんな舞が踊れるんだな」
 「ええ。危険だからって、それこそ何十年も封印されていた曲よ」
 「たしかに、お前ほどの身体能力がなきゃ到底無理だろうな」
 ジェフもなるほど、と頷いた。それくらい、危険な舞だった。曲の途中、エレナは何度もアランの剣を足場に宙返りをする。衣装がひらひらと舞って、それが美しいのだが、かなり危険なことだ。 エレナの身体能力でもなければ、あの曲を舞うのは不可能だった。
 「お前は、どうしてここの連中と知り合ったんだ?」
 「昔の話よ」
 エレナは水を飲みながら言葉を濁した。
 「・・・・・・」
 ジェフがじっと自分を見ているのに気がついて、エレナはふいっとそっぽを向いた。それから、息をついて話し始めた。
 「二十歳くらいの頃のことよ。あの頃はまだ、自分の為に盗みをしていたわ。都の近くに盗み入った帰り道で、アルフェンドラの演技を見かけて、虜になったわ。それで、教えてくれって志願したの」
 エレナは恥かしそうに頬を染めて続けた。
 「最初は、サーシャと同じ踊りを踊っていたわ」
 「お前が? あのくねくねした?」
 ジェフは衝撃を受けたような顔をした。エレナが男を誘うなど!
 「だから言いたくなかったのよ!」
 エレナは心底恥かしそうにジェフをバンッと叩いた。
 「それで」
 ジェフはじんじんする腕をさすりながら続きを促した。
 「ある日、楽団の人が、あの曲を演奏してくれたの。私、もうすっかり気に入って。だけど、振付した当時から何人も女性側でけが人が出て、結局舞はなしで演奏だけ披露していたそうよ。それを、私はアランに無理言って舞を教えてもらったの。そうしたら案外踊れて・・・」
 「エレナ! もう一回だ!」
 「今行くわ!」
 じゃあね、と、エレナはジェフを残して練習に向かった。
 その後、二夜連続で、街で本番があった。一番喝采を浴びたのは、エレナとアランの剣舞だった。再演も含め、二人は四回踊った。二番目の再演の時には、非常にうまくいった。アランは感極まって、エレナを抱き締めてその頬に口づけた。そんな様子を、サーシャは内心面白くなさそうに眺めていた。

 二夜目の夜――。
 「我らの演技に!」
 テントで打上が催された。収入もかなりのもので、豪華な食卓となった。
 「エレナ!」
 宴も酣の頃、酒の入ったアランが再びエレナを抱き締めた。
 「お前は最高だ!」
 「ちょっとやめてよアラン!」
 エレナは無垢な顔をして笑っていた。
 「もうずっとうちにいればいいのに!」
 「そうもいかないわ」
 ジェフはそんな二人を見ていて、ふっと心に黒い影がよぎるのを覚えた。ジェフは立ち上がり、外の空気を吸いに出た。すると、サーシャが、一人焚き火のそばに座っていた。
 「どうした。みんなと飲まないのか」
 ジェフはサーシャの隣に座った。
 「今日の主役はエレナよ」
 「・・・妬いてるのか」
 「まさか」
 サーシャは焚き火をいじっていた棒をぽいと投げ捨てた。
 「・・・そうよ」
 「あんたの踊りも美しい」
 「それはどうも」
 なげやりに礼を言ってから、でも、と、サーシャは続けた。
 「私、あの子には及ばないのよ」
 「あの舞は――」
 「あの舞だけじゃないわ。私の舞もそうよ。昔、あの子が志願してきたときから、違ってた。私はあんなふうに優雅に妖艶に踊れない。・・・アランだって、あの通りよ」
 「アランに惚れてるのか」
 「直球で言わないでちょうだい!」
 サーシャもジェフを思い切り叩いた。近頃よく女に叩かれる。
 「あなたこそ、アランに嫉妬してるんでしょ」
 サーシャが意味ありげな笑みを含んで問い掛けた。
 「俺が?」
 「下手な演技やめなさいよ。見てればわかるわ」
 俺が嫉妬・・・?
 「だって、あなたずっとエレナこと目で追ってるわ。違うの?」
 「違うだろ・・・」
 違う。違うと思いたかった。 エレナに思いを寄せることなど、あっていいはずもない。しかし先ほど自分の心をよぎった黒い影は、紛れもなく嫉妬と言えるだろう。
 「なら・・・今夜、空いてるわね?」
 サーシャが妖艶な笑みを浮かべてジェフに擦り寄ってきた。誘っている。
 「私じゃ不足かしら・・・?」
 顔と顔が触れ合いそうな距離。女と夜を共にしたのはいつぶりか。
 しかし――。

 「ジェフ」

 ジェフの脳裏に、エレナの姿がよぎった。無垢でいるようで、妖艶で、たまらなく美しく聡明で――。ジェフはサーシャの言うとおり、我知らずいつも彼女の姿を目で追っていたことに気付いてしまった。いくら二度と見失うわけにいかないとはいえ、そんなことでさえ、あっていいはずがなかった。
 「馬鹿言ってないでさっさと寝ろ」
 ジェフは立ち上がってその場を後にした。残されたサーシャは、「何よ」と言って砂を蹴った。
 ジェフは、自分の心に本気で危機感を感じていた。

 次の日は、一座の休日だった。
 エレナはいつも通りの服に着替えてやってきた。
 「昨日、途中からいなくなったわね」
 「ああ」
 「サーシャもいなかったわ。・・・一緒だったの?」
 「いや」
 ジェフは素っ気ない返事をした。
 「何?どうかしたの?」
 「どうもしない」
 ジェフの心がぐらぐらと揺れる。
 ガキか俺は! 何を考えていたんだ・・・!
 一方エレナも、ジェフの様子が明らかにおかしいことに気付いたが、「そう」と息をついた。それから話を逸らそうとジェフに声をかけた。
 「ねえ、ずっと聞こうと思ってたんだけど」
 「何だ?」
 「チャドって今どうしてるのかしら・・・?生きてるのかしら・・・」
 「あいつは無事だ。今も変わっていなければ、この近くの街にいるはずだ」
 「本当?」
 エレナは嬉しそうな声を上げた。
 「会いたいわ」
 「・・・チャドも、お前に会いたいだろう」
 ジェフは立ち上がった。
 「どこへ行くの?」
 「チャドを連れてきてやる」
 「なら私も一緒に――」
 「お前は稽古があるだろう」
 ぶっきらぼうにそう言ってから、ジェフはしまったと思った。
 「・・・そうね」
 エレナはなぜジェフがこんな態度を取るのか、本当に理解できず、そう言うしかなかった。
 「待ってろ。すぐ戻る」
 ジェフはエレナの頭をポンポンと撫でて、馬に乗って出て行った。今はエレナから離れ、頭を冷やしたかった。

 「チャド」
 「ぎゃああああああっ!」
 とうもろこし畑で作業をしていたチャドは、背後から突然声をかけられて悲鳴を上げた。ジェフがその頭をゴツンと叩いた。
 「ジェフ!」
 チャドはひそひそ声になって、ジェフに抱きついた。
 「おい、気味悪いからよせ」
 ジェフは笑ってチャドを引き剥がした。
 「久しぶりだな! どうしたんだ、こんな昼間に?」
 「会わせたい奴がいる。ハンスには話をつけてきた。行くか?」
 何だか分からないが、ジェフについていって後悔したことはない。チャドは頷いた。

 アルフェンドラのテントに着くと、チャドが言った。
 「吟遊詩人に俺、知り合いなんていないよ?」
 「まあいいから。見てみろ」
 ジェフは、外の稽古場で曲に合わせて舞っているエレナを指差した。
 「・・・誰?」
 「エレナだ」
 「エレナ?」
 素っ頓狂なその声に気付いたエレナが叫んだ。
 「チャド!」
 エレナは再び急に踊るのをやめ、アランの肝を潰した。
 「わーっ!エレナだ!」
 「チャド!」
 二人は抱き締め合って再会を喜んだ。
 「すごい! ジェフ、エレナを見つけ出したんだ! エレナ、大人になったんだね!」
 「あなたはあまり変わらないのね、チャド。アラン、今日の稽古はここまででいいかしら? 懐かしい人に会ったの」
 「ああ、いいぜ」
 ジェフはなるべくそんな二人を見ないようにしていた。
 
 「ふぅん。それで今はここにいるんだね」
 チャドがお茶をご馳走になりながら言った。
 「ええ。でも、そう長くはいないつもりよ」
 「ジェフは何してるの?」
 「フラフラしてるわ。今日は何だか機嫌が悪いみたい」
 エレナは肩をすくめた。
 「でもエレナ」
 チャドは笑った。
 「昔はあんなにジェフのこと嫌いだったのに、今こんなに一緒にいるなんて、俺には信じられないよ」
 エレナはサッと赤くなった。
 「今は今よ」
 「アリスとアールも、君があんまりジェフになつかないもんだから頭抱えて悩んでたんだよ」
 「そんな昔のこと・・・」
 エレナも笑った。
 「チャドはあの後、サルトゥスへは行ったの?」
 「・・・いいや。君が攫われてから、俺は今の生活をずっと続けてる。って、君はサルトゥスへ入ったのかい?」
 「ええ、一度だけ。父さんと母さんの医学書が焼け残っていて、とても役に立ったわ・・・。チャドは大陸の出身なんでしょう? 帰りたくはならないの?」
 「そうだね・・・」
 チャドは少し考えてから言った。
 「帰りたいよ。帰って、親孝行したいな」
 「そう・・・私もよ」
 「わーっ! ごめん! そういう意味じゃないんだ!」
 チャドは慌てて手を振り回した。
 「いいの。わかってるわ」
 エレナは笑った。
 「そうだ。あのね、チャド――」
 エレナは密造している船のことをひそひそと話して聞かせた。
 「それ、本当?」
 「ええ。今ならまだ間に合うわ。みんなに掛け合ってみましょうか」
 「本当に?」
 「しーっ! 明日にでも行ってみましょう」
 そんな二人の会話に、聞き耳を立てていた人物がいた。
 サーシャだった。

自由の船

 次の日、ジェフとエレナとチャドの三人は、アルフェンドラの一座に暇を告げた。
 「本当に行っちまうのか? みんなお前との舞をアテにしてんだぜ?」
 アランが寂しそうな声を上げた。
 「ごめんなさい、急に。でも、また会えるわ」
 「元気でね」
 サーシャも何食わぬ笑顔で三人を見送った。

 三人は入り江にやって来た。入り江では、急ピッチで船の建造が進められていた。すぐにでも出航できそうな勢いだった。
 エレナはウィルを初め、船大工や仲間たちにチャドを紹介した。
 「彼も乗せていってあげて」
 お願い、と、エレナは言った。
 「もちろんだ。だが、ちょいと手伝ってもらうぜ」
 「ああ! もちろんだよ! ありがとう!」
 こうしてチャドは入り江の船の仲間入りをした。
 「お前も乗る気か?」
 ジェフがエレナに尋ねた。
 「いいえ。私はここで、まだやることがあるわ」
 「そうか・・・」
 だけど、と、エレナは言った。
 「空のように自由に生きろと、誰かに言われた覚えがあるの。この国で生きるより、大陸で生きた方が自由なのかもしれないわね・・・」
 セレスティア――。彼女の本当の名前だ。意味は『天空の舞姫』。宝玉の姫君たるディーウィティアがつけた名だ。そんな生まれた瞬間の記憶はないかもしれないが、親子の絆というものがあるのだろう。
 ジェフはエレナに真実を告げる決意が揺らいでいるのを感じていた。ただ、エレナを傷つけたくない。私情でこんなことがあってはならないと、頭でわかっていても心が乱れる。
 ――俺としたことが・・・。

 それから十日ほど、ジェフとエレナも船の建造を手伝った。
 そして、いよいよ出航の準備が整った。
 「エレナ」
 アダムがやって来た。
 「もういつでも出航できる。子どもたちを連れてきてくれないか」
 「ええ。わかったわ」
 「子どもたち?」
 ジェフが尋ねた。
 「あの孤児院の子たちよ。全員じゃないけど、何人か希望した子がいたわ」
 「そうか・・・」
 エレナとジェフは馬車を調達し、孤児院へ向かった。
 「エレナーっ!」
 常のごとく、エレナは子どもたちの熱烈な歓迎を受けた。神父に挨拶をし、エレナは希望者の子どもたちを馬車に乗せた。その中には、ジュリアもいた。ジュリアは大陸で子どもたちの面倒を見るため、船大工の仲間たちと相談して、乗船が決まっていた。
 「お船は大きいの?」
 一人の子供が尋ねた。
 「さあ、どうかしら」
 ジュリアは微笑んだ。

 馬車が入り江に着くと、子どもたちは大はしゃぎだった。
 「すごーい!」
 「かっこいい!」
 極秘のうちに出航する為、月がなくなる新月の晩と決められていた。出航するとなれば、早いうちがいい。その二日後が、新月だった。二日間、食糧の調達など、最終的な準備を済ませ、そのときを待つことにした。
 「ジュリア、こちら、チャド。私たちの友人よ」
 エレナがジュリアにチャドを紹介した。
 「こんにちは。初めまして」
 ジュリアが微笑んで挨拶したが、チャドはその場に立ち尽くしたまま、固まっていた。そして、何を言うかと思いきや、
 「けっ、結婚しよう!」
 突然プロポーズした。チャドはジュリアに文字通り一目惚れしたのだ。そのあと、チャドはジュリアを口説き続けた。 その結果、やがては、驚ききっていたジュリアも笑顔になり、チャドとの結婚を承諾した。
 「大陸へ行ったら結婚しよう」
 二人はそう堅く約束した。
 新月の前の晩は、別れとチャドとジュリアの婚約の宴となり、入り江は静かながらも幸せな空気に満ち満ちていた。
 しかし、エレナが尾行されていたことに、ジェフですら気がつかなかった。

 次の日の深夜、白い帆が掲げられた。
 「ジュリア、元気で。チャドをよろしくね」
 エレナはジュリアを抱き締めて、別れを告げた。
 「ええ。ありがとう」
 ジュリアは幸せそうに笑った。
 「さよなら、エレナ」
 「さよなら」
 子どもたちも次々にエレナの元へやって来た。
 「しっかりやれよ、チャド」
 ジェフも、チャドと握手を交わしながら別れを告げた。
 「ああ。あんたには世話になりっぱなしだったな。いろいろ、本当にありがとう」
 大人が二十人、子どもが八人。
 完成したばかりの大きな船に乗り込んだ。
 エレナやジェフは、入り江の岬で、船の出航を見送った。
 船は順調に滑り出し、入り江を出て行った。孤児院を出た後、ある者は建築を学び、ある者は航海術を学び、ある者は船大工に弟子入りして、やがてこの入り江に集まった。どれほどの思いが込められた船か。自由への希望を乗せた船は、帆に風を受け、ゆっくりと進んでいった。
 エレナは熱くなる目頭を押さえた。
 そのときだった。
 
 「放てーっ!」

 高台から大声がした。
 何事かと思っていると、高台から一斉に火の点いた矢が放たれた。船はちょうど高台の正面に差し掛かったところで、帆に甲板に、もろに矢を受けた。船上が騒然としているのが聞こえてきた。
 「そんな――、何が・・・?」
 エレナが衝撃に身をすくめている間にも、火はどんどん燃え広がり、やがて――。凄まじい衝撃と共に船が爆発した。
 「爆発するものなんて、積んでいないはずなのに、なぜ――」
 荷物に紛れて、爆薬が仕込まれていたとしか考えられなかった。
 「密告者がいる――」
 ジェフが周りを見渡した。
 「誰だ!」
 「言うわけないだろう!」
 「お前じゃないのか!?」
 岬に残った仲間たちも衝撃を受け、騒然とした。
 「今はそれより生存者を探そう」
 ジェフは外套と靴を脱ぎ、海へ飛び込んだ。それに続こうとしたエレナを、ウィルが引き止めた。
 「この暗い海に飛び込むのは危険すぎる!」
 「だからって放っておけないわ!」
 一刻を争う事態だった。沈み行く船は炎に包まれ、その赤々とした光がエレナの瞳に反射していた。
 ウィルはエレナを引き止めることはできないと察すると、つかんでいた彼女の手首を放した。
 「わかった。俺は陸路の逃げ道を確保しておく――」
 その言葉を聞くが早いが、エレナはすぐさま凍えるような海に飛び込んだ。
 
 「大丈夫か!」
 ジェフがエレナに問い掛けた。
 「ええ」
 エレナは震えながら答えたが、船があった辺りには木片が散乱し、人の姿らしきものはなかった。
 「いないわ――」
 誰も――。
 そのとき、ジェフが何かを見つけたように泳ぎだした。
 「チャド!」
 木片にしがみついたチャドだった。片目から血を流していた。
 「ジュリア・・・ジュリア・・・」
 チャドは朦朧としながら呟き続けた。
 「チャド、大丈夫?」
 「ジュリアを・・・助けられなかった・・・」
 ジュリアが沈んでいくのを見た、と、チャドは泣きながら言った。ジェフがすぐに海へ潜ったが、しばらくして何の手がかりも得られずに浮かび上がってきた。
 「ジュリア・・・ジュリア・・・」
 「チャド、もういいわ・・・、大丈夫・・・大丈夫・・・」
 エレナも涙を零しながら、ぎゅっとチャドを抱き締めた。
 「お前たち、先に岸へ上がれ!」
 ジェフはエレナとチャドが酷く震えているのを見て言った。二人はその言葉に従い、岸へと向かった。
 ジェフは、子どもを一人でも見つけたかった。生きていて欲しかった。しかし、海には自分のほかに誰もいなかった。やがてエレナとチャドが岸に着く頃、岸から悲鳴のような叫び声が聞こえた。
 「やめて!放して!」
 追っ手が岬にも来ていたのだ。
 「くそっ」
 ジェフは岸に向かって泳ぎ始めた。

 エレナは全力で抵抗したが、寒さと濡れて体にまとわりつく重い服のせいで上手く動くことができなかった。チャドは抵抗する気力もなく、ただ連れられて行った。
 「やめて!」
 腕をつかまれたエレナは叫んだ。
 「放して!」
 そのエレナの目に飛び込んできたのは、騎士団の男と腕を組んだサーシャだった。
 「サーシャ・・・!」
 エレナは信じられないといった表情をした。
 「なぜ・・・! どうして・・・! 聞いていたの?」
 「出国禁止令が出て、私もベルスから出られなくなったのよ」
 サーシャは淡々と話した。
 「それと何が関係あって・・・!」
 次の瞬間、エレナは悟った。サーシャはあの船の話を騎士団に売り、自分はその見返りとしてゴルドアへ帰ろうとしていたのだ。
 「それに」
 と、サーシャは続けた。
 「あなたは私からアルフェンドラの舞姫の座を奪った。だから私もあなたから大切なものを奪ってやったのよ」
 「そんな・・・!」
 ただただ冷酷な声で話すサーシャを、エレナは思い切り睨んだ。
 「だからってこんなことするなんて信じられない! 人の命が懸かってるのよ!」
 「この人たちがここまでするなんて思わなかったわ」
 大して興味なさそうに、サーシャは言い残し、男と共に行ってしまった。エレナはまだ信じられない表情でサーシャを見ていたが、エレナもまた、数人の男に押さえつけられて手を縛り上げられ、馬車に乗せられてしまった。

 ジェフは岸に上がると、全力で馬車を追った。しかし馬もみな取り上げられてしまった今は、どうすることもできなかった。
 「くそっ・・・」

 捕らえられた者たちは後ろ手に手を縛られ、檻のような荷馬車にくくりつけられて揺られていた。エレナはチャドが顔から夥しい血を流しているのが気がかりでならなかったが、ウィルはただ気を失っているようだった。
 「ウィル、ウィル」
 エレナが何度か呼びかけると、ウィルはうっすらと目を開けた。
 「ここは――。どうなったんだ?」
 「私のアルフェンドラの知り合いがチャドを誘っているのを立ち聞きしていて、それを密告したのよ・・・」
 謝っても謝りきれない、と、エレナは涙を流した。
 仲間たちはまだ気を失っている。朝日が差し込んできていた。ウィルは周りを見回し、仲間を確認した。
 「あいつは・・・、ジェフは?」
 「わからないわ。ジェフはまだ海にいたけど、私とチャドは先に岸に上がったの。そこを捕まって・・・」
 「・・・俺たちは、たぶん騎士団の本部に連れて行かれるんだろうな」
 「ええ、そうだと思うわ」
 「俺たちの仲間で逃げ切れたやつはいないみたいだな・・・。望みはジェフだけだな」
 「馬車に乗せられる一瞬前、馬を繋いでいたところを見たんだけど、一頭もいなかったわ・・・」
 エレナは必死に身を捩って縄を解こうとしていたが、固く縛られたそれは解けることはなかった。
 「やめろ。ただでさえお前濡れたままで体力使ってるんだから」
 ウィルは気遣わしげに言った。
 「だって私のせいで・・・」
 「お前のせいじゃない」
 それだけがウィルに言える慰めの言葉だった。
 「私のせいよ。もっと気をつけるべきだったわ・・・」
 エレナとしても、まったく予期していなかった。アルフェンドラの仲間に裏切られることになろうとは。そのとき、不意に馬車が足を止め、騎士団の人間が降りてきた。
 「おい、うるさいぞ」
 そして全員に猿轡を噛ませ、黙らせた。こうして彼らは水も食糧もほとんど与えられず、長い時間をかけて騎士団の本部に連行されて行った。

 騎士団の本部に着くと、それぞれが鎖に繋がれ、尋問を受けた。
 「どうやって船を建造した! 発案者は誰だ!」
 長時間に及ぶ尋問だったが、誰も口を割ろうとしなかった。そこで、鞭打が始まった。全員が服の背中を裂かれ、一人ずつ、その拷問を受けていった。
 「誰が発案者だ! 即刻答えよ!」
 しかし、誰も答えなかった。そこで尋問官は、捕らえられた男たちの前にエレナを引きずり出した。
 「やめろ!」
 ウィルが叫んだが、尋問官はエレナの服の背中を切り裂き、鞭で打ちつけた。
 「っ!」
 エレナの背中が弓なりに反り、血が滲む。
 「やめろ!相手は女だぞ!」
 「ならば答えよ! 発案者は誰だ! どうやって船を建造した! 木材はどこから仕入れた!」
 尋問官はエレナを打ち続けた。牢にはただエレナに振り下ろされる鞭の音だけが響いた。答えれば、想像を絶するほど多くの人間に危害が及ぶ。決して答えるものか。この命が果てようとも――。エレナは唇を噛んで、続く拷問をその身に受けた。しかし、声も上げずにぐったりと鞭に打たれ続けるエレナを見て、男たちの心は揺れ動き始めた。
 そのとき。
 地下牢の階段を、血を流した衛兵がガタガタと音を立てて転がり落ちて来た。
 「ジェフ!」
 地下牢にいた衛兵たちが一斉にジェフに襲い掛かったが、その力の差は歴然だった。ジェフは衛兵をなぎ倒し、牢を開けた。
 「ジェフ!」
 「ここを出るぞ。早く!」
 一人ずつ鎖を外してやりながら、ジェフは怒鳴った。
 「エレナ、立てるか?」
 「ジェフ・・・」
 エレナはぐったりと顔を上げた。エレナの背中から流れた血は腰にまで流れていた。しかし、破れた服の隙間から見える背中の肌は滑らかで、傷一つついていなかった。
 「エレナ――、どうして――、傷が・・・!」
 その背中を見たウィルが唖然とした。
 「その話は後だ。行くぞ!」
 ジェフはエレナに外套を羽織らせ、肩を貸し、皆を率いて地上へ出ようとした。
 そのとき――。
 「ジェフ――」
 唖然とした表情のクレストだった。
 「生きていたんですか」
 「クレスト、そこをどけ」
 ジェフが剣を突き付けながら言うと、クレストも剣を抜いた。
 「お前と争いたくない」
 クレストは、今は気丈に立っているエレナに目を向け、目を丸くした。
 「王女・・・!」
 「王女?」
 自分のことだろうか。エレナは眉根を寄せた。
 「どけ!」
 ジェフはクレストを気絶させ、地上へ出た。夕暮れ時だった。捕らえられていたのは全部で五人。四人の男たちにジェフは言った。
 「ここから東へ走れば抜け道がある! その先の倉庫へ先に行け!」
 「あんたとエレナはどうするんだ?」
 ウィルが言った。
 「城に用がある。今は話してる暇はない! 行け!」
 「城に用って――、ジェフ?」
 ジェフは何も言わずにエレナの手をつかみ、反対方向へ走り出した。そしてジェフがエレナを連れてきた場所は、いつかコルニクスがクレストに内密の命を下していた肖像画庫だった。
 「こんなところに何の用が――」
 「エレナ。よく聞け」
 ジェフは部屋に鍵をかけながら言った。
 「お前は、この国の王女、セレスティアだ」

第四章 セレスティア

 「・・・何ですって・・・?」
 エレナは意味が分からないという顔をした。
 「何を言って・・・」
 「肖像画を見ろ」
 「・・・・・・」
 エレナは言われた通りに肖像画を見回した。
 「歴代の王たちの肖像画だ。・・・女王の顔を見比べてみろ」
 女王の肖像画は全部で四枚あった。そして、その全てが皆、自分と同じ顔をしていた。
 「・・・嘘・・・」
 エレナは愕然として言葉を失った。
 「お前は、この国に生まれた五番目の王女だ」
 「嘘よ、そんなの・・・」
 「なぜお前がそれほどまでに明晰な頭脳を持っていると思う? 王家の人間だからだ。なぜあの優れた身体能力を持っていると思う? 王家の人間だからだ。――なぜたった今鞭打を受け、血を流したのに傷がないと思う? 王家の人間だからだ」
 エレナは自分の背中に触った。血の跡はあるが、肌は滑らかで、痛みもすでに消えていた。
 「なぜ俺がお前を探して十五年も放浪したか――。お前を死なせるわけにいかないからだ」
 エレナは愕然とした。ジェフに言われれば言われるほど、自分には王族の特徴が当て嵌まる――。
 「お前は満月の晩、必ず夢を見るだろう。戦場の夢だ」
 「どうしてそれを――」
 「王家の女性は皆、初代の女王リアーナの生まれ変わりだといわれている。リアーナはファリガーナとの契約を結んだ、最初の王にして女王だ」
 「・・・やめて」
 「リアーナの一族はこの地で人の血を流し、神の怒りを買った。その戦場の夢だ」
 「やめて」
 「王女は約五百年おきに生まれるといわれている。お前が生まれたのは王朝が始まってから二千五百年目のことだ」
 「もうやめて! 聞きたくない!」
 淡々と話し続けるジェフに、エレナは泣きながら叫んだ。
 否定のしようがなかった。二千年間もの間、同じ肖像画を描き続けるはずがない。その四枚の絵は、他人の空似どころか自分に生き写しだった。
 「嘘よ・・・そんなの・・・。私はアールとアリスの娘よ・・・! 両親を殺した王族の、しかも王家の人間だなんて信じられるわけないじゃない!」
 エレナは悲痛な声で叫んだ。
 「エレナ、受け入れてくれ」
 ジェフはエレナに手を伸ばしたが、その手はすぐに振り払われた。
 「だって・・・! 私・・・私っ・・・!」
 「お前は、王女なんだ」

 二人は城から抜け出て、城塞を抜けた。
 先に逃がした男達は、この先の倉庫に隠れているはずだ。倉庫に着くと、やはり男たちが隠れていて、ジェフが扉を開けるとギクッと身を潜めた。
 「放して!」
 エレナはジェフに引かれていた手を振り払った。
 「エレナ」
 「一人にして! 放っておいて!」
 「エレナは・・・? どうしたんだ?」
 ウィルが尋ねた。
 「今はまだ言えない。日が暮れるまで、ここにいるぞ」
 「エレナ・・・」
 ウィルが近寄ろうとすると、エレナは「来ないで!」と叫んだ。
 「今は一人にしてやってくれ」
 ジェフは罪悪感で一杯だった。しかし、いつかは伝えねばならぬ真実だった。
 「ジェフ、チャドの傷の具合が酷いんだ」
 チャドはすでに、右目の視力を失っていた。ぐったりとして、身動き一つしなかった。
 「薬草を持ってくる。動くなよ」
 ジェフはそう言い残して、チャドの傷の為に薬草を探しに出た。

 ジェフが倉庫に戻ってくると、男たちが騒いでいた。
 「だいたいこの状況でどうしてあんな無謀なこと――」
 「ジェフ!」
 ウィルがジェフに詰め寄った。
 「エレナに何言ったんだ!」
 「何――?」
 「エレナは急に一人で飛び出して行った! ついてくるなと言って!」
 「何だと――?」
 ジェフは薬草の使い方を教えると、エレナを探して町に出た。しかし、どこを見ても人だらけで、その姿を見つけることもできなかった。

 数刻前――。
 エレナは倉庫を飛び出した。嘘だと思いたかった。自分が憎むべき王族の、しかも王家の人間だなどと信じたくなかった。全てを振り切るように走り続けた。
 しかし――。
 「!」
 突然、誰かに腕をつかまれた。
 「探しましたよ、姫」
 クレストだった。
 「私は姫なんかじゃ――! やめて!放して! 何するの!」
 「国王陛下と謁見していただきます」
 「何で私が――!放して!」
 王女とはいえ、男の腕力に敵うはずもなく、エレナは再び城に連れ戻され、そこで、裂けた服を脱がされ、豪奢な長衣を着せられようとしていた。
 「姫様、どうかそんなに暴れずに――」
 侍女が困ったように言った。
 「姫様って言わないで!」
 「畏まりました。畏まりましたから、どうかお静かに――」
 エレナは懇願され、ようやく服を着せられた。
 謁見の間には、国王が座って待っていた。その前に、エレナは無理やり跪かせられた。
 「ディーウィティア王妃の娘御、セレスティア王女は生きておいででした」
 コルニクスが進み出た。
 「あのとき殺したはずの・・・、我が娘か・・・」
 「私はあんたなんかの娘じゃ――っ!」
 エレナは勢いよく立ち上がろうとしたが、衛兵の槍によって再び跪かせられた。
 「口をお慎みください。手荒な真似はしたくありません」
 しかし、国王ウィリデウスは言った。
 その胸にはリエンゼルを象った赤い紋章が揺れていた。
 「罪人の印を持て!」
 すぐに真っ赤に焼けた、罪人に押される焼印が用意された。
 「火傷の跡が残らぬほどの治癒力を持つものは王家の人間の他にない」
 ウィリデウスはそれを、残忍な笑みを浮かべてエレナの胸元に押しつけた。
 「いやあああっ!」
 痛みのあまり、エレナは悲鳴を上げた。肉の焦げる音と臭いがあたりに広がった。しかし、ウィリデウスが焼印を離すと、エレナの肌は白く美しいままだった。
 「なるほど・・・」
 ウィリデウスは納得したように頷いた。
 「美しく成長したものだ。我が娘でなければ後宮へ入れてやってもよかったものを――」
 ウィリデウスはエレナの顎を持ち上げ、ニヤリと笑った。エレナは浅い息をしながらも、周囲の人間の背筋を凍らせるかと思うほどの殺気を放った。しかしウィリデウスは意に介する様子もなく、両手を挙げて叫んだ。
 「我が娘が戻った! 宴を張れ! 諸外国へ知らせを出せ! 最も高貴なる貢物をした者に我が娘をくれてやるとな!」
 「何を勝手なことを!」
 エレナが叫んだが、謁見の間に広まった歓声の中にその声は没してしまった。

 ジェフはエレナを見つけることができず、エレナの盗賊仲間の元へ連れて来られた。
 仲間の他に、エレナが農民を襲わないと誓わせた、他の盗賊団の面々もおり、かなりの人数がいた。以前エレナが所属していた盗賊団の頭の、ジェイクという男が、ウィルがやってきたのを見て声を上げた。
 「ウィル!」
 彼らは船の一件を聞きつけ、エレナやウィルを助けるべく都の外れのこの街までやって来たのだ。
 「ジェイク、恩に着る」
 そう言うなり、ウィルは振り向きざまにジェフを殴りつけた。
 「エレナに何を言った!」
 殴り飛ばされたジェフは、ゆっくりと立ち上がった。
 「・・・エレナは、エレナではない。セレスティアという名の、この国の王女だ」
 「何を――」
 「ウィル、お前はエレナの背中を見ただろう。鞭打ちを受けた直後なのに、傷一つなかったのを見て驚いたんだろう?」
 ウィルは言葉に詰まった。
 「俺も、王族の人間だ」
 そう言うと、ジェフは自分の腕を切って見せた。見る見るうちに傷はなくなり、その皮膚は滑らかに戻った。それを見ていた盗賊たちは目を見張った。
 「お前たちは、エレナに襲われて全員が負けたんだろう? 一人の娘に」
 ジェフは入り江の仲間ではない、他の盗賊たちに問いかけた。
 「おかしいと思わないか? それは全て、エレナが授かった神からの恩寵のお陰だ。優れた頭脳、身体能力、驚異的な自然治癒力――」
 盗賊たちは顔を見合わせた。
 「エレナはこの先どうなるんだ?」
 ウィルが言った。
 「王位を継ぎ、この国を治めることはないだろう。彼女は全てを海へ還すと予言されている」
 「どういう意味だ?」
 「・・・この国を終わらせるという意味だ」
 この国の滅亡か、あるいは――。
 「エレナは、あいつを最も愛している人間の手によって殺されなければならない」
 「何だそれ――」
 ジェフは息をついて話し始めた。いつかサルトゥスでも話した話だ。しかし、探し物を見つけたお陰で、今ではより深く話せるようになっていた。長い話が終わると、全員が顔を見合わせた。嘘のような、しかし説得力のある話だった。
 「エレナは、そんな残酷な運命から逃げられないのか?」
 「・・・恐らく。だが、俺は、あいつを逃がしてやりたい。何もかも忘れて、どこか遠く離れた地へ――」
 ジェフは固く拳を握り締めた。
 「俺もだ」
 「俺も」
 男達は口々に言った。
 「同じ盗賊でも、孤児院に寄付する為に盗賊なんて真似してるなんて話、聞いたことねえ」
 「ああ。天使がいるとしたらあいつだ」
 「みんなであいつを解放してやろう」
 
 噂はすぐに広まった。各農村部にも、かいつまんでだが、エレナの行いの話は伝わっていた。エレナが暴虐無尽だった盗賊たちを治め、農村は決して襲わないよう誓わせたのだ。そのエレナ本人が、今は囚われの身になっていると聞いて、多くの者が武器を携えて集まってきた。
 ベルスの王国が始まって以来の暴動が起きようとしている。戦力は、多勢に無勢。しかし、目標は王族に勝つことではない。エレナの解放だ。
 「もし――」
 ウィルがジェフに言った。
 「あいつを殺すというのなら、それはあんたの使命だ」
 「お前こそ、エレナを愛してるんじゃないのか?
 ジェフは目を見開いた。
 「ああ。だがあんたの思いには負ける。・・・見てれば分かる」
 それほどまでに、自分はエレナを――。
 
 「奇襲をかけるなら明朝だ。みんな、まず自分の安全を確保して動け」
 大方の人数が集まったところで、ジェフは皆に呼び掛けた。
 「そんなことしてたらエレナはどうなっちまうか――」
 「俺たちはどうなってもかまわない。エレナを救うだけだ」
 
 まだ日の昇らぬ薄明かりの中、民衆は走り出した。行く先々の、王族への不満を抱えた人間たちにも勇気を与え、望む者は戦力に加えた。民衆の波は次第に大きく強くなり、暴動が、始まった。

暴動

 コルニクスは、セレスティアが戻ったことに内心不快な思いを抱いていた。しかし彼は、徐々にウィリデウスに毒を盛っていた。 身体に蓄積し、ある日死に至る毒だ。もうすぐで王家の滅亡をその目で見ようというときに、正統な世継ぎが現れたのだ。
 しかし――。相手は女だ。よその国へ嫁がせて、王国を物にしたらよいではないか。コルニクスは、ウィリデウスの胸に揺れる王家の紋章を思い浮かべた。あの大きな紅玉で作られた紋章が我が物になる日も近い。

 しかしコルニクスは知らなかった。あの赤い紋章をその首にかけることができるのは、正統な王位継承者だけだということを。

 クレストは、こっそりとエレナの元にやって来た。
 エレナがあまりに暴れまわるので、エレナは豪奢な部屋に置かれても、鎖につながれていた。エレナは自由を求めて旅立った船のことを思い、涙を流していた。
 「手枷が痛むのですか」
 エレナは何も答えなかった。
 「セレスティア王女・・・」
 「その名前で呼ばないで・・・!」
 エレナはやり場のない憎しみを込めて言った。
 「あなたは、残酷な運命の上に置かれている」
 クレストはエレナの向かいに腰を下ろした。
 「今までどうやって生き延びてきたのです?」
 「あんたに関係ないわ」
 「あります。紋章官一族のことはご存知ですか? 私は――」

 一方、動き出した民衆の波はどんどん広がり、国の半数の人間が暴動に加わっていた。 行く先々で、動揺する騎士団の砦に火を放っては、踏み潰し、また自らの仲間からも犠牲を出しながら前進し続けた。民衆の勢いは衰えるどころかいよいよ強さを増していった。
 
 「何ですって?」
 クレストの言葉を聞くと、エレナは驚きに声を上げた。
 「はい。そうです」
 「ジェフはそれを知っているの?」
 「ジェフ? なぜジェフが・・・?」
 そのとき――。
 勢いよく扉が開いて、若い騎士が入ってきた。
 「民衆が暴動を――」
 「何だと?」
 クレストは立ち上がった。
 「王女を返せと叫びながら――、先程、城塞の門を破られました。また、定かな情報ではありませんが、前長官を見たという騎士もおりまして――」
 「その情報は確かだろう。私もこの目でジェフを見た」
 「五王族の者が応戦していますが、民の数も多く――」
 「わかった。私も出よう」
 「やめて!」
 王女を返せ・・・? みんな、私のことを知って・・・?
 王族の強さは、エレナもよく知っていた。ジェフのあの強さも。 しかし、クレストも王族の人間となれば、一体何人が犠牲になるかわからない。もう、やめてほしかった。エレナは自分の為に死んでいく人々のことを思って嗚咽を漏らした。
 なぜこんなことになったのか――。
 自衛のためとはいえ、今まで自らも人を殺めてきた己の行いを悔いた。一人取り残されたエレナは、鎖に繋がれたまま、ただ泣き続けるしかなかった。

 「無事か!」
 背中合わせにいるウィルに、ジェフが叫んだ。
 「ああ、何とかな!」
 剣が鳴る。人々の阿鼻叫喚の中、民衆は血路を開いて、ついに城までたどり着いた。
 「エレナを探せ!!この中にいるはずだ!」
 城門を打ち砕きながら、民衆は叫んだ。

 コルニクスは城の外の騒ぎを聞きつけ、動揺すると同時にこれを好機と捉えた。民衆がなだれ込んできたら、国王を殺そう。民衆の仕業にしてしまえばいい。王女を返せというならば、返してやろう。その方が好都合だ。そして自分は騒乱を治めた正統な王者となるのだ――。
 コルニクスは狂気に満ちた高笑いをあげた。

 国王ウィリデウスは、城の騒乱に右往左往していた。
 「陛下、玉座の間へ!」
 衛兵がウィリデウスを取り囲み、王城の最奥にある玉座の間へ連れて行った。頑丈な鍵をいくつもかけ、その外には多くの王族の衛兵が置かれた。
 「何としても私の命を守るのだ!平民になんぞくれてやらんぞ!」
 ウィリデウスは扉越しに怒鳴った。しかし、騒乱の物音が近付いてくるにつれ、怖気づき、玉座の後ろに逃げ込んだ。

 ジェフとウィルは、王城へ入ると二手に分かれた。 頑丈に防備された玉座の間にエレナはいると踏んだジェフが、玉座の前にいるであろう王族の人間を請け負った。一方ウィルは、城中を駆け回ることにした。
 「生きて戻れよ!」
 「あんたもな!」

 コルニクスはエレナの元へやって来た。
 「来い」
 エレナの手を縛り上げ、引っ立てた。
 「皆がお前の為に血を流しているぞ」
 コルニクスは回廊から、外の戦場の様子を見せてやった。騒乱の中、王族の人間を前に、何人もの人間が血を噴いて倒れてゆく――。満月の夢の中の光景そのものだった。
 「もうやめて!」
 エレナは届かぬ声と知りながらも叫び声を上げた。
 もう死なないで。誰も――。
 しかし、その声に気がついた民もいた。
 「あそこだ!王女がいるぞ!」
 二階の回廊を指差し、叫んだ。民衆は王族の人間をなぎ倒し、城へと侵入し始めた。
 エレナはその姿に勇気付けられた。こんな所で捕まっている場合ではない。コルニクスも王族の人間だ。男女の差こそあれ、しかし自分は皮肉にも王家の人間なのだと自分に言い聞かせた。そして、手を縛られたまま、エレナは飛び上がってコルニクスの頭を蹴りつけた。コルニクスはまさかの抵抗になす術を知らず、その場に倒れこんだ。
 エレナは自分を縛っている縛めを弾き飛ばし、動きにくい長衣を脱ぎ捨て、真っ白な肌着になって駆け出した。長い長い回廊を、どことも知らず走り続けた。
 そして――。
 「エレナ!」
 ウィルだった。
 「ウィル!」
 エレナは泣きながらウィルを抱き締めた。
 「無事でよかった・・・!」
 「お前こそ」
 「お願い、みんなを止めて。もうやめて!」
 「もう誰にも止められない。お前以外には。行くぞ!」
 ウィルはエレナを掴んで走り出した。しかし、王族に行く手を阻まれた。
 「くそっ」
 ウィルはエレナを後ろに追いやり、剣を構えた。
 「この先の玉座の間にジェフがいる! 行け!」
 「いやよ! あなたを置いて行けないわ!」
 ウィルは振り向き、エレナに口付けて笑った。
 「本気で愛してたんだぜ?」
 そして、再び前を向き、剣を構えると、「行け!」と、エレナを背に叫んだ。
 エレナは武器もなく、なす術もなく、一歩、二歩と後ずさりし、すべてを振り切るように、言われた通りに走り出した。
 ウィルはエレナが逃げるための時間を稼ぎ、しかし、そのままそこで命を落とした――。
 
 コルニクスは意識を取り戻した。
 「あの小娘っ・・・!」
 まあいい。王女の生死などもはや知ったことではない。それより、国王を殺すのだ。コルニクスは玉座の間の避難口から中へ入った。
 「陛下」
 その手には長い剣が握られていた。
 「おお、コルニクス、無事であったか」
 そのとき、ウィリデウスが突然血を吐いた。ようやく、毒が回ってきたようだ。ウィリデウスはのた打ち回り、血を吐き続けた。ビクビクと痙攣し続ける国王のその頭の上に、コルニクスは足を乗せた。
 「この愚か者」
 「コっ、コル・・・!」
 ぐりぐりとウィリデウスの頭を踏みにじりながら、コルニクスは冷徹な笑みを浮かべた。
 「わっ、私は・・・っ、どうなってっ・・・」
 「王家の人間は不死だとでも思ったか。貴様の酒に、毎晩毒を盛ってやっておったわ」
 「貴様っ・・・!」
 「どうだ、苦しみながら死にたいか。一息に殺して欲しいか」
 ウィリデウスの痙攣ががくがくと激しくなった。この分だと、自分が手を下すまでもなく、この愚かな国王は息絶えるだろう。コルニクスは玉座に悠々と腰を掛け、ウィリデウスの死に逝く様を見物した。
 
 ジェフは王族の人間に囲まれて手古摺っていた。
 「生きていたのかレヴィナス!」
「おかげさまでな!」
 斬っても斬ってもきりがない。自分もそうではあるが――。
 ようやく一人の首をはね落とした。しかし、ジェフの疲労も色濃く、一瞬の隙ができた。次の瞬間、腹の辺りを、相手の剣が貫通した。
 「ぐッ――!」
 これまでか、と思ったとき、自分の他に剣を振るう音が聞こえてきた。
 「エレナ!」
 「王女・・・!」
 「もうやめて! 剣を置いて!」
 王族の人間たちは、凄まじい怒りと殺気を放つ王女の前になす術を知らず、言われた通りに剣を置き、跪いた。
 「この人に手出しすることは私が許さないわ」
 エレナのその声は、彼女自身も驚くほど威厳のあるものだった。
 「しかし、この者は逆賊――。逆賊は死罪に値します」
 「なら私も逆賊よ」
 そのとき、玉座の間から狂ったような高笑いが聞こえてきた。

赤の紋章

 ジェフと王族の衛兵たちは、玉座の間の扉を蹴破った。そこには、血まみれになって倒れた国王の姿と、それを見て高笑いしているコルニクスの姿があった。
 「これは王女」
 コルニクスはエレナを見て仰々しく深々と礼をした。
 「あなた様のお父上は、たった今亡くなられましたよ」
 「嘘・・・」
 ということは、次の後継者は自分になる。
 「あなたには王位を継ぐ気がおありですかな?」
 エレナは何も言うことができなかった。そんなもの、継ぎたくない。しかし、暴動を止めるには、民が死にゆくのを止めるには、自分が王位を継ぎ、民を殺すことは赦さないと宣言しなければならない。エレナは意を決した。
 「あるわ」
 「それは困りましたな。クレスト、王女を殺せ!」
 コルニクスは、たった今玉座の間に飛び込んできたクレストに命令した。
 「それはできません」
 クレストは初めてコルニクスの命を拒否した。
 「何を――?」
 「王女が正統な王位継承者です。他の者は何人も、王位を継ぐことはできません」
 「この紋章が」
 コルニクスは息絶えたウィリデウスの首から、金の鎖に繋がれた紋章を引き抜いた。
 「この紋章をかけたる者にこそ与えられる恩寵がある! 私はそれを頂戴する!」
 「よせ! やめろ!」
 ジェフが叫んだ。
 コルニクスは血まみれの首飾りを首に下げ、両手を挙げて狂気に満ちた笑い声を上げた。
 「これで私がこの麗しきベルスの王だ! 跪け! 私の前に跪け!」
 しかし――。
 「っ!」
 コルニクスは突然、四つん這いになって崩折れた。鎖が、めりめりとコルニクスの首に食い込んでいく。
 「かっ・・・カハッ・・・!」
 まるでその首の先に重石をつけているように、鎖はどんどん食い込んでいく。
 「エレナ、見るな!」
 ジェフがエレナを抱き寄せた。
 凄まじい悲鳴が響いた。鎖はコルニクスの首を食い破り、その首を叩き落した。夥しい血があたりに広がった。
 「そんな・・・」
 「嘘だ・・・何だったんだ?」
 王族たちはどよめいた。
 「・・・正統な王位を継ぐ者以外があの鎖飾りを首にかけると、あの紋章にかけられた命の重みそのものが襲い掛かる。王家に与えられた恩寵と共にかけられた呪いだ」
 ジェフが呟くように言った。
 次の瞬間、突き上げるような地揺れが起こり始めた。ついに、国が滅亡するときがやって来たのだ。がらがらと玉座の間が崩れ落ちる。
 「逃げろ!」
 王族の衛兵たちは、慌てて外へ逃げ出した。しかし、ジェフとクレストは、逃げようとしなかった。
 「王女を放してください、ジェフ」
 「嫌だと言ったら?」
 「あなたを殺すまでです」
 「やめて!」
 エレナが二人の間に割って入った。その間も、ぐらぐらと地面が揺れ続ける。
 「どけ!」
 エレナを押しのけて、ジェフがクレストに近付いていった。
 「やめて!」
 「やっとか」
 「何がです?」
 クレストは怪訝な顔をして剣を抜いた。そして、ジェフが何か言う前に、二人の斬り合いが始まってしまった。
 「クレスト、やめろ!」
 「私には王家をお守りし、この国を統治していただく義務がある!」
 「わかってる! だがお前とは争いたくないんだ!」
 ジェフがクレストの剣を弾き飛ばし、クレストは瓦礫に足場を取られ、壁に頭をぶつけて気を失った。
 「・・・・・・」
 ジェフは血にまみれた首飾りを取り上げた。
 「お前には一旦王位を継いでもらう」
 「・・・嫌よ」
 もし自分が本物の王女じゃなかったら? あの執政官のように凄惨な最期を遂げるのだろうか。
 エレナは恐ろしかった。
 「お前は正統な王位継承者だ。この国の王位を継ぎ、戦いを止めるんだ」
 エレナの不安を読み取ったのか、ジェフが微笑んだ。そして、ゆっくりと、首飾りをエレナの首にかけた。その大きな紅玉の紋章は、エレナの首に掛かると、まったくその重さを感じさせなかった。
 血に濡れていた紋章は再び赤い輝きを取り戻した。
 『これを以って、汝をこの地の王となさ』
 ジェフはそう言うと、一歩退き、エレナに跪いた。そして、ジェフは立ち上がって言った。
 「祈れ」
 「祈れ・・・?」
 「この戦いを終わらせるんだ」
 「でも」
 「あそこへ行け! そして祈れ!フ ァリガーナとの交渉権を持つのはお前だけだ!」
 ジェフは玉座の上にある、祈りの座を指差した。その間にも地面は揺れ続けた。
 「・・・・・・!」
 エレナは意を決したように祈りの座に上り、そこに跪くと、無我夢中で祈った。

 この戦いを終わらせてください――。
 もう誰も死なせないでください――。

 エレナは生まれて初めて神に祈った。神など信じていなかった。いるのなら、酷い目に遭う子どもたちも、殺し合いも、不幸なことなど何もないと思っていた。しかし、今は違った。

 いてもいなくてもいい。誰でもいい。
 この戦いを終わらせて――。
 
 それと同時に、地揺れが止まった。そして、エレナは光に包まれ、あまりの眩しさにぎゅっと目を瞑った。
 しばらくして目を開けると、落ちて来ていた瓦礫の塊さえも、何もかも全てのものが止まっていた。再び眩しいものを感じて、エレナは顔を上げた。目の前に、ファリガーナその人が立っていた。
 「ファリガーナ様・・・?」
 ファリガーナは悲しそうに微笑んだ。
 「そなたの一族は、暴虐無尽を働き、民を死に至らしめました。そなた自身も。もう、これ以上、この地を人間に開いておくわけにはまいりません」
 「そんな・・・それじゃ・・・」
 「この地の民は全て死に絶え、島は元の形を取り戻すでしょう」
 「そんな! その責があるのは私の一族です! みんなまで巻き込むなんて!」
 「わたくしとの契約を、エリオスの子孫から聞きましたね? そなたたちは、契約を破りました。もうこれ以上は――」
 「お願いです!」
 エレナはファリガーナの前に、泣きながら身を投げ出した。
 「一族の罪は私が償います! 未来永劫、地獄の業火で焼かれてもかまいません! ですから民の命は! それだけはお救いください!」
 「・・・・・・」
 ファリガーナは、エレナの必死の姿に、二千五百年前と同様に心を動かされた。しばらくの沈黙の後、ファリガーナは再び口を開いた。
 「・・・ならば、わたくしとの約束を守り、選択しなさい、リアーナの魂を受け継ぐ者よ」
 「約束・・・?」
 「覚えていないのですか」
 ファリガーナはエレナに近付くと、そっとその額に指先を当てた。
 エレナの眼前に、二千五百年前の光景が広がった。

 二千五百年前――。
 この島は元々、神々が人間の世界を見に天空から降りてきたとき、その御足を休める為の小さな庭のような場所の一つだった。非常に神聖な場所で、生き物も植物だけで、木は生えていなかった。ここに近付こうとする人間の船は「死の海流」と呼ばれるものに流され、誰一人として島をその目で見ることは愚か、生還することもなかった。
 しかし、あるとき大陸の船が、風に流されてその意に反して死の海流に近付いてしまい、船は大破してしまった。生き残ったのは数人。その中には幼い少女もいた。彼女の名はリアーナといった。そこへ現在の王家の始祖の親子が通りかかった。壮年の父親の名はバルトン、年若い息子の名はドニといった。死の海流に近いことも知らず、親子は小さな漁船に全員を乗せようとしたのだが、人数が多すぎ、結局みな海へと投げ出されてしまった。生き残ったのは十一人。それでも、漁船の持ち主のバルトンが持っていた縄で全員を繋ぎ、離れ離れにならぬようにして、運を神にゆだねて祈り続けた。
 その願いを聞き入れたのが、この小庭を治めていたファリガーナという女神だった。必死に他の者を助けようとした漁師の親子、命懸けで自分たちを救おうとしてくれた親子に泣きながら何度も礼を述べる大陸の人間たちの姿に心を動かされ、他の神々に内緒で禁じられた島へ導いた。それまで神々は、人間というものは互いに殺し合い、傷つけあい、動物や木々さえも切り倒し、優しさや愛のかけらも知らぬ、愚かな存在とみなしていた。しかし、ファリガーナはそうではないと知った。
 夜が明けて、海へと流された全員が目を覚ますと、そこには多くの花々が咲き乱れ、見渡す限りの美しい光景が広がっていた。ほとんど全員が、自分たちは死に、天国へやって来たのだと思い込んだ。するとそこへ、ファリガーナの夫、アスターがやってきた。アスターは自分の意思で島にやってきたが、地位は最高神の御遣いにあった。
 「ここは人間の立ち入るべき場所ではない。疾く陸へ帰るが良い」
 と、彼は言った。しかし、帰ろうにも船は沈んでしまっていた。そこへ、ファリガーナが現れた。
 「この者たちはわたくしが導きました。この者たちの行いに、わたくしは心を動かされました。どうか、彼らに船を作る為の木々を植えるお許しを最高神にいただいてくださいませ」
 妻の嘆願に負け、アスターはそれを自分の権限で許した。なぜなら、ファリガーナはアスターより地位が低く、ファリガーナの治めるものはアスターの治めるものでもあったからだ。そして神々の島で初めて木々の種が植えらた。木々は勢いよく生い茂り、十年も経つ頃には立派な大木に成長したものもあった。それも、神々の恩寵からの成長であった。
 その間に、ファリガーナは人間たちと親しくなり、彼らの本当の姿を知り、愚かしくもあれど愛すべき存在なのだと思い、彼らに愛情を持つようになった。アスターもそれを聞いて、次第に心をほぐし始めた。
 ところで、船が難破した当時九歳だったリアーナは、その頃には十九歳になり、年頃の美しい娘になった。ドニはリアーナに恋慕し、求婚した。リアーナは大陸から共にやって来た、現在の紋章官一族の始祖、エリオスに恋をしていたのだが、自分たちの命の恩人の求婚を断ることはできず、二人は夫婦になった。
 そして船が完成し、ようやく故郷へ帰れるようになったのだが、皆この島にすっかり憧れてしまい、帰りたくないと思いはじめた。バルトンは、今では長老と呼ばれていた。ドニとリアーナとの結婚で、二つの一族は一つになった。長老が、ファリガーナに願って言った。
 「この島はとても美しい。私どもは皆、ここを去りがたく思います。もし許されるのであれば、ここで生涯を過ごしたいのです。そして、大陸の皆にも、この美しい世界を共有したいと思うのです。このような美しい場所を、私どもの記憶にのみに残すのはあまりに惜しむべきことです」
 アスターは渋ったが、ファリガーナも彼らをここに留めたいと願った。
 「もともと、彼らを助け、僭越にもここで暮らすことができるよう、あなた様に願ったのはわたくしでございます。何卒、もう一度わたくしの願いを聞き入れてはいただけないでしょうか」
 しかし、これはアスターの権限を超えることであったし、胸騒ぎを覚え、結局反対した。そこでファリガーナは最高神に直訴し、最高神は、ファリガーナからある条件を人間に下し、その誓いを守ることができるなら、人間がそこへ住まうことを許した。ファリガーナは思案した。元々、神々が人間を悲しく愚かな存在と思うようになったのは、互いに殺し合い、傷つけ合うことからであった。しかしファリガーナはこの十年で全ての人間がそうではないと知り、その上で、ある誓いを交わすよう長老に求めた。それは、

 「その島で人間の血を流し、麗しい大地を汚さぬこと」

 というものであった。
 今のファリガーナには、たやすいことのように思えたのだ。もちろん、一族にはそんなことをするつもりは全くなく、皆これを喜んで誓い、その島への人間の住む許可を得ることになった。まず、自分たちの無事を知らせに五人が大陸へと戻った。リアーナはすでに身篭っていたので、夫と長老と共に残った。彼らはより住み良い土地を求めて、島の中を遍く旅した。

 大陸では、禁断の島に人が住めるようになったと聞くと、その恩寵に浸りたいと思う者が集まった。そして彼らは島で作られた船に乗り、二つの一族が、共に住むことを長老に許しを請うた。バルトンは、長い間これほど多くの人間と話すことはできなかったので、彼らとの出会いを喜び、そして一族に加わることも許した。
 しかし、神と話した長老、バルトンに許可も請わず、会いもせず、勝手に住み着くようになった族もいドニは何度も使者を送り、会いに来るよう求めたが、返事はこうだった。
 「神々から居住の許しを得たというのに、なぜ我らと同じ人間に許しを請わねばならぬのか。そなたらは許され、我らは許されぬなどということはあるまい。こちらはこちらで転地を開く」
 その後も交渉は続いたが、次第に先住のバルトンの一族は相手にされなくなっていった。そこでドニはその一族の数人を率いて、現在のオプタリエの北部へ赴いた。そこには、想像を絶する数の人間がすでに住み着いていたのだ。相手は、大陸随一の国の王族だったのだ。ドニたちは彼らの領土と主張する場所へ入ると、侵入者として捕らえられた。ドニは怒り、ついに剣を抜いてしまった。彼はもはや、この土地の全土を我が物としたい欲望に駆られていたのだ。
 そして争いが起こった。その場にいた長老の一族の一人がすぐに応援を頼みに走った。争いはやがて広まり、リアーナのいる村へも広がった。そこで記憶されたものは、剣の交わる音、人々の阿鼻叫喚、子どもたちの泣き叫ぶ声、子どもを失った母親たちの悲嘆に暮れた声、そして血の色と臭いだった。 
 争いの最中、息子は禁忌を破った罪でもあるかのように、相手方の剣に命を奪われた。バルトンは、生まれたばかりの赤ん坊を抱いたリアーナと、もう一人、リアーナが恋慕していたエリオスを連れて最初に漂流した場所へ赴き、ファリガーナに赦しと助けを求めた。このままでは一族は滅んでしまう。息子の犯した罪は自分がどんな方法ででも償うと、一心に祈ったが、アスターもファリガーナも、もはやこの土地を見捨てたたように、現れることはなかった。
 しかし満月の晩、ついにアスターとファリガーナが現れた。ファリガーナのその表情は暗く、やがて口を開いた。
 「何ゆえわたくしとの契約を破ったのです。わたくしはあなた方を信じ、この土地を開きました」
 「我が息子の傲慢ゆえによるものです。罪は私が償います。どうか、この争いを止め、我が一族を滅亡からお救いください」
 バルトンは一心に祈った。
 「我らとの契約を破った上にまだ願いがあると言うのか。傲慢さは親子のものだな」
 アスターも悲しげに言った。
 「よかろう。この島を開くよう最高神よりお取り計らいをいただいたのだ。しかしそなたにはすべての罪の償いをしてもらう。すべての償いを終えた折には、そなたら一族をこの国の王とし、民を守り、再び過ちの起こることのないよう、特別な恩寵を与える」
 「何なりと、お申し付けを」
 バルトンは安心したように言った。
 「脚をもがれた者の為に、脚を差し出せ」
 バルトンは目を見開いたが、やがて、持っていた木を切る鉈で、自分の脚を切り落とした。辺りには長老の絶叫が響いた。リアーナの抱く赤ん坊も、それと同時に泣き出した。リアーナも、夫の死と長老と呼ばれたバルトンの無残な姿に涙を流した。エリオスに寄りかかっていなければ立ってもいられない状態であった。エリオスもリアーナを抱き締め、さらに続く贖罪に耐えた。
 腕をもがれた者の為に腕を、目をくりぬかれたものの為に目を、舌を切り取られた者の為に舌を――。そしてついに、長老は息絶えた。しかし贖罪はまだ終わっていなかったのだ。最後に、ファリガーナが大粒の涙を流しながら言った。
 「子をその目前で殺された母親たちの為に、その子の命を、母の手で殺めて差し出しなさい」
 「嫌です!」
 リアーナは半狂乱になって叫んだ。
 「私にはできません! この子には何の罪もございません! あるとすれば夫を止められなかった私に責があります! どうか、どうかこの子だけはお許しください! お救いください!」
 絶叫するような声でリアーナは嘆願した。命の恩人が、息子もろとも自分を残して目の前で死んでいったのだ。リアーナも、もはや正気を保ってはいられなかった。
 「それではそなたの命を、そなたをこの世で一番愛する者の手で殺めてもらいなさい」
 ファリガーナの目は、リアーナを抱き締めている男、エリオスへ向けられた。彼もまた、密かにリアーナを愛していたのだ。
 「・・・できない」
 エリオスは苦悶の表情を浮かべて答えた。するとリアーナは顔を上げた。
 「あなたは私を愛してくださっていたのですか・・・?」
 「・・・そうだ」
 「なぜ」
 リアーナは泣き崩れた。
 「なぜ仰ってくれなかったのです! 私もあなたを愛していました! あなたを・・・!」
 リアーナは赤ん坊を抱き締め、声を上げて泣いた。愛する者をその手で殺める辛さが、どれほどのものか。彼女は愛した男にそれを背負わせることもできなかったのだ。やがてリアーナは顔を上げ、ファリガーナを見つめた。
 「謹んでお願い申し上げます。一族の全ての罪は、私がこの身にに引き受けます。何度でも生まれ変わって、罪を償い続けます。一族全員で罪を償います・・・! ですからどうか、この子と一族を、滅亡からお救いください・・・!」
 リアーナの魂を込めた叫びは、神々の胸に響いた。
 そしてアスターが言った。
 「しかと聞き届けた。そなたの望み、叶えよう。そなたらをこの地の王となさん。民を守る為、その身体を特別に強くし、老いを止めよう。そしてそなたらは王として、一心に民の幸福のみを祈り続けるのだ。さすれば再び争いの起こる日は来るまい。法を定め、統治するのだ」
 すると、今度はファリガーナが口を開いた。
 「しかし、そなたらの心が私欲に走り、民の心を思う心を忘れかけたとき、島のどこかで神の怒りが起こりましょう。民が病や飢えで命を落とすことがあれば、そなたらの罪は一層深くなることでしょう」
 そして、ファリガーナは一輪の花を摘み取った。リエンゼルという、世界中で死者に手向けられる真っ白な花だ。それを夥しく流れた長老の血に浸し、赤く染めた。すると、見る見るうちに花は石となり、手の平ほどの大きさの首飾りができた。
 「これを贖罪の印として、王位を継承したものが代々身につけなさい。その他の者が王位欲しさにこれを奪うようなことがあれば、恐ろしいこととなるでしょう」
 リアーナがそれを受け取り、首にかけた。
 「これをもって、そなたをこの地の王となさん」
 アスターがそう言った瞬間、島全体が目も眩むような真っ白な閃光に包まれた。誰も彼もが、何も見えなかった。やがて光が収まると、王族以外の者が持っていた武器以外はみな朽ち果て、土に還った。波は荒れ狂い、王族の船以外の船はみな沈んでしまった。
 そしてリアーナが一心に祈った。
 「争いをやめてください」
 その声は、島中の人間全ての心に染み渡り、全てのものが武器を落とし、我に返り、自分たちの招いた惨劇を嘆いた。やがて全ての者たちは和解し、リアーナの許へと仕えるようになった。この大事件は、大陸の国にも伝わり、禁じられた島は神々に守られた島として知られるようになり、以後、どんな強国もこの島に攻め入ろうとはしなかった。
 リアーナとその一族――王族は、戦の傷を癒し、王国の設立に向けて尽力した。彼女は女王と呼ばれ、エリオスは、神々との会話を直に見聞きしたものとして『言の葉の一族』――ウェルバ一族と呼ばれ、紋章官になった。
 また、王族の中でも、武芸に優れ、戦の折にはその通り道に死肉漁りの鳥がついて回るようになり、コルニクス一族と呼ばれ、護民官として騎士を民衆から募り、騎士団を結成した。この二つの一族は、やがて女王から執政官になるよう求められ、文武互いに協力しながら国を治めた。最後まで長老の一族に忠実であり、生き残った五家は、王族と呼ばれた。こうして、ベルスの王国の統治が始まったのだ。

 リアーナは毎月、満月の夜、戦の惨劇をまざまざと夢に見て目を覚ました。それが、戦の惨劇を忘れぬようにという神からの警告であり、呪いでもあった。リアーナは次第に精神を蝕まれていった。女王の息子が成人すると、彼女は首飾りを息子に引き継ぎ、自分は白痴のようになって早死にした。それ以来、王家に嫁いだ女性は、満月の夜に泣き叫んで目を覚ますようになり、ほとんどの者はみな、最期は物狂いのようになっていった。
 王家の婚姻の儀では、国王の血を葡萄酒に混ぜて杯を空け、そうすることで身体中の血が王家の血に変わるのだ。老いは止まり、文武に優れるようになる。たとえ女性であり稽古を積まずとも、体術、剣術に優れ、その国を守るべく特別な力を得る。
 そして彼女らは、一人だけ子を産むのだ。その王位継承者が生きている限り、彼女らは二度と子を身篭ることはない。彼女らはみな王家に嫁ぐ運命にあり、リアーナの生まれ変わりだとも言われている。

 時は過ぎ、約千五百年が過ぎたが、大きな戦はこれまでに一度もなかった。その頃、初代の女王から数えて三番目の王女が生まれた。名をシレンティアといった。彼女は生まれたときから物狂いのようで、剣が鳴る、人が泣く、と言って、常になかなか眠れなかった。そしてあるときこう叫んだ。
 「五番目の王女は全てを海に還し王国の終焉を招くであろう。五番目の王女はすべて海に還すべし」
 と。

 エレナはボロボロと涙をこぼして目を開いた。
 「私を愛してくれている人に・・・、殺してくれと、頼めと・・・?」
 「そうです。そう契約しました。・・・ですが、そなたにも人を殺めた罪があります。生きて償ってもらう為に、別の選択肢を与えましょう。この国の民全ての命を取るか、そなたの最も愛する人間の命を取るか、選択しなさい」
 「そんな・・・!」
 「どちらかを選べば、どちらかが滅びます」
 「そんな・・・! もうやめてください、そんなこと! 私一人が全ての罪を負います! 子孫代々でもなく、私が!」
 ファリガーナは微笑み、消えていった。

 ガクンッとエレナは現実に戻った。
 もう誰も死んで欲しくない。誰にも――。
 そのときエレナの目に入ったのは、ジェフに狙いを定めて弓矢を引き絞るクレストの姿だった。
 考える間もなかった。

 もうやめて――。

 エレナは、祈りの座から飛び降り、ジェフの前に飛び出した。何も考える間もなく、選んでしまった。
 ジェフを――。
 心から愛した人を――。
 青蛇の毒の塗られた矢は、真っ直ぐにエレナの胸を打ち抜いた。
 「エレナ!」
 ジェフがエレナを抱きとめた。
 「・・・あ・・・」
 クレストは自分が何をしたか、震える手で弓矢を取り落とした。再び、地揺れが始まった。
 「エレナ!」
 ジェフはエレナの胸から矢を引き抜いたが、エレナの血は、あっという間に止まってしまった。恩寵は還されていない。まだ、終わっていないのだ。エレナは、弓矢に射抜かれた衝撃と矢に塗られた青蛇の毒の効力で気を失っているだけだった。
 「クレスト!」
 ジェフが大声で呼んだ。
 「そんな・・・」
 クレストはエレナの横に膝をついた。
 「エレナはまだ生きてる・・・。まだ終わってはいないんだ」
 「あなたは何者なんです?」
 「お前の父親は、ラクテウスだろう。カルロスと呼ばれていた男だ」
 「どうしてそれを――?」
 『俺は、胎違いのお前の兄、アクウィラスだ』
 「その言葉――!」
 クレストは、ジェフの話す古代語に驚きを隠せなかった。ジェフは、古文書とカルロスの日記をクレストに押し付けた。
 『エレナは俺が引き受ける。お前は民に語り継げ。この国で何があったのかを』
 地面が揺れ、ガラガラと天井が落ちてきた。
 『ここにいてはあなたも、二人とも死んでしまう――!』
 『彼女を殺さなければ全ては終わらない。そしてエレナを殺せるのは俺だ。行け!』
 『ジェフ・・・!』
 『行け!アライアス!』
 ジェフに背中を押されて、クレストは走り出した。

 「エレナ・・・」
 ジェフはエレナ頬をそっと撫でて、その名を呼んだ。
 「ジェフ・・・」
 エレナは目を覚ました。
 「クレストは・・・? あの人も、紋章官一族の末裔だって言ってたわ・・・」
 「わかってる。あいつは俺の胎違いの弟だ。今すべてを託した」
 「私が生きてるということは、まだ終わっていないのね・・・」
 エレナの瞳から、安堵の涙が零れた。蛇毒に犯されているせいで、もはや虫の息に近かった。それと同時に、ぽつりと不安を口にした。
 「私をこの世で一番愛してくれてる人って誰かしら・・・」
 あれほど自分を想ってくれていたウィルは、もうおそらくこの世にいないだろう。ジェフはしばしの間黙っていたが、やがてエレナの髪を梳きながら言った。
 「俺だ」
 「え・・・?」
 「お前を、愛してる」
 「そんな・・・だって・・・」
 「信じられないか?無理もない・・・必死で隠してたからな」
 ジェフは苦笑した。
 「どうして・・・」
 「・・・わかってるはずだ」
 「私を・・・、殺さなきゃいけないから・・・?」
 ジェフは何も言わず、エレナに口づけた。エレナの頬を、涙が一筋伝った。
 「私も・・・、あなたを愛してる・・・。ジェフ・・・、私を殺して・・・・そして・・・逃げて・・・」
 「お前一人残して行くわけないだろう。もう二度と見失わないと言ったはずだ」
 ジェフは、エレナの髪を梳きながら優しく言った。
 「私・・・選んでしまった・・・あなたを・・・」
 「ああ。だが大丈夫だ」
 「どうして・・・?」
 「古文書の最後の章を読み解くことができた。・・・五番目の王女はどんな選択をしても、歴史は繰り返さず、新たな道を歩み、彼女を愛した者の手によって、全てが赦されるだろうと・・・書かれていた」
 俺は、エレナを愛し、殺すために生まれ、殺すために生きてきたのだ。ジェフは唇を噛んだ。
 「・・・私は・・・赦されなくてもいい・・・。みんなが・・・生き延びてさえくれれば・・・」
 「・・・大丈夫だ。だが・・・お前には謝らなければならない・・・」
 「謝る・・・?」
 「・・・お前は王女だと、もっと早く言うべきだった」
 「そんなことないわ・・・」
 エレナは弱々しく笑った。
 「何も知らずにあなたと過ごせた時間、私は本当に幸せだった・・・」
 「そうか・・・」
 ジェフは微笑んだ。もう一つ、と、ジェフは後悔の念をにじませた。
 「お前を愛していると、もっと早く、伝えればよかった・・・。成長したお前と出会ってから、日に日にお前を愛する気持ちは強くなっていった・・・」
 「そうね・・・」
 エレナの頬には、涙が幾筋も伝っていた。
 「私は誰とも結婚しないと決めていたわ・・・。だけど、あなたとなら・・・、ずっと、いつまでも一緒にいたかった・・・」
 ジェフはぎゅっとエレナを抱き締めた。
 「ジェフ・・・愛してるわ・・・。子どものときから、ずっとあなたが好きだったんだわ・・・」
 素直になれなくて、ごめんなさい・・・。
 「ジェフ・・・」
 エレナは最期の力を振り絞って、ジェフを抱き締めた。
 「ああ・・・、私、こんなにあなたを愛してる・・・」
 どうしてもっと早く素直にならなかったんだろう・・・。
 「もっと早く、言えばよかった・・・」
 「・・・俺もだ・・・」
 ジェフはエレナにもう一度口付け、震える手で剣を構えた。自分がエレナを殺さなければ、全ては終わらない。
 決して自身の意欲からではない、自衛の為、民の為、多くの命をその手で奪ってきたジェフも、今まさにその罰を受けようとしていた。
 剣を持つ手が震えたのは初めてだった。初めて心から愛した女性をその手にかけることへの恐怖、己の非力さに対する口惜しさ、彼女をこれから襲うであろう苦しみを想像し、ジェフの手は震えが止まらなかった。
 自分の命など、どうなってもかまわない。何を失ってもかまわない。ただ、エレナだけは、自由になってほしかった。しかし、運命からは、どうやっても彼女を逃がしてやることができなかった。
 胸の内から蛇毒に犯されているエレナは、もはや虫の息に近い。彼女の望み通り、エレナを彼の手で殺めなければ、何もかもが無に帰す。このままただエレナを看取れば、エレナを殺したのはクレストだということになる。
 その者を最も愛したる者の剣によってのみすべてが赦される――。
 エレナを殺し、この国の負の連鎖のすべてを食い止められるのは、自分しかいない。
 「こんなこと頼んで・・・本当に・・・ごめんなさい・・・」
 ジェフの震えを感じ取ったのか、エレナが彼の耳元で、ほとんど聞き取れないような声で囁いた。
 どうしてこんな残酷な罰を受けさせなければならないのか――。これから己の身に襲い来るであろう激痛に身構える様子もなく、ただジェフを愛おしそうに抱きしめているエレナの横顔を見て、彼は神々の残酷さを呪った。
 何より、彼女を自由にしてやれない己の非力さを――。
 もしも自分が、エレナに対して「自分を殺してくれ」と頼むことになったら、どれほどの葛藤を味わうだろうとジェフは思った。愛する者をその手にかける苦しみを、自分が愛した者に背負わせなければならない。それでもエレナは、この王女は、民を滅亡から救うため、ジェフに懇願した。
 「殺してくれ」
 と。
 どうして断れようか。自らの命も、心さえも犠牲にして、民の命を救おうとしている彼女の願いを。
 ジェフは震える手で、彼女の細い身体を抱きしめるように、もう一度剣を構え直した。剣の刃を直に掴んだ右手から血が滴る。
 「・・・エレナ、愛してる」
 それだけは、その一言だけは、もう一度彼女の心に伝えたくて、最期に囁いた。
 そして、一息にエレナの身体ごと、自分の心臓をも貫いた。不思議なことに、ジェフは一片の痛みも感じなかった。鉄の冷たささえ感じなかった。ただ、エレナへの愛だけを感じていた。
 二人の身体が地に崩折れ、血溜まりができ始めるのを目にした。ジェフは意識が遠のき、命が事切れるその刹那、エレナの手を強く握りしめた。この手だけは、絶対に放さない。
 そして、エレナの胸元で輝いていた紅玉の首飾りが、高い音を立てて粉々に砕け散るのを見届けた。その瞬間、細い細い糸で繋がっていたエレナの命は、とうとうその最期を遂げたのだと知った。
 深い眠りに引き込まれていくような感覚の中、ジェフは最期の力ですでに事切れたエレナの手を握り締め、願わずにはいられなかった。
 もしこの凄惨な贖罪を果たし、願いがかなうならば、どうか、二人とももう一度でいい、生まれ変わって、今度こそ平穏に結ばれたい――。

 そしてジェフは、永遠の眠りについた。

 こうして、全ての罪を自分が負うというエレナの願いは聞き入れられたのだ。

『最後の章』

 ジェフとエレナの死と共に、地揺れが止まった。二人の死をまだ知らないクレストは、不思議に思い、玉座の間へ引き返した。
 クレストがそこで目の当たりにしたものは、同じ剣に貫かれて倒れている、ジェフとエレナの姿だった。血溜まりが二人の周りにでき始めていた。
 ジェフはエレナを守るように抱き締めてその細い手を握り締め、エレナは幸せそうに微笑んで息絶えていた。大きな赤い紋章は、エレナの胸元で粉々に砕け散っていた。
 クレストはすべての力を失い、その場に膝をついた。そして、父が自分に残した古文書の写しと、ジェフが持っていた古文書の原本と日記とを取り出した。ジェフの古文書から、ぱらりと紙切れが落ちてきた。埃にまみれていて、かなり読みにくかった。
 『我々は王家の姫君たちが代々この凄惨な運命を辿ることを良しとしない。しかしこれにより王侯貴族諸侯が自らを律することを忘れぬよう、我らは真実をここに隠す』
 古文書の最終章が読み解けなかったのは、この紙切れのせいだった。ジェフはこれを、トリストティリスの教会で見つけたのだ。そして、最後の章を読み解いた。
 『我らは新たにファリガーナに懇願した。五番目の王女は自由な選択ができるようにと。代々苦しみ生きてゆく彼女らの運命が、せめて幸福のうちに終わるように。しかし王女は民を殺めるであろうと、ファリガーナは告げた。王女自身の罪を贖うには、その命をもって贖う他ないと。どの選択をしても、五番目の王女は愛するものと共に息絶え、全てをファリガーナへ還すだろう。王族を含む全ての民は王女の死をもって過ちに気付き、以後はそれまでの歴史を繰り返さず、平等な力をもってして国を治めるだろう』
 王女は人を殺めていた・・・。この国における絶対の禁忌を、王家の人間自らが破っていた・・・。
 しかし、兄は、王女を愛したのだ。かつてエリオスがリアーナを愛したように。そして、二人で共に旅立ったのだ・・・。クレストは父が遺して逝った古文書の写しを見た。もう 完全に読みつくしたものだったが、やはり最後の章だけは読み解けずにいた。カルロスはクレストを育てる間に、様々な暗号遊びをしていた。それからクレストは、ジェフに遺された父の日記を見て、すぐにその暗号に気がついた。
 『アクウィラスへ・・・お前には弟がいる。名をクレスト、本名をアライアスという。ウェルバの末裔はお前一人ではない。二人でこの国の物語を語り継げ・・・』
 クレストはもう、一人になってしまった。

 「お前は何か懐かしい気がするよ。何でだろうな」

 いつかのジェフの言葉が甦る。
 あの時はまだ、知らなかったのか・・・。
 王女はなぜ人を殺めたのか、そして兄の人生の中で一体何があったのか、今のクレストには知る術もなかった。ただ分かるのは、自分は王家を守ることに奔走していたのに対し、ジェフと王女はただ一心に民を守ろうとしていたこと。今自分がなすべきことは、この国の歴史と物語をもはや隠すことをせず、全てを打ち明けることだ。クレストは立ち上がって涙を拭い、民衆の元へ向かった。

 ジェフとエレナの二人が息絶えた瞬間、島の人間たちの胸にも同じ衝撃が走った。その心に、二人の死が、まるでガラスを通してみるようにまざまざと見えた。二人は、自分たちを救うため、また自らの罪を贖うために命を捧げたのだ。全ての人間が、武器を取り落とし、やがてそれはと土となって大地に還った。
 王族はそれまでの力を全て失った。全てが終わったのだ。
 「この国の歴史を話そう」
 クレストが、城の二階の回廊から民衆に語りかけた。長い話だった。二千五百年前まで遡り、今、エレナの死を告げた。
 「この国の守り神、ファリガーナとは、古い言葉で『海』を表す。五番目の王女は全てを海に還し、王国の終焉を招くであろう・・・五番目の王女、セレスティアは、エレナは、自らも罪を犯した。しかしその命をもって、王権も、我々の恩寵も、罪と罰も、全てをファリガーナに還したのだ。王女は戻らない。だが幸福のうちに死んでいった。・・・もう殺し合いはやめよう。これからは皆平等に国を治めるんだ。それが、ジェフとエレナの願いだ」



 「父さんが語れるのはここまでだよ」
 十年後――。クレストは幼い息子を膝に抱き、物語を語り終えた。
 「みんなはエレナを自由にするためにたたかったんでしょう?」
 「そうだよ」
 「どうして自由になって逃げなかったの?みんなの命が無駄じゃない」
 「それは」
 クレストは息子の頭を撫でながら言った。
 「エレナは自分の罪から逃れることはできなかったんだ。そしてこの世には、自分の命と引き換えにしてでも守るべきものがたくさんあるんだよ。エレナはみんなの命を守りたかったんだ」
 こつん、と、息子の額と自分の額を合わせて。
 「お前にもいつかわかるときがくる」
 ふぅん、と、息子は無邪気に頷いた。
 「じゃあ今度は父さんの話を聞かせて!」

 長い長い物語が、再び始まった――。



 Bloody Crest ―血塗れた紋章― 完

エピローグ

 「海の向こうには何があるの?」
 海を見渡せる広い丘で、小さな男の子が、年若い両親に尋ねた。
 「ここから見える海の向こうには、ベルスの王国があるのよ」
 「ええっ、ベルスって王様がいるの?」
 「何百年も昔はいたのよ」
 「今では議会が治めている。かつては国王と二家門の執政家が国を治めていた。それがまず二つの執政家に亀裂が入り、一つの家門が国を追われた。その数百年後、内乱が起き、結果王家も残った執政家も滅んだ」
 「父さん・・・、何言ってるのかわからないんだけど」
 母親はくすくすと笑って、しゃがんで息子と視線を合わせ、海を見つめながら言った。
 「その最後の王家の生き残りは王女だったわ。王女はもっとずっと昔に一族が犯した過ちを償うために、この世で一番愛してる人、自分を愛してくれていた人に殺されなければならなかったの」
 「何で?かわいそう・・・」
 「王女を愛したその男も、王女と共に命を絶った・・・。けれど、二人がそうして命を懸けたおかげで、あの島の人たちは神様からの裁きを受けずに済んで、王様のいる政治を廃止して、みんなで平等に国を治めるようになったの」
 「すごい、母さん。どうしてそんなこと知ってるの? 誰に聞いたの?」
 「あの頃を生きた人はもう、誰も生きていない・・・。けれど、私たちがこうやって語り継いでいくことで、あの時代を生きた人たちの魂は永遠になるのよ」
 遠い海の向こうを見つめた母親の瞳は、どこか何かを懐かしむような色をしていた。
 「お前もちゃんと、語り続けるんだぞ」
 父親は息子の頭を撫で、母親と同じように海の向こうを見つめた。
 「ねえ、父さんも母さんもどうしてそんなこと知ってるの?」
 若い夫婦は顔を見合わせて、ただ微笑み合うばかりだった。
 「さあ、どうしてかしら、ね・・・」
 三人の親子の頬を、一陣の風が撫でていった――。

『赤の紋章』

 終わりましたー!ここまで読んでくださってる皆様、ありがとうございます!
 『赤の紋章』というのは邦題で、実は『Bloody Crest』といいます!作中クレストという名が出てきますが、それとこれとは関係ありません。
 結局この本編は誰の物語だったんだっていうラストで申し訳ありません。そして主人公(?)二人の最期があんなんですみませんほんとすみませんひねりがなくて申し訳ないです。
 エピローグ前のラストは悩みに悩んで、結局こうなるしかないと思って決めたラストなのですが、今でもこれで良かったのかなあと思うことがあります。
 エピローグは蛇足感ハンパないですけど、ちょっとでも救われた感があった方がいいかなと思って載せてしまいました。ただ序文の一発目に「海のむこうにはなにがあるの?」から始まって、エピローグへつながってくれたらいいなと思ったりもしています。
 『赤の紋章』は実はいらんシリーズもので、本編とかぶる部分も多くありますがエレナ編、ウィル編もあります。エレナがどう生き延びたのか、本編では触れられなかったので。カルロスやガルシアのお話まであります(笑)。ちなみにさらに実を申し上げますと、本編の前に『Ivy』というアールとアリスの馴れ初め編という超番外編から書き始めたという経緯があります。だって本編難しくて書けなかったんですもの。書けるところから書く作戦でいったら十年かかってしまいました。
 心残りはもっともっとたくさんあります。コルニクスの冷徹さをどう表現すればいいかわからなかったし、ウィリデウスの愚かさをどう表現したらいいか以下同文。
 でも作品としての形は成せたと思うので、大筋では、細目でみればまあいいかと思っているのも実のところであります。
 自サイトに載せた文章を加筆修正しまくってここに至りましたので、なんか話の意味わかんないんだけどと思われたらご遠慮なく教えてください。また練りますので。
 本編で「?」だったところも番外編で補うつもりでいますので、またお付き合いください!

 グダグダ書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
 性懲りもなく番外編も載せていくつもりでいるので、その時はどうぞまた読みに来てやってください。
 それでは、ここまでお付き合いただいてありがとうございました!

『赤の紋章』 新澤 りお 作

2500年以上も続く王朝を取り巻く歴史と真実の物語。すべてを海に還すであろうと予言された王女の運命は。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日 2016-06-17
Copyrighted

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