20151115-ある講師と女子大生の恋

あでゅー 星空文庫

 彼女に初めて会ったのは、まだ肌寒い春のことだった。私が本屋で物色していたら声をかけられた。
「あのー、すみません」
「はい?」
「今月の工業機械って、もう売れちゃいました?」
(まただ、店員と間違われた)
 そう思って、店内を見る。やはり、店員と同じジーパンに青いシャツがよくなかった。
 私は心の中で溜息を付き、気を取り直して笑顔で言った。
「もう、そこにないんだとしたら売り切れですね」
「そうですか、残念……」
「それから、私は店員じゃありませんから(スマイル」
「えっ! すみません(ペコペコ」
 彼女は真っ赤になって何度も謝るので、こちらが逆に申し訳なく感じて、その雑誌がネットでも買えることを教えた。彼女はもう一度お辞儀をして行った。私はそんな彼女を笑顔で見送った。

 人の顔も名前も覚えづらい私には珍しく、彼女の顔をひと目見て覚えた。それはあの印象的な大きな瞳だ。そして、髪はよくあるショート・ブボだったが、化粧はしていなかった。それでも十分美しかった。
 私は、彼女の真っ赤になった顔を、何度も、思い出し笑いをしていた。


 XX工科大学に新入生が入ってくるこの時期。校舎の中庭のさくらがその終焉を迎え散っていく。散った花びらを集める庭師が忙しそうにタイルの上を竹ぼうきではく。すると、遠くで噴水が勢いよく水を吹き上げる。春の清掃が終わって初めての噴射だ。寒々しい空に新鮮な水を噴き上げていく。
 別れもあり、これから始まる物もある。私は、その集約された光景を歩きながら見て、物の哀れを感じた。
 今から行く講義室にも、新しくこの大学で学び始める学生たちが大勢待ってる。このキャンパスの記憶が、皆の中に良い思い出だけを残して去っていけるように、私は祈るのだった。

 中庭を物思いにふけり斜めに横切り、私はX棟の校舎へ入っていった。講義室のドアを開けると人の話す声の波が私を飲み込む。
 よくもまあ入学そうそう友たちが出来る物だと毎年思うのだが、それは若さゆえの大らかさか。今さらながら、私は自分が失った物を感じずにはいられなかった。

 気を取り直して、教壇に立つ。
 見渡すと、私の受け持っているドイツ語講義には、今年もたくさんの学生が受けに来ている。出来るだけ落とす者がない様にしたいと思い、気を引きしめた。
 私は恒例のマイクテストをして話始めた。
「えー、皆さん。こんにちは。私はこれからみなさんのドイツ語を担当する小田カズオです。よろしく」
 そう言って私はお辞儀をした。お辞儀はあまりやる講師はいないのだが、私は昔からこうしている。だがこれで舐めた態度をしてくる奴は後でこってりその態度をたしなめるのだが。
「これから、今からみなさんの出席を取るので名簿を回しますからサインしてください。前の列からね。君よろしく(スマイル」
 黒板に名前を書いた。小田カズオ、と。すると、あちこちでくすくすと笑い声がする。元オフコ-スの小田和正とは一字違いだ。
 この年代でも知っているのかとちょっと驚いたが、まあこれで私の名前は覚えられただろうと、小田和正に感謝した。
「あ、それから代筆した場合は、ふたりとも不可だから。気を付けてね(毒スマイル」

 出席簿が学生たちに回り出したのを確認して、ドイツ語の教科書を開いて授業を開始した。
 ドイツ語は英語と違って、男性名詞と女性名詞と中性名詞があると話し始める。対外、この段階でドイツ語が嫌いになるのだが、このクラスのほとんどの学生が苦虫を噛み潰したような顔をした。気が重い。
 まず発音の記号を板書をしてひと区切り付き学生を観察していると、本屋で私を店員に間違えた大きな瞳の女の子を見つけた。私がにこにこ見ていたら、女の子がハニカミながら会釈した。どうやら、彼女も私を覚えてるらしい。私は嬉しさを噛み殺して授業を続けた。
 一時間半の長い授業が終わって退出しようとした時、その女の子が駆け寄ってきた。私は、平静を装って言った。
「はい、何でしょうか?」
 ちょっと声が上ずってしまった。
「はい、私は幸田サキと言います。よろしく(ペコリ」
「こちらこそ、よろしくね」
「それで、この記号は何と言うんですか? 聞きそびれてしまって」
 いかにも申し訳なさそうに聞いた。
(良いんだよ。こっちが嬉しいから。でも、こんな単純なことを聞き逃すなんて……。もしかして、私と話したいから?)
「ウムラウトです。この記号は良く出てきますから仲良くしてくださいね(スマイル」
「有難うございます(ペコリ」

 この子の親御さんの教育か、本当に礼儀正しい子だ。
 もっと話をしていたかったが、講師と生徒の関係には気をつけないと。ちょっとした感情のもつれから、パワハラで訴えられることがある。その場合、私たちの方が一方的に首を切られる。こちらに非がなくてもだ。
 しょせん我々講師は学生の奴隷だ。立場が弱い。今仕事を首になったら食っていけないので気を付けないと。
 それに私には他人には言えない大きな欠陥がある。それはインポだ。直前まで行くのだが、いざその時になったら立たないのである。だから、それを知られないようにするために、誰かとお付き合いすることは避けなければならないのである。

 そんなこっちの事情には知らずに、幸田サキは授業を終わると決まって質問してきた。
 夏休み前になると胸元は際どくなり、スカートはもはやミニではなく申し訳程度に布がパンティを隠しているに過ぎず、私は上を向いて会話しなければならなかった。もっともそれは見せパンだったかも知れないが。
 幸田サキの名誉にために。後で講師仲間に聞くとそれはキュロットスカートだった。彼女のそれは短パンを巻きスカートが隠しているようになっていて、外からは際どいミニスカートに見えたのだ。だからお色気作戦と言うは、言い過ぎだったかも知れない。


 春も過ぎ、梅雨もようやく終わった頃、また今年も暑くてセミのうるさい夏が来た。エアコンを備えていない貧乏な工科大学に、うちわ代わりのノートの花が咲く。
 私、小田カズオは幸田サキの毎度まいどのお色気作戦に困り果てていた。前期の授業も中ほどまで来た時、私は幸田サキの真意は分からないが念のために先に言った。
「いやー、講師の給料って安いんだよ。悪いね、いつも熱心に聞いてくれるのに奢る事も出来なくて(ポリポリ」
 それに対しての幸田サキの言葉が痺れた。
「安くても私の分のお給料を足すと人並みでしょ?」
 私は、唖然として幸田サキを見た。周りもざわめき出す。
(しかし変だ。幸田サキに惚れられる理由が全く思い浮かばない。なぜ短足で顔も並の私に固執するんだ?)
 幸田サキは、私の言葉を待っていたが、私が固まっている間に次の講義の開始を告げるチャイムがなった。私は「悪い」と言って、隣の講義室に走って逃げた。

 この時から、可愛いが一体何を考えているか分からない幸田サキを、怖くなって避けるようになった。
 だが、それに気付いた幸田サキは、気色ばんで詰め寄ってきた。
 講義が終わって講義室のトビラを開けると捕まってしまった。
「小田先生! なぜ私を避けるんですか? 訳を言って!」
 彼女は目に涙を貯めて必死だ。
 私は壁の角に追い詰められて、逃げられない。
 講義室を出た学生が面白そうに見ている中、出た言葉がこれだ。
「幸田君ごめん。こんな経験なくてどうすれば良いのか分からないんだ。あ、童貞とかでなく、講師と学生との関係ね」
(私は何を言っているんだ、恥ずかしい。もうわけが分からない)
「小田先生! 私と付き合ってください!」
 ざわざわ。面白いことやってるぞ、と声が聞こえた。
 多くの学生が見守る中、私はしどろもどろに答えた。
「分からないよ。なぜ君がそんなに思いつめたのか」
「そんなこと私にも分かりません。気付いたら好きになっていました」
<ヒューヒュー、熱いね>
 ヤジウマがうるさい。今は構っている暇がないんだ。誰か私助けてくれ。
 私の全身から汗が噴き出る。
 幸田サキは大きな目から涙をボタボタこぼしている。
 まさに、ガマの油状態である。

 その時。そのこう着状態を破る人がいた。同僚の今井さえ子だ。
 バリバリの英語の同時通訳者で、元ミス上智と言う経歴のショートカットのメガネっ子、同い年の三十才。黒いスーツに身を包みさっそうと現れた。
「小田先生、あなたもハッキリしなから悪いのよ。毅然と対応しないでどうするの!」
 今井さんは、すごい迫力だ。知らなかった。こんなに怖いなんて。
「幸田さん、あなたは自分の立場を分かっているの? これ以上するとストーカーで訴えられるからね!」
 幸田サキも負けていない。女の戦いだ。
「今井先生は黙っててください! 今、私と付き合うかどうか聞いているんです!」
 幸田サキと今井さん、ふたりはにらみ合ったまま再びこう着状態になってしまった。
 チラと時計を見て次の講義が迫ってることを知ったと思われる今井さえ子は、いきなり私に振った。
「小田先生、あなた、彼女と付き合うの?」
 再びサイは私に戻ってきた。
(もう、どうにでもなれ!)
「分かりました。付き合います。……だけど友たちからね」
「ダメです! ちゃんと付き合うか、そうでないか、ハッキリしてください!」
 もう怖い物なし状態の幸田サキはそう言い放った。
 私は少しの間必死で考えていたのだが、途中で考えることを放棄してしまう。
 そして、思わず口から出た言葉はこれだ。
「分かりました。お付き合いましょう!」
<おおーー!>
 歓声が沸いた。拍手も聞こえた。私は、自分の返答に驚いて呆然と立ち尽くす。
 その時、今井さえ子が少し悲しそうな顔をしたのは気のせいだろうか?
 とにかく、わたくし小田カズオは幸田サキと付き合うことになってしまった……。

 その後続いた幸田サキの感激のスピーチは、はっきり言って耳に入ってこなかった。もう既に頭がパニックを起こしていたから。早く帰りたい。その思いしかなかった。
 次の講義の始まりのチャイムが鳴り、ようやく幸田サキは惜しむように講義室に入って行った。別れ際携帯の番号を交換させられたのは、彼女にとっては当然のことだろう。
 私は、よれよれで講義職員室に戻って来て、やっとのことでイスにどかっと腰を下ろす。
「大変だったようだね」
 後ろから同僚の関根ミツグが私の肩を叩く。
「噂は聞いたよ。付き合うことになったんだって? 羨ましい。なのに本人はこの体たらく。一体何が不満なの? カズオちゃん」
 この人は面白がってる。それでも怒る気力がなかった私は、何も返事できなかった。今井さえ子と共に重い空気に包まれていた。


 私、小田カズオはやっと週末になったのに気が重かった。幸田サキにデートの約束をさせられたのだ。携帯を切って置かなかったのは私の不覚。つい出てしまった……。

 土曜だというのに朝九時に駅前の警察署前で待ち合わせ。ピーカンのお天気で眩暈がしそうになりながら、私は重い足取りで目印のピーポくんを目指した。だが、あと百メートルの所で足が止まって動かない。
(帰ろうっかな……)
 足元をジッと見て迷っていると突然声を掛けられた。
「小田先生! 何してるんですか?(怒」
(し、心臓が止まるかと思った)
 しかし、幸田サキの怒った顔が、これまた可愛い。
「こ、幸田君。ごめん。待った?(汗」
「さあ、行きましょう、先生」
 腕をからませしっかりロックされた。
「おい、君。胸が当たっているよ」
「だから?」
(おお怖い)

 私たちは、電車に乗り大きな町を目指す。移り行く景色の中で、私は田んぼを見て現実逃避していた。今年も豊作だといいな……。
「ところで、幸田君」
「はい、なんでしょう?」
「暑いから腕、放してよ」
「却下!」
「いや、人がジロジロ見てるし」
「そんなこと、見せつけてやればいいのよ」
 余計密着されたのでした。はー……。
 駅に着くと、私は有無を言うこともできず、直ぐ駅前の喫茶店に連行された。
 冷房が心地よい風を私へ送ってくれる中、出されたオシボリで顔を拭く。シ・ア・ワ・セ。
「ダメ! そんなオジサンのようなことは!」
「いや、これやらないと、気持ち悪くてさ」
「そういう時には、はい。これ」
「ん? 汗ふきシート?」
「そうよー。男の子はこれ位持っていないと」
「これだったら、ポケットに入るし、いいね」
「そうでしょう? 私はオジサンと付き合うつもりはないわ」
「私は、今年で三十になるけど、しっかりオジサンだ……(ボソ」
「え? 何ですって?」
「いいえ、なんでもありません」
 その時、ウエイターが、私たちの会話が途切れるのを、ジーっと待っているのに気が付く。
「ああ、すみませんね。私はアイスコーヒーね。幸田君は?」
「私も、同じのでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
「しかし、ここはよくクーラーが効いてるね」
「そうね。汗が引いて助かるわ。フー、胸の中までグジョグジョ」
「……」
「やだ。そんなに見ないでよ。エッチ(めっ」
 幸田君はそう言って、うれしそうに胸を私の目の前に突き出す。
 私は、目をつむり急いで円周率の暗唱を始めた。危うく股間が大変なことになるところだった。ちなみに、私は三十桁まで言える。
 すると、幸田君のチッと言う舌打ちが聞こえた。
「お待たせしましたー。アイスコーヒーふたつでよろしいですね?」
「はい。どうも(ルン」
「グビグビグビグビ」
「グビグビグビ」
「「ふー、ようやくひと息つけた。アイスコーヒーが美味い」」
「あっ! ハモった。ゲラゲラゲラ」
「あっ! ハモった。ウフフフフフ」
「私たちって、気が合うね」
「そうね……。ところで、自分のこと私って言うの、止めない?」
「それは……。僕っていうのは幼いし、俺っていうのも講師に相応しくないし、結局私しかないんだ、これが。あははは」
「仕方がないなー、まあ、いいでしょ」
 幸田サキはそれ以上文句を言わなかった。よく冷えたアイスコーヒーをチューチュー飲んでいる。そうして何かを口にしてると静かで、どこから見てもお嬢様のように見える。きっとそうなんだろう。そのピンと張った背筋を見ながら、そう思った。
 幸田サキはアイスコーヒーを飲み干し、人心地付いたみたいですっきりした顔でこう言った。
「ねえ、私たちってお互いのことは何も知らないわね?」
「そう言えば、そうだね」
「それじゃ、濃密な自己紹介しようか? まず私ね」

 本名幸田サキ。一九九八年X月X日生まれ。身長百六十二センチ体重は秘密。血液型A型RH+。病気なし、入院歴なし。XX工科大学理工学部機械工学科一年。特技ピアノ。
 両親とおじいちゃんと私の四人家族。今はアパートでひとり暮らし。
 おじいちゃんは元新聞記者、小さい会社だ。お父さんは公務員。お母さんはもとピアノの先生。
 小さい頃からお母さんにピアノを習っていて音大へ行こうとしたけど、理系が強くってこの大学へ来てしまった。
 好きな音楽はショパン、好きな機械はエンジンと名の付く物。
 ――と言うアンバランスさだ。

 私、小田カズオも自己紹介した。
 一九八六年生まれ。身長百七十二センチ体重六十二キロ。血液型A型RH+。大きな病気はしたことはない。○○大学文学部ドイツ語学科卒。
 今はドイツ語の講師をしているが、他に英語、フランス語、スペイン語、イタリア語が日常会話程度に話せる。
 趣味は機械いじりで、何でも分解してしまう所がある。もちろん、キッチリ組み立てる。
 親は田舎に農業をしている父がいるが、母は小さい頃に死んだから、今はふたりっきりの家族だ。

「幸田君、残念だけどお互いひとりっ子同士だね(スマイル」
「あ、何嬉しそうな顔してるの。全く……(怒)。いい加減、観念なさい」
(だって、私インポなんですよ。……なんて言えない。恥ずかしくって)
 それから映画を見たが、どれを見るのかは直ぐ決まった。ピアノの映画だ。お互いの趣味は驚くほど似てる。そして、私たちは同じ場面で笑い、同じ場面で泣いた。
 すっかりムードは出来上がり、映画館を出た。幸田君は、そのままホテルにしけ込むつもりっだったようだ。
「ねえ、小田先生」
「な、なんだい?」
「ホテルへ行きましょうよ?」
「いや、まだ早すぎるよ。お互いまだ知らないことばかりだ。それに幸田君はまだ学生だろ。親御さんが泣くよ」
「えー、そんなこと言われるとは、思わなかった。先生、案外固いのね」
「私は君のためを思って」
「私のことをそんなに心配してくれるなんて、嬉しい。さあ、ホテルに行きましょう」
「ダメだよ」
「やだ。私絶対に小田先生とホテル行くんだから!」
(弱ったなー……)
「そうだ! 私の家に来ないか?」
「え! いいの? 先生のお家、見てみたい」
「夕食も私が作るから、食べていきなさい」
「はーい!」
 こうして、幸田サキはご機嫌で私の家へ行くことになった。やっと一難さってホッとしたのも束の間、どうやって幸田君を大人しく帰らせるか、頭を悩ませていた。電車は、どうしよかと悩む私と、期待に胸躍らせる幸田君を乗せて、小さな駅へ向かった。

 駅を降り、そう遠くない所に私のアパートはあった。ツタが涼しさをもたらす外壁の築二十数年の二階建て。その一階にある二DKの部屋に案内すると、幸田君は物珍し気に眺めている。
「へー、割と綺麗にしてるじゃない」
 クーラーを入れたばかりなのでまだ暑い中、彼女は部屋を見渡していたが、突然あちこちの扉を開け始めた。
「幸田君な、何してるの?(オロオロ」
「ふーん」
 次に引き出しを開け始めた。
「ちょ、ちょっと止めてよ(困り顔」
 私は、ついにあきらめてテレビを見てた。膝を抱えて……。
「ふー、ひと通り点検したけど女っ気なしね。おまけにゴムの一枚もない。成人男性でしょ。いざとなったらどうするの? 全く……。でも私とする時は要らないわね。私、子供好きだし」
「……」

 おーい幸田君、あなたは学生ですよー。困るじゃないですか。なんてことは言えません、はい。
 取り合えず料理でもして間を持たせます、腹減ったし。
「じゃ、晩ごはん作るから、テレビでも見てて」
「えー、私小田先生のお料理作っている所、見てる」
「……好きになさい……」

 幸田サキは本当にただ、私の夕食の支度を後ろからジッと見ていた。
(緊張するなー)
「ところで、幸田君はお料理得意なの?」
「私? 作ったことないけど」
「……」
「悪い? 私は、食べるの専門なの」
「そうなんだ……。でも、興味あるからそんなに見てるんでしょ?」
「あなたの料理を作っていることろが見たいだけ。私は、生まれてこの方、包丁と言う物を持ったことがないので」
「……」 
 おーい。幸田君のお母さん。あなた、子供の育て方間違ってますから、残念。勿論、そんなことは、お母様にも幸田君にも言える分けありません。私の心の中で言っただけですから。まあ、私が料理好きだから、いいんですけどね
 エビクリームのパスタが、緊張と残念の中でようやく出来た。
「はい幸田君、でけた。召し上がれ(どや顔」
「いただきまーす。パク、モグモグモグ、ゴックン。美味しいー(ルン」
「チュー、ムシャムシャムシャ、ゴクン。そうだろう(ルン」
 この料理には白ワインがよく合う。安いワインを買ったのだが、私の舌を十分楽しませた。と言うか、安いワインも高いワインも違いは分からないけど。
 その後私、小田カズオと幸田サキは、ただひたすらホークを口へ運んだ。

「あー、美味しかった」
「どういたしまして。ジャー」
 洗い物も自分でしました、はい。その間、幸田君は私が買ってきた機械の雑誌を一生懸命見てた。本当に好きそうで、私の呼びかけにも気が付かないで、集中してた。その集中力が幸田君の成長に寄与していると思った。そして、成功もいずれ出来るだろう。

 洗い物を終え、コーヒーを飲んでくつろいでいると、幸田君がたずねて来た。
「ねえ小田先生」
「はい、幸田君。なんですか?」
「どうして誰とも付き合っていないの? こんなに優良物件なのに」
 間髪入れずに私は答えた。
「それは私のお給料が安いからです(キッパリ」
 胸を張って言った。これ以上ない明確な答えだ。
「でも通訳のお仕事でボーナスが入るでしょ? それは、どこへ消えるの?」
(ちっ、仲間に裏切られた。チクったのはきっと関根ミツグだな。あんちくしょうめ)
「幸田君、それは海外へ旅行をすれば直ぐ消える」
「わー先生、やっぱりヨーロッパだよね。ドイツ? それともフランス?(わくわく」
「アルメニア」
 急に幸田サキは眉を下げて言った。
「……アルメニアって確か治安が悪い所でしょ? 何でそんな危ないとこ行くの?」
「言いたくない」
「えーーー! ここまで話して言わないなんて、きつー。気になるなー。……ねえ教えてよ」
「減るから言わない」
「けちぃー」

 これで幸田君はセックス所じゃなくなった。さっきから考え込んでいる。私は、ホッとしてテレビを付けた。

 アルメニアの記憶。それはとても大切な思い出、そして傷だ。


 私、小田カズオには亡くなった妻がいる。

 あれは十年前。私がまだ学生でヨーロッパを貧乏旅行をしていた時だった。
 国の事情とかは一応調べていたが、こんなに奥が深いものだとは知らなかった。
 スペイン、フランス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、そしてアルメニア。
 行ったどの国でも隣の国を悪く言う。正直憎んでいる。それは有史以来のあつれきから、現在に至るまでの暴力による差別まで、ずーっと続いている。
 中でもアルメニアは酷かった。
 ――アルメニア共和国。標高千メートル以上の高地にあり、ノアの方舟で有名なアララト山を冠するアルメニア。だが、国土はいく度となく侵略され、二十世紀初頭には大量に虐殺された歴史を持ち、領土問題で今なおトルコと対立している。そのため人口流出が起こり、経済は安定しない――。
 なぜアルメニアまで行ったかというと、好きなギター曲にアルメニア民謡というのがある。悲しいけど美しい曲で、一度行ってみたいと思ってた。
 あれはアルメニアの哀しみを歌った曲なのだと改めて知った。

 それでも今までの国でしてきたように、首都エレバンの広場でクラッシック・ギターを出して、アルメニアの曲を弾いた。余り人も来ないので、早々に店じまいしようかと片付け始める。すると、大きな瞳をした少女が声を掛けてきた。
「ねえ」
「はい?」
「どこの国の人?」
 私は世界地図を広げて、ここだと指さした。
「東洋の小さな国から来ました。私は小田カズオ。あなたは?」
「アンナ。とっても気に入ってる名前よ(ニコ」
 年の頃は十六から十八才位か。それにしても美しい。
 ヨーロッパでは侵略された時に、ブスは殺され美人は犯されたらしい。だから弱い国程美人が多い。確かに美しいが、悲しいことだ。

「アンナ、何か聞きたい曲があればリクエストしてください(スマイル」
「それじゃ、ナオタロウのさくら。お願い」
「了解」
(驚いた。日本の文化は遠く離れた辺境の地へも行き渡っているか。歌付きだが、ここはサービスで)

(音楽:森山直太朗 さくら)

 彼女はこの曲にじっと聞き入って、私の顔をうっとり見ていた。
 そして彼女は、私が弾き終えると口を開いた。
「良い曲よね。日本へ行ってみたいわ。いいえ、日本に住みたいわ」
 少女は大きな瞳で、熱く私を見つめた。
 それに呼応して、私の心臓は早鐘のように胸を叩いた。
(これは答えないといけない。だが、落ち着いて)
「すーーはーー。君の年は?」
「十八よ!」
「結婚できる年齢は?」
「十六才からよ」
「パスポートは?」
「持ってないわ。でも、申し込んだら一週間で出来るわ」
「それから、私のことを好き?」
「好きよ。愛しているわ。さあ、私をこの国から救い出して!」
 アンナに熱いキスを食らった! 完全に私の負けである。身も心も捧げよう、この美しい人に!

 それからの私の行動は早かった。
 まず、教会で牧師に賄賂をつかませ結婚式を挙げた。市役所へ行き婚姻届けを出した。アルメニア大使館へ行き彼女のパスポートを手配した。空港へ行き航空券をふたり分予約した。
 そして、パスポートが出来上がるまでの間は、彼女には普段通りに生活してもらうことにした。

 私たちは次の日、結ばれた。甘く切ないセックスだった。アンナは何度も私の名前カズオと呼び、私もアンナと何度も呼んだ。あたかも短い時間を埋めるように、ふたりは激しく求め合った。
 彼女は事情をなにも言わなかったが、きっとこの国に居たくない理由があるのだろう。もしかしたら、犯罪に関係することなのかも知れない。だが、この出会いが運命だと信じて、私は行動した。
 何よりもあの大きな瞳が私の心を捉えたのだ。あの美しく青い瞳はどこまでも深く、私の心を捉えて離さなかった。
 その瞳で、彼女は私を救世主だと言った。このアルメニアから救い出し、新しい国、そう彼女の憧れだった日本へ連れ行ってくれる救世主だと。
 そして、彼女は胸の前で十字を切って言った。ふたりは互いを求めていた、そして神が与えてくださった相手なのだと。私も、彼女と出会えたことに感謝した。

 しかし……、約束の日。彼女は来なかった。
 殺されたのだ。
 きっと出て行くことがわかり、身内に殺されたのだろう。彼女の家の前にパトカーが止まっていたから。
 私は近づけなかった。身内の誰が犯人か分からず危険だったからだ。
 葬式も遠くから見ているだけだった。

 なぜ一緒に居なかったのだろう。なぜ安全な場所へ避難しなかったのだろう。
 誰も居ない墓地で涙を流して悔いた。明け方まで墓地で泣いた。
 そして、いまだにアンナの墓参りに行っている。結婚記念日に。

 これが私の傷である。
 誰にも話せない傷である。


 あの時から、アンナを失った時から私は女性と付き合えなくなった。手を出そうとしたら、あのアンナの大きな瞳を思い出して、途端にアソコが萎えるのだ。だから彼女、幸田サキとも付き合えないのだ。
 だが、あの時は付き合うと言ってしまった。なぜ、断らなかったのだろう? いまだに分からない。

 あれから幸田サキは、私がなぜアルメニアへ行くのかを考えて、気もそぞろだ。
「こんにちは、小田先生……」
「ああ、おはよう幸田君。昨日は眠れた?」
「全く。眠れる分けないじゃない(プンプン」

 私たちが緑あふれる大学の中庭を話しながら歩いていると、人が面白そうにジロジロ見てくる。もう、すっかり有名人である。さながら客寄せパンダの様だ。
 だがそんなことは直ぐにどうでも良くなる。こっちは彼女の対処でテンテコ舞いなのだ。
(仕方ないな。本当のことをちょっとだけ話そう)
「幸田君、実はあの国に凄い美人がいて、毎年話に出かけてるんだ」
 墓にね。
 嘘は言っていない。

「……」
 幸田サキは大きな瞳でジッと私を見つめて言った。
「彼女は死んだのね」
 ――! 足が止まった。下を向いたまま一歩も動けなかった。言い当てれらたからではない。アンナが死んだ、と言う事実を改めて突き詰められたからだ。
「……そう、アンナは死んだ。でも、私はいまだに信じられない。昨日まで元気だったのに、突然私の前からいなくなった」
(あの時から、私の時計は止まったままだ)
 私は、立ち尽くして、いつの間にか涙を流していた。
 ふと、柔らかい胸に抱かれた。
 ああ、居心地が良い。涙が収まるのが分かる。
 私は幸田サキに頭を撫でられながら
「ごめん。服汚しちゃったね」
「いいのよ。思う存分泣きなさい」
「うん。でも涙は止まったみたい。ありがとう」
「ねえ、私の目を見て」
 そこには大きな瞳があった。
(そうだ、私はこの瞳にやられたのだ。アンナと同じ大きな瞳に)
 あらためて彼女の大きな瞳を見つめ、心にやすらぎを感じるのだった。
 私たちは抱き合って初めてのキスをした。

 中庭にいた学生たちから「キャー」「スゲー」などの歓声が上がり、しまいには拍手の渦だった。
 でも、インポなのに大丈夫か? キスしている場合か? などと一瞬頭をよぎったが、私はこの唇の魅力には勝てなかった。
 まあ、なるようになるさ。と腹をくくった。


 この頃、幸田サキは日曜になると決まって私のアパートでドイツ語を勉強している。もう大分上手くなって、発音、ヒアリング何れももうセミプロの域に達している。
 私は幸田サキが勉強している間、スペインの物語を読んでコーヒーを飲んでいた。このドン・キ・ホーテは一六〇五年に発売されたが、少しも話が古くない。確かに世界初の近代小説だ。読んでいて、笑いを堪えるのに苦労する。これを幸田君に読んで貰いたいが、彼女はスペイン語が出来ないので、今度英語版を買って来ようと思う。
 ふと、幸田サキの素晴らしいドイツ語の発音を聞いていて思いついた。
「ねえ幸田君。君もやってみる? 通訳」
「えー、連れてってくれるの?」
「一度、勉強のために行ってみるか?」
「小田先生。嬉しー!」

 実際、彼女のドイツ語の上達は著しい。日常会話程度ならネイティブ並だ。後は専門を増やして、それ専門に欠かせない人になれば良い。
 まず自分の専門分野のドイツ語と英語の会話。
 英語は当然知らなきゃ話にならない。その上でドイツ語、フランス語、イタリア語が生きてくるのだ。

 覚えるのは、はっきり言って同時が一番効率が良い。と、あの神聖ローマ帝国の皇帝であったハプスブルグ家のカール五世も言っている。
 彼はフランス語圏に生まれたらしいが、その他にスペイン語、ドイツ語、イタリア語を同時に覚えていった。まあ、それ程領地が広かったので必要だったのだが。それにしても、広い。十六世紀のヨーロッパにおいて、イギリスとフランスを除くと、殆どが彼の領地だったのだ。

「それらを全部覚えると、もう気分は神聖ローマ帝国の皇帝だ(フフフフ」
 私は胸を張って言った。
「小田先生、あなたは喋れるんでしょ? その位」
「うん……。だけど貧乏だけどね」
 とたんに私は背中を丸めた。
 幸田サキが、くすくすと笑った。


 今日から夏休みの間の一週間、ふたりで通訳業で海外へ行く。場所はドイツ。そして専門は機械(航空機だというのは秘密だ)。幸田サキは、私のサポーターとして連れて行った。キーワードのメモ、知らない単語の辞書引きが主な仕事だったが、予行練習では彼女はパソコンのメモ帳と翻訳機能を駆使して、難なくこなしていた。そのため、ノースピンドルのノートパソコンを一台新調したのだが、出費が……。これも、彼女の成長のためだと割り切った。
 フランクフルト空港に降り立つと、樹々の香りがする。きっと、松やにかなにかの樹液だろう。セミが松やにを求めて集まり、けたたましく鳴いて、その命の最後の輝きを、私たちに訴えていることだろう。もっとも、空港はうるさくてそんな音は聞こえて来ないが。
 幸田サキはパスポートの提示で緊張していたが、女の子には優しい。笑顔で無事通過。私たちは燃えるような日差しからやっとタクシーに乗り込みホッとひと息ついた。

「ボディ・チェックされなくて良かったね。ドイツのは股の内側まで見られるんだ(ニコニコ」
「……(ゾー。ブルブル」
「さあ幸田君、ホテルに荷物を置いたら早速仕事だ」
「はい、小田先生(コクリ」
 幸田サキは、緊張感のあるいい顔をして、仕事モードに入っていった。

 夜遅く、私たちふたりは仕事が終わり、ホテルの部屋でようやくくつろげた。
「はー疲れたー」
 幸田サキはソファに倒れこんで、大きな瞳で天井を見つめ、クツを脱いで足を伸ばしている。
「幸田君、良くやったね」
「小田先生、あのセクハラオヤジどうにかして」
「あははは、幸田君が可愛すぎるんだ。我慢しなよ」
「まあ、私の美しさは万国共通だから」
「それにしても、初めてにしては上出来だったよ」
「大したことないわ、あれ位。それよりも、お腹減った」
「ああ、なにか食べよう。疲れただろうから食事はこの部屋で取る?」
「うん、そうしてくれる?」
 早速、私は内線で食事を適当に頼んだ。

 間もなく食事が運ばれた。ありがとうと言って鼻の高い女の子にチップを渡した。その間に、幸田サキは食事にかぶり付く。
「いただきまーす。パクパク。このハム美味しいね。何ハム?」
「チッロールシンケンだよ。これからは食べ物の名前も覚えないとね」
「私、今まで食品を買ったことなんてなかった」
「……そうだ、明日は午後から暇になるし、買い物に出かけようか?」
「うん、行こう。パクパク」

 幸田サキは食事を摂り終えると、ベットに倒れこみそのまま寝てしまった。イビキをかいて。クス。時差に慣れていないから仕方がない。
 私はサキの寝顔をしばらく眺めていたが、顔になにか書いてやろうと思い立ち、マジックを探すが、止めて置いた。あとが怖いから。
 手持無沙汰になり、ラウンジでビールでも飲もうかと思って、そっと部屋を抜け出した。

 ラウンジへ行ってみると電灯が程よく落とされ、落ち着いた雰囲気だった。けれど、女性は二割増しに美人のなるので、みなさん、朝を迎えると熱も冷める。そんなことを考えながら、背の高くてゴツイ、ドイツのお姉さんに二杯目を頼んだ時、目線に気が付いた。軽く瞬きすると、その女はこっちへ近付いてきた。
「やあ、ごきげんよう」
「ハーイ、お互い暇ね」
「連れが寝てしまって退屈してたんだ。私は小田カズオ。よろしく」
「アルミネよ。よろしく」
 その名前を聞いて私は嬉しくなった。アルメニアに多い名だ。
「もしかしてアルメニア人?」
「ええ、そうよ」
「嬉しいなー」
「えー、なんで?」
「昔、アルメニア人と結婚したんだ」
「わーお、素晴らしいわ」
「……ねえ、僕の話を聞いてくれる?」
 アンナの名前は伏せて、アンナと出会った広場の出来事を話した。すると、彼女の表情がみるみる暗くなっていくのが分かり、途中で話を止めた。
「その人の名はアンナね?」
(しまった! 知り合いだったか)
「アンナは私の姉です。お兄さん」
 驚いて顔をまじまじと見た。そう言えば確かに青く大きな瞳だ。
 私が第一に出したのはこの言葉だった。
「すまなかった(日本式の謝罪」
「……グッスン。いいえ、こちらが謝らないと」
「え?」
「アンナを殺したのは父です」
「!」
 それで納得がいった。なぜアンナがアルメニアを出たがっていたかを。父親とそういう関係になっていたんだ。
「アンナは救世主が現れたと言っていました。それが、あなたのことだったんですね」
「だが、私がいたせいで彼女は死んだ」
「ううん。それは違うわ。きっと運命だったのよ」
「……」
「アンナは死ぬ間際に言ったわ。あなたと出会って最後まで幸せだった。この世の誰よりも、って」
「本当に、アンナはそう言ったのか?」
「ええ、そうよ」
 アンナの最後の言葉を聞いて、私はおいおい泣いた。私を恨んで死んでいったんじゃないことが、少しだけ心を軽くしてくれた。ありがとう、アンナ。
 別れ際、彼女は素敵な言葉をくれた。
「新しい恋人と幸せになってね。アンナが好きだった花、アルメニアの花畑の中から祈っているわ」
 肩を抱き合いお別れをした。彼女の目にも涙が滲んでいた。

 涙をふき部屋に戻ると、幸田サキが不安そうに待っていた。
「どこ行っていたの? ひとりにしないでよ」
 大きな瞳を潤ませて私の胸に飛び込んできた。
「ごめんよ。余り暇だったからビール飲みに行っていた(スマイル」
「まさか現地妻がいたりしないでしょうね? 許さないんだから(プンプン」
「それより、今日懐かしい人にあった」

 私はラウンジでの出来事を話した。
 幸田サキは黙って話を聞いていた。私が話し終えると、しばらく間じっと何かを考えていたが、ようやく決意したように言った。
「ねえ小田先生、私をアンナに合わせて」
「幸田君……。分かった」

 次の日の仕事が終わってから私たちは暑い中、小さなプロペラ航空機でアルメニアへ飛んだ。飛行機はオンボロでかなり心配したが、操縦士は鼻歌を歌っていた。オー・ソレ・ミヨ。『私の太陽』と言う意味だが、あなたは私の太陽と歌っている。天気のいい日には、合う曲だ。私はこの曲で幾分気が楽になった。
 私たちを乗せた飛行機は、なんとか無事にアルメニアの小さな空港にたどり着いた。タクシーを拾い、穴の開いた石畳を通って、首都エレバンの裏通りに入って、街の外れにある墓地。そこにアンナは眠っていた。
 幸田サキはアンナの墓に花の鉢を置いて、手を合わせ祈っている。悲しいほどに質素な墓。夏なのに肌寒く感じる。
 最後にサキはクリーム色の石のお墓にペコリとお辞儀をした。
 私は、サキがアンナに何を言ったか気になり、聞いてみた。
「なんて祈ったの?」
 サキは厳粛(げんしゅく)な顔をして私に話した。
「初めまして。私は小田カズオの新しい妻です。これからは私が彼の面倒を見るので心配しないでください。だから小田カズオは、もうここへは来ません。最後のお別れをしてください」

 私はサキに唖然として見とれた。
(そうか、もう墓参りはもう終わりにしないといけないのか……。それも良いかも知れない)
 私はアンナの墓の前に立って、お墓のアンナの文字をてのひらで触れた。
「アンナ。私はもうここへは来ないよ。お別れだ。アデュー」
 私と幸田サキは、ふたり手を取り合ってアンナの墓を後にした。
 鉢植えのアルメニアの小さな花たちが、私たちを祝福するように揺れていた。


 あれから、アンナにお別れを言ってから、私たちは順調だった。なんと十年ぶりにセックスが出来のだ。その時の喜びは言葉では表せない。生き返った思いだ。
 愛の紡ぎが終わった後、私は彼女の腕に抱かれぐっすりと眠ってしまった。その深い眠りに、私は幸せを感じた。
 サキには感謝してもしきれない。私は眠りから覚めて、サキにそう言ったが、サキは「その前に、私があなたに感謝しなきゃ。私に新しい道を示してくれて、ありがとう」と言った。
 ふたりは互いを必要としている。そのことが今回のことで良く分かった。

「ねえ、幸田君」
「なあに、小田先生」
「実は、私には分からないんだ」
「なにが分からないの? 言ってみなさい?」
「うん。あのね、一体私のどこがよかったんだい?」
「へー、まるで女の子みたいなこと言うのね。ふふふふ」
「……おちょっくってるし。聞かなきゃよかった。ブツブツ」
「ごめん、ごめん。あのね、それはあなたの真っ直ぐな目。あなたは、私をいつも真っ直ぐに見てた。それで分かるのよ、あなたは私を絶対に裏切らないって」
「そうかなー、そんなこと自分では分からないよ」
「分からないでもいいわ。これは、女だけの能力だから。そう、幸せになるためのね」
「ふーーん。未知の世界だ」
「お返しに小田先生、あなたも教えてよ。なぜ私を好きになったの?」
「うーーん、難しいな……。だけど、これだけは、言える」
「うんうん」
「君の大きな瞳は、私の全てを見てくれるようで……。私は、君に見つめられると安心するんだ」
「小田先生」
「なんだい?」
「もう一回しよ」
「うん」

 彼女は私を自分を決して裏切らない人だといい、私は彼女といると安心すると言う。わたしたちはいいカップルかも知れない。でも、それは危うい関係。互いを見なくなったら、簡単に壊れてしまう、そんな関係。
 私は、決して彼女を見失わないようにしよう。そして、彼女が私を見捨てることがないように、努力をしよう。例え、何者かがふたりの関係を壊そうとしようとも。そう誓うのだった。

 ……(・_・;
 ところが、そんな堅い誓いを立てる私に、突然異変が起こった。
 付き合いだして一年を超え夏休みに入る頃、突然私にモテキが来たのだ。皆、私に彼女が居るのを知っているのにだ。本当迷惑な話だ。

 朝の講義が終わり廊下を歩いていた時、突然女子学生に呼び止められた。
「小田先生!」
「はい、なんでしょう?」
「前から好きでした!」
「え?」
「もし、別れたら私とお付き合いしてください!(ヒッシ」
 私は突然のことにドギマギした。
「な、なんで私なんか。ほれ、あの男の子の方がよっぽど顔も良いし、頭も良いし、性格も優しいからね。私みたいな……、この通りの短足男よりも、彼をお勧めするよ。うん、私が女だったら間違いなく彼を選ぶよ(苦笑い」
「そんなー。私の方があの子より料理も出来ます。掃除も好きです。それに次女です。ダメですか?(ヒッシ」
「料理も掃除も、私も好きだよ。だから間に合っているよ。すまないね」
 そう言って、私は足早にその場をあとにした。
(ふー。朝から大変だ。一体どうしたんだ? でも、次女にはちょっとだけクラっときたけど、それは内緒。シー)

 講義職員室へやっとたどり着き、ひと息ついてコーヒーを飲んでいると、元ミス上智で同時通訳者の今井さえ子が、おずおずと近づいてきた。
「あのー小田先生。話があるんですが……。講義が終わったら時間くれませんか?」
 今井さえ子に真顔で言われた。今度はなんだろうと思いながら「いいですよ。午後の講義が終わった後、下の喫茶店で良いですか?」と聞くと、今井さんは「はい」と短く答えた。
 今井さんの声は、どこか寂しそうだった。

 私、小田カズオは今井さえ子と喫茶店で待ち合わせたのだが、講義のあと学生に質問されて待ち合わせの時間にちょっと遅れた。喫茶店の中を探すと、今井さえ子は背の高い観葉植物に隠れるように座っていた。
「すみません、遅れて。学生につかまちゃって」
「いいえ、こちらこそお呼び立てしてすみません」
「いらっしゃいませー」
「あ、お姉さん、私はアイスコーヒーね(ニッコリ」
「かしこまりましたー」
「失礼。で、話って何ですか?」
「実は……。この度お誘いがあってですね、MITから」
「え! 凄いじゃないですか! そうかMITか。給料は一体幾ら位なんでしょうね?」
「週一万ドルだから年に四十ドル。四千万円位ですね」
「ヒュー。日本じゃ考えられない。良かったじゃないですか」
「それは、いいんですけど……」
「それで、肝心の相談とは?」
「小田先生!」
「はい」
「私と、私と一緒に行きませんか。いいえ、ぜひ私と来てください!(ヒッシ」

 話は大変なことになっている。今このバリバリの英語同時通訳者である今井さえ子は、もしかして私に告白している? それもMITの試験を受けろと言うのだ。
 確かに三十は行っているが昔ミス上智に選ばれただけある、美しい。そんな美女が今、短足の私に告白している。嬉しいが……、サキのためにもキッパリ断らなくちゃいけない。

「とても残念だけど、勿体ないお化けが出そうだけど、その話お断りするよ」
「やっぱり、幸田さんと別れられないんですね……」
「ええ、そうです。MITも魅力的だけど、私には大切な彼女、幸田サキがいる。それに、日本のために働きたいんだ。だから、MITへは行けないよ。ごめん(フカブカ」
「そうですか……」
 沈黙がふたりを包んだ。私は、間を持て余しアイスコーヒーに口を付けていた。ミルクを全部入れたが、美味しい。まるで、カフェオレのようだ。
 そんなことを考えていると、突然、今井さえ子はボソッと言った。
「あの……、私を抱いてくれませんか?」
(えっ! 抱けるの? いや、遺憾いかん。断って置いて抱くなんて、人間としてどうだ?)
「ダメですよ。あなたみたいな美しい人がそんなこと言っちゃ」
「……」
(空気が重い。誰か助けてくれ)

 すると今井さえ子は、突然とんでもないことを言った。
「私、……バージンなんです」
 ブー。飲んでたアイスコーヒーをぶちまけた。
 私は、店員さんを呼んで謝って拭いてもらった。私のシャツにもちょっと飛んでしまった。ショボーン。
「笑っちゃいますよね。この歳でバージンなんて。ヒック、ヒック」
 今井さんは遂に泣き出してしまった。彼女のオシボリは見る間にビジョビジョになり、私の分のオシボリも渡した。
 私は、自分に飛び散ったコーヒーを拭きながら、話をした。
「良いんじゃないですか、そんなこと気にしないで。人を好きになったらまず身を任せることです。簡単なことですよ。そして、その後どうするかはあなたの心のままに……」
 新しく頼んだアイスコーヒーをひと口飲み込み、続けた。
「私だって、この前まで経験一回切りの童貞みたいなもんでしたから」
「……それって外国人の?」
「ええ、そうです。一週間の妻でした」
「まあ、それで?」
「会って一週間目に殺されました」
「えっ! ……申し訳ありません。いけないことを聞いて(アセ」
「良いんですよ。あなたは私に全てをさらけ出した。だから、私も正直に答えた。フィフティー、フィフティーですよ。
 大丈夫、あなたは美しくてとても誠実な方だ。きっと見つかりますよ、大切な伴侶が。
 さあ、上を向いて行こうじゃありませんか。あなたの未来にはきっと良いことばかりだ(スマイル」
「はい! 頑張ります!」
 私たちは笑顔で握手をして別れた。
 この時、今井さえ子は両手で私の手を握った。まるで私がすごい人に見えるように。
 一体この人は誰だろうと言う喫茶店の客の目を気にしながら私は店を出た。
 後でふつふつと沸き起こったことだが、浮気ってこんな時にしちゃうもんなのかな思った。サキがいたって今井さえ子みたいなグラマー美人に言い寄られたら、男だったら誰だってふらっとするもんだ。この俺だって。
 私は大きくなった股間を気にしながら帰り道を急いだ。


 残暑厳しい中、私が汗だくで家に帰ると、冷房がきいた部屋で幸田サキが勉強をしていた。邪魔しないようにそーっと上着を脱いでハンガーに掛ける。顔を水で洗うと、生き返る。ふと、洗面台を見ると、幸田君の物が随分増えた。やがて、私の居場所もなくなっていくのだろうと、ため息を付く。もっと広い所に越さなくては……。
 気を取り直して冷蔵庫を見る。今日は珍しく買ってきたお惣菜がたくさんある。のんびり電子ピアノでも弾こうと思って、私は耳にヘッドフォンを当てて弾き始めた。

(音楽:エリック・サティ ジムノペティ第一番)

「小田先生、なに弾いてるの?」
「ん? 幸田君。サティだよ。ジムノペティ」
 ヘッドフォンを取り上げ、幸田君は耳に当てる。
「へー、電子ピアノって案外いい音するのね」
「そうだろ。私のお気に入りなんだ」
「他には何弾くの?」
「月光の最初の楽章だけとか、歌謡曲とかだよ。そう、早いのは弾けない(笑い」
「歌謡曲、何か弾いて」
 ヘッドフォンのジャックを外し、少しボリュームを絞った。曲は松田聖子の『あなたに逢いたくて』。編曲が好きで良く弾いている。

(音楽:松田聖子 あなたに逢いたくて)

「へー、中々聞かせるよ」
「そう? ありがとう」
「ねえ、この位聞かせられればクラブで弾き語り出来るね。フフフ」
「余りおだてると、木に登っちゃうよ。ブヒ」
「あははは」
 私は幸田サキにピアノのイスを譲って言った。
「それでは幸田先生に弾いて貰いましょう。どうぞ!」
「ふふ。じゃあね、こんな曲は?」
 幸田サキは、手をほぐすと、大きな瞳をカッと見開き弾き始めた。

(音楽:ベートーベン ピアノソナタ第二十三番ヘ短調「熱情」)

 一瞬の静けさの後、それは淡々と始まった。
(ふったまげた! いきなりベートーベンの熱情だ。私も好きだが、如何せん速すぎる。超絶技巧だ。しかも冷淡に歌っている。本物だ!)
 一瞬も無駄がない音は、次々と折り重なり静粛と情熱と怒りを表現して、まごうことなき壮大な音楽を創り上げる。その厳粛さに、私は涙を浮かべた。
「ブラボー! パチパチパチパチ、ピィーピィー! いやー凄いねー!」
「大したことないわ、これ位」
「それじゃ、次はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。弾いて貰いましょうか?」
 私は、古典派とロマン派のどちらの影響も受けているベートーベンと比較するために、ラフマニノフの純粋なロマン派の音楽もぜひ聞いてみたかったのだ。……と言うのは嘘で、単に私がラフマニノフを聞きたかったからである。
「えーと、意味分かってるよね?」
「うん。オーケストラの伴奏部分は要らないからね(ワクワク」
「仕方ないわね。フー」

(音楽:ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番)

 三十四分にも及ぶ見事な演奏だった。ピアノで始まる静粛に私は息を飲み、流れるようなメロディに目を閉じて酔いしれ、燃えるような情熱と歌うような旋律に身体を熱くして、ファンファーレの鳴り響くようなフィニッシュに拍手も忘れて呆然とした。
 美しい。ただ美しいと感じた。
「はっ、いかん。呆けていた」
「大丈夫? ふふふ」
「ねえ、君。何かコンクールは出たことある?」
「あるよ。国内コンクールで三位だった」
「凄いじゃない。どうして、理工学部になんて……」
「大したことないよ。それに、国内で三位じゃ客呼べないでしょ。だから、あきらめて機械工学の道へ進んだの。その程度よ」
「そりゃ、その道で食ってくのは大変だろうけど……。トライしたのは一度だけ?」
「うん」
「悪いことは言わない。もう一度だけトライしてよ(真剣」
「うーーん。私も少しそう思っていたわ……」
「もったいないよ」
「分かったわ。もう一度だけやってみる。ただし、どうせ出るなら国際コンクールよ」
 幸田サキは大きな瞳を輝かせ燃えていた。

 目指すコンクールは恐れ多くも、ポーランドのワルシャワにて開催される、その名も『ショパン国際ピアノコンクール』……。
 いくらなんでも、これはレベル高過ぎ。私は、なんども止めさせようと思った。けれど、幸田君のこのコンクールに掛ける姿勢が余りにも真剣で、私には言えなかった。まあ、これ程真剣になって取り組んでいるんだ。きっと、いい結果が出ると思う。
 そのショパンコンクールだが、五年に一回の開催で、運よく二〇一五年の今年に行われる。幸田君は、急いでエントリーすると間に合った。

「絶対にファイナルでピアノ協奏曲第一番弾くんだから(フン」
「それって、ノダメの影響ですか?」
「そうよ! 何か悪い?」
「いいえ、悪くありません。どうぞお続けください」
「集中!」
「ところで、幸田君。ピアノ、本当に電子ピアノでいいの?」
「全く、小田先生は黙ってて! この方がグランドピアノよりも集中できるのよ。それに、夜でも弾けるし」
「分かりました。どうぞ、お続けください」
 熱い練習は続きました。私はその間食事の用意と雑用をやらせていただきました。
 それから授業は休学届けを出しました。でも休学の理由を話したら、出席日数が足りなくてもテストでいい点獲ったら単位をくれる、という話でありがたい。
 なにせショパンコンクールだから大学側も熱の入れようが違う。私も、この工科大学から初のショッパンコンクール入賞者が出るかもと思い、ワクワクしていた。きっと、世間も驚くに違いない。フフフ。


十一

 月日は過ぎ、落ち葉もすっかり赤や黄色に色付く頃。幸田サキは、無事書類選考をクリアして、コンクール予選の日を迎えました。ポーランドの秋はとても寒いので、しっかりと冬服を着せました。勿論、フカフカの帽子も買って上げました。凄く似合っています。可愛い、フフフ。
 私も着いて行きたかったのですが、講義があるので行けませんでした。だから、電話で予選の結果を聞きました。
「はい、もしもし、サキ?」
『あ、小田先生。あの帽子、すっごく暖かいわよ。ありがとう』
「それはよかった。で、その様子だと予選は通ったみたいだね?」
『そうよ! 見事ファイナル進出よ! あはははは(たぶんドヤ顔』
「凄ーい! 電子ピアノの会社に電話しないと」
『え? ……何言ってるの?』
「いや、良い宣伝になると思って。……ダメ?」
『全く……。そんなことより、ファイナルは明日よ。何かオマジナイをして』
「うん。大丈夫だよ、君より可愛い子はいない。だから思いっきりピアノ協奏曲第一番、弾くんだ!」
『うーーん。エネルギー満タン! ありがとうね、愛してる』
「私も愛してるよ。サキ」
 このあと、携帯にキスしようか迷ったけど、止めました。携帯が臭くなるから。クス。

 本選当日、私は何も手に付きませんでした。大好きなコーヒーも、この日は気づいたら冷めていました。
 夜が明ける頃、私は一睡もせずとうとう発表の時間になりました。時計は朝の五時、突然携帯が鳴って、直ぐに出ました。

「サキ。どうだった?(ドキ、ドキ」
『小田先生……。ダメだった……』
「えーと……、それでもピアノ協奏曲第一番は弾き切ったんだね?」
『うん』
「上出来だよ。本選に残れるなんて、すんごく名誉なことだよ。誇っていいよ」
『ありがとう。で、私これからどうしたら良い?』
「……それは、帰ってから考えようよ」
『分かった。帰ったら慰めてよね。それじゃ。プープープーブツ』

 さあて困ったな、どうやって慰めようか。でも、先生もついていないのに、本選の十人に残ったのって凄いよねえ……。そうだ! 電子ピアノの宣伝部長が、ぜひ結果をお知らせくださいって言ってたっけ。
「あ、もしもし……」


十二

 もうそろそろ、人も木も冬支度をすっかり整えた頃。幸田サキは日常に戻った。
 彼女は本選通過と入選しなかったことを大学に知らせた。中途半端な結果に周りもどうして良いか分からず、困り果てた。しかし、本人が一番困っているかも知れない。どうせ、こんな結果じゃ、どこも私を弾かせてくれない。これで私の演奏人生は完全に終わりだと、幸田君は嘆いた。
 だが、唯一元気な人がいた。電子ピアノの宣伝部長だ。

「ぜひ、我が社のCMに出てくれませんか? 一年契約で一千万で」
 宣伝部長は小切手まで用意してやる気満々だ。きっと、どこかの社がかぎ付けて、契約合戦になるだろうと思ったんだろう。だが、来たのは電子ピアノの会社だけ。もっとも、他にはツテがないので連絡のしようがないが。
 宣伝部長の話を聞いても、当事者のサキはやる気なさそうだ。気が抜けたコーラのようにひとり沈んでいる。
 それでも宣伝部長はたたみかけた。
「それでCDのアルバムの契約も、うちでお願いします(ペコリ」
 CDの話は初耳だ。サキは俄然やる気を見せた。
「え! それって好きな曲を選んでも良いんですよね?」
「はい。どの曲でも選り取り見取りです」
「わー、楽しみ(ルン」
「よかった。気に入ってくれて。では、書類にサインを」
 大きな瞳を輝かせ幸田サキは燃えていた。電子ピアノの営業部長も喜んでいる。よかった。

 幸田サキの撮影とレコーディングは、急いで土日に行われた。この時はサキには珍しく、化粧をして大人の女性になっていた。ぐっとくる。
 ところで、なぜ彼女がCDにこだわったかと言うと、
「良い記念になるし、ジャケットの写真、可愛く撮ってくれるって言ったし」
 だそうだ……。
 とにかく一千万とサキの記念アルバムが手に入った。私たちは祝杯を挙げて祝った、ドンペリで。美味かった。ヒック。


十三

 私は、冬休みに入って実家に車で帰省しようかと思い、オンボロワゴンにスダットレス履かせて準備していた。今年はサキを連れていく予定で、父は楽しみに待っている。そして、冬休みの終わりにはサキのご両親へ挨拶をする予定だ。すっかり結婚が予定に組み込まれているようだ、サキにスケジュールによって……。

 ところが、突然事件が起こった。
 なんと、急にCDが売れ出したのだ。初めは一万枚でも多すぎる、千枚で十分よ、と言っていたサキだったが。あれよあれよと言う間に十万枚を超えて、二十万枚をうかがう勢いだ。多分CMとの相乗効果が出たのだろう。
「どうしちゃったんだろうね?」
「これは悪の結社の仕業よ。私は騙されないわ」
(幸田サキはかなり混乱しているようです)

 そんなことを言ってる間に、音楽雑誌社から特集記事の依頼が数社入る。またしても、サキは化粧して大人の女を演じた。料理も出来ないくせにね。ぷっ。
「どうやら私の美貌と才能に、今更気づいたのね(カラカラカラ」
「おかしくないよ。だって君のピアノは、誰よりも輝いていたもの」
 コンクール見てないけど、多分想像でね。
「そうよ。審査員が耳が変だったのよ。今に見ていなさいよ。ヨーロッパを征服するんだから。行った国で、その国の言葉を話してやるわ、ネイティブ並みに。おーっほっほっほ」
(おーい、この頃キャラ変わっているぞ)

 結局、幸田サキのCDの売り上げは、クラッシック界では異例の五十万枚を売り上げた。
 そしてTV出演も決まった。曲はショパンのピアノ協奏曲第一番。その出演のおかげでめでたく百万枚を超えた。そして次作のCD作成の打診が来て、演奏ツアーのオファーも。

「良いのかしら、こんなに売れて」
 サキも、この売れ方に戸惑っている。私は、ソファーで彼女を抱きしめて言った。
「良いんじゃないの。でもいつまでも続かないよ。いつか終わりが来る。そういう世界だ」
「そうね。だから大学は出ておくわ。勿論、語学の勉強も続けるわ」
「うん。その方がいいと思うよ」
「でしょ? そして……、私はあなたを離さない。だってアンナと約束したもの。あなたを私に任せてと」
 その言葉に、私はジーンときた。ただ、ちょっとだけ執念が入ってて怖かったけど。
「……サキ(涙目)。いやーいつ捨てられるかってビクビクしてたよ。良かった(ホッ」
「何言ってるの。私こそ、あなたに人生を切り開かせてもらったのよ。あなたは男だけど幸運の女神よ。愛しているわ」
「サキ」
 ふたりは熱いキッスをした。それはそれは、とろけるような。

 ふたりは互いの運命を変えて、素晴らしい物を手に入れました。私、小田カズオは過去の亡霊からの脱出を、幸田サキは自分の限界を破って幸運を。
 こうして、私、小田カズオと幸田サキは末永く幸せに暮らしましたとさ。


(お終い)

20151115-ある講師と女子大生の恋

20151115-ある講師と女子大生の恋

78枚。修正20181011。私は大きな瞳に恋をした。ラブコメ?

  • 小説
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