【Fra la buccia e la polpa】

ピアノラボ

 初めてクララ・ハスキルが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲20番を聴いた時、私は強い衝撃を受けました。軽やかで弾むような演奏と、綺麗に面取りされた真珠の粒のような美しい音色が心地良く染み入り、時間を忘れて何度も繰り返し聴き入ってしまいました。
 同様に、グレン・グールドが弾くバッハのゴールドベルグ変奏曲を初めて聴いた時も、計り知れない衝撃を受けました。こちらは、音や演奏以上に、音楽を超越した一種の哲学とも言える世界に引き込まれ、静寂から立ち昇る孤高の閃きを音に託した印象を受け、何度聴いても背筋がゾクッとします。

 でも、もしハスキルがバッハを弾いたとしても……実際に、演奏したことはあるでしょうし、ひょっとしたら何処かに音源が残されているのかもしれませんが……聴くまでもなく、好きになることはないと思います。  同様に、グールドが弾くモーツァルトも……こちらは実際に音源も残っており、私も持っているのですが……あまり好みではありませんし、どちらかと言えば嫌いなぐらいです。

 誤解のないように申し添えておきますと、ハスキルもグールドも、上記演目に限らず、私のとてもお気に入りのピアニストです。もちろん、モーツァルトとバッハの音楽も好きで、ピアノ曲に限らず、オケや声楽、室内楽など、たくさんのCDを持っており、コンサートにもよく足を運んでおります。
 もっとも、残念ながら、仕事として出向くコンサートも多く、その時は、とても楽しむゆとりなんてないのですが。

 音楽は、「曲」だけでは存在出来ません。いや、楽譜を始めとしたデータのみの存在になります。音楽は、音で表現してこそ意味が生まれますので、「演奏」されない音楽は、一つのキャプチャーやデータと同じです。少なくとも、鑑賞向けのアートにはなり得ません。 一部、特殊な才能を有する人は、そのデータのみでもひょっとすると脳内で音楽として成立するのかもしれませんが、ごく稀なケースと言えるでしょうし、決して一般的ではありません。
 ピアニストも、その存在から「演奏表現」だけを抽出することは出来ないでしょう。「演奏」は「曲」へのアプローチに他なりません。演奏家のキャラクタやスキルを始め、知識、感性、感情、解釈、インスピレーション、精神世界等を注ぎ込む対象として、先ずは何よりも、「曲」が存在することが大前提となるのです。
 つまり、「曲」と「演奏」は、互いに補完し合っているのです。平たく言えば、どのような「曲」をどのように「演奏」するか……そう、「曲」と「演奏」が融合して、初めて「音楽」は存在出来るのです。

 では、「曲」と「演奏」を繋ぐものは何でしょうか?

 奏者、楽器、楽譜、機材、聴衆、空間、時間……こういったモノが、真っ先に思い浮かびます。確かに、これらは音楽に必要な手段や環境、道具であり、「曲」と「演奏」を繋ぐ役割を担っているという見方も出来るでしょう。

 では、「曲」と「演奏」は、どこで繋がっているのでしょう?

 もしかすると、この「曲」と「演奏」を繋いでいる部分にこそ、最も音楽の魅力が凝縮されているのかもしれません。きっと、「曲」と「演奏」の接地面は、物理や科学で解明出来る領域からは外れた、感覚のみに委ねられる神秘的な世界なのでしょう。
 この部分だけを取り出すべく、音楽からそっと「演奏」を剥がしてみても、それだけだと存在出来ない「曲」のみが残るのです。

 幼い頃、「林檎は皮と実の間が一番美味しい」と祖母に教わりました。しかし、その一番美味しい所を食べるには、どうすれば良いのでしょう?
 私は、散々考えた挙句、皮ごと丸齧りしました。
 音楽も、「曲」と「演奏」が繋がった状態でのみ、一番の魅力が味わえるのかもしれません。

【Fra la buccia e la polpa】

【Fra la buccia e la polpa】

皮と実の間が一番美味しいのだが。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
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