黒キ日常 第3話
「復讐代行業者という裏稼業を知っているか?」
これはその裏稼業に手を染めた男の物語。
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オフィスビルの地上13階、広い会議室の窓に映るその男の姿は、モップを片手に忙しなく動いている様子で、私はそれを忌々しく横目に見ている。似合わない濃い黄緑色の作業服に身を包み、作業服と同じ色の帽子を目深に被っていた。帽子のつばがその男の狡猾な顔と鋭い目つきをいくらか隠している。何かに映る自分の姿というものは、自分のイメージとはまるで異なるもので、なんとも不愉快だ。とくに自分の顔というものが私はとても好きになれない。
報酬は決して安価ではないが、私は裏の稼業だけで食っているわけではない。普段はビルの清掃員をしている。勤務時間は8時間、週休2日制、幾つかのビルを掛け持ちして回っている。仕事仲間と呼ぶには付き合いの浅い連中と共に、慌ただしく毎日同じような仕事をこなしていき、1日分の労働時間は瞬く間に過ぎ去っていく。そうして得られた微々たる収入は、だいたい毎月の食費と生活費に消えていくのだった。
何も安月給でこんな仕事をせずとも、別に食っていくのに困っているわけではない。だが、平凡な中年の独り身がほそぼそと暮らしている退屈な生活、というものをどうしても演じなければならない相手がいるのだから仕方あるまい。
同僚の若い男が私を呼んでいるようだ。遠くから聞こえる間延びしただらしない声はどんどん私と方へと近付いてきていた。
「宮田さぁん、宮田さぁん!」
間延びした呼び声とともに、私が清掃作業をしている会議室のドアがやや乱暴に開けられる。『宮田』というのは堅気で働くための偽名の一つだ。私はある男から逃げるために名乗っているのだが、そんな事はすべて無駄に終わる。どこまで逃げようともあの男は必ず私を見つけ、私の目の前に現れるからだ。あの男が現れる前には日常に違和感を覚える事がある。自分の身の危険に、裏の稼業で身についた鋭敏な勘が働くのだ。そして嫌な予感というものは、よりにもよって最悪の展開として証明されるものだった。
「お客さんです」
「どんなヤツだ?」
溜め息混じりに私が訊くと、木村という若い男は首を傾げて思い出しているようだった。
「顔がどんなだったかはちょっとよく覚えてないんですけど、なんか頑固そうな厳つい中年でしたね。宮田さんと少し似てる雰囲気のある……宮田さんのお兄さんかなんかですか?」
「馬鹿言うな。ちょっとした知り合いだよ。どこにいる?」
「下で待たさせてありますけど……あっ」
ドアの前に立って話している途中、木村はぐいっと何かに肩を捕まれ、会議室の外に引きずり出された。入れ替わりに入ってきたのは先ほど木村の話しにあった中年の男。私の嫌な予感は今回も的中したというわけだ。目の前の中年男は、私を執拗に追い回し続けている、例のあの男だった。
「すまねぇなぁ、ニイチャン。あんたの呼びに来るのがあんまりにも遅ぇーもんで、思わず上に勝手に上って来ちまったよぉー」
男は会議室に入ってくるなり威圧的な眼を私に向け、真っ直ぐに睨み続けている。只ならぬ関係に気付いたのか、中年の男の態度に呆気にとられたのか、呆然と立ち尽くす木村。中年の男は彼の方を見向きもせず何かを差し出した。指先に摘まれているそれは折り曲げられた紙。いや、金だ。
「案内してくれてありがとう。まぁコレで冷たいビールでも飲みなよ、仕事の後にさ」
(独特の嫌みな口調とやり方は相変わらずか)
木村は中年の男に千円札を無理矢理掴まされると、腑に落ちない様子で自分の持ち場にそそくさと戻っていった。不満があれ、気負いさせられて口には出せない。そういう風に相手を追い詰める技術にこの男が長けているのは言うまでもなく、私自信が痛いほど身に染みている。まして娑婆の暮らししか知らぬ素人には抗えまい。
2人きりになった会議室で、男は何も悪びれる様子もなく煙草をくわえ、火を点けた。完全禁煙のオフィスビルの、しかも小綺麗な会議室に、セブンスターの臭いがすぐに充満するのは一清掃業者としては不快だったが、一裏稼業に手を染めた日陰者としては、吐き気のするような威圧感の支配にさえ思えた。それは理性を侵し判断を鈍らせる。
「よう、今は宮田って名乗っているのか。前は村下って名乗ってたよな。また改名か。不自由なもんだなぁーおい?」
何も応えられない。息苦しさ、居心地の悪さに思わず息を呑む。半開きの口からは何も言葉が出ず、喉がひどく渇いた。冷たい汗が背中に流れる。悪寒から全身が震え、気付かれまいとする平静を装った顔には、額や鼻に油汗が浮き出ている。この男は私にとっての絶望、闇に暮らす者の、さらに一歩先の闇。底知れぬ深い闇というのは恐怖と同意だ。
私の頭の中は真っ白だった。作業する振りを淡々としつつ、内心は呆然と立ち尽くしているにも等しい。だが、この男の想像を絶する容赦ない言葉の拷問は続けられた。
「よもやあの若いニイチャンもこんなすぐ近くにとんでもない人殺しがいるとは思うまい。おっかねえもんだよなぁ」
「……」
「例の仕事の方も順調みたいじゃねぇか? どこにたんまり溜め込んでやがるんだい?」
「……」
「自分は上手く逃げきれてるとでも思ってるんだろう?」
「……」
「泳がされているなんて疑問はないのかね?」
「……」
「お前のせいで死んでいった人間に、なんか言いたい事はねぇのか?」
「……」
「オレにはお前さんの関与してる他の事件なんかどうだっていいが」
「……」
「佐伯殺しだけは見逃せねぇ。オレの部下を殺ったのもお前さんだとしか思えねぇ」
「……」
自分を殺し、自分を無にする。無言で相手を無視、時が経つのをただ待っているのみ。ゆっくりと流れるその時間は、記憶を遡っては自己否定の連続で、男の問う私の容疑はあまりに重過ぎた。
「なんとか言ったらどうなんだよ!」
男の掌がテーブルを打つ。思っていたよりも派手な音が鳴った。
やがてこのビルの警備員が定時の巡回で会議室のドアを開いた瞬間、男はテーブルの角でタバコの先を潰し火を消した。 部屋に充満した臭いから若い警備員もさすがに喫煙には気付いたはずだが、振り返った男の一睨みに何も注意を促すような言葉は言えない。言えるはずもない。男の発するものは紛れもない殺気なのだから。
「邪魔したな、宮田さん……いや、黒木さん、か? また来るぜ」
男はクククッとでも笑い声の聞こえるような不敵な笑みと共に、去り際に私の足をこれでもかとばかりに憎らしげに踏んでいった。足の甲に男の踵が突き刺さるかのような、このグリグリと押し潰される痛みを、私はもう何度思い知らされた事だろう。自分の無力と、後悔と共に。
去る背中に毒づく事さえ許さない。西島と名乗るこの強敵は、どんな違法でも駆使する、手段を選ばない元刑事だ。
あの西島が私を追うようになったのは『佐伯殺し』という事件が始まりだった。
佐伯卓真……それがあの事件で死んだ被害者であり、私を複雑な問題に引き擦り込んだ張本人だ。
世間一般にそれなりに名の知れたあの著名人の死は、その周囲の人間に止まらず影響を与える事になる。
十年前の未解決事件、犯人は未だに捕まっておらず、私はあの西島が目を付けた容疑者のうちの一人だ。何故ならあの事件直前、佐伯は私の依頼人であり、ターゲットは佐伯自身だったのだ。自作自演の復讐劇は、誰も報われない結果を招いた。
黒キ日常 第3話
ハードボイルドに近いミステリーを書きたいと思い、イメージしたのが黒木というキャラクターでした。
迫力と哀愁ある作品として認めて頂ければ幸いです。