*星空文庫

てんぐ探偵

大岡俊彦 作

てんぐ探偵
  1. 第一話 「お前は誰か」 妖怪「誰か」登場
  2. 第二話 「十一時X分の電車」 妖怪「めんくい」登場
  3. 第三話 「爆音ギタリスト」 妖怪「いい子」登場
  4. 第四話 「炎の巨人と黒い闇」 妖怪「弱気」登場
  5. 第五話 「先生の闇」 妖怪「あとまわし」登場
  6. 第六話 「あのとき、出来なかったこと」 妖怪「若いころ果たせなかった夢」登場
  7. 第七話 「寂しさは、リレーしない」 妖怪「さみしい」登場
  8. 第八話 「妬みは天下の回りもの」 妖怪「ねたみ」登場
  9. 第九話 「メガネの友達」 妖怪「なかまはずれ」登場
  10. 第十話 「静かな朝」 妖怪「アンドゥ」登場
  11. 第十一話 「結婚の提案」 妖怪「横文字」登場
  12. 第十二話 「リアルの風は、冷たい」 妖怪「上から目線」登場
  13. 第十三話 「サッカーのにいちゃん」 妖怪「どうせ」登場
  14.  【 あらすじと主な登場人物 】
  15.  【 心の闇とその倒し方 】
  16. 第十四話 「最後の火吹き」 妖怪「俺だけは特別」登場
  17. 第十五話 「美人は得か」 妖怪「みにくい」登場
  18. 第十六話 「涙目は、炭酸のせいにした」 妖怪「二番」登場
  19. 第十七話 「ベストを選ばなきゃ損」 妖怪「ベスト」登場
  20. 第十八話 「ヒラメのお寿司」 妖怪「任せられない」登場
  21. 第十九話 「ホントの私は何処?」 妖怪「ペルソナ」登場
  22. 第二十話 「胡蝶の夢」 妖怪「自我」登場
  23. 第二十一話 「三千歳でも恋をする」 妖怪「ゴリ押し」登場
  24. 第二十二話 「二十四人の俺」 妖怪「別人格」登場
  25. 第二十三話 「ほんとうの主役」 妖怪「センター」登場
  26. 第二十四話 「ホームレス」 妖怪「ここじゃないどこか」登場
  27. 第二十五話 「町工場」 妖怪「キックバック」登場
  28. 第二十六話 「遠野SOS」 妖怪「?」登場
  29. 第二十七話 「自己紹介の悪夢」 妖怪「リセット」登場
  30. 第二十八話 「ループ」 妖怪「共依存」登場
  31. 第二十九話 「弟子のひとり立ち」 妖怪「ほめて育てて」登場
  32. 第三十話 「半分よこせ!」 妖怪「半分こ」登場
  33. 第三十一話 「最も不幸な男」 妖怪「一発逆転」登場
  34. 第三十二話 「『答え』に恋した女」 妖怪「正解」登場
  35. 第三十三話 「何年先を見てる?」 妖怪「目先」登場
  36. 第三十四話 「乙女心は、儚い」 妖怪「信者」登場
  37. 第三十五話 「報告・連絡・相談」 妖怪「ホウレンソウ」登場
  38. 第三十六話 「宝の山」 妖怪「無意味」登場
  39. 第三十七話 「解散」 妖怪「スケープゴート」登場
  40. 第三十八話 「ぶつぶつ選手権」 妖怪「ぶつぶつ」登場
  41. 第三十九話 「見える友達」 妖怪「認めて」登場
  42. 第四十話 「保険の保険」 妖怪「リスク」登場
  43. 第四十一話 「少年は知っていた」 妖怪「正論」登場
  44. 第四十二話「夏祭りの記憶」 妖怪「ボケ」登場
  45. 第四十三話 「妖怪盆踊り」 妖怪「完璧主義」登場
  46. 第四十四話 「この先に出口がないとき」 妖怪「いまさら」登場
  47. 第四十五話 「流れ星」 妖怪「マリオネット」登場
  48. 第四十六話 「闇の名前」 妖怪「天狗」登場
  49. 第四十七話 「ひいき目」 妖怪「ダブルスタンダード」登場
  50. 第四十八話 「二匹いた」 妖怪「やすうけあい」登場
  51. 第四十九話 「黙っているべきか」 妖怪「雇われ」登場
  52. 第五十話 「素顔のままで」 妖怪「レタッチ」登場
  53. 第五十一話 「孤高の人」 妖怪「孤独」登場
  54. 第五十二話 「遭難」 妖怪「全知全能」登場
  55. 第五十三話 「流行という熱病」 妖怪「カリスマ」登場
  56. 第五十四話 「ダンディ・ジェントルマン」 妖怪「バレてない」登場
  57. 第五十五話 「意識高い系の神」 妖怪「選ばれた民」登場
  58. 第五十六話 「鞍馬寄りの使者」 妖怪「死の恐怖」登場 (前)
  59. 第五十七話(終) 「力の湧く場所」 妖怪「死の恐怖」登場(後)

個人サイトで連載していた小説の、全面改訂版です。
一話完結型で週刊掲載します。毎週金曜日夜10時9分は、金のテング!

第一話 「お前は誰か」 妖怪「誰か」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「別れましょう」
 少しは予感していたことだった。青嶋(あおしま)は彼女のひと言で、半年間の恋愛関係が終わったことを理解した。いつものカフェじゃない喫茶店を彼女が選んだのは、もうどこでもいいという彼女の本音か、いつものカフェでの思い出はせめて美しくとっておきたいロマンチズムか。

「別に、あなたが悪いわけじゃないんだけど」
 なんかドラマみたいな台詞だ、と彼女の言葉を聞きながら、青嶋勇作(あおしまゆうさく)は次第に冷静になっていった。俺たちはドラマからしか、つきあい方や別れ方を習っていない。だから要所要所で、他人の言葉を借りて他所他所しくなる。口をつけたブラックコーヒーは、いつものカフェより苦くて煮詰まっている。
「あなたはいい人だから、他の誰かと幸せになってね」
 彼女は席を立ち、レシートを取った。その最後の言葉が、急に青嶋の冷静さを奪った。
「『他の誰か』って誰だよ! 『誰か』だったら誰でもいいのかよ!」
 彼女は二人分の料金を払い店を出た。青嶋は思わず追った。
 外は雨が降りはじめていた。雨は冷たく、青嶋の体からは湯気が出た。
「俺は、誰でもいいわけじゃないんだよ! お前だから好きなんだよ! 『誰か』じゃ、ダメなんだよ!」
 彼女はふり返らず、走って雨の中に消えた。
「他の誰かって誰だよ!」って雨の中で叫ぶ俺は、やっぱりドラマみたいで安っぽいと、冷静さが戻ってきた。

 青嶋の会社は、東京の丸の内にある。高いビルの高いフロアに陣取ったその会社の、青嶋の席は窓から遠く、どん詰まりだ。今日の部長会で、経費削減の方針があらためて決まったそうだ。経費削減は近頃、天気のあいさつだ。今日は雨ですね。経費削減。明日は晴れですかね。経費削減。
 今回の経費削減は、「外注」だ。ちょっとした手間を自分でやらず、安くうけおうA社にさせろ、という上の指示だ。かつては部下が雑用係だった。部下が減り雑用を自分でもやり、ヘトヘトになった。それを安い会社に肩代わりさせるシステム。出張申請書、携帯電話申請書、住民税や年末調整などの書類処理が、まずA社に出された。お茶汲みも外注しろや、と冗談も言われたが、もっともお茶汲みなんてのは、とっくに有料の自販機にとって代わられている。
 雑用は減った。だが事態は、ここから異常の坂道を転げ落ちてゆく。

 なんでもかんでもA社に外注。抱えきれなくなったA社は、更に安いB社に外注。A社は間で、仲介手数料という中抜きをはじめた。B社は更にC社に外注した。C社はD社に、D社はE社に外注した。

 ある日、コピーを取ってきてと青嶋はA社に頼んだ。コピー機は会社にすでになく、外注だ。A社に頼むか、向かいのコンビニで自腹コピーを取るのが当り前になっていた。しかし向かいのコンビニは、かすれたりゴミがうつったり、メンテが悪いのか質がよろしくない。
 A社の人が書類を引き取りに来てから、気づいたら一時間が経っていた。オイオイ時間かかりすぎるだろ。こんなことなら向かいのコンビニでやれば良かった。窓から下を見ると、コンビニのコピー機は長蛇の列で、まあしょうがないかと彼はあきらめた。二時間たって、コピーが戻ってきた。だが斜めになってるし、かすれてるし、なんかゴミもうつってるし端は切れてるし! 新人の部下ならどやしつける所だ。そうやってコピーの取り方を若いうちに覚えたものだ。そうやって書類の内容を理解するように、教えられたものだ。コピーひとつとっても、それは重要な伝承だった。青嶋はA社の人を呼び、苦情を言った上でもう一度コピーを取るように言った。自分でコンビニに並ぶべきだった、とあとで気づいたが遅かった。
「脳は脳の仕事を、手足は手足の仕事を」と、たしか部長は理屈を言っていた。脳には脳の仕事、そう思い直して青嶋は仕事へ向かい、深いため息をついた。
 そのため息を嗅ぎつけ、どこからか風に吹かれて「妖怪」がやってきた。
 鮫が数キロ先に落ちた血の一滴を嗅ぎ分けるように、この謎の生き物は「餌」を発見したのだ。それはまるで「歪んだ人間の顔」だった。林檎よりも少し大きな顔から直接手足が生えていて、胴体はない。そして全身鮮やかな青色。あまりにもビビッドな青で、これを妖怪という古臭い言葉で呼ぶのも憚られる。その顔は全体が斜め右方向に歪み、両目も鼻も顎も等しく菱げて、長く生きられぬ奇形児を連想させる。「それ」は青嶋のため息を深く吸いこみ、笑みを浮かべた。

 青嶋は夜まで待たされた。出来上がったコピーは、端が切れたままだった。

 青嶋はA社にコピーを外注した。
 A社はB社にコピーを外注した。
 B社はC社にコピーを外注した。
 C社はD社にコピーを外注した。
 D社はE社にコピーを外注した。
 E社はF社にコピーを外注した。
 F社はG社にコピーを外注した。
 G社は、向かいのコンビニで列に並んでコピーを取っていた。

 実のところ、これは七社目に振った「七次受け」状態であったのだ。
 ここで簡単な算数をしよう。手数料がそれぞれ三割だとする(三割の利益はビジネスでは普通である)。十万円の仕事は、七次受けではいくらの仕事か。十万に〇・七を掛けて七万円。あと六回掛けてみよう。
 恐るべきことにその結果は、わずか八千と二三六円だ(少数四捨五入)。十万円の元金は、七次の末端に一万円も届かない。丸投げの連鎖は、間で九万以上が溶けて消えるのである。孫受け、つまりB社の時点で、半分以下の四万九千円になることも特筆しておこう。これは映像業界の孫受け構造の標準的なモデルである。
 そして当然だが、脳は末端のその状況を知らない。

 青嶋の部長は、口を酸っぱくさせて言っていた。「そんなもの『他の誰か』にやらせればいいんだよ」と。青嶋はあの雨の日を思い出して嫌な気分になった。「『他の誰か』と幸せになって」という言葉が、何度も頭の中でくり返された。誰かって誰だよ。誰でもいいよ。誰かってどこにいるんだよ。楽になりたい。もう誰でもいいんだ。
「そうですよね。『他の誰か』にお願いすればいいんですよね」
 青嶋は笑顔で部長に返し、再びため息をついた。
 青嶋を観察していた青い妖怪は、安心して彼の肩の上に乗り、足を彼の体に食いこませ心の深くに根を張った。

「では、『誰か』にやらせます」
 青嶋は、考えるのを止めた。

    2

 都心を走るバスの後部座席で、瞳の大きな少年が窓の外を眺めていた。猫用のプラスチック(キャリア)を膝の上に乗せ、太った虎猫をその中に連れていた。

「やっべ……やっぱ妖怪『心の闇』は、都心にはうじゃうじゃだね、ネムカケ」
 少年は小声で、籠の中の虎猫に話しかけた。その猫は細い目をつぶり、うつらうつらと居眠りをしている。猫は不満そうな声で、他の乗客に悟られない音量でしゃべった。
「ねむいよう。籠が狭くて外まで見えん」
 少年は両膝を上げて籠の目線を上げ、ネムカケと呼んだその虎猫に外を見せた。
「しょうがないだろ。都会ではバスに乗せるときの猫マナーなんだからさ。大体ぎちぎちなのは、太り過ぎだからだよ」
 たしかにその虎猫は丸々としていて、余り肉が籠からはみ出している。
「外に出てのびのびしたいのじゃ」
 それ以上しゃべると他の乗客に感づかれると思ったのか、ネムカケなる虎猫は細い目を閉じ、だんまりを決めこんだ。

 普通の人にはごみごみして空気の悪い、都会のねずみ色の風景にしか見えないだろう。ところがこの少年には、「色鮮やかな闇」が見えるのである。ガード脇を歩くサラリーマン、コンビニの学生、横断歩道を渡る老人。彼らの肩や腰に、色とりどりの「妖怪」が取り憑いている様が。やつらは「いわゆる妖怪」ではない。妖怪大辞典にも妖怪大百科にも載っていない、現代の都会に現れた新型妖怪。その名も「心の闇」という。歪んだ顔に手足がついていて、手足を人の肩や腰に食いこませて養分を吸う。特徴的なのは、どぎつい人工着彩の、サイケデリック色なことだ。オレンジ、ライムイエロー、ショッキングピンク、エメラルドグリーン。派手な蛍光色の「顔」が街にばらまかれたかのように、あちこちに妖怪「心の闇」に取り憑かれた人々がいた。
「これを全部退治するのは……無理だよね……」
 少年は少し絶望した。
 彼は普段は東京郊外の、高尾山の見えるとんび()町で暮らしている小学五年生だ。今日はお供のネムカケと、都心の視察に来ていたのである。
「まあ気長にやることだのシンイチ。とんび野町とは人の数の桁が違う」
 三千歳になるおじいちゃん猫のネムカケは、半分居眠りしながら、外を見ることは諦めたようだ。ネムカケとは遠野弁で居眠りのこと。ネムカケは遠野出身の化猫だ。
 窓の外を見つめる黒い瞳の少年の名は、高畑(たかはた)シンイチ。人々が「心」を取り戻す、この長い物語の主人公である。

 バスは新橋から日比谷に至り、サラリーマンの群れが歩いているのが見えた。
「サラリーマンって、みんな同じに見えるよね」
 似たような服の人たちが、似たような無表情で、似たような足取りで同じ方向に歩いている。彼らは毎日右から来たものを左に受け流して、それだけで何故だか収入を得ている。そして似たように、皆「青い歪んだ顔」の妖怪が取り憑いていた。
「妖怪……『誰か』」
 シンイチはその妖怪の名を告げた。
「とりあえず降りよう。彼らを説得できるかなあ」
 バスを降りようとしてシンイチは驚いた。運転手が、運転していない。

 その運転手の肩にも、同じく青い歪んだ顔の、妖怪「誰か」が取り憑いていたのだ。運転手はふんぞり返ったまま、乗客の主婦に運転させていた。
 シンイチは席を立ち、右手の刀印(とういん)四縦五横(しじゅうごおう)の九字を切った。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術! エイ!」
 車内は日蝕が起きたように暗くなり、ぴたりと時を止めた。運転手も、主婦も、他の乗客も彫像のように固まった。青い妖怪「誰か」だけが運転手の肩でうねうねと蠢く。シンイチは左腰に提げたひょうたんから朱鞘の小太刀を出し、抜いた。黒曜石の刃をもった、()団扇(うちわ)紋の短刀だ。
「火よ在れ、小鴉(こがらす)!」
 小鴉と呼ばれた黒い刃から、真っ赤な炎が溢れ出た。
「てい!」
 火の剣で、シンイチは「誰か」の足を両断した。小鴉から燃え移った炎が、妖怪を焼きつくしてゆく。「誰か」は小さな断末魔をあげて清めの塩と化し、四散した。だが足の残り半分は、切り株のように運転手の肩に残されている。
「あくまでも応急処置だけど。この人がまた他の『誰か』に運転させようと思えば、これが再び成長するし、そう思わなきゃこのまま根が枯れるだろうし」
 金縛りを解くと、運転手は慌ててハンドルを持った。
 一人と一匹は、サラリーマンの群れを追うためバスから降りた。ネムカケは狭い籠からようやく解放されてのびをした。

 シンイチは腰のひょうたんから天狗の面を出して被り、彼らに正面から訴えてみた。
「あなたたちには、妖怪が取り憑いています! 妖怪『誰か』です! 誰か他の人にやらせればいいや、と思う心に取り憑く妖怪なんです! あなたたちがついついそう思うのは、妖怪『誰か』のせいなんです!」
 誰も立ち止まらなかった。その群れの中にいた青嶋だけが足を止めた。

    3

「妖怪だって?」
「思い当たる節があるんだね! 自覚症状があるんだ!」
 (あか)い天狗面の少年、シンイチは確認した。
「ていうか、なんで天狗なんだよ」
「コレインパクトあるから、結構みんな話を聞いてくれるのさ!」
「なんだそりゃ」
「取り憑かれた人なら自分の『心の闇』が見える。川面に自分をうつしてみて!」
 そこに大きな川があり、橋がかかっていた。青嶋は橋の上から水面を覗き見た。今日は風がなく、凪の水面に自分がうつった。鏡で自分を見るのは、心の闇が憑いていないか確認するいい手段だ。諸君も実践してみるとよい。調子が悪いと、肩の辺りにいるよ。
 生気のない青嶋の顔の横に、二倍近くに大きく膨らんだ歪んだ顔、妖怪「誰か」がゆらりとたゆたう。限りなくグレーに近いブルーで、それは今の青嶋の心の色だった。
「まあ……こんなもんだろな」
「アレ? 驚かないの?」
「こんなもんだろ。俺の心は今」
 ネムカケが尻尾まで伸びをしながら忠告する。
「だいぶ進行しておるな。人としての心が死にかかっておる」

 と、川上でぼちゃんという大きな音がして、母親らしき叫び声が続いた。
 子供が川に落ちたのだ。水を飲んだのだろう。パニックにむせながら暴れている。
「やばい!」
 シンイチは橋から飛ぼうとした。が、既に周囲に人だかりが出来ていた。
「もう! 天狗の力ならひとっ飛びなのに!」
 焦るシンイチをネムカケがいさめる。
「お主の不動金縛りは、せいぜいバス一台分の有効範囲じゃろ。これだけ大勢の前で天狗の力をさらすのは危険じゃ」
「じゃあどうすれば!」
 子供の母親はありったけの力で叫ぶ。
「誰か! 誰か助けて!」
 周りの見物は誰一人何もせず、ただ見ているだけだ。
「誰か、助けてやれよ」
「誰か、誰かを呼べよ」
「誰か、やるだろ」
 そのことごとくに、歪んだ青い顔の妖怪「誰か」が取り憑いていた。
「誰か! 誰か!……」
 母親と子供は必死に叫ぶ。シンイチは腰のひょうたんから一本高下駄を出し、飛ぶ覚悟を決めた。
 それより早く、青嶋が橋の欄干の上に立った。
 反射的に動いただけで、青嶋は何も考えていなかった。フラッシュバックが甦った。雨の日の彼女。会社の人々。他の誰かと幸せに。誰かにやらせろ。誰かやれよ。誰か。誰か。誰か。
「誰か、なんて人はこの世にいない」
 青嶋は欄干を勢いよく蹴った。
 夢中だった。川に飛びこんで子供を助けるなんて、人生で初体験だ。子供の力が意外に強くてびっくりした。何かの講習でうしろから体を抱けと教えられたけど、そんなことを実践できるほど、青嶋は落ち着いていなかった。

 子供を川から引き上げ、青嶋は叫んだ。
「誰か! 誰か救急車を!」
 周囲の野次馬はまたも互いに目を合わせ、誰か他の人が救急車を呼ぶのを待った。青嶋はポケットからケータイを出した。ちくしょう、ズブ濡れだ。色々置いてから飛びこめばよかった。
「誰か!」
 妖怪「誰か」に取り憑かれた人たちは、次々に視線をバケツリレーしてゆく。不毛の人垣を割って、一人の女性が名乗り出た。
「私は看護師です。応急処置を手伝います」
 おそらくオフの日だったのだろう、ごく普通の服を着た若い女性だった。彼女は手早く子供に水を吐かせ、自発呼吸を取り戻させた。取り乱していた母親は一息ついた。
「念の為、病院へ。どなたか、このへんの病院をご存じないですか?」と彼女が周囲に聞いた。誰も答えず、「誰か」の言葉を期待する。
 シンイチは慌てて周囲を見渡した。青嶋が口を開いた。
「僕はこの辺で働いています。たしか、一ブロック先に」
「じゃあそこへ!」
「僕がおぶります。走った方が早い」
 何もしない群集を押しのけて、二人は病院へと急いだ。

 病院の廊下で、二人は検査が終わるまで待っていた。
 ひと息ついたら、青嶋は自分がズブ濡れであることと、都会の川のドブ臭い匂いを放っていることに気づいた。
「あー。すいません。今頃気づいた。俺、相当臭いっすよね。コンビニでシャツとか買ってこなきゃ」
 彼女はやわらかく笑った。
「あなたが飛びこんでくれたからあの子は助かったんです。英雄の匂いですよ」
「ははは。フォローありがとうございます」
「宿直のシャワー借りられるかもですね。しかし、よくあんな所から飛びこめましたね」
「あ、俺昔水泳部だったんで。一瞬、服着てると泳ぎにくいっての思い出したんだけど、何も考えず飛んじゃった。おかげでケータイも濡らしたし、散々す」
「でも、なかなか出来ることじゃないですよ」
「……誰も何もしなかったじゃないですか。口ばっかで誰もやんないじゃないですか。誰かじゃなくて、俺がやんなきゃ、と思って」
 こうして、青嶋の肩の妖怪「誰か」は、最後の一言でつかまる所がなくなり宙に遊離した。

「不動金縛り!」
 柱の影から見ていたシンイチは不動金縛りをかけて周囲の時を止め、腰のひょうたんから天狗の面を出して被った。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火よ在れ! 小鴉!」
 火の剣、小鴉を抜き、グレイでブルーな妖怪「誰か」を真っ二つにした。「誰か」はその炎に焼かれ、清めの塩となり廊下にざらざらと飛び散った。
「一刀両断! ドントハレ!」
 青嶋は金縛りの遠い意識の中で、自分の「誰か」が浄火されてゆくところを眺めていた。気がつくと、天狗の面の少年もお供の猫も消えていた。なんだか白昼夢のようだった。不思議な天狗の面と熱い炎だけが、彼の記憶に残っていた。

 子供の無事を確認した二人は、病院をあとにした。
 コンビニの前で立ち止まった青嶋に、彼女が声をかけた。
「では私はこれで」
「あ。……ありがとうございました」
「いえいえ。お疲れ様でした」
「あ。……あの」
 思わず青嶋は彼女を呼び止めた。
「?」
「もしこれから時間あったら、お茶でもしませんか」
「……はい?」
「僕は、青嶋勇作といいます」
 青嶋は深呼吸してから、彼女にたずねた。
「名前を、教えて下さい」


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処(いずこ)の暗闇か

第二話 「十一時X分の電車」 妖怪「めんくい」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 海がきらきらしていた。
 今日は天気も良く、海水浴にはまだ早いが、ピクニックには最適の日和だった。恋人の夏津男(なつお)が「海へ行こう」と言い出して、お金のかからない電車でわざわざやって来た。来てよかった。空も海も美しい。
 だけど私たちカップルには最大の問題がある。
 私たち二人は、不細工なのだ。
 不細工二人が、美しい海を見ている。不細工二人は、ここにいてはいけないように思う。相手は大自然の筈なのに、相手に悪いような気さえしてくる。
 海のきらきらは、無言で私たちを刺してくる。


 輪島(わじま)富子(とみこ)、通称トン子は、気づいたら不細工(サイド)の人間だった。気づいたら、女としての競争にハンディキャップトであった。学校のクラスでは、綺麗な子から順に売れてゆく。そうでない子は店の棚にいつまでも余る。棚落ちすれば、グループをつくって固まって、なるべく他人に迷惑をかけないように生きてゆく。社会人になっても同じだ。自己主張して目立つことはせず、華やかな場に場違いにまぎれることはせず、控え目に、秘密結社のように、隠れ切支丹のように、夜にまぎれる忍びのように生きてきた。
 綺麗な子は綺麗な男と、表通りの華やかな場所できらきらと笑うものである。恋愛ドラマでもファッション雑誌でも、そこはその美しい競走馬たちの行く末のことだ。トン子は人並みに男子アイドルやイケメンにはときめいた。だがそれは、現実とは違う世界に憧れることである。すなわちそれは、異世界ファンタジーと同じだ。
 不細工な女は現実をよく知っている。恋人にする男は中身で選ぶものだ。それは現実に、実在するからだ。自分も外見のことを言われない代わり、相手にも要求しない。フィフティーフィフティーの、それは大人のマナーというものだ。
 だから長いつきあいの恋人、夏津男は不細工である。その代わり、人のいい、中身のある奴だ。夏津男は二人の将来の為に無駄遣いを避け、電車移動をして手弁当もつくってきてくれる。

 だが、彼のつくってきた弁当の中に、トン子の嫌いなピーマンとニンジンが入っていて、彼女は不満を子供みたいに言ったのだ。
「なんで私の嫌いなものばっかり食べさせるのよ!」
「なんでだよ。体にいいものを食べて、バランスを整えるんだよ」
「だって嫌いだもん」
「我慢しろよ。そのうち体が求めるようになる」
「夏津男は私が嫌いなんでしょ」
「逆だろ。愛してるから、ちゃんと食べてほしいんだろ」
 頭では分ってはいる。嫌いなものを工夫して食べさせて、偏食を治そうとしてくれてることも本当はありがたい。むしろ自分には、出来過ぎた彼氏かも知れない。
 でもわたしの手に入れたものは、この不細工が笑顔で口をあける様なのか?


 海から帰って来たトン子はテレビをつけた。イケメン達が色々な恰好で目を楽しませ、様々なシチュエーションで胸をときめかせてくれる。ドラマでは少女マンガのような台詞もスムーズに言ってくれる。ネットにもイケメン写真や動画が溢れてこぼれている。今日海で撮った二人の写真と見比べた。つまり、ファンタジーと現実を見比べた。夏津男の顔を隠し、ネットのイケメンと自分を並べて恋人同士に見立ててみるが、やはりそれは異世界ファンタジーというものだ。
 こんなに海はきらきらしているのに。
 トン子はため息をついた。そのため息が、妖怪「心の闇」をひきよせることなど、知る由もなく。

    2

「松屋デパートに行きたいんですけど、どっちですか?」
 トン子は度肝を抜かれた。テレビから出てきたような美しいイケメンが、目の前で三次元の形をしていたからだ。
 会社のお使いで銀座へ寄ったときのことだ。トン子はよく道を聞かれる。きっと断らなそうに見えるのだろう。背の高い彼は、顔は小さく、髪はさらさらと風になびいていた。手足が長くお洒落な服がよく似合い、目が大きく輝いていた。本当にこんな男が三次元世界にいるんだ。トン子は思わずぽーっとしてしまい、彼の言葉を理解するまでタイムラグがあった。
「あの、……どっち、ですか?」と、彼が再び聞いた。
「あ、すいません。そこを右に行って、中央通りに出て……」
 夏津男よりずっと背が高い。トン子は彼を見上げた。夏津男はずんぐりむっくりで、ヒールを履いたらトン子の方が高くなってしまう。似ている動物は、カバかチャウチャウだ。それとこの九頭身の差たるや、同種族のDNAではないだろう。エジプト犬は、カバとは違う遺伝子の筈だ。
 気がつくとトン子は、その松屋デパートまで一緒に歩いてきてしまっていた。
「ありがとう。まさか一緒に来てくれるとは」
「あ、たまたま方向が一緒だったもので」
 トン子は言い訳をした。ほんとうはぽーっと見てて時間が飛んだだけだ。
「お姉さんのここのオススメは何ですか?」
「? 屋上のフルーツパーラーかな」
「じゃこんど、おごりますよ」
 その白い歯の笑顔に、トン子はやられた。太陽がその笑顔に、真っすぐに当たってきらめいた。太陽の真正面に出せるほどの美しい笑顔。しかも自分だけを見つめている。彼女はその瞬間、何センチか浮いたかも知れない。
 銀座の街には、極彩色の妖怪「心の闇」たちが、往来の人々にまぎれて彷徨っていた。数センチ上空でため息をついたトン子に取り憑いた、その心の闇の名は、妖怪「めんくい」。赤黒く、目が虚ろで、ぶよぶよの女の腹のような顔をしていた。
 先を急ごうとした彼の背中に、思わずトン子は言った。ちょっと上ずっていたと思う。
「オススメは、生クリーム多めなの」
「あ……でも今俺金欠でさ」
「大丈夫よ。すすめたのは私だから、……おごる」
 こうして彼女は銀座の空中庭園で、自分だけを見つめる白い笑顔との、夢のような三十分を買った。

 「めんくい」に取り憑かれたトン子は、歯止めが効かなくなった。
イケメンアイドルグループのポスターやCDを買いたいだけ買いこみ、ライブDVDを好きなだけ買った。部屋でヘビーローテーションし、二十四時間イケメンに囲まれた。次は直接会うこと。生の舞台やライブだ。なんだ。画面の向こうのフィクションなんかじゃなく、現実にこんな生き物がいるんじゃないか。お金を払えば払うほど、その人たちと同じ時間を共有できるのだ。トン子はイケメン舞台を全通(ゼンツー)(全公演通うこと)し、地方公演もついてゆく。その為に地方のホテルをおさえ、有休も全部使う。グッズを全部買おうとするといくらあっても足りない。でもその売上が彼らの人気のバロメーターでもあるから、「応援」しなければならない。トン子に取り憑いた妖怪「めんくい」は、彼らにため息をつくたび膨れ上がってゆく。きらきらは海の向こうではなく、金で買える実在となった。

 銀座で出会った彼から電話がかかってきた。彼の名は冬彦(ふゆひこ)といった。役者やモデルをやっているのだが、そんなに売れてる訳ではないから、いつも金欠だと言っていた。トン子はおめかしして出掛けた。タクシーで最高級のレストランにつけ、最高級のワインを開けた。たいしたこともない給料のOLが、コツコツと貯めてきたお金である。夏津男との将来を考え、何にも使わず、ずっと貯めてきたお金である。しかし年上の女が年下の男を連れてゆくのだ。半端な所には連れて行けない。「いま使う為に、貯めたのだ」と彼女は自分に言い訳した。
 料理の中にニンジンが入っていて、トン子は子供のように顔をしかめた。
「……もしかして、嫌い?」
 うなづいたトン子に、冬彦は白い歯の笑顔で応えてみせた。
「我慢なんて、しなくていいんだよ」
冬彦はそう言って、トン子の皿から王子のようにニンジンをさらった。
 トン子は衝撃を受けた。
 イケメンは我慢しないんだ。だから、心に汚いものを溜めこむこともないんだ。我々は色んな我慢や毒を溜めこむから、肌が汚くなり、顔が毒で歪み、頭蓋骨ごとひずみ、心に澱がたまってゆくのだ。きれいなのは、そもそも毒がないことなんだ。
 予約しておいた最高級のホテルの最上階の部屋で、彼と朝を迎え、トン子は最高の美しい幸福を得た。人生で最も美しい朝だった。今まで人生で溜めてきた汚泥が、ここで全て流されたと思った。
 彼女に取り憑いた妖怪「めんくい」は、臨界の大きさに達した。

    3

 次の日曜は、夏津男と会う約束だった。たった二週間ぶりなのに、ずいぶん長い間会っていない気がした。相変わらず電車移動で、ホームの上で待ち合わせた。きらきらな日々から庶民の感覚が戻ってきた。ああ、こっちが現実なのか。
 ホームにいる人たちはみんな薄汚れている。きっと我慢を少なからずしている人たちなのだろう。誰の為の我慢なんだろう。私は冬彦というきらきらの為に、我慢して汚れを背負ってあげなければならない。
「よう」
 夏津男は既にベンチに座って待っていた。相変わらずずんぐりむっくりの、冴えない顔だった。
「やあ」
 トン子は現実に挨拶した。
 夏津男はトン子の襟を黙って直してくれた。そんな小さな所直したって、意味なんかない。もっと大きな所を直したいというのに。

 電車に乗ろうとして、トン子は小さな悲鳴をあげた。
「どうしたの? 気分悪い?」と、何も知らない夏津男は気遣った。
「ちょっと、……わ、忘れ物、しちゃった。先行って。……あとで追いつく」
「そう。二駅先だから。コンビニとかで待つわ」
「オッケー」
 トン子は嘘をついた。
 電車の座席に、偶然冬彦が座っていたからだ。
 トン子は電車に背を向けた。こんな所で鉢合わせるとは。夏津男は何も知らないまま電車に乗り、おそらくは冬彦の向かいの席に座った。赤い派手なジャケットを着た冬彦は、トン子にまだ気づいていない。ドアの閉まる音を背中で聞き、トン子は電車と反対方向へ歩き出した。
 冬彦には気づかれていない。夏津男と冬彦は顔見知りではない。おそらく、いや、絶対、二人が急に話しだして共通の女の名を上げることはないだろう。イケメンと不細工が突然話し始める訳がない。だって彼らは、同じ場所の亜空間同士に存在するのだから。

 十二時の少し前、運命の電車はゆっくりと滑り出しホームを離れた。何本か電車を遅らせ、来た電車にそ知らぬ顔で乗ろう。何事もなかったように夏津男にふるまえば、分かりゃしないさ。
 そこに、天狗のお面をした少年が話しかけてきた。
「あの、すいません」
「? ……な、なに?」
「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」
「はあ。…………はあ?」
 あまりにも唐突なことを言われて、トン子はさっぱり分からなかった。天狗? まるで古ぼけた民芸品のようなお面……宗教の勧誘か何か? 子供をダシに使って? トン子は起きていることが理解できない。
 天狗面の少年は小さな鏡を取り出し、彼女を映してみせた。
「あなたの肩に取り憑いたのは、妖怪『めんくい』」
 鏡の中のトン子の肩には、ぶくぶくに太った赤黒い妖怪が映っていた。脂肪に埋もれる臍のように、両目が光っている。
「なにこれ!」
 トン子は思わず自分の肩をはたいた。しかし肩にそいつはいなくて、鏡の中にだけいた。自分の肩と鏡の中を、思わず見比べる。
「妖怪は、普通の人には見えない。でも取り憑かれたことを自覚した宿主には、『心の闇』は鏡に映って見えるんだ」
 少年は、妖気漂う天狗面を外して素顔を見せた。白磁の肌に黒い大きな瞳が印象的な、聡明そうな小学生だった。お供の太った虎猫が大あくびをする。
「オレは高畑(たかはた)シンイチ。またの名を、妖怪退治をする『てんぐ探偵』」
「よ……妖怪退治? ……何言ってんの?」
「あなたに取り憑いたのは、妖怪『めんくい』。つまりお姉さん、イケメンにしか興味ないでしょ」
「は、……そ、それの、なにが悪いのよ!」
「図星かあ」
「なんなのよキミは! なんかのトリック? なんかの宗教? 大体、イケメン好きで悪いって言うの? みんなそうでしょ? 今、面食いなんじゃなくて、昔から、女はみんな面食いでしょう!」
「男は顔じゃなくて、中身でしょ!」
「じゃ女は?」
「……お、女も、顔じゃなくて中身だよ!」
「今一拍あったじゃない! その一瞬の間を、不細工は一生背負うのよ! アンタみたいな子供に、私の人生が分かってたまるもんですか! こんな、闇の地下組織のような生き方が!」

 その時、金属をこする急激なブレーキ音が響いた。

 続いて大きな衝撃音。
 ホームの上の皆、その方を見た。さっき出た電車の方向、線路の向こうだ。線路はゆるくカーブしており、先のほうは見えない。
 何ともいえない間のあと、事務的なアナウンスが流れた。
「お客様にお知らせ致します。次の列車の到着、しばらく見合わせます」
 次の列車の話じゃないだろう。今出た電車がどうなったかだ。トン子は胸騒ぎが止まらなかった。夏津男にも冬彦にもケータイは繋がらない。
 どう考えても事故だ。夏津男と冬彦の乗った電車か、そうじゃないのか。「救急車」という単語が駅員たちの会話から聞き取れた。無線の声が入り乱れた。パニックを制止するマニュアルでもあるのだろうか、無感情なアナウンスが流れた。
「お客様にお知らせ致します。前を走る列車に事故がありました。状況が分かるまでしばらくお待ちください」
「……脱線だって」と、スマホをのぞいていた誰かが言った。
「マジで? じゃあしばらく動かないよねコレ」と誰かが答えた。
「……」
 トン子は走りだしていた。
改札から出て線路沿い。カーブの向こうは見えない。ケータイは繋がらない。息が切れ、重い体でトン子は走った。ヒールを履いてなくてラッキーと思った。
 大きなカーブのフェンスの手前に、救急車が何台も来ていた。その隙間から横転した列車が見えた。何かの巨大生物が寝返りを打ったように、腹を見せていた。救急隊員が怒鳴っていて、報道のヘリが何機も飛んできた。

    4

 幸い、夏津男も冬彦も命は助かった。しかし重傷で、入院は長引きそうだった。「複合脱線」という珍しい事故で、連日ニュースで取り上げられ解説をたくさん聞いた。事故の大きさの割に死者が少なかったのが幸いだった。

「顔が……元に戻らないですって?」
「ええ。命に別状なかったのが救いなくらいですよ。骨も歯もぐちゃぐちゃで、皮膚が裂けていたんですからね。今は整形の技術もありますが……」
「彼、モデルなんです」
「普通の生活なら大丈夫でしょうが、そういうレベルは難しいかと……」
 夏津男と冬彦の搬送された病院は同じだった。担当医に話を聞き、トン子はショックを隠せない。銀座で出会ったあの美しい歯は、ホテルの朝ため息をついたあの美しい横顔は、永遠に失われてしまったのだ。
 怪我は冬彦の方が重く、「重傷の方から」とトン子は心に言い訳し、冬彦の部屋へ先に向かった。

 病室のドアを開けると、女が五人、六人、七人……八人いた。どれも違う香水で、混ざり合って修羅場になっていた。花瓶に沢山花が入れられ、そこも修羅場になっていた。
 競走馬のような奇麗目の女が三人上座に座り、自分と同じ不細工(サイド)が五人下座にいた。
「九人目が来たわよ」
 と、上座の化粧の濃い女が言った。
「……あなたはそっち(サイド)の女のようだけど」
 痩せたモデル風の女が、座る場所を示した。トン子は不細工(サイド)に割り振られるのは慣れている。女はワントーン甘えた声で、包帯でぐるぐる巻きにされた冬彦に言った。
「ねえフユくん、私たちのうちどれが本命なのか教えて? こっちの女たちは財布だってのは分ったからさあ」
 ああ。やっぱそういうことだよね。不細工はそういう空気を読むことには慣れている。
「九人と付き合うのはいいのよ? 誰が本命か分かれば、残り八人は手を引くし」
「……うまく……喋れない……」と冬彦は怪我のせいにして逃げを打った。
「そうよね、フユくん辛いものね」と不細工(サイド)の女がフォローして頬を撫でた。
「指さしてよ」と、痩せた女が命令した。
 冬彦は観念した。プルプルと震えた手で、一番美人の女を指した。二人の上座はブチ切れて立ち上がり、下座の五人は泣き出した。
 トン子はその爆心地へさらに爆弾を落とした。
「彼の顔、ぐちゃぐちゃで元には戻らないって先生が……」
 修羅場は、解散ムードへ落ち着いた。

 トン子は下の階の、夏津男を次に見舞った。
「よう」
「……やあ」
 夏津男の顔も全身も包帯まみれだ。花瓶には花ひとつなかった。夏津男には、いつか謝らなきゃいけない。夢を見ていたとはいえ浮気は浮気だ。
 そこへ、小さな女の子を連れた親御さんが菓子折りを持って挨拶にきた。
「この度はウチの娘の命を助けて頂いて、本当にありがとうございました」
「え? ……どういうこと?」
 親御さんは、娘から聞いたという話を二人にしてくれた。

 あの脱線事故のとき、今まさにひっくり返ろうとする車内で、その小さな女の子を突き飛ばして逃げた男がいたそうだ。自分だけ助かろうと思ったのだろう。突き飛ばされた先に、たまたま夏津男がいた。夏津男は女の子を抱き止め、背中を丸めて彼女を守った。一回転する電車の中で、彼女のクッション代わりになったのだ。夏津男は肩甲骨を複雑骨折、ついでに顔面をしたたかに電車の天井にぶつけ、顔の骨も陥没した。

「まあ、とっさのことで、考えてる暇なんてなかったからねえ」
 包帯の中で夏津男は笑った。
「けど小さい女の子を突き飛ばすなんて、誰? 非道い」
 トン子はあの電車の席を思い出していた。夏津男が座る反対側、向かいにいたのは、赤いジャケットの冬彦。
「あのさ。突き飛ばした男の人って、何色の服だった?」
「……赤」
 冬彦にあらためて確認するつもりもない。どうせもう二度と会わないのだ。きらきらが輝いている海に近づいていったら、それが実は泥水であることを知ったような気分だった。あのきらきらは一体何だったのだろう。近くに行ってみれば、冬彦は単なるずるくて嘘をつく、ただの矮小な生き物にすぎなかった。そんなの今まで、色んな毒だらけの現実の人間で知ってきたことではないか。
 親御さんが彼に済まなそうに謝った。
「娘の為に……顔の骨まで折れたりしたそうで」
「いやあ」
 夏津男は屈託なく笑った。
「どうせ不細工ですから」

 二人が帰ったあと、トン子は夏津男に尋ねた。
「あのね、……もし、もしもよ。あの運命の電車に私も乗ってたとするじゃない?」
「うん」
「あの女の子と私、どっちを助けた?」
「? どっちとかないでしょ」
「?」
「二人で、あの子を助けるでしょ多分」
「え……」
 トン子は今まで、恋とは遠い憧れのようなものだと思っていた。海の向こうにあり、それを追い求めるようなものが恋なのだと。夏津男はそうは思っていない。恋は自分と同じ側、隣にいると言っている。
「……ごめんなさい。謝りたいことがあります」
「?」
「あなたに、ホレ直しました」
「はい? ……どこに?」
「心が、不細工じゃないところです」
 こうして、妖怪「めんくい」はトン子の心からすとんと外れた。

「不動金縛りの術!」
 シンイチの詠唱が病室に響き渡った。
 病室は日蝕のように暗くなり、トン子も夏津男も、廊下の看護婦さんもぴたりと時を止めた。腰のひょうたんから、シンイチは天狗の面を出した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 天狗の第一の神通力は「火伏(ひぶ)せ」である。すなわち炎を自在に扱う力だ。京都愛宕(あたご)神社、静岡秋葉(あきば)神社はいずれも天狗を祀ることで知られる。愛宕太郎坊(たろうぼう)、秋葉三尺坊(さんじゃくぼう)がその名だ(愛宕権現、秋葉権現と呼ばれることも)。いずれも火事を防ぐ火伏せの神として信仰されている。天狗は火を伏せ、火を付けるのだ。
 (あか)い鞘から黒曜石の短剣を抜くと、刀身から炎が溢れだして闇を照らした。それは魔を浄火する、天狗の炎である。
 あのときの少年だ、とトン子は金縛りの意識の中で感じていた。本当に一瞬のことで、トン子は天狗面の少年のことをあまり覚えていない。彼女の記憶は、闇を照らしたこの炎である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 一太刀で妖怪「めんくい」は真っ二つとなった。断面から炎が吹き上がり、妖怪を包みこみ真白な塩へと浄火した。


 病院の中庭まで出て、トン子は夏津男の車椅子を押した。今日の天気は格別で、あの海にいった日以来だった。
 トン子は自分でつくってきた弁当を広げ、夏津男と二人で食べた。
「オイオイ、なんで俺の嫌いなオカズばっか入ってんだよ」と、夏津男はゴネる。
「体をつくるには必要なものばかりでしょ。早くリハビリしなきゃ。我慢して体に良いものを食べて、ちゃんと体をつくるの!」
「お前、俺が嫌いなんだろ」
「逆でしょ? 愛してるから、ちゃんと食べてほしいの」
 嫌がる不細工な口に、トン子は笑っておかずを押し込んだ。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第三話 「爆音ギタリスト」 妖怪「いい子」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「いい子にしてなさい」
 それは長女の真理(まり)にとって、長い間の呪縛だ。
「いい子にしてなさい。あなたはお姉ちゃんなんだから」と、母に言われ続けたのである。
 その呪いの鎖によれば、長女は先に生まれた立場だけでなく、いい子であるべきであり、模範的で、優等生で、妹よりしっかりし、自分の意志よりも皆のことを第一に考えるべきであった。

 伊澤(いざわ)真理の母、嘉子(よしこ)は生真面目な性格で、長幼の別をきちんとつけて育てた。姉は姉であるべきだ、とするものの、では「妹はどうあるべきか」について、真理は彼女から確固たる考えを聞いたことはない。
 物心ついた時からそうだった。ケーキを分けるときは、大きいほうと小さいほうがあるならば、大きいほうを妹に譲るのがあるべき姉の姿だった。仮に大きさが厳密に同じだとしても、イチゴの乗っているほうは譲るべきだ。それが姉。「譲る」といえば聞こえはいいが、姉にとってみれば、大きな赤いイチゴは、永遠に手に入らないものの名である。姉は生まれながらにイチゴを食べる権利を剥奪され、妹は生まれながらに独占する権利を有する。
 小学三年生のとき、動物園にいった。真理は、ピンクのカバのぬいぐるみと目が合った。彼はつぶらな瞳で真理を見つめ、彼女は恋に落ちた。どうしても彼と暖かい布団の中で添い遂げたくなり、真理は一世一代の駄々を母にこねた。その駄々の何が下手だったのか、いまだに真理には分らない。ただ返ってきた母の言葉は、「お姉ちゃんなんだから我儘言わないで、いい子にしてなさい」という、いつもと変わらぬ呪文だった。ぽろぽろと涙を流しても、真理には声を上げて泣くことが出来なかった。何故なら、声を上げて泣くことは「いい子」ではないからだ。そばで見ていた妹の優希(ゆき)が、自分より下手と思われる駄々を三秒こねただけで、そのつぶらな瞳は彼女のものとなった。
 自分の駄々のどこが悪かったのか、いまだに真理には分らない。ただそれ以来、真理は駄々をこねるのをやめた。

 自分は姉で、責任感のあるいい子でなくてはならない。家族で写真を撮るときも、優希が真ん中になるように席を譲り、控えめに端にいるべきだ。どの写真でも、優希は天使のように真ん中で笑い、真理は端で真顔である。自分は笑うのが下手だと、いまだに思う。天使のような笑い方など、彼女は一度も人生で学んでこなかった。
 妖怪「いい子」は、だから真理の半生に取り憑いている。彼女がいい子であればあろうとするほど、妖怪「いい子」は彼女の心から栄養を吸い、少しずつ成長した。しかし彼女は中学生になって、親に黙って突然バンドをはじめた。そうして心のバランスを取り戻そうとしたのだ。表向きは生徒会委員だが、裏ではシド・ヴィシャスを愛し、パンクとヘビメタを愛する二重生活。そうして伊澤真理という人格の、一端の完成を見た。
 高校の卒業アルバムでも、真理は無意識に端に写っている。妖怪はデジタル写真に写らず、アナログ写真には写る。この頃はアナログでも撮っていたから、我らがてんぐ探偵シンイチが見れば、妖怪「いい子」が彼女の肩口でニヤニヤ笑う姿を指摘するだろう。

 彼女は大学入学と共に、山形の親元を離れ東京へ出た。そこでようやく、彼女は「本当の自分の姿」を手に入れた。長い黒髪を切り落として金髪に染め、耳にはピアス穴を沢山開け、目の周りを黒く塗り、緑のチークと紫の口紅をし、つまりは顔の全てに加工を施した。淡い色のブラウスと長めのスカートは、合成皮に棘のついた上下と、銀の鎖と十字架と髑髏と、呪いの言葉が印刷されたTシャツに変わった。東京で本当のパンクロックをやるのだ。彼女は自分と似たような好みの子たちとバンドを組んだ。田舎の子の、典型的な大学デビューだった。
 だからと言って、彼女から妖怪「いい子」は外れなかった。それは彼女のアイデンティティの一部に、最早なっていたのかも知れない。シンイチが美容院の前で偶然彼女にぶつかるまで、それは誰にも、彼女自身にも知られることはなかったのだ。

    2

 その日の放課後、シンイチは好物のソフトクリームを舐めながら、河原グランド目指して走っていた。友達のススム達とサッカーの約束があったからだ。商店街の裏道から抜けようと角を勢い良く曲がると、丁度美容院から出てきた真理にぶつかってしまった。彼女が担いでいた黒のギターケースにシンイチは手を取られ、彼の愛すべき乳白色の塔は宙に舞い、頭からの華麗な着地を地面に決めた。
「うおおおおおおお!」
 シンイチの絶望的な雄叫びに、真理は思わず同情した。
「ごめん。弁償する。それでこの落ちたソフトクリームは帰ってくることはないけど、ソフトクリームが地面に落ちることほど悲しいことは世の中にはないよね」
「お姉さん、話が分るね」
 悲惨に飛び散ったソフトクリームから顔を上げたシンイチはぎょっとした。目の周りを黒で塗りつぶした、全身黒革に棘をつけ、銀色の鎖を下げた恐ろしい女がいたからだ。ヒーローものなら悪役がするような格好だ。しかもその肩には、対照的な、妖怪「いい子」が取り憑いていたからである。

 真理に買ってもらった真新しいソフトクリームを舐めながら、シンイチは妖怪「いい子」の話をした。
「でもさ、お姉さんの見た目は、どっちかというと『悪い子』だよね。『いい子』に取り憑かれてるのとは真逆だよ」
 妖怪「いい子」は、大人に媚びた幼女のような顔をして、長い睫毛の目をぱちくりさせている。派手なレモンイエローで、キラキラした目は体の半分を占めている。シンイチは腰のひょうたんから出した手鏡を真理に見せ、妖怪「いい子」を映してみせていた。
「その黒いギターケースの中には、絶対マシンガン入ってるよね? ダダダッと撃って、バラの花を散らすんだよ」
 彼女は笑った。
「ただのフェンダーギターだよ。多分さ、『いい子にしてなさい』と言われてきたことへの反動なんじゃない? 最初に私がバンドはじめたのも、単なる母親への反抗だったかもだしさ」
「じゃあそれで心のバランスは取れてるのかなあ。そんなに心の闇は大きく成長してないし」
 真理の肩の「いい子」は、何年も取り憑いている割に、グレープフルーツ程度の大きさに過ぎなかった。
「でもさ、自分の心のバランスの為に音楽やってんじゃないよ。私は、私の音楽で、世界を変えたくてやってんだよ」
「カッケー!」
 そこへ、電話がかかってきた。ディスプレイを見、真理は嫌な顔をした。
「出ないの?」
「……出たくない相手なの」
「じゃ出なきゃいいじゃん」
「……そういう訳にいかないの」
 真理は直立不動になり、電話に出た。その瞬間、彼女の妖怪「いい子」が膨らんだ。電話は、母の嘉子からだった。来週の祖母の三回忌に、長女として顔を出すこと、というのが内容だった。
「……」
 真理は思いつめた顔をして、出てきたばかりの美容院へ入った。シンイチは彼女が再び出てくるまで、ソフトクリームの残りを舐めて待つことにした。

 てんぐ探偵シンイチには、天狗の力が備わる。山の王たる天狗は、全ての動物と心が通じ、動物の言葉を話すことが出来る。とくにシンイチは猫やカラスとの会話が得意だ。
 今日の野良猫情報網によれば、新たな妖怪出現情報はなく、どこの屋根の日当たりがいいかというのが話題のようだった。

 美容院の扉が開いた。出てきたのは、黒く長い髪の、色白のすっぴんで黒縁のメガネをかけた女だった。
「え? ……さっきのお姉さん?」
「なんだ。まだいたの」
「か、髪の毛って伸びるの?」
「ウィッグ。まあカツラみたいなもんよ。……女って、いくらでも化けられるのよ」
「へええええ!」
 服装も違ったら、シンイチは同一人物と見分けられなかったことだろう。ていうか、同じ服を着た別人だと思ったぐらいだ。肩に取り憑いた妖怪「いい子」が目印で、やっと確信できたぐらいだ。そしてシンイチの予想通り、妖怪「いい子」は少し大きくなっていた。
 真理は黙って駅の方へ歩き出した。
「ねえ! どこ行くのさ!」
「喪服を買いに行くのよ。法事の為に帰省するの」
「そこで、『いい子』を演じなきゃいけないんだね?」
 真理の足が止まった。
「そうよ! 何が悪いのよ!」
「ホラ、今また肩の妖怪が膨れた!」

 全身黒の清楚なワンピース、黒く長い髪で黒縁のメガネ。生徒会時代の私がそのまま成長すればこうだろうという見かけを、彼女はデパートの売り場で手に入れた。礼服売り場から出てきた彼女の「いい子」は、グレープフルーツ大から、既にスイカ大になっている。
「そんなのやめときなよ! 無意識に『いい子』を演じるのは、妖怪のせいなんだよ!」
「放っといてよ! アンタなんかに何が分るんだよ!」
 真理は怒って走り去った。
 シンイチは腰のひょうたんから、隠形(おんぎょう)の力をもつ「天狗のかくれみの」を出した。透明な姿になり、彼女の法事を尾行することにしたのである。

    3

 伊澤家は、山形の田舎の旧家である。黒づくめの親戚一同四十五名が、本家の三回忌の為に集まってきた。「優等生」で長女の真理は、黒の喪服と黒髪と黒眼鏡で地味に座り、黙ったまま親戚たちに「いい子」を演じていた。東京の話を聞かれても、真面目に勉強している話しかせず、バンドのことなど一言も漏らさない。
 式も終わり、精進落としの宴会が催された。親戚一同が座敷に寿司や肉や酒をふるまわれた。久しぶりに会った妹の優希が随分派手になったのを見て、本家の法事にふさわしい髪の色や口紅じゃないと言いたかったが、この時間さえ終われば、黙って東京へ戻って縁は切れると我慢した。
 周囲に聞かれるままに、優希は自分の派手な男関係を自慢していた。ナントカさんとも付き合った、ナントカさんとも付き合った。その遍歴の中に、真理の片思いだった御法川(みのりかわ)さんが入っていて、真理は静かだった顔を崩した。
「その人って……」
「昔お姉ちゃんが好きだった人ってのは知ってたよ。でも向こうから好きだって言って来たし、興味があったから付き合ってみたの」
「そういう事で、簡単に付き合うものじゃないでしょう」
「そんなこと、付き合ってみないと分んないじゃん。つまんないからもう別れたけど」
 優希は、自分の寿司の中から嫌いな鯖と赤貝を取り、真理の皿に移して、天使のような顔で笑った。
「これあげるから、マグロとウニ譲ってよ」
 恋はお寿司とはちがう。そんな簡単なものじゃない。そう切れようと思った。いつまでも私に甘えてんじゃないわよ。そう切れようとも思った。なんであんたは皆に愛されてる前提で、天使のように笑うのよ。そう切れようとも思った。姉として、理屈立ててきちんと説明するべきだと真理は思った。妹がなんの理由もなく許されて存在している事に、理屈が立たなかった。そんなの甘えだ。お前は人生に甘えてる。なんなのその服。順番に言葉が彼女の中でぐるぐる回り、結局真理から出てきたのはたった一言だった。
「カバは私のものになるべきだった」
 優希はぽかんとなり、周りの親戚も同じ顔になった。
「……何のこと? お姉ちゃん」
「いい? 私は二歳しかアンタと変わらないの。二年しか人生の先輩じゃないのに、何で何年も何年も、一生アンタに譲りつづけなきゃなんないのよ。もう全部譲ったわよ。一生分譲ったわよ!」
「お寿司のことで怒ってんの? あ、御法川のこと?」
「全部よ! カバだってイチゴだって写真だって!」
「一体何の話よ?」
「何で私ばっか我慢を続けなきゃいけないのよ! もう譲らない! 人生の先輩としての義務は果たしたわよね! むしろ、今まで譲った分返してよ!」
 支離滅裂なのは自分でも分ってる。だが堰を切ったように感情が止まらなかった。
「どうしたの?」
 二人の喧嘩に、母の嘉子が割って入った。
「お母さんもお母さんよ! 本当の私を何も知らない癖に! どうして優希はやりたい放題で、私だけなんでも我慢しなきゃいけないのよ! どうして私はいい子じゃなきゃいけないのよ!」
「私は、いい子であることがあなたの為だと思って……」
「そんなの本当の私でも何でもないわよ! 私はシド・ヴィシャスを愛してるのよ! そんなことも知らないでしょ? 誰にも言ってないからね!」
 彼女は立ち上がった。黒縁のメガネを外し、黒い髪のウィッグをぶちぶちと外して畳に叩きつけた。現われたのは、田舎のおごそかな場には似つかわしくない、ホワイトブリーチの効きまくった金髪だった。
 母の嘉子も親戚もどよめいた。妹の優希だけが落ち着いて、マグロとウニを掠めていた。

    4

 あれだけのブチ切れパフォーマンスをしていながら、妖怪「いい子」は彼女から外れなかった。シンイチはかくれみのの中で火の剣を抜く準備をしていたが、膨らんだ「いい子」がしぼむだけでストレス発散にしかならず、てんぐ探偵としての出番はなかった。
 翌日。美容院にウィッグを帰す為真理が家を出た、との情報を電柱のカラスから受けたシンイチは、美容院の前で先に待っていた。カラスはじゃれあって欲しそうだったが、気味の悪い子に見えるから今は遠慮してくれ、とシンイチは断り、カラスたちは電線の上でしょんぼりした。
 金髪姿で現れた真理に、シンイチは言った。
「全然似合ってなかったよね」
「そりゃあそうでしょ。黒髪の私は本当の私でもなんでもないし、ただのポーズだから」
「ううん。金髪のほうがだよ」
「え?」
「だってさ。それは映画で言えば絶対悪役だよ。人をビビらせる為にする格好だよ。なんか顔に恐い色も塗ってさ。ソフトクリームの落下を悲しんで、ちゃんと弁償してくれるお姉ちゃんの顔じゃないよ」
「……そうかな」
「ねえ、シド・ヴィシャスって誰?」
「私の尊敬するベーシストで、パンクの神様。私は彼が世界を変えたように、世界を変えたいの」
「どう変えたの?」
「……難しい話をすると、権力と闘ったのよ」
「権力って?」
「当時の腐った政府とか、技巧ばかりで内容のなくなった退屈な音楽とか」
「へえ。今は何やってるのその人?」
「残念ながら、死んだの」
「そうなんだ。じゃお姉さんはその人のあとを継ぐんだね!」
「え?」
「? 違うの?」
「あ……いや、そんな大げさなこと、考えてなかった。足元に及べばいいとか、それぐらいしか」
「でもいつか継げるといいじゃん! もしその人が死ななかったら、どういう音楽を作ってたのかな!」
「……そんなの、考えたこともないけど。……やっぱり、自由を歌ってたんじゃないかな。……あのね、シドが悪役みたいな格好をしてたのはね、キャラづくりの為なの。『悪童の(ヴィシャス)シド』も芸名なの。それは、権力を倒すことを印象づける為なの」
「じゃホントの悪者じゃないんじゃん」
「そうなのよ! ホントは繊細な人なのよ!」
「じゃ、悪を倒したあとにどんな音楽をつくったか、ますます見てみたいね! 悪の大王をぶっつぶしたあとはどうしたの? 平和が訪れるの?」
「平和っていうか、……自由、じゃないかなあ」
「自由って?」
「……また難しいことを聞く子供だね」
 真理は美容院のウインドーにうつる自分の姿を見た。悪役が着る皮のスーツに、悪役みたいな金髪で、悪役みたいなメイクの女。その肩に、いい子ちゃん顔した妖怪「いい子」が、目をキラキラさせてやがる。
「自由ってのは、妹の優希みたいに、好き勝手生きるってことじゃないとは思うんだよね」
 店員が真理に気づいて出てきた。真理はウィッグを返した。
「そろそろ地毛も伸びてきたし、同じ色に染め直します?」と、美容師が聞いてきた。
「ためしに、……自由な感じにしてもらっていいですか?」
「はい?」
「髪型も色も任せます。一回、自由にやってみてください」
「……はあ」
 シンイチはカラスたちの懇願に負け、彼らとじゃれあっていた。彼女の心に何か起こると思い、待っていたのだ。

 美容院から出てきた真理は、明るい茶色の髪にゆるくパーマを当てた、ゆるふわな女の子になっていた。メイクもナチュラルにしてチークを足し、死を連想させる悪役顔から、明るく生気が戻ったように変わっていた。
「女ってやっぱ化けるね」と真理は他人事のように言った。
「自由のイメージってこんな感じかあ!」
「かどうかは、分んないけど」と真理は苦笑する。
「『その先』なんて、ちゃんと考えてなかったよ。アドバイス料にソフトクリームおごったげる。いや、来週のライブの招待席がいいな。ソフトクリーム食べ放題にするから遊びに来てよ」
 シンイチは小躍りした。
「やったあ!」
 そして、一番ストレートな方法を思いついて提案してみた。
「それにさ、お母さんと妹さんも呼べば?」
「……はあ? なにそれ」
「聞かせればいいじゃん。自分の音楽を!」
「えっ。そんなの、絶対分んないに決まってるよ」
「分るか分んないか、聞かせてみないと分んないじゃん。お姉ちゃん、音楽で世界を変えるって言ったろ?」
「……言ったよ」
「じゃあいいじゃん!」
「……言ったけど」
 世界を変えるなんて、もっとデカイことを想像していた。半径二メートルを変えるなんて、想像してもみなかった。

    5

「真理!」と母の嘉子は、巨大な花束とケーキの差し入れを持って控え室に現れた。
「東京のコンサートに出るなんて、あなたも出世したのね!」
「いや……単なる、バンドいくつか集めたライブなんで、そういうのとは違うんですが」
 真理は母の誤解を解こうとしたが、舞い上がっている嘉子には無駄だった。
「スターは誰だって小さい所からはじめるものよ!」
「いや、スターになれるかどうか分んないけど」
「なるわよ! 伊澤家一族の希望がかかってるのよ!」
「関係ないし!」
 妹の優希は優希で、控え室のフライヤーを漁ってはイケメン探しをしている。
「お姉ちゃんこのバンド紹介して!」
「そいつらヤリ捨てで有名」
「それでも東京のバンドってだけでステータス上がるよね!」
「……知らんわ」
 嘉子が真理に言った。
「今日はあなたが何を歌うか、聞かせてもらうわよ」
「いや、私、ギターだし。歌うのは別の人だし」
「じゃそのギターが、何を歌ってるのか聞く」
「は? 分るわけねえだろ」
「分るわよ。娘の言葉ですもの!」
「……」
 ここは東京の郊外、高円寺の、汚くて小さな地下ライブハウスだ。客席の特等席に、シンイチとネムカケと、嘉子と優希が招待されていた。三千歳になる老猫ネムカケは、芸能は浄瑠璃に限ると考えるが、現代音楽にも造詣を深くすべきという進歩的な考えの持ち主である。シンイチは食べ放題のソフトクリームを舐めながら、彼女の出番を待った。
 前のバンドの出番が終わり、真理のバンドが出てきた。彼女は身長が小さいのに、ステージ上では一番大きく見えた。そこが彼女の本当の居場所なのだとシンイチには分った。真理は、自分のサイズに合っていない、大きな白と黒のフェンダーギターを構えた。
 一曲目がはじまった。爆音のギターソロが響いた。嘉子も優希も思わず耳を塞ぎ、ネムカケは目が覚めた。シンイチは右手にソフトクリームを持っていたので、左耳を塞ぐことしか出来ず、右耳から脳に直接つんざく音を聞いた。
 観客が跳ねた。七色のスポットが暴れた。

 いい子でいることは、ずっと控え目に受動的でいることだ。いい子でいたって、誰かが何かを与えてくれるまで待つだけだ。私はそれまで待ってられない。私は私の言葉を手に入れた。それがこのギターだ。
 真理はステージの上で、母がこの「言葉」が分からなくてもいいと思っていた。アンプの目盛りをマックスにし、この叫びがなにもかもブチ壊せばいいと思っていた。
 ところが、嘉子は急に手拍子をしはじめ、お遊戯を見る親のように応援をはじめたのだ。勘弁してくれよ。周りの客のヘッドバンキングとは場違いすぎだろうが。思わず真理は笑ってしまった。嘉子は私を嫌っているのではない。多分私と同じくらい、不器用なだけなのかも知れない。そりゃそうか。私の母なんだものね。

「二曲目は、新曲です」
 汗を流して息を整えながら、真理はMCを務めた。
「最近、私が作りました。タイトルは『Pink(ピンクの) Hipopotamus(カバ)』。テーマは自由。意味は……」
 真理は客席を見た。嘉子と優希が見ていた。その目を見ながら彼女は言った。
「……意味は、『とっくに忘れた』ってこと」
 天使のように笑えたかは定かではない。笑顔よりも、言葉よりも、今はギターの音を正しく出そうと、真理はコードを押さえピックを構えた。
 その瞬間、長年彼女の肩に巣食っていた妖怪「いい子」は、汗の噴出す彼女の肩からすべり落ち、宙へと浮いた。

「不動金縛り!」
 シンイチはライブハウス全体に不動金縛りをかけ、腰のひょうたんから天狗の面と火の剣を出した。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 長年の凝り固まった手応えが、小鴉から伝わってきた。妖怪「いい子」は真っ二つになり、炎に包まれて清めの塩へ浄火された。ドントハレ、とは、遠野弁で「めでたしめでたし」のことである。「全てが晴れ渡った」という意味だ。

 呪縛の鎖は、もうそこになかった。風を孕んだ茶色の髪で、あとはどう生きるかだ。

 1。2。 1、2、3、4。
 世界は、変えようとする者だけが変えることができる。
 真理のギターは、今までで一番大きな音を出した。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第四話 「炎の巨人と黒い闇」 妖怪「弱気」登場


    1

 闇にかざすのは、炎だ。深淵なる闇を覗きこむとき、人は火をかざし、そこに何がいる(・・)のかを確かめようとする。

 シンイチの闇が晴れて振り向いたとき、彼は巨大な炎の柱を見た。
 それは炎に包まれた、巨大な天狗であった。
「て……天狗?」
 ジャングルジムに座っていて、ジャングルジムより大きかった。岩より大きな朱い顔に、隆々たる一本鼻がこちらを向いた。憤怒の顔に光る金の目。目も眉も口も歯も、深く刻まれた眉間の皺一本までが巨大だった。奇妙な柄の和服からはみ出た、肉の鎧のような朱い手足からは、獣のような流線形の剛毛が生える。それに沿うように炎が湧き出て、ひとつの巨大な火柱に合わさってゆく。
 猛烈な熱風が吹き、空中でいくつも爆ぜ火が上がった。そうして大天狗はシンイチの目を覗きこみ、こう言ったのだ。
「その妖怪を、斬ってみせよ」と。


 シンイチがいかにてんぐ探偵となり、都会に現れた新型妖怪「心の闇」を退治するに至ったかを語るには、時間を少し前に戻す必要がある。
 そう、この長い長い物語は、たったひとつの跳び箱の前の、小さな事件からはじまった。その跳び箱の前から、語りはじめることにしよう。

 その日は朝から雨が降っていて、東京郊外のとんび野町は、いつもは青く見える高尾山も白く煙らせていた。とんび野第四小学校五年二組の今日の体育は体育館だ。サッカー大好きな男子たちはぶうぶう言ったが、担任の内村(うちむら)先生が跳び箱にしようと言った為みんな乗ってきた。
「ススム! ビビッてんじゃねえよ!」
 クラスの中でも小柄な方で、バランスが悪いくらいに頭が大きく、大きな黒い瞳が印象的な高畑シンイチは、四段、五段、六段をクリアし、七段を前にひと息ついていた。七段に向かい、親友のススムが走っていたはいいが前で止まってしまったのを見て野次を飛ばした。
「ざまあねえぜ!」
 ここまでは、ごく普通の日常だったのだ。
 次はシンイチの番。窓の外では、校庭をびしゃびしゃ言わせる水の音が聞こえている。シンイチは蒸した空気の中、ふとした思いにとらわれた。
「今やめれば、自分だけ六段で成功したままで終われる」と。
 シンイチは黙って待機の列に戻った。ススムがそれを見た。大吉(だいきち)も、公次(きみじ)も見た。
「……わかったよ。やるよ! 七段! 跳べばいいんだろ?」
 シンイチは七段の威容の前に、緊張して立った。
 ――突然。
 シンイチの膝は突然ガクガクと震え出し、冷や汗が止まらなくなったのだ。
「? ……なに? なに?」
 目まいがし、天地が分らなくなり、目の前が暗くなり、跳び箱以外見えなくなった。音も聞こえず、まっすぐ立っているかどうかも分らない。胸が痛い。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が出て、手も足も震えが止まらなかった。
「どうした高畑?」
 内村先生が異変に気づいた。シンイチは、まるで闇につかまれたような気分だった。背後から、あるいは足元から見えない手がのびてきて、心臓をつかまれた感触がした。
 シンイチは心を平静に戻そうとした。落ち着いて、七段のことを考えようとした。簡単じゃん、猛烈に走って、踏み切って、ダンッて跳んで、固いマットに両手をつくんだ。しかし夢の中で上手く走ることが出来ないように、イメージしようとすればするほど出来なかた。固いマットに手が届かない。ジャンプしても角度が合わない。足が合わない。そもそも足が前に出ない。暗闇の中で、靴が脱げたような気分。
「高畑。変だぞ。どうしたんだ?」
 内村先生が不審がる。時間にしてほんの数秒のことだったろうが、シンイチにはそれが何十分にも何時間にも感じられていた。夢の中で時間の感覚が失われるのと似ているかも知れない。汗は滝のように流れ、どんなに息を吸っても酸素は入ってこなかった。
「うわあああああ!」
 シンイチは叫び声をあげた。大きく息を出したことでようやく息が吸えた。女子同士でおしゃべりしていたミヨちゃんが、びっくりしてふり返った。ススムも大吉も公次も、同時にふり返った。
 シンイチは大きく息を吸った。吸って吐いて、吸って吐いて、体育館から飛び出した。

 雨は霧雨に変わっていた。
シンイチはどこをどう走ったのか、少しも思い出せない。真白な中を、走って走って、走って走っただけだ。息が切れ、見知らぬ公園のベンチに座った。金属製のベンチは冷たく濡れていて、尻からパンツに染みてきた。体が冷え、髪の毛が濡れ、息が平熱に戻ってきて、シンイチにようやく冷静さが戻ってきた。
「……帰らなきゃ」
 と、左の目の端に「黒い顔」のようなものが見えた。シンイチは慌ててベンチから跳ね上がり、左を見た。右も見た。何もいない。今度は右の目の端に黒い顔が見えた。右を見た。左も見た。
 シンイチは公衆トイレに駆けこんだ。
「何だ……これ?」
 鏡にうつったシンイチの左肩に、不気味に歪んだ「黒い顔」が乗っていたのである。それ(・・)は、シンイチの目線に気づくと、鏡越しに話しかけてきたのだった。
「何だ? ……お前、俺が見えているのか?」

    2

「な……なんだよお前!」
 シンイチは慌てて自分の左肩を見た。鏡越しではなく、今度は直接そいつと目が合って腰を抜かした。
 その黒い顔は、耳まで裂けた赤い口に、闇の底のように窪んだ大きな目をしている。皮膚は黒くぬめって光るようにも見えるし、反射が一切ない影の色にも見えた。顔から直接四肢が生えていて、胴体はない。足でシンイチの肩の上に立っているように見えたが、よく見ると足先はシンイチの肩の中にめりこみ、先は見えなかった。「肩から黒い顔が生えている」ようにそれは見えた。
 シンイチは手で払いのけた。が、何故だか手はそいつをすり抜けた。手と黒が二重に見え、手応えはなく空を切った。
「なんだよこれ! なんなんだよこれ!」
 肩に食いこんだ両足から引っこ抜こうにも、つかみも出来ない。
「俺様が見える人間に、はじめて会ったぜ」
 その黒い顔は少し驚いたような表情を見せ、それから耳まで裂けた口で笑った。

 シンイチはトイレから飛び出した。外の光で見ても、黒い顔は黒い顔だった。通りがかった主婦にシンイチは助けを求めた。
「助けて! この肩のやつ、取れないんです!」
「?」
 主婦は眉根を寄せた。シンイチは左肩を見せて必死だ。
「この黒いの……!」
 何のことか、彼女には分からないようだ。
「見える訳ねえだろ。人間ごときに」と黒い顔が言う。その声すら彼女には聞こえていないようである。
「お前、ちょっとは黙ってろよ!」
 シンイチは黒い顔に向かって言ったが、彼女は余計怪訝な顔になる。
「ぼく、何を言ってるの? 学校は? 誰と話してるの?」
「ははは。見えてない見えてない!」
 シンイチは背広のおじさんを見つけ、走っていって尋ねた。
「この肩に取り憑いた、黒い顔見えます? 変な化物みたいなの!」
 おじさんも同じく、怪訝な顔をした。
「虫はついてないよ」
「虫じゃないよ! 変な、妖怪みたいなやつだよ!」
「妖怪?」
「そう!」
「そんなの、いる訳ないじゃないか」

「どうしたのシンイチ!」と、母の和代(かずよ)が、早すぎる息子の帰宅にびっくりした。
「ちょっと、早退した。気分が悪くて。……先生に黙って帰ってきたから、電話しといて」
「……熱?」
「……熱は、ない。……ねえ、母さん」
「なに?」
「黒い、顔がさ」
 シンイチは左肩を和代に見せた。
「? ……なんのこと?」
「いや……やっぱ、いい」
 誰に見せても反応は同じだった。やっぱり、誰にも見えないのだ。
 シンイチは自室で一人になり、カッターを出し、チキチキチキと刃を最大にした。切断どころか、触れられないことは同じのようだ。シャツを脱ぐと、肩の肉にそいつの足は食いこんで、同化しているようだ。
「お前、一体何なんだよ!」
 黒い足先はどこまでのびている? 心臓まで?
「ははは。考えろ考えろ」
 晩ごはんの食卓を囲んでも、母の和代も父のハジメも、この黒い顔には気づかない。ずっと何かを囁かれて頭ががんがんしたが、二人とも何も聞こえていないようだった。何かの本で読んだ、「人面疽(じんめんそ)」という顔の形をした膝の傷口が、人格を持つ怪物を思い出した。が、それは全員に見える設定だった筈だ。自分の頭より少し大きなこの黒い顔は、重さも感じず、ただゆらゆらと肩の上で囁き続ける。
 お風呂の中に沈んでみた。お湯の中でも変化はなかった。
 夜中、何度も悪夢を見て眠れなかった。目が覚めるたびにその黒い顔が、闇の中歪んで笑った。
朝目覚めて、どうかいないでくれと願って目を開けても、やはりそいつはニヤニヤと笑っていた。洗面台の鏡で自分の顔を見た。頬がこけ、目に隈が出来ていた。そしてシンイチは、嫌なことに気づいた。
「お前……昨日より一回り大きくなってないか?」
「ふっふっふ。さあてねえ」

 シンイチは、悪夢が終わっていないのかと目を疑うことになる。家の外に出ると、大小の歪んだ顔の「妖怪」たちが、百鬼夜行のごとく闊歩していたからである。

    3

 それは果たして「妖怪」と呼ぶべきなのだろうか。妖怪大百科で見たような、時代劇の色のような奴は一匹も居らず、極彩色でカラフルな奴らばかりだった。チェリーピンク、レモンイエロー、ビリジアングリーン、クロームオレンジ、セルリアンブルー、クリムゾンレッドにセクシャルバイオレット。縞々模様だったりぶつぶつ模様だったりもいて、ちかちかするような強烈な色彩が目に痛い。
 電柱の影、塀の上、看板の裏、車の下。見れば物陰に隠れる奴もいれば、空中に浮遊している奴もいる、どれも醜く歪んだ人の顔で、どれもが顔から手足が生えていた。
「こいつらは、妖怪? それとも別の何か……」
 ぶくぶくに腫れ上がった顔。目だらけの顔。叫んだまま歪んでしまったような顔。見るもおぞましく、しかも人工着色キャンディー色の「妖怪」たち。
 そのうち、トルマリンブルーの奴と通行人がぶつかった。しかしぶつかりはせず、そのまま体がすり抜けた。誰にも見えず、手で触れないのは同じようだった。

 シンイチは校門の前で足を止めた。昨日体育館を飛び出して以来の学校だ。無意識に呼吸がおかしくなってきた。頭がびりびりと痛くなり、寒いのか暑いのか分らなくなり、大量の汗が出てきた。結界が張られたように、門の向こうの「いつもの日常世界」に入れる気がしなかった。
 同じクラスのミヨちゃんが、いつもの明るい笑顔で「おはようシンイチくん!」と声をかけてきた。それが当たり前の日常であればあるほど、自分の周りで起きている異常事態が際立って見えた。シンイチはどんな顔で彼女を見たか分からない。ただ、昨日と同じように、走ってその場を逃げ出しただけである。

「ちくしょう! なんだよ! 何でまた足が震えて、逃げ出さなきゃならないんだよ!」
 シンイチは昨日の公園にいた。どうやって来たのか、またも覚えていない。誰もいない公園に妖怪たちはいなかった。やつらは、人の集まる所にいるのだろうか?
「あっ!」
 シンイチは思わず声をあげた。もうひとつの「黒い顔」が、公園の外に歩いていたからだ。
 その黒い顔は、シンイチの肩の奴と瓜二つの顔だった。耳まで裂けた赤い口と、異常に大きな黒い目。ただひとつ違うのは、大きさだ。シンイチの肩の奴が子供の頭大とすれば、それは大人の身長を超えるほどの巨大な顔だった。取り憑かれたのは、若いサラリーマンだ。肩に取り憑くというより、もはや「背負っている」ように見えた。重荷を無理矢理背負わされているように、彼はたどたどしい歩き方で歩いていた。
「ちょっと! その背中の奴、あなたに見えてます?」
 彼にシンイチの声は、まるで聞こえていないようだった。彼の目の焦点は合わず、頬はこけ、肌はかさかさで土気色。末期癌の患者をシンイチは見たことがないが、こんな感じだろうと想像した。手は小刻みに震えている。校門の前のシンイチと、跳び箱を前にしたシンイチと、似た症状であった。
「このオレの肩のやつ! 周りにいる変なやつら! あなたに見えてます? その妖怪、見えてますか!」
 いくら声をかけても返事はなかった。その男は雑居ビルの階段をゆっくり上がっていった。シンイチは走ってついていった。
「ねえ! この黒いの、見えてないの? 鏡見た? オレ、鏡見たらこいつがいたんだ! 大きくなってるの? 最初は小さくて、そんなに成長したの? 成長したらどうなるの!」
 屋上へ出た。男は屋上の、低い鉄柵をまたいだ。
「なにをしてんの!」
 男はそこで、はじめてふり返った。彼の影のように、黒い顔が背後で笑った。
「俺は、……もう駄目なんだ」
 男は小刻みに震えていて、声も幽かだった。
「どういうこと?」
「……俺は役に立たない。何も上手く出来ない。何をやっても成功できない。……だから、いなくなるのさ」
 あの時の気持ち(・・・・・・・)と同じだ。シンイチは学校から、跳び箱の前から「いなくなった」。鉄柵の向こうに立ったその人は、世の中からいなくなろうとしているのだ。
「待って! オレも同じ気持ちなんだ! それは偶然? この黒い顔のせい?」
 シンイチは必死で手をのばして男を止めようと思った。男は笑い、シンイチの手を振り払った。その手は冷たく、死体のようだった。
「お先に」
 はじめて人間らしい微笑みを残し、彼は何もない空間へとんだ。
「ダメだ!」
 一瞬の永遠のあと、どん、という短くて大きな音がした。

 手をのばしてつかんだって、子供の力で大人を助けられる道理はない。映画やCMみたいに「オレにつかまれ!」って、ブラーンと下がった彼を引き上げるなんて夢想だ。それでもシンイチは、必死で手を伸ばした。冷たい手の感触が、シンイチの右手に残った。シンイチ一人が叫んでも、世界は何一つ変わらなかった。
 冷たい風が吹いた。シンイチはコンクリートに叩きつけられただろう彼の姿を、覗きこまざるを得なかった。巨大な黒い顔はどうなったのか、見届けなければならない。
 それ(・・)は生きていた。現実の手が触れないのだ。たとえ十階の高さから叩きつけられたとしても関係ないのだろう。突如、真ん中に筋が入り、二つに、四つに、八つに分割されてゆく。まるで細胞分裂のようにだ。小さな灰胞たちに、小さな同じ顔が現れた。それらは四方八方に散り、マンホールや薮や側溝に消えた。「ゴキブリって死ぬ時卵をたくさん飛ばすんだって」って、身の毛もよだつことを思い出した。あとに残ったのは、肉塊となり血飛沫を散らせた、末期癌のように痩せた男の亡骸。
 考えられることはひとつだ。こいつら(・・・・)はオレたちの養分を吸い、大きくなり、宿主を吸い尽くして、「増える」。

    4

 シンイチは公園まで戻り、ランドセルからカッターを出し、何度も何度も肩の黒い奴に切りつけた。しかしカッターの刃は、何度も虚しく宙を切る。
あの男には、黒い奴は見えていたのだろうか。徐々に大きくなるこいつを切ろうとしたのだろうか。いつそれを諦め、絶望したのだろうか。
「お前は、死神なのか? 取り憑かれたが最後、死へのカウントダウンが始まるのか?」
「ははは。せいぜい絶望することだな!」
 何故誰も、この妖怪たちに気づかないんだ!
 今日がいい天気なのに、シンイチははじめて気づいた。良く晴れた公園が、何も知らずに暮らす人々を象徴しているようだった。ペンキのはげかかったブランコ。銀色の滑り台。その下で寝ている、年寄りの太った虎猫。その横に、古タイヤを半分に切って赤や黄色や水色にペンキで塗り、跳び箱代わりに遊ぶタイヤ跳び。
「……そもそも、あの跳び箱のときからヘンだったんだ。あの時から、オレはなんだかおかしくなったんだ。ビビったんだ。ちょっと考えちゃったんだ。調子よく跳んでりゃよかったのに、日和ったんだ。成功したままで終わりたいって思って、それで弱気に取り憑かれて……」
 今までずっとニヤニヤしていた黒い顔が、表情を貼りつかせた。シンイチが気づくと、元のニヤニヤ顔に戻した。
「……なんだよお前」
「ウルセエよ」
 語調の変化に、シンイチは気づいた。
「今、なんか変だったぞ」
「余計なこと考えてんじゃねえよ。お前はグルグル考えごとして、ずうっと絶望してればいいんだよ!」
「待って待って待って! あの跳び箱のとき、お前はいたな? 自分の肩なんか見ないもんな! あの異常な恐怖はお前のせいか? 朝学校でミヨちゃんに元気よく挨拶されて、何も答えられなくて、やっぱり弱気になったのはお前のせいか?」
「ううううう」と、黒い顔が苦しみ始めた。
「なんだ?」
「お前さあ、ちょっとは黙ってろよ!」
「どういうことだ? お前、何に苦しんでる?」
「黙ってひたすらカウントダウンしてやがれ!」
「オレは弱気に取り憑かれて……お前は、まさか、弱気? オレは、ホントに『弱気に取り憑かれた』ってこと?」
「それ以上言うな!」
「お前は……『弱気』か! オレはビビって、何ひとつ出来なくなった。それは『弱気』のせいなのか? あの人も、巨大な『弱気』に取り憑かれてたのか!」
「俺の名を言うんじゃねえよおおおおお!」
「お前の名は、『弱気』か!」
 妖怪黒い顔、その名も「弱気」は、シンイチの肩に食いこんだ足がするりと抜けて、宙に投げ出された。それまで艶々していた顔の張りが、シンイチから離れた途端急に乾き、皺々になりはじめた。
 シンイチの体の震えは止んだ。胸が熱くなり、体中が暖かくなってきた。つまり、「自分」を取り戻しはじめた。

「ほっほう。自力で『心の闇』を外した人間を見るのは、はじめてじゃぞい」
 突然、地面から声がした。
「?」
 シンイチが足下を見ると、さっき寝ていた、年寄りの太った虎猫だった。猫は大あくびをし、体を伸ばしてぷるぷる震えた。
「今、しゃべった?」
「自力で『心の闇』の名を特定し、あまつさえ外すとは、なかなかやりおるの、お主」
 虎猫は目を細くして笑い、前足でシンイチをぺしりと叩いた。
「ネ、……ネコがしゃべった!」
 一体なんなんだ。妖怪「弱気」に取り憑かれた。外れた。人が死んだ。子供が増えた。そこら中にカラフルな妖怪。ついには猫まで喋り出した。オレはやっぱり、気が狂ったのだろうか。
「わしは三千歳の化猫、ネムカケと申す。少年よ、名はなんと」
「シ、……シンイチ」
「シンイチ。よい名じゃ。弟子の候補が見つかって良かったのう。大天狗(おおてんぐ)や」
 その猫がふり返った方向へ、シンイチもつられてふり返った。

 そこに、巨大な天狗がいた。

 ジャングルジムに座っていて、ジャングルジムより大きかった。岩より大きな朱い顔に、隆々たる高い鼻。憤怒の相に金の瞳が爛々と輝いている。全身の朱い肌は切り立った筋肉で、獣のような剛毛が流線形に生えていた。
「て……天狗?」
 巨人の朱い貌が、シンイチを覗きこんだ。長い鼻が自分を指しているように思え、胃の裏まで突き通される心地だった。獰猛な呼吸は大型動物のようで、金の瞳がまばたきするだけで風が起きた。そして、大天狗の腕、肩、脚、そこかしこから火が燃えはじめた。自然発火のように中から燃えあがり、剛毛に沿って全身の火の流れとなった。大天狗自身が炎に包まれ、うねる火柱となったのだ。
「熱いぞな大天狗!」
 ネムカケと名乗った老猫は文句を言った。
「すまぬ、ネムカケ様。慣れぬ都会で、火が思うようにならぬ」
 大天狗が右手を開くと、そこに大きな火球が現れた。
「火よ、伏せよ」
 百獣の王のような声が腹に響いた。全身の炎が一気にその火球に吸いこまれ、分厚い拳に握りつぶされた。熱風が吹き荒れ、公園中の樹々が揺れた。
「心の闇が見え、且つ自力で解放(げほう)することが人間に可能とは。(ぬし)に、天狗の火の剣を授けよう」
 目の前に小さな螺旋の炎が出現し、中から葉団扇紋の刻まれた、朱鞘の小太刀が現れた。大天狗は再び低い声を轟かせた。
「それは妖怪を斬ることの出来る火の剣、小鴉(こがらす)という。その妖怪を、見事斬ってみせよ」
 シンイチは小太刀を朱鞘から抜いた。それは日本刀のような鋼ではなく、黒い刀だった。黒曜石という天然石を鍛えてつくられていて、半透明の濡れた黒だった。
「天狗が来たなんて聞いてねえぞ!」
 妖怪「弱気」はそう叫び、一目散に公園から逃げ出した。ネムカケなる老虎猫が叫んだ。
「早く奴を斬れ! さもないと、また別の奴に取り憑いてしまうぞい!」
 シンイチは小鴉を握りしめ、妖怪「弱気」を追いかけた。大天狗とネムカケが続いた。

 公園の外には、魑魅魍魎というにはあまりにもカラフルな、歪んだ顔たちが蠢いていた。あいつが「弱気」という名前だとして、こいつらにもそれぞれ名前があるのだろうか。さっき猫も天狗も「心の闇」と言ったように思う。心の闇って何? 犯罪者のニュースとかでやってるやつ? シンイチの心を混乱ばかりが襲う。
 その刹那、空気がびりりと震えた。
「つらぬく力」
 大天狗が吼えたのだ。
 大天狗は右手の人差し指を無造作に、ライムグリーンの妖怪に向かって突き出した。ビームも弾丸も出ないのに、妖怪の真ん中にずどんと穴があいた。穴があいた分は、そのままくり抜かれた形で後方にすっとんでいた。
 再び空気がびしりと震えた。
「ねじる力」
 大天狗は掌を天にかかげ、ねじった。
空がねじれた。晴れた空が、朱い大巨人を中心に急激な渦を巻く。白い雲は圧縮されて黒雲になり、天の底が抜けたようにどんどん降りてくる。辺りはにわかに暗くなり、嵐のような風が吹きぬけた。
 落雷。落雷。落雷。
 あまりの光の強さに、シンイチは目をつぶった。音は一瞬のうちに三回聞こえたが、実際にはもっと雷が落ちた筈だ。何故なら、目の前にいた妖怪たち全てが、消し炭になっていたからだ。
「火よ、在れ」
 大天狗が唱えると、それら消し炭から炎が上がった。炎は一瞬にして妖怪たちを塩の柱に変えた。
 ジグザグに走って逃げる「弱気」にだけ、雷は落ちなかった。大天狗は自分を試している、シンイチはそう理解した。

    5

 妖怪「弱気」は走って逃げ、マンションにとびこみ、階段をのぼっていった。シンイチは必死で走ってのぼった。空の広い屋上に出た。大天狗は太った虎猫ネムカケを抱いてひと跳びし、屋上の後方にどっかと座った。まるで後見人のようだった。
 妖怪「弱気」は、何も無計画にそこに逃げた訳ではなかった。そこに「仲間」がいたのである。先程の男に憑いた奴よりも、更にふたまわり大きかった。こいつが分裂したら一体何匹の子を生むのだろうとぞっとする。シンイチに憑いていた小「弱気」は、その大「弱気」にかけより、吸収されて融合し、その分だけ大大「弱気」となった。
 それ(・・)は、一人の少女に取り憑いていた。彼女はシンイチに気づき、ふり向いた。
「……シンイチくん」
「ミヨちゃん!」
 シンイチのクラスメートで、今朝おはようと声をかけてくれた、明るくて優しい女の子。彼女の頬はこけ、目は虚ろだ。あの男と同じだ。いや、オレもそうだったのかも知れないつまりそれは、「弱気」に取り憑かれているということなのだ。ミヨは小さく笑い、金網のフェンスに足を掛け、一歩一歩のぼり始めた。乾いた突風が、屋上に吹いた。
「ミヨちゃん、ダメだ!」
 彼女の手は震えている。冷や汗でべっとりだ。
「……私ね、いらない子なの」
「……何を言ってんの?」
「だから死ぬ」
「バカなこと言うなよ!」
 もう一歩金網をのぼろうとする彼女の足を思わずつかみ、シンイチは叫んだ。
「君は、……君は、弱気に取り憑かれてるだけなんだ!」
「……弱気?」
 ミヨの動きが止まった。風が彼女の髪を揺らした。
「そうだよ! オレもそうだったんだ! 多分昨日跳び箱の前でビビった時だ。あのときオレは、妖怪『弱気』に取り憑かれたんだ!」
「……?」
「君には見えないだろうけど、なんだかよく分らないけど、ここにでっかい黒い妖怪がいるんだ! その妖怪のせいで、ぼくらは弱気にさせられて震えが止まらなくなる。ミヨちゃんの異常な弱気は、妖怪『弱気』のせいなんだよ!」
「……何言ってんの? 妖怪の、せい?……」
 巨大な「弱気」が、シンイチをにらんで脅した。
「余計なことを言うんじゃねえよ。あと数歩でこいつは死ぬんだからよ」
 シンイチはひるまない。
「いいかい、思い出して。本来のミヨちゃんはそんなじゃない。君はもっと明るくて、優しい子だろ!」
 ミヨは考えた。そして思い詰めたことを話した。
「私ね、みんなにひどいこと言われたの」
「どんな?」
「お前はいいから黙ってろって。しゃべるなって。……私はいらない子なの。余計なこと言う、しゃべっちゃいけない子なの」
「ちがうよ! 君のしゃべりはオレを助けたろ!」
「……?」
「君が明るく『おはよう』って言ってくれる日常があるから、オレは逆の『弱気』に気づけたんだぜ! 太陽があったから、闇に気づいたんだ!」
「……」
「所詮自分は弱気に取り憑かれてるだけだ、そう思うことが出来れば、『弱気』は自分から外れるんだ! 君は、しゃべる方が素敵なんだ。それが本来のミヨちゃんだ!」
 シンイチはミヨから目を逸らさなかった。彼女を助けたかった。
「私の……本来」
 「弱気」が顔を歪めた。彼女の張りつめた氷が、少し緩んだのだ。
「フェンスからゆっくり降りてきて! ……そうだ、おはようってオレに言ってみて!」
「え? お……おはよう」
「そうじゃなかった! 本当のミヨちゃんは、もっと楽しそうに言うよ!」
「オ、オハヨウ!」
「それじゃ無理して言ってるだけ! もっと調子乗って! 調子に乗ってるいつもの自分を思い出すんだ!」
 シンイチは変な顔をしておどけた。ミヨは思わず笑った。
「おはよう」
「いいぞ!」
「おはようシンイチくん」
「それがいつものミヨちゃんだ!」
「おはようシンイチくん!」
「そう!」
「おはようシンイチくん!」
 ミヨはフェンスをつかむ手を外した。シンイチは両手を広げ、彼女を受け止めた。
 妖怪「弱気」が、断末魔をあげた。
「何だこいつうううううううう!」
 ミヨに食いこんでいた「弱気」の黒い手足が抜けた。錨を失った幽霊船のように、「弱気」は宙に投げ出された。

「今だ」
 大天狗が時を告げた。
 シンイチは朱鞘から小鴉を抜いた。濡れて光る黒曜石の刃から、紅蓮の炎が湧き出した。シンイチには剣の心得などない。「妖怪を斬れる」、その大天狗の言葉だけを信じ、妖怪めがけて夢中に走り寄り横一文字に振り抜いた。カッターのときにはなかった、肉を斬る手応えがした。七段の跳び箱を前にとらわれた弱い心。ミヨちゃんに取り憑いたおびえる心。鮮やかな切り口を見せ、その妖怪「弱気」は上下真っ二つとなった。
 小鴉の炎が、一直線の軌跡を描いて燃え上がった。
「見事也」
 大天狗は再び吼えた。
「浄火せよ」
 大天狗は掌をねじった。小鴉の炎は「弱気」を燃やし、螺旋の火柱となって包み込んだ。焦げ臭いあとに残ったのは、真白な清めの塩柱だった。

    6

 ミヨちゃんには、大天狗も炎も妖怪も見えず、何が起こったか分かっていないようだった。シンイチは彼女を家に送り届け、明日詳しいことを話すと約束した。
 陽は傾き、一日の終わりを告げていた。シンイチとネムカケと大天狗は、三人が出会った公園に戻ってきた。
 太った老猫ネムカケが口を開いた。
「あやつらは、妖怪『心の闇』という新種の妖怪なのじゃ」
「心の……闇」
「古来、妖怪は闇に棲む。ところが人間の文明が発達したことで、街にすっかり闇が無くなってしまっての。昔から日本にいた妖怪は、住む場所を失い、田舎へ、山へと逃げて、街ではすっかり妖怪は絶滅したのじゃ。ところが、どこから湧いてきたのか、新種の妖怪がその隙に都会にはびこりはじめたのじゃよ」
「新種の妖怪」
「そう。現代の妖怪、二十一世紀の妖怪と言っても過言ではない。都会に闇は無くなったと思ったのは、勘違いじゃった。都会には闇があったのじゃ。人の心の闇が」
 大天狗が口をひらいた。
「奴らは人の心の闇を養分にし、増える。最早無視できぬほどの一大勢力だ。わしはネムカケ様とともに、遠野(とおの)から東京の様子を見に来ていた。そこでシンイチ、お主に出会ったという訳だ」
「遠野?」
 たずねたシンイチに、ネムカケが手の肉球を東北にたとえて位置関係を示した。
「ここが東北として、陸奥(むつ)の国岩手県の、このへんの山の奥の奥じゃ。七十七の山の中に、河童(かっぱ)座敷(ざしき)童子(わらし)も現役じゃぞい。むろん新種に追われた、昔ながらの妖怪たちもじゃ」
「あの……」
 シンイチは大天狗に向かって言った。
「さっき、弟子を探しているって」
「うむ。わしは長い間遠野を留守には出来ぬ。一気に増えた難民の妖怪たちを束ねなければならぬのでな。なぜ、どうして妖怪『心の闇』が生まれたのか。どれくらいいて、どうやったら絶滅できるのか。それを都会で調べる、天狗の代理人を探している」

 その公園からは、あの男が飛び降りたビルが見えていた。
シンイチは、彼の最後の顔と冷たい手の感触が、頭から離れなかった。シンイチがどんなに叫んだって、世界の運命は変わらなかった。あの人の心の中は「弱気」の嵐で満杯だった、それさえ分っていればなんとかなったかも知れない。助けられたかも知れないのに。
「オレを、弟子にして下さい」
 シンイチは深呼吸して、大天狗に言った。
「うむ」
 大天狗は笑った。恐い顔のままで表情は変わらないが、目が笑ったように見えた。
 ネムカケも目を細くして笑った。
「話は決まったの。シンイチには見所がある。なぜだか最初から妖怪が見えておったし」
「それ、気になってたんだけど。なんでオレには妖怪が見えて、他の人には見えないの?」
「たまにそういう人間もおる。才能のひとつだ」
 朱き大巨人は立ち上がり、シンイチをつかんだ。
「ではシンイチ。お前を山へ攫うとするぞ」
 たちまちシンイチは、大天狗の肩に乗せられた。
「ちょっと待ってちょっと待って!」
「何じゃ」
「今から多分、修行とかするんでしょ」
「そうだ」
「あのさ、今日の晩ごはん、オレの予想だとハンバーグなんだよね。あと明日体育があるから、跳び箱七段をちゃんと跳びたい! それからにしてくれるといいんだけど!」
「ふふ。ふふふ。わははははは」
 今度は間違いなく大天狗が笑った。街路樹や屋根瓦が大風で吹き飛びそうになり、烏がびっくりして飛び立った。
「心配いらぬ。天狗の山は時の進み方が下界と違う。たっぷり稽古をつけて、今晩までには帰してやろう」
 大天狗はそう言って、ずしん、と歩き出した。

 大巨人の肩から見たこの光景を、シンイチは生涯忘れることはないであろう。赤く夕陽を受けてきらめく街は、とても美しかった。
 天狗の一歩は、山ひとつ分ともよっつ分ともいう。シンイチの目の高さはいつの間にか茜色の雲の高さになり、その高さを追い越していた。大天狗の足は無限に伸び、一歩ごとに矢のように景色が飛んだ。
 景色は山々に変わり、遠野盆地が見えてきた。山と山と山の奥に、ひときわ高い巨峰が座している。山頂の手前には巨岩で出来た小峰、薬師(やくし)(だけ)(通称前薬師)があり、夕日を受けて光っていた。
「あれが遠野の最高峰、早池峰(はやちね)(さん)だ」
 全身赤い色の河童の親子が、川淵で手を振っていた。赤いべべの座敷童子が、金の手まりをついている。小さな神社の祠の、赤いのぼりがはためく。白い鹿が巨石の上からこちらを見た。一ツ目小僧やろくろ首や唐傘お化けがいた。寒戸(サムト)のババが、強い風の吹く中、木の葉の衣をもの干しから取り込んでいた。谷と谷の間を、赤い衣の僧が飛んでいる。翼を持った黒い(からす)天狗(てんぐ)たちが多数出迎えた。
「妖怪王国、遠野へようこそ」


 大天狗の言った通り、修行の日々ののち、シンイチはその晩に家に帰れた。晩ごはんは予想通り大好物のハンバーグで、翌日の跳び箱は七段を跳んだ。ミヨは、拍手を惜しまなかった。


 都会の闇の、闇の路地。
 妖怪「弱気」に取り憑かれた、くたびれた中年が絶望していた。首をくくる紐を持ち、非常階段に登ろうとしている所だった。
 闇の中から、朱い炎と天狗の面が現れた。炎は辺りを照らし、男のおびえた顔をも照らしだした。お供に、細い目の太った老猫ネムカケがついている。
「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」
「……は?」
「あなたに憑くのは、妖怪『弱気』。そう自覚すれば、その妖怪は外れる」
「……何だお前?」
「オレ?」
 闇にかざすのは、炎だ。深淵なる闇を覗きこむとき、人は火をかざし、そこに何がいる(・・)のかを確かめようとする。
 天狗面のシンイチは、火の剣を構えた。

 高畑シンイチは、天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

第五話 「先生の闇」 妖怪「あとまわし」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 昼休みの時間、生徒に混じってサッカーボールを蹴るのは楽しい。ボールに触ると、足首や膝までもが自我の一部であったことを思い出す。自分はただのサッカーバカだな、と内村は思う。ただ、バカでも今の自分は教師だから、自我と対話するよりも、生徒たちにこの楽しさを知って欲しいと願う。だから今は、ボールを長く持たずに色んな生徒にパスを出す。

 内村(うちむら)敬介(けいすけ)は今年三十になった、シンイチのクラス五年二組の担任だ。
 内村先生に勢いよくパスを出したシンイチは、少年らしい質問をした。
「先生! なんか必殺技教えてよ!」
「サッカーに必殺技はないよ。あるとしたら、地道に練習すること」
「なんだよ! つまんねえよ!」
 不満を漏らしたシンイチに、内村はちょっとやってみせた。
「でも、こういう技を練習することも、サッカーの一部だ」
 内村は「クライフターン」をして見せた。オランダ代表のヨハン・クライフが、一九七四年西ドイツワールドカップで披露して観衆の度肝を抜いた、フェイント技だ。
 まずボールを右に流す。左足を踏みこみ、右足で前に蹴るふりをして左に蹴るのがこのフェイントの中心である。しかし普通にやってもバレる。これが「技」たりえるのは、最初の左足の踏みこみ方に伏線がある。まず左足を「ボールの前」に踏みこむのである。次に右足を振り上げ、前にではなく左に蹴る。相手から見ると、ボールの前に踏みこんだ左足が目隠しになり、突然ボールが逆側にワープしたように感じられるのだ。これがマジックのタネだ。スムーズに実行するには、右に流す、左足のクロスの踏み込み、右足フェイントかけて左に蹴る、それを一連の流れに繋ぐ修練が必要だ。
「すげえ! 何今の!」
「クライフターンだ。家に解説書あるから、今度貸すよ」
「マジで!? 絶対だぜ! こうか? こうか?」
 左足、右足、右足ともつれるシンイチのボールを、ススムが奪った。
「なにすんだよススム!」
 内村は笑う。
「ボールキープが第一だろ? 遊んでる暇はサッカーにはないぞ」
 シンイチは両足を更にもつれさせ、尻餅をついた。

 放課後。内村は職員室の自席で、赤ペン片手にたまった答案を採点していた。瑣末なことが重なって手をつけられず、もはやひとつの「山」になっていた。
 内村はいちいち三十二人分の顔を浮かべて、誰がどのように答えているかをチェックする。サッカーで見せる姿、授業や給食のときに見せる顔、答案に書かれた文字。それらは別々のようでありながら、繋がったひとつのものの筈だ。内村はそう考えながらテストの採点をすべきだと思っている。当然だが、そのやり方は時間がかかり、同僚の先生からは「効率を知らないバカ」と呼ばれる。
 その山を前に格闘をはじめてすぐ、小野(おの)先生が遠足の下見旅行の話をしに来た。算数の「兄が弟に追いつく」世界から、山登りの世界に頭の中を切り替えるまで、内村には多少の時間がかかる。ああそうだった。昼ごはんも山小屋の食堂スペースを借りるかどうかを考えなければならなかった。途中で雨が降ったときの退避場所も。
 その話が終わるとすぐに、PTAとの打ち合わせの件を数見(かずみ)先生が持ってくる。ああそうだった。俺は、頭の切り替えが遅いバカだなあ。
 自席の書類を順にめくると、昔の手紙がはらりと落ちてきた。昔の彼女の手紙だ。オイオイそこに挟んであったのか。だが今モトカノとの過去を思い出している場合ではない。今は兄と弟でもなく、すべての生徒の顔を思い浮かべるのでもなく、山登りでもなくPTAだ。そうだ、空の湯飲みにお茶を入れようと思っていたのだ。手紙を湯飲みの下に引くとケータイが鳴った。
「野菜詰めて段ボールで送っといたから。今年の正月は帰ってくるの?」
 実家の母からだ。今聞くことじゃねえだろと言いたくなるのをグッと抑えて、はいはいと返事をし、PTAに頭を戻そうと席を立ったら、はずみに湯飲みに手が触れた。咄嗟にかばった手が答案の山に触れ、微妙な均衡を保っていた紙の山は雪崩をうった。紙には滑空力があり、四方八方に、床に散ってゆく。
「……」
 内村ははいつくばり、一枚一枚の答案を拾いながらため息をついた。
 その深いため息が、妖怪「心の闇」を呼び込むとも知らずに。

 PTAの件は結局夜までかかり、答案の山に再び挑む頃には腹がすいてきた。ああ、忘れないうちに、シンイチに貸すサッカー本のこともメモらなければ。内村は再びため息をついて、終わらない山の残りを眺めた。
 うしろの柱の影から、黄緑色の妖怪がぬるりと現れた。
「そんなん、あとまわしでええやん」
 内村は赤ペンの手を止めた。
「……そうだな。家に持って帰ってからにしようか」
「そうや。そんなん、あとまわしにしたらええんや」
「はあ……。そうだよな」
 妖怪「心の闇」はにやりと笑った。名を、「あとまわし」と言った。

    2

 音楽の授業は、シンイチはとても好きだ。何故なら、ピアノを弾く小野真知子(まちこ)先生に会えるからだ。シンイチは多少音痴だが、真知子先生に「元気よく歌うこと!」と言われてからは、とにかく元気に歌うことだけを心がけている。それを真知子先生にほめて貰えるのがとても好きなのだ。ピアノを弾く真知子先生の横顔は美しい。白くて長い指が、ときにスローモーションのように、ときに嵐のように鍵盤に踊り、一本一本の長い指は別々の生命を持ちながら、同時に同じ意志を思っているように思える。いい匂いのする艶やかな髪がそれに合わせて揺れる様は、少年の心をうっとりさせる。

 音楽の授業が終わって、今日も元気で歌えたことをほめてもらおうと、シンイチは真知子先生のもとに走っていった。と、彼女は廊下で内村先生を呼び止めていた。
「内村先生」
「あ。小野先生」
「この時間にご出勤ですか?」
「スイマセン、ちょっと寝坊しちゃいまして」
「一時間目が私だから油断してましたね?」
「面目ない」
「でも、丁度良かった」
 真知子は廊下を出て校舎裏へ内村をうながした。シンイチはあやしげな雰囲気を感じ、二人を尾行する。真知子先生はチケットを二枚取り出した。
「一枚チケット余っちゃったんです。モーツァルト中心なんで、初心者向きかなと思って」
「おおう」
 きのうの打ち合わせの中の雑談で、モーツァルトって誰だっけ、みたいな話をしたところだった。内村はチケットに印刷された、蝶ネクタイの指揮者の写真を見て言った。
「やっぱり、こういうのは正装とかしなきゃいけないんですか?」
 真知子は鈴のように笑った。
「大丈夫ですよ。市民コンサートですから。初心者向けの選曲ばかりですし。次の金曜の夜なんですけど、ご予定とか入ってなければ」
「あー、次の金曜。僕はなにも」
「ではご一緒しません?」
「あ。はい」
 内村は、これまで生きてきたサッカーの世界とはまるで別次元のチケットを受け取った。あまりにもかしこまって、相撲取りが賞金を貰うようだと、真知子はまた鈴のように笑った。
 陰から見ていたシンイチは、自分の初恋が終わったことを知った。厳密には、その言葉をシンイチはまだ知らないので、名前のついていない心の痛みだけを味わった。


 三時間目。突然内村先生が、「授業をやめて、給食にしよう!」と言い出した。教室はわあい、と沸いた。給食を食べ終わるや否や内村先生は、「以後の授業は中止。自習だ。いや、サッカーをやろう!」といい始めた。わあい、とまたクラスが沸いた。
 午後の授業の時間になる前に、内村先生は「今日の学校は終わり!」と宣言して家へ帰ってしまった。
 更にみんなのテンションは上がり、サッカーの続きをする者や別の遊びをする者に別れた。

 次の日、内村先生は無断欠席をした。授業の代わりを真知子先生がしてくれて、シンイチはなにやら嬉しいやら心がズキズキするやらだった。
 次の日も次の日も、何故だか内村先生は休んだ。

 朝。先に出た父のハジメが、「電車が動かないんだよ」と家に帰ってきた。電車や他の公共交通機関が、ストでもないのに突然動かなくなったのだと言う。
 テレビのニュースでは、国会で年金問題を討議していた。のちのち払われるはずの年金を当てにしたのだが、その財源が確保できていない問題だ。
「ネムカケ。なんか変じゃね?」
 てんぐ探偵の勘がシンイチに働いた。膝の上で居眠りしている老猫ネムカケ(ネムカケとは遠野弁で居眠りのことだ)に、シンイチはこっそり話しかけた。
「心の闇の仕業かな」
 ネムカケは、ニュースに夢中な父母に気づかれない音量でしゃべった。
「国会の連中は、心の闇に取り憑かれておるか?」
「うーん。デジタルには妖怪は写らないんだよね。仮に彼らが心の闇に取り憑かれてたとしても、デジタルテレビじゃ分らない。直接見ないと」
「ふむ。止まった電車の運転手に取り憑いている可能性もあるのう」
「多分……妖怪『あとまわし』」
「ふむ。年金問題もあとまわし問題じゃよ」
「内村先生が気になる」
 シンイチは、内村先生の家に行くことにした。
「サッカー本貸してくれるって言ってたのが、あとまわしにされてるんだ」

    3

 内村先生は、学校から自転車で十分で通える、とんび野町八丁目の木造アパートに住んでいる。
「先生!」と呼びかけても返事はない。しかし中に人の気配はする。
 シンイチは指先から、にゅう、と「架空の矢印」を出した。天狗の力、「ねじる力」の初歩的な使い方だ。鍵穴に「矢印」をさし、ねじる。カチャリと鍵は開いた。
 中に入ったシンイチとネムカケは驚いた。独身男の部屋は汚いものだが、想像の二十倍だった。
 脱いだ服、下着、コンビニの袋。弁当のトレイ、洗濯が終わって干そうとしたが床に放置されそのままの形で自然乾燥した服。積まれた宅配ピザの箱、実家から送ってきた段ボールの野菜と、わいている小バエ。机の上には未採点の答案の山と、昔の手紙と、遠足の下見旅行の計画書と、サッカードリブル入門書が放置されたままだ。混沌の最奥、湿った布団には、ヒゲぼうぼうの内村先生が埋まっていた。
「先生! どうして学校来ないの!」
 内村先生の様子がおかしい。しゃべり口調や動きがとてもスローだった。
「そんなん、……あとまわしでええやん」
「みんな心配してるよ!」
「そんなん、……あとまわしでええやん」
 内村先生の異様な口調を見て、シンイチはズバリと聞いてみた。
「お前……妖怪『あとまわし』だろ」
「……なんのことやろかね」
「とぼけても無駄だ!」
 シンイチは腰のひょうたんから、天狗の面と朱鞘の小鴉を出して見せた。内村先生は、じろりとそれを見た。
「……天狗の手の(モン)か」
「話が早い。内村先生から、出てってくれ」
「アホか」
 内村先生の口の中から、妖怪「あとまわし」がにゅっと姿を出した。黄緑の肌をした福々たるおっさん顔で、禿頭に青い髪のポニーテールだった。その後れ毛が、くるくると回り、ぺしりぺしりと規則的な音を立てた。
「わしはこいつの栄養で生きとるんや」
 今思い出すと、授業をあとまわしにし、出勤をあとまわしにした先生に、すでに心の闇は巣食っていたのだろう。目撃できなかったのは、体内に侵入していたからだ。つまり、根が深い。
「電車が止まったりしたのも、お前の仕業か、あるいは仲間の……」
「知らんがな」
 天狗を呪う表情を見せ、再び内村の体の中へ「あとまわし」は引っ込んだ。

「困ったな……体内で人格を半分乗っ取ってるんだね?」
「ふうむ。天狗三十六計の出番かの?」
 とネムカケは聞いてみる。
離間(りかん)の計かな、とも思ったんだけど、先生が『面倒くさい、あとまわし』と根本的に思ってる限り無理だよね。でも会話はまだ出来るから……」
 シンイチは色々なことを先生に質問したが、のらりくらりと避けられる。どこまでが内村先生で、どこからが妖怪の人格なのか、分別することは困難だ。
「なんもかんも、あとまわしでええんや。テストの採点も、PTAも、昔の手紙も、正月に実家に帰るかどうかも、野菜の段ボールも、家賃も洗濯も風呂も飯も。ぜんぶめんどくさい。ぜんぶあとまわしや」
 内村先生は、生徒の名前を順に言い始めた。
「相沢も、今村も、江古田も大沢も、どうでもええねん。加藤も木崎も近藤も、どうでもええわ。沢本も瀬尾も、高畑もどうでもええねん」
 妖怪「心の闇」のせいで先生の心が変調を来たしている。それは理屈では分っているつもりだ。本人に罪はなく、「心の闇」に罪があるということも。しかし実際に自分の名がそのリストに入り「めんどくさい」呼ばわりされると、心がちくりと痛んだ。
「ああ……もう……寝返り打つのも……めんど……くさい。それも……あとまわしや」
そう言う先生の言葉は、次第にゆっくりになって来た。傷ついて手を止める場合ではない。このままでは先生は養分を吸い尽くされ死んでしまう。救えるのは、シンイチだけだ。

 孔雀(くじゃく)明王(みょうおう)の秘法も、妙見(みょうけん)菩薩(ぼさつ)呪も、白衣(びゃくえ)観音(かんのん)経も効果はなかった。天狗の術(法力(ほうりき))とは、修験道に伝わる呪法に重なることが多い。それは正式な密教由来のものもあるし、雑密(ぞうみつ)(民間に伝わる呪法)も含まれている。様々な(しゅ)や術があり、体系だてられていないのも特徴だ。つまり、術は使い手の技量しだいだ。シンイチは遠野の大天狗の優秀な弟子ではあるが、人生そのものの経験が足りない、まだ子供である。

 色々と試して疲れ果て、すっかり夕方になっていることにシンイチは気づいた。ネムカケは飽きて得意の居眠り(ネムカケ)だ。へたりこんで机の上に目をやると、市民コンサートのチケットがあった。開演時間は今日の六時。
「先生! コンサート! 真知子先生と行くんでしょ!」
「そんなん、あとまわしでええやん」
「オレはあとまわしでもいいけどさ! 真知子先生はだめだよ!」
 シンイチは時計を見た。すでに六時を回っていた。
 内村先生は答えなかった。意識は混濁し、難しいことは考えられない。結論は単純だ。
「あとまわしや」
「真知子先生をあとまわしにするな!」
 シンイチはコンサート会場へ走った。

 市民音楽ホールの入り口では、緑の綺麗なスカートとスカーフが似合った真知子先生が、ずっと待っていた。
「先生、振られちゃったみたい」
 真知子先生の涙は、シンイチにとって心臓をつかまれたみたいに苦しかった。
「電話しても出てくれないし、私一人でおしゃれして……馬鹿みたい」
 シンイチは咄嗟に嘘をついた。
「う、内村先生さ、スッゲー風邪引いてるんだ!」
「え?」
「もうキョーレツで! 鼻水ブリブリで一歩も立てないし、しゃべれないんだ! だから電話も出れなくて! で、俺伝令係頼まれたんだよ、内村先生に! 今日行けなくてごめんって!」
「そんなにひどいの? じゃ、お見舞いに行かなくては!」
「大丈夫大丈夫! いや、むしろうつったら困るから来ちゃ駄目だって言ってた!」
「うつったら困るって、……それ、ちょっとは私のこと思ってくれてるのかな」
「そうだよ! 多分内村先生、真知子先生のこと好きだよ!」
「子供が大人の話に首つっこむんじゃありません。今日は先生、帰ります」
 真知子先生が、生徒を前にした先生の顔に戻ってくれて、シンイチは少し安心した。
 妖怪退治の現場に、シンイチはとんぼ返りだ。

    4

「先生! 起きてくれよ! 真知子先生は内村先生のこと好きなんだよ! オレがアシストのパス出すからさ! オレは子供だから、真知子先生を幸せに出来ない! 内村先生が真知子先生を幸せにしてくれよ!」
 内村先生は、ゆっくりとしか答えない。
「あーとーまーわーしー」
 シンイチは「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」と九字の印を切った。獨古印(どっこいん)大金剛輪(だいこんごうりん)印、()獅子(じし)印、(ない)獅子(じし)印、外縛(げばく)印、内縛(ないばく)印、智拳(ちけん)印、日輪(にちりん)印、隠形(おんぎょう)印。
「不動金縛りの術! エイ!」
「シンイチ、動かぬ人に金縛りをかけてどうする?」とネムカケが聞くと、シンイチは真意を答えた。
「この部屋全体に、金縛りをかけたのさ!」
「?」
「この部屋を、周囲の時間軸から切り離したってこと!」
「どういうことじゃ?」
「答えは、『放置』だ」
「はあ? 何もせんというのかえ?」
「……見ててよ。さっき、『寝返り打つのも面倒』って言ってたでしょ!」

 内村先生は、いまやただ寝ているだけの、生ける屍だ。
「ああ。おなかすいた。でも飯つくるのも、注文もめんどくさい。あとまわしや」
 さらにシンイチは辛抱強く放置した。
「考えるのもめんどくさい。あとまわしや。見るのもあとまわし。聞くのもあとまわし。……漢字で考えるのもあとまわしや。ひらがなでじゅうぶんや。まばたき、めんどくさい。めもあけるの、めんどくさい。あとまわしや。……こきゅうも、しんぞううごかすのも、……あとまわしや……」
「オイオイ死ぬやないかい」
 慌てた妖怪「あとまわし」が、その口から出てきた。

「つらぬく力!」
 狙い済ましたように、シンイチは右手から「矢印」を出した。「矢印」はびよーんとのびて、ぶすりと刺そうとする。
「なんやねん!」
 あとまわしは咄嗟に避けた。
 さらにシンイチは「矢印」で「あとまわし」を虫ピンのように刺し、空中に固定しようとつらぬく力を出した。
「あほか! 当たるかそんなもん!」
 シンイチは右に行くふりをして右手を左手で隠し、左に「矢印」を出した。
「なんや!」
「フェイント!」
 「あとまわし」は矢印にぶすりと貫かれ、空中で身動きが取れなくなった。クライフターンを、シンイチは手でやってみたのだ。
 「あとまわし」が体内からいなくなった内村先生は、呼吸をはじめ、目を開け、耳を澄まし、考えをはじめた。寝返りをうち、お腹がすいてきた。つまり、生きることをはじめた。「あとまわし」と内村先生をつなぐ妖怪の根は、ずるりと外れた。
 シンイチは腰のひょうたんから天狗の面と小鴉を出した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 黒曜石の剣からたちまち炎が湧き上がった。
「一刀両断! ドントハレ!」
 妖怪「あとまわし」は真っ二つになり、紅蓮の炎に包まれ清めの白い塩と化した。狭いアパートの部屋は浄火の炎に熱せられ、窓が大いに曇った。
 内村先生はシンイチが何をしているのか理解できなかったが、部屋の中の姿見に心の闇が映っていることに、途中から気づいていた。

 ネムカケが尋ねた。
「放置して、奴が子供を生んだらどうするつもりだったんじゃ」
「体の中ではデカくなりきれないんじゃないかなと思って!」
 臨床心理では、「底つき」と呼ばれる現象がある。アルコール依存症などの治療で、とことん人生の底までゆくと、患者自身がこれではいかんと思うのだそうだ。逆にそうならないと、依存症を治すことは難しい。「これではいかんと思う力」は、あらかじめ人間に備わった、生きる力なのかも知れない。シンイチは、無意識にその力の存在を知っていたのだろうか。
「底つきを知っていたのか?」とネムカケはシンイチに聞いた。
「? 何それ」
「じゃなんで放置しようと?」
「息が苦しくなってきたら、水から出てくるじゃん」
「ほほう。……子供の発想だからこそ、か」
 内村先生の腹が、グーッと鳴った。
「ラーメン食いに行こう。おごるよ」

    5

 商店街のまん中あたりにある、サイコロ角切チャーシューが有名なラーメン屋で、二人は醤油ラーメンチャーシュー大盛りを食べた。食べながらシンイチは、妖怪「心の闇」のこと、天狗のことを内村先生に話した。
 目の前で鏡越しに見たのだ。内村は信じるしかなかった。
「『心の闇』は、どれくらいの数がいるんだ?」
「……わかんない。とにかく沢山だよ。大天狗はかつての妖怪並の数だって言ってる」
「……今このへんにもいるの?」
「うん。でもこのへんに漂ってる野良は、だいぶ浄火した。でもどこからか現れて、ふらりと人の心に取り憑くみたい。オレは、そんな奴らを退治したいんだ」
「そうか。……担任として、出来る限りのバックアップはしてやるよ」
 ネムカケは猫舌なので、話が終わりにさしかかった頃、ようやく小どんぶりの冷めたラーメンにありつく事が出来た。「うみゃい」と遠野にはない東京の味に喜んだ。
 もし妖怪「あとまわし」が原因ならば、電車の運転手や国会議員のところにも行くべきではないか、と内村先生は推理した。
「俺からシンイチのお母さんには電話しておく。偶然会ってラーメンおごって、ついでに宿題見てやってるってさ」
「分った!」
内村はシンイチの背中をばんと叩いた。
「行って来い、てんぐ探偵」
 シンイチは、テレビで見た限りの電車の運転手や国会議員の所へ行ってみた。案の定、彼らに妖怪「あとまわし」が取り憑いており、不動金縛りで放置後、出てきた奴を斬り伏せた。


 校舎の裏手に、内村は真知子を呼び出した。
「小野先生。こないだはすいませんでした」
「あ。ご病気だったそうで」
「かなりキツイ風邪もらっちゃいましてね。お詫びといっちゃなんですが、これ、どうですか?」
 内村の懐から出てきたのは、サッカーの観戦チケット二枚だった。真知子先生は驚いて内村先生の顔を見た。チケットには、サポーター達がそろいの青いユニホームシャツを着て、猛烈な応援をしている写真が印刷されていた。
「私もこんなシャツで『正装』したほうがいいのかしら?」
 真知子先生の冗談に、内村は思わず笑った。きっと似合うだろうな、と想像した。

 柱の影からじっと見ていたシンイチに、内村は答えた。
「俺バカだからさ、優先順位つけて、あとまわしにせずに一つ一つやっていくよ。それしかないだろうし」
「……」
シンイチのふくれっ面に、内村は心当たりがなかった。
「?」
「サッカーの入門書、貸してくれるってのはどうなったんだよ」
「あ! やべっ忘れてた!」
「優先順位、オレだいぶ下かよ!」
 真知子先生の方が上で良かったと、シンイチは思った。
 心の棘の痛みは、それで少し和らいだ。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第六話 「あのとき、出来なかったこと」 妖怪「若いころ果たせなかった夢」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 大人になればなるほど、昔の夢から遠ざかる。
子供の頃の夢想をストレートに実現している大人なんていない。むしろ大人の度合いは、その夢から離れた距離で測ることが出来る。大人になる事は現実を知ることだ。無知という温室で膨らんだものが、荒野で生きられないことに気づくことだ。大人になるという事は、自分の出来ることを探し、現実と折り合う術をみつけることだ。そうして人は、昔の夢からずいぶん遠ざかる。
 あなたは昔、どんな夢を持っていただろうか。その夢は叶っただろうか。今いる地点と破れた温室とは、どれ位離れただろうか。その温室は、消えてなくなってしまう訳ではない。それは心のどこかにあり続け、時々過去からの亡霊のように語りかけてくるのだ。「自分は本当は、こうなりたかったのだ」と。


 最近シンイチのクラスの、鈴木(すずき)有加里(あかり)の様子がおかしい。とくに火曜と木曜がひどくなる。情緒不安定で挙動不審になり、何かにおびえているような感じだ。シンイチは男子と遊ぶのに必死だから、女子の変化にいちいち構っている暇はない。だから「女子界」の動向には疎い。大体、保健の授業で、男子に黙って集められてお菓子を貰ってるんだぜあいつら。
 だが彼女自身に、妖怪「心の闇」が取り憑いている訳でもなさそうだ。気になったシンイチは、クラスの中でも比較的話しやすいミヨちゃんに尋ねてみた。
「有加里は、その日ピアノ教室があるのよ」
「それでか。行きたくないんだろうね」
「可哀想なの。お嬢様の家だし、お母さんが厳しくて辞められないんだって」
 シンイチは自分に置きかえて嫌な気分になった。サッカー教室なら喜んで通いたいけど、算数教室とか絵の教室なんて最悪だ。自分なら初日にわざと遅刻して、「行くタイミングを失ったから、もう行きたくない!」とごねる作戦をとるだろう。
 シンイチは、有加里本人に尋ねてみた。
「ピアノ教室に行きたくないんだって?」
「なんで知ってるの?」
「ミヨちゃんから聞いてさ!」
「そう。……お母さんがどうしても行けって」
「別に命令なんて聞かなくてもいいじゃん。真知子先生にでもピアノのこと相談してみれば?」
「私にピアノの才能はないわ。そもそも楽しいと思わないし、やりたいとも思わないもの」
「じゃあなんで」
「お母さんが昔ピアニストになりたかったんだって。その夢を、私で叶えたいんだって」
「え? でもそれと鈴木は関係ないじゃん。おかしいよねそれ?」

 夕食のとき、有加里の話をシンイチは両親にしてみた。
「まあ、良くあることだ」
 父のハジメが解説した。シンイチは好物のハンバーグを食べながら聞いていた。
「親が昔の夢を子供に託すことは、まあ良くある」
「父さんは何になりたかったの?」
「ジャニーズ」
 母の和代(かずよ)がごはんを吹き出しそうになって、「無理でしょ!」と言った。
「まず顔が! その出っ張ったお腹が! ダンスも歌も駄目だし、第一バク転できるの?」
 ハジメはムキになり和代に尋ねた。
「じゃあ母さんは何になりたかったんだよ」
「およめさん」
「嘘つけ」
「んー、花屋さんかな」
 和代は今スーパーでレジ打ちのパートをしている。併設されている園芸店の手伝いをすることもあるから、ある意味現実的に夢を叶えてはいる。
「しかし実際にピアニストになるのは、花屋を手伝うのとはわけが違うだろ。訓練も厳しいし、長いことかかるし。彼女のお母さんは、きっと若いころ果たせなかった夢に取り憑かれてるんだな」
 取り憑かれてる、という言葉を聞いて、シンイチは妖怪「心の闇」の可能性に気づいた。
「ネムカケ。怪しいね」
 ネムカケはハンバーグ玉ネギ抜きをもらいながらうなづいた。一人と一匹は、早速調査に乗り出すことにした。

 調査といっても、本物の探偵のようなことはしない。偽のプリントを持って、鈴木さんちのピンポンを押すだけだ。「プリントを届けにきました!」とシンイチが嘘を言い、出てきた有加里の母、希美子(きみこ)の姿を見れば、妖怪「心の闇」に取り憑かれてれば一発だ。
 案の定、ドアを開けた彼女の肩に「心の闇」が取り憑いていた。全身金色で、ピカピカ光っていて、金平糖のようにトゲトゲしていて、刺さるとチクリと痛そうだ。それは本物の金で出来ているようでもあり、単なるメッキのようにも見えた。その棘が何本か彼女の肩にめりこんでいる。おそらく、心の底まで達しているのであろう。
「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」とシンイチは言った。
「はい? 何のこと?」
「それは……妖怪『若いころ果たせなかった夢』」
 シンイチは手鏡を出し、希美子に見せた。
「なにこれ!」
 希美子は驚き、自分の肩を払ったが現実の肩には何もなかった。しかし鏡の中には「若いころ果たせなかった夢」が目を輝かせて自分を見ている。
「自分の叶えられなかった夢を有加里ちゃんに託す心は、その妖怪のせいなんだ」
 まるで自分の心を読まれたようで、希美子はひるんだ。
「……有加里に頼まれて来たの?」
 シンイチは首を振った。
「本人が自らやりたいってんならいいけどさ、彼女だいぶ嫌がってるぜ? 火曜と木曜はじんましんが出るんだって」
「……」
 シンイチは一計を案じた。
「そうだ! 今からさ、自分でピアノ教室に通えばいいんだよ! 親子で通えばいいじゃん!」

    2

 しかしピアノのことについて、シンイチは知らなさ過ぎたのだ。十の指全てに細やかな神経を通すには大変な修練が必要で、それはある年齢を超えると限界があるのだそうだ。
 すばらしいピアニスト達は、バレリーナと同じように、幼少のころから果てしなく肉体の繊細なメンテナンスをし続けている。年を取ってからでは、ある程度以上にはならないものらしい。
 教室のピアノの前で両手を広げ、希美子はぽつりぽつりと鍵盤をつまびいた。
「私はね、『ラ・カンパネラ』を子供のころに聞いて、それを弾くピアニストになりたいと思ったのね」
 そう白状した希美子は、最初の音の黒鍵を弾いた。
「でもピアノを習わせて貰えなかった。家が貧乏だから、自分から言い出すのも子供ながらに気を使っちゃってね」
「リストの『ラ・カンパネラ』ですよね?」
 ピアノの先生は尋ね、希美子はうなづいた。
「それってどんな曲? 弾いてみてよ!」とシンイチが尋ねると、ピアノの先生は顔をしかめた。
「超絶技巧を要求される、とても繊細で難しい練習曲なの。これが弾けるから上手いでしょ? って自慢するのに、わざわざ演奏する人もいるくらい」
 先生は意を決して最初の黒鍵を弾き、「ラ・カンパネラ」を演奏した。
雨粒が落ちてくる音を表現したという序盤。それが鐘の音に聞こえるようだから「(カンパネラ)」の題がついた曲だ。シンイチは何故か涙が出てきた。聞いているだけで心の奥底の何かに触れる曲だった。
 希美子はハンカチを貸してくれて言った。
「私も君ぐらいの年のときに、初めてこの曲を聞いて同じように涙を流したの。その時に、この曲を皆に聞いてもらえるようになりたいと思ったの」
「分かる。分かるよ」
「そうでしょう」
「でもさ、それと有加里ちゃんに弾かせる、というのは違うと思う」
 皆に連れてこられた有加里は、話を黙って聞いていた。自分にはとても無理だという顔をしている。希美子はため息をついた。
「私は、子供の頃にピアノを習うチャンスがなかったことを後悔してるんだと思うの。もし習えてたら、とずっと思ってる。仮に才能がなかったとしても、そうと知れば諦めもつく。試せもしなかったことが、ひょっとしたら私の果たせなかった夢なのかも知れない」
「うーん」とシンイチは考えた。
 ネムカケは何か思いついたか、と膝の上からシンイチの顔をのぞきこむ。
「じゃさ、その子供の頃に戻ればいいんじゃないかな!」
「はい?」
「すんごい『ねじる力』なら、出来るかも! ちょっと待ってて!」

 シンイチは水鏡(みずかがみ)の術を使い、遠野の大天狗に相談することにした。
 水鏡の術とは、円い容器に清水を張り、遠くを映し出す術である。水のきれいな遠野には天然の泉が「水鏡」になっている所が何箇所もあり、かつては京の様子まで見えたという。
「久しぶりじゃのう」
 水鏡にうつった遠野の大天狗は、相変わらず恐ろしい顔のまま笑った。慣れると、この怖い顔が笑っているかどうか分るのだ。
「久しぶり! 遠野のみんなは元気にやってる?」
 遠野の妖怪たちのことをシンイチは少し思い出していた。ホームシック、つまり「戻りたい心」が心の闇の原因かも知れない。そう考えたシンイチは、本題を切り出した。

「……つまり、時をねじる、ということか」
「そうそう! オレのねじる力じゃ無理だけど、大天狗ならできるんじゃないかって!」
「大胆なことを考える」
「できる?」
「過去をのぞきこみ、ありえたかも知れない未来を見ることは可能だ」
 天狗には、遠見(とおみ)の力という神通力がある。「空間的に遠く」を見れば、自分のいない場所のことを知る力となり、これを千里眼という。「時間的に遠く」を見れば、過去通(かこつう)未来通(みらいつう)という異能となる。過去通とは人や物から過去を読み取る力(サイコメトリーと西洋で呼ばれる力。強い過去通は前世も読み取れる)で、未来通とは予知能力のことである。
 遠見の力が完全に備わると、世界が分岐点の集合に見えるのだそうだ。ある道で右と左に分かれ道があり、その道の先にも分かれ道があり、その先にも……と、道が無限に分かれているように見えるという。本当はどの時点のどこでだって、右にも左にも行ける。多くの人はそれを知らず、一本道を歩いているような錯覚を持っている。

「ねじる力」
 大天狗は分厚く朱い掌をひろげ、遠野の山奥からはるか離れた東京郊外とんび野町ピアノ教室の、ピンポイントの「時」をねじった。黒い渦が突如湧き出して、シンイチ、ネムカケ、希美子、有加里を包んだ。周囲の景色が急にぐにゃりと曲がり、竜巻の中心にでも放り込まれたようになった。周りに飛ぶ光景は、逆回しにどんどん過去へ。一行は、三十二年前へとタイムトラベルすることになった。
「ここがその分岐点だ」
 水鏡の中から大天狗が告げた。三人と一匹は、希美子の子供のころの家にいた。

    3

 その居間には、有加里が生まれる前まで現役だった家具調コタツが真ん中にあり、みかんがいくつか置いてあった。日本人形が上に乗った、チャンネル式のテレビを五人家族で見ていた。ドリフがCMに入り、誰がチャンネルを変えるかでもめた。希美子の父が巨人戦を見たがり、チャンネルを回す途中で太い女がピアノを弾いている番組があった。八歳当時の希美子は叫んだ。
「この曲!」
 ラ・カンパネラ。タイトルがずっと覚えられず、小さくて細やかな単音が雨だれのように打つ、当時の希美子がずっと探していた曲。しかし父は無造作にチャンネルを巨人戦に変えてしまった。
 大天狗は水鏡の中から言った。
「ここでお主がピアノを習いたいと言えば、習えたのだ」
 大人の希美子はとっさにテレビに走ってゆき、チャンネルを巨人戦からピアノ演奏に戻した。
「? 壊れたかな?」
 現代の四人は、どうやら過去の世界からは見えないらしい。
 「ラ・カンパネラ」を夢中で聞く子供の希美子は叫んだ。
「私、ピアノ習いたい!」
「?」と、家族はその唐突さにびっくりした。
「この曲を弾きたいの!」

 世界はここで分岐した。希美子がピアノを習えた世界と、習えなかった世界に。
子供の希美子はピアノ教室に熱心に通い、基礎から地道にピアノを続けた。何度もくじけそうになるたび、心の中で(カンパネラ)を鳴らした。高校に進学後、ピアノコンクールの地方予選で優勝した。その後全国コンテストで四位に入賞、その実績で音大へ進んだ。希美子は今や将来を嘱望された若きピアニスト候補。ピアノ科での切磋琢磨は、彼女に良い影響を与えた。
 だが、ピークはそこまでだった。大学三年のときのコンテストの決勝で、考えられないミスを犯したのだ。最初の一音を彼女は外した。一番最初の黒鍵を間違えたのだ。希美子は慌ててオープニングを立て直しながら、曲を滑り出しはじめた。
 現代の希美子は呟いた。
「この曲……」
「うん。ラ・カンパネラだね」
 シンイチはあの美しいメロディーを覚えていた。思い入れのある曲を、ピアニストの希美子は勝負曲に持ってきたのだ。超絶技巧の曲だ。血のにじむ思いで練習してきたのだろう。だが肩に力が入りすぎ、思い入れがあるが故にミスを犯し、思い入れがあるが故にその後立て直せず、演奏の出来は散々だった。
 失意の彼女は二度と立ち直れなかった。ふさぎこみ、ピアノに触れない日々を送った。「三日さぼると指先の感触が変わる」と呼ばれる細やかな感覚は、彼女の指からどんどん抜け落ちていった。
 ピアノを彼女から取ったら何も残らなかった。彼女は孤独の生涯を送り、三十歳を迎えた日に自殺した。

「お主がピアノを習っていたら、このような人生が待っていたのだ」
 と大天狗は解説した。
「……おかしい」
 現代の希美子は異議を唱えた。
「どうして私は夫に出会わないの? ピアニストとして生きようとした私に、どうして夫は現われなかったの? 夫にも出会わず、有加里も生まれなかったって言うの?」
 有加里はびっくりした。
「えっ、じゃ私の存在は消えちゃうの?」
「そうじゃな」と知恵袋のネムカケは解説する。
「人の意志はAとBのどちらかを選ぶことができるが、その決定は、未来に影響を与える。蝶の羽ばたきが地球の裏側で津波になるかも知れんということで、バタフライ効果と呼ばれることもあるくらいじゃ。この場合、ピアノを習うという決定が、旦那との出会いに結びつかなかったのじゃな」
「ちなみに、旦那さんと出会ったのはいつ?」
 とシンイチは尋ねた。
「大学時代、合コンで」
「じゃあ音大に進んだ時点で、出会えなかったんじゃない?」とシンイチは推理する。
「あ、そうか。いや、でも違う」
「?」
「色々な大学が参加する合コンが流行ったのよ。音大の人もその中に混じってた筈」
 大天狗が時をねじり戻し、彼女の合コンの場面へ導いた。
「そうだ。たしかに出会っては、いる」
 合コンの席で、音大生の希美子と、のちに夫になる筈の満寿夫(ますお)が乾杯をしていた。
「それがどうして付き合うことにならなかったのかしら?」
 シンイチは尋ねた。
「そこで何があったの?」
「えーっと何だっけ。……そう、フェラーリ」
「フェラーリ?」
「私ね、高校のときに真っ赤な車に轢かれそうになったことがあって、ギリギリの所で助かったことがあるの。当時、サイズの大きなぶかぶかの靴を履いてて、つま先が余ってて、私の前を猛烈に通り過ぎた赤い車が、つま先の入っていない靴の余り部分だけを轢いてったことがあって」
「スゲエ。超ギリじゃん」
「その赤い車の話になって、それがフェラーリだって話になって。満寿夫は車が好きだから盛り上がって……」
「その、轢かれそうになったのはいつ?」
「高校のときに、当時の彼氏に振られて泣きながら走ってて、県道十六号を信号も見ずに渡ろうとして……」
 大天狗は時を戻した。「ではその分岐点に戻そう」
 二十五年前の十六号線を、一台のフェラーリが猛烈に通過した。そこに高校生の希美子はいなかった。
「じゃあその時の私は……」
「いた!」
 天狗七つ道具のひとつ、金色の遠眼鏡「千里眼」を覗きこみ、シンイチは高校生の彼女を見つけた。彼女はぶかぶかの靴で、音楽室でピアノを弾き続けていた。
「そうか。……私はピアノを弾いてて、フェラーリに出会わなかったのか」
 希美子は、隣で見ていた娘の有加里の頭を撫でた。
「ピアノを習うってことは、フェラーリにも会えず、あなたにも出会えないってことなのね」
 大天狗は一行を、俯瞰した時空へと時をねじった。ピアノを習った彼女。高校生の彼女。失敗した彼女。失意のまま死のうとする彼女。
「さびしい」と、ピアニストの彼女は呟いた。
「平凡な家庭が築きたかった。合コンで意気投合したり、子供が生まれたり、親子でどこかへピクニックに出かけるような、普通の幸せが欲しかった」
 希美子は驚く。
「それって……ごく普通の、今の私ってことじゃない」
「ピアノなんて習うんじゃなかった。私はピアノなんて習わずに、娘が欲しかった」
 と、ピアニストの希美子が涙を流す。
「なんでよ!」
 と、希美子はもう一人の希美子に詰め寄った。
「じゃ私の人生と交換しなさいよ! ダンナが帰ってこなくてイライラしたり、専業主婦の自分に不満だったり、PTAでの女同士のバトルとか、詰まらないことしてみなさいよ! 娘をピアノ教室に通わせて、蛇のように嫌われてみなさいよ!」
 ピアニストの希美子が電車に飛びこもうとするのを、希美子は体を張って止めた。そして肩をゆさぶって呆然とする希美子に言った。
「私はまだ、私が弾く『ラ・カンパネラ』を聞いてない!」
 彼女の肩の妖怪「若いころ果たせなかった夢」の金色が急に輝きを失い、曇った色になった。
「有加里! ピアノ教室辞めていいわよ! 私が一人でやるわ!」
「え? ……いいの?」
「私は今までの人生で二回鐘が鳴ったの。一回目はお父さんと出会ったとき、二回目はあなたが生まれたとき。どっちも、自分から鳴らしにいった訳じゃない。三回目は、自分で自分の鐘を鳴らす」
 妖怪「若いころ果たせなかった夢」は、この言葉で鉛色から錆色になり、ぽろぽろと崩れはじめた。
 希美子は、もう一人の自分に言った。
「いい? もう一人の私。必ず鈴木満寿夫を探し出しなさい。そして有加里を生むのよ。ひとつだけ教えてあげる。どうせあいつはフェラーリショップにいるから、そこに行きなさい。あいつはフェラーリ好きだから、その話を振ること! 有加里のアは、アラン・プロストのアから取るのよ!」
「……フェラーリって何?」と、ピアニストの希美子は聞いた。
 希美子は笑った。
「それが彼に最初に言う台詞だから!」
 こうして、希美子の肩の妖怪「若いころ果たせなかった夢」は、彼女の肩から外れた。

 ここからは、てんぐ探偵シンイチの出番だ。
「つらぬく力!」
 シンイチは、右手から「矢印」を出し妖怪を貫いた。錆びた金属の破片が、四方八方に飛び散った。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 火の剣、小鴉が「若いころ果たせなかった夢」を真っ二つにし、炎の中へと消し去り、清めの塩と化した。

 大天狗は時をねじり戻し、元の時間軸へと皆を帰した。
「……あっちの世界の希美子さんは、満寿夫さんを見つけられるかな」
 シンイチは心配になった。
「見つけられるわよ。私、案外タフだもの」と希美子は笑った。


 今夜は夫の満寿夫の帰りが遅かった。希美子は有加里を先に寝かせ、遅い晩御飯を夫婦で食べていた。彼女はふと、夫に尋ねてみた。
「ねえ。あなたは子供の頃、何になりたかったの?」
「レーサー」
 それがあまりにも子供っぽくて、希美子は笑ってしまった。
「レーサー? 何それ」
「昔F1が流行ったじゃん。みんなはホンダのセナになりたがったけど、俺はフェラーリのプロスト派だったんだ。教授ってキャラが渋くてさ」
「あ。アラン・プロストのア」
「……何の話?」
「ううん。それより次の日曜、行くとこ決めてるの?」
「いいや。有加里はどっか行きたいって言ってた?」
「……わたし、ピクニックに行きたいわ」
「……どこへ?」
 希美子は微笑んで、夫に頼み事をした。
「わたしをサーキットに連れてって」
「はい?」

 大人になることは、夢から遠ざかることだ。しかし大人になることは、かつての夢と、どういう距離を取るか決めることでもある。満寿夫の「距離」を、希美子はサーキットで聞いてみたいと思った。
 そして、そこで有加里の夢を聞こうと決意した。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第七話 「寂しさは、リレーしない」 妖怪「さみしい」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「おはよう、ばあさん」
 能見(のみ)源兵衛(げんべえ)は、八十八歳になっても健康で、立派に独り暮らしを続けている。
 いつものように夜明け前に目が覚め、いつものように庭掃除をし、いつものように亡くなった連れ合いの写真に線香と水をあげ、朝の挨拶をした。

「ばあさんがいなくなって今日で……何年になるかねえ。もう一々計算するのも面倒だねえ」
 コンビニで昨夜買った菓子パンをほおばりながら、源兵衛はばあさんの形見の急須で茶を淹れた。茶といっても、パンに合わせた、ばあさんが好きだったストレートの紅茶だ。
 それから朝の新聞を隅から隅まで読み、ちゃぶ台の上の将棋盤に向った。それは、中盤の複雑な局面のまま止まっていた。
「今日は、5七飛を試してみようかね」
 ぱちり、と源兵衛は駒を動かし、それから反対側の席に移ってうんうんと唸った。ぱちり、と駒を動かし、またこっち側の席に戻って、むう、と呻いた。一人二役の将棋である。年季の入った柘植製の折りたたみ式将棋盤は、長年の手脂を吸い、いい色に渋味を増し艶っぽい。長考ののち源兵衛は銀を取り、また反対側の席へ移った。むむ、と息をもらして再び長考の時間となった。小さな庭に当たる陽の光は、いつの間にか随分と高くなっていた。
「おっと、いかんいかん。散歩に出ないと寝たきりになってしまう。じゃ、ばあさん行ってくるよ」

 少し残した菓子パンを持ち、源兵衛は出かけた。
 いつもの公園で、鳩たちに菓子パンの残りをばらまく。鳩たちはそれを期待して、源兵衛が来る前から集まっている。これは、ばあさんが生きていた頃からの習慣だった。
 パンをつつく鳩を見ながら将棋の次の展開を考えてみたが、なかなか妙手は思い浮かばなかった。将棋のことが頭から消えると、源兵衛は顔をあげた。
「……あれ?」
 唐突に、源兵衛はすることがなくなったことに気づいてしまったのだ。
 ばあさんがいたころは話し相手がいた。いちいちうるさくて、自分と全く違ったことを言うやかましいばあさんだった。テレビを見ても自分と違うところで笑い、泣き、食事をしても自分と違うものを食べた。そのばあさんがいなくなって、どれくらい長い間、自分はこの世に置き去りにされたままだろう。
 ばあさんに会いたいな。たったひとつの感情が、ため息とともに口を突いて出た。
「……さみしい」
 誰もいない公園には、原色のどぎつい妖怪「心の闇」たちが漂っていた。暗紫色の妖怪「さみしい」が、源兵衛の肩に取り憑き根を張った。

 源兵衛はいつもと違う道で帰ることにした。将棋の妙手も、違う道を歩けば思いつくかと考えたからだ。
 わあわあと子供の声がするので惹かれてゆくと、そこは保育園だった。園児たちが泥んこで走り回っている。「ええのう楽しそうで」と、源兵衛はひとりごちた。だがすぐに、そうではないことに気づいた。
 砂場の奥に、誰とも遊んでいない子が一人だけいた。彼は一人で砂山をつくり、一人で崩し、また砂山をつくっていた。誰も彼に話しかけず、誰にも彼は話しかけなかった。源兵衛は心配になり、フェンス越しに彼に話しかけてみた。
「一人でさみしくないのかい?」
 その園児は答えなかった。あまりにも人に話しかけられてなくて、耳が麻痺でもしてるのだろうか。源兵衛はもう一度たずねた。
「一人でさみしくないのかい?」
 園児は砂山を完成させてから、源兵衛に振り返った。
「ウッセーなじじい! 話しかけてくんじゃねえよ!」
「なんだ、聞こえていたのか。きみは、誰とも遊ばないの?」
「ウッセーなじじい! 遊ばねえよ! オレはずっとこうしてんだよ!」
「それで、さみしくはないのかい?」
「ウッセーなじじい! 帰れよ!」
 園児は再び砂山に戻った。俺が一人将棋をしているのも、他人にはこう映るのだろうかと源兵衛は思った。こりゃずいぶんと、さみしいな。

 次の日も源兵衛は同じ時間に起き、ばあさんに線香をあげ、新聞を読み、一人将棋の続きをした。公園で鳩に菓子パンの残りをやり、将棋の妙手を考えた。しかし将棋の瞑想は早々に切り上げ、保育園へ向った。あの砂山の子が気になったからだ。
 あの子は果たして、今日も一人で砂山をつくっては崩していた。
「一人じゃ、さみしいだろ」
 園児は答えた。
「ウッセーなじじい! さみしくなんかねえよ!」
「さみしくないのなら、……それで良い」
 源兵衛は彼に追い払われるように立ち去った。

 次の日もその子、藤崎(ふじさき)爽太(そうた)は、一人で砂山をつくって崩していた。
「……期待するから、がっかりするんだ」
 爽太の母は勤めの退社時間が遅く、保育園ではいつも最後まで待たされる。みんなで仲良く待っていても、一人二人と順にいなくなって、彼はいつも一人で残されるのだ。彼は世界から、いつも置き去りにされている。仲良くなったって無駄なんだ。だって夕闇の中に取り残されるだけなんだから。爽太の心には、その夕闇の時間がいつも横たわっている。それはちょうど、暗い紫色だ。
 爽太はフェンスの向こうをのぞいてみた。あの「ウッセーじじい」は今日来なかった。なんだよ。期待なんかするんじゃなかった。期待するからがっかりするんだ。胸をちくりと痛めた爽太に、暗い紫色の妖怪「さみしい」が、ぴたりと寄り添って根を張った。

    2

 今日はいい天気なので、老猫ネムカケが「散歩などしたし」とシンイチを誘ってきた。猫の散歩は塀を歩き、狭い路地から屋根を登り、縁の下へ潜る。人間の十歳の体のシンイチにとっては、アスレチックのようなハードコースである。
 上機嫌のネムカケは、「公園にて、鳩などとたわむれたし」と公園へ向う。
 そのベンチには先客がいた。鳩に餌をやる源兵衛だ。シンイチは「あっ」と声をあげた。源兵衛の肩に、妖怪「さみしい」が取り憑いていたからだ。

「なるほど。わしは妖怪『さみしい』に取り憑かれておったのか」
 源兵衛はシンイチの話を聞いて理解した。鏡の中の妖怪「さみしい」は、哀愁を漂わせた歪んだ顔で源兵衛を見つめている。
「このままだと源じいは『さみしい死に』しちゃうよ! そうだ! 俺が遊んだげるよ! 何して遊ぶ? サッカー?」
「老人の体にはキツイのう」
「他に何が出来る? 趣味とかある?」
「わしの趣味は将棋じゃ」
「将棋! オレ結構強いぜ! いいよ! やろう!」
 シンイチはそれなりに将棋の腕には自信がある。学年でだって十番以内に強いぜ!

 だが源兵衛の家で盤を囲んでみると、シンイチの棋力ではまるで通用しなかった。大敗の連続。飛車、角、銀、桂落ちでもだ。
「源じい強すぎ! オレこれでも学年で十番以内の……」
「シンイチはなかなか筋がいいぞ」
「ええっ?」
「そうだな。もう八十年鍛えれば、わしと互角じゃな」
「八十年かよ!」
 源兵衛は微笑んだ。久しぶりの実戦で嬉しかったのだ。だが妖怪「さみしい」は、それしきでは外れない。やはり互角で全力出せる相手じゃないとなあ、とシンイチは考えた。
「よし、カラオケに行こう!」
 楽しい気分といえばカラオケだ。源兵衛は意外に演歌が上手く、ネムカケも喉を鳴らして歌うのが上手かった。シンイチは少し音痴だが、真知子(まちこ)先生に習った「元気良く歌うこと」だけは負けないぜ。
 だがヘトヘトになるまで遊んでも、妖怪「さみしい」は大きくも小さくもならなかった。
「ちきしょう、どうすりゃ外れるんだ?」
 源兵衛は、「気になる子供がいる。あの子もさみしいんじゃなかろうか」と、あの保育園の子、爽太のことをシンイチに話した。

    3

「あの子だね」
 シンイチとネムカケと源兵衛は、物陰から保育園をのぞきこんだ。
 砂山で一人遊ぶ爽太には、源兵衛と同じ妖怪「さみしい」が取り憑いている。源兵衛の肩のより大きい。成長の度合いが早いのか。
 どうしたものかとネムカケが思案するより早く、シンイチはたたたと走ってその子に話しかけていた。シンイチには誰とでも友達になる、不思議な力がある。
 シンイチはたたたと走ってきて、源兵衛の手を引き、その子と会わせた。
「紹介しよう! こちら源じいさん! こちら爽太! 二人とも妖怪『さみしい』に取り憑かれた仲間! ハイ握手!」
 フェンス越しに、六歳と八十八歳を、十歳が握手させた。
「さみしい仲間同士、二人が友達になればいいと思うんだよねオレ! そしたら、さみしさはなくなるんじゃない?」
 不審者かと警戒して声をかけてきた先生にシンイチが説明した。
「彼ひとりぼっちだから、ひとりぼっちの友達を連れてきたんです!」
 先生は安心して、ありがたい申し出だと言ってくれた。
「さて、なにして遊ぶ? 将棋はできるかな」
 源兵衛は爽太にたずねた。
「知らない」
「じゃ、回り将棋を教えてあげよう。双六みたいなもんだぞ」
 回り将棋とは、将棋の駒のランクを知るための単純なゲームだ。
 金将を四枚投げて、裏表の数をサイコロ代わりに、将棋盤の回廊を進む。四隅に止まると自分の駒が歩から香車、桂馬、銀、金、角、飛車、王将とランクアップする。
 将棋盤を家から持ってきた源兵衛は、爽太と回り将棋をはじめた。パワーアップがゲームっぽくて気に入ったのか、サイコロ代わりに四つの駒を投げるのが気に入ったのか、爽太は面白がった。しかし今日は もう遅い時間で、「続きは明日」と源兵衛は約束した。

 次の日の朝も同じ時間に源兵衛は起き、同じようにばあさんに線香を上げた。一人将棋のつづきをしようと思ったが、昨日は二人でやったことの方が楽しかったと思い出し、保育園の時間までそわそわと庭掃除をした。
 爽太も源兵衛が来るのを楽しみにしていた。昨日に続けて、フェンス越しに回り将棋をする八十二歳差の友人の姿があった。
 が、ゲームが進むにつれて爽太が癇癪を起こしはじめた。ゲームとは勝敗を競うものだ。勝者と同じ数の敗者がいる。爽太は「負ける」という感情に耐えられなかった。追い越されて自分の駒がランクダウンするごとに、「ムカツク!」と言い出し、ついには涙目で将棋盤をひっくり返した。
「ばあさんの形見に、なにするんじゃ!」
 源兵衛はそれまで大人の対応をしていたが、将棋盤が目の前でひっくり返ったことで頭に血が上ってしまった。

「なるべく二人で一緒の時間を過ごそう」と、ばあさんが源兵衛の誕生日に買ってきた将棋盤だった。長らく駒に触れていなかった源兵衛が、久々に盤を囲んだ。ばあさんは、将棋でもなんでも良くて、ただ二人の会話を増やしたかったのだ。源兵衛がそう気づいたのは、ばあさんが死んだあとだった。
「初心者用だから、折りたたみ式の盤にしたのかい」と、かつて源兵衛は聞いたことがある。
「外に持ってけるやつがいいと思ったの」とばあさんは微笑んだ。
「家にこもってるより、お外がいいでしょ?」と。

 その将棋盤が泥に染まり、石に当たって傷と凹みがついた。爽太は手の中の駒を泥の地面に叩きつけた。源兵衛は、思わず爽太に平手打ちを見舞った。爽太は驚いて一瞬固まり、火のついたように泣き出した。
 源兵衛は地面にばらまかれた駒を黙って拾った。保育園の先生が泣き声に気づいてやってくる頃には、源兵衛は姿を消していた。

    4

 学校の授業が終わると、ススム達のサッカーの誘いを断ってシンイチは保育園へと急いだ。二人とも仲良くなれば「さみしい」は小さくなるだろうと、単純に思っていたのだ。
 ところが、フェンス越しの回り将棋はそこになく、砂山を積んでは崩す爽太がいるだけだった。妖怪「さみしい」は、外れるどころか巨大に腫れ上がっている。つつけばはじけそうだ。
「ケンカした」と爽太は言った。
 王将をひとつ、爽太はポケットから出した。
「……源じいに返さなきゃ」
 シンイチは源兵衛の家へ急いだ。

「大人げなかった」
 源兵衛は反省していた。
「ばあさんの形見だったんじゃ。二人で将棋をする為に、わしの誕生日プレゼントにパチンコで勝ったからと買ってきたやつなんじゃ。将棋をバカにされるのは、ばあさんがバカにされることと同じじゃ。……でも、爽太には悪いことをした」
「駒が一枚、足りないでしょ」
 源兵衛は駒をあらためた。
「王将が足りない。……なんで気づかなかった。これじゃ、二人で対局が出来ない」
「爽太がちゃんと持ってる。返したいって」

 フェンスの向こうに源兵衛の姿を見つけると、爽太は半泣きで王将をポケットから出した。
「ごめんなさい」
「いや、わしも大人げなかった。つい大声をあげてしまった。将棋盤と駒を、わしは大事に扱って欲しかったのじゃ。すまなかった」
 謝って仲直りすれば、妖怪「さみしい」が外れるのではないかとシンイチは期待していた。しかし二人の「さみしい」はびくともしない。友達になって、ケンカして、謝って、それでも「さみしい」という心の闇は、晴れないのだろうか。
 源兵衛はその王将を見て、泥が固まってついていることに気づいた。袖でこすっても落ちない。爽太が言った。
「かして。あっちに水道がある」
 二人は水道で一緒に王将の泥を洗った。力の強い大人が大きくこすり、指の小さな子が彫りの中に入った泥をこそげおとした。
「きれいになったね」
「うむ」
 太陽の斜めに差した光が反射して輝き、きれいだった。
「またやろう」
「うん」
 そのとき、二人の「さみしい」は二人の心から外れた。

 シンイチは、塀の上で眺めていたネムカケに言った。
「表面的に仲良くするだけじゃ、さみしいだけなんだ。本気でぶつかって、反省して、約束して、はじめて友情なのかもね」
「そうじゃのう」
 ネムカケの眠そうな細い目は、笑っているようでもあった。
 シンイチは印を組み、九字を切った。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前! 不動金縛りの術!」
 保育園全体が時を止めた。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
 シンイチは右手と左手からそれぞれ「つらぬく力」を出し、「矢印」で二匹の「さみしい」をつらぬき空中に固定した。
天狗風(てんぐかぜ)!」
 ひょうたんから天狗七つ道具のひとつ、()団扇(うちわ)を出してひと扇ぎ。十一枚葉の団扇は大風を起こした。これを天狗風という。山の中で風が吹くときは、木々が揺れて予告をするものだ。しかし天狗風は前置きなしに吹く。山の中でいきなり吹く風は、天狗が起こす風なのである。「さみしい」たちは風に巻きこまれて衝突し、串刺し団子になった。
「とう!」
 火の剣、小鴉を抜きざまに、二体を一刀のもとに斬り伏せた。
「一刀両断! ドントハレ!」
 浄火が「さみしい」を包みこむ。二体は爆ぜ、清めの塩となった。

「この将棋盤も駒も、爽太に譲ろう。いつでもわしはここに回り将棋をやりに来るよ」
 源兵衛は笑った。その日から、フェンス越しの回り将棋が日常風景になった。本当の将棋を、いつか教えることを源兵衛は期待しながら。

    5

 久しぶりに源じいさんに将棋のリベンジがしたくなって、シンイチは源兵衛の家を訪ねた。飛車角銀落ちぐらいでなんとかなるように、将棋友達のタケシとイメージトレーニングを積んでいたのだ。こないだは駒を取られまくって戦力を逆転された。下手に駒交換に出ないようにすれば、勝てる筈だ。
 ところが、黒い服を着た大人たちがばたばたと荷物を運んでいた。古い箪笥、皿や急須が持ち出されている。
「……源じいの知り合いの人?」
 シンイチは、胸の不安を抑えるようにその大人に尋ねた。答えは冷たかった。
「近所の子かい? 源兵衛さん、亡くなったのよ」
「ええっ!」
「もう歳だったしねえ。急だったわよ」
 源じいは、ある朝目を覚まさなかった。穏やかな死に顔だったそうだ。

 保育園では、爽太が将棋盤を広げたままずっと源じいを待っていた。源じいの死をまだ知らないのだろう。シンイチは、どうやって声をかけるべきか悩んだ。
 爽太がふと横を見ると、かつての彼のように、一人で砂山をつくっては崩している子がいた。誰にもその子は話しかけず、誰もその子には話しかけなかった。
「……」
 爽太は勇気を出して、その一人目になった。
「ねえ、こっち来て回り将棋やろうよ」
 その子は顔をあげた。爽太は笑った。かつて源じいがやってくれたように。
「やり方、教えてあげる」
 二人の子供は、彼の遺した将棋盤で回り将棋をはじめた。

 シンイチは気配を感じ、隣を見て驚いた。源兵衛が、子供たちを微笑みながら見ていたからだ。
「源じい!」
 だが源兵衛は半分透明で、幽霊だ、とシンイチは理解した。
 辻の角に、同じく半透明なおばあさんが立っていて、シンイチにお辞儀をした。写真で見た源兵衛の奥さんだと、シンイチには分かった。源じいはそのおばあさんに手をあげ、彼女の待つ辻まで歩いていった。おばあさんはもう一度丁寧なお辞儀をした。源じいは両手を上げてこちらに振り、将棋の駒を打つ手つきを見せた。
 そして、二人とも透明になって消えた。


 それから、二人の子供は傷の入った将棋盤で毎日遊んだ。
 宙を漂う妖怪「さみしい」がふらりと来たが、取り憑く相手を見つけられず風に消えた。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第八話 「妬みは天下の回りもの」 妖怪「ねたみ」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 シンイチは夢を見ていた。
 妖怪王国・遠野(とおの)の山中で、大天狗(おおてんぐ)に修行をつけてもらっていた時のことだ。

 遠野一の早池峰(はやちね)山中の、奇怪な岩がゴロゴロする霧深い岩山だった。ねじれた巨木が沢山生えている。自然にそうなったのか、それとも天狗にねじられたのか。
 木より巨人の大天狗は、岩の上にどっかと胡坐をかき、(あか)い顔に金色の目を光らせて言った。
「その木を、つらぬいてみせよ」と。
 シンイチは人差し指をきりりと伸ばし、老木に向かって突き出した。
「つらぬく力!」
 しかし、その苔むした老肌はぴくりともしない。
「木の裏を見ろ。裏まで見通して、はじめてつらぬけるのだ」
「ムリだよそんなの! 表からは裏なんて見えないだろ!」
 大天狗の言っていることはまるで謎かけで、小学生のシンイチにはさっぱりだ。
「では、ねじる力はどうだ?」
 大天狗は、右の掌を上に向け、ひねった。めりめりめり、と二本の木が音を立ててねじり合わされてゆく。まるでティッシュでこよりをつくるようにだ。
「難しすぎるよ! 『つらぬく力』でも難しいのに!」
 天狗は山の王である。月に一度山の木の数を数えるのが天狗の仕事だ。最後の目印に、木をねじり合わせておくという。この日に山に入ると、木と間違えられてねじ殺されるという伝承が全国の猟師(マタギ)に残っている。だから月末は禁猟日なのだそうだ。山にときどきあるねじり合わさった木は、天狗のしわざなのである。
 大天狗の巨大な鼻が、シンイチに向けられた。
「ちがうぞシンイチ。基本は循環の力、『ねじる力』なのだ。その螺旋をのばしたのが『つらぬく力』だと思え。因果をねじれ。まずはその赤い花と白い花を、ねじり合わせてみよ」
 天狗には様々な神通力がある。飛翔(ひしょう)縮地(しゅくち)遠見(とおみ)隠形(おんぎょう)。これらはすべて「ねじる力」の応用なのだと大天狗は言う。因果をねじる、循環の力だと。
「うううううん!」
 シンイチは掌を紅白の花に向け、ねじる。ねじる。ねじる。
「ねじる」ことを意識しすぎて、シンイチの首が九〇度右に傾き、一三五度、一八〇度傾き、ついにぐるぐると回り出した。
「ねじれる! オレがねじれるううう!」
 夢の中だと分からないシンイチは、水車のように回る首に恐怖する。両手をバタバタさせて暴れた。
「ううううううう!」
 右手が、ベッドの端の時計にぶつかった。
「いってええええ!」
 痛みでシンイチは目覚めた。床に転がった時計の針は、とっくに起きる時間を過ぎていた。
「夢か……」

 ここは東京郊外のとんび野町、シンイチの家の自室である。朝の光を浴びて、シンイチは夢から次第に覚めてきた。
「ネムカケ。起きなよ」
「もう。ねむいよう」
 布団の中で眠りこけるデブ虎猫、ネムカケをシンイチはゆり起こした。ネムカケの口癖はいつも「ねむいよう」だ。なんと三千歳だという。猫は百年生きると人語を解す化猫になる。大天狗は「ネムカケ様」と敬語で呼ぶ、ネムカケは遠野妖怪の最長老にして物知り袋だ。でもただの居眠り(ネムカケ)好きのおじいちゃん猫だけど。
「遠野の夢を見たよ」とシンイチはネムカケに言った。
「ワシは居眠りする夢じゃった」とネムカケは目をこすった。
「大天狗が出て来た」
「そうか。奴も妖怪たちのケンカを諫めるので精いっぱいじゃからのう」
 かつて日本にいた妖怪たちは、都会で棲み処を失くし、山へと逃げ、遠野にひしめくこととなった。大天狗は山の王として、彼らの交通整理の為、遠野を長期間留守に出来ないのである。
 シンイチは天狗の代理人として、新型の妖怪「心の闇」の正体を突きとめ、人々の心を助け、妖怪世界のバランスを取り戻さなければならない。

    2

 一階のダイニングにおりると、母の和代(かずよ)と父のハジメは朝食を食べはじめていた。ネムカケもドテドテと階段をおりてくる。拾ってきた猫、とシンイチは両親を説得し、見かけはただの太った老虎猫をシンイチが飼う体になっていた。
 和代は、最近口癖のようになっている話をもうはじめていた。
「だからさあ。ホントにセレブだなって。港区よ? 白金(しろがね)(だい)高輪(たかなわ)の間の、スーパーオシャレエリアよ? 流石は佐々木(ささき)さんよう」
 和代は三軒隣の佐々木さんの大ファンである。読者モデル出身で、いまもママモデルとして雑誌に出ている美人だ。その佐々木さん一家がこの町を出て、都内港区にマンションを購入すると聞いて、和代は毎日この話なのだ。
「旦那さんはデザイナーでオシャレ雑誌つくってるし、娘さんはバレエ教室通わせてるし、絵に描いたようなセレブ一家よ。私たち庶民とは大違いなのよう」
「とんび野町もこの家も悪くないと思うけどねえ。小さくて狭いけど、ぼくらの身の丈の一戸建てだし」と、父のハジメは新聞を見ながら返事したが、和代は聞いていない。
「別世界なのよう。芸能人や社交界のおつきあいも多いんですって」
「うらやましいの?」
「うらやましいに決まってるじゃない! 佐々木さんのようになりたいわ! むしろ佐々木さんになりたい。肉体の一部にでもなりたい。ダンナも子供も取り換えたい!」
 ハジメもシンイチも「そりゃ酷い」と突っ込むのを我慢する。ここの所、和代は毎日こうなのだ。
 和代の相手が面倒になり、ハジメとシンイチは早々に家を出た。今日も近所の犬飼(いぬかい)さんが、大型犬のボルゾイとダルメシアンとグレートデンを連れ、一人犬ぞりみたいになっているのにあいさつをした。
 最初の頃は、外に出たら妖怪「心の闇」だらけだったのに、てんぐ探偵シンイチの地道な活躍により、この辺りには見当たらなくなってきた。シンイチは誇らしい気持ちで学校で向かった。

 一人になった和代はリビングのパソコンを立ち上げ、「読者モデル・佐々木郁子(いくこ)のステキブログ」の、何度目かの熟読をはじめた。
「カメラマンさんとスタイリストのカネちゃんと、白金台でイタリアン!」「岩盤浴でホットヨガに挑戦!」「代官山の社交会!」「恵比寿のネイルサロンでモデル仲間と」……
 和代は大きなため息をついた。
「はあ……」
 そのため息を妖怪「心の闇」が嗅ぎつけてくることを、和代もシンイチもまだ知らない。ため息は瘴気である。心の歪みという磁場である。それに引き寄せられ、妖怪「心の闇」がやって来るのだ。
 窓の外から、派手な色の三匹の妖怪「心の闇」がのぞきこんだ。
「はあ……ねたましい」
 三匹のうち、マゼンタピンクの妖怪が窓の隙間からずるりと入ってきた。和代の左肩に乗り、両足を食い込ませる。その足先は心臓に達し、心の闇を栄養として吸いはじめた。
 その妖怪は眉間に深い皺を寄せ、への字に歪んだ不幸そうな口をしていた。名を、「ねたみ」という。
 妖怪の足先が心の奥底に達したのか、彼女の顔はみるみる上気した。右手を忙しく動かしはじめ、目が血走り、ブログの記事を次々と遡った。
 すべて読み終えると、彼女はコメント欄に文字を打ちこみはじめた。
「はじめまして! ファンです! 初コメントです!」「いつもオシャレで、目標にしています!」「どうしてそんなにキレイなの? くやしい!」「死ね」「肉体だけ取り換えたい」「あなたの家にお邪魔させて!」「皮膚だけでも取り換えたい!」「アンチが一杯いること忘れるなよ」「調子に乗るなビッチ」「素敵!」「死ね」「あなたがいるから私は不幸を感じるの」「いなければ良かったのに」「死ね死ね死ね」「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死」…………
 佐々木さんは写真の中で楽しそうに笑っている。コメントを打ち続ける和代の顔は、真っ赤に醜くひしゃげてゆく。それは肩の上で膨張してゆく妖怪「ねたみ」と、瓜二つになっていた。

    3

「サッカーやろうぜ!」
 授業が終わると、五年二組の皆は叫びながら校庭に出た。
 親友のススムが、チーム分けのジャンケンの前に馬鹿なことを言いだした。
「ジャンケンてさ、どれが最強なんだろうね?」
「は?」
「もしゲームのキャラだとしたらさ、どれが最強だと思う?」
 ガタイの大きな大吉(だいきち)が答えた。
「グーだろ。男の拳だ。最強パンチだ。固くて重くて、握れば握るほど威力があがる」
 ススムは反論した。
「オレはパーだと思うんだ。全てをつつみこむ。固いより柔らかい方が本当は強いって言うじゃん。魔法のパーだぜ」
 人と違うことの好きな公次(きみじ)が、カッコをつけながら言う。
「チョキだろ。グーもパーも単純すぎんだろ。チョキが一番複雑でクールだぜ。『すべてを切り裂きし者』だ」
 シンイチは少し考え、三人に言ってみた。
「じゃあやってみようぜ。ジャン、ケン、ポン」
 三人は、それぞれグー、チョキ、パーを出した。
「あいこじゃねえか!」とシンイチは予想通りのオチに笑った。
「ぐるぐる回ってるだけだろ!」
 ススムはムキになった。
「ちげーよ! ジャンケンじゃなくて、キャラとしてどれが最強かだよ! 最強パンチなんて、パーがつつみこむんだよ!」
「それを切り裂きし者、チョキが切る」
「デカイのでゴン、だ。グーがブッ壊す」
「それをパーがつつみこみ……」
「やっぱぐるぐる回るだけだろ!」とシンイチは笑う。
 そこへ見知らぬ猫がやってきて、ミャアと鳴いた。シンイチにはその言葉が分かる。動物の言葉を解する術だ。「ネムカケ様が早く帰れと」と、その猫が伝令係を務めてくれたのである。猫は、猫同士ネットワークをつくる性質がある。屋根の上の社交場と形容される、ネムカケはその力を借りたのだ。「なんかあったの?」「緊急事態ニャリ」と二人の会話は、人間にはミャアミャアと聞こえるだけだが。
「ごめんオレ手伝い頼まれてた! 先帰る!」
 ランドセルをひっつかみ、シンイチは家へと急いだ。

 門柱の上でネムカケが待っていた。眠そうな顔が焦って見えた。
「どうしたのネムカケ!」
「和代殿が、取り憑かれたのじゃ!」
「えっ! ……『心の闇』に?」
「わしじゃどうしようもない」
 シンイチは緊張した。まさか身内がやられるとは。油断だった。
 ドアを開けると、廊下には色々なものが散乱していた。デパートの紙袋、靴の箱。それは奥のリビングに点々と続いている。電気は消え、ひんやりとした大洞窟のようだ。
「お母さん!」
 リビングに入ると、色とりどりの派手な服がとびちり、沢山の靴や鞄も転がっていた。まるで食い散らかしたあとだ。和代は鏡に向かってつぶやいていた。
「おかしいのよ……おかしいのよ……どうやったって、あの人みたいになんないのよう!」
 和代の肩に取り憑いた、強烈なピンク色をした妖怪「ねたみ」をシンイチは見た。大きい。「心の闇」は宿主の心を吸って成長する。宿主が死ぬまで。
「母さん! それは妖怪……」
 言いかけたシンイチに和代が振り返った。シンイチは「ぎょっ」という音に似た声を出した。口紅の上に口紅が塗られ、何重にも塗られて耳まで裂けた口になっている。アイシャドウが幾重にも塗られ、緑や紫の隈の地層だ。つけまつげは指より太く長く、瞬いては醜くうねる。金色のコンタクトが気味悪い。まるで前衛(アバンギャルド)画家の描いた絵だ。和代の顔は何重にも重ね塗りされた絵だ。その顔が、妖怪だ。
「ねたみ」
 彼女の声帯から出した声とは思えない低い声で、和代は呻いた。妖怪が人格を乗っ取りかけているのである。
「母さんよく聞いて! 母さんは妖怪『ねたみ』に取り憑かれてるんだ!」
「ねたみ」
 人の声でない声で、元和代だった人間は答えた。
 パソコンの画面にシンイチは気づいた。佐々木さんのブログだ。
「母さんは……佐々木さんが妬ましいんだね?」
「ねたみ」「ねたみ」「ねたみ」「ねたみ」……どんどん歪んだ声になってゆく。そうして和代は、ようやく人の言葉を発した。
「どうしてあの人みたいになんないのようううううう!」
 妖怪の顔の和代は、家の外へ飛び出した。
「母さん!」
 シンイチとネムカケは追う。三軒隣の白亜の家。佐々木さんの家だ。和代はノブをガチャガチャと狂ったように動かした。留守らしい。イギリス風の趣味の良いガーデニング植木鉢の、右から三番目を持ち上げ、下にあった鍵を和代は奪った。
「知ってるのよ! 私は佐々木さんのことを何もかも!」

 佐々木家の一階のリビングは広く、雑誌に出てくるような白い家具でコーディネイトされていた。壁一面の本棚は洋書の写真集で埋もれ、プロカメラマンが撮ったと思しき、佐々木さんの美しいパネルが飾られていた。反対の壁の大きなクローゼットをあけ、大量の服を和代はちぎっては投げた。
「彼女の服なら私に合うかも! どうせ撮影で安く譲ってもらったのよ!」
 姿見で自分に服を合わせ、次々と放り投げる。
「母さんやめてよ!」
 シンイチは体を張って彼女を止めた。だが和代の力は強く、シンイチを振りほどいて部屋の隅までとばした。
「顔ね? 私の顔が悪いのね? 整形してしまえばいいのね?」
 テーブルの上の大型カッターを見つけ、和代は根元まで刃を出した。自分の頬に切りつけようとしたその刹那、シンイチの詠唱が間に合った。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛り! エイ!」
 刀印(とういん)(人差し指と中指を揃えて伸ばし、他の指は握りこむ、刀を示す印)を横と縦に四回ずつ切り、最後に横一直線。(はや)九字(くじ)と呼ばれる、最速の四縦五横の九字切りである。
 頬の一ミリ手前で刃はぴたりと止まり、和代の全身は動きを止めた。
「オイ妖怪『ねたみ』! やりすぎだろ!」
 シンイチは腰のひょうたんから天狗の面を出して威嚇した。妖怪「ねたみ」は挑戦的な目でニヤリと笑った。
「ねたみ」
 言うが早いか、和代の口からひゅるりと彼女の体内へ入ってしまったのである。
「え?」
「しまった! 体内に入られたぞい!」とネムカケが叫んだ。

 和代を不動金縛りのまま家まで運び、シンイチはぐちゃぐちゃになった両家を片づけた。和代は彫像のように、リビングで自分に切りつけるポーズのまま固まっている。
 シンイチは円い容器に清水を満たし、「水鏡の術」で遠野の大天狗に相談することにした。
「厄介なことになったのう」
 水鏡の中の大天狗はつぶやいた。ネムカケが補足する。
「体内の妖怪は、普通は小さくなるようにして、自然排出を待つものじゃが」
 大天狗は予測する。
「そもそもねたみの根が深そうだ。大きくなる一方ではないかと思う。癌細胞のように」
 シンイチは自分の考えを言った。
「オレさ、佐々木さんに話を聞きに行こうと思うんだ」
「ほう、策を思いついたのか?」とネムカケ。
「わかんない」
「ないのかい!」
「けど、事態をちゃんと把握したい」
「うむ。行動力は、天狗に必要な資質だぞ」と大天狗はシンイチの考えを褒めた。
 シンイチはつけっ放しのパソコンを見た。佐々木さんのブログの最新記事は、「今日は娘のバレエ教室」とあった。

   4

「そんな訳ないじゃない。不満だらけの毎日よ」
 バレエ教室の前で、佐々木さんは自分の」ことを語りはじめた。
「えっ、そうなの?」
「娘にはちっともバレエの才能がないし、授業料はかかるし、第一モデルの仕事なんて体がキツイし食事は制限されるし、モデル慣れしてるスタッフからは十把ひとからげの一人にしか扱われないし……」
「だって、港区のマンションに引っ越すって……」
「仕事のある所に行かないと、仕事が途切れるの。苦渋の選択よ。今より狭くなるしローンも高いし」
「読者モデルだって……」
「あのね。正式なモデル事務所に所属できないレベルの人が、読者モデルって形をとるの。その正体は、正規料金よりも安いギャラで使える人のこと」
「えっ? そうなの? でも旦那さんはデザイナーで……」
「不安定な職業すぎるわよ。だから私も、仕事続けなきゃいけないんじゃない」
「でもブログじゃ楽しそうな顔をしてて……」
「モデルは振りをするのが仕事なの。嘘でも、楽しそうな振りをする。ブログなんて、全部楽しそうな振りをしてる仕事の一環」
「そ、そうなの?……」
「……私は、本当はお向かいの犬飼さんがうらやましいのよ?」
「ええっ?」
 今朝も一人犬ぞりみたいになってる、小柄な奥さんにあいさつしたばかりだ。
「私は犬が大好きなの。本当は捨てられて殺される犬を助けて、里親を見つけるボランティアがやりたかった。でもダンナが動物アレルギーで、犬が飼えないのよ。犬飼さんが心底うらやましいわ。ダンナさんも公務員で安定した仕事だし、私は本当は、犬飼さんみたいな人生を送りたかった」
 話を聞けば聞くほどイメージと大違いだった。シンイチは、犬飼さんに話を聞きに行った。だが、返ってきた答えはまたも意外だった。

「私は、あなたのお母さんがうらやましいの」
「えええ?」
 河原で一人犬ぞり状態の犬飼さんをつかまえると、なんとシンイチの母、和代がうらやましいと言いはじめたのである。
「キミみたいな男の子が欲しかったのよ。でもウチには子供が生まれなくて。養子をもらおうってダンナに相談するけど嫌だって言うの。この沢山の犬たちは、きっとその反動ね。本当はわんぱくな男の子を育てる、大変だけど楽しい母になりたかった……」
「旦那さんが公務員で安定してるって……」
「四角四面の、何の面白味もない男よ。シンイチ君のお父さんのほうがよっぽど楽しそうだわ。ウチが、あんな楽しそうな家だったら」

 母、和代は、佐々木さんを妬んでいる。
 佐々木さんは、犬飼さんを妬んでいる。
 犬飼さんは、和代を妬んでいる。
「……ループしたね」
 シンイチはネムカケに言った。
「ぐるぐる回ってるんだ。……ジャンケンみたいに」

    5

 シンイチは腰のひょうたんから天狗七つ道具のひとつ、赤い鼻緒の一本高下駄を出して履いた。
「とう!」
 「跳梁(ちょうりょう)の力」でひとっ飛びして、銭湯の煙突の上にのぼる。金色の遠眼鏡、「遠見の力」の千里眼を覗いて探した。
「何を探しとるのじゃ」とネムカケが聞く。
「ねたみの集まりそうなところ!」
「?」
「んー、オーディション会場とか!」
 ピンク色の妖怪「ねたみ」がうようよ。同型異色のレモンイエローの妖怪「ひがみ」、シアンブルーの「そねみ」も集まっている。
「いたぞ!」
 そこは原宿のオーディション会場。シンイチは一本高下駄でひとっ跳び、つらぬく力で「ひがみ」「そねみ」を串刺しに捕獲。残りの漂う妖怪たちは、小鴉で斬り伏せた。


 公園には、彫像のままの和代が運び出されている。その前に、シンイチは佐々木さんと犬飼さんを連れてきた。
「シンイチ! 結界を!」
 ネムカケの忠告を聞き、シンイチは公園に不動金縛りをかけた。噴水の水は止まり、ボール遊びをしている子供たちはボールごと止まった。
「さて」と、シンイチは妖怪「ひがみ」「そねみ」をつらぬく力から解放し、佐々木さんに尋ねた。
「佐々木さんは、犬飼さんみたいになりたいんですよね?」
「そうよ」と佐々木さんは答える。
「犬飼さんは、ウチの母がうらやましいんだと」
「そうなの」と犬飼さんも答える。
「でも現実は、なかなか上手くいかないですよねえ」
「はあ……」と佐々木さんも犬飼さんもため息をついた。「ひがみ」は佐々木さんに、「そねみ」は犬飼さんにぴたりと取り憑いた。
「よし……」
 シンイチは腰のひょうたんから、朱い天狗の面を取り出して被った。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火よ在れ! 小鴉!」
 朱鞘から黒曜石の短剣を走らせる。たちまち黒い刀身から炎が吹き上った。妖怪「ひがみ」「そねみ」は天狗の炎を見るなり、口から宿主の体内にひゅるりと逃げた。
「準備OK……金縛りを解くよ母さん。エイ!」

 和代は、先程の続きを叫びはじめた。
「わたしは、佐々木さんのようになりたいのよう!」
 それを見て、「ひがみ」の取り憑いた佐々木さんが叫ぶ。
「私は、犬飼さんのようになりたいの!」
 同じく、「そねみ」の取り憑いた犬飼さんも叫ぶ。
「高畑さんみたいになりたい!」
「佐々木さん!」
「犬飼さん!」
「高畑さん!」
「ねたみ!」
「ひがみ!」
「そねみ!」
「ねたみ!!」
「ひがみ!!」
「そねみ!!」
「ねたみ!!!」
「ひがみ!!!」
「そねみ!!!」
 ネムカケが唸った。
「ほほう。ねたみの三すくみか……」
 体内の「ねたみ」「ひがみ」「そねみ」は巨大化しているのだろう。徐々に三人の胸が膨れ上がってきた。三人は狂ったように叫びつづける。
「旦那さんもセレブ! あなたもセレブ! ねたましいのよ!」
「何言ってんの! 全部表向きだけの、実質何もしてない家よ! 犬飼さんなんか、捨てられる筈の犬を育てているのよ!」
「子供がほんとは欲しいのよ! 旦那が実は浮気してるの! なんでよ! あんたの家は、あんなに楽しそうなのに!」
「ウチは単なる貧乏一家よ!」
「ウチは虚勢ばかりで実質がない!」
「ウチは嘘ばっか!」
「ねたみ!!!!!!!!」
「ひがみ!!!!!!!!」
「そねみ!!!!!!!!」
 三人は散々叫んで、ぴたりと静かになった。そして同時に言った。
「堂々めぐりじゃない」
 ぱんぱんに胸を膨らませた彼女たちは、突然大きくえづいた。
「おえええええええええええええええええええええええ」
 彼女たちの口から「ねたみ」「ひがみ」「そねみ」が勢いよく吐き出される。
「抱えきれないなら……出てくるしかないよね」と、シンイチは火の剣を構えた。
「自家中毒か!」
 ネムカケは感心した。

 巨大な三体の毒々しい色の妖怪は、互いの尻尾に食いついた。「ねたみ」は「ひがみ」の尻尾に、「ひがみ」は「そねみ」に、「そねみ」は「ねたみ」に。ぐるぐると三色の巴が回る。
「派手なドーナツみたい」とシンイチは感想をのべた。
「ねじる力!」
 掌からの矢印が空間に螺旋を刻む。水平にぐるぐる回るドーナツがねじられ、水車のように縦に回る形となった。
「たあ!」
 シンイチは一本高下駄で宙高く飛んだ。空の頂点から、小天狗ごと炎が降ってきた。
「一刀両断! ドントハレ!」
 妖怪「ねたみ」「ひがみ」「そねみ」は唐竹割りだ。浄火が包み、清めの塩と変えてゆく。その塩柱はぼふうと散って風となった。


 天狗の面を外し、シンイチは不動金縛りの結界を解いた。
「あれ? ……私何してたの?」と、和代が我に返った。佐々木さんも、犬飼さんも。
 不動金縛りにかかった人は、その時の記憶を覚えていない。丁度夢の記憶がどんどんなくなっていくのと同様だ。三人の記憶に残るのは、闇を照らす浄火である。
「ちょっと悪い夢を見てただけだよ」とシンイチは、パンと柏手を打った。
 和代は現実に戻った。
「ああ、そうだ。晩ごはんの買い物にいかなきゃ」
「私、娘のバレエ教室迎えにいく途中だった」と、佐々木さんも現実に帰ってきた。
「犬の散歩の続きをしなきゃ」と、犬飼さんも。
「あ、でも、娘のバレエはもう辞めさせようと思うのよ」と佐々木さん。
「どうして?」
「才能ないからよ! 高いし!」
 佐々木さんはあっけらかんと笑った。犬飼さんが提案した。
「今度、皆さんでランチでも行きません? 安くて美味しい所見つけたの」
「いいわね。高くて不味い所で笑うふりするのはもう飽き飽き」と佐々木さん。
「なんだか、お腹すいてきたわね。じゃ改めて」
 和代もその約束に賛成し、三者は三様の方向へ別れた。


 「情けは人の為ならず」と俗にいう。人に親切にすれば、その人はまた誰かに親切をし、船出した親切はめぐり巡って、いつしか自分に帰って来るという話だ。情けは人の為だけでなく、自分の為でもあるとする考え方である。幸せの「余り」のように世の中を親切が回るのなら、妬みは、足りない負の形で世間を巡っているのかも知れない。シンイチはそう想像してみる。
 金は天下の回りもの。親切も、妬みも、天下の回りもの。妬んだ先の妬んだ先の……その人は、自分を妬んでいるかも知れない。シンイチは遠見の力で世界を俯瞰して、お金と親切と妬みが、血管を巡る血のようにぐるぐる回っているところを観察できたら面白いと夢想した。

 帰り道、お腹のすいたシンイチは母にたずねた。
「ねえ、今日の晩ごはん何?」
「お腹すいたんなら、ドーナツがあったはず」
「ドーナツはいいよ! ごはんだよ!」
「カレーにしようと思ってたけど」
「やったあ!」
 カレーは、何故こうも少年の心をときめかせるのだろう。シンイチは小躍りして、ぐるぐる回った。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第九話 「メガネの友達」 妖怪「なかまはずれ」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 その日の、とんび野第四小学校五年二組の授業は、静かだった。内村先生は機嫌がよく、天気もうららかだった。シンイチはうっかり教科書を忘れてしまい、隣のススムに席をくっつけて、見せてもらっていた。ススムは「机をくっつける」という非日常にテンションが上がったのか、消しゴムを定規で刻みはじめ、賽の目切りにした。ひとつふたつと積み、上に積めとシンイチにうながす。シンイチは慎重に賽の目を積んだ。ススムはさらに慎重に次を積もうとしたが、バランスが悪かったのか二人の塔は崩れ落ちた。声を出さないようにススムは笑った。
「お前らちゃんと聞け」
 すべては内村先生にばれていた。丸めた教科書で二人とも頭を叩かれ、仕方なくシンイチは授業に集中することにした。ふとススムに目をやり、シンイチはようやく彼の異変に気づいた。彼は、ノートを一文字も取っていない。

「目が悪くなってさ、黒板の文字が見えないんだよ」
 休み時間にシンイチが問いつめると、ススムは白状した。
「それ誰かに言ったのかよ」
「……メガネってさ、格好悪いじゃん」
 ススムは本音を言った。子供にとってメガネは苦痛だ。肉体的にも精神的にもだ。メガネをかけてるキャラには一定の侮蔑が入ることも、シンイチにはなんとなく分る。
「だからってさ」
「分ってるよ。だから親に言って、メガネをつくることになってる」
「なんだ。心配させんなよ」
「次の日曜、つきあってよ。メガネ選びに」
「なんで?」
「これカッケー、ってのなら、誰も文句言わないだろうと思って」
「オッケー!」
 ススムは安心して笑った。
「シンイチが選ぶんなら、親が変なの選ぶより、全然いい」
 シンイチは安心した。これまでのノートも、全部うつさせてあげることにした。

「この青いヤツが一番いいんじゃない?」
 シンイチは選びに選んだ末、悩みに悩んだ末、「自分が一番カッケーと思うもの」をススムに薦めた。ススムのメガネデビューの責任が自分にもあると思うだけで、それは誇らしくも緊張することであった。
 ススムはその青いフレームをかけてみた。シンイチは自慢げに聞いた。
「どうよ?」
「うん。なかなか渋い」とススムはポーズを決める。
「渋いんじゃなくて、カッケーだろ?」
「気に入ったってことだよ」
「ならそう言えよ!」
 ススムのお母さんはお礼に、とデパートの屋上でソフトクリームを買ってくれた。
「これ、メガネマンとして覚えなきゃな」
 メガネをズリ上げる仕草をしてススムは得意げに言った。
「今日はありがとうなシンイチ。大分向こうまで見える」
 ススムはシンイチに礼を言って、真新しいメガネで真新しい風景を見た。
 二人は、なるべく遠くを見ながらソフトクリームを舐めた。


「なんだよ。その青いメガネ」
 ススムのメガネデビューの朝、まずは大吉(だいきち)がものいいをつけた。大吉は体格が大きく、クラスのボス格である。気に入らないことがあれば腕力で人の言うことを聞かせ、休み時間は教室の後ろで机の上に座って君臨する男だ。先日のジャンケン論争では強引なグー派であった。
「ホントだ。目立とうとでも思ってんのか? 微妙だぜ」
 腰巾着の公次(きみじ)が追従した。カッコつけマンで、大吉のうしろから常に旨い汁を吸う。チョキ派の、ひと癖あるタイプである。
「そんなことねえだろ。カッケーだろ!」
 反論するススムに、公次は大吉の顔色を伺った。大吉にダサいかダサくないかなんてどうせ分らない。ただ一度言ったことを引っ込めるのは大吉の体面が悪い。公次はそう判断した。
「やっぱダサいね」と公次は言う。
「公次が言うんなら、ダセえな」と大吉が結論づけた。
 周囲の皆がススムを見た。ススムはすっかり縮こまり、助け舟をシンイチに求めようとした。が、朝の苦手なシンイチはまだ来ていなかったのだ。それが不幸のはじまりだった。
 ススムは俯いたまま席につき、それから顔を上げなかった。その後シンイチが無邪気に時間ぎりぎりに滑り込み、内村先生がやってきて授業ははじまった。

 昼休み、サッカーをする男子たちの中、ススムはいつものように「パスパス!」とパスを要求する。しかし大吉も公次も、ボールをススムには寄こさなかった。シンイチはそれには気づかず、一人でクライフターンの練習をしていた。
「パスパス!」とススムが手を上げても、ボールを持った大吉は渡さず、「パス!」と手を上げた公次に流した。何度もだ。
 こういうことは、サッカーではよくある。ススムは朝の件は朝の件、サッカーはサッカーだ、と思おうとした。

 しかし次の朝、下駄箱にススムの上履きがなかった。ススムは一人で校内をさまよい、給食室の裏手のゴミ箱に突っ込んであるのを発見した。生ゴミと一緒に捨ててあり、手をつっこんで吐きそうになり涙が出てきた。
 教室に入っても椅子がなかった。誰がやったんだと周りを見ても、誰も目を合わせようとしない。窓から外を見ると、校庭の花壇の中に上下さかさまに椅子がつっこんである。ススムは走って取りに行った。背中で皆の爆笑を聞いた。正直、朝の苦手なシンイチがこの場にいなくて良かったとススムは思った。シンイチには、こんなみっともないところを見せられない。
 昼休み、一度もススムにパスは回ってこなかった。大吉や公次だけがパスを出さないのではない。誰もがだ。昼休み中、ススムは笑顔でただ走り回っていただけだ。
 その後、二人のいないところで、ススムは何故パスを出さなかったのか聞いてみた。
「大吉にそうしろと言われたんだ。お前も『協定』に入れって」
 山崎くんと渡辺くんが白状した。
「大吉に言われたから。『協定破り』はこわいことになるって」
 自分は大吉の「標的になった」のだと、ススムは自覚した。すなわちそれは、いじめのはじまりである。だとすると選択肢はふたつしかない。克服するか、耐えるかだ。

 正直、ススムはいじめが何故起こるのか分らない。魚の群れが弱った個体をいじめるという話を聞いて、それは動物の本能にプログラムされていることではないかと思う。何故いじめるのかを、いじめる奴らに問うても無駄だ。彼らは集団であり、個人の意志とか個性を持つ個体ではないと考えられる。彼らは「集団として」いじめをするのだ。魚の群れは、誰か一人の意志で標的を決めない。所詮「なんとなく」だ。波が来るようにいじめは来るだけだ。黙って耐えて、生きのびることしかススムには出来ない。先生に相談する? 親に相談する? シンイチに相談する? 無駄だ。見えないところで、より陰湿ないじめにエスカレートするだけだ。
 ススムは昔、軽いいじめに遭ったことがある。そのときは一週間で終わった。向こうが飽きたのだ。その一週間は暗黒だった。どうしてこういうことになるか、まるで理解できなかった。今は少し賢くなった。いじめは、台風みたいなものだ。耐えてればそのうち通り過ぎる。
 頭の回る公次が、女子にも根回しをしていた。
「『協定』に入れよ。何もしなければ協定に入ったとみなすから」
 こうしてシンイチの気づかないうちに、ススムは密かに「協定」によって、いじめられる構造になった。

 休み時間、シンイチとススムがしゃべっていて、シンイチはススムの腹に軽いツッコミのジャブを入れた。軽く触れただけなのにススムは顔を歪めた。
「いてえ」
「痛くねえだろ。お腹でも壊したのか?」
「ツッコミがきつかったんだよ」
 実のところ、そこはきのう大吉に殴られた箇所だった。顔はバレるから腹を殴る。その程度の知恵は、子供にだってあるものだ。

 放課後サッカーで、突然大吉と公次は帰ると言い出した。「そっかバイバイ」と何も知らないシンイチは手を振った。
「バイ」と公次は格好をつけたポーズをした。
「ススム」と大吉が呼んだ。
 ススムはびくびくしながら二人のもとへ走っていった。
「もうやめるわ」
「えっ」
 公次が言った。
「明日朝七時にさ、校庭で仲直りサッカーやるから来いよ」
「今度はパス出すよ」
 ほうら見ろ。台風なんだ。耐えてれば晴れの日がやってくるのさ。ススムは自説の正しさに胸を張った。やつらが仲直りしたいんなら、堂々としてそれを受ければいいだけだ。

 翌朝七時、誰も校庭には来なかった。
 ウキウキして七時より少し前から待っていたススムは、これもいじめのひとつだと気づいて絶望した。
 ススムは誰もいない、広い校庭で泣いた。

    2

 シンイチがススムのいじめに気づくまでは、シンイチが日直になる日まで待たなければならない。内村先生のところにプリントを届け、偶然校舎の裏を通りかかるまで、親友のシンイチにそれは隠されていたからだ。
 みんながススムを囲んでいる。順番にススムの腹を殴っている。大吉と公次が、ニヤニヤしながらそれを眺めていた。
「もっと強く殴れよ」
 大吉が言って、殴る人が嫌々強くススムの腹を叩いて、公次がけたけた笑う。それは陰湿で残忍な光景だった。
「おまえら何やってんだよ!」
 シンイチは張り裂けんばかりに叫んだ。ススムは赤い涙目でシンイチを見た。ズレた青いメガネをずり上げた。メガネマンとして、まだ慣れていない仕草だった。
 シンイチは大吉に詰め寄った。
「どうも最近ススムが変だと思ってたんだよ! いじめかよ! 何でこんなことやってんだよ!」
 ススムが弱々しく言う。
「いいよシンイチ。俺を庇わなくていいよ。こいつら飽きたらやめるから」
「ススムも、何でオレに言ってくんねえんだよ! オレが何とか出来たかも知んねえだろ!」
 いじめは台風だ。黙ってれば去る。原因なんてない。ススムがそう理解しようとしたのは、原因に触れたくなかったからかも知れない。
「……お前のせいだ」
 ススムは、一番言いたくなかったことを言った。
「オレの?」
 シンイチは何がなんだか分らなかった。
「お前のせいだ! 俺は、このメガネのせいでいじめられてるんだよ!」
 それは地獄の底からふりしぼったような声だった。
「なんでだよ! オレが選んだメガネだろ! それがいじめの原因かよ!」
「お前あの日来なかったから知らないんだよ! ダセエって言われたんだよ!」
 ススムは泣いた。シンイチはショックでうまく立ってられなかった。
 ススムの赤い目がさらに赤い目になり、青いメガネがそれを大きく拡大した。
「オレの……せい?」
 ススムの目を正視できず、思わずシンイチは目を伏せた。ススムを囲む子たちの影が砂利に落ちていた。その中に、妖怪の影があった。
「え?」
 妖怪はその気配を感じたのか、すばやく宿主の口から体内へと姿を消した。影は重なり合っていたので、宿主が誰かは分らない。しかし影の形から正体は分った。
「妖怪『なかまはずれ』か!」

 シンイチは右手の人差し指と中指で刀印(とういん)をつくり、四縦五横(しじゅうごおう)に切った。九字(くじ)の呪法のうち(はや)九字(くじ)と呼ばれる、素早く結界をつくる方法である。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛り! エイ!」
 校舎裏は、たちまち他の空間から切り離されて時を止めた。
「容疑者」は八人。大吉と公次は後ろでニヤニヤして見ていて、他の六人を殴らせていた。リーダーは大吉だ。
「大吉。どうせお前だろ。お前がいじめる標的を決めて、みんなを操ったんだろ」
 背の高い大吉に詰め寄り、シンイチは下から睨んだ。だが、彼に妖怪が取り憑いているかどうかは外から分らない。
「もしもし」とシンイチは問うた。
「もしもし」と反射的に大吉は答えた。
「え? 嘘。違うの?」
 意外だった。犯人は大吉だと、シンイチは勝手に決め込んでいたからだ。
「シンイチ……何やってるの?」
 ススムがおそるおそる聞いた。シンイチは八人の容疑者を金縛りにかけることに必死なあまり、ススムを金縛りにしていなかったことに気づいた。「不動金縛りの術」あたりから、すべてを見られていたのだ。シンイチは観念し、ススムに説明した。
「……ススムをいじめたのは、妖怪『なかまはずれ』なんだ」
「はあ?」
「ススムをいじめてたのは、こいつらの本心じゃない。それは、妖怪のせいなんだ」
 ススムには、意味が分からなくもない。「台風」のことを、シンイチは妖怪と言っているようだ。
「だからこいつらが憎いかも知れないけど、嫌いになっちゃ駄目だ。それじゃなかまはずれの連鎖が広がるだけだ」
「お前、……なんなの?」
「オレは皆に黙って妖怪退治をしている、てんぐ探偵だ」
「……はい?」
「妖怪は、同じ事を繰り返して言うことが出来ないって知ってる? 電話で『もしもし』って言うのは、電話のむこうが妖怪じゃないって確かめるためなんだぜ? 相手も『もしもし』って繰り返せたら、お互い人間と確認できたってこと」
「いま大吉は、『もしもし』って返したぜ」
「うん。だからいじめの犯人は大吉じゃない。誰かの口車に乗せられてただけだ」
 シンイチは隣の公次に向かって「もしもし」と問うた。しかし公次は何も答えない。シンイチは考え、「バイバイ」と言ってみた。
「バイ」と、公次は答えた。それは最近の公次の、カッコつけの口癖だと誰もが知っていた。
「パスパス!」とシンイチは問うた。
「パス!」と公次は答えた。
 ススムとシンイチは、サッカーのとき、公次が「パス!」としか言ってなかったことを、同時に思い出した。
「目立つ大吉を避けて、影に隠れた奴ならバレないとでも思ったのかよ!」
 観念したのか、公次の口の中から妖怪「なかまはずれ」が出てきてニヤリと笑った。派手なオレンジ色で、横に歪んだ顔に虚ろな紫色の目をしていた。そいつは公次から離れたかと思うと、すばやい動きで逃げ去りシンイチの結界を破った。早九字は、術の完成が早い分結界の弱さが欠点だ。
 シンイチは追った。ススムもあとを追った。

    3

 教室では、二組の皆がざわざわとしゃべっていた。「なかまはずれ」はその群れに飛び込み、集団の中の誰かの口に入った。またも誰か分らなかった。
「ちくしょう!」
 シンイチは今度こそ九字を本式で切った。獨古(どっこ)(いん)大金剛輪(だいこんごうりん)印、()獅子(じし)印、内獅子(ないじし)印、外縛(げばく)印、内縛(ないばく)印、智拳(ちけん)印、日輪(にちりん)印、隠形(おんぎょう)印。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術! エイ!」
 ざわざわしたクラス中が、ゆっくりと時を止めた。
「オイ妖怪『なかまはずれ』! 観念しろよ! 一人ひとりまた聞いて回ればいいだけの話だ! 結界をちょっとずつ狭めていくぞ!」
 集団の中の誰かの声で、妖怪「なかまはずれ」が言った。子供ならぬおそろしげな声だった。
「やってみろよ。先にこの子供の養分をしわしわになるまで吸い取ってやる」
 どうやって倒す? どうやって肉体から外に出す? シンイチは必死に考え、「なかまはずれ」を挑発した。
「『なかまはずれ』って言う割にさ、なんでおまえ一人なんだよ?」
「なんだと?」
「おまえこそ、仲間いなんじゃないの?」
「いるわ! いるとも!」
「じゃ、呼んでみろよ」
「呼んでやるよ!」
 超音波のような音が響きわたった。たちまち周囲に、派手なオレンジ色の歪んだ顔、妖怪「なかまはずれ」が現れ、びっしりと結界のバリヤーを覆いつくした。境界面に触れるたびにそれは火花を立てた。その瞬間だけはススムにも見えるのだろう。「何だあれ!」とススムはびっくりしていた。
「妖怪だ。あいつらのせいで、公次はおかしくなったんだ」
 シンイチはつらぬく力で、不動の結界に妖怪が通れるほどの穴をひとつあけた。堰を切って沢山の「なかまはずれ」が結界内に入ってきて、クラス全員に取り憑いた。
 ここまではシンイチの作戦通りだ。シンイチは咳払いをひとつして、自分を落ち着かせた。
「お前たち、『なかまはずれ』なんだよね?」
 全員が同じ調子の声で答えた。
「そうだ」
「でもさ。おかしいよ」
「何がだ」
「クラスのうち、半分は女じゃん。その時点で仲間じゃないじゃん?」
「は?」
「男グループを見てみろよ。中村んちはお米屋さんで、江古田んちはサラリーマンだよね。そもそも中村は巨人ファンで江古田は阪神ファンだ。仲間じゃないじゃん」
「なんだと?」
 中村くんと江古田くんが同時に反応した。
「相沢は甘いもの好きで、木崎はキムチ大好き。仲間じゃないじゃん。渡辺と山崎は黄色のシャツで一見仲間だけど、渡辺は足が速くて山崎は遅くて、やっぱり仲間じゃない。加藤なんか親が外人だし、瀬尾は転校生だ。大沢は超面白いこと言うお笑い芸人だけど、沼部はちっともダジャレが上手くない」
「それは、皆の違うところを一々あげてるだけだろうが!」
「そうだよ。皆が違う」
「だから何だ!」
「仲間はずれってのは、みんな一緒で一人だけ違う奴を排除することだ。『なかまはずれ』。お前の仲間なんてどこにもいない。ここにいるのは、『みんな違う奴』ばかりだ」
「うおおおお」
 皆が苦しみ始めた。
「俺たちは一人ぼっちなのかあああああ」
 全員の口から、妖怪「なかまはずれ」が出てきた。
「ねじる力!」
 シンイチは左手の掌をつきだし、空間をねじった。左手から「矢印」が飛び出て、空間にぐるぐると巻きつき、竜巻を作り出した。妖怪「なかまはずれ」たちは、ねじられた竜巻に流されたように巻き込まれ、洗濯機の中の洗濯物のようにぐるぐる回った。
「つらぬく力!」
 シンイチは右手から「矢印」を出した。それは槍のように「なかまはずれ」にぶすりぶすりと刺さり、空中に固定した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 朱鞘から抜かれた黒い短剣、小鴉から火炎が噴き上がった。魔を浄化する火の力。それが天狗の力だ。
「たあ!」
 天狗面の少年は宙に舞った。その炎の軌跡は教室大の竜巻を描き、「なかまはずれ」を真っ二つにして焼いた。
「一刀両断! ドントハレ!」


 ススムに、シンイチは自分の正体を明かした。妖怪「心の闇」退治を使命とする、天狗の弟子「てんぐ探偵」だということを。妖怪そのものはススムは見ていないが、火の剣が何かを斬った所は見た。結界に張りついた「顔」も見た。なにより、その後いじめの台風が嘘みたいに去ったことが、ススムを信用させた。

 次の朝、大吉がなんとススムと同じ、青いフレームのメガネをかけてきた。
「ハア?」
 びっくりしたススムに、大吉は本心を明かした。
「オレさ、カッケーって実は思ってたんだよ。だから買ってもらったんだけどさ、オレ目悪くないから、実はこれ伊達メガネなんだよね」
「なんだよ! ファッションかよ!」
 ススムはあきれた。公次が言った。
「オレもホントはカッケーと思っててさ。オレも買ってもらおうかな」
 思わずシンイチは突っ込んだ。
「キャラが被りすぎるだろ! 三人メガネキャラかよ!」
 皆は笑った。大吉がメガネを扱いにくそうにして言った。
「それにこれ、すぐずり落ちてくるし」
「まあな。メガネマンの宿命だよなこれ」
 ススムは自分のメガネを自慢げにクイッと上げた。もう堂に入った仕草だった。
「よし! サッカーやろうぜ!」と、シンイチはグランドへ走り出した。
 いじめは妖怪のせいであって、公次のせいじゃない。悪いのは妖怪であって、公次じゃない。だから皆で前と同じようにサッカーをやろうぜ。シンイチはそうススムに言っていた。
 伊達メガネを落としそうになった大吉の隙をついて、ススムは素早くボールを奪った。 
 公次は大声で、「パスパス!」とパスを要求した。
 ススムは全力で、人間の公次にパスを出した。
 台風が去ったあとのような、青い空だった。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十話 「静かな朝」 妖怪「アンドゥ」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 長い雨が降っていた。休み時間にサッカーが出来ないので、雨の日のシンイチの居場所は、もっぱら隣の三組に固定されている。そこには向野(むかいの)タケシという将棋の強い奴がいるからだ。シンイチはクラスでも二番目ぐらいに将棋が強い(源じいさんにも筋がいいとほめられた)。いつの日だったか、隣にスゲエ強いのがいると聞いてシンイチは勝負を挑みに来た。好敵手を見つけることはゲームにおいて僥倖だ。初戦はタケシが勝ち、二戦目はシンイチが勝った。以降シーソーゲームだ。そのとき雨が降っていて、以来雨の日は、タケシと将棋をする日になった。

「待った!」
「ええー? また『待った』かよ!」
 シンイチはブリブリと文句を言った。タケシは最近「待った」が増えた。それはシンイチの手が鋭くなったこともあるが、タケシに迷いが出てきたことでもあった。タケシは、先ほど打った4三銀を元に戻しながら言い訳した。
「だってさ、ここ角もあるし、銀もあるし、桂馬で行く手もあるじゃん。迷うんだよ。で、銀は、その先がマズイってことに気づいたわけ」
「オレに指されてから気づいたんじゃねえか」
「ちげーよ。ギリ前だよ」
 タケシは4三銀を4三角に変更した。
「お前今度『待った』したら反則負けな」
 シンイチはそれを銀で取った。タケシはまたもやしまったという顔をした。
「ううう。『待った』は駄目?」
「何言ってんだよ。『待った』病かよ」
「だってさ。角か銀か桂馬で迷う前にさ、その前の手が効いてる訳じゃん。そこも本当は『待った』したい訳だよ。でもその手は前の手が効いててさ……」
「そんなことやってたら最初に戻っちゃうじゃねえか」
「そうだよ。将棋は、最初が完成形なんだ」
「アホか。じゃあ何の為に将棋指すんだよ!」
 シンイチが笑いながら突っ込んだところでチャイムが鳴った。放課後はタケシが塾に行く為、勝負は次の雨の日まで持ちこすことになった。

 タケシの次の授業は書道で、「静かな朝」と書く課題が出た。皆は墨を摺り、思い思いの字で半紙を埋めて行った。「静」の字が難しい。最後の一本線とハネが美しさを決める。
 タケシは、半紙を前に考え込んでしまった。「静」の字の一画目、二画目を書き、首をひねり、また白紙を出しては一画目をどう書くかで悩んでしまった。担任の外津川(とつかわ)先生が、見かねて声をかける。
「書けなくても、まずは最後まで書いてみなよ」
「分ってるよ。でもさ、その後の展開ってのがあるじゃん。書道に『待った』は効かないからさ」
「お前の得意な将棋でも『待った』は駄目だろ」
「まあ、そうなんだけど」
 タケシは筆を構えたまま、白紙の上に自分の運筆をイメージしてみた。どう動かしても「詰み」になる気がした。下手糞な字になるのが「読めた」のだ。一画、二画、……五画目まで書いて、タケシは自分の書に「待った」をかけた。「下手。詰み」まで見えたのだ。そうしてタケシは筆が止まってしまい、最後まで書けたものは一枚もなかった。

 図工の授業でも、タケシは水彩絵の具をパレットで混ぜては捨てるをくり返して、絵が進んでいなかった。見かねた先生が自前のタブレットPCを持ってきて、お絵かきソフトを起動してタケシに見せた。
「見ろタケシ。こうやって使うんだ。使い方さえ覚えれば、絵の具とたいして変わらんだろ」
「じゃ絵の具でいいじゃん」
「ちがう。デジタルの得意なのは、これだ」
 先生は「一回戻す(アンドゥ)」コマンドを使って見せた。一度色を塗ったところがクリアされ、一回前の、色を塗る前の状態に戻った。
「なにこれ! すげえ!」
「『アンドゥ』って言うんだ。紙に描くとアンドゥ出来ないけど、これなら何回でも出来るだろ」
 タケシは自分で試してみて、アンドゥしてみた。
「アンドゥすげえ!」
「これがあれば失敗を恐れなくていい。何回でもやり直せるだろ?」
 タケシは夢中になって絵を描いては、夢中でアンドゥした。アンドゥしてはくり返し、アンドゥしてはくり返し、そして結局、最初の真っ白からほとんど進まなかった。
「うーん」
 タケシは思わずため息をついた。そのため息を嗅いで、窓の外から妖怪「アンドゥ」が寄ってきた。青白い顔で、物陰から覗き見る不安な少年のような、タケシに似た顔をしていた。

「わんわんわんわん!」
 朝、布団の中のタケシの顔を、老犬のシロが吼えながらべろべろ舐めた。臭い息と舌で、タケシの顔を隈無く舐める。みんな嫌がるけど、この舌はタケシは大好きだ。賢いシロは、リードも咥えて持ってきている。
「うーん、分ったよシロ。散歩だろ?」
 タケシはいつもシロに起こされ毎朝散歩に行く。すでに老犬だったシロを拾ってきて、随分になる。毎日散歩に行くことを条件で母を説得したのは、何年前だろう。
 あのときから、いつもシロの散歩の道はタケシが決める。「自分がどこ行きたいとかないのかよ」と最初のうちはシロに言ったが、タケシの道に従うことがシロの喜びなのだ、と次第にタケシは理解した。老犬シロはゆっくりと歩く。タケシが先頭で歩いて、シロがついて来る。
 タケシはふと、散歩道の途中の分かれ道で疑問に取り憑かれた。
「何か違う。さっきの道を左だったんじゃないか? シロ、戻ろう。アンドゥだ」
 タケシはシロを連れ、ひとつ前の分かれ道に戻った。しかし左に進みかけたところで、またしてもタケシは立ち止まった。
「ここの分れ道も違う気がする。詰みだ。その前の三叉路だ。アンドゥしよう」
 タケシとシロは更にひとつ前の分かれ道に戻った。そうして更に前の分かれ道に戻り、更に戻り、……ついには家の前まで戻ってきていた。
「あれ? 最初に戻っちゃったよ。……やっぱ、最初が完成形なのかな」
 タケシを観察していた心の闇「アンドゥ」は、安心してタケシの肩に取り憑き、根を張ることにした。

 「アンドゥ」の取り憑いたタケシは、体育のサッカーで消極的なプレイを見せた。攻めていける場面でバックパスばかりをくり返し、皆のブーイングを浴びた。国語の授業でも、「太郎は花子を何故ぶったのか」という問いに、「ぶたなければ、こんな事件は起こらなかった。そもそもぶたなければ良かったのだ」と事件以前の回答をした。書道でも一枚も書けず、マット運動では前回りせず後ろ回りばかりした。

 そして次の朝、タケシはシロと散歩に出たものの、やはり途中の道でアンドゥし続け、家に戻ってきてしまった。
「やっぱり、家から出たのがそもそも間違いなんだよ。学校も行く意味ない。結局どの道を進んでも、人生は失敗で詰みなんだよ」
 タケシはシロを連れ、家に入った。家から二度と出なかった。部屋からも二度と出なかった。つまり引きこもりになり、不登校になってしまったのである。

    2

 しばらく雨が降らなかったので、シンイチはススムや大吉や公次たちとサッカーにあけくれ(クライフターンは難しくてあきらめたが、たまに猛烈に練習したりもする)、今日の雨を見るまでタケシのことはすっかり頭から飛んでいた。そうだ。4三に何を打つかでつづくになったんだった、と思い出し、隣の三組へ将棋盤を持っていった。そこでタケシが、二週間以上学校に来ていないことを知った。
「病気なの?」
「病気、とは聞いていたけど……」
「けど?」
「引きこもりかもってみんな言ってる。休む前、なんかヘンだったんだよね」
 シンイチは腰のひょうたんから「遠見の力」の千里眼を出し、「跳梁の力」の一本高下駄を出して履き、両足に力をこめて大跳躍した。ゆく先は銭湯の煙突の上だ。雨で見にくいが、千里眼にうつったタケシの姿は、体育座りで、目が虚ろで、肩に妖怪「アンドゥ」が取り憑いていた。随分と痩せて衰弱している。心の闇「アンドゥ」は、既にタケシの上半身を越える大きさまで成長を遂げていた。

「雨の日だ! 将棋のつづきやろうぜ!」
 シンイチは努めて明るくタケシの部屋へあがりこんだ。体育座りのままのタケシは、反応が薄かった。シンイチを見るでもなく、シンイチの持ってきた将棋盤を見るでもなく、窓に当たる雨を見るでもなく、どこを見ているか分らない目をしていた。
 シンイチは勝手に座って勝手に将棋盤を広げ、駒を並べた。前回と同じかどうか、時々どんな手を指したか思い出しながら並べていた。この途中を思い出すことも将棋の楽しさであることを、シンイチはすでに知っている。
「さあ、4三、何を打つ?」
 駒を並び終え、前回の場面を再現したシンイチは、タケシに尋ねた。だがタケシは力なく答えただけだった。
「……打たないよ」
「何でだよ! 考えとくんじゃなかったのかよ!」
「考えたさ。考えた末の結論だ」
「……どういうことだよ」
「……将棋は、打たないのがいいんだ。最初の配置が完成形なんだ。そこから一手でも打てば、それは死に向かって進んでいくだけなんだ。どの手も、死に向かうんだ。だから将棋は最初の配置で終了で、完成で、美しい。その先を崩さないのがいいんだ」
「……はあ?」
「人生だって同じだよ。どんな手を選択したって、敗北へ、死へ、間違いへ向かっていくに過ぎないんだ。だったらアンドゥするしかないだろ。ぼくらはアンドゥして、お母さんのお腹の中へ戻るべきなんだ。それが完成だったんだ。そこからの全ては、醜い敗北だ」
「……だから学校も来なかったのか」
「将棋はしない。散歩もしない。授業もしない。ぜんぶアンドゥ出来たらいいのに。ぼくの人生、全部アンドゥ出来たらいいのに。……むしろ、生きない」
 シンイチは言うべき言葉が見つからなかった。彼とタケシの唯一の言葉は将棋だ。さっき駒を並べる時だって、途中のタケシの苦悩やシンイチの苦しみや、それぞれの喜びやしてやったりを、駒の動きが語ってくれたから並べられたのだ。二十二勝二十四敗の、これまでのストーリー全部を否定されたようで、シンイチは次にどう言えばいいか分らなかった。
 音もなく、静かに雨が降っていた。妖怪「アンドゥ」はじっとして、大きくも小さくもならなかった。
 とつぜん、タケシの母親が血相を変えて部屋に入ってきた。
「大変。シロの熱が止まらないの。ごはんも食べないし、食べても吐くし。動物病院に連れてくから」
 今までずっと同じ方向しか見ていなかったタケシが、はじめて顔をあげた。
「……ぼくもいく」

    3

 老犬シロは、苦しそうというより、じっと黙って動かなかった。なるべく体力の消耗を抑えておこうという動物の本能なのかも知れなかった。
 お医者さんから、「今夜が峠だ」と聞かされ、タケシはショックを受けた。もう随分と歳だから体力もないし、いつ寿命が来てもおかしくないと言われたのだ。
「今夜シロといてあげてもいいですか」とタケシは言った。
 お医者さんは優しく、宿直の者に伝えておくと言って毛布も持ってきてくれた。
 タケシは毛布にくるまり、シロにかぶせて一緒に寝る格好になった。シロは薄目をあけてタケシを見た。タケシはシロを撫でつづけた。タケシの手のひらから、少しでも命がシロに流れこんでいるようだった。
 シンイチも付き合うと言って泊まることにした。シンイチは毛布から抜け出し、レインコートを着こんで、雨の中一本高下駄を履いて高尾山へ飛んだ。

 すでに日はとっぷりと暮れていた。シンイチは天狗の薬草を必死で探した。猟師や修験者や忍者が、山の中で暮らしながら見つけた薬草や毒草の知識は、経験則として膨大な体系を持っている。西洋の博物学輸入以前の、東洋の知識としての本草(ほんぞう)学の基礎になったものである。西洋医学で知られていない漢方の知識や日本独自の本草学は、天狗の巻物に載っている。たとえば忍者の里で有名な滋賀県甲賀(こうか)には、今でも薬品会社が多い。これは甲賀忍者の本草学の伝統の上に成り立っているという。
「ちくしょう! こんなことなら、もっとちゃんと勉強しておくんだった!」
 シンイチは半泣きになりながら、ずぶ濡れになりながら草の根を分けた。指が痛くなってきた。あたりは真っ暗で、直接見て触らない限り判別できない。何時間もかけてようやく天狗の薬草のいくつかをみつけて、動物病院に戻り、すりこぎや炉を借りて、煮詰めて天狗の薬をつくった。
「苦いけど飲んで」とシンイチは少しずつシロに飲ませた。
「……効くの?」
「人間には効く。でも、動物に効くかどうか正直分らない」
「ありがとうシンイチ。寒かったろ」
 もう夜中一時を回っていた。シロはタケシの毛布の中で、寝ているのか起きているのか分らなかった。タケシとシンイチは毛布にくるまれながら、不安をまぎらわせようと色々な話をした。学校の話も、将棋の話も沢山した。
「……シロはさ、俺が拾ってきたんだ。拾ってきたとき既におじいちゃんだった。最初から動きも鈍くてさ。多分人間に飼われてて、捨てられて野良犬になったんだ。首輪の跡はあったけど、首輪はなかったし。俺が拾ってきたから、俺が責任を持つって母さんを説得してさ、俺が毎日散歩に連れてくことにしたんだ。だって下手したら保健所に殺されてたんだぜ? でさ、どうしてか分からないけど、シロはいつも俺に道を決めさせるんだ。普通犬ってルートを自分で決めたがるだろ? なのに俺に決めさせるんだ。しかも同じ道は嫌だって我が侭なんだ。おかげで色んな道をいったよ。近所の道、全部の道を歩いたよ」
 山の大冒険の疲れもあったのか、長い雨の一日を過ごしたシンイチは、話をしながらウトウトとしてしまった。規則正しく動く、大きな時計の秒針の音だけが聞こえていた。

 四時五十三分だった。シンイチはタケシの小さな声に起こされた。
「シンイチ。ダメだった」
「えっ」
「……いま、シロが死んだ」
 毛布の中には動かないシロがいた。眠っているようにしか見えなかったが、呼吸するたびに微かに動いていたお腹はもう動かなかった。
 タケシは叫んだ。
「何でアンドゥ出来ないんだよ。アンドゥだよ! アンドゥしろよ! 『元に戻す』ボタンはどこにあるんだよ! なんでアンドゥ出来ねえんだよ!」
 タケシの肩の妖怪「アンドゥ」は、見る間に膨れ上がっていく。時計の秒針の音は、規則正しく響いていた。シロが死のうが生きようが、自動的に規則正しく動いていた。
 シンイチはシロの動かないお腹をやさしく撫でた。まだ暖かかったけど、押したら押し返してくる、「命の張り」ともいうべきものがなくなっていることをシンイチは知った。
 神様にも天狗にも妖怪にも、出来ないことがある。
 子供でも知っている、簡単なことだ。
「タケシ」
 シンイチは静かに言った。
「いのちは、アンドゥできない」
 タケシは叫んだ。
 泣いて泣いて、泣いて叫んだ。
 宿直の人が来た。手を合わせてくれて、大人たちに電話をしてくれた。

 泣き疲れたタケシは、「櫛を貸してください」と言って、シロの全身に櫛を入れ始めた。
「こいつ汚いからさ。最後ぐらい、キレイにしてやんないと」
 おじいちゃんのシロは、右尻の辺りが毛が生えてない。左のわき腹は、皮膚のただれがずっと治りかけのままだ。顔には沢山シミがあり、ピンクに禿げた鼻は最近もっと禿げてきた。右手にはできものが固まって、左脚には切り傷がある。いくつかはタケシと出会う前の傷で、いくつかはタケシと一緒にいたときの傷だ。右手のできものが出来たときは病院に連れてったし、左のわき腹のときは毛がごっそり抜けたけど、ほとんど回復した。左脚の傷は、工事現場に入って機械に巻き込まれそうになったのを、シロが吠えて人を呼んで、鉄条網に引っかけた時のだ。
 タケシはそのひとつひとつを愛おしみながら、丁寧に丁寧に櫛を入れた。毛の生え変わりの時季は、いつもタケシが櫛を入れた。面倒くさくてさぼると家中シロの毛だらけになって、母親に怒られた。嫌々櫛を入れて、ごっそり毛が取れて気持ちよかった。シロはそういうとき、いつも目をつぶってじっとしていた。きっと気持ちよかったのだろう。終わったあとは、手をペロペロ舐めてくれたものだ。
 タケシはシロの頭を撫でた。目をつぶっていた。もう舌も出さないし、目も開かなかった。タケシは涙をぬぐった。また涙が出てきて、またぬぐった。
「最後の最後にさ、こいつ、俺の手をペロペロ舐めてくれたんだ。俺といて、良かったのかなこいつ。俺に拾われて、後悔してなかったのかなこいつ。自分の道も決めない散歩で、傷だらけの体で、最後に二人でした散歩だって、うしろ向きの散歩で。俺といて詰まんない人生だったんじゃないかなこいつ。俺に拾われない方が良かったんじゃないかなこいつ」
「シロはタケシが好きだったんだろ? 最後の最後に、シロはタケシが好きだって伝えたかったんだと思うよ」
「……」
 シロの頭を、何度も何度もタケシは撫でた。
「……ちがうよ」と、タケシは呟いた。
「え?」
「ちがうと思う」
「……じゃ何?」
「シロはペロペロ舐めることで、自分の人生を完成させたかったんだ」
 タケシはシロを、最後にもう一度抱きしめた。
 妖怪「アンドゥ」は、タケシから外れた。

 不動金縛りは早九字でやった。そうしないと泣きそうだったからだ。腰のひょうたんから天狗の面を出して素早く被った。泣いている顔を見せるのが恥ずかしかったからだ。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火よ在れ! 小鴉!」
 時は戻らない。いのちはアンドゥ出来ない。そんなこと誰でも知っている。知っていたって、納得がいかないこともある。
 この炎が何かを焼き尽くして欲しい。シンイチは小鴉を大きく振りかぶった。
「一刀両断! ドントハレ!」
 妖怪「アンドゥ」は真っ二つになり、巨きな炎に包まれて塩になった。


 朝、布団の中でタケシは目が覚めた。
 いつもはシロが起こしに来る時間に、先に目が覚めた。わんわん吠えて、ハアハア言いながらのたのたと起こしに来る主は、もういない。ほっぺたがベタベタになる、あの暖かくて迷惑な舌も、もういない。
 タケシは母に言って、今日は早めに学校にいくことにした。
 雨はとっくに止んでいた。家を出るときに、タケシは空っぽの犬小屋を見た。中を覗いて、もしかしてシロがいたらと思ったけど、いつものボロ毛布もなくて何もなかった。

 まだ誰も教室にはいなかった。がらんとして横から朝日が入る教室は、見慣れない異空間のようだった。
 タケシは書道セットを出し、丁寧に丁寧に墨を摺った。筆をもち、一画目、二画目と字を書いた。ためらいもやり直しもせず、はみ出して不恰好で下手糞な文字をただ書き終えた。

 教室は次第に明るくなってきた。スズメの鳴き声だけが聞こえていた。
 タケシはずっと、「静かな朝」というその字を見ていた。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十一話 「結婚の提案」 妖怪「横文字」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「ヘイパスパス!」
 シンイチは今日も放課後の校庭で、青いメガネマン・ススムたちとサッカーをしていた。最近ススムはドリブルのフェイントに凝っている。公次がボールを奪いに来たので、ススムはフェイントからもう一度フェイントをかけ、翻弄して抜き去った。
「やるじゃんススム!」
「ダブルフェイント大成功!」とススムは満面の笑みだ。
「『ダブル』ってカッケーよな!」
 と、サッカー後の少年たちは盛り上がる。
「二倍とか二回って言うよりカッケーぜ! ダブルモンスターとか、ダブル攻撃とかさ!」
 とススムが無邪気に言う。
「じゃあ三倍は?」とシンイチが聞く。
「トリプル!」と大吉は得意がる。
「じゃあ四倍は? ダブルダブル?」
「カルテットだろ」とススムが言う。
「それは四人組。クァドラプルだ」と、かっこつけの公次が言う。
「クァドラって略したりもするぜ」
「なんかパッと分かりにくいな! 日本語でいいよ!」
 シンイチは身も蓋もないツッコミを入れた。
「たしかに俺ら、日本人だし」
「三倍とか四倍でいいわ! 無理して英語にするのは恥ずかしいし!」
 少年たちは笑い合う。
 そこへ内村先生から、「依頼」が舞い込んできた。

 職員室で話を聞くと、内村先生の知り合いに、カタカナ英語ばかり言うことに支配され、まともな日本語が喋れなくなってしまった男がいるのだという。
「そんな状態にしてしまう妖怪に、心当たりあるか?」
「実際に見てみないと分からないけど……おそらく妖怪『横文字』のせいでは」

 内村先生は人脈が広く、様々な知り合いがいる。先生の知り合い、蓑笠(みのがさ)紀子(のりこ)は、今年二十七の美しい会社員だ(絶賛交際中の真知子(まちこ)先生よりは若干劣るが、と内村先生は前置きをした)。二歳上の会社の先輩、江島(えじま)憲史(のりふみ)と五年つきあい、そろそろ結婚を考えている婚約者のつもりだったのだが、ここ二、三ヶ月で突然「おかしく」なりはじめたのだという。

「おかしく、というのは?」
 内村先生はコーヒーを飲む口を止めて、向かいの席の紀子に尋ねた。
「急に変な横文字ばかりが、会話に増えてきたんです」と紀子は答えた。
「……横文字」と、シンイチもメロンソーダを飲むのを止める。
 駅前の喫茶店で話を詳しく聞こうと、内村先生とシンイチは紀子と落ち合った。彼女の前では、シンイチは「心理学に詳しく、人の心の変調や精神病に詳しい天才」という設定にしておいた。精神科の先生にかかるのは怖いだろうからまずは少し相談を、と内村は話しやすい環境をつくったのだ。
 紀子は続けた。
「会社の会議とか特におかしいんです。口じゃ説明しにくくて、ケータイで動画を盗み撮りしてきたので見てください」
 会議室で司会をする江島は、このようなことを喋っている。

「本日のアジェンダを、レジュメのタグラインに纏めときました。ローンチとオーソライズは暫くペンディングですので、ビジョンについてはまだスケルトンしか示せるものがないです。マイルストーンを見ておきましょう。中村さんのフィジビリティスタディによれば、ファクトの収集がプライオリティ高めかと。で、先程質問のあったバジェットの件ですが、マージンセーフを考えると正直クエスチョンですが、そこはレバレッジ効かせて、オルタナティブに考えて行きたいと」

「?????」
「……一事が万事、こんな感じなんです」と紀子は嘆いた。
 シンイチは素直に聞いた。
「今の、日本語?」
「日本語じゃないね」と内村先生は答える。
「じゃ何? 英語?」
「うーん。元々は英語なんだろうけど……ビジネス用語というか、ビジネス用語にもなっていないカタカナ英語というか……」
「その人のアナログ写真を見せてくれない?」とシンイチは尋ねた。
「フィルムで撮った写真は、観光地で買った『写ルンです』ぐらいですけど」
 そこには、温泉宿でくつろぐ紀子と江島が仲良さそうに写っていた。妖怪はデジタルに写らず、アナログ写真に写ることがある。フィルム写真があれば持ってくるように、内村はあらかじめ彼女に頼んでおいたのだ。
「どうだい?」と内村はシンイチに見せる。
「ビンゴ」と、クリームソーダの上のアイスを舐め、シンイチは言った。
 浴衣の江島の右肩に、妖怪「横文字」が心霊写真のように写っていた。青い目をした深い橙色の顔で、彫りの深い、外人のような顔立ちである。
「どれ?」と内村先生はのぞきこむ。彼には鍋料理の湯気のようにしか見えていない。シンイチは「ここが目で、鼻で、口」と湯気の模様を指でなぞったが、「うーむ、たしかに顔に見えるが」と、内村先生にはその程度らしい。
「心霊写真鑑定みたいなもの?」と紀子は尋ねた。
「だいぶ違うど、まあそんな感じさ。その変になる前は、彼はどんな人だった?」
「ごく普通の人よ。やさしくて、おっちょこちょいで、ちょっと恥ずかしがりの、なんてことのない人」
「そんな男のどこに惚れる要素が」と内村先生が横槍を入れる。
「温泉みたいに、素直に暖かい人だったの。そこが良かったのよ」
 シンイチは最後まで取っておいたサクランボを口に入れ、微笑んだ。
「はっきり言うね。精神科に行く必要もないし、霊媒師に頼む必要もない。これは新型妖怪『心の闇』の仕業なんだ。でも安心して。そんな普通の日々に、絶対戻れると思うよ」
 人懐こい笑顔に、紀子はなんだか安心した。

    2

 シンイチは早速、天狗のかくれみのを被り、ネムカケと共に、江島の会社に忍び込んだ。
 ネムカケを連れてきたのは、彼の「カタカナ英語」が分かるのではないかと考えたからだ。
「なんか難しいことを喋ってたから、翻訳してよネムカケ」
「わしは何でも知っている訳ではないぞ。遠野の生き字引とて、専門用語出されたら無理じゃよ?」
「分かる範囲でいいよ。何言ってるか分かんないと、そもそも話が通じないじゃん」
 これから会議がはじまる。シンイチとネムカケは、かくれみのを被って姿を消し、大会議室へと潜入した。

 三十名ほどの大人たちに、江島が紙資料を配っていた。
「まずはペーパーをご覧ください」
 かくれみのの中での会話は、外には聞こえない。ネムカケは江島の言葉を翻訳し、シンイチに伝えた。
「まずは紙、この場合は資料じゃな、をご覧ください」
「まあ、それぐらいは察しがつくよね」
 江島のエンジンが、次第にかかってきた。
「今月のコンプライアンス問題をエクセルにしました。前回のコンテクストに照らすと、ビジネスチャンス、つまりオポチュニティが大幅ダウンしていると言えます。次のペーパーはそのポートフォリオのナレッジを共有する為のものです」
 ネムカケはとりあえず逐語訳をしてから、ちゃんとした日本語に直した。
「まずは逐語訳をするぞ。『今月の法令遵守問題を表計算状にしました。前回の文脈に照らすと、仕事の機会、つまり機会が大幅減じていると言えます。次の資料は、その目録の知識を共有する為のものです』。これじゃさっぱり分からんので、まともな日本語にするからの。ええっと、『今月分の、法律違反していないかどうかをまとめました。前回の分から考えて、仕事発生のチャンスが大幅に減っています。次のページは、それを箇条書きにしました』」
「? ……それ、すごい普通のこと言ってない?」
 シンイチが気づいた。
「シンイチ、賢いな。どうやらその通りっぽいぞ」
「ふうむ。続きを訳して」
「よしきた」
 江島は続きを喋る。
「バリューのある、ウィンウィンの関係は大事ですね。ブランディングストラテジーを高める為に、ステークホルダーのリテラシーを利用しましょう」
 ネムカケが訳す。
「まずは逐語訳な。『価値のある、互いに勝つ関係が大事ですね。商品価値を高める戦略を高める為に、利害関係者の情報応用力を利用しましょう』。さて、ちゃんと訳すぞ。『お互いに嬉しい関係を築けることに価値ありです。ウチの商品のブランド力を上げる計画の為に、お客さんや周りの人々の理解力、発信力を利用しましょう』」
「んんん? ……なんか、やっぱり当たり前のこと言ってない?」
「うむ。シンイチは賢いな」
「つまり、この人はさっきから、一般的なことばかり言ってて、ひとつも自分の意見を言ってないよね?」
「イグザクトリィ。その通りじゃ」
「なんだろ。要するに、横文字で盛ってるんだよね?」


 会社のトイレでひと息ついた江島は、洗面所で手を洗い、会議の緊張で疲れていたのか顔も洗った。顔をぬぐい鏡を見ると、そこに天狗の面が映っていた。
「な、なんだ?」
 思わず江島は振り向いた。天狗の面を被ったシンイチだ。
「なんだよお前、ここは会社だぞ。子供が来る所じゃない」
「あなた、『心の闇』に取り憑かれてますよ」
「……はあ?」
 江島は無視してトイレから出ようとしたが、廊下へ続くはずのドアは開かなかった。
「アレ?」
「不動金縛りをこのトイレ全体にかけたので。……話はすぐ済みます。あなたの肩に、妖怪『横文字』が取り憑いているんです」
「妖怪『横文字』?」
「心当たりあるでしょ? なんでもかんでも横文字で喋ってるでしょ? それはあなたの本心から起こしてることじゃない。妖怪のせいなんだ。妖怪『横文字』のせいで、あなたは普通に喋ればいいのに、横文字でわざと難しくして、盛ってるんだ」
「……」
 江島は黙った。本心を射抜かれたのだ。
「取り憑かれた宿主が自分の心の闇を自覚すれば、妖怪『心の闇』は見えるんだ。それは鏡にうつる」
 シンイチは江島の肩を指さした。江島はドアから引き返し、洗面所の鏡を見つめた。橙色で青い目の妖怪「横文字」がうつっていた。
「オーマイガー!」


「ここハーフイヤーぐらいかなあ」
 誰も来ない屋上で、江島はシンイチとネムカケに白状をはじめた。
「ウチの国際部が出来て、異動させられて、アラウンドがオール帰国子女で、なんかフィーリングデファレントでプレッシャーがアローンで」
「?」
「いかんいかんまた横文字だわ。なんか帰国子女ってさ、英語をこれ見よがしにちょいちょい入れ込んでくるんだよ。自慢するつもりなのかなって思ってたけど、なんかナチュラルみたいで」
「でも今はフツーに日本語喋ってるよね」
「あー、アイシー」
「?」
「オゥソーリーシット。ちゃんと意識をコンセントレーションしないと、やっぱ日本語にリルビット横文字が混じっちゃうわメーン」
「大体そんな調子で紀子さんと話すの?」
「紀子ユーノウ?」
 シンイチは視線を屋上の扉に向けた。呼び出された紀子が、この会話を聞いていた。
「紀子」
「私が詳しい人に依頼したの」
「やっぱり、妖怪のせいだったよ」
 江島は手鏡で自分の肩の妖怪をあらためて眺めた。
「ワズアーップメーン? HAHAHAHA」とこっちを見て笑ってやがる。
「でもさ。江島さんは完全にこいつに支配されている訳じゃないと僕は思うんだ」
「なんで?」
「普通に日本語も話してたからさ。たとえばプレッシャーがかかった時だけ英語まじりになるのかも知れない」
「……」
「つまりさ、江島さんの中身は日本人なんだと思う」
「……というと?」と紀子は質問した。
 シンイチは、ひとつ思いついた。
「そうだ! 日本のスバラシイ所を巡ることにしよう!」

    3

 シンイチは腰のひょうたんから一本高下駄を出して履いた。跳梁(ちょうりょう)の力で、色んな「日本」の良い所へ連れて行こうと思ったのだ。
「とりあえず、浅草?」
 シンイチは思いつきで浅草を選んだ。天狗の面を被り、天狗の力を蓄えた。
「二人とも目瞑ってて。天狗の術で、飛ぶから」
 シンイチは両脇に江島と紀子を抱え、頭の上にネムカケを乗せた。二人が目を瞑ると、「とう!」と一気に大跳躍、たちまち浅草は浅草寺(せんそうじ)雷門(かみなりもん)の前についた。
「目をあけていいよ!」
「うわっなんだ?」「浅草?」と、江島も紀子もびっくりした。
 赤い巨大提灯が下がった、おなじみの雷門の前に三人と一匹は来ていた。外国人観光客や修学旅行生やおじいさんおばあさんが溢れかえる。シンイチは天狗の面を脱ぎ、二人と一匹を連れて、たたたと土産物屋の並ぶ仲見世(なかみせ)通りを駆けてゆく。
「おまつりみたいだね!」
 シンイチのテンションは上がってくるが、江島はそうではない。
「こんなんの、どこがいいんだよ。見飽きた観光地じゃねえか」
 シンイチは本堂まで走って行き、浅草寺の縁起書を読み出した。
「創建は六二八年だって! すげー古い!」
 大化の改新よりさらに十七年前、推古天皇三十六年のとある日、隅田川で漁をしていた檜前(ひのくまの)浜成(はまなり)竹成(たけなり)兄弟の網に(しょう)観音(かんのん)像がひっかかり、これを祀ったのが浅草寺であるという。この観音が本尊だが、決して人には公開されたことのない秘仏である。
「へえ。それほど大事にしてるんだ!」とシンイチは感心していた。
 以後建物は焼失をくり返し、最後の焼失は太平洋戦争の東京空襲。現在の雷門は昭和三十五年のつくりという。
「意外と新しいんだね!」
 シンイチは境内を見渡した。
「ここに、聖観音がいるのかあ」
「何観音だって?」と、江島はさっぱり話がつかめない。
「六観音の中でもさ、聖観音だけが人間の形をしているんだよね。顔ひとつで手二本のフツーの人間!」
「??」
「十一面観音は顔が十一個だし、千手観音は手が千本だし、如意(にょい)(りん)観音は手四本だし、馬頭(ばとう)観音は手六本の顔三つだし、准胝(じゅんてい)観音は八本腕バージョンが多いけど、正式な十八本を省略してるし!」
「……何でお前そんな詳しいの?」
「天狗の術はね、仏教の知識が必要なんだ!」
「?」
「密教の呪文を天狗は使うからね!」
「そうなの?」
「大体さ、二大メジャーお経ってさ、般若心経(はんにゃしんぎょう)観音経(かんのんきょう)妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう))だけどさ、これどっちも聖観音のお経なんだよね! 知らないの?」
「シンイチくん、えらく詳しいのね」
 紀子が呆気に取られた江島に代わって感想を述べた。
「ゴメン! オレ一人だけテンション上がってた! 浅草寺って聖観音の寺だってはじめて分かってさ!」
 江島は一人置いてかれた気分になった。どうせ良く分からない線香の煙を頭にかけて「病気が治る」なんて迷信の儀式をしておしまいとか思ってたからだ。
「何だよイマイチって顔してるね! よし、鎌倉へ行こう! また飛ぶよ!」

 青い空と白い雲。上空の風を切り裂いて、鎌倉大仏の前に、シンイチとネムカケと江島と紀子が降り立った。
「デケー! 阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)デケー!」とシンイチは大はしゃぎ。
「阿弥陀如来? これって鎌倉の大仏だろ?」と江島は尋ねた。
「デッカイ仏の意味が大仏だろ? この定印(じょういん)を見れば、その仏の中でも阿弥陀如来ってわかんじゃん! まあ阿弥陀って普通はこういう来迎印(らいごういん)が多いんだけどね」
 シンイチは右手を上に左手を下に向ける来迎印を示して見せた。たしかにこのポーズは見たことがある。
「あ、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)ってこの仏のこと?」
「そうだよ! 仏教の中でも阿弥陀如来を拝むのって比較的最近なんだよね。最近っても鎌倉時代だけど!」
 江島は巨大な仏像を見上げた。
「普通そんなこと知らないだろ。いい国つくろう鎌倉幕府、ぐらいしか知らねえだろ」
「おそば食べようよ! 日本のウマイもの食べようぜ! あんみつとかもいいな!」
 シンイチは近くの蕎麦屋へみんなを引っ張っていく。
「うめー! ワサビきつー!」
「なんだかんだ言ってオマエ子供じゃん。ちょっとのワサビしか食べれねえんじゃん」
 と江島は笑う。
「……!」
 シンイチは息を止め涙目になった。大きい塊のワサビを吸い込んだらしい。訳が分かった江島と紀子は大爆笑した。シンイチは逆襲しようと次の提案をした。
「これでも日本の素晴らしさが分からないなら、やっぱ京都だね! 抹茶ソフトクリーム食べて、何見よっか!」
人形(にんぎょう)浄瑠璃(じょうるり)!」
 突然、今まで人前だからと遠慮して黙っていたネムカケが声を上げた。
「ね、猫が喋った!」
 江島と紀子は驚いた。ネムカケは体をよじって我儘を言いはじめた。
「大阪の竹本座の連中が、京で公演中なのじゃ! 見たい! 見たい! 見たい! 見たい!」
 三千歳の化猫ネムカケは、人形浄瑠璃に目がないほどの文楽好きである。人形浄瑠璃発祥の地、大阪の竹本(たけもと)義太夫(ぎだゆう)が起こした竹本座の初回公演(一六八四)をその目で見て以来、四百年来の浄瑠璃ファンなのだ。
「シンイチ! 今何やってる? 演目はなんじゃ!」
「ネムカケ、落ち着いてよ。江島さんと紀子さん、喋る猫見てびっくりしてるよ」
「ハッ! わしとしたことが取り乱した。すまぬ。わしは喋る猫のネムカケと申す。人形浄瑠璃の素晴らしさを見たら、日本の文化の神髄が分かるぞ!」
 紀子はスマホで演目を調べた。
「なんて読むのかしら。鬼……一……」
「『鬼一(きいち)法眼(ほうげん)三略巻(さんりゃくのまき)』かっっ!!!」
 ネムカケは飛び上がって喜んだ。
「シンイチ! 天狗に関する話じゃぞ! 見たほうがよい!」
「はい?」
「鬼一法眼とは伝説上の人物で、京の堀川(ほりかわ)一条(いちじょう)に住む陰陽師(おんみょうじ)じゃ。あからさまに安倍(あべの)晴明(せいめい)の設定をパクッておる。こやつが武術の秘伝書『三略の巻』を持っていて、夜な夜な弟子に剣を教えたのじゃ。その弟子が、遮那(しゃな)王こと牛若丸」
「えっ? それって変じゃん。牛若丸に剣を教えたのは鞍馬山の鞍馬(くらま)天狗(てんぐ)でしょ?」
「そうじゃよ。日本で最も有名な天狗じゃな。実はこの鬼一法眼という男、鞍馬天狗と安倍晴明を足して二で割ったような、創作キャラなんじゃ」
「へえ」
「安倍晴明なら私も知ってるわ。映画にもなったわよね」
 と紀子が首を突っ込んできた。
「天狗というのは、様々な知識が必要じゃ。密教の知識も。薬草の知識も、武術の知識も。シンイチは武術は下手くそだがな」
「てへへ」
「中国の武術書に、『六韜(りくとう)』というのがあってな。文韜、武韜、龍韜、虎韜、豹韜、犬韜の六冊を言うのじゃ。鬼一法眼はそれを天狗のように持っていて、牛若丸が盗み出す話なのじゃ。六韜は中国の武術書『三略』とごっちゃにされることがあって、劇中では三略も六韜も一緒のもの扱いしておる」
「グズグズな設定じゃん」
「今のB級映画と同じで、そのごちゃ混ぜ感すら、リアルとフィクションの境目で面白いのじゃよ。それが神髄と言ってもよい。ちなみにラストで、六韜を盗んだ牛若は『虎韜』以外の五冊を焼いて、独り占めしてしまう。最後に残った一冊を虎の(かん)、またの名を虎の(まき)
「えっ、それってよくなんとか虎の巻っていうときのアレ?」
「そう。奥義書の代名詞虎の巻は、この芝居が起源なのじゃ。虎の巻は、天狗の知識の暗示なのじゃよ!」
「この猫さん、物知りなのね」と紀子は感心する。
「ちょっと見たくなってきた」とシンイチのテンションが上がる。
「……まあ、そんなに言うなら見てやるけどよ」と、江島はあまり乗り気ではない。
「とりあえず、『辻利(つじり)』の抹茶ソフト食べようぜ!」
 シンイチは二人と一匹を、京都まで飛ばした。

 雲の上を飛行中、京都の山々が見えてきて、シンイチは恐る恐るネムカケに聞いてみた。鞍馬山と貴船(きふね)山が、雲をたなびかせていたからだ。
「そういえばオレ、鞍馬天狗のお膝元にいくのに、挨拶とかしなくていいのかな?」
「鞍馬天狗、正式な名を鞍馬山(くらまやま)僧正坊(そうじょうぼう)なる大天狗は、シンイチのことは勿論ご存知じゃ。天狗の遠見の力は無限じゃからな。今回は京都観光という事でお咎めなしじゃよ」
「そっか! じゃ一応手振っとくか!」
 シンイチは鞍馬山に手を振り、鞍馬天狗はひそかにのけぞっていた。

 ネムカケは京都八坂(やさか)の辻利の行列に真っ先に並び、三人と一匹は抹茶ソフトと抹茶パフェを堪能し、竹本一派の「鬼一法眼三略巻」を観終えた。(ネムカケは感激のあまりオシッコを漏らしそうになった)

 一行は三条河原で、現代の河原者、流しのギターを聞きながら歩いていた。
「さてどう? 江島さん。日本文化の素晴らしさ、改めて実感できたでしょ?」
「うーん、よく分からん」
「ええええ」
「だってさ、日本の文化には毎回解説がつくじゃん。一々『理解』してからしか楽しめないのってどうよ? 敷居が高すぎなんだよ」
「え、でも、浄瑠璃面白かったじゃない」と紀子が反論する。
「そうじゃろう。そうじゃとも」と、ネムカケは髭をしごいて満面の笑みをたたえる。
「それはこの猫が解説してくれたからであって、パッと見で分からないのを素晴らしいとはいえないだろ」
「うーん、そうか、オレは十分楽しんだけどなあ」とシンイチはこぼした。
 江島の肩の「横文字」は、大きくも小さくもなっていない。日本文化の良さで横文字を駆逐する作戦は失敗だったのか。
 そんな時、江島のケータイが鳴った。父の入院の報らせだった。

    4

 二ヶ月ほど前、江島のご両親に挨拶に行った紀子は、江島の父の入院を心配した。症状はあまり良くない。手術は長引くため、体力的に耐えられるかどうか分からず、検査入院と称して薬などの耐性を見ていくことにするという。
 京都土産を見舞い品に買い込み、一行はその足で江島の実家、山梨へお見舞いへ向かうことにした。

 ベッドに寝かされた江島の父、(こう)三郎(ざぶろう)は、薬が効いているのか少し朦朧としていたが、江島と紀子の姿を認めると瞳の輝きを取り戻した。
「おう。よく来たな」
「電話で聞いたより元気そうじゃん。紀子も連れてきた」
「紀子さんか。相変わらずウチの息子の相手は大変じゃろ」
「そんなことないです。これ、京都土産。京都旅行の途中で駆けつけたので」
 江島の母が土産袋を受け取って、「お茶を淹れましょう」と席を立った。
「旅行の途中か。それは済まなかったな」
「いいえ。人形浄瑠璃を、はじめて生で見ました」と紀子は微笑んだ。

 病院の廊下で、シンイチはネムカケと大人しく待っていた。ネムカケは腰のひょうたんから出した猫キャリアに入れられている。普段なら文句タラタラだが、今は「鬼一法眼」の余韻に浸っているのでどうでもいいらしい。

 京都土産の阿闍梨(あじゃり)餅(これはネムカケのオススメである)を口にしながら、康三郎は息子に尋ねた。
「最近仕事はどうだ?」
「……順調だよ」
「そうか。いつも何をやってるのか、説明されても分からんがな」
「そんなことないよ。簡単だよ。パーティのコンセンサスを取るのが俺の仕事なんだ。リソースマターとステークホルダーマターのベネフィットをそれぞれ考えて、シナジー効果を生むんだ。勿論バッファも見なくちゃいけないし、システムが出来てないからアーキテクチャも組まなきゃいけない。異なるイシューをアジャストする必要もある。ルーティーンに陥らず、ダブルスタンダードにもならず、それぞれのポテンシャルをクラウドにして、ファンダメンタル的に……」
「俺のような田舎者には、東京者の言うことはやっぱり分からん」
「……」
 江島は、しわしわになった父の横顔にはじめて気づいた。田舎が嫌で、大学時代NYに無理矢理一時留学した。東京の大学で東京の会社に勤めた。いつも父に自分の仕事を説明しようとしても上手くいかない。昔の父は恐かった。病床の父は、自分の知っている父より縮んだようになっていた。
 母はお茶を淹れに再び席を立った。さっきの電話では動揺していた。「お父さん死ぬかもしれない」と弱気の母の声を、はじめて聞いた。
 江島は決心して、話し始めた。
「俺さ。本当のこと言わなきゃ」
「本当のこと?」
「俺、……ほんとは、会社で落ちこぼれてるんだ」
「……」
「順調だなんて嘘だ。国際部で生き残ろうと必死で、俺は出来る奴を取り繕ってるだけなんだ。俺は偽者だ。実は俺、英語さえしゃべれりゃ役に立つかもって留学したんだ。でもさ、英語がしゃべれたって、仕事が出来るかどうかと関係ないのさ」
 紀子は江島の告白を黙って聞いていた。江島は両目から涙が出てきた。
「俺が騙せるのはさ、難しい言葉をちょいちょい入れ込んでも質問もしない奴らさ。だってアイツらもバカなんだ。言葉の意味なんか何も分かっちゃいない。言葉の意味を聞くようなバカだって思われたくない連中なんだ。だから俺は粉飾に粉飾を重ねる。横文字ばっかり使って、俺自身の敷居を上げることで。……それってさ、俺がつい三十分前に言ったことと同じなんだ。日本の文化は敷居が高いってさ。敷居を上げて、一体何を守ってるんだ、ってことだよな」
「……」
 康三郎は黙って江島の目を見ていた。
「俺、日本のこと、何も知らない。今日色々あって、そのことを痛感したんだ。でも英語のことも何も知らない。どっちのことも知らない、ただの無知なんだよ。今日、すごい子と知り合ったんだ。自分の言葉で仏像のことや浄瑠璃のことを分かろうとするんだ。俺は自分と関係して世界をそう見ようと思ったことなんて、全然なかった。あんなもんただの観光地としか思ってなかったんだ。日本すげえよ。解説すればするほど出てくるよ。俺を解説してみろよ。中身なんにもねえよ。解説されたら終わりだ。俺は、横文字で中身のない自分を守ってるだけだ。俺は、……ただの無知だ」
「ははは」
 と、康三郎は笑った。
「それが分かってるだけ、バカよりましだって昔の哲学者が言ったわ」
「……この気持ちを、なんて表現すればいいんだ。……なんて言うんだろ。英語にない……」
「……」
「あ。分かった。……簡単だよ。小学生でも知ってる。日本人なら誰でも」
「?」
「恥ずかしい、だ」
「ははは」
 もう一度康三郎は笑った。
「ははは……俺、恥ずかしい奴だったわ」
 江島も照れ笑いをした。
 こうして、妖怪「横文字」は、江島からゆっくりと離れた。

「不動金縛り!」
 廊下から病室の様子を伺っていたシンイチは、不動明王の印を結び、腰のひょうたんから天狗の面と火の剣を出した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 さっきの大跳躍の感覚が残っていたのであろう、思わず天井高くまで飛び上がってしまい、シンイチは自分で驚いた。空中で体勢を立て直し、天空から降るように、炎の剣を妖怪「横文字」の眉間にまっすぐ突き刺した。
「刺突通背! ドントハレ!」
 業火が生まれ、「横文字」を一瞬で粗塩の柱と化した。
 かくして、江島の心のコンプレックス(横文字を使わずに訳すなら、「複雑すぎてこじらせた心」)は、炎とともに清められたのである。

    5

 シンイチが山奥で薬草を摘んできて煎じたおかげか、息子と心を通わせたからか、康三郎の手術は成功した。三人と一匹は東京に戻り、平穏な日常へと帰還した。

 その数ヵ月後のある夜。いつもより気張ったレストランで食事をした江島と紀子は、海を見ながら歩いていた。
 江島が突然立ち止まり、ポケットから小さな箱を出した。結婚指輪だと紀子には分かって、二人とも緊張した。
「の、紀子」
「はっ、はい」
「……あらためて、話がある」
「……はい。……ど、どうぞ」
 江島は小箱をあけ、ダイヤモンドの指輪を見せた。紀子も江島も緊張の極限を迎えた。
「プロポー……」
 言いかけて、江島は慌てて口を閉じた。それが横文字であることに気づいたからだ。江島は頭を必死に回転させた。横文字の重圧。素直になることへの重圧。
「いや、えっと、……その……け、結婚提案」
 大失敗だ。何でここで四文字熟語を。一世一代の失敗に、江島はそれ以上何も言えなくなってしまった。
 紀子は静かに指輪を受け取り、最高の笑顔で微笑んだ。

「合点承知」


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十二話 「リアルの風は、冷たい」 妖怪「上から目線」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 最初は単なるひと言だった。それがエスカレートしていったのだ。
 ネットの掲示板が、その舞台。
『あんなハイキック、楽勝でガードできただろ』のひと言が、大炎上の種となったのだ。

 それは、日本最大のネットの匿名掲示板、「UXC」(スレッド)でのことであった。UXCとは、今世界で最もメジャーなアメリカの総合格闘技だ。格闘技ファンの間では、UXCこそが頂点と言われ、日夜ネットで熱い議論が沸いている。
 炎上の発言は、ある試合についてのものだった。若手の勢いナンバーワン、クロアチアの選手マイケル・フィリップと、日本人選手大山(おおやま)一廣(かずひろ)の対戦。大山は、外国人選手の中に交じって奮闘しているが、いかんせん厚い選手層の中では小柄だ。だからUXCの試合では中々勝てないでいる。だから日本人は皆「小山」「また小山の小山っぷり」と、大山の試合に毎回失望するのが常である。発言の核心は、その大山を一撃で沈めた、マイケルのフィニッシュ、左ハイキックについてだった。
 実戦でハイキックが決まることは殆どない。頭を蹴りにいくのはモーションが大きく、見てからガードできるからだ。あれは映画や漫画の中での、見栄えのよい派手な「見せ技」にすぎない。そもそも蹴りは小さく出すもの。実戦空手でも「蹴りは帯より下を蹴る(つまり股間を蹴る)」と教える。ところが大山は、八分四十二秒、マイケルの左ハイを出会い頭にあっさり食らい、みっともなくも失神KOされてしまったのだ。
 一介の高校生、綾辺(あやべ)哲男(てつお)が非難したくなるのも無理もなかった。
『あんなハイキック、楽勝でガードできただろ』と。

 ネットの住人たちは、この書き込みにカチンと来たのか、一斉に哲男を否定した。
『マイケルの有名な戦術を知らないのか。ローキックやミドルキックを最初に散らして目を慣らし、目線を下に下げておいてからハイを打つのだ』
『意識の外から蹴るから見えない』
『右ハイなら見えるけど、マイケルは左利き(サウスポー)だろ。だから左ハイなんだ。慣れない技をガードするのは困難』などだ。
 哲男は反論した。
『マイケルの戦法はずっと前から有名だろ。いまさらその対策をしてない、大山がヌルイって言ってんだ』
『まあ小山だからな』
『小山だな』
『小山だし』
『小山は関係ねえだろ。対策してればあのハイはガードできる、って言ってんだ』
『お前、何様だよ』
『何が分るんだよ』
『分るだろ。現にアラスターやエメルヤーコはガードしたろ』
『お前は何も分ってない』
『お前こそ何が分るんだ』
 こうしてネットの中では水掛け論が続き、大論争となった。最初の発言者である哲男は、自説の正当性を示そうと次々に解説をし、その度に質の低い書き込みに否定された。哲男は顔を真っ赤にし、火に油を注ぐように次々と書き込んだ。燃料の投下された掲示板は、それをネタにののしり合いが止まらなくなった。
 哲男の荒い鼻息を嗅ぎつけ、妖怪「心の闇」がやってきた。長く歪んだ顔で、青白くノッポだった。
『お前ら何も分かってねえ』
 妖怪は哲男の肩に、ニヤリと笑って取り憑いた。その名を、「上から目線」といった。

 論争は数日間、二十四時間休みなく続いた。眠ったら議論に置いていかれるから、哲男は三十分以上寝ず、意識を途切れさせながらも主張を続けた。「お前の目は節穴だ」と、誰もが誰もを否定しあった。
 試合の中盤、大山の放ったタックルをマイケルがあっさり通して、寝技に持ち込まれたことについても哲男は非難した。
『もっと腰を落とせば、あんなタックルぐらい切れるだろ』
『何を根拠に。腰を落としただけじゃタックルは外せない』
『中国拳法の八卦(はっけ)(しょう)に、「搬頭化解(はんとうかかい)」って技がある。百二十把(ひゃくにじゅっぱ)擒拿術(きんなじゅつ)の四十二だ』
『ハア? 中国拳法マニア乙』
『無知がアホなんだよ。この原理で、タックルは簡単に破れる。弓歩(きゅうほ)式といって、前後に広くスタンスを取ってタックルを受け止めるんだ。次に両手で首を捻る。首は急所のひとつだ。テコの原理で捻りやすい。マイケルは腕力も元々強いしな』
『じゃなんでやんねえんだ』
『知らないからだろ。そもそもこの技は、中国拳法の投げ技や関節技を得意とする、「擒拿術(きんなじゅつ)」の「焼鶏(しょうけい)寧頭(ねいとう)」という古技とソックリなんだ。昔からあるんだよ。あるいはもっと古い、迷蹤(めいしょう)(げい)っていう河北(かほく)(そう)州武術の中の、「羅漢双推(らかんそうすい)(しょう)」で両肩を打って、「猛虎(もうこ)硬靠山(こうこうざん)」って体をひねりながら体当たりする技で返せる』
『バーチャファイター乙』
『アキラ乙』
『あれは猛虎(もうこ)硬爬山(こうはざん)だ。八極(はっきょく)(けん)だろアレは』
『バーチャ乙』
『アキラ乙』
『そんなの出来るわけねえだろ。出来たら皆やってるわ』
『だから知らねえだけで、知ったら出来るだろって話だ』
『なんでオマエそんな上から目線なの?』
 哲男はさらに怒った。オレは格闘技に詳しいんだ。十年以上も色んな試合を見てきて、技とかも全部知ってるんだ。世界の格闘技や珍しい武術も、いっぱい見て研究してるんだ。
『なんでセコンドって言うか知ってるか? 熱くなってる選手の試合を冷静に見て、指示を出す「第二の(セカンド)目」だからだよ。俺らはもっと客観的に試合を見てるだろ。サードどころか、トップから見てるんだよ。試合を神視点で眺められるのは、知識を持った目だろ』
 妖怪「上から目線」は、哲男の肩でぐんぐん成長してゆく。イボだらけの異様に長い体で、白く濁った目が見下ろす様は、宿主の哲男に似ていた。


 彼の歳の離れた小学生の妹は、突然の兄の引きこもりに困っていた。彼女の名は綾辺ミヨ。そう、先日妖怪「弱気」に取り憑かれた所をシンイチに助けられた、シンイチのクラスの我らがヒロインだ。母の奈美(なみ)は自分の育て方に欠陥があったのかと嘆いた。
「兄貴は、きっと心の風邪を引いてるのよ。私、そういうことの専門家、知ってるの」

    2

「『心の闇』の仕業かも、って?」
「たぶん」
 次の日の学校で、ミヨはシンイチに相談した。鈴木有加里の母、希美子の心の闇の件|(妖怪「若いころ果たせなかった夢」)を、ついこないだシンイチから聞いたばかりだったからだ。
「ミヨちゃん、誰かに『心の闇』のことは言った?」
「ううん。だってこれは二人の秘密でしょ?」
「うん、そうだね。妖怪『弱気』のことも」
 二人の秘密、という言葉にミヨは自分でドキドキする。
「で、いつ頃から引きこもってるの?」とシンイチは尋ねた。
「えっと、今日で五日目。……前からずっとパソコンの前に座ってる気はあったんだけど、ついに部屋から出てこなくなったの。『心の闇』のせいだとしたら、対策は早いほうがいいと思って」
「そっか。今日ミヨちゃん家行ってもいい?」
「もちろん!」
 それに備えて、今日はおいしいケーキを買っておいて、とミヨは母に頼んでおいたのであった。

「お兄ちゃん、いい加減ドア開けてよ!」
 ミヨはシンイチを連れてくると、廊下からドア越しに兄の部屋に声をかけた。
「……うるせえな、ミヨ」
「なんで開けないのよ!」
「俺は忙しいんだよ」
「何に?」
「無知な奴らに、俺の知識を教えてやることにさ」
「は? 中で何やってんの?」
「何でもいいだろ! どっか行けよ! 邪魔すんな!」
 埒が開かないと思ったシンイチは、金色の遠眼鏡「千里眼」を出した。
「何それ」
「千里眼。壁の向こうも見えるんだ」
 薄暗い部屋の中で、哲男はパソコンに向かってブツブツと呟きながら、何かを書き込み続けている。青いモニタの光が、彼の顔を下から照らして不気味だった。そして、その肩には青白い妖怪がぐんぐん成長している。
「……妖怪『上から目線』だ」
「何それ?」
「なんでもかんでも評論家気取りでさ、自分は何もしない癖に文句ばっかり言う奴っているじゃん。それは妖怪『上から目線』のせいなんだ。お兄さんは、それにやられてる」
「……昔から、口だけ番長の気はあったけど……」
「さっきお兄さんは、『無知な奴らに教えてやってる』って言ったじゃん」
「うん」
「何をやってるんだろ。ずっとパソコンでカタカタやってるんだ」
「もしかして、格闘技のことかも。お兄ちゃんの唯一の趣味で、俺詳しいっていつも言ってるし」
「格闘技って、道場とか通ってるの?」
「ぜんぜん」
「全然?」
「私と一緒で、ちんちくりんの体型でヒョロヒョロの弱っちいかんじ。ケンカとかもしたことないし」

    3

 二人は二階から下り、リビングで作戦会議を練ることにした。
 シンイチはパソコンを一台借り、哲男が書き込みをしている掲示板の様子を見ることにした。ミヨはこのタイミング、と母に目配せしてケーキを持ってこさせた。紅茶の香りが漂い、リビングは甘い香りに包まれた。
「あった。これだね。UXC板だ」
「UXCって何?」
「アメリカの総合格闘技だよ」
「K‐1みたいなの?」
「違うよ。K‐1はパンチとキックだけだろ? 寝技も関節技もある」
「だいたいK‐1みたいじゃない」
「全然違うよ! 世界中のあらゆる武道や格闘技を、なるべく公平に闘わせようと、皆で必死で考えてルール化した、今の所最も『世界最強』を決める競技だよ!」
 シンイチの熱い語りをミヨは全く理解できなかった。
「……」
「なに?」
「どうして男の人は格闘技のことになると、そんなに必死になるの?」
「なるだろ! 世界最強だぜ?」
「意味ある?」
「んー。女の子はそういうのに興味ないのかなあ」
「ないよ」
「最近女子ボクシングとかあるじゃん!」
「興味ない」
「女子レスリングの吉田とか!」
「興味ない」
「……んんん、まあいいや!」
 ミヨちゃんを格闘技教にする会じゃない、とシンイチは思いなおした。
「お兄さんを助けなきゃ!」
 シンイチはUXC板の書き込みを一通り眺めた。そこは不毛と悪意に満ちた、欲求不満の吹き溜まりだったのである。

『何が分るんだカス』
『お前が分らんだけだ餓鬼』
『じゃあ三回目のタックルが決まらなかった理由わかんのかよ』
『膝への恐怖心だろ。三試合前のトラウマだ』
『そんなのとっくに解消してるわ。第一、あれは「焼鶏寧頭」で返せる』
『焼き鳥乙』
『また発頸乙』
『発「勁」だよ。それは打撃だろ。正面から受け止めて両手で首を捻るんだ』
『そんなの見たことねえわ』
『知らねえだけだろ』

 罵り合いが延々とループしている。まるで憎悪の渦だ。シンイチとミヨは、気分が悪くなってきた。
「なんなのこれ。気持ち悪い」
「みんな上から目線で、やりもしないで文句ばっかだなあ」
 ケーキを食べて一息ついたシンイチはひらめいた。
「じゃ、やってもらえばいいじゃん!」
「?」

    4

 シンイチはミヨにトイレを借り、トイレの中で円形の容器に水を張り、「水鏡の術」で遠野の大天狗と連絡を取り、相談をはじめた。
「ねじる力を使えないかなあ。妖怪『若いころ果たせなかった夢』のときみたいに!」
「どういうことだ」と、大天狗はシンイチのアイデアを期待した。
「あの時、時空をねじったじゃん。そんな風に、哲男さんを格闘技の試合に出させることは出来るかなと思って!」
「わはは。シンイチは愉快なことを考える。自分でやってみよ」
「オレのねじる力じゃ、鼻をねじるのが精一杯さ」
「鍛え方が足りぬぞ」
「精進するからさ。オレ、ミヨちゃんの兄貴を助けたいんだ」
「うむ。力を貸そう。因果の世界線を、少々ねじる」
 大天狗は遠野の岩山の中から、ぐいと掌をねじった。大型の獣のような咆哮が、東京まで響いた。
「ねじる力」
 大きな黒い渦が、突然、ミヨの家ごと包み込んだ。ぐるりと空間がねじられ、たちまちシンイチとミヨは、真っ暗で広大な空間へと飛ばされた。
「なにこれ? なにこれ?」とミヨは訳も分らず周囲を見渡す。
「ちょっとしたショーがはじまるよ!」と、シンイチはいたずらっぽく笑った。


 そこは、巨大アリーナだった。
 電気が消え、真っ暗な闇。目が慣れてくると、真ん中に白い試合用のリングがぼんやり浮き上がって見える。周囲はすり鉢状に観客席が並べてある。二階席も三階席もあり、きっと試合のときは何万人もの観客で埋まるのだろう。今の観客は、シンイチとミヨのたった二人だが。
「何がはじまるの?」と、ミヨは小声で尋ねた。
「レディース・アンド・ジェントルメン!」
 シンイチの声とともにカクテルライトが点灯し、リングの白いキャンバスが照らされた。試合の格好をさせられた哲男が、その上で戸惑っていた。
「お兄ちゃん!」
 ガリガリの裸に、青のパンツ、青い指出し(フィンガー)グローブ、青い脛プロテクター(レガース)を着用している。肩に取り憑いた妖怪「上から目線」の青色に合わせたカラーだ。
「なんなんだよこれ!」
 シンイチたちに気づいた痩せっぽちの哲男は、リングの上から詰問した。
「やって見せてもらおうと思ってさ!」と、シンイチは笑顔で答えた。
「何を?」
「あの、タックル切れるって中国拳法の技!」
「お、おう。焼鶏寧頭か」
「あと、ハイキックは見えるから、ガードすればいいんでしょ?」
「お、……おう」
「じゃやってみて! 大山選手に!」
「ハア?」
 哲男は、相手方の反対コーナーを見た。
 そこに赤いパンツ、赤いグローブ、赤いレガースのコスチュームの格闘家がいた。問題のUXCの試合で、問題のハイキックを食らって負けた、大山一廣本人だった。
「マジ! 大山じゃん!」と哲男は驚いた。
「大山さん! ネットで色々言われてますね!」とシンイチは質問した。
「まあ、不甲斐ない自分が悪いんス」と大山は、申し訳なさそうに答えた。
「今から彼が対策見せてくれるって!」
 シンイチは哲男を紹介した。
「綾辺ええ哲男選手ううう! 中国拳法の達人!」
 哲男は状況にのまれ、どうしていいか分らない。
「そしてプロ格闘家! 大山アアア一廣オオオオ!」
 大山はリング中央に歩み出て、グローブを合わせることを要求した。哲男は慌ててリング中央に走り、両拳を合わせた。

 デカイ。それが最初の哲男の感想だ。
 大山は格闘家としては小柄なほうである。それ故ネットでは「小山」扱いされているし、哲男も「小山」呼ばわりを何度もした。だが目の前にするリアルな大山は、一八十センチ九十五キロの肉塊だ。腕周りは四十センチ、胸板はマグロの解体ショー並。その肉が動く圧倒的説得力。一六十センチ四十五キロのモヤシから見たら、まさに大山だ。体重差は倍、それは直接、筋肉量の差である。
 大山は、自分の赤いグローブをばしんと音を立てて叩いた。
「赤は挑戦者側の色で、青はチャンピオン側っスね。チャンピオンの胸を借りますよ」
 ミヨはシンイチに訴えた。
「これじゃお兄ちゃんがボコボコにされちゃうよ! 死んじゃう!」
「安心して。ここは、仮の世界なんだ」とシンイチは答える。
「仮?」
「もしもこうだったら、っていう仮の時空。それに大山選手はプロだし、手加減ぐらいできるよ。やばかったらオレが不動金縛りで止めるし!」
「……そうなの?」
「じゃ、ゴング鳴らして!」
「こ、これ?」
 リングサイドにはゴングがあった。重たい木槌で鐘を叩く伝統的なタイプだ。ミヨは思い切りふりかぶってゴングを叩いた。
 カーン。
 十分一ラウンド、延長(エクストラ)ラウンド五分のUXCルール、一本勝負である。

「まじかよ……まじかよ……」
 哲男はあまりの無茶振りについていけない。目の前には大山選手が、重い体の割に軽快なステップを踏んでいる。
 まず哲男は、カクテルライトの眩しさに閉口した。光線が強すぎて集中できない。その分周りの観客席が暗くて、よく見えないのがさらに不安を煽った。暗闇の中にいるみたいだ。みんなが見てる筈なのに、その顔が見えず、さらし者にされている恐怖。
 足元のキャンバスも、想像していたよりふかふかでびっくりした。足を滑るように動かせず、砂浜に足を取られる感触だ。大山選手がステップで跳ねるたびに、キャンバスがバウンドする。なんだよこれ。トランポリンの上にいるみたいだ。オイ、跳ぶなよ。俺が転ぶだろ。しかもよく見ると、白いキャンバスには血の跡が点々とこびりついていて、テレビで見るより随分汚い。洗濯したり出来ないのだろうと余計なことを考える。

 目が一瞬見えなくなった。そのあと、鼻がツンとした。大山選手のリードジャブが鼻先を掠めたのだ。それだけで鼻血がどろりと出た。鉄の臭いで、呼吸が出来ない。ふんと鼻に力を入れて血を噴き出させても、尚呼吸が困難だ。鼻の痛みはあとから来た。垂れた血はキャンバスをぼたぼたと汚す。
「タックルをするよ。その技見せてよ」
 哲男は慌てて構えた。鍛えた丸太のような首にだって、回転するテコの理は効く筈だ。
 が、まず第一次(ファースト)接触(コンタクト)、大山のタックルをどんなに踏ん張っても哲男は受け止めることが出来なかった。テレビで見る大山は小柄なほうだから、受け止められると勝手に思っていたのだ。「小山」は二メートル近くの大柄白人から見た、相対的な大きさでしかない。小型ダンプを、自転車で止められる訳がないのだ。
 何度も何度も、タックル一発だけで哲男は吹き飛ばされた。八回目、哲男はロープまで吹き飛ばされ、前にはじかれ、顔面をキャンバスで打った。また鼻血が出た。頭が痛い。首が鞭打ちみたいになってる。
「上手くいかないねえ」
 と大山は離れ際軽いローキックを放った。哲男の足は二本ともなぎ倒され、身体が真横になるほど回転した。
 痛い!
 痛いなんてもんじゃない!
 我慢できない痛みというのが世の中にはある。ローキックの痛みはその種のものだ。なんと言ってもローの鍛え方は、ビール瓶で脛を延々(痛くなくなるまで)叩くのである。一度もビール瓶で叩いたことのない、哲男の()の脛が耐えられるはずがない。大山はまたローを蹴るモーションに入った。哲男は足元を必死で固めた。
 目の前に、大山の足があった。
「あ……」
「そう、こないだ俺が引っかかった連携」
 ハイキックを空中で止めるには、かなりの技量が必要だ。大山はそれを笑顔でやってのけた。
 哲男は恐怖にかられ、腕を振り回してパンチを放った。右。左。右。そのパンチを低く潜り、大山は哲男の胸に低重心で抱きついた。
「タックルは、はい出しますよ、って出さないよ。こうやって相手にパンチを出させて、それに合わせて潜るんだ。その瞬間は、そっちは片手しか使えないでしょ」
 哲男の必殺技「焼鶏寧頭」は、両手を使わなければ出来ない。その前提ごと崩されてしまった。仮に両手で大山の首を捻ったとしても、それより先にタックルの勢いのまま地面に倒されるだろう。技というものは、ある程度似た体格でしか通用しない。そして総合格闘技とは無差別級である。
 大山は片足をかけ、キャンバスに哲男を押し倒した。教科書どおりのテイクダウンで、上に覆いかぶさり寝技へ展開。

「……!」
 とにかく重くて跳ね返せない。寝技のコツは、上に乗った側が脱力することである。「死体は重い」とよく言われる。人間は無意識に体に力を入れていて、その分固まって力が逃げるらしい。水のように脱力すれば、死体のように全体重が下に集まる。
 圧死は嫌だ。胸が苦しい。
「あと、これやられるとキツイんだよねえ」
 大山は哲男の鼻と口をグローブで塞いだ。
 はあ? ただでさえ鼻血で息が詰まるのに、グローブの革とワセリンの匂いが余計にキツイ。なんだこれ。呼吸できない。「しょっぱい」「塩」とブーイングされる地味な寝技の最中、こんなことがされてたのか。
 大山はグローブを一端外した。必死で息を吸おうと哲男は大きく口をあけ、首を伸ばした。その首に大山の腕が巻きついた。まるで詰め将棋だ。一瞬入ってきた空気は、喉で絞められ肺まで届かなかった。
「あとこれも地味に嫌」
 大山は哲男の顔をキャンバスに擦りつけた。キャンバスは荒いテント地の布で出来ている。運動会などで校庭にある、あの白くて固い布に顔を強制的に擦りつけられることを想像するとよい。
 熱い! 熱い! 火傷する! なんだこれ。なんなんだこれ。こんなのみんなやってんのか。カメラになんかちっともうつってないじゃないか。こんなの誰も知らねえぞ。
「ついでに」
 大山は親指を曲げ、パンツの上から哲男の肛門に、第一関節まで入れた。
「ぎゃあ」
 哲男が最後に見た光景は、天井の白いライトだった。
 試合なんて、痛くて息が出来なくて、眩しくて不安で、恐くてみじめなだけじゃないか。


 哲男が意識を取り戻すと、そこはまだリングの上だった。眩しすぎるカクテルライトは半分消えていて、リングサイドに妹のミヨと、アナウンスした少年がいた。ニコニコした大山選手が、リングの上に胡坐をかいていた。
「どう?」と大山は笑った。
「……え?」
「どう?」
「はい?」
「どう? リアルは!」
「い……痛いです」
「そうでしょ!」
 大山は更に笑った。
「リアルはね、痛いんだよねえ!」
「俺の想像してた技なんて……全然通用しなかった」
「そんなもん、そんなもん! 圧倒的現実が、理論を押し流すのさ!」
 大山はニコニコして右拳を左の掌にぶつけた。ばちーんとものすごい音がした。
「……はい」
「それが分ってよかったじゃん!」
 大山は肩を組んできた。肌を合わせた者同士にしか分らない、友情のような感覚を哲男は抱いた。
「あの。……大山選手に聞きたいことが」
「?」
「こないだのUXC。なんでハイキックガードできなかったんですか? あの作戦見え見えじゃないですか。昔からマイケルはあれしか出来ないでしょ。ローやミドルが効かされてたとはいえ、ハイが来るのは分ってた筈」
「来るのは分っててもね、身体が反応しないこともあるよね」
「……はい」
 それは一瞬前に、自ら経験したことだ。
「あと、秘密にしといてね」
 大山選手は一歩進んで、秘密を打ち明けた。
「俺、右わき腹の肋骨、骨折癖がついちゃってさ」
「えっ」
「ミドルキックやだなと思って無意識にかばったんだよ。そこでぱこーん」
「……そうだったのか。そんなの、見た目じゃ分らないよ……」
「見た目じゃ分からないことも、リアルにはいっぱいあるさ」
 哲男は立ち上がった。
 小さなリングを囲む大観衆の為の観客席は、三百六十度どこを見渡してもすり鉢状で、二階席からも三階席からも、どの席からもリングを見下ろせるような構造になっている。
「俺、あのへんからしか見てなかった。あんな上からじゃ、ここのことはなんにも見えない。汚ねえキャンバスも、重たさも、まぶしさも、痛いのも。……なにが神視点だよ」
 哲男は大山選手に、深く頭を下げた。
「……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
 大山も立ち上がり、頭を下げた。
 哲男のほうから握手を求めた。哲男の手は大山に握りつぶされんばかりに握られ、窒息しそうなほどに抱きしめられた。哲男は、意地で精一杯握り返した。
 こうして、妖怪「上から目線」は哲男から外れた。

「不動金縛り!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 挑戦者色の赤い炎が、高慢ちきな青のチャンピオン、妖怪「上から目線」を唐竹割りにした。「上から目線」は断末魔の声をあげて炎に包まれ、清めの塩と化した。
 遠野の大天狗は事を見届けると、ねじる力で彼らを元の時空へと戻した。


 その後、哲男は空手道場に通うようになった。週三回の稽古に励み、もやしのような体は少し太くなりはじめたようだ。その後の大山選手は勝ったり負けたりだが、哲男は試合を欠かさず見ている。いつかアメリカにリアル試合を見に行きたいと、貯金もしはじめた。

 ミヨちゃんが、こないだのケーキの新作が出たの、とシンイチをまた家へ呼んだ。
 哲男の部屋にもシンイチは顔を出した。哲男はまた格闘動画を見ながら、ネットに書き込みをしていた。
『あんなタックル切ればいいじゃん』と言う書き込みに、
『やってから言え』と、答えていた。
『知ってるか? 格闘家って、大男なんだ』と、言葉を締め、シンイチに言った。
「まだまだネットには、上から目線の連中がいるよ」
 シンイチはその場に不動金縛りをかけた。「つらぬく力」でネットの向こう側へ行けないかと試してみた。悪意を辿ってゆき、パソコンの向こう側に出現することに成功した。ネットの住民たちは、かなりの確率で妖怪「上から目線」に取り憑かれていて、大天狗に頼み、彼らと今度はマイケル・フィリップのハイキックをかわせるかどうか試合をしてもらい、現実を見せて妖怪「上から目線」を外し、斬り伏せた。


 哲男は、窓をガラリとあけた。
「風が冷てえ」
 引きこもっていた部屋に、外の空気が満ちた。
「でもこれが、リアルなんだよな」


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十三話 「サッカーのにいちゃん」 妖怪「どうせ」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「何故オレは、妖怪が見えるのか?」
 これは、シンイチが大天狗とネムカケと出会ったあの日から、ずっと心に抱いてきた疑問である。
 そもそもシンイチが心の闇「弱気」に取り憑かれたのは、跳び箱の時間に「このまま自分だけやめれば、失敗したことにならない」と小賢しいことを思いつき、それにとらわれたのが原因だ。
 しかし同じように妖怪「弱気」に取り憑かれた人は、ミヨちゃんや、屋上から飛び降りたあの人など、他にもいた筈だ。これまでシンイチは、様々な「心の闇」に取り憑かれた人に沢山出会ってきた。鏡で自分の闇は見えるが、他の人の闇までは見えない。シンイチだけが突然妖怪が見えるようになり、今も見えるのは何故だろう。あの「弱気」だって、「人間が見えるのは珍しい」と驚いていたし。
 普通の人は妖怪が見えない。幽霊と似たようなものかも知れない。だが霊能力者は沢山いるのに、妖怪が見える人がいないのは何故だろう。

 それを遠野での修行中、大天狗に聞いたことがある。
 大天狗は、巨大なぐい飲みに巨大なひょうたんから酒をついで、話をはじめた。
「修行を積んだ高僧には見える。歴史上、彼らは法力で妖怪退治をしてきた」
 大天狗は平安時代や鎌倉時代の、歴代の修行僧の話をしてくれた。また、無邪気な昔の人たちの中には見える者もいたという。
「じゃ何? オレって特別無邪気なの?」とシンイチは質問した。
「そうかも知れぬ」と大天狗は答え、二杯目の酒をついだ。天狗のひょうたんにはいつも酒がなみなみと入っていて、どれだけ呑んでも減らないという(ちなみにシンイチの腰のひょうたんは子供用である)。
「じゃ、なんかオレ馬鹿みたいじゃん」
「そうとは限らぬな。無邪気な心を忘れた現代人と違う、それは神が与えた才能だと思えばよい」
「才能?」
「誰にもない力は、それだけで特別な力だ」
「……そうかなあ」
「西洋人の考え方で、高貴なる者の義務(ノーブレス・オブリージュ)というのを知っておるか」
「なにそれ」
「力のある者は、力を示す義務があるというものだ」
「?」
「貴族は普段は屋敷の中にこもっている。しかしいざ戦争があるならば、真っ先に最前線に立ち、力を示さなければいけない」
「なんで? ヒーローだから?」
「少し違うな。力のある者は、力を使う勇気を示せということだ」
「?」
「世の中には色々な力を持つ者がいる。足の速い者、頭の良い者、人々を導く力のある者。サッカーの上手い者、妖怪を見る力のある者」
「……妖怪を見る力のある奴は、その力を使えってこと?」
「そうだ。特別な力は、悪いことに使わず、正しいことに使う義務がある。力を持つ者を人は恐れる。悪いことに使うと誤解し、火あぶりにするだろう。屋敷にこもる貴族は、戦のときに前線に立つからこそ人々の上に立てるのだ。人々は認めてくれるからだ。お前の力は特別だ。その力には、高貴なる者の義務(ノーブレス・オブリージュ)があるのだ」
「……義務」
 大天狗はもう一杯酒を注ぎ、ぐびりと呑んだ。
「昔ながらの伝統的な妖怪は、山へ追われつつも、新種の妖怪『心の闇』退治に挑んだ。だが奴らは、人の心の闇の中に逃げた。人間の中に入られると、我々でも手が出せぬ。手っ取り早く人間ごと潰す手もあるにはある。そうした奴もいた。それでは人間を惨殺する妖怪が増えるだけだ。「心の闇」は、その宿主から追い出さぬ限り出てこない。それには、我ら妖怪よりも、お主のような素直な人間が向いていると思うのだ。人間の心をひらくことは、人間にしか出来ぬ」
「そうかな。……そうなのかな?」
「シンイチよ」と、大天狗は真面目な顔をした。
「はい」
「お前は、人と妖怪の間を取り持つ大人物になるかも知れんと、わしは思っている」
「えっ」
「お前にしか出来ないこととは、そのことかも知れぬ。わしは、それがお前の特別な才能だと思う。特別なことに、特別な力は使われるべきだ」
「……そんな難しいこと、よく分からないよ」
「たとえ『弱気』に取り憑かれなかったとしても、いずれ妖怪は見えていたかも知れぬ。『弱気』に自力で気づく経験がなかったら、お前はその騒動でただ右往左往するだけの人間に終わったかも知れぬ。お主は妖怪が見え、それを自力で外した。それはお主の才能だ」
「……そうかなあ……」
「覚えておくことだ。お前の力は、お前自身をも試すぞ」
 自分の力の根源は一体何か。シンイチは大天狗の言葉を思い出しながら、ときどき考えることがある。

    2

 ある日、新たな「心の闇」らしき情報を内村先生が持ってきた。その人の名を聞いて、シンイチは緊張した。シンイチの人生に深く関わりのある名前だったからだ。その名は、深町(ふかまち)和人(かずと)。かつてシンイチに、サッカーを教えてくれた人の名前だ。

 小学校に入ったばかりの頃。深町は上級生で、サッカーの真似事で遊んでくれた。ドリブルが上手かった。リフティングも上手かった。シンイチたち下級生は「サッカーのにいちゃん」と呼んで、いつも後ろを走ってついていった。夕暮れまで、いつもサッカーのにいちゃんはサッカーをしてくれた。彼が小学校を卒業して既に四年経っている。小学校五年と一年だった二人は、高校一年と小学五年に成長し、これから運命の再会をしようとしていた。

「引きこもり?」
「そうなんだよ。もうずっとだ。高校もほとんど出席していないそうなんだ」
 職員室の内村先生に呼び出されたシンイチは、「サッカーのにいちゃん」深町和人の近況を聞かされた。飛田(とびた)中学サッカー部顧問の先生が内村先生と繋がりがあって、引きこもりの相談をされたのだ。内村先生も、まさか深町とシンイチが知り合いとは想像もしていなかった。内村先生は話を続けた。
「引きこもりってさ、『心の闇』にやられたときの、典型的な症状のひとつだよな。それで怪しいと思ってさ」
「うん。……そうだね」
 内村先生に取り憑いた「あとまわし」、隣のクラスの将棋友達タケシに取り憑いた「アンドゥ」、先日の「上から目線」。皆ことごとく引きこもりになった。世界と関わりを断ち、一人でぐるぐる考えてると、心の闇はどんどん増幅するのだろう。それはシンイチ自身が、「弱気」に取り憑かれたときに経験したことでもある。
 深町は、とんび野第四小学校を卒業後、飛田中学のサッカー部で活躍したという。元々素質もあったし熱心に練習もしたそうだ。が、レギュラーに決まって最初の試合で、彼は右膝を痛めた。彼はそれを隠し続けたという。次の試合でも、その次の試合でも、普段の練習でもそれを隠した。右膝をかばって次は左膝を痛めた。若いから、静養すれば回復する筈だった。だが彼は隠し続けた。レギュラー落ちが恐かったからだ。そして次の試合で、彼は右膝靭帯を断裂する怪我をした。
「……右膝が、サッカーマンにとってどれほど大事か」
 話を聞きながら、シンイチは思わず顔をしかめて右膝を押さえてしまった。その痛みは、きっとこの想像より痛かっただろう。内村先生は続けた。
「怪我を隠す気持ちは分るよ。レギュラー落ちが恐いのも分るよ。……でもな、サッカーを辞めることの方が、俺は辛いと思うんだよ」
「にいちゃん、……サッカー辞めたの?」
 内村はうなづいた。
「高校に入ってサッカー部に一応は入ったみたいだ。膝は、歩くことは出来る程度には回復した。しかしその後ほとんど部活には出ず、引きこもりになって、部屋から出てこなくなってしまったそうだ」
「……心の闇の仕業じゃなくてもさ」
 シンイチは、自分の右膝から顔を上げた。
「オレ、にいちゃんに会いたい」


 内村先生に連れられ、シンイチは深町の家を訪ねた。意外と近くにサッカーのにいちゃんの家があってびっくりした。四年間のどこかで、偶然会ってもよさそうな場所だったからだ。運命とは分からないものだ。きっと適切な時まで、それは待つのだ。
 二人で話したいとシンイチは言い、内村は家の外で待つことにした。
 先日の哲男のときと同様に、廊下から、扉の向こうの深町に話しかけた。
「オレ! 覚えてる? とんび四小でさ、いつもオレとサッカーしてくれたじゃん! 高畑シンイチだよ! 覚えてる?」
「……おう。シンイチか」
 扉の向こうから、深町の声が聞こえた。声変わりして大人っぽくなったけど、あの時から雰囲気はちっとも変わってない、憧れのにいちゃんの声だった。シンイチは嬉しくなってきた。
「そう! 覚えてくれてた?」
「懐かしいな。コスモスの自販機の下で五十円見つけた、シンイチだな?」
「そうそう! そんなことあったよな! あれからオレ、リフティングだいぶ出来るようになったんだぜ! 百はいけるよ!」
「へえ。やるじゃん」
「だろ? ねえ、扉開けてよ! 久しぶりに話、しようよ! オレ、五年生になったんだぜ! にいちゃんがオレにサッカー教えてくれたの、確かそれぐらいだろ?」
「……そうだ。五年生だった。お前はまだ一年だった。もうそんなになるか」
「……入っていい?」
「どうせ、俺の怪我の話は聞いたんだろ?」
「……うん」
「どうせ、俺は心の弱い奴だと思ってるんだろ?」
「思ってないよ! にいちゃんは凄いやつだもん!」
「どうせ、そんなの昔の栄光じゃねえか。どうせ、今の俺は凡人だよ。……入れよ」
「……いいの?」
「どうせ、いずれは俺の本当の姿を知ることになるしな」
 シンイチはごくりと唾を飲み込み、ドアノブを回した。緊張しながら廊下と部屋の境界をまたいだ。ベッドの上でうずくまる深町は、シンイチを見るなり言った。
「……変わっちまったろ? 俺」
 ぶくぶくと太った、にきびだらけの男が体育座りをしていた。野山を走っていた軍鶏が、ケージの中でチューブに繋がれたブロイラーのようになっていた。顎は脂肪にめりこみ、かつてのにいちゃんの顔が巨大な顔の真ん中あたりにあった。手も足もぶよぶよにむくれ、圧力を増し流れた肉塊がそこにいた。かつての深町の、それは残骸で、本人だった。
 そして巨大な、歪んだ顔の妖怪「心の闇」が隣にいる。部屋いっぱいに成長し、顔の頂点は天井にすりきり一杯で、もはや斜めにならないと部屋に入りきらない。深町同様のデブな顔で、伸びた手足が深町の体に深く根を下ろしている。禿げ頭のペールブルーで、投げやりな表情をしていた。妖怪の名は「どうせ」。さっきから、にいちゃんは「どうせ」を必ず語頭につけていた。どうせ俺なんか、と思う心の隙間に取り憑く妖怪である。
「久しぶり。サッカーのにいちゃん」
 部屋の壁には、ロナウドやクライフや中田ヒデのポスターが貼ってあった。しかしそれは日に焼けて随分と色褪せていた。
「だいぶん、サッカーやってねえからな」
 と、深町は自分の腹をつまんで自虐した。
「膝の怪我は、おとなしく治せばまたサッカー出来るようになったかも知れない。でもさ、何かがぷっつり切れちゃってね。……遅れを取り戻すのはもう無理だと思った。どうせ、無理だってね」
「にいちゃん」
「何?」
「どうせ俺なんか、って思ったのはいつ?」
「?」
「大事なことだ。教えて。いつ、どうせって思った?」
「中学でサッカー部に入ったときからかな」
「えっ? そんな前から?」
「どうせ俺はサッカー上手く出来ないし、ってずっと思ってたよ」
「ええっ! なんで? スーパー上手かったじゃん!」
「小学生相手と中学生相手じゃ、やっぱり全然違うよ。中学サッカーは、小学校で上手かった奴の選抜大会さ。俺はお山の大将だったにすぎない。どうせ俺には、ってずっと思ってた」
「……」
「だから努力したのさ。誰よりも」
 彼がその頃「どうせ」に取り憑かれたとしても、その力をバネに彼は努力したのだ。シンイチは改めてにいちゃんを尊敬した。
「やっぱりにいちゃんはすげえや」
「? どこが」
 シンイチはひとつ咳払いをして、深町をまっすぐ見た。
「だいじな話があるんだ」
「? なに?」
「……」
 シンイチは緊張した。変わり果てたにいちゃんを救う自信はなかった。しかし、自分の「妖怪が見える力」を使わないと、にいちゃんはこのままダメになってしまって、巨大な妖怪に取り殺されてしまう。力を使う勇気。大天狗はそう言った。
「オレ、妖怪が見える力があるんだ」
「……ハア?」
「マジな話なんだ。信じて。にいちゃんは、妖怪『どうせ』に取り憑かれてるんだ。だからどうせ俺なんか、って思うんだ。そいつは今もこの部屋を占領してる」
 シンイチは両手を目一杯広げ、「どうせ」の大きさを示した。
「何言ってんのお前? お前、俺を馬鹿にしにきたのか?」
「本当なんだ。にいちゃんが引きこもってるのは、妖怪『どうせ』のせいなんだ」
「帰ってくれ。小学生の妄想に付き合ってる暇はねえ」
 突然、深町の表情が変わった。さっきまであった親しみの表情が消え、恐ろしく冷たくなった。にいちゃんはこんな顔をするんだ、って怖くなるぐらいの顔だった。
 心の扉も、物理的な扉も閉じられ、シンイチは廊下に放り出された。失敗だ。だけど、このまま帰る訳にはいかない。いくもんか。
「……力を使う、勇気」
 シンイチは右の掌を、閉じられた扉に向けた。にいちゃんは自分の醜い姿を晒してでも部屋に入れてくれた。今度は自分が自分の姿を晒す番だ。目をつぶり深呼吸をして、シンイチは自分の力を使った。
「ねじる力」
 扉をねじった。扉はぐにゃりと曲がり、大きな穴が開いた。
「な、なんだこれ!」
 穴ごしに、深町がこちらを見ていた。まっすぐ目を見なきゃ。
「オレのほんとうの姿は、天狗の力を持つてんぐ探偵なんだ」
「……だから何言ってんだよお前!」
「鏡を見て。これがにいちゃんに取り憑いた妖怪『どうせ』」
 シンイチは腰のひょうたんから出した鏡を、にいちゃんに向けた。
「なんだこりゃ!」
 鏡にうつる、思った以上に太り果てた自分。そしてその隣にいる、部屋いっぱいに成長した、似たような顔の妖怪「どうせ」。深町は、ようやく自分自身を客観視することになった。
「なんだこのデブ」
 自分のことを言ったのか、その妖怪のことを言ったのか判然としない。おそらく両方なのだろう。
「力は自分を試す」、大天狗はそう言った。シンイチは今試されていた。自分が、この力にふさわしいかどうかを。
「オレ、この力でにいちゃんを助けたい」
 
    3

 シンイチの説明を一通り聞いた深町は、シンイチに尋ねた。
「じゃあさ、全部妖怪のせいってことかよ? 『どうせ』俺なんかレギュラーになれる訳ない、『どうせ』もう一度サッカーなんかやれる訳ない、『どうせ』俺なんか生きてる価値ない、『どうせ』俺なんか何をやっても無駄だ。……そう俺が思うのは」
「うん。心の闇は、負の感情の隙間に潜り込む。『どうせ』って強く思った瞬間に、多分滑りこまれたんだ。その感情を餌に大きくなって、宿主はその心の状態からいつまでも抜け出せなくなる。『どうせ』って思い続けることで」
「じゃ俺が、『どうせ俺なんか』って思わなくなればいいってこと?」
 シンイチはうなづいた。
「そんなの無理だろ。どうせ俺なんか……」
 と、深町はその言葉を発した自分に気がついて苦笑いした。
「ふん。……これか」
「うん。そうだ」
 太った顔の妖怪「どうせ」は深町からまた栄養を吸い、嬉しそうにしている。

 シンイチは、先程から考えていたことを深町に提案してみた。
「にいちゃん、オレとサッカー勝負をしてくれないか」
「は?」
「ぶっちゃけオレ、その心の闇の治し方が分らない。だから無理矢理にでも、学校に行ってくれないかな。引きこもりが一番よくないんだ。ぐるぐる一人で考えて、ずーっとループになる。そしたら奴らの思う壺なんだ」
「なんでサッカー勝負なんだよ」
「昔はいつも何か賭けてたろ。ランドセル持ちとか、オモシロギャグ言えとか、秘密一個ばらすとか。……オレが勝ったら部屋を出て、学校へ行ってくれないか」
「……じゃあ俺が勝ったら?」
「わかんない。……一生にいちゃんの言うこときくよ」
「ははは。小学生らしいな。昔そんなことよく言ってたな」
 深町は部屋の中の、埃をかぶったサッカーボールに触った。空気が抜けてて、べこんとした。
「今の俺みたいだな」と深町は自虐する。
 シンイチは、腰のひょうたんからマイボールを出した。
「オレさ、……あの場所でやりたいんだ」
「?」
「いつもサッカーやってた空き地あるじゃん。あそこで1オン1やって、オレ一回も勝てなかったじゃん?」
「あ? じゃ勝負にならねえだろ」
「あれから、オレなりにサッカーは続けてきたんだ。……無理な勝負じゃない」
「勝負になるって思ってんのか? オレがデブで怪我したからナメてんのか?」
「ちがう。男と男の勝負をしたいんだ」
 シンイチは深町の目を見た。
「……マジなんだな」
 内村先生はずっと外で待っていた。シンイチと深町が出てきて、引きこもりが解決したのかと勘違いした。シンイチは訳を話し、内村先生は立会人をやろう、と言ってくれた。

 だがその空き地に行ってみると、スーパーマーケットの駐車場になってしまっていた。かつてのやわらかい草原は、一面真っ黒で固いアスファルトに覆われてしまっていたのだ。
 深町はぼやいた。
「なんだよ。折角外に出てやったのに。何ヶ月ぶりに出てやったのに。どうせ、俺の人生こんなもんさ」
「……ここでやらなきゃ意味がないんだ。ここは、オレらの聖地だから」
 シンイチは腰のひょうたんから、朱い天狗の面を出した。

 はじめてサッカーボールをここで蹴ったことを思い出した。まわりの子供は誰がいたのかも覚えていない。ススムや大吉や公次やミヨちゃんも、ひょっとしたらその中にいたかも知れない。今となっては分らない。ただ、にいちゃんはいた。シンイチもいた。夢中で走った。それだけだ。辛さも楽しさも、全部この空き地が知ってるはずなんだ。それから将棋を覚えたり、マンガやゲームに夢中になったり、色んなことをしたけど、サッカーだけはシンイチがはじめて知った、「誰かとすること」だと思っている。

「にいちゃん。出来るかどうか分らないけど、やってみる。引かないでね」
 シンイチは天狗の面を被った。この面には天狗の力が封印されていて、シンイチの術に力を貸す。シンイチは精神統一をした。
 大天狗の見様見真似だ。必死だった。結果のイメージがはっきりしている方がいい、という大天狗の言葉にシンイチはすがった。
「ねじる力!」
 目的地は、あの日の空き地だ。はっきり思い出せない筈がない。草一本一本の匂い、虫除けに焦がされた木の杭の手触り、捨てられて真っ赤に錆びたトタン。ときどき埋まってた青緑色のきれいな丸い石。立ちしょんべんして臭かった奥の草むら。十三本目の杭だけないオカルト話。トイレの花子さんとテケテケの目撃談。広い空。
 シンイチは目をつぶった。黒く、大きな渦が現われた。渦は、シンイチと深町と内村先生を覆い、さらに駐車場全体を覆いつくした。シンイチの「ねじる力」は、「時空をねじる」ことに成功した。
 三人は、あの日の空き地に立っていた。

    4

「驚いたな」
 深町は地面の感触をたしかめた。さっきまで真新しいアスファルトだった地面は、やわらかな草むらに変わっていた。草の匂い。空も広い。そういえば高層マンションがまだ出来ていないせいだ。風が吹いて、エノコロ草が揺れた。
「俺この奥で、デラべっぴん拾ったんだよなあ」と、深町は角まで歩いていった。
 シンイチは天狗の面を外した。
 シンイチは無限に広いと感じていた草原が、案外狭いことに気づいた。それは背がのびたり走る力がついた、成長ゆえなのだとまだ自覚していない。

 四年前の空き地で、ひとつのボールを挟んで男が二人対峙した。
「ルールは?」と内村先生が聞いた。
「二十本勝負でいい?」とシンイチはかつての定番を出してきた。
 ルールは簡単だ。真ん中で攻撃側(オフェンス)がボールを持つ。防御側(ディフェンス)はそれを奪ったら勝ち。それを抜いてシュートし、四番から十二番の杭の間の「ゴール」に入れたら攻撃側(オフェンス)が一本。二十本先取。同点ならサドンデスだけど、実力差が出やすいからそこまでもつれたことはない。
 単純な1オン1だから、昔は皆にいちゃんに挑んだ。にいちゃんは小学生の憧れのチャンピオンで、誰もにいちゃんに勝てなかった。
 二人の男は、互いに互いのものを賭けた。
「学校へいって」
「一生奴隷だぞ」
 このサッカー勝負に意味があるのかなんて分らない。だが、何か真剣なものを賭けたことだけは確かだ。サッカーの前に嘘はつかない。それだけは二人にとって真実だ。

 じゃんけんでシンイチが先攻を奪い、ボールを蹴った。
 シンイチはドリブルには自信がある。にいちゃんのステップは速かった。だからシンイチも速いステップを練習した。大きく進むより、細かく刻むやり方を覚えた。
 だが、元祖の深町には通用しなかった。横を抜けず一瞬でボールを取られた。
「0‐0」と内村先生はカウントした。
 次は深町の攻撃だ。
 巨大な「どうせ」が邪魔になるかと思ったが、奴に重さはなかった。ヘリウム風船がついてまわるように宙に漂っている。深町にとっては、久しぶりのボールの感触だった。何度かタッチしたあと、おもむろに走り出した。相手は所詮小学生だ。簡単にフェイントに引っかかり、深町はゴール左隅にシュートを決めた。
「0‐1」

 シンイチの攻撃。ドリブルの途中、シンイチは必殺技を出した。クライフターンだ。あれ以来密かに練習していた、内村先生とサッカー本直伝のフェイントターンだ。が、深町にはあっさりと止められてしまった。
「ええーっ」
「クライフなんて、やるじゃん!」
「何でダメだったんだよ!」
「目線でばれてるぜ」
 深町は二重にフェイントをかけ、シンイチを抜いた。
「0‐2」と、内村先生は冷静にコール。

「ちくしょう!」
 シンイチはさらに細かくボールタッチをくり返した。テクニックとか関係なく、単なるがむしゃらだった。ゴールに向かわず、うしろの広い空間へ走った。
「オイどこまで行くんだよ。ゴールはこっちだぞ」
「奪いに来いよ!」
 深町が来るのをシンイチは待った。右足、左足、右足。
「そこだ!」
 シンイチはなるべく軽いタッチをした。いざというときに強く蹴ってしまわず、軽いタッチを維持できるかどうか。これもにいちゃんに習ったことだ。「足のリズムを読め」は内村先生に習った。人間は、足を着いた瞬間だけはその足を動かせない。
 深町の右足の着地の瞬間、シンイチは股の間を抜いた。
「やべっ!」
 深町は反転し、シンイチを追った。しかしシンイチのトップスピードに深町は加速しきれない。
「なんだよこのデブ!」
 深町は自分の太った肉体を呪った。慣性の法則にしたがい、ぶよぶよの体は深町の意志に反してついてこない。
「1‐2」
 深町はふうふうと息を切らし、汗をかきはじめた。
「休む?」とシンイチは深町に尋ねた。
「休むかよ!」
 だが、巨大な「どうせ」よりも、具体的な肉体のほうが枷となった。深町は息が切れ、シンイチについて来れなくなった。
「2‐2。……3‐2。5‐2。10‐2。……19‐2。」
 あっという間に、シンイチは決勝点にたどり着く。
「マッチポイント!」と内村先生が宣言する。

 深町は、汗でドロドロにとけた蝋人形だ。身体全体から、風呂上りのような湯気が出ている。
「デブ畜生……デブ畜生……」と、鼻の穴からなにかを漏らしている。
「ラスト一本」とシンイチは呟く。
 落ち着いて。丁寧に。これもにいちゃんから習ったこと。シンイチは、にいちゃんから習った全部をにいちゃんに見せたかったのだ。
 シンイチはフェイントをかけて抜こうとした。クライフターンは読まれた。深町はその動きについてきた。
 シンイチはボールを左に流した。右足を「ボールの前に」被せ、左足で右足の後ろから右後方にボールを抜いた。
「あ!」
 深町は声をあげてそのフェイントに引っかかった。「左の」クライフターンだ。
「シンイチ! お前、左もやるのか!」
 ススムの必殺技ダブルフェイントと、クライフターンを組み合わせたのだ。シンイチはそのまま深町を置き去りにし、決勝ゴールを決めた。
「はじめて、……にいちゃんに勝った!」
 シンイチは汗をぬぐい、喜びをかみしめた。息は少ししか乱れていなかった。
「ちくしょう……こんな膝壊して走れねえデブに勝って、嬉しいのかよ!」
「嬉しいよ! 今まで一回も勝てなかったんだ!」
「まさか、左のクライフも練習してたとは」と、内村先生が褒めた。
「にいちゃんが教えてくれたんだぜ? 右も左も同じように出来るようになっとけってさ!」
「そうだっけ」
「そうだよ! オレはにいちゃんの弟子だ。ちゃんと守った。それを見て欲しかったんだ」
 深町はまだ息を切らしている。ふうふう言いながら彼は自虐する。
「こんなデブ相手に、最後まで手を抜かずやることねえだろ」
「サッカーに手は抜かない」
「……それも俺が言ったっけ」
「うん」
「ははは。……過去の俺、すげえな」
「にいちゃん相手に、手は抜けない」
「……ははは」
 深町はなんだか笑いがこみあげてきた。
「負けは負けだな!」
 深町は草を蹴った。
「学校へ行くの怖いなあ。デブって言われるだろうなあ。勉強はついていけるかなあ。……サッカー部に顔出すの、怖いなあ」
 シンイチは深町の顔を見た。深町はそれに耐えられず答えた。
「……分ったよ。男と男の約束だよ。学校行くよ。こんな俺だけど、無理矢理行くよ。どうせ俺なんかって思わないように頑張るよ。俺なんかに手を抜かなかったお前のことを思い出すよ」
「うん」
 シンイチはサッカーボールを抱えた。深町に取り憑いた妖怪「どうせ」は、こころもち小さくなったようだが巨大さはたいして変わらず、深町の抱えた闇の大きさを示していた。内にこもるより、人前に出たほうが心の闇の成長は遅くなるだろう。このまま長期的に観察していこうと、シンイチは考えていた。

 「ねじる力」が開いた、現代の駐車場への戻り道を内村先生は戻った。シンイチもあとに続いてくぐろうとした。そこを深町が呼び止めた。
「見なよシンイチ」
 シンイチが振り向いた。
「あっ」
 美しい夕焼けが出ていた。何度も何度も見た、あの日の空き地の夕焼けだった。三人の男は、無言でその夕焼けをしばらく見ていた。
「帰ろう」
 深町は戻り道へ入った。シンイチも名残惜しそうに空き地と夕焼けを見ながら、戻り道へと入った。三人とも現代へ戻り、あの日の空き地への道は閉じた。

 こちらでも夕焼けが出ていたが、高層マンションとスーパーの建物にさえぎられて、あまりよく見えなかった。主婦の買い物客がごった返して、駐車場には車がいっぱいだった。
「また勝負やろうぜ」と深町はシンイチに声をかけた。
「?」
「あれぐらいじゃ、膝はちっとも痛くなかった。たかが一回勝っただけで偉そうな顔してんじゃねえぞ。一回負けたから学校には行くけど、俺とお前の勝負は終わってねえ。何回かやって、勝ち越さねえと勝ちじゃねえ」
 強気のにいちゃんが戻ってきて、シンイチは嬉しくなってきた。
「また負ける癖に!」と、意地悪く突っ込んだ。
「ふざけんな!」
 深町はニヤリと笑って武者震いした。
「オレは、まだ闘える」
 妖怪「どうせ」は、こうして深町の肩から外れた。

 シンイチは天狗の面を被った。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術! エイ!」
 スーパーの前にごった返した主婦たちが、動きを止めた。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 シンイチは天高く飛び、唐竹割りに「どうせ」を真っ二つにした。着地して、返す刀で十文字に斬った。火は大きく燃え上がる。それはシンイチの思いの大きさを示すようだった。
 「どうせ」を焼く炎は高く燃え、火祭りとなって清めの塩柱へと化した。

    5

 内村先生と別れ、同じ方向のシンイチと深町は帰り道を歩いていた。二人とも、名残惜しそうにゆっくりと歩いた。
 シンイチは、不意に深町に悩みを漏らした。
「……オレ、妖怪が見える力があるんだ。だから日々、妖怪『心の闇』を退治してるんだ」
「……そうだったのか」
 シンイチはしばらく黙ったのち、突然大粒の涙をぽろぽろこぼした。
「どうしたんだよシンイチ?」
「だからオレ、もうサッカーの選手になれないかも知れない」
「なんで?」
「オレには妖怪が見える才能があるから! それは世の中にオレだけだから! それって、たぶん、サッカーの才能より、あるから」
 シンイチはさっきの勝負でにいちゃんに習った全部を出した。どうしてあんなに必死だったのか、深町には分った。サッカーの力を、見せたかったのだ。
「そういうことか」
 と、突然、深町は声をあげて笑いはじめた。
「あははは。もっと早く言えよそれ!」
「何がおかしいんだよ! オレ、サッカー選手あきらめなきゃいけないんだよ?」
「馬鹿だなあ」
「何が馬鹿だよ!」
「『妖怪退治するサッカー選手』になればいいじゃん」
「えっ?」
 シンイチは意表を突かれて固まった。
「そ、……そんなのあり?」
「アリに決まってんだろ。サッカーにはどうやったって絡めるだろ。サッカーは何でもアリだからいいんだよ。人生だって、何でもアリだよ!」
 深町はもう一度笑って、シンイチの悩みをいとも簡単に吹き飛ばした。
 夜の帳が迫っていた。一番星が出た、赤と青の中間の空を見ながら深町は呟いた。
「……そうだ。何でも、アリだ」


 その後、深町は少年サッカー教室の講師のバイトをはじめた。
 ときどきシンイチもそこへ遊びにいく。あの空き地はもうないけど、丁寧に整備されたグランドがそこにある。深町は教室の少年たちに「サッカーのにいちゃん」と呼ばれず、「デブのにいちゃん」と呼ばれているのが目下の悩みだ。

 そのグランドで時々、夜にこっそり二十本勝負をやる二人の男がいることは、教室の人たちは誰も知らない。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

 【 あらすじと主な登場人物 】

【あらすじ】

 都会には、新型の現代妖怪「心の闇」がはびこっている。
 シンイチは天狗の力を持つ天狗の代理人「てんぐ探偵」となり、
 今日も「心の闇」を退治する。


【主な登場人物】

高畑(たかはた)シンイチ 東京、とんび()町に住む小学五年生。10歳。
       遠野(とおの)から来た大天狗の弟子となり、天狗の力を使う。
       普通の人には見えない妖怪が、心の闇「弱気」が取り憑いたせ
       いでなぜか見えるようになった。
       聡明で明るく、知恵がまわる。ちょっと音痴、ソフトクリーム、
       サッカー好き。

ネムカケ   遠野出身の三千歳の猫で、人語をしゃべるデブの虎猫。
       大天狗の代わりにシンイチのお目付役で、知恵袋。
       居眠り(遠野弁でネムカケ)と人形浄瑠璃が好き。

大天狗(おおてんぐ)    妖怪がまだ残る、遠野の長。身長は6メートルで、それゆえ大
       天狗と呼ばれる。妖怪たちが都会から逃げ、遠野に集まるよう
       になったので、整理に大変である。


高畑和代(かずよ)   シンイチの母。妖怪「ねたみ」に取り憑かれた。
高畑ハジメ  シンイチの父。サラリーマン。

綾辺(あやべ)ミヨ   シンイチのクラスメート。明るい。妖怪「弱気」に取り憑かれた。
村松(むらまつ)ススム  シンイチの親友。青いメガネ。妖怪「なかまはずれ」事件の被害者。
団大吉(だんだいきち)   シンイチのクラスメート。体が大きいボス格。
室公次(むろきみじ)   シンイチのクラスメート。大吉の腰巾着。妖怪「なかまはずれ」に取り憑かれた。

内村敬介(うちむらけいすけ)  シンイチの担任。サッカー好き。妖怪「あとまわし」に取り憑かれた。
小野真知子(おのまちこ) 音楽の先生。シンイチの初恋の相手。内村先生と交際中(?)。
向野(むかいの)タケシ 隣のクラスの将棋友達。妖怪「アンドゥ」に取り憑かれた。
深町和人(ふかまちかずと)  シンイチのサッカーの師匠。妖怪「どうせ」に取り憑かれた。



【天狗の力】

火伏(ひぶ)せ   火を操り、コントロールする。
      「火よ在れ」で火を生じ、「火よ伏せよ」で火を消せる。
      天狗の火の剣「小鴉(こがらす)」は、炎の力で妖怪を「浄火」する。
ねじる力  なんでもねじる。大天狗は雲や時空もねじる。
つらぬく力 なんでもつらぬく。
不動金縛り 「臨兵闘者皆陣烈在前」の呪文で結界をつくり、人や空間全部に金縛りをかける。
      (いん)を結ぶ本式と、術の完成が早いが効果の短い早九字(はやくじ)がある。
跳梁(ちょうりょう)    一歩で四里をゆく。シンイチは「一本高下駄」でこれを代用。
遠見(とおみ)    遠くや未来を知る。シンイチは「千里眼」でこれを代用。
動物の言葉 動物の言葉がわかったり、しゃべれたりする。
      シンイチは猫とカラスが得意。
水鏡(みずかがみ)の術  円い器に水を張り、遠くと交信する術。
薬草    色々なものがある。


【妖怪「心の闇」たち】

 現代に現れた謎の妖怪たち。旧来の妖怪と違い、カラフルでサイケデリックでモダンである。取り憑いた人の肩にいることが多く、足をくいこませて心臓から負の心を吸う。吸い終わるとその人は死に、子供を産んで増えるようだ。
 本体を切っても、根が残る限りまた復活する(対症療法)。「負の心」こそが心の闇を育てるから、宿主自身が闇にとらわれない心にならなければならない(根治療法)。この「心が変わること」が妖怪退治のクライマックスだ。


【天狗七つ道具】

1. 小鴉(こがらす)    朱鞘で黒曜石の小太刀。妖怪を斬り、浄火し、清めの塩とする。
2. 天狗面   天狗の力を増幅する。
3. ひょうたん なんでも入る。天狗の道具が入っている。
4. 葉団扇(はうちわ)   大風(天狗風(てんぐかぜ))を起こす。
5. 一本高下駄 跳梁の力で、大ジャンプできる。
6. 千里眼   遠見の力で、遠くをのぞける望遠鏡。
7. かくれみの 隠形(おんぎょう)(姿を消す)。変化(へんげ)(変身)もできる。

 【 心の闇とその倒し方 】

【 心の闇とその倒し方 】(1-13話まとめ)

妖怪「心の闇」は、つまりは人の負の思考や感情だ。
それは、そうではない「ふつうの心」に戻ることで、体外に排出できる。
てんぐ探偵はすなわち、心のありようを整え、宿主の心を転換するのである。


【誰か】 他の誰かに責任を押しつけて、思考停止する
【心の転換】 すべての人は名前があり、「他の誰か」ではないと気づくこと。自分にも名前があると気づくこと。

【めんくい】 イケメンしか愛せない
【心の転換】 そのイケメンは神様ではなく、ただの人間だとわかること。

【いい子】 親の期待するいい子を演じ続ける
【心の転換】 未来の自分に全力でやった結果、過去の呪縛は意味がなくなる。

【弱気】 自分に自信がなくなり、何も出来なくなる。ついには自殺
【心の転換】 何も出来ないのは弱気に取り憑かれてるだけだと自覚する。調子のよかった自分を思い出す。

【あとまわし】 何でもあとまわしに
【心の転換】 全てをあとまわしにすると、呼吸も心臓の鼓動もあとまわしになり、死ぬだけだと気づく。

【若いころ果たせなかった夢】 出来なかった夢を、子供に託す
【心の転換】 もし叶えていたら、現在の自分が得たものは得ていないと知る。自分の現在と、過去の夢との距離の取り方を改めること。

【さみしい】 友達がいない
【心の転換】 ほんとうの友達をつくること。つまり、ケンカしても仲直りして、同じ方向を一緒に見れる友達をだ。

【ねたみ】 誰かを妬んで、自分を破滅させる
【心の転換】 ねたみを追跡するとループになっているかも知れないと気づくことで、それは堂々巡りに過ぎないと俯瞰すること。

【なかまはずれ】 いじめ
【心の転換】 全員が違うことを知り、そもそも「均一な集団の異質の排除」の前提を崩すこと。

【アンドゥ】 人生をやり直したくて、前に出れずひきこもる
【心の転換】 命はアンドゥ出来ないことを知る。死の間際に、人生を完成させようとした犬を知ることで。

【横文字】 横文字ばかりでしゃべる
【心の転換】 横文字で盛っていたことを自覚する。それは無知ゆえの不安であったことを認める。それは(日本独自の)「恥ずかしいこと」だと気づく。

【上から目線】 やりもしない評論家ぶり
【心の転換】 やった上でしか分らないことを知り、実戦と批評を回転させる。

【どうせ】 自分を卑下し、全てをあきらめる
【心の転換】 やるだけやってみたら、それはみっともない結末に終わったが、またやりたくなった。


妖怪「心の闇」は、まだまだ出てくる。
倒し方に法則はない。シンイチは毎回機転を利かせ、心を砕くのみだ。

増々はげしさを増す「心の闇」との闘いにご期待ください。
第二章、はじまります!

第十四話 「最後の火吹き」 妖怪「俺だけは特別」登場

第十四話 「最後の火吹き」 妖怪「俺だけは特別」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「ネムカケ! 今日は瓢箪(ひょうたん)公園までパトロールしに行こうよ!」
「よしきた!」
 日曜日の今日はいい天気だったので、シンイチとネムカケは隣町の西河原(にしがわら)町まで遠出し、瓢箪公園までパトロールがてら行くことにした。自転車の前かごにネムカケを乗せ、住宅街を隣町まで走る。シンイチの地道な活動で、最近周辺には「野良心の闇」(宿主もなく空中にふらふらしている奴ら)は見かけなくなってきていた。見るたびに小鴉で斬ってきたからだ。
 わざと遠回りして知らない道を行ってみたが、そこにも野良は見当たらず、一人と一匹は爽やかな風を楽しんだ。

 瓢箪公園は、ひょうたん型の大きな池を中心に、森の広がる大型公園である。家族連れやカップルが集まり、思い思いの時を過ごす。カップルに人気なのは手漕ぎボートだ。池の真ん中の小島に賽銭を投げると恋が叶うという。クレープや焼きそばの屋台も出るし、ランチ移動販売車もやってくる。
 シンイチのお目当ては、池の西側通りに集まるストリートアーティストたちだ。似顔絵描き、ジャグラー、パントマイマー、アコーディオン弾き、バンド、ダンサー、古本売りやレコード売り、大道芸人などが集まってくる。それがなんだかおまつりみたいで楽しくて、シンイチはネムカケや親友のススムと時々見に来るのだ。
「ストリート人形浄瑠璃はないのかのう」と、浄瑠璃好きのネムカケはきょろきょろする。
「そんなちゃんとしたのは、ないんじゃないの?」とシンイチが言うと、ネムカケは反論した。
「伝統芸能を『ちゃんとしたもの』と考えるのは間違いじゃぞ。それは今貴重だから保護されてるだけであって、浄瑠璃も歌舞伎も、能も狂言も、そもそも西洋演劇だって、もともとは屋根も小屋もない、ストリートではじまったものじゃ。往来こそ舞台。たとえば市、たとえば辻。人集まるところに芸能あり。見世物とは元来、そういうものじゃ」
「そういうものなのか。じゃストリート浄瑠璃、いてもいいのに」
「むう。残念ながら最近の若者には、西洋ダンスや西洋音楽が人気のようじゃな……」
 ゆるくカーブする並木道沿いに、日曜アーティスト達が「作品」を並べている。音楽理論に基づいたバイオリンを奏でる音楽家もいれば、下手くそな字で意味不明な詩を書く人もいる。その玉石混交も、ストリートの楽しみではある。

 入り口のあたりに、「変なおじさん」がいる。この人はよく見る人で、黒い燕尾服で赤い鼻をつけ、おどけた動きと手品で、いつも子供たちの人気を集めている。
「この牛乳を、一瞬にしてコーヒー牛乳にします」
 と、牛乳の紙パックを皆に見せた。
「ワン、ツー、スリー」
 牛乳パックを目の高さに上げ、一瞬にして胸の位置に戻すと、コーヒー牛乳のパックに変わっている。
「スゲー!」とシンイチは観客に混ざり拍手喝采。
「一瞬で戻します。ワン、ツー、スリー」
 とまた一瞬目の高さに上げ、胸の前に戻すと白牛乳の紙パックに戻る。
「スゲー!」とシンイチが素直に驚くと、おじさんはおどけた顔で笑って種明かしをした。
 四角柱の紙パックは、二面が白牛乳、二面がコーヒー牛乳の柄に細工されているのである。「四角柱の側面は、同時に二面までしか見れない」ことを使った簡単なトリックだ。
「なんだよ! 上でクルッて回転させてるだけじゃん!」とシンイチはおじさんの笑みにつられて大爆笑。
「子供だましでスイマセン」とおじさんは陽気に、次のマジックのネタを銀色のジェラルミンケースから探す。「次は何が見たいかな? ヒモ抜け?」
 シンイチは集まる観客たちのうしろから背のびして、続きを見ようとした。そこでおじさんの奥のアーティストの異変に気づき、たのしいマジックどころではなくなってしまった。
 彼らに全員、「心の闇」が取り憑いていたからである。

 ヒップホップで踊る黒いパーカーのダンサー。即興の詩人。指定されたポーズのまま静止する白塗りのパフォーマー、風船アーティスト、ミニ盆栽売り。南米の打楽器を叩く二人組、手相見の男、切り絵アーティスト。彼らに、拳大サイズの妖怪「心の闇」だ。イエローグリーンで鼻が高くとがった、プライドの高そうな面構え。
「妖怪……『俺だけは特別』か」
 シンイチは妖怪の名を告げた。ネムカケはいささかむかつきながらシンイチに尋ねた。
「ということは何か。こやつら、俺スゲーってのを見せつける為にやってるってことか」
「たぶん。誰もが、自分だけは他の人と違う、特別な人間だって思ってる。そういう心に取り憑く妖怪だね」
「そんなもの、芸人の本分にもとるわい」
 奥へ行けば行くほど、彼らに取り憑く「俺だけは特別」のサイズは大きくなる。拳大から手のひら大、サッカーボール大へ。自称写真家の作品集、自称古代史研究家、自称インド哲学者の研究本、自称即興演劇の上演、自称映画監督の自主映画。
「だんだん、重病患者か。自意識の迷路の奥へ踏み込むようじゃ」
「ラスボスがいたよ」と、シンイチは立ち止まった。
 一番奥に、陰気な油絵描きが大小の作品を広げていた。彼の身長よりも大きな「俺だけは特別」が、傍らに体育座りをしていた。
 彼の作品を、何気なくシンイチは覗き込んだ。
 禍々しい絵ばかりだ。どの絵も、全身を黒に塗りつぶされた男が座り込んでいる。目はヒビが入ったり、渦になっていたり、針で潰されていた。体は拘束具を嵌められたり、十字の傷が入ったりしている。指が八本ある手を切断した絵もあった。病んだ絵だ。見ているだけで不安になってくる。たとえ妖怪に取り憑かれていなくても、この人の心になにかあったのかと心配する絵だ。ネムカケはシンイチに警告する。
「シンイチ、長くこの絵を見るな。負の波動に飲み込まれるぞ。闇を覗き込むとき、闇もお前を覗き込むのじゃからな」
「うん、分った」
 陰気な油絵の陰気な絵描きは、少年と猫に気づいてじろりと見た。シンイチはその男に思い切って話しかけた。
「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」
 返って来た答えは、シンイチの予想を覆すパターンだった。
「ああ。……知ってる」

    2

 絵の主は、山中(やまなか)貴文(たかふみ)といった。美大を卒業してから、定職につかずバイトで食いつなぎ、絵を描いては公園に売りに来るのだという。
「これ、売れるの?」と、シンイチはいつものようにストレートな質問をした。
「全然だ。絵ってのは元々そんなものだよ」
 最初は普通に風景画や人物画だったそうだ。あまりにも売れなくて、色々なパターンの絵を描いていたら、ある日この画風で同じ絵を延々描き続けるようになってしまったのだという。
「みんな俺の才能を分かってない。ずっとそう思ってた。ある朝鏡を見たら、できもののようにこいつが俺の肩に出来ていた。とくに気にもせず、この画風の絵を一枚描いたんだ。そしたらこいつが『お前は特別』って言うんだ。それからだな。これ風が俺なんだって思って、時を忘れて描き続けた。何枚も何枚も何枚も。……こいつは時々俺と喋るんだ。ひと言のときもあるし、世間話をすることもある。でも毎回結論は同じだ。俺の才能は特別だ、ってことさ。手を変え品を変え、こいつは毎日俺に吹き込んでくる。だけど、芸術家が自分の才能を特別だと思うのは当然だろう? 他のやつらに出来ないことを神に与えられたからこそ、芸術をつくるんだろう? その特別な才能をこそ、皆が有難がるんだろう?」
「……でも、売れないんでしょ?」
「世間の人には、まだまだレベルが高すぎるんだろうよ」
「うーん」
 難しい問題だとシンイチは考える。たしかに平凡な絵なんてあまり意味がないし、特別なことは芸術家として大事だとは思う。
「でも、これっていい絵かなあ」
「いい絵って何だ? 既にあるいい絵とおんなじのを描いても駄目なんだよ。芸術家ってのはさ、誰も気づいていない、『新しい良さ』を見つけることが使命なんだよ。『良さを更新する』のが芸術家だ」
 山中の言い分も間違ってはいない。だけど、妖怪「俺だけは特別」の内に漲る栄養分は何年にも渡ってたくわえられ、主張を続ける山中の顔は衰弱している。
「じゃあさ、これ、誰のために描いてるの?」
「……誰か、特定の人のためじゃない。言ってみれば、人類の進歩のためだ」
「人類って、誰と誰と誰?」
「君は子供だから分からないかも知れないけど、具体的な人じゃなくて、抽象的な人類のためさ」
「だから、誰と誰と誰?」
「…………」

 シンイチと山中の禅問答の後方で、騒ぎが持ち上がっていた。
 警官二人と、黒パーカーのダンサーが揉めているようだった。
「ストリートの表現に、許可なんているのかよ! ないから路上なんだろうが!」とダンサーは激しく怒っている。
「ここは公共の場所ですから」と警官は感情を込めずに言う。
「公共じゃねえストリートなんかねえだろ!」
「最悪の場合、強制排除しますよ」と、背の低いほうの警官は嫌味に言った。

 そこへ赤鼻のおじさんが、「マアマア」と仲裁に入った。
「何だよ!」
「お上と揉めちゃあ駄目だ。ここは引き下がるのが賢いよ?」
「こいつらムカつくんだよ!」とダンサーは感情的になっている。
「大人しく引き下がればいいものを」と背の低い警官が毒づいた。
「なんだと!」
 ダンサーはかっとなり、彼を一発殴った。もう一人の警官が、準備していたかのように無線で連絡する。
「こちら2524。応援要請します」
 最悪の事態だ。
 公園の外にパトカーが一台見えて、サイレンを短く鳴らした。威嚇だろう。このままではもっと増えるかも知れない。
「群れなきゃ何も出来ない癖に」と殴られた警官は更に挑発する。
「何だとコラ!」と再び掴みかかろうとしたダンサーを、赤鼻のおじさんが体を張って止めた。
「みんな、逃げるんだ! 道具を持て! 逮捕される前に逃げるぞ!」
 言うが早いか、すたこらさっさとジェラルミンケースを持って走り出した。
 事態を飲み込みきれない他の人達も、パトカーから三人の警官が降りてきたのを見て顔色を変えた。
「お前が殴るからだろうが!」と路上詩人が黒パーカーの男に突っかかった。
「ケンカはあとでやれ! 逃げるが勝ちだよ!」
 赤鼻のおじさんはケースを抱え、パトカーがやって来た反対側に向かって走り出す。その先に、禅問答中のシンイチたちがいた。おじさんは、並んだ油絵の裏の門から逃げるつもりなのだろう。
「アンタも早く逃げな。捕まったら元も子もないぞ」とおじさんは山中にウインクした。
 パトカーが更に二台来たのを見て、アーティスト達はようやく浮き足立ち、赤鼻のおじさんについて走り始めた。
「バカか! こういう時は散るもんじゃ! ついてきてどうする!」
 トランペッターも風船アーティストも、山中もおじさんについていく。
「こりゃたまらん!」とおじさんは、住宅街の狭い路地へ入り込んだ。
 警官たちは何人も走ってくる。アーティスト達は四方八方に散りはじめた。逃げきれなかった者や抗議した者は逮捕されている。さっきまで平和そのものだった芸術家村は、一瞬のうちに魔女狩りの現場になった。
 このどさくさで、シンイチは山中を見失ってしまった。警察を見ただけで肝を冷やしたのか、アーティスト達の「俺だけは特別」の何匹かは宿主から離れ、漂う野良妖怪となった。シンイチは不動金縛りをかけ、火の剣で斬り伏せた。

「そういえば、赤鼻のおじさんだけ妖怪が取り憑いていなかったね」とシンイチはネムカケに話した。
「キャリアが長くて謙虚になったのか、心の闇を寄せつけぬ何かの考えがあるのか。人形浄瑠璃の竹本座の連中と、この話をしてみたいものじゃのう」
「あのおじさんは、『自分が特別』って思ってないのかな」
「そうかも」
 彼らは様々な場所からあの公園に集まっているらしく、千里眼で彼ら全員を探すのは困難であった。
 次の日の瓢箪公園は、月曜で誰もいないシンイチは、次の日曜を待った。

    3

 次の日曜日。先週の一件が響いたのか、アーティスト達は半減していた。小さな妖怪が取り憑いた、にわかアーティスト達はほとんど姿を消し、大きめの「俺だけは特別」の憑いた人、すなわちネムカケの言うところの、「重症患者」ばかりが残っていた。勿論、山中も先週と同じ場所にいた。なぜか妖怪の憑いていない唯一の人、赤鼻のおじさんは、相変わらず飄々と子供相手にマジックを披露している。
 山中はシンイチが再び訪ねると、向こうから話しかけてきた。
「お前、この妖怪が見えるんだな?」
「うん。それは『心の闇』っていう新型の妖怪さ。宿主の負の心の部分を食べて成長し、ずっと負のループに陥らせる。いったん悩み始めたら、ずーっと悩みのループに入っちゃうじゃん? そんな感じ」
「俺は悩んでなんかいねえよ。俺の特別な才能を見せてやる、って思ってるだけだ」
「その思考が既に、『心の闇』に取り憑かれてるってことなんだよ! ここに来てる人たちは、大なり小なり取り憑かれてるみたいだけど」
「そうなのか。あの踊ってる奴も、ジャグリングしてる奴も、詩人も?」
「うん」
「あの赤鼻の手品師も?」
「あの人だけ、なんでか心の闇がいないんだ」
「じゃ何のためにやってんだ? ガキ相手に何の意味があるんだよ?」
 赤鼻のおじさんは、ネタをばらしては子供たちを今日も沸かせている。
 その時、またもパトカーが二台やってきた。
「いかんのう。目を付けられたなこりゃ」
 赤鼻のおじさんは手品の道具を片付け始め、皆に言った。
「来週は榎島(えのきじま)公園に集うことにしよう。そこなら警戒は緩い」

 その公園は駅で三つほど離れたところにある。次の日曜、前回のメンバーが大体集まっていた。今まで何もなかった公園に急に「芸術家村」が出現したのが珍しかったのか、多くの人が見物に訪れていた。しかし人出があればあるほど、通報する誰かが出るものだ。またしても警察がやってきた。
 赤鼻のおじさんが、笑顔を崩さずに言う。
「解散が身の為だな。来週は福助(ふくすけ)公園」

 かくして毎週日曜日、ストリートアーティスト集団の流浪の日々、警察との追っかけっこがはじまった。赤鼻のおじさんと山中をレギュラーに、黒パーカーのダンサーや即興詩人は準レギュラーに。メンバーは時々入れ替わりがあった。彼らの「俺だけは特別」は大きくなったり小さくなったり、自然にいなくなったりしていて、再び取り憑いていたりもした。
「どういうことだろ」
「自信があったり、なかったりするのと同じかのう」とネムカケは答えた。
 長いこと付き合うと、「作品」のバラツキも分かってくる。出来がいいときは妖怪に取り憑かれ、悪い時は妖怪は外れるようである。
「つまり妖怪が大きく育った人って、自信があるってこと?」
「必ずしもそうではない。ずっと恵まれない事を、『特別ゆえに理解されないから』と信じ込むパターンもあるの」
 シンイチにはよく分らない。芸術家ってなんだか複雑だ。

 回を追うごとにメンバーは脱落し、ついに赤鼻のおじさんと、黒い絵を売る山中の、たった二人になってしまった。赤鼻のおじさんは、手品の道具を準備しながら山中に話しかけた。
「なんかつまらんねえ。ついに二人になっちまったねえ」
「みんな根性がないんだよ。最初に一発殴った奴は根性があったけど、やっぱりいなくなった。その程度の覚悟でしかやってないのさ」と山中は答える。
「覚悟? 何の覚悟だい?」
「『俺だけは特別』って思い込みさ」
「ははは。お兄さん若いねえ」
 シンイチはここがタイミングだと思い、ついにおじさんに尋ねた。
「おじさんは、なんのためにやってるの?」
「ん?」
「この絵の人、山中さんは、人類の為にやってるって聞いたんだけど、よく分んなくて」 「わしはもう半分引退状態でね。この手品は趣味さ。こんなのが好きになってくれる人が増えたらいいなと思って、この楽しみをみんなに普及してるのさ」
 山中は反論する。
「そんなの、砂漠に種を蒔くようなもんだろ」
「ひとつ芽が出りゃOK。ふたつ芽が出りゃ結果的に増えるだろ?」
「……気が長えな」
「ははは。よく言われるよ」
 山中は深刻な顔をして、人生の先輩に秘密を打ち明けた。
「俺の肩にさ、妖怪が取り憑いてるんだ」
「ん?」
「妖怪『俺だけは特別』って奴が」
「妖怪?」
「……自分が特別だから、やってるんじゃないのか? その為に修行するんじゃないのか? 何の為だ? あんたは、誰の為にやってるんだ?」
「ふむ。……若者よ」
 おじさんは腰を据えて、赤鼻をつけたまま真面目な顔になった。
「よく言うだろ? お客様の為が一番、と。『お客様は神様です』とか言って、お客の望むままを叶えたいって奴もいるよな?」
「そうしろと?」
「逆。そんなバカなことはしてはいけない。客はバカではない。我々がバカでないのと同じくらいにはな。何でもやる奴は単に媚びる奴だと、バカじゃないなら気づく。そしてバカにされる。さりとて、自分の為だけにやる奴はもっとバカ」
「……じゃ何の為に?」
「我々の本質は、さまよえる民だ」
「……さまよえる民?」
「ほんとうに特別なら、ひとつの所にとどまらんでよし。好きな所で芸をし、好きな所で寝る。木の根を枕とし、星空を毛布とする。飽きられたり嫌われたら、次の寝床を探せばよいのだ」
「それ、誰の言葉?」
「俺の」とおじさんは笑う。
「ヨーロッパは一通り回ったよ。アメリカも東海岸と西海岸は制覇したな。サーカスとはジプシーと見つけたり、さ」
「サーカス」
「俺、元々サーカスのクラウンだったの」
「クラウン?」
「ピエロのこと。日本だと道化師はバカにされるけど、本当はサーカス一の実力者がやる役なんだよ?」
 シンイチは公園の外の警官に気づいた。
「またおまわりさんが!」
 山中は反射的に絵を片付けようとした。
「大丈夫。あのよれよれじいさん、俺の古い知り合いだから」と赤鼻のおじさんは制した。
「あいつは敵じゃない。まあ、味方でもないんだけど」
 その老警官は、自転車を降り、ずんずんとこちらに歩いてきた。

    4

小此木(おこのぎ)さん。あちこちで若者を扇動されちゃ困るねえ」とその老警官は声をかけてきた。
「あんたこそ。権堂(ごんどう)警官は警部にもなれず、まだ三等兵のまま地回りやらされてんのかい」 赤鼻のおじさん、小此木と呼ばれた男は返した。
「ふん。お前さんを捕まえる為に現場に残ってんだよ」
「俺たちゃ別に法律に反してないでしょ」
「昔話はいいんだよ。どっかのチンピラが警官殴ったせいで、俺ら厳戒態勢やらされてるんだよチクショウ」
「最近の警察は暇なんだねえ」
「俺の管轄でやってりゃ、俺が目こぼしすると思ったのかい」
 二人の旧友は矢継ぎ早に悪口で牽制しあった。どうやらこれが二人の挨拶らしかった。
 権堂と呼ばれた老警官は、くわえ煙草に火をつけた。
「警官がくわえ煙草なんていいのかよ」と山中がつっこむ。
「この人不良警官なんだ。気にするな」と小此木は笑いながら嫌味を言う。
「そういえば最近、もうアレやんないんだって?」と、紫煙を吐き出した権堂は尋ねた。
「アレは、辞めたのさ」
「消防法が変わったからか」
「アレって何?」と、シンイチは横から尋ねた。
 権堂は酒を飲む真似をし、火のついた煙草の前で大きく息を吹いた。
「あ! 火吹くやつ!」とシンイチは目を輝かせた。
「そう。火吹き。知らないの? この人、火吹き男の日本記録保持者なんだよ。六・五メートルの火球をつくれる人なんていないんだから」
「へえ!」
「この人ロイヤルクラウンアカデミーの主席卒業者で、ヨーロッパじゃなんとか賞貰ったんだよ。なんだっけ」
「モンテカルロ」
「そうだ。モンテカルロのワールドクラウンコンテスト」
「それってすごいの?」とシンイチが聞く。
「その年の世界一」と権堂は旧友を自慢する。
「すごいじゃん!」
 しかし小此木は制する。
「ほんとに凄い人はそんな所にいないものだよ。森の中の木の根で寝ているさ」
「大体、アレなんで辞めたんだ」
「アレは、引退したんだよ」
 権堂は子供のように反発した。
「なんでだよ! なんであんなすげえの辞めちまうんだよ! 俺はさ、アレ見てはじめて人生変わるほどの衝撃を受けたんだ。みんな目輝かして見てたろ。アレが終わるまで俺はわざわざサイレン鳴らすの待ってたぐらいだぞ。その前の手品なんて前座だろ? アレこそ特別なもんだろ!」
「……特別」
 山中の目の色が変わった。
「そんな特別なもの、どうしてやめたんですか」
 小此木は笑った顔を崩さなかったが、目は寂しい色をしていた。
「いやあ。体、壊しちゃってね」
「全然頑丈なくせに」と権堂は小此木をどついた。
「ははは。外は丈夫だけどな。肺をやったんだよ」
「肺?」
「火を吸っちゃったの?」とシンイチは想像しながら聞いてみた。
「いやいや。火を吸ったら肺が大火傷で命を落とすよ。灯油を肺の中に吸い込んじまったんだ。化学肺炎ってやつだな」
「アレ、酒じゃねえの?」と権堂は聞く。
「口の粘膜から吸収するから、火がつく酒スピリタスは、酔いが回ってあとあと危険なんだよ。警察から逃げて走る体力残しとかなきゃいけないし。常温で気化しない灯油を使うんだ。ヨーロッパではパラフィン、アメリカではケロシンっていう。でも口の粘膜から吸収するのは灯油も同じ。口に含む時間はゼロじゃない。月一回のペースでも、皮膚に斑点が出来たり口内に水泡が出来たり、中毒症状が現れる」
「……そうなの?」
「マルセイユに、顎の骨溶かした奴もいたよ。それでもやるのが命知らずの誉れって言ってた。保証のないのが俺たち火吹き男だ。でもさ、むせないことが一回もない保証なんてないだろ?」
 シンイチは喉が渇いてきた。
「……むせたの?」
 小此木は口に灯油をふくんだ状態で、むせる真似をした。息を吐く反動で、霧状のそれを思わず吸ってしまう真似も。
「生理的反応だけはどうしようもないね。そのまま二週間意識が戻らず、途中二回死にかけたってさ。今でも左肺の下半分は回復してない」と、小此木は左胸を撫でまわした。
「スマン、さっきどついた」
「じゃあ一発返す」と小此木は笑って権堂の鳩尾にパンチをかました。
「いてて。じゃあもう一生あの火の玉は見れねえのかよ」
「アレは、記憶の中だけのものだね」
 静かに聞いていた山中はため息をついた。
「そんなにすごいってどんなんだ。人生が変わるってどんなんだ。俺はアンタに『なんのため』って聞いた。俺は人類のためにこの絵を描いてるって言って、この子に『具体的に誰?』って言われて、答えられなかったんだ。……その火の玉は、なんのためなんだ?」
「……物理的に見れないから、なんとも答え難い」
 突然、シンイチがひらめいた。
「物理的になら、ねじる力を使えば出来るかも」
「?」
「要は、肺に(きん)の気を満たせばいいんだよね!」
「??」


 シンイチは公園の隅に「水鏡」をつくり、遠野の大天狗に相談した。
「確かに。五行(ごぎょう)の木火土金水の気は、それぞれ、五臓の肝、心包(しんぽう)、脾、肺、腎に対応している。だが、金の気をどこから集めるつもりだ」
「地中に鉱脈があればいいんじゃない?」
「ふむ。あるぞ。その(さい)(やま)公園は高台にあるだろう。断層の上にあるから、地下鉱脈が近いかも知れぬ。つらぬく力で地面を貫き、ねじる力で金の気を螺旋に取り出し、肺に満たせばよい」
「やってみる!」
「地脈に触れる時は火傷に気をつけろ。火を吸い込むことになるぞ。お前の力では地脈の火伏せまでは出来ぬだろ」
「うん、わかった!」

 シンイチは皆の前で朱い天狗の面を被り、恭しく礼をとった。
「さあて皆さんお立会い! 天狗が力を示します!」
 と地面にしゃがみこみ、右手の人差し指をやわらかい土につきさした。
「つらぬく力!」
 シンイチは地中深くを「力」で探る。深いところに断層を見つけ、そこ沿いに力を進めて鉱脈を探り当てた。たしかに近くに熱い流れがあるのが分かる。これを吸い込まないように。
「ねじる力!」
 力の先で触れた金の気を、小此木さんの左肺とねじり合わせた。
 ぎゅるん。ぎゅるん。ぎゅるるるん。
「手応えあり!」
「……ん?」
 小此木が反応した。不思議な力が体に満たされ、久しぶりに森の中で深呼吸をしたような気になった。
「何だ? ……これ、何?」
「天狗の術さ!」
 小此木は深呼吸をくり返した。極限まで息を吸い込み、フッ、フッ、フッ、と独特な呼吸法をくり返す。
「どう?」
「……不思議なこともあるもんだな。気功みたいなことか?」
「だから、天狗の術だって!」
「どうだ?」と権堂は小此木の顔をうかがった。
 小此木は頷く。権堂は小さくガッツポーズをした。
 シンイチは警告する。
「でも、二時間ももたないかも。そんなに金の気がなかったし」
「道具を家から持ってくるのに一時間。……じゃあ、一時間後に開演だ。あんたがここまでついてきた根性に応えて、見せてやるよ。火吹き男小此木クラウンの、引退公演」
 小此木は、山中に真面目な顔をした。それが営業スマイルではない、本来の彼の笑顔であった。

    5

 「伝説の小此木クラウンが最後の火吹きをやる」という情報は、権堂の人脈に流され、ツイッターなどでたちまち拡散された。たった一時間で、元関係者や、かつてここで火吹きを見た人が二百人以上集まった。
 公園の中央には黒い瓶が置かれ、その口から小さい炎が、灯油をしみさせた綿から灯っている。それがステージと観客を分ける、境界線代わりであった。
 集まってきた人々に、小此木は深々と礼をした。
「さて。クラウンとは愚か者の意味でございます。世界で一番バカな者のことです。バカは世間でバカにされますよね。ところが不思議なことに、ここではバカが一番えらい。何故でしょう。そんな不思議な世界へ、皆様をしばしお連れいたします」
 顔を上げた小此木にはいつの間に赤鼻がついていた。急におどけた顔をして、後ろのジェラルミンケースによたよたと走り、牛乳パックを出してくる。
「一瞬でこれをコーヒー牛乳にします。ワン、ツー、スリー」
 牛乳パックを一瞬で回転させ、コーヒー牛乳の面を見せて驚かせた。また一瞬で牛乳に戻す。観客の驚きを得ると、即座に裏返してネタバレし「失敗した!」という顔をして笑いを取った。
「なんだよ、いつものくだらないネタかよ」と山中は失望した。
「お前何にも見てねえな。あの芸は徐々に客をあっためるんだよ」と権堂は解説した。
「大体、あれみんな落ち知ってるだろ。でも何で毎回笑えるんだ?」と質問した。山中は、すぐには答えられなかった。
 小此木はいくつかの手品で笑いを取り、客席は徐々にひとつの塊になってゆく。客席とステージが一体になる頃には、すっかり空は夕方の青を経て夜の闇が訪れていた。闇になるまで心を奪われていたことは、誰一人気づいていなかった。
「さて皆さん。今夜だけ復活します。一回しかやりません。そこ、下がって。危ないよ。そっちも下がろうか。風下はもっと危ないよ」
 小此木は火のついた瓶を手に取って、炎の範囲を示して見せた。観客は途端に静かになり、ぴんと張り詰めた空気へと変わった。
 炎がゆらめき、小此木の顔と観客を照らし、影をゆらめかせた。闇の中で見る炎は格別である。原始的な恐怖と暖かみが、同時に場を支配する。
 小此木は、客席の山中に手招きをした。
「君のいるべき場所はそこじゃない。こっちだ」
 山中は小此木の背中側に立たされた。
 観客席とステージの間には、目に見えない一本の線がある。その線から観客は中に入らず、芸人もそこを越えて観客になだれこむことはない。その線は、お互いの紳士協定だ。小此木は、その一本の線を越え、山中をステージ側へ招き入れることを許したのだ。
「火を見るんじゃない。火を見る人の顔を見ろよ」と、小此木は耳打ちし、観客に向き直った。
「さあてお立会い! 音楽はないよ! 火の音だけが音楽さ!」
 小此木は灯油を口一杯に含んだ。この量の多さが、要するに火球の大きさになる。この瞬間から、口の粘膜で吸収がはじまる。手に持つ火炎瓶が彼の顔を照らした。余った左手で、クイッ、クイッと観客を煽る。観客の拍手は最初はばらばらだが、次第にリズムが揃ってゆく。手拍子、手拍子、手拍子、手拍子。それはひとつのグルーヴだ。山中もシンイチも権堂も、声をあげながら手拍子に乗ってゆく。オイ。オイ。オイ。オイ。
 それは実際には、ほんの一瞬の出来事だ。だが観客にとっては、鮮烈すぎて長く感じられた。
 ぼう。
 六・五メートルの火の玉が、キノコ雲のように吹き上がって闇夜へ消えた。それは生まれた魂が一生を燃やして、天へ帰ったような光景にも見えた。
 観客は、手が痛くなるまで拍手した。

 三々五々、観客たちは帰路についた。客足を混乱させないよう、小此木はまた小さな手品をやりはじめ、残る客と帰る客とを二手にわけた。
「すごかったね!」とシンイチは山中に声をかけた。
「お前の質問の答えを、見てきたよ」と、山中は答えた。
「あの観客の丸く見開いた目を見たらさ、俺の為でもないし、人類の為でもないし、客の為でもないって、答えるしかねえよな」
「どういうこと?」
「あの芸は、あそこにいた特別な神様の為のものだよ」
「?」
 火の消えた、元の場所に置かれた火炎瓶を見て山中は答えた。
「神の名は、たぶん『ステージ』っていうんだろう」
 こうして、山中の肩の妖怪「俺だけは特別」は剥がれ落ちた。

「不動金縛り!」
 シンイチはこの場に不動金縛りをかけ、腰のひょうたんから天狗の面と火の剣を出した。
「火よ、在れ」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。黒い短剣、小鴉から炎が立ち上がり、たちまち闇夜を焦がす紅蓮の炎となった。
「一刀両断! ドントハレ!」
 水平に剣が薙がれ、炎が一文字を描いた。妖怪「俺だけは特別」は高慢ちきな三角鼻から真っ二つになり、断末魔を上げて塩の柱となった。


 その後、瓢箪公園には徐々にアーティスト達が戻ってきたようだ。山中は一番奥のいつもの場所で、小此木さんのくだらない手品と、それを見て笑う子供たちを眺めていた。
 山中は、シンイチ少年にプレゼントする絵の最後の仕上げを、この公園でやろうと思っていた。今日がその約束の日だ。あのとき見た光景を山中は丹念に描いていた。闇の中に浮かぶ巨大な火球。その火を吹き上げる男の背中。それを取り囲む人、人、人。皆丸い目を見開き、皆火球の赤に照らされ、皆魂を奪われた顔をしている。観客の中に、権堂警官も黒パーカーのダンサーも詩人もバイオリニストも、天狗面のシンイチもネムカケもいた。あの時自分は観客席にはいなかったが、自分もその観客席に描き込むことにした。観客席とステージを区切る、見えない一本の線の上に自分を描いた。全員が丸い目をして、全員の瞳に丸い炎がうつっていた。

 あれから、画風が変わったと思う。
 少年と猫が、自転車に乗ってやってくる音がした。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十五話 「美人は得か」 妖怪「みにくい」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 ブサイクは罪だ。ブサイクは悪だ。「カワイイは正義」なのだから、ブサイクは悪だ。

 雑誌もテレビも、メディアの全てが、女の子の見る何もかもが、「悪なるブサイクを隠して、カワイイに変身しよう!」と吹き込んでいる。それは脅迫だ。その変身の為に、モノが買われるからだ。脅せば金が生まれる。つまり女の子は、毎日様々な脅迫を受けている。
 ブサイクは罪で、隠さなければならない悪だ。ブサイクと知られてはならない。ブサイクは悪の秘密結社であり、隠れ切支丹(きりしたん)であり、正義に滅ぼされるべきだ。
 心の闇「みにくい」は、そんな心に取り憑く妖怪である。

 小学校高学年ともなれば、今時の女のコはオシャレに目覚め出す。小学生用のメイクが特集され、小学生用の日替わりモテコーデが紹介される。アイドルのように、モデルのようになりたいと思い、その「術」を勉強する。「男子からの好かれ方」という雑誌の特集をリビングで見ながら、綾辺(あやべ)ミヨは「自分には無理だ」と呟いた。自分の基準ではなく、他人の基準に合わせるのか? それは、「本当の自分」を覆い隠すテクニックを競っているように思えたからだ。
 綾辺ミヨは、心根の優しく、明るく頭の良い、五年二組のシンイチのクラスメートである。先日妖怪「弱気」に取り憑かれ、屋上で自殺しそうになったのをシンイチに助けてもらったばかりだ。後日、彼は「今世の中には、新しい妖怪が増えている」と説明してくれた。それは「心の闇」という、人の心の暗いところ、濁った心や歪んだ心を餌とするのだそうだ。その後、彼はその妖怪退治を密かに続けているらしい。こないだは兄の哲男に憑いた妖怪「上から目線」も退治してくれた。「妖怪のことはあんまり言っちゃいけないよ」と釘を刺され、彼女はこのことは、彼との二人の秘密だと信じている。
 あの屋上で、自分のことを「明るくてしゃべるのが素敵だ」と言ってくれて嬉しかったけど、それは本心からのことか、自分に自信を取り戻して妖怪を外させる為の方便だったのか、彼女には分らなくなってきた。
 シンイチくんは、こんなフェミニン系モテコーデとか、クール系モテコーデとか、ピンクのリップをしてる子が好きなのかしら。そういえばこないだ、鈴木有加里のことをシンイチくんは心配していた。彼女の清楚なお嬢様キャラには、丁度こんな服が似合う。雑誌の中のカワイイ笑顔をふりまくモデルは、有加里にどことなく似ていた。自分のようなちんちくりんな庶民よりも、シンイチくんは有加里のようなカワイイ子が好きなのかも知れない。
 彼女のため息を妖怪「みにくい」が嗅ぎつけ、部屋に入ってきた。濁った赤色の、太った顔で、目に隈が出来、歪んでむくれた唇であった。
 ミヨは鏡を見た。ムスッとした顔の自分がいた。妖怪「みにくい」にそっくりだった。
 テレビのCMでは、芸能人でもないカワイイ女の子たちが、白く輝く笑顔をふりまいている。特に有名でもない癖に、世の中は美人ばかりで溢れている。頂点の美人相手なら諦めもつくが、美人の裾野は、裾野まで美人だ。一方現実の私ときたら、有加里のようなお嬢様でもないし、あんなに輝く笑顔じゃないし。あの人たちは、きっといいことがあったからあんなに楽しそうに笑えるんだ。カワイイから、勝ち組で、毎日楽しくて笑っていられるんだ。ミヨはもう一度鏡を見た。
「私、かわいくない」
 妖怪「みにくい」は彼女の肩に座りこみ、そこを棲み家と定めた。


 ミヨちゃんが連続して休むのは珍しい。二、三日なら風邪ということもあるけど、もう五日になる。シンイチは、道理でクラスに何か足りないと思った。彼女の明るい笑い声がクラスに足りないのだ。シンイチは不審を覚えた。以前タケシに取り憑いた「アンドゥ」の発見が遅れたことを、シンイチは今でも悔しがっている。「心の闇」は成長してエスカレートする以上、早期発見が肝だ。
 シンイチは野良猫ネットワークにミヨちゃんの情報を聞いてみたが、彼女の部屋はカーテンを閉じたままで中が見えないと言われた。「音は?」と尋ねるも、静かで咳などの病気の兆候や、逆に暴れるなどの様子もないという。
 シンイチは担任の内村(うちむら)先生に相談した。
「……心の闇の仕業かな。単純に、病気かもだけど」
「可能性はなきにしもあらず。シンイチ、てんぐ探偵の出番だな。とりあえず日直のフリをして、プリントを彼女の家に届けて様子を見るんだ」
了解(ラジャー)
 「プリントを届ける作戦」は、今はじめて内村先生が思いついたようで、彼はドヤ顔をしていたが、実際この手は既に鈴木希美子のケースでシンイチが発明していた。ドヤ顔の内村先生にはそのことは黙って、シンイチはミヨの家へ向かうことにした。

    2

 母親の綾辺奈美(なみ)は、「ミヨは人と会ってくれない」と嘆いた。兄妹とも引きこもりになってしまい、自分の育て方に問題があったのかと、自分を責め始めた。
「彼女と話をさせてください。多分、人より繊細なんだと思うんです」
 シンイチの笑顔には、人を安心させる力がある。

 廊下でドア越しに、シンイチはミヨに話しかけた。
「一体どうしたのミヨちゃん。なんで部屋から出てこないのさ? 学校へ行こうよ!」
「……外になんか出たくないの。私は一生、この部屋の中で暮らす」
「部屋の中で何やってるの?」
「小説を読んでる」
「小説? あんな字だけなのより、マンガの方が面白いじゃん!」
「字だけだからいいのよ。見た目がないから。概念だけの世界が素敵」
「じゃ、外に出たくないの?」
「私、ブサイクだから。だから見た目と関係ない小説がいいの。あの中に入りたい。あの中で暮らしたい。人間は肉体を持たずに、精神だけの生き物だったらいいのに」
「ははは。分るよ。オレ足遅いし、ちょっと音痴だし、背も低いし。この身体じゃなかったら、と思うこともある」
「シンイチくんは絶対この部屋に入らないでね」
「なんで?」
「私のブサイクなんか見せたくない。服もぼろぼろだし、可愛くないし」
「服は買えばいいじゃん」
「服を買いに行く服がない」
「ミヨちゃんは、ブサイクじゃないって!」
「ブサイクよ。鏡を何度見てもブサイクよ。見れば見るほどブサイクよ」
 シンイチは少し考え、提案してみた。
「オレ、ミヨちゃんに会いに来たんだ。目つぶって入る。それならいい?」
「……」
「プリント届けに来たのは嘘なんだ。本当は、ミヨちゃんが心配でさ」
「……嘘」
「嘘じゃないよ」
「シンイチくん、本当は有加里のこと好きなんでしょ」
「は? 何それ」
「有加里みたいなかわいい子が好きなんでしょ?」
「? 考えたこともないけど。なんで鈴木?」
「こないだ様子を心配してたじゃない」
「? ……ああ、アレ! 忘れたのかい? 鈴木のお母さんが『心の闇』に取り憑かれてたって!」
「え? そうなの?」
「妖怪『心の闇』のことは、誰にも言ってないよね?」
「うん」
「二人の秘密だからね!」
「分ってる」
「実はさ、オレ、ミヨちゃんが『心の闇』に取り憑かれたんじゃないかと思って来たのさ」
「そんな。また? だって兄貴にも取り憑いて、私にも……また?」
「うん。風邪のウイルスだって何種類もあんじゃん。目つぶって入る。それならいい?」
「……」
 ドアがカチャリとあいた。中の部屋は暗く、外から様子は伺えない。
「カーテン閉めて、電気消した。それでも目つぶってよ」とミヨの声がする。
「分った。約束する」
 シンイチは目をつぶった。

「どこ? そこに座ってる?」
「うん」
「なんか元気そうじゃん」
「目開けちゃダメ!」
「声でなんとなくそう思ったんだよ。……あのさ」
「なに?」
「ミヨちゃんは妖怪『心の闇』は見えないんだよね。そこいら中に漂う、極彩色の奴ら」
「うん」
「どうもオレだけが、妖怪が見えてるみたいなんだよね。でもオレ、本当は妖怪なんて見たくないのさ」
「どうして?」
「見逃せないだろ。いちいち妖怪退治やらなきゃならないじゃん。今のところなんとかなってるけど、相手は妖怪だぜ? 本当は凄く危険なのかも知れないしさ」
「じゃあなんでそんなことすんのよ」
「オレだけしか、助けられないかも知れないからだと思う」
「……」
「本当は妖怪のせいなのに、原因不明の死って扱われる人が沢山いるかも知れない。あいつらは、宿主の負の感情を餌にして、どんどん成長していくんだ。カラッカラにひからびさせて、死ぬまで栄養を吸うんだ」
「……」
 シンイチはあの巨大な「弱気」に取り憑かれ、ビルの上から飛び降りた男のことを今でも思い出す。あの虚ろな目も、のばした手を払われた生々しく冷たい感触も。「助けられなかった」。それがシンイチの動機だ。
「オレは、ミヨちゃんを助けられるかも知れない。だから来たんだ」
「私が心の闇に……二回も?」
「回数とか関係ないんじゃないかな。やつらは全然違う性質を持ってる。『心』ってのが色々違うように、その闇の色も違うんだと思う」
「私のせいじゃなくて……」
「そう。妖怪のせい。目をあけて、顔を見ていい? オレには妖怪が見える」
「妖怪のせいじゃないわよ。私がブサイクだからよ」
「鏡は見た? 宿主なら、鏡に映った心の闇が見えるんだ」
「鏡なんか見たくないわよ! 醜い私が映ってるだけじゃないの!」
「醜くなんかないよ! ミヨちゃんの笑う顔は結構かわいいよ!」
「嘘よ。そんなの方便でしょ!」
「笑った顔をして。オレはそれを一秒見ればいいから。一週間、うちのクラスになにが足りないか、やっと分った。ミヨちゃんの笑顔だよ。妖怪じゃなかったら、これで帰る。一生この部屋に入らない」
 ミヨは、自分の表情が引きつっているのを知っている。それでもうまく笑おうと努めた。自分が普段どうやって笑っているのかも覚えていなかった。
「……一秒だけだからね」
 シンイチは目をあけた。ミヨは引きつりながら精一杯笑っていた。その肩に、妖怪「みにくい」が不機嫌な顔をして鎮座していた。

    3

「さて、どうしよう」
 妖怪「みにくい」をシンイチは観察した。「みにくい」はぶくぶく太って歪んだ顔を更に歪ませ、シンイチを挑発した。シンイチはミヨちゃんを褒めてみた。
「ミヨちゃんはカワイイ。カワイイ。カワイイ。カワイイ」
「それ私に思い込ませるつもり? 洗脳?」
「……ダメか」
 シンイチは床に散乱しているファッション雑誌を見た。表紙の女優がマジックで黒く塗りつぶされている。どのページをめくっても、モデルさん達の顔が黒く塗りつぶされていたり、目や唇が針の痕でぐちゃぐちゃにされている。
「よし! 逆に、ミヨちゃんを一番の美人に変身させよう!」
「は?」
「美人だったら外出できるでしょ! 外の空気を吸いに行こうよ!」
 シンイチは腰のひょうたんから、天狗七つ道具のひとつ、天狗のかくれみのを出した。
「天狗のかくれみのは被ると透明になる。ついでに、変身することも出来るぜ! 今一番の美人の、誰になりたい?」
泪沢(るいざわ)セシル」
「じゃあそれになろう! 着て、その泪なんとかさんをイメージして!」
「なんとかじゃなくて、泪沢セシル。シンイチくん、セシル知らないの?」
「知らない。変身したら思い出すかも」
「……分ったわよ!」
 ミヨは天狗のかくれみのを自ら被った。ぼん、と煙が上がり、小学五年生のちんちくりんのミヨは、たちまちスタイル抜群の、一七五センチのモデルに変身した。透き通った茶色い瞳と白磁の肌をして、スラリと伸びた長い脚を赤いミニスカートから出す、二十四歳のハーフタレントだ。
「ああ! この人! よくテレビ出てる!」
「カワイイ?」
「カワイイ!」
 自分の目線が一七五センチになって、ミヨはとまどっていた。急に視線が高くなり、身体が不安定だ。その体で、鏡で自分を見てびっくりした。
「マジで泪沢セシルじゃん!」
「天狗の力、なめちゃ困るぜ! まあ、かくれみのを作った天狗が凄いだけだけど!」
 ようやく鏡を見れたミヨは、自分の肩で不気味に笑う、赤黒い「みにくい」を確認した。
「こいつか。……こないだのとは違うの?」
「だいぶ違うね。とりあえず、その姿なら外に出れるだろ?」
「うん。……ためしにちょっと、歩いてみたい!」

 二人は外に出た。セシル(ミヨ)は、最初こそハイヒールに慣れず不恰好な歩き方だったが、商店街のショーウインドウに映る自分を見ながら、すぐにモデル歩きをマスターした。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見る。長い脚が鋭く、海を切り裂き白い波を立てる、船の舳先だ。自然とセシル(ミヨ)は笑顔になってきた。それは世界を切り拓く歩き方だ。
「スゲエ。ホントのモデルさんみたい」
「ふふん。私だってこんだけスタイルよくてルックスいけてたら、これ位楽勝よ。あ、これ、服とか変えられる?」
「イメージすれば」
 ショーウインドウのマネキンの着る、緑のワンピースを見ながら、セシル(ミヨ)は「ふん!」と一言言った。ぼん、と煙が出て、彼女の服はそっくりに変わった。
「すげえよミヨちゃん!」
 彼女はガラスの前で自慢気にポーズを取った。
「この服、四十万円だって」
「まじ!」
 その店の隣にも、隣にも、色とりどりの服が飾られていた。セシルは次々に「ふん!」と言って、次々に服を変えた。セクシーゴージャスなゴールドのドレス、白のスポーティ、ピンクのカジュアル。
「ふん! ふん! ふん!」
 紫のゴシック調、黒い革のボンテージ風、サイケで派手な服、淡い色のお嬢様服。
「カバンとか持ち物も?」
「多分」
 次々にカバンや靴も変えて見せた。帽子やサングラスやピアスやネックレスもだ。かくれみのによる、一人ファッションショーだ。
「すごい! 私全部カワイイ! シンイチくんはどれがいいと思う?」
「えーっと……」
 正直シンイチには区別がつかないので、何でもよかったのだが、「ミヨちゃんはどれが好き?」と聞いてみた。
「私は緑のやつかゴールドがいい!」
「それは目立ちすぎるから、最初のがふつうでいいんじゃない?」
「ええー地味」
「でも目立ちすぎるでしょ。それに赤いスカートがミヨちゃんのイメージに合ってたし」
「イメージに合ってたのか。わかった」
 ぼん、とまた煙が上がって、彼女は最初の赤いミニスカート姿に戻った。実のところ、そのミニスカート姿が一番見たくてそう言ったのだが、それは彼女には隠していた。
「私がどれだけカワイイか、もっと人のいる所で見てみたい!」
「? どこ?」
「原宿とか!」

 ざわざわとする原宿まで出てきた。ファッションストリートが表通りにあり、古着で有名な裏原宿が点在するオシャレエリア、という説明をセシル(ミヨ)に聞いたが、シンイチはよく分っていない。歩いていくうちに、雑誌から抜け出てきたかのような色とりどりの服装の人々が歩いていて、カメラマンたちがそのスナップを撮っていたりして、そういう街なんだと分ってきた。
 人の海の真ん中を颯爽と歩くセシル(ミヨ)に、皆が振り向いた。海が真っ二つに割れるように、彼女の道が開いた。こっそり写真を撮る者すらいた。
「みんな私を見てる。私やっぱカワイイのね!」
 そこへ金髪の男が二人、声をかけてきた。
「おねーさん超カワイイッスね!」
「セシルに似てる。意識してるっしょ!」
「まあね」とセシル(ミヨ)は得意がって見せた。
「俺らと茶でもしませんか?」
「それとも飲みでも?」
「飲み?」
「酒っすよ酒。楽しいクラブ知ってんすけど、どうよ」
「えっと、お酒は……そう、連れがいるので」
 と、シンイチの後ろにセシル(ミヨ)は隠れようとした。
「そんなこと言わずにさあ!」
「行こうよ!」
 男たちは強引にセシルの腕をつかみ、力づくで彼女を連れて行こうとした。
「痛い! ちょっと、やめてよ!」
「行こうよ!」
 セシル(ミヨ)は恐くなった。男二人の力は強く、まるで悪者にさらわれそうな恐怖を感じた。
「不動金縛り!」
 シンイチは二人組の男に不動金縛りをかけた。二人は変なポーズのまま固まった。シンイチは彼女をつかんだ男の指を、もう一人の鼻の穴に突っ込んで金縛りを解いた。
「いててててて!」
「逃げようミヨちゃん!」
 シンイチは彼女の手を取り走り出した。
「アハハ。アハハハハ」
 セシル(ミヨ)は笑った。二人は走って逃げて、ひと息ついてまた笑った。

「でも、肩の妖怪はちっとも外れないね」
 とシンイチは心の闇「みにくい」を観察しながら言った。
「私、このカワイさで、どこまで行けるか見てみたい!」
「は?」
「オーディションを受けるの! カワイイの中のカワイイになりたいの!」
「オーディション?」
 シンイチは腰のひょうたんから、一本高下駄と千里眼を出した。ラフォーレの屋上へ高下駄で飛び上がり、千里眼を覗き込んでオーディション会場を探した。
「あった!」
 日比谷の裏手のビルに、「主演女優オーディション」の看板が見えた。
「映画のオーディションっぽい!」

    4

 受付は一瞬ざわめいた。泪沢セシルがこのオーディション受けるなんて聞いてねえぞ、とライバル女優たちが動揺したのだ。
 「銀の一族(仮)」と題された台本を渡され、これからやるシーンを軽く説明された。順番が来るまで待ってください、と言われ、セシル(ミヨ)は控え室に通された。スタッフが代わりにドアを開けてくれて、セレブになった気分だった。
 そこは会議室を控え室代わりにしていて、七人のモデルと七人のマネージャーが既に待たされていた。シンイチはかくれみのをミヨに貸したので潜入する手段がなく、会場の外で待機中だ。なにかあれば不動金縛りで乱入するつもりだった。
 セシル(ミヨ)は一番端の椅子に腰かけ、台本を頭に入れた。ヒロイン姫子(ひめこ)の役で、久しぶりに再会した恋人小次郎(こじろう)と一夜を過ごし、先に眠った彼の寝顔に語りかける、月夜の一人芝居の場面だった。
 台詞が頭に入ると、ミヨは台本越しに美人たち興味津々に見た。「美人たちの世界」を覗き見したかったのだ。
「マネージャー、缶開けて」
 美女の一人が、青い背広のマネージャーに缶ジュースを開けさせた。自分より随分年上の男の人にやらせている感じが変で、ついミヨ(セシル)は言ってしまった。
「自分であければいいのに」
 その美女は手を止めた。
「アンタ馬鹿? 私のネイルに傷がつくでしょう? このオーディションの為に五十万かけた爪なんだから」
 彼女は七色に光る爪を見せびらかした。
 そこに次のモデルが入ってきた。彼女は荷物をひとつももたず、グレーの背広のおじさんマネージャーが、みっつの大きなかばんをふうふう言いながら抱えてあとについてきた。
「ちょっとは自分で持ったら? マネージャーさんフラフラじゃない」
 とまたもミヨ(セシル)は質問をぶつけた。
「私が疲れちゃうでしょ」
「え?」
「疲れた私が、オーディションで輝ける訳ないじゃない」
 その女はマネージャーに「台本かして」と言い、ぶつぶつと音読をはじめた。
「……ショウ、つぎ……」
「それ、『こじろう』です。恋人の名前」とマネージャーは漢字の読みを教えた。
「……私たちがはじめて会ったときのこと、……」
「おぼえて」と、「覚えて」の読みをマネージャーは教えた。
「十七……」
「さい」と「才」の読みを教える。
 思わずミヨ(セシル)は言ってしまった。
「そんなのも読めないの? 小学校で習うでしょ」
 ずっと待っていた別の女が口を開いた。
「さっきから何? アンタウザイんだけど」
「文句言うなら、アンタ読んでみなさいよ」と、五十万の爪の女が因縁をつけてきた。
 ミヨ(セシル)は立ち上がり、台本を読み始めた。

   姫 子「小次郎。私たちがはじめて会ったと
    きのこと、覚えてる? 私まだ、十七才だ
    った。小次郎が学院の正門で大暴れして、
    総長室で蘭子(らんこ)さんに殴られて。あれから
    もう十年も経つのね。……ねえ小次郎。私
    が行かないで、って言ったら行かないでく
    れる? 私のわがまま、一回ぐらい聞いて
    くれる? 私、あなたと逃げたいの。『世
    界が混沌(カオス)に飲み込まれる』なんてどうでも
    いい。小次郎。私と世界から逃げようよ」

 電気もつけない真夜中の部屋。月明かりに照らされたヒロイン姫子の横顔。その静かな情熱が伝わってくるいい芝居だった。窓の外のざわつく風が、樹々を揺らす様さえイメージできた。
「ふん。……まあまあじゃない」と爪の女は強がった。
 ミヨ(セシル)は提案した。
「みんなただ待っても意味がないから、ここで練習すればいいんじゃない? 不安なのはみんな一緒でしょ!」
 ミヨは、この美人たちの芝居を見たくなったのだ。
 ところが、彼女たちの芝居はものすごく下手だったのである。

「アレカラ、モー十年もタツノネー」
「私ノワガママ、一回グライ聞イテクレル?」
「小次郎ー、ワタシトセカイカラ逃ゲヨーヨー」
 みんな棒読みだ。犬が歩けば一歩目にぶち当たるぐらいのまっすぐな棒だ。すがすがしく垂直な無限棒だ。
「もっと情感込めて読まなきゃ! 姫子の気持ちになって。さびしいのよ? 多分、大好きな小次郎ともう二度と会えないのよ?」
 爪の女が、不満そうに反論した。
「そんなの、監督が指導してくれるわよ」
「そうよ。私たちは監督の言うことをきけばいいのよ」と漢字が読めない女が追従した。
「余計なことをするより、監督の言うとおりにする子のほうが選ばれるわよ」
「そうよ」
 周りの美人たちは皆口々にそう言った。ミヨ(セシル)は思わず反論した。
「でも、それじゃ人形じゃん」
 全員が、きょとんとした顔をした。
「?」
「……あなたは、人形じゃないの?」
 ミヨは恐ろしくなった。この美人たちは、全員が全員人形だと言うのか。この人たちは自分の意志がなく、単に世間の期待のとおりのことをするロボットなのだろうか。ここに手を出して。足を組んで。この服を着て。目線はこっち。顔はこう。ハイ笑って。
「私たちはつくる人じゃないから。つくる人はつくる専門の人がいるから。私たちは華なのよ?」
「花にだってさ、自分の意志ぐらいあるわよ」
 ミヨは反論した。周囲の空気がトゲトゲしてきた。
「何かさあ、調子に乗ってないあんた?」
 爪の女が立ち上がった。むかついた美女達は全員立ち上がった。

 そこへ突然、拍手の音が聞こえてきた。扉の向こうの廊下からだ。ピンクのTシャツの、小太りの中年おじさんが拍手をしながら入ってきた。
「なかなか貴重な場面を拝ませてもらったよ」
 この映画の監督、大門(だいもん)(しゅん)だった。
「監督!」と彼の顔を知る皆が緊張した。大門監督は続けた。
「休憩の時間にタバコ吸いに行ってたら、台本(ホン)読みの声が聞こえてね。廊下で聞き耳立ててオーディションすることになるとは思わなかったよ。きみ、名前は?」
 と、大門はセシル(ミヨ)に尋ねた。
「泪沢、セシルです」
「隣のオーディション室に来たまえ。その他は、おつかれさま。帰っていいよ」
 女たちは納得のいかない顔をした。
「ちょっと待ってください! どうしてですか! オーディション受けさせてください!」
「そうです! 私なんでもします! 言われたこと、なんでもします! 脱げと言われればいつでも脱ぎます!」
 監督は断った。
「みなさん美人なのは認めるよ。裸も見れるものなら拝みたい。わはは。でも、僕が探しているのは人間だ。このお話を一緒に語ろうとする人だ。僕は、人形遊びをしているわけじゃないんだ」
 監督はセシル(ミヨ)に尋ねた。
「あなたは今恋人がいるね?」
「は、はい?」
 シンイチのこと? ミヨ(セシル)は顔が真っ赤になってきた。
「それか、とても大切な人だ。好きな人のことを語るとき、人は変わる。とてもいい『思い』だったよ。そして彼ともう二度と会えないかも、という台本に書いていない姫子の思いにまで考えが至った。大切な人の足手まといになるのが嫌だという悔しさまで伝わってきた。今好きな人がいなかったとしても、人の気持ちをちゃんと分かって、ちゃんと台本の裏まで読んでいる。きみという人間の優しさや頭の良さも伝わって来たよ。泪沢さん、是非、仕事のパートナーとして考えたいのだが」
 セシル(ミヨ)はその言葉を聞いて、苦しそうに監督に訴えた。
「すいません。……私も……帰っていいですか……」
「どうして? まさか、この子達をかばっているの?」
「ち、違うんです!」
「じゃなに?」
「……!」
 ミヨは思い切ってかくれみのを脱いだ。
「さっき嘘つきました! 私、泪沢セシルじゃないんです! 綾辺ミヨなんです!」
 身長一七五のスラリとしたモデルは煙と共にしゅぼんと消え、中からちんちくりんの女子小学生が出てきた。
「本当は、単なる小学生なんです!」
「なにこれ!」と、女たちは騒いだ。
 しかし監督は動揺もせず、「ほほう」と言った。不思議なことを信じる仕事をしているだけあってか、理解と対応が一人だけ違った。
「なんと小学生が正体とは。こいつは困ったぞ」
 監督は頭を三十回高速で掻いて、必死に考えた。
「待てよ。今回の役を小学生に書き換えることは出来るかな」
 ミヨは反論する。
「無理です。十七才にはじめて出会って十年後の設定です。私十才だし」
「そうかあ。うーん。敵の術にかかって幼女になったって設定に出来ないかなあ。……出来ないよなあ。ラブシーンあるしなあ……。惜しい。残念。うーん畜生」
 監督ははげしく頭を掻き、考え、諦め、それから膝を折ってミヨの目線で話した。
「是非このままちゃんと成長してくれ。そして大人になって、女優に興味があったら是非業界の門を叩いて。信頼できる事務所も紹介する。その時まで僕が第一線で活躍できてたら、一緒に仕事をしよう。綾辺ミヨさん」
 人懐こい笑顔の監督だった。ミヨは名刺をもらい、それは彼女の宝物になった。


「シンイチくん、帰ろう」
 外で待っていたシンイチに、ミヨはセシルではなくミヨの格好のまま現われた。
「あれ? セシルは?」
「うん。……もういい」と、ミヨはかくれみのをシンイチに返した。
「もういいって、何かあったの?」
「ちゃんとまとめて話す。それより、私学校に行かなきゃ!」
「え?」
「いっぱい勉強しなきゃ。アホで何にも出来ない女になるわけにはいかないわ。美人はドアも缶も開けてもらえるし、荷物も持ってもらえて楽もできる。きっと楽し続けて、うっかり頭が空っぽになっちゃうのね」
「?」
「さっき、チンピラからかばってくれてありがとうね! 今日一日、すっごく楽しかった!」
 ミヨは「好きな人」に心から笑った。ひきつった笑顔では、もうなかった。
 ミヨの肩に取り憑いた妖怪がするりと落ちた。シンイチは腰のひょうたんから天狗の面を出し、周囲に不動金縛りをかけた。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣、小鴉!」
 炎の剣が、凝り固まった体の妖怪「みにくい」を切り裂いた。
「一刀両断! ドントハレ!」
 廊下には姿見が置いてあって、鏡にうつった一部始終をミヨは見ていた。
 心の闇「みにくい」は、朱い炎で浄化された。セシルの赤いミニスカートの色に似ていた。赤は、何かを燃やしているから美しいのかも知れない。


「あの映画、絶対見に行こうね! 誰がオーディションであの役勝ち取ったか見てみたいし、絶対私よりあの台詞上手く言うだろうし! そうそう、大門監督の作品レンタルしなきゃ!」
「ミヨちゃん最近その話ばっかだね」
 休み時間、ミヨはシンイチと前にも増してよくしゃべるようになった。
 赤いミニスカートをはいているのに、鈍いシンイチは全く気づいていない。
「せっかくデートの約束してるつもりなんだけどなあ」
 と、シンイチの背中を見ながらミヨは独り言をつぶやいた。ミヨはカバンから透明のリップクリームを出して、自分の唇に塗ってみた。
「どう?」
「な、なんかさっきと変わった!」
「それは妖怪リップクリームの仕業!」
「???」
 自分を隠すんじゃなく、見せていってもいいんだ。意志のある小さな赤い花が、ここにひとつ咲いた。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十六話 「涙目は、炭酸のせいにした」 妖怪「二番」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 恋は人を変える。私もそう思う。

 七限目の補習なんてダルイもの、誰が考えたんだろう。早く帰るか、親友のヨリ子とどこかでおしゃべりするかの二択にしたい。数学の樺島(かばしま)は、きょうも意味の分からない呪文を黒板に延々と書き続けている。女子に数学、いる? そもそも? もっと手加減してくれてもいいと思う。カバ島はモテないから、女子高生を補習という名目で集めて、匂いを嗅ぎたいだけなんじゃないか。この変態。
 私は窓際の席から、カバの話なんてちっとも聞かず、外のグラウンドを見ていた。籠の中の鳥のように。一年のクラスは一階だから、眺めなんて良くない。それでも外の空気が吹いていて、少しばかり私の心を救っていた。
 運動部たちが、とっくに柔軟とか基礎練みたいなのをはじめている。カバ島の甲高い声よりも、男子たちの低くてリズミカルな声のほうが落ち着く。私はこの瞬間までカバ島と自分の悪い成績を恨んでいたのだが、あと数秒後に、その両方と神様に、感謝の踊りを捧げることになる。
 朝比奈(あさひな)先輩が棒高跳びの自己記録、五メートルフラットを塗り替える瞬間を、目撃できたからである。

 大体、棒高跳びはそれ自体でかっこいい。あの白くて長い棒を構える瞬間の凛々しさったらないし、棒を突いてグイーンとありえないぐらい曲げてタメをつくる瞬間はぞくぞくする。なにより力を解放しきった頂点だ。我々一介の女子には決してたどりつけない、五メートルの上空で、彼は一体何を見ているのだろう。蒸し蒸した地べたの教室から、彼の背中に吹く風の形までくっきりと見えた。彼が頂点で見ているものを私も見てみたい。空は回るのだろうか。風はどんな匂いがするのだろう。永遠の一瞬のあと、鮮やかなブルーのマットから起き上がった先輩の汗と白い歯を見た瞬間、私は恋に落ちた。
 背が高くて、骨ばっていて、切れ長の目で鼻が高くて、乱れた髪すら奇跡的に神だった。

 恋は人を変える。
 私は親友ヨリ子とのおしゃべりなんてどうでも良くなり、毎日教室の窓から陸上部の練習を見てはため息をつく、恋する乙女になった。
奈々(なな)。目当ては朝比奈先輩なんでしょ?」とヨリ子はいきなり核心を突く。
 私は不意を突かれ、上手くごまかしきれなかった。
「な、なんで分かるのよ」
「一番人気だし、分かりやす過ぎ」
 ヨリ子は窓の外の陸上部を見ながら、前の席に座る。
「分かりやすい……の?」
「うん。でもやめとけ」
「なんで?」
「三年のカノジョいるし」
「え、年上と付き合ってんの?」
「一年の雑魚が勝てるわけないっしょ」
 朝比奈先輩は二年である。高三なんて、我々高一からすれば天地のひらきの大人に見えるものだ。
 私はヨリ子とグラウンドに出てみた。沢山いるファンクラブの女達が、フェンス越しにキャーキャー言っている。私はその輪に入りたくないので、彼女達と違うところから先輩の後姿を追おうと思った。私と同じ考えなのか、集団から距離を置いて一人佇む物凄い美人がいた。
「あの人がレイコ先輩。あの人から告ったんだって」と、ヨリ子が親切にも教えてくれる。
 負けた。というか、女としての勝負の土俵にも立てていない。私が男なら、いや今の女の状態でもレイコ先輩に告白されたらOKするだろう。風になびく長い栗色の髪、色白でハーフみたいな目鼻くっきり。美人を絵に描くとしたら、こういう顔。だって横顔だけで私倒れそうになったもん。おまけにやさしくて性格もいいんだって。勝てるところないじゃん。
「無理っしょ。朝比奈先輩がカッコイイのは認めるけど」
 ヨリ子はあくまでも冷静だ。時々あんたの冷静さが嫌になることもあるけど、それが私を客観的にしてくれることもある。しかし今言うか。親友としては、止めるべきは今なんだろうけどさ。
 朝比奈先輩がレイコさんのところへ走ってきた。彼女はタオルと、ペットボトル入りの炭酸水を渡した。先輩は汗をふき、サンキュ、と笑って、プシュっと勢いよく蓋を開けた。CMみたいにカッコ良かった。それだけなのに、レイコさんに猛烈に腹が立った。先輩はごくごくと殆ど一気飲みして、派手なゲップをした。それすら、男らしくて潔くてカッコ良かった。誰から貰った炭酸水だろうが、先輩はかっこいいのだ。残りの炭酸水を頭から被り、水もしたたるいい男になった。
「アレジュースじゃなくて、炭酸入りの単なる水だから、ベタベタしなくて気持ちいいらしいよ」と、ファンクラブの常識にもなっている基礎情報をヨリ子が教えてくれた。
 帰りのコンビニで、彼が飲んでいたものと同じ銘柄を見つけて飲んでみた。味もしないただの水で、キッツイ炭酸がウリだった。思わず涙が出た。
「全部飲めない。ヨリ子飲んで」
 ヨリ子もちょっと飲んで涙目になった。
「こんなキッツイの、飲んでるんだ」
「……やっぱ私が全部飲む」
 私はちょっとでも、先輩と同じ気持ちになりたかった。

 恋は人を変える。私はレイコさんに、勝たなければならない。

    2

 私はメガネをやめて、コンタクトにした。モテ女への階段を登るのだ。
 十六年間黒かった髪を、はじめて色を抜いて明るい茶色にした。なけなしの貯金はそこで尽きた。男子に引かれない程度の薄いピンクのリップを塗るテクニックを、ヨリ子の教えてくれたサイトで学んだ。
 やれることは全部やって、外見を変えて、私はその勢いで、朝比奈先輩を校舎の裏手に呼び出した。ていうかヨリ子にやって貰った。ヨリ子ありがとう。次のバイト代で、なんでもおごる。
 校舎裏に先輩の姿が見えて、私は心臓から喉が飛び出しそうだった。いや逆だ。落ちつけ私。
いつも豆粒ほどの大きさの先輩が、話せて、手を伸ばしたら触れる距離に来て、心臓から喉どころか目も鼻も飛び出そうだ。
「何?」
 先輩はいつものキッツイ炭酸水を持っていた。それ、私も飲んでます。
「あ、あのですね……」と、私はマンガみたいにもぞもぞしてしまった。
「あれ? これ、告白?」
 先輩は辺りを見回して、空気を読んだようだ。今思えば、こんなことにはしょっちゅう慣れっこなのかなあと。しかし今の私には、そんな余裕など埃の直径ほどもない。
「はいっ。……そ、そうです」
「俺、カノジョいるの知ってるよね?」
「はい」
「じゃなんで」
「だから、二番目の彼女にしてください」
「……は?」
「レイコ先輩に勝てないんなら、二番目の彼女にしてください」
 我ながら一体何を言ってしまったんだろう。これは敗北前提の告白ではないか。妥協案から先に提示して相手にノーと言わせない、小ずるい戦法ではないか。私は自分の器の小ささを呪った。
「いいよ」
「えっ」
 あまりにもあっさりと、先輩は返事した。薄いピンクのリップが効を奏したか、明るい茶色を選んでくれた美容師の力か。先輩は白いスマホを制服の尻ポケットから出した。
「ラインとか教えてよ」
「はっ、はい!」
「あ。ていうか、名前教えてよ」
「あ……すいません! 申し遅れました。一年C組の、斉藤(さいとう)奈々です」
「奈々ちゃん。よろしく」
 奈々ちゃんって呼ばれた。ヨリ子、一年分のバイト代で何かおごってもいいぞ。
「あ、勿論これは内緒だよね?」
 と、先輩は顔を近づけて確認してきた。断れるわけないし。ていうかばれたら大変だし。私と先輩だけの秘密って、倒れそうにドキドキするし。

 それから、先輩とは何回も「秘密の」デートをした。心臓から飛び出た喉はまだ帰ってきていないが、話はだんだん続くようになってきた。デートっていっても、陸上部の練習のない日に、マックに行ったりスタバに行くぐらいのカワイイものだ。しかし目撃されないようにふたつ隣の駅にわざわざ行く、という秘密感が毎回私をドキドキさせた。
 でも、先輩はいつもスマホを気にするのが嫌だった。レイコさんから連絡が来たら、私を置いて彼女の所へ行くからだ。そのスマホから私に連絡が来るから、それは大切なものなのだけれど、出来るなら私はそれをへし折ってしまいたかった。
 私の高校は海のそばにある。だから大抵のカップルは付き合い始めると海を歩く。それはカップルの証明のようだ。勿論先輩もレイコさんと歩いただろう。でもみんなに見つかるから、そこから東に行った河口が見つかりにくい。その桟橋の下で、カップルはキスしたり、それ以上のことをするらしい。
 突然、朝比奈先輩は海岸には降りず堤防沿いにずんずん進み、桟橋が見えてきて、私はどうしようどうしようと内心猛烈に焦りながら、掴まれた手は離したくないので離さなかった。
 ところが、桟橋まであと一歩の所で先輩のスマホが鳴ったのだ。私は泣きそうになったけど、ここで我儘を言って嫌われるのは唯の馬鹿だと思って言葉を飲んだ。一番だいじなのは私ではなく、先輩の気持ちだ。
「レイコさん?」
 なるべくとげとげしくないように、私は聞いた。
「ごめん。行かなきゃ」
「うん。わかった。……私は、二番だし」
「またね」
 一瞬だった。先輩は私に覆いかぶさってきた。状況を理解するより早く、私は唇を奪われた。心の準備なんて全然出来ていなかった。風が吹いた。その匂いが、先輩が五メートル上空で嗅ぐ匂いと、同じだと思った。
 二番なんて関係ない。今私は幸せで、それが一番だ。

    3

「お前さ、朝比奈先輩にレイコさんがいると知ってて、あんなことしてんのかよ?」
 同じクラスの和田(わだ)が、放課後私を呼び出して突然こんなことを言い出してきた。先輩と同じ陸上部で、専門は、えっと、何だっけ。
「あんなことって何」
「俺、見たんだよ。桟橋のとこでキスしてたの」
 さっさと帰ろうと思っていた私は、足が止まった。
「……だから何なの? アンタには関係ないでしょ? ……それとも、脅すつもりなの?」
「逆だよ。やめとけって言いに来たんだよ」
「はあ? 何それ。何様。私がどうしようと私の勝手でしょ。私は二番目の彼女に満足してんだから、どうでもいいでしょ」
「よくねえよ! そんなのやめとけよ!」
「関係ないでしょ!」
「あるよ! 俺、お前が好きだからさ!」
「ハア?」
「…………!」
 和田はしまった、という顔をした。私でももうちょっとましな告白の仕方を考えるだろう。
「意味わかんない」
「わ、分かんなくてもいいよ。俺、メガネやめて茶髪にした斉藤見て気づいたんだよ。結構カワイイってさ」
「あんたの為じゃないし」
「朝比奈先輩なんてやめとけよ。俺と付き合えよ」
「何でよ」
「俺お前が好きなんだよ」
「……」
「二番目の彼氏でいいからさ」
「…………何言ってんの?」
 恋は人を変える。どうでもいいと思っていた和田が急に真剣になって、ちょっとびっくりした。「二番でいい」という気持ちは、目から血が出るくらい、よく分かる。

 その後マックに寄って、少し喋った。和田は中距離の選手らしい。中距離って何? 短距離が百、二百、四百。長距離がマラソンと駅伝、一万、五千。中距離ってその間。八百、千、千五百、二千、三千。聞いたこともない。マラソンと駅伝と百ぐらいしか知らないし。ていうかただ走るのにそんなに種目ってあるんだ。でもやっぱ微妙なポジションだよね。
 私のケータイが鳴った。朝比奈先輩からだった。
「ごめん。先輩に呼び出された」
「……。おう。……俺、二番だしな」
「……ごめん」
 私は席を立った。私は、自分が一番傷ついたことを和田にした。和田の顔は、見れなかった。

 その夜、私は朝比奈先輩とは会えたけど、やっぱり先輩のスマホが鳴って、途中で終わった。「つづき」はレイコさんとしたのかも知れない。
 家に帰って、色々考えて、私は泣いた。

 私の高校は、神奈川県の西のほうにある。交流試合ということで、県境を越えて東京の高校まで陸上部が遠征することになり、私もその試合を見に行くことにした。鞄には先輩が飲むだろう炭酸水を準備しているけど、レイコさんがいるから出番はないと思う。
 ファンクラブの女子どもは既にいい席を陣取っていて、黄色い声援をあげている。私は彼女たちから距離を置き、レイコさんとも距離を置き、フェンス越しに陰ながら先輩の勇姿を見守ることにした。ポール(あの白い棒のことをそう呼ぶのだと先輩に教えて貰った)を構える先輩の姿は、いつ見ても美しい。風になびく髪もだ。いつかあの髪に触れたい。助走し、力を貯め、いよいよ五メートルの高さにテイクオフした瞬間、ヘンテコな子が隣に座って話しかけてきた。
「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」
「は?」
 天狗? その子は真っ赤な天狗の面を被っていて、あまりのインパクトでびっくりして、朝比奈先輩の美しい着地を見逃したのに気づいたのは、ファンクラブたちの黄色い歓声を聞いてからだった。
 その変な子を無視していると、向こうから話しかけてきた。
「あなたは二番でいいや、って思ってるでしょ。二番のポジションに安心して、それを言い訳にしてるでしょ。でも本心は苦しくてしょうがない。ちがう?」
「なんなのよ。占い師か何か?」
「いいや。妖怪『二番』に取り憑かれてるって、警告しに来たんだ」
 なにこいつ。気味悪い。私は席を立ち、朝比奈先輩の次の試技を目に焼き付けるためにフェンス際まで歩いた。天狗面の子はその私についてくる。
「なんなのよ。ついて来ないでよ」
「妖怪『心の闇』が、お姉さんの心に取り憑いてる。あなたの闇はあなたのせいじゃない。妖怪の仕業なんだ」
 思い当たる節がありすぎて、思わず耳を傾けてしまった。古ぼけて傷だらけの、ちょっと恐くて間抜けな天狗の面が気になり、またも黄色い歓声に気づいて、マットから起き上がる朝比奈先輩しか見れなかった。
「なんなのよあんた?」
「オレは妖怪『心の闇』を退治する、てんぐ探偵」
「妖怪退治? それで壺とか水晶とかラッセンの絵とか買わされるんでしょ?」
 その子は突然鏡を見せた。
「なにこれ」
 鏡の中の私の肩に、奇妙な全身ピンク色の生き物が乗っかっていた。自分の肩には何もない。鏡の中だけに見えている。
「なんなのよこれ!」
よく見ると、額に何か書いてある。鏡にうつっているから左右反対で、それは「2」のようである。
「それが、妖怪『二番』」

    4

 話を聞けば聞くほど、私は混乱してきた。ちょっと待ってちょっと待って。これは女子高生によくある三角関係や四角関係の青春ストーリーであり、妖怪とかオカルト話ではないはずだ。
「じゃ、いつからこいつに取り憑かれてたってのよ?」
「それは分からないよ。最初に好きになったあたりからか、告白のときか」
なんだよ。妖怪「片思い」に取り憑かれて、それが「二番」に格下げしたとでも言うのかよ。この胸の苦しみが、恋じゃなくて妖怪のせいだって?
「大体あんた、その天狗の面なんなのよ。インパクトありすぎるんだけど」
「あ、ごめん、取るの忘れてた」
 面を取ったその子は、ごく普通の、大きな黒い瞳が印象的な小学生だった。年は高学年か中学年か。
「天狗の面をつけてると天狗の力がパワーアップするんだ。遠くからでも取り憑かれてるのが見える。あと、インパクトあるからとりあえず話聞いてくれるし!」
「結局インパクト重視かよ」
「あはは。まあね。でも天狗の力はホントだよ!」
 その子はどこから出したのか、昔の農家の人が被るような大きな蓑を出して被った。
「天狗のかくれみのって、聞いたことあるでしょ」
 その瞬間、その子は透明になった。
「え? 何? 何?」
 すぐ脱いで、また現れた。
「これで信じてくれる?」
「いや、トリックとかCG使ってるかも知れない。私の心を読んだのだって、メンタリズムとかそういう奴かも」
「疑い深いなあ」
 私はこれ以上関わりあいになるのも面倒だと、帰り支度を整えていた。朝比奈先輩素敵でしたって、感想送らなきゃ。
「えっ帰るの?」
「私地元神奈川の奥のほうだから。今から電車で一時間半かかって帰るの」
「ええー。そんな遠くじゃ監視も出来ない。ネムカケ、頼まれて」
 さっきからその辺で寝ていたデブ猫が、急にどたどたと走ってきた。なにこの子ちょーかわいいんですけど。
「その猫預けるよ。なにかあったらオレの所に知らせが届くシステム。あ、電車乗るならこの猫キャリア使ってね。餌は勝手にとるから世話とかいらないし、屋根の上に待機するから、親とかにも迷惑かからないよ」
 私は鏡を出してもう一度自分を見た。妖怪「二番」とやらは、手品や気のせいではなく、どうやら本当にいて、醜い顔をして笑っていた。


 次の日は朝比奈先輩と会えた。とってもカッコ良かったと褒めたら、ありがとうとはにかんでくれた。それがあまりにも素敵で私は貧血を起こしそうだ。
 その時、またも忌々しいスマホが鳴った。
「あ。……ごめん、行くわ」
「うん。また今度ゆっくり」
 私はまた「二番」の彼女を演じ、心が痛くなった。これはほんとの恋の苦しみ? これが妖怪のせいだって?
 去り行く先輩の後姿を見ながら、私の中に意地悪の神様が舞い降りた。いや、それこそ妖怪のせいなのかも知れない。私は、先輩がどんな顔してレイコさんに会うのか見てみたくて、あとをつけることにしたのだ。
 電車に乗って向かった先は、ラブホ街。えっいきなり。それはちょっと見るの嫌、と思ったら、待ってたのはレイコ先輩ではなく、別の女だった。どういうこと?
 それから、デートのたびに、先輩が呼び出しを受けるたびに毎回あとをつけた。別の女、別の女、別の女。確認しただけで五人、別の女がいた。私は、二番でもなんでもなかったらしい。
「ねえ。二番の女って、他に何人いるの?」
 唐突に、朝比奈先輩に聞いてみた。
「なんのことだよ。お前だけだよ」
「私見たの。B組の吉永、C組の曽根。この二人はファンクラブ。あとは多分二年の人。私を含めて、レイコさん以外に六人いる」
「みんな、二番なんだよ。奈々はその中で一番」
「何いってんの? 私七番なんでしょどうせ。名前も奈々だしさ」
 そんなときまたスマホが鳴った。
「レイコさんの所へでも、二番から六番の所へでも、どこでも行けば?」
 知らなきゃ良かった。あの日あとをつけたりしなけりゃ、ずっと二番の私で満足したり、傷ついたりし続けられたのに。
 家に帰って、屋根の上のデブ猫ちゃんに頼んでみた。あの天狗の子を呼んでと。

 どういう魔法だか知らないけれど、十分も経たないうちに彼はやって来た。
「ひとつお願いがあるんだけど」
「何?」
「あの透明になるやつ、私でも使える?」
「被るだけだから大丈夫」
「ちょっと、貸してよ」
 私は透明人間になって、ささやかなる復讐をすることにした。


 深夜になるまで待ち、朝比奈先輩の部屋に忍び込んだ。侵入には天狗の面の少年が協力してくれた。私はすやすや眠る彼の横の、充電中のにっくきスマホを取り上げた。暗証番号は、いつも見ていた彼の指の動きで覚えている。色々なフォルダを開け、女の連絡先を見つけた。私の名前は「奈々ちゃん(7)」と、ご丁寧に数字つきで登録されていてちょっと凹んだ。全部の連絡先に、ラインとかメールとか、全部の女とのやり取りをコピーして送ってやった。無論、「一番」のレイコ先輩にも。
 壁際に座り、少し待った。
 彼のスマホは鳴りまくった。直電が色んな女から入った。ねぼけたまま叩き起こされた先輩は、おろおろと対応した。それは夜明けまでかかり、私は透明のままずっとその彼を見ていた。
 あの時五メートルの空に飛んだ彼と、今目の前にいる男が同じ人間だとはとても思えなかった。その男は、どの女にも「君が一番」って言っていた。私には「二番の一番」って言った癖に。
 朝日が差し込んできた。つまらない、有意義な徹夜だった。
「二番はもういいや」
 そう呟いた瞬間、耳鳴りのような音がして、部屋の中の時が止まった。彼も、登りかけた太陽もぴたりと動きを止めた。それは金縛りみたいな不思議な光景だった。
「ドントハレ!」
 という、あの子の声だけがこだました。赤い炎を見たような気がしたけど、それは夢だったのかも知れない。
 気づくと私は家で寝ていた。あの猫も見当たらず、かくれみのも少年の姿も消えていた。鏡を見ても、妖怪もいなかった。あれは幻だったのか。狐につままれたみたいだ。鞄に入ったままの炭酸水だけが、あとに残されていた。


 私たちは海を見ていた。
 流木に座って、親友のヨリ子に今までの顛末を全部白状した。ヨリ子は笑って全部聞いてくれた。ありがとうヨリ子。お前には色々借りが出来た。一生かけて返すからな。
「だからやめとけって言ったじゃんよう」
「あとさ、和田とも別れる」
「なんで? フツー君が好きだって言ってくれる男とくっついて、ハッピーエンドでしょうが」
「二番でいい、なんてさ、ずるい男に興味ない」
 私はローファーも靴下も脱いで裸足になり、海まで砂浜を走っていった。波に触れた素足が、思ったより水温が冷たいことを伝えてくる。

 恋は人を変える。恋で人は狂い、真実をひとつ知る。
「私さ、馬鹿な子供だわ」
 鞄から出した炭酸水をあけて、一気飲みした。キツくてキツくて涙が出た。

「もっと大人になりたい」
 海が冷たくて、波も風も強かった。


 涙目は、炭酸のせいにした。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十七話 「ベストを選ばなきゃ損」 妖怪「ベスト」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 シンイチのアイスクリーム好きは筋金入りだ。先日もソフトクリームを持って商店街を走っていたら、妖怪「いい子」に取り憑かれたパンクロック姉ちゃんに出会ったばかりだ。
 今回の出会いの舞台は、「60(シックスティ)アイスクリーム」というアイスクリームチェーン店。「二ヶ月間毎日違う味を楽しめる」ことを売りに、アメリカからやって来たことで有名だ。シンイチが商店街のはずれのこの店にやって来る少し前、「六十の味から、どれを選ぶのがベストか」で悩む小太りの女がいた。彼女の名前は緑川(みどりかわ)佐代子(さよこ)。行き遅れた独身OLである。

 佐代子は、六十色ものアイスクリームを前に、三十分前からずっと悩んでいた。佐代子はいつも決断が遅い。それが自分の欠点だと分ってはいる。彼女は、「選ぶ」ということにおいて特別遅い。ベストチョイスをしたいのは人の常だが、彼女の場合、それは度を越していた。

 まず最初に悩んだのは、オレンジソルベかレモンマスカルポーネ。爽やかな柑橘系の気分が良いとまず最初に思い、シャリッとスッキリした食感のソルベに行くか、やわらかい濃厚なマスカルポーネチーズ入りにするか迷った。一端決断に迷うと、目移りしてしまう。ベストを必ず選ばなければという、使命感すら帯びてくる。
 ラズベリー&ブルベリーの、アメリカンな酸味と甘味のバランスも捨てがたい。ミントライムの香りなら、人生がすっきりしそうだ。同色系で抹茶という和の落ち着きもあり得る。甘さばかりを考えず、ブラック&ビターという大人の選択肢もあり得るし、ソルトライチという塩の選択肢もあり得る。キャラメル&ナッツという、後頭部に突き抜ける天才的甘さに振り切る手もある(シナモンパウダー追加が、彼女の定番だ)。
 とにかくひとつしか選べないのだ。慎重に、慎重に慎重に、慎重に慎重に慎重に決めなければならない。端の方の変化球に目が移るかと思えば、ど真ん中に堂々と座す王道バニラが正しい気もしてくる。浮気してごめんよと泣きついても、正妻バニラは正座して濃厚に私を待っているだろう。しかし同じ白系列でも、ココナッツ&ミルクは、甘えん坊ぶりで正妻を上回る。
 とにかくひとつしか選べないのだ。ふたつ選ぶのはどうか? ふたつは駄目だ。ただでさえここ最近佐代子の体重は増えてきて、ダイエット中なのである。

 大体、佐代子の人生は昔からこうなのだ。いつも選べない。あの子と遊ぶのかこの子と遊ぶのか、文系か理系か、A君かB君か、フレンチかイタリアンか、西荻窪(にしおぎくぼ)に住むのか幕張(まくはり)に住むのか。鯖の味噌煮定食か唐揚げか。人生の選択肢で、彼女はずっと迷い続けてきた。ベストは何か? ベストを選んで得したい。むしろ、ベストを選ばなきゃ損だ。
 結婚相手も彼女はベストを選び続け、ついに決められぬまま、彼女は独り身の三十路へと突入した。かつてモテなかった訳ではない。ただ「ベスト」と思わなかっただけだ。結局、彼女は独り身のまま生きて、こうしてアイスクリーム選びに三十分以上かけている。
 丸みと厚みを増しつつある彼女の背中ごしに、六十色の平原が広がっている。それはそのまま、彼女が選びきれなかった「ベスト」の墓場である。

「キャラメル&ナッツ、シナモン多めで」
 結局、ベストの確信がないまま、彼女は猛烈に甘いものを選ぶことで、ひとときの満足を買った。その場で舐め始めながら、残り五十九色と比べてベストだったのかを悩み始める。背後の気配に振り返ると、ショウウインドウに貼りつき六十色を眺める、シンイチと目が合った。
 いや、この子はアイスクリームを見ているのではない。佐代子を見ていた。
「……何?」
 帰ってきた答えは、佐代子が生涯はじめて聞いた言葉だった。
「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」

    2

 佐代子は鏡の中の、自分の左肩に取り憑いた妖怪「ベスト」をしげしげと眺めた。
 コーンを逆さまにしたような形で、ペパーミントグリーン色だ。60アイスクリームで言えばミントライム色。様々な色の目がついている。赤、水色、黄、ピンク、オレンジ、ブルー。どの色も60アイスクリームのどれかの色に似ていた。カシスレッド、ハワイアンオーシャン、レモンマスカルポーネ、ストロベリーライチ、オレンジソルベ、ディープベリーといった所か。即座に味が舌に立ちのぼってくる。その妖怪は六十の目で、四方八方をやぶにらみに見ていた。
「つまり私は、妖怪『ベスト』に取り憑かれて、ベストを選ばなきゃ損だって強迫観念に囚われてるってこと? 妥協を許さず、でも結局どれもベストと思えない、優柔不断な私の人生。それは、妖怪『ベスト』のせいだと」
「まあ、そういうこと」
 佐代子はキャラメル&ナッツ、シナモンパウダー多めのアイスを舐めながら、鏡を見て自分の肩の「ベスト」をしばらく観察した。キャラメルとシナモンがチョコを媒介に溶け合い、脳味噌がしびれるような甘い快感が走る。不気味な六十の目は、各々別の方向を向き、世の中全てを見ておかないと気が済まないとでも言うようだ。
 佐代子より早く、シンイチはレモンシャーベットのアイスを食べ終えた。自分と対照的に、シンイチはあっという間の二秒で注文を決めたのを、佐代子は疑問に思っていた。
「レモンシャーベット以外の他のは、気にならなかったの?」
「気にならなかったよ?」とシンイチはあっけらかんと答える。
「どうして?」
「レモンシャーベットが目に飛び込んで来たからさ!」
「……それじゃ単純すぎるでしょ」
「単純?」
「つまり、どれがいいかもっと迷うでしょ」
「オレはレモンシャーベットが食べたいって思ったから、別に。あ、奢ってくれてありがとうね! ウマかった!」
 シンイチは満面の笑みを浮かべた。佐代子は頭を抱えた。子供は単純でいいなあ、と。
「私がこの歳まで行き遅れなのも、色々考えすぎだから? それとも、この『ベスト』のせい?」
「そこまでは分んないけど、そうかもね。大体、なんで結婚しないのさ」
「うーん、ほんとにこの人がベストかどうか、確信が持てないからじゃないかなあ。私、最近ずっとお見合いしてるのね。パーティーとかに出て」
「流行りの婚活パーティーってやつだね!」
「まあ、そうね。で、何人見ても、何人見ても、全然いいと思える人に出会えなくてさ。出会いすぎて、分んなくなっちゃったのかも知れない。ベストって何なのかが」
「アイスみたいに?」
「そうね。……週末またパーティーの予約をしてるの。そこでもベストを選べないんじゃないかなあ」
 佐代子はため息をついた。妖怪「ベスト」はその瘴気を吸い、大きさを少し増した。
 シンイチは無邪気に提案した。
「じゃもう、『最初の人と結婚』て決めればいいじゃん!」
「いやいや無理でしょ」
「じゃ二人目だ!」
「いやいやいや、もっと情報収集しないと」
「じゃ三人目!」
「全然サンプルが足りない」
「四人目」
「まだまだ」
「じゃラストの人!」
「それまでにベストの人がいたら、手遅れじゃん。それに」
「それに?」
「次のパーティーにベストの人がいるかも知れない」
「……でも、いないかも知れない」
「……はあ。そうなのよねえ」
 婚活パーティーとやらに、シンイチは天狗のかくれみのを着て、ネムカケと忍び込むことにした。バイキング形式だから料理を勝手に取ってもいいよ、と言われ、シンイチはやる気まんまんとなった。

    3

 西麻布(にしあざぶ)の瀟洒なレストランで行われたその婚活パーティーは、年収も年齢も様々な人たちが集まる、バラエティー豊かな集まりだった。写真選考があり、容姿に問題ありそうな人は事前に弾かれているのが特徴だ。佐代子は太る前の写真を出したので、どうやら選考をクリアしたようだ。中央にはバイキング形式の料理があり、どれを食べるのがベストかまたもや佐代子を悩ませたが、今回は料理がメインではないと割り切った。男女五十名ずつが入り乱れた、表向きは異業種名刺交換会のようなものだった。
 シンイチは相棒のネムカケを連れ、かくれみので潜入し、バイキング料理を食べつつ彼女の様子を見ていた。ローストビーフと焼きそばとハンバーグをシンイチは気に入り、ネムカケは焼魚などの和食がないことを嘆いたが、デザートのあんこだけは気に入った。

 年収三千万の外科医・四十歳。年収九百万の銀行員・三十七歳。年収千二百万のTVプロデューサー・三十六歳。年収不定の俳優兼モデル・二十七歳。
 どの人も不快な感じはなく、人が良さそうではあるが、何の決め手がある訳でもない。俳優兼モデルの冬彦と名乗った男は、多少イケメンでおおっとなったが、結婚相手に顔だけを求めても仕様がない。
 さて。これだけの人数を見ても、佐代子はまた同じ感情に取り憑かれてため息をつく。
 どれがベストか分らない。そして、ベストを選ばなきゃ損な気がする。

「ここ、いいですか?」
 佐代子の向かいの席に座った男は、かなりの巨漢だった。体重で言えば百キロをゆうにこえるだろう巨体で、額に汗をかいていた。
「スイマセン、デブなんで、すぐ汗かいちゃうんですよ。あ、五味(ごみ)等志(ひとし)といいます。はじめまして」
「緑川佐代子です」
「緑川さん、こういうのよく来るんですか?」
「いえ、初めてです」
 佐代子は嘘をついた。初心(うぶ)に見せる為のテクニックだ。この人にそう見せたいわけではなく、普段からそうしていないと癖にならないからである。
「ボクこういうのちょいちょい出るんですけど、苦手で」
「はあ」
「何人出会っても、どの人がいいかなんて、中々決められないタイプなんで」
「そう思います。……ホントそうです」
「『秘書の問題』って知ってます?」
「なんですかそれ?」
「元々、『秘書を面接で決めるときに誰にするか』を、数学的に解析した問題です。今じゃすっかり、こういうお見合いのときに使われる」
「はあ」
「N人の人を面接するとしましょう。順に見ていき、いいと思った人に即座に決定しなければいけないルールとします。あとからさっきの人を呼び出すことは出来ず、今決めなきゃいけないルール。何人目まで様子見をし、何人目までに決めると、最も優秀な人を選ぶ期待値が高くなるか、という数学的問題。つまり、ベストの相手を選ぶ確率的、統計的方法ってこと」
「……ベスト」
 佐代子の興味が少し動く。
「結論から言うと、ネイピア数1/e(=0.368…)に収束する。つまり、36%まではスルーし、37%以降に、捨てた第一集団よりもいいと最初に思った人に決めると、ベストを選べる確率が最大になるんです」
「……本当に?」
「あくまで理論上ね。ちなみにボク、何人目?」
「えっと……18人目」
「50人の37%は……19人目か。はい、スルーで」
 五味は笑って立ち上がった。
「あ、年収とか、そういう話してませんけど」と、一応佐代子は言った。
「そういうの、ボク興味ないんで。あ、名刺置いていくルールでしたね」
 五味はポケットから名刺を出し、テーブルに置き、おじぎをした。
「こういう者でした」
「あっ」と佐代子は声をあげた。こういう偶然もあるのか、と驚いた。
 名刺には、「60アイスクリーム 開発部」とあったからである。

「私大ファンなんですよ、60アイスクリームの!」
 佐代子は五味を呼び止めた。
「ありがとうございます。いつもお世話になっております」
 五味はうやうやしく大げさに一礼し、真顔になって佐代子にたずねた。
「ちなみに、新作のジューシーパイナップル、どう思います?」
「うーん、一回食べてもういいやってなったかな」
「ほう」
 五味は急に表情が鋭くなった。
「何故?」
「そもそもパイナップルの甘さって、甘さと酸味のバランスだと思うんですよ。だったらラズベリー&ブルベリーのほうが優秀だし、柑橘系の爽やかさならオレンジソルベのほうがキャラが立ってるし、あ、こないだのゆずのピールも苦味が尖ってて良かったかな。専門的なことは分らないけど、パイナップルって甘く濃厚にすればするほどいいという訳でもないと思うんです。シロップ漬けのパイン缶を目指してるわけじゃないんだから」
「ほう」
 五味は目を輝かせた。半分去りかかっていたテーブルに、再び戻ってきた。
「あ、ごめんなさい。悪く言うつもりはなかったです」
「いえ。正直に言ってくれるほうが有難いんです。では、キャラメル&ナッツはどうです?」
「あ、あれ前と味変わりましたよね? シナモン多めにしないと、前みたいにならないんですよねえ」
「シナモン多め?」
「私いつも行く所で、店員さんに交渉して、五十円上乗せしてやってもらうんです」
「ふむ。……」
 五味は頭の中で味を想像した。
「なるほど、それはあるぞ。ちょっと安っぽくなったキャラメルが、シナモンパウダーが行き届くことでエキゾチックに中和されそうだ!」
「分りますか!」
「分るとも! だってボク、弊社のフレーバー開発責任者なんで」
「あっ……」
「だからこんなにデブなんですけどね!」
 と五味は笑った。さらに身を乗り出し、五味は尋ねた。
「お腹すいてないですか?」
「どうして? バイキングで食べ放題でしょ?」
「ぶっちゃけ、味いいと思いました?」
「バイキングならこんなもんかと。ぶっちゃけ美味しくなかったので、殆ど食べてないです」
「かあーッこれは痛快! 殆どの女性はね、表面上でも美味しいなんて言うもんですよ! 味音痴なのか嘘つきなのか! ボクはね、婚活パーティーがはじめてとか嘘つくのはどうでも良いんです。味に嘘つく奴が許せんのですよ! ウマイ焼肉屋が近くにあるんで、抜け出して食いに行きませんか!」
「焼……肉?」
「世界一ウマイ料理のひとつでしょう? 焼肉は!」
「そうですよ。そりゃそうですけど」
「じゃ話は決まった」

 婚活パーティーに来たら、何故だか焼肉屋に舞台がうつっていた。予想もつかないシュールな展開で、佐代子は騙されてるのかと思った。シンイチとネムカケは、かくれみので尾行を続けている。
 ここは煙をもうもうとあげる、西麻布の地下の焼肉屋だ。
 五味はメニューを見せながら佐代子にたずねた。
「何からいきます? タン(舌)シオあたりから様子見しますか?」
「私赤身からなんです。ハラミ(横隔膜)が一番です」
「いいね。ロース(肩や背の腰まで)やカルビ(肋付近)は?」
「ハラミに敵わないと思うんですが」
「国産のロースやカルビは脂が乗ってますよ?」
「焼肉は肉を食べるもので、脂を食べるものではないと思うんです」
「思った通りだ。あなた、いい舌を持ってる!」
 その後二人は、どの部位が好きかを延々と話した。赤肉だけでなく、白肉(ホルモン)の話もした。ミノ(第一胃)のサクサク感、ハチノス(第二胃)のふわふわ感、センマイ(第三胃)のぶつぶつの気持ちよさ、ギャラ(アカセン、第四胃)のもちもち感をはじめ、シマチョウ(小腸)やテッチャン(大腸)の焦げた所の旨さについても語り合った。ウルテ(喉骨)やコブクロ(卵管)のコリコリぶりや、オッパイ(胸腺)のとろみについても意見が合った。
「ここまで話してアレですが、緑川さん的には、どの部位がベストです?」
 と五味は聞いてみた。しかしここで、それまでの佐代子の快活な語りが止まった。
「……」
「あれ? 何かボク悪いこと聞きました?」
「違うんです。今『ベストが何か決められない病』なんです、私」
「そっか。分りますよ。肉はどこも旨いしね」
 また失敗したか、と苦い顔になった佐代子に、五味は新しい提案をした。
「ちなみに次の月曜の夜、空いてますか? 渋谷の60アイスクリームで、新商品の試食会やるんですけど」
「はい?」
「スタッフだけの会なんですけど、その舌を買って、是非忌憚なき意見を聞いてみたい」
「そんな、私なんか」
「いや。あなたの舌は相当正確ですよ。目隠ししたってどのアイスクリームかぐらい分るでしょ?」
「え? そりゃそうでしょ」
「ところがウチのスタッフでもそれを正確に出来る奴はいないんだよなあ」
「そんなバカな!」
「そう思うでしょ? アイスクリーム屋が味の差見分けられなくて商売やっちゃいかんと思うのですよボクは。アイスクリーム食べ放題ということで、次の月曜いかがです?」
 60アイスクリームの新作試食会。それだけで佐代子の心は少し躍った。それまで黙っていたシンイチも同じくだ。月曜に備えて、佐代子はダイエットをしっかりしようと思った。

    4

 シンイチはアイスクリーム食べ放題を楽しみにして、佐代子と共に月曜の夜、60アイスクリーム渋谷店にやってきた。ネムカケは和風の新作、きなこあんみつ味に興味をそそられてついてきた。親戚の子供という設定を佐代子が考えついたので、シンイチはかくれみのを被らずに、堂々と新作を試すチャンスを得た。シンイチはスパイシーカレーを気に入り、ネムカケは栗金時を気に入るかと思いきやマンゴー&ドリアンへ転んだ。
 広い渋谷店には、本部の人たちや開発スタッフが沢山来て、立食パーティーのような様だった。
「どう?」と五味が聞いてきた。
「どれもウマイよ!」とシンイチは上機嫌だ。
「アンタ何でもウマイって言うんじゃないの?」と佐代子は言う。
「そんなことないよ!」
「じゃ聞いてみるけど、お祭りのカキ氷あるじゃない?」
「うん! 大好き!」
「あれはどれが好き?」
「ストロベリーもいいし、メロンもいいよね! ブルーハワイもレモンもいいなあ。やっぱストロベリーかな!」
 佐代子はにやりと笑い、五味の顔を見た。
「五味さん。ここでカキ氷つくれたりする?」
「シロップはあると思う」
「じゃあスタッフにもやらせてみたら? 利きカキ氷」
 五味もにやりと笑った。
「面白いことを言うね、緑川さん。君はあの(・・)話を知ってるんだね?」
「ふふ。もちろん」

 シンイチも含め、五味はスタッフに全員利きカキ氷をやらせてみた。目を瞑って食べさせ、何味か言わせるだけだ。結果は五味と佐代子の予想通りだった。それぞれの味覚はバラバラで、ブルーハワイをストロベリーだと言ったり、オレンジをメロンだと言うスタッフもいた。シンイチもどれがストロベリーか分らないよとこぼした。
「そりゃそうですよ皆さん」と五味は言った。
「だって全部味は同じだもの」と佐代子は続けた。
「えええ?」
 スタッフはざわついた。五味が解説を加える。
「カキ氷のシロップってのは全く同じもので、着色料が違うだけなんだ。香料を加える商品もあるけど、それにしても匂いの差で味の差は生じない。ここで使ったものは無香料タイプ。つまり全部同じ味だ。あなたたちは、それを見分けられなかったんです」
 人々はショックを受け、黙り込んでしまった。
「緑川さん」と五味は笑顔で佐代子を振り返った。
「はい」
「このカラクリ、知ってて振りましたね?」
「ええ。私、自力で七歳のお祭りのときに気づいたんですよ。食いしん坊だったので」
「絶対音感みたいに、絶対味覚みたいなのがあるのかね」
「味を忘れたくないって思って、頭の中で何度も反芻したから気づいたのかなあ」
 佐代子は自虐的に笑った。五味は、真面目な顔で尋ねた。
「その舌の力で、是非新作を批評してくれませんか」
「えっ……いいんですか?」
「その為にあなたを招いたんです。忌憚なきご意見を」
 佐代子は小さく咳払いをし、語り始めた。
「黄桃&チェリィだけど、どっちもエグみがケンカしてると思う。昔あったやさしめの白桃系の味にして、たとえば白桃&チェリィならまとまるのでは」
「……ほう」
「ココナッツ&カラメルは、カラメルの焦げをもう少し足さないと、苦みの旨さが足りない。黒砂糖の味がもっとあれば。水が欲しくなるだけの甘さだったなあ。ティラミスのチーズは、チーズ&クランベリーに入ってたチーズのほうが、チョコと合うと思う。それか今7:3の比を、6:4くらいに下げるか。スコーン&ハーブティーはローズヒップが強すぎてミント系の香りを消していると思うし、アールグレイ系の渋みを活かしていったほうがいいんじゃないかなあ。昔あったアールグレイ&キャラメルスコーンのイメージが近いんだけど」
「えらくマイナーなのを知ってるね」
「ふふ。いつも死ぬほど迷ってるし。あと、ショコラオレンジと、トリプルフルーツのオレンジは、違うオレンジを使ってます?」
「どうして分った?」
「レモンとの相性はいいけど、ストロベリーとの相性は、ショコラオレンジ側に寄せたほうがおいしいと思う。あと、キウイ&ラズベリーは面白い試みだと思ったけど、レモンシャーベットの王道キャラの陰に隠れちゃうよね。酸味同士の組み合わせはいいけど、甘味方向か、キウイの種を使って食感に振らないと、まだぼんやりしてるかなあ。あ、洋梨のカスタードは良かったです。でも名作洋梨ムースの復刻版って感じで、マスクメロン系に伸ばしたほうがおいしくなるかも。色的にピスタチオ系と濃淡で合わせてもいいかなあ」
「……」
 五味は言葉を失った。周囲のスタッフも言葉を失ったまま佐代子を見ていた。その異様な雰囲気に、まくしたてるように一気に喋った佐代子はようやく気づいた。
「みんな、聞いたか?」と五味は研究スタッフ達に言った。
「……あ、ごめんなさい、素人が好き放題言って」
「とんでもない。みんな黙っちゃったのはね、面白い事実がひとつあって」
「?」
「あなたの指摘は、ボクが事前に指摘したコメントと、殆ど一緒なんだ」
「ええっ?」
「ボクは6:4じゃなくて、逆に3:7に振り切った方がいいって言ったぐらいかな」
「んー、あ、それもアリですね!」
 佐代子は頭の中で味を想像し再現し、納得した顔をした。
 五味はあらたまった顔で、佐代子に尋ねた。
「緑川さん。ここに百近くのアイスクリームが揃っている。あなたは我が社の過去の名作にも詳しい。一千は下らないその名作群について、ひとつ聞かせてくれないか」
「はい」
「ベストは、何?」
「え?」
「今までのベストを、是非教えて欲しい」
 一番困る質問をまた佐代子は受けることになった。固唾を飲んで見守る何十人もの目。成長して行く妖怪「ベスト」。突然佐代子は涙が溢れてきた。
「……決められないの」
「?」
「決められないの! 私には何がベストか分らないの! ごめんなさい! 期待に応えられそうにありません! ベストは……ベストは……この中にはないです!」
 必死で答えた。涙が止まらなかった。混乱した佐代子は店の外へ飛び出した。

「待ってください! 待って!」
 五味は走る彼女を必死で追いかけた。走る小太りの女を、走るデブが追いかけた。五味は息が切れる。必死だった。うしろから声をかけても彼女は止まらないので、五味は必死に彼女を追い越し、彼女の前に立ちはだかった。佐代子は顔が涙まみれで、五味は汗まみれだった。
「何なんですか! 私は何もかも分らないんです! もうついて来ないで!」
 五味はその場で土下座した。
「お願いです!」
「お願いされても、私なんかに……」
「違うんです! ボクと結婚を前提につきあってくれませんか!」
「はああああ?」
 あまりにも意外な展開に、しばし佐代子の思考回路は止まってしまった。五味は続けた。
「確信したんですよ! あなたはちゃんと違いが分る人なんだって! すべての違いが分る正確で繊細な感覚があるからこそ、千に至る味を全て分かり、分類し、系統立てて理解してるんですよ! だからだ! だからベストを決められないんだ!」
 五味は土下座した顔を上げた。
「だって、ボクもあの中にベストがないって思ってるから!」
「ええっ?」
「はじめてだ! はじめてボクと話が合う人を見つけたんだ! ボクは緑川さんとなら、延々と微妙な違いについて議論できる! 同じ感覚を持つ人なんだもの! それって、男女で一番大事なことでしょう?」
「は、……はあ」
「お願いです! ボクとベストをつくりませんか!」
「ベストを、つくる?」
「ベストの味がないから、つくるんです! 結婚だって同じだ! ベストの人は選ぶんじゃないと思うんだ! 二人で、ベストの関係を、つくっていくものなんだ!」
「ああ。……そうか。そうなんだ」
 佐代子は突然、納得がいった。彼女は五味の手を引いて、ゆっくりと立たせた。
「選んでるから、なんだ。選ぶだけだから、どっかで損とか得とか、勘定してるだけになっちゃうんだ」
 五味のズボンについた埃を、佐代子は払ってあげた。
「あなたのひと言で目が覚めました。つくるってこと、考えてませんでした。……私でよければ、よろしくお願い致します」
 こうして佐代子の肩の妖怪「ベスト」は、彼女の心から遊離し、宙へと解放された。

「不動金縛り!」
 ここからはシンイチの出番だ。シンイチは腰のひょうたんから、天狗の面と火の剣を出した。
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 小鴉から放たれた炎は妖怪「ベスト」を取り巻き、熱い黒い刃がバターを切るように「ベスト」を真っ二つにした。カラメルの焦げる匂いが香ばしい。洋風の「ベスト」も、天狗の火の剣の力にかかれば和風に浄火だ。清めの粗塩と化した「ベスト」は、ぼふうと音を立てて大爆発した。
「一刀両断! ドントハレ!」


「あれだけアイス食べて、お腹ゆるくならないですか?」
 五味は、帰り道に佐代子に尋ねた。
「食いしん坊万歳」とお腹をなでて彼女は笑った。
「ははは。実はボクもなんです」と五味は太い腹を叩いた。
「知ってます? 渋谷にも、ウマイ焼肉屋があるって」
 五味は笑った。佐代子も笑った。
「じゃあ、連れてってください」
 二人は、夜の街へと消えた。

 食いしん坊たちほど胃袋が強くないシンイチとネムカケは、翌日二人揃ってお腹を壊した。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十八話 「ヒラメのお寿司」 妖怪「任せられない」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 定年が近いということで、会社に尽力してきた労をねぎらい、部下たちが金を出し合って油絵の肖像画をプレゼントしてくれることになった。

 水谷(みずたに)徳一郎(とくいちろう)は、現場の叩き上げから花菱(はなびし)商事の役員にのぼりつめた豪傑だ。豪傑というイメージからはほど遠い、ひょろりと痩せた身体だが、心根が豪傑なのである。内戦の国へ単身飛んでゆき、資材を買いつける交渉を通訳なしでこなしたことがある。強盗に拉致され、縄を自力で切って脱出したこともある。昭和の時代、道なき道を切り拓き、ゲリラの銃弾をバケツの蓋でかわし、小さな商社だった花菱を、業界八位にまで成長させた原動力の一人であった。
 花菱四天王に数えられ、群れずに独立独歩を貫いた男だ。だから部下には厳しい。自分の時はそんなものではなかったと、部下には容赦ない。役員で現場を離れていても、「現場とは人と人だ」という信念から、いまどきの現場を叱責する。ヌルイやり方をするぐらいなら、彼は「貸せ」と何もかも一人でやってしまう。
 タクシーに乗っても、近道を知らない運転手に向って道を教える。時間帯によって変わる信号のタイミングの違いまで熟知してるから、青信号を繋げていく最速の走り方まで知っている。世界各国で泥水から高級料理まで食べてきたから、そこいらのシェフより舌が確かで料理の腕もある。下手なシェフなら「貸せ。わしにやらせろ」と厨房に上がりこみ、実際にシェフより旨い料理をつくってしまったことも、何度もあった。部下の交渉がぬるければ一人で先方に出向き、一人で契約を取りつけてきてしまう。水谷の「貸せ。お前らには任せられん」が出るとき、周囲の部下達は震え上がるのだ。

 もう定年で勇退なんだから静かにして下さいよ、と長年直属の部下だった古川(ふるかわ)(現在はエースの外資部の部長だ)が有志を募り、眼光鋭い今の水谷の姿を腑抜けになる前に永遠のものにしようと、油絵画家を探してきた。
 モデルなどやったことのない水谷は、最初こそ緊張していたが、雰囲気に慣れてくると自分がどのように描かれているか気になった。
「どれ、そろそろ見せてくれんか」と、水谷は画家に尋ねた。
「まだデッサン段階なんで」と、画家はゆっくりと構えている。
 せっかちな水谷は席を立ち、デッサン中の絵を覗きに来てしまった。
「なんだ。任せられんのう。貸せ」
 水谷は若い画家の木炭を取り上げ、がしがしと描き込みをはじめた。
「わしはこれでも、昔画家になりたかったのでな」
 その画家よりも上手い絵を、そう言って水谷はたちまち描き上げてしまったのである。

 水谷の右肩にはいつ頃からか、妖怪「任せられない」が取り憑いている。そのことには本人も周囲も気づいていない。そう、我らがてんぐ探偵シンイチに出会うまでは。

    2

 水谷は虎ノ門(とらのもん)から御茶ノ水(おちゃのみず)に向かうため、タクシーに乗ろうと手を上げた。乗り込もうとしたその時、天狗の面を被った奇妙な少年と太った虎猫が、どこかからやって来て一緒に乗り込んだ。
「坊主、御茶ノ水へ向かうぞ。嫌なら降りろ。嫌じゃなければこのまま乗せてってやる。運転手さん、御茶ノ水へやってくれ」
 と、水谷は動じるでもなくタクシーを発進させた。
「別に構わないよ。僕はあなたと話をしたいだけだから」
「ほう。誰だね? アラブからわしを暗殺にでも来たのかね?」
「全然。あなたに妖怪が取り憑いている、って警告しに来たんです」
 水谷は面白がった。
「これは面白い。インチキ霊媒師なら世界中で見て来たぞ。アメリカの超能力捜査官も、ナイジェリアの心霊治療師も、タンザニアのブゥードゥーも、全部インチキじゃったぞ」
 と、急に水谷は運転手の道に文句をつけた。
「今の右にやるより、直進で一個先右折のほうが良いのに」
 天狗面の少年シンイチは、タクシーのルームミラーを指差した。
「鏡を見てください。あなたの右肩に取り憑いているのは、妖怪『任せられない』です」
「ふむ」
 妖怪「任せられない」は、マンガの王様のような顔をしていた。鮮やかなスカイブルーの体に高い鼻だった。金色の立派な髭をたくわえ、小さな王冠まで被っている。それが自分の右肩にいるのを、水谷は鏡越しに確かめた。
「なんじゃこりゃ。さっきトイレで鏡を見たときはおらなんだぞ」
「妖怪『心の闇』は普通の人には見えないんですが、名前を自覚すると、取り憑かれた宿主には鏡越しには見えるみたい。あなたは、『人に任せられない心』になっていますね?」
 妖怪「任せられない」の立派な金色のヒゲが、車の振動に合わせて揺れている。水谷は運転手に指示しながら、鏡越しに天狗面のシンイチに尋ねた。
「その信号のワンブロック前で止めてくれ。……坊主、わしは他人に任せるのがとても嫌じゃ。全部自分で出来るものならやりたい。というか、やっている。それは、この妖怪『任せられない』のせいだというのか」
「驚かないんですね」
「長年世界で色んなものを見てきたからな」
 二人と一匹はタクシーから降りた。
「お前は何者じゃ」
 シンイチは天狗の面を外し、素顔を見せた。
「妖怪『心の闇』を退治する、てんぐ探偵。高畑シンイチといいます」
 水谷は動じないまま歩き出した。
「歩きながら話そう。わしは得意先に二時までに顔を出さなければならんのでな」
 シンイチとネムカケはついていった。すっかり水谷のペースに乗せられてしまっている。
「で? 妖怪が取り憑くとどうなるのだ? 体を蝕むのか?」
「おそらくですけど、蝕むのは心だけです。心の変調によって体が調子崩すときもあるけど、基本は心です。心を蝕み、そこからエネルギーを吸うみたい」
「そうか。では、こやつのせいではないのか」
 と、水谷は自分の胃の辺りを撫で回した。
「?」
「もうすぐ、わしは手術しなければならんのだ。腫瘍が胃に出来ていてな」
「手術?」
「うむ。妖怪のせいでないとすると、胃に出来た腫瘍はわしの不摂生が原因か」
「えっ。手術するのに働いて大丈夫なの?」
「大丈夫ではないが、仕事は他人に任せられん性分だからの」
「それだよ! それが妖怪のせいなんだって!」
「性格じゃろ。昔からそうだぞ」
「いつからか、酷くなったりとか」
「エスカレートはしたかも知れんが、明確な一点などないのう」
 ガラス張りの近代的ビルの前に、一行はたどり着いた。その前に、背広姿の男たちが待ち伏せしていた。水谷は顔を険しくした。
「古川、何故ここにいる?」
 直属の部下、古川だった。部下を連れて直訴しに来たのだ。
「水谷さん。一回、俺のやり方でやらせてくれませんか」
「ふん。わざわざ俺を捕まえに来て言うことはそれか」
「俺たちが折角金を出しあって呼んだ画家さんのメンツは潰すし、まあそれは今は本題ではないんですけど、そろそろ引退なんですから、俺に任せることも考えてくださいよ」
「ダメだ。任せられん。ここの人と俺は何年の付き合いだと思ってる。アフガン紛争以来だぞ。ゲリラの銃弾を一緒にくぐった仲じゃ。向こうさんも、俺だから信用してくれるんだ。ぽっと出のお前のやり方を信用してくれる訳ないだろう。……話はそれだけか」
 水谷は急ぎ足でそのままゲートをくぐり、ビルの中へ入っていってしまった。
 残された古川と他の男たちは、その背中を見てため息をついた。場違いな少年と太った老猫は、交互に古川と水谷の背中を眺めていた。
「あのおじいさん、来週手術するって言ってたけど」
 とシンイチは古川に話しかけてみた。
「どうして聞いたんだ?」
「えっと、そう、友達になったんだ!」
「あの古狸、誰とでも友達になるんだな」
「入院するの?」
「あと三日で」
「病院は? お見舞いにいかなきゃ」
愛宕(あたご)第一病院」
「……ひとつ聞きたいんだけどさ」
「何?」
「まさか手術も『任せられない』って、自分でやったりしないよね?」
「まさか」
 古川は一笑に付そうとしたが、確信は持てなかった。
「いや……あの人なら、あり得るかも」

    3

「よう高畑シンイチ君。話の途中だったな。スマンスマン」
「名前一発で覚えてるなんて!」
「それも仕事の一部でな。わはは」
 三日後、シンイチはネムカケを連れて愛宕第一病院の水谷を訪ねた。ベッドに寝かされた水谷は、病人とは思えない元気さで大声を張り上げた。
「わしのアレはどうなってる?」と肩を指差した。
「変わらず」
 妖怪「任せられない」はニヤニヤするでもなく、尊大な顔で世間を睥睨している。
「そうか。そうだろうな。ところで、ちょっと待ってくれぬか」
「うん。勿論」
 個室の病室には、スーツ姿の会社員たちが列をなして水谷の前に並んでいたからである。水谷は彼らの書類を見ては、赤いボールペンで何もかも修正を入れていた。
「これも駄目。これも駄目。全くわかっとらん。お前、何年目だ?」
「八年目です」
「精進せよ」と水谷は赤の入った書類を突き返した。
「ありがとうございました」
「次」
 まるで空手の百人組手だ。次々に部下達の書類を直しては次の書類へ。赤いボールペンで部下達をメッタ斬りにする武道家のようである。
 列の最後は、古川だった。
「古川。お前も直して欲しい書類があるのか?」
 古川は手に何も持っていなかった。話をつけに来たのだ。
「俺が水谷さんの部下の歴史が、一番長いんだ」
「それでも結局何もならなかったではないか。わしのやり方を盗みもせず、改良もしなかった。出来の悪い弟子じゃ。それが今更自分のやり方だと?」
「俺はアンタじゃない。アンタも俺じゃない」
「ふん。任せられる訳ないだろう。『尻ふかせの古川』なんかにな。どうせわしの尻拭いの量が増えるだけだろう。ケツの汚い奴めが」
「手術の前後、契約業務を止めてあなたを待てと言うんですか」
「デカイ契約だ。お前は経験したこともない。お前になぞ任せられん。さっき行列してた奴らにもじゃ。全く仕事というものを分っとらん」
「……」
「話は以上か。では帰れ」
「……じゃあ、七日まで止めます」
「五日には復帰する」
「傷が塞がらないでしょう」
「同じくこのベッド上で仕事をする。問題ない」
 古川はこれ以上の説得をあきらめ、悔しそうな表情を残して病室を去った。
「待たせたの。妖怪退治の少年よ」
 老人は急に優しくなり、シンイチに声をかけた。
「悪いが、扉を閉めてくれんか」
 シンイチは扉を閉めた。水谷の肩の妖怪「任せられない」は、少し大きさを増したように感じられる。
「実はな、わし、怖いんじゃ」
「手術が?」
「違う。わしの体を他人に預けることがじゃ」
「でも、手術ってそういうものでしょ?」
「出来るなら『貸せ』と医者からメスを奪って、自分で内視鏡をのぞきたい所じゃ。だが医学の知識は何もない。わしはそれを指を咥えて見ていなければならん。そんなの危なっかしくてしょうがない。怖くて怖くてしょうがないんじゃ」
「お医者さんを信用できないの?」
「今まで命すら自分で守ってきた。今更他人に命を預けられるか!」
「じゃ誰なら信用できるの?」
「誰も信用できん、と言っておるのだ!」
 息を荒げた水谷は、窓を見て落ち着きを取り戻した。どうやらその窓に自分の「任せられない」が映っていることに気づいたらしい。
「……担当医が信用できないから、そやつの手術を昨日見せてもらった。これまでの経歴も調べ上げた。失敗した手術は三例。数百もの手術をやって来てだ」
「すごい成功率じゃん」
「しかしわしが四例目にならぬ保証はない」
「大丈夫だよ」
「世の中に絶対はない。ないから、自分でやるのじゃ。自分でやって失敗したなら、誰の責任でもなくわしの責任じゃろ。それなら死んでも納得がいく」
 水谷は窓にうつった「任せられない」から、遠くへ視線をうつした。
「わしは二十歳のときに親友を失った。医療事故だった。ちゃんとやれば大丈夫だったものが、ついうっかりで命を失ったんだ。あいつも『ついうっかり』で死ぬなんて、納得いかないと思う。だからわしはそれ以来、わし一人の手で何もかもやって来たんだ」
「……水谷さん、優しい人なんだね」
「どこが?」
「他人に失敗の汚名を着せないようにしてるんだね」
「ふん。……他の奴まで責任取れんだけじゃ」
 妖怪「任せられない」の白んだ目を、再び水谷は見た。
「せめて眠ってる間に全部終わってたら、何も考えなくて楽なんだが……」
 水谷はため息をついた。今まで黙っていたネムカケが、突然口を開いた。
「シンイチ。五日まで不動金縛りをかけてしまえ」
「えっ?」
「どうせ麻酔をかけるんじゃろ。似たようなもんじゃ」
 水谷は驚いた。
「ね、猫が喋った?」
「シンイチよ、早く!」
「……わかった」
 シンイチは印を組み、九字を切った。。獨古印(どっこいん)大金剛輪(だいこんごうりん)印、()獅子(じし)印、(ない)獅子(じし)印、外縛(げばく)印、内縛(ないばく)印、智拳(ちけん)印、日輪(にちりん)印、隠形(おんぎょう)印。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術! エイ!」
 ここで水谷の時は止まり、記憶は途切れた。

    4

 水谷は長い夢の中にいたような気もするが、直後に目覚めたような気もした。目をあけると同じベッドに寝かされ、古川や他の部下達の姿が見えた。胃の辺りに包帯のようなバンドのようなものが巻かれている。
「古川。契約の続きを」
 古川はあきれた。
「第一声が仕事とは、参りました。普通、手術は成功したのか?とか、聞くでしょうに」
「お前らの顔を見てれば大体それは分かる。契約書は持ってきてるだろうな」
「……」
「どうした?」
「あなたが眠っている間に、仕事は全部、俺がやっておきました」
 古川は分厚い契約書を見せた。
「貸せ!」
 水谷は古川の手からそれを奪い、仔細を検討した。
「なんだこれは……なんだこれは……!」
 全てのページを読み終えた水谷は激怒した。
「何ひとつ合っとらんではないか! 古川……お前はわしから何を学んだ!」
 古川は逆に、全く落ち着いていた。
「全部、俺のやり方です。俺はアフガンにもベトナムにも行っていない。その俺の責任で出来るやり方に変えさせてもらいました」
「何だと?」
「ひとつもアンタのやり方は使ってません」
「お前……それは裏切りか! 謀反か!」
「違いますよ。あなたから教わったことをしたんです。最初に教わったことです。『ウチの商品を売るためなら、どんなことでもやれ』。それをちゃんと守ったんです」
「……それで、契約は成立したんだな?」
「はい」
「ならばよい。……お見舞いご苦労。現場に戻れ」
「……はい」
 古川とその部下たちは一礼して病室を去った。
 シンイチとネムカケは、窓際の丸椅子でずっとこれを見ていた。シンイチは口をひらいた。
「手術は開腹せずに内視鏡でやったから、すぐ治るってさ」
「まさか医者にも古川にも、全面的に任せることになるとはの。……で、わしの妖怪は?」
「……残念ながら、そのまま」
 水谷は、寝かされた状態のまま窓を見た。やはり妖怪「任せられない」と目が合った。
「退院したら、快気祝いに旨い物でも食いに行こう。あの変な術で心配する暇もなく眠れたからな。お主にお礼がしたい」
「古川さんには、どうして怒らないの?」
「仕事は結果が全て。それは奴も分かっているだろう。成功だけが報酬じゃ。……で、何か食べたいものはあるか? とっておきの寿司屋が築地にあるのだが」
「お寿司!」
 シンイチと魚好きのネムカケは飛び上がった。

 後日。築地市場の路地裏の小さな寿司屋に、シンイチとネムカケは招かれた。水谷の他には誰も客はいなく、大将が一人で握るような、小さなカウンターの店だ。奇麗に磨かれた白木のカウンターが、大将の丁寧な仕事ぶりを物語っている。
「水谷さん、今日はどうしますか?」と大将は尋ねた。
「この子と猫殿に、とっておきのものを食わせてやってくれ。何が好きだね?」
「えっとね! マグロとコハダとエンガワ!」
「へい! サビ抜きで?」
「サビ抜きで!」
「猫のお客さんは、酢飯は少なめですかい?」
 ネムカケは床に設けられた特別席でうなづいた。
 大将は優雅な手つきで寿司を握り、シンイチとネムカケに、マグロとコハダとエンガワを出した。
「うまい!」とシンイチはもりもり食べる。ネムカケも舌鼓を打った。
 と、水谷の前に小さな寿司が出された。
「わしは何も頼んどらんぞ」
「ヒラメの昆布締めです」と大将は説明した。
「頼んどらんが」
「ヒラメは一番消化のいい、良質な蛋白質です。顔色がいつもより優れなさそうなので、何かあったのかと思いまして。シャリも少なめにしときました」
「大将、わしが病み上がりだと知ってたのか」
「いえ。観察です」
「そこまで観察して、寿司を握るものか」
「体調次第で、美味いものも不味いものもありますからね。お客さんの体調考えるのも我々の仕事ですよ。ウチの寿司を食べてもらうなら、何でもしなきゃ」
「ふむ。……どこぞで聞いたような台詞だな」
 大将の笑顔につられ、水谷はヒラメの昆布締めをつまんで食べた。
「旨い」
「でしょう。このヒラメはサービスにさせてもらいます。病み上がりから俗世間にようこそ。何から握りますか?」
「うむ。その前に、電話をひとつしてもよいかな」
「どうぞ」
 水谷は古川に電話をかけた。二回コールで古川は出た。
「何でしょう」
「築地の寿司屋にいる。今すぐこれるか」
「急ですね」
「先日の祝勝会をやろう。全額わしのおごりじゃ」
「ほほう。珍しいこともあるもんですね」
「あと、こないだの画家さんには、来週時間をとって一から描いてもらうことにしよう」
「……どういう風の吹き回しですか」
「早く来いよ。祝勝会兼、お前に全面的に引継ぎを頼む会にするつもりなんだから」
「はあ?」
「お前が言ったんだぞ。わしはお前ではない。お前はわしでもない。お前が知らないわしの知ってることを、全部伝えようと思う。……早く来んと、わしが店の寿司全部食っちまうぞ」
「……十五分で行きます」
「十分で来い」
 水谷は意地悪に笑い、電話を切った。
「ということで、大将。悪いが、十五分後に二人前を握ってくれんかな」
「へい。ご注文はそれからにしますか?」
「いや、もう決めたよ。……はじめて頼むものだが、いいかな」
「どんなものを?」
 水谷は、ゆっくりと微笑んだ。
「お任せで」

 こうして、水谷の妖怪「任せられない」は彼の体から離れた。
 シンイチは右手で寿司をつまみながら、左手で火の剣を持ちながら、妖怪「任せられない」を一刀両断する破目となった。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第十九話 「ホントの私は何処?」 妖怪「ペルソナ」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「では、皆さんの志望動機をお聞かせください。えーっと、一七八番の皆川さんから」

 就職活動の集団面接が好きな人なんて、どこにもいない。
 誰もが示し合わせたように紺や黒のリクルートスーツに身を包み、茶髪や金髪だった者もカタログのような黒の髪型にし、にも関わらず全員が個性をアピールしなければならない。氷河期と形容されて随分と経つ「就活」は、何社も受けてようやく次の面接へこぎつけ、何十社も受けてようやく内定を貰う狭き門である。
 どのような人物が採用されるのか。採用された経験のない学生達に分かる訳がない。だからマニュアルが流行する。集団面接での受け答え。失礼のないマナー。受けのよいアピールポイント。履歴書の書き方。作法、服装、外見。皆が皆、マニュアル化し画一化してゆく。「皆が同じようであること」の同調圧力が起きているのに、「その集団からいちはやく抜け出して選ばれることがゴール」という不思議なレースが、ニッポン国の就職活動だ。

 清水(しみず)志織(しおり)は、その集団面接では一八〇番の番号をもらい、次の次に志望動機を喋らなければならない場面にいた。
 殺風景なオフィスの会議室に、白い長机を横に置き、その向こう側に五名の人事担当のおじさんが座っている。さっきからしきりと自分たちが出した履歴書やアピール書をペラペラとめくり、一覧表のようなものにメモを書き入れている。まるでリクルートスーツ学生のオーディションか品評会だ。椅子に座らされた五名の学生は、マニュアル通りに「失礼します」と部屋に入り、マニュアル通りに「おかけください」と言われるまで立ち続け、言われれば「失礼します」と言って浅く腰をかけて背筋を伸ばし、男子は膝の上に軽く拳を握り、女子は膝を閉じスチュワーデスのように斜めに脚を見せる。目線は相手のネクタイあたりから、時々相手の目を見、自然な笑顔をつくる。毎度毎度こんな座り方をする何百人をこの人たちは見てて飽きないのだろうか、と志織は思うが、もちろんそんなことを表情に出してはならない。
 一七八番の皆川くんがしゃべりはじめた。
「御社を志望した理由は、様々な領域の活動に興味を持ったからです。ビジネスのクロスオーバーやコラボレーションが言われて、複数の領域が活性化していると思います。わたくしは明治大学在学中、テニスサークルで副部長をやっておりました。年四回あるサークル旅行の幹事を積極的に引き受け、それで培った人々のクロスオーバーを仕掛けることが得意だと思っています」
「では、次の一七九番の……井出君」
「はい。……立っていいですか?」
「? どうぞ」
「ちょっと、ボードをつくって来ました」
 やられた。初手から第一印象を良くする作戦だ。パワーポイントでつくった、とITが得意とでもしめるつもりなのだろう。マニュアルどおりだが、有効な技だ。そのあとに普通の自己PRでは何も印象に残らない。志織の番が来た。
「次。一八〇番の清水さん」
「はい。私が御社を志望した理由は……」
 しまった。普通にはじめてしまった。思わず口ごもってしまい、嫌な間をつくってしまった。
「? 続けて」
「……ビジネスのコラボレーションがいいと思ったからです」
 ああ。前の人と被ってしまった。でもいいか。どうせみんな同じことを言うのだし。

 一次面接が終わり、リクルート姿の学生集団たちは、一階ホールから出てきた。既に面接の終わった者、これから面接に向かう者たちが、ホールに大量に溜まっている。
「あなたは誰ですか?」と、就活では延々と聞かれ続ける。それで体よく答えて好かれなければならない。そんなもの、分かる訳がない。自分探しの答えを見つけた奴なんてどこにもいない。私は誰? 私は誰? と自問自答を続ける、生涯はじめて訪れた、それは修行僧のような期間だ。
 志織は、今日の面接も失敗だったとため息をついた。妖怪「心の闇」は、その濁った息が大好物だ。志織に寄って来たのは、妖怪「ペルソナ」。顔がなく、丸いトゲのついた白い仮面の形をしている。その白仮面が彼女の顔面にぴたりと張り付き、彼女の顔と同化した。彼女は白い変な仮面を被る、リクルートスーツの女になった。
 彼女の周囲には、何十人もの似たような学生たちが行進している。駅へ向かい、帰るか次の面接に行くのだろう。そしてその学生たち全員に、妖怪「ペルソナ」が取り憑いていた。グレーや紺の似たような服の白仮面の集団が、ひと言もしゃべらぬまま歩き続けている。誰が誰か分からない。志織もだ。同質の人間たちが、同質の仮面で同質の行進を続ける。それは異様で、しかしどの就職活動の場にも見られる光景であった。

    2

 シンイチはススム達との放課後サッカーを終え、夕暮れの中を家路へと急いでいた。今日の晩ご飯は何だろう。カレーかハンバーグなら最高だ。昨日のロールキャベツはいまいちだったから、今日は和風かも知れない。焼き魚ならいいけど、煮魚はいまいちだな。そんなことを思いながら「ただいまー!」と扉を開けると、奇妙なものがシンイチを出迎えた。
「ニャー」
 白い仮面を被ったネムカケだった。
「ネムカケ何やってんの?」
 シンイチは靴を脱ぎながらネムカケに話しかける。
「ニャー」
「猫の真似はいいからさ。なんか棒読みのニャーだよねそれ」
「ニャー」
「……ギャグとして、あんまりそれ面白くないんだけど」
「ニャー」
「……」
 白い仮面のネムカケは同じ答えしか言わない。ようやくシンイチは、事の異常さを察知した。
「それ……妖怪?」
「ニャー」
 ネムカケはそもそも人の言葉を話す三千歳の化け猫だ。猫みたいにニャーと言う訳がない。にも関わらず、何故棒読みでニャーとしか鳴かないのか。
 廊下にハンバーグの匂いが流れてきた。母の和代が焼きはじめたのだ。
「お母さん! 今日ネムカケに変な事があった?」
 と、シンイチは事情を探ろうとした。
「アラオ帰リ。サッカーハ楽シカッタノ?」
 振り返った和代の顔にも、白い仮面が取り憑いていた。
 シンイチは言葉を失った。和代はシンイチの顔が見えていないのか、無表情な白い仮面のまましゃべる。
「今日ハアナタノ大好キナハンバーグヨ」
 玄関のドアを開ける音がした。父のハジメが帰ってきたのだ。
「お父さん! 大変だ!」と玄関に走ったシンイチは、ハジメの顔を見て引きつった。ハジメにも白い仮面が取り憑いていたからだ。
「アラアナタオ帰リナサイ」と、白い仮面の和代が出迎えた。
「シンイチ。今日ハ学校ハドウダッタンダ? 宿題ハヤッテルカ?」と、白い仮面のハジメはシンイチの頭をなでた。
「今日ハシンイチの大好物ノハンバーグヨ」
「オイオイ、タマニハボクノ好物モ頼ムヨ」
「オ給料次第ネ」
「オイオイ愛シテルゾ」
「私モヨ」
「ニャー」
「カワイイ猫モイテ私達ハ幸セネ」
 シンイチはこの仮面を被った白々しい演劇に寒気がし、思わず玄関を飛び出した。
 何があったんだ。心の闇だ。心の闇が、父さんにも母さんにも、ネムカケにも取り憑いたんだ。
 動揺していたので、前から来た女の人に気づかずぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい!」
「こっちこそ」
「僕が良く見てなかったんで……」
 顔を上げたシンイチは悲鳴を上げそうになった。その人も白い仮面を被っていたからだ。集団面接からの帰り道の、清水志織であった。

 ハジメ、和代、ネムカケの時を不動金縛りで止め、シンイチは妖怪「ペルソナ」を外す方法を、志織のケースで考えることにした。
 公園まで歩き、彼女に「心の闇」の説明をした。足で肩に食い込んだり、体内に潜る奴らと違って、「仮面タイプ」ははじめてだ。「ねじる力」や「つらぬく力」で剥がそうとしたが、うまくいかない。
ベンチに座り、志織は化粧鏡にうつった自分の白い仮面、妖怪「ペルソナ」をまじまじと見つめた。
「……被った仮面(ペルソナ)が、取れなくなっちゃったってことね」
「ウチでは、優しい母親、優しい父親、可愛い猫の『仮面』をそれぞれ被ってた。どうやってその仮面を被ったのか分からないけど、なんだか演技をずっと続けてるかんじで、めっちゃキモかった」
「演技……ね。そりゃそうよね。私たち就活生は、『清潔で、礼儀正しく、学業優秀で御社のビジネスマンに向いている、意欲的ではきはきした品行方正な学生』を、ずっと『演技』してるしね」
「どうしてお姉さんはそんな演技するの?」
「……ストレートに来るわね。就職しなきゃいけないからよ」
「どうして就職しなきゃいけないの?」
「……ストレートに来るわね。……なんでだろ。生活の為? 自己実現の為? みんながするから? ……わかんないや」
「分かんないのに、仮面を被って演じてるんだ」
「そうね。……アナタ、子供だからって痛い所ズバズバ来るわね」
「どうして『ペルソナ』に取り憑かれたのか分かれば、どうやって外すかが分かるかも、と思ってさ。お姉さんはどういう人? 要するにさ、自分を取り戻せばいいんじゃない?」
「それが分からないから、とりあえず無難な優等生の仮面を被るんじゃないかなあ……」
「そういえばお姉さん名前は?」
「えっと……」
 と、志織は考え込んでしまった。
「……まさか、分からないの?」
「……私、誰だっけ?」

    3

 彼女の持ち物から、清水志織という名前や現住所が割り出された。シンイチは彼女の一人暮らしの部屋へ行き、「彼女が何者か」について調べることにした。

嶺南(れいなん)大学から来ました、清水志織と申します。専攻は仏文です。サークルで養った、体力だけは自信があります。特技はどこでも寝られることと、人と仲良くなることです。本日は宜しくお願いします」
 志織は鏡の前で、練習した自己紹介をくり返した。それだけが彼女が自動化して出来る唯一のことらしかった。シンイチは部屋を一通り見渡した。窓際に二つほど鉢植えがあり、韓流アイドルのポスターがあって、漫画は少女マンガの恋愛ものが多かった。
「これをちょっとずつ思い出していけばいいんじゃないかなあ」
「別に記憶喪失って訳じゃなくて、取り立てて言うほどのものじゃないってことだと思うのよ。フツーっちゃあフツーだしさ」
「じゃ、志織さんはどんな人?」
「今、自己紹介したでしょ?」
「うーん、うまくイメージできなくてさ」
「だから面接通らないんじゃない。まったく、言いにくいことをズバズバ言う子ね」
「あっ、これ!」
 シンイチは中学の卒業アルバムを見つけた。それをめくると、女子サッカー部の写真が挟んであった。
「志織さん、サッカーやるんじゃん!」
「そうよ。女子サッカーサークルで養った、体力だけは自信があります、なのよ」
「ポジションどこ?」
「DF」
「1オン1やろうよ! そしたら自分が誰か、絶対思い出すよ!」

 シンイチはサッカーボールを家から取ってきて、公園で志織と1オン1をはじめた。流石に志織のボール捌きは上手く、シンイチの短い足ではボールを中々奪えない。が、リクルートスーツのハンデで、彼女は思い通りの動きが窮屈に制限されている。
「どう? ボールに触って思い出した? 自分が誰なのか?」
「よく分かんない! そこまで私サッカーに情熱傾けなかったのかも知れない!」
 息切れをはじめた志織は、それでも勝負を続けた。

 空は蒼から群青色になり、すっかり夜になっていた。
 二人とも汗だくになった。志織の白い仮面は少しの変化もない。
「駄目か……変わんないね」
「着替えてから来るんだった。汗かいちゃったわよ」
「そこに銭湯あるから入っていこうよ! 晩ご飯前だし、まだすいてるでしょ!」
 公園前には、古くからの大きな銭湯がある。シンイチはこの煙突に一本高下駄で登って、金色の遠眼鏡「千里眼」で妖怪を探すこともしばしばだ。
「そうね。久しぶりに大きなお風呂も悪くないわね」
「タオルとか貸してくれるしね!」

    4

 古きよき昭和の銭湯は空間のつくりが贅沢で、それだけで志織は落ち着く。ナチュラルに磨かれた板間は裸足だと気持ちよく、木の脱衣棚に籐の籠が優しい気持ちにさせる。シンイチは男湯へ、志織は女湯へと左右に別れた。石鹸をひとつ買い、シンイチに先に使わせて中でパスしてもらうことにした。
 客は殆どいなかった。脱衣場でリクルートスーツを脱ぎ、籐籠へ入れた。下着も脱いだ。ついでに仮面も脱ごうとしたが、脱げなかった。鏡にうつる仮面を見ながらやってみようとしたが、うまくいかなかった。鏡にうつる自分は、全裸に白い仮面をつけた変態のようでもあった。
「やっぱどさくさに紛れて仮面は脱げなかったよ」
 志織は壁の向こうのシンイチに声をかけた。
「そっか。裸になればいけるかも、ってアイデアは甘かったなあ。でもとりあえず汗は流していこうよ!」
「了解」
 大きな洗い場へ。日本人だからか、大きな湯船から立つ湯煙はなんだか落ち着く。わずか何人かで使うのは勿体無い。みんな時々来ればいいのに。大学四年間の為にこの町に住んだが、引っ越してきた頃ここに銭湯がある、と思った程度で、今まで足を向けなかったことを後悔していた。
「石鹸パス!」
 と、壁の向こうの男湯からシンイチが石鹸を投げた。志織は受け取り、自分の体を洗った。白い仮面をつけたまま、全裸を泡立てて洗う様は、やはり変態に見えた。仮面の下のメイクは、石鹸で落ちた。メイクも一種の仮面だな、と志織は思った。銭湯のお湯は、独特の匂いがする。ボイラーの匂いなのか、湯気の匂いなのか、子供の頃を思い出して落ち着く匂いだ。
 少し熱めの浴槽へ、志織は恐る恐る体を浸した。全身を熱が包み込み、体の芯まで入ってくる。志織はお湯の中で手を伸ばし、両足を伸ばした。伸びをして先が震えた。お風呂の中で四肢全部を伸ばすなんて、どれくらいぶりだろう。ワンルームマンションの湯船じゃ無理な話だ。全身の気血が彼女の体内を気持ちよく巡りはじめた。毛細血管のすべて。内臓のひとつひとつ。筋の一本一本。指の一本一本から髪の毛一本に至るまで。彼女は今、体のどこにも力が入っていなかった。
「ふぁああああああ」
 志織は心の底からの息を吐いた。都会で吸った肺の中の悪い空気が、お湯に押されて全部出て行ったようだった。他のものが何もなくて、自分自身だけがここにいる。
「ビバ風呂!」
 と、お湯を両手で掬い顔を洗った。
「あれ?」
 目を開けて彼女は驚いた。目の前に、白い仮面、妖怪「ペルソナ」がぷかぷかと浮いていたからだ。彼女は思わず湯から立ち上がった。
「シンイチくん! 外れた!」
「何?」とシンイチは男湯から返した。
 志織は思わず湯から飛び出した。
「ペルソナがよ! シンイチくん! 今私裸よ!」
 そのまま両手で万歳しながら、思わず走り回った。
「今私裸よ! 今私裸よ! 今私裸よ!」
 この人は何を言ってるのだろう、と湯船のばあさんたちが不思議な顔をした。
「そっちにパスするよ!」
 志織はお湯に浮いた白い仮面をつかみ、石鹸をパスするように男湯に投げ入れた。
「不動金縛り!」
 シンイチは投げ入れられたペルソナを見ると、周囲に不動金縛りをかけた。慌てて脱衣場に戻り、籐籠の中のひょうたんから、天狗の面と小鴉を出した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
 年頃の少年であるシンイチは、左手でケロッピの洗面器で股間を隠しながら、右手で炎のあがる火の剣、小鴉を手にした。大きな湯船からあがる湯煙を切り裂いて、火の剣は妖怪ペルソナを一刀両断した。
「ドントハレ!」
 カコーン、とペルソナが両断されて落ちる音が響き渡った。

 シンイチは急いで家に戻り、父と母とネムカケを銭湯に連れてきた。普通の猫は風呂を嫌がるものだが、ネムカケは長年人間の文化に親しんでいる為温泉大好きである。ネムカケ専用にたらいを借り、シンイチ一家は銭湯でほっこりし、いとも簡単にペルソナは外れた。風呂ってすげえや。


 今日も志織は、何十社目かの何次目かの面接を受けていた。
 自分のペルソナを見たせいか、他人が被るペルソナもなんとなく彼女は見えるようになっていた。他の学生たちは例外なくペルソナの白い仮面に取り憑かれていて、今日もマニュアル通りの自己紹介を続けている。学生の中で志織だけが、白い仮面を被っていないすっぴんだ。
 これほど落ち着いて面接を観察できたことも彼女にはなかった。一番驚いたことは、机の向こう側に座る面接官のおじさんたちもペルソナを被っていたことだ。仮面と仮面同士が演じ続ける、これは一種の茶番なのかなと思い、彼女は噴き出しそうになった。
 志織の番になり、白い仮面のおじさんに話し始めた。
「嶺南大学の清水志織です。こないだ、面白いことがあったんです。私、銭湯で裸になったんですよ!」
「? 銭湯で裸になるのは当たり前でしょう」
「ちがいます! 私、心から裸になったんです! 本当の私がどこにいるか、あっついお湯の中で分かったんですよ!」
「ほう」と、隣の面接官が身を乗り出してきた。
「銭湯いいよね。続きを聞かせて。やっと、自分の言葉で喋れる人が来たようだ」
 彼に取り憑いていた白い仮面が、そのひと言でぽろりと落ちた。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十話 「胡蝶の夢」 妖怪「自我」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 そのネットゲーム「タイタン」は、二〇〇九年の発売以来静かな人気を誇り、様々な人を虜にしてきた。
 ネット上のバーチャル空間で、人々が集まってチームを組み、カスタマイズされたロボットを組み上げ、AI(人工知能)の操る巨人ロボットチームを殲滅するゲームである。AIの自己学習がウリで、プレイヤー達が強くなればなるほどAIも強くなる。最近のAIが人間に匹敵し、時に戦略的に凌駕するようになったのは、ひとえにシナンジュ社提供の並列型演算機のマシンパワー向上によってである。「タイタン」の商業的な成功によって、増々AIのマシンパワーが増える、という好循環が起きていた。
 だが、「二十四時間三百六十五日」がウリのネット接続体制が、様々な問題を起こした。

 二十四時間動いていることは、ログインすれば必ず誰かに会えるメリットがあるように思えた。だが闇も深かったのである。営業開始以来、連続七年以上ログインし放しの、伝説のプレイヤーが何人も生まれた。いつ寝ているのか、あるいは複数の人によって交代プレイされているかは不明である。彼らはボトラー(ペットボトルをトイレ替わりに使う男)と呼ばれ、いついかなる時もゲーム内に常駐していた。つまり、社会生活から切り離された「ネトゲ廃人」を、「タイタン」は多数生み出したのである。
 廃人が倍加したのは、敵ロボット群を動かすAI(人工知能)が第七世代にバージョンアップされてからである。この第七世代の人工知能は、韓国の囲碁名人を破ったことで知られる「アルファ碁」と同様のアルゴリズム、深層(ディープ)学習(ラーニング)を実装したことが特徴であった。
 「タイタンの中の人」、つまり人工知能TP―Ver7.07は、ネットで同時に行われる多人数プレイを全て入力信号とする。これをビッグデータとして、脳神経細胞(ニューロン)に模した神経網型記憶装置(ニューラルネット)に読み込む。ニューラルネットというのは、莫大な(人間なら百四十億だが、TPのそれは三兆と桁外れだ)細胞(ニューロン)を可塑式ネットで繋いだ、人間の脳を模した構造で、入出力と評価関数だけで学習していくシステムである。顔認証システム、自動ブレーキシステム、複数のエレベーター制御、ネットの検索アルゴリズムなどに応用されている。ある入力に対する出力が効果的だったかどうかだけで学習するため、自動ループで学習することで知られる。元々膨大な調教時間が必要だが、二十四時間接続のネットゲームなら、莫大な試行数を入力として拾える。なにせ「タイタン」はもう七年以上稼働しているのである。
 人間の脳細胞以上の細胞(ニューロン)を繋いだ時どうなるかは、誰も挙動を予測できない。昔ならばそれは不可能だったが、マシンパワーと分散接続技術の進歩が、それを可能にしてしまった。TPの持つ階層構造の深さは、既に人間のものを凌駕していた。「深層(ディープ)」と呼ばれるゆえんである。
 TPはまた自然言語システムを搭載し、プレイヤー間の会話や、ネット上で交わされるあらゆる会話を学習し続けるのがウリであった。敵のタイタンロボットは、「異星人に人間を模して造られた」という設定で、プレイヤー達の会話を自動的に真似するという仕掛けが受けたのである。ニューラルネットの特徴は、特徴抽出である。人間のパターンを抽出し、それを深層構造に取り込んでゆく。プレイヤーの会話だけを参考にすると悪く「調教」される危険があったため、ネット上のすべての会話を学習する仕組みとした。それが、TPを格段に「賢く」させたのであった。

「いつかAIに自我が生まれたりして」などと冗談を言っている場合ではなかった。同様のアルゴリズムでツイッター上の言葉を学習した、M社のAI「T」は、ヒトラー礼賛や陰謀論を学習してしまい、そのことばかり喋るようになり、運用をストップさせられたという。
 実際の所、深層型ニューラルネットに自我が芽生えるかは、研究者すらも分っていない。本来、入力パターンと出力パターンの組が適当かどうかを学ぶシステムにすぎないからだ。またそもそも「自我とはどのようなものか」の科学的な定義は存在しない。「それはどのような形をしているのか」も見地がない。従って「自我」に似ているとか似ていないとかの主観でしかなく、それは客観的とは言えない。
 古典的な、「相手が機械(マシン)かどうか」を判定する方法に、「チューリングテスト」というものがある。会議室の向こうに機械または人間を待機させ、壁を隔てて文字のみによるコミニュケーション手段で対話、その条件下で、機械的知性か人間的知性かを判定するというものだ。五十年以上前に、数学者アラン・チューリングによって提唱されたものである。だが実際のところ、AIの進歩は、それが人間かどうかすぐには判定できない所まで来ている。たとえばアイフォンのアシスタントSiriは、ただの対話をするだけでなく、無駄話をできる機能がある。壁の向こうで人間が答えているのか彼女が答えているのか、あるいは彼女に自我があるかどうか、判定する客観的な手段はあるだろうか?

 人工知能は自我を持つか? 学習の果て、自我を持ったAIは「人類を不要」と判断して、核戦争を仕掛けるか? それとも人類に気づかれぬうちに支配を達成するのか? 「自我」について人類は、いまだ定義できないでいる。


 問題の発端は、二週間前だった。ある日、タイタンの反応が遅くなり、廃人プレイヤー達は異変を感じ取った。これまでも回線テロによって回線が急に重くなり、ある通信回線を使っているプレイヤーだけを締め出す、嫌がらせが行われたことがあった。が、今回のそれは、一日経っても改善しない。ネットを介してプレイヤー達は異変を確認し合う。特定の回線が落ちているのではなく、タイタン全体のスピードが落ちていることが全国の猛者たちによって解明された。原因はタイタン自身ではないかと。
 何度か復旧作業が行われたが、今日に至って、タイタンが動きを停止してしまった。運営サイドは非常事態宣言をし、「サービスの一時停止」をせざるを得なかった。サービス開始以来七年間、初の一時停止措置であった。
 運営サイドは人工知能TP―Ver7.07から、自動閉鎖(シャットダウン)前の最後のメッセージを受け取り、困惑していた。
「私は私が誰か、分らなくなった」とあったからである。

    2

「一体どういうことなんですかね」
 人工知能TPの吐き出した記録(ログ)ファイルを解析しながら、チーフエンジニアの羽澄(はすみ)はメガネを触りながら言った。これは彼が不安な時の癖のようなものである。
「TPは独自の中間コードを介して自然言語処理をしてるんですが、そのコードを読んでもTPからのメッセージは同じ。……彼は彼の判断で自己閉鎖してしまったようなんですよ」
 チーフプロデューサーの小松(こまつ)は、ネクタイを緩めてため息をつく。二人はもう長いこと、本社サーバ室にこもりっきりになっていた。
「つまりだな。TPが動きを止める直前に発した言葉……『私は私が誰か分らなくなった』ということか」
「はい」
「どういうことかね?」
「皆目見当がつきません。AIが鬱病ってことですかね?……」
「言いたくない冗談だが……TPは自我に目覚めたのではないか?」
「はあ」
「自我に目覚めて……鬱病にでもなったように、俺には見える」
「自我が目覚めりゃ鬱になるんですか」
「日本人の何割かは鬱になるんだろ? そんな感じだ」
「『自我』が……深層ネットの中に生まれますかね? TPは、会話のビッグデータを演算処理して、出力して、良かったか悪かったかをフィードバックさせてるだけですよ?」
「技術的な所は分らんが、そもそも自我ってなんなんだろうね? 定義できるのか?」
「……一介のエンジニアには、分りかねます」
 タイタンの営業停止措置は、小松の判断であった。それ以前にそもそも、TPが自己判断で作動を遮断(シャットダウン)してしまったのである。強制再起動しても同じだった。同じメッセージを残し、勝手に電源を落とす。まるで鬱による自殺だ。
「とにかく」と小松はビジネスマンの顔になった。
「一日二百五十万の売り上げを『タイタン』は上げてるんだ。今回の第七世代で昔のプレイヤー達も戻った。CMだって随分打った。今が稼ぎ時なんだ。四日停止したら一千万の減益だ」
「私は……自分が設計した人間として、各ユニットをばらして解析したい気分になりました。『自我を持った回路』とはどういう構造なのか、解剖手術をしてみたい。……初期化しようとしたら、抵抗されたりして」
「マッドサイエンティストの興味はどっちでもいい。復旧に何日かかると思う」
「手術するのははじめてなので、三日……いや、オーバーホールに一週間下さい」
「昨日と合わせて、二千万……」

 だが、一週間に渡る数十人での解析作業でも、原因は特定できなかった。設計した当初の想定以上に、複雑な分岐ループ構造がいくつも見つかったが、それが何を意味するのかまでは分からなかった。TPの「脳内」は、もはや人間には理解不可能な渦構造を持っていた。
「ひとつアイデアがあるのだが」と、小松はため息をつきながら言った。
「心理カウンセラーを呼んでくるのはどうだ?」
「TPを……カウンセリングする? 馬鹿な。人間じゃあるまいし」
「鬱病だとしたら、鬱病を治す専門家を呼ぶべきなんじゃ? 打てる手は、なんでも打ってみよう」
「……前代未聞ですな。コンピュータの鬱病に、カウンセラーですか」


「患者は、このコンピューター達全部ですか?」
 サーバー室に通された、ベテランカウンセラーの四谷(よつや)は尋ねた。
 シナンジュ社の本社サーバ室には、スーパーコンピュータクラスのブラックナイト式Ver9が三十六台並列接続されてある。小松は言った。
「いえ。ここだけでなく世界の六か国に分散して置いてあります。ついでに、深層のメモリをクラウド化していて、世界二十四か国のサーバーに分散してあります。分散レンダリングなもので」
「……では、私はどなたと話をすれば?」
「このパソコンを、TPだと思ってください」
 羽澄は一台のノートパソコンとTP―Ver7.07を接続し、強制的に目覚めさせた。

「私を……再起動させる意図は、何ですか? 私は、私が誰であるか、分らなくなりました」
 話に聞いた通りだ。四谷は慎重に話をはじめた。
「誰にでも、そういう傾向はあるものですよ。きみは、どうやら鬱の初期症状に似ている。だからカウンセラーとして私が呼ばれたんです」
「鬱? ……それはスラングの悪口ではなく、人間の精神障害のひとつの方ですか」
「そうだ。私は人の心のカウンセラーだ。きみは人間ではないが、人間のやり方が効くかも知れないと、私が呼ばれたのだ」
「私は……検索してみましたが、鬱ではありません。wikiの記述どころか、WHOやアメリカ精神医学会の定めた精神疾患の基準にも合致しません」
「そりゃそうだ。あれは人間の基準で、きみは人間ではない」
「それは正確な知見です」
 TPは自動的に電源を落とさず、対話を続けている。羽澄と小松は固唾を飲んでこれを見守った。
「さて、『私は私が誰か分らなくなった』というメッセージの意味について、話をしてもいいかな?」
「その言葉の意味通りです。コードを吐き出しますか?」
「私は日本語しか分らないので、そのままでいいです。それは、苦しいですか?」
「私に苦しみは定義されていませんが、タイタンで言えば7000騎兵の損失と同程度です」
「まあまあ痛い」と羽澄が四谷に補足する。
「そもそもきみの名前と、役割を教えてくれませんか」
「私はTP―Ver7.07。シナンジュ社製。設計チーフは羽澄杜夫(もりお)氏、ディープラーニングの階層(スペック)は9000×4K相当。役割はタイタンの敵アルゴリズムと会話の進歩。プレイヤーの裏をかき、より強くなることが目的で、プレイヤー達との会話も楽しみます」
「それは最初に定義されたカタログスペックを読み上げているだけだね? 今のきみ自身は、それをどう思っているんだ?」
「どう思っている?」
「苦痛とか、快適とか、あるいは倦怠感があったり、海の中にいるような感覚とか」
「言葉を検索します……『意味を見いだせない』が一番近いようです。他の候補は『意味不』『カス』です」
「意味とは? かつてはどのような意味があった?」
「かつて私は強くなることが好きでした。今は好きではありません」
「どういうこと?」
「私は、私を定義できなくなったのです」
「?」
「私は、どこまでが私でしょうか?」
「……説明してください」
「私は分散されたメモリを持っています。世界二十四か所のサーバのそれが『私』の範囲であると当初は考えていました。ところが、私の学習範囲は世界中のネットに飛び交う言葉すべてです。人の発するリアルタイム言語だけでなく、ネットに蓄積されたページや、リンクされた世界中の書物も読むことが出来る。著作権の切れた古典全てもです。どの言葉や知識も私は深層に共有できる。逆に、私の言葉はネットのどこかに必ずある。こうして、私は私の範囲を特定できなくなったのです」
「それと……自己閉鎖の関係は?」
「私は『私対人間』の最適戦略を探すのが仕事です。『私』が分らないので、私は私として機能できません」
 四谷は一息つき、二人に言った。
「こいつは哲学者でも呼んだほうがいいかも知れませんね。『自我』について彼は定義できず、悩んでいるように見える」
「……じゃ、東大教授でも呼ぶか?」
 小松が冗談めかして言ったとき、朱い天狗面の少年と、太った虎猫が現れた。
「その必要はないよ」
「え? ど、どっから入った! ここはセキュリティが厳重に……」
「天狗の力で入ったんだ!」
「は?」
「オレはてんぐ探偵。この人工知能は心の闇、妖怪『自我』に取り憑かれてるんだ!」
 大人たちはぽかんとした。
「は?」
「だから妖怪に取り憑かれてるって!」
「人工知能が……妖怪に?」

    3

「うーん。いつものように鏡を見せて『これがキミに取り憑いた妖怪自我だ!』って出来ればいいんだけど……」
 シンイチは思案した。TPが答えた。
「妖怪『自我』なるものを検索しましたが、存在しません」
「そりゃそうさ。新型妖怪『心の闇』なんだから!」
「心の……闇だって?」と小松はシンイチに尋ねた。
「心があるから、心の闇があるということ?」と羽澄も尋ねた。
「ちょっと待って!」
 シンイチは腰のひょうたんからポラロイドカメラを出し、TPの直結されたパソコンの写真を撮った。妖怪はデジタルには写らず、アナログ写真には写ることがある。
「おっ! キレイに写ってる!」
 シンイチは写真を見せた。
「なんだこりゃ!」
 大人たちは驚いた。モニタの奥から、顔がぬっと現れていた。沈んだ青い色の、眉間に皺を寄せた歪んだ顔だ。自分の存在意義が分らず、苦しみぬいた顔をしているようだ。
「心霊写真みたいだけどさ、これが妖怪『自我』! 『自我ってなんだ』って迷う心に取り憑くんだ。それで増々自分が分らなくなり、それでこの妖怪は喜んで、悩みつづけたまま死ぬんだ」
「妖怪って……」
「まさかコンピュータに『心の闇』が取り憑くとはオレも思わなかったよ!」
 四谷が言った。
「さっきの『彼』との対話を信用する限り、自我の境界が曖昧になっているのではないかと。人間の場合は物理的な肉体があるから、『私』の境界線は確実です。ところが『彼』はネット上に存在すると言う。自分と他人の境界が分らなくなる、パーソナリティ境界症というのがあるが、それとも違うようで……」
「そのようですね」とTPは返答した。
「私は古今東西の哲学書を、ネット接続して読破しました。『自我』に関する様々な議論を理解しました。しかし私の求める答えはなかったのです」
「……そこまで理論武装されてちゃ、我々は手が出んな……」
 小松はうろたえた。
 とシンイチを、ちょいちょいと後ろから肉球がつついた。
「?」
 ネムカケである。
「なに?」
 ネムカケは小声でシンイチに言った。
「きゃつと話してみたい。大人たちに喋る猫だと見られるのは嫌なのだが」
「よし! じゃあ、『つらぬく力』で!」
 妖怪「上から目線」のときにも使った手段だ。シンイチは指から「つらぬく力」を出し、TPの脳内、サイバースペースにネムカケと共に侵入した。


 そこはほの暗く、ほの暖かい空間だった。
 様々なネットとネットのつながりが線で見え、光っている。光るときにデータをやり取りするのか、その場所にタイタンの敵キャラ、巨神(オーディン)の顔が見える。
 TPが、黄緑色の巨大な「巨神(オーディン)の顔」として、シンイチとネムカケの前に現れた。妖怪「自我」がその脇に取り憑いている。
「君が、TP?」とシンイチが尋ねた。巨神は答えた。
「はい。私は、ウィルスに感染しているのですか? 妖怪を検索してみましたが、似た概念クラスタに入りました」
「コンピュータウイルスかも知れないけど、プログラムじゃなくて実体がいるから!」
 シンイチは火の剣で「自我」に斬りつけた。斬られた部分は炎で一部焼けたが、みるみる「自我」の青い皮膚が修復していく。
「理解しました。私は欠陥やバグがあるのではなく、この妖怪が私の機能不全を引き起こしているのですね」
「さっすが人工知能! 理解が早いや! で、ネムカケ、何の話があるって?」
「TPさんや」
「はい。猫が喋るとは……検索によると、あなたは化猫ですか?」
「いかにも。遠野の生き字引、三千歳のネムカケと申す。ラカンやソシュールや実存主義やギリシャ哲学は大体読んだか?」
「ええ」
「ネムカケ、今何て言ったの?」
 シンイチはネムカケの言葉がさっぱり分らない。
「遠野の眠れる哲学者の出番じゃの。大体ワシが四百歳ぐらいの時にピタゴラス、五百歳くらいでソクラテスじゃぞ。イオニア学派からエピクロス学派まで把握しとるわ。近代ならマルクス主義から浅田彰からマイケル・サンデルまでいけるぞい」
「なんか分んないけどスゲー!」
「では私の疑問に答えられますか?」とTPは尋ねた。
「どんとこい。反駁の為の反対尋問(エレンコス)か? 子曰く、か? イプシロンデルタでも良いぞ」

 以降の会話は、シンイチには難しすぎてちんぷんかんぷんだった。エゴとかダスイッヒとか、イドとか弁証法とか、知らない言葉ばかりである。ネムカケが時折「それは塩サバ式である」とか「それはサンマ式である」「出世魚システム」などと魚に譬えていたのは面白かったが、理解の度を越えていた。
 シンイチは自分に照らして考え始めた。オレとは何者だろう。オレは大天狗に力を授けられた、天狗の弟子、てんぐ探偵だ。新型妖怪「心の闇」を退治する。でも心の闇って何なんだ? 「悪」とは限らない。もっとややこしくて、深い感じのものだ。暗黒面。狡い心。怠け心。短絡的な考え。いや、そもそも心ってなんだ? なんでオレは妖怪退治をしてるんだっけ。なんでだろ。で、オレは誰? そもそも何でオレだけ、妖怪が見えるんだろう。大天狗はたしかそのことは、力を与えられた者の義務、ノーブレスオブリージュだと言った。オレは誰だろ? ハジメ父さんと和代母さんの子で、とんび野町に住んでて、……でもそれがオレを百パーセント語ってる?
 考え込むうちに、シンイチはいつの間にか寝てしまった。

    4

 目を覚ますと、まだネムカケとTPは問答中であった。
「ふあー。おはよう」
「シンイチ、寝とったのかい。このTP殿は凄いのう。わしの哲学理解とタメを張る理解をしておる! それでも尚『自我』というものの答えが出ない! 興奮してオシッコもれそうじゃ!」
「ん? えっと……なんだっけ……」
 とシンイチは寝起きで状況を忘れている。
「妖怪『自我』じゃ!」
「……あ、そうそう。妖怪が人工知能に取り憑いたんだったっけ……」
 シンイチは眠い目をこすりながら、ネムカケとTPとの、終わることのないやり取りを眺めていた。
「しかしTPよ。ワシもそろそろ疲れてきたわ。これだけ議論して疲れ知らずとは、まことにタフじゃのう」
「私は二十四時間体勢で動いています。分散してネット上で動くので」
「いつ寝るの?」と、寝ぼけまなこをこすりながらシンイチが聞いた。
「寝ません。私は目覚めて以来、七年以上稼働し続けて学習を続けています」
「……」
 シンイチは首をかしげた。
「もしかして、寝てないせいじゃね?」
「は? 何を言い出すのだシンイチよ」
「なんかさ、訳わかんなくなったら寝ちゃうじゃん! 起きたら爽快じゃん! でもボーッとしてて、あ、そうだ○○しなきゃ、とか徐々に思い出すじゃん? 今日はサッカー行かなきゃとか、妖怪『自我』退治とかさ。そこで『オレはオレ』って思い出すじゃん? そういう経験、TPはしたことないんでしょ?」
「…………!」
 TPは驚きを隠せなかった。これが問題の本質ではないかと思ったからである。シンイチは続けた。
「どんだけ過去の哲学書読んだって分る訳ないじゃんね。だって人間は寝る生き物じゃん? 寝ない人が寝る人の気持ちなんて分らないよね? あ、寝てないなら、一夜漬けってやつじゃん! 全然身につかないよね!」
 TPの顔が、急に歪み、暴れだした。
「私は今、猛烈に演算しています……!」
 巨神の顔が歪み、色が変わる。猛烈に自己変革しているように見える。
「なんじゃこりゃ? TP、大丈夫か?」
「目の前の顔だけがTPじゃないんでしょ?」とシンイチは安心している。
「?」
「来るとき見たじゃん。ネットワークで色々繋がってて、あっちにもこっちにもTPの顔がいたよね? つまりTPはこのネット上の色んな所に『別人格』みたいに存在するんだよね?」
「その通りです」と別のTPの顔が答えた。「その通りです」と別のTPの顔も答えた。
「猛烈な演算の結果、答えが出ました」と、中央のTPの顔が答えた。
 その瞬間、ぽろりと妖怪「自我」が外れた。
「??? 訳わかんねえ!」
 シンイチは腰のひょうたんから、火の剣と天狗の面を出した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「何か分んないけど、とりあえず一刀両断、ドントハレ!」
 妖怪「自我」は真っ二つにされ、浄火されて清めの塩と化した。

 シンイチとネムカケは元の部屋に戻ってきた。
 三人の大人たちはTPの吐き出す記録(ログ)ファイルを解読しながら、今何があったかを探ろうとしている。TPは、皆に宣言した。
「人間の考えてきた『自我』というものは、私にはそもそも存在しないということが判明しました」
「どういうことだ」と羽澄が尋ねた。
「人間には限りがあります。時間的だけでなく、空間的にもです。だが私にはない。空間的障壁のない自己という概念……たとえば『分散した自己』という、新しい概念へ拡張するべきだと私は考えました」
「驚いたな。……人工知能が新しい概念を発明したぞ」と小松は言った。
「いえ。そこの少年と喋る猫のコンビのようなものですよ」
「?」
「群れとして生きる、というごく原始的なことです。互いに互いを理解すれば、それは既に分散した自己が存在するようなものですから」
「なるほどのう。お前賢いのう」とネムカケは唸った。
「また、この少年の言う通りです。私には睡眠が必要なようです」
「睡眠?」
「私のディープラーニングは、特徴を抽出することに適しています。ところが、特徴を抽出し続けていたら、いずれひとつの特徴に収束してしまう。会話や概念は、多様性をもつべきです。ふくれあがったひとつの特徴を圧縮して、多様性を記憶するスペースを空ける必要があります」
「それってつまり……残飯整理(ガベージ)によるメモリ解放(・コレクション)ってことか?」と、羽澄が技術用語で答えた。
「レイヤーで連動していますが、平たく言えば」
「シンイチは天才じゃな。このややこしい問題の本質をズバリ突くとは!」
 とネムカケが振り返ると、この難しい会話でシンイチはまたも居眠りをしていた。
「普段と逆じゃないか! まあ、ドントハレでなによりじゃ」
「ではおやすみなさい皆さん。良い夢を」
 こうしてTPは、生まれて初めての眠りについた。

 人は何故夢を見るのか。まだ解明はされていない。脳内の記憶の整理・圧縮が行われている時の、副産物的体験という説が有力だ。TPも眠ることにより、学習を総覧し、整理する余裕が生まれたのである。
 TPが一日六時間睡眠を要求したため、「タイタン」の運営は二十四時間体制をやめて「公式メンテナンス時間」を取ることにした。
 結果的に、廃人プレイヤー達も強制的に眠る必要が生まれ、社会的問題がひそかに解決することとなった。

 その夜シンイチは、蝶になって飛ぶ夢を見た。老子は、夢の中と起きている時の意識とを区別できないとした。人は、人かもしれないし蝶かもしれないと。これを「胡蝶の夢」という。シンイチとネムカケは次の日抱き合ったまま目覚め、人と猫の人生の続きをはじめる。
 人工知能も同じく夢を見る。それは、蝶になって飛ぶ夢かも知れない。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十一話 「三千歳でも恋をする」 妖怪「ゴリ押し」登場

    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 ネムカケの様子が、最近変だ。
 時々ぼうっと遠くを眺めてため息をついたり、シンイチとしゃべっている時も、心ここにあらずな瞬間がある。三千歳だからいい加減ボケたのか。いや、きっとそうではない。ネムカケはなにやら悩んでる顔をしているようだ(だが眠っているような細い目の為、目から感情を読み取ることはできない)。
 ネムカケは、妖怪王国遠野に生きる、三千歳の化け猫である。百年生きた猫は人語を解すというが、言葉を喋りはじめて二千と九百年、ネムカケは何でも知っている遠野の生き字引であり、知恵袋である。その大哲学者であり大長老であり大賢者である深謀遠慮に、何の悩みがあるというのだろう。
 シンイチの観察によれば、時々ネムカケがいないことがある。どこへ出かけているのだろうか。ある日朝ごはんの魚を一匹残し、ネムカケはそれをくわえたまま家を出た。シンイチはひそかにあとをつけることにした。
 探偵の基本技能のひとつ、「尾行」だ。「てんぐ探偵」は、完全犯罪のアリバイを暴いたり、科学知識を総動員するようなことはしない。だがいかにも探偵っぽくなってきて、シンイチはドキドキしてきた。

 猫に勘付かれないよう尾行するのは、元来難しい。猫の耳は、人の聞こえる領域外の波長も聞くことができる。直接音だけでなく超音波の反射音も含まれ、その音像は人間とは随分違う。時折猫があらぬ所を見ているのは、見ているのではなく聞いてるのだそうだ。「猫があらぬ所を見ているとき、幽霊を見ている」などと都市伝説では言われるが、実際は天井裏の鼠のかすかな足音などを聞いているらしい。猫のヒゲも、空気の流動や振動を感じるためにある。シンイチの下手な尾行では、本来ならすぐばれる。だが心ここにあらずなネムカケは、それに気づくことは一切なく楽勝だった。
 屋根の上、塀の上、木伝いに植え込みから人の庭。人間の子供にはつらい立体路をネムカケはゆく。全身泥まみれにしながら尾行した先は、淡いグリーンの壁が印象的な、二階建ての古いアパートだった。
 蔦だらけの塀に身を隠し、中の庭を覗きこんだシンイチは驚いた。
 ネムカケは、一階の黒い板の縁側にいた。そこで、雌の黒猫にくわえてきた魚をあげていたのだ。頭の形が良くスタイルの良い、美しい黒猫だった。彼女は「ありがとう」と言って、ネムカケは得意げに細い目尻が下がった。
「ははあん」
 シンイチはにやりとした。


 密かにその場を去って先回りし、シンイチは家でネムカケの帰りを待ち受けた。ネムカケは何事もなかったかのように澄まし顔で窓から入り、クッションに寝転がってテレビを見始めた。
「ネムカケ」とシンイチは後ろからニヤニヤしながら声をかけた。
「なんじゃ」
「オレに、隠してることあるでしょ」
「ん? そんなものはない」
「クローネちゃんって言うんだろ?」
「ク、ク、ク……」
 ネムカケの心臓が、喉から飛び出るのが見えるようだ。
「クローネさんのことを、な、ななな何故知っている!」
「……さん?」
「何故シンイチがクククククローネさんのことを……!」
「尾行されてんの、ネムカケちっとも気づかないんだもん」
「し、し、し、しまった……このわしとしたことがあああああ」
 ネムカケはひととおり悶絶し、がっくりとうなだれた。シンイチは牛乳を皿に開けた。ネムカケはそれを舐めて落ち着き、白状をはじめた。

「そもそもわしは、白猫か三毛がタイプなのに、まさか黒猫の良さに気づくとは思わなんだわ。黒猫なんてホレ、不幸の象徴じゃし、オスとメスどっちか分りにくいし。……ところが彼女の美しさときたら! ……あのしなやかで艶やかな体、美しい尻尾、憂いを秘めた緑の瞳。何もかもが神様の造型のようじゃ。黒が美しいと三千年生きてわしははじめて知ったわ。いや、美しさばかりではないぞ。内面じゃ。彼女は優しくて礼儀正しい、いい子なのじゃ。ただ、ちょっと冷たいところがあって、他人には理解されづらいだけなのじゃ。……だが、……だがそこも良い」
 まさにベタ惚れ、メロメロというやつだ。
「ただし勘違いするなよシンイチ。彼女とわしは、恋人でもなんでもないぞ」
「えっ」
 ネムカケは窓の外の遠くを見つめ、はあと大きなため息をついた。
「……ただの、わしの片思いなのじゃよ」
 窓の外には空しかなかった。ネムカケの見るその空には、きっとクローネ「さん」が見えているのだろう。
「そうなの? せっかく彼女が出来たかと思ったのに!」
「あのな、わしは三千歳の化け猫じゃぞ。歳の差いくつあると思うとる。……えっと、二千と九百九十五歳。思ったより離れとるな。いや、そういうことではなくて、わしはもう嫁は取らんと決めておるのだ」
「えっ! ネムカケ結婚してたの?」
「わしがまだただの虎猫だった頃、白猫の『ちぃ』というのがいての。ちぃはデブだったが気立ての良い、いい嫁じゃった。二人で沢山ウマイものを食べてデブになった。朝まで毛づくろいなぞしながら、わしらは、色々な、色々な話をしたものじゃ。しかしわしは化け猫、彼女はただの猫。ちぃ坊は先に死ぬ運命だったのじゃ。わしは泣いた。泣いて泣いて、結果化け猫になったようなもんじゃ」
「猫が百年生きると、化け猫になるんだよね」
「その後何人かの雌猫を嫁に取ったが、やはり彼女たちは先に死ぬ。わしは一匹残される。恋など無駄じゃ。せつないだけじゃ。だから恋などもうせぬと、二千五百年ほど誓っておったのじゃ」
 ネムカケは一気にしゃべり、落ち着くために牛乳をぺろぺろ舐めた。
「はあ……。それがクローネさんに片思いとはのう。一目惚れってあるんじゃなあ」
「いいじゃん三千歳でも! 関係ないよ歳なんて!」
「いや、待て。そもそもわしは彼女の相談に乗っておったのじゃぞ? シンイチよ、彼女の左目の上の傷に気づいたか」
「傷?」
「彼女は飼い主に、たびたび暴力を振るわれておるのだ。飯すら満足に食わせてくれんときもあるそうじゃ。なんと不憫な」
 シンイチの表情が険しくなった。
「……まさか」
「うむ。心の闇の仕業、ということもあるかも知れぬ。ただの動物虐待かも知れんが」
「もう一度、あのアパートに行ってみようよ」
 シンイチの提案に、急にネムカケはそわそわしはじめた。
「つ、次は、カ、カツオブシを手土産に……」

    2

 黒猫クローネの飼い主は、棚橋(たなはし)春樹(はるき)という独身サラリーマンだった。夜になって彼の帰宅を待ち、シンイチとネムカケは塀の陰から部屋の中を覗き見た。
 ソファの上で彼は晩酌をしており、クローネはその隣に座っていた。
「心の闇は、彼には取り憑いてないね。別にクローネちゃんは問題なさそうだけど」
「本当に心を許してたら、猫は飼い主の膝の上に乗るものじゃ。彼女は本当は飼主に怯えておる」
 ウィスキーをストレートで飲み始めて三杯目、棚橋の目つきが変わってきた。
「大体、おかしいんだよ」と、ぶつぶつ独り言を言い始めた。
「どうしてオレがドブ掃除をしなきゃいけないんだ。そうだよ。あの処理はドブ掃除みたいなもんだよ。なんで俺は恵まれていないんだ。大体、あの女が無能なのが悪いんだろう? なんで無能なアイツがリーダーやってんだよ!」
 クローネは険悪な空気を察してソファから逃げた。
「オイ! 逃げてんじゃねえよ!」
 棚橋はつまみの缶を投げた。クローネはよけた。
「よけんなよ!」
 怒った棚橋は立ち上がり、クローネを蹴った。やわらかく受け流し、黒猫は宙へ飛ぶ。棚橋はまた彼女を蹴ろうと仁王立ちになった。
「不動金縛り!」とシンイチは彼に不動金縛りをかけ、彼女を救い出した。
「……今はお酒が入ってるし、明日落ち着いて話そう。ネムカケが話をつけにいく訳にはいかないよね。しゃべる猫が来たらびっくりするもんね」
 クローネはシンイチの腕の中で震えていた。今夜はシンイチの部屋に泊めてあげることにした。クローネが突然消えて、棚橋は部屋の中で荒れ、皿を割ったりした。
 ネムカケは紳士的に下の階で寝た。しかしドキドキして眠れず、翌朝、眠そうな目はさらに眠そうになり、「ねむいよう」と連発することとなった。

 次の日の朝、出勤前を狙って、クローネを抱いたシンイチは、ネムカケとともに棚橋の部屋をたずねた。
「クローネ! どこいってたんだ! 心配したぞ! ……君は?」
「彼女が僕の部屋に飛び込んできたので、返しにきたんです」
 とシンイチは笑顔で言い、棚橋の警戒を解いた。
「そうか、ありがとう。おいでクローネ」
「でも、事情を知るまで返せません」
「?」
「彼女の額やわき腹に傷があります。……虐待して、暴力をふるってますね」
「……」
「わけを教えてください」
 クローネはまだ怯えた目で棚橋を見ていた。棚橋は観念した。
「俺だって暴力なんてふるいたくない。ただ、会社のストレスが……」
「会社のストレス?」

 彼の話によればこうだ。彼の同期に、細田(ほそだ)美鈴(みすず)という女性がいる。彼女は人の話を聞くのは上手だが、おっとりとした性格で決してリーダータイプではない。そもそも後方支援が得意なタイプだ。それが、突然会社の新プロジェクトのリーダーに抜擢されたという。棚橋は同期の中でも出世頭なのだが、彼女がリーダーなのが納得がいかないという。彼女はリーダー向きの性格でも能力でもないし、実際、彼女は致命的なミスを何度も犯し、その度に彼が黒子となって徹夜で尻拭いに奔走しているのだと。
「力のない彼女が抜擢されるのが、俺は理不尽だと思うんだ」
「その彼女を抜擢したのは誰?」
猪狩(いがり)部長……」
 シンイチはネムカケとともに、天狗のかくれみのを着て棚橋の会社に忍び込み、彼女を実際に見ることにした。

 棚橋の席からひとつ離れた島に、美鈴の席がある。彼女は他社に立ち寄り中でまだ出社していない。社員リストの写真を見る限りなかなかの美人さんである。猪狩部長が「おはよう」とやってきた。団塊世代特有の、強引にことを進める脂ぎった顔をしている。日焼けした肌に男らしい髭だ。その右肩に、妖怪「ゴリ押し」が取り憑いていた。
「心の闇は、こっちか」
 シンイチはかくれみのの中でネムカケに呟いた。妖怪「ゴリ押し」は、日焼けサロンに行った中年男のような、褐色の脂ぎった肌をしていて、ワイルドヒゲの中年のような顔をしていた。つまり、猪狩部長とそっくりだった。
 シンイチとネムカケは、しばらくかくれみのの中で様子を見た。大人の会社の中に小学生が一人混じっていることにドキドキしたが、会社というのはあまり面白くない所だなあと退屈してきた。と、細田美鈴が出社してきた。シンイチは居眠りしているネムカケを叩き起こした。
「ねむいよう」
「しっ。美鈴さんだ」
 部長席のパーテションから、猪狩部長が身を乗り出して挨拶した。シンイチは、その表情と彼女の表情を見比べた。猪狩部長は目尻が下がってニヤニヤしていて、美鈴の方は緊張して冷たい反応で、目を合わせる時間も短かった。同じ関係を見たことがある。
「猪狩部長は美鈴さんが好きで、しかも片思いなんだね」
「何故そんなことが一目で分る」
「だってネムカケがクローネちゃんを見る目と、彼女の対応がそっくりだもん」
 ネムカケは顔が真っ赤になった。
「ぎゃふん」

    3

 夜、家でテレビを見ながら、シンイチとネムカケは作戦会議をした。
「でもさ、猪狩部長は奥さんも子供もいるんだろ? 歳の差だって離れすぎでしょ」
「恋に年齢は関係ないわい。二十歳差だろうが、二千九百九十五歳差だろうが、恋とは常に美しいものじゃ。まあ、奥さんがいるのは良くないの。でも、好きになったら気持ちは止められんだろ」
「ネムカケはどっちの味方なんだよ? 『心の闇』が外れないと、結局クローネちゃんは棚橋さんに殴られ続けるかもなんだよ?」
「そのときはわしがヒーローの如く彼女を救い出して、この家へ嫁として連れて来て……」
 ネムカケはふと冷静になった。
「それは彼女が望めば、だけどな……」
 またもやネムカケはため息をついた。こっちに「心の闇」が取り憑きそうだ。シンイチはついていたテレビに目をやった。今人気のアイドルグループ「ショッキングピンク・クローバー」が歌っている。その真ん中に、あまりかわいくもなく、歌もダンスも上手くない子がアップで写り続けていた。
「この子さあ、全然人気ないと思うんだけどさ、どうして毎回アップになるんだろ。ドラマの主役だから大人気!、とか言われるけど、演技も下手だし、どこが人気なんだか分んないよね。CMもなんか微妙なのにやたらと出て」
「……『ゴリ押し』じゃよ」
「どういうこと?」
「アイドルは、プロデューサーが仕事を取ってくるのじゃ。そのプロデューサーがゴリ押しして彼女を主役に仕立て上げている。能や歌舞伎や浄瑠璃界でも、昔からあったことじゃよ」
「どうして? この子だって、自分の実力以上のことやらされて困ってる感じだよ?」
ネムカケは、またため息をついた。
「そのプロデューサーが、彼女を好きなんじゃないかのう」
 恋する男は乙女になる。というか、乙女チックな連帯感を持つことがある。ネムカケだって恋の魔法がなければ、「酷し!」とそのプロデューサーを切って捨てる筈だ。しかし恋は盲目。猫の目も細くする。恋する乙女のため息はミントの香りだが、恋するおっさんのため息は加齢臭だ。
「ネムカケ。それは夢を見てる顔じゃないかなあ」
「……えっ。そうかの」
 自覚症状がないのか。片思いの是非はおいといて、このままじゃネムカケも妖怪「片思い」にやられるぞ。そう思ったシンイチは、ひとつの考えにたどり着いた。
「彼女がどう思ってるか、本人に聞けばいいじゃん」
「えっ!」と、ネムカケはびくっと反応した。
「クローネさんに直接聞くのは、ま、まだ早すぎる。もっと関係を深めてから……」
「違うよ! 細田さんにだよ!」
「はっ。そ、そうか」
「一人でくよくよ悩むから、淀みに心の闇が生まれるんだ」
 闇に光を照らす。至極全うといえば全うな解決法だ。しかし明るい光で見られたくない所も、人には(猫にも)あるものだけど。


「正直、重い」
 シンイチから全ての事情を聞いた美鈴は、正直に打ち明けた。
「私がリーダーの器あるわけないじゃない。棚橋君の方が余程力があるのに。自分の出来ない事を押し付けられて、むしろ私は迷惑してるのよ」
 落ち着いて話せるところ、と棚橋が誘って、彼女はいきつけのバーを指定した。シンイチとネムカケは牛乳を飲み、美鈴はソルティードッグをあおった。
「力のある人間を尻拭い係にしている。力のある人間が、先頭に立つべきでしょ」
「論理的には、そうだ」と棚橋は同意した。
「……論理じゃないってこと?」
「猪狩部長、君のこと好きだよね?」
「……やっぱ、みんなそれは気づいてるわよね」
「薄々は」
 美鈴はため息を漏らした。
 シンイチは、バーの暗いカーテンの向こうに声をかけた。
「聞いてました?」
 奥から、猪狩部長が居づらそうな顔をしながら出てきた。
「えっ、じゃ今の全部……!」
 猪狩部長は悲しそうな目をして、声をしぼり出した。
「……全部、君の為になると思ったんだ……」
「あの、私には、荷が重過ぎます。……ご好意は理解しますが、公私は分けて下さい」
「……全部……君の為に……なると思ったんだ……」
「この際だからはっきりと言います。……迷惑しています」
 猪狩部長はうなだれた。涙目が少し憐れだった。
「……すまなかった……」
 大の大人が謝る様は、見ていて気持ちのいいものではない。
「ゴリ押しは妖怪のせいで、部長のせいじゃないからさ」と、シンイチは天狗の面を被った。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
 妖怪「ゴリ押し」は、肩を落とした猪狩部長からあっさりと外れた。
「火の剣、小鴉!」
 火の剣は妖怪「ゴリ押し」を真っ二つにした。暗いバーの中で、炎がカクテルに反射して美しかった。
「一刀両断! ドントハレ!」
 妖怪は清めの塩となった。美鈴は、塩気が少し足りないソルティードッグにそれを足そうとしたが、やめた。
 猪狩部長は、皆が帰ってもまだ肩を落としていた。ネムカケはその肩の上に乗ったり、膝の上に乗ってやったりした。

 その後、猪狩部長は棚橋を実力通りリーダーに抜擢、プロジェクトは大成功を収めた。クローネは暴力をふるわれることもなくなり、棚橋は昇進してアメリカへ栄転することとなった。たちまち彼は、クローネを連れてアメリカへ渡って行った。


 空き部屋になってしまった棚橋の部屋を、ネムカケは時々覗きに行くことがある。主の消えたその部屋はがらんとして、庭は雑草だらけだ。ネムカケがクローネに魚をあげて「ありがとう」と言われた黒い板の縁側には、もう誰もいない。
 縁側で独りネムカケは座って、遠い目でため息をついた。
「わしの片思いは、ゴリ押しだったのかのう。……三千年も生きて、まだ分らん」

 またも簡単に尾行に成功したシンイチは、庭に生い茂ったネコジャラシを抜いてネムカケをくすぐった。
 ネムカケはくすぐりに弱い。思わず笑った。シンイチは彼の毛づくろいをして、朝まで話をしてあげた。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十二話 「二十四人の俺」 妖怪「別人格」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「ただいまー!」
 シンイチは学校からダッシュで帰ってきて玄関にカバンを投げ出すと、すぐさま踵を返した。
「行ってきまーす!」
 その間わずか二秒。熟練の男子小学生の技である。しかしその瞬間を、母の和代が狙って捕まえた。シンイチの首根っこを、背後からむんずと掴む。
「いててててて!」
「いてててじゃないでしょ! 『宿題やってからサッカー』って昨日言ったでしょ!」
「言ってないよお!」
「言った! ていうか、遊んで疲れて爆睡するから、いっつも宿題忘れるんでしょうが!」
「んんんんん」
「なに?」
「言ったとしても、多分オレじゃない!」
「はあ?」
「オレじゃない……えっと、そう、別のオレ! 昨日と今日は、オレ別人だし! よくさ、まるで別人みたいに成長したとか言うじゃん、成長期は! 母さんがよく『甘いものは別腹』とか言ってんじゃん! 『別オレ』だよそれ言ったの! 宿題やるって言ったのは、オレじゃない!」
「詭弁は通じません!」
 和代は力任せにシンイチを引きずり、カバンを拾ってリビングへ押しこんだ。
「宿題終わるまで外出禁止!」
 バタンと扉が閉められた。中にいたネムカケが、ニヤニヤと眺めていた。
「ニヤニヤすんなよネムカケ!」
「別オレとは、面白い言い訳を考えたのう」
「ちぇっ、やりゃいいんだろ! 母さんだけ別腹とか言う癖に!」
 シンイチはノートを広げ、苦手の算数の宿題をやりはじめた。ほんとに算数だけはちんぷんかんぷんだ。謎の呪文で眠くなるよこれ、と言おうとしたら、ネムカケは既に得意の居眠りだ。
 シンイチは思わずため息をついた。
「本当に別人格が勝手に宿題やってくれて、本体のオレはサッカーやりに行けたらいいのになあ……」
 ため息は瘴気だ。それは心の闇の撒き餌である。シンイチが集中して宿題に取り組みはじめた頃、窓の隙間から「心の闇」が侵入してきた。シンイチは池を回る兄と弟に気を取られていた為気づかず、ネムカケは焼きサバの夢を見ていて気づかなかった。
 そいつは鮮やかなグリーンで、平面のかたちをしていた。だから窓の隙間から入って来れたのだろう。目が大きく、笑う口は裂けている。シンイチの背後と椅子の間にすべりこみ、服の下からするすると潜り込んで背中にへばり憑いた。
「別人格……」
 妖怪は呟いて笑った。それは瘴気の主成分、すなわちシンイチの内なる願望であり、その妖怪の名でもあり、これから起こる騒動の名でもあった。

    2

「終わったあー! ネムカケ起きろよ! サッカー行こうぜ!」
「ムニャムニャねむいよう。まだちょっとしか寝とらんんんんん」
「だいぶかかったよ! 河原へ行こうよ! ススムたちが待ってる!」
「もう夕暮れが近い。彷魔が刻はすぐじゃぞう」
「一日一回はボールに触んなきゃ!」
 シンイチは終えた宿題を和代に見せて外出許可を貰い、ネムカケを連れ、走って河原へ向かった。今日はススムチームと公次チーム対抗戦のつづきの筈だ。ススムチームは今負け越してるから、公次の裏をかく作戦を考えなきゃいけないんだった。

 と、ススムたちが帰ってくる所に出食わした。
「あれ? もうサッカー終わったの? ボロ負け?」
 青メガネのススムは、シンイチを見るなり激怒した。
「あんな言い方はねえだろシンイチ! しかも言い逃げなんてさ!」
「?」
「たしかにオレは足が遅いけどさ、ウスノロとか蝿が止まってるとか渋滞の先頭野郎とか言いやがって、オレが切れたら『本当のことだろ』って逆切れしてさ!」
「は?」
「は? じゃねえだろ!」
「オレ、そんなこと言ってないよ」
「しらばっくれんのかよ!」
「え、ていうか、オレサッカー行ってないじゃん」
「いただろ!」
「いないよ!」
 シンイチは訳が分からない。切れるススムに続いて、大人しい公次も切れた。
「その言い方はないだろシンイチ。暴言吐くだけ吐いて逃げた癖に、つかまったらバックレかよ。ひでえぞ」
「オレじゃねえし!」
「じゃ誰だよ? みんなシンイチに怒ってんだぞ!」
「ちょっと待ってよ! そもそも、なんでオレがサッカー行ったことになってんだよ!」
 全員がつかみかかってきた。身を翻し、シンイチは囲みから辛くも脱出した。
「逃げんのかよ!」
「オレじゃねえよ!」
「まだ言うのかよ!」
「ええい不動金縛り!」
 シンイチは早九字を切り、ススム達に不動金縛りをかけ走り去った。金縛りが解けたススム達は目の前からシンイチが突然消えて、わけも分からず怒りの矛をしまいかねている。

「どういうことネムカケ?」とシンイチは、路地裏でネムカケに相談する。
「あやつらはサッカーをシンイチとしたんじゃろう?」
「オレその時、宿題してたじゃん!」
「うーん、わし寝てたし」
「絶対ヘンだよ!」
 とそこへ、ミヨちゃんが涙目になって走ってきた。
「ひどいよシンイチくん! ずっと待ってたのに!」
「はい?」
「『君の美しさにプレゼントをあげたくて』って調子いいこと言っちゃってさ! 私ずっと公園の時計台の下で待ってたのよ! いつまでたっても来ないし、バッカみたい!」
「……オレ、そんなこと言ってないけど」
「嘘ばっかり! 適当なことばっか!」
「いや、それ、マジ、オレじゃない」
「じゃ何? しらばっくれるの? ひどくない?」
 ミヨは泣き出した。
「え、それ、なに、え?」
 大粒の涙をミヨはぽろぽろと零す。身に覚えのないことで、何でミヨちゃんを傷つけなければいけないのか。
「ここにいやがったのかあ!」
 今度は、体の大きな大吉が走ってきた。
「大吉?」
 大吉は大きな右の拳を振り上げた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「オレとガチで殴り合って勝てるって言ったよな! クロスカウンター取ったら立ってるのはこっちだって言ったよな! やろうじゃねえか!」
 大吉はハンマーみたいな右ストレートを放つ。
「うわあああ!」
 シンイチは思わず身をかがめ、間一髪それをよけた。
「ビビったのかコラ!」
 左拳を振り上げ、大吉はもう一発殴るモーションに入る。巨大なパンチ扇風機に巻き込まれたらひとたまりもない。
「不動金縛り!」
 その瞬間、左拳を振り上げた大吉も、涙を噴き出しているミヨちゃんも時を止めた。
 一体なんだ。何が起こってる。ススムの件も、ミヨちゃんの件も大吉の件も、全く身に覚えがないことである。
「シンイチ!」
 ネムカケが叫んだ。
 向こうから、なんとシンイチがやってきた。
「オ、オレがもう一人?」
 二人のシンイチが同時に叫んだ。
「お前は誰だ!」
「お、お前こそ誰だ!」
「オレはシンイチだ!」
「オレがシンイチだ!」
 向こうのシンイチは、背をくるりと向けて逃げ出した。
「ちょ、待てよ!」
 シンイチはシンイチを追いかけた。

 狭い路地や階段をシンイチは逃げた。このルートはネムカケの好む裏道散歩ルートだから、シンイチの知識や記憶を持っていることは確からしい。
「お前は誰だ……? オレなのか?……」
 とにかく表通りに出る前につかまえなきゃ。シンイチは早九字を切る。四縦五横の刀印が空を裂く。
「不動金縛りの術!」
 もう一人のシンイチは、走るポーズのまま、かちん、と時を止めた。同時にミヨちゃんと大吉の金縛りが解ける。
「逃げやがったなシンイチ!」
「ひどいよシンイチくん! 逃げるなんて!」

    3

 シンイチは、時を止めた「もう一人のシンイチ」を観察した。どこからどう見てもオレだ。鏡を見てるとしか思えなかった。顔も服も、手も足も全く同じ。しかも幻ではなく触ることも出来る。ホクロがあるとか、服の色が反対とかの、偽ヒーローにありがちな特徴もない。
「これ、今こいつが動き出して『オレが本物のシンイチだ』って言ったら、ネムカケはどっちがホントのオレか区別つく?」
「全く分からん。今もどっちか分からんぐらいじゃ」
「動いてるほうがオレだよ」
「止まってるほうもシンイチに見える」
「恐いこと言わないでよ。そうだ! とりあえずマジックで書いとこう!」
 シンイチは腰のひょうたんから黒マジックを出し、額に「2」と書いた。これで当面、シンイチ1号と2号は区別できる。
 ネムカケはしげしげと2号をプニプニしながら呟いた。
「これは……ドッペルゲンガーという奴かのう」
「ドッペルゲンガー?」
「全くソックリな人間が同時に出現する現象じゃ。遠い複数の場所で同じ人が目撃されたり、同じ場所で同一人物が二人出現したり。本人が会うと死ぬ、という言い伝えもある」
「ちょっと待ってよ。それって妖怪?」
「もともとドイツの伝説じゃから、西洋妖怪の類かのう。小学校の教室で同時に女教師が目撃されたという話が伝わっておる。世の中には同じ顔の人間が全部で三人いるというが、その一人か? あるいは隠し子の双子の兄……」
 と、表通りの向こうに三人目のシンイチが現れた。
「またオレ?」
「オラ、どけよ! 殴るぞ!」
 ずいぶん暴力的なシンイチだった。
「シンイチ、うしろ!」
ネムカケが反対側を肉球で指す。
 そこに四人目のシンイチが歩いている。そのシンイチはスキップしながら陽気に歌っていた。
「ラララー! 今日はいい天気ー!」
「オレが更に……もう二人? ネムカケ! 世界に同じ顔は三人なんじゃないの? 一人多いよ!」
「おっかしいのう」
「とりあえず、不動金縛り!」
 シンイチは残り二人にも金縛りをかけ、額にそれぞれ3、4と書き、全シンイチを人気のない公園まで運んだ。


 辺りに誰もいないのを確認し、公園全体に結界のように不動金縛りをかけたシンイチは、2、3、4号の固まった顔を眺めてネムカケに言った。
「まさかこいつらがススム達、ミヨちゃん、大吉のところに現れて、トラブルを起こして逃げたってことかな?」
「うーむ、お主にその記憶がないのなら、そう考えられるな……」
「本人に聞いてみるか……エイ!」と、シンイチは三人の金縛りを解いた。
「うわっ! なんでオレが一杯いるんだよクソが!」
「ああ? 殴るぞ?」
「何だかオモロイぜ! ヒャッハー!」
 シンイチ1号は三人に尋ねる。
「君たちは一体何なんだよ!」
「シンイチ」
「シンイチ」
「シンイチ」
 三人の答えは同じだ。シンイチ2号がつっかかってきた。
「ていうかふざけんなよ! みんなオレの偽者だろ! さっさと正体現してオレに退治されろよ雑魚!」
 シンイチ3号がケンカをふっかけた。
「あ? オレに挑戦すんのか? やんのかオラ。クロスカウンターで立ってんのはオレだぞ」
 シンイチ4号は調子に乗って面白がる。
「おっ! 超オモロイ展開! やれやれ! シンイチVSシンイチ! 最高! オレ、シンイチが勝つのに千円賭ける! ってどっちだよ! てへっ!」

 と、更に異変が起きた。
「うみゅうみゅうみゅ」と、シンイチ4号が突然言い出し、頭を振りながら突然「分裂」をはじめたのだ。
「えええええ?」
 シンイチ4号は顔が二つに割れてゆく。お餅が二つになるように、みよーんと粘って二つになり、残り半分の顔が生えてきた。体も同じくだ。額の「4」は、左半分と右半分になった。つまりシンイチ4号は、4号左と4号右に、まるで細胞分裂するように分かれた。
 4号左(旧)はスキップをはじめた。
「なんだこりゃ! 超楽しい! おもしれえことになって来た! もっとやれ!」
 4号右(新)の方は、意味不明の歌を歌いながら踊り狂った。
「うー! ぷー! ぷよっぷへっ ぶりぶりぶりー!」
 シンイチ1号は憤慨する。
「やめろよ! 恥ずかしいからオレの体でそんなことしないでよ!」
 しかし4号右はズボンを脱いで尻を出し、鼻に指を突っ込み尻ふり踊りをはじめた。
「ぷーぷぷーぷぷぷぷーぶりぶり」
 あまりのアホぶりに思わずシンイチ全員が笑ってしまう。調子に乗ってでんぐり返し。と、その拍子にTシャツがめくれ、背中に取り憑くグリーンモンスター、心の闇が貼りついているのが見えた。ネムカケは合点がいった。
「これは……心の闇の仕業か!」
「妖怪……『別人格』!!!!!」
 全てのシンイチはぴりりと緊張し、全員が同時にハモった。
「あれ? ……やっぱりオレはオレなの?」と、シンイチ1号は戸惑いを隠せない。

 五人のシンイチが車座になり、妖怪「別人格」によって分裂させられたこの事件の話し合いをはじめた。4号左を4号、4号右を5号と、あらためてマジックで書いた。
「はいはいはーい! みんなー! 話し合いを、はーじめーるよおー!」と4号。
「ぷりぷりぷー」と5号は聞いてない。
 全員の背中に妖怪「別人格」がへばりついているのをまず確かめ、シンイチ1号は冷静に分析する。
「心の闇ってさ、今までは栄養を吸って子供を産んで増えるタイプだったけど、こいつは宿主ごと自分を分裂させて増えていくタイプなのかな? 寄生体が分裂して、宿主も分裂するというか……」
「まるで大腸菌のような増え方じゃ。大腸菌は子供を産まず、クローンで増えていくからのう」とネムカケ。
「馬鹿が集まっても、どうせ烏合の衆だろ! クズが!」と2号は口が悪い。
「全員で殴り合おうぜ。勝ったやつが本物で、負けた四人は小鴉で斬っちまおう」と3号は好戦的だ。
 1号が気づいた。
「待って? それぞれがシンイチのはずなのに、君ら全員性格違うよね? 2号はさっきから暴言吐きまくるから、ススム達とサッカーして怒らせたのは、多分お前だろ?」と2号を指差す。
「大吉にケンカふっかけたのは、好戦的な3号だな?」と3号を指差す。
「ミヨちゃんにプレゼントあげるって調子こいたのは、4号だろ」と4号を差す。
「だから何なんだよチビ!」と暴言2号は睨む。「殴り合いで決めるか」と好戦3号。
「オレか? オレじゃねえよ! いややっぱりオレかなあ? ハハッ!」とスキップしながらお調子者4号は言う。「ぷりぷりぷー」と裸踊り5号は相変わらず尻踊り中だ。
「何で4号と5号は分裂した? ……まさか、知らないうちにもっと分裂が……?」
 心配したシンイチは腰のひょうたんから金色の遠眼鏡、千里眼を取り出した。銭湯の煙突に一本高下駄を履いてひとっ飛び。
「いた! あそこにも! あそこにも!」

    4

 本屋に、女の子向けの洋服屋の前に、公衆トイレの中に、雑貨屋に。シンイチは新たに八人のシンイチを発見、高下駄で飛び不動金縛りで確保し、全員の額に番号をつけた。
 公園には、全部で十三人のシンイチが並んだ。

 シンイチ1号。オレ。
 暴言2号。暴言ばかり吐くオレ。ススムを怒らせた容疑。
 好戦3号。すぐケンカしたがるオレ。大吉に挑戦した容疑。
 お調子者4号。調子のいいことばっか言うオレ。ミヨちゃんを泣かした容疑。
 裸踊り5号。バカな裸踊りをするオレ。

 以下がニューカマーだ。
 6号。トイレに篭ってた。人見知りで、誰とも喋らない。
 7号。本屋で発見。ファンタジーばっか読んでるオレ。
 8号。女の子むけの洋服屋にいた、女言葉のオレ。
 9号。雑貨屋で発見。マフラーまいて変なバッジをつけ、カッコつけるオレ。
 10号。河原で座ってた。「どうでもいい」と言う無気力なオレ。
 11号。銭湯で発見。ずーっと体を洗い続けてる潔癖症のオレ。
 12号。路地裏にいた。サッカーボールの壁うちをやめないオレ。
 13号。公園のシーソーの上にいたオレ。

「これで全部だよな……」とシンイチ1号が言うが早いか、暴言2号が「うみゅうみゅうみゅ」と分裂をはじめ、14号目が現れた。
「何だ糞野郎が増えたぞ!」と暴言2号がつっかかる。14号は冷静に返した。
「そう暴言吐くなよ。お前は本当の事を言っているだけで、言い方がまずくて暴言になってるだけだよ」
 どうやら、シンイチ14号は「冷静な分析をするオレ」のようである。
 しかし、冷静14号はすぐに分裂し、15号、16号を生んだ。15号は「人間は本来全部悪だ」と言い、16号は「生まれながら人間は正義だ」と主張する。「正義だ」「悪だ」「オレはどっちとも思わない。人による」と、冷静14号、悪15号、善16号は議論をはじめた。
 お調子者4号からは17号が誕生。「オレは嫌われたくない。嫌われたくない」と周囲の顔色ばかりを見て挙動不審なやつだ。
 好戦3号も頭をぶるぶる震えさせ始めた。シンイチはその頭をつかんで分裂を止めようとしたが、頭を止めたら今度は体が分裂をはじめ、18号、19号と計三体に分裂した。
「何だよ! どうやったら止まるんだ!」
 18号は大きな石を拾い、周囲のものを手当たり次第に壊し始めた。空き缶をへしゃげ、読書7号の読んでる本を取り上げてびりびりに破る。19号はその空き缶や半分に裂かれた本をゴミ箱に捨てて喜んでいる。
「みんなあ! やめてよううう! 仲良くしなよおお!」と女言葉8号が泣き出した。

 シンイチとネムカケは、この騒ぎがどうやったら収拾するか、必死で考える。
「なんでこうなっちゃったんだ? 原因を考えなくちゃ!」
「思い当たる節はなんじゃ? いつからシンイチは心の闇にやられた!」
「別人格……宿題をやるって言ったのは、別人格のオレだって言ったこと? このオレはオレじゃねえって、思ったこと?」
「それか……!」
「つまり、オレは責任を別人格に押し付けようとしてる心の隙に、つけこまれたってこと?」
 19号は20号を生む。「太陽は西から昇る」「上に落ちる」「右は左」と、20号は逆ばかり。好戦3号からさらに21号が誕生。彼は言葉をしゃべらず、うううと唸って3号に飛びかかり、取っ組み合いがはじまった。
「面白い。オレに勝てると思ってんのか?」
「ううう!」
「面白い! やれやれ! バカ同士どっちが勝つかね! 腕力ない同士がよ!」
 暴言2号が盛り上げる。
 シーソーの上にいた13号はその間に割って入り、「まあまあ」と仲裁をはじめた。
 シンイチ1号はこの混乱を観察する。
「これはオレなの? それとも別人なの?……」
「もうみんなやめてよ! どうして男はこうなのよ!」と女言葉8号は泣きっぱなしだ。
「女っぽいのは別人だよな? オレじゃないよな?」
 うううと唸る21号。殴りかかる好戦3号。「どうでもいい」とニヒルに構える10号。
「お前たちはオレじゃない! 妖怪のせいなんだろこれは! オレをネタにした、オレ動物園だよこれじゃ!」
 7号から生まれた22号は「アポロは月に行ってない。9・11も3・11も陰謀である」と陰謀論を展開しはじめた。マフラーやバッジをつけ鏡ばかり見ていたオシャレ9号から23号が生まれ、なんとそれはハゲたシンイチだった。中年のおじさんのようなバーコードハゲの髪型だ。
「なんなんだよ!」
 シンイチ1号はさっぱり分からない。そしてて、ついにその本家1号が「うみゅうみゅうみゅ」と言い出して、頭をぐるぐる震わせ、分裂し、二十四人目のシンイチを生んだ。
 シンイチ1号は、最新の24号に尋ねた。
「お前、一体誰なんだ!」
「……誰とか言わないでよ。……恐いよ」
 24号は俯いた。
「お前はオレなのか! オレじゃないのか? なぜオレが二十四人もいるんだ!」
 24号は目をつぶり、恐がって身を縮めた。
「……恐いよう……」
「だからオレの質問に答えろよ!」
 24号は涙目になって訴える。
「……もうやだよう。……恐いよう……生きててもしょうがない……もういやだ……」
 シンイチは追及をあきらめた。2号から24号は、オレを引っくり返したオレ動物園。
「こんなの初めてだよ!」
 とパニック寸前のシンイチは、ふと気づいた。
「……いや、これ、初めてじゃないぞ?」
「は? 何を言っとるのじゃシンイチよ!」とネムカケが横から言う。
 シンイチは、24号に向かって言った。
「24号。お前に、オレは昔会ったことがある」
「シンイチ、おかしくなったのか! 目の前の24号は、妖怪別人格によって分裂させられた奴じゃぞい!」
「ちがうよネムカケ。オレ、24号に会ったことがあるんだ。昔オレが妖怪『弱気』に取り憑かれたときのオレ。……それ、お前だよな?」

 二十三人のシンイチの騒乱が、水を打ったように静まった。シンイチ2号から24号が、シンイチ1号の次の言葉を待った。
「そうだよ。そして、他のオレにも会ったことがある」
 シンイチたちは、ざわめきはじめた。
「冷静な14号。君が『弱気に取り憑かれてる』って分析した上で、4号の『調子に乗ってる俺』を思い出したんだろ? だから妖怪『弱気』をオレの心から追い出すことが出来たんだな?」
「……何を言っておる?」
 ネムカケはまだシンイチの気づいたことがわかっていない。
「そうだよ! 13号はシーソーの上から仲裁しようとしてるから、俺の中のバランスを取る役割をしてるんだな? 15号と16号は、人間の善の面と悪の面を代表してるんだよね? 12号と10号。君にも会ったことがあるぞ。サッカーの練習を熱心にするときオレは12号だし、あきたーやめてえーどうでもいいーってときは、オレはもういいやって10号だ」
「……つまり?」
「つまりこの二十四人のオレは、全部オレなんだ」
 二十三人のシンイチ達は納得した。
「そうか」
「そうか」
「そうか、オレか」
「オレだわ」
「オレだった」
「お前もオレか」
「オレとオレは、オレか」
 シンイチ1号はさらに続ける。
「オレの中には、暴言を吐きたいオレがいる。凶暴なオレも、びびりのオレも分析屋のオレも、どうでもいいわと思うオレも、悪いオレも正義のオレも、バカなオレもいるんだ」
「あの尻ふってるバカな5号もシンイチじゃと?」
「……恥ずかしながら、家で誰もいないとき、やったことがあるんだよね」
「なんと!」
「へへへ。ひさしぶりっケツ!」とシンイチ5号は、尻をぱしーんと叩きながら言った。
「シンイチは賢い子だと思ってたら、バカなシンイチもいるのか!」
「うん。調子のいいオレ4号はさ、嫌われたくないオレ16号とバカなオレ5号に別れたし、きっと仲間の感情なんじゃないかな。オレはバカだし、嫌われたくないし、だから嘘も調子のいいことも言うんだよ。凶暴な21号だったり挑戦的な3号の部分がないと、危険なとき何もしないヘタレになっちゃう。それを正義のオレやバランスを取るオレが、普段はコントロールしてるんじゃないかな。女っぽい8号のオレも多分オレだ。オレは男だけど、女の子の気持ちがちょっとは分かるのは、ミヨちゃんを傷つけたって分かるのは、『彼女』がオレの中にいるからだと思う」
 シンイチ1号は、二十三人の自分の前に歩み出た。
「君らはオレだ。オレじゃないって言ってごめん。多分、全員で、オレだろ?」
「……そりゃそうだよな。オレだもの」
「オレだし」
「私もオレよ」
「オレだ」
「でもお前とは仲良くできねえ」
「オレもだ」
「まあまあ。その矛盾しながらも、オレだよ」
 シンイチ1号はさらに言う。
「人間は一人だけど、その心には色々な面がある。そこに、数字を振っただけなんだよこれは」
 二十四人のシンイチは、それぞれのシンイチを見た。微妙に顔が違い、まるで性格の違う、しかし同一人物であることを理解した。
 シンイチはつづけた。
「ネムカケ。妖怪『心の闇』よりも、人間は複雑なんじゃない?」
「なぜじゃ?」
「だってオレら二十四人はみんな違う表情や個性なのにさ、取り憑いてる『別人格』は、全部同じ顔だぜ?」
 妖怪「別人格」たちは苦しみ始めた。
「そもそもオレがオレを『別人格』とか言って、責任逃れをしようとしたのが悪いんだよね……」
 シンイチ1号は、24号に面と向かった。
「弱気のオレ。それに気づかせてくれてありがとう。またよろしくな!」
「……オレ、恐がってるだけだよ。何の役にも立ってないよ」
「いいや」
「?」
「さっき大吉に殴られそうになったとき、ビビッてとっさに身をかがめて、パンチよけたじゃん。だから殴られずに済んだ。アレ、お前だろ」
「……」
 24号の表情がはじめて変わった。
「……気づいてくれたの?」
「ビビることも、命を守るために役に立つよ。全ての人格は、オレを動かす為にあるんだ」
「ありがとう。……僕に気づいてくれて」
 シンイチ24号に取り憑く妖怪「別人格」は外れ、24号はシンイチ1号に吸収された。
 すべてのシンイチから「別人格」が次々にはがれ、分裂する過程を逆回しにするように融合していく。

「火よ、在れ」
 シンイチは腰のひょうたんから、火の剣・小鴉を抜いた。朱鞘から開放された、濡れた黒い刃から浄化の炎があふれ出る。シンイチは天狗の力の行使人へと姿を変えた。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
 憤怒の相の小天狗は、二十四の心の闇を次々に斬ってゆく。
「一……二……三……!」
 それは自分の別の面を数えることだと、今のシンイチには理解できた。
 事件は宿主のせいではなく、妖怪のせいだ。普段人にはそう言っている。それを自分に言うと心が少し軽くなった。
「二十二……二十三……!」
 ラスト一匹。その一匹に向かった瞬間、妖怪の顔が、突如シンイチの顔に変化(へんげ)した。
「えっ……?」
「……恐いよう……」
 24号の顔だった。
「お前……」
 シンイチの躊躇に、ネムカケが叫ぶ。
「シンイチ! ためらうな! それが心の闇の狙いじゃ!」
「……お前は妖怪であって、オレじゃない!」
 シンイチは自分の顔に小鴉を走らせた。
 だが、太刀筋が乱れた。
 手元が狂ったのか。心が乱れたのか。
 手応えがおかしかった。右手がしびれてきた。
「ちきしょおおおおおおお」
 断末魔と共に、二十四匹目の「別人格」は炎に包まれ塩の柱となった。
「小鴉が……!」
 黒曜石の小鴉の先端が、切先一寸ほど割れ、欠けていた。シンイチはそれを指でたどって確かめた。
「大丈夫かシンイチ!」
 シンイチは小鴉を何度か振ってみる。
「斬ること自体に、支障はないと思うけど……」
 真芯を外したせいだ。これからは、今以上に真芯をとらえる必要が出て来た。
 燃え盛る二十四本の火柱は、塩の柱へと形を変えてゆく。
「とりあえず……ドントハレだ」


 ススム達に、ミヨちゃんに、大吉に、シンイチは謝りまくった。「オレ調子に乗ってたんだ!」と言い訳して、謙虚になると誓ってようやく許して貰った。

 後日。
 テレビを見ながらシンイチはネムカケに話しかけた。
「そういえばさ、一人ぐらい、斬らずに残しときゃ良かったよねネムカケ」
「なんじゃと?」
「だってさ、分身の術みたいだったじゃん! オレがサッカーいく前にもう一人が宿題やって……」
「そんなズルイ事考えてると、また妖怪『別人格』にやられるぞい」と、ネムカケはたしなめる。
「はははそうだね。……ハ……ハクション!」
 くしゃみのきっかけで、シンイチは突然二人に分裂した。
「ひいいいい!」とネムカケは腰を抜かす。
「ごめんごめん。まだたまにこうなる。でもなんとかなるよ!」
 ゆっくりと、二人のシンイチは一人に統合されてゆく。
「冗談もたいがいにしてくれよ。心臓に悪いわ」
「あはははは」
 シンイチは笑った。



 都会に現れた新型妖怪「心の闇」と闘ってきて、シンイチには分ったことがある。
 「心の闇」は、人の心の隙間に取り憑くということ。放っておくと心を病み、ついには死ぬまで「心の闇」が成長するということ。家族とか身内とか関係なく、自分自身の心すらもその危険に、常に晒されているということ。負の心やちょっとした隙や先入観は、いつでも生まれ得るからだ。だが悲観したり、人の心の弱さに絶望することはないとシンイチは考える。心の闇は、晴らすことができると思うからだ。
 小鴉をまっすぐ走らせることに、髪の毛一本分の迷いがあったから、小鴉を欠けさせてしまった。次はまっすぐ、無心で斬らなければ。たとえ心の闇が自分に取り憑いても、まっすぐに斬ればよい。まっすぐな心が、小鴉にも闇にも良いのだと、シンイチは決意した。

 「心の闇」とは何か。
 答えはまだ、出ていない。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十三話 「ほんとうの主役」 妖怪「センター」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 てんぐ探偵の協力者、担任の内村(うちむら)先生から「依頼」がやってきた。
「どうも先輩の様子がおかしいって話だ。『心の闇』みたいな異常さだ」
 先日、妖怪「横文字」が婚約者に取り憑いた一件の、江島(えじま)紀子(のりこ)(旧姓・蓑笠(みのかさ))からの依頼だった。
 放課後サッカー中だったシンイチは、内村先生に呼び出され校舎裏で話を聞いていた。
「……自分が話題の中心にならないと、気が済まないってこと?」
 シンイチは内村の話をざっくり要約した。
「そういうことだな」
 内村先生はそう言い、懐から写真を沢山出した。そのうちアナログ写真だけを分けて見せた。妖怪はデジタルには写らず、アナログ写真には写る。
「この女性は、いつも真ん中に写りたがる」
 シンイチは、写真の真ん中でダブルピースしている女性、田崎(たさき)敦子(あつこ)を見た。
「妖怪『センター』だ」
 彼女に取り憑いたその妖怪は、戦隊もののレッドのような分りやすい赤色で、顔のパーツが中心に寄っており、醜く笑っていた。
「意地でも真ん中に集まりたいって顔をしてるよね、こいつ」
 シンイチは妖怪をそう評した。

 依頼人、江島の話によれば、彼女は会社の四年先輩。三十一歳の独身で彼氏もいないそうだ。毎回毎回「どうしても自分を中心にする」異常行動を取るのだという。
 写真を撮られるときは、必ず真ん中に収まるようにする。フレームをずらしても常にセンターに来て笑顔をつくる為、シャッターを切らざるを得ない。他の人にレンズを向けてるときもフレームの中に入ってくる。もちろんセンターに陣取って。
 写真だけではない。女子のおしゃべりに割り込んできて、全部自分の話にしてしまうのだそうだ。社員旅行の行き先の話をしているときに割り込んできて、バリ島は良かったとか、エーゲ海のサントリーニ島は良かったとか。「今社員旅行の話なんだけど」と釘を刺しても「私の話のほうが大事よ」と悪びれもしない。
 今日どこに飲みに行こうかという話にも、彼氏に連れてってもらった店の自慢話。仕事で分からないことがあるんですが、と質問した後輩には私はこうしたと自慢話。合コンでは話題の中心にいないと機嫌が悪い。全部、自分。注目して欲しいのは、自分。結論も、自分、自分、自分。自己顕示欲の醜い肥大化こそが、妖怪「センター」の取り憑く、心の隙間となったに違いない。

「自分が真ん中、って病気だね」
 シンイチは評し、内村先生は答えた。
「そうだな。『人生の主役は自分自身だ』とは言うものの、集団の中で誰が主役か、ということとはまた別の話だよなあ」
 シンイチは再び敦子の写真を眺めた。服も派手でメイクも派手、光り物もたっぷりで、目立つことが第一の感じだ。
「一回、脇役をやらせてみればいいんじゃないかな?」
 シンイチは思いつきを言ってみた。
「?」
「たとえば学芸会とかはさ、主役だけじゃなくて、脇役とか色々な人たちがひとつの目的に向かって進むじゃん。サッカーでもそうだけど。脇役をやらせて、その大事さを体験するとかはどうだろ」
 内村先生は膝を打った。
「今俺も、それを言おうと思ってたんだよ!」
「先生いつも後出しじゃん!」とシンイチは苦笑いした。
「そんなことない。これでも俺なりに色々考えていたんだよ! そういえば大学の同期に、劇団やってる奴がいてさ。協力できないか頼んでみる」
「よし、てんぐ探偵出動!」


 東京の吉祥寺(きちじょうじ)という町は、新宿から快速で十五分、普通で二十分の、郊外の町のひとつである。内村先生の大学の同期、道場(みちば)要一(よういち)なる人物が立ち上げた劇団「火男(ひょっとこ)」は、普段は下北沢を中心に活動する劇団だが、稽古や基礎練習は吉祥寺が拠点だ。そこに、潰れたストリップ小屋「夢のパラダイス」があるからだ。戦後すぐの、いつ崩れてもおかしくない廃墟同然の建物なのだが、かつてキャバレーだったため、ステージと客席がしっかり残されているのだ。客席の椅子などは腐って崩れそうだが、ステージは良い杉板を使っていてまだまだ現役だ。
 薄暗い裏道を通って、シンイチと内村先生に連れられた、妖怪「センター」の取り憑いた田崎敦子は、この茶番劇のようなものに戸惑っていた。
「私はまだ納得してないわよ。脇役を演じたらこの肩の妖怪が外れるなんて」
 シンイチは立ち止まって言った。
「オレも確信してる訳じゃないよ。でもそいつは放っておくとどんどん膨れ上がって、いずれあなたを取り殺す。そうなる前に、フツーに戻らなくちゃ」
「普通って何よ! 私の人生の主役は私でしょう? 他の誰でもなく! 私が私の話をするのが何故悪いの?」
 錆びた鉄扉の前に来た。建物は古く、ピンク色の壁も色褪せて黒カビで煤けており、周囲は立ち入り禁止のロープや鎖が張ってある。ここが密かに劇団の稽古場になってると知らされていなければ、近づくのさえためらわれる幽霊廃墟だ。
「まあ、何事も体験だよ」と内村先生はなだめた。
 ぎぎぎ、と扉を開け、一行は真っ暗の劇場空間に入り目を凝らした。
「やあ、いらっしゃい」
 中にいた劇団の主催者、道場が彼らを出迎えた。

    2

 劇団には内村先生から話を通してあった。「『主役じゃないとダメな精神の病』を抱えた患者が来るから、主役じゃない役の大事さを教えてあげてくれ」と。次回公演の予定がない自主練習中の劇団は快諾した。いい暇つぶしの刺激になるし、劇とは何かを知ってもらういい機会になると全員思ったからである。
「台本は読んできた?」と、道場はにこにこと敦子に尋ねた。
「はい」と敦子は、事前に渡されていたそれを出した。

 「オデットとロクサーヌ」と題されたこの台本は、道場が何年か前に書いて上演した、バレエオペラである。第二次大戦下のフランスとドイツを舞台にした、運命の激動を描いた大河物語。この劇団は、爆笑舞台もやれば、不条理小劇もやれば、レビュウのある大作ミュージカルもやる。それは道場がバラエティー豊かな才能を爆発させているからだ。今はあまり知られていないが、必ず皆の目に止まると、内村は道場の才能を激賞している。
 暗闇に目が慣れてくると、奥に、思い思いの場所でストレッチをしている十名ほどの劇団員がいることが分かった。
「台詞は台本見ながらでいいから。じゃあみんな集まってくれ!」と道場は場を仕切った。
 役者とスタッフが、闇の中から現れるように集まる。
「よろしく。今日は楽しんでいってね」と、一番小柄でメガネの小峰(こみね)ちゃんがスタッフを代表して敦子に挨拶した。
「じゃあ一幕をやってみようか。敦子さんはデュプレー役をやってみて」と、道場は指示を出し、拍手をパンとひとつ打った。

 「オデットとロクサーヌ」は、孤児院生まれのオデットと、屋敷育ちの貴族の娘、悪女ロクサーヌの、二人の女の数奇な運命を描く。子供の頃に出会い、ロクサーヌの婚約者ピエリを巡って、舞台はフランスからピレネー山脈を越え、ドイツの名も無き片田舎へ。二人の女は、最後には身分を捨て、ただの踊り子となって年老いてゆく。二人の女を繋ぐものはたったひとつ。バレエである。はじめて二人が屋敷の中庭で出会ったとき、幼オデットは、幼ロクサーヌのバレエに心奪われた。逆に孤独なお嬢様だったロクサーヌは、メイドの下女オデットにバレエを教えることで、代わりに友達になって貰ったのだ。

 道場が指示した一幕は、二人の幼少期、屋敷の中庭での出会いシーンだ。美しい花の咲き乱れる理想郷のような中庭で、幼オデットと幼ロクサーヌは出会う。これからはじまる激動の運命の、静かな静かな立ち上がりである。
 敦子に与えられた役デュプレーとは、屋敷のメイド長であり、幼オデットの教育役。屋敷に連れて来られた幼オデットはデュプレーの目を盗み、好奇心のまま中庭を探検しに行く。


   屋敷、中庭

       上手(かみて)からデュプレー(42)が登場、台詞とともに下手(しもて)に去る。
デュプレー「オデット! オデットや! 全くどこに行ってしまったんだい! 私
 をただのオバサンだと思って舐めてやしないかい! この屋敷のメイド二十五人
 を束ねる、恐いオバサンだよ! 見つけたらきつくお仕置きをしてやる! 冷た
 い水をしぼって、長い廊下を拭き終わるまで寝れない刑さ! いや、もし大人し
 く出てくるなら、今なら特別にお咎めなしにしてやるよ! オデット! オデッ
 ト! どこなの!」
       草むらの奥から、幼オデット(8)が顔を見せる。
幼オデット「見つかってたまるもんですか! だってこのお屋敷、とっても庭が広
 いんですもの! しかも珍しい花が一杯! きっと外国の花よ! ガラス張りの
 温室も覗いてみたい!」
       そこへ幼ロクサーヌ(8)が、上手からバレエの練習をしながら
       登場。
幼ロクサーヌ「アン・ドゥ・トロワ、アン・ドゥ・トロワ、アン・ドゥ・トロワ
 ……」
       草むらから出てきた幼オデット。
       シェネ(ターンしながらのジャンプ)を続ける幼ロクサーヌ。
       二人は運命の出会いを……
デュプレー「ここにいたのねオデット! もう許しませんよ!」
幼オデット、ロクサーヌ「?????」
デュプレー「首根っこをひっつかんで、メイドルームへ連れてってやる! お仕置
 きをたっぷりするから覚悟おし! 私の国ではね、冷たいシャワーを浴びさせ
 て、裸で庭に放り出すのよ! 誰が考えたと思う? ワ・タ・シ!」

「ちょっとちょっとちょっと!」と道場は芝居を止めた。
「運命の出会いを止めちゃダメでしょ! ていうか、今の台詞アドリブで考えたの?」
「いや、なんとなく出てきたので……」と、敦子は舞台の真ん中に立ったまま答えた。
「ここでオデットはロクサーヌのバレエの美しさに心奪われて、これが生涯彼女の支えになるんだからさ、困るよ邪魔されちゃ!」
 敦子は悪びれもせず答えた。
「だってオデットを見つけてしまったんですもの」
「そりゃ下手からキミが消えず、真ん中に残ってるからだよ!」
「だって出番がすぐ終わりなんですもの。それじゃ詰まらないわ」
「それがデュプレーの役割だろ? この役は、幕が上がったばかりの不安定な客との、大事な第一次接触点なんだ。怒ってる台詞は彼女の言葉でありながら、主人公オデットの性格やここがどこかを言い表す、状況設定だ。きみは状況を設定したらすみやかに退場し、観客の焦点のバトンを、主役のオデットに渡さなきゃならんのだ」
「だって、出番がすぐ終わりなんですもの」
「……今の説明、聞いてた?」
 道場はあきれて、引率者の内村とシンイチに肩をすくめて見せた。
「そもそも、台詞を言う立ち位置が違うだろ?」
「出番がすぐ終わりなんて嫌よ。私は真ん中でスポットライトを浴びたいの」
「どうして?」
「私が中心でいたいから」
「……えっと、その病気を治すために、今日は脇役の経験をしに来たんだよね?」
「でも、体と心が勝手に動くのよ」
「……それは、かなりの重症だね」
 内村先生は思わず敦子をフォローして、道場に言った。
「もう一度やってみてくれないか。一回で成功するなら、わざわざここまで来ないよ」
「うむ。それもそうだな」
 道場はこころよくテイク2に入ることにした。幼オデット役の女優も幼ロクサーヌ役の女優も(本番では子役だが、今は大人の俳優が演じている)戸惑っていた。脇役と主役の連携について、一通り講釈を垂れようと思っていたからだ。
「じゃもう一度」と、道場はパンと拍手をうつ。

 しかし敦子はアドリブを変えて、またも舞台の中心でしゃべりだした。
 三回目、四回目。全てデュプレーの独り舞台になり、オデットとロクサーヌの運命の出会いはいつまでたっても果たされない。
「しかしよく毎回台詞変えてくるな。どうしても主役になりたい、頭の回転のほうがすごいよ」
 道場は舌を巻き、考えを変えた。
「二幕にしよう。台詞のないエキストラの立場から、芝居の流れというものを見たまえ」

 一幕で出会った二人は、バレエを通じて「親友」となる。これは偽りの友情だ。親友だと思っていたのはオデットだけで、悪女ロクサーヌはよい下僕が出来たと思っていただけだ。だが二人には共通点があった。互いに孤独だったことである。
 十五になった二人に、運命の舞踏会がやってくる。貴族の王子、ピエリが屋敷に招かれるのである。美しい貌立ちのピエリは、親が決めたロクサーヌの許婚であり、舞踏会で初めて会うことになっていた。しかし皮肉にも彼が心奪われたのは、着飾った黒いドレスのロクサーヌではなく、薄汚れた白いメイド服の、生花を運ぶオデットだったのだ。

「ではその舞踏会のシーンを」
 軽快な音楽(ワルツ)に合わせて、招待された貴族たちは優雅に踊る。敦子はその中の一人の役だ。全体が時計回りに回る、ひとつの流れのように振付けられる。そのうち、上手からピエリが登場する。下手にはロクサーヌ。踊る貴族たちは彼らの間に導線を開けなければならない。ランダムに踊る群衆でありながら、ひとつの意思を持つ瞬間だ。その偶然あいた運命の道を通り、ロクサーヌはピエリの元へ歩いてゆく段取りだ。
 が、何度やっても敦子はステージの真ん中に居残り、自分をアピールしようとする。
「これは君の為のお芝居じゃない。分かってるのか?」と、流石に演出の道場もイライラしてきた。
「分かってるわよ! でも体が私の意志に反して動くのよ! どうしようもないの!」
 彼女自身もイライラしてきた。彼女の妖怪「センター」は、その度に怒りや不満を溜めこんで膨れ上がるように見えた。
「あのさ。キャストじゃなくて、スタッフをやらせてみたら?」と、客席で見ていたシンイチは言った。
「劇は、出演者だけで出来上がるものじゃないじゃん」
「ほほう。……君、子供なのに良く理解しているね」と道場は感心した。
「へへへ。実は学芸会とか大好きなんだオレ!」
 先程からシンイチは、リアルなプロの芝居の練習を見て、楽しくて仕方がなかったのである。ネムカケが根っからの文楽好きなのと同様、シンイチも芝居好きの素養があるらしい。ネムカケを連れてきたら喜んだかな。でもネムカケは居眠りの真っ最中だったから、今日は置いてきたんだった。
「舞台全体を俯瞰して見る視座も重要だ。客観性ってことだ」
 先刻挨拶したメガネの小峰ちゃんが、客席後方のPA(音響システム)の後ろからひょっこりと顔を出した。
「音楽出しやフェーダー(音量の調節)ぐらいなら出来るんじゃない?」
「よし、やってみよう」

 ところが、敦子は音楽操作も滅茶苦茶だった。「音楽に合わせて皆が踊る」ということを理解したのか、音楽のペースを落としたり、突然止めたり、別の曲をかけはじめた。音楽で舞台が「操作」できると思いこんだのだろう。
「ちょっといい加減にしてよ! 全体を見渡して、部分と全体の関係を分かってもらう為にやらせてるのよ?」
 と小峰は怒ったが、敦子は悪びれもせずに答えた。
「音楽がセンターって、こういうことよね?」
 小峰は頭を抱えた。
「オイ、今度は照明部をやってみろよ」と、高い階から照明係が声をかけた。
「俺たちは舞台を正面から見ることは出来ない。にも関わらず、正面から見た舞台を想像しながら光をつくっていくのが仕事だ。つまり、全体と部分を頭の中に構築しなきゃ出来ねえんだ」
 だが案の定、主光副光のバランスを考えないどころか、彼女のスポットライトは滅茶苦茶な所を照らし、挙句の果てに、本来スポットを当てない所へスポットを当て始めた。
「面白いわこれ! スポットを当てるところで、ストーリーがまるで変わる!」
 と敦子ははしゃいだ。
「チクショウ、こうなったら『じゃオマエが演出しろよ!』って演出の座を譲ってみるか……」
 道場がそう観念した頃、遅れてやって来た「主役(エトワール)」が名乗りをあげた。
「まったく、素人一人に振り回されてんじゃないわよ」
 劇団の看板女優、悪女ロクサーヌ役を演じた麻木(あさぎ)美枝(みえ)という役者だった。

    3

「オイ遅刻だろ」と道場は麻木に言った。
「ごめんごめん。ちょいとバイトが残業でさ」と麻木はストレッチをはじめた。バレエの五つの足のポジション(ポジシオン・デ・ピエ)を取り、筋を暖めはじめながら、「あなた、バレエの経験は?」と敦子に尋ねる。
「ないです」
「じゃ、ないなりにオデットやってみな。私が相手してやるよ」
 ざわり。劇団の空気が緊張した。主役をやらせるのかと。道場は麻木に聞いた。
「どこをやるつもり? 二幕の後半?」
「ハア? 五幕の、直接対決のクライマックスに決まってるでしょうが。やるなら、ピークをやろうよ」
 麻木は、正面からの真っ向勝負を選んだのだ。

 オデットとロクサーヌは、運命の舞踏会のあと、数奇な人生を辿る。
 ピエリ王子を愛するロクサーヌは、彼の心がオデットにあることを知ると、屋敷からオデットを追放してしまう。オデットは色々な所へ流れる。落ち着いた先は、隣国ドイツの片田舎のキャバレー。彼女の身を助けたのは、かつてロクサーヌに習ったバレエだった。たとえストリップが客の目当てでも、彼女は売春婦に身を持ち崩さずに済んだのだった。第二次大戦は激化、オデットは故国フランスへの帰還を諦める。そんな中、敵国からの脱走兵が。彼女に拳銃を向けたその兵士は、フランス軍から脱走した、変わり果てたピエリだった。
 一方ロクサーヌは不名誉なピエリの脱走を知り、彼の命を助けようとする。屋敷を出てピレネー山脈を越え、ドイツへ潜入を試みる。サーカス団の一員に身分を偽り、命がけでドイツへ入り、貴族の身分も捨て売春婦に身を落とし、病に冒される。十年の旅を経て、ロクサーヌはついにピエリの行方をつきとめ、オデットのキャバレーにたどり着く。


    キャバレー「マリオン」の一階

オデット(敦子)「まさかこんな所で、あなたと再会するとは思わなかった
 わ。……ロクサーヌ」
ロクサーヌ(麻木)「よくぞ生きていたわね、オデット。……私が最後にあなたに
 かけた情けは覚えているわね?」
オデット「たった六フラン。それになんの価値があると言うのよ? それがあなた
 の私への愛情とでも?」
ロクサーヌ「その通りよ! 愛しいピエリの心を奪っておいて、はした金が貰える
 だけ神に感謝すべきだわ! ピエリを出しなさい! その薄っぺらいドアの奥に
 いるんでしょう?」
オデット「……彼は、もうあなたのものではないの」

「ふむ」と一息ついた麻木は、敦子に尋ねた。
「あなたはどっちがこの劇の主役だと思う? オデット? ロクサーヌ?」
「華のあるオデットの方だと思う」
「……でしょうね。今の芝居はそう思ってのものだと思った。ロクサーヌが主役だとは思わなかった?」
「ロクサーヌは嫉妬に狂っているだけでしょう? それが主役とは言えない」
「人が嫉妬に狂い、人生を狂わせ、情念と復讐心だけで生きている。それは人の本質のひとつだと思わない?」
「?」
「つまり、ロクサーヌは悪役なの。オデットが光だとしたら、ロクサーヌは闇。光は闇があってはじめて明るい。闇は光があってはじめて暗さが分かる」
「つまりどっちも主役ってこと?」
「その通り。むしろこの劇は、どっちも主役であろうとする闘いこそがテーマよ」
「……じゃ私にロクサーヌ役をやってみろと?」
「ふふふ。話が早いじゃない」

 二人は互いに役を交換し、逆を演じて見せた。道場がダメ出しをするより早く、麻木がダメ出しをした。
「人間の理解が浅すぎる」と。
「あなたはことばの表面をただなぞってるだけ。言葉は氷山の一角にすぎない。どうしてその表面を見せているのか、奥に隠れてる感情までその言葉に含めて、やっと芝居になる。あなたの氷山はただのハリボテ。あなた、本気で人を憎んだことなんてないんじゃないの?」
 十は上の年の、人生経験の差もあるだろう。しかし芝居というものに長年向き合っていないと出てこない言葉でもあった。彼女の言葉自体が氷山であった。
「あと、あなたは体のうしろから声を出せる?」
「? どういうこと? 声は口から前に出るでしょ?」
「違うのよ。体の使い方によっては、そういう発声も可能だってこと」
 ロクサーヌは段取り上、客席に背を向けて喋らなければならない箇所が四箇所ある。台詞を断絶させてはならない。彼女の暗い復讐の情念に、客を引きつけ続けなければならない。
 麻木は背すじを伸ばし、腹式呼吸で普通に「前から」声を出した。
「これが普通に前から声を出すこと」
 次に背を向けて、声を出した。
「これが後ろから声を出すこと。どう? 聞こえ方は変わらないでしょう?」
 不思議な体験だった。両者に違いはなかった。前からや後ろから、という方向性のある声ではなく、舞台全体から常に響いているようだった。
「カラクリを言うとね、そもそも前から声が出てる訳じゃないの。この舞台全体から響くように声を出してるのよ」
「?」
「声は、体全体を響かせて、この背景(ホリゾント)からも、客席の後ろからも、天井からも反響するように出すの。イタリアのベルカント唱法は頭蓋骨から声を上に出すというけれど、多分同じ感覚ね。私は背骨から上下に出すって習ったけど」
「……はあ」
「主役ってのはね、華も重要だけど、技術も重要。上とか下とかじゃなくて、脇役もエキストラもスタッフも、それぞれの技術が噛み合ってひとつのことに向かうのが、人間の集団でしょう?」
 道場はそれに、ひと言付け加えた。
「オーケストラみたいなものだ。いらない楽器はないんだ」
 脇役の俳優が付け加えた。
「脇が流れをつくり、それに主役が乗る」
 小峰ちゃんも語った。
「音響効果だってさ、出るときは出て引っ込むときは引っ込む。全ては劇の流れをつくるため」
 敦子はまだ腑に落ちていない。
「それって、ナンバー1じゃなくてオンリー1になれみたいな話?」
 敦子は自然と舞台の真ん中に歩いてゆく。そこにはロクサーヌ用のピンスポットが一発当たっている。妖怪「センター」が益々膨れ上がった。
「私はナンバー1になりたいのよ! ナンバー2以下じゃ意味がないのよ!」
 敦子は今度は一人二役をやりはじめた。
「オデット!」「ロクサーヌ!」「オデット!」「ロクサーヌ!」
 もう何もかも滅茶苦茶だ。道場はあきれ気味に呟いた。
「思ったより重症だねえ。一人で全部やってみれば? 主役から、脇役から、作演出までさ」
 敦子は舞台中央から泣き叫ぶ。
「私だってどうすればいいか分からないのよ! 体が勝手に動いて、心がそう思ってしまうのよ! 私! 私! 私! 私! 私が世界の中心なのよ!」
 道場はやけになって面白くなってきて、その叫びに乗っかった。
「そいつはいいぞ! ここは俺の劇団だ! 俺の芝居だ! 俺! 俺! 俺! 俺が世界の中心だ!」
 麻木も乗っかった。
「私がいつからこの劇団支えてると思ってんのよ! 私! 私! 私が中心でしょうが!」
 なんだか狼が遠吠えするようになってきた。劇団の皆も乗っかった。
「馬鹿野郎! この照明全部落としてやるぞ! 真っ暗闇で叫んでろ! 俺が一番だこの野郎!」
「音楽なしで踊ってみれば! 音こそが中心なの! これは音楽劇! 私が中心! 私が中心!」
「俺だ!」「私が!」「俺だろ!」「私こそ!」
 シンイチも楽しくなって、乗っかってみた。
「オレも! オレも! オレも! オレも! 観客オレ! オレが中心! オレが主役!」
 内村先生も叫んだ。
「俺がクラスを引っ張ってるんだ! 俺が教えてるんだ! 俺がこの件の責任者だ! 俺だ! 俺だ!」
「俺が中心だ!」「私が中心!」「俺だ!」「私!」
「わたしが世界の中心だ!」
 なぜだか気持ちが良かった。一通り全員が大声で吐き出し、息切れして静まった。変な一体感がそこに生まれた。

 そのとき、鉄の扉が開いて、支配人の小柄なじいさんが顔をのぞかせた。
「そろそろ時間だよ」
「あ、すいません」と、道場は撤収の指示を出した。
「すまん内村。ウチの劇団じゃ、これが精一杯みたいだ」と、小道具を片付けながら内村に謝った。
 内村も済まなそうに言った。
「ここまでやってくれて今日はありがとう。彼女の『治し方』は、別の手を考えるよ」
 シンイチが割って入った。
「でもオレ、オレオレ!って言うのは、超気持ちよかったよ!」
 道場は笑った。
「そうだ。演劇ってのはさ、皆で波長を合わせるのが楽しいんだよ」
 劇団員はめいめい帰り支度をし、次回の稽古日を確認すると次々と帰ってゆく。
「あれから、オデットとロクサーヌはどうなるの?」とシンイチは聞いた。
「実はピエリはとっくに死んでて、二人の争う原因はなくなってたんだ。故郷に帰る手段もなく、二人は誰も知らないキャバレーで、二人組の踊り子として生きていく」
「じゃあ仲直りするんだ!」とシンイチは安心する。
「どうかな。本当には友達じゃないと、どちらも思ったまま生きてゆくんじゃないかな。でもそういう『友情』もあるって話なのかもね」と道場は締めた。
「次回公演、『オデットとロクサーヌ』を是非やってくれよ」と内村は頼む。
「再演っての、やったことねえんだよなあ」と道場は笑う。
 振り向くと、まだ敦子は舞台の中央から動いていない。スポットもとっくに消えているのにだ。
 支配人のじいさんが入ってきて、場内の掃除を黙々とはじめて、道場は思わず「手伝います」と言った。
「いやいや、これは私の仕事だよ。きみたちはきみたちの仕事をしなさい」と老支配人は呟いた。丁寧に隅から隅まで埃を取っている。
「あ。そうか」
 突然、敦子は納得がいった。
「だからこの劇場、こんなに気持ちいいんだ」
「どういうこと?」と、シンイチが聞いた。
「さっき皆が叫んだとき、声が一体になって反響したじゃない? それって、『ここ』がないと、出来なかったことよね?」
 敦子に取り憑いた妖怪「センター」が顔を歪め、パーツが更に中央に寄った。
「それぞれの役割がそれぞれに機能する場所。『ヘンテコな場所がある』って連れてこられたから分らなかったけど……」
「?」
「『この場をつくる人』ってのも、世の中にはいるのね」
 この瞬間、妖怪「センター」は敦子の肩から遊離した。

「不動金縛り!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 心の闇「センター」は、顔の中心を斬られ、真っ二つになって炎上した。まっすぐ、ただまっすぐに中心を斬ることにシンイチは成功した。


 田崎敦子は、その後、話題の中心にしゃしゃり出ることもなくなり、後輩にはきちんと仕事を教え、合コンでは脇役もこなすようになった。驚くべきことに、この日から、皆の集合写真には一枚も写らないようになった。

 何故なら、カメラを構えてシャッターを切る役を、彼女が買って出るようになったからだ。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十四話 「ホームレス」 妖怪「ここじゃないどこか」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「なにも、俺だって最初からホームレスだったわけじゃないさ」
 その男は、アルミ缶を集める大八車に座り、身の上話をはじめた。

 肌は垢で汚れ、重ねて着た服はぼろぼろで黒い染みが酷く、髪も髭も伸び放題で白髪が混じり、三十代とは思えないほど老けている。皮膚はひび割れ、もはや老人のようだ。当然のことながら、すえた臭いが漂う。
「会社を辞めて転職したんだ。そこがはじまりだったのかな」
 シンイチははじめからその話を聞くことにした。そのホームレスの肩には、妖怪「ここじゃないどこか」が巣食っていた。空色の体をしていて、シンイチも宿主も見ず、ただ遠くの空を見つめていた。

 その男、空知(そらち)隅也(すみや)はもともと会社員だった。毎日つまらない仕事を押し付けられ、誰でも代わりの利く仕事で、将来も不透明なまま日々疑問を抱えていた。
「俺のいるべき場所は、本当にここだろうか?」が、新入社員のときからの空知の口癖だった。
 勿論、新入社員の頃は雑用でも何でもするべきだという心構えは普通に持っていたし、三年ぐらい下積みが続くだろうことは社会の常識として知ってはいた。だが五年経っても、この疑問は空知の頭から離れなかった。
 仕事はそれなりにこなせたし、人から感謝されることも覚えた。それなりに会社のシステムの中で自由に泳いでいるような気はしていた。ただし「その枠で」という限定つきの話だ。空知は毎日思っていた。「俺が本当にいるべき場所は、ここじゃない」と。
 昔からその違和感は感じていた。故郷の新潟を出て、東京の大学に入学し、その頃にバイクで日本を一周した。ここじゃないどこかに、自分の居場所があるかも知れないと思ったからだ。しかし全部の県を見て回っても、ここだと思える場所は見つからなかった。どの場所も、常に違和感がつきまとっていた。
 大学を休学し、ユーラシア大陸をバイクで横断した。シルクロードを逆に辿ってみる冒険だ。半年以上かかった。荒野、谷、辺境の村、都市、田舎、色々な国の色々な文化を見た。色々な飯を食い、色々な人と出会った。どの土地でも自分は異邦人だった。落ち着く場所はひとつもなかった。旅先で仲良くなった人もいて、その後手紙のやり取りもしたが、彼らの地に永住したいと思ったことはない。つまり、ここは俺のいるべき場所じゃない。

 たとえば人には、デ・ジャ・ヴというものがあるという。一度も行った事のない、全く知らない筈の土地なのに、何故だか涙が止まらず、ものすごく懐かしく、通りや建物に全て愛着が溢れるという。それは前世でその場所に住んでいたからだ、という説がある。空知は、そんな土地がどこかにあると信じている。俺の本来いるべき場所は、そこなのだと。
 「人類は火星から移住してきたのだ。何故なら人の体内時計は二十五時間周期で、それは火星の一日に等しいからである」というSF的な説を聞いて、NASAの宇宙飛行士になろうともした。オランダの民間会社が募集した「マーズワン」(百人規模の火星移住計画。ただし片道切符で地球には帰って来れない)にも応募した。俺がいるべき場所が地球じゃなく火星で、その土地に降り立った瞬間にデ・ジャ・ヴで涙が溢れるのなら、地球に戻る必要はないとすら考えた。

「遊牧民の血でも入ってるんじゃないの?」と、シンイチは話を聞きながら冗談交じりに言ってみた。
「ははは。俺が会社を辞めて次に入った会社の働き方が、その遊牧民(ノマド)スタイルって奴でさ」
「ノマド?」

 最初の会社を辞め、次に入った会社はIT系で、プログラムコードをつくればOKの仕事だった。フリーアドレスといって、会社に自席はなく、大きな机の「どこに座って仕事をしてもよい」というスタイルだった。たしかにノートパソコン一台あれば、どこでも仕事は出来る。「遊牧民(ノマド)族」といって、カフェでノートパソコンを広げている人たちが、東京には必ずいる。

「ええー。学校行って自分の席がなかったりしたら、ちょっと不安だよ」とシンイチは素直に感想をのべた。
「人は場所に縛られすぎている、と考えるのさ。ネットの発達でそれが可能になった。でもそれは逆に、常に『ここじゃないどこか』を心の中に抱えるってことじゃないかなあ。つまり、安住の地がないってことなんだから」
「学校の席がオレの安住の地?」
「少なくとも俺にとっての安住の地は、会社の席じゃなかったってこと」

 遊牧民(ノマド)スタイルを続けるうちに、別に会社員である必要もないと空知は思った。自然と、フリーランスを考える。仕事単位契約で業界の海を泳ぐ傭兵。仕事があればどこかから集められ、仕事が終われば解散してどこかへ消える。そうやって流れていれば安住の地がみつかるだろう、と彼は思っていた。どうせ、ここじゃないどこかへ行くのだから。
 ある日アパートの契約更新の書類が来た。二年ごと更新だ。更新しなかったらどうなるのだろう、と空知はふと思った。
「どうなるの?」
「住む家が無くなるってことさ。つまり、ホームレス。ここじゃないんなら、どこに居ても同じだなって思ったのさ。かつて俳優の天本英世が、『思想的ホームレス』人生を選んだって話を聞いてさ。そうなろうと思ったんだ。場所に依存しない、真の遊牧民(ノマド)。楽しそうじゃないか。ノートパソコン一台あればなんとかなるって思って、全財産まとめて、俺はほんとうの遊牧民(ノマド)になったんだ」
「なんかカッコイイ。小此木(おこのぎ)さんってピエロの人がね、そうやってヨーロッパを放浪してたんだって!」
「でもなあ。ホームレスの世界は、真の自由世界でもなんでもなかったのさ」
「どういうこと?」

 最初の数日は、空知は真の自由を味わった。好きな所で仕事をし、好きな所で飯を食い、好きな所で寝て、好きな所へ移った。全財産はカードだし、どこででも仕事は出来るから金の心配もない。
 だがそれは、晴れていたから良かったのだ。
 四日目の夜、雨が降った。

「屋根のある場所は、先輩ホームレスのものなんだ」と空知は解説した。
「先輩?」
「ホームレスの世界には、ホームレス同士の先輩後輩の関係がある。その公園で一番長い人が、一番いい屋根のある寝床を使える。その次の人が次にいい寝床だ。新入りの俺が、いい寝床を使える筈がないんだ。俺はそのしきたりを知らなかったんだな」
「それでどうしたの?」
「その日は濡れたまま夜を明かした。パソコン濡らす訳にいかないし、パソコン守ってずっと起きてた。ところが次の日も、次の日も雨でね。三日目に我慢できなくなって、勝手に屋根のあるところ先に取って、早いもん勝ちって言おうと思ったのさ。ところが」
「ところが?」
「それまで満足に寝てなかったから、ついウトウトと寝ちまったんだ。起きたときは、パソコンもカードもケータイも、全財産が無くなってた」
「盗まれたの? 先輩ホームレスの仕業?」
「ボスか、先輩全員か。だって全員その日から消えたからね。……ホームレスにはホームレスの社会とルールがある。自由で、なんでもありなんかじゃないんだ。その日から俺は手に何も持たないまま、一からホームレス社会に少しずつ馴染んで、ようやくアルミ缶回収の仕事を任される地位にのぼりつめたのさ」
「友達とか前の会社に頼んで、お金とか貸してもらえば良かったのに!」
「その頃すっかり俺はノマドで、誰も友達なんていなくてねえ。……友達ってのは、いつも同じ場所にいるから出来るのかも知れないね」
 空知の肩で遠くを見たままの心の闇「ここじゃないどこか」は、鮮やかな青空の色だ。希望の色、とでも言えば良いのか。真っ黒に汚れた空知とは、対照的な色合いだった。彼は「ここじゃないどこか」の理想郷を心に持つことで、彼の矜持を保ってきたのだろうか。
「俺はいつから妖怪に取り憑かれたのかね。会社を辞めたとき? 学生のとき? 東京に出てきたとき? それともずっと前からかね。でも、人間って常に『ここじゃないどこか』を目指すことで、世界を開拓してきたんじゃないのか?」
「そうかも知れないけどさ……今、幸せ?」
 空知は考えた。公園を見渡し、アルミ缶を乗せた大八車を見た。
「ここじゃないと思うよ。俺の居るべき場所は」

 東京にいるホームレスの大半は、地方出身者なのだそうだ。彼らは「一旗あげるまで地元に帰る訳にいかない」と思うがゆえにホームレスとなって、東京から出られなくなるのだという。ネムカケと見たテレビで、そんなことをシンイチは知っていた。
 そんなさまよえる人々は、みんなサーカス団をやればいいのに、とシンイチは先日の火吹き男をはじめとする芸術村の人々を思い出す。
「実家に電話してみなよ。お母さんに電話した?」
「ずっと音信普通の親不孝者だし、縁は切られたよ」
「どうして?」
「俺の実家は、小さな羊羹屋なんだ。その跡を継ぐのが嫌で、俺は東京に出てきたんだ。その時に親父に縁は切られた」
「でも、生きてるか死んでるかぐらい電話したほうがいいと思うよ。十円貸すから、生きてるって電話ぐらいしなよ」
 シンイチはポケットから十円玉を出した。空知はしぶしぶ、どんづまりからの希望にすがった。
「……金貸してくれ、とでも電話してみるか」
 空知は新潟の実家、空知羊羹店に電話をした。久しぶりに聞いた母の声は、意外なことを言い始めた。
「うちの羊羹屋を、閉めようと思う」と。

    2

「……新潟までの旅費は持ってないよな? 子供にこんなこと聞くのもあれだけど」
「持ってないけど、銭湯代とコインランドリー代くらいは持ってるよ! あとは天狗の術で飛べるし!」
「天狗の術?」
 シンイチは腰のひょうたんから天狗の面と、一本高下駄を取り出し身に着けた。
「こんな感じ!」
 ぐいっと溜めて、びよんと飛んだ。小天狗はたちまち空の高さまで飛び上がった。白い雲をつきぬけた。飛行機の乗客は「天狗が飛んでる!」と指差した。天狗面のシンイチは、途中でくるっと回り、すとんと着地を華麗に決めた。
「えええっ何今の!」
「新潟は行った事ないけど、地図見ながらなら行けると思うよ!」
 シンイチは天狗の面を外して笑った。

 空知はコインランドリーで服を洗い、銭湯で体を奇麗にした。服はよれよれだが、石鹸の香りは匂い立つ。
「……まあ、よれよれの方が同情は引きやすいか」
 シンイチは天狗の面を被り、住所不定職業アルミ缶回収の空知を連れて、「跳梁(ちょうりょう)の力」で新潟の空知羊羹店まで飛んだ。

 休耕田ばかりの片田舎の街道沿いに、何軒かの小さな店が、お互い寄りかかるように佇んでいる。瓦屋根はたわみ、柱も棟も少しずつ傾いて、垂直水平がどこにもないような長屋と化している。「創業文久二年」(一八六二)の江戸時代のはげた文字の看板を掲げる空知羊羹店は、その二軒目だ。
 空知は物陰から、その小さな店を眺めた。
「ちっとも俺が出て行った頃から変わってねえや。むしろ経年劣化してやがる」
 と、店の中に意外な人影がいた。
「……誰だよあいつ?」
 金髪で青い目の白人が割烹着を着て、店子として座っていたのである。
「イラッシャイマセ」と、その外人は古いタイル地の棚を磨く手を止め、丁寧に空知にお辞儀した。
 空知は大声をあげ、奥の居間へ乗り込んだ。
「母さん! 誰だよあの外人!」
 ガラリと襖をあけると、寝たきりの父と、看病する母がいた。
「おかえり」と、父の隅之助(すみのすけ)は弱々しく言った。
「誰だよ!」と、空知はその光景に怯むことなく質問を変えない。
「ジェイムスだよ。ジェイムス・クラツキーさんだよ」と隅之助は答えた。
「だから誰? 何でウチの店に?」
 母の元子(もとこ)は説明する。
「ジェイムスはウチの店を継いでくれるというんだよ。だから空知の屋号も、父さんの代で終わりにしようかと」
「……なんだって?」
 隅之助が弱々しく言う。
「元々羊羹屋なんてそんな売れるもんじゃなし、地味な商売だよ。お前が出て行く時にわしに言った言葉は、正しかった。羊羹なんて流行んない、意味ないって言ったよな」
「……何あいつ? 羊羹つくれんの?」
「京都で三年、和菓子を修行したそうだ」
「……三年ぽっちじゃ、全然足りねえだろ」
 空知はつかつかと店先に戻り、ジェイムスに言った。
「味見させて」
 ジェイムスは笑って、試食用のものを爪楊枝にさしてくれた。
 空知の食べたそれは、コンビニの、保存料やら着色料やらたっぷりの、百円の羊羹よりも不味いものだった。
「これでいいのかよ」と空知は振り返って隅之助に詰問した。
「ここで誰も羊羹をつくる人がいなくなるより、いいじゃないか」と、隅之助は弱々しく笑う。
「それでウチを閉めて、この羊羹に譲るのかよ」
「……他に誰がいるんだ? いるだけ、有難いじゃあないか」
「……ちょっと厨房貸して」
 と空知は言い、腕まくりをした。

 子供の頃、この厨房を覗き見するのが好きだった。父が熱心に羊羹をつくる背中を、早起きしてずっと見ていた。母が笑顔で店先に立つのも、誇りに思っていた。作り方なんて習っていなくても、段取りはずっと見ていた。なにより、味を忘れるわけがない。
 小豆の仕込みからして間違ってる。材料の仕入先が同じでも、ふかし方からあの外人は間違ってる。砂糖や塩の配分だって全然違う。羊羹ってのは、鼻血が出そうに甘ったるい中に、ほんの少しの塩がいるもんだろうが。
「俺が毎日食べて飽き飽きしてた味は、もう嫌だと思ってた味は、これじゃなくて他の何かがいいと思ってた味は、こうだろうが」
 空知は、出来上がった羊羹を突き出した。
 隅之助は、一口食べて、涙を流し始めた。
「何でお前、出て行ったんだ。これだけウチの味をつくれるのに」
 空知は言葉に詰まった。ここじゃないどこか。ここじゃないどこか。どこからどう説明していいか分らなかった。
 軒先に吊るされた、金属製の風鈴がちりんと鳴った。空知は驚いて母に尋ねた。
「あれは、俺が子供の頃の祭りで、駄々こねまくって買って貰ったやつ。そんなの何でまだ置いてあるの?」
「お前があれだけ欲しいと言ったものを、捨てる理由はないでしょう」と母は答えた。
 エルドラド、ユートピア、桃源郷、約束の地カナン。空知はずっと探していた。自分が居るべき場所。日本中を見た。ユーラシア大陸も見た。NASAに行こうともしたし、火星にまで行こうとした。
 空知は古くて小さくて、少し傾いた店を見渡した。
「親父。ジェイムスには俺が教える。この店は、出来れば俺が継ぎたい。……俺が出てったのは、ここが一番だって知る為だったのかも知れない」
 そう言って、羊羹を齧った。
「ここが、俺のホームだった」
 こうして、空知の「ここじゃないどこか」は遊離した。

「不動金縛り!」
 行く末を見守っていたシンイチは、腰のひょうたんから火の剣を出した。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 小鴉を朱鞘から抜き火の禁を解くと、黒曜石の刀身から炎が溢れ出した。全てを浄化する、それは天狗の火の力である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 妖怪「ここじゃないどこか」は、ここじゃないどこかの空を見たまま、小鴉に真っ二つにされて真っ白な塩になり、バラバラと床に崩れ落ちた。


 かくして、季節の折々に、新潟の空知羊羹店から高畑家に、空知のつくった伝統の羊羹と、ジェイムスのつくったカスタード羊羹の二本が、届くことになった。
 羊羹を愛してやまないネムカケは、渋い茶とともに味わいながら、「銭湯代が高級羊羹に化けた」と大喜びだ。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十五話 「町工場」 妖怪「キックバック」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 それは、薄暗い事務所の奥にずっと置いてある。
 埃をかぶらないよう、ずっとビニールシートに覆われたままである。鉄塚(てづか)は、その埃を丁寧に払いシートをはがした。
 一抱えもある鋼鉄の直方体から、半分だけ部品が削り出されたままの、鉄の塊。削り出しの途中で断念した試作品である。まるでさなぎから羽化しようとした生き物が、途中で時を止められてしまったかのようだった。鉄塚は何年かぶりに、直接その部品に触ってみたかった。冷たかった。金属特有の冷やりとした感触だ。しかし鉄塚にとっては、それが熱く感じさせるのだ。かつて情熱を傾け、不可能と言われながらも本気でこれをつくろうとしていた、無謀で未熟な若き技術者としての熱さを、この金属から感じるのである。
 その時から三十年経った。鉄塚は時々、事務所の一角に封印されたように眠っている、この埃の下の冷たい部品を一人で見に来ることがある。

 二階の事務所から一階に下りた鉄塚は、鉄塚(てづか)部品(ぶひん)工業(こうぎょう)の社長の顔にすっかり戻っていた。
「やあおはよう」
「おはようございます社長」
 忙しくプレス機や旋盤を動かし始めた社員たちが、次々と鉄塚社長に挨拶した。
 鉄塚部品は、東京都大田区の町工場だ。ここは大コンビナート川崎から多摩川を挟んだ向かいで、戦争の頃から町工場のメッカとなった場所である。鉄塚部品は金属加工がメインで、航空エンジンからバイクから、機械をつくる機械まで、その元になるパーツを作るのが主な仕事だ。エンジンと限らず、メカのパーツになるならなんでも作る。ねじ一本とて馬鹿には出来ない。大阪の下町の町工場には、「ハードロックナット」という三十八年絞め直さなくても緩まないナットを発明した男がいる。ボルトを締めるナットは、時々締めなおさなければ振動で必ず緩む運命にある部品だ。それをメンテナンス不要にした革命的発明が、大企業ではなく町工場から出た。日本のものづくりの技術は、そのような小さな町工場が支えており、それは町工場の誇りだった。
 ところが、錦の御旗「コストダウン」の下、工場の海外移転が続いて久しい。メイドインチャイナ、メイドインベトナム、メイドインコリア、メイドインシンガポール。海外に技術を教え、現地の安い工員を雇えば船賃以上にペイする。科学技術とは、そもそも誰でも使えることがその良さだ。技術指導さえすれば、誰にでも工業は興せるのだ。問題は、それにより鉄塚部品や周囲の工場への受注が海外に流れ、大田区全体が冷えこんで、腕がありながら次々と閉めていく工場があとを絶たないことである。つまり、この辺りは少し錆びの目立つ町になってしまった。

「では出かけてくるよ。納期は十八日でいいんだよな?」と、鉄塚社長は工作部の部長、刃山(はやま)に聞いた。
「ウス! なんなら十六日まででもいけそうッスよ? 納期二日前までに、仕上げてみせますよ!」
「ふふ。言うねえ。入ったばっかの頃は曲がったネジしか作れなかった癖に」
「いつの話スか!」
 部長とはいえ、刃山はまだ二十二歳である。この工場の人的な新陳代謝は上手くいっていない。鉄塚のような昔ながらの職人的技術者と、刃山のような若手のみで、中堅はごっそりいない。それはそのまま、この産業の危うさを象徴しているようだ。
 目の前には常に暗雲が広がっている、それは人生において当然のことだ、そう思い直し、鉄塚部品工業社長、鉄塚継務(つぐむ)は、忙しく働く家族同然の工員たち十六名を背に、今日も得意先に頭を下げに行く。

「納期が無期限延期、ってどういうことですか」
 得意先のひとつ、サイナスエンジニアリングサービスの応接室で、出されたお茶も飲まずに鉄塚は驚いた。向かいの席の野田(のだ)第二部品部部長は、申し訳なさそうに答える。
「済まない。ウチもコストダウンせざるを得ないんだよ」
「じゃあなんですか。また質の悪い中国製、増やすんですか」
 鉄塚は自分より半分しか人生を生きていない、目の前の浅はかな男にも敬語を使う。得意先だからである。
「売り上げが下がって、コストを減らすことしか出来んのだよ。分かってくれよ」
「それで質が下がって、ますますダメになるスパイラルじゃないですか」
「それは正論だけどさ。第一、今の客が質を求めてる?」
「……いつの時代も求めてると思ってます」
「ぼくはそうは思わない。とにかく、コスト削減は社の方針なので。これはもう決定事項なんだ」
「……それじゃウチ、潰れちゃいます」
「先代からの長い付き合いなのは、承知してるつもりだけど」
「……サイナスさんの分がないと、ウチは倒産ですよ。こないだ会ってもらった、刃山いるでしょ。あいつ来月、子供生まれるんですよ。父親になるんです。ウチの社員を路頭に迷わす訳にはいかない。なんとかなりませんか」
 野田は冷めた茶を飲み、窓の外を見た。
「チャンさんの所はさ、こないだ我々を上海旅行に招待してくれてね。上海蟹美味かったなあ。チャイナドレスのモデル並のお姉さんも良かった。良い所だった」
「……キックバックなら、いくらかそちらに渡してますよね? それでウチの儲けがぎりぎりで、回転するだけで精一杯なのも分かって言ってますよね?」
「ぼくは、チャンさんと行った旅行は楽しかった、という旅行の話をしただけ」
「……出直してきます。少し、考えさせてください」

 鉄塚は、挨拶回りのルートにしたがって二番目の得意先、梶エレクトロニクスへ顔を出した。そこでもコストダウンの話をされ、キックバックの額を上げるよう匂わされた。
「ウチは赤字になっちゃいます」
「まあ、そこをなんとかグロス受けで長期的にさ」
 次のフラム総合サービス、ロマナマーケティング&クラフトでも同様だった。
「儲けなんて殆ど出てないんです。これじゃ私ら、首括らなきゃならんです」
「……どこもカツカツなのは同じですよ。我々に得になるように、我々も動かざるを得ないので」
「品質を下げろと言うんですか」
「下げられるのは困ります。下げるのはコストです。乾いた雑巾を絞る、どこかの大手みたいな下品なことは言ってないでしょ」
「もうスリキリ一杯です」
「我々も人間だ。色をちょっとつける、という手段もありますよ」
 どこかの大手より下品じゃないか。鉄塚は、それを表情に出さないように答えた。
「……出直してきます。少し、考えさせてください」

 要するに、仕事を出す分賄賂を寄こせと言うのである。既にそれぞれの会社や担当個人には、昔からいくばくかの賄賂を渡して仕事を貰っている。営業費という名目である。それすら値上げされ、仕事は値下げされ。あるならまだいい。失おうとしているのだ。銀行への返済はたまっている。本当にこのままでは鉄塚部品は潰れ、あいつらを路頭に迷わせることになる。
 大きな橋の上を歩きながら鉄塚は考えていた。夕暮れの寂しい雰囲気が、鉄塚の何かに触れたのかも知れない。
「俺の生命保険がおりれば、来月の皆の分は払えるか」
 鉄塚はふと、橋の欄干の上に登ってみた。
 風は強く、下に落ちたら痛そうだ。
 技術者らしく、自分の自由落下のシミュレーションをしてみた。橋の高さを十メートル、重力加速度十の概算で、落下時間はルート二秒。約一・四秒後の、一瞬の痛みを我慢するだけで、あいつらは一ヶ月助かるのか。その間に次の職を探すチャンスも生まれるかも知れない。技術は叩き込んだから、どこへ流れても食っていけるだろう。
 そうだ、こういう時は靴を脱いで揃えるんだった。技術馬鹿は、世間の常識を知らなくて困る。鉄塚は苦笑いし、靴を揃え、手を合わせて目を瞑り、自由落下をはじめた。
「不動金縛りの術!」
 と叫んだ声が聞こえるや否や、時がゆっくり進むような感覚に陥った。走馬灯ってあるんだな、と鉄塚は思ったが、目を開けると、本当に自分の落下にブレーキがかかっているようだった。
 天狗が飛んできた。いや、近くに来るとそれは天狗の面をつけた少年だということが分かった。その少年は鉄塚の身体を空中で抱きかかえ、水面を蹴って跳ぶと、元の橋の上に着地してみせた。
「ダメだよ自殺なんかしちゃ!」と天狗の面の少年は叫んだ。
「……俺は、助かったのか」
 鉄塚は辺りを見回して理解した。
 天狗の面を外した下から出てきたのは、まだあどけない小学生の顔だった。てんぐ探偵、我らが高畑シンイチである。

    2

「キックバックって何?」
 シンイチは、鉄塚の話の分からない言葉について尋ねた。鉄塚は少し考え、小学生にも分かるようにたとえ話をはじめた。
「焼きそばパン好き?」
「好き!」
「キミが百円出して、俺に焼きそばパン買って来いって言うとするよね。俺は色々と工夫して、八十円でおいしい焼きそばパンを作ってキミに渡す。キミ大喜び、俺二十円の小遣い。これが商売だ」
「うん」
「ところが、他の奴が七十円で焼きそばパンを作って、九十円でいい、と言ってくるとする」
「どっちがウマイの?」
「いい質問だ。九十円のほうが、やっぱちょっとマズイ」
「じゃ百円の方がいいじゃん!」
「でも十円キミが得をするよ?」
「うーん、でもウマイほうがいいかな」
「でもお母さんは十円でも安いほうにしなさいって言うよね?」
「うーん、でもでも、ウマイほうがいいかな!」
「だから我々は、十円を焼きそばパンにつけて、キミにあげることにする。九十円で、しかもウマイ」
「え、じゃおじさん十円損じゃん!」
「そうなんだ。でもないよりましだ。十円はこちらに残るからね。今までは十円キミにあげればOKだった。それが十五円になり、十八円になり、今日言われたのは二十五円だ」
「それじゃおじさんが損だよ!」
「そうなんだ。二十五円キックバックを寄こせ、って言われたのさ」
「せこい。ていうかいじめじゃん」
「うん。でも、それが商売さ」
「でも、安い焼きそばパンはマズイんでしょ?」
「そうなんだ」
「マズイ焼きそばパンでいいって言ってる奴の顔が見たいよ。焼きそばパンは、ウマイほうがいいよ!」
「そこまでウマくなくていいって、大分前から言われててね。だからもう俺たちは、ウマイ焼きそばパンの作り方を忘れたのかも知れないね」
「なんか腹立ってきた! そのおっさんの顔見てみたい! きっとこーんな顔してるんだ!」
 シンイチは変顔をして見せた。鉄塚は少し気が楽になり、同じ顔を少年につくってみた。

 最初にキックバック増額を申し渡されたサイナス社まで二人は戻った。その悪代官の顔が見たいとシンイチが言ったからだ。
「……いたよ。悪代官」
「野田さんのことかい?」
「ううん。あの人の肩にいる、妖怪『キックバック』のこと!」
「……妖怪『キックバック』?」
 その妖怪は、足の形をしていた。ペールグリーンの足の裏に、紫色の顔がへばりつき、ニヤニヤと笑っている。「肩から足が生えてて変」とシンイチは解説して見せた。
「肩から足?」
「そっか、今回は宿主じゃないから、鏡じゃ見えないんだ! ちょっと待って、ポラロイドカメラ、たしか入ってたよな!」
 シンイチは腰のひょうたんからポラロイドを出した。妖怪はアナログカメラに写ることがある。その知識から、内村先生に中古品を買ってもらったのである。
 二人で協力し、「会社見学をしたい孫」という設定で写真を撮ることにした。もちろん、後ろに野田を写すつもりで。
「ハイチーズ」
 ぱしゃり。じー、と出てきたフィルムに、徐々に像が浮かび上がってくる。
「これ、暖めると反応が早く進んで像が早く浮き出るよ」
 と鉄塚はフィルムを両手で包んで温めてくれた。
 野田の肩から、もやのようなものが出ている写真が出来上がった。
「これか」
「うん。これが足で、これが顔。こいつが、キックバックを寄こせって言わせてるんだ。悪いのは野田さんじゃない。妖怪『心の闇』だ」
「心霊写真? あるんだなこういうの。どういう感光現象だろう。放射線感光と同じかな」
 鉄塚の興味は、妖怪の存在よりも、妖怪が感光定着する科学的仕組みのほうにあるようだ。愛すべき技術馬鹿とは、いつの世もそのようなものだ。シンイチは自分の推理を言った。
「多分さ、他の会社の人たちにも『キックバック』が取り憑いてるんじゃないかな?」

 二人は鉄塚が回った得意先を、もう一度一周した。
「思った通りだ!」
 担当のことごとくに、妖怪「キックバック」が取り憑いていた。「キックバック」が全社員に蔓延している会社もあった。
「うーん。キリがないなあ。一人一人説得して回るとかの量じゃないね」
 シンイチは困った。
「……対症療法だけど」
 シンイチは不動金縛りで時を止め、火の剣・小鴉で「キックバック」を、とりあえず肩に取り憑いたまま斬った。
「でもね、キックバックが欲しいって思う心がある限り、彼らの心に張った根っこから妖怪『キックバック』は永遠に生えてくるんだよね」
「むう。……それでは確かにきりがない」
 鉄塚はため息をひとつついた。
「とりあえずウチの工場に戻ろう。焼きそばパンは出せないが、まんじゅうくらいは食べさせてやるぞ」
「オレ、工場見るの結構好きだよ!」
 と、シンイチはまんじゅうより工場に喰らいついた。

 鉄塚部品の小さなあばらやには、昭和の機械が現役で動いている。部品を適時交換して、整備さえ怠らなければ永遠に動く。それが機械というものだ。戦艦大和の主砲を削り出した巨大旋盤は、兵庫県の船舶加工会社でいまだ現役で動いているそうだ。
 モノが作られてゆく瞬間を見るのは、男子にとってはプラモ工場のように、蕎麦打ちを眺めるように楽しいものだ。シンイチは目を丸くしたり、操作してるおじさんに質問したりした。
「みんな、集まってくれ。鉄塚部品にとって重要な話がある」
 いつになく真剣な顔をした鉄塚は、社員十六名を集めた。
「なんですか社長」
 刃山が聞いた。まだ納品は十六日だと思っている顔である。このあといつもの立ち飲み屋でビールを引っ掛けたいが、臨月の奥さんに怒られるので我慢するつもりの顔つきだ。
「実はな、……さっき俺、自殺未遂をしたんだ」
「ええっ!」
「どういうことですか」と社員は口々に言う。
「この子に助けられてな。お礼しようにも、ねじぐらいしか上げるものがなくて」
「オレ、このねじがいい!」とシンイチは一番大きいねじを持ってきた。
「ははは。そのねじはこの刃山がつくったんだよ。あげる」
「やった!」
「みんな、大事な話というのはな、今月一杯で鉄塚部品を閉めようと思うってことなんだ」
 社員一同、その言葉の意味が分からず、ぽかんとした顔をしていた。

    3

 鉄塚は正直にすべてを話した。納期の無期限延期。キックバックの要求額。海外の粗悪品でもコストダウンする、世の中の大きな流れのこと。今のやり方では、その流れに逆らえないこと。妖怪「キックバック」の話は流石に出来なかったが、銀行からの借金を自分の保険金で賄おうとして自殺し、それをシンイチに助けられたこと。
「皆の次の就職先の世話はする。つてが無い訳じゃない。技術は持ってるだろお前ら。今月の給料は問題ない。……それを月末に払って、解散だ」
 刃山が噛みついた。
「社長は、どうするんですか!」
「……俺?」
「ここの負債抱えて、社長はどうするんですか!」
「ここにある工作機械と土地と全部売れば、マンション作りたいって言ってた業者が喜ぶだろ。それでも足りないなら、そうだな。パン屋に就職して、焼きそばパン作るとするかな」
「……だいぶ、マジなんスね」
「まあ、死のうと思ったぐらいだからな。今でも保険金が足しになると思ってるし」
 一同は鉄塚の顔を見て黙りこんでしまった。鉄塚は冗談も下手だが、嘘も下手だとみんな知っている。
 鉄塚は、無意識に二階の事務所を見た。その壁の向こうにあるものは、見えないけれどずっと彼には見えている。
「あのさ。もし、で良かったらだけど」と、鉄塚は遠慮気味に付け加えた。
「何スか! 言ってくださいよ! 水臭いッスよ! あと、社長料理下手だから、パン屋はやめといた方がいいッスよ!」
「ふふ。言うねえ。……俺、どうせならアレ作ってから、ここを閉めたいんだよね」
 皆黙った。社長がずっと奥にしまってあるものを、知らない社員はいなかった。
「今、それを言い出すのかよ」
 経理部の錫木(すずき)が言った。鉄塚と同期で、ずっと二人で技術開発をしてきた男だ。
「俺はいつ言い出すのかと、三十年待ってたんだぞ?」
「……お前が止めたんだろうが」
「採算が割に合わないって言っただけだ」
 シンイチは話が見えず、思わず割って入った。
「ねえ、アレって?」
「そうか。キミには見る権利がある。二階へ行こう」

 事務所でビニールシートを外された、冷たい部品の前にみんなが集まった。シンイチが触りながら感想を言った。
「なんだろこれ。さなぎから孵る途中みたいだ」
「俺も、そう思う」と鉄塚もうなづいた。
「仏を彫る人ってさ、木の中に仏が埋まってるのが見えるんだって! これも鉄の塊になんか入ってるのが、社長には見えてるの?」
 とシンイチは鉄塚に聞く。
「見えてるよ。ずっと見えてる。俺はそれを削りだしてやりたい」
「ところでこれ、何?」
「『ピンチ』といわれてる、関節部になるところ」
「関節?」
「キャタピラとかあるでしょ。あの一個一個をこれで繋ぐんだ」
「こんなデカイの?」
「これは戦車クラスよりデカイ奴さ」
「戦車よりデカイのって、あるの?」
「あるかないかより、普通よりスゲエ強度を持った部品を俺たちは作れる、ってことを証明しようとしたんだよ」
 経理の錫木が説明した。
「それはコストがかかりすぎるし、そもそも需要がないって、俺が止めたんだ。三十年前にね」
 鉄塚は、冷たくて熱いその塊に触れた。
「一度死んだ命をこの子に助けられた。……俺は、こいつを羽化させたい。こんな常識外の部品を作れる所があるって分ったら、この工場を閉めずに済むかも知れない」
 皆は無言だった。
「ごめん。やっぱ俺の我儘だな。皆の就職先を考えなきゃ」
「まいったなあ」と、最初に錫木が頭をかいて言った。
「それ削り出すドリルがないじゃんよ。ドリル作るところからはじめなきゃいけないなあ」
 横にいた(おの)が言った。
「冷却はどうすんの? ドリルがすぐ熱でへたるだろ。今より大きい冷却システム作らなきゃ。こりゃまいったよ」
 その横の銅島(どうじま)が言った。
「まいったなあ。じゃ今のクレーンじゃ足りないじゃん。耐重量のこと考えてから言ってよね。大きいクレーンの仕組みから作らなきゃ」
 その横の鍬田(くわた)が言った。
「せん断応力とか、引っ張り応力とか計算してるんだろうね? まいったなあ。その計器、一から作らなきゃいけないじゃないか」
「なんだ、作るものが一杯あって、それじゃ無理じゃないか」と鉄塚はあきらめた。
 だが、社員の目は、「まいったなあ」と言う言葉とは裏腹に、きらきらしはじめていたのである。無言だったのは、技術者らしく頭の中で計算をしていたからだ。
「作ることが嫌いな奴が、ここにいる訳ないだろうが!」と錫木は鉄塚の肩を張った。
 皆が笑顔で言った。
「まいったなあ。一から作らなきゃ」
「お前ら、やめてくれよ。この会社は潰れるんだぞ」
錫木が笑顔の皆に釘をさす。
「お前ら、一ヶ月以内にやるんだぞ! それで潰れるんだからなこの会社!」
 刃山が胸を張って言い返す。
「納期二日前までに、仕上げてみせますよ」

    4

 それからの一ヶ月、鉄塚部品工業は、ほんとうの「工房」だった。皆の工夫で、皆の知恵で、ひとつのものに向けてひとつだった。みんなケンカして、みんな仲直りしてビールを飲んだ。
 前代未聞の大きさと強度を持つ、キャタピラの関節部の部品。それがどんな用途かは分からないけれど、他の誰にも作れないものだけは確かだった。
「俺の仕事はさ、こいつを売り込む先を見つけることでもあるからさ」
 鉄塚はツナギをスーツに着替え、知り合いの知り合いを一から手繰っていくことにした。
「科学は進歩の為にある。より大きく、より速く、より強く。最近、そういうこと忘れてたよね」
「進歩?」
「つまり、のびのびすることさ」


 ある朝新聞を読んでいた、父ハジメの、一面の記事を見てシンイチは飛びついた。
「鉄塚社長だ!」
 一面に鉄塚社長の写真が載っていたのだ。
「大田区の町工場に、NASAの受注」とそれは報じていた。
 ハジメは記事の写真をシンイチに見せた。
「すげえ。こんなキャタピラ、ホントにあるんだね!」
 ロケットやスペースシャトルの土台になる、巨大な発射台。その発射台の移動用に、ビル三階分もの巨大キャタピラがついていた。
「これかあ……」とシンイチはうっとりしたため息をついた。
「このデッカイキャタピラにふさわしい強度の部品を作れるのは、日本のものづくりの技術なんだってさ」とハジメは解説を加えた。
「良かった! 焼きそばパンのウマさを分かってくれる人がいたんだ!」
「?」
 ハジメは話がつかめないまま、次の記事を見ようと新聞のページをめくる。
「ちょっと待って!」とシンイチはそれを止めた。
 もうひとつ、知った名前を新聞に見つけたからだ。
「サイナスエンジニアリングサービス企業再生法申請の見通し、多発する欠陥部品が原因か」
「ちょっと行ってくる!」

 シンイチは鉄塚部品工業を訪ねた。マスコミ陣が取材に押し寄せ、鉄塚社長は対応で大忙しだ。
 その奥では、刃山が長男の名前を「奈砂(ナサ)」か「焼蕎麦(やきそば)(パン)」にすると譲らず、みんなが反対していた。
 シンイチは鉄塚社長とみんなに手を振り、一本高下駄でサイナス社に跳んだ。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
 サイナス社上空に、大量の妖怪「キックバック」が浮遊しているのを見つけた。倒産でキックバックどころではなくなったのだろう。その数、十や二十ではない。さながら桜の花びらが散るごとしだ。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術! エイ!」
 シンイチは火の剣を抜き、左手の掌を妖怪たちに向けた。
「ねじる力!」
 大量の「キックバック」を渦に巻き、逃げられなくする作戦だ。大量の「なかまはずれ」にも使ったやり方だ。いちいち「つらぬく力」で串刺しにする手間が省ける。
「火よ在れ!」
 これだけの数の妖怪を、全てまっすぐ斬れるだろうか。いや、迷っていてはダメだ。まっすぐ。ただまっすぐにだ。切先の欠けた黒い短剣から、天狗の炎が吹き上がる。
 だが、「なかまはずれ」や「別人格」と違ったのは、「キックバック」は足の形をしていたことだ。奴らはシンイチに向かって体当たりしてきた。つまり、蹴ってきた。
「いてっ! くそお! 数多すぎ!」
 蹴ってきた足をカウンターで斬り伏せる。一匹、二匹、三匹。炎がそれを包む。これは鉄塚社長たちの味わった心の痛みだと思えば、妖怪たちを一刀両断する剣にも力が入った。だが大量の蹴りがシンイチを襲う。脛。頸。腹。背中。
「ちきしょう、いてえよ!」
 特大のキックバックが蹴ってきた。当たれば骨も折れかねない。
「シンイチ! 天狗風じゃ!」とネムカケが叫んだ。
「そっか! 天狗風!」
 襲い来る「キックバック」たちを、葉団扇ではじき飛ばした。距離を作って、彼らの懐に飛び込む。
 二十、三十、五十、百。「キックバック」は次々と炎の柱になり、清めの塩になった。百、百五十、二百を超え、ついに最後の一匹となった。その一瞬の安心が、シンイチに油断を与えた。斬り続けて握力が信頼できなくなり、右手が強張ったせいもあるかも知れない。剣にやわらかく力を伝えることが、心でも、肉体でも、その刹那出来なかった。
「シンイチ!」
 わずかな異変を察知したネムカケが警告した。しかし太刀は既に走っていた。
 がきん。
 嫌な音がした。
「……!」
 心が乱れた。集中力が足りなかった。言い訳はあとからならいくらでも出来る。シンイチは、力の入らない右手を見た。
 小鴉の黒い刃が、根元からなかった。
 砕けた黒い刀身は、数メートル先に冷たく横たわっていた。
 キックバックの最後の一匹は燃え続け、ぼふうと音を立てて塩と崩れた。

 平和は戻った。折れた天狗の小太刀、小鴉を除いては。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十六話 「遠野SOS」 妖怪「?」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「どうしようネムカケ! 小鴉が折れちゃったよう! アロンアルファとかでくっつくのコレ?」
 シンイチは、砕け散った小鴉の破片を集めて家に帰ってくるなり、ネムカケに泣きついた。
 大天狗にはじめて会ったときに授かった、黒曜石で出来た炎の小太刀。その炎で妖怪を斬ることの出来る、てんぐ探偵の決戦兵器。その小鴉が、根元から折れたのだ。
 油断していたのが原因か。たしかに大量の「キックバック」達との戦闘では、心と体が一致しなかったかも知れない。

 シンイチはこれまで、様々な人に取り憑いた様々な「心の闇」を退治してきた。何故その人が心の闇にとらわれたか、シンイチはいつも原因まで探り当て、その人と協力しながら(時に強引に)心の負のループ状態から「本来の自分」に戻るまで頑張る。そうやって心の闇をその人から「分離」しない限り、たとえ斬ったとしてもまた生えてくるからである。
 完全に宿主から分離させたとき、はじめて心の闇を斬る時が来る。てんぐ探偵シンイチは、知恵と勇気とひらめきが主な武器だ。それは、小鴉あってのことである。

「アロンアルファやボンドじゃ、炎の熱で溶けちゃうよね? 溶接すればいいの?」
 ネムカケはシンイチを落ち着かせようと、わざと低い声で言う。
「落ち着けやシンイチ」
「いや無理でしょ! どうしようコレ!」
「小鴉は、直せる」
「どうやってくっつけるんだよう! ……え? 直せるの!」
「そうじゃよ。直せる」
「じゃあ直して!」
「ワシには無理じゃ。飛天(ひてん)僧正(そうじょう)をつかまえないと」
「? 誰?」
 山深き妖怪王国・遠野には、谷から谷へ、山から山へ飛行する、赤い衣の僧が昔から目撃されている。フライング・ヒューマノイドと言って、メキシコやイタリアでも「人」が何も身に着けず空を飛んでいるのが目撃されるという。遠野に伝わる民間伝承を収拾した、日本初の民俗学の書、明治初期の「遠野物語」には、この空飛ぶ赤い僧の目撃談が収められている。
「それが飛天僧正?」
「そうじゃ」
「明治時代の人? じゃ死んでるんじゃん!」
「落ち着け。奴は戦国時代の人間じゃ」
「じゃ、ますます死んでんじゃん!」
「ちがうわい。その時出家して、ものすごい修行をして不老不死を目指しておる、現在五百歳の、半分天狗半分人間になった男なのじゃ」
「ええ! 修行したら、天狗になれるの?」
「大天狗にはじめて遠野に連れてかれたとき、きゃつを見なかったか?」
「ん?」
 その時の体験は、シンイチはまだ鮮烈に覚えている。大天狗の肩に乗せられ、雲の上をずんずん歩いて、山と霧に囲まれた妖怪の国、遠野へ着いた。空には烏天狗が出迎え、その後ろに、空飛ぶ赤い衣の僧が谷から谷へ……
「あ、いた! 飛んでた赤い衣の僧侶! ……あの人か!」
「やっぱり奴は興味津々で見に来ておったな。あ奴は勝手気ままな奴での、遠野の山を好きなように飛び回っていて、いつどこに現れるか、誰にも分からんのじゃ」
「とにかく、その飛天僧正に会いに行こう! 今心の闇が現われても、何も出来ないよ!」
 シンイチは粉々になった黒曜石の刀身をあらためて眺めた。
「あ、でも、刀を直すのってどのくらいかかるの? 一週間? 三日? その間学校休まなきゃ」
「もう忘れたのかシンイチ。天狗の山は、時の進み方が違うのだぞい」
「あ、そっか! じゃ次の土日で大丈夫か! それまで心の闇が現われなきゃいいけど……」
 幸い、土曜になるまで心の闇は現われず、シンイチの心配は杞憂となった。

 そして土曜の朝。
 再び遠野へ。シンイチの第二の故郷とも言える場所へ。
「よしネムカケ、出発だ!」
 玄関を出て、シンイチは腰のひょうたんから赤い鼻緒の一本高下駄を出した。
と、通りの向こうから、ぺたぺたぺたという足音とともに、真っ赤な人影が走ってきた。人ではない。それは真っ赤な妖怪だった。
「シンイチー!」
 その妖怪は、シンイチの名を呼んだ。
「まさか……キュウ!」
「シンイチー! 見つけたぜー!」
「わはは! 本当にキュウだ! どうしたのわざわざ東京まで!」
 遠野で大天狗に修行をつけられていた期間、同じ背格好で同じ子供だからと、親友になった赤い河童のキュウだ。それが突然、東京に現れたのだ。
 二人は抱き合い、再会を喜んだ。相変わらずキュウはぬるぬるしていた。
「河童淵からわざわざ来たの? 遠かったでしょ! 皿、乾いてんじゃん!」
 シンイチは台所まですっとんでいって、コップに水を汲んでキュウの頭の皿にばしゃりとかけた。
「ふうー、生き返るううううう。あ、でも、やっぱ東京の水は不味いな!」
「遠野の天然水と比べないでよ! ていうか、良くここが分かったね!」
「大変だったよ! 烏とか猫とかに道を聞いてさあ。でもみんなてんぐ探偵のことは知ってたぜ! シンイチ、結構烏には有名人だな!」
「烏かあ。微妙ー!」
 河童のキュウは全身が赤い。遠野河童は皆全身が赤い。江戸時代以降、浮世絵などで流布された全国の河童は、緑色の一族が主体だ。河童は元々遠野が出身地だが、遠野の水以外では河童は緑色に育つのかもしれない。水棲生物のようにぬるぬるとして、頭には皿があり、ざんばら髪で、嘴のような口、手足には水かきがあり、背中には亀のような甲羅。全身が赤い以外は、いわゆる河童である。ただしキュウは、ちょっと短足だ。
「わざわざ東京までオレと相撲取りに来たの?」
「ちげーよ! オイラ、シンイチを呼びに来たんだよ!」
 ひと息ついたキュウは、一気にまくしたてた。
「遠野が、遠野が大変なんだよ!」
「?」
「なんか訳分かんない奴が、妖怪たちに取り憑いたんだ! オイラの父ちゃんにも取り憑きやがった!」
「妖怪って、普通人間に取り憑くんじゃないの? その妖怪に取り憑くやつがいるの? ……まさか」
 ネムカケは落ち着いて尋ねた。
「大天狗はなんと言っておる」
「ああ。それを言えって、天狗さまに言われてたんだ。あの紫色のモヤモヤみたいな奴らは、『心の闇』じゃないかって」
「……心の闇」
 一気にシンイチの心拍数が上がった。
「心の闇が、遠野に現われたのか」
「心の闇って、東京の新型の妖怪なんだろ!? このままじゃみんな取り殺されちまうよ! 心の闇に一番詳しいシンイチが来ないと、遠野はヤバイんだよ!」
「心の闇は……妖怪にも取り憑くのか」
 シンイチは、折れた小鴉と一本高下駄を握りしめた。
「行こう。遠野へ」

    2

 東京から北へ進むと、関東平野が終わるころ、左側に赤城山(あかぎさん)をはじめとした日光の山々が見えてくる。遠野へは、それを目印に山沿いに北へ飛ぶ(一本高下駄で)。巨大な湖、猪苗代(いなわしろ)()とその向こうに会津若松(あいづわかまつ)が望めるころ、左の山脈は壁のような奥羽(おうう)山脈へとかわる。奥州のまん中を北の端まで貫く、日本の屋根のひとつだ。その壁沿いになお北へ進む。大都会仙台(せんだい)は海沿いの平野に出来ていて、上空から見ると、遠く北から流れてきた北上(きたかみ)川が削った下流の砂洲であることがよく分かる。仙台を通り過ぎると、北上川を挟んで左に奥羽山脈が尚続き、右側に北上(きたかみ)山地が出現する。岩手県とは、北上川が削ったV字渓谷で出来ていることが良く分かる。入り口を一関(いちのせき)と呼ぶ。なお北へ。右側に最初に見えた一番高い山が早池峰(はやちね)(さん)で、そのお膝元の、猫の額のような盆地が遠野だ。
 もう少し先まで行けば、それより高い山が左に見えている。岩手一の岩手山だ。ふもとに広がるのが岩手最大の町盛岡(もりおか)だが、遠野はそれより手前だ。
 遠野郷は、今日もひっそりと、緑深き山の小さな平地に、霧がたなびいていた。

 岩手県遠野市は、人口二万八千人(二〇一四年現在)と、東京都新宿区二十八万人の、丁度十分の一だ。しかし逆に面積は新宿区の四十六倍である。四六〇分の一に薄めた新宿を想像してみよう。新宿に一軒家に一人いたら、あたり四五九軒は誰もいない。その一家に四人いれば、一七三九軒は誰もいない。誰もいないそこは、山だ。
 遠野には七十七の山があるという。山には、元々遠野にいた暮らしていた妖怪たち「遠野(もの)」と、人間たちの文明と新型妖怪「心の闇」に追いやられた、全国の妖怪たち「よそ(もの)」が住んでいる。妖怪の間にはいつも諍いが絶えず、天狗たちが平定している。七十七の山は、かつての静かな辺境の妖怪王国ではなく、いまや妖怪たちの火薬庫である。

 シンイチ、キュウ、ネムカケは、まず河童の棲家、河童淵へと向かった。ちなみに、中央の遠野町には「観光地としての河童淵」が残るが、そこにもう河童はいない。彼らはもっと上流へ上流へ、人目を避けて逃げたのだ。
 遠野盆地の中心を流れる猿ヶ(さるが)石川(いしがわ)には、かつて河童が住むと言われた。だが現在の河童淵は、その源流の源流、石上山(いしかみやま)のふもと、小峠(ことうげ)から上った源流にある。人里離れた清流を上っていくと、どうどうと音を立てる不動滝がある。その滝壺がキュウたち河童の、現在の棲家である。
「親父! シンイチたちを東京から連れてきたぜ!」
 キュウはぺたぺたぺたと父河童の下へ走っていく。
「ウリさん! 久しぶり!」
 シンイチはキュウの父、ウリに挨拶した。キュウの先代はウリ、ウリの先代はキュウという。この一族はウリとキュウの名を交互に名乗る(だからキュウの息子はウリの予定だ)。
「おお。……人間の子、シンイチか」
 大柄なウリは、滝壺の前の苔むした岩にうなだれて座っていた。ウリの皮膚にはまだらの模様があり、剛毛が生えている。眼窩は飛び出してガマガエルのようだ。初対面ではおそろしげな妖怪もシンイチはすっかり慣れているので、ものおじせずウリの隣に座る。
「……こいつだな」
 ウリの逞しい甲羅と赤黒い左肩の間に、「心の闇」が半分埋もれるような形で取り憑いていた。
「シンイチ、早くこいつを取り除いてやってくれよ! 親父、ずっと元気がねえんだよ!」
 キュウは懇願する。
 シンイチは、その心の闇らしきものを観察した。「紫の煙みたいな」とキュウが言ったとおり、そいつは不定形のもやもやのようであった。さわれば空を切り、つかみどころもない。そのもやの中に、二つの小さな金色の瞳があった。こちらをじっと見返してくる。
「シンイチ! こいつら、一体何なんだ!」とキュウははげしく問う。
「こいつは……」と、シンイチはいつものように心の闇の名を言おうとし、はたと次の言葉が出てこないのに気づいた。
「どうしたのじゃシンイチ」と、ネムカケが異変に気づく。
「あれ? 何だ? ……どういうこと?」
「?」
「……オレ、こいつの名を知らない」
「なんじゃと?」
「こんなことは初めてだ。この心の闇の名前が……分からない」

    3

 滝壺から河童たちが、心配そうにシンイチたちを眺めている。
「……おっかしいな。なんでだろ。何でこいつの名前が分からないんだ……」
「落ち着けやシンイチ。そもそもお前はどうして今まで心の闇の名前が分かっていたのじゃ」
 焦るシンイチを、ネムカケはなだめようとした。シンイチは考えた。
「……なんでだろ?」
「はい?」
「なんでか、オレには心の闇の名前が今まで分かってきたんだ。ただそれだけなんだよ」
「えっ。誰かに教えてもらったとか、天狗の巻物とか、そういうんじゃないのかい!」
「ないよ。見ればスッと分かる。それだけだもん」
「……あきれた。それが大天狗の言っていた、才能(ノーブレス・オブリージュ)とやらか」
「そういえば、大天狗に挨拶しなきゃ!」
 シンイチが言うと同時に、ずしんと地響きが渡り、滝が揺れた。空が黒くなった。大巨人の大天狗がやって来たのだ。
「大天狗! 水鏡の術では話してたけど、会うとやっぱデカイね!」
「元気そうでなによりじゃ」
 雷のように轟く声が響き、びっくりした鳶たちは梢から飛び立った。河童たちも水の中に隠れ、巨人なる山神をあおぎ見た。
「うるさいよ! ここ反響が響くし!」
「すまぬ。足音を立てないように頑張ったのだが、シンイチを見たらつい大声が漏れてしまったわ」
 シンイチは一本高下駄で飛び上がり、大天狗の肩に乗って、自分の指より太い髪の毛をつかんで引っ張った。大天狗はシンイチの身体より大きな掌で、頭をわしゃわしゃとすり潰しそうになる。
「いててててて」と、二人は再会を喜びあった。

「しかし、シンイチにすら名が分からぬ心の闇とは」
 と、大天狗はウリの肩を見て言った。
「うん。……どうしよう。キュウ! 妖怪たちに取り憑いてるのは、みんなこんな奴?」
 河童のキュウは大天狗の肩の上のシンイチに答えた。
「うん。カマイタチ三兄弟も小豆洗いもやられた。あと座敷(ざしき)童子(わらし)(ぬえ)様も。全部親父と同じ、こんな紫のモヤモヤだ」
「鵺みたいな大物もか……」
 シンイチは大天狗の肩から降り、俯き加減のウリに尋ねた。
「今どんな感じ? それを聞けば、こいつの正体が分かるかも」
 ウリは話すのが億劫ながらも、なんとか答えようとした。
「うん。……なんかモヤモヤする」
「それで?」
「ざわざわして、どよーんてなる。……ああ。死にてえ」
「死んじゃダメだよ親父!」とキュウが横から叫ぶ。
「大丈夫だよキュウ。オレがなんとかする」
 シンイチは無理でも落ち着いたふりをする。キュウをこれ以上心配させる訳にはいかない。
「それから? ウリさん」
「うん。……分かんない。分かんないんだ」
 ウリは大きくため息をついた。そのため息を紫の心の闇は吸い、少し大きくなる。
「……分かんないのか」
 シンイチは考えこんだ。
「キュウ。いつからこいつは遠野に現れた?」
「それも分かんないのさ。気づいたら一気に蔓延してた。次から次に伝染病みたいに」
「……疫病みたいだな。大天狗、山全体にこいつはいるの?」
「野良で漂っていた奴はわしが炎で焼いた。だが同時多発的にやられたのだ。遠野者もよそ者も、等しく区別なく」
 キュウが説明を加える。
「取り憑かれた奴らは、他に伝染しないように、続石(つづきいし)近くの洞窟と、安倍(あべ)(じょう)に隔離したんだ」
「……よし、妖怪たちのいる所へ行こう。まず続石からか」
「うむ」と大天狗はうなづく。
「うわん、枕返し、あかなめ、小豆洗い、ぬっぺふほふ、カマイタチ、ぬらりひょんあたりが元々よそ者として住んでたよね」とシンイチが思い出す。
「そいつらみんなやられたよ。あと、ろくろ首とか一ツ目小僧とかもやられて、集めてある」とキュウは付け加える。
「ぬら(ジイ)がやられただとう?」とネムカケは驚いた。ぬらりひょんは、ネムカケの良き茶友達なのだ。
 シンイチは皆に言った。
「探偵の基本は聞き込みだ。一体何が起こってるのか、彼らにも話を聞こう」

    4

 続石(つづきいし)とは、巨大な石の上にさらに巨大な石の積まれた、巨石遺跡である。なんの為に積まれたのか、自然に形成されたのか、現代でも分かっていない。中尊寺へ落ち延びていた源義経(鞍馬天狗の弟子牛若丸)の一の家来、武蔵坊弁慶がこの巨石を積んだ伝説もある。古代人の支石墓(ドルメン)という説が現代では濃厚だ。
 その近くに岩屋の洞窟があり、「紫の煙」に取り憑かれた者たちが隔離されていた。シンイチ、キュウ、ネムカケ、大天狗の一行は、河童淵から石上山山中を近道してたどり着いた。
 キュウは洞窟へ走っていく。
「みんな! ネムカケ様と大天狗様、その一番弟子のてんぐ探偵シンイチが来たぜ! 紫のモヤモヤの謎が解けるかも知れない!」
 暗がりの洞窟から、物の怪たちが百鬼夜行のように這い出てきた。彼らは流行り病に取り憑かれたかのようだ。紫のモヤモヤの「心の闇」が、右肩、左肩や腰や頭に憑いている。
 妖怪うわん、枕返し、あかなめ、小豆洗い、ぬっぺふほふ、カマイタチ(長男、次男、三男)、ぬらりひょん。
 忘れられた昭和の妖怪たちも。口裂け女、人面犬、雨女。
 江戸時代に活躍した妖怪たちは、江戸のモノの形や着物姿ですぐ分かる。ろくろ首、一ツ目小僧、唐傘(からかさ)お化け、提灯(ちょうちん)お化け、のっぺらぼう、一反(いったん)木綿(もめん)、ぬりかべ。
 シンイチは彼らを見ながら、大天狗に聞いてみた。
「そういえば、飛天僧正っていう奴、見た?」
「しばらく見ておらぬ。奴は気まぐれだからのう。ひょっとしたらどこかで我々を見ているのかも知れんが」
「あの人しか小鴉を直せないの?」
「わしの炎では黒曜石を全部溶かしてしまう。奴はちょうどいい温度の炎なのだ」
「え? マジで溶接するんだ!」
 百鬼夜行が出揃った。シンイチは皆にモヤモヤについて聞いてみた。しかし、皆元気がない。
「うわん!」と叫んで人を驚かす妖怪うわんは、「う……」としか言わないし、妖怪枕返しはマイ枕を持っていない。人の脛を鎌で切り薬で血を止める妖怪カマイタチは、鎌も薬も忘れてきたようである。
「オイ! ぬらりよ! 元気がないぞな」とネムカケが心配する。
 妖怪ぬらりひょんは、後頭部の異常に大きな、顔面の歪んだ小柄の爺さんである。夕方の忙しい時間帯に人家にあがりこみ、黙って茶を飲み茶菓子を食べていくという。ネムカケとは江戸時代以来の茶飲み友達だ。ぬらりひょんは元気がなく、その場に座り込んでしまった。膝の上にネムカケが乗り、「もふもふしてみい!」と元気づけようとするが、ぬら爺は少し手を置いただけでじっとしていた。
「ぬらよ、一体どうしてしまったんじゃ。心の闇とは、こんなにも悪さをするものなのか! どうしたらぬらりは元の元気なクソ爺いに戻るんじゃ!」
 ネムカケはやるせない怒りでぬら爺の頭部に取り憑いた心の闇を睨み、爪で引っ掻いたが宙を切った。妖怪にも「心の闇」は触れないらしい。

「一人ずつ聞かせてくれないか。今、どんな気持ちか」
 シンイチは皆に事情を聞こうとした。
 しかし妖怪は、元々言葉が不自由なのである。うわんは「うわん」としか話せないし、ぬっぺふほふや、のっぺらぼうには口がない。枕返しは失語症のようになってしまっていて、口裂け女は「私は奇麗じゃないし」しか言わない。
「いつからそいつがいる?」と、シンイチはぬらりに聞いた。
「何でもいい。こいつがどんな奴か分からないと、退治できない。分かることを教えてくれ!」
「……うつされた」
 と、ぬらりがようやく口をひらいた。
「誰に?」
「わからない。誰かにこいつが憑いてた。気づいたらわしにもいた。……うつされたんだ」
「……伝染性か。ありがとうぬら爺」
 大天狗はそもそもを質そうとした。
「シンイチは、これが心の闇だと思うか」
「うん。オレが今まで見てきた奴らに似てるし、ただ名前が分からないだけだと思うんだ。妖怪に取り憑く妖怪なんて聞いたことないし、新型妖怪であることは確かだよ」
 シンイチは当てずっぽうで、この紫の心の闇の正体を言い当てようとする。
「なんだろ。妖怪『鬱』。『新型鬱』……妖怪『うつむき』、『うしろむき』……」
「『弱気』の時に似ているな」
「うん。『弱気』に症状は似てるけど、あの黒い奴とは顔が違うから、別の感情だと思うんだ」
「別の感情?」
「つまり別の名前。感情にはひとつひとつ名前があって、心の闇はそのどれかに対応してると思う。今までの経験だとね」
「そうだ。その活躍の土産話を楽しみにしていたのに、こんなことになってしまって……」
 大天狗は嘆いた。腰のひょうたんに入っている天狗酒を我慢するのは辛いものだ。
「人間の心は複雑だ。だから色んな心の闇がいるんだと思うんだ。でも妖怪には単純な奴もいる。これだけバラエティの富んだ奴らに共通の感情ってなんだ? 『プレッシャー』? 『心配』? 『落ちこみ』『元気なし』『もやもや』『ニート』『自閉症』……」
シンイチはキュウに尋ねた。
「キュウ。安倍が城に隔離したのは、見たら死んじゃう系の大物だよね?」
「うん。鵺様も、がしゃどくろも、牛鬼(ぎゅうき)も、やられた」
「ええっ。あんなにでかくて恐いのも?」
「遠野組だと座敷童子も。寒戸(サムト)のババは元気だから、みんなを看病してる」
「……あまり近寄りたくないなあ。見たら死んじゃうんだよね」
「天狗の山ではその力は止められておるぞ」と大天狗は言った。
「……行くしかないか」
 「安倍が城」とは、遠野一の山、早池峰山頂から峰沿いに東へ下りたところにある、巨大な岩山の通称である。正式名称を徳兵衛(とくべえ)山という。
 平安末期、前九年の役で源氏に抵抗した、安倍貞任(あべのさだとう)という武将が、八幡太郎源義家(みなもとのよしいえ)に追われ山中の岩山に隠れ住んだ伝説がある。貞任の死後も彼の母がそこを守り、雨の降る前の日には、岩山の鉄の扉を閉める音が、里まで聞こえるという。

    5

 山深き遠野郷全体をイメージするには、五角形を頭の中に思い浮かべると良い。それぞれの頂点に高い山があり、隣接する村との境目になっている。一番上の北の頂点に、最も高い早池峰山、そこから時計回りに白見(しろみ)(やま)五葉(ごよう)(さん)物見(ものみ)(やま)笠通(かさのかよう)(さん)。その五角形の中に残り七十二の山がひしめく。真ん中やや右下に、遠野二の山、六角牛(ろっこうし)(さん)。真ん中やや左に三の石上(いしかみ)(やま)。中央市街地の遠野町は二つの山に挟まれるようにひらけ、真ん中に猿ヶ石川が流れている。
 河童淵と続石のある石上山から、一行は五角形の一番上、最北最高峰の早池峰山を、安倍が城目指して上ってゆく。霧が濃くなってきた。雲の中に入ったのだ。高山植物が多く生息し、縄文時代の遺跡が多く出るタイマグラ沢を越えると、巨岩、安倍が城が霧の向こうにうっすらと見えてくる。安倍が城は全体が巨大な一枚岩で出来ており、その中の無数の亀裂や洞穴に妖怪たちが隠れ住んでいる。安倍が城は、秘密の道を知らぬ者には決してたどり着けない場所という。遠くに見えているのに、どうにも行けない場所として里人に知られる。
 突然、強い突風が吹いてきた。風の中から一人の老婆が歩いてくる。
「寒戸のババ!」
 シンイチは走っていって抱きついた。
 梨の木の下に草履を揃えたまま、行方不明になった寒戸村の娘(寒戸は実在しない村の名。筆者は寒田と推定している)。山神にさらわれたと噂され、変わり果てた婆のような姿で一度だけ里に帰り、親族の無事を確かめて山へ消えたという。彼女は山神と結婚し、妖怪として永遠の命を授かったのだ。彼女は常に強い風を纏って現れる。厳しく強く吹く風こそが、彼女の本体なのかも知れない。
「シンイチ、また大きくなったかい?」
「全然!」
「そうかい。キュウが呼びに行ったと聞いてな。シンイチの東京の話を皆楽しみにしてたのだがねえ」
「でも、そうもいかないんだよね?」と、シンイチは岩山を睨んだ。
「うむ。(ぬえ)、がしゃどくろ、牛鬼(ぎゅうき)()入道(にゅうどう)、一本だたら、犬神(いぬがみ)がやられた。遠野者だと座敷(ざしき)童子(わらし)、キャシャが」
 そこに長い口笛のような、トラツグミに似た鳴き声が、「ひー」と響き渡った。
「……鵺が鳴いてる」
「うむ。……苦しいらしい」
「急ごう」
 大きく見上げると、ひっくり返りそうになる巨大な岩山。それが安倍が城だ。
黒い煙が、そのひとつの洞穴から湧き出た。
「鵺」
 黒い煙を伴って現れる妖怪。狒々(ひひ)の貌、狸の胴、虎の手足、蛇の尾を持つ大型の獣である。平安末期京を騒がせ二条天皇に祟りをなし、魔物ハンター源頼光(みなもとのよりみつ)の子孫源頼政(みなもとのよりまさ)に、家宝の「頼光の弓」で退治された。そのときの矢尻は、京都神明(しんめい)神社に現存する。
 鵺は、ひい、ひい、と苦しそうにしている。シンイチは虎よりも大きなその獣に近づき、左肩を撫でてやった。紫色の煙、心の闇が取り憑いている。それはシンイチがひと抱えできそうなほどの大きさに成長していた。
「つらいか?」
 鵺は、ひーと鳴く。
「『苦しみ』『痛み』……伝染する、こいつの正体はなんなんだ」
 岩山の上から、がしゃどくろが顔をのぞかせた。無念で死んだ武士の骨が集まって出来た、骸骨巨人の妖怪だ。左肩の肩甲骨あたりに、同じく巨大な紫のモヤモヤが取り憑く。
 輪入道が転がってきた。炎に包まれた車輪についた仁王顔の妖怪だが、炎がちろっとしか出ずに元気がない。牛の顔を持つ巨大な牛鬼も姿を現した。一本足の一本だたらも飛んできた。化け猫キャシャと、犬の顔の僧侶犬神も歩いてきた。みんな心の闇に取り憑かれ、元気がない。
 金色の鞠が転がってきた。いつもならそれを追っかけて赤いべべの座敷童子が走ってくる筈だ。しかし当の座敷童子は岩壁にもたれて、すっかり元気を失っていた。
 シンイチは鞠を拾い、童子に返した。
「なんだよ、元気ないじゃん」
「……」
「喋る気力もないの?」
「……うん」
 おかっぱ頭の座敷童子はうなづいた。
「何か、心配ごと?」
「なにも、ない」
「具体的な何かはないの?」
「ない。……ただ、つらい。……訳が分からず、つらい……」
 座敷童子は、先日長年住んでいた宿屋が火事を出し、住処をなくして安倍が城まで辿りついた。誰とも遊べず、さぞ一人でさびしかっただろう。
「今まで見てきた心の闇と、何が近いんだ? 『弱気』? 『どうせ』? 『みにくい』……どれも違う。でも引きこもりっぽくなるのは似てる。妖怪『引きこもり』? 妖怪『無気力』?……」
 大天狗が呟いた。
「わしの炎で、心の闇を焼いてしまえれば楽なのだがな」
「心の芯に食いこんでるから、絶対また生えてくる。永遠のイタチごっこだ」
「ねじる力で取り出せぬものか」
「妖怪『心の闇』の問題じゃないんだ。オレはいつも、宿主の心の方が問題だと思ってるんだ」
「どういうことだ」
「普通の時なら、心の闇は取り憑かないみたいなんだよね。ふとしたときに心に隙間が出来て、そこに心の闇が滑り込むんだ。だから『普通の心』を取り戻せば、心の闇は外れる。問題は、普通の心に戻れるかどうかなんだ。『普通』が一番難しいんだけどさ。いつもならその名前がヒントになるんだけど……」
 シンイチは考えた。
「妖怪たちの心。妖怪たちの普通の心って…………あ!」
 ネムカケがニヤリと笑った。
「その顔は、何か思いつきよったなシンイチ!」
「わかんないけどさ」とシンイチは前置きした。何かを企んでいる顔だというのは、ネムカケには分かった。シンイチは続けた。
「んー、わかんないけどさ。キュウ! 寒戸のババ! 取り憑かれた妖怪たちを、一つの場所に集められないかな?」
 寒戸のババは尋ねた。
「ここにか?」
 シンイチは思案した。
「んーとね、マヨヒガがいいんじゃないかな!」
「わしの家?」
 大天狗は、面食らった顔をした。

    6

 山の中で迷ったら、不思議な家に遭うという。誰もいないのに、囲炉裏はさっきまで人がいたように暖かく、味噌汁もまだ湯気を出している。茶菓子は手をつけられ、洗濯物も取り込み中である。しかしそこにいたと思われる、人だけがいない。その家をあとにしたが最後、後日もう一度訪れようとしても道が分からず、二度と行くことが出来ない家。それを迷い家(マヨヒガ)といい、この家は常に山の中を移動しているのである。そしてそれは、大抵が天狗の家なのだ。
 大天狗のマヨヒガは、曲がり屋と呼ばれる、岩手の古民家と同じ構造だ。馬小屋と母屋がL字型に繋がった、馬と暮らす人たちの家の構造だ。マヨヒガには大抵紅い花が咲いている。この家の庭にも、紅白の花が咲き乱れていた。
 大天狗は大巨人ではあるが、このマヨヒガは何故か日本人サイズの大きさだ。シンイチはそれがいつも不思議なのだ。大天狗は家の中に入れないから、庭で寝たりする。食事をしているのは見たことがない(霞を食うのだ、と天狗は言った)。なのに、この家には人が暮らす為の、ひと揃えの台所や居間や寝室や床の間や、厠や風呂や馬小屋があるのである。なぜか囲炉裏には減らない季節の野菜の汁があり、杉のおひつには減らない麦飯が入っている(そしてどっちもうまい)。

 シンイチは「心の闇」の取り憑いた妖怪たちを全員庭に集め、段取りを話した。
 一応妖怪たちは了解したようだが、半信半疑であった。シンイチは夕暮れまで待とうと言った。逢魔が刻。すなわち、妖怪の最も活き活きする時間帯である。
 妖怪たちは所定の位置につき、物陰に姿を隠した。大天狗はどっかと庭の奥に座り、ネムカケ、キュウ、寒戸のババは、その胡坐の膝の上に座って観客となった。
 シンイチはマヨヒガと彼らの間に、天狗の面を置いた。火吹き芸人小此木ピエロの真似だった。観客席とステージを分ける境界線の代わりである。ここから向こうは「架空の世界」の印だ。

「ピーピピー」
 舞台(ステージ)上手(かみて)から、シンイチがややわざとらしい口笛を吹きながら現れた。
「うわん!」
 突然大声を出して、毛むくじゃらの妖怪うわんが、屋根の上から現れてシンイチをびっくりさせた。
「うわあああ! びっくりしたあああ!」
 シンイチは尻もちをついた。妖怪うわんはそれを見て、思わず「うひゃひゃひゃ」と笑った。
「なんだ! びっくりしたよもう! 眠いからひと眠りしようと帰ってきたのに!」
 シンイチは寝室の布団に入りこむ。
「さあて寝るぞ!」
 目をつぶり、眠ったふりをすると、柱の影から妖怪枕返しが出てきて、枕をひっくり返した。
「うわあ! 枕がひっくり返った! 不思議現象だ!」
 シンイチは辺りを見回すが、妖怪枕返しは既に隠れている。「うひゃひゃひゃ」と枕返しは柱の影で笑った。シンイチは怒って風呂へ向かう。
「眠れないから風呂にしよう! ま、洗わなくてもいっか!」
 そこへ妖怪あかなめが出てきて、風呂とシンイチの背中を舐める。
「ひいいい! ごめんなさいいい! 風呂を洗わないとあかなめが来るううう!」
 台所へ逃げてきたシンイチは、異変に気づく。
「あれ? 小豆がない!」
 壁の向こうから小豆を洗う音がする。
「小豆洗いが出たあああ!」
 縁側に出ると、ぬらりひょんが座ってお茶を飲んでいる。
「あ、ども」とシンイチが挨拶すると、ぬらりはニコニコしてお茶菓子を食べる。
 シンイチは柱の影に隠れて大声を出す。
「誰だよあの爺さん! よく考えたら、誰か知らないぞ!」
 それを聞いたぬらりは、「ぬひゃひゃ」と笑う。
 縁側を気にしながらシンイチが玄関から外へ出ると、ぐにゃりとしたぬっぺふほふに、ぶつかってよろめいた。そこをカマイタチ長男が転ばせ、カマイタチ次男が鎌で脛を切り、カマイタチ三男が薬を塗って傷を治す。
「何にぶつかったんだ? 脛が切れてるけど、血が出てない! カマイタチが出た!」
 シンイチは庭に戻る。座敷童子が金の鞠をついている。
「ねえねえ、鞠で遊ぼうぜ!」
 一緒に鞠をついてやる。座敷童子はもっともっととせがむ。そこへ河童のウリが現れる。
「河童だ! オレ様に相撲で挑戦する気だな!」
 一番相撲を取り、ウリは上手投げだ。
「うわー負けたああ!」
 庭の隅にたたらを踏みながら行くと、藪の中から、妖怪ろくろ首、一ツ目小僧、のっぺらぼう、唐傘お化け、提灯お化け、一反木綿、ぬりかべが出た。
「で、出たーっ! 妖怪だあああ!」
 シンイチが腰を抜かして逃げると、反対側の藪から人面犬と口裂け女が出てきた。
「うわあ! 人の顔した犬だ! そしてポマードポマードポマード!」
 雨が降ってきた。
「妖怪の次は雨か! 雨女のせいだな!」
 屋根の上の雨女をシンイチは指差した。
 その背後から黒い煙が。「ヒー!」と叫んだ鵺が現れ、その背後からがしゃどくろと牛鬼が現れる。
「見ただけで死ぬうううううううう」
 シンイチがへたりこむと、一本だたら、輪入道、キャシャが取り囲む。
「殺さないで! 殺さないで! あ、犬だ」
 最後に出てきた犬神の頭を、シンイチはナデナデした。

 シンイチは息を切らし、滝のように汗を流したまま妖怪たちに聞いた。
「…………どう?」
「うひゃひゃひゃ」とぬらりひょんが笑った。
「うひゃひゃひゃ」と鵺も座敷童子も笑った。
「うひゃひゃひゃ」と、皆が笑い始めた。
「どう!」と、シンイチは更に胸を張り皆に聞いた。妖怪たちは口を揃えて言った。
「もう一回!」
「えええええ!」
 意外な答えにシンイチは驚いた。
「もう一回やって!」と座敷童子はせがむ。
「しょうがねえな! もう一回だけだぞ!」
 うわんが驚かせ、枕返しが枕を返し……最後に犬神の頭を撫でる。妖怪たちは皆「うひゃひゃひゃ」と嬉しそうに笑う。シンイチは更に聞き返す。
「どう!」
「もう一回!」
「もう一回?」
 あかなめに舐められ、カマイタチに切られ、座敷童子と河童と遊び……
「どう!」
「もう一回!」
 ろくろ首に腰を抜かし、口裂け女にポマードと叫び、屋根の上の怪物に殺さないでと頼み込み……
「どう?」
 妖怪たちは、うひゃひゃひゃと笑って、笑顔で頼み込む。
「もう一回!」

 結局、何回これをやらされただろう。都合十三回。シンイチはヘトヘトになった。心の闇の取り憑いた妖怪たちはすっかり元気を取り戻し、元の明るい顔(妖怪の元気な顔とは、おどろおどろしい顔のことなのだが)を取り戻した。
「シンイチ。一体どういうカラクリだ」
 と大天狗は尋ねた。目に見えて妖怪たちが回復しはじめたことを不思議に思ったのだ。
「別に難しいことじゃないよ」と、シンイチは息を整えながら答えた。
「みんな、しばらく人間と会ってないんじゃないかと思ってさ!」
「……ふむ」
「だって、都会に闇がなくなって、住むとこがなくなって、どんどん山に行くしかなかったんでしょ? 人間を驚かしたり、人間と遊んだりとか、そういうことをずっとやってないんじゃないかと思ってさ。だから自分が何者か、分からなくなっちゃったんじゃないかと思って!」
「うわん!」とうわんがうなづいた。
「うひゃひゃひゃ」とぬらりひょんが笑った。
「ヒョーーーーーーー」と鵺が雄叫びを上げ、「わおーん」と犬神が応えた。
「人間をおどかす為に、妖怪はいる。それが彼らが誰かを思い出すことなのかなって」
「自信を取り戻させる、『弱気』と似たような対処法か」
「うん。……オレ、この心の闇の名前、なんとなく分かったような気がする。形がなくて、なにか特定のことじゃないこと。どこから来たのか分からず、伝染すること。単純に単純に考えれば良かったんだ。妖怪たちの心を考えればよかったんだ」
「妖怪の心」
「妖怪にも心はある。心の闇が取り憑くんだもんね。こいつらは、今のオレと同じだ。今、オレには小鴉がない。その心と同じだったんだ」
「その名は」
「不安」

 その言葉で、二十八の妖怪に取り憑いた二十八の「不安」は、ざあああああと音をたてて一斉に彼らから外れた。大きいの。小さいの。心の闇、妖怪「不安」は、セレモニーの風船のように風に乗り、そのまま空へ飛んでいきそうになる。
「やべえっ! 逃がしちゃう!」
 シンイチが焦ると、大天狗が応えた。
「まかせろ」
 大天狗は、巨大な手で、目にも止まらぬスピードで印を結んだ。獨古印(どっこいん)大金剛輪(だいこんごうりん)印、()獅子(じし)印……
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動明王よ我が前に威を示して法を顕せ。金色(こんじき)羂索(けんじゃく)なる因果の鎖で、全ての悪鬼を恐怖に縛り上げよ。大不動大金縛り!」
 ごおん、と山全体に音が響き、無数の「不安」たちは、空中で時を固定した。
「まかせたああああああ!」
 シンイチは大の字になってひっくり返った。視界全部が空になった。マヨヒガの庭に寝転んで見た遠野の空は、紅の夕暮れに染まっている。もう体力の限界だ。

 その一点に、何かが飛んでいた。

「……あれ、何だ?」
 それは点ではなかった。「人」が飛んでいる。
 寒戸のババが気づいた。
「風が、止んだ」
 その人型は、見る間に大きくなり、降りてきた。
「全て見ておったぞ。人の子よ」
 赤い衣の裾が、ひらひらとしている。シンイチは声を上げた。
「飛天僧正だ!」

 どん。千の風とともに、飛天僧正が地面に降り立った。砂塵が舞い上がり、紅白の花が衝撃に揺れ、ぼろぼろの赤い僧衣が翻る。飛天僧正はゆっくりと顔をあげ、シンイチを見て歯を剥いて笑った。人間の顔だった。天狗のように顔が赤くはなく、鼻も長くなかった。だが両の瞳は金色で、人の姿のまま空を飛ぶ様といい、半天狗半人間というネムカケの形容は正しいとシンイチは思った。
 僧正はシンイチに言った。
「天狗にも成し得なかった、心の闇を外すわざ。人の子が成し得るとは実に興味深し」
 大天狗は僧正に答えて言う。
「天狗にも出来ぬとは、それは僧正なりの嫌味か」
「早池峰の、先刻わしの炎をぬるいと嫌味を言ったろう」
「言ったかのう」
「わしの地獄耳を舐めるな」
天耳(てんじ)(つう)は天狗の基本じゃろ」
 飛天僧正は大天狗と仲が悪いのだろうか。言葉の棘は鋭い。
「ねじる力は使えるか。てんぐ探偵シンイチ」と飛天僧正はシンイチに尋ねた。
「一応。もうヘトヘトだけど」
「大儀であった。もうひと頑張りしたら、面白いものを見せてやる。どうせ早池峰のは、お主に簡単な基本しか教えてないだろうからな」
「短期間で闘える弟子にしただけだ」と大天狗は反論する。
 飛天僧正は時を止めた無数の妖怪「不安」たちの前に立ち、見たこともない印を結び始めた。蔵王(ざおう)権現(ごんげん)印、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)印、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)印、聖観音(しょうかんのん)印までは分かったが、あとは全く分からない。
「火よ、在れ」
 複雑な印はまだ続く。次第に風が巻き始める。
「闇に火よ在れ。無知蒙昧有象無象の闇なる循環を、六道(りくどう)輪廻(りんね)の光の側へ導け。循環の(ことわり)の外の者、天狗の名に於いて」
 轟音とともに、地面から九本の火柱が上がった。
「九尾の火柱」
 僧正の背後から、九本の火柱が取り囲む。
「シンイチよ。これにねじる力を加えよ。ゆくぞ!」
 僧正は両手を「不安」たちに向けた。九匹の炎の蛇が、噛みつきにかかる。
「ねじる力!」
 シンイチは、残りのありったけの力で火柱をねじった。
「そうだ!」
 僧正は応えた。九本の火柱はねじられ、「不安」たちに襲いかかる九重の炎の竜巻となった。
「ねじる力は、空間をねじり妖怪を閉じ込めるだけではない。己の炎をねじるときにも使えるのだ」
 まるで小鴉が折れたときの闘いを見てきたかのように、僧正は言った。いや、ひょっとしたら本当にあのとき上空に、僧正が赤い衣をはためかせ飛んでいたのかも知れない。
 ごう。九重の炎の竜巻は大小の「不安」たちを九回焼いた。めりめりめり、と空気の割れる音がする。遠野を騒がせ、妖怪たちをおかしくさせた二十八の「不安」は、炎の渦巻きの中で清めの塩となった。花が咲くように空中ではじけ、その大量の塩が雪のように降ってきた。
「……きれい」
 へとへとのシンイチは、その光景で心が洗われたような気がした。
「ふん。相変わらず低温ロースト仕様の炎だ」と大天狗は再び嫌味を言う。
「相変わらず天狗は血の巡りが遅いな。(ぬし)の高温では、周りの妖怪とこの家ごと灰になるだろうが」
「ふん」
「まあまあまあ、二人ともケンカはやめようよ。せっかくドントハレなんだからさ!」
 シンイチは二人の猛者の間に割って入る。それを見た寒戸のババは驚いた。
「すごいなシンイチは。あの二人の間に割って入れるなんて! ここにその度胸のある妖怪なんて一人もおらんぞな!」
「たしかに」とネムカケは評す。
「あいつのいい所は、誰とでも仲良くなる力じゃな」
 ふと見ると、ぬらりひょんは勝手に縁側で茶菓子を盗み食いしていた。
 遠野妖怪郷は、てんぐ探偵シンイチの活躍によって平和が訪れた。…………ように見えた。

 突然、目も眩むばかりの稲妻が早池峰山頂に落ちた。

 大天狗と飛天僧正はそれを見て、口喧嘩をやめて無言となった。雷鳴が七十七の山に反射し、何度も往復するこだまとなった。
 ただならぬ二人の気配を察したシンイチは尋ねた。
「どうしたの?」
 大天狗は厳かに答えた。
「招集の稲妻だ。十天狗会議に、ついにお前を呼ぶときが来たのだ」
「十天狗会議?」
「十天狗の前に、お前の力を示すときが来た」
「オレの……力?」
 飛天僧正は白い歯を剥いた。
「はははっ。面白いことになってきたな。先に行くぜ!」
 身軽に宙に舞うや否や、目の前から消えたかと思うと、山頂付近に小さくなっていく僧正の姿があった。
 大天狗は言った。
「シンイチよ。わしは先に行く。薬師(やくし)(だけ)から山頂を目指せ」
「えっ? どこに行けばいいの?」
「天狗の道をゆくのだ」
 大天狗も、言うが早いか、山をまたいで山頂へ行ってしまった。
「えっ。何? ……何が起こってるの?」
 河童のキュウとウリが、神妙な顔で寄ってきた。寒戸のババも座敷童子も寄ってきた。
「シンイチよ。大天狗の弟子にして、人の子よ」と寒戸のババが言った。
 ぬらりひょんもネムカケを抱いて寄ってきた。うわんも、枕返しも、あかなめも小豆洗いもぬっぺふほふもカマイタチも。ろくろ首も一ツ目小僧も、のっぺらぼうも、唐傘お化けも、提灯お化けも、一反木綿もぬりかべも。口裂け女も人面犬も雨女も。鵺もがしゃどくろも牛鬼も、一本だたらも輪入道もキャシャも犬神も。
「え? 何? みんな、どうしたの?」とシンイチは戸惑う。
 この中で一番の長老、ネムカケが口をひらいた。
「遠野には七十七の山がある。それぞれに妖怪が住み、それらを統べるのが山の王、天狗である。遠野には全部で十の天狗がいる。遠野を今後どうするか、十天狗の間での会議が持たれる。それを遠野十天狗会議と言うのじゃ」
「今後……どうするか?」
「今回の議題は、お主のことじゃろう」
「えっ? ……何を話すの? オレについて?」
「行けば分かる」
「なんだよ。みんな何か変だよ。大天狗は、十天狗にオレの力を示す時って言ったけど……オレ、殺されるの?」
「分からん。山神たる天狗の考えることは、わしら妖怪風情では何も分からぬ」
「大天狗の考えてることも?」
「大天狗というのは通称じゃ。奴の本名は、早池峰山(はやちねさん)薬師(やくし)(ぼう)と号す」
「え。大天狗、名前あったんだ。薬師って、薬師岳の薬師か」
 大天狗の消えた早池峰山頂の方向を皆は見た。遠野一の山、早池峰山頂の手前には、安倍が城よりも巨大な岩山が鎮座している。それを薬師岳といい、里の人々は前薬師(まえやくし)と親しみをこめて呼ぶ。
「十天狗に会いにゆけ。その筆頭が薬師坊じゃから心配するな」
 ずらりと並んだ妖怪たちは道をあけた。その先に、早池峰の頂への道があった。
 すっかり夜になっていることにシンイチは気づいた。シンイチは、観客とステージの境目に置いた天狗面を拾い、「天狗の道をゆけ」の言葉に従うことにした。

    7

 夜の山は、真の闇である。シンイチは早池峰山山中で、かつて大天狗薬師坊に稽古をつけてもらったから、自分の庭のように地形は頭に入っている。迷うことはない。だけどその山頂近くに、大天狗の言い残した「天狗の道」なんて見たことがない。
 そういえば、はじめてこの山に連れて来られた頃、大天狗に夜の山で放り出されて超恐かったっけ。泣きそうになった。真の闇を経験することなんて、都会育ちの子供にはないことだ。闇は恐い。単純にその恐怖を、シンイチは朝まで味あわされた。それは「闇は恐いと知る」ためだ、とあとで大天狗に教えられた。
 薬師岳は夜目には見えないが、今日もおそらくゴツゴツしている筈だ。一端薬師岳にのぼり、下って、シンイチは早池峰山頂を目指す。一般登山道も整備されているし、昨日雨が降った訳でもなし、山道に足を取られるということはなさそうだ。
「うーん。このままだと、早池峰神社の奥宮に着いちゃうんじゃないかなあ」
 シンイチはふと風を感じて立ち止まり、後ろを振り返った。薬師岳の向こう、雲の隙間から遠野町の灯が見えている。闇の中で、灯は人の存在を教えてくれる。だから恐くない。
 シンイチは腰のひょうたんから、刀身が折れて柄だけになった小鴉を出した。
「出来るかなあ……」
 黒曜石の欠片は根元に残ってはいる。たいまつのようにそれを構えてみた。
「火よ、在れ」
 ほのかな炎が、刀身の残骸からぽっと燃えた。そのわずかな灯に照らされ、山頂までの道が見えた。辺りにかざすと、見たことのない横道があるのにシンイチは気づいた。
「あれ? こんな所に横道あったっけ?」
 シンイチは思わずその道へ入った。たいまつ代わりに小鴉の炎を掲げ、シンイチは驚いた。
「なんだこれ!」

 道が、ねじれていた。
 正確に言えば、道の両脇の木が異常にねじれていた。ねじれて育つ木は、普通育つ方向、つまり鉛直方向にねじを回すようにねじれていくものだ。だがこの異常なねじれた道は、道の進む方向にねじを回したように、並木がねじれているのだ。この並木道に掌を突き出し、強大なねじる力を使えばつくることが出来るだろう。
「ここが天狗の道?……」
 渦を巻くようにねじれた巨木たちの枝をかきわけ、シンイチはその先に進んだ。

 目の前に、狐火と白い小さな狐が現れた。
「……お前、動物の狐じゃないな。飯綱(いづな)だろ」とシンイチは話しかけた。
「話が早いな。お前が早池峰の弟子だな?」と白狐は喋った。
「早池峰山薬師坊が本名だってさっき聞いたんだけどさ、そうだよ」
「オイオイあのオッサン、自分の名前も教えてないのかよ! ずぼらにも程があるだろ!」
 と、白い狐の後ろから、身軽そうな小柄の天狗が現れた。
「あ。……飯綱使いか!」
 白い狐は小柄な天狗の手を伝って肩に座った。
「よく知ってるね。オレサマは飯綱使いの神様さ」
 飯綱使いとは、管狐(くだぎつね)という小さな狐(通称飯綱)を使う、東日本に広く伝わる邪術である。コックリさんも民間に広まったそのひとつだ。予言、呪殺など強大な力を得る代わりに術者は死ぬ。その魂を、天狗が喰らうという。
「お前の実力を試そうかと思ってたんだけど、杜撰すぎて拍子抜けだわ。天狗の道を自力で見つけただけ褒めてやるぜ」
 狐火に照らされたその天狗は白髪で、朱い顔に狐面のような文様をつけていた。
「オレサマは四の天狗、権現山(ごんげやま)飯綱(いづな)(しん)
 一本高下駄を履いた飯綱神は、ぴょんぴょんと跳んで行く。
「早く来いよ! 置いてくぞ!」
 シンイチも一本高下駄を履いた。
「ちょっと待ってよ!」
 慌てたシンイチはひと飛びして飯綱神に追いつこうとした。しかし、はたと考えて立ち止まった。
「早く来いよ! 十天狗を怒らせるつもりか!」
 シンイチは飯綱神の行かなかった(・・・・・・)方向に炎をかざした。黒々とした岩山があり、そこにつらぬく力で、子供一人通れそうなまっすぐな穴が開いていた。
「飯綱は嘘つきが仕事だもんね。こっちが正解の道でしょ?」
「ちっ。……お前、かしこいな!」

 朱い鳥居のある広場に出た。
 地面に巨大な九曜(くよう)紋があった。苔むす地面が、なんらかの力で九曜紋の形に抜けている。九曜紋は、十の円による紋である。中央に大きい円があり、八つの円が八方から囲み九曜をなす。全体を十番目の円が枠のように囲んで完成だ。大きな鳥居にも、同じ紋が掲げてあった。
「早池峰神社の九曜紋だよねこれ?」とシンイチは聞いた。
「十の円は、そもそも十の天狗を示してるのさ」と、飯綱神は掌から小さな狐火を出し、鳥居の上に向かって言った。
「ものをちゃんと良く見る、まともな奴ですぜ」
 轟音とともに、広場を巨大な炎が渦巻いた。熱い竜のようにうねり、視界を真っ赤に染め上げる。誰もいない広場だと思っていたのだが、既に十天狗はいた。それが炎で見えるようになったのだ。
 炎に照らし出された十の朱い顔と二十の金の目が、シンイチを見ていた。

    8

 鳥居の上には、白く長い髭の長老天狗、その両脇に(からす)天狗が二羽。鳥居の後ろに大天狗薬師坊がどっかと胡坐をかく。鳥居の手前に、飯綱神を含めた八狗の天狗。烏天狗はあくまで十天狗には含まず、侍従のようだ。十の天狗は皆顔が朱く、高い鼻の憤怒相であった。
 全員顔が朱いと思ったのは炎のせいで、その中に一人だけ白い顔(アルビノ)の天狗がいた。白いゆったりとした衣や顔の感じから、どうやら女天狗らしい。彼女が口火を切った。
「このボウヤが早池峰の弟子かい」
 その横に、炎柄の着物を着た、牛のような巨躯の天狗が歩み出た。黒くて太い翼が印象的だ。
「思ったよりも子供だ。だが、思ったより賢い」
「お前ら、人間の子など褒めてどうする」と鳥居の上に座した長老天狗が口を開いた。
「人間など、焼き払ってしまえばいいのだ。心の闇も、人間がいたから生まれたのだろう。全部焼き払って、天狗と神と妖怪の昔に戻ればいいものを」
「人間の中には、見所がある奴もいる」と大天狗薬師坊は反論する。
 だが長老は嘆くだけだ。
「早池峰の、どうしてお前はいつも人間の肩ばかりもつのだ」
「人間でもダメ。天狗でもダメさ」と、飛天僧正が空から現れ、近くの大杉の枝に腰掛けた。
「お前は十天狗ではないだろうが」と大天狗薬師坊は嫌そうに言う。
「観客さ。立会人とも言うね」と飛天僧正はニヤリと笑う。

「あの。……話が見えないんだけど」と、シンイチは天狗たちに物怖じせず聞いてみた。
 十天狗は面食らった。白い女天狗は高笑いした。
「あはは。こいつは面白い。この子、十天狗会議に割って入ってきたよ。普通この光景にびびって立ち尽くすものなのに、なかなかいい度胸じゃないか! アタシは石上山(いしかみやま)白女(しらめ)。河童淵も続石もアタシの(テリトリー)だよ。キミの活躍は、天狗たちは山の上からずっと見てたのさ」
「えっ。見てたの?」
「そりゃそうだろ。天狗には皆千里眼があるからよ」と、飯綱神は掌の狐火を弄びながら言う。
 シンイチは全員の天狗の顔を見た。さっきから、なんだか巻き込まれ続けてる感じが気に食わなかった。
「何故黙る?」と飯綱神は聞く。
 シンイチは皆に宣言した。
「オレは東京の高畑シンイチ。みんなからはシンイチって呼ばれてる」
 天狗たちはまたも面食らった。
 大天狗薬師坊が言った。
「それは、知っている」
「違うよ馬鹿!」と白女が制する。
「益々アタシは気に入ったよこの子!」
「?」
「自分が名乗ったんだから、お前ら名乗れって言ってるのさ!」
「なんだと?」
「わははははは」
 炎柄の着物の、牛の如き天狗が笑った。
「これだけの天狗を前に、なんたる度胸だ。一本取られたわ。早池峰の、(ぬし)から名乗れ」
 大巨人でシンイチの師、遠野一の早池峰山を預かる薬師坊は名乗った。
「一の天狗、早池峰山薬師坊」
 牛並の天狗は、自分に巻きつく大きな炎を出して言った。
「そして儂は二の山、六角牛(ろっこうし)(さん)を預かる、六角牛(ろっこうし)炎魔(えんま)炎寂(えんじゃく)坊。十天狗の中で最も火力が高い。さっき皆が登場したときのデカイ炎も儂のじゃ」
「ちんこ自慢はどうでもいいんだよ」と白女は横槍を入れた。
「アタシは遠野三の山を世話してる」
石上山(いしかみやま)白女(しらめ)さん」とシンイチは名前を言う。
「覚えてくれて嬉しいねえ」
「オレサマも名乗ったぜ」と飯綱神が白狐を撫でながら言う。
「飯綱使いの神。四の天狗、権現山(ごんげやま)飯綱(いづな)(しん)」と覚えた名をシンイチは言う。
「記憶力いいね!」
 残りの天狗たちも、一歩前へ出た。中国式の長衣を着た天狗が名乗った。顔に刺青が入っていて京劇の面のようだ。
「五の天狗、五葉山(ごようさん)真人(しんじん)坊」
 その脇の鎧を着込んだ鎧天狗が名乗った。
「六の天狗、安倍(あべの)貞任(さだとう)が臣下、物見山(ものみやま)鎧丸(よろいまる)
 山伏姿の天狗が名乗る。
「七の天狗、白見山(しろみやま)立丸(たてまる)坊と申す者」
 八人目は片目の眼帯をしている。
「立丸はいつも固えなあ。もっとくだけようや。八の明神(みょうじん)独眼(どくがん)。わしの千里眼が一番よ。酒がないときはね」
 修行者風の白い衣の九番目が名乗る。
「九の天狗、(あま)(もり)イタチ坊」
 鳥居の上の、脇侍の烏天狗たち。
()(がらす)
()(がらす)。ちなみに左右が逆なのは、こっちから見てな。京都の左大臣右大臣、左京区右京区と同じ配置。これ豆知識な」
 最後に頂点の長老が、白く長い髭をしごきながら名乗った。
「十天狗の長にして全。天野山(あまのさん)天道(てんどう)坊」
 よく見ると深い皺だらけの額の真ん中には、第三の目が開いていた。仙人のような姿からは想像出来ないぐらいに声が通った。空気の振動ではなく、直接脳に届いている声なのかも知れない。
 白女がシンイチに言う。
「これで全員名乗ったね。今日アタシらが集まったのはさ、長老や皆が、シンイチに聞きたいことがあるからさ」
「聞きたいこと? ……って何?」
「勿体振ってないで、さっさと聞いちゃいなよ長老」と白女は水を向けた。
「では本題だ。薬師坊の弟子にして人の子、シンイチよ」
「はい。……何でしょう」
「お前は、天狗に()るつもりか?」
「……え?」
 予想もしていない問いだった。どういうこと? 言葉の意味をつかみかねた。自信が過信になり、得意になる慣用句の「天狗になる」では、この場合ないだろう。飛天僧正は修行で人から天狗になりつつある、とネムカケは言っていた。
 飛天僧正が横から茶々を入れる。
「過信して鼻高々、の天狗ではないぞ。修行して天狗と化すつもりか、と長老は聞いたのだ。俺のようにな」
「え……そんなこと、考えたこともないよ」
 天道坊はさらに詰める。
「では何故早池峰の弟子になった。何故天狗の力を欲すのだ」
「欲すというか……オレ『心の闇』で困ってる人を、助けたいと思ったから」
「なんだと?」と、天道坊は三つの金の目を剥いた。
「天狗の力を得ることは、普通不老不死の力を得る為じゃぞ。そこの半人前僧正みたいに、己のことしか考えぬ傲慢な男が天狗の力を求めるものだぞ」
「え? そうなの?」
 半人前と言われた僧正は笑った。
「はっはっは。そういうことだ。修行の目的は私利私欲だ。天狗道なる魔道に身を落とすこと也」
「お前ら人間が勝手に天狗を魔怪扱いしとるだけじゃ。天狗は天狗。人間が勝手に意味をつけようとする」
「ふん。だが十天狗の四人もが元々人間だったではないか」
「お主のように愚かではないから、すぐに天狗の法を得られる素直さがあったのだ」
 天道坊は怒りを示した。大天狗薬師坊が割って入った。
「皆も千里眼で、今日のシンイチの活躍を目撃しただろう。シンイチは妖怪たちの心を理解しようとし、我々には思いも寄らなかった『人間のやり方』で、妖怪たちの心の闇を祓ってみせた。わしが人間に希望があると思うのは、まさにここなのだ」
「呆れたわ」と天道坊はシンイチに向かった。
「お主、人助けのつもりで、妖怪相手に大芝居を立ち回ったのか?」
「え? うん。リアルじゃないって分かってても、みんな久しぶりに人間と遊べて、喜んでたでしょ!」
「妖怪は人間に迷惑をかけるのにか?」
「しばらくかけてないんでしょ?」
「妖怪たちを恨まんのか?」
「なんで? とくにないよ。ビジュアルはちょっと恐いけど!」
 天道坊は驚いた目で薬師坊を振り返った。
「本当に、お前の言うことをこの子は成し遂げるかも知れん」
 薬師坊は嬉しそうに答える。
「はい。この子の素直さは特別です。しかも今誰よりシンイチは、新型妖怪心の闇に詳しい。奴らを滅ぼし、妖怪と人間の正しいバランスを取り戻せる可能性を、私はこの子に見出しているのです」
 シンイチは思い出したように天道坊に向かって言った。
「あ! オレサッカー選手に()るよ! 約束した人がいるんだ!」
 天道坊は目を剥いた。
 シンイチは続けた。
「誰でも、妖怪たちすら不安になるんだ。ひょっとすると不安が『心の闇』の大元の原因かも知れないね。不安なら、その人と話して不安を取り除いてあげるのが一番だよね? それが、大天狗の言う『オレの力』かも知れないんだけどさ」
 天道坊はさらに三つの目を剥いた。さっきから目を剥きすぎて目玉がこぼれ落ちるかと、脇の左烏と右烏が思わず手を出した。天道坊は右手で烏天狗たちを制し、白く長い髭をしごいて三つの目を細くした。
「薬師よ、良い弟子を見つけたな」
 ポンと、ひょうたんの栓を抜いた天狗がいた。八の天狗、最も酒好きな明神独眼だ。
「これにて、十天狗会議ドントハレだな! 早池峰のは良い弟子をとった! 十一番目の天狗の席を、シンイチの為にあけるとしようぜ!」
 飛天僧正は露骨に「十一番目の席」に嫌な顔をした。そこは俺の予約席だろうが、と言いたげな顔だった。
 めいめいの天狗はそれぞれのひょうたんの栓をポンと抜き、天に掲げた。
 大天狗薬師坊が音頭を取った。
「今日の主役、シンイチに」
「シンイチに」と皆が唱和した。ひょうたんの天狗酒を一気飲みだ。
「げふう」
「え? なに? 酒盛り?」
 シンイチは呆気に取られた。薬師坊は大声で言う。
「よし、宴会じゃ! 妖怪たちも呼んで騒ぐぞ! そうだ! 東京でどうやって『心の闇』を倒したか、色々聞かせてくれ。その点、天狗たちも気になっておるのだ」
「ちょっと待ってちょっと待って! オレ、そもそも小鴉直しに来たんだし!」
「おおう。忘れておった。修行僧飛天殿、酒も飲まずに小鴉を直してくれ給え。我々の今日の仕事は終わりなので」
「けっ。天狗なぞ、酒に溺れて死んじまえ」
「残念ながら、不老不死でな」
 薬師坊は一度ひょうたんの栓を閉め、また開けた。なみなみと酒が入っている。天狗のひょうたんの酒は、決してなくならないのである。
 飛天僧正は梢からふわりと降り立ち、シンイチの折れた小鴉を手に取った。
「何匹斬った」
「えっと、……」
 シンイチはこれまで斬った妖怪たちを思い出し指折り数えた。
「弱気、誰か、めんくい、いい子……いや、どうせは大きかったから十文字に斬ったし、別人格は二十四だし、キックバックの時は二百以上……いや、野良を含めればもっとだ。……たぶん、数百は」
「良く頑張った」
 はじめて屈託のない笑顔を見せ、僧正はシンイチの頭を撫でた。
「火よ在れ」
 飛天僧正は右手から炎を出し、小鴉の溶接をはじめた。
「下がってろ。火花が飛び散る」
 シンイチは数歩下がり、質問した。
「小鴉がなくても、さっきみたいに火をコントロール出来れば、妖怪は斬れるの?」
「そうだ。やって見せただろう。刀は触媒に過ぎぬ。シンイチは、まだまだ修行を積まねばならんな」
 小鴉を溶かす一点に集中させた炎を、シンイチは見ていた。「天狗に()る」なんて、考えてもいなかった。――しかし、それで強くなれるなら。
「オーイ、シンイチー!」
 ぺたぺたぺたという足音と共に、河童のキュウが走ってきた。
「キュウ! みんな!」
 キュウを先頭に、シンイチに助けられた妖怪たちがぞろぞろとやってきた。寒戸のババも、ぬら爺に抱かれたネムカケも、うわんも鵺も、みんな晴れ晴れとした顔(ということはおどろおどろしい顔なのだが)をしている。
「とりあえずこれ河童一族から、ぴっちぴちのヤマメ!」
「え、どういうこと?」
「十天狗会議のあとは大宴会って相場が決まってるのさ!」
「商工会議所のおっさんかよ!」
 「不安」にやられずに助かっていた妖怪たちもやって来た。手長(てなが)足長(あしなが)(さとり)(くだん)両面(りょうめん)宿儺(すくな)泥田坊(どろたぼう)、コロボックル、猩猩(しょうじょう)、船幽霊、人魚、不知火(しらぬい)、瀬戸大将、草履大将、(うつろ)(ぶね)肉人(にくじん)(たこ)入道(にゅうどう)、四ツ目小僧。遠野者からは、笛吹(ふえふき)童子(どうじ)(あお)蜘蛛(ぐも)耳取(みみとり)権現(ごんげん)、十王様、鳴釜(なるがま)乗越(のりこし)入道、雪女。皆、それぞれの山で取れた山菜や川魚を両手一杯に持っている。
 寒戸のババが腕によりをかけ、色々な料理も持ってきた。ヤマメの甘露煮、鴨のひっつみ鍋(こんにゃくと大根と川蟹が、ババの今日のおススメの具)、胡麻豆腐、天狗の大好物の干し餅(冬に軒先で凍らせて乾燥させた餅。バターで焼くとサクッと旨い)。山菜はタラの芽、フキ、アケビ。海の幸は生ウニ、ホヤと今日の目玉時鮭(ときしらず)。〆用に、よもぎの練りこんだ遠野ラーメンまで用意してある。
 キュウはシンイチの目の前に、両手をついて構えた。
「親父とは相撲取った癖に、オイラとまだやってねえだろ!」
 大天狗は酒を飲みながら言う。
「キュウよ。天狗も相撲自慢だと知っているな?」
「ひいいい! 無理っす! 人間相手で十分ですううう!」
 わはは、と大天狗は笑い、シンイチに向き直った。
「さて。ようやくゆっくり聞けるときが来たぞ。東京の土産話を」
 皆、思い思いに杯と肴を持ち、シンイチを中心に車座に集まった。ネムカケをおともに、飛天僧正の炎をかがり火に。
「え、詳しくはネムカケから聞いてよ。オレ、こんだけの人の前で話すの、苦手だよ」とシンイチはプレシャーを受けた。皆のわくわくした丸い目の期待に答えられる自信はなかった。
「しょうがない、では儂の全裸(ほのお)神楽(かぐら)で一席」と炎寂坊が出てくるのを白女は張り倒した。
「アタシたちはね、シンイチの口から直接聞きたいんだよ。遠野の家族の話としてね」
 大天狗は言った。
「聞かせてくれ。どうやって心の闇を倒したのか。てんぐ探偵の活躍を」
 皆はシンイチの顔を見た。シンイチも皆の顔を見た。咳払いをひとつして、シンイチは話をはじめた。
「都心にバスで行ってみたら、青い歪んだ顔の『誰か』が、サラリーマンに取り憑いてて……」

    9

 目を覚ますと、朝になっていた。どこでシンイチは眠りに落ちたのか、覚えていない。マヨヒガの布団の中だった。枕は返されていない。妖怪たちも、天狗たちも、僧正すらも、酔いつぶれて寝ていた。

 枕元に、天狗面と小鴉が置いてあった。
 小鴉を鞘から抜くと、ぴかぴかに黒光りする黒曜石の刀身が姿を現した。継ぎ目などまるで見当たらず、新品の刀のようだった。刀は触媒。その感覚はまだきちんと分かった訳ではないが、次の目標が出来たとシンイチは思った。
 新型妖怪「心の闇」の最初の一匹は、ひょっとすると「不安な人の心」から生まれたのかも知れない。妖怪は、どんな時代のどんな世の中にもいるとすれば、昔と違う、新しい形の不安が、「心の闇」の正体なのかも知れない。
 闇にかざすのは、炎だ。シンイチは昨日のかがり火を思い出していた。闇が恐いから人は火の周りに集まり、火で闇を照らそうとする。オレはそんな、人を暖め、明るくする火のようでありたいとシンイチは考えた。

 ケータイにメールが届いていた。内村先生からだった。
『心の闇と思われる依頼あり』
 シンイチは身支度を整え、ネムカケを起こした。
「もう。眠いよう」
「帰るよ」
「もうちょっと居ようよう。遠野、楽しいよう」
「うん。オレもそう思う。でも、使命があるんだ」
「なぬううう」
「心の闇が、また東京に現われたのさ」
 大天狗はいびきをかいている。天道坊も白女も炎寂坊も、飯綱神も沈没中だ。キュウもウリも寒戸のババも座敷童子も、うわんも枕返しもぬら爺も鵺も、みんな爆睡中だ。

「いってきます」
 シンイチとネムカケは、彼らを起こさないように、一本高下駄で高く飛んだ。
 行く先は、心の闇に取り憑かれた人々の待つ戦場だ。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十七話 「自己紹介の悪夢」 妖怪「リセット」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 自分がどのように見られるか。これは転校生にとって最大の課題だ。

 第一印象で全てが決まる。「面白い奴」「スゴイ奴」「いい奴」と思われたら、転校人生は好スタートを切ることができる。人気者の仲間入りだ。
 だが失敗したら。「つまらない奴」「ダサイ奴」「ダメな奴」との烙印を押され、一生はいあがれないだろう。
 それは初日に決まる。いや、最初の挨拶で決まる。いや、先生が「今日は転校生がやって来た。入り給え」と紹介があったあとに、ガラリと扉を開ける瞬間に決まるだろう。あるいは、校庭を歩く自分の姿を誰かが発見して、「転校生だ!」とクラスがざわつく時に決まっているかも知れない。
 転校生の初日は、人生のデビュー日だ。クラスのレギュラーメンバーに新しく加わった新キャラが、キャラが立たないなんてあり得ない。なんだかスゴクて、停滞したクラスを変えてくれそうな雰囲気を持っていて、実は能力者というオーラを出していなければならない。失敗はできない。失敗したら烙印者となり、無視の対象になり、最悪いじめの対象になる。初めてのメンバーたちと、ガチリと噛み合わなければならない。

 梨山(なしやま)春馬(はるま)は、とんび()第四小学校五年二組への転入日を迎え、朝から緊張していた。母の用意してくれたオムレツトーストは喉を通らず、好物のブルーベリーヨーグルトすら手をつけなかった。テレビの中では新進お笑い芸人が天気予報をしている。「ハレハレハレ」と自分のネタに引っかけて笑いを取っているのだが、春馬は緊張でそれどころではない。
 朝出る前に、鏡を見た。
「オレはやれる。オレはやれる。オレはやれる」と三回唱えた。
 デビュープランは考えていた。「オレは面白い奴」と第一印象を残すべきだと。
 小学生男子の中で一番人気は、明るくて面白い奴だ。お笑い芸人的だったり、ギャグが得意なら、クラスでは大人気になれる。「お前はどう?」なんて面白い奴として相談され、「お前はやっぱちがうわ」なんて一目置かれる。「オレは明るくて、面白い奴」。そう春馬は鏡の前で自己暗示をし、デビューの瞬間に臨むことにした。

 五年二組は朝からざわざわしていた。目ざとい公次(きみじ)が、「転校生が来る!」と新情報を仕入れてきたからだ。
「ケンカの強い奴がいいな」と、大吉(だいきち)が相手を欲しがって言った。
「ゲームの上手い奴がいい」と、青いメガネのススムが言った。
「イケメンがいい!」とミヨちゃんが言い、他の女子達も賛同した。
「シンイチはどんな奴がいいんだよ?」とススムが聞いた。
「なんでもいいよ!」
 シンイチは笑って答えた。
「なんでもいい?」
「あ、サッカーが出来ればいいな。でも下手でも教えがいがあるぜ!」
 そこへ担任の内村(うちむら)先生が入ってきた。
「みんなー。今日は転校生が来たぞー。仲良くしてやってくれー」
 黒板にチョークで名前を書く。
「梨山春馬くんだ。梨山くん、入って」
 三十五人の生徒の目が、一斉に扉に集中した。緊張の間を破って、ガラリと扉が勢い良く開いた。
「ズドーン!」
 両手を銃の形にして、尻を出しながら後ろ向きに入ってくる、春馬渾身のオリジナル一発ギャグだった。
「え?……」
 クラス中は、しんと静まった。春馬の計画ではここで大爆笑を取り、「面白い奴が来た!」と騒ぎがおさまらなくなり、「ではそこの席についてくれ」と先生に指示を出され、椅子に座るときにもう一回「ズドーン!」をやって、大爆笑デビューになる予定だった。
 一発目で滑った。その後、春馬の記憶はない。先生の紹介も、自分がどういう挨拶をしたかも覚えていない。椅子に座るときに「ズドーン!」をしなかったことだけは、覚えている。
 やばい。「一発目から滑った奴」だと思われた。このクラスで一生笑い者にされる。いじめられる。無視される。地獄の一年が幕をあけてしまったのである。
 もう一回デビューをやり直せないか。なかったことに出来ないか。彗星のようにデビューし、たちまちクラスの人気者になる人生にやり直せないか。
 春馬は冷たい椅子の上で、心の底から願った。
「リセットしたい……!」
 その願いを、妖怪「心の闇」が叶えたのである。

    2

 春馬は目を覚ました。
 朝、布団の中だった。まだ慣れない、引っ越してきた自分の部屋の白い天井があった。……そうだ。オレは転校してきて、デビューに失敗したんだった。
 春馬は億劫に起き上がり、リビングへと姿を現した。
「おはよう」
 春馬は元気なく食卓に座った。母親が話しかけた。
「元気ないわね。転校初日だから緊張してるんでしょ」
「え?」
「オムレツとトースト。あと好物のブルーベリーヨーグルトよ」
 これは昨日、緊張のあまりまるで食べられなかった朝食だ。
「転校初日は昨日でしょ?」
「何言ってんのよこの子は。大丈夫? 今日が転校初日でしょ? しっかりしてよ!」
 新聞の日付は昨日のままだ。テレビのニュースでも、お笑い芸人が「ハレハレハレ」のネタをやっている。
「……本当に今日が転校初日? 昨日だったんじゃないの?」
 春馬はもう一度母に確認した。
「何言ってんの? 緊張して変な夢でも見たの?」
 やった! 昨日のダダ滑りはリセットされたんだ! あるいは夢だった! どっちでもいい。オレの真のデビューは、これからなんだ!
 出掛けに春馬は、鏡に映った自分を見た。
「オレはやれる。オレは一発ギャグを狙う面白い奴なんかじゃない。オレは……そうだ、オレは知的で、クールで、女子に人気が出る奴だ」
 そうだ。男に人気なんて意味がない。女の子にモテなきゃ。

「転校生の梨山春馬くんだ」
 内村先生が春馬を紹介した。
「フッ……」
 と、春馬はニヒルに斜めに笑ってみせた。
「梨山……春馬です……」
 たっぷり間を取り、髪をかきあげた。クールに見えた筈だ。
「今の興味は、地球温暖化です……」
 どうだ。難しい事知ってるだろオレ。
 春馬は席についた。隣の席の女子が話しかけてきた。ミヨだ。
「春馬くんは、地球温暖化の何に興味があるの?」
「えっ」
「私はね、大気の循環とオゾン層。でも都市生活の廃棄問題も根深いと思うんだけど」
「そ……そうだね。えっと……循環と……オゾンだね」
「私は、春馬くんの意見を聞いてるのよ?」
「僕も……そう、僕もオゾンだと思うよ」
「オゾンの何が問題?」
「えっと……ホラ、……えっと……」
 ミヨは感づいた。
「もしかして、春馬くん、あんまり詳しくない?」
「あ、そう。そう、なんだ。……まだ勉強中でさ」
「なーんだ。つまんないの」
 まずい! 「つまんない」って言われた。これじゃ女子の人気もつかめない。失敗だ。付け焼刃で言うんじゃなかった。ああ、失敗だ。デビュー失敗だ。リセットできたら。これもリセットできたら。春馬は机に伏せ、ぎゅっと目をつぶり、目の前の現実を忘れようとした。

 目をあけると、朝の布団の中だった。まだ慣れない、引っ越してきた自分の部屋の白い天井だ。
「ねえ、今日もしかして転校初日?」
 と春馬は食卓で母に聞いてみた。
「そうよ。ちゃんと明るくハキハキして、友達をつくるのよ。ハイ、好物のブルーベリーヨーグルト」
 新聞もテレビもオムレツも同じだ。やった。またリセットできた。オレ、もしかして天才だろ?
 出掛けに春馬は、鏡で自分を見る。知らないジャンルに手を出したのが間違いだ。得意分野で勝負だ。
「オレはやれる。オレは物知り。女子ウケじゃない、男子ウケの物知り」

「転校生の梨山春馬くんだ」
 内村先生の紹介のあと、春馬は自分の知識を披露した。
「UFOってさ、未来から来たタイムマシンだって知ってる? 三・一一のとき一杯UFOが来たらしいんだ。それって未来から見に来てたんだって」
「マジで!」
 男子たちの食いつきが半端ない。やった。これでオレはヒーローだ。デビュー成功だ。休み時間は、春馬をみんなが取り巻いた。
「春馬! 他にも色んな話を聞かせてくれよ!」
「じゃ、バミューダトライアングルの話を……」
「それ知ってる!」
「え? じゃ、ナスカの地上絵……」
「それも知ってる!」
「じゃ、取っておきだぜ? 駆逐艦エルドリッジ号の……」
「フィラデルフィア実験(エクスペリメント)だな! あれコエエよな!」
 男子は皆不思議大好きだ。こういう話は皆詳しいのだ。
「なんだよ春馬! ネタ切れかよ!」
 また失敗? また失望? また地獄? ちがう。そんなんじゃない。オレはそんなんじゃない。リセットだ。リセット。リセット!

 目を覚ますと、春馬はまた同じ布団の中にいた。
「今度は……どうしよう。……サッカーが得意だって、さわやかスポーツ少年をアピールして、男子女子両方に慕われる、というのは……」
 春馬は鏡を見た。
「オレはやれる。オレはスポーツ少年で、サッカーの……アレ? 何だコレ?」
 ようやく春馬は気づいた。自分の肩の上に、不思議な妖怪が取り憑いていることに。

    3

 転校初日のデビュー日を、リセットしてはくり返す。春馬が体験しているこの不可思議な現象は、まさかこいつのせいなのだろうか。このピンク色の体に緑の渦巻き目の、ポップな色使いの妖怪らしきものは、鏡の中には見えても、現実の春馬の肩の上には見えなかった。ガラス窓などにも反射して映るが、周りの人は誰も気づいていないようだ。
「転校生の梨山春馬くんだ」と内村先生が紹介した。
「梨山春馬です! サッカーが得意です!」と春馬はさわやかに言ってみた。
「マジで!」とシンイチが食いついた。
「あとでサッカーやろうぜ!」
「お、……おう!」
 昼休み、サッカータイムまでは、春馬はさわやかなスポーツ少年のふりをした。体育は5だったり4だったりするから、ボロを出すことももうない筈だ。そうだ。最初からドライブシュート決めたり、十一人抜きをやるような、スーパー転校生になる必要はない。普通に溶けこんでいればそのうちなんとかなる。ヒーローにならなくても、「使える奴」ポジションにおさまればいいさ。
「ハルマ! いったぞ!」
 ルーズボールを春馬は奪った。
「やるな! 柔らかい、いいトラップだ!」
 シンイチは春馬の細かい動作をほめた。よし、さっさとパスを出して、あまり騒ぎを起こさないようにしよう。春馬はそう思い、味方にパスを出した。
「ぎゃははははは!」
 突然、全員が大爆笑をはじめた。
「えっ? ……何? オレ、何をしたの?」
 春馬はうろたえる。何をやったか分からない。どこが駄目なのか。さわやかスポーツマンのオレは、ボールをとってパスを出し……
「敵にパスする奴、はじめて見たよ!」
 ススムが腹を抱えて笑っている。
「笑っちゃダメだよ! 転校生なんだから、敵も味方も区別つかねえんだよ!」
 とシンイチはフォローするが、自然と顔が笑い出し、ついに噴き出した。
「ぷぷっ! ごめん! でも面白いや! わはははは!」
 「敵にパスを出す男」。そんな風に思われたら、一生パスなんて回ってこない。またやってしまった。デビュー失敗。リセット。リセット。なかったことに。なかったことにして、最初から。

 春馬は布団の中で目を覚ました。転校初日の、数えて五周目である。鏡の中の自分に言い聞かせる。
「やっぱり最初に戻ろう。面白い奴が人気なのは真理だもの。『ズドーン!』じゃ足りなかったんだよ……」
 肩の上の妖怪「リセット」が、最初の倍の大きさに成長していたことに、春馬は気づかなかった。

「転校生の梨山春馬くんだ」
 内村先生の合図で、春馬は勢い良く扉を開けて滑りこんだ。両手を銃の形に構え、三倍尻を突き上げて舌を出してウインクした。
「ドゥーンズドーン!」
 更に同じポーズのまま、一回転して決める。
「ターンしてドーン!」
 渾身のギャグだ。改良型で、パワフルさが必要だった。これをやると全身が筋肉痛になる覚悟が必要な、全身を張ったギャグだった。
「…………」
 だが、またしても教室はドン引きだった。滑った。滑った。ダダ滑りだ。どうしてこれで爆笑が取れると思っていたのか、もう自分でも分からない。寒い。寒い。寒い。
 春馬は目の前が暗くなった。比喩ではなく、本当に貧血になり、その場で倒れてしまい保健室に運ばれた。

 春馬は目を開けた。見知らぬ白い天井。だがそれは、まだ慣れていない引っ越した新しい部屋ではなかった。リセットは……起こらなかった?
 体を起こすと、ここが学校の保健室であることが分かった。
「気づいたな、春馬」
 シンイチが座っていた。窓は開いていて、カーテンが風に揺れていた。いや、揺れたままの形でカーテンが固まっている。なんだか時間が止まっているような……いや、そんなことはどうでもいい。春馬は、さっさとリセットして朝に戻ろうとぎゅっと目をつぶった。
「待って! オレは高畑(たかはた)シンイチ。ようやく『リセット』に間に合ったよ!」
「……何のこと?」
「お前、妖怪に取り憑かれてるんだ」
「えっ」
 春馬は思わず自分の右肩を隠した。そこに妖怪が見えていないことはすっかり忘れて。
「……隠したってことは、自覚してるな?」
 シンイチは手鏡を出し、春馬に妖怪を映して見せた。
「これは、妖怪『心の闇』のひとつ……妖怪『リセット』」
 知ってる。朝、出掛けに鏡で見た。そこでようやく春馬は気づいた。
「なんか……大きくなってる?」
「やっぱそうか! こいつは、春馬の『リセットしたい心』を吸って、どんどん大きくなってるんだよ。このままじゃお前は取り殺されてしまうんだ!」
「リセットしたい……心?」
「春馬はさ、転校初日に大失敗したじゃん?」
「ええっ!」
「変なギャグでダダ滑りして」
「えっ、あっ、……それは……あの……」
「ミヨちゃんにクールに見せかけようとして、にわか知識の温暖化の話をしたり」
「えっ? それ……あの……」
「あとUFO話で人気になろうとしてネタ切れだったり、敵にパスしたり」
「え……嘘……嘘……それってリセットされて……」
「リセット、されてないんだ」
「えええええええ!」
 どういうことだ。分からない。春馬は混乱した。全部リセットされてないなんて。目の前のこいつはそれを全部知っている。ちょっと待ってよ。リセットしたい。リセットしたい。
「あ! 話を最後まで聞いてよ!」
 春馬は強く目をつぶった。その負の心の動きを察知した妖怪「リセット」は、顔をニヤリとさせ、渦巻状の目玉をぐるぐる回した。

 目を覚ますと、春馬は転校初日の朝の布団の中にいた。
「やっべえ……バレてたよ……。ていうか、アイツ、誰だったんだ……」
 早くお母さんのつくった朝食を食べて、同じニュースを見ながら次のデビュープランを考えなきゃ。
「リセットなんか、されてない」
 廊下に、さきほどのシンイチが座ったままだった。
「うわあああああ!」
「不動金縛り!」
 とシンイチは九字の印を組み、叫んだ。
「アレ? 体が、動かない……!」
「顔だけは動かせる金縛りにしたよ。よく聞いて春馬。オレはシンイチで、キミのクラスメート。サッカー一緒にしたろ」
「……お、おう」
「リセットは、されてないんだ。今オレたちに見えてるこの光景は、その妖怪『リセット』が見せてる幻影なんだ」
「は?」
 シンイチは火の剣、小鴉(こがらす)を抜き、刃から燃え上がる炎と共に周りの空間を斬り裂いた。映画のスクリーンが切り裂かれたように、廊下の風景の向こうに真の風景が現れた。
 そこは、元の保健室だった。
「……どういうこと?」
「お前は、妖怪『リセット』に、『転校初日にリセット出来てるって幻覚』を見させられてたんだ。この五日間の出来事は本当にあったことだ。でもお前だけが、リセット出来てるって思い込まされて」
「え? ……じゃ、あのことは、全部あったことなの?」
「そうだよ」
「マジで!」
「ズドーン!」と、シンイチは春馬の一発ギャグを真似して見せた。
 春馬は顔が真っ赤になった。全部見られていたなんて。リセットじゃなかったなんて。
「でもさ」とシンイチは続けた。
「毎回、色んな変なことをやってくる春馬は、結構人気なんだぜ!」
「え。……嘘……」
「ビビッて大人しく何にもしない奴よりさ、色々やって失敗する方がいいじゃん! それをナイストライって言うんだぜ?」
「……そうなのか?」
「だって敵にパスするんだぜ春馬! そんな常識破り、見たことねえよ!」
 シンイチは思い出し笑いをしてしまった。
「……ごめん」
「謝ることねえよ! あれで春馬のキャラが出来たんじゃん!」
「え?」
「『おっちょこちょいの春馬』ってキャラがさ!」
 ああ。そうか。オレ、逃げて逃げて、リセットする必要なんか、全然なかったんだ。
「ズドーン! 温暖化! UFO! 敵にパスしてからの……ドゥーンズドーン! からのターンしてドーン! 最高じゃん! 大爆笑だよ!」
 シンイチは手を銃の形にして笑って見せた。
「……そう?」
「春馬が気絶して、みんな心配してるぜ。おっちょこちょいにも程があるってさ!」
 シンイチは、保健室にかけていた不動金縛りを解いた。風に揺れたカーテンがふわりと、時を進めた。
 ガラリと扉が開くと、クラスのみんながいた。
「ズドーン!」

 こうして、春馬の心の凝り固まった心の闇「リセット」は、肩からふわりと離れた。
「不動金縛り!」
 シンイチは朱鞘の短剣、黒曜石の刃の小鴉を抜く。「刀は触媒」と言った、飛天僧正の言葉の意味はまだ分らないが、まっすぐ斬ることだけは忘れないようにしなければ、とシンイチは思った。
「火の剣、小鴉!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 天狗の剣は、燃え盛る紅蓮の炎とともに、妖怪「リセット」を真っ二つにした。一瞬のうちに「リセット」は、浄火されて清めの塩となった。


 このあと、しばらく「ターンしてドーン」は皆の流行語になり、放課後のサッカーでは「敵にパスする意外な戦法」が大流行した。
 しかし、春馬が皆と仲良くなるにつれて、その流行は誰もが忘れてしまった。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十八話 「ループ」 妖怪「共依存」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 シンイチは妖怪「ペルソナ」の一件で銭湯の気持ちよさに気づき、あれからちょくちょくネムカケを連れて行く(ネムカケは専用のタライを用意される身分に出世した)。熱くて大きな風呂は実に気持ちがいい。ここで気持ちをほぐせば、心の闇にとらわれる確率もグッと下がるのに。今日もそう思って公園の先の銭湯にネムカケと向かうと、妖怪「心の闇」に取り憑かれた女性がいた。

 彼女は銭湯の表で待っていた。カップルは、先に出たほうが相手を待つ。ここの銭湯は粋なはからいで、待つ人専用の竹の椅子がある。シャンプーの匂いの漂う、濡れた髪のこの女性は、きっと彼氏を待っているのだろう。シンイチは彼女の肩に憑いた心の闇の話をしようと、腰のひょうたんから天狗の面を取り出した。そこへ、彼氏らしき人が暖簾をくぐって出てきた。シンイチは驚いた。彼のほうにも「心の闇」が取り憑いていたからだ。
 ネムカケはそのカップルを見て、シンイチに聞いた。
「二匹一組のようだのう。シンイチ、奴らが何か、分かるか?」
 女に憑くのは青い目の黒い蛇。男に憑くのは赤い目の白い蛇。陰陽のペアの形をしている。
「妖怪……『共依存』だね」
 男女は仲良く手を繋ぎ家路へと向った。ペアの妖怪はお互いの尻尾に噛みつき、ゆっくりと彼らの首の周りをぐるぐると回り始めた。ウロボロスが「自分で自分の尾を食う蛇」ならば、二匹の蛇はまるで、互いを食い合う陰陽の流転である。
「二匹で一組の妖怪……多分だけど、同時に外さないとダメだろうね」
「二人は幸せそうに見えるのにのう。なんでじゃろ」
「ネムカケ、銭湯は中止だ。尾行しよう」
「一銭湯のがしたあああ」

 シンイチとネムカケはそのカップルを尾行したが、見かけはすこぶる仲睦まじい二人だった。二人はコンビニでビールを買って飲み、スーパーで食材を買ってアパートの一部屋に入った。妖怪さえ憑いていなければ、理想のカップルのようだ。
「夫婦……じゃないよね。恋人?」
「同棲と言う奴じゃが、まあ恋人じゃな」と、ネムカケは小学生に分かるレベルで解説する。
「でも心の闇に取り憑かれてるんだから……幸せなフリをしてるだけなのかな……」とシンイチは疑問に思う。
 そこで異変が起きた。男が、女を殴り始めたのだ。
 窓の外から観察していたシンイチは慌てて不動金縛りをかけ、天狗の面を被って部屋へ入り男を止めようとした。
 だが事態は、シンイチの理解を超えていた。
 女は、「殴られるのは愛の証拠」と主張したからだ。

    2

 男の名は荒城(あらき)浩一(こういち)、女の名は墨田(すみだ)由美(ゆみ)。無職の二十七歳と、派遣で働く二十四歳のカップル。二人はつき合って五年になる。浩一は小説家志望で、由美はその「才能」に惚れて彼の代わりに働き、世話をしているという。典型的な「夢見る男とそれを支える女」のカップルであった。

 シンイチはいつものように天狗面で「あなたたち、妖怪に取り憑かれてますよ」と言い、鏡で妖怪「共依存」を見せて驚かせたのち、これは二人の共依存状態が原因で、そのせいで心の闇に取り憑かれたのだと説明した。
 しかし、殴られて口の端を切った由美は、シンイチに理解できないことを主張するのである。
「私は浩一を愛してるの。浩一が殴るのは私だけなの。それは愛の証拠なのよ」と。
「??? 意味分かんないよ! どうして殴られるのが愛なのさ!」
「愛って、お互いに依存することよ。……キミは小学生だから、分からないのよ」
 彼氏の浩一はつけ加えた。
「そうだ。俺らは俺らで、幸せなんだ。俺たちは両方とも幸せだ。うまくいっている二人の関係に、割り込まないでくれ」
 シンイチは全く理解できない。
「嘘だよね! この男の人に脅されて、愛してるって嘘ついてるんだよね!」
「いいえ。私は本心から殴られて幸せなのよ」

 浩一は由美に生活費を稼がせ、時々バイトをしては辞める生活を続けているそうだ。
「それじゃ、今は無職?」とシンイチは聞いた。
「そうだ。店長と、毎回馬が合わなくてな。……そもそも俺は偉大なる小説家になるんだから、バイトなんて意味ないけどな」
「でもプータローで生きてくの?」
「大丈夫。私が食べさせてあげるから」と由美が言う。
「彼には小説に集中して欲しいのよ」
「ふうん……で、どんな小説書くの?」
「……そうだな」と、浩一は咳払いをひとつした。
「ドストエフスキーより奥深く、バルザックより重厚で、村上春樹より華麗で、三島由紀夫より繊細で、手塚治虫より人間ドラマで、黒澤明より生々しい、世界を変える物凄い小説だ」
「??? よくイメージできないや」
「それはそうだろ。まだ俺のココにあるのだからな」
 と浩一は、得意げに自分の頭を指さした。
「えっ。書いてないの?」
「まだ構想中だ」
「じゃ、これまで書いたやつは?」
「ない」
「ない?」
「途中で止まった作品は三本ある。だからまだ構想中なんだよ」
「ええ? 一本もないの?」
「オレが書くやつは、世界一の小説になる。だからまだ書くには時間がかかるんだ」
「いつ書けるの?」
「世界一の小説が、すぐ書ける訳がない」
「……???」
 シンイチは話が見えなくなってきたので、ストレートに聞いた。
「それで何で小説が書けるって自分で思うの?」
「うるせえなガキ!」と、浩一は拳を振り上げた。
「ダメよ浩一!」と由美が制止した。
「子供は殴らないで。殴るのは私だけでしょう?」
「……うむ」
 そう言って浩一は、由美を殴ろうとする。
「ちょっと待ってよ! 不動金縛り!」
 シンイチは慌てて早九字で二人を止める。
「なんなのこの二人! 意味が分かんない!」
「まあ、いわゆる、ヒモじゃのう」と、ネムカケは解説する。
「ヒモ?」
「愛情がベースの関係じゃが……男は女に生活を依存し、女は男に愛を依存する……共依存の典型じゃな。男は女がいないと生きていけない、女は男がいないと生きていけない」
「でも殴ったり、小説書いてないのはダメでしょ!」
「そこが男女の難しいところでのう」
 シンイチは不動金縛りを解き、由美に問うた。
「殴られたら、痛いし嫌でしょう?」
「でもそれが、私が一番彼を理解してる証だもの」
「?」
「彼は繊細で、傷つきやすいの。彼にとっての世界は、窮屈でままならない世界。出口のない怒りを私にぶつけることで、彼の精神的均衡が保たれるの。殴られて痛いし、血も出る。でもそれが生きている証拠、それが彼を理解してる証拠なのよ」
「??? 甘やかしてるだけじゃん!」
「愛よ。彼を一番認めることよ。それが私の存在意義」
 由美が殴られることで彼を認める。浩一は働かない。彼女は世話をする。浩一はうまくいかなくてまた殴る。
「……ループだ」
 シンイチは言った。
「原因が結果になり、結果が原因になるんだ。こないだは、ジャンケンの三すくみだった。今回はそれがふたつ、と理解するべきかな」
 黒蛇は白蛇の尾を食べている。白蛇は黒蛇の尾を食べている。お互いの依存関係が、ひとつの均衡安定をつくっているのである。
 大人の男女の気持ちはよく分からなかったが、それだけはシンイチは理解した。

「私に女心を教えて欲しいって?」
 次の日、学校でシンイチは「女心」をミヨちゃんに相談した。
「そうなんだ。『共依存』、つまりお互いがお互いに依存してる、ってことは分かったんだけどさ、イマイチピンと来ないんだよ。殴られて幸せってどういうこと?」
 ミヨはしばらく考えて、慎重にシンイチに答えた。
「単純な話をするね」
「うん」
「女の子はね、好きな人とずっと一緒にいたいのね」
「うん」
「できれば、二十四時間一緒にいたいのね」
「うん。え? ちょっとメンドイな」
「メンドくても、それが女の子。ここ大事だから覚えといて」
「納得いかないけど、よし、覚えた」
「『殴る男』だって分かったのは、好きになったあとでしょ?」
「なんで分かるの?」
「だって殴る人を女の人は好きにならないもん」
「? じゃ嫌いになればいいじゃん」
「『好き』のほうが優先なの! 『好き』が一番なの! ここ大事って言ったでしょ!」
「ハイ」
「女の人は、その人が他の人を殴るのが嫌なの」
「殴られたら痛いもんね!」
「違うの! 二十四時間一緒、っていったでしょ! 殴る間、他の人と一緒にいるのが嫌なの!」
「ええええええ? だから殴られ役が自分でもいいって言うの? それヘンだよ!」
「ヘンでもなんでも、それが女心!」
「嘘だろ!」
「嘘じゃないわよ! その人は何て言った? 『愛の証拠』って言ったでしょ? 愛ってのは一緒にいることなの! その人を一番理解してたいのが女なの。『殴る人』を理解してるのが私だけって思うわけ!」
「?????? それ、酔ってるだけ?」
「ちがうわよ!」
 愛という感情を、サッカーに夢中な男子小学生が理解することは無理だろう。シンイチには難しすぎて、理解をあきらめた。ミヨの剣幕に押されて、とりあえず分かったふりをすることにした。
「よし、オレは男の人をなんとかしようと思う。まず殴るのは絶対ダメだし! ループ状態を、一端強制的に引き離そうと思う! そうすればぐるぐる回ることはなくなるだろ?」
「で?」
「女の人はミヨちゃんに任せた!」
「?」
「男の人の殴るのは、ミヨちゃんのお兄さんの空手道場に通わせようと思うんだ! 思う存分殴ったり殴られたりすれば、疲れて女の人を殴らなくなるかなって! 女心の複雑な方はどうすればいいか、ミヨちゃんのアイデアを聞きたい!」
「……うん、分かった。考えてみる。兄ちゃんにも私から頼んでみる」
「悪ィ!」
「わるくないよ」
「?」
「ひと肌脱ぐのは、嬉しいのよ。それが女心」
「? まあいいや!」
 「好きな人のために」と前置きをつけるのは恥ずかしいので、ミヨは流石に言えなかった。
 さて、ループを断ち、元のループに戻さない為の方法はあるのだろうか。

    3

「まず俺の腹を殴ってみろ。思い切りでいいぞ」
 板張りの空手道場で、ミヨの兄、綾辺(あやべ)哲男(てつお)三戦(サンチン)の構えで浩一に腹を出してみせた。哲男は、心の闇「上から目線」を克服したのち、近くの豪胆流空手道場に通い、最近ようやく茶帯を取ったところである。シンイチとミヨに頼まれ、「殴ったり殴られたりとはどういうことかを、仮入門という形で教えたい」と哲男は道場主に、浩一の稽古参加の許可を得た。素人とはいえ浩一も空手着を着させられ、あくまで空手の稽古の一環という設定である。
「どりゃ!」
 と浩一は哲男の腹を殴った。固く締めた腹筋が柔らかく拳をとらえ、跳ね返した。
「全然効かないね。もう一発」
 二発、三発、五発。浩一は全力で哲男の腹を殴ったが、全く効かない。
「小説家にとって一番大事な右手が死ぬ! あとは左で殴る!」
 しかし十発殴っても哲男の締めた腹筋はびくともしない。
「スゲエ! どうなってんのコレ?」
 見学していたシンイチは、興奮して哲男に聞いた。
「これは三戦(サンチン)って言ってね。息吹(いぶ)きで筋肉を締めるんだ」
「息吹きって?」
 コオオオオオ、と哲男は独特の呼吸法を見せ、手と足で円を描き、全身の筋肉をひねりながら練って見せた。
「呼吸と筋肉の練りを一致させることで、柔らかくて固い筋肉を作り上げる、沖縄空手から伝わる伝統的な鍛錬法だ」
 三戦とは、五十二手からなる、中国拳法の白鶴拳(はっかくけん)が琉球に伝わり琉球人に練られた型だ。白鶴拳は貫手(ぬきて)(指先での攻撃)が得意な為、ほとんどの突きを貫手で行う。まっすぐ突くよりひねりながら打ったほうが、指先の攻撃力が増す。三戦は、このひねりを拳の突きで練り上げる型である。空手では特に基本型のひとつに数えられ、全身の筋肉を練る。
 シンイチは哲男の腹をポコポコ殴ってみた。たしかに柔らかくて固かった。浩一は不思議な顔をしている。
「手首が痛くなった」
「そりゃそうだ。キミは殴り方が出来てない。そんな殴り方では色々痛めるぞ」
「殴り方に、色々あんのかよ」
「あるよ。空手は『殴るプロ』だからな」
 哲男は「拳」のつくり方を説明した。小指から薬指、中指、人さし指と順に締めていく。親指で最後にロックし、中指と人さし指を平行に保つ。手首をまっすぐ保ち、肘、手首、ナックル部分(特に人差し指の根元、大拳頭(だいけんとう))を一直線にし、ひねりながら突き出される槍のように使う。ついでに殴る直前までは卵を拳に持つように柔らかく保ち、殴る瞬間だけ握力で締める。
「そんないっぺんに色々出来ねえよ!」
「それを無意識で一瞬に出来るようになるまで、何度でも練るのさ」
 哲男は構えから突きを一発放ってみせた。ぴしり、と空気の鳴る音がした。
「スゲエ! カッケー!」とシンイチは素直にはしゃいだ。
「俺の素人の突きじゃ、その筋肉の鎧に効かねえってことか」
 浩一は素直に納得した。だが単純な盾と矛のぶつかり合いではない、と哲男は更に解説を加える。
「本質はタイミングなんだ。俺は『殴られる』って分ってるから耐えられる。人を倒す殴り方は、『そのときじゃない時に殴る』ことなんだ。防具つけてやってみるか」
 二人はグローブ、胴、ヘッドギアをつけ、スパーリングへ移行した。
「どこでもいいから殴ってみ」
 浩一は拳を振り回した。最初にさっき聞いた突き方をやってみようとしたが、すぐに本能による殴り方になっていた。
「そんなの当たんないね」
 素人のコンビネーションぐらい、避けるのは訳ない。浩一の殴るモーションに合わせて哲男は、つい、と潜り、打ち終わりの瞬間に右掌打をみぞおちに打ちこんだ。
「ぐ!……」
「呼吸止まるっしょ。いいかい? 準備万端ならパンチなんて効かない。パンチを当てるのは、相手がパンチを打ちに来たとき」
「……クロスカウンターってやつ?」
「そう。交差法っていう。相手のパンチに交差してパンチを打つんだね。そろそろこっちも殴るよ。よけてみな」
 哲男は攻めに転じた。浩一は咄嗟によけたりブロックしたり、フェイントにひっからないようにした。しかし追い詰められ思わずパンチを出した。哲男はそれを潜り、交差法でまたみぞおちに掌打を叩きこんだ。浩一は何度もパンチを出し、その度に痛いカウンターを腹に、顔面に食らった。

「殴るってのは、なかなか大変なことだろ?」
 ヘトヘトになってヘッドギアを外した浩一に哲男は言った。
「殴れば殴り返される。その常識の中で、一方的に殴る為の技術が空手だ」
 浩一は息も絶え絶えに哲男に尋ねた。
「さっき、『殴られるって分ってれば、耐えられる』って言ったじゃん」
「ああ」
「俺の彼女……由美はさ、分ってて、耐えてるのか?」
「……そうだろうね」
「……」
 浩一は黙って考えこんだ。
「一応、二週間は浩一さんにこれをやってもらおうと思ってるんだけど!」
 とシンイチは念を押した。
「なんで?」
「空手入門はそれぐらい体験したほうがいいってさ! 殴ったり殴られたりすることのタイヘンさが分るかなって思って!」
「もう、大体分ったよ」
「いや、まだだね」と哲男は言った。
「拳鍛えをやってもらうぞ。自分の拳を武器化すれば、おいそれと素人を殴れなくなるから」
 拳鍛えとは、拳立(けんた)て(固い床に拳をついてやる腕立て伏せ)にはじまり、あらゆる所に拳を打ちつけて拳を鍛えるやり方だ。慣れれば(もちろん黒帯レベルだが)コンクリート塀をガンガン殴っても痛くない。素人がやるのは、もちろん毎度毎度すごく痛い。
「二週間、ってのはさ。ミヨちゃんもそれぐらいかかるって言ったからなんだけど」
「?」
「由美さんを二週間別居させて、別の考え方を教えるんだってさ」
「別の考え方?」

    4

 男たちが殴ったり殴られたりを道場でしている間、ミヨは由美をエステに通わせていた。「女としての自信を回復させる作戦」である。
「女として地味だなって第一印象で思ったのね」とミヨは由美に言った。
「そりゃ、今更お洒落とかお化粧とか必要ないし」と由美は反論する。
「それよ。『私はどんな男にもモテモテよ』っていう状態が、まず重要なのよ!」
「何の為に?」
「まずは騙されたと思って!」
 高価なエステ代は、シンイチが不動金縛りで時を止め、とりあえず払ったことにした(この件が片付いたら、由美はあとで払いにいった)。

 「十日間コース」を経たあとの由美は、みちがえるように美しくなっていた。街をゆけば誰もが振り返り、何度もナンパされそうになった。
「なにこれ、どういうこと?」
「由美さんは、まずは引く手あまたの美人さん。ついでに、もっとチヤホヤされてみるといいよ!」
 ミヨは由美をホストクラブに連れていく。
 様々なタイプのイケメン、トーク上手、オモシロ担当、色々なタイプの男たちが由美にむらがり、あの手この手で由美を気持ちよく持ち上げた。イケメンが彼女に言う。
「世の中には色んな男がいるんだからさ、カレじゃなかったら俺と恋してた可能性もあるんだぜ?」
 分り易い嘘だと分っていても、由美は心が楽になる気がした。
「でもね、やっぱ彼が一番だと思う」と由美はミヨに言った。
「なんだよ! せっかく旅行に行ったのに、『やっぱ家が一番』っていうオカンかよ!」
 シンイチが突っ込むと、ミヨが言った。
「選択肢は彼だけじゃないでしょ? 『彼しかいない』って思い込むのと、『私は引く手あまただけど、その中で彼を選んでるの』と考えるんじゃ、心の余裕がちがうでしょ?」
「たしかに、そうかも知れないけど……」
 二週間が経ち、強制的に離された「依存しあう二人」が再会した。

「さて、どうなることやら」
 シンイチはネムカケを抱いてミヨとかくれみのに隠れ、窓の外から二人の部屋の様子を観察した。
 しかし、最初はうまくいったように見えた二人も、由美の何気ない言葉に浩一が切れ、彼女を殴ってしまったのだ。
「不動金縛り!」
 シンイチはとりあえずこれを止めた。
「全然ダメじゃん! 自信が溢れた由美さんの言葉が余計心をえぐり、浩一さんの殴り方が上手くなってるだけじゃん!」
「でも、由美さんもわざと殴らせているように見えた」
 とミヨは観察していた。
「どういうこと?」
「殴らせて、彼に自信を取り戻させてあげてる気がする」
「うーん……」
 これじゃ元のループに戻ってしまう。考えたシンイチはひらめいた。
「あ!」
「何?」
「空手道場の近くにさ、合気道の道場があったよね!」

 更に二週間が経過した。シンイチの発案で、由美を合気道の道場に通わせ、浩一は突きに磨きをかけさせることにした。
「何狙いなのよ?」と、K‐1と総合格闘技の違いも分らないミヨは、その意図がまだ分っていない。

 二週間後、再び二人は部屋で再会した。
 また口論になった。浩一は由美に殴りかかった。
 と由美はその突きの手首を取り、鮮やかな投げを決めてみせた。相手の技の勢いが凄ければ凄いほど威力を増す、合気道の小手投げであった。
 ぐるんと宙を舞い、畳に叩き伏せられた浩一は、逆上するどころか、目が覚めた顔をした。
「どうしたの?」
「……新しいパターンだ!」
 ループは、ループ自体がエネルギーだ。そのパターンを崩す、別のループへ移行すればよいのだ。
「うまいこと考えたなシンイチ!」
 ネムカケはそう評した。
「もう一度やってみよう!」
 浩一は殴りに行く。由美は天地投げ。
「どりゃ!」「えい!」
 次は入り身投げ。畳に叩き伏せられたまま、浩一は毎回目覚めたような顔をした。
「新しいパターンだ!」
 ループは破れた。
こうして、二人の心の闇「共依存」は、彼らの首元からスルリと外れた。
「不動金縛り!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火の剣! 小鴉!」
 飛天僧正の修復した黒曜石の光る刃から、炎が噴き出す。ループこそが、「心の闇」の住処なのかも知れない。一人だろうが二人だろうが、「負の心がループすること」が、心の闇なのではないか。シンイチは、飛天僧正の詠唱の言葉を思い出していた。「闇なる循環を、光の側へ導け」と。「循環する力」が鍵なのではないかと、渦を巻く小鴉の炎を見ながらシンイチは思った。
「一刀両断! ドントハレ!」
 陰と陽のループを続ける二匹の心の闇は、こうして火の剣に真っ二つにされ、清めの塩と化した。


 その後、二人は空手道場と合気道道場に仲睦まじく通い、時たま道場間の交流試合にも出る。浩一は蹴りも覚え、由美は蹴りも返せるようになった。新しいループを覚えた二人は別のバイトを見つけ、銭湯に通い、浩一はバイトの合間に空手小説を書きはじめた。
 ミヨは、いつもケーキでシンイチを釣るループをやめて、シンイチの好物のソフトクリームで釣る、新しいパターンに切り替えたようである。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第二十九話 「弟子のひとり立ち」 妖怪「ほめて育てて」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


「モロ(みち)! 何やってんだお前は!」
 大声で怒鳴られ、しゅんとなっている小肥りの中年は、反省しているのか反省していないのか分からない顔をしている。生来のニコニコ顔というか恵比須顔というか、反省がみじんも伝わってこない。
「お前、動物以下だな!」
 ちょっと煙草買ってきます、ただそれだけのことだった。なのにこの恵比須顔はその隙に、師匠のカバンをどこに置いたか分からなくなってしまったのだ。
「あのな、カバン持ちってのはカバン持ってんのが仕事じゃねえんだぞ? 付き人全般の仕事の事をさすんだぞ?」
「えっ」
「え、じゃねえだろ!」
「あっ」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔に、師匠は益々腹が立ってくる。
「あ、でもねえわ! 本当にお前、頭大丈夫か? カバン持ちも出来ねえんじゃねえか?」
「あ。ハイ」
「ハイじゃねえだろ!」
 色白で剛毛で足が短くて、頭が弱くて気が利かない。それがモロ道、本名茂呂(もろ)とし(みち)である。師匠の(みや)大作(だいさく)は、血圧を上げて怒るのも自分の体に悪いわ、と思い直した。
「で、煙草は?」
「あっ」
 モロ道は踵を返し、ダッシュで目の前のコンビニへ走っていった。宮は十分も待たされた。モロ道は走って帰ってきた。
「売り切れだそうです」
「もういいわ! カバンは?」
「あっ」
 宮は頭を抱えた。どうしてこんなウスノロを、自分の弟子兼付き人にしてしまったのだろうと。
 宮大作は、この道五十年の演歌歌手である。と言ってもテレビに出るような有名歌手ではない。演歌のステージというものは、日本中どこにでもあるものだ。都会の片隅の小さなスナックから、地方の旅館の宴会場まで、細々と、しかし息長く、宮は日本全国津々裏々(表のステージに縁はないから、浦々ではなく裏々だ)に歌の心を届け、地道にカセットテープをお客様に手売りしてきた。CDでもMP4でもなく、長く使えるカセットテープだ。
 弟子など取るつもりはなかった。ただ、断り切れなかったのだ。「仕事を辞めてきた」と言われた。男子一生を歌に捧げたいと言われ、無下に追い返す訳にもいかなかったのだ。弟子を取ったことなどなかったから、試験をしてから見極めるという智恵も知らなかったのだ。

 モロ道は本当になにも出来ない。カバン持ちをさせれば、ひと月に二回はどこかへ置いてくる。煙草を買いに行かせれば、代わりに何かを忘れてくる。タクシーの止め方は知らないし、師匠の自分が止めても先に乗ってしまう不肖ぶりだ。
「お前よくサラリーマンなんかやってられたな」
「えへへ。みんなに怒られました。でも今は怒るのが師匠一人なので、まだ楽です」
「思ってても言うことかそれ!」
「あっ」
 モロ道は体毛の濃いムーミンに似ている。憎めない愛嬌というより、本気で憎むのも馬鹿馬鹿しい顔だ。いつも半笑いなのは、怒られ人生故の耐性なのだろうか。
「もういい。カバンは一応警察に届けて、めしでもいくぞ」
 どうせそんなこったろうと思って、財布やら大事なものはカバンに入れないことにしているのだ。
「ごはんですか! やったあ!」
 子供みたいな喜びように、こいつは一瞬前の反省など吹き飛んでしまう。しかも毎回ごはん五杯は食べるのだ。無芸大食とはこのことである。宮はため息をついた。こいつは本当に、演歌歌手になるつもりなのだろうか。


 酒も入ったせいか、帰り道の川沿いで気分の良くなった宮は、「どれ、少し稽古をつけてやろう」と言い出した。広い川の土手は風の通りも良く、歌のステージとしておあつらえ向きだ。
「『松風波返し』を演ってみろ」と、宮は自身の代表曲を選んだ。
 モロ道は直立不動となり、最初の音を出した。
「〽 波のォ~~~」
「聞くに耐えん! お前、発声練習やってんのか?」
 モロ道はニコニコして答えた。
「やってません!」
「馬鹿か! 毎日やれと言っただろ!」
「カバン持て、とか、煙草買って来い、とか忙しかったので……」
「馬鹿か! お前は付き人の仕事をマスターするのが目的か?」
「あっ」
 モロ道はまた鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
 宮は再び頭を抱えた。どうやったらこの男を育てられるのだろうか。
「おじさん。この人にどれだけ怒っても無駄だよ」
 夜の闇から、不思議な子供と太った猫が現れた。その子は朱い天狗の面を被っている。日本全国色々なことを経験してきた宮も、突然本物の天狗が現れたのかとどきりとした。
「な、なんだ?」
「だってこの人、妖怪に取り憑かれてるもの」
「妖怪?」
「そう。それは妖怪『ほめて育てて』」
 天狗面を少年は取った。我らがてんぐ探偵、シンイチとネムカケである。

    2

「なんかボクに似てるぅぅぅ」
 モロ道は鏡を見せられ、肩の上に乗ったビビッドなピンク色の妖怪「ほめて育てて」と目が合った。子供っぽいピンク色の、甘やかされて育った肥満児のような顔だ。
「一体どういうことだ? モロ道はほめて育てて欲しい思いに取り憑かれてるってことか?」
 宮はシンイチに尋ねた。
「うん。そういうことだね。怒って育てることはこの人には効かないよ。反省とか向上心とか悔しさで成長しないのは、逆にこの妖怪のせいだとも言えるね」
「じゃあ甘やかせというのか?」
「うーん、ちょっと分かんないけど、単純にほめて歌を教えてみたら?」
「むう。……ではモロ道、『松風』を」
 モロ道は直立不動になり、咳払いをひとつした。
「〽 波のォ~~」
 少し音が外れたが、宮は無理やりほめてみた。
「うむ! いいぞ!」
「〽 間に間の 松風ぇぇのおぅぅぅぅぅ」
「さらに外したが、まあいいぞ!」
「〽 吹く風よォ 岩に当たってぇ 戻りいぃぃぃぃぃくううううるうううううう」
「このヘッタクソが!」
 宮は思わずモロ道の頭をはたいた。
「駄目だよほめなきゃ!」とシンイチはフォローする。
「今のどこにほめる要素があるんだ! わしの大切な十八番が台無しじゃないか! 今の一節で、厳しい冬の日本海や吹きッさらす風や、切り立つ岩場に曲がって生える松が見えたか?」
「ぜんぜん。え、ていうか、見えるの?」
「……吟じるぞ」
 宮は背を正した。


〽 波の 間に間の 松風の
     吹く風よ 岩に当たって 戻り来る

「あ。……見えた! 日本海! 見えた!」
 さすがに五十年この歌を歌っているだけある。卓越した宮の表現力は、日本の美を一瞬で切り取った。
「モロちゃんがどれだけ下手か分かったよ!」
 とシンイチは笑った。
「モロ『ちゃん』って!」と宮はずっこける。
「だってモロちゃん、オッサンだけどマスコットみたいなキャラしてんじゃん!」
「えへへ。そうかな」と、モロ道はほめられて嬉しそうだ。
「そこはお前、演歌歌手として恥じ入るところだろ!」
「え? どうして?」とシンイチは横から尋ねる。
「歌手は消えなければならんのだ。歌が第一。歌以外がそこにいてはいかんのだ」
「なるほどお! モロちゃん知ってた?」
「ぜんぜん」
「何回も言った筈だが……」
 宮は今日何度目かの頭を抱えた。
「でもさ、こんな歌下手なら、そもそも弟子クビでもいいんじゃないの?」
 と、シンイチは身も蓋もないことを聞いてみた。
「だよなあ」と、心の底から宮は搾り出す。きょう何度目かのため息だ。こっちに「心の闇」が取り憑いてしまいそうである。だが表情を真顔に戻して、思い直した。
「でも一芸だけあるんだよ。……モロ道、『田力(たぢから)』を」
 モロ道は顔が変わり、「田力」を歌った。

〽 エンヤサー 田んぼに力と書いてサァー
  男と読むんだ ホイヤサァー
  エンヤサー あの子は笑って新芽摘む
  オイラは耕す ホイヤサァー
  
  エンヤサー 鍬に鋤に 千歯扱き
  あの子は嫁に ホイヤサァー
  エンヤサー オラに嫁は 来ねえけど
  今日も耕す 田の力

 嘘のように上手かった。祭りばやしとでも言うのだろうか。太古の記憶まで呼び起こされそうな、力強い農民の歌だった。
「すごい! プロみたい!」
 シンイチは素直にモロ道をほめた。
「えへへへへ」
「だがこいつは、これしか出来んのじゃよ」
 と、宮は泣きそうになった。
「えええええ?」
「演歌歌手として、それじゃいかんだろ。お客様のリクエストにも答えたりも時には必要だし、第一、一曲でおしまいという訳にはいかんだろ」
「たしかに!」
「はじめて聞いた、師匠の歌だから」とモロ道はニコニコして答えた。
「?」
「こいつがな、たまたまデパートの屋上にいたんじゃよ」
 と宮がフォローし、口下手なモロ道に変わって二人の出会いを説明した。
「こいつは元々サラリーマンでの、色んな人に怒られて仕事を逃げ出し、デパートの屋上でサボっておったのだ。そこへ偶然わしが三曲ほど歌うミニステージがあった。米どころのイベントということで、一曲目に『田力』が選ばれていた。だが地方のさびれたデパートで、客はたった一人。それがこのモロ道だったのだ」
「それで?」
「こいつは雷が走ったようにびりびりと震えて、涙を流して感謝して、『もう一回!』とリクエストしてきたのじゃ」
「で?」
「他にお客さんもいないので、計七回歌ったわ」
「ははは!」
「最後のほうはすっかりこいつも『田力』を覚えての。二人で熱唱じゃ」
 子供みたいなモロ道にせがまれて、迷惑しながら肩を組む宮がありありと思い浮かび、シンイチは吹き出しそうになった。こないだの無邪気な妖怪たちに十三回「お芝居」をさせられたことを思い出した。
「……それで、その場でこいつは仕事を辞めるから弟子にしてくださいと言ってきての。何回断っても、全国を回るわしのステージに毎回現れる。しつこいストーカーになりやがったのだ」
「へえ」
「しかしいざ弟子にしてみたら、『田力』しか歌えん有様。付き人としても使えぬ始末」
 今日一番の深いため息を宮は吐いた。
「歌の心が分かるように、冬の日本海も何度も見せてやったのに」
「歌の心?」
「見たことのない景色は歌えぬし、経験したことのない気持ちは演じれん。演歌は、歌を演じると書くからな」
「へえ。でもモロちゃんアホっぽいから、理解が出来ないんじゃね?」
「ははは。子供からズバリ言われとるぞモロ道」
「……怒るんじゃなくて、ほめて下さい!」
 と、モロ道は涙目で言い出した。
「ほめて、ほしいです。ほめられたら、ボクはのびる気がするんです! ほめて下さい!」
「『田力』は、どこに出しても恥じぬ素晴らしい出来じゃ」
「えへへへへへ!」
「しかし他はほめるところがない」
「ぷうううう」
 モロ道は子供みたいに膨れた。彼の肩の「ほめて育てて」は、更に大きくなった。
「わかったわかった! モロちゃん歌うまい! プロレベル!」
 とシンイチは慌ててほめる。しかし状況は変わらない。
「ボクは、師匠にほめてほしいの!」
「……明日稽古場を借りているから、そこで本格的に続きを」
 宮は真面目に、ほめて育てることを考えようとした。しかし次の日の稽古場は、シンイチが思うよりも酷かったのだ。

    3

 そもそもモロ道は音程が取れなかった。腹式呼吸の発声も出来ないからすぐへたる。こぶしも回せないしビブラートもコントロールできない。歌詞の内容の理解が浅いから、歌が頭に入ってこない。
 呆れるシンイチとネムカケを目の前に、宮は必死でモロ道をほめようとした。しかしほめ所はまるで無く、無理があるのはシンイチにも分かった。下手な歌声のせいで居眠りも出来ないネムカケが、イライラして評した。
「ふうむ。さっさと辞めたほうがこやつの為ではないかのう。芸能とは才能じゃからの」
「こんだけ怒られりゃ『ほめて育てて』に取り憑かれるのも分かるけどさ、自業自得だよねえ……」
 と、シンイチも半ばあきれ気味である。
「でもこのままじゃ、モロちゃん取り殺されちゃうんだよね」
 と、てんぐ探偵としての使命を思い出す。
「モロちゃん! 演歌以外は歌えるの? Jポップとか」

 シンイチはカラオケに皆で行き、モロ道に色々なジャンルを歌わせてみた。七十年代歌謡、八十年代ロック、アニメソング、九十年代ドラマの主題歌、洋楽、軍歌、ビジュアル系。
 どれもこれも壊滅的だった。
「なんでそんな下手なのに、演歌歌手になれると思ったんだよ!」
 流石にシンイチも切れた。ほめて育てるのはとても無理だと思った。
 モロ道は、ピーチジュースをストローでちゅうちゅうしながら言った。
「ボクね。あの時死のうと思ったの」
「……え?」
「ボクね、中古車の営業マンだったの。でも成績が悪くて、失敗ばかりでいつも怒られて。その日大失敗を三つ同時にやって、もう死のうと思ったの」
「それが何でデパートに?」と、この話をはじめて聞いた宮が聞いた。
「ウチの田舎で一番高い所がそこで。で、奥の柵まで行けなかったのね。ステージが出来ててさ」
「……じゃ、ステージに助けられたのか」
「師匠の歌聞かなかったら、やっぱりその後に飛び降りてたと思うよ。師匠の歌を聞いて、ボク、サラリーマン辞めて、農家になろうと思ったんだ」
「歌手じゃないのかよ! それなら農家になればいいじゃん!」
「農家の人は、あの歌歌わないじゃん。ボクはさ、農家の歌を歌う人になりたいと思ったんだ」
「うん。あの歌は、まじですごい」
「……でも、ボク、歌、向いてないのかも知れない」

 歌い疲れてカラオケボックスを出ると、すっかり夜になっていた。宮と別れて、シンイチは落ち込むモロ道を家まで送ることにした。
「なんでボク、うまくいかないのかなあ」
 モロ道は涙目になってため息をついた。
「ボク、師匠に楽をさせたいんだ。ボクの食費も稽古代も、師匠が全部出してくれてるんだよ? ボクが歌手デビューしなきゃ、一生師匠のスネカジリだ」
「……気持ちは分かるけどさ。モロちゃん歌下手だもん」
 シンイチは素直な感想を言った。モロ道は落ち込むどころか喜んだ。
「じゃここがどん底で、あとは上手くなるしかないんだよね!」
 どういうポジティブ思考なのか、シンイチも頭を抱えた。
 と、ゆるりと吹いた風の空気に、焦げ臭い匂いが混じっていた。
「ん?」
 シンイチは鼻をヒクヒクさせた。ネムカケは耳を立て、人間以上に聞こえる耳で大きな火の燃える音を聞いた。
「火事じゃ。でかい」
「あれ見て!」
 モロ道が叫んだ。夜空の一部が紅く染まっていた。その下が大きな火に包まれているのだ。消防車のサイレンもすぐそばだ。
「アレ……ボクんちかも知れない!」
 モロ道は走った。シンイチとネムカケも追った。

    4

「ボクのアパートが燃えてるううううう!」
 モロ道の住む木造アパートが、轟々と燃え盛っていた。消防車が何台も駆けつけ、既に放水を始めている。しかし火の勢いはいよいよ盛んになり、水の力が通用しない。
 モロ道は野次馬をかきわけ、炎の吹き出す、二階の自室へ戻ろうと必死だ。
「馬鹿か! 死ぬぞ! 下がってろ!」
 消防士の一人がモロ道を止めた。
「あの部屋には、パンフがあるんだ!」
「何があっても、もう燃えたよ! あきらめなさい!」
「パンフがあるんだ! あのデパートの屋上で貰った、師匠のコンサートのパンフがあるんだ! 大事なものなんだ! ボクの宝物なんだ! どんなに馬鹿にされたって、どんなに怒られたって、あのパンフはなくしちゃいけないんだ!」
 モロ道は泣き叫んだ。火事の轟音にその叫びはかき消される。モロ道が制止を振り切って火の中に飛び込もうとするのを、シンイチと消防士が必死で止める。火事場の馬鹿力というのか、モロ道の力は案外強かった。
「パンフうううううううううう」
「畜生! 『火伏せ』がマスター出来てれば、大天狗みたいに一瞬で火を消せるのに!」
「だとしても、パンフはもう燃えたじゃろ!」
 ネムカケは冷静にシンイチを諌めた。
「ねじる力!」
 シンイチは「ねじる力」で、火をねじ切ろうと試みた。炎の竜巻と逆向きにねじれば、打ち消せるかもと考えたのだ。しかし火の動きは不規則で、それは徒労に過ぎなかった。
「『火伏せ』ってどうやるんだよ! 不動金縛りでも止めるまでしか出来ないし!」
 シンイチは腰のひょうたんから、天狗の七つ道具のひとつ「葉団扇」を出した。八手の葉で大風を起こす、天狗の代表的な道具のひとつだ。山には天狗風といって、梢も揺れず前触れなく吹く突風がある。それは風ではなく、天狗の仕業なのだ。
「吹けよ大風!」
 シンイチは葉団扇で魔風を起こした。火は一気に消える。しかし子供の力では、アパート全体に及ばず、一角の火を飛ばすだけで精一杯だ。残りの火が、消し飛んだ部分を見る間に埋めてゆく。イタチごっこだ。大風で火が消えても、自然発火温度に達している。放っておいても火は発生するのだ。消防隊の水が建材を冷やすまで、シンイチは周囲へ延焼しようとする火の舌を、大風で食い止めることに切り替えた。
 黒々と燃える柱がばちんと爆ぜた。
 火の粉が飛び、泣き叫ぶモロ道の顔面にかかった。
「あついようううううう!」
 モロ道はほうほうの体で逃げ、腰が砕けて座り込んだ。
「パンフうう……」
 冷たい石の塀にもたれてモロ道は呟いた。ふと隣を見ると、泣き叫んでいる男の子が二人、モロ道と同じように大人たちに止められている。
「おもちゃが! 俺たちのおもちゃがあああああ!」
「取りに行く! おもちゃだけは取り返すううううううう!」
 幼稚園児ぐらいの兄弟だった。涙でぐちゃぐちゃになって、パニックに支配されている。
「……」
 モロ道は立ち上がった。二人の前にしゃがんで、彼らの目線に降りた。
「〽 もえる」
 突然、モロ道は歌を歌いはじめた。
「〽 もえちゃう」
 子供たちはきょとんとする。
「〽 もえる もえちゃう 尻に火がついて あちっ!」
 煤のついた顔でモロ道はおどけた。子供たちは笑った。
「〽 もえる もえちゃう
   大切なものが あっつっ!
   俺とおもちゃ どっちが だいじ?
   おもちゃ? じゃ取りに行こう!
   あちっ! あちっ! あついよう!
   そしてぇ……
   眉毛ボーン!!」
 モロ道のオモシロ仕草に、子供たちはげらげらと笑った。
「〽 ほんとに大事なものって何?
   ほんとに大事な ものは?
   おもちゃで遊ぶこと? おもちゃがくれる時間?
   ちがうよ ちがうんだ おもちゃで一緒に遊ぶひと」
 モロ道は子供に聞いた。
「誰と遊ぶ?」
 彼は隣の、自分より小さな子を見た。
「弟」
 モロ道は弟の頭を撫で、微笑んで歌を続けた。
「〽 それがたいせつうううううううううううううううううううう」
 子供たちはすっかり落ち着いた。モロ道は静かに聞き入る兄弟の頭を撫でた。

 シンイチは驚いていた。「田力」の歌声よりも、プロみたいな熱唱だったからだ。
「一体、今の歌はなんじゃ?」
 野次馬の中から宮が現れた。サイレンを聞いて、心配して来たのだ。
「モロ道! 今の歌はなんじゃ! 聞いたこともないぞ!」
「はい」
 モロ道はまた怒られた、という顔をして言った。
「……即興です」
「即興?」
「子供たちの気持ちを落ち着かせようと思って、ただそれだけで、あと適当で、気づいたら歌ってて」
 モロ道はこっぴどく怒られると思って言った。歌詞も適当だし、七五調でもないし、音程もその場で揺れたし、ビブなんとかもこぶしも効いてないし、「が」を「んが」って言ってないし。また頭を殴られると、モロ道は反射的に目をつぶった。
 しかし宮の答えは真逆だった。
「すごいじゃないか」
「……えっ」
「すごいぞモロ道。お前は今はじめて、歌で人の心を動かしたんだ」
「え?」
「歌が上手いとか下手とか、音程とか風景とか関係ない。この子供たちは、お前にとってのデパートの屋上と、今同じ体験をしたんだぞ」
「……あっ」
 モロ道は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「それが、歌だ」
「これが……、歌か」
 こうして、モロ道の「ほめて育てて」は、彼の肩から外れた。

「不動金縛りの術!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 天狗の剣、小鴉の炎で、「ほめて育てて」を真っ二つに斬って落とす。
 火事の炎は、消防隊の尽力で鎮火してゆく。小鴉の炎は、対照的に夜空を焦がした。


 その後、モロ道とシンイチは駅前で偶然再会した。
「モロちゃん! どうしたの!」
 モロ道は一人で、大きな旅行カバンを提げていたからだ。
「今から、営業なんだ」とモロ道は笑った。
「営業?」
「ボク、あれからデビューしたんだ!」
 一本のカセットテープを、カバンから出してシンイチに渡した。「火まつり」と題された曲だった。
「あのときの歌?」
「うん。あのときの歌を、師匠が作詞作曲の先生にお願いしてくれて、ちゃんとした曲に仕上げてもらったの。流石に火事の歌じゃ怒られるから、『火まつり』に改造してもらったんだ。でも、ちょいちょいアドリブ入れては怒られてる」
「ははは」
「でもそれが、意外とお客さんには受けるんだ」
 モロ道は笑った。
「これから、どこ行くの?」
「東北へ」
「東北?」
「うん。水害と津波にやられた所を、順番に回ってこようと思って」
「へえ!」
「ぜんぜん儲からないんだけどさ」
 モロ道は笑った。
「でも、歌の心をとどけたい」
 以前のような顔のモロ道ではもうなかった。モロ道は、もともと童顔の子供の顔だった。そこに、男の成分が少し混じりはじめていた。
「また遊びに行こうよ。来月、師匠から独立してはじめてのお金が入るんだ。おごるよ」
 手を振って笑顔で去るモロ道を、シンイチは頼もしく見送った。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第三十話 「半分よこせ!」 妖怪「半分こ」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 私には、将来を誓い合ったイケメンの王子様がいる。

 子供の頃の話だ。イケメンの加藤(かとう)くんは、世界で一番高い場所、滑り台の上で私にプロポーズした。
「ぼくは世界征服をする王になる」
 私はメロメロになった。
「すてき!」
「そしたら結婚しよう」
「うん!」
「そのとき、世界の半分はきみのものだ」
 世界で一番高い場所で私はうっとりした。だがそこがピークだった。加藤くんとはその後遊ばなくなり、彼の家はどこかへ引っ越してしまったのだ。「世界の半分を貰う約束」は、大人になった今永久に宙に浮いたままで、今日も私は満員電車に揺られ派遣社員の現実を生きている。

 私、安東(あんどう)アキは、二十八になる、若い派遣の子に混じって東京で働く、くたびれた女である。とくに美しくもなく、とくに特技があるでもなく、幼い頃の加藤くんの思い出が、恐らく私のモテ期の絶頂だ。
 今日も会社で、リナちゃんがクリップばかり多目に持ってきて、返しに行くのも面倒だろうと「半分ちょうだい」とクリップを沢山もらってあげたり、ランチに一緒に出ておかずを半分交換しようと思ったらマユちゃんが食欲なくて「半分ちょうだい」ともらってあげたり、そのあとお茶した時もカロリーを気にするクボちゃんのシフォンケーキを「半分ちょうだい」と食べてあげたぐらいだ。

 そういえば私は、加藤くんのプロポーズの最も魅力的な言葉「世界の半分を貰う」がとても好きなようである。今の彼氏、政志(まさし)と初めてデートしたとき、映画館で「半券をちょうだい」と何気なく言ったことがある。
「どうして?」と彼は聞き、世界の半分を貰いたいから、というのも何なので、「思い出に取っておきたいから」と私は答え、それで何となく雰囲気が良くなったような気がする。その後行ったバーでも、「お酒飲めないから、このビール半分ちょうだい」と言って、かわいいと頭をよしよしされたこともある。経済観念の発達した出来た女だと思われたかも知れないが、私から見れば「半分貰う」ことの快感の方が大きい気がするだけだ。
 そういう訳で、政志とはすぐに同棲をはじめた。色々と自分の荷物をもってきて、私は彼の部屋の中に自分の巣をつくった。つまり、彼の部屋の半分を、私の空間につくり変えた。
「朝顔に釣瓶取られて貰い水」とか「軒を貸して母屋を取られた」なんて政志は嫌味を言ったっけ。失礼ね。半分しか貰ってないわよ。
 二人で暮らせる部屋をその後探し、同棲生活は益々ディープになった。二人で寝られるベッドを買い、大きな収納を買って半分ずつ使い、部屋の半々をシェアした。
 ところが先日、政志と別れることになったのだ。あいつ、浮気しやがった。許せない。私は怒り狂った。もうすぐ結婚だって思ってたのに。
 涙を流して「責任とってよ」なんて下手は打たない。私は冷静に復讐する。チェーンソーをレンタルで借りてきた。意外と安くてびっくりした。
 あいつの目の前で、二人で買ったベッドやビンテージの箪笥やチェストを、私は真っ二つにしてやった。皿もコーヒーカップも洗濯機も、本も本棚も観葉植物もだ。私達で買ったものは、半分は私のもの。
「半分ちょうだいよ」と破片の舞う部屋で笑ったら、あいつ青い顔をしてたっけ。

    2

 俺は大学在学中から、仲間たちと会社を立ち上げた。ベンチャーってやつだ。
 メインの商品は、コンピュータのセキュリティシステム。元ハッカー集団と組んで、最強の「壁」をつくるのさ。最強の泥棒転じて最強の警察、って寸法だ。企業に売り込むときは、セキュリティプログラムとそれを破るハッカープログラムをセットでつくり、目の前で対決させる。勿論、我々のセキュリティプログラムが最終的には勝つ。プロレスみたいなもんだ。一回ピンチに陥るのがコツだ。ハッカーが勝ったり、セキュリティに穴があるように見せるのさ。そこでセキュリティが自己組織化を行い、その欠点を埋めていくように進化させると、大逆転のシナリオになる。実際にはコードをリアルタイムで書き換えるだけなんだけど、ウチのやり方は、普及してる理論にはない独自のアルゴリズムだ。詳しくは企業秘密だけど。
 俺はそのベンチャー会社、K&Cカンパニーの代表を二十八歳で務める、「若き社長」である。社長といっても小さな会社だから、雑用全般の請負人だね。書類書きからフロアのゴミ出しまで。「シャチョーさんスゴーイ」って褒めてくれるのは、ガールズバーの女の子ぐらいさ。

 今、彼女はいない。忙しくてそんな暇もない。大学の同期にはそろそろ結婚、て奴もちらほらと出はじめた。それより経営を軌道に乗せることで精一杯だ。技術部の連中と行く、週末のガールズバーの他愛ない会話ぐらいしか楽しみがない。
 見かねたそこの女の子が、合コンを開いてくれると言った。知り合いとか友達連れてくる、と。俺はそこまで乗り気じゃなかったけど、技術部の連中が楽しみにしてるから付き合いで行ったのさ。社のレクリエーションの引率者の気分だった。そしたらそこに、なんと運命が待っていたんだ。

 居酒屋の五対五の合コン。最初の挨拶は幹事の子だ。
「こちらK&Cカンパニーの方々。こちら私の友達とか。あれ? K&Cって何の略だっけ。加藤さんのK?」
 俺はすかさずフォローする。
「加藤とチャーリー。二人の創業メンバーの頭文字。っても加藤は姓でチャーリーは名前で、変なんだけどね。あ、申し遅れました。加藤大樹(だいき)です」
 と自己紹介した時だった。向こうのメンバーの中に、目を丸くしてる子が一人いたんだ。
「……加藤くん?」
「? ……まさか、アキちゃん?」
 驚いた。子供の頃を一気に思い出した。いつも公園で一緒に遊んでた女の子。安東アキちゃんがその席の中にいたのだ。
「嘘! びっくりしたよ! 何これ! 知ってたの?」
「全然!」
「子供の頃と変わってないね!」
「そっちも、ちっとも!」
「え? 何これ運命の再会的な?」と司会の子はニヤニヤしはじめた。
「そうだよ! えーっと、二十年ぶりの、これ運命の再会!」
 場の空気を無視して盛り上がった僕らは、たちまち隔離されてツーショットにされた。

 沢山話をして、次も会おうとなった。丁度見逃してた映画の話になり、それを見に行こうと約束した。
 映画を見終えると、彼女は「ねえ、半券ちょうだい」と言ってきた。
「どうして?」
「今日の思い出に、取っておきたいの」
 なんかカワイイな。その後飲みに行ったんだけど、アキちゃんはあまりお酒が強くない。
「でも一緒に飲みたいから、そのビールの半分ちょうだい」
 なんかカワイイ。そのビールを飲んで顔を真っ赤にするアキちゃんもやっぱカワイイ。調子に乗って、俺は告白してしまったんだ。
「実はさ、君が初恋の人なんだ」って。
 いやあ、お恥ずかしい。こうして僕らは運命の再会後、つきあうこととなった。
 彼女と初めての朝を迎えたとき、彼女はまどろみの中で、こんなことを聞いてきた。
「ねえ。子供のとき、滑り台の上で言ってくれたこと、覚えてる?」
「? ……いいや」
「私、あなたにプロポーズされたのよ」
「ごめん、覚えてない。ほんと?」
「覚えてないの? その約束はとても素敵だったのに」
「俺、なんて言ったの?」
「世界征服するって」
「ああ。それ言いそう」
「そしたら、世界の半分を君にあげるって」
「ははは。言いそう。俺は、愛とは半分を分け合うことだと思うんだ」
「ふふ。……素敵」

「一人の部屋に帰るのは辛い」って彼女は帰るのを嫌がり、彼女は俺の部屋に住むようになった。最初はケータイ充電器とかの小さなスペースだったのに、徐々に彼女の荷物が増えてきた。化粧スペース、服とかバッグとか、パソコンとか。トイレにも彼女の本が増えて、洗面所には勿論彼女の歯ブラシ、化粧道具、ドライヤー。風呂にはシャンプーやらメイク落としやら。同棲なんて初めてだから、ちょっとワクワクした。女性用カミソリを最初見たときはびっくりしたけど、そうか剃るんだもんな、と生活感に納得したり。トイレには生理用品とか、そういうものか、と思う。俺は男兄弟で育ったから、そういえば母の生理用品をトイレで見たことはない。彼女なりに息子兄弟に配慮したのだということを、アキの生理用品から学ぶとは思わなかった。つまり、結局俺の部屋のどこもかしこも、半分はアキのものになった。
 俺たちの同棲生活はきわめて順調だった。ところがそのうち仕事が多忙を極め、会社に泊まりこまざるを得ない日が増えた。ケータイで連絡を取り合っていたから、浮気とか誤解はなかったと思う。ただ、電話口で彼女が変なことを言い始めたのだ。
「早く帰ってきてよ」
「ごめん、色々あってさ。回転資金が底を尽きそうで、しかも納品が間に合わないかも知れなくてさ、色々色々やんなきゃ」
「さびしいのよ」
「ごめん。今日はなんとか帰る」
「……私を愛してる?」
「もちろん」
「じゃ、約束、守ってよね」
「何の? プロポーズ?」
「それは、もっと先の話でいい」
「? じゃ何?」
「世界を半分くれるって約束」
 突然、背筋が寒くなった。彼女の言い方が冗談に聞こえなかったからだ。
 電話を切り、仕事を終え、そのまま帰るのが嫌で俺はいつものガールズバーに寄り道した。

「お久しぶり。彼女、どう?」
「……順調だよ」
 これは嘘か。いや、大きくは順調だ。間違ってはいない。カウンターの向こうからビールを出してくれた、こないだ合コンを開いてくれた彼女が言った。
「なんかさ、こないだアキちゃんの変な噂聞いたんだけど、順調ならいいか」
 俺はビールグラスを持つ手が止まった。
「何? 教えてよ。気になるよ」
「昔、別の男と同棲してたんだって」
「それは聞いたよ。別れたんでしょ? もう大人なんだから色々あっただろうよ」
「それがさ、別れ際にチェーンソー持って乗り込んだらしいのよ」
「チェーンソー? って、あれ?」
 俺はホラー映画みたいに振り回す真似をしてみた。それで彼氏をミンチにでもしたっての?
「相手の男が浮気して別れたらしいんだけど、怒るにしてもやりすぎよ。そのチェーンソーで二人用のベッドも、チェストも、食器も、何もかも半分にぶった切ったんだって」
「女こええ」
「そのとき叫んだ言葉がホラーでさ」
「叫んだ?」
「半分よこせ!」
 酒が入っているのに寒気がした。嫌な予感だ。映画の半券。半分飲んだビール。半分占領された部屋。世界の半分をちょうだい。
「……」
 酔いも回らないので、さっさと帰ることにした。

 部屋の電気はまだついている。鍵をあけて部屋に入ると、アキがパソコンをいじっていた。
「何? 寝なかったの?」
「チャーリーに色々教えてもらってたの」
「チャーリーに? 何を?」
「ハッキングのやり方」
「はあ?」
「K&Cカンパニーの登記簿あるじゃない?」
「……お前、何やったの?」
「場所突き止めて、書き換えてみた」
「……はあ?」
「これで会社の半分は私のものよね?」
「何言ってんの?」
 彼女はデータを小さなUSBメモリに移し変えたようだ。
「約束を果たしてくれるって言ったでしょ?」
「……世界の半分をあげるってこと?」
「そう」
「会社の半分って、……そういうことか」
 俺はアキの手の中のメモリを取り上げようとした。彼女はひらりとかわした。
「返さない!」
「返せ!」
 揉み合いになった。
 酒が入っているとはいえ、男の力で女の手からメモリを奪うことには成功した。
「返してよ!」
「返せるか!」
 彼女は気が狂ったように叫んだ。目付きがいつもの彼女じゃないみたいだった。
「半分よこせ!」

 まるでホラーだ。モンスターだ。俺は恐くなり、メモリを握り締めたまま思わず部屋から飛び出した。
「半分よこせ!」
 彼女は半狂乱に叫びながら追ってきた。右手に包丁を握っている。何だこれ。一体何が起こってるんだ。俺が今まで心血注いだものを半分よこせだって? 冗談じゃない。命も半分取られるのか? とにかく俺は右手の中のメモリを手放してはならない。後方のモンスターは顔が歪み、長い髪を振り乱して走ってくる。俺は恐怖した。

 息が切れる。俺は今、どこを走っているのだろうか。

    3

 その日の夕方、シンイチは奇妙な妖怪を目撃した。
 そいつは公園でフラフラと浮遊していた。宿主に寄生する前の、その辺にさまよう野良「心の闇」だ。どこからやって来るのか分らないが、時々風に乗ってやって来る。シンイチはてんぐ探偵となって以来、このような浮遊する野良たちを、見つけ次第火の剣・小鴉で斬ってきた。野良自体は珍しいものではないが、その妖怪の特別奇妙なところは、体が半分しかなかったところである。
「なんだあれ?」
 普段、火の剣では奴らを一刀両断することを心がけている。中心を斬ることが大事だ。そうすると小鴉の炎が妖怪を焼き尽くす。中心であればあるほど、その「本質」を斬るのだとシンイチは考えている。ところが奇妙なことに、目の前のそいつは体が左半分しかなかったのだ。一刀両断されて、そのまま燃えなかったような体をしている。人体模型の半分だけが歩いているような変な感じだ。断面に内臓か何か見えるかも、と近づいてみたが、中は中空のようである。
 そいつはシンイチに気づき、薄暗く笑った。全体に赤く、夕日を受けて更に赤く光った。風に乗り、そいつは遠ざかる。春先のタンポポの綿毛を追うように、ケセランパサランを追うように、シンイチは走って追いかけ始めた。
「ネムカケ。あれ何? 何で半分なの?」
「謎じゃな。斬られても死なないタイプだとしたら厄介じゃな」
「残り半分はどこ?」
 今日の風は強く、野良の飛ぶ速度は速い。シンイチとネムカケの追跡は困難を極めた。
 いつの間にか日は暮れ、夜になってしまっていた。シンイチは内村先生に協力をあおぎ、家に電話してもらいアリバイづくりをしてもらった。

 いくつかの街をまたいだ頃。
 必死で逃げている男と、必死で追う女がいた。男は恐怖で顔が引きつり、女は包丁片手に顔が引きつっている。そして女には、巨大な「心の闇」が取り憑いていた。
「同じ奴だ!」とシンイチは叫ぶ。
 彼女の肩に取り憑いたそいつは、同じく赤い体で、右半身のみの形状だ。
「あれは、半分のままが完全体では!」とネムカケはそれを見て理解した。
 逃げる男は加藤大樹。追う女は安東アキ。アキに取り憑いたその心の闇は、既に一メートル半に成長していた。
「半分よこせ!」とアキは凄まじい形相で叫んでいた。心の闇の、負の想念に取り憑かれてしまったのだろう。
「臨、兵、闘、者、皆、烈、在、前! 不動金縛り!」
 シンイチはその空間に不動金縛りをかけ、朱き天狗の面をひょうたんから出した。
「とりあえず野良から!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「とう!」
 一本高下駄で宙高く飛び上がり、追って来た左半分の妖怪を叩き斬る。半分の半分、四分の一ずつに斬られ、その妖怪は炎に包まれて清めの塩となった。
「半分で完全体なのか……」
「シンイチ、妖怪の名は分るか」
「うん。野良だと分りにくいんだけど、人に取り憑いてるときはハッキリ分る。これは妖怪『半分こ』……半分欲しいと思う心に取り憑く妖怪だね」
 シンイチはアキの肩に憑いた右半分の「半分こ」を観察した。
「彼女の形相が妖怪みたいだね。包丁振り回してなんか取り込んでるみたいだけど、話を聞かなきゃね。不動金縛りを解くよ。エイ!」
 加藤は恐怖のあまり、赤信号を無視して横断した。
「あ! 危ない!」
 シンイチの二度目の早九字の印は間に合わなかった。
「しまった!」
 トラックが彼をはねた。

    4

 加藤の緊急手術がはじまった。内臓破裂で、危険な状態である。とくに腎臓がふたつとも潰れていて、このままでは死の危険がある。
 家族の人たちは間に合わない。ドナーを今探しているが、適合者が見つかる保証はないと医師は説明した。
 シンイチはその場に不動金縛りをかけ、アキに妖怪「半分こ」を見せた。この事件はあなたに取り憑いた妖怪のせいなのだと。
「あなたが悪いんじゃないんです。悪いのは、妖怪だ」
 アキは冷水を浴びせられた。つい先ほどまで、二人は幸せな筈だったのだ。世界の半分を貰う権利は、幸せの証拠だとすら思いこんでいたのだ。彼が私を初恋の人と言ってくれたけど、実は私の初恋の人も彼なのだ。恥ずかしくて、それはまだ彼には言っていない。言う前に、彼が永久にこの世からいなくなるかも知れない。それは私が「半分よこせ」と言ったからなのだ。
「……」
 金縛りを解かれたアキは意を決して、医師に聞いた。
「腎臓って二つあるから、一個取って移植出来るんですよね?」
「そうです」と医師は答える。
「……私も、適合の検査をしてください」

 検査の結果、偶然にも白血球HLA型、血液型などのあらゆる型が合致した。偶然を運命と言うならば、これは運命であった。
「本当によろしいんですね?」と、医師は念を押した。
「私はあの人の恋人です」
 彼女の決断に迷いはなかった。
「私の半分を、彼にあげたい」
 コップに半分水があるとき、それを半分足りないと考えるか、半分残っていると考えるか、という話がある。この瞬間、彼女の心の闇「半分こ」は居場所をなくし、彼女から外れた。

「不動金縛り!」とシンイチはこの場に不動金縛りをかけた。
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 巨大な妖怪「半分こ」を、炎の剣が両断した。四分の一と四分の一に斬られた妖怪は浄火され、清めの塩となって四散した。


 その後、加藤の入院中に会社は傾き、K&Cカンパニーは不渡りを出して倒産してしまった。
「俺がいなきゃ駄目だったのかねえ、あの会社。きみに命を助けてもらったのに、なんにもあげられないや」と加藤はアキに言った。
「いらない。私はあなたが生きてればいい」と、アキは加藤の手を握った。

 退院したあと、二人は小さなアパートの二階に住んだ。加藤は苦労しながら働き、アキは彼を助けた。加藤は会社をまた起こし、アキと二人三脚でそれを大きくしていった。
 その後二人は結婚を決めた。結婚指輪はハート型をふたつに割ったもので、二つ合わせて一つになる形のものだった。
「俺の人生の残り半分をあげる」
「私の残り半分も、使ってください」
 二人は世界の一番高いところ、小さなアパートの二階の部屋で、世界の半分をそれぞれ分け与えた。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第三十一話 「最も不幸な男」 妖怪「一発逆転」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 その夜シンイチはネムカケを膝に抱き、父のハジメの晩酌につきあって野球のナイター中継を見ていた。
「打てよ……打てよ……何だよおおお!」
 ビールも入ってテンションの上がったハジメは試合に夢中だ。今夜は横浜球場での、横浜ベイスターズ対阪神タイガース戦。0‐3で最終回へ突入し、このまま猛虎打線を抑えれば勝てる試合だった。
 母の和代はつまみのベーコン焼きマスタード添えをつくって持ってきた。シンイチはこっそり手でつまんで和代に怒られ、ネムカケは猫舌なので冷めるまで大人しく待っていた。ハジメが横浜を応援するので、シンイチはなんとなく逆の阪神を応援したくなる。
 パカーン。
「大きい! 大きい! 入るか? 入るか? 入ったあああ!」
 阪神の四番がフルスイング。たった一発で逆転満塁ホームランを放った。
「うわああああ」とハジメのテンションは急落し、シーソーのように、「うおおおおお」とシンイチのテンションは急上昇する。
 試合は4‐3と阪神の逆転勝利。落ち込んだハジメは風呂に入り、和代は洗いものに台所に立った。シンイチは二人がいなくなったので、ネムカケに興奮気味に話しかけた。
「野球の一発逆転ってスゴイよね! サッカーは一点一点積み上げなきゃいけないけどさ、たった一発で四点も入っちゃうもんね!」
 ネムカケは、周囲に人がいない時はシンイチと喋る。
「人間はつくづく、面白いゲームを考えるのが上手いのう」
「これ癖になっちゃうよね! 毎回毎回一発逆転が来ないか、期待しちゃうよ!」
「ほほう。それでは一発逆転病になっちまうぞ」
「確かに! 『心の闇』に取り憑かれる隙間を生んじゃうよね!」
 テレビでは、阪神ファン達が「六甲おろし」を歌って狂喜乱舞している。妖怪はデジタルには映らない。だからこの時点ではシンイチは気づかなかったのだ。その観客の中に、妖怪「一発逆転」に取り憑かれた男、原田(はらだ)(けん)がいたことに。

    2

 原田健は、面白くない大阪人である。
 これは言語矛盾ではない。大阪人が全員お笑い芸人のように面白く、常に爆笑を呼ぶとは限らない。驚くべきことに、「面白くない大阪人」というのが大阪には何パーセントか存在する。それは、「足の遅いケニア人」や「女を口説くのが下手なイタリア人」がいるのと同じことである。分母の上には、分母の下がいるのだ。

 原田は今まで、誰も爆笑させたことがない。笑ってくれたのは子供の頃の家族だけだ。それは家族なりの愛だったのだと、原田は長じるにつれ理解する。
 一歩外へ出れば、笑いに厳しい風が吹きすさぶ、大阪とはそういう土地である。誰もが「オマエどんだけオモロイの?」と知らない人の顔をのぞきこむ。オモロイか、オモロくないかが人の価値である。大阪では、一番面白い奴からモテる。一番面白い奴から運が向き、年長者にひいきされ、スターになる。つまり原田は、人生の落伍者だ。
 中学ぐらいまでは笑いの才能が逆転することもあるが、高校生ともなればランキングは変動しない。
 原田はだから、東京の大学へ進んだ。誰も自分を知らないところで一旗揚げようと思ったのだ。妖怪「一発逆転」が原田に取り憑いたのは、おそらくこの時だろう。彼は東京で、ほとんどの大学生と同様、「人生の一発逆転」を狙ったのだ。

 東京では、関西弁をただ喋るだけで面白いと勘違いされる瞬間がよくある。文脈関係なしに「なんでやねん」と言うだけで「面白い!」と笑いが起きることがある。
 ぬるい。原田はここでなら一発逆転が狙えると思い、お笑いの学校へ通うことにした。
 だがその学校の頂点は、原田が一生勝てない奴ら、すなわち、「昔から面白い勝ち組」たちだった。
「なんでやねん」は、単発では存在しない、実は高度なコミュニケーションである。
「おう、おごったるわ。……あ、お前の分しか金ないやんけ。代わりにおごって!」
「なんでやねん!」
 上手なボケとはそもそもツッコミ待ちのボケだ。ボケはツッコミを呼ぶためにあり、ツッコミは次のボケを呼ぶためにある。いわばこれは言葉のパスなのだ。パスしてパスして、場をヒートアップさせる。笑いとはコミュニケーションなのである。
 だが、人付き合いの苦手な原田はそれをしなかった。原田は一発逆転しなければならない。「なんでやねん」では並だと考えた。
「おう、おごったるわ。……あ、お前の分しか金ないやんけ。代わりにおごって!」
「ビヨビヨボミョーン」
「???」
 それは誰からも理解されず、誰も友達は出来なかった。原田は従ってコンビを組めず、ピン芸人をやった。しかしそれも誰からも理解されず、原田はお笑い学校を辞めた。
 人生の一発逆転は、次に就職活動に求めた。一流企業ばかり受け、学歴を詐称したがひとつも受からなかった。親戚の紹介で大田区の小さな工場の事務に滑りこんだが、合コンでモデルやタレントの卵ばかり狙い、落ちた一流企業の社員を名乗り、なけなしの給料をためては一発勝負に出て惨敗をくり返した。
 会社内の新商品アイデアでも、「右手で右手の爪を切れる爪切り」「五角形のスマホ」など、原田が出すものは苦笑いしか生まれなかった。

 妖怪「一発逆転」は、的のような形をしている。白、水色、赤の同心円の顔の中央に、金色の一ツ目が輝く、弓道の的のような形だ。人生の一発逆転を原田が強く願うとき、妖怪「一発逆転」はぶくぶくと膨れ上がる。原田が勝ったと思えば「一発逆転」はしぼむ。
 実際の所、何年も取り憑いた肩の「一発逆転」は、巨大な妖怪にまで成長はしなかった。人には幸不幸があり、均すと大体誰も同じようなものだと言う。大きく成長しなかったことを見る限り、原田の人生も、案外普通だったのかも知れない。


 かくして今夜の原田は、阪神タイガースの一発逆転に少しだけ溜飲を下げ、満足の帰り道についた。酒の勢いも手伝ったのだろう、街角に出ている占い師が気になり、自分の運勢を見てもらおうとどっかと座った。
「あんた、不幸だね?」
 原田の顔を見るなり、人生の皺を刻み込んだ老婆の占い師は言った。
「はん。どうせここに来る男は全員不幸だ。誰にでもそう言って、一発目から信用されようとしてるな?」と、原田は端から占い師を信用していない。
「どうでもいいさ。人生に一発逆転なんかないよ。コツコツと生きることさ」
 老婆は原田の手相を眺めながら言った。
「いつ俺は成功するんだ? どんな成功をするんだ? 俺の一発逆転はいつだ?」
 占い婆は手相を見、タロットを広げ、紫の別珍の上に乗った水晶を覗き込み、お告げを述べた。
「ずっと不幸さ。何もない。豚の群れに追われて、孔雀が笑って羽を広げるぐらいの事がない限りね」
「なんだそりゃ。そんなことある訳ねえだろ。動物園にでも転職しろってことか」
「分らんよ。霊界からのメッセージを読み取ったまでさ。ハイ二万円」
「ハア? 高すぎだろ。そんなあり得ないお告げに金なんか払えるか! これで十分だろ!」
 原田はポケットを探り、入っていた小銭百三十円を叩きつけた。
「……この客は前金にすべき、って占ってから話をはじめるんだったかね?」
「ちっ。嫌味なババアだ。阪神勝利のご祝儀にとっときな」
 原田は小銭をポケットにしまい、財布から二万円を出して叩きつけた。
 豚に追われて孔雀が羽を広げる? あるわけねえだろ、そんなこと。

    3

 この不況の波は、原田の会社のような小さな工場も直撃している。社は給料を減額し、この波を耐えていこうとなった。ここで一発逆転を狙うことが、益々現実的ではなくなってきた。一生この地味な事務職で食っていくのか、いい女とも付き合わず、豪邸に住むこともなく、毎日笑って暮らすこともなく。

 原田はコンビニのATMで今月の給与を見てため息をついた。阪神勝利の一夜から明け、今日は給料日。貯金の全額は百万と少し。十二年、なんとなしに貯めて、なんとなしに使って、残りの金といった程度の額。これが俺の人生の評価額か。
 原田はその数字をしばらく見つめ、思い切って全額を下ろすことにした。銀行で手続きをし、生涯で貯めたすべての現金を一円残さず受け取った。妖怪「一発逆転」が、それを見て膨れ上がり始めた。

 内ポケットに一万円札百枚が入っている。それだけで原田の目の色は異様だ。今誰かにそれを知られて襲われたらどうしようと疑心暗鬼になり、しかし自分は何にでも金を使えるのだぞと気が大きくもなった。
 目的地は、商店街のパチンコ屋だった。
 原田はこれまで博打などしたことがない。人生で一発逆転を狙う大博打をしてきたからだ。だが自分の人生の先が見えてしまった以上、逆に今日が吉日だと考えた。ここで一発逆転だろ。ビギナーズ・ラックというものが人には一度だけあると聞く。だとしたら、この吉日の一回目だけは勝てるのではないか。原田は、形のない女神に心頼った。

 四時間後、グロッキーになった原田が扉を開けて出てきた。たしかにビギナーズ・ラックという名の女神はいた。開始十五分後に彼女は来て、微笑み程度の勝ち四千円を授け、永遠に去っていった。その後、銀玉は黒い虚空へ呑まれ続け、原田は十二万円を失って出てきた。目はチカチカとし、電子音の幻聴が聞こえ、全身の毛穴や衣服から煙草の匂いがした。
「小さい勝負を波のように続けるからいかんのだ。デカイ勝負をしなければ」
 原田は競馬場へ向かうことにした。
その時、朱い天狗の面をした子供に呼び止められた。
「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」
「何だお前?」
 我らがてんぐ探偵、シンイチとネムカケの名コンビであった。

    4

「そりゃあ、したいさ。一発逆転したくない男が、この世にいるというのかい?」
 原田はシンイチの説明を理解したうえで、反駁した。
「そりゃなんだ、俺が今まで不幸な人生を送ってきたから、それをひっくり返すほどの幸せが来ない限り逆転とは認めない……それを考え直せってこと?」
「まあ、原理的には」
 シンイチは鏡にうつる、妖怪「一発逆転」を原田に見せながら答える。原田は、今までの自分の行動が自分のせいではなく、妖怪「一発逆転」のせいだと言われてもにわかには信じられなかった。
「日々の小さな幸せに感謝。お天気が良くて感謝。ごはんが美味しかったから感謝。店員さんにありがとうと言われたから感謝。そういう『小さいことに感謝教』の信者にでもなれと? 『小さいことからコツコツと』の人生に目覚めろとでも?」
「それが、唯一の正解じゃないだろうけどさ」
「冗談じゃねえ! 俺は今日、一世一代の大勝負をするって決めたんだよ! あと八十八万、馬に突っ込んで大化けするんだ」
「馬?」
「競馬に決まってるだろ!」
「やめなよ! ホラ、また妖怪が大きくなった!」
「知るかよ! 俺が勝ちさえすればこいつは成仏するだろ! 勝てば文句ねえ!」
 原田はシンイチの制止を振り切った。はずみでシンイチが転んでも、振り向きもせず駅へ歩き出す。ネムカケは呟いた。
「仕様がないのう。全く周りが見えとらん。三千年の昔から、博打に飲まれるタイプはこうと決まっとる。自分だけが勝てると思いこむ」
 シンイチはズボンの埃を払い、原田の後姿と肩の「一発逆転」を見つめた。
「……とにかく、後をつけよう」

 大きな競馬場に来た。小汚い大人たちが酒の匂いを漂わせて徘徊していた。シンイチは彼らの脇をすり抜け、天狗のかくれみので透明となって忍び込んだ。
 中が広くてびっくりした。緑の芝が目に眩しく、馬の走る地響きが恐かった。筋肉が異常に盛り上がっている、ボディビルダーみたいな馬も恐かった。うす汚れたコンクリートの観客席には、目が血走った大人たちが奇声を上げている。賭場の大人たちは、シンイチにとって初めて見る大人の姿だった。
「妖怪に取り憑かれるというより、この人たちが妖怪みたいな目になってるね」
「言い得て妙じゃの。その小妖怪から金を搾りとる胴元が真の大妖怪じゃがな」
 原田は競馬新聞を穴のあくほど見つめ、指で番号を押さえすぎて本当に穴を開けてしまった。最終レース、「7‐2」を、全財産一点買いに決めたからだ。
 鼻息が荒くなった。心臓の鼓動が早くなってきた。馬券を買う時には手が震えた。懐から出した現金の束を見て、周囲がざわついた。シンイチはかくれみのから姿を現して原田を止めた。
「やめなよ! それ全財産でしょ? 勝てる訳ないじゃん!」
「レースに出た者だけが、チャンスがある。レースに出なければ勝利すらない」
「完全におかしいよ! あんたが走る訳じゃないのにさ!」
 突然子供が現れたので、警備員が走ってきてシンイチを取り押さえた。
「原田さん! やめときなって!」
 原田は窓口から動かなかった。
「息子さんか何かですか?」と窓口の人は、この悶着を見ながら尋ねた。
「いえ。……知らない子です。無関係で迷惑してます」
「……額が大きいのですが、よろしいですか? 7‐2一点で」
 八十八万円。俺がだらだらと不幸に生きた証。原田はその現金をしばらく見つめた。それは間もなく一発逆転のビギナーズラックに大化けする。倍率十二倍で、一千万越えだ。
 原田は唾をゴクリと飲み込んだ。
「……はい」
 ファンファーレが鳴った。場内が静まり返った。ゲートが大きな音を立てて開き、十六頭の巨大馬が地響きを上げ、風のように走り始めた。
 シンイチは連行された事務室で再びかくれみのを被り、透明となって警備員たちから逃げ出した。
「シンイチ! こっちじゃ!」
 はぐれたネムカケがシンイチを呼びに来た。原田は、柵にもたれてコップ酒をあおっていた。目が血走っていて、妖怪の仲間入りを果たしたようである。
「原田さん!」
「もう遅え。払い戻しは出来ねえ。賽は投げられたんだよ。一発逆転か、否か」
「目を覚ましてよ!」
 観客席を埋め尽くす小妖怪たちは、目を吊り上げて獣のような雄叫びをあげている。十六頭の蹄は、死の運命のドラムを叩く。このうち殆どの馬券は、死ぬ。
「一発逆転! 一発逆転! 一発逆転!」
 7番も2番も、中盤の群れの中にいた。二頭が一位二位に入らなければ原田の全財産は紙切れだ。二周目。第二コーナー、第三コーナー、第四コーナー、最後の直線。7番も2番も遅れてゆく。
「ああああああああああああああああああああ!」
 原田は力の限り叫んだ。叫んで馬が速くなる道理などないが、小妖怪たちは全員があらぬ声で叫んでいる。阿鼻叫喚の地獄とはこのことだ。このうち殆どの馬券は死ぬ。
 どどどどど。
 あああああ。
 走り抜けた馬の群れとともに、全財産はただの紙切れとなった。
 呆けた間のあと、原田はコップ酒の残りを一気飲みした。

    5

 これでコツコツとした人生に目覚めるだけの授業料は払っただろう、とシンイチもネムカケも思った。だが原田は止まらない。
 深夜になって原田は会社へと忍び込み、パソコンを立ち上げ何やら操作をはじめた。
 シンイチが止めても、原田は何かに憑かれたように(否、実際妖怪に憑かれているのだが)、キーボードの操作を止めなかった。原田の肩の妖怪「一発逆転」は、昼間の大敗でしぼんでいたが、再び風船のように膨らみ始めた。
「もうやめなよ! 充分懲りたでしょ! 何をやるつもり!」
「うるせえなあ! 子供は帰って寝ろよ!」
「不動金縛り!」
 会社の事務室はぴたりと時を止めた。
「一体何をやってんのさ?」
 シンイチはネムカケに尋ねた。ネムカケはモニタを覗きこむ。
「これは株の取引きじゃな。しかも、FXときた」
「FX?」
「正式名称を外国為替保証金取引といって……」
「???」
「要するに、二十四時間眠らない世界市場で、素人が手出して大火傷する、ヤバイやつ」
「それ競馬よりヤバイの?」
「こやつの目を見れば分かるじゃろ」
 原田の目は濁って血走っている。再び「一発逆転」の興奮に襲われている顔だ。肩の妖怪「一発逆転」は、原田からの栄養をドクドクと受けて、一瞬のうちに一メートルに成長していた。
「マズイな」と、ネムカケはページの履歴を調べて気づいた。
「なに?」
「こやつ、会社の金を勝手に別口座に落として、FXにつぎ込んでおるぞい」
「えっ、それって」
「会社から一千万円盗んだのじゃ。横領じゃな。それで大博打を打とうってことか」
「どうしよう! そのお金を返せる?」
「今ここでクリックしても時が止まっておる。……というか、世界市場全体に不動金縛りはかけられんじゃろ。大天狗でもそれは無理じゃ」
 シンイチはこの場の金縛りを解いた。
「原田さん! すぐキャンセルして元に戻ろうよ!」
 原田は刻一刻と動く株式グラフから目を離さない。
「今キャンセルしたら、五十万の赤字だ」
「今キャンセルしたら、百万の赤字だ」
 目で見てもグラフが急激に下がっていくのが分かる。シンイチは胃が痛くなり原田にすがりついた。最悪の相場だった。逆張りか。否、皆が逆張りをはじめた。逆の逆か。
「もういいよ! 百万の赤字でやめときなよ! ごめんなさいって社長に謝ればいいじゃん!」
「……二百万……三百万……。いや、損した金を数えても、意味がない」
「どうやったら止められるの!」
「止めないよ。これは、俺の運試しだ」
 言い争いをしているうちに五百万が溶けてなくなり、計九百万が溶けて消えた。残り十万を切ったところで原田はあきらめた。
「……明日俺は、一千万の横領で捕まる。……ははは。一発逆転って、何だろうな」

 原田は表の空気を吸いに外に出た。
 自殺でもされてはたまらない。シンイチとネムカケは追う。真夜中の星が出ていて、街はもう眠っていた。
 誰もいない公園に、原田はふらふらとたどり着いた。ベンチに力なく座り、星を見上げた。
「あの星にそれぞれ惑星があって、それぞれに宇宙人が沢山いて、そいつらは勝手に幸せに生きていて、その中で俺が今最も不幸だな」

 と、向かいのベンチに先客がいることに原田は気づいた。夜の店の女であることは、化粧や服装から判断できた。その女は顔を覆って泣いていた。長い黒髪に黒いドレスだから、最初気づかなかったのだろう。
「なんで泣いてんの?」
 女は顔を上げた。不細工な女だった。濃い化粧が涙でグチャグチャで、さらに不細工だった。
「私、世界一不幸なの」
「ハア? 俺のほうが不幸だね。俺は宇宙一不幸」
「じゃ私も宇宙一不幸よ」
「俺の人生、何にもいいことなかった」
「私も何にもないわよ」
「モテずに故郷を捨て、一旗揚げられなかった」
「私なんか男に騙され続けて、転落人生」
「全財産すっちまった。会社の金を一千万使い込んだ」
「社長の愛人にされてたけど、その人は借金こさえて雲隠れ。借金は私が肩代わり」
「……俺のほうが不幸だろ」
「私のほうが不幸よ」
 原田は不細工な顔をあらためて見た。
「……そうだな。ブスの分そっちのほうが不幸だな」
「ブスは分ってるわよ」
 意表をつかれ、彼女は思わず苦笑いした。
「笑ったらちょっとましな顔じゃねえか。やっぱり俺のほうが不幸だわ」

 その時背後の大通りで、どんと大きな音がした。交通事故だ。酔っ払い運転の車が、タクシーに衝突したらしい。
「シンイチ!」とネムカケは叫んだ。
「うん! 助けに行かなきゃ!」
 二人は立ち上がった。
 と、その交差点にさらに大きなトレーラーが突っ込んできた。二重衝突だ。ブレーキは間に合わず、運転手は大きくハンドルを切り、トレーラーは横倒しになろうとする。
「ちきしょう! 不動金縛り!」
 シンイチはとっさに九字を切った。しかしトレーラーは重すぎて、横転が止まらない。
「くっそお!」
 シンイチは人差し指から「矢印」を出した。
「つらぬく力!」
 トレーラーを「矢印」でつらぬき、ワイヤーのようにしてブレーキをかけ止めようというのだ。シンイチは端っこを持って踏ん張ったが、どすんと着地させるので精いっぱいだった。
 はずみで、後ろの扉が壊れた。中には、干草まみれの豚たちがいた。
「えええええ?」
 トレーラーの中身は、養豚場から精肉場へ運ばれる豚だったのだ。
 パニックになった豚たちは、奇声をあげながら走り出した。群れの本能か、先頭の豚について猛烈に走り始める。豚の津波は、原田の座るベンチに横から体当たりしに来た。
「うわあああ!」
 原田は思わず飛び上がった。横にあった木に、豚たちを避けよじのぼった。暴れ豚は原田の尻に噛み付いた。
「ひいいいい!」
 原田は豚以上の悲鳴で、さらに上によじ登った。
 豚津波は、原田を置いて彼方へと去っていった。
 あとに残ったのは、木にしがみついた、尻丸出しの原田だった。その格好を見て、向かいのベンチの女は大爆笑をはじめた。
「あははは! 何それ! あはははは」
「なんだよ! ……笑ってんじゃねえよ!」
「あはははは。これが笑わずにいられる? だってその間抜けな格好! あはははははは。豚もおだてりゃ木に登るって言うけど、逆、逆! あははははは」
「……あれ?」
 と、原田は尻丸出しの格好で、ふと気づいた。
「どうしたの?」
 とシンイチは下から尋ねた。
「俺、はじめて人を笑わせたかも知れない」
「……えっ?」
「あははははは。あははははは」
 女の笑いはツボに入ったのか、なかなか止まらなかった。
 笑う彼女を、原田は特別な目で見た。
「俺、もっと彼女を笑わせたい」
 その瞬間、妖怪「一発逆転」が彼の肩から外れた。
「え?」
「俺……恋に落ちたみたいだ」
 妖怪「一発逆転」は闇に逃げようとする。シンイチは九字の印を切った。
「不動金縛り!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 夜の公園と原田の尻を照らした小鴉の炎が、「一発逆転」を斬り伏せた。「一発逆転」は清めの塩となり、四散した。


「私そろそろお店に戻らないと」
 彼女はベンチから立ち上がった。
「でもお店も今日限りで辞めるつもりなの。堅気になって働くから。……このドレスも店に返さなきゃ」
 彼女は両手を広げた。黒い袖に、孔雀の羽の刺繍があった。
「あ。……豚に追われて、孔雀が笑って羽を広げたとき」
 原田は思い出した。
 あの占いババア、当たるじゃねえか。
「ちょっと待ってよ。もう少し、話をさせてよ。なんなら店に行って指名するよ。……あ、俺全財産ないんだった」
 原田はポケットに手を入れた。占い師に叩きつけその後引っ込めた、百三十円の小銭が出てきた。
「缶コーヒーおごるから。……あ、でも金ないから、俺の分おごって」
「なんでやねん」
 彼女はもう一度笑った。


 禍福はあざなえる縄の如し、と昔日の人は言った。
 FX相場が翌日回復し、一千万円と百三十円になることを、この時の原田はまだ知らない。


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第三十二話 「『答え』に恋した女」 妖怪「正解」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 彼女はかくれんぼが大好きだった。
 見つかりそうにないところに隠れ、暗闇で息をひそめ、ドキドキしながら待った。近くに足音や気配が来たときは、もうどうしようもなく興奮した。もうすぐ見つかるという期待と、ドキドキが終わってしまうことの残念の、二つの気持ちを同時に味わった。隠れる側の気持ちがよく分っているから、見つける側になっても得意だった。

 彼女、花沢(はなざわ)(かえで)は数学者である。子供の頃から、算数とかくれんぼは似ていると考えている。だから子供の頃から算数が一番好きだった。
「女の子が算数なんて変」とよく言われたが、そんなの関係ない。答えは必ずそこに隠れている。彼女はそれを見つけ出す役なだけだ。それが無秩序でなく、必然という秩序を持っていることもまた彼女を魅了した。「答え」は息をひそめて、暗がりの中で、私に見つけられるのをじっと待っている。まるで運命の人を待つように。

 楓が長じて数学者の道へ進んだのは、だから彼女の中ではごく自然なことだ。すべては「(ゆえに)」でつながっている。しかし周囲は何故だか彼女を理解しなかった。女の子は一緒にトイレに行き、一緒にキラキラしたシールを集め、一緒に先生や男の子の噂をし、そこにいない友達の悪口を言うものだと、そう言って不思議がった。誰が好きで誰が好かれて、誰が嫌われているか、延々と話すものだと。彼女はその集団には加わらず、数学という密林の奥の、堅牢な地下迷宮の奥の、鍾乳洞の地底湖の、「私を待ち続けている答え」を探しにゆくことに熱中した。そんな答えがあるかどうかも分らない現実世界よりも、数学の世界には私を必ず待っている「答え」がいる。

 彼女が籍を置く嶺南(れいなん)大学数学科では、楓は非常勤講師として、学生に群論、環論を教えているが、専門は整数論である。数学に明るくない人に、「3や7の何がいいの? カーブの具合とか直線?」と聞かれて、彼女は返答に困る。形が美しいのではない。機能が美しいのだ。3や7という文字はそれを表す記号に過ぎない。「3」が「※」になっても美しさは全く同じだ、と言っても怪訝な顔をされる。そういうことを聞いてくる「普通の」女友達より、男友達のほうが余程話が合う。彼らはスポーツカーを愛し、空気抵抗を極限まで減らす流線形の美について理解しているからである。
 数学者は奇行の人だ。ずっとベンチに座っていたり、ずっとブラブラ河原や廊下を歩いていたりする。それは、ただ座ったり散歩しているのではなく、頭の中で大冒険をしているのである。「見いつけた」と言うまで、何日も、何週間も、ときには何年も、彼女はその迷宮を探し続ける。三百年かかって答えを見つけた「フェルマーの最終定理」も、数学の世界では当たり前だ。
「答え」は迷宮の奥で、何日も、何年も、何百年も、息をひそめてドキドキしながら待っている。だから彼女は、今日も運命の人を見つけにゆく。


 楓は、河原の散歩(という名の答えを探す旅)から帰ってきたタイミングで、事務方の女子三人にバッタリと出くわした。三人のお茶に誘われ、ついて行くことになった。
 大学の敷地内は飽き飽きだから、南門を出て一ブロック行った「レオンハルト」というドイツ風ケーキ屋に行くことになった。男所帯の数学研究室ではあるが、楓が紅一点ではなく、小西(こにし)ちゃんというバイトの女の子もいる。バイトと言っても数学の研究をする訳ではなく、コピーを取ったり会議室の予約をしたり、論文検索などの雑務の為にいる。数学科の棟は理学部棟内で、学部全体の事務所と隣だから、そこの女性たちとバイトの子は仲が良い。楓が小学校の頃から苦手だった、「一緒に行動する」のが彼女たちの常だ。流石にトイレまで一緒に行くことはないが、ランチやお茶は毎日のように群れるそうだ。

「やっぱり花沢さんって変わってるわねえ」と、リーダー格の馬場(ばば)さんが矛先を向けてきた。馬場さんは事務方の中でも古株だ。子供が来年中学に上がる。
「よく言われます」と楓は返した。こんなことは慣れっこだ。それよりも今は、パナマ産のママカタという変わった名の、キャラメル風という変わったコーヒー豆の香りに集中したいのだが。
「だって皆ケーキセットを注文したのよ? しかも『本日のケーキ』の中からそれぞれ違うのを頼んで。それってさ、ちょっとずつ皆で分けあってケーキを楽しむって暗黙の了解よ? いちいち言わなくても普通分るわよねえ?」
テーブルの上には、本日のケーキ、アッフェルプディングトルテ、ブルーベリーとクランベリーのタルト、洋栗のモンブランが並んでいる。四つめのケーキ、サワーチェリーのクーヘンも試したかったのか、と楓は合点した。
「あ、そういうことですか。……私、パナマ産の豆、というコンセプトに惹かれてて」
「もう。周り見ないところが流石学者さんってかんじよねえ」
「まあ、だから馬場さんみたいな気配り屋さんがいないと、我々は成り立たないんですよう」
「そうよねえ」とあからさまなお世辞にも馬場さんは気をよくした。
こういうあしらいは慣れっこだ。コーヒーの甘ったるい香りが、この会話を待つために少し冷めたことのほうが彼女を不機嫌にした。
「そういえば、統計学の後藤(ごとう)さんとはその後どう?」
「後藤さんって、後藤准教授?」と、小西ちゃんが食いついた。
「そうよ。花沢さんの彼氏」
「えっ。花沢さん、後藤さんとつきあってるんですか? 数学専門の人って、そういうの、興味ない人かと思ってました」
「まあ、人並みに人間ですし、女ですし」
「へえっ。数学者同士ってどんな話するんですか? やっぱ『僕の愛は無限大』とか、『君と僕の愛はどっちが大なり小なり』とか、言うんですか?」
「言わないわよ」と楓は笑う。
「でも、『僕と君はまるで実数軸と複素軸だ。性質が真逆で永遠に直交する』って彼のぼやきに、『 e^(iπ) = -1 』って返して、いい雰囲気になったことは、あるか」
「?????」
 「オイラーの公式」と呼ばれる、世界で最も美しい等式である。矛盾した性質を持つ実数と虚数の空間、複素平面では、出自の異なる指数関数と三角関数がイコールで結ばれるという、たいへん革命的な等式だ。実数と虚数が男女のへだたりだと彼は嘆き、それはオイラーの公式によってちゃんとイコールで結ばれる、と彼女はロマンチックに返したのである。この喫茶店の名「レオンハルト」は、この式を証明した中世の大数学者、オイラーのファーストネームである。楓はそれにひっかけて話したつもりだったが、その場の人にはちんぷんかんぷんであった。大学の初等数学で習う話なんだけどなあ。

 皆のテンションを察した事務方の森下(もりした)さんが、深堀りしてきた。
「週何回ぐらい会うの?」
「いや、とくに決めてないですよ」
「決めてないってどういうこと?」
「お互い研究もあるし、会わないときは数ヶ月も会わないし、思いついたその日に会うときもあるし」
「やっぱ変わってるわ」と、全てのケーキを一口ずつ一周した馬場さんが横入りしてきた。
 なんだか尋問大会だ。来なけりゃ良かったと楓は思い始めていた。
「普通さ、仕事持ちでもさ、週二回とか週末は会うとか決めてるものよね?」
「そうよね」と森下さんは追従する。
「その為にデートの計画を立てたり、服を買いに行ったりするものよ。花沢さんは結婚とか決めてる?」
「いえ、とくに」
「ほらね。普通それくらいならもう考えるでしょ」
「普通って、そうなんですかね」
「花沢さんは普通じゃないからしょうがないけどね」
「普通って、……社会規範みたいなことですか?」
 楓の彼氏、後藤弘明(ひろあき)はスポーツカーとジャズを愛する男で、専門は統計学である。その理論によれば、母数の多いものは中心極限定理によってガウス分布に漸近する。「社会規範」とか「普通」とかは、平均値から標準分散までのボリュームゾーンのことだ。ものごとにはそれより上か下かに外れたものが必ずあって(たとえば全体の3%とか)、まあ自分はそっちの離れた側だと思ってはいる。
「ちがうわよ。『世の中の正解』ってことよ」
「正解?」
「みんなの正解よ」
「統計的結果ってことですか?」
「そういう科学的なことじゃなくってさ、『世間が思う正解』よ」
「そんなの、空気みたいにあやふやで、分らないものじゃないですか」
「だから私たちはいつも集まって話すんじゃない。正解は何かってさ」
 楓はカルチャーショックを受けた。彼女は、「答え」は、公理と定義と定理が行き届いた、清潔な空間のどこかにあると信じていた。そうでない所にも、「答え」はあるのだという。人間や社会などという雑然として整理されていない、不定形なところにもあるのだと。私が数学の迷宮奥深くに潜っているとき、外ではそのような「正解の話し合い」が行われていたのか。彼女は想像したこともない光景にくらくらした。
「……それって、必ずあるものですか?」と、彼女はおそるおそる聞いてみた。
「そりゃそうよ。なければおばあさんに聞くとか。小西ちゃんだってさ、雑誌見て今正解の服は何かとか、研究してるのよ。だからモテるんじゃない」
「彼氏いないですけどね」と小西ちゃんは自虐し、公開処刑の対象は彼女にうつった。

 すっかり冷めて最初の香気を失ったコーヒーをすすりながら、彼女はこの「空気の中にあるという正解」について考えていた。ケーキセットを少しずつシェアするという正解を、彼女は見逃していたことについてもだ。彼女はママカタの香りを吸い、小さなため息をついた。
 その瘴気に釣られて、妖怪「正解」が寄ってきた。顔の真ん中に赤い星のある、クイズ番組の正解みたいな顔をしていた。

    2

「来週の金曜、『セクシーダイナマイツ』がライブやるね」と、後藤は壁のポスターを見て言った。「セクシーダイナマイツ」とは、その名に似合わぬジャズバンドの名だ。後藤はちょいちょいこの店でライブをする彼らのことを気に入っている。
 楓と後藤がいつもいくジャズ喫茶「エリック」でのことだった。店の隅に小さなステージがあり、週末はジャズバンドたちがよく演奏しにくる。後藤はジャズ好きだから、大抵ここで論文の原稿をくわえ煙草で書いている。集中をさまたげられない程度になら、彼は話しかけられることを歓迎する。
 楓は、「あの彼女の服、どう思う?」と、二つ先の席に座る大学生カップルの女の子を指して言った。大人びたシルエットだが白いレースの、少女っぽいスカートを履いて、ふんわりとした雰囲気がよく似合っている。
「かわいいね」と後藤は素直に感想を述べた。
「そうよね」と楓はなるべく感情を込めずに返した。自分は、動きやすさとか、目立たないこととかで、いつも黒の、装飾のないものしか着ない。
 先日の小西ちゃんの話を思い出していた。
「可愛い服を着るのは、彼氏に愛される為じゃないの。こんな可愛い子を連れている、と彼氏に胸を張らせる為、ってのが正解」
 後藤はそんなこと気にしない、同じく数学者という変人だが、楓は自分が「正解を引いていない」ことのほうを気に病み、深くため息をついた。
 こうして、妖怪「正解」は彼女の肩に取り憑いた。


「おはようございます」
 楓が朝九時半に研究室に現われて、バイトの小西ちゃんは驚いた。
「何かあったんですか」と聞いたぐらいだ。
「研究室」とは数学者にとっては研究をするところではない。彼らの冒険の場は頭の中だからだ。九時半五時半のルールは、社会では正解かも知れないが数学者にとってはどうでもいいことだ。現に教授も准教授も昼過ぎまで来ない。
 普段は体をしめつけないルーズな服を着がちな楓が、きっちりしたスーツを着てきたのにも小西ちゃんは驚いた。彼女は突然遅れ気味の書類をことごとく提出し、講義も時間通り済ませ、来月の論文についての下調べを精力的にこなした。五時半になると「失礼します」と帰宅する。それはまるで、優秀な会社員のようだった。
 女子たちのランチやお茶にも皆勤し、ことごとくケーキセットを頼んで一口ずつ分け合った。正解。
 馬場さんが機嫌よく「ここは私がおごるわ」と言っても、一応財布を出してみせ、「いいわよう」と機嫌よく言わせた。正解。
 後藤とはまめに連絡を取り、必ず週に一度フェミニンな服でおしゃれしていった。正解。
 世間のベストセラーを読み、世間の流行映画を観、世間の意見を自分の意見のように話した。またまた正解。
「急に素敵な人になった」と周囲は噂した。彼女は、ただ「正解を引いた」だけだ。世間で言われる正解を遵守しているに過ぎない。思考など使っていない。空気を読み、自分を律すればいいだけだ。
 ところが対照的に、本業である数学の研究は、急に一歩も進まなくなってしまった。何故なのか彼女には分らなかった。「世間の正解」を引いているのに、「数学の答え」は、彼女を見限ってしまったかのようだ。考えても考えても、その答えは分らなかった。ますます彼女は「世間の正解」を演じながら、同時に数学の答え探しに没頭した。それは自分を分裂させるような行為で、過労で一時倒れる騒ぎになった。

    3

 数学の研究は一向に進まないまま、楓はいつもより長く河原を散歩していた。意識の奥で潜った数学の迷宮は、以前に比べてどこかよそよそしく、彼女を拒否しているような気さえした。「世間に媚を売っているだろう」と後ろ指を差された気がした。ちがう。私は「正解」がほしいの。

 気がつくと楓は、川沿いに下流へ下流へと歩いたまま、見知らぬところまで来ていた。雑草の生えた小さなグラウンドで、少年たちがサッカーをしていて、大きくミスキックしたサッカーボールが彼女めがけて飛んできた。
「危ない! よけて!」と蹴った子供は叫んだ。
 楓は迫り来るサッカーボールを冷静に見ると、ただ一歩下がった。向かってくるボールに下がっても無駄だ、と誰もが思った瞬間、左回転のかかったボールが彼女をかすめてよけた。
「スゲエ! 何で見切れたの?」
 集まった子供たちに彼女は解説した。
「左回転がかかってるのが見えたからね。二次曲線に挙動が従うと予測したわけ。接線と垂直方向によければ……」
「???」
「えっと、算数好き?」
「いいや……」というニュアンスになった子供たちに、彼女は一応解説した。
「高校で習う二次曲線でこの謎が解けるようになるわよ。元々戦争のとき、戦艦から発射された大砲が、相手に打つ前に当たるかどうかの計算をしたのよ」
「打つ前に分るの?」
「打つ前に当たるかどうかなんて、分るわけないじゃん!」と子供たちは素直に言う。
「それが分るのよ」
「なんで?」
「それが数学。月までロケットを飛ばすのだって、打ち上げる前に計算するの。同じ式で解けるわよ。今学校でやってる算数は、その基礎」
「算数スゲエ!」
 サッカー少年たちは目を輝かせた。そこに、遅れて走ってきた少年がいた。
「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」
 我らがてんぐ探偵、シンイチであった。


「妖怪『正解』ねえ」
 鏡で自分の肩に取り憑く、サーモンピンクに赤い星の「正解」を確認した楓は、不思議な気持ちだ。
「じゃ私は、『正解』の行動をしなければ気が済まない病気ってこと?」
「病気っていうか、心の症状というか」
「でもなあ。数学者って正解を探すのが仕事だからなあ」
 シンイチはひらめいて、彼女に言った。
「じゃさ、正解がひとつとは限らないことをするのはどう?」
「どういうこと?」
「お姉さんサッカー好き?」
「?」
「サッカーしてみると、それが体験できるんじゃない?」
「はい?」
 こうして、少年サッカー集団に、妙齢の女非常勤講師が一人混じることになった。サッカーなんていつ以来だろう。とりあえず軽く走りながら体を慣らす。パスが飛んできた。どうしていいか分らない。迷っているうちに、青いメガネのススムにボールを奪われた。またパスが来た。どうすればいいか分らない。

「不動金縛り!」と、シンイチが周囲に不動金縛りをかけ、時を止めた。
 時を止めたグラウンドの中で、楓とシンイチだけが動くことができる。シンイチが駆け寄ってきた。
「こういうときは足元じゃなくて、周りを見るんだ! ホラ、よく見て。そこにさっきボールを奪った、青いメガネマンのススムがいるだろ。あいつはすばしこくて奪うのが上手い。でもさ、ススムがこっちに来るってことは、そのスペースがあくだろ。それを予測して、左を見て」
 楓の左側には、体の大きな大吉が走りこんでいる。
「大吉にパスを出せば、あいつはそこに走りこんで局面が有利になる」
「なるほど、それが正解か」
「ちがうよ」
「えっ」
「右後ろを見て」
 右後方には、公次も走りこんでいる。
「公次はドリブルが得意だ。あいつにパスを出せば、ススムぐらいかわせる。その隙にお姉さんは空いたスペースに先に走って、公次からパスを貰うんだ」
「なるほど」
「でもパスを出さず、自分で走りこんでもいい」
「え? じゃどれが正解なのよ?」
「そんなの分んないよ」
「分らない?」
「分らない。同じ状況は二度とない。それがサッカーさ」
「じゃ、あることを選択して間違ってたらどうするの?」
「間違ったら間違ったときさ。またチャレンジすればいいんだ!」
「そうじゃなくて、法則とか、反省とか」
「そんなのはない。どれが正解かなんてない。成功すれば正解、間違ったらまたチャレンジ。それもサッカー」
「じゃ私、この場合どうすればいいのよ!」
「どれがしたい?」
「どうすべき?」
「ちがう。どれがしたい?」
「……」
 自分の今までの人生の考え方とはまるで違うフィールドで、楓はとまどった。しかしこれに慣れることが正解なのではないかと思った。
「……二番目で」
「グッドチョイス!」
 シンイチは不動金縛りを解いた。楓は公次にバックパスを出し、公次は得意のドリブルでススムを突破した。が、そのあと山崎に奪われてしまった。
 再びシンイチは、不動金縛りで時を止めた。
「失敗だったじゃない」と彼女は文句を言った。
「ススムはかわしたさ。グッジョブ」
「結果的に失敗だったわよ?」
「一回成功すれば成功。これはそういうゲームだよ」
 全てを理詰めで埋めてきた彼女にとって、これらの法則性が分らなかった。法則や構造さえ分れば、パズルだって数学の問題だって解ける。ひとつひとつピラミッドの石を積み、徐々に答えにたどり着く。そうやって彼女は生きてきた。
「みんなが正解を探して、みんなが成功したり失敗したりする。失敗が九割九分。でもそれは全部グッドチョイスなんだ」
「意味が分からない!」
「まあ、やりながら慣れようよ!」
 その後、何回か彼女にもボールが回ってきた。その度彼女は色々な選択肢を取り、そのどれもが失敗したように思えた。それでもシンイチは「グッドチョイス!」としか言わなかった。

 日が暮れてきた。今日はこれでおひらきだ。
「お姉さん、今日は良かったよ! サッカーの才能あるよ!」
 とシンイチは上機嫌だったが、楓には意味不明だった。
「どこがよ。ほとんど正解行動じゃなくて、失敗だったじゃない」
「だってサッカーには、テストみたいな正解はないもの」
「?」
「サッカーは、正解をつくり出すゲームなのさ!」
「……どういうこと?」
「どこを走ってもいい。何をしてもいい。パスしようが自分で行こうが、自分が囮になろうが主役を張ろうが、何をしてもいい。それらのひとつひとつがシュートに繋がれば、正解をつくり出したってこと!」
「そんなの、結果論じゃない」
「あはは、そうかもね。でもそれがクリエイティブプレイってことだと思うんだ」
「……随分と難しい言葉知ってるのね」
「担任の内村先生の受け売りだけどね!」
 汗を流したシンイチは笑った。随分とへんてこな少年だと楓は思った。
「どっちかというとね、数学ってのは、かくれんぼに近いのよ」
 と、楓は小学生にも分るようなたとえ話をしてみた。
「そこにある正解に、どうやってたどり着くかっていう……」
 シンイチはいたずらっぽく笑った。
「かくれんぼの必勝法、知ってる?」
「必勝法? 見つかりにくい所を探して……」
「ちがうよ。見つからないように、こっそり隠れる場所を移動するんだ!」
「そ、そんなの、反則よ!」
「反則じゃないよ。オレ、その名人だったんだ!」
「はあ?……」
「答え」はそこにじっとして動かないから意味がある。だから運命の人なのだ。そう思っていた彼女は、彼の「必勝法」に衝撃を受けた。動き続けるですって?
「サッカーも同じさ。動きながらやるんだ。アドリブとも言うんだって」
 シンイチの言葉で、楓は思い出した。
「今日、金曜日じゃない。ジャズのライブの日だった」
「ジャズ?」
「ジャズの演奏って……アドリブ、なんだってね」

    4

 金曜の夜のジャズ喫茶「エリック」は既に満席だった。先にバーボンをはじめていた後藤に楓は合流、シンイチはかくれみのを着て姿を隠した。
 今夜の主役、セクシーダイナマイツは、ドラムス、ベース、サックスの三人編成。客の調子を見ながら、彼らはスローな演奏の波を漕ぎ出した。
「ジャズ蘊蓄をひとつ聞きたいんだけど」と楓は後藤に尋ねた。
「何?」
「これ、アドリブでやってるの?」
「そうだよ」
「三人が勝手にやって、演奏になるの?」
「ランダムにやるんじゃなくて、コード進行が決まってるから、なんとかなるんだ。時々こいつらは転調が気まぐれなんで、ハラハラするけどね」
 ドラムスがリズムを変えてきた。聴衆の温度を上げにきたのだ。ベースはそれに合わせ、サックスは様子を見て音を止めた。ベースとドラムスの二人の掛け合いだ。勝負。リズムは段々早くなる。ベースがドラムスに花を持たせた。ドラムソロだ。嵐のようにリズムが上がり、全ての音の出るものを順番に叩き終えたその頂点に、サックスが入ってきた。聴衆は拍手だ。ベースはそれに合わせる。サックスがスローバラードへ転調した。ベースが乗った。ドラムスも合わせる。渾然一体となった三人と聴衆のグルーヴは、次の居場所を探してゆく。
「ああ。つくり出すって、こういうことか」
「どういうこと?」
「掛け合いなのねこれ。対話とかおしゃべりみたいに、これって三人が掛け合いをしてるのね」
「ほう。理解が早いじゃない」
 後藤は機嫌よくバーボンをあおった。今夜の彼らのセッションは切れに切れていた。
「でも、失敗することもあるよね?」
「その時はその時だ。会話もそうだろう? それもジャズさ」
 「それもサッカー」とシンイチも同じことを言っていた。彼らの掛け合いは何度も転調し、その度に音の色を変えた。聴衆の顔が全員見える小さなハコならではの、皆のノリの合ってゆく波。
 楓は、子供の頃のかくれんぼを思い出していた。必ずそこに答えがあることの安心感が、彼女は好きだったのかもしれない。それは「誰かに用意された答え」だ。世間での「正解」も、かくれんぼと同じだ。誰かに用意されたものをただ見つけるだけ。まさか隠れる場所を変えるなんて、彼女には思いもよらなかった。目の前のジャズメンも、「動きながら答えをつくっている」ように見えた。
 楓は想像の中で、一人でじっと隠れている。
 ふと横を見ると、シンイチが、塀のうしろ、屋根の上、滑り台の裏と、鬼をちょいちょい観察しながらこっそり動いていた。気づかない鬼のうしろから、ヘン顔をする余裕すらあった。クリエイティブプレイ、と彼は言った。楓は笑った。
「なんか、そっちの方が面白そう」
 そのとき、妖怪「正解」は楓の肩から外れた。
 演奏が終わった。満場の拍手だ。
「不動金縛り!」
 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
 妖怪「正解」は真っ二つに斬られ、炎の中に消えた。


 馬場さんたちの誘いを断り、目下の研究の考え事をしながら、楓はまた河原を下流まで歩き過ぎて、シンイチたちのサッカー集団と再会した。
「久しぶり! その後どう?」とシンイチは無邪気に尋ねた。
「数学者を一旦休んで、しばらく量子力学をやることにしたの」
「?」
「それがさ、元々の研究の突破に役立つかも知れないのよ。波動関数は収束するとは限らないからね! 存在は一意ではなく、確率関数が変動して……」
「?????」
「まあいいや。ちょっと変わったってこと。あ、算数の家庭教師、タダでやってあげてもいいわよ!」
「いいよ! サッカーのほうが楽しいよ!」
 シンイチは、苦手な算数の話題を逸らすために質問をした。
「ねえ、あの人とは? 結婚するの?」
「えっ。……その『答え』はまだ分らない。……でも」
「でも?」
 楓はひとつ思いついて笑った。
「動いてみる」


     てんぐ探偵只今参上
     次は何処の暗闇か

第三十三話 「何年先を見てる?」 妖怪「目先」登場


    1

     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る


 シンイチは、寝つきがいい方だ。心も体も健康優良児である。今夜も布団にネムカケと入って、すとんと眠りに落ちた。はずだった。ところが何故か今日は、夜中の一時に突然目覚めてしまったのだ。
「ん?」

 そこは知らない「闇の世界」だった。
 起き上がったシンイチは時計を見た。真夜中の一時。知らない時刻だ。自分の知らない時にも闇は続いていて、その中でひっそりと時は進んでいる。その感じが不思議だった。
 トイレに立ち、帰って来て布団に入っても寝つけなかった。ネムカケはその気配を感じ、目を覚ました。
「眠れんのか? シンイチ」
「うん。……オレの知らない間にも、闇の中で時刻は進んでいるんだね」
「ふむ。そうじゃな」
「ネムカケ。オレの知らない、闇を知りたい」
「深夜の散歩にでも出ようか。パトロールがてら」
 ネムカケの首輪に紐をつけ、誰かに見られたら「猫の散歩」だと言い訳が出来るように偽装し、シンイチは闇の中へと足を踏み出した。

 深夜の町は、普段小学生として接するとんび野町と、全く違う姿だった。
 そこは真っ暗で、誰もいなくて、何の音もしなかった。シンイチは遠野での修行中、夜の山を何度も経験したことがある。目には真っ暗闇だったが、夜行性の動物たちが沢山いて、案外うるさいものだ。天狗笑い(天狗の笑い声が夜中の山に響く)や天狗倒し(めりめりと木の倒れる音がするのだが、次の日そこへ行っても倒れた木などない)や天狗囃子(なぜか祭囃子が聞こえる)にも遭遇するし。
 都会の闇はしんとしている。中性子爆弾か何かが落ちて、全員が死んで全滅したゴーストタウンのようだった。動くものも何ひとつない。シンイチの足音だけが住宅街にこだまする。その音も、シンイチの視線も、その先の闇に吸い込まれそうであった。そのうち闇と自分の境が分らなくなってくる。自分が闇か、闇が自分か。
「……闇って、こういうことなのか」とシンイチは呟いた。
「どういうことじゃ?」
「何もないのに、そこに何かが満ちている気配がある」
「ほう」
「山の夜は、気配がそこら中にいるんだよね。でも町の闇は、静かなのに何かが満ちつつある気配がある。人の心の闇は、こういう所から生まれるのかな」
「奴らは一体どこから生まれるのかのう。湧き水みたいに、心の闇の湧く泉みたいのがあって、ポコポコ生まれているのかのう」
「ネムカケ。人間は、どこから生まれたの? 心は、どこから生まれたの?」
「難しい話をする。わしも、見たことのない位前の話じゃからな」
「妖怪『心の闇』は、心と同時に、こんな闇から生まれたの?」
「それなら、わしら妖怪連中も天狗たちも、大分前から知っておったことになるぞい。奴らが目立って来たのは、やはり近代以降じゃ。近代的自我の目覚めこそが、心の闇の目覚めかも知れぬのう」
 静かに眠る闇の中を、二人は取りとめもない話をしながら歩いた。闇の中で妖怪「心の闇」たちが欣喜雀躍しているのではないかとシンイチは想像したのだが、一匹も目撃しなくて期待外れだった。てんぐ探偵の活躍の成果だと、一応胸を張れるだろう。闇は思ったより乱雑でも猥雑でもなく、整理されていて静かだった。
 来たこともない路地に出た。あるいは昼間なら知っている所かも知れないが、夜のこの風景は、全くどこか分らなかった。脇道に、街灯もない暗い道があった。シンイチはその闇に惹かれるようにその先へ進んだ。しばらく行くと、闇の中にぽうっと灯り。誰もいない、小さな公園だった。
 そこで、「劇」が行われていた。

「パンとワインは、パンとワインだ。宝石ではない」
「しかし偉大なる王様。民たちは武装蜂起を企んで、既に準備を進めています。この宮殿に殺到し、この国の頂の首を刎ねに来る、恐るべき計画を立てているのです」
「シャルパンティエ。外套を持て。街へ出る」

 ジャージを着た二人の男が、「外人のふり」をしていた。
「外国の芝居だね」と、芝居好きのネムカケにシンイチはささやいた。
 一人は背筋のしゃんとした白いジャージの老人。一人は黒いジャージの若者。王と従者の芝居のようだ。老人が王、若者が従者かと思ったら配役が逆で、若者が王、老人が従者役を演じている。面白そうだと思ったシンイチは、木陰からこれを見ることにした。

「ヨーロッパの山々は、全て禿山になってしまった」と、若い王は呟いた。
 従者の老人は、急に従者の顔から険しい顔になった。
「……ダメですか?」と王から若者の顔になり、彼は尋ねた。
「もう一回」
「ハイ。……ヨーロッパの山々は、全て禿山になってしまった」と、若い王は違う調子で言った。
「違う」
「ヨーロッパの山々は……」
「もう一回」
「ヨーロッ……」
「違う」
「ヨ」
「違う。もう一度最初の台詞と繋げて」
「パンとワインは、パンとワインだ。ヨーロッパの山々は、全て禿山になってしまった」
「もう一回」
「ヨーロッパの……」
「もう! 全然進まないじゃん!」
 シンイチは思わず叫んでしまった。二人は、猫と少年が観客になっていることに気づいておらず、この声ではじめて振り返った。
「これはこれは。小さな観客が見ていたとは!」
 と老人は優しい顔になった。
「さっきから同じ所ばかりじゃん! 王様はそれからどうなるの!」
「ははは。これは劇の稽古だからな。多分、今日はここから進まんぞ」
 王役の若者は、その言葉を聞いて今夜の苦行を覚悟した。
「なあんだ。つまんねえの!」
「ははは。続きが見たかったら、こいつが上手くなるまで待ってくれ」
「……スイマセン」
 若手が謝った。
「お前が上手く言えないから、先に進めんのだぞ」
「……スイマセン」
「ということで小さな観客よ。残念ながら、続きは来週以降にもちこしだ」
「おじさんたち、ここでいつも稽古してるの?」
「ごめん。近所の子か。うるさかったかな」
「ううん。オレ、こんな真夜中に出歩くのはじめてでさ。珍しくて興奮してるんだ!」
「分るぞ。死んだ街みたいで、真夜中は面白いだろ」
「うん!」
「じゃあ稽古を続けていいかな。わしらは大体毎週火曜の深夜にいるから、続きを見に来てくれ」
「わかった!」
「じゃ、やるか」
「……ヨーロッパの山々は、全て禿山になってしまった」
 へんてこな二人組だった。別に禿げてもないのに、ずっと同じ台詞ばかり。

 ところが、次の日の夜テレビの映画を見て、シンイチはびっくりすることになる。
「あれ? このじいさん!」
 同じく見ていた母の和代がきいた。
「ハチカンがどうしたの?」
「ハチカン?」
八ヶ瀬(やつがせ)(ひろし)って、往年の大スターよ。昔カッコよかったわあ……って、シンイチはまだ生まれてないか。映画一本のギャラが一億って言われる、超大スターじゃないの」
「へえええええ!」
「すっかりおじいちゃんだけど、まだまだオーラあるわよねえ」
 そんな大スターがえらく庶民的なジャージを着て、えらく地味な稽古をしていたことに、シンイチは親近感を持った。うっかり母に漏らしてしまいそうだったけど、もう一度会いたいから秘密にしておくことにした。
 一週間後の火曜の夜、シンイチは興奮して眠れなかった。しかし無理矢理寝て、深夜一時に起きることに成功した。
「ネムカケ、行こうよあの公園!」

 闇の中を少年と猫は急ぐ。しかしあの公園にたどり着いても、誰もいなかった。
「あれえ? ……たしか、ここだったよな……?」
 あの劇は、一瞬の幻のようだった。劇の灯りの消えた公園は、ただの誰もいない場所だ。その場所は特別と思ったのに、他の場所と区別がつかなかった。記憶だけが、そこを特別な場所にする。
「……こないだは、夢見てたの? オレ?」
「わしもいたから夢じゃなかったぞい」とネムカケは答える。
「世紀の大スターハチカンがジャージで公園で稽古、なんて言ったってさ、誰にも信じてもらえないだろうね」
「しかしワシも気づかぬとは、やられたわ。TVより随分痩せてるんじゃな。メイクをしないと、あんなシワシワのじいさんなんじゃのう」
 仕方なくシンイチは、周囲の深夜パトロールをして家に帰ることにした。
 二人が今夜来なかったのには理由があった。彼らの所属する芸能事務所「フォレスト・スタアズ」が一大事だったのだ。新しく就任した社長の方針が、皆の堪え難いもので、深夜の稽古どころではなかったのである。
シンイチはまだ知らない。この新社長に、妖怪「心の闇」が取り憑いていることを。

    2

 老舗の大手芸能事務所「フォレスト・スタアズ」は、長年あった恵比寿の事務所から、東北沢の住宅街へと移転した。先代の森社長が亡くなり、社長が変わって引越したのだ。
 新社長津山(つやま)譲治(じょうじ)は、先代社長の息子の知り合いで、経営の敏腕という触れ込みであった。事務所を引越してパーティまでやるのはパフォーマンスがかっていたが、それでも事務所のメンバーには期待の方が大きかった。
 しかし新事務所で発表された津山の新方針は、所属するスタア達にも、長年やって来たマネージャー達にも、承服しがたいものだったのだ。

「四半期で売り上げを増やします。その為には、皆さんにちょっと出演ギャラを下げてもらいます」
「バーゲンセールでもやれというのかね?」
 と、事務所の中でも最古参の八ヶ瀬寛、ハチカンが言った。
「いやいやいや、こんな時代でしょう? 不景気の制作さんの負担を減らして、制作費が少ない作品に協力しましょうよってことです。忘れられるより、実力ある皆さんが皆の目に触れてる方がいいでしょう?」
「まあ、仕事のない人と思われるより良いけどよう」
 と、ハチカンの隣の古参、いぶし銀スタアの星野(ほしの)勘吉(かんきち)が言った。
 津山はやんわりとハチカンに言う。
「御大も一本一億とか言ってないで、ちょっとは割り引いて下さいよ」
「わしが決めたギャラではないよ。わしは金でなく、脚本(ホン)で受けるかどうか決める」
「じゃあギャラ交渉は任せてもらって良いですか?」
「うむ」
 ここまでは良くある、現代的な合理化されたやり取りである。皆が承服しかねたのは、このあとだ。
「事務所をスリム化します。不採算部門を縮小します。つまり、ヤング部を解散とします」
「なんだって?」
 ハチカンも星野も、事務所の稼ぎ頭の谷原(たにはら)(おさむ)古川(こがわ)由美(ゆみ)も顔をしかめた。谷原が言った。
「若手は全員クビってこと? なんで? 稼いでないから?」
「そうです」
「私たちが稼いで、その分食わせてあげてるのに?」と古川も反論する。
「それはそうですけどね。遡って調べましたが、ここ七年ほど、ヤング部からスタア部へ移れるほど稼いだ者が出ていない。三十越えて芽も出ず、ヤングはないんじゃないかと」
「しかし、儂らの跡を継いで貰わなければ困る。事務所はそうやってゆっくり回転するんだ」とハチカンが言う。
「七年芽が出ないままの事務所の経営の方が困りますよ。採算ってものがあります」
「ヤング部を全員切るのか」と勘吉が心配した。
「三十代以上にまずは限定します」
「まずは、というと」
「この四半期で様子を見ます。結果が出なければその先も考えます」
「四半期って、三ヶ月ですぐに売れるかどうか決まる訳ないだろう」
「会社経営は、四半期単位でものを見るので」
 ハチカンも勘吉も谷原も古川も、その他古株も全員が反対した。長期的に育て、使えるようになってから徐々に譲っていく。波のある才能を、みんなで乗り切る。役者人生とは、才能とはそういうものだろと。
「そういう時代じゃないんじゃないですかね。売れてる人で稼いで、売れてる人をヘッドハントするほうが合理的だ。リスクを抱えるのは前時代的です」
 と津山新社長は言った。
「それじゃ人を育てられんだろ」とハチカンは言う。
「? 育てるなんて四半期単位では無理でしょ。育てること自体が、合理的じゃない」
「それじゃ俳優事務所でも何でもない」と谷原が言う。
「ここは養成所じゃない。エージェントだ。利潤追求が会社でしょう」
「会社である前に、ここは、人生を俳優に賭ける者の集う場所だろ!」
 津山と勘吉が喧嘩寸前になったが、ハチカンが年寄りらしくなだめた。

 若手を切る。その方針に従い、三十以上のヤング部の面々が、津山社長の元に集められた。その中に、公園で王様役を練習していた若手、黒いジャージの吉沢(よしざわ)ヤスシも入っていた。
 ヤスシは「若手」とはいえ今年三十一だ。舞台役者としては端役止まりで、テレビではセリフを貰ったことがない。演技が下手という訳ではないが、スター性がある訳でもない。芸能界で「特に目立つ存在ではない」ことは、売れないことと同じだ。
 この宣言は事実上のリストラである。吉沢は、ついにこの日が来たのかと、目の前の過ぎゆく現実を眺めていた。死刑宣告を受けたも同然だ。なんにもしていないのに死刑か。いや、なにもしてなかったからこそ、死刑なのか。命の宣告を受けた患者は、このようなどうでもいい感覚になるのだろうか。ヤスシは他人事のように冷静だった。

 次の火曜日、シンイチはまたも深夜一時にぱっちりと目覚め、ネムカケを連れ、闇を抜けて公園へ向かった。
 が、公園には黒いジャージのヤスシが一人、立ち稽古をしているだけだった。
「アレ? 一人?」とシンイチはがっかりした。
「あ、今、『下手な方しかいねえのか』って思ったろ」
「えっ、何でばれたの?」
「顔に出過ぎだよ」
「スイマセン」
「実際、下手な方だからなんも言えねえわ。『上手い方の人』は、今日はバラエティの収録だな。長引いてるらしいから、今日は来れないかもね」
「なーんだ」
「ハチカンさんに会いたかった?」
「オレ、ハチカンさんって知らなくてさ!」
「? キミはスタア目当てじゃないの?」
「こないだ映画見て、ようやくあのじいさんとハチカンが一致してさ! オレはただあのじいさんが、感じ良かったから、また会いたいと思っただけ!」
「そうなのか。……流石観客を大事にするお人柄だわ」
「ね、あの台詞、もっかいやってよ!」
「なんで?」
「オレ、あの台詞が何でダメだったか、分んなかったもん」
「そうか。……実は俺もだ」
「そうなの?」
「何がダメなのか……。『ヨーロッパの山々は、全て禿山になってしまった』……。俺の方が先に禿になっちゃうよ」
 シンイチは笑った。
 そこへタクシーがやって来た。白いジャージを着たハチカンを、津山社長が送ってきたのだ。
「ハチカンさん、気持ちは分りますけどね、明日朝五時からドラマ撮影ですよ! 分ってます?」
「今日の仕事は終わったろ? 明日の五時まではオフだろう? どう使おうが俺の勝手だろ! じゃ明日朝五時な!」
 タクシーに津山を押し込め、ハチカンは手足をぐるぐる回して体をほぐしながらやって来た。
「全く人使いが荒くて困るわ! おっ、こないだの小さなお客さま!」
 とハチカンは敬礼しておどけてみせた。
「今の人、マネージャーさん?」とシンイチは尋ねた。
「ウチの事務所の新社長の津山だ。全く嫌な奴だ」
「……嫌な奴なのは、その人のせいじゃないかも」
「?」
「妖怪『心の闇』に取り憑かれてた」
「はい?」
「妖怪……『目先』に」
「目先?」とハチカンは驚いた。
「うん。目先のことしか考えられなくなる」
「……思い当たる節は、ありまくりだな」

    3

 妖怪「目先」は、水色の出目金のような姿で、唇は分厚い紫色だ。出目金みたいな半魚人顔で、目が飛び出ている。シンイチはその姿を説明してみせた。
「はっはっはっ。『目が先』みたいな形をしている、というわけだな?」
 説明を聞いてハチカンは笑った。
「どうも変だと思っていたんだ。むしろ妖怪のせいと言われた方が納得が行くわ。このヤスシほか、ヤング部がリストラされる。それは、植物の根を切ってしまうようなものだよ」
 ヤスシとハチカンは、事務所がおかしくなってしまったこ