北限の妻
北の方角に湖がある。
その湖を越えるとキミは塵となる。からだが粉々になって、消滅する。
キミはそういう体質であるそうだが、ぼくはそういう体質ではないので、北の湖を越えても消滅しない。だから北の湖を船で渡って、夜、クラブに行ったりする。北の湖の向こうには眠らない街がある。夜でも昼のように明るく、大勢のヒトがひしめきあうネオンの下を行き交い、くたびれたおじさんや、みじかいスカートのお姉さんや、渋柿みたいなおばさんや、馬鹿みたいに声がでかい若者がうようよしている。ぼくはクラブなど騒々しくて好きではないのだが、仕方ない。仕事でのおつき合いであるから、仕方あるまい。
北の湖には古生物が棲息しており、キミはそれを観察しながら暮らしている。
お気に入りはダンクレオステウスである。大きくて堅くて、凶暴な奴である。岸からはあまりお目にかかれないが、その方がよろしい。キミなど一口で喰われるにちがいない。
「ぜんぜん、喰われたっていいの。塵になるくらいなら、ダンクレオステウスの一部になるわ」
ぼくはからだが塵となって消滅するのも、古生物にぼろぼろに噛み千切られ消化されるのも、どちらもごめんだと思った。
日夜、暇さえあれば古生物を観察しているキミの前を、湖を越えた先の眠らない街目指して年若い者たちが、おじさんが、おばさんが、おじいさんが、おばあさんが、船に乗り込んでいく。このあたりではキミだけが、北の湖を越えることができない。湖を越えることでキミだけが塵となり、粉々になって消滅する。
嗚呼。なんて悲しい生き物なのだろうか、キミ。
空気が悪く、がちゃがちゃとうるさく、きらびやかで下品な老若男女がからだをいやらしく絡ませ踊り狂う光景を、キミは知らないままで一生を終える。北の湖を越えた先にある眠らない街に、野良猫が群棲している無人の集落に、一年中雪が降り続ける森林に、キミは幾許かの憧憬を抱えながら、気まぐれにしか姿を現さないダンクレオステウスを待っている。
孤独なキミ。
おとうさんはいない。おかあさんも。
キミの両親は塵となった。
北の湖を船で渡った先の桟橋で、三年前に。
「わたしは孤独じゃないよ。だってあなたがいるじゃない。ダンクレオステウスも」
そう。
ぼくはキミの夫であるが、古生物と同列に並べられるような夫である。
仕事のあと真っ直ぐ家に帰らず、キミの行くことのできない眠らない街で呑んで食って、踊り狂っている。そのくせキミは、文句の一つも言わない。早く帰ってきてとは訴えない。淋しいとも泣かない。
お仕事のつき合いだから仕方ないよねと笑うばかりであるから、ぼくはときどき、キミを強引に船に乗せ、北の湖を渡ってやりたくなる。
キミがほんとうのほんとうに塵となり消滅するかどうか、試してみたくなる。
湖を渡っている最中にダンクレオステウスにでも襲われ喰われでもすれば、キミは本望であろう。ぼくは不本意であるが。
「ねェ、あなた、眠らない街は一時間で肺が黒くなるほど空気が悪いって、ほんとう?」
「さァ、どうだろう」
「向こうでは今、下着が見えそうなほどみじかいスカートが流行っているんですって?」
「さてね、どうだったかな」
「もうっ。教えてくれたっていいじゃない」と拗ねるキミが、愛らしくて煩わしいよ。
エディブルフラワーを散らしたチキンとひよこ豆のオーブン焼きが美味しい。キミが古生物を観察する片手間に焼いたカンパーニュも。
ぼくの妻が北の湖を越えると塵となり、消滅する体質であること。
ぼくはやっぱりキミを船に乗せて、北の湖の向こうへ連れて行ってみたいと思う。それは憐憫を欠いたものであるが、無意識の中から芽吹いた純然たる好奇心だ。抗うことのできない衝動だ。ぼくはキミが好きである。好きであるが故に、キミを、ダンクレオステウスの一部になどさせる気はない。しかし、塵と化すならどうだ。
美しいキミが塵となった瞬間、眠らない街でダイヤモンドダストが見られるかもしれない。
なんて。
ぼくこそ消滅した方がいい。キミのために。
北限の妻