21時30分から、21時38分まで
一生、悪夢しか見ない呪いをかけられたことがあるとキミは言いながら、ビールを飲んでいる。ぼくは枝豆をつまんで、ジョッキのビールがだくだくとキミの中に流れこんでいく様子に、じいっと見惚れている。
21時と、30分のこと。
どこからともなく、たばこの煙が漂ってくる。耳馴染みのある、クラシック音楽と共に。
一生、悪夢しか見ない呪いをかけたのは、近所に住んでいたおばあさんなのだと、キミは語る。おばあさんは、だんなさんを早くに亡くし、子どもたちは成人して家を出たものだから、ひとりで暮らしていたそうである。三十年間。いつも黒いワンピースを着ていたために、ご近所さんからは“魔女”と呼ばれていたそうだ。おばあさんは、占い師だった。だんなさんは、風水師だった。らしい。あれ、手品師だったかな。キミが首をかしげる。どちらでも、かまわない。
ぼくは枝豆を食べるのをやめて、ワイングラスに口をつける。赤ワイン。マスターのおすすめだそうだが、スーパーマーケットや、コンビニエンス・ストアで販売している安価なワインとのちがいが、ぼくにはまるでわからない。ざんねんだが。静々とグラスを磨きながらも、ワインに対する何らかの反応をマスターが期待していることはありありとわかるので、ちょっと気まずい。気まずいので、一生、悪夢しか見ないというが、悪夢とはどういう内容なのか。ビールジョッキをマスターに返し、かわりにハイボールを注文したキミに、ぼくは問うた。
「水玉模様の男に、求愛される夢」
水玉模様の男。ぼくはワイングラスを持ったまま、つぶやいた。水玉模様の男、とは。
たばこの煙がもくもくと、押し寄せてくる。うしろのテーブル席にいる三人の女性が、それぞれたばこを吸っている。三人とも、髪が肩よりも長い。分け目の位置も、ひどく似ている。三人のうち、誰か一人くらいショートカットでもいいのでは、なんて、余計なことを考える。
「からだが水玉模様なの。洋服じゃなくて、肌にね、水玉模様が入っているわけよ。肌の色は限りなく白に近くて、水玉は赤。ときどき、ピンク。まれに黒。三十代前半くらいの男。薔薇の花束を持って、追っかけてくる」
ひゃあ、それは怖いね。
なんて、大げさに怖がってみるけれど、“からだに水玉模様が入っている男”の背格好や容姿が具体的に頭に思い描けないので、然して怖いとも感じない。それよりも、ぼくは、マスターの視線の方がおそろしい。マスターはじっと、ワインの感想を待っているのだ。夢の中の水玉男よりも、今は現実のワインマスターである。
「わたしがおばあさんの家の生垣に咲いていた花を、勝手に摘んだのがいけなかったんだけど。ほら、子どもの頃ってあれじゃない。道ばたに咲いている花も、公園の花壇に咲いている花も、誰かの家の生垣に咲いている花も、きれいな花ならば摘んでみたくなるものじゃない、子どもって」
と、キミは自嘲の笑みを浮かべた。一生、悪夢しか見ない呪いをかけられたのは自業自得であると、そういう諦めも含まれている笑みだった。うしろのテーブル席にいる三人の女性の笑い声と、たばこの煙と、マスターの視線と、よくわからないワインの香りと、聴いたことはあるけれど題名を知らないクラシック音楽が渦巻いて、ぼくを飲み込んでいく。21時と、38分のこと。
ぼくまで一生、悪夢しか見ない呪いをかけられている。そんな心地。
21時30分から、21時38分まで