滝壺生活

滝壺生活

 どどどどどどどどどど。滝壺から放たれる轟音を、男の耳はすっかり聞き慣れている。もはや無音と大差ない。自分の体臭に気付きにくいのと同じに、あるいは不幸や孤独が日常の中に埋没していくように、人は同じ刺激を受け続けるとやがてそれを刺激とも感じなくなる。まこと便利にできているものだ。
 男が上体を右に大きく傾ける。その動作は、体操のようにも見えるし、世界への疑問を全身で表現しているようにも見える。しかし、彼はただ滝の上を見上げようとしているに過ぎない。
 便宜上、彼を「蓮太郎」と名付ける。



○ 椅子

 どぼんと落ちてぷかりと浮かび上がったものは、椅子であった。
 椅子が目の前まで流れてきた時、蓮太郎はその足の一本をつかんで、ぐいっと岸辺に引き上げた。軽い。ラタン製である。
 乾くのを待ち切れず、腰掛けてみる。背もたれに丸みがあってとても具合がいい。肘掛けの高さも丁度いい。
 これは素晴らしいものが手に入った……と、蓮太郎は一人で頷いた。今まではずっと草の上に座っていたのである。一休みするぐらいなら草の上も悪いものではないが、じっとそこに居続けるとなると、湿気や虫と無縁ではいられない。
 今までの環境との比較を抜きにしても、それは優れた椅子であった。蓮太郎は一度椅子から降り、数歩離れ、改めて椅子を眺めた。飾り気なし。シートも含め全てラタン製。全体的に丸っこい形をしている。まるでオーダーメイドのようだ……と満足して、蓮太郎は再び椅子に座る。家具屋の店頭に百個の椅子が並んでいても、きっと自分はこれを選ぶだろう。
 椅子に体重を預けながら、蓮太郎は職人に敬意を払う。
 ゆりかごから墓場まで、遥か祖先から恐らく未来永劫、人は必ず座る。一日、あるいは一生のうちに、どれだけの時間を座って過ごすだろう。目覚めていて、立ったり歩いたりする必要のない時、我々は座る。臀部で体を支える。すなわち、椅子の品質は生活の質に直結するものと言える。
 文化や職種にもよるだろう。バッキンガム宮殿の正門で何時間もじっと立ち続ける番兵にとっては、椅子はさほど大切なものではないかも知れない。だが、月に二十本も〆切を抱える人気作家や、そんな人気作家を目指す素人作家にとって、椅子はもう体の一部だ。人座一体。ケンタウルスの下半身。
 蓮太郎も一日のほとんどの時間、滝から何か落ちてくるのを待つことに費やしている。座るところの良し悪しがものを言う生活だ。体に合う椅子が来てくれて本当に良かったと心から思う。
 ただ、蓮太郎は今まで、椅子を欲していたわけではなかった。椅子が現れて初めて椅子の大切さに気付いたのである――この順序は今後も極力守られるべきと思われる。よって、蓮太郎は何も求めない。期待しない。一本の樹が、陽の光も恵みの雨もカラスの糞もキツツキの嘴も稲妻も呪いの五寸釘もドライアドの祝福もくだらない戦争で落とされた爆弾の破片も、全てを受け入れるように、来たものは拒まない。
 蓮太郎は目を閉じて、世界中の椅子職人に感謝を捧げる。バッキンガム宮殿の番兵も、一日の仕事を終えた後は、暖かい暖炉の前でお気に入りの椅子に座って、猫をなでたりチェーホフを読んだりするのが好きなのかも知れないのだ。



○ ロバ

 痩せた灰色のロバであった。
 ロバは怠惰そうに岸に上がると、ぶるぶると全身を震わせた。水滴が蓮太郎にふりかかる。しかし蓮太郎はとにかく全てを受け入れる。
 あらゆる生命は決して人間の為に存在するわけではない――ということを踏まえた上で、敢えて家畜として見た時、ロバはあまり有用な動物ではない。まず、食用には適さない。人を乗せたり荷を運んだりすることはできるが、ウマに比べると体格・従順さ共に劣る。ウマより優れているのは、粗食でも大丈夫ということぐらいである。中国では「見掛け倒し」、西洋では「愚か者」の象徴とされる。
 有名な油彩画『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』で、ナポレオンは白馬に乗ってびしっとポーズを決めている。本当はロバに乗ってとことことアルプスを越えたのだが、ロバなんぞでは格好がつかない、英雄に見えないと判断されたのだ。当時ナポレオンを乗せたロバはどれほど無念だったろう! もしやロバの性格が一般的に従順でないのは、絵から外された恨みが遺伝子に刻み込まれている所為ではあるまいか。
 そんな、ただでさえ不憫な動物なわけだが、落ちてきたロバは、尻尾の付け根が少し右に曲がっている。いや、「少し」ではない。一瞥してわかるぐらいはっきりと曲がっている。
 蓮太郎の視線に気づいたのか、ロバは尻尾を隠すように体の向きを変えた。どうやら彼(彼女? 不明だが、面倒なのでオスということにしておく)は結構気にしているらしい。
 じろじろ見て悪かった。そう思った蓮太郎は、ロバに「ごめんね」と言った。
 ロバは「んひんひんひ」と甲高い声で鳴いた。
 怒っているのか許してくれたのか、その鳴き声ではよくわからなかったが、その後ロバはどこかへ行ってしまうでなく、足元の草を食べ始めたので、少なくともすっかり嫌われてしまったわけではないようだ、と蓮太郎は思うことにした。



○ 旗

 広げてみると、およそ二メートル四方の大きな旗であった。「幕」でなく「旗」と断言できるのは、アルミ製のポールが付いているからである。ポールは旗の端から五十センチぐらいのところでぽきりと折れている。元はもっと長かったのだろう。
 使われている色は赤・白・黒。中央に方位磁石をデザイン化したものと思われるマークがあり、その上下に蓮太郎の知らない文字で何か書かれている。
 全体的に古びている。川を流れている間に傷んだというわけではあるまい。むしろ水にさらされたことで綺麗になったぐらいのものだろう。経年によるくすみやほつれがあり、ポールにはところどころ錆が浮いている。
 何故この旗は川に流されたのだろうか? と考えるなら椅子やロバだって不思議なのだが、背景が気になる時とそうでない時があるのだ。
 敵対する集団に折られ、奪われ、捨てられたのだろうか? そうとは考えにくい。もしそういうぶつかり合いがあったのなら、象徴たる旗は破られたり燃やされたりするはずだ。どこも傷つけずに「水に流して」もらえるとは思えない。
 鎮魂、供養。そんな気配がする。その集団は何らかの理由で終わりの時を迎えたのだ。ポールから取り外すのでなく、ポールを折ったのは、志半ばの無念の解散であることを示すものではないだろうか。そして、ナイル川に親族の遺体を流すように、儀式的に葬ったのだ。
 そうだとしたら、拾い上げず、このまま遥か彼方まで流してやった方がいいかも知れない。
 しかし……と、蓮太郎は現実的な視点に立って考える。貴重な一枚布だ。布団の代わりになる。支柱を四本立ててその上に張れば日よけになるだろう。いわゆるタープだ。どうやら撥水性のある素材のようだから、雨もしのげる。
 旗の意味は――もういくらか考えてしまったが――これ以上深く考えなければいい。詳しい事情を知らない者は自然物と同じである。岩などに引っかかったようなものだ。



○ 二倍のランプ

 いかにも魔人が出てきそうなランプである。
 こすらないわけにはいかない。
 こすってみた。
 魔人は出てこなかったが、声だけ聞こえてきた。
「やぁ、僕は『二倍のランプ』だよ」
 さっぱり意味がわからない。
「僕を拾うなんて君は凄くラッキーだ。なんたって、どんなもの一つだけでも『二倍』にできるんだからね」
「二倍……っていうのは?」
「だから、本当に何でもいいんだよ。あの滝を二本にすることもできるし、高さや幅を二倍にしてもいい。水温を二倍にすることもできる――ただぬるくなるだけだと思うけどね。ロバを二頭にしてもいいし、椅子の足を八本にしてもいいし、君の寿命を二倍にしてもいい。とにかく『零』でないものなら何でもOK」
「じゃあ、このランプを二個に……」
「できるよ」
「できるの? 反則じゃないんだ?」
「できるけど、いいの? 二倍にした瞬間に僕は『使用済み』になるから、使えないランプが二個になるだけだよ」
「そうか。なるほど」納得である。「教えてくれてありがとう。君はいい奴だ」
「僕だって上手に使ってもらいたいからね」
「少し待ってもらってもいいかい?」
「もちろん。ゆっくり考えて」
「ありがとう」
 これは面白いものが手に入った。さて、何を二倍にするのがいいだろうか。
「あ、そうだ。こんなのはどうだろう?」と、ランプが提案してきた。「世界中のみんなの『幸せ』を二倍にすることもできるよ。素敵な使い方だと思わないかい?」
 それは……「うーん、やめておくよ」
「どうして?」
「零は二倍にできないんだよね。だったら、ちっとも幸せにならない人がきっといっぱいいる」
「そうなのかなあ。君は今不幸なの?」
「そんなこともないけど」
「ふうん」と言って、ランプは考え込むかのように静かになった。



○ 本音

 蓮太郎はしばしの間「本音」の奔流に襲われた。それは頭の中に直接響いてきた。
「うわ、気持ち悪」
「絶対バレないし」
「黙っときゃわかんないって絶対」
「アタマ悪い奴っているんだな」
「死ね。って声に出して言わない分リアルに死ねって思ってる」
「その話五度目」
「いつまでも長生きすんじゃねぇよババア」
「大人しくヤラしてくれりゃデビューさせてやったのに」
「デブに用はない」
「全ッ然感じてませんけど」
「学歴低い奴って結局バカ」
「親は悲しむって言うけど死んでも親にしか悲しんでもらえないなんて超かわいそう」
「血を分けた息子だが本当に殺したい」
「ゲロマズ。豚の餌かこれ」
「ああこの人本当に自分のことかわいいって信じ切ってるんだな」
「ガンガン脅かさなきゃ奴らは吐かねーんだよ。冤罪? 知るかよ」
「それどうでもいいです」
「臭ぇんだよジジイ」
「あなたのこと好きになる人なんてきっと永遠に現れない」
「あいつが死んだのはみんなのせいであって俺一人が負わされる責任は大したことない」
「眠い。本当につまんない。眠い」
「女の社会進出こそが国家を衰退させている」
「俺たちが売れないのって百%お前のせい」
「何一つ反省していません。被害者にも遺族にも悪かったとは思いません。私はあなた方とは違う枠組みの中にいるのです」
「あはは、信じてやんのこいつ。ちょろいちょろい」
「一応こう言っといた方がいいんだろうな」
「子供、嫌い。うるさい」
「さっさと死にてー笑笑笑笑笑笑笑」
「こいつのこと全然好きとか思わねーんだけど恋人いねーと株下がるし」
「一般家庭がどれだけ節電しても何の意味もありませんけどね」
「びっくりするほど全然悲しくないけど一応泣いとかなきゃ」
 ――音が徐々に小さくなっていく中、心温まるような本音が一つでもないものかと、蓮太郎は注意深く耳を傾けていた。残念ながらそんなものは一つたりとも聞き取れなかった。現実はパンドラの箱よりもよほど残酷なのであった。



○ 変な仏像

 高さは十五センチほど。木彫りの小さな仏像である。
 手に取った時、違和感があった。
 一見するとごく普通の、いやむしろ非常に精緻で美しい弥勒菩薩半跏思惟像である。今にも動き出しそうな指、汚れを知らぬ少年のような胸、衣の襞の滑らかさ。
 蓮太郎は仏像をじっと見つめた。この違和感の正体は何だ? 何か霊的な力でも宿っているのか?
 幾許かの観察の末、蓮太郎は答えに辿り着いた。表情だ。ほんの少し「笑い過ぎ」なのである。「微笑み」と「半笑い」の違いが巧みに表現されている。
 思惟の最中、何か物凄く面白いことを思い出したか言われたかして、必死で笑いをこらえている――そんな口もとだ。もう一押しされたら「ぷっ」と吹き出すに違いない。
 あまりありがたみのない変な仏像だったが、とりあえず持っておくことにした。



○ 都会人

「ドライヤーを貸してくれまいか」と、男は言った。
 男は瀟洒な背広を着ている。本当はさぞパリッとしているのだろうけれど今はずぶ濡れである。頭にはシルクハット。滝から落ちる時は飛ばないように手で押さえていたのだろう。
「ドライヤーはないのかね」と、男は重ねて言った。
 蓮太郎は、男がびしょ濡れの白いハンカチで自分の顔を拭っているのに見とれて、返事をし忘れていたのであった。ハンカチを絞るという発想はないらしい。拭いても拭きとれないどころか、むしろ余計に濡れている。しかし動作はあくまでも優雅。その様は一枚の風刺画のようであった。
「ドライヤーはありません」と蓮太郎は言った。ドライヤーなどないことは一目瞭然ではないかと思ったが、そうは言わなかった。
「ドライヤーがないだと?」と、男は心から意外そうに言った。「まぁ、ないものは仕方ない。では、ここから一番近い量販店はどこかね?」
「りょうはんてん?」
「たくさんの品物を売っている店さ。そこにドライヤーもあるはずだ」
「店……と呼べるようなものはこのあたりにはありません」見ればわかるだろうと思ったが、やはりそこまでは言わずにおいた。
「店がないだって?」と、男は目を丸くした。「とんでもないところに来てしまったようだ。ここはとんだ田舎だな……」
「お座りになりますか」と、蓮太郎は椅子をすすめた。何もないところだと思われるのが少々癪だったのである。
「どうもご親切に。では遠慮なく」と、男は椅子に腰かけた。
「これはいい椅子だ!」という声を蓮太郎は期待したが、男はやれやれといった顔をしているだけであった。
 ランプが言った。「椅子を二個にするかい?」
 それはなかなか悪くない考えだが。「いや、大丈夫だよ」
「でも、二個にしたら君も座れるよ」
「この椅子は一個きりの方がいいと思うんだ」
「そうなのかい?」と、ランプは残念そうに言った。
 男が言った。「しばらくここで待たせてもらってもいいかね」
 ランプが喋ったことについては特に気にしていないようだ。
「構いませんけれど、何を待つのですか?」
「タクシーが通りかかるのをね」
 一瞬の沈黙の後、「んひんひんひ」とロバが鳴いた。
「タクシーは通らないと思います」
「タクシーが通らないだって?」叫びながら男は立ち上がった。「恐ろしい。ここは魔境か? 一刻も早く脱出しなければ。電話を貸してくれたまえ」
「電話はありません」見ればわかるはずだが、彼は一切見ない(、、、)のだ。
「電話がない? じゃあ一体どうやってタクシーを呼ぶんだ?」
 蓮太郎は地面に広げた旗を指さして「それを振ってみますか?」と言った。
 男は頭を振りながら「いやいや、ヘリコプターを呼びたいわけじゃないんだ」と言い、がっくりとうなだれた。
「君はこんなところにいて、不便ではないのかね?」
「便利だとは思いませんが、特に不便とも思いません」
「そうか……」
 男は自分の口もとに拳を当て、何事かぶつぶつと呟きながら、川に近づいていった。
「世話になったね」
「いえ、何のおかまいもできず」
「そんなことはない。椅子に座らせてくれた。なかなかの座り心地だった」
 男は椅子の良さを理解していたのだ。蓮太郎は嬉しくなった。
「この礼はいつか必ず」と言って、男はどぼんと川に身を投げた。
 川を流れてゆく男に向かって、蓮太郎はしばらく手を振り続けた。



○ ちゃぶ台

 直径一メートルほどの茶色い円盤が流れてきた。拾い上げると、折り畳み式の足が四本ついていた。
 立ててみた。いわゆるちゃぶ台であった。
 椅子に対して、ちゃぶ台は低過ぎる。組み合わせは成り立たない。しかし無理に組み合わせることもない。
「二倍にする?」と、ランプが言った。
「いや、いいよ。今のところ乗せたいものもないし、二つあってもね」
「二個にするんじゃないよ。高さを二倍にしたらきっと椅子にちょうどいいよ」
「ああ、なるほど」と納得しかけたが、結局断った。
 それから蓮太郎は、何となくずっと手に持ち続けていたランプを、ちゃぶ台の上に置いた。



○ りんご

 一口かじると、気分がスッキリとした。
 もう一口かじると、急に視界が開けたような感じがした。
 さらにもう一口かじると、頭の中で光が弾けて、数え切れないほどのことが明らかになった。
 ケプラーが星々の運動を真円で説明する為にどれほどの努力をしたか。すなわち、彼がどれほど神を愛していたか。
 アレクサンドリア図書館の風通しのいい中庭で行われるわずか半日の討論が、二千三百年後に某先進国で学生が受ける四年分の講義より遥かに充実していること。
 ウミガメが涙を流すのは眼球の乾燥を防ぐ為でなく、子供たちを待ち受ける過酷な試練を思ってのものであること。
 点Pは何の為に辺ABを往復するか。
 世界大戦の責任は誰と誰と誰にあり、そのうち誰と誰と誰が正当な裁きを受けずに生き延びたか。
 ラスコーリニコフに自首を決意させた決定的な要因は何だったか。
 飛魚のアーチをくぐって宝島に着いた頃、お姫様が誰と腰を振っていたか。
 今後予定されているたくさんの悲劇を防ぐ為の正しい行動とその期限、成功する確率。
 瞬く間にあらゆることを蓮太郎は理解した。ベータエンドルフィンが力強いドルフィンキックで脳髄の海を泳ぎ回っている。
 全てを把握し、高速で正確な計算と検算の末に導き出した結論は、この頭脳のまま生き続けるのは辛過ぎるということだった。
 覚悟が足りていなかった。
 ただちに覚悟を決める胆力もなかった。
 受け止める器がなければ、知恵は猛毒である。
 蓮太郎は素早く喉の奥に指を突っ込むと、川の流れにりんごを吐き出した。



○ ヌシ

 滝壺で一際爽快な水飛沫が上がった。
 その時蓮太郎の視線はじっと滝に注がれていたが、何かが落ちたようには見えなかった。しかしあれだけ大きな音がしたからには何か落ちたのだろう。
 しばらく待ってみる。が、落ちたはずの何かは流れてこない。
 目を凝らすと、滝壺のすぐ近くの水中で、黒い影が動いているのが見えた。魚影だ。
 蓮太郎の目は釘付けになった。単に体が大きいというだけではない。往年の名優のように、ただそこに存在するだけで、引力が発生している。
 魚に魅了されるなど初めての経験だった。それも全貌を見たわけではないのだ。朧な魚影であるにも関わらず、有象無象との違いは明らかである。
 あれは「ヌシ」だ、と蓮太郎は確信した。訪れて数秒で、滝壺周辺の水域、いや、水上の空間をも支配した。稀に見る統治者の貫禄。覇者の威光。
 ヌシは、新しく手に入れた城を歩き回る王のように、ゆったりと泳いでいる。
 蓮太郎はその優雅な動きに見とれながら、ふと、次に落ちてきたものがヌシにぶつからないかと心配になった。が、すぐに杞憂だと気付いた。ヌシはヌシである故に、そんな事故とは無縁なのである。



○ ルールブック

「ああ、お待ちください! まだ開かないで!」と、その本が叫んだ。「しっかり乾かしてからにして下さい。でないと破けてしまいます」
「わかった」と言って、蓮太郎は本を岩の上に置いた。
「ありがとうございます。今日はいい天気ですね。これならすぐに乾くでしょう」
「そうだね」
 聖書か六法全書を思わせる分厚い本である。海老茶色の表紙には天秤の絵が描かれている。題名はない。
「自己紹介が遅れました。私はルールブックでございます。この世のありとあらゆる法が記してございます」
 意味がよくわからなかったので、蓮太郎は黙って次の言葉を待った。
「水素の次に重いものはヘリウムであること、三角形の内角の和は百八十度であること、猿も木から落ちるということ、宿敵は仲間になること、初恋は実らないこと等々、この世は私の定める法に従って形作られております」
「誰が書いたの?」
「私はあらゆる時代、あらゆる場所に、出し抜けに現れます。そして偶然出会った方に、法を一つ書き足していただくのです」
「じゃあ、僕も?」
「はい。あなたも何か一つ法を定めることができます」
「何を書いてもいいの?」
「どれほど手前勝手でも、偏った思想に端を発するものでも、咎められることはありません。但し一つだけ決まり事がございます。既に定められている法と矛盾する法は作れません。早い者勝ちなのです。例えば……ああ、そろそろ大丈夫そうですね」と、ルールブックは自らあるページを開いた。「こちらをご覧下さい」
 目には目を、と書いてある。
「紀元前十八世紀にバビロニアのハムラビ王がこの法を作ったことによって、人類は未来永劫争い続ける定めとなりました。復讐を禁ずる法を新たに作ることはできませんので、地上から戦争は永久になくなりません」
「そうなんだ」と言って、蓮太郎はパラパラとページをめくった。
 曰く、二度あることは三度あるということ。悪貨は良貨を駆逐すること。野球はツーストライクからであること。
「もうこれだけたくさんの法があるなら、矛盾しない法を作るのは難しそうだね」
「そうなのです。しかし何か考えていただかなくてはなりません。一番最初のページをご覧下さい」
 ルールブックに法を書く権利を放棄することはできない、とあった。
「ちょっと時間を貰ってもいいかな」
「ええ、特に期限はございませんので。無事決まるまでの間、宜しくお願い致します」
「よろしく」と言いながら、蓮太郎は背後にランプの「視線」を感じていた。何を二倍にするかも考えなければならないのだ。
 何やら忙しくなってきた。



○ オナガドリ

 目のくりっとしたオナガドリが落ちてきた。
 いや、正確には、落ち切っていない。尾の先端は滝の上だ。ものすごく長いのである。
「こんにちは」と、オナガドリが言った。華やかな声だった。
「こんにちは。立派な尾っぽですね」と、蓮太郎が言った。
「うふふ、ありがとう。これ、あたくしの自慢なの」
 言葉遣いからして、メスなのだろうか。確か尾が長いのはオスだけだったような気がするが。
「お会いしたばかりで恐縮ですけれど、あなた、あたくしの悩みを聞いてくださる?」
「ええ。僕でよろしければ」
「実はこの尾っぽ、切ろうか切るまいか迷っているの」
「そうなんですか? ご自慢なのに?」
「ちょっと、重たくてね……」と、オナガドリはため息をついた。「それに、正直飽きてきたというのもあるわ。生まれてこの方、ずうっと伸ばし続けてきたんですの」
「一体どのぐらい長いんですか?」
「わからないわ。最後に先端を見たのはいつだったかしら」
 ――何ということだろう。身内が行方不明ということならしばしばあるが、身体の一部がどこにあるかわからないというのはどんな気分なのだろうか。
「二倍にしてみたいな」ちゃぶ台の上でランプがぼそりと言った。蓮太郎は聞こえなかったことにした。
「いかが? 切った方がいいと思う?」
「もし切れば、少なくとも、スッキリするでしょうね」
「そうなのよ。でもね、切るのが怖いという気持ちもあるの」
「怖い?」
「あたくし、尾っぽがとっても長いということをアイデンティティにしてまいりましたの。ですから、尾っぽが短くなってしまったら、あたくしというものは一体どこへ行ってしまうのでしょう?」
 つまらない返答はできない、と蓮太郎は思った。
 尾が異様に長いという特性。それを失ったら、彼女(なのだろう、多分)はただのオナガドリになる。数多の同類の中から彼女を見分ける術はなくなる。
「もしあたくしの尾っぽがごく普通の長さになったら、その先はどんな風に生きていったらいいと思う?」
 蓮太郎は握った拳を口もとに当てて考えた。無意識のうちに都会人の仕草を真似ているのである。
「昔は尾っぽが長かった、ということを、誰にも言わずに生きていけたら、凄いことだと思います」
「そうね。その通りだわね」と、オナガドリは激しく羽ばたいた。抜けた羽毛が舞う。
「その覚悟が必要なのだわ。もし昔語りに自慢するようでは、尾っぽを切っていないのと何ら変わりませんものね」
 オナガドリは、くいっと首を上げて、滝の上を見上げた。
 蓮太郎もまた、上体を傾けて、滝の上を見た。
「もうちょっと考えてみるわ。ご助言ありがとう」
「いえ、大したことは」
「お礼に私からも一つ、ご助言を差し上げていいかしら?」
「何でしょう?」
「もっと胸をお張りになって。あなたはとても賢くていらっしゃるもの。下を向いていては勿体ないわ」
「ありがとうございます」でも、それは難しいのです、という言葉を、蓮太郎は飲み込んだ。
 オナガドリは川の流れに身を任せ、去っていった。
 尾っぽがいつ途切れるのか、それを見届けようとは思わなかった。



○ わらしべ

 わらしべがわらしべとして落ちてきた。ということなのだろう。
 ゴミと見誤ってもおかしくなかった。けれど、そのわらしべには不思議な存在感があった。アニメーションで言えば「背景ではない」という感じがした。
 わらしべと言えば、長者である。もし他に連想する言葉があるなら至急ご連絡いただきたい。
 蓮太郎は『わらしべ長者』という概念にはすぐ思い当たったが、どんな交換を経て主人公が長者になったのかまでは知らなかった。 
 わらしべを欲しがるというのはどんな状況なのだろうか? それも、一般的にはわらしべ以上の価値があるものを差し出してまで、わらしべが欲しいという状況である。わらしべでなければできないことが何かあるだろうか?
 少しの間考えて、考えるのをやめた。何も構える必要はない。わらしべを必要とする人が現れたなら差し上げる。それだけのことだ。見返りを期待することはない。



○ 神田川

 赤い手ぬぐいと小さな石鹸と二十四色のクレパスが落ちてきた。
 蓮太郎は何だか優しいような怖いような気持ちになったが、それらの品々が流れ去る頃にはもう忘れてしまった。



○ 夜

 墨をスッと流すように、夜がやって来た。
 陽が落ちるのより僅かに先んじて、滝が上の方から「陽の当たっていない色」に変化した。「夜の始まり」が水流と同じ速度で通過した。そしてたちまち夜になった。
 帽子や靴を引っ掛けるのに丁度よさそうな三日月が浮かんでいる。
 三日月の光は弱い。辺りは暗い。昼間とは別世界である。見えない、ということの心細さを蓮太郎は噛み締める。
 旗に触れてみると、完全に乾き切っていた。立派な寝具だ。旗の上に寝そべり、端を持って体を包む。
「んひ」と、ロバが鳴いた。
「おいで」と蓮太郎が言うと、ロバの気配が蓮太郎の近くに寄ってきて止まった。
 彼がロバで良かった。人間の女性でなくて本当に良かった。もし人間の女性だったら、自分が人間の男性であることを苦しみながら一夜を明かすことになっただろう。
 蓮太郎は穏やかな気持ちで瞳を閉じた。



○ 大工

「起きろい。朝だぜ」
 体を起こしながら声のした方に目をやると、川の真ん中で、ねじりハチマキをした精悍な顔つきの男が仁王立ちしていた。武蔵坊弁慶のように、全身に大工道具を装備している。
「おはようございます」と、蓮太郎が言った。
「おはようさん! おいらァ大工だ。あんた、何か作ってほしいもんはねぇかい?」
「いえ、特に……」
「家か。特に、どんな家だい?」
 朝日の中で大工の瞳はきらきらと輝いている。
 蓮太郎は思った。この人を傷つけてはいけない。
「とりあえず、こっちにいらしては」
「おぅ、そうだな。水もしたたるいい男とはよく言ったもんだが、したたられっ放しじゃ風邪をひいちまわぁ」
 大工は、まるで熱い風呂から上がるかのように、ざばっと勢いよく岸へと上がった。
「あんたはここに住んでんのかい?」
「一応そういうことになると思います」
「だったら、いつまでも野宿ってわけにゃいかねぇだろう。おいらに任しとけ。立派な家を作ってやるからよ」
「ありがとうございます。でも、お代はどうすれば?」まさかわらしべというわけにはいくまい。
「そんなもん適当でいいさ。さて、中に置きたいもんは、と……椅子とちゃぶ台か。和洋折衷だな。よっしゃ、腕が鳴るぜ!」
 大工は道具をどさどさとその場に置き、大きな斧を担いで、近隣の木を吟味し始めた。



○ 歴史研究家

「どんなものにも『歴史』があるのよ。『ルーツ』と言い換えてもいいわね」と、歴史研究家は右手を腰に当て、左手で眼鏡をクイッとやりながら言った。
「例えば、あの滝はどうやってできたと思う?」
 蓮太郎は少し考えて、「わかりません」と言った。
「いい子ね。『素直さ』は大事よ。『率直さ』と言い換えてもいいわね」と言って、歴史研究家は蓮太郎の頭を撫でた。
「滝は大きく分けて二つの生まれ方があるの。突発的な地質変動によるものと、長年の浸食によるもの。あの滝は後者ね。水流が地層の柔らかい部分を削ることで、固い部分が棚のように残ったのよ。では、何故柔らかい部分と固い部分が重なっていたのか? さらに、何故そこを水が流れていたのか? そういったことにもそれぞれのルーツがあるのよね。ああ、たまらないわ……」と、歴史研究家は恍惚の表情を浮かべた。
 がつん、がつんと、一定のリズムで斧を使う音が響いている。大工は少し離れた場所にいて、歴史研究家が落ちてきたことには気づいていないらしい。
「人間の行動にもルーツがあるのよ。あなたにもね」
「僕は何か行動をしているんでしょうか」
「滝壺で生活をしているわ」
 その通りだ。間違ってはいない。
「教えてちょうだい。あなたは何故ここで暮らしているの?」
 蓮太郎は少し考えて、「わかりません」と言った。
「悪い子ね。嘘つきはドロボーの始まりよ。偽証罪は窃盗罪の始まりと言い換えてもいいわね」
「その言い換えはちょっと変なんじゃ……」
 蓮太郎の言葉を歴史研究家の細い人差指が遮った。
「まぁいいわ。答えを聞いてしまったらつまらないもの。あなたのルーツは私が自力で突き止めてみせるわ」と言って、歴史研究家はウインクをした。



○ そうめん

 歴史研究家がランプやルールブックをためつすがめつしている時、大工が川の水を飲みに戻ってきた。
 大工は歴史研究家を一目見ると、妙に高い声で叫んだ。「だ、誰だてめぇは!」
「こういう者よ」と、歴史研究家は大工に名刺を差し出した。
 蓮太郎は名刺を貰っていない。誰何されなければ出さないらしい。
 名刺は蛇腹状に折りたたまれたもので、広げると小さな文字がビッシリ書かれていた。自身のルーツが事細かに記されているのだろう。
 大工は名刺を軽衫のポケットに突っ込むと、「俺は大工だ」と言って、プイッと顔を背けた。心なしか頬が紅い。
 その時、黒塗りのお盆に乗って、ガラスの器に入っためんつゆ、薬味のわけぎ・みょうが・白ごま、それに竹の箸というセットが流れてきた。ご丁寧に三人分ある。
 それから、全員が期待した通り、つやつやと輝くそうめんが流れてきた。
 大工がぱあんと手を合わせ、「いただきます」と言った。蓮太郎と歴史研究家もそれに続いた。
 三人は川岸に並び、天然の流しそうめんを堪能した。
 ロバは草を食んでいた。



○ 釣り人

「おかしいのう。このあたりのはずなのじゃが」と、水面を見ながら釣り人は言った。
 サンタクロースのような真っ白のあごひげ。ハンチング帽にチェック柄のシャツ、ポケットのいっぱいついたベスト。右手に釣り竿、左手に網を持っている。
「何をお探しなんですか?」と、蓮太郎が尋ねた。
「お前さん、このあたりでヌシを見なかったかね?」
「あの魚のことでしょうか?」と、蓮太郎は滝壺を指さした。
 ヌシのお姿((魚影)は相変わらず神々しくていらっしゃる。
「おお、あれじゃあれじゃ!」と、釣り人は喜んだ。
「やっぱりヌシだったんですね」
「そうじゃとも。お前さんもあれを狙っておるのかね?」
「いいえ」
「では、竿を出させてもらうとしよう」
「釣れるといいですね」
「ありがとう。じゃがな、釣りというのは、釣れるか釣れないかではない。釣るか釣られるかじゃ」と意味不明な言葉を残して、釣り人はずんずんと滝壺に向かっていった。
 大工は以前よりも速いテンポで斧を振るい、早くも三本目の木を伐り倒そうとしている。そうめんを食べて元気になったのかも知れないし、何か他に張り切る理由ができたのかも知れない。
 歴史研究家は息を荒げながらルールブックのページを繰っている。ルールブック本人は、余計なことを言わない方がいいと考えたのか、ずっと黙っている。
「そりゃあ」と気合いを入れて、釣り人が竿を振った。
 それぞれが充実した時間を過ごしていた。
 蓮太郎は椅子に座って空を見上げた。わたあめのような雲がのんびりと流れていく。
「満ち足りたひとときの長さを二倍にしようか?」と、ランプが言った。
「二倍にしても、無限にはならないよね」と蓮太郎が言った。
「うん」
「じゃあ、やめておくよ」
「そっか」と、ランプは淋しそうに言った。



○ 眠気

 眠気が襲ってきた。
 眠気に襲われている間は、ただ眠いということしか考えられない。眠い眠い眠い。他のことを考えようとしてもねむいからむずかしい。ねむいときにはねむってしまうのがいちばんよい。
 ところが蓮太郎は、これは滝から落ちてきた珍しい眠気なのだから、できるだけ抗ってみようと思い立つ。
 川の水で顔を洗う。
 手足をつねる。
 目の横をぐりぐりと指で押す。
 ねむい。
 駄目だ。こんな単純な刺激では焼け石に水である。心を動かさなくては。
 蓮太郎は人と話をしようと考える。
 しかし、大工は積み上げた丸太に寄り掛かっていびきをかいている。
 歴史研究家はちゃぶ台に突っ伏している。
 ロバも寝ている(ロバはしょっちゅう寝ている)。
 そして、釣り人は滝壺に釣り糸を垂らしたまま、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。あれでは餌を取られてしまうのではないだろうか。
 いや、その心配はなさそうだ。水面にヌシの白い腹がぷかりと浮かんでいる。一見死んでいるように見えるが、この流れからして、ああいう寝相なのだろう。
 他人が眠っているのを見ると少しだけ眠気は和らぐものだが、その効果も長続きはしなかった。
 ねむい。とにかくねむい。ねむすぎていみがわからない。
「あああー」と、声を出してみた。少し効いた。が、すぐ「あああー……ふわーあ」と、あくびに変わった。
 ねむいねむいと思っていると、滝の上から様々な種類の枕がどさどさと落ちてきた。ストライプ柄、ドット柄、低反発、いぐさ、そばがら、平安貴族が使うアレ、生きた羊。
 これはもう寝ろと言われているに違いない。もとい、先ほどからずっともう寝ろと言われ続けているのだ。
「低反発枕の反発力を二倍にしようか?」とランプが言った。
 眠気に支配された頭では気の利いた返しが思いつかず、蓮太郎は遂に力尽きた。
 ――枕が落ちてきたのは夢だったかも知れない。蓮太郎が目覚めた時には羽毛一つ残っていなかった。
 他の人々は蓮太郎より早く目覚めたようで、既にそれぞれの活動を再開していた。



○ 夏

 夏が落ちてきた。
 どこからともなくTUBEの『シーズン・イン・ザ・サン』が聴こえてきて、陽射しがかあっと急激に強まった。
 滝口からサーファーが飛び出し、水飛沫や太陽光線ごと、空中で一瞬停止した。錯覚ではない。確かに止まった。完璧なシャッターチャンスだったが、カメラを持っていない蓮太郎には無意味であった。
 サーファーは複雑なトリックを繰り出しながら落下し、見事に着水した。
 釣り人に水がかかったが、彼は微動だにしなかった。ヌシも無反応である。二人(?)は二人だけの世界にいる。
 滝壺から不自然な大波が発生して、エメラルドグリーンのサングラスとギリシャ彫刻のような肉体が蓮太郎の目の前を横切った。
 続け様に、同じエメラルドグリーンのサングラスをかけた金髪の水着ギャルが三人、アラビア数字で「十」と書かれたボードを掲げながら落ちてきた。審査員なのだろう。褐色の肌が眩しい。ギャルたちはボードをビート板代わりにして、猛烈な勢いでサーファーを追い始めた。うち一人が、蓮太郎の横を通過する時、キッスを投げて寄越した。
 音楽が変わった。ブラスバンドの演奏する『ルパン三世』である。高校球児たちが落ちてくるのだろうと思ったら、その通りであった。
 キャッチャーとバッターが落ちてきて、滝壺で素早く身構えた。
 滝口でピッチャーが大きく振りかぶり、投げた。
 バッターが力強くバットをすくい上げた。
 かあんと乾いた音が響いて、ボールは空の彼方へ消えた。
 バッターのチームメイトたちが落ちてきて、一同もみくちゃになりながら川を流れていった。
 負けたチームの選手たちは、泣きながら岸に上がり、ビニール袋に土を詰め始めた。
 歴史研究家がピッチャーに声をかけた。「あんなに落ちる球、初めて見たわ」
 また音楽が変わった。今度は祭囃子である。とんとんすっととぴーひゃらら。
「うおっ、祭だ!」
 と、それまで夏に関心を示さなかった大工が唐突に叫び、ノミと木槌を放り出して、ばしゃばしゃと滝壺へ突っ込んでいった。
 わっしょいわっしょいと威勢のいい掛け声が近づいてきて、滝口に金ピカの神輿が現れた。
「あっ」
 危ない、と蓮太郎が叫ぶ間もなく、神輿は大工の真上に落下した。盛大に上がった水飛沫が落ち着くと、大工はふんどし姿の男たちと一緒に神輿を担いでいた。
 男たちは汗をほとばしらせながら川下へと突き進んでいく。大工もそのまま行ってしまうのかと思われたが、ある程度進んだところで神輿から離れると、満足げに岸に上がって、仕事を再開した。
 祭囃子が聴こえなくなる頃、いつの間にか高校球児たちの姿も消えていた。
 静けさを取り戻した川を、割り箸の刺さったキュウリとナスが流れていった。ナスはキュウリよりもゆっくりと流れた。



○ ラジオ

「臨時ニュースです。××法案が可決されました。繰り返します。××法案が可決されました」
 何法案なのか、ノイズで聞き取れない。
「野党の××代表は次のようにコメントしています」
「可決などしていません。あんな強引な採決が認められるわけがありません。我々は断固として審議のやり直しを求めます。国民は納得していません。そうでしょう皆さん。さぁご一緒に、××法案絶対反対! ××法案今すぐ廃案!」
「また、本会議場の屋根の上で抗議活動をしていた学生グループの代表は、次のようにコメントしています」
「僕は代表じゃありません。僕たちの代表はキドさんをおいて他にありません。キドさん、聴こえますか。戻ってきて下さい。僕たちにはあなたが必要です。いつまでも、いついつまでも、このギザギザの屋根の上で待っています。本当の戦いはこれからです。きっと戻ってきてくれると信じています」
 そして、ラジオは聴こえなくなった。電池が切れたようだ。



○ 無関心

「あなたのルーツなんてどうでもいいわ」と、歴史研究家が蓮太郎に言った。
 急にどうしたのだろうか。
「過去ばかり見てちゃ駄目。大切なのは『今』よ。『現在』と言い換えてもいいわね」
 蓮太郎は曖昧に頷くしかなかった。
「いいえ、待って。『今』も本当はどうでもいいわ。じゃあ、大切なのは何? 『未来』? いいえ、『未来』こそどうでもいいわ。つまり大切なものなんてどこにもないってことかしら。きっとそうね。そうに違いないわ。形あるものはいずれ朽ちる。それだけのことよ」
 蓮太郎は途中から聞いていなかった。歴史研究家の話がどうでもよくなってしまったのである。
 何となく滝壺の方に視線をやると、釣り人は釣り竿を投げ出して寝っ転がっていた。ヌシの魚影には以前のようなカリスマ性が感じられなかった。
「けっ、やめだやめだ!」と、大工が言った。「基礎ができていよいよ柱を立てようってとこだったけど……すげえ立派な家ができるはずだったけど……ええい、やめだやめだ! なんで俺は大工なんてやってんだ? だせえったらありゃしねえぜ」
 ランプが言った。「何にも二倍にしたくない。世界が滅亡するまでの残り時間を半分にしたい」
 ルールブックが言った。「法なんて破る為にあるんですよ」――久々に喋ったと思ったら、ろくなことを言わないのだった。
 蓮太郎はやがて、周囲を観察することすら億劫になってきた。
 次は何が落ちてくるのか? それだってどうでもいい。滝を見上げるのも面倒臭い。
 ぐったりとなりながら椅子に腰かけた。落ちてきたばかりの頃は随分はしゃいだものだが、今となってはこの椅子のどこがいいのかわからない。ごく普通の椅子だ。なくなってしまっても一向に構わない。
「ひっひっひ、うまくいったぞ」と、誰かの声がする。何者かが滝から落ちてきたらしい。けれどそちらを向くのが面倒臭い。
「おいらは『無関心の悪魔』さ。この調子で世界中を無関心にしてやる。ひっひっひ。ん? 何だお前? おいロバ、なんでお前は涼しい顔をしていやがるんだ? 生意気な。これでも食らえ! どうだ! 物事への興味がどんどん失われていくだろう! んん? どうして何も変化がないんだ? そ、そうか! さてはお前、普段から無関心なのか! 駄目じゃないかそんなことじゃ! くそう、おいらとしたことがいっぱい食わされたぜ。こんちくしょう! 覚えてろ!」
 どぼーん、と、何かが水に落ちる音がした。
 しばらくして、何もかもが元通りになった。
 次は何が落ちてくるのだろう。



○ うさぎ

 うさぎはもぞもぞと懐中時計を取り出して、「大変だ、遅刻する!」と言いながら、蓮太郎の目の前を流れていった。
 蓮太郎は黙って見送った。急いでいる人を呼び止めてはいけない。
 しばらくすると、うさぎはばしゃばしゃと引き返してきて、滝壺まで戻り、再び流され始めた。そして、また蓮太郎の前を通る時、「大変だ、遅刻する!」と言った。
 蓮太郎は黙っていた。どうしてやり直したのだろうか。
「ああ、大変だ大変だ」と、うさぎが言った。
 蓮太郎は黙っていた。
 うさぎは痺れを切らしたように言った。「何が大変なのか訊かないでくださいよ。説明してる暇なんてないですから」
「うん、訊かないよ」お急ぎならば仕方がない。
「さぁ、急がなきゃ。大変だ大変だ」と言いながら、うさぎは川下へ運ばれていった。
 それから少しして、うさぎはまた滝壺からやり直した。何がうまくいっていないのか、蓮太郎にはわからない。
「私について来ちゃ駄目ですよ。大変な目に遭いますから」と、うさぎは早口でまくし立てた。「本当に大変ですからね。体が大きくなったり小さくなったり、終わらないお茶会で答えのないなぞなぞを出されたり、しまいには裁判にかけられるんです」
 そんな目には遭いたくない。それに、自分はまだここに留まるべきだとも感じている。
「わあ、大変だ、遅刻する! そこのあなた、ついてこないで下さいね。絶対に駄目ですからね」ぎゃあぎゃあとわめきちらしながら、うさぎはゆっくりと流れていった。
 四度目はなかった。どうやら満足したようだ。



○ ゐす

 椅子がもう一つ落ちてきた。
「僕がやったんじゃないよ」と、ランプが言った。
「うん、わかってるよ」と、蓮太郎が言った。
「おっ、何だこりゃ」と、大工が言った。「随分変わった椅子だな」 
 そうなのだ。確かに変わっている。
「最近ではあまり使われない形ね」と、歴史研究家が言った。「正確には『うぃす』と読むのよ」
「うぃす」と、大工が返事をした。復唱したのかも知れない。
「この『うぃす』、誰か使いますか?」と蓮太郎が言った。
 大工が言った。「俺ぁいいや。椅子が欲しくなったら自分で作るからよ」
 歴史研究家は「私もいいわ。彼に差し上げたら?」と言って、釣り人を示した。
 釣り人は草の上にあぐらをかいている。
 うぃすを持っていくと、釣り人は「こりゃどうもありがとう」と言い、「よいしょ」と上に乗ってあぐらをかいた。あぐらが落ち着くようだ。
 近くに寄ってもヌシは魚影にしか見えなかった。ヌシたる者、軽々に姿をさらすわけにはいかないのだろう。寝ている時に腹が出ていたが、あれはちょっと油断しただけだ。いや、きっとあれも夢だったのだ。



○ 濃霧

 滝口からふわあっと霧が降りてきて、あっという間にあたり一面を包み、何も見えなくなった。
「皆さん、動かないで下さい」と、ルールブックが言った。
「あら、あなた喋るのね」と、歴史研究家が言った。
 彼女は知らなかったのだ。
「良かったわ。ねえ、いつの時代の誰が作った法なのか、一つ一つ教えてほしいのよ」
「今はそれどころじゃありません。とにかく動かないで下さい」
「どうして?」
「遭難した時、迂闊に動いてはいけないんです」
 これは遭難なのだろうか。よくわからないが、蓮太郎は元々じっとしていたので、そのまま動かずにいた。
「動いてはいけないという法があるの?」
「いえ、法ではないのですが」とルールブックが言いかけた時、何者かの足音がした。
「大工さん、動くなと言っているでしょう」と、ルールブックが鋭く言った。
「俺じゃねぇよ」と、大工が抗議した。
「じゃあ、誰ですか。釣り人さんですか?」
 それはないだろう。釣り人は岸に上がった地点から今いるところまで歩いた後、一度も移動していない。ヌシを釣り上げるまでは梃でも動かないだろう。
「んひんひ」と、ロバが鳴いた。それからまた足音がした。
「ロバさん! 動いてはいけません! ストップ! どうどう!」と、ルールブックが叫んだ。「動き回ると危険です。異次元から来た生物たちのおぞましい触手に襲われてもいいんですか?」
 何を言っているのかよくわからない。
 ロバはルールブックの忠告などお構いなしに、歩いたり止まったりしていた。
「もしも奴らが襲ってきたら、みんなの『強さ』を二倍にするといいよ」と、ランプが言った。ランプには「奴ら」の心当たりがあるらしい。
 しかし、多分大工以外、強さが二倍になったところでたかが知れているだろう、と蓮太郎は思った。
 結局、異次元から来た生物たちのおぞましい触手は襲ってこなかった。けれど、霧が晴れた時、敵っぽいものはそこにいた。



○ 鬼

 金棒を持ってはいるが、あまり強そうではなかった。強さが二倍になった大工なら勝てそうな気がした。
「俺様は今、とてもひどいことを企んでいる。知りたいか?」と、鬼が言った。
「知りたいわ」と、歴史研究家が言った。
「そこまで言うなら教えてやろう。そのうち『桃太郎の桃』がここを通るはずだ。俺様はそれをおばあさんより先に拾って食べてしまうのだ。げっへっへ」
 強そうに見えない理由がわかった。策を弄するタイプだったのだ。
「桃が来るまで待たせてもらうぞ。げっへっへ」と言って、鬼はその場に体育座りをした。



○ クルーザー

 かっこいいクルーザーであった。船首が鋭く尖っていて、いかにも速そうだ。進水したばかりなのだろう。真っ白のボディにはフジツボ一つついていない。
 船室のドアが開き、七三分けで眼鏡をかけた中年男が出てきた。服はポロシャツとチノパンである。
「昔からクルーザーが欲しくて、私」と、男が言った。「一生懸命働きました。雨の日も風の日も、身を粉にして働きました。上司の暴言に耐え、同期の嘲笑をやり過ごし、恥をしのんで新人に機械の使い方を教わり、心の慰めにと飼い始めた小鳥には全然なつかれず、それでも地道にこつこつと、実に四十年間、無遅刻無欠勤で勤め上げてまいりました」
 蓮太郎と歴史研究家と鬼が拍手をした。
 大工と釣り人はそれぞれの仕事で手が離せない。
「結婚はしておりません。見合いは二度で心が折れました。構うものですか。私が欲しかったのは愛よりもクルーザーだったのですから。酒も煙草もやりません。一所懸命、真実一路、馬車馬の如く働き続け、そして今遂に画竜点睛、最高級クルーザーを我が物としたのであります。無論、船舶免許も取得済みです」
 男の目から涙が溢れた。
「長年の夢が叶いました。しかし頬を伝うこの涙は、喜びの涙ではないのです。ずばり、淋しさの涙なのです。淋しくて淋しくてたまらないのです」
 歴史研究家が嗚咽を漏らした。
「見合いを二度で諦めず、三度四度と頑張るべきだったのでしょうか。いえ、家庭は持てずとも、人付き合いをもうちょっとなんかこううまくやるべきだったのでしょうか。でもね、飲みたくもないお酒を飲むより、私はクルーザーの為に貯金をしたかったのです。孤独を辛いとは思いませんでした――このクルーザーを買うまでは」
 男の七三分けがそよ風に揺れている。
「ああ、なんと虚しい人生でしょう。どうかこの憐れな中年男のことは、悪い手本として記憶の片隅にお残し下さい。ご清聴ありがとうございました。それでは」
 エンジン音が響き、クルーザーが動き出した。
 船室に戻ろうとする男に、蓮太郎は「かっこいい船ですね」と言った。
 男は涙をどばっと溢れさせながら、「ありがとう」と言って船室に消えた。



○ ヤドカリ

「ヤドカリなのですが」と、ヤドカリが名乗った。
 言ってくれなければわからなかった。何故ならヤドを背負っていないからである。
「ヤドを探しているのですが」
「ちょっと待ってね」と言って蓮太郎はあたりを見回したが、貝の類は見当たらなかった。所持品の中にも使えそうなものはない。
「うーん、申し訳ないけど、お役に立てそうにないな……」
「左様ですか……」と、ヤドカリはしょんぼりした。
「よぅよぅ、お二人さん」と、大工が言った。「住む家のことでお困りかい? ここに大工がいるじゃねぇか」
「ヤドカリのヤドも作れるの?」
「多分な!」と、大工は親指を立てた。
 建造中の家は既に立派な柱が立ち、壁ができ始めている。
「あっちの家は一時中断するぜ」
「うん。それは構わないよ」
 ヤドカリが「そこまでしていただかなくても……。何のお礼もできませんし……」と言った。
「遠慮すんなって。ちょっくらごめんよ」と言って、大工はヤドカリの採寸を始めた。
「優しいのね」と、歴史研究家が言った。
 大工は真っ赤になって「そんなんじゃねぇやい。おいらは仕事がしてぇだけさ」と言った。



○ 巻き貝

 神社の模型のようなかわいらしいヤドが今にも出来上がろうという時、ヤドカリの体にちょうどよさそうな巻き貝が落ちてきた。
 大工とヤドカリはちゃぶ台を使って作業に没頭している。
 蓮太郎は巻き貝を見なかったことにした。
 ところが、「おい、貝が落ちてきたぞ」と鬼が言った。
 蓮太郎はじろりと鬼を睨んだ。
「何の文句がある。ヤドカリは水辺の生き物だ。いくら見た目が良かろうと、木で出来たヤドじゃすぐに腐っちまう」
「そいつの言う通りだ」と言って、大工が川から巻き貝を拾い上げた。「ヤドカリのヤドは、やっぱ貝でなくちゃな」
「いえ、私、こちらのおうちの方が……」
「気を遣わねぇでくれ」と、大工は巻き貝をヤドカリの背に乗せた。「ぴったりじゃねぇか。よかったよかった」
「すみません。せっかく作っていただいたのに……」
「いいってことよ。なぁ鬼さん、あんたも教えてくれてありがとうな」
 鬼は返事をしなかった。
 ヤドカリは何度も礼を言いながら去っていった。



○ 刑事

「逮捕する」と言って、刑事は鬼に手錠をかけた。
 鬼はまるで抵抗しようとしなかった。案の定、直接戦闘は苦手らしい。
「ちょっと待ってくれ。そいつが何をしたっていうんだ」と、大工が憤った。
「だって鬼だし」と刑事が言った。顔つきも言葉遣いも全体的に幼かった。
「何も悪さはしてねぇじゃねぇか」
「げっへっへ、これからするのさ」と、鬼が言った。「桃太郎の桃を食っちまうつもりだと言っただろう。俺様は札付きのワルなのさ」
「本人がそう言ってるんで」と、刑事は鬼を連れていこうとした。
「待て!」と、大工が立ちはだかった。「ヤドカリはそいつのおかげでいいヤドを手に入れたんだ」
「勘違いするな。俺様はお前の仕事を台無しにしてやりたかっただけだ」
「だとしても、あんたの言うことは正しかった」
「まぁとにかく、殺人の予告しちゃってるんで。鬼だし」と、刑事が言った。
 大工が刑事の胸ぐらを掴んで言った。「鬼だしってのを取り消せ」
「やめてください。公務執行妨害で逮捕しますよ」
「やれるもんならやってみろよ」
「やれますよ。面倒臭いなあ」と、刑事は手錠を取り出した。
 鬼が言った。「よせ。その男は関係ない。さっさと連れてけ」
「はいはい」と、刑事は手錠をしまった。
 歴史研究家が刑事に「何故かしら。あなたのルーツには全然興味が沸かないわ」と言った。
「ちょっと言ってる意味がわからないですね。あ、そうだ。これなんですけど」と、刑事は手配書を取り出した。「ご協力よろしくどうぞ」
 その写真は長髪の美男子であった。キド・タカシ。国家反逆罪。と書かれていた。
 誰も手配書を受け取ろうとしないので、刑事はちゃぶ台の上にそれを置き、鬼を連れて去っていった。



○ ブリ

 ばしゃっと跳ねて、ブリが釣り人に言った。「お初にお目にかかりやす。あっし、しがねえブリでございやす。群れを離れて津々浦々、気ままに生きてまいりやした」
「何か用かい」と、釣り人が言った。
「あっしを釣り上げておくんなせい」
「わしを知っとるのか」
「何をおっしゃいます。この渡世で旦那を知らねぇ奴ぁモグリです」
 どうやらあの釣り人は魚たちの間では有名人だったらしい。
「かつて第六天魔王が築きし幻の名城・安土城、そのシャチホコをお釣りになったのを皮切りに、古今東西、数多の怪魚と針を交えた歴戦の勇士」
「よしとくれ。昔の話じゃ」
「旦那に釣っていただけるなら本望です。さ、どうかあっしを!」
 釣り人はずっと釣り糸を垂れている。釣ってほしいならただそれに食いつけばいいのではないだろうか。そういうものはないのだろうか。蓮太郎は釣りに詳しくないのでわからない。
「あんたの目は節穴かい。わしは今、そこの御仁と戦ってる最中じゃぞ」
 ヌシのことであろう。
「割り込みは感心せんのう」
「無礼は承知の上です。旦那のお姿を目にしたらもう、いてもたってもいられず」
「退け、しがないブリよ」
「ぐっ」
「さっき自分で言うたじゃろ。小物は相手にせん主義での」
「確かにそう申しやした。しかし味にゃ自信があります。煮てよし焼いてよし叩いてよし」
「退けい。往生際が悪いぞ」
 釣り人の気迫に、ブリは押し黙った。
「あんた、モジャコ→ワカシ→イナダ→ワラサと、出世してきたんじゃろ」
「へい」
「ブリで終わりだと思っとりゃせんかい」
 その先があるのだろうか。
「天井を決めちまったらつまらん。もっとでっかい魚になって、また会いに来い」
「そん時は釣り上げていただけますか」
「わしは自分の釣りたい奴を釣る。それだけのことよ」
「心得やした。とんだお邪魔を致しやした」
「道中気をつけてな」
「ありがたき幸せ!」
 ブリは魚雷のような勢いで泳ぎ去った。



○ ゴドー

「どうもどうも、お待たせしました……」と、その陰気な男は言った。
「どちら様でしょうか」と、蓮太郎は尋ねた。
「わかりませんか……?」
「失礼ですが……」
「ゴドーです、ゴドー。あなたの待ちわびた……」
「すみません。おっしゃることの意味があんまり……」
「おや……? おかしいですね……。あなたはウラジーミルさん、あるいはエストラゴンさんではないのですか?」
「そのどちらでもありませんね……」と、蓮太郎は遠慮がちに言った。どうもゴドー氏の喋り方が感染してしまう。
 尚、「蓮太郎」というのもただの呼び名だが、本名が何であるかということはさして重要ではない。
「ああ、今思い出しました。ベケット先生のお話によれば、二人は『木が一本生えている田舎道』で私を待っているということでした……。ここは『建てかけの家が一軒ある川辺』ですね。全然違いましたね……」
 ベケット先生とは誰だろうか。多分、訊いても意味のわかる説明は得られまい。
「ところで、もしやあなたは、テラヤマ先生の……?」
「いえ、そのお名前も初めて聞きます……」
「そうですか……。失礼しました……」
 歴史研究家がゴドー氏に「ベケット先生はお元気で?」と言った。
「お知り合いなのですか……?」
「いいえ、一方的に存じ上げているだけですが」
「そうでしたか……。私も先生にはもう随分お会いしていないのですが……恐らく、変わりないと思いますよ……」
「んひんひんひ……」とロバが鳴いた。ロバも影響を受けたようだ。
「それでは、これにて……。お待たせしておりますので……」と言って、ゴドー氏は川を流れていった。



○ 駅

 大量の枕木をロープで繋いだものが落ちてきて、川の上に線路ができた。
 そして、しゅっぽしゅっぽと煙を吐きながら、蒸気機関車がやって来た。
 襟を立て過ぎの車掌が敬礼して言った。「ご苦労様です」
「ご苦労様です」と、蓮太郎も思わず敬礼した。
「驚きました。駅はもうほとんど完成しているのですね」と、車掌は家を見ながら言った。
「駅? これは駅じゃねえぞ」と、大工が言った。
「ああ、すみません。そうですよね。着工はまだこれからのはず」
「何だ? 駅を作ってほしいのか?」
「いえいえ、専門の業者が参りますから」
 歴史研究家が言った。「ここに駅ができるの?」
「そうです。便利になりますよ!」と、車掌は明るい声で言った。襟が高過ぎて表情はほとんど見えない。「さるお方のお取り計らいで、この地域の開発が決まったのです。近々電線も通りますし、お店もたくさんできるでしょう」
 蓮太郎は、都会人が「この礼はいつか必ず」と言っていたのを思い出した。憎めない人物だったが、やはり価値観の不一致は否めない。
「滝の上に行くことも、川下からここまで戻ってくることも容易になります。素晴らしいでしょう?」
「すみません。それ、無しにしてもらえますか?」と、蓮太郎が言った。
「それ、というのは?」
「ですから、駅……というか、開発を」
 車掌は(見えないけれど恐らく)あんぐりと口を開けた。
「その方のお気持ちは嬉しいんですが、僕は今のままがいいんです」
「そんな……そんな馬鹿な……」と、車掌はよろめきながら言った。
「悪いな。業者もキャンセルしといてくれよ」と、大工が言った。
「マツモト先生によろしくね」と、歴史研究家が言った。彼女は色々な先生を知っているようだ。
 蓮太郎は車掌が気の毒になって、「本当にすみません」と言った。
「お望みでないのなら、仕方ありませんね。出発進行!」
 汽車が走り去り、やがて線路も流れていった。



○ 電池

 電池を入れ替えると、ラジオが復活した。
 話題はとある集合住宅の手抜き工事の件で持ち切りで、ナントカ法案がその後どうなったのかを知ることはできなかった。
 怒りの矛先はベルトコンベア式に次々と用意され、政府にとって不都合な××××××××××

 蓮太郎はラジオのスイッチを切った。



○ アブ役の人

 仮面ライダーの怪人のような着ぐるみを着たその人物は、開口一番、意味不明なことを言った。
「ぼくちんはアブだアブ!」
 頭がおかしいのかと思った。
 聞けば、彼の所属する劇団が今度、子供たち向けに『わらしべ長者』の舞台を上演するらしい。
「主人公は『わらしべに結びつけたアブ』を『みかん』と交換するのよ」と、歴史研究家が教えてくれた。どうしてそんな取引が成立したのかよくわからなかったが、追求するのはやめにした。
「ぼくちんは役づくりのために、日常からアブ口調を徹底しているのアブ! この衣装、どうアブ?」
 リアル過ぎアブ。こんなのが出てきたら子供は泣くアブ。とは言わなかった。
「よくできてますね」
「アッブッブ」と、アブ役の人は得意げに笑った。
「ところでチミ、ぼくちんの悩みを聞いてくれるアブ?」
 断った時の反応も少し気になったが、蓮太郎はとりあえず頷いた。
「明日から本番なのに、まだ『わらしべ』の小道具が用意できていないのアブ……」
 明日から本番なのに標題の小道具がないとはどういうことだろうか。
「このご時世、わらしべなんてないアブ。ぼくちんは紙で作ろうアブって言ったアブけど、演出家さんはあくまでも本物のわらしべにこだわってるのアブ」
「じゃあ、これでよければ」と、蓮太郎はいつしか拾ったわらしべをアブ役の人に差し出した。
「アブブブブ! アブブブブブブ!」と、アブ役の人は狂喜乱舞した。これはひどい。子供が見たらきっとトラウマになる。
「お礼にこれをあげるアブ!」と、アブ役の人は公演の招待券をくれた。
 百パーセント行かないけれど、蓮太郎はできるだけ嬉しそうに受け取った。
 アブ役の人はわらしべを小指にぐるぐると巻きつけると、「それでは、アブュオス!」と言って、川に飛び込んだ。
「『アデュオス』はスペイン語で『さよなら』という意味よ」と、歴史研究家が教えてくれた。



○ 参勤交代

「下ァにー、下ァにー」と、伸びやかな声が聞こえてきた。
 鎧武者、槍持ちを先頭に、侍たちがどぼんどぼんと落ちてきた。
 百名に届こうかという大行列であった。
「殿、お迎えにあがりました」と、差配役と思しき侍がロバに言った。
「んひんひんひ」とロバが鳴いた。
「殿! お気を確かに!」
 ロバはぶるっと身を震わせ、「おお、おぬしか」と言った。
「身も心もロバに成り切っておられたのですね」
「うむ」
「跡目争いは解決しました。もう危険はありません」
「大儀であった。しからば、戻るとしようかの」
「はっ!」
 ロバは蓮太郎たちの方を向いて言った。「世話になったな」
「いえ、僕たちは何も」
「あんた殿様だったのか」と大工が言った。
「いかにも」とロバは頷いた。
「アブ役の人よりお上手ね」と歴史研究家が言った。
「芝居小屋には何度も通ったのでな」とロバが言った。
 駕篭の入り口が開かれた。ロバの体はどう頑張っても入らなかったので、歩くことになったようだ。駕篭を担ぐ人足たちはかすかに安堵の色を浮かべた。
 もしかしたらもう人間に戻れないのだろうか。少し気になったが、家臣たちに恵まれているようだからきっと大丈夫だろう。
 去っていく行列に、蓮太郎は「お元気で」と言った。
 ロバは尻尾を振って応えた――右に曲がった尻尾を。
 尻尾が曲がっているということを、今の今まで忘れていた。つまりその程度のことだったのだと、蓮太郎は思った。



○ ?????

 家が完成した。
 大工はドアに歪みがないことを確かめながら、「よしよし、上出来だ」と言った。
 蓮太郎は感謝を伝えたかったが、なかなか相応しい言葉が見つからない。
「それじゃ、おいらもそろそろ行くぜ」
「やっぱり行っちゃうんですか」
「ああ」
 釣り人がうぃすの上であぐらをかいたまま「間に合わんかったか。ヌシの刺身を振る舞ってやりたかったんじゃがの」と言った。
「おっさん、食う気だったのか」
「そりゃそうじゃよ。釣った魚を食わんでどうする」
「なるほどね。さて、建てた家には住んでもらわなきゃな」と、大工は蓮太郎ごと椅子を持ち上げようとした。
「あ、待って下さい」
「どうした?」
「もうしばらく、このまま外から眺めててもいいですか?」
「構わねぇぜ。あんたの家だ。自由に使ってくれ」
「本当にありがとうございます」
「じゃあ、なんだ、元気でな」と言いながら、大工が目の端で歴史研究家を見ていることに、蓮太郎は気付いていた。
 彼にはきっと、彼女に伝えたい言葉がある。けれど結局それを声に出すかどうか、決めるのは彼自身だ。他人にどうこうできるものではない――普通なら。
 蓮太郎は、少しだけお節介を焼くことにした。
「ランプ君」
「ああ、よかった。忘れられてるのかと思ったよ」
「二倍にしてほしいもの、決めたよ」
「なになに?」
「『大工さんの勇気』を二倍にしてあげて」
「本当にそれでいいんだね?」
「うん」
「お安い御用!」
 ランプが淡く光って、川を見ていた大工は何かを思い出したかのように、歴史研究家の方を振り返った。
「い、一緒に来てくれねぇか」
「私が? どうして?」
「初めてあんたを見た時、なんて綺麗なひとなんだと思った。あんたに惚れちまったんだ!」
「外見だけ褒められても少しは嬉しいわ」と、歴史研究家はわかりにくいことを言った。その次の言葉はわかりやすかった。「ありがとう。でも、ごめんなさい」
 大工ほどでないにせよ、蓮太郎は胸が痛んだ。余計なことをしてしまったのだろうか。
「あなたは優しくて漢気があって素敵な人だと思うわ。でも、好みではないの。好みでないということは如何ともし難いわ」
「そうか。だったら、しょうがねぇな」
「ごめんなさい」
「何度も謝らねぇでくれ。ちゃんと『ありがとう』っつってくれて嬉しかったぜ。んじゃ、あばよ!」
 大工が川に飛び込み、力強いクロールで水を掻き始めた。大きな大きなその背中はあっという間に見えなくなってしまった。

 大工とほぼ入れ違いに落ちてきたのは、長髪の美男子だった。
「追われているんだ。匿ってくれないか」と彼は言った。



○ UFO

 ふおんふおんふおんふおん。
 落ちてきたというより降りてきたといった方が正しい。
「アダムスキー型ね」と、歴史研究家が言った。この人は本当に何でもよく知っている。
「あれに追われているんですか?」と蓮太郎がキドさんに尋ねた。名前がわかったのは無論、手配書の為である。
「いや、あれは関係ないと思うんだが……とにかく、上がらせてもらっていいかい?」
「どうぞ」
「すまない」
 キドさんは家に駆け込み、ばたんとドアを閉めた。
 UFO下部のハッチが開いて、中から世界中の土産物がごろごろと転がり出てきた。それから、黄色い小柄な宇宙人が何人か出てきて、激しく罵り合いながら土産物を回収し始めた。
 宇宙語だが恐らく、
「だから詰め込み過ぎだって言っただろ!」
「だってここでしか買えないんだもん!」
 などと言っているのだろう。
 それから、一人の宇宙人が蓮太郎たちに向かって言った。「#$%&?」
 これはわからない。
「わかりますか?」と、蓮太郎は歴史研究家に訊いてみた。
「知りたいわ」と歴史研究家は答えた。
 凄い。この人にとって、わからないことは全て知りたいことなのである。
「#$%&?」と言いながら、宇宙人はブランド物のバッグからブランド物の財布を取り出した。
 歴史研究家が言った。「何かお土産を売ってくれないか、と言っているんじゃないかしら」
 蓮太郎もそう思っていたところだった。
「えっと、こんなものでよければ」と、蓮太郎はいつしか拾った変な仏像を取って差し出した。
 宇宙人は仏像を受け取ると、興味深そうに眺めた。子供たちと思われる宇宙人が集まってきた。仏像はその中の一人の手に渡った。子供たちはそれを奪い合いながらUFOの中に引っ込んでいった。
「+*¥?」
「いくら? と言っているようね」
 蓮太郎は身振りで「いらない」と言った。
 しかし宇宙人は紙幣を一枚、強引に押し付けてきた。
 見たこともない紙幣だった。これでもかというぐらい透けている。まるでフグ刺しである。
 宇宙人は手(に相当すると思われる触手)を振りながらハッチを閉めた。
 彼らは今までずっとこの宇宙ドル札(仮称)で買い物をしてきたのだろうか。大したものだ……と思いながら、蓮太郎はUFOが動き出すのを眺めた。
 ふおんふおんふおん。
「重量オーバーじゃないかしら」と歴史研究家が言った。
 UFOは水面すれすれを飛んでいる。
「でも、きっとワープとかできるんでしょうね」と歴史研究家が言った。



○ メンバーの人

 家のドアが少しだけ開き、「ちょっと訊いてもいいかい?」とキドさんの声がした。
 蓮太郎は「はい」と応じた。
「どうしてあの旗がここに……」
 家ができた時、旗だけ先に運び込んであったのである。
「滝から落ちてきました」
「ああ、そうだよね。それしかないよね。でも、そうか……こんな皮肉が……いや、運命というべきか……」
「あの旗はあなたのものだったの?」
「かつてはね。今は違う。もう誰のものでもない。革命を起こす意味は完全に失われた。だからその旗は君たちが好きにしてくれて構わない」
 彼は少し自分に酔っているところがあるように見えた。
「あなたは少し自分に酔っているところがあるわ」と、歴史研究家が言った。
「キドさん!」と叫んだのは、ヘルメットをかぶり、さらにヘルメットの上に「必勝」のハチマキを巻いた男だった。いつの間にか落ちてきていたのだ。
 キドさんは慌ててドアを閉めた。
 男はばーんとドアに張り付いて叫んだ。「開けて下さい!」
「帰ってくれ」と中からキドさんの声がした。
「帰ってきてほしいのはこっちです! キドさん! ドアを開けて下さい!」
 蓮太郎は男の声に聞き憶えがあった。ラジオだ。ギザギザの屋根から降りて、キドさんを連れ戻しに来たのだ。
「警察なんか恐れることはありません。キドさんは僕たちが全力で守ります」
「僕は警察から逃げてるわけじゃない」
「だったら!」
「僕は君から逃げてるんだ。君たちから」
「どういうことですか?」
「サノさんとはどうなんだ」
「え?」と、男・蓮太郎・歴史研究家が口を揃えた。
「付き合ってるんだろ?」
 どんな美しい花もたちまち枯れ落ちそうな嫌な沈黙が流れた。こんな時ロバがいたらタイミングよく「んひんひ」と鳴いてくれたのだが。
「キドさん、まさか、サノさんのことを」
「気づいたんだ。仮に革命が成功して戦争のない世界が実現しても、彼女と共に生きていけないのなら何の意味もない」
 男が吼えた。「あなたにとっての革命はそんな程度のものだったんですか! ずっとついてきた俺たちが馬鹿みたいじゃないですか!」
 謝らなかったのが偉い、と蓮太郎は思った。
「大体、キドさん、サノさんのこと好きそうな素振り全然見せなかったのに」
「もしそんな素振りを見せていたら、君は身を引いたのかい?」
「それは、わかりませんけど」
「君はきっと身を引かなかった。僕だってそんなことをしてもらっても嬉しくないしね。嬉しくない。死ね。いや、失礼、今のは言葉の綾だ。生きて彼女を幸せにしてやってくれ」
 歴史研究家が「『若さ』は『虚しさ』とも言い換えられるのね」と言った。
「僕はもうこの世界の行く末に興味がない。知りたくもない。さぁ、もう帰るんだ」
「わかりました」と言って男はドアから離れ、「どうもお騒がせしました」と蓮太郎たちに頭を下げた。



○ 水

 メンバー間のいざこざはさておき、歴史研究家はキドさんが率いていた集団のルーツに興味を示し、あれこれと質問をした。キドさんはぽつぽつとそれに答えた。
 蓮太郎はまた体を傾け、滝口を見上げた。すると、勢いよく吐き出されていた水流が突然途絶え、崖が剥き出しになった。
 今まで何が落ちてきても微動だにしなかった釣り人も、この時ばかりは「おやっ」と上を見上げた。
 まさか、これでおしまいなのだろうか? ひやりとした瞬間、再び水が流れ出し、蓮太郎は安堵のため息をついた。
「おーい」と釣り人が手を振っている。「焦ったのおー」
「はーい」と、蓮太郎は応えた。
「水ってのはありがたいもんじゃのおー」と言って、釣り人は水面に視線を戻した。



○ 地主

 でっぷりと腹がせり出したその男は「ちょっとちょっとちょっとあんたたち」と、言った。「まったくもう。困るじゃないか」
「何にお困りなんですか?」と蓮太郎は尋ねた。
「大きく分けて二つあるよ!」と男は言った。冷静さを保ちながらお怒りのようである。
「まず、あなたはどちら様?」と歴史研究家が尋ねた。
「私はここいらの地主だよ!」
「ああ」と、蓮太郎は虚を突かれたように言った。「ここは誰かの土地だったんですね」
「誰かのじゃなくて私のだよ! この国に誰のものでもない土地なんかないんだよ! 何だい何だい、勝手に家なんか建てちゃって! しかもいい家じゃないかまったくもう!」
「ありがとうございます」
「いい家だから家のことはまぁいいよ! もう一つの話の方が大問題だよ!」
「というのは?」
「あんたたち、ここに駅ができるはずだったのに、勝手に断っちゃったでしょ?」
「あ……はい」
「あ……はい。じゃないんだよ! ぶっちゃけこんな辺鄙な土地持っててもしょうがなかったんだけどさ、駅ができたらどーんと価値が上がるからさ、そりゃ喜んだよ! それがぬか喜びになっちゃったよ! どうしてくれるんだ!」
「すいません……」と、蓮太郎は謝るしかなかった。
「弁償してよね!」と、地主はふんぞり返った。
「でも今、お金は……」いや、一応あった。「こんなものしか」と、蓮太郎は宇宙ドル札を差し出した。
「ん? こ、これは!」と、地主はおののいた。「そんな……まさか……いや、この透け具合、本物だ! なんということだ!」
 どうやらわかる人にはわかるものだったらしい。
 蓮太郎はいぶかしげに「それで足りるでしょうか?」と尋ねた。
「足りるよ!」と地主は即答した。根が善良な人物なのだ。
 歴史研究家が「じゃあ、このままここにいてもいいのかしら?」と尋ねた。
「いいよ!」と地主は即答し、大きな腹をぷかりと浮かべて川を流れていった。



○ エンドロール

 い 椅子
 ろ ロバ
 は 旗
 に 二倍のランプ
 ほ 本音
 へ 変な仏像
 と 都会人
 ち ちゃぶ台
 り りんご
 ぬ ヌシ
 る ルールブック
 お オナガドリ
 わ わらしべ
 か 神田川
 よ 夜
 た 大工
 れ 歴史研究家
 そ そうめん
 つ 釣り人
 ね 眠気
 な 夏
 ら ラジオ
 む 無関心
 う うさぎ
 ゐ ゐす
 の 濃霧
 お 鬼
 く クルーザー
 や ヤドカリ
 ま 巻き貝
 け 刑事
 ふ ブリ
 こ ゴドー
 え 駅
 て 電池
 あ アブ役の人
 さ 参勤交代
 き キドさん
 ゆ UFO
 め メンバーの人
 み 水
 し 地主
 え エンドロール

 エンドロールが流れてしまったので、ここから先はエピローグということになるのだろう。



○ 人形

 陽が沈みかけていた。
 桃の花びらと共に流れてきたのは、竹で編んだ舟に乗った紙の人形であった。
「『ひとがた』ね。この風習は『流し雛』といって、雛人形のルーツとなったものよ」と歴史研究家が言った。「災いや穢れを人形に託して、子供の成長を祈るの」
 人形はあとからあとから流れてくる。茜色に染まった水面を、たくさんの「祈り」が列をなして進んでゆく。
「ペンを貸してもらえますか」と蓮太郎が言った。
「どうぞ」と、歴史研究家がペンを貸してくれた。
 蓮太郎はルールブックの白紙のページを開き、次のように書いた。

 祈りは届く。

「これでいいかな?」と、蓮太郎はルールブックに尋ねた。
「ええ、結構ですよ。ただ、既に定められた法に矛盾しない範囲で、となりますが」
「うん。それで大丈夫」
「かしこまりました。ご協力ありがとうございました」と言って、ルールブックはふわりと浮かび上がり、光の粒を振りまきながら川下の方へ飛んでいった。
 蓮太郎は掌を合わせ、祈った。
 ロバとその一行が無事に国元へ帰れますように。
 都会人がいつか便利さ以外のよさにも目を向けてくれますように。
 オナガドリが尾っぽを切っても誇り高く生きていけますように。
 うさぎの用事は何だかよくわからなかったけれどとにかく間に合いますように。
 鬼が人間と和解できますように。
 クルーザーの人に素敵な出会いがありますように。
 ヤドカリが生を全うできますように。
 刑事が正義の為に働いてくれますように。
 ブリがブリ以上の何かになれますように。
 ゴドーが待ち人の許に辿り着けますように。
 アブ役の人の舞台で子供たちの心が傷つきませんように。
 宇宙人たちがこの星での旅をいい思い出にしてくれますように。
 地主が少しは痩せますように。
 キドさんとかつての仲間たちがどうか不幸になりませんように。
 大工と歴史研究家がいつまでも二人らしくいてくれますように。
「彼のことも祈ってあげたの?」と、歴史研究家が家の中を示しながら言った。
「はい」
「お人よしね」
「ところで、僕のルーツ、何かわかりました?」
「さっぱりわからないわ。得体が知れないと言い換えてもいいわね」
 蓮太郎は歴史研究家にペンを返した。
「テストでいい点を取るコツを知ってる? わからない問題は後回しにするの。最後にもう一度その問題に挑戦すればいいのよ」
 歴史研究家が手を差し出して言った。「また会いましょう」
 蓮太郎はその手を握って「はい」と言った。



○ 桃

 桃の花びらがやがて葉に変わり、最後に一つ、大きな実が流れてきた。
 どんぶらこっこどんぶらこっこ。
 鬼が食べてしまおうとしていた桃であろう。
 東の空で一番星が光った。
「おーい、お前さん」と、釣り人が蓮太郎を呼んだ。「さっき、わしとヌシのことは何も祈らんかったな?」
「わかりました?」
「そりゃわかるさ」と釣り人は笑った。「どう祈ったらいいかわからんのじゃろ。わしが勝てば奴は死ぬ。奴が生き続けるなら、わしは望みを果たせずにいつか死ぬ。釣るか釣られるか、それが釣りじゃ」
「はい」
「命がかかっとる。わしらはもう幸福じゃ。祈ってもらう必要はない。お前さんの判断は正しかった」



○ せむし男

「驚いたな。僕と同じ病気の人と会うのは初めてだ」と、せむし男は蓮太郎に言った。「君もそうなんじゃないか?」
「うん」
「お互い、不便な体だね」
「そうだね。首が上がらないから、上を見たい時はこうして体を傾けないといけないし」
「不便なことは他にもあるだろう。人から笑われたり」
「うん。でも、僕が最近出会った人たちは、誰も僕のことを笑ったりしなかった」
「運が良かったんだよ、それは」
「そうかもね」
「僕の話をしてもいいかい?」
「どうぞ」
「僕はアオモリという土地で生まれたんだ。さる名家の跡取り息子が女中に産ませた子でね。こんなナリだから、遊びに交ぜてもらえるのは鬼ごっこの時だけだった。勿論、鬼の役ばっかりで……いや、ごめん。やっぱりやめるよ、こんな話」
「ついさっきまで、そういう話が大好きな人がいたんだけどね」
「そうか。ちょっとタイミングが悪かったな」と、アオモリから来たせむし男は笑った。
「君に会えて良かったよ」と、どちらかが言った。どちらが言ったのかはさして重要ではない。二人とも思っていたことだからだ。



○ ストレートのランプ

 アオモリのせむし男は去り、夜が更けて、朝になった。
 落ちてきたのは、二倍のランプとよく似たランプであった。
「やぁ、僕は『ストレートのランプ』だよ!」とランプが言った。「どんなものでも一つだけ、まっすぐにすることができるよ!」
 蓮太郎は少し考えて、言った。「じゃあ、『キドタカシさんの心』をまっすぐにしてあげて」
「え、もう決めちゃうの?」
「うん」
「本当にそれでいいの? 君の背中をまっすぐにすることだってできるのに」
「いいんだ、僕は。不幸ではないからね。仲間も見つけたし」
「ふうん。じゃあ、ちょっと待ってて」
 ランプが淡く光り始めた。が、その光はすぐにしぼんで消えた。
「どうしたの?」
「……『キドタカシさんの心』は、ある意味既にまっすぐだね」
「……そっか」
「どうする?」
「じゃあ、ちょっと考えるよ」
「わかった」
 蓮太郎はランプをちゃぶ台の上に置いて、お気に入りの椅子に腰かけた。

(了)

滝壺生活

滝壺生活

男は滝壺で暮らしている。滝壺にはヒトやモノが次々と無傷で落ちてくる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted