いつか二人が一つになって(流 訊)
瞼を開いたとき、小さな部屋の中に午前七時が満ちていた。
そっと布団から這い出し、裸のまま台所へ行ってコップに水をつぎ、三回に分けて飲み干した。この間貰ったコーヒーメーカーが視界の端にちらりと映ったが、珈琲を作る気にはなれなかった。胸が埋まっているような、あるいはぽかりと透明の穴が空いているような、奇妙な静謐とした気持ちが壊れそうな気がしたのだ。透明な気持ちは透明なものでしか保つことはできない。そういうものだということは最近になって知った。
ゆらゆらと布団が敷かれた六畳間に戻ると、俺は静かにカーテンを開け、東向きの窓に差し込む朝日で体を焼いた。容赦ない白い光が窓ガラスも壁も布団も、俺という人間の世界を真っ白に消し去ろうとしているかのようだった。しかし世界は壊れない。俺の心が透明なうちは、この光が俺の世界を壊すことはできない。そのうちにこの光が朱く染まり、世界を燃やすようになれば、俺と俺の世界は跡形も無く燃え尽き、あとには一掴みの灰しか残らないだろう。しかしあの光が朱く染まる頃には、俺と俺の世界もまたやはり別の色に染まっているのだ。もっともその色は、太陽の朱よりはるかに不細工ではあるが。
背後で、布団の擦れる微かな音がした。
そっと振り返ると、掛け布団がずれて露わになった壬姫の白い背中が、朝日を鏡のように跳ね返していた。本人は呻き声一つあげないで、いつもと同じほとんど聞こえないような寝息をたてている。肺が活動している証拠に、背中が規則正しく上下に揺れていた。
そっと掛け布団を直してやろうとしたら、ひょいと細い手が伸びて布団の中に引っ張り込まれた。思った以上の力強さに面食らっていると、今度は音もなく唇を重ねられた。変な甘い味がした。
「どうしたんだよ?」
たっぷり五分以上続いたキスのあとで俺がそう訊いてやると、壬姫はくすくす悪戯した小学生のように笑って言った。
「鏡次がびっくりするかなと思って」
「そりゃしたが」
「そんだけ」
「さいですか」
小さく笑いながら布団から出ていこうとした華奢な背中に、今度はこちらが抱きついて逃がさないようにした。壬姫はちょっとだけもがいたが、すぐにくたりと力を抜いた。遠慮無く力一杯抱きしめると、壬姫の色白なわりに高い体温が全身に感じられた。
こうしていると、生きているんだといつも思う。逆に言えば、こうでもしないと他人を感じられない。まるで自分だけが生きているような、真っ黒な気分になる。
「寂しくなったの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
抱きしめたままそう言うと、壬姫はそれ以上何も言わずにされるがままにしてくれた。俺の無骨な肌と壬姫の繊細な肌が擦れ合って、風のような音がした。このままひっそりと時が進んだら、どれほど僥倖なのだろうとふと考えた。でも俺には、先のことなんか何一つ分からなかった。ただ自分の体温が透明な心に混じって消えて、壬姫の体温だけをずっと感じ続けていた。
「起きようか?」
「ごめん。もう少しだけこのままでいさせて」
「いいよ。でも、私からも一ついい?」
「なんだ?」
「鏡次のほう向かせて。顔見てたい」
「ああ、分かったよ」
これは、俺が腕を無くした一年後の話。
これは、壬姫が瞳を無くした一年後の話。
これは、自分の半分を亡くした二人の一年後の話。
深夜、私たち二人は並んで地下鉄のホームに立ちつくしていた。私はコカコーラのロング缶を右手に持っていて、鏡次は缶コーヒーのスチール缶をやっぱり右手に持っていた。終電が一分前に走り去ったホームで、右目の無い私と左腕の無い鏡次はぽかんと案山子のように立ちつくしていた。
「どうしようか?」
「どうもならんだろ」
「だよねえ」
仕方ないので、私たちは最寄りの駅から八駅離れた駅の外へ出た。地上に出ると、さっき振り切ったと思ったはずのネオンがぎらぎらと光り続けていた。無いはずの目がちくちくと痛んだ。鏡次も、肩から無い左腕の付け根をさすっている。
「ここ、うるさいね」
「眩しいしな」
「歩かない?」
「どこまで行こうか」
「どっちかのアパート」
「じゃ俺んちでいいか?」
「いいよ」
そうして二人、夜の街を歩いた。雲の無い夜で、頭上に白い月が一つ煌々と輝いていた。三八万キロも離れているようには見えなかったし、太陽の光を跳ね返すただの岩の塊にも到底見えなかった。優しい光だった。
歩き始めて三十分ぐらい経った頃、不意に鏡次が口を開いた。
「壬姫、哀しくならない?」
「悲しいの?」
「そっちじゃないけどね。俺の腕が、ひょっとしたらあの月の上にありそうな気がしたんだ。そして吹かない月の風に朽ちているんじゃないかなって、そんな気がしたんだ」
「そっか。哀しいんだね」
「ああ」
気がつくと、私たちは川の側を歩いていた。川面は穏やかに流れ、月の光をおっかなびっくり照り返していた。
鏡次はずっと持っていたコーヒーの缶をひょいと河原に向かって放った。スチール缶は山なりの軌道を描いて草むらに吸い込まれ、何の音も響かせなかった。きっと黒土の上に落ちたのだろう。
「あんな風に腕も捨ててきたような気がする」
呟きが夏の雨のように、大地に吸い込まれて消えた。
私も持っていたロング缶を放った。こちらはへなへなと揺れながら草むらに落ちて、こうんという空っぽな音を響かせた。
「私の瞳はあんな感じかな」
「今どこにあると思う?」
「鏡次のが月面なら、私は多分深海とかじゃない?」
「シーラカンスに食われるんじゃないか?」
「それでも変わらないよ。真っ暗な世界が見えるだけ」
「食われたらその食ったやつの世界が見えるのか?」
「そうだよ。みんな試してないだけでね」
「じゃ俺は何も感じれなさそうだな。月面だし」
そんな馬鹿なことを言って、互いの傷を舐め合いながら歩いた。誰ともすれ違わず、誰も見かけないままだった。昼間働き続けて夜に酒も呑んだのに、不思議と地球の裏側まで歩けそうな気がした。透明な気分って、こういうことなんだろうなと思った。
「ねえ鏡次」
「なんだ?」
だからあんな言葉が言えたのだろうか。
「私たち、こうやって生きはじめて何年経つ?」
「さあな。おおよそ二年ってとこだろ」
だから、何も後悔しなかったんだろうか。
「逆に訊くけど、俺たち何回ぐらい寝たっけ?」
「露骨だね。でも、二十回や三十回じゃないと思うよ」
だから躊躇わなかったのだろうか。
「変な人生生きてきたよね、私たち」
「そうだな。なんでまだ生きてるんだって気もするけどよ」
だから、今でも思い出せるんだろうか。
「俺たち、この先どうなると思う?」
「死ぬんじゃないの? 生きてるんだし」
まあ、なんとでも言えるだろう。
でも私は、嬉しかった。
「じゃあさ」
「ならよ」
感じれないかと思っていた。こんな美しいものを。
「「結婚しよう」」
「……………」
「……………」
そして、それは何年ぶりだっただろう。
私たちは向かい合って、そして突然泣き出した。互いの体を力一杯抱きしめて、自分が欠けたときにも出さなかったような大声を上げて泣いた。月が輝き、風が吹き、川がさざめき、草が揺れ、虫が鳴き、そして人は誰一人いなかった。まるで月の上のような穏やかさの中で、暖かさを思いだした私たちは、その夜中掛けて一生分の涙を流し続けた。まるで生まれたての赤ん坊が、生きるために大声で泣くように。
これは、私が瞳を無くした二年後の話。
これは、鏡次が腕を無くした二年後の話。
これは、二人が半分を埋め合ったその日の話。
この先のことは書くつもりはない。
当たり前の人間が二人いるだけだ。
幸せが二つある、ただそれだけだ。
(了)
いつか二人が一つになって(流 訊)