桜舞い散る

 山崎龍平は品川区西五反田の自宅マンションを出て,目黒川沿いに五反田駅に向かって歩いていた。目黒川は世田谷区・目黒区および品川区を流れる二級河川である。目黒川沿いは,春には桜並木の花がとても綺麗なのだが,夏になるとヘドロの臭いが立ち込めてくる。河川整備でヘドロの浚渫をすると,ヘドロと自転車が何台も引き上げられるような川だ。引っ越してきた当時はその臭いに悩まされたが,最近ではこの臭いも夏の風物詩に思えるようになっていた。浚渫などの河川整備で水質は改善されているようだが,引っ越してきた当初は田舎育ちの龍平には衝撃的であった。
 龍平の会社は東五反田にあったので,国道一号線と並行している片側一斜線の裏道を歩いて通っている。仕事の内容は,小学校から高校までの教材の編集・出版である。主に学習塾に教材の作成・販売をしている会社だ。模擬試験作成の下請けの仕事もしているので,入試が近づく年末になるとまさに猫の目を借りたいほどになる。龍平の担当は中学生から高校生までの数学である。合計六学年分の編集で一見大変そうであるが,すべての問題がデータベース化されているので,教科書の単元に合わせて問題をつなぎ合わせたり,式の数字を変えたりして新たに問題を作ることができるので,慣れれば意外と楽である。四年ごとの教科書改訂を控えたときが一番忙しくなる。
 教材は教科書準拠のものが売れ筋である。教科書の単元に沿った教材だ。その教材を作るには,前もって教科書会社に版権を支払って,閲覧用の教材を提供してもらう。この時期には残業も多くなり,体力的にきつくなってくるのだが,最も神経を使うのは製本にかかる直前の最終チェックである。誤字・脱字・数値ミスがないか確認していく。ミスの度合いによっては,教材の返品になり,大損害の可能性がある。教科書改訂は四年ごとに実施されるので,改訂が終わってしばらくは暇で,新たな教材の企画と製作をしている。
 学習塾が顧客なので,始業時間は十時半からである。学習塾の始業時間は大体午後からなのだ。西五反田から会社のある東五反田までは歩いて三十分位で着く。毎朝,会社近くの喫茶店でモーニングセットを食べてからの出勤するのが日課であった。その店は昔ながらの喫茶店だ。ファーストフードや外資系のコーヒーチェーン店では,人の出入りが多い上に騒々しく落ち着かない。大きめのゆったりとしたソファーに座ることができる喫茶店で,店主のこだわりのコーヒーを飲むと気分が落ち着く。龍平はコーヒーに少量の砂糖とミルクを入れて飲むが好みだ。コーヒーの苦味が適度に味わえる上に飲みやすいからだ。トーストとサラダがセットになっているモーニングサービスを食べ終えてから,コーヒーの香りが漂う空間で煙草を吸うのは龍平にとって至極の時間である。野球選手が打席に立つときに毎回同じ動作をするのと一緒で,毎日のルーティーンがあれば何事もうまくいくように思えて,毎朝同じ行動をとるようになっていた。朝食を食べ終えて午前十時過ぎに会社に出社する。
 その日,会社に到着すると社内は異様な雰囲気に包まれていた。
「何があったんだ」と龍平が事務員に聞くと,
「今日,二回目の不渡りを出して会社が倒産したそうよ。営業権を他の会社に売っちゃうんだって」
「本当か?自分の会社が倒産するなんて考えたこともなかったな。今日から無職になるのか」
「営業権を売った資金で,今月分の給料は出すって課長が言ってたわよ。それと社員の三分の一くらいの人は譲渡先で再雇用するみたいよ」
「そうか。自分の会社が倒産するなんて本当にびっくりだよな」と龍平は呟いた。
他の社員が「流通している教材は,そのまま譲渡先の甲陽社で販売するそうだ。だから編集担当のほとんどは新会社にそのまま移れるそうだ。編集以外の社員はどうなるか分からないが,山崎は編集だからよかったな」と言った。
隆平は一瞬考えてから「僕は新会社に行かないつもりです。新会社に行ったところで,細かい差別や嫌がらせをされて退職に追い込まれるのは目に見えていますよ。譲渡先は甲陽社なんですよね。少しだけその会社のことを知ってるんで気が進まないんですよ」
「どんな会社なんだ。最近販売部数を伸ばしているとは聞いていたが,ノルマとかきつい会社なのか。移ることになる前に知っておきたいんだが教えてくれないか」と先輩が聞いた。
「会社がブラックというわけではないんですがね。仲間意識の強い会社で,新人が長続きしないようですよ。古株の社員の力が強いということでしょうね。甲陽社に移るんなら,古株社員に取り入ることができないと長続きしませんよ。移ってきた社員の教材作りのノウハウを吸収したら,営業に回されて退職を強いられるのが関の山ですよ。まあ,僕の性に合わない会社というだけなんですがね」と龍平は言った。
 その日は社員全員が私物を持って帰るように言われた。明日に各社員の処遇をメールで伝えるそうだ。その日の夜に気が合う数人と酒を飲んだ。
「山崎は甲陽社で採用するといっても本当に行かないのか」
「肩身の狭い思いまでして働きたくないんだ。それに今の会社で働いていたのも,内定が出たのがここだけだった訳で,教材の編集がしたいという訳でもないしな」
「そんな単純な理由で働いていたのか。山崎は楽天家だな」
「甲陽社に採用されても,そこはスキルアップをする場所くらいに割り切って準備しておいた方がいいぞ」龍平は答えた。
「そうかもな」と同僚は独り言のように言った。
その日は再開を誓ってわかれた。皆自分のことで精一杯だろう。
 次の朝は起きてから今後の身の振り方を考えていた。教材の編集は好きでなった職ではないが,他にスキルがあるわけでもない。従って,働くとすれば同じような職種になってしまうだろう。貯金は七百万円位あるので,贅沢をしなければ数年は働かなくても飢えることはない。
「さてどうするか」と思案した。
 しばらく考えて,証券会社で働いている友人のことを思い出した。最近はインターネットで株取引が簡単にできる。その友人に口座を作らないと誘われたことがあったが,その時は編集で忙しくして断っていた。職が見つかるかもどうか分からない状況なので,株で少しでも稼ぐことができればありがたい。知り合いの証券マンが勧める銘柄を買っておけば,トータルではプラスになるだろうという単純な考えだ。さっそく友人に連絡をとり口座をつくることにした。
 違法なことはできないが,直接証券会社に出向きその場で口座を作ってもう程度の融通はしてもらった。そのときに,別の証券会社の口座を作るように勧められた。どんなネット証券でも通信障害が起こる可能性があって,そのときには売ることも買うこともできないのだ。仮に現物で持っている銘柄が急に値を下げたとき,通信障害が起これば売ることも買うこともできない。そのときにサブのネット証券の口座を持っていれば,信用売りで損失を最小限にすることも可能である。
 メイン口座をGMO証券,サブを大和証券にした。手数料はGMO証券が安いので通常の売買に使い,大和証券を長期で保有する口座にした。その友人からの忠告で,株の売買予想ソフトなど怪しいものには手を出すなということだった。「絶対の儲かる」と謳ったあやしいソフトが星の数ほどある。だが,絶対に儲かるソフトを公開する者はいないだろう。従って,それらのソフトでは結局損をするだけである。それと短期売買は一時的に成功しても長期でみると損失を増やしていく場合が多いそうだ。一番堅実なのは中期的投資だと友人は言った。
 その友人に一般的な株投資の知識を教えてもらった。お礼は高級寿司店での食事である。三時間程度のレクチャーだが,メモと録音をしながらだった。自分でも勉強して,自己流のルール作った。これでマイナスになるなら“しょうがいない”と諦めることにした。
 株の投資が少しでも稼ぐことができれば当面生活費の足しにはなるだろう。当初の投資金額は二つの口座合計で五百万円にした。元金が三百万円を割り込んだら働こうと決めた。今の賃貸マンションは,共益費を入れると七万五千円かかるので,これを何とかしなくてはならない。安い家賃のアパートに引っ越したとしても都内なら共益費を入れれば五万円位はかかるだろう。今より安くなっても三万円程度である。でも引っ越すときには敷金・礼金がかかり,金額は二十~三十万円くらい必要だ。
 家賃を安くした所へ引っ越したとしてしても,敷金・礼金の金額を回収するには十ヶ月以上かかってしまう。今のマンションは家賃の金額以外には不満はないので,引っ越すかどうかは悩ましいところだ。もう一度,龍平は自分の本当の夢は何だったのだろうと考えてみた。龍平は,中学,高校時代に何を将来に対して何を考えていたかを,記憶を辿って思いだそうとした。
 しばらく考えていると,龍平が中三のときに,少しの間だけ英語を教えてもらった美人のお姉さんのことを思い出した。そのお姉さんは当時二十四歳位だったと思うのだが,そのお姉さんが「将来,何になりたいの」と聞くので,龍平は迷わず「小説家です」と答えていた。そのとき,何故小説家になりたいと言ったかは思い出せないが,その当時,小説は結構読んでいた。そのお姉さんに憧れていて,見栄を切ったのかもしれないが,それからはいつも心の片隅に小説家になりたいという夢を持っていたことを思い出した。
「そうだ。小説を書こう」と龍平はいきなり叫んだ。
可能ならば,株で生活費を稼ぎつつ小説を書きたいと考えた。小説を書くルールをほとんど知らないのでこれも勉強しながらだ。そんなことを考えていると,そのお姉さんのことが懐かしく思えてきた。十歳年上だったので,今は三十八歳だろう。可愛らしくて知的な女性だった。そんなことを考えていると無性に会いたくなってくるのだが,会ったところでどうなるものではない。良家の娘だから,たぶん見合いの話はごまんとあったことだろう。
 龍平は会社を辞めてから,昼間は株の売買をして夕方からは小説を書く日が続いた。小説を書くといっても,まずは構想を考えることから始まる。原稿用紙二十枚くらい書いた時点で諦めた作品がいくつかある。どうしても特殊な能力など非現実的なものを書いてしまうのだ。読み返してみると駄作に思えてしまって諦めるパターンである。小説を書くことは,思ったよりエネルギーを使う作業である。
 会社を辞めて三ヶ月ほど経ってから,前の会社の同僚から食事の誘いがあった。断る理由もないし暇なので参加した。居酒屋であったが四人ほど来ていた。四人とも甲陽社に再雇用されている。
「今の会社はどうだ」と龍平が聞くと,
「やっぱり山崎の言った通り居心地は悪いな。表立って差別されるようなことはないんだが,『ここは私達の会社です』というメッセージが会話の中に感じられるんだよな」と元同僚が言った。
「逆の立場で考えてみなよ。甲陽社の社員がお前達を救ってやったと思ってもがしょうがないよ。首になりたくなかったら,まず会社に溶け込まなきゃ。仕事を率先してやって,リーダー格の社員に自分を認めさせることだね」と龍平が言うと
「なるほどな。自分のことを気にかけてくれる社員を作っていくわけか。山崎は世渡りがうまいな」と同僚が答えた。
「いや,別に僕は世渡りが上手くないですよ。世渡りが上手かったら会社を辞めたりしないよ」と龍平は言った。
「それもそうだな。しかし別に皮肉じゃないからな。山崎が言った通りだと感心したんだ」とその同僚社員は弁解した。
「分かっているよ。とにかく今の会社の同僚に認められて,且つスキルを上げる努力はした方がいいよ」龍平は言った。その後はとりとめのない話で終わり,三々五々家路についた。
 翌日起きてから住まいをどうするかを考えた。五反田に住みながら株で多少なりの収入を得ながら小説を書いた場合に何年もつか計算した。株の売買で毎月五万円位の利益があったとしても家賃・光熱費・食費で毎月十万円の貯金切り崩しになる。株で損をしたりすると目も当てられない状況になる。
 どうしようかと思案していたとき,ネットの記事でキャンピングカーに乗りながら全国を旅している人の記事を見た。その人の車は本格的なものだったが,軽自動車のワンボックスタイプでも可能なようだ。一日中狭い車中にいると血液の循環が悪くなりエコノミー症候群という病気になるらしい。適度な運動と水分補給が必要になるそうだ。このことに注意すれば問題はないようだ。思い立って,中古車店を回り,車中生活が可能な車を探した。いろいろ見て回ったのだが,初めからキャンピング仕様の車はほとんどなかったし,あったとしても非常に値段が高い。安い車を買って,自分で改造をするしかないようだ。寝床を確保できれば食事・風呂は外で済ませばいい。
 何台かの候補の中から,ワゴンタイプの軽自動車を買って自分で改造することにした。まず,後部座席を取り外してフラットにし,木の枠の上に板を張って後部スペースを平にした。そこにマットを引いて寝床にした。そして枠の下を収納スペースにして,当面の生活に必要なものを入れた。夜に電気を使うので,サブバッテリーも,収納スペースに置き,ACCからリレーを介してメインバッテリーからサブバッテリーを充電することにした。カーショップで必要なものを購入して一日かけて自作した。株の売買にはネット環境が必要になる。スマートフォンのデザリングでも可能だが,UQMAXの無線のルーターの契約をしているので,これを車中生活でも使うことにした。キャリアの携帯電話会社の回線を使用している会社なので,全国のほとんどのエリアをカバーしている。スマートフォンはドコモなので,2つの接続手段があれば,ネットは大丈夫だ。
 これで旅の準備は整ったので,一度鳥取県の実家に帰り,住所変更と車の登録をした。その後東京に帰り部屋を解約して,余った荷物はレンタルボックスに預けた。これで旅立ちの準備完了である。前の会社の同僚に連絡をして,東京で最後の飲み会をした。
「これが東京での最後の夜だよ」と龍平が言うと
「山崎は勇気があるな。すべてを捨てて全国を旅するなんて俺にはできないよ」と同僚が言った。
「何もすてる物がないからだよ。仕事も恋人もいなければ簡単に決心できるよ。」と龍平は言った。
「どのくらいの期間旅するんだ」と元同僚が聞くと
「貯金を切り崩すことになるけど,一定金額を切ったらどこかで働くよ。節約すれば数年間はもつだろう。」と龍平は言った。
「そうか,病気や車の運転には気をつけろよ。じゃあ,山崎の門出を祝して乾杯」と皆とグラスをあわせた。
 次の日の朝,龍平は車の中で目を覚ました。今日から旅の始まりである。とりあえず東京から西日本方面を目指すことにした。気の向くままに一日に四,五時間車で移動をして,残りの時間を執筆活動にあてるつもりだ。株は安定銘柄を買っているので,一日に数回株価をチェックする程度だ。車で中央道に沿うように一般道を進んだ。最初は国道二十号を走っていたのだが,気になるような場所は見つからなかった。国道沿いは案外に開けている。都会とまでは言わないが,沿道にはいろいろな店があり車の往来も多い。もう少し田舎を通りたいと思ったので,ナビを見ながら県道を進むことにした。山梨県道三十一号線は,甲府市から山梨市を結ぶルートだ。走り始めてしばらくしてから,この道を選んだのを少し後悔した。一部の区間の道が非常に狭くて,くねくね曲がっている。夜に走ったら事故を起こしそうだ。車で走っていると,この曲がりくねった道が自分の人生のように思えてきた。慎重に運転をしてこの県道を乗り切った。それからは通る道を予めネットで検索して,どんな道なのか確認してから通ることにした。
 県道三十一号線を通過して,三日間は車中泊をしたので体中が痛かった。民宿でも泊まろうと思いネットで検索した。一泊五千円という民宿があったので予約して行った。家庭的な宿で値段の割りには良心的だった。しかし,工事現場で働く人が多く宿泊していて,長期間住む気があるかと言われれば迷う土地だった。さらに工事現場が近いのかダンプカーの往来が多い。その宿は一泊だけして朝にはさらに西に向けて出発した。節約のため,六日車中泊して民宿に一泊するようにした。沿道にサウナがあれば立ち寄って風呂とサウナを利用した。ネットで地図を見ながら,色々な場所を回った。あるとき,公園の駐車場で数日,車中泊をしていた。土手に座ってノートパソコンで小説を書いていると,部活でランニング途中の中学生達が話しかけてきた。
「何やってるんですか」
「小説を書いてるんだよ」
「小説家なんですか」
「まだ作品は出してないけどね。全国を車で旅しながら書いているんだよ」
「へえ~,格好いいすね」
「そんなことないよ。仕事もしていないし,浮浪者みたいなものだよ。それより,こんなところにいると先生に怒られるぞ」
「は~い」と言いながら,生徒達はランニングをしながら学校へ帰っていった。
隆平はその夜は車中泊が続いてたので,サウナに泊まった。久しぶりに風呂に入り,カプセルの部屋を借りてゆっくりと寝た。次の日の午後,土手でノートパソコンで小説を書いていると昨日の部活帰りの中学生が寄ってきた。
「いつまでここにいるんですか」
「決めていないけど,明日にもいないかもしれないよ」
「じゃ,小説家の人には会ったことがないので,,メアドの交換をしてもらえませんか」
「いいけど,返信はすぐにはできないと思うけどそれでもいいか」
「ぜんぜんいいですよ」
龍平と中学生達は”小説家”という名前で登録をした。
「ありがとうございます。また連絡しますね」と言って生徒たちは帰っていった。
 車で移動するときの龍平の一日の行動は,深夜三時頃に起きて目的地まで運転する。大体午前九時前には到着するので,パソコンで日経平均株価と保有している銘柄の値動きが分かるツールを起動させておいて,時々値動きをチェックしながら小説を書いていた。株のおかげでニュースをよく見るようになったので,このため世の中の動きには詳しくなった。株は優良株で値上がりしそうなものを持っていたので,売買の回数は多くない。口座上ではプラスになっているが,急に値が動く場合があるのでチャートはチェックしなければならない。
その夜,土手で会った中学生達からメールが届いた。他愛もない質問なので,冗談を交えて返信している最中に警官から職質をされた。ずっと車中泊をしているので不審に思ったのだろう。
「ここで何をされているのですか」と警官が聞いた。
「全国を旅しながら小説を書いています」
「申し訳ないけど身分証を見せてもらえませんか」
「いいですよ」
警官は無線で龍平の身分照会をして,「ご協力ありがとうございました。いつまでここにおられるのですか。」と聞いた。
「決めてはいないのですが,あと数日で出発するつもりです。」と龍平は答えた。
「分かりました。お気をつけて」警官は敬礼をして帰っていった。
龍平はメールで「今,警察に職質されたんで,あと数日で出発するかも」と連絡しておいた。
次の日は午後三時過ぎに中学生がやってきた。
「今日は先生達の職員会議で部活がないんですよ。いろいろ話しを聞きたくて来ました」と中学生が言った。
「あんまり面白い話しもできないよ」
「そろそろ進路を決めないといけないんですよ。親や学校の先生の
言うことは全部"将来"のためになんですよ。先生の言うことも分かるんですが,将来やりたことも思いつかない状態でどうやって高校を選べばいいか分からないんですよね。小説家の人ならいいアドバスがもらえると思ったんですよ」
「そうか,志望校選びか。自分の将来がこれで決まると思えば,志望校を決めるのは難しいよな。大学や専門学校に行こうと思うなら,高校は普通科が一番だよ。上の学校に行く気がないなら工業,商業に行って資格をとることだね。大学出ても資格がないと就職も大変だしね。あとは総合学科に興味のあるコースがあればそれもいいよね。最後は一杯考えることだよ」と龍平は言った。中学生は六人ほどだったが,時間もあるので全員の話しを聞いてアドバイスすることにした。
大学や専門に行きたい,またははっきりとは決めていない生徒は普通科を勧めた。高校卒業後は働きたいという生徒には,趣味や興味のあることを聞いて工業,商業,総合学科のいずれかを勧めた。この地域の高校をろくに知りもしないのに,自分でも何かいい加減なアドバイスだとは思ったが,最終的に決める際は親と相談するだろう。高校の話しがおわったら,あとは雑談をして中学生達は帰っていった。次の日の夕方も中学生達がやってきて,最初は雑談のようなものだったが途中からやはり高校入試の話になった。
「俺,勉強やろうという気はあるんですけどなかなか成績上がらなくて。今日の宿題も難しいんですよ」と一人の生徒が言った。
「教えてやろうか。前の仕事で参考書の編集をやってたんで分かると思うよ。」と龍平が言った。
「本当ですか,お願いします」今日来ていた四人が公園の駐車場で龍平を中心に座り,即席の授業をした。
数学の平方根の問題だった。平方根の計算は,工夫すれば計算はかなり楽にできるのだが,その使い方までは学校では詳しくは教えてくれない。授業時間に限りがあるのだ。龍平はできるだけ平易にその使い方を教えてやった。
「なんだ,平方根って簡単なんですね。忘れないように家で勉強しますよ」と生徒達は帰っていった。
 それから二日間,生徒達は用もないのに学校帰りに龍平のところにきて二十分程話して帰っていった。三日目の昼にスーツ姿の男女二人が龍平を訪ねてきた。
「山崎さんですか。私どもは桜中学校の教員の高橋と山本と申します。生徒の間で山崎さんのことが話題になっていまして,学校としましても把握しておきたいと思いまして参りました。少しお時間を頂けませんか」とかなり慇懃な挨拶を受けた。
得体の知れぬ男が中学生と一緒にいれば怪しむのは仕方のないことだと思い,「いいですよ」と話しをすることにした。
「さしつかえなければ学校までご足労願えませんか。車で送迎します」
龍平は「とことん信用されてないようだな」と思ったが,ここで揉めるのも面倒なので,話だけして今日の夜にはここを発とうと考えた。一緒に先方の車で学校に行き,校長室に案内された。すぐに校長先生が現われて,
「今日は急に来ていただき恐縮です。少しお話を聞きたいと思いましてお招きしました」と言った。
龍平は何故この地にいるのか,中学生にどんな話をしたかなど丁寧に説明した。
校長は「生徒の間では山崎さんのことが話題になっていて,自分達のことを親身に考えてくれて,勉強も教えてもらったと言っていままして,どんな方かと思いご足労願った訳です。」と言った。
龍平は「何故生徒がそこまで慕ってくれるのかはっきりとは分かりませんが,たぶん放浪の旅をしながら小説を書いていることに冒険心を感じたからではないですか。私の前の職は,学習塾で使う教材の編集をしていまして,受験の知識が豊富だったこともあるでしょう」と言った。龍平が参考書の編集をしていたことを聞いて校長は驚いていたが,
「なるほど,それで教えることもできるわけですね」
龍平は「私がここにいることで学校に余計な心配をかけているようなので,今日の夜に旅を再開しようと思っています。これ以上生徒と係わりを持つと父兄から苦情が出るでしょうし,このあたりが潮時だと思っています」と言った。
「違うんです。たった数日間ですが,山崎さんと話しをした生徒達の目が今までとは変わったんです。ちょうど夏休みの一ヶ月間,用務員が持病の治療をすることになっていまして,その間を山崎さんにお願いできないかと思い来て頂いたのです」
龍平は生まれて始めて「え~!」と言って驚いてしまった。
「これは私の予想とはまるっきり違うのでびっくりしています」と言った。校長は「臨時採用と形で給料は出ますが,金額はたぶん十万円程度です。そのかわり衣食住の心配はいりません。住まいは用務員室で食事は一日五百円で二食分の弁当の配達を受けることができます。生徒から山崎さんの人柄は聞いていましたが,お話をしてみてその通りだということが分かりました。やっていただけるのなら,履歴書と身元保証人の書類に記入していただけませんか」
龍平には断る理由もないし,一ヶ月でも数万円の貯金はできる。「分かりました。やらせてもらいます」と話はまとまった。仕事は一週間後からだが,用務員室には今日から寝泊りしていいということである。その夜,龍平は久しぶりにゆっくりと寝た。次の日龍平が校舎の見回りをしていると,土手で知り合った生徒がびっくりし
て寄ってきた。「山崎さん,学校で何をしているんですか」
「用務員の先生が休みの間の一ヶ月間働くことになったんだよ。夏休みの宿題も教えてやるよ」
「じゃあ毎日会えるんですね」
最初の数日間は,中学校での夏休み補習のプリントを印刷して綴じる作業が続いた。これは結構大変な作業である。人手がなければ先生がやらないといけないので,学校の先生とは大変な職業である。中学校での夏休み補習は,授業と自習を組み合わせたものだった。龍平は自習をしているクラスをみることになっている。解き方が分からない生徒にヒントを与えるなどするのだが,私語を見張るということもしなければならない。しかし,何故か生徒達は真面目にやってくれて,宿題の解き方を教えるだけだったので楽であった。しかも,龍平がいるということで補習のクラスは大盛況だった。これには学校の先生達も驚き,「しばらくここにいてもらいたいくらいだ。」と龍平に声をかけた。周辺の塾からは,夏の講習会の生徒の欠席が多いという苦情が学校に入ったらしい。生徒を夏休みまで学校で拘束するなということであろう。龍平は今までに,周りからこんなに慕われたことがなかったので戸惑っている。慕ってくれる思いには応えたいと思うのだが,どう応えていいのか分からないことがある。ましてや相手は中学生である。夏休みも終わりに近づいた頃,龍平は希望者を募って,化石が出そうな鍵層がある川原に化石発掘の実習に生徒を連れていった。軍手,めがねなどを各自持参して弁当持ちで出かけた。午前中に三葉虫などの化石が見つかり,みんなテンションが上がっていた。昼に弁当を食べて午後4時までの予定である。そうすると,ある生徒が興奮して「山崎さん,見てください。」と言って叫んだ。龍平が見に行くと太い足の骨のようなものが地面に埋まっていた。龍平は,これが恐竜の化石なのかどうかは分からなかった。しかし,恐竜の化石という可能性も十分にあるので,慎重に周りの土砂を取り除いた。そして壊れないようにタオルで包んで持ち帰った。次の日,その生徒と一緒に教育委員会に持ち込んで鑑定を依頼した。その少年は,その夜興奮して寝つけなかったらしい。数日後,その骨は恐竜の化石だという鑑定が出た。新種ではないが「丹波竜」という種らしい。それから学校ではえらい騒ぎになった。普通なら発見した生徒と一緒に引率者ということで表舞台に出てもいいのだが,龍平は表舞台に出ることにはためらいがあった。「よそ者」の自分が輪の中心にいるのは場違いのような気がしたからだ。マスコミにも取り上げられたが,その対応は学校の先生にお任せした。こんな騒ぎにならなければもう少しこの地に居ようかと思っていたが,今回のことで町の人の噂の人になってしまい,気楽に歩けないのだ。買い物に行くと今回の発見のことで声をかけられることが度々あった。龍平は自分でも冷たい人間だなと思うのだが,この発見を機会に新たな地へ出発しようかと考えた。そんなことを考えていたとき,化石を発見した少年の親に招かれて家に行った。父親から嬉しそうに礼を言われて,謝礼まで貰った。親としては息子が学術的なことで有名になって誇らしいのだろう。その夜は少年の父親と酒を飲み明かした。車では帰ることができないので,客間に泊めてもらった。夏休み終了まであと一週間という日に,夏休みが終わったら旅に出発することを校長先生に伝えた。校長先生も「山崎さんには残って欲しいのですが,九月からは病欠の用務員が復帰するので,校長の職権ではどうにもならなりません。力不足で申し訳ない」と謝られた。
「校長先生,お気持ちだけで十分です。生徒には二学期の始業式の日に言って,その日のうちに発ちます。それまで内密にお願いします」と龍平は言った。
始業式の前日には校長先生幹事の送別会を開いてもらった。夏休みの間に顔見知りになり話すようになった女性教師は「二学期になったら一緒に食事でも行こうと思ってたのに~」と恨み言を言われた。女性にそう言われて悪い気はしなかったので,龍平は「小説を書き終わったら一度来ますよ」と言った。その女教師は「じゃ,メアド交換しましょ」と強引にアドレスの交換をさせられた。「これくらい,お世話になったからいいか」と全員の教師と連絡先を交換し合った。
そして二学期の始業式の日を迎えた。始業式の行事が終わり,校長先生が「用務員の山崎さんから話しがあります」と促された。
「みんなとは短い間でしたが,僕にもみなさんから学ぶところがたくさんありました。みなさんにも夢があるように僕にも夢があります。その実現のために,今日をもって用務員の職を辞してまた旅に出ます。これ以上この地にいると,みなさんとの別れが辛くなるばかりです。僕の近況はメールでお知らせするつもりですので,どうかみんなも有意義な学生生活と勉強を頑張ってください。ありがとうございました」と一気に話した。龍平はその足で出発するつもりだったが,先生から生徒に直接声をかけてほしいという要望があった。式典が終わると生徒は教室にもどり,提出物を出して学活があるらしい。龍平は教室を1つ1つ周り,別れの挨拶をした。泣いてくれる生徒もいたが,龍平がなぜ出発するかを説明すると皆分かってくれたようだった。全員と握手をして,小説を書き終わったら一度この町に来ることを約束した。生徒は寄せ書きをしたいと言っていたが,何か心の重荷になりそうな気がして,皆で写真を撮ることにした。そうこうしているうちに昼になった。今日は弁当持参の日だったらしく,全員で体育館に集まって食べることになった。龍平の分は校長が念のために一つ余分に頼んでくれていた物を貰った。ここにきて,ようやく龍平も別れが辛くなってきた。もう数か月ここに居ることも可能なんだという囁きが聞こえる。しかし,それを振り払って,龍平は昼食が終わって最後の挨拶をした。「もし小説家になって賞をとったら必ず挨拶に来ます。それまで待っていてください」と言った。
生徒達に見送られて龍平は車を走らせた。濃密な時間だったが小説はあまり書けていない。今度は静かなところで小説に没頭したいと考えていた。次は滋賀,京都方面を目指した。龍平の出身地の鳥取にだんだん近づいていくにつれて,途中地元にも寄ってみようかとも考えていた。英語を教えてくれたお姉さんは,憧れていたが名前を思い出せないのだ。会いたいと思っても名前さえも思い出せない自分が何故か情けなかった。そうぼんやりと考えているとき,同級生に好きだった女の子のことを思い出した。そういえば,岬という名前だった。二十八歳なのでもう結婚しているかもしれない。嫁いでなければ,実家に寄ったときに会ってみようかと考えた。
何日か山間部の町道のような道を走っていると,老夫婦が大きな荷物を台八車に載せて辛そうに押していた。農作物みたいだが大量に乗せている。
「手伝いましょうか」と言って車を降りた。老夫婦は一瞬戸惑った顔をしたが,夫の方が「じゃ,お願いしようかな」と言った。
「僕が曳きますから押してください」と言って台八車を曳いた。
「すいませんねぇ」
「どこまで曳けばいいですか」
「あの家までなんだが,坂があってな」
「大丈夫ですよ。任せてください」
龍平は坂道を息を切らしながら曳いていった。ようやく老夫婦の自宅までたどり着き「いつも二人で曳いて登っているんですか」と聞いた。
「今日は,ようけ乗せすぎたでな」と夫の方が言った。「まあ,お茶でも飲んでいってください」と冷えた麦茶を貰った。
「お二人で住んでいらっしゃるのですか」
「子供は大阪に出ていって会社員をやっとるよ」
「お二人だけだと,何かと大変ですよね」
「今までは何とかやってたが,年をとってからは体がきつくてな」
「あんたは何処の人かね」
「僕は鳥取の出身です。先月まで東京で働いていたんですが,会社を首になって,車で全国を旅しながら小説を書いているんですよ」
「へえ~。そりゃ大変だね」
龍平はこの土地のことが知りたくなり駄目もとで,「金はお支払いしますので,少しの間下宿させてもらえませんか」聞いてみた。
「金はいいけど,病院や買い物に車で連れていってもらうとありがたいんだが」
「いいんですか?それくらいお安い御用ですし,農作業も手伝いますよ。ただでは申し訳ないんで,食事代に一日千円でどうですか」
「お~い,よね,いいかね?」
「いいですよ」
「奥さんの名前は,よねさんなんですね。旦那さんの名前は何というのですか」
「川上作治だよ」
「いきなりよそ者が居つくと不審がられるので,駐在に行って話しをしてきますよ」
「じゃあ,わしも一緒に行くよ」
龍平と作治は車で駐在に出向き,事情を説明した。
「何かあったときの連絡先とか教えてもらえるかね」と駐在が言った。龍平は免許証を出して
「これでいいですか。コピーしてもいいですよ」と言った。
その晩は作治と二人で酒を飲み明かした。作治は嬉しそうににこにこして土地のことを話してくれた。過疎が進んで,周りは老人だけだそうだ。六十歳で青年,七十歳で中年,八十歳で初老,九十歳で老人のような感覚である。龍平は朝から昼の三時頃まで老夫婦の手伝いをすることにした。株はスマートフォンで朝九時,正午,午後三時の三回ほど確認していた。持っているのは安定株なので,実際の売買は一ヶ月に数回程度だったので問題はない。作治さんと一緒に畑に出て鍬を振るい,午後はよねさんの買い物に付き合ったり,病院のお供をした。これが一週間も続くと田舎といえどもさすがに噂になっていたようだ。夜,龍平たちが食事をしていると,一升瓶の酒を手に近所の老人が尋ねてきた。
「作治さんとこに,若いのが住んでると聞いて酒を持ってきたよ」と上がりこんできた。まあ,田舎だと近所はみんな親戚みたいなもので遠慮などない。
「お前さんかね,若いのは」と老人が言った。
「この人はこの地区の区長さんの田中弥平さんだ」と作治さんが言った。
「山崎龍平といいます。車で全国を旅しながら小説を書いていて,
先日川上さんの台八車を押してあげたことが縁で下宿させてもらっています」と自己紹介した。
「そうかね。いつまで作治さんのところにいるんだ」
「予定は決めていないんですよ。あと数ヶ月ご厄介になるかもしれ
ないし,来週あたり出発するかもしれません。小説がゆっくり書ければしばらくは居ようと思っています」
「そうかね。この地区は年寄りが多くなってしまって,何か行事をやろうにもどうにもならんのじゃ。空いている時間で構わないんじゃが,行事を手伝ってもらえれば有難いんだが,どうだろうか」
「手の空いているときなら構いませんよ。できない場合はちゃんと断りますから」
「謝礼は僅かしか出せないんだがいいかな」
「謝礼を貰うと責任が出てしまいますから,出さなくていいですよ。その代わり飯と酒を出してください」
「願ったり適ったりじゃ。早速だが,彼岸のときに祭りがあるんだが頼めるかな」
「いいですよ」
次の日から午前中は川上家の農作業,午後は祭りの準備を夕方までやった。笹や太鼓を準備したり,各家を回って役割分担を説明したりした。忙しかったが祭りまでだと割り切ってやっていた。若い者も何人かいるのだが,役場の公務員や農協職員だったりするので,平日の祭りの手伝いには,ほとん来なかった。祭りの出店は売り上げが少ないという理由で数年前からなくなったらしい。出店がないのは祭りじゃないと龍平は考え,大きめの鉄板を三枚ほど農家から借りて焼きそばを売る準備をした。材料は町からの補助金で賄えるそうだ。どれだけ売れるかわからないが,とりあえず五十食分用意した。当日はねじり鉢巻姿に祭りの法被を着て焼きそばを作った。補助金で作れたので無料でもよかったが,地区の会費を稼ぐために一皿百円で販売した。喉も渇くと思いレモネードを一杯五十円で売った。この二つの組み合わせが好評で完売した。里帰りした人からも好評で龍平も作ったかいがあった。祭りは,明日もう一日あるので同じ量だけ準備した。次の日も龍平の焼きそばとレモネードは好評で地区の老人たちもえらく喜んでくれた。その夜は慰労会が公民館であった。地区の住人や里帰りしている人も参加しての酒盛りである。みんな龍平に感謝してくれて,楽しい宴会であった。口々に「ずっと居てほしい。」と言ってきたが龍平は言葉を濁して答えていた。
「この先どうなるかわかりませんしね。もう少しいますから」
この祭りの際に三十歳以下の未婚の者が集まって飲み会があった。合コンみたいなもので,合計十人で男女五対五だった。気になる女の子もいたが,ここで付き合うと必然的にこの地に住むことになりそうで気が進まなかった。一緒に車で旅をしてくれとは言えるはずもない。
 祭りが終わると以前の過疎の町に戻った。市町村合併でできた町なので意味もなく広い。中心部は少しだけ開けているのだが,山間部では買い物にも不自由する。川上家の病院に行くときは,近所に声をかけて一緒に連れて行った。今のままでは過疎は進むだけで改善はしないだろう。何軒か無人の家もあった。龍平が次の場所に発った後,この地区の人はどうするのだろうかと少し心配になった。人を呼び戻すしかないのだが,町おこしみたいものはしていないようだった。川上さんの食卓に山菜がよく出されていたが,今さら山菜を売りにしたところで他の地域との差別化は難しい。出城のような遺跡もあるが原型が残っていない。それに龍平がこの町から居なくなっても続いていくものとなると,おいそれとは思いつかない。  
どうしようもないのかと考えていたとき,桜中学の生徒からメールがきた。中間テストが終わったので久しぶりに会いたいというものだった。ここから桜中までは五十キロメートル程度だ。町を活性化させるには若者の力がいつでも必要である。メールで今龍平がいるところに農業体験に来ないかと誘ってみた。「ぜひ行きたい」という返事だったが,段取りがついたら連絡するとメールを送った。川上家や近所の農家に中学生の体験農業を受け入れてくれるかどうか確認して回った。祭りで龍平の株が上がっていたので,みんな快諾してくれた。中学生たちに何人くるのか確認したところ男子六人だった。親にも承諾をとり,来るときはバスで,帰りは七人乗りのミニバンを持っている親が向かえに来てくれることになった。ちょうど中学校で振り替え休日があり,三連休なのでその期間に来ることになった。バスは乗り換えなければならないが,川上家の近くに停留所がある。朝十一時頃に六人は到着した。六人は龍平のもとに駆け寄って,「お久しぶりです。会いたかったですよ。山崎さんのために頑張りますよ」と言った。
 荷物を川上家に置いて,稲刈りの手伝いに行った。この地区では稲刈り機で刈った後,「はぜ」に十五~二十株を藁で束ねて逆さにつるして日干しをさせる。機械で強制乾燥させるよりも品質がいいのだ。農家の人がコンバインで稲を刈り,生徒たちと藁で括ってはぜに掛けていった。六人が二つのグループに分かれて作業したのだが,予定よりも早く仕事が進んだ。昼には作業中の農家から昼飯が出た。あぜ道に座って食べるのだが,これが旨いのだ。握り飯と味噌汁と沢庵だけだが,仕事の後に皆と食べるとことのほか美味しく感じる。夕方には三軒分の作業が終わった。今日作業した三軒の家が共同で夕食を作ってくれた。風呂に入りさっぱりした後で食事を頂いた。農家が気をきかしてくれて,中学生が好きそうなメニューにしてくれたが,地元で採れる山菜も出してくれた。
「これは何ですか。旨いんですけど」と一人が聞いた。
「山菜だよ」
「へえ~,これが山菜か。山に行けば一杯あるんですか。」
「食いきれないくらい採れるぞ」
「明日仕事が終わってから採りに行っていいですか」
「素人には場所と種類が分かんないだろうから,わしが一緒に行ってやるよ」
「ありがとうございます」
生徒と老人の会話がはずんだ。食事の後は,龍平と大人達は酒盛りになった。中学生も話しの輪に入り結構盛り上がった。夜の十時になり,さすがの中学生も疲れからか眠くなったようでその日はお開きになった。次の日は別の三軒の農家の作業を手伝う予定だ。泊まる家もその三軒のうちの一番大きな家である。大きな家は田畑も広いことを,作業をしながら実感した。予定では一軒目は三時間の予定だったが四時間かかった。朝の八時から始めたが昼食を挟んで午後一時に終わった。その後もひたすら稲刈りの手伝いをした。その後二軒の手伝いをして,終わったのは午後五時で,そろそろ暗くなる頃だった。その日は相当に疲れたが妙な達成感もあった。農家の人もとても喜んでくれて,夜はすき焼きをご馳走してくれた。翌日が最終日で夕方に中学生の親が向かえにくることになっていた。最終日の作業を始めたときには龍平や中学生は知らなかったのだが,中学生が猛烈な勢いで農作業を手伝っていると町でかなり噂になっていた。午前十時頃に町役場の職員が龍平に話しを聞きたいとやってきた。昼頃にはケーブルテレビの取材陣も来た。ケーブルテレビで町のニュースを定期的に放送しているらしい。中学生も緊張した面持ちで取材に応じていた。また,午後には学校関係者も来て,学生たちの中学校と交流をしたいという話しもあった。中学生は夕方頃,農家の人に案内してもらって山菜採りに行った。結構な量の山菜が採れたようだ。最終日の夕食は豪勢だった。上等な肉ですき焼きをしてくれ,寿司はスーパーに特別注文をしてくれたようだ。夕食が終わって,少し経ってから迎えの親が来た。農家ではお礼に米と中学生が採った山菜を渡し,再会を約束して中学生達は帰っていった。あとは龍平が桜中学校に橋渡しをするだけだ。桜中学校で,この町での体験農業をしてもらうのだ。これで町おこしができるかどうか分からないが一つのきっかけにはなるだろう。
 それから数日はこの話題で持ちきりである。龍平は役場から,今後も二つの中学校と町の交流のサポートをしてくれなかと話しがあった。役場の臨時職員として採用してもいいと言われたが,給料は東京でバイトをした方が高いかもしれない金額だ。食費と住居にほとんど費用はかからないようなので,生活には困ることはないのかもしれない。しかし,五反田の部屋を解約してまで全国を車で旅をして小説を書いていることを考えれば,この町に定住してしまうことには抵抗があった。それに農業体験の計画は動きだしており,龍平が係わらなくても進んでいくだろう。どうしようかと考えていたとき,再度,一ヶ月の短期でいいから臨時職員にならないという誘いがあった。一ヶ月の短期ならば悪くない話しだし,受けることにした。
 アルバイト扱いなのだが,役所の仕事は忙しい。時間超過すると残業代が発生するので,勤務時間は守られるのだが一日中飛び回っている感覚だ。中学校や教育委員会との打ち合わせ,農家を回って協力依頼などである。仕事だと割り切っていたが,川上家に帰宅すると毎日へとへとになっていた。その甲斐もあり計画は順調に進んで,あとは実施するだけの状態までになった。一ヶ月の臨時採用の期間も終わりに近づき,契約終了とともにこの町を出発することを伝えた。みんな残念がってくれたが,精一杯のことをしたという思いがあったので,心残りはあまりなかった。「地区の過疎化が少しでも改善されるのだからとよしとしよう」と思った。出発の日には地区のお年寄りが総出で見送ってくれた。
「生活ができなくなったらいつでも戻ってきていいんだよ」特に川上夫妻は涙を流して別れを惜しんでくれた。皆に挨拶をして車に乗り込みさらに西へ向かった。
 東京を出てから一年弱が経ち,龍平は久しぶりに実家に寄ろうと考えた。小説を書くのに実家ならゆっくりと生活費を心配しないで書けるだろう。最近では株で,一ヶ月に五万~十万円程度利益を上げている。龍平の実家は鳥取県の西部で島根県との県境に位置する田舎町である。盆地になっていて,ご他聞にもれず過疎が進んでいる。隣町と合併したのだが,龍平は最近まで知らなかった。家に一時的に帰ると連絡して車で向かった。高速道路は使わないで,遠回りになるが,一度日本海側に出て国道九号線を通った。九号線は山陰道という自動車道になっているが,旧道で景色を楽しみながら行った。前回,住民票と車の購入のための手続きに戻ったときは親戚に迎えにきてもらった。今回は自分で車を運転して帰ったのだが,新しい道になっていて迷ってしまった。新しい道はナビで更新されるまでの日数がかかるようで,何回か人に尋ねながら家に着いた。できるだけ静かに小説を書きたかったので,同級生たちには帰っていることはあえて言わないようにしていた。しかし,英語を教えてもらったお姉さんのことが気になって知り合いに調べてもらった。結婚して,今は東京に住んでいるということだった。子供も二人いるそうだ。これを聞いて,会えないというさびしい思いと幸せに暮らしているという安堵感が交じり合って複雑な思いである。
しばらくは本当に静かだったが,コンビニに酒などを買いに行っていたので一ヶ月もすると龍平が実家に帰っていることが知られてきた。そのことはいいのだが,田舎なのでここで仕事をしないのか,彼女はいるのかなど聞いてくるのが多かった。一々仕事を辞めて小説を書いていると説明するのも面倒なので,在宅で教材の編集をしていると説明しておいた。これなら毎日ノートパソコンに向かっていても不思議に思われない。時々同級生達と飲み会の誘いがあった。今まで疎遠だったので,できるだけ参加するようにしていた。あるとき,同窓会みたいな会があった。同窓会といえば,全員にはがき等で知らせて出欠の確認をするのだが,地元にいる者だけに連絡をして参加を募る小規模な会だった。同級生の女も多く参加していた。結婚しているのが半数以上だった。龍平が中学のときに好きだった田中岬はまだ結婚していないようだった。さりげなくその女に話しかける機会をつくり会話に参加した。
「山崎さんは結婚していないの?」
「まだだよ。車で旅をしながらパソコンで在宅の仕事をしていて,少しの間実家に厄介になっている身だよ。結婚していたらそんなことできないよ。田中さんはどうなんだい」
「結婚しようと思った人はいたけど別れちゃったの。山崎さんは結婚していないと言ったけど彼女はいるの」
「前の仕事をリストラになってから在宅の仕事を始めたんだけど,そのとき彼女とは別れたよ」
「そうなんだ」
「今だから言うけど,中学のとき好きだったんだ。でも告白できなくてね」
「そのときに言って欲しかったよ。そうすれば遠回りしなくてもよかったかも」
「でも,そのときは言えなくてね。よかったら今度ランチでも一緒にどうかな」
「それってデートに誘ってるの。応えはYESよ。メールで連絡して決めようよ」その日は連絡先だけ交換して別れた。
それからしばらくは小説を書くのに
没頭した。しかし,書いては書き直しの作業を繰り返しているので
思ったほど進んでいない。龍平は今までに十作ほど途中まで書いて完成していない作品がある。結末がなかなかうまく書けないのだ。途中まで書いて読み返してみると納得できないものだったりする。今書きかけの作品は,原稿用紙五十枚くらいで一旦完結させ,その後肉付けするように話を膨らませていき,原稿用紙百枚くらいの作品にすることを目標としている。下書きで使用するのは「エバモート」というクラウドを利用したソフトである。しかし,書いていると様々な誘惑がある。ネットの記事を見たり,動画サイトで視聴したりしてしまう。作家がホテルなどに「缶詰」になるのは,こういった誘惑を断ち切るためなのかもしれない。そういった誘惑と戦いながらも隆平はこつこつと小説を書いていた。
しばらくしてから田中岬からメールがあった。
「メールを送ってくれないけど,私のこと忘れちゃったの」という
メールが届いた。岬には今度ランチをしないかと誘った。岬は米子市の書店で働いているので,その書店の近くで産業道路という大きな道路沿いにあるパスタ専門店で待ち合わせをした。お昼は少し過ぎているのですぐに席に案内された。
「本当に久しぶりだよね。十二年は経ってるよね」
「ああ,みんな結婚したり子供がいたりと年月を感じるね」
「仕事は在宅ってどんな仕事?」
「実は在宅ってのは嘘なんだ。前の会社は業績が悪くてリストラされたんだ。早期退職者制度で,退職金が多く出たので全国を旅をしながら小説を書いているんだ」
「小説家として売れなかったらどうするの?」
「一作書いて目が出なかったら諦めるつもりだよ」
「そうなんだ。そのときは私が養ってあげようか」
「そのときは頼むよ」と明らかに冗談だと分かるように言った。
それから一ヶ月に数回岬とランチをした。その間も龍平は小説を書くのに没頭していた。苦労はあったが,実家に帰ってきてから三ヶ月後に小説は書きあがった。出版社に知り合いもいないので,懸賞小説に応募することにした。懸賞小説はいろいろあるが,有名な出版社に応募した。どうなるかは分からないが,何か一仕事を終えたときの気分で爽快である。しかし,どの社会でもそうであろうが,文壇の世界に素人の龍平が通用するとかいえば,否である可能性が高い。一作目から注目されるはずもないし,多くの作品の中に埋もれてしまうかもしれない。
作品の応募期日が過ぎたのだが何も連絡がない。だから懸賞小説は期待しないで,ネットの素人の小説投稿サイトにアップすることにした。投稿サイトはいくつかあるので,どれにしようか迷った。龍平が書いたのは大衆小説なのだが,そういったジャンルの投稿数が多いサイトにアップした。一週間後くらいから,少しずつ感想メールが届くようになり,それを読むのも楽しみになってきていた。この頃になると懸賞小説は諦めていたので,少しでも収入をえるために働かなくてはならない。伝手を頼って,遠い親戚の裕福な家の子供の家庭教師をすることにした。成績は平均くらいなのだが,親の希望が高かった。今年中3だが,県西部のトップの県立高校に入れたいらしい。成績が上がればボーナスを出すということなので喜んで引き受けた。
岬とは時々会っていたが,それ以上の関係にはなかなか発展しなかった。痺れを切らしたのか,岬が旅行に誘ってきた。一泊二日であるが,隠岐の島に行かないかという。車ごとフェリーに乗っていきたいので付き合ってくれと言った。一緒に泊まるのだから,それなりの覚悟があってのことだろう。龍平も岬のことが好きだった。
しかし,二人だけの旅行にいけば今後付き合うことになる。三十路前の女が,男と付き合うということは,結婚を前提にしてのことになる。岬と一緒いると楽しいし落ち着くが,今の龍平の稼ぎで養うのは無理だと分かっている。家庭教師の仕事を会社組織にでもし,効率よく仕事をして食っていくことができるようになるには少なくとも数年必要だ。家庭教師の方は,別の紹介があり週四回教えている。時給は高いのだが,一日の実働は三時間なので,収入は月に十万円程度にしかならない。小説は日の目を見ないようなので,なんとか家庭教師で生活していかなければならない。会社組織にするまでは,今の生徒数を増やしていくしかない。株はマイナスにはならないが,利益は一ヶ月で五万円から十万円の間である。実家で生活しているので,生活費はほとんどかからないが,この状態では結婚はできないかもしれない。
生活には未来が見出せない状態だったが,岬とは順調に付き合っていた。春には花見に行き,風で桜の花が舞い落ちるベンチでランチをした。夏には車で北陸地方まで海水浴に行った。秋には大山の紅葉狩りも一緒にした。龍平の人生において,この時期が一番平穏で満ち足りていた時期だったのかもしれない。狭い町なので,龍平と岬の関係は,同級生の間に知れ渡っていた。
「いつ一緒になるんだ」とか「結婚式には呼べよ」
というものまであった。岬と付き合い始めてから一年が経った。この頃から岬は将来の話をするようになった。三十歳前の女としは当然のことだろが,男には一大決心が要求される。女を愛していれば尚更である。「愛があれば乗り切ることができる」と言う者もいるが,それは綺麗ごとに過ぎない。愛していれば可能な限り幸せにする義務が生じる。それができなければ結婚はよくよく考えるべきである。龍平は岬を愛しているが,経的な苦労を掛けるのは目に見えている。岬がそれをすべて承知の上なら構わないが,そうとも言い切れない。龍平に会社勤めの良さを会話の端々に入れてくるのだ。最初は聞き流していたのだが,ここ数日はその会社の面接に行ってくれと頼んできた。この頃から龍平は,岬の「会社勤め」攻撃に悩まされていた。後から考えれば,もう少し慎重に考えればよかったと思うのだが,龍平に就職を勧めるのは岬一人の希望だと感じていた。世間体を気にしているのだと思っていた。
 そんなとき,岬が一度親に紹介したいと言ってきた。一年も付き合っているので,挨拶するのは必要であろう。次の日曜日に訪問することにした。岬の両親,龍平と岬とが向かい合う形で座った。岬の父親が「龍平君のことは岬から聞いている。岬も適齢期を逃しそうな年なので,早く落ち着いて欲しいと思っている。ただ,岬と一緒になるには一つ条件があってな。君は家庭教師をしているようだが,いわばアルバイトであって何の保障もないだろう。どこかきちんとした会社に就職することが岬と一緒になる条件だ」と言った。
「家庭教師ですが,近いうちに食べていけるように会社組織にしようと思っています。ようやく生徒の数も増えて,可能性が広がってきたところなんです。もう少しだけ待っていただけませんか」と龍平は答えた。
父親は「会社を作って失敗する可能性もあるだろう。この状態で結婚しても,世帯主は岬になってしまうだろう。生活力のない男に娘を嫁がせるわけにはいかないだろ。娘には幸せになって欲しいと思うのが親だ。会社は俺が紹介してもいい」
会社員でない龍平に娘をやれぬということだ。とにかく,岬と一緒になるために就職しろという一点張りである。
龍平はこれ以上話をしても主張が平行線になりそうだったので,「少し考えさせてください」と言って,岬の家をあとにした。その日は,夕食を一緒にとるという約束だったがそれどころではない。
父親の気持ちも十分に理解できる。自分の娘を定職に就いていない男と結婚させるのはいやだろう。それは理解できるのだが,龍平も結婚するために今やっている家庭教師を辞めて,会社勤めをするのは自分を否定しているようでいやだった。岬からメールで,父親の希望通り定職に就いてほしいと書いて送ってきた。メールでは解決しないので別の日に会って話しをした。
「将来,子供ができて家も買わなきゃいけないし,教育費もかかるんだよ。どんな会社でもいいから就職してちょうだい。親がアルバイトの男との結婚は許さないって言っているのよ」
「今でも二人合わせて,毎月十万円以上は貯金できるだろ。家庭教師の仕事を会社組織にすることは話しただろ。成功させる自信はあるし,もう少し待ってくれないか。保険にはきちんと入っているし,今のままじゃだめなのか。今教えている生徒を,就職したからもう教えられないと言うのは無責任だよ」
「でも,親が許さないし,私もだんながアルバイトじゃ肩身が狭いのよ。生徒にはうまく言ってよ」
「僕は君が好きだし,大切にしたいと思っているんだ。僕についてきてくれと言っても駄目なのか。」
「無理だよ,龍ちゃん。私も親を見捨てられないよ」
二人は重い空気に包まれた。龍平は岬を失いたくなかったが,自分がやりたくもない仕事をしなければならないことを考えると岬の希望を叶えてやれそうもなかった。自分の生き方を選択するか女を選択するかの決断である。
「今の僕には君とご両親の希望を叶えることはできそうもないよ。籍はすぐに入れてもいいんだけど,職についてはもう少し待ってもらうしかないんだ。これが無理なら別れるしかないよ」
「龍ちゃんが私の希望をきいてくると思ってたの。でも,無理なら龍ちゃんを束縛できないし別れるしかないよね」と泣きながら言った。結局,その日のうちに二人は別れることを決めた。
その夜,龍平歯はなかなか寝付けなかった。岬のために会社勤めをするべきだったのではないかとも考えた。しかし,話し合いで別れると決めたからには,もう岬と会わない方がいいし,会えば不幸になるだけだと思った。岬には幸せにもなってほしいのだ。
 龍平は数日落ち込んでいたが,気持ちを切り替えて家庭教師の仕事に気合を入れてやった。だが,地元で生活していると岬のことを思い出すので,米子市内の安アパートを借りることにした。車も処分して中古のバイクを買った。龍平はバイクの小型免許を持っていたので八十CCのバイクにした。米子市内のアパートを探してみて初めて知ったのだが,その家賃の安さにびっくりした。共益費込みで二万円の二Kのアパートを借りることができるのだ。龍平は,鉄筋コンクリートのマンションタイプのアパートを借りた。東京のレンタルボックスの荷物の中で使えそうな物をアパートに送る必要がある。そのため東京に行って荷物を処分した。その際に,以前の会社の同僚に連絡をとってみた。しかし,皆今の生活に忙しく,それぞれの近況を教えあっただけで会うことはなかった。会社を辞めて久しい元同僚には構っている暇がないのだろう。それも分かるのだが,さびしい気持ちの方が大きかった。
 新しく借りたアパートで家庭教師と小説の執筆に没頭した。岬を忘れたいという気持ちもあったのかもしれない。龍平と同じアパートに三十歳前くらいの女が住んでいた。夕方からばっちりメイクで出かけるのでキャバクラかもしれない。龍平も夕方から家庭教師なので,出かけるときによく出会った。出会えば挨拶程度をする程度だった。ある日,生徒が試験前で授業が長引いて午前零時頃帰ったのが,ばったりとその女に出会った。女は「薫」と名乗った。米子市内でクラブを経営しているそうだ。龍平も名前と仕事のことなど簡単な自己紹介をした。彼女は隆平に興味を持ったようで,店の名刺をくれて
「御代はいらないから今度飲みに来て。私の店だから心配しないで」と言った。
龍平は「はい,時間があれば」と答えた。
 薫は若くして店を持つだけあって,色気と知性を持ち合わせたような女だった。薫のせっかくの好意を無碍にもできないので,一度だけ店に行ってみようと思った。遅い時間は込むだろうと考え,夜の八時過ぎに訪れた。
「せっかくの誘いなんで,一度だけでもと思いやってきました」
「お酒は水割りでいいかしら」
「ロックで,それと冷たい水をグラスでお願いします」
龍平は招かれた身なので,近況をかい摘んで説明した。薫は龍平が小説を書いていることに興味があるらしく色々と聞いてきた。
「どんなジャンルの小説なの」
「どちらかといえば純文学ですね」
「本を出す計画はないの」
「懸賞小説には応募したのですがまったくだめで,ネットの小説投稿サイトに載せているだけですよ」
「山崎さんの小説,一回読ませてくれない」
「これが投稿サイトのアドレスです」と龍平はスマホからアドレスをコピーしてメールで送った。その後一時間もすると店が込み始めたので,薫に礼を言ってアパートに帰った。
 その数日後,午後九時頃薫から電話があった。
「今出版社の人が客で来てるんだけど,山崎さんのことを話してサイトの小説を読んでもらったら,一度会いたいと言ってるけど来ない?」
「はい,ぜひ話を聞きたいんで今から行きますよ」と言ってタクシーで店に行った。その出版社は準大手で小説も多数出版している。
名刺をくれたのだが,その人は編集局の社員だった。
「ネットに載っているのが全ての作品ですか」と出版社の社員は質問してきた。
「ネットに乗せている以外に途中で諦めた作品が十作位あります」
「それを少し手直して出すこども可能ですがどうですか」
「それは有難い話です。どうゆう風に手直しすればいいのか指示してくだされば直ぐにでも取り掛かります」編集局員とアドレスを交換してから小説談義に花を咲かせた。
 編集局員は十一時には帰っていった。薫の店は午前零時までだ。薫は龍平をアフターに誘った。少し高級な焼肉店で奢ってくれた。そこで何故龍平を出版社に紹介してくれたのかを聞いた。要は本を出して有名になったら店を利用して宣伝してほしいとのことだ。龍平は男女の仲になるのを少し期待したのだが肩透かしを食らった気分だった。しかし,そういったビジネスライクな取引なら気が楽である。龍平は薫の申し出を受け入れた。
 本を出版するといっても売れるかどうか分からない。従って,飯の種である家庭教師は続けなければならない。その年に担当した生徒がかなり優秀で,米子東高と国立大学に合格できた。それからは家庭教師を希望する生徒が徐々に増えてきた。同じ学年で偏差値が同じような場合は,龍平の家に来てもらって同時に指導した。その方が効率よく月謝をもらえる。出版社から助言をもらい,溜めていた小説の手直しも同時に行った。風の噂で岬は結婚したと聞いた。ホットした気持ちとさびしい気持ちが入り混じって複雑な思いだった。でも,時々岬のことを思い出してしまう。未練なのかなと思うときもあった。
 書き直して出版社に原稿を送ったのが六月初旬だった。それから校正が入り,時代考察・その他のチェックが一ヶ月ほどかかり,出版は八月初旬になった。ちょうど夏休みでいい機会なので,桜中学校と農家の川上家に行ってみようと考えた。桜中学と龍平と交流があった元生徒に連絡をとって尋ねることにした。今度は車ではなくバイクで行った。桜中学では,先生の半数が移動になっていたが,学校が連絡をとってくれて移動になった先生も集まってくれた。
小説が出版される直前で,少しだけ話題になっていたので,学校での公演も頼まれてしまった。化石を発見した生徒と親も来てくれた。地元マスコミの取材の申し込みもあり,ちょっとした有名人になっていた。こういったことには役所は抜け目がなく,今回の出版を町おこしに使わせてほしいと交渉してきた。町が潤うことならと思い,多少条件をつけて了承した。三日程度滞在の予定が一週間になってしまった。その後,川上家を訪ねた。二人とも健在ではあったが,やはり老いには勝てず体が小さくなったような気がした。桜中学校の農業体験も順調に実施されていて,町の活性化の一つになっていた。これだけでは過疎化は防げないが,このことをヒントに新たに序序に発展しているようだ。
 鳥取の地元に帰ったらえらい騒ぎになっていた。地元から小説家を輩出したということで取材や公演の依頼が山ときていた。雑誌などの取材は可能な限り薫の店で開店前の早い時間に受けた。予め事情を説明して,店の名前を出してくれるように交渉した。有名になると代償として不自由になってしまう。公演料・取材料金で収入は増えるが自由な時間がなくなる。家庭教師の仕事は,公演・取材などで時間が制約されてしまうので,回数を減らし三月の入試が終わった時点で止めにした。生活の拠点は米子市から変えていなかったが,アパートは変えていた。セキュリティ完備の3LDKのマンションだが,八万円代で新築同然の物件を借りることができた。この頃には龍平にも彼女はいたが,結婚までは考えていなかった。岬のことが尾を引いているのかもしれない。薫は同年代で話がしやすく,ホステスをしているだけあって知的で話しが上手いのだ。異性というよりビジネス的な関係なので何でも話せた。薫は龍平の小説家としてのステータスを店の宣伝に利用している。龍平は編集局員を紹介してもらい,取材と公演の依頼を,店を通してもらう機会も多い。有名になると様々な誘惑が多くなる。女のいる所は薫の店以外には行かないようにしている。従って,スポンサーなどからの接待も薫の店指定にしている。
 小説の映画化の話があった。龍平にとって夢のような話である。
映画では脚本が小説と違う場合がある。作家の手を離れるので仕方のないことだと割り切っていた。第三者の主観が入った作品は新たな刺激にもなる。肝心の小説は賞の対象作品にはなったが,賞を盗ることはできなかった。しかし,作品数は多かったので,文壇でそれなりに評価されていた。薫の店は繁盛していたが,繁盛すると他店の僻みを買うことにもなる。ホステスの引き抜きや嫌がらせで売り上げが減って経営的危機になったときには,龍平が資金援助もした。そんな関係なので割り切ったものであった。
 龍平が薫の紹介で小説を発表してから三年が経った。最近では,東京と地元での生活が半々くらいになっていた。東京では出版社との打ち合わせ,書店でのサイン会,講演会などをこなした。また,
文壇の大先輩方に誘われて食事会もあった。また,マスコミとの食事会もあったが,そういった場には必ず女性タレントが来ていた。最初は物珍しさもあって誘われれば参加していた。しかし,そういう場で芸能界の話を聞くにつれて,自分には水が合わないと感じるようになっていた。そういったこともあり,最近では地元にいる時間が多くなっていた。出版社との打ち合わせはスカイプでできるので,わざわざ東京まで行く必要もない。過疎地の地域活性化の活動と執筆に精を出していた。
 ある日,英語を教えてくれたお姉さんが,離婚をして実家に帰っていると聞いた。一度会ってみたいと思い伝手を頼って連絡してみた。会いたくないと言われるかもしれないが,それはそれで諦めがつく。幸いにも彼女の実家で会えることになった。お姉さんは,葉山由紀という。
「離婚して帰ってきちゃったの」
「残念でしたね。僕は小説を書き始めてから一度は葉山さんにお目にかかりたいと思っていました」
「随分有名になったのね」
「葉山さんに英語を教えてもらっていたときに,に将来の夢を聞かれたんです。その時,僕は小説家になりたいと言いました。それがきっかけで小説を書くことに決めたようなものなんです」
「私は覚えていないけど,それがきっかけだったら大成功ね」
「今はどうされているんですか」
「実家に帰ってきてから就職活動はしてるんだけど,四十歳過ぎの出戻りには厳しいよね」
「それなら僕の会社で働きませんか。会社といっても税金対策で作ったものなんです。社員は姪一人なんですが,僕の連絡係りというか対外的な窓口をやってもらえませんか」
「私には有難い話だけど本当にいいの」
「葉山さんは賢いし,大丈夫ですよ」
 一週間後から由紀は働き始めた。龍平にとって由紀は女性としてではなく,小説家になるきっかけを作ってくれた恩人で何か神々しい存在だった。東京での打ち合わせにも同行してもらっているが二人の間は社長と社員の関係のままだった。ただ,その顔を見ているだけで落ち着くのだ。龍平より十歳以上年上だが,年齢差は感じなかった。そんな間柄だったが,男女が四六時中一緒にいて何もないというのは不可能である。東京に打ち合わせに行ったときに,ホテルがダブルの一部屋しか空いていなかった。当然の成り行きで二人は結ばれた。由紀は若いときの病気で子供はできない体になったと言っていたが,そんなことは龍平には気にならなかった。体の関係がなくても構わないと思うくらい精神的なつながりを感じていた。
 由紀はできた女である。仕事はさることながら気遣いができる。一を言ったら十が分かるのだ。龍平の考えを先読みして必要な準備をしてくれる。それでいて可愛らしい。年齢は四十歳を超えているが,年齢を感じさせない清楚さと色気を持ち合わせている。一生かかっても巡り合えそうもないと思うほどである。こんないい女を手放してくれた元夫に感謝するしかない。仕事も由紀のおかげで順調にすすんだ。執筆活動も余計なことを考えなく済むので捗る。
 龍平は出来る限り,由紀との時間を大切にした。食事も必ず一緒にとり,公演の合間を縫って二人で散歩にもよく出かけた。二人でいるときが龍平にとって一番心が落ち着くのだ。二人とも過去については一切話さなかった。由紀の離婚した原因とか,岬の話しなど聞いても何にもならない。二人とも「今」の時間が大事だった。
あるとき,大阪の書店からサイン会の依頼があった。本へのサインとは別に色紙も頼まれるので,二時間早く会場に入ってひたすらサインを書いていた。書店内でのサイン会が始まり,一冊でも多く売れることを願ってサインをして握手を繰り返していた。サイン会が終わりに近づいたころ,一人の女本を差し出し,「龍ちゃん久ぶり」と言った。顔を上げて女を見たが,一瞬誰だか分からなかった。しかし,自分のことを「隆ちゃん」というのは岬だけだった。「ああ,久しぶり」と龍平は驚きながら答えた。「わざわざ大阪まで来てくれたのか」と龍平が聞くと「今,大阪に住んでいるの」と岬は言った。「そうなんだ。もうすぐ終わるから待ってて」と岬に言った。由紀には詳しく説明しなかったが,気をきかせてくれて,岬と二人きりにしてくれた。喫茶店で岬と待ち合わせた。
「あれから親の勧める人と結婚したんだけど,最悪の男で,三年で別れたの。その男と大阪に住んで働いていたから,そのまま大阪に住んでるの」
「苦労したんんだね」
と龍平は言ったが,実際これ以外の言葉は浮かんでこなかった。
「龍ちゃん,作家で成功しておめでとう。昔愛した人が成功して嬉しいよ。龍ちゃんの奥さんってどんな人?」
「付き合っている人はいるけど,まだ結婚はしていないんだ。なんか疲れているようだけど生活はできてるのか」
「子供がいて楽じゃないけど何とかがんばってる」
「実家には帰らないのか。できることが相談に乗ろうか」
「実家は兄が継いでいて両親と住んでるの。今さらバツイチ,子持ちで帰れないよ」
「生活が立ち行くように協力するよ」
「ありがとう。龍ちゃんと会えなかったらと思うと不安でしょうがなかったの」と言って岬は涙を流しながら,龍平の手を握り「ありがとう。」と何度も繰り返した。
 詳しく聞くと,岬は龍平と別れた後見合い結婚をしたそうだ。その相手がとんでもない男で,DVで別れたそうだ。岬の親は。有名になった龍平とよりを戻せといっているらしいが,岬の方できっぱりと断っているそうだ。実家は兄が継いでいて帰ることはできないらしい。親からも見離された岬を放っておくこともできず,金銭的な援助をした。男女の間はタイミングである。仮に由紀と付き合っていなければ岬とよりを戻したかもしれない。岬には比較的好条件の仕事を紹介し,当座の生活費を援助した。しかし,岬と会うと情が移ってしまいそうな気がして連絡するのは控えた。ふと,あの時岬が親の反対を押し切って,自分を選んでくれたなら今頃どうなっていたのだろうかと考えた。
 それから一年後に出版社から連絡が入った。岬の娘の涼香が出版社を尋ねてきて,龍平に連絡をとりたいと頼んだそうだ。話しを聞くと,「母親の体調が良くないので龍平に来て欲しい」と言っているそうだ。龍平は由紀を伴って岬の家に行った。家に着いたのが午後九時頃だったが岬は既に床に入っていた。
龍平が寝室に行くと,岬は慌てて起き上がろうとした。子供の言う通り顔色が悪い。
「涼香ちゃんが君のことを心配して,出版社に僕に連絡をとってくれと頼みに行ったそうだ。見るからに顔色が悪そうだし,明日にでも一緒に病院に行こう」と龍平が言った。
「もう病院に行って検査はしてもらったの。すい臓癌のステージ四で,余命半年って言われたの。それなら涼香と一緒にいる時間を少しでも多くしたくて自宅療養を選んだの」と岬が言った。
「涼香ちゃんは知ってるのか」
「まだ言ってないけど,薄々は気づいているかもしれない」
「明日にでも涼香ちゃんと一緒に僕の家に来いよ。近くの医院から看護師の巡回も頼むよ」
「それは有難いけど頼んで大丈夫?」
「気にしなくていいよ。涼香ちゃんの面倒もみるよ」
 次の日に岬が検査してもらった病院に行き,カルテと診断書をもらって龍平の家の近くの医院に持って行った。事情を説明して一週間に二回診察に来てもらうことにした。引越しは必要最低限の物を持って行き,その他はすべて処分した。由紀にも事情を説明した。由紀は快く承諾してくれて,岬と涼香の面倒をみてくれた。岬は,娘の涼香のことが心配だったようで,龍平と由紀が面倒をみると約束したので安心したようだ。それからしばらくは穏やかな日が続いたが,時間の経過は岬の体力を序序に奪っていった。岬が龍平の元に来て三ヵ月後,岬が龍平にお願いがあると言った。
「龍ちゃん,最後に桜の花が見たいの。」と岬が言った。外出すれば岬の体力を奪い,死期を早めるのは確実なのだが,今さらそれに意味があるとは思えなかった。それより岬の希望を適えてあげることの方が意味あることに思えた。気温が安定している日を選び,涼香は由紀に任せて,岬を車椅子に乗せて岬と二人きりで花見に出かけた。岬は桜の花を見ながら涙を流していた。龍平は岬の肩を抱き,頬を寄せ合って「君と一緒にはなれなかったが,会えて幸せだった。今までありがとう。」と言った。岬も「私も最後に龍ちゃんと一緒に過ごせて幸せでした」とか細い声で言った。
それから一週間後に笑顔で微笑みながら息を引き取った。人が死ぬときはかくあるべきという姿である。息を引き取る前に龍平と涼香に「私の命は尽きるけど,私の魂はいつでも一緒にいるよ。寂しがらないでね。由紀さんも今までありがとう」と言った。
岬の両親と話し合って事前にこちら来てもらっていたので臨終には間に合った。岬の両親の家は代替わりで,お兄さんが結婚して住んでいる。涼香を龍平と由紀が引き取ってくれるならありがたいと
返事があった。涼香も「転校しなくていいので龍平のところで生活したい」と言ってきた。由紀とも相談して引き取ることにした。
 それから奇妙な三人の生活が始まった。龍平と由紀は夫婦同然だが籍は入れていない。そして血のつながっていない龍平の元カノの子供の涼香との生活である。涼香は初めのうちは龍平と由紀に遠慮しているようだったが,由紀が学校行事にも参加するようなってからは打ち解けるようになってきた。龍平は執筆と公演,過疎地活性化の活動に忙しく活動していた。涼香が小学六年生のある日,父親参観があった。その前に由紀から,涼香が親のことで影口を言われていると話があった。同級生の親から話しを聞いたらしい。
放っておく訳にもいかないので,ちょうど参観日は空いていたので保護者として参加することにした。教室に入るとちょうど授業が始まったところだった。龍平はテレビにもコメンテーターとして多少出演していたので,保護者の何人かが気づいて話しかけてきた。「お子さんがいるのですか」と聞くので「涼香の保護者です」と答えた。サインを頼んでくる保護者もいたので教室の後方で少しざわついた。教師は教室の後ろまで来て「静かにしていただけませんか」と言ったが,すぐに龍平に気づき「失礼ですが,作家の山崎さんですか」と聞いた。「はい,涼香の保護者として来ました」と言った。
「涼香ちゃんの保護者さんとは知りませんでした」
「詳しくは後で説明します」
教師は教室の前に戻り,「有名な小説家の山崎さんが涼香ちゃんの保護者さんです。賞もたくさん受賞されています。よい機会なので少しお話して頂けませんか」と龍平に向かって言った。面倒ではあったが,涼香と先生の顔を立てて了承した。龍平は小学生が興味を持ちそうな話を十五分ほど話した。生徒達も笑いながら聞いてくれた。授業が終わり,その後懇談会があった。保護者は涼香と龍平の関係を質問するので,「涼香の母親とは同級生なんです。母親の病気を知ってから涼香の面倒をみています」と答えておいた。その日はサインや写真を一緒に撮ってお開きになった。涼香の保護者が名の知れた小説家だということで皆から一目置かれるようになった。これで陰口をたたかれることもないだろうと龍平は安心した。涼香はできた子供で,龍平と由紀の手を煩わせることなく成長していった。夏休みなどの長期休暇のときは一緒に旅行にも行った。岬の死は悲しいのだが,由紀と涼香との三人の生活は実に楽しいものだった。
 それから十年が経ち,龍平は一角の作家として認められていた。賞もいくつかとることもできた。涼香は来年で大学を卒業する。臨床検査技師の学校に通っていて,成績は上位の方だ。
龍平と由紀は年を重ね,おじさん・おばさんになっていたが仲は相変わらず仲むつましい。いつの頃からか,涼香は龍平と由紀を「お父さん・お母さん」と呼んでくれるようになっていた。四月中旬のある日,「今日,三人でお花見に行こうよ」と涼香が言った。
「まだ満開ではないよ」と龍平が言うと,
「本当のお母さんがお父さんと最後に見に行った桜が見たいの。でも散っていく桜は悲しすぎて見たくないの。二人が見た桜を,私も三人で見たいと思ったの」と涼香が言った。
 龍平は,涼香がそんなことを思っていたのかと感嘆した。「それなら,花見のあとお墓参りにも行こうか」と言うと,涼香は「うん,行きたい」と答えた。三人で仏壇の前で「これから桜を見に行ってくるね」と言って,岬の写真を携えて出発した。平日だったので人出はそんなに多くなかった。涼香を真ん中に三人で手をつないで歩いた。土手に腰を下ろして桜の木を見上げると,何枚かの花が散ってきた。ふいに岬のことを思い出し泣けてきた。涼香が「お父さん,何泣いているの」と言った。龍平は
「岬と行った花見のことを思い出したんだよ。あの日の岬は幸せそうで,花見に行って本当によかったと思ったんだ」
「お母さんは幸せだったよ。私といるときに言っていたよ。隆ちゃんと最後に花見に行けてよかったって」
由紀も一緒に泣いていた。そしてひとしきり泣いた後,涼香は「お母さんは見てくれるよ」と力強く言った。
龍平は二人に話し始めた。
「岬と別れたことをが,正しかったどうか今でも悩むときがあるんだ。あのときは,僕が小説を諦めることが結婚の条件だった。でも家庭教師の収入もある程度あって,小説を諦めることは考えられなかった。岬も親の反対を振り切って,一緒にはなれないと言っていたんで別れるしかなかったんだ。そのとき,僕が小説を諦めていれば岬はもう少し長生きできたかもしれない。でもそうなると,涼香は生まれてこなかったことになる。これを考えると,どれが正しかったのかは結果論でしか言えないように思えるんだ」
「お父さんは間違っていないよ。お母さんもお父さんには感謝していたよ。私も二人に大事にしてもらって幸せだよ」
「私も涼香のことを本当の子供だと思って接してきたのよ。こんないい子に育ってくれて嬉しいわ。岬さんが天国から守ってくれているのよ」と由紀も言った。
三人は,写真の中の岬が微笑んでいるように思えた。そのとき,一陣の風が吹き,桜の花が三人の周りを包んでいるかのように舞った。まるで,龍平・由紀・涼香の三人を守っているいるかのように
桜の花が舞い落ちてきた。

桜舞い散る

桜舞い散る

会社をリストラになった主人公が小説家を目指しながら車で旅をします。そこで出会った人との交流や主人公の恋愛を描いています。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-30

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