マーメイド

今年十一番目の台風が日本に接近しつつあった。雨曇りのせいか、光の落ち溜まったリビングで、優佳は寝起きの頭が、まだ本来の活動をしないまま、ぼんやりと朝のニュースを見ていた。

今年十一番目の台風が日本に接近しつつあった。

雨曇りのせいか、光の落ち溜まったリビングで、優佳は寝起きの頭が、まだ本来の活動をしないまま、ぼんやりと朝のニュースを見ていた。
東海地方にいるリポーターが、沿岸部からの強風と雨に煽られながら、ほとんど絶叫に近いくらいの声で、中継を行っている。今回の台風は過去に日本に近づいた台風の中でも、かなりの勢力を伴ったものらしい。
突風や豪雨による土砂崩れなどに注意するよう、何度も警戒を呼びかけている様子は、確かに今回の台風の大きさや、現場の緊迫感を伝えてはいる。しかし優佳には、手にした茶わんから伝わるご飯の温もりや、いつもと変わらない味噌汁の匂いによって、テレビと自分の今いる世界が、全く別の世界のような、そんな感覚にどうしても陥ってしまうのだった。
本格的な日本上陸は明日の午後のようだ。そして、優佳の住んでいるこの宮間市に一番接近するのは、明日の深夜からその翌日にかけてだという。
さっきまでリズミカルに聞こえていたまな板の音が、ふいにとぎれとぎれになったのに気付いて、優佳は台所へと視線を移した。
朝食の支度を終えても、まだ台所で何かを刻んでいた優佳の母、里恵が、決して手は止ないものの、相当テレビが気になるのか、プロ並みの包丁さばきにも影響が出ているようだ。その顔を見ると、いかにも心配そうで、たれ目に丸顔といった温和な顔にも、くっきりと眉間に皺が寄っている。
心配性の母をよそに、生まれつきおっとりとした性格の優佳は、徐々に活動し始めた頭と胃袋の催促を受けつつ、好物の卵かけご飯をパクつきながら、所詮、テレビ中継などというものは、特にひどい地域にスポットを当てているに違いないと、テレビの胡散臭さも感じて、食事に集中していた。
しかし、家の外では、まだ台風が本格的に近づいていないというのに、昨日あたりから雨が降ったりやんだりで、確実に台風が近づいている感じもしていた。
用心に越したことはないのかもしれない。
卵かけご飯の最後の一口を飲み終えて、残っていた味噌汁をガブリと口に含んだとたん、里恵が優佳を振り返った。
「あんまり雨がひどくなりそうだったら、今日の塾は休みなさいね」
里恵は先ほどよりも、さらに眉根を寄せて言ったのだった。

あの時、そう、母の心配そうな顔を見ていた時は、優佳も塾を休むすもりでいたのだ。塾を休むのが嫌だからでもなく、また、台風が怖かったからでもなく、母に余計な心配をかけさせてはいけないと思ったからだ。ところが、時間割最後の数学の授業で出された問題が、クラスメイトの回答や先生の解説を聞いてもちんぷんかんぷんで、その問題ひとつが理解できなかったばっかりに、雪崩式に次の問題も分からなくなり、ほとんど混乱したまま授業を終えた時には、雨が降ろうが風が吹こうが、今日の塾は休めないと心に決めていた。

塾が終ったのが、八時すぎ。頭の混乱も収まり、すっきりとした気分になったのは、ほんのつかの間だった。優佳は、塾の玄関から外の様子を見たとたん、正直、しまったと後悔した。
上から下へ降っているはずの雨は、強風で煽られ、まるで地面から吹き出しているようだった。母の心配そうな顔と、今朝方、母に言われた言葉がまざまざと脳裏によみがえってきた。
念のため、塾の公衆電話から自宅に電話を入れた時も、娘を心底心配している母の様子がひしひしと伝わってきて、申し訳なさで、胸が痛んだ。一人娘のせいか、母は深い愛情と共に、離れている時は、常に娘の安否を心配しているようなところがあった。だからこそ、自分の下手な行動で、母を心配させてはいけない、母の心をかき乱すようなことがあってはいけないと、自分自身に、過度なプレッシャーをかけるくらい優佳も母のことを気にかけていた。
今更、塾を休まなかったことを後悔しても、そして、心配そうな声を出して余計に母を不安にさせても仕方がない。
「大丈夫、大丈夫。今から帰るね」
出来るだけ明るく言ったつもりではあったが、優佳の心の嘘を表しているかのように、受話器を握っていた手は血の気が引いたようにひんやりと冷たくなっていた。
それにしても、このひどい雨はなんだろう。
塾の出入り口のドアに打ちつけられた雨は、生徒たちが出入りする度に、容赦なく中へと入り込み、ホールを水たまりにしていた。やむ気配のない雨に諦めた生徒たちは、キャーキャーと声を上げながら次から次へと外へ飛び出していく。
「おまえたち、気をつけて帰れよ」
塾の先生たちは、ホールにたまった水をモップでかき出しながら、生徒達を見送っていた。

優佳は、あらかじめ鞄に入れておいたレインコートを羽織り、上から下まできちんとボタンを留め、最後にフードを被ると、他の生徒達と共に外へ飛び出した。
入口付近に停めてある自転車は、ほとんどが風によって倒されていた。優佳は、雨で手が滑りながらも、何とか自分の自転車を起こして取りだすと、前かごに学生鞄を乱暴に押し込み、家路に向かってペダルを漕ぎだした。
すぐにレインコートの隙間から入り込んだ水が、制服を濡らした。靴下が濡れ、靴が冷たく、そして重く感じられた。
ふと、先日、クリーニングに出したもう一着の制服を取りに行っていないことに思い至った。ということは、必然的に、明日は学校指定のジャージで登校しなくてはいけない。
鮮やか過ぎるほどの緑色のジャージ。青蛙を連想してしまうあの緑色に身を包まなくてはならないのかと思うと今から憂鬱で仕方がなかった。
それよりも、と優佳は思った。前かごに乗せてある教科書の方が気がかりでならなかった。応急処置として、塾の先生からもらったゴミ捨て用のビニール袋に包んではいる。しかし、これだけの雨だ。どこからか雨が入り込まないとは言い切れない。優佳は青蛙色のジャージが嫌な以上に、よれよれとした教科書が嫌いだった。出来ることなら、これから勉強するところは、パリットした状態のままページをめくりたい。
とにかく、急いで帰ろう。
自分に言い聞かせるように優佳はさらに強くペダルを踏み込んだ。
普段ならば、自宅までは、自転車で約ニ十分。いつもはすいすい漕いでいる道も、前方から吹き付ける風に押されて、なかなか前に進まない。前かがみにして、強くペダルを踏んでも、まるで大きな壁に押し返されるようだった。
肉屋、八百屋、魚屋、花屋そして最後にコンビニ。いつもは賑やかなこの通りも、今は、全ての店舗のシャッターが閉じられている。コンビニだけは、いつも通りに明々と照明が点されてはいたが、そこに客の姿はなく、普段は店に姿を見せない白髪の店長が所在なさげにレジの内側に座っているのが見えた。
優佳はなかなか進まない自転車を漕いで、商店街を抜けていった。
商店街を右に曲がるとすぐに、この町の代表格ともいえる、さわち川が流れている。この川は、もっと下流の方へいくと本流となる呉越川にぶつかり、そのまま海へと続く。優佳の自宅へ続く道沿いでは、川幅は広い所でも三メートルくらいしかない。深さも五十センチくらいのものだ。小さな川ではあるが、遊場となる河原や河川敷がないため、人は入れないようになっている。
優佳の家へは、そのさわち川の流れに沿うようにして緩やかな上り坂を一・五キロほど進み、その後、やはり川に沿ってS字状に曲がるやや急な坂道をさらに五百メートルほど進んでいく。その先に見えてくるのは、さわち川によって分断される左右の町をつなぐタワネ橋である。そのタワネ橋のすぐ手前の道を右に折れて、ちょうど三件目が優佳の家だ。
優佳は、ただひたすらに、ペダルのひと漕ぎごとに目的を持たせるかのように、目印となる建物や標識を目指して慎重に進んで行った。
一昨日から降り続いた雨のせいか、普段は静かなこの川も姿を変えてしまっていた。本流の呉越川と違って、おとなし川と言われるくらい、このさわち川はいつも、静かにサラサラと流れている。しかし、今日に限っては、ザアザアと激しい音を立て、黄色く濁った水を次々と川下へ運んでいる。水量も普段とは比べ物にならないくらい増えている。
このまま雨が降り続いたら、そして水が増え続けたら、この川はどうなってしまうのだろう。
川を目の前にしながら恐ろしい考えが浮かんでくると、それに身体が反応したのか、背中のあたりがゾクリとした。
突然吹き付けてきた風にあおられて、自転車が大きくぐらりとかしいだ。慌ててブレーキをかけたため、大事には至らなかったが、少しでも気を抜いていたら、自転車ごと倒されかねないくらいの力だった。転々と続く街灯は大粒の雨のせいで、一定の光ではなく、目を眩ませるフラッシュのように怪しく光を放っている。風の音とフードに打ち付ける雨音、そして、川の音が共鳴し合い、優佳の不安をさらにあおり続けた。
ふいに気持ちが萎え、優佳はいったん自転車から降りて、手で押しながら進むことにした。顔に張り付いた髪の毛が気持ち悪く、そして打ち付ける雨が痛かった
それにしてもなんという雨だろう。こんな雨は初めてだ。
優佳は、人気のない道路の片隅で、孤独と不安に包まれながら、それでもそれらを吹き飛ばすように心を鼓舞しながら進んでいった。
坂道に差しかかるとさらに自転車が重く感じるようになった。
優佳は、不安で押しつぶされそうになる気持ちを何とか奮い起こす為に、母のことを考えることにした。
今日の夕食は何だろう。
きっと雨で濡れた優佳を心配して、風邪をひかないようにと、生姜やネギなどの薬味がたっぷりの、温かいものを用意して待っていてくれるに違いない。
几帳面で、料理好きの里恵は、まるで魔法をかけたみたいにあっという間にご飯支度をしてしまう。そして、何を作らせても美味しいのだ。優佳は里恵が作る和食が、特に好きだった。
無性に、母の待つあのあたたかい家に帰りたくなった。
そう思った時、ふと靴裏からざらざらとした感触が伝わってきた。そしてすぐに、自転車の車輪からも、ちりちりと砂利を踏むような音と振動が、ハンドルを通して伝わってきた。
それらは、たくさんの雨を含んでいて、優佳の足を掬い、坂道の下へと引っ張るような感触だった。びしょ濡れの顔をさらに濡れた手でぬぐい、なんとか足元を見ると、自分が立っているアスファルトのあたり一面が、びっしりと砂に覆われている。
どうしたのだろう。
不思議に思い、もっと前方に目をやると、自分のいる場所から五メーターくらい先まで、やはり黒っぽい砂が敷き詰められたようになっている。もう少し先はS字のカーブになっているため、優佳のいる場所からではよく見えなかった。
さらに自転車を押して進んでいくと、ころころと右側の斜面から無数の石が転がってきた。右側はコンクリートで補強された斜面だ。
なぜ、そんな場所から、石ころみたいなものが転がってきているのだろう。
優佳は左手で自転車を支え、右側の手でレインコートのフードを広げて右側の斜面を仰ぎみようとしたその瞬間、突然、地響きのような大きな轟音が身体を揺さぶった。
そしてそれは大きな揺れと共に黒い影となって、優佳の右側から襲ってきた。
土砂崩れ。
優佳がそう思ったと同時に、その大きな黒い影は、優佳と自転車をあっという間に飲み込み、左に流れるさわち川へと運んで行った。
優佳の意識はその大量の土砂とともに、さわち川へと流されていった。


「ただいま」
田宮里恵は、玄関を開けると、小さな声で呟いた。
ノソリノソリと重い足を引きずるようにしてリビングへ入ると、自分が働いているスーパーから買ってきた惣菜や食材が入った袋をダイニングテーブルの上に置き、リビングのさらに奥にある和室へと向かった。
近頃、急に秋めいてきて、昼夜の寒暖差が大きくなってきた。そのため、風邪が流行ってきていると耳にした。帰ってきたらすぐに、手洗いとうがいをしなくてはと思いながらも、ついつい無意識にも足は和室へと向いてしまうのだった。
里恵は、仏壇の前に座ると、そこに飾られている写真をしばらくの間、じっくりと眺めた。夫の雄介に似た、くりくりと丸い、少し小さめの瞳。その瞳をキラキラと輝かせ、ほんの少しだけ緩めた口元でこちらを見るその笑顔は、里恵の心の模様を写しているかのように、笑っているようでもあり、時には悲しそうにも見える。
今日の優佳はどんな風に見えるかと、その表情を伺った。
そして、何も語らないその笑顔に向かって静かに、静かに、しゃべりだした。
「優ちゃん、今日もお母さん、頑張ってきたよ。唐揚げなんてね、朝から何個揚げたかしらね。業務用のフライヤーにドボンドボンってお肉の塊をね、次々放り込むと、あっという間に揚がっちゃうのよね。やっぱり家庭用のコンロとは火力が違うからかしらね。味付けは、みんなに喜ばれるようにって、少し濃い目の味付けみたいよ。お母さんなら、もうちょっと生姜とかニンニクを足して、おしょうゆ味は抑え目にしたいんだけどね。でも、その濃い目の味付けが喜ばれているんだって。それからね、今日はチーフに褒められちゃったのよ。明日も頑張って下さいねって。レジ係は一日で外されちゃったけど、惣菜係なら、お母さんにも何とか頑張れそうよ。ううん、頑張らなきゃね。だって、簡単に辞めちゃったら、この仕事を紹介してくれた三沢さんに申し訳ないものね」
仏壇に飾られた制服姿の娘は、にこやかに母の言葉を聞いている。どんなにつらくて泣き叫ぼうと、その表情はまるで変わらず、ただただ、やさしく微笑んでいる。

あれから、三年。まだ三年。もう三年。
それが早かったのか、遅かったのか、里恵はまだ何も消化しきれていない。あの台風は、里恵からかわいい愛娘を奪い取っただけでなく、その身体すら、返してはくれなかった。
塾からかけてきたあの公衆電話からの会話が最後になろうとは。ずぶ濡れになりながらも「あー、ぬれ鼠になっちゃった」なんて明るく帰って来るだろうと思っていたのだ。
あの日、優佳がお風呂からあがってすぐに食べられるようにと、夕食の下ごしらえを終えて、時計を見た時だった。
けたたましく玄関のチャイムが鳴らされ、町内会長の青島さんが、顔色を変えて飛び込んできた時から、里恵の記憶は、すっぽり大きな毛布か何かに包まれたかのように曖昧で、今でも混沌としたままだ。呆然と玄関に立ち尽くした里恵を何度もゆすぶりながら、同じことを繰り返し言っている町内会長さんの姿を、そして、その皺の寄った口元がコマ送りのように動いているのをじっと見つめていた自分を覚えている。それはどこか遠くから別の自分がのぞき見しているような、そんな感覚だった。
「川のカーブのところで土砂崩れがあって、優佳ちゃんが、巻き込まれたみたいだ」
優佳が、巻き込まれた。何に、いったい、何に。
町内会長さんの言葉が、本当に理解出来たのは、いつだったか。里恵にも未だによく分かっていない。土砂崩れが起きた現場のすぐ近くまで、行った時だろうか。ガードレールらしき白い鉄の破片にぶら下がるように引っかかっている、優佳の自転車を見たときだろうか。夫の雄介が震えの止まらない私の身体を支えて、自宅に戻ったときだろうか。
とにかく夢であって欲しい、何かの間違いであって欲しいと繰り返し願っていたのだけは、ぼんやりと覚えている。
里恵の前に、見知った顔もそうでない顔もが、次々と、とにかくたくさん現れ、何かを話しかけ、そしていつの間にかどこかへ去っていった。その人達の口にする言葉は、慰めのようなものだったり、励ましのようなものだったり。耳には届いているはずのその言葉や音は、あまりのショックのせいで、それを理解するには至らなかった。
里恵達が家に戻った後も、救助隊の人達は、近くの土砂を取り除き、優佳を探そうと必死だった。が、結局、二次災害の心配もあり、台風が収まるまでは、大規模な捜索は出来ないとのことで、その日の捜索は打ち切られてしまったのだった。
台風が去ったと同時に、本格的な捜査は始まったが、とうとう優佳は見付からなかった。そして、大量の土砂と共に水嵩を増したさわち川によって、優佳の身体はきっと本流の呉越川へ、そして海へと流されていったに違いないという憶測のまま、二週間以上にも及ぶ捜索は終わってしまったのだった。
川は何事もなかったかのように再び静けさを取り戻し、人々の記憶からは、徐々に台風の記憶は薄れていった。
まだ十四歳という若さで失われた優佳。あの台風の日、突然、自分達の元から奪い取られてしまったという現実を受け入れられないまま、里恵は、夫の雄介とともに、ただ寂しさと悲しみに耐えるだけの毎日だった。
ふいにひょっこりと帰って来そうな気配がして、何度、玄関に飛び出して行ったことだろう。あれは全部夢だったのではないかと、現実感が失われ、自分さえも見失いそうにもなった。誰の慰めの言葉も届かず、自分の殻に閉じこもって、このまま自分も優佳と共に居なくなってしまいたいという衝動にかられたりもした。それは、夫の雄介も同じであった。休日は、何をするともなく、ただぼんやりとしていたり、夜は眠れないのか、深酒をして、朝、起きられずに会社を遅刻したり休んだりもした。そんな雄介を見ている度、辛いのは自分だけではない、夫も同じなのだと、自分に言い聞かせ、何とかこの三年という月日をやってこられたのだ。
スーパーの仕事は、そんな里恵を見かねた友人の三沢が、三年経ったのをいい機会だと言って紹介してくれたものだった。専業主婦で、今まで働いたことのない里恵だったが、それでもいいからと店長に紹介してくれたのだ。働くことになかなか決断の出来ない里恵だったが、三沢は焦らず、何度も足を運んでは、根気よく説得した。そんな三沢に根負けした形で、最後は承諾したのだった。
でも、最初はうまくは行かなかった。レジ係に配属されたのだが、慣れないレジ操作や接客で緊張からか手が震えたかと思うと、急に、目の前が真っ暗になり、その場にうずくまってしまったのだ。そんなことが何度かあり、これ以上迷惑をかけてはいけないからと、その日のうちに辞めたいと店長に告げに行った。すると店長は、それではという感じで、惣菜係に異動を決めてくれたのだ。たぶん三沢を通して全ての事情は、店長に伝えてあったのだろう。見た目は角刈りで厳つい顔の店長であったが、小動物を思わせるような優しい瞳で、長い目で見ますよ、というようなことを言われて、里恵もその言葉と好意に甘えようと、素直に思う事にしたのだった。

静まりかえったリビングに、壁掛け時計の音がコチリコチリと響いていた。それは、確実に時を刻んでいる音でもあり、優佳という娘がいなくなってからの時間の経過の音として里恵の胸に刻み続けている。
そろそろ雄介が帰ってくる時間だ。またぼんやり仏壇の前に座っていると、雄介が心配するに違いない。
のっそりと立ち上がると、里恵はその時初めて、部屋の電気がまだ付いていなかったことに気が付いた。

次の日も里恵は、スーパーの勤務を終えると真っすぐ自宅へと帰ってきた。鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。そして鍵を回した瞬間、ふと手元に違和感を覚えた。鍵を抜き、ドアを開けようとすると、開かない。もう一度、同じように鍵を差し込み、回してみると、今度は開いた。
鍵がかかっていなかったのだろうか。それとも朝、出かける時に閉め忘れたのだろうか。
普段から、火の元や鍵のかけ忘れに細心の注意を払っている里恵にとって、それは信じがたいことだった。実際に、今まで鍵をかけ忘れて出かけたことなどない。
それとも雄介が体調を崩し、帰ってきているのかもしれない。
一瞬の間にいろいろなことを考えながら、里恵は家の中に入った。
玄関には、雄介の靴はなく、里恵の使い古したサンダルが一足、きちんと揃えて置いてあるだけであった。
ということは、やはり鍵を閉め忘れたのだろうか。
急に不安になり、足早にリビングへ通じるドアを開けた。そして次の瞬間、里恵は驚きのあまり、両手を口に当てて、ヒュっと息を呑んだ。そのため、スーパーで買ってきた夕食の食材が入った袋が、里恵の手から離れ床に落ち、何かがグシャリとつぶれたような音がした。
しばらく里恵は、そのままの体勢で、固まっていた。
視線の先には、リビングのソファーに眠るひとりの老婆の姿があった。
老婆は、リビングに置いてある三人掛けの大きなソファーではなく、一人掛けのソファーにまるで子猫が身体を丸めるような体勢で、膝を抱えてすやすやと眠っていた。その顔はソファーに深く埋もれたようになっており里恵の場所からはよく見えない。短く切られた髪は透き通るほど白く、タンポポの綿毛のようにふわふわと頭の上であらゆる方向に飛び跳ねている。そして、身体には洗いざらしの木綿で作ったような服を纏っていた。まだ初秋とはいえ、夜は肌寒いくらいだというのに、その服には袖がなかった。服から飛び出したように出ているその手足の皮膚はとても薄く、ところどころ血管が浮き出ている。
段々と日が陰りつつあるものの、まだ家の中は電気をつけなくても平気なくらい光を保っていた。その中で、気持ち良さそうに眠っている見知らぬ老婆に、里恵はただ圧倒されていた。里恵の胸では、まるで時計の音に合わせるかのように、ドクンドクンと心臓が脈打っていた。里恵は何度も深呼吸をし、落ち着くように自分に言い聞かせた。
やっと少し気を取り戻し、そして改めて老婆を観察した。すると、ソファーの前にあるローテーブルの上に、小さな鈴のついた鍵が置いてあることに気がついた。
小さな赤い鈴の付いた鍵。
この鍵は、普段、里恵が持ち歩くものとは別の、いわゆる合鍵だ。そして、いつもは裏玄関の脇に置いてある植木鉢の底の下に隠してある。それを知っているのは、里恵と雄介だけだ。
このカギをどのように見つけて、この老婆は家に上がってきたのだろう。
里恵は鍵に近づこうとして、開けっぱなしだったリビングの扉に思い切りぶつかってしまった。その扉はさらに壁へとぶつかり、バンッという音が、静かなリビングに大きく響き渡った。

その瞬間、老婆はパチリと目を覚ました。
そして、ゆっくりと丸めていた身体を起こすと、椅子にもたれたまま、じっとこちらを見た。
その目は、寝ぼけているのか、初めはぼんやりと焦点があっていないように見えたが、里恵の存在を確認すると、目そのものがまるで生命を得たかのように、ぬるりと光を帯び、そして次の瞬間、皺とたるみよって奥へと追いやられた小さな瞳から、みるみる内に涙が溢れだしてきた。
里恵はどうしていいか分からず、老婆が泣き続けるのをじっと見つめていた。
やはり皺だらけの口をパクパクとさせ、声も音もなく泣き続けるその姿を眺めているうちに、もしかすると、どこかの介護施設から抜け出てきてしまったのではないだろうか、と思いついた。そのなんとも不可思議な出で立ちや行動からしても、常人とは思えない。だとしたら、この老婆は認知症を患っているのかもしれない。どういった理由で、また、どういった経路かは分からないが、とにかくこの老婆が我が家に突然、迷い込んでしまったに違いなかった。
ただ泣いているだけの老婆であったが、里恵に何かを訴えているようにも見えた。
彼女が認知症ならば、もしかしたら、里恵を家族と間違えているのかもしれない。
里恵はそっと老婆に近づいてみることにした。
里恵が老婆に近寄っても、老婆は相変わらず口をパクパクさせながら、泣き続けていた。
そんな老婆の身体を少し冷静になって観察すると、里恵は老婆の足がひどく汚れているのに気がついた。泥のようなものがこびり付き、そしてそれが乾いたような汚れが、老婆の足だけではなく、ソファーにも、そして、リビングの床にもついている。そういえば、玄関に靴はなかった。
もしかすると、裸足のまま施設から出てきてしまったのでは。

里恵はまず、この汚れをなんとかしなければと思い、風呂場からお湯を入れたバケツと湯桶を運び、タオルを数枚取ってきた。
「足が汚れておりますので、綺麗にしましょうね」
不思議そうに見ている老婆に、出来るだけ優しく声を掛けた。
老婆の涙はいつの間にか止まっていた。
里恵は老婆の足元に跪くと、そっと汚れた足をとった。触れた瞬間、驚いたのか、老婆は足を引っ込めようとした。
「綺麗にしましょうね」
老婆の足を両手で包みこむようにしてもう一度話しかけると、今度は、力が抜けたように里恵に足を委ねてきたのを感じ取った。里恵は、ぬるめのお湯を入れた湯桶に、老婆の片足を静かに浸した。みるみる内に湯桶の中は茶色く汚れて行った。反対の足も同じようにして汚れを取った。一度だけ顔をあげて老婆の顔を見ると、気持ちがいいのか、ほんの少し目を細めて遠くを見つめる姿が目に写った。
お湯を交換し、もう一度足を入れると、今度はお湯が濁らなかったので、新しいタオルで、拭いた。
老婆が座っているソファーの汚れは諦め、今度は床の汚れを取る為に、雑巾がけを始めた。汚れは玄関まで転々とついており、しかも乾いた泥は床にこびりつき、何度か拭かなければ綺麗にはならなかった。力を込めて繰り返し拭いているうちに、身体がじっとりと汗ばんでいた。
老婆はその様子を申し訳ないというでもなく、ただただ不思議そうな顔で見ているようだった。
床が綺麗になると、再び里恵は老婆に話しかけてみた。
「お話できますか。お名前とか言えるかしら。」
老婆は首を横に振り、そしてまた皺の寄った口を何か言いたげに動かした。
「では、字はかけるかしら、お名前とか住所やご家族の連絡先を書いてもらえるといいのだけれど」
すると、今度は首を小さく横に振りながら俯いてしまった。
里恵は困った。これでは、警察に届けたところで、老婆がどこから来たのか判明するまでは、かなり時間がかかるに違いない。
でも、ひとつ気がついたこともあった。老婆は話すことができないが、どうやら自分の言っている言葉の意味は分かるらしい。今は混乱しているようだが、もう少し時間をおけば、何か聞き出す手段が分かるかもしれない。
ふと、あたりが暗くなり始めているのに気がついて、里恵はリビングの明りをつけた。そしてカーテンを閉めた。老婆は天井の明りを眩しそうに眺めていた。
作業を終えてキッチンの方へ来た時、床に投げ出したままのスーパーの袋が目に写った。確か、驚いて床に落としてしまったのだ。
「あ、いけない、卵」
里恵は無意識のまま声を出し、スーパーの袋の中から、十個入りパックの卵を取り出した。見事に卵は半分ほどヒビが入ってしまっていた。
「あちゃー、これじゃ、今晩の夕食は卵料理ね」
そう、言った瞬間、自分がひどく空腹だという事に気がついた。
時計を見ると、あと一時間くらいで雄介も帰ってくる。
夕飯の支度をしなくてはと思い、老婆を振り返るとじっとつぶらな目で里恵を見つめている。
もしかしてあの人もお腹が空いているのかもしれない。
割れてしまった卵を見ているうちに、里恵はまた自分のやらなければいけない仕事が見つかったような気がして、少し気持ちが明るくなった。
そうね、まずは、腹ごしらえをしなくてはね。老婆のことは雄介が帰ってから一緒に考えればいいし。
どこの誰かも分からず、物を言わない老婆は奇妙で、気持ちが悪いと言えば確かにそうなのだが、泥棒ではなかっただけでも、良かったと思う事にした。

「夕飯の用意をしますので、少し待っていてくださいね」
返事がないのを承知で、一応、声を掛けておいた。そして、すばやくエプロンをつけると夕食の支度を始めた。
老婆はしばらくこちらを見ていたが、眠たいのか、また最初に見たときの体勢に戻り、目を閉じた。
完全に割れた卵は四個だった。里恵は、割れた卵をボールに移すと、そこへ、冷蔵庫へ常備してある筍の水煮を細切りにして加えた。そして缶詰のカニ缶を開けると、汁ごとどぼりと卵液に投入。そしてねぎの青い部分をたっぷりと切ってこれも加え、隠し味に砂糖を少々、そして酒、塩コショウを振った。
別の小鍋には、鳥ガラスープ、酢、しょうゆ、砂糖と片栗粉を目分量で入れ、弱火にかけ、餡を作った。次に、中くらいの鍋に、朝取ってあっただし汁を冷蔵庫から取り出し移すと、軽く水切りした豆腐と戻したわかめで味噌汁を作った。
タイマーを掛けて出かけていたので、ご飯はすでに炊けてある。里恵は多めに炊いておいてよかったと、ほっとした。
熱したフライパンにゴマ油をたらし、卵液を掬って落とすと、ジュワッという音と供に、すぐに焼き色がつき始めた。菜箸で大きくぐるりとかき混ぜ、焦げ目がつくのを待つ。その間に、茶碗に盛ったご飯をヘラでギュッと押し、その茶碗をひっくり返して深皿へ移した。そして焼きあがった卵を乗せ、上に餡をたっぷりとかけ、さらに湯がいてあったさやえんどうの細切りを飾り付けにパラパラとのせた。
ホカホカに出来上がった二人分の天津飯と、味噌汁、そして白菜漬けをテーブルに用意し、里恵は老婆のそばに行って起こそうとすると、まるで気配をうかがっていたかのように、老婆はムクリと起き上った。
「お口に合いますかどうか分かりませんが。少し召し上がりませんか。」
そっと尋ねると、老婆は、ゆっくりと立ち上がり、ダイニングテーブルに向かった。
お腹が空いていたのね。
天津飯の香りに吸い寄せられるようにして席に着いた老婆を見て里恵は思った。
老婆はテーブルに並べられている食事を見ると、再び目から涙を流しながら、少し震える手で天津飯を食べ始めた。
相当お腹が空いていたのだろう。小柄の老婆とは思えないほどの食べっぷりであった。
向かいに座った里恵は、老婆のことをあまり気にしないようなそぶりで、同じものを食べ始めたが、里恵が半分食べ終わらないうちに、老婆の方は食べ終えてしまった。
味噌汁も一滴も残さず呑み干した。
圧倒されたような、そして嬉しいような複雑な気分で、里恵は自分の分の箸を置き、老婆へお茶を入れてあげた。
老婆はだらだらと、とめどなく涙を流し、それをぬぐおうともしない。
認知症については良く分からなかったが、もしかするとこうやって感情を抑えらないのも症状の一つなのかもしれないと勝手に想像して、納得しようとした。

熱いお茶を一口飲み終えると、老婆はコクリコクリと船を漕ぎだした。
その姿はまるで、お腹が満腹になると食事中でも眠ってしまう幼児のようでもあった。
里恵は老婆のそばに寄ると、取りあえず最初に寝ていたソファーへと連れて行った。支える身体は、まるで羽のように軽かった。

ソファーに座ると、老婆はまた猫のように丸くなり、すぐに目を閉じたかと思うと、規則正しい寝息を立て始めた。
時計を見ると、雄介が帰る時間が近づいていた。雄介が突然の訪問者に驚かないようにと、鞄に閉まってあった携帯を取り出し、メールで連絡を入れた。
迷った挙句、文面は短く「見知らぬ老婆を家に預かっています。驚かないで下さい」とだけにした。

するとすぐに「今駅についた。とにかく帰る」とだけ返事が来た。
さて、雄介にどうやって事情を話そうかと悩んでいるとき、玄関でチャイムが鳴らされた。
雄介にしては早いし、そもそもチャイムを鳴らさない。
誰だろうと思い、老婆が起きださないのを横目で見ながら玄関へ急いだ。
扉を開けると、そこには若い警官がひとり立っていた。
もしや老婆を探しているのでは、と思ったが警察官は、「駅前交番のものです。巡回連絡にまいりました。最近、この辺で空き巣や放火などが起きておりますので、戸締りや日の元に気を付けてください。それから、不審な物や不審者を見つけたら、すぐに連絡してください」と礼儀正しく言った。
里恵は、老婆について警察官に言わねばと思ったが、なぜか喉に何かが詰まったように声が出せない。頭では言わなくてはと焦ってはいるのに、見えない手で、口がふさがれた様でもあった。しかし、次の瞬間には喉が軽くなったかと思うと、ふと息をついて口にしたのは、「はい、分かりました。どうも御苦労さまです」といかにも社交辞令的な挨拶であった。程なくして警察官は帰って行った。
なぜ自分は、老婆のことを言わなかったのだろう。
自分でも不思議でならなかった。言おう思えば言えたはずだ。なのに、自分は言わなかった。いや、言えなかった。明日、いずれにせよ警察には連絡するつもりであったというのに。もしも明日、警察に行き、先ほどの警官に会ったとしたら、間違いなく不審に思われてしまうだろう。
ぼんやりしているとガチャリと玄関の扉が開いて、雄介が現れた。
玄関に立ちつくしている里恵をみて、雄介は心底驚いたようだった。
「今ちょうど巡回中の警察官が来ていたものだから」
里恵がぎこちなく説明すると、「じゃあ、メールにあった老婆はもういないんだな」と靴を脱ぎながら言い、里恵より先にリビングの扉を開いて中に入ろうとした雄介だったが、そこで急に立ち止った。

しばらくの間、雄介はリビングのソファーで寝ている老婆を見て、立ちすくんでいた。
その姿を見ながら、里恵もいったい何から説明してよいやらと考えあぐねていたが、雄介は里恵の存在など忘れてしまったかのように、ただじっと食い入るように老婆を見つめていた。
「あなた、ちょっと」と里恵が中へ促すと、雄介もやっと気付いたようにリビングに入り、老婆に視線を向けたまま、ダイニングテーブルの椅子に座った。
里恵は帰ってきてからの様子を出来るだけ詳しく話した。
里恵の話しを聞いている間も、雄介の視線は老婆に注がれているままだ。
だからといって、ぼんやりとしているわけではなく、合鍵を勝手に使って、玄関を開けたとか、帰った時も、あの体勢で寝ていたなどの説明の時には、里恵の方を神妙な顔つきで振り返り、首をかしげた。
「それで、さっき来たという警察には届けたのか」
雄介は一通り最後まで聞き終えると、それだけ質問した。
「それが、なんとなく言いそびれてしまって」
里恵が、申し訳なさそうに小さく答えると、特にそれに対しては何も言わず、今度は腕を組んで黙り込んでしまった。

風呂を終えた雄介にも同じ天津飯を焼き、出した。お互い何か言いたいことはあるのだが、何を言ってよいのか分からず、静かな食卓となった。
老婆の為に和室に布団は敷いてはみたが、なんとなく熟睡している老婆を起こすのが躊躇われ、結局、そのままにしておくことにした。二人で二階の寝室へあがる前に、里恵が「老婆を置いてこのまま二人で二階へあがっても大丈夫だろうか」と言うと、雄介も「まあ、あの老婆が泥棒にも見えないしな。もし明日の朝いなくなっていたとしても、仕方ないというか」というようなことを呟いたので、里恵もまあそれもそうだと思い、廊下の電気だけを点けて、二階へ上がった。

それぞれのベッドに入ったものの、眠れない。階下が気になって仕方ないのだ。だからと言って、下へ降りて老婆の姿を確認しようという気にもならない。普段は寝つきがいいはずの雄介も気になるのか、隣のベッドで、何度も寝返りを打っている。
慣れない仕事で身体はかなり疲れているはずなのに、なかなか睡魔がやってくる気配がなかった。でも明日も遅番とはいえ、仕事が入っている。老婆を警察に連れて行き、もし時間がかかればそのままパートに出なければならない。それにはやはり一時でも早く眠りにつかねばと思うと、かえって眠気が飛んでいくようだった。普段は気にもならない目覚まし時計の音が、今夜に限っては妙に気になり、焦れば焦るほど、眠りは訪れなかった。

やっと眠気を模様してきて、うつらうつらし始めたとき、里恵は夢を見た。
そう、娘の夢だ。あの日以来、夢でもいいから娘に出てきてほしいと願っても、思いは通じず、里恵は夢の中ですら娘に会う事が出来ないでいた。そんな里恵の夢の中に、娘の優佳が鮮明に、そして生き生きと現れたのだ。

「ねえ、お母さん、明日は絶対起こしてよ、お願い、絶対だからね」
里恵の作った夕食を頬張りながら、少し怒り口調で優佳が言った。
「お父さん、お父さんでもいいから必ず起こしてよ、お願い」
にやにやしている里恵にしびれを切らして今度は、筑前煮の筍をぼりぼりと噛んでいる雄介に向かって頼み込んでいる。
中学にあがると、テニス部に入った優佳だったが、ダブルスを組んでいる友達と一緒に、朝連をする約束をしたのだ。優佳の出場する試合まであと一カ月。一試合でも多く勝つ為には、放課後の練習だけでは間に合わないと相談し、決めたことらしかった。約束をしたのはいいが、朝にめっぽう弱い優佳が、五時に起床し、五時半には学校近くのテニスコートで待ち合わせをしたというから、大問題だ。普段でさえ、目覚まし時計が鳴りっぱなしでも起きられず、里恵に何度も叩き起こされなくてはだめだと言うのに。
自分で決めたのだから、親に頼らずに自分でなんとかしなさいと、初めはキッパリと断った。娘の優佳とは逆に、里恵は朝に強い方だし、娘の為なら少しぐらいの早起きも苦にならない。しかし、娘の本気度を試してみたかったというのがあった。
里恵だけでなく、雄介にも同じようなことを言われて、一度は優佳も諦めかけた。しかし、よほど自分に自信がないのだろう。普段はあまり見せない粘りで、説得し続けたのだった。
「万が一ってこともあるから、お願い。こんなことで、ダブルスを組んだ友達の信頼を失いたくないの」
里恵と雄介の協力を何としてでも仰ごうと、優佳は必死だった。
最後は優佳に押し切られるようにして、里恵がしぶしぶ了解したのだった。

見ているものが、夢なのか、それとも現実なのか分からないまま、里恵は深い眠りに落ちて行った。

突然、バタンッと隣の部屋の扉が勢いよく開く音がして、里恵は飛び起きた。
カーテンから月明かりは差しているが、まだ薄暗い中、目を擦っていると、今度は、ダダダダっと階段を駆け降りる足音が聞こえてきた。

お母さんもお父さんも、どうして起こしてくれなかったのよ、
寝坊しちゃったじゃないの――

しまった、優佳を起こすはずが、寝坊してしまった。
ハッとして、ベッドサイドにあった目覚まし時計を見ると、まだ夜中の三時半を指している。
娘との約束は確か五時ではなかっただろうか。
そう思った瞬間、何か違和感を覚えた。
娘との約束?
そして次の瞬間には、あの台風の日のことがまざまざと蘇ってきた。
ああ、これは夢なんだ。私は夢と現実とが混ざり合ってしまったのだ。
胸から込み上げるものを感じて、思わず顔を両手で覆おうとした時、隣のベッドで、同じように雄介が驚いたように起き上っている姿が、月明かりによって映しだされていた。
雄介がゆっくりとした仕草で、ベッド脇のスタンドに灯りを点けた。
里恵は雄介の顔を見て、その目が何を言おうとしているのか、瞬時に理解した。
「今、優佳が」
里恵は声を枯らしながら、それだけ告げると、雄介もほとんどかすれ声で「ああ、今のは確かに、優佳だった」と言った。
静まりかえった寝室に里恵と雄介の息遣いが交互に響いた。
「とにかく、ちょっと下に降りてみよう」
里恵がどうして良いか分からずにいると、雄介がベッドから起き上がるので、里恵もふらつく足取りで、雄介に従って降りて行った。
さっき見たものが夢だったのか、今、この瞬間が夢の出来事なのか。ほとんど混乱しながらも、前を歩いている雄介のパジャマの感触は現実のものだと、妙にさえた頭で考えていた。

どこからか迷い込んできた老婆が寝ているという事を思い出したのは、二人で恐る恐るリビングの扉を開けたときだったろうか。
しかし、次の瞬間には、老婆のこともさっきの足音のことも全て消し飛んでいた。
雄介の肩越しに見えるリビングは、電気を消しているはずなのにユラユラした橙色の光によって明るく照らし出されていた。
あの光はなんだろう。
そんな疑問を抱いたのもほんのつかの間で、里恵は直ぐにこの蠢く光の正体に気付いた。
まるで生き物のように蠢く光は、家の外側に存在していた。それがちょうど自分達の家のすぐ脇に置いてある物置の場所から。それが分かった瞬間、パチパチという炎の音が耳に飛び込んできた。
「大変だ、消火器を用意してくれ」
雄介が、ほとんど転がるように玄関へと走り出していた。
里恵は廊下に放置してあった消火器を取り上げると、無我夢中で雄介の後を追った。
雄介は、水まき用のホースを使って、メラメラと燃え盛る物置に向かって勢いよく放水しているところだった。里恵は息をするのも忘れて、必死に消火栓を抜くと、雄介の放った水が届いていない場所に向けて白い粉を撒いた。

奇妙なくらい静かな夜だった。
火が消えた後もくすぶり続ける黒煙と物が焼けた鼻を突くほどの臭いの中、まるで里恵と雄介の家以外がすっぽりと大きな眠りに包まれてしまったかのような、静かな夜だった。
小さな物置とはいえ、ひとつが全て焼け落ちてしまうくらいの火事だったというのに、隣近所の誰もが騒ぎを嗅ぎつけてやってくる気配すらない。
里恵と雄介は物置から少し離れた、濡れていない場所を見つけると、お互いの身体を支え合うように座りこんだ。
物置に火が出るようなものは置いていない。放火かもしれないと思ったとたん、里恵は、昨夜訪れた警官の言葉を思い出していた。
すぐに警察や消防に届けなくては。でも・・・
里恵は、家の中が気になって仕方なかった。家の中に入って確認したい。でも怖い。その二つの思いで、どうしていいのか分からないでいた。
「家の中へ入ろう」
雄介が決意にも似た咳払いをひとつすると、落ち着いた声で言った。
里恵は思わず雄介の顔を振り返った。
雄介の表情を見て、言わずもがな自分と同じことを考えているのだと悟った。
二人はどちらからともなく、手をつなぐと、外壁をぐるりと回って玄関から家の中へ入って行った。

二人はリビングのドアを開けた。
何もなかった。
老婆の姿も、老婆を寝かせる為に敷いた布団もシーツも枕もなかった。里恵は自分の目を疑うように、和室に行き、押入れを開けると、そこには、布団が綺麗に畳まれたまま積まれていた。
次に台所へと向かった。天津飯を食べた皿が水切りかごに伏せてあった。そう、ふた組。老婆に用意したはずの皿も箸もお椀も湯のみも、そこには存在していなかった。
買い物袋を落とし、割ったはずの卵。生ゴミを入れてあるゴミ箱の中には、四個の殻が無造作に捨ててあった。
老婆は最初から存在していなかったというのだろうか。全て錯覚だったのだろうか。

「あなた、二階の優佳の部屋へ行ってみましょう」
再び手をつないだまま、里恵と雄介は階段を上がると、自分たちの寝室を通り過ぎ、一番奥にある優佳の部屋へと向かった。
カーテンをしていない部屋は、朝が訪れ始めたのか、うす明りが差していた。
そこには、娘の匂い、そして確かに娘の気配があった。さっきまで自分達の娘が、そこにいたのだ。里恵にも雄介にも、目には見えなくてもそこにちゃんと娘の存在を感じていた。
「ああ、これは」
優佳の学習机の隣に置いてある本棚から、まるで零れ落ちたかのように一冊の本が、カーペットに落ちていた。
それは、人魚姫の絵本だった。
優佳が小さいころから大好きで大切にしてきた絵本。何度も何度も読み返しては、その悲しいヒロインに涙したり、ときには怒ったりしながら、この本を愛し、この本とともに成長していった優佳。いつまでもこの悲哀の恋に魅了されたまま、大きくなってからもその本は優佳の宝物であった。
ああ、もしかしたら優佳はこの人魚姫の主人公のように。
そう思った時、雄介が「優佳は私たちに会いに来てくれたんだなあ」と呟いた。
「そして、私たちを助けてくれたんだなあ」
私たち家族しか知らない合鍵を使って家の中に入ってきた老婆。
そして、一人掛けのソファーにまるで子猫のように丸くなって眠る老婆。
似ても似つかない老婆の姿と、愛する娘の姿を無意識に重ねていた自分に、今になって気がついた。そう、あの老婆を見たときの違和感というよりも既視感。あの時、里恵は、死んだ優佳を老婆の中に感じ取っていたのだ。
優佳はいつもあのソファーに座っていた。まだ幼かった頃も、そして大きくなってからもまるで自分の指定席のように。そして、気がつくといつも子猫のように身体を丸くして寝入ってしまっていた。

台風によって川に流されてしまった優佳。きっと優佳は川の神様に頼み、自分の姿と声とを引き換えに、老婆の姿となって、ここへやってきたのだ。そして、優佳は私たちを救ってくれたのだ。
「それにしても、元気な足音だったな」
雄介は、まるで我が子のように絵本を何度も優しく撫でては、娘そっくりな瞳を潤ませていた。
里恵の目から一筋また一筋と涙が流れだした。読み古された一冊の絵本が、その涙を通して、まるで命が吹き込まれたようにキラキラと光り輝いて見えた。

いつの間にか夜が明けたのか、部屋の中には、日が差し込み、温かくそして優しく二人を包みこんでいた。

マーメイド

マーメイド

娘を亡くした夫婦の前に突然現れた奇妙な老婆。その正体はいったい・・・

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-20

Copyrighted
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