彼と彼女のセフレな関係

もしもこの世界に、運命というものが存在するとするならば、それはきっとすべての物事にたいして存在している。この人と親友になるのも運命、この人と付き合うのも運命、種を撒いた花が咲かないのも運命、行く先々で信号に引っ掛かるのも運命、今消ゴムでノートを消すことも運命。だからこそ、そんなものあってたまるかと思うあまり、逆に気にしてしまうのも事実。つまるところ、彼との関係を否定したいだけなのだが。
「舞子、顔、あげて。」
少しだけ呼吸が荒くなった彼に声をかけられる。情欲で男らしく光るその瞳は、かつての私が愛したものだ。
「ん。」
生々しく感触の残った唇を舐めあげる。
心なしか明るすぎる部屋のなかは少しだけ散らかっていて、ベッドの周辺を衣類とタバコの吸殻、酎ハイの空き瓶が彩っていた。
重たい色のカーテンが心なしか暗くしてくれていて、その暗さは私の気持ちと被って思えて、ありがたいような、苦しいような、矛盾感に苛まれた。



* *



元カレである翔成と俗にいうセックスフレンドになったのは、私たちの恋人という関係が消滅してから1ヶ月ほどあとのことである。もちかけてきたのは向こうだった。
今思えば、私たちの関係を成り立たせていたのはいつも彼で、声をかけてきたのも、告白してきたのも、皮肉なことに別れを告げたのも彼である。それなのにまたこうやって、新しい関係を彼の方から構築してきたのだ。今思えば、そのときに断ち切っておくべきだったのだ、そうすればこんなふうに悩むこともなく、平穏な日々を過ごすことができたのに。でもそのときの私は、なんでもいいからすがり付きたかった。私生活も仕事も、うまくいかない日が続いて、しゅみでもいいと学生時代から続けたきた陸上でもいちゃもんをつけられ、どうしようもなくなげやりになっていた。なんでもいい、慰めて、側にいてくれるならなんだって。そんなことが始まりで、今では取り返しがつかなくなって。
でも私は、別れを告げなければならない。少し前にできた新しい彼のためにも、一刻もはやくこの思いと決別したい。今はそのときだ。



* *



どれくらいたっただろうか、決断してから実行できずに、気づけばこのありさまだ。なんていって別れたらいいのかがわからない。
昼休みに同期と外に出た。青い空はどうしようもなくきれいな気がして、目が離せなかった。学生時代、彼に声をかけられた頃を思い出す。毎日ともだちと笑いあって、放課後は汗をいっぱいかいて走って、夜の電車で彼と話して。いとおしいほどの緊張と鼓動が再加熱する気がして、そっと目を閉じ歩みを止めた。
「やだ、どうしたの舞子、あぶないでしょこんなとこで急に止まっちゃ。」
普段はおちゃらけている印象の強いこの同期は、じつはしっかり者なお姉ちゃんである。歳は同じなのに、なぜか醸し出されるお姉ちゃん感、私が末っ子なせいもあるのかもしれないが、きっとそれだけではないなにかはちゃんと感じていた。
「なんか眩しいなーって思って。」
間違っていない。少し違うけど間違ってはいない。
「もう、気を付けなよ?太陽見てると暗いところとか真っ暗に見えるから。」
あ、それなんかわかる。昔したことがあった。姉と夏休みにセミの脱け殻を探していたときによく起こった現象だ。人体の不思議を身近に感じる瞬間である。
でもちがう、きっとその暗さは幼い頃はちっとも暗くなんてなくて、恐怖とか嫉妬なんて想いは全くなくて、チューブからだしたての黒のように、澄んでいたのだ。今は、たくさんの感情が混ざって暗くなるのだ。赤、茶、青、緑、ピンク、白、紫、数えきれない多数の色が重なって、私を構成する一部として汚れていくのだ。その汚れが、いつか己を成長させてくれるものと信じて。
「空が高いから、もう夏だよ。」
ふいに呟いた同期の言葉は、ほんのすこし私の中の悩みを掬いとってくれた気がした。



* *



「ごめん、やっぱりできない。」
まさかの最中の中断且つ関係の拒絶。
こんなタイミングでいうつもりはもちろんなかった。でも、これを逃すとまたずるずると長引いてしまうと頭のなかで反芻して、天秤にかけた結果、言うしかないように思えたのだ。
「は、」
驚きと動揺で動けない様子の彼が、ほんのすこし開けた口を閉じかけてやめ、苦しそうに笑った。
「え、待って、わけわかんないんだけど、ここでやめんの?出来ないってなに、乗り気だったじゃんさっきまで。」
「そう思われてもしかたないけど、合わせてただけなの。だからやめよう。」
「は?なにそれ、じゃぁ今までなんでしてたわけ?人のもんくわえて悦んでたくせにさぁ、実は嫌だったとか、なんなのまじで。」
私にたいしてか、彼自身に対してか、嘲笑うように口端をあげた。顔を隠すように手で覆いながらうつむき、軽い声で笑った。それが声だけであることは、言わずとも知れた事実である。
彼のものは、その心理と同様に元気がなくなって小さくしぼんでしまっていた。
「あーあー萎えちゃった。舞子のせいだよほんと。」
本当にね。
ここで彼に同情をしてはならない。もうこんな関係を続けないためにも。
「ばいばい。」
呟いた私は着てきたワンピースを素早く着て、逃げるように部屋を出た。急ぎすぎてブラジャーを置いてきてしまったことは一生の不覚である。



* *



私たちの関係はリセットされ、連絡もとらなくなっていた。そのことは、けして間違いではない。
「舞子ちゃん、きもちいい、きもちいいっ。」
翔成のすきだった部分は、ほかの人も同様に好きなようだ。
思い起こせば、多くのことを彼から教わっていた。キスのしかたも、抱き合いかたも、メールのタイミングも、気持ちの伝え方も。なにも知らなかったわたしに、恋愛を教えてくれたのは彼だった。
「舞子ちゃん、きもちいい?ここ?」
うん、たしかにそこ、私はそこを触られるのが大好きだった。
「どうされるのがいいの?教えて。」
言葉攻めは正直趣味じゃない。趣味云々の前に、そもそもそういったことにどう対応していいのかがわからない。なんて返すのが正解?あなたはなんて言われたいの?心のままに、趣味じゃないと告げればいい?
「あなたの、好きにして、気持ち良さそうにしてるの見ると、それできもちよくなっちゃう。」
首に腕を回して、引き寄せた唇に触れた。あたたかく気持ちのよいものだと教えてもらったはずのキスは、こんな感触だっただろうか?
私の言動に、嬉しそうに顔をほころばせたのち、私の膝を抱え込むのを見て、抱かれるのかと冷たく悟った。
バカな男だな。
その後、何度か抱き合ったあとに彼は背を向けて寝た。
翔成なら、こんなことしなかったな。
彼の部屋は必要最低限の物品しかなく、シンプルと言えば聞こえはいいが、生活感はまるでなかった。カーテンレールにさえ塵ひとつ乗っておらず、グレーとベージュの落ち着いた色彩で統一され、ショールームさながらである。
「綺麗すぎる。」
セックスは愛と欲にまみれたものだとも教わったことを思い出した。



* *



彼とのセックスでは物足りない。翔成に抱かれたい。
己の指では満足なんてできるはずもなく、幾度となく達してはまた指を滑らせた。渇望するあまり、そういう類いの玩具まで購入し、それらしい見た目のものにぞくりと背筋を震わせた。
指よりも太く大きいそれらに、入っていると感じ、敏感な場所を幾度となく愛撫し続けた。
「しょうせい、しょうせい。」
気がつけば何度も名前を呼んで。
物足りない、ちがう、ほしい。



* *



ああもう、我慢なんてできない。
「だからって、今さらなんなのよ。」
髪をくしゃっと握る。不甲斐ない。
彼から教わった多くのことをまとめても、この感情を整理する術は見つけられなかった。私の中の女の子は、まだ幼い。
このままではらちがあかない。電話帳の彼のページにいき、発信ボタンに焦点を合わせてはそらすことを繰り返した。
「舞子ー? 」
びくっと肩を大きく震わせたことに自分で気づいた。きゃあと可愛い悲鳴をあげられないところは女の子らしくないかもしれないけれど、雄叫びのような声を出さなかっただけましだろうか。いや、それすらも笑ってくれるのが翔成だ。
「やだもう、そんなにびっくりするなんて、いくらなんでもひどいよ?いったい何にそんなに真剣になってたわけ?」
相変わらず同僚は察しがよく、心配してくれた。そこで無遠慮に足を突っ込んでこない辺りも彼女のいいところであった。
「私、自分の気持ちもよくわからなくなってるのかも、なんて、考え込んじゃっててさ。」
今の状況を一言で表そうとしてこんなことをいった自分に驚いた。あれ、私、自分のことよくわかってなかったんだ。考え込んでたんだ。
「私、こんなに悩む性格だったっけ?わりとあっけらかんなつもりだったんだけど。」
だからこそ、悩みだすと止まらないのかもしれない。普段料理をしないひとは、まず何から取りかかれば最短で数品作れるかなど二の次だ。
「私が思うに、愛と憎悪は紙一重ではないよ!」
同僚の言葉は、唐突で意外だった。
「愛しいからこそ憎いなんて、あるわけないじゃない。憎い憎いと復唱している間、心の中では愛してるのよ、そうやって複雑になっていくのよ。」
「なんだか難しいこというね、意外とインテリ?」
真顔をいうとそれっぽいので、おどけて話して見せた。
この前見たドラマの受け売りだからね~と自慢げにいった彼女に、少しだけ心がほどけた。ああ、太陽も笑っているみたい。せめて嘲笑でないことを祈った。



* *



「ごめん、私たち別れよ。」
切り出したはいいものの、なんと言えばいいのかわからない。好きな人ができたとか?元カレが別れられないとか?付き合ってみたらなんか違ったとか?いや、最後のはいかんな。
彼の出方をうかがって、ちらちらと顔を見た。うつむいていて表情はわからない。でもけしていい雰囲気ではない。
「いや、うん、ちょっとびっくりしちゃって。」
最初に切り出したのは彼だった。
「なんかね、わかってはいたんだ、たぶん俺のことそんなに好きじゃないんだなって。だけどね、ほら、一応ちゃんと好きになったわけだし、付き合ってくれてるわけだし、頑張らないとなーって、思ってたんだけど。」
うつむいたまま、彼はそういった。罪悪感が襲ってくる。喉のすぐそこまで言葉が来ていた。
「でも別れるつもりはない。」
彼は顔をあげた。いつになく真剣、というと失礼かもしれない。しいていうなら、殺人でもおかしてしまいそうな集中力だった。
視線をそらせず、ぞくりと冷たく背筋をなにかが伝ったあと、生唾が口の中に溜まった。それを下すことさえも許されないような空気。
「別れなければ、彼と好きにしてくれて構わない。2番目でもいい。」
そんなこと。
頭のなかで天秤にかけられる良心と悪心。どちらかに傾けば、どちらかが再び強く動き出す。たいした時間でなくとも、一瞬はまるで数時間であるかのように感じられた。しかしそれは逆でもあった。



* *



夏の暑い日、一般的に猛暑日と呼ばれたその日、私は彼の部屋にいた。彼と言っても交際している例の人物ではなく、もう何年も前から知っている彼だ。行き慣れて勝手知ったるその部屋は、相変わらず飲み終わったビールの空き缶が転がり、服が脱ぎ散らかっていた。
「で、今さらセフレに戻りたいってこと?」
彼の言葉は冷たかった。しかしそこに温度がないわけではない、冷たさという温度が確認できるだけで幸いだった。
「セフレ、に、なっちゃうよね。彼が別れたくないっていうんだもん、それでは私はあなたがいい。」
正直に話をしているのが、吉と出るか凶とでるか。
「そんなさ、彼氏ができたからセフレやめるっていったやつが、セックスに満足できなくてセフレしたいって、笑えるわ。」
嘲笑に耐えられなくてうつむく。
「それでも、だめなの。あの人とすると、なんか違うなって、思っちゃうの。気づくと、翔成のことばっかり考えちゃうの。でも別れたくないって言われて、でも、翔成となんの関係もない今が絶えられないから、なにか変わらないかなって、それで。」
まるで子供のようないいわけだ。言葉は要領を得ていなくて、言いたいことを次から次へと、どうしようもない。気を抜いたら恥ずかしさと浅ましさで泣いてしまいそうな精神で、私は思いを伝え続けた。
「あーもう、わかった、わかったから。でも俺にも今は彼女がいる。」
彼女がいる。別に不思議な話ではない。私だってそうやって関係を終わらせたのだから。
「だけど、今のままの舞子を放ってはおけない。」
頭のなかが真っ白になった。それはつまり、関係が成り立つということだろうか。
「すぐ来てやれないかもしれない。舞子と彼女なら、今の彼女を優先する。セックスも前より淡白になるかもしれない、ほとんどしてやれないかもしれない、それでもいい?」
私はいつの間にか顔をあげていた。そのとき、頬に涙は伝っていなかった。



* *



「今回の賭けも私の勝ち~。」
軽い口調でそういうと、はい、と右手を広げた。
「ほんと、お前って嫌な女だなぁ。」
そういった彼はちっとも険悪そうな空気など出しておらず、むしろとても愉快そうに口許を緩めた。同時に、鞄のなかからブランドものの財布をだし、中身を確認する。
「あーあ、この十万が本当なら倍になって手元に来るはずだったのに。」
「そんなバカみたいに賭けてくるからよ。予想へたなんだから、もっと堅実にいきなさい!」
叱るようにいったあと、堅実なら予想もうまいか、と呟いた。
「とりあえず、次の賭けをしようぜハニー。」
「やだ、ふざけないでよ、いくらなんでもハニーはないわ、翔成。」
「舞子はこういうの喜ぶんだけどなぁ。」
はは、と乾いた笑いで口角をあげた彼の瞳は、どこか男らしく光っていた。
「ねぇ、次はセックスに舞子がどのくらい耐えられるかで賭けない?」
「お前、一応かわいい同僚相手にひどいなぁ。」
いたずらっぽい笑みで、舞子が聞いたら泣くぞ?と続けた。そしてタバコにライターで灯をともしたあと、煙をはきつつ。
「次は三十万で。」
いまだ掃除されず、ほこりののったカーテンレールから微弱な光が輝く。彼らは互いに体を絡めあい、服が脱ぎ散らかったベッドに倒れこんだ。

彼と彼女のセフレな関係

私の作品は、割合はさておき毎回身近にあった事柄をもとにかいています。今回もノンフィクションを含んでおります。

彼と彼女のセフレな関係

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-18

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