ガラスの向こうの小さなお話。

短編置き場です。創作企画などで書いた小話なども置いていきたいと思います。練習SSも載せていきたいと思います。

世界最後のウソつき

 嘘。誰かを騙すために言う、事実とは異なる言葉。人を傷つけ、時に人を救う。気まぐれで残酷で、優しいもの。
 そして、時に“真実”を物語る言葉。


 背の高いビルが建ち並ぶ街に隣接する山の奥、頂上近く。街を一望できるその場所に、その廃バスは捨てられていた。
苔生し、蔦に覆われ、前方の扉だけが開け放たれている。
緑と一体化し始めているそれは、長い年月を経ていることがよく分かった。
一方、外観とは裏腹に、かつては数多くの人々を乗せ、運んできたであろう車内は今も人の出入りの跡が見受けられた。
車内や三方シートにも蔦や苔が覆っているが、色とりどりの真新しいガラス瓶や手作りされたらしい二段組みの本棚が置いてある。
本棚には読み込まれた文庫本や絵本など数種類の本が収まっていた。
天井からは月や星のモビールがいくつか垂れ下がり、金魚や花の絵が描かれた風鈴と、
トンボ玉がついたウィンドチャイムが隙間風に煽られて涼しげな音を響かせる。
 そんな、秘密基地のようになっている廃バスの一番後ろの席で、くつろいだように横たわりながら本を読む少女の姿があった。
中古で手に入れたのか、文庫本の紙は日焼けで色あせ、何度もページをめくった跡がある。
少女はそんな本をうつ伏せになりながら、時々、その白く華奢な脚を軽くばたつかせ、本を読み進めていく。

()(さね)

 突如、大人というには幼く、子どもというには低い声の少年に深実と呼ばれた少女は脚の動きを止めた。
ゆっくりと本から顔を上げ、声のしたほうを見る。パーカーにジーンズ姿の少年が呆れたように深実を見下ろして立っていた。
深実は特に表情を変えることもなく起き上がると、開いていたページの間に栞紐をはさみ、本を閉じた。
それから再び顔を上げて少年を見上げると、ようやく微笑む。

「やあ、(たか)(つむ)

 深実は一言そう返し、ただニコニコしながら黙って貴績を見上げ続ける。
貴績はそんな純粋な笑みを向けてくる深実に目を細めた。

「なんだよ、気持ち悪い」

「いいや? とりあえず、座ったらいいんじゃないかな?」

 貴績は言われるままに深実の隣に腰掛けた。

「その本、どっから?」

「もらいものだよ」

 即答するが、貴績はそれが深実のよく通っている古本屋から買ってきたものだと知っている。
だが、何も言わずに「ふーん」とだけ返した。

「貴績はどうしてここに来たの?」

「理由はない」

「そっか」

 本当は、深実がいることを知っていて来るのだが、それを絶対に口には出さない。
そして深実も、ここにいれば貴績が来ることを知っているが、それを伝えることはない。
 二人はそれから黙って、ただぼんやりと前を向いていた。
時々吹く隙間風が、深実の背中まである長い髪を揺らす。
少しの時間、ただ黙って前を向いていた二人だが、貴績はそっと隣に座る深実の手を取り、軽く握った。
それを拒むことなく深実も同じように握り返す。言葉はない。



 貴績と深実。二人は友達というには親密で、恋人というには何か物足りなかった。
幼い頃からなんとなく互いを知り、傍にいるいわゆる幼馴染。
互いを想い慕い合っていることは、誰の目から見ても明白だった。本人同士もただなんとなく、それに気づいていた。
しかし、誰もそれを指摘することはなく、貴績も深実も想いを伝えることはなかった。
なぜなら、この世界は、真実を語ることは許されない世界だからだ。

 この世界は嘘でのみ廻っている。政治も、教育も、生活も、人間関係も全てが嘘である。
もちろん、地球という星が出来たときからそうだったわけではない。遠い、遠い昔は、真実が当たり前だった。
誰もが心からの言葉を口にしていた。心からの人間関係に傷つき、励まされていた。すべてが正直だった。
世界は変わってしまったのだ。だが、それも本当なのかは分からない、遠い昔のこと。
この世界ではそれすら本当だったのかなど、知る術はない。
 この星では生まれながらにして、全ての人間が嘘と真実を区別することができる。
それは本能として遺伝子の中に組み込まれているのか、それとももっと別の何かによってそれが可能なのかは分かっていない。
暗黙の秩序として当たり前のように根付いている。

“真実を口にしてはいけない”という、世界のルールが生まれながらにして頭の中に埋め込まれている。
それでも人々は、自分の中に「本当の気持ち」を持っている。それが、この世界の矛盾。
そもそも、人々の中に「本当に伝えたいこと」というものがなければ、“この世界は嘘のみで廻っている”などとは言えず、
“嘘”という言葉は存在しない。他人との関わりの中で、彼らは矛盾を抱えつつも暮らしている。
 では、そんな世界で本当を伝える……つまり、真実を伝えるということは、どういうことなのか。
真実を伝えた者は、すべての存在から記憶が失われる。知り合い、友人、家族、その他すべての生き物に忘れられてしまうのだ。
それはまるで、最初から存在などしていなかったかのように。
真実を伝え、忘れ去られてしまった者は、一番大事な記憶のみを残して一切の記憶を失う。
立つ、歩く、座る、呼吸をする以外の基本的な動作(例えば食べる、寝る、話すなど)すらも忘れてしまうのだ。
ただその一番大切な記憶を頼りに、思い入れのある場所を廃人のように彷徨い続け、やがては衰弱死していく。
そういった存在になってしまった者たちを人々は「(きょ)真者(しんしゃ)」と呼んだ。
 虚真者は人々から忘れられ、自身もほぼ記憶を失っている状態ではあるが、
思い入れのある場所ならばどんな場所であろうと彷徨いだす。
例え、それが公共の施設やかつては自分が住んでいた場所であっても。虚真者になってしまった者を憶えている存在はいない。
家族であったとしても記憶はない。そういった場所を徘徊する虚真者は社会的に「邪魔者」として扱われ、
それぞれの地域が管轄している虚真者収容センターに送られる。
センターでは思い入れのある場所にすらいられなくなった虚真者を留めておくが、やはりいずれは衰弱死するのだ。

 人々は真実を伝えるということが=(イコール)死を意味することを本能で知っている。
無意識に虚真者になることを恐れている。生きていくためには、嘘を吐き続けるしかないことを知っている。
 至極稀に、関わりのあった虚真者のことを、微かに覚えていることがあるらしい。
虚真者となった人間について、断片的な記憶を保持しているのだとか。
しかし、それは奇跡とも呼べることであり、実際に彼らと関わりのあった者の中で、彼らを覚えていた者の話を聞いたことはない。
第一、そんな話をすればそれも“真実”ということになり、虚真者になってしまう。
この世界で唯一許された真実であり、真実を語った者の成れの果てである虚真者。
 この星で生きる限り、矛盾を抱えながらも嘘を吐き続けることで生きていくしかない。



 貴績は、深実と手を繋ぎながらぼんやりとしていたが、外から差し込む光が眩しさを増したことで我に返った。
いつの間にか日が暮れ始めていたようだ。

「あー……」

 もう帰らなくてはならない時間になったことに小さく落胆の声を上げる。
それから、何も反応を示さない隣の深実に目を向けた。

「……はぁ」

 いつの間にか眠っていたらしい少女を見て、貴績は呆れたようにため息をつく。
そこには愛情にも似た優しい笑みがあった。そっと、少しだけ強く、眠る彼女の手を握る。
すると、その温かさに気がついて深実は目を覚ました。
ゆっくりと長い睫毛を揺らしながら瞼を上げ、一度だけ瞬きをしたのちに、貴績に顔を向ける。
どこか優しげな彼の表情に、深実は微笑みで返した。

「もう会いに来ないでね」

「別にお前に会いたくはない」

「私も会いたくない」

 あからさまな反対言葉を、二人は優しさを含めた声で言い合う。
嘘の下手な少年少女は、繋いだ手をしっかりと握り合ったまま、廃れたバスを出た。
二人はまるで共にいる時間を惜しむように、ゆっくりと街へと続く道を歩いていく。
夕暮れ色へと変わる空は、ただどこまでも広く、ゆったりと続いていた。



 朝。貴績は小鳥たちの鳴き声を聞き、目を覚ました。カーテンの隙間から洩れる光が、起きたばかりの目に眩しい。
上半身を起こすと、背伸びをして体を解す。ベッドから降りるとカーテンを勢いよく開け、
薄暗かった部屋は太陽の光に晒される。本日晴天。それを確認した貴績は思わず笑みを零した。
 パジャマから私服に着替え、部屋を出た貴績はいつものように食卓で朝食を食べた。
朝の身支度を済ませ、履き慣れたスニーカーで外に出る。
すぐ向かいが深実の家なのだが、彼女がこの時間、家にいないことを知っている。
かわりに玄関先には優しい笑みを浮かべる奥さんがいて、貴績を見ると会釈した。
軽く返した貴績は、深実がこの時間帯にいると思われる近所の公園に向かった。

 公園についた貴績はすぐに深実を見つける。幼い子どもたちが砂場で遊んでいる姿を、
近くのブランコに座りながら、目を細めて眺めていた。
白いブラウスに赤いロングスカートを合わせ、ヒールのない茶色の編み上げブーツを履いている。
長い髪はハーフアップにして三つ編みに結び、シンプルだが清楚で、どこか儚さのある姿に貴績は思わず見惚れていた。
我に返ると、彼女の前で立ち止まる。気がついた深実は貴績を見上げ、にっこりと笑った。

「やあ」

「どうも」

 軽く挨拶を交わし、貴績は深実の隣のブランコに腰掛ける。
深実が再び目の前の子どもたちに目を向けると、貴績も同じ方向へ視線を移した。
子どもたちに会話はなく、無邪気に砂山を作って遊んでいる。

「子どもは嫌いだなぁ」

 ぽつりと深実は呟いた。その穏やかな表情を見れば、その言葉が嘘だと分かる。
貴績は何も言わずに再び前を向いた。

「なんで?」

「だって、可愛くない。ひねくれてるし」

「そっか」

 それ以上は聞かなかった。聞かずとも、深実が子ども好きであることは、纏っている雰囲気や視線、表情から容易に読み取れた。
 しばらく子どもたちを眺めていた二人だったが、そう遠くない場所から、一定した足音が聞こえてきた。
ゆっくりでどこかおぼつかない足音に、子どもたちや貴績たちもそちらに目を向ける。
歩いてきたのは、焦点の合わない虚ろな目をした若い男。呆けたように、一定の足取りで公園を徘徊している。
虚真者だ。子どもたちは男を見た途端、その場から離れるように逃げ出した。
貴績と深実はただじっと、男を見ている。もしかしたら、知っている男だったのかもしれない。
関わったことがある人物なのかもしれない。
しかし、覚えはない。男はただ歩き続ける。ここは公共の場。もうじき、センターの職員たちが、彼を収容所に連れていくのだろう。
 深実はどこか遠くを見るように、男を見ていた。その目に感情はなく、無表情にただ男を見つめていた。

「……どうしてだろうね」

 呟くように言った言葉に反応して、貴績は深実に目を向ける。深実は彼に目を向けることなく言葉を続ける。

「どうしてこんな世界になったんだろうね……?」

 その言葉は、貴績を焦らせた。今まで誰も口には出さなかった素朴な疑問。
それを深実は平然と口にした。貴績の頭は深実が消えてしまうのではないか、虚真者になってしまうのではないか、
これは真実を口にしたことになるのか、そんな疑問で埋め尽くされる。
しかし、いざ冷静になろう、落ち着こうと思うと、小さな深呼吸をした。
そう、深実が口にしたのはただの疑問であって真実ではない。大丈夫だ、彼女は虚真者にはならない。
 ようやく思考がまとまると貴績はブランコを漕ぎ出し、何事もなかったかのように聞く。

「お前はどうしたいんだ?」

「さあ? どうしてなのか知りたくもないかな」

「……まあ、やればいいんじゃない?」

 深実はその言葉に小さく頷くと、ブランコから降りてどこかへ去ってしまった。
しばらくしてブランコを漕ぐことをやめた貴績は、深実の去って行った方向に目を向けた。それから大きなため息をつく。

「ま、全然気にならないけどさ……」

 虚しい独り言が零れたのと、公園を徘徊していた虚真者の男を、
いつの間にか迎えに来ていたセンターの職員たちが男を連行していくのは、ほぼ同時だった。



 深実は、この街で一番大きな図書館にいた。片っ端からこの世界にまつわる神話を書いた本を集め、一冊ずつ読んでいく。
しかし、本でさえ嘘か本当かは分からない。そこから何かが分かる可能性も低い。
だが、深実は調べずにはいられなかった。自分が生まれたこの星は、矛盾だらけだ。
それを悪いとは思わないが、やはりどこか理不尽で。なぜ、嘘しか口にしてはいけない世界になったのか。
知ったところで、きっとメリットはないのだろう。知ったところで、世界はきっと、変わることなく続いていく。
もしかすると、自分が自分でなくなってしまうだけかもしれない。それでも、知りたい気持ちを抑えることはできなかった。
どうせ、真実を口に出せば虚真者になってしまうのなら。このまま、自分の心とは反対のことしか口にすることが許されないのなら。
それならいっそ、足掻いてみたい。この世界の秩序に、生まれつき埋め込まれている本能に。
 深実は純粋な好奇心と反抗心で本を読み進めていく。読み終われば次の本へ。そうしてどんどん読み込んでいく。だが。

「……はぁ」

 残る本もあと一冊となったところで、深実は深いため息をついた。
子どもの頃から言い聞かせられてきた話と、そう変わりのないことしか書かれていない。
昔からこの星が今のような状態ではなかったことや、真実を言えば虚真者となり自他ともに記憶を失うこと、
虚真者になった者は思い入れのある場所を徘徊するようになること、
もう既に生まれたときから知っていることと、大差ないことしか書かれていないのだ。
 深実は、再び大きなため息をついた。最後の古びた茶色の本に目を向ける。
期待はなく、本を手に取り、広げた。無駄かもしれないと分かりつつも、最初から読んでいく。
やはり、他の本にも書かれていたようなことしか載っていない。
三度目のため息をつきながらも読み進めていくと、次の章に移ったところで、深実は目の色を変えた。
今まで読んでいた本では書かれていなかったことが文字を連ねている。
どんどん読み飛ばしていき、それから深実はゆっくりと本を閉じた。
どこか虚ろな目をして天井を見つめた後、我に返ってその本を手に、図書館を出た。

「はやくしなきゃ……」

 深実は足早に自宅へ戻ると部屋にこもり、またひたすらその本を読み込み始めた。
近くにあった筆記用具で、直接本に書き込みをしていく。
 作業が続いて四時間ほど経ったところで、ようやく深実は顔を上げた。
またどこかを見つめて、虚ろな目をする。すぐに我に返ると首を振った。目を瞑って思考を巡らせる。
しばらくして、目を開けた深実は何かを見据えるように、決意を固めた目で遠くを見た。

「……よし」

 呟いた深実はその日、気づけばもう夜も遅いため、眠りについた。



 翌日の朝。貴績は嫌な予感と共に目を覚ました。
まどろんだりはせずに体を起こすと、すぐにベッドから降りてカーテンを開ける。
空は晴れているはずなのに、遠くは曇り空がちらついていた。
いつもならば気にならないはずのその曇り空が、少しだけ不安を煽る。
漠然とした焦りから、無意識に深実について考え始める。そういえば、昨日、公園で別れてから何も連絡はきていない。
もともと常に連絡を取り合っているわけではないが、昨日の様子がどうにも引っかかる。
突然、この世界への疑問を口にしたと思えば、知りたくもないと嘘を吐いた。
それからは戻ってくることもなく、戻って来るかもしれないと夜まで公園で待っていた貴績は結局、夜中近くになって帰った。
何かあったのだろうか、それとも無事に帰ったのだろうか。
 考えていても仕方がないと思い直した貴績はいつものように私服に着替え、
部屋を出ると朝食もとらずに朝の支度を済ませてすぐに玄関を飛び出した。
この時間、いつもなら公園にいる深実の元へ急ぎ足で向かう。
公園が近づくにつれて足は前へ前へと進んでいきついには走り出す。いつもならばなんともない距離のはずがやけに長く感じた。
 公園についたときには息を荒げ、貴績は少しだけ呼吸を整える。
それからすぐに辺りを見渡し、いつも彼女が座っているはずのブランコに目を向ける。

「はぁ……はぁ……はぁぁぁ」

 貴績は思わず長いため息をつき、ほっと胸を撫で下ろした。
いつものブランコに、いつもの黒髪を真っ直ぐ垂らした深実は、シンプルながらも清楚な紺色のワンピースを着こなして、
膝には古びた茶色の本を乗せている。貴績はそんな深実にゆっくりと近づき、昨日と同じように目の前で立ち止まった。
 人影がかぶさったことによって、目の前に人が立ったことに気が付いた深実は、ゆっくりと貴績を見上げる。

「よう」

 変わらない挨拶をするが、深実はしばらく不思議なものを見るように、貴績を見つめていた。
それに違和感を覚え、貴績は首を傾げる。

「深実……?」

 どこか不安そうな声で呼べば、ようやく気がついたかのようにハッとなり、深実は慌てて笑みを浮かべる。

「や、やあ、貴績」

 深実は膝に乗せていた本を抱え、ブランコから立ち上がると、貴績と向き合う。

「お前……どうした?」

「え、ああ、どうもしてないよ?」

 嘘。それが当たり前なのに、そのときの深実の言葉が本当であればいいと、無意識に願ってしまった。
だが、どうもしていないなんて言葉を信じたフリをすることすら、今の貴績には難しかったのだ。

「とりあえず、いつもの場所……」

 深実の言葉に、貴績は何も言わずに彼女の手を取ると黙って歩き出す。
そして、真っ直ぐ山の頂上へと繋がる道へ向かった。



 二人は廃バスのある山頂につくと、バスの中には入らずその目の前にある見晴らしのいい丘で向かい合うように立っていた。
しばらく二人は何も言わずに向き合い、俯く。
 その沈黙を壊そうと、最初に顔を上げたのは深実だった。
持っていた本を貴績に押し付けるように渡し、彼は何も言わずにそれを受け取る。貴績はしばらく本を見つめたあと、深実を見た。

「その本、君に……」

「……おう」

 返事をすると、貴績は本をパーカーの大きなポケットに入れる。
本は文庫本程度の大きさと大学ノートほどの薄さしかないため、すっぽりと入った。
 再び沈黙が流れる。互いに向き合い、伝えるべき言葉があるはずなのに口に出すことができない。
 永遠にも感じた数分が過ぎ、二人は同時に顔を上げ見つめ合う。
同時だったことに驚いて互いに目を見開いていたが深実はすぐに、いつものように微笑んだ。

「ねえ、貴績。聞いて? これから言うことはね、全部、本当のことだよ。……あのね、私ね……もうすぐお別れする」

 貴績は、深実の言葉の意味を理解するのに時間を要した。
引いていた潮が波となって押し寄せてくるように、徐々に理解すると、言葉を発そうとしたところでその口は、深実の手によって塞がれた。
「はい、何も言わないで」と幼子をあやすように言われれば、貴績は言葉を飲み込み、深呼吸をする。
それを見て深実も手を離し、変わらず優しい笑みを向け、言うことを聞かない子どもを諭すように話し始める。

「あのね、貴績。私、多分、この世界の“真実”ってものに気づいちゃったんだと思う。
だからかなぁ……記憶が欠けてきたんだ。今までできてたことがね、今日の朝起きてから、
急にどうすればいいか分からなくなって、それから家にいる人たちが誰なのか分からなくなってて、
辛うじて覚えていたのは公園への道と、この場所と、自分の名前。さっき、貴績の顔を見て、私の名前を呼んでくれるまでね、
君のことも忘れかけていたんだ。でもよかった。君を忘れる前にここへ来れて。こうして話をすることができて、本当によかったよ」

 貴績はいつものように微笑んでそう話す深実を「何を言っているんだこいつは」という目で見ながら、
深実の言葉をいつものように反対の意味で捉えようと必死になる。
だが、そうしようとすればするほど、そのままの意味で理解してしまい、それを受け入れまいとする無意識な心が思考を停止させる。
 そんな貴績の葛藤をよそに、深実は変わらない調子で話しを続ける。

「私ね、昨日、この世界がどうして嘘しかついちゃいけないのかなって考えたの。
本当は、もっと昔から、薄らとそういうことは疑問に思ってたんだけど、やっぱりどこかで思考停止してて、
知ろうと思う気持ちを抑え込んでた。でもね、昨日の虚真者を見て思ったの。
この世界はきっと、どこかおかしいって。だって、嘘しかついちゃいけないのに心の中では別のことを思ってるんだよ? 
そんな矛盾さえなければ、きっと、虚真者なんて存在しなかったはずなんだ。
誰も、誰かを忘れたり忘れられたりすることに怯えなくてよくて、神話の中に出てきていた、遠い昔の世界みたいに、
真実だって話していい世界でよかったはずなんだ。でも、神話に出てくる神様たちはそれを許してはくれなかった。
 ねえ、貴績。私はね、抗ってみたくなったんだよ。この世界の秩序に、自分の中に埋め込まれた本能に。
結果的に私は、この世界の法則によって記憶を失って、周りから記憶を失うことになるんだけど。
でも、それでいいって思ったんだ。どうせみんな忘れちゃうなら、どうせ私が私でなくなるなら、
それならいっそ、盛大に、言いたいことはぜーんぶ言っちゃえ! ってね。だからね、貴績。
君にもずっと、ずっと前から伝えたかったことを伝えるよ」

 もうわけが分からないでいる貴績は口を必死に動かして何か言おうとするが言葉にはならず、
深実はそんな彼を見てにっこり笑った。

「大好きだよ、貴績。ずっと前から」

 その言葉に、ついに貴績は言葉だけでなく声すらも失った。その笑顔に、その言葉に返せるものなど、
今の彼には持ち合わせていなかった。深実は彼のその反応に、ただ微笑む。

「私と君は、今日でお別れだよ。君は私を忘れて、私は、一番大事な記憶だけを糧に、
思い入れのある場所を徘徊するようになる。他の虚真者たちと同じ末路を辿るよ。
君も知っての通り、真実を伝えた者は、伝えたその日に眠ってから起きるとそれ以降、虚真者となる。
そして、虚真者と関わりのある人たちも、今日眠ったら、虚真者になった者のことは覚えていない。
君は、私がいないことが前提の日常を過ごすことになる。私の世界は、ここで終わる」

 深実の言葉はストンと、貴績の頭の中に入っていき、受け止めたくないはずなのに受け止めていく。
それが現実なのだと、受け入れろと彼の生まれながらにして備わっている本能が告げる。

「じゃあ、私はここに残るよ。ここが、私にとって一番思い入れのある場所だから。きっと私はここを彷徨う。
でも、安心してね。君はこの場所を思い出すことはないから。他の人たちもここを知らない。
ここは、私と君だけの秘密の場所だからね。ここで過ごすときは、いつも二人だったし、そもそも見つけたときも二人だったからね。
君の記憶から私は消える。つまり、二人でしか過ごしたことのないこの場所も忘れるってことだね。ほら貴績、帰った帰った!」

 そう言って深実はぼんやりとしている貴績の背中を押して帰路に立たせる。
背中を押され、帰路に立たされたところでようやく我に返った貴績は深実を振り返る。

「深実! 何勝手に色々」

 怒鳴り声を上げようとした貴績を物ともせず、深実はすぐにまた口を塞いだ。

「しっ。絶対に、間違っても、思ってることを口に出しちゃダメ。じゃないと君も虚真者になっちゃうよ?」

 その言葉に思わず黙りこくる貴績。深実の手が離れると少しの間俯いていたが、
すぐに顔を上げ、今の自分が言える言葉を必死に叫んだ。

「俺は、お前なんか大っ嫌いだ! お前のことが、この世界で一番、大嫌いだ! 
だから……もうお前なんかと、日常も、時間も、過ごしたくなんかなかった! 
もう、もう一生、お前と一緒になんて、いたくないっ!!」

 目を見開いた深実だが、すぐにまた笑うと貴績の頬に手を当てた。

「うん。ありがとう。……さよなら」

 その言葉を最後に深実は手を降ろし、貴績に背を向けると、廃バスの中へ入っていった。
貴績はその背中を見送ることしかできず、後を追うこともできない。
それから少しして、ようやく自分の帰り道と向き合った貴績は、振り返らないように駆け出した。
いつの間にか遠くにあったはずの曇り空は太陽すら隠し、街をどんよりとした灰色に染めていた。



 自宅に戻った貴績は部屋に閉じこもると床に座り込んだ。心にぽっかりと穴が空いたように虚ろになり、しばらく放心状態になる。
 外では次第に雨が降り始めていた。それはやがて土砂降りとなり、夜中近くなる頃には雷を伴った。
 部屋では、帰ってきてから未だにへたり込んで虚ろな貴績がいた。帰ってきてから数時間はずっと同じ状態でいる。

「……深実……」

 名前を呟くが、それも雷によってかき消される。ようやく立ち上がった貴績だが、
その拍子にパーカーのポケットから本が落ちた。深実から受け取ったものだ。
しかし、今の貴績にそれを開く気力はない。そっと、その古びた茶色の本を自分の本棚の空いたスペースに収める。
 貴績は、疲れたようにベッドに倒れ込んだ。何かに怯えるように目を閉じ、最後に微かに口の中で、
忘れないように「深実」と彼女の名前を呟き、いつしか眠りについた。



 翌日、貴績が目を覚ますと既に時間は昼を回っていた。慌てて起き上がった貴績はカーテンを閉め忘れた窓から空を眺める。
昨日の雨も雷もすっかり止み、再び数日前の晴天が戻ってきた。

「俺……確か昨日……」

 雨が降りそうだったため、全力疾走して帰って来るなりそのままベッドに倒れ込んで寝てしまったことを思い出す。
我ながら、雨が降りそうというだけの理由で爆睡するほど全力を出して走ったことに、貴績は苦笑いを浮かべた。

「さてと」

 背伸びをして呟き、ベッドから降りていつものように部屋を出る。朝食を食べ、朝支度を済ませて外に出た。
向かい側には、まだ子どものいない夫婦が住んでいて、貴績が小さいときからよく可愛がってくれていた。
 奥さんのほうが玄関先の掃除をしていて、顔を上げて貴績を見ると優しく微笑み、会釈した。
貴績はその笑みにどこか懐かしさを感じながらも軽く返し、いつもの日課である公園へ散歩に向かった。
 歩いいている最中、先ほどの笑みを懐かしく感じた理由を考える。
昔から見ていて、見慣れているはずの向かいの奥さんの笑み。どこか他の誰かと似たものを見たのだろうか? 
なんにせよ、笑った顔など大体似たようなものだと考え直した貴績は、公園に辿り着くと頃にはすっかりそのことを忘れた。
 公園に入って真っ直ぐブランコを目指す。
いつもの習慣でブランコの一つに腰掛けると、漕ぎ出すわけでもなくただぼんやりと辺りを見渡していた。
それから、ブランコの前にある砂場で遊ぶ子どもたちを見る。
子どもたちの間にこれといった会話はないが、無邪気でどこか楽しそうに遊んでいる。
貴績は子どもたちを見ながら、ふと、隣のブランコに目を向けた。
もちろん、そこには誰もいないのだが、なぜだか隣に目を向けずにはいられなかったのだ。
またしばらく、ぼんやりと隣に目を向けていたが、貴績は頭を横に振り、勢いよくブランコを漕ぎ出した。
 ブランコに揺られる楽しさを味わった貴績は、ゆっくりと揺れを小さくしていき、最初に座ったときと同じように静止する。
ふぅ……と息をついた貴績は、再び砂場の子どもたちに目を向けた。未だに楽しそうに遊んでいた。
 子どもたちは、急に同じ方向を見たと思うと、立ち上がり、逃げるようにその場を走り去っていった。
不思議に思って貴績も子どもたちが見ていた方向に目を向ける。

「あれは……」

 そこにいたのは、若い女の虚真者。一定の歩幅で歩いているにも関わらず、
その足取りはおぼつかず、目は虚ろで焦点が定まっていない。
子どもたちは、虚真者と関わらないように言われているために逃げ出したのだと理解した貴績だが、
なぜかその姿を見て見ぬふりをすることはできなかった。
 女はゆっくりとした速度で公園を徘徊する。特に何をするわけでもなく、ただ彷徨い歩いている。
これはセンターの職員待ちか……とぼんやりと考えながら女を見ていた貴績だが、微かに耳元で、人の声が聞こえた気がした。

――どうしてこんな世界に……

 貴績は慌てて辺りを見渡す。しかし、そこには貴績以外の人間の姿はなかった。
気のせいかと思い、また虚真者の女に目を向ける。

――さあ? どうしてなのか知りたくも……

 またふと、聞き覚えのない声がして辺りを見渡す。やはり、そこには誰の姿も見当たらなかった。
さすがに気味の悪くなった貴績はブランコから降りると、その場を立ち去るように公園を出た。
何か霧の晴れないもやを抱えながら……。



 それから一週間。貴績は日課であった公園への散歩をやめ、今では一日部屋にいることが多くなった。
公園に行けば、またいつかのような変な声が聞こえるかもしれないと思うと不気味で近寄れない。
しかし、だからといって貴績にやらないといけないことなど何もないのだ。だからこそ、こうして部屋でのんびりとしている。
それでも、気持ちが晴れないのも確かだった。考えてみるが、そのつっかえが取れるわけでもない。
すぐ手が届くはずなのに、どう足掻いても届かないような、そんなもどかしさを感じる。
 考えても仕方がない。貴績は考えることをいったん止め、横になっていたベッドから起き上がると、
久々に本でも読もうと本棚を覗き込んだ。
途端に、異変に気が付いた。スペースがあったはずの場所には見覚えのない、古びた茶色い背表紙の本が収まっている。
不思議に思って本を取り出すと、表紙と裏表紙を交互に見るが、特に何も書かれてはいない。
それから何気なく本を開いて、読んでみることにした。
 本の中身は、この世界の誰もが知る神話だった。この世界は昔ああだっただの、真実を伝えると虚真者になるだの、
散々聞かされ、本能で理解してきたこと。貴績は、今更な内容にため息をつきながらも、次のページをめくった。
すると、そこには数多くの書き込みと貴績も聞いたことも見たこともない内容が書かれていた。
誰の書き込みかも分からない、誰の物かも分からない本ではあるが、貴績はただただ夢中になった。

 読み終わる頃には、貴績は放心したように虚ろな目をして天井を仰いだ。数分後に気がつき、すぐにまた本と向き合う。
持ち主が誰なのか、示すものが書かれていないかを探した。が、見つからない。
 貴績はそのまま、今度は誰がこの本をここに置いて行ったのかを思い出そうと必死になる。
どう考えてみても、一度だって誰かを部屋に招いた記憶はないし、無意識に持ってきていたとしても、
本が置いてある場所に行く機会などなかった貴績には不可能だった。
更に考えるが、考えれば考えるほど、同時にずっと抱えていたもやもやとしたものも膨れ上がっていく。
次第に疑問ばかりが膨らんでいき、ついに貴績はベッドに倒れ込んだ。

「くそっ!」

 吐き捨てるように言えば、一度深呼吸をして再び考える。

「一体……誰が……」

 頭の中をその疑問が大半を占める。しかし、いくら考えてみてもその答えは見つからない。
どんなに昔の記憶を引っ張ってきても、疑問は解消されない。
それどころか、ところどころ記憶が欠落しているかのように全くと言っていいほど思い出せない部分があった。
貴績は、子どもの頃のことなら細部まで思い出せるほどに記憶力が良い。
だからこそ、思い出せない記憶があることや見覚えのない本の出所が分からないことが、彼にとっては異常だった。
この異常な状況に、貴績はまた焦燥に駆られる。

「思い出せ……思い出すんだ……!」

 何度か頭を叩き、それからベッドに顔を押し付け丸くなる。頭では受け入れきれないが、本当は気がついている。

 記憶を失い始めている

 その理由についても検討はついている。貴績を悩ませるそもそもの元凶である、古びた本。
あの本の書き込みと、本の内容を照らし合わせれば嫌でも理解してしまう。
貴績は、この世界の真実に気づいてしまったのだ。それが原因で、記憶が徐々に失われている。
理性では受け入れられない現実だが、本能ではこのままではいずれ自分が自分でなくなることを理解している。
「ちくしょう!」

 ベッドに顔を押し付けたまま叫んだ言葉はくぐもっていても部屋に響いた。
記憶を失い始めている恐怖とどうすればいいのか分からない途方もない不安。
顔を上げ、体を起こした貴績は涙を止めることができずに泣いた。

「どうすればいいんだよ……」

 あの本を読んでしまったことへの後悔と、虚真者になることへの恐怖。
どうにもならない現実を目の前に、どうすることもできないもどかしさが、余計に涙を溢れさせた。
今こうしているときでさえ、記憶は失われ続けているのかもしれない。次は何を忘れているのだろう。
何を失っているのだろう。あとどれほど自分を保っていられるのだろう。あとどれくらい、自分を憶えていられるのだろう。
考えたくもない疑問が次から次へと湧き出ては、心を圧迫し、同時に空っぽになっていく感覚に苛まれる。
貴績には、これを脱する術などありはしなかった。
 不安と恐怖と、言いようのない悲しみに暮れていると、前触れもなく、どこかで聞いた気がする聞き覚えのない声が頭の中に響いた。
記憶の欠落の次は幻聴か……と自棄になった頭で考える。

――もう会いに来ないでね

 どこか優しさを含んだ声。

――じゃあ、私はここに残るよ

 どこか寂しげで、しかし温かい。

――うん。ありがとう。……さよなら

 記憶に垣間見える“彼女”は笑っていて、全く知らない誰かのはずなのに、どうしてか愛おしく思えた。
 知っている。この聞き覚えのない声も、断片的にちらつく少女のことも。貴績は、確信した。
記憶を失ってきてはいても、そのことだけははっきりと分かる。泣いている暇などなかったのだ。
涙を拭い、不安と恐怖は消えないものの、貴績が貴績でいられる間だけでも、今この現実から抗わないといけないと直感した。

「探さないと……」

 このまま記憶を失うまで待っていても何も変わらない。どうせ、何も変わらないまま虚真者になってしまうのなら。

「よしっ!」

 貴績は両頬を叩き、気合を入れて勢いよく立ち上がると、本を手に部屋を飛び出した。玄関の扉を開け、あてもなく走り出す。

「何もしないよりマシだ! 誰だか知らないが見つけてやる!」

 ただ我武者羅に走り続ける。雲の隙間から差し込む、太陽の光が眩しかった。



 太陽も傾き始めた時間、街と隣接する山頂への道の前で、貴績は息を切らしていた。
もう記憶を半分ほど失ってきており、自分の家すら分からない。もう帰る場所はないのだ。
街のどこを走り、どの道を通ったかも分からない。しかし、一瞬浮かんだ“彼女”のことだけは忘れられず、探し続けた。
持っていた本が手汗で湿ってしまうほど汗を流し、走り回って探した。
体が熱くなり、汗で拭くがまとわりつく感覚すら気にならないほどに探し回った。
それでも、何もかもを失い始めている貴績の存在を証明してくれるかもしれない、その僅かな記憶と合致する人間は、どこにもいなかった。
 あとは山の中だけ。記憶は曖昧だが少なくとも自然に囲まれた場所に、踏み入れた覚えがないことは確かだ。
 貴績は息を整えると一度だけ大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。それから表情を引き締め、山道を再び駆け出した。



 一気に駆け上がった貴績は広い空間に出た。
そこが頂上らしく、一台の廃バスが捨てられている以外に変わった様子はない。
 思わずその幻想的な景色に見惚れていたが、すぐに辺りを見渡し始めた。
広い空間の中に人影は見当たらない。
 貴績は溜め息をついた。無駄なことかもしれないがまた一から探そう。
そう考えたところで、走りっぱなしだった貴績の熱くなった体には心地よい風が吹く。
貴績は思わず笑みを零すと、目を瞑って風を感じた。
 どこからか、チリーンと風鈴のような音がはっきりと聞こえた。
ここは山の頂上で、辺りに人が住んでいるような家はない。驚いた貴績は目を開けて再び辺りを見渡す。

「誰かいるのか?」

 声をかけてみるが返事はない。代わりに風鈴と、ウィンドチャイムのような音が同時に聞こえてきた。
不思議に思いながら辺りに目を向け、歩き回る。しばらくして、その音が廃バスの中からするらしいということに気がついた。
 長い年月放置されている様子の廃バスの中から、風鈴やウィンドチャイムの音がする。
不信に思い、貴績は開いている前の扉に近づいた。それから持ったままの本を再び持ち直すと、意を決したように中へ入った。
 外観と同じように中にまで蔦が這い、苔生していた三列シートの上には、
色とりどりのガラス瓶や手作りされたらしい二段組みの本棚が置いてある。
天井からは月や星のモビールがいくつか垂れ下がり、音の元凶となっていた金魚や花の絵が描かれたと風鈴と、
トンボ玉がついたウィンドチャイムが、隙間風に煽られて涼しげな音を響かせている。
 貴績は目の前に広がる景色に既視感を覚えた。
初めて登った山の頂上にある、初めて見るはずの廃バスの中には、自分の部屋のような安心感がある。
差し込む太陽の輝き具合も、蔦の這い具合や苔の生し具合も、まとわりつくような湿気も、肌に感じる生暖かい空気も。
何もかもが初めてのそれに、憶えがある。中を見渡しながら奥まで進んでいくと、
バスの一番奥にあるシートで、横になる少女の姿に気がついた。紺色のワンピースを身にまとい、遠くからでも分かる長髪は、上質な絹のようだった。

「女の子……?」

 ゆっくりと少女に近づいていく。不思議なことに警戒心も危機感もなかった。
手を伸ばせば届くほどの距離まで来ると、貴績は横になる少女の顔を覗き込んだ。
その途端、息が止まる。心臓が一度、大きく穿った。
 長い黒髪は艶を帯び、もともと白いのであろう肌はひんやりとした印象を与え、青白かった。
眠っているようにしか見えない彼女は、貴績がただひたすらに走り回り、
自身の存在を証明してくれると信じて探していた、記憶の少女その人だった。

「なん……で……」

 貴績の心が酷くかき乱される。目を覚ますことのないだろう彼女を懐かしく、愛おしくて堪らなかった。
同時に悲しくて仕方がなく、寂しくて気が狂いそうになる。
溢れて止まらない様々な感情は混ざり合い、貴績の頬を生暖かなものが流れ過ぎていく。

「お前……だれ、なんだよ……俺はお前を、知らないはず……なんだ……。
俺は、お前を知らない……はずで……。でも……お前は、俺に、笑って……くれて……。
俺が……信じた……希望……の……はず……で……。
それでも、俺は……お前のことなんか……知らない……はず……で……。なのに……なのにっ……!」

 胸が痛くて仕方がないんだ、その言葉は言葉にすらならず貴績は俯いた。
心にあったもやも、どこかにあった引っかかりもなくなった。
震える手で、もう二度と目を覚まさないのであろう、少女の手を取り、強く握る。貴績の嗚咽が、廃バスに響き渡った。
 少女の手を取って泣き始めてから、少し後にその変化は起きた。
貴績が強く握りしめている少女の手が、僅かに彼の手を握り返した気がした。
その僅かな変化に、泣きながらも顔を上げ、少女の顔を見る。
 しばらく見つめていると、少女の長い睫毛が揺れ、ゆっくりと瞼が上がる。
驚きで言葉を失い、目を見開いている貴績に対して、少女はまだ焦点が定まらないのかぼんやりとしていた。
視界がはっきりしてようやく、貴績の存在をその目に捉えたようだ。少女もまた貴績に驚いたように目を見開く。

「…………貴績?」

 聞き覚えのある声で名前を呼ばれれば、貴績はまた息を呑んだ。
何も言えないままでいると、手を繋いだままの少女はゆっくりと起き上がり、見つめ合う。
貴績はやっとの思いで口を開くが、言葉は出ない。少女は貴績の持つ本に気がつくとすべてを察し、目を細めて微笑んだ。
 貴績は口をパクパクと動かすが声は出ず、ようやく一言。

「お……おま……え……」

「深実」

 その一言に、少女はすぐに答える。その単語に、貴績は今度こそ、息が止まった。

「私は深実、だよ。貴績」

 深実は温かい笑顔とともに、貴績の頬を撫でた。
 その笑顔に、声に、体温に、名前に、貴績はようやく彼女が何者なのかを思い出す。
もう自分の名前以外のほとんどの記憶を失っていた彼の中に、深実との記憶だけが鮮明に流れ込んでくる。

「あ……あぁ……みさ……ね……」

「うん。深実だよ」

「みさね……みさね、深実!」

 貴績は何度も深実の名前を呼びながら、彼女を抱きしめた。
深実も泣き続ける貴績を優しく労わるように抱きしめ返す。

「深実! 深実! ようやく、ようやく……あぁ……! 深実、深実っ! ようやく……ようやくっ!」

「うん……うん。やっぱり、貴績はすごいね。名前の通り、君は〝奇跡〟を起こすんだね」

 深実は幸せそうに笑いながらも涙を零し、しばらく二人は抱きしめ合っていた。



 落ち着いた二人は並んで座り、手を繋ぎながら話しをした。

「虚真者だった間、貴績のことだけは覚えていたんだ。
でも、だんだんそれすら分からなくなっていって、すごく……怖かった。
虚真者でも……廃人になっても、それでもやっぱり、“人間”なんだなって思ったよ……」

 言いながら、その時のことを思い出したのか、深実は貴績の肩に頭を置いて寄り添う。

「……ねえ、貴績。君も、知っちゃったんだよね。だったら、もう記憶が……」

 心配そうに言う深実をよそに貴績は笑った。

「まあ、確かに大半の記憶はもうないけどな。それでも、俺はきっと、もう深実のことは忘れない。
俺にとっての一番大事な記憶は、深実との記憶だから」

「……そっか。私もね、貴績との記憶が一番大事。だからかな、君と一緒にいる間は、私は私でいられる。
私も貴績も、こうして一緒にいる間は虚真者にならないんだろうね」

 満足そうな笑みを浮かべた深実に貴績も優しく笑い返した。

「……なあ、深実」

「なあに、貴績」

「……大好きだよ。ずっと前から」

「……うん。私も」

 夕暮れの光が廃バスの窓から差し込む中、世界の理から外れ、真実を語り合うことを赦された二人は、
固く手を繋ぎながら、静かに眠りについた。



<了>

#ウソつき世界 #創作企画

お題【春、超えたい境界線、朧月】

  村も山も闇に飲み込まれ、空に浮かぶ光のみが頼りの子の刻。
丘の上に佇む老樹は無数の桜を咲かせ、夜の光を浴びていた。
 光を受け、不気味に、しかし抗い難い美しさをもって発光するその大木の下に、1人の娘が立っていた。
薄い藤色の着物を着たその姿は、いつか聞いた天の使いの風貌を彷彿とさせた。
 娘は桜の花弁が舞うなか、小さな光の瞬く暗闇を見上げる。空に浮かぶ満月。近いようで遠い、唯一の星。
それも、次第に風によって流れてきた霧により覆い隠された。娘は、その珠のような目をそっと伏せる。
 蘇るのは、どんな宝もくすんで見えてしまうほどの姿と、語りかけるように静かで穏やかな声。

-愛しい子。私の愛しい、かぐや姫-

-どうか、私をお前の代わりに-

-きっと、再び巡り会おう-

 娘の頬に、一筋、涙の痕。伏せた目を静かに開き、霞む月に手を伸ばす。
今なら、今ならきっと、届くはず。この霧が、現と幻をひとつに。この時、この瞬間、きっと……!
 そっと宙で手を握った。それと同時に霧は去り、月は再び、本来の姿を現す。
……月を掴むことは、出来なかったのだ。それはまるで、娘から逃げるように、今は時ではないと言うように。
 娘は、宙を掴んだその手を下ろし、掴んだものを逃がさないようにゆっくりと手を開いた。
開いた白い掌の上には、桃色の花の欠片が、そっと、ひとひら舞い降りた。

<了>

お題【満月】 【月】

【満月】
 鬱蒼とした森の中。迷い込んだのはまだ陽の差す時間だったはずなのに、辺りは目を凝らさなければ見えない。
ここはどこなのか、どこに向っているのかも検討がつかない。
 次第に感覚は狂い始め、今歩いているのか、立ち止まっているのかすら、意識しなければ分からない。
一体、この体はどこまで行くのだろう、何を求めているのだろう。
 体の意思と、頭の中までもが徐々に離れていく。それぞれが別々の生き物になったように、バラバラに動き始める。
体力も限界に近づき、視界はぐらつき、足がもつれ始め、意識を手放す、瞬間。
 低く、悲しげな声が、遠くから響き渡った。誰かを呼ぶように、何かを叫ぶように。
狼だ。遠のき始めていた意識は辛うじて保たれ、遠吠えの聞こえる方へと自然と向かい始める。

 陰鬱とした森の暗闇をただ歩き続ける。どれくらい、歩いているのだろう。
聞こえていた遠吠えもいつの間にか止んでいた。いよいよ、世界から切り離されると思った。
 暗闇の奥に、一筋の光が差し込む。手を伸ばし、光を目指す。

 出た先は、広い空間だった。どうやら、森を抜けたらしい。涼しい風が、火照っていた体を冷やす。
空を見上げた。陽はすっかり落ち、星屑が散らばっている。目指していた光は、この星たちの親玉が放つ青白い輝きだったようだ。
 そうか、今夜は月が満ちる日だったのか。
昔から、命あるものを惑わし魅了するそれは、全てを狂わせるとも、言い伝えられているそうだ。

〈了〉


【月】
 見上げた先は広がる暗闇。浮かぶのは星の屑。あなたの愛した輝きと、あなたが憎んだ空の闇。
闇に隠れた青白い光は、決して消えるわけではない。
それは、息を潜めて獲物を狙う獣のように。それは、地中に埋もれた宝石のように。
見えないだけでそこに“()る”。知らないだけでここに。
 それは、近く、遠く、すぐそこに、届かない場所に、過去に、未来に、今に。輝き続けている。
光輝くその時に、海が満たされ零れるように。夜色の瞳は、光を知って、涙する。
きっと、生まれたときも、光を知って泣いたんだ。
 闇色は青白い輝きに霞む。今宵も希望となって。

〈了〉

お題【りんご】 【真っ赤なワイン】

【りんご】
 真っ赤なドレスを着たあなた。
いつだって情熱的で、時に甘く、そして、掴もうとすればするほど、滑り落ちて掴めない。
どこか歪な形をした心に、意識は奪われ、なだらかな曲線に、目を奪われる。
奥まで真っ赤で掴みどころなどない。
そう思っていたら、その赤いドレスの下は白く透き通っていて、みずみずしい。
奥には、甘く、濃密な蜜を湛えていた。吸いつかずには、いられないほどに、繊細で美味だった。
しかし、あなたは時に残酷で、意地悪だ。誰にも見せない毒をもって、その体を貪らせる。
あなたはその蠱惑な色で、死へと誘うのだ。
神に愛されたあなたは、ただただ神聖で、秘密に満ちた、禁断の果実そのものだ。
いたずらに人を救い、戯れに生を奪う。
そんなあなたに、僕は消えない痕を残してみたんだ。たった一口、ただ、それだけ。

〈了〉


【真っ赤なワイン】
  ほのかに香るアルコールと紫の匂いが、肺を満たした。グラスを傾ければ、光によってその姿を変えた。
透明なガラスを通して見るその赤さは独特で、全てを染めてしまいそうだというのに、
触れてしまうと、ただ赤黒い色に、なってしまう気がした。
それは、時間が経つと鮮やかな赤から黒く濁った色に変わってしまう血のようで、
それは、時を経るごとに味わい深くなる思い出のセピア色のように懐かしく、優しかった。
 グラスの中のその赤を、ゆっくりと回す。空気を含んだそれは、より一層、鮮やかに、魅惑的な色に変わる。
そっと口を付け、グラスの冷たさに思わず笑みを零した。口に含んだ真の赤色は、甘く、静かな夜の味がした。

〈了〉

お題【醤油ラーメン】  【スケッチブックの最後のページ】

【醤油ラーメン】
  麺独特のにおいにつられて、店に入った。店主と従業員たちのやる気に満ちた声が飛び交い、店は客で賑わっていた。
従業員の一人がやって来て、席に案内された。辺りを見渡すと、豚骨、味噌、餃子、炒飯……様々なにおいと品に、空腹を感じざる負えなかった。
待ちきれない。もう心は決まっている。店に入る前から、頼むものは“あれ”と既に思い描いていたのだ。
従業員を呼んで注文すると、そいつが来るのを静かに待った。
10分もすれば注文したものは出てきた。従業員に礼を言って、改めて向かい合った。
 濃くも透き通った赤茶色のスープ、浮かぶ油により全体的に光沢があった。
程よくしなったほうれん草、肉厚で歯ごたえのあるメンマ、出汁を吸ってよく味付けされた煮玉子、
黄身は硬すぎず半熟にされていた。3枚も載せられた大きな分厚いチャーシューからは、見てわかるほどに旨味がスープに溶けだしていた。
 利き手に箸、空いている手に蓮華を持ち、スープを掬う。箸で奥に潜んでいた麺を掴み、ゆっくりと引き上げた。
鮮やかなクリーム色の麺が姿を現す。スープが絡んだそれは湯気が立っていた。
 早速、麺を口に含み、啜る。ズルズルと音を立て、麺は口の中へ消えていく。
やがて麺ら途切れ、全て収まると蓮華で掬ったスープを一緒に口に含んだ。
絶妙な加減のスープは濃厚なのにサッパリとしていて、麺はしっかりとした歯ごたえがあるにも関わらず、モチモチと柔らかかった。
全ての旨味が溶けだしたその一杯を、ただ夢中で味わい尽くした。

〈了〉


【スケッチブックの最後のページ】
 空想を書き綴る。描いた世界は誰が為。描いた夢は君が為。君を示すための僕。
僕は君の存在証明。君は僕の存在理由。誰も知らない世界の中で。
誰もいない世界の果てで。君と僕の呼吸が重なる。
誰もいらない夢の果て。君とふたり、物語の終わりまで。
誰も知らない、僕らの話を続けよう。始まりは1ページ。綴る世界に終止符を。
君と僕の物語。世界の終わりの物語。思い出ノートの最終ページ。
綴った言葉は、君への――


〈了〉

お題【つま先へのキス、「さよならレディ」】

 遮光カーテンの引かれた部屋。噎せ返るような香水の甘い香りと、
肺を圧迫するタバコのにおいが混ざり合い、体は力を失う。
 ベッドに横になっている男は息を荒げる。体の熱さと、漂う異様な空気に、頬や首を伝う汗が止まらない。
腕に、腰に、胸に、露な肌に纏わりつくような熱気が深いで仕方がない。体を起こそうと足掻くも、
何かに縛られているような感覚には抗えず。自らの意志で藻掻くが、別の意志によって押さえられているように、
神経一つ、動かすこともままならない。
 そんなベッドの上の男を、玉座のようなソファーに座っていた女が見ていた。
煙管をふかす厚い唇は艶を帯び、血色のルージュが青白い肌には浮いて見えた。
細く長い指が煙管に絡みつき、組まれた生脚は官能的で、鮮やかな赤いピンヒールが脳を刺激し、麻痺させる。
赤いレースがあしらわれた黒いシルクのベビードールから透けて見える肌に、痛いほど胸を響かせる。
首を傾げると、ブロンドの長い髪が微かに揺れ、風船のようにふわりと舞った。
 女の口元が弧を描く。立ち上がった彼女は、苦しみながらも自分に睨むような鋭い視線を向ける男に歩み寄った。
男の目に潜むモノは嫌悪よりも、その奥に潜む抑え切れない情欲、野蛮な妄想、今すぐにでも喰らい付きたい野生の衝動。
ほんのりと上記した顔がそれらの感情を肯定していた。
 女は愉しげに、横になる男の上に座った。苦しみとも快楽ともつかない体の不自由さに、息を荒げながらも抗う。
蔑むように笑みを浮かべる女は、その真っ赤なピンヒールの爪先で男の顎を上げさせ、鋭く細い踵で喉を小突く。

「気分はいかが? オオカミさん?」

 小馬鹿にされたように言われれば、この屈辱的な状況も相まって男の矜持を傷つける。
しかし、男は口元を緩め、嘲笑を返す。

「お陰様で……な……このアングル、なかなかいいもの……見せてもらってるぜ……?」

 そう言いながら、女のヒールの爪先にキスをした。

「ふふっ、サービスよ。さて、問題」

 女はヒールを退けると男に跨るように座り直し、邪魔な髪を耳に掛けながら、男の耳元で囁く。

「あなたはこれから、どうなるでしょう……?」

 いつの間にか、今の女の恰好には不釣り合いな銃が手に握られ、男の頭に銃口を突き付けていた。
それに男は喉で笑う。

「ククッ……あんたを人殺しにしておくのは……勿体ないくらいの上玉……だったぜ……」

「っ……」

 女の左胸に、鉄の冷たい感触が伝わる。
男の手に握られたシルバーの銃が、部屋の仄暗い明かりに照らされ輝いた。

「俺を……甘く見てもらっちゃあ、困るぜ……?」

 息苦しそうにしながらも言う男の指はしっかりと引き金に置かれ、確実に狙いを定めている。

「さすが、殺し屋さんね。ちゃんと動けるんじゃない」

「だてに……殺し屋をやってるわけじゃあ、ないんでね……」

「そう。じゃあ、最期に言うことは?」

 女も覚悟を決めているのか、頭に向けている銃に力を込める。

「さよならレディ……」

「さよなら、オオカミさん」

 2つの引き金が、同時に引かれた。


〈了〉

お題【世界で一番孤独な君へ】

 よく笑う横顔。絶えず人がいて、絶えず笑う。
暗闇から一番遠く、希望に満ち溢れ、必ず違う人間が傍にいる。

ぼくを除いて。

 そう、あの子は笑う。
どんな人間がいようと、どんな希望があろうと、どんな光があろうと笑う、笑う、笑う。
でも、知っている。何もかも全部、知っている。だって、ぼくだけが、ずっと見てきたから。
 あの子は、笑いながら泣いていて、光からは最も遠く、絶望の淵を彷徨い、そして。
たったひとりで立ち続ける、ひとりぼっち。
 ぼくだけなんだ。変わらずあの子の傍にいたのは。
きっと、今までも、これからも、ずっと。
ぼくがいなくなれば、あの子は本当のひとりぼっち。
 だから、さようなら。

世界で一番、孤独な君へ

君の最後の希望より



〈了〉

お題【溶けたアイス】【芒】【アップルパイ】

【溶けたアイス】
 風が吹き抜ける。空は青く、太陽は肌を刺激する。
首元に汗が伝い、薄いシャツは体に張り付く。
アスファルトから湯気が立ち、遠くの景色を揺らがせた。
口に含んだ甘く冷たい塊が、体を内側からほどよく冷ます。
溶けて崩れた塊が、アスファルトで消えた。
ああ、もうすぐ、夏が終わる。

〈了〉


【芒】
 日暮れ時、羊雲の下、乾いた長い稲は橙色の光を反射する。
涼風に揺れたそれは群れをなして波打ち、黄金色へと姿を変える。
群青色に映る時刻、はるか頭上に、1つ小さな白色が姿を現した。
今宵は団子を共に見上げる、絶好の夜空。
揺れる無数の黄金色は、白を讃えて笑い出す。

〈了〉


【アップルパイ】
 艶を帯びた焼き上がったばかりの皮が、軽快な音と共に割れ、
中の飴色に煮えた実がとろりと零れ出る。
口に含めばジャムと共に解ける酸味と甘みは、
なるほど禁断の果実と呼んで差し支えない。
徐々にすべての味が余韻として広がり、
鼻腔からシナモンとバニラの香りが抜けた。

〈了〉


#リプ来たお題でSS

お題【壊れた時計】【オパールの瞳】【指切り】【コバルトブルー】

【壊れた時計】
 時を刻む音が鳴り響く。
休むことを知らず、世界がそうであるように、狂いなく、
1つの真実を全うする。
変わりなく、狂うことなく、世界を回す。
0から始まり0で終わる。針は正しく回り続ける。
0に重なり新たな時を。
突如針は反回転。再び始まる同じ時。
狂うことない、1つの真実。

〈了〉


【オパールの瞳】
「私の目、見て」
 曇りなく、澄んだ視線は美しく、この世の何よりも恐ろしい。
光が当たれば白く、七色に輝き、闇の中では満天の星になる。
見つめ続ければ生命を吸われ、息絶えてしまいそうだ。
笑う彼女は天使か悪魔か。
そこまでも堕ちていく。
彼女に、どこまでも、どこまでも。

〈了〉


【指切り】
 誰よりも、何よりもの強かった。明るくて優しくて、よく笑う太陽。
いつだって君はすべてから守ってくれた。笑っていた。
初めて泣いた君は弱々しくて、壊れそうで。
あぁ、そうだ。沈まない太陽はない。ある筈なかった。
絡めた指は小さくて、君はただ泣き続ける。
今度はちゃんと、守るから。

〈了〉


【コバルトブルー】
 目を覚ます。暗く深い、芯かいの闇に漂い、ゆっくりと確実に沈んでいく。
闇の中、赤い目をした白い少女だけが浮かび上がり、沈んでいく。
その目に、輝く蒼が降りてきた。
光を帯びた、蒼の宝石。
絶望を間近に、彼女は最期に手を伸ばす。
色持たぬ彼女の望んだ、希望の蒼に手を伸ばす。

〈了〉


#リプ来たお題でSS

【ボスのお気に入り】

無数の建物が立ち並ぶ眠らない都市。
露出が高く派手な色の衣装を纏い、化粧で顔を飾り立て、装飾品のネオンで魅せる女たちの甘えた声。
金や宝石の装飾を施したスーツを着て、護衛の黒服たちを携え、大金の詰まったアタッシュケースを持ち、太い葉巻を蒸す男たちの笑い声。
賭けに負け、嘆く声や女を口説く声。酔っ払いの陽気な歌声、非行に走る少年少女たちの興奮しきった騒ぎ声。その他多くの声が混ざり響き合う。
ここは、名ばかりの警察はいても、法や秩序などとは縁遠い街。
裏路地を覗けば金のない者達が飢え、ドラッグにハマり、身ぐるみを剥がされ、職も家族もすべてを失った放浪者までが虫の息で転がっている。
地位のあるものは上り詰めるだけ上り詰め、地位のないものは飢餓に苦しみ死んでゆく。そんな街。

今日も街の煌びやかな光の届かない闇夜の路地を走る男の姿があった。
怯えきった表情でコンクリートを蹴り上げ、汗や涙、鼻水や涎までも垂れ、顔が酷く歪んでいても気にすることなく走り続けた。
その後を黒いスーツにサングラスをかけた屈強な男達が追いかける。息が苦しく、今にも倒れそうな男とは違い、黒スーツの男たちは息一つ乱すことなくその後についた。
男は後ろを振り向きながら、徐々に縮まる男達との距離に叫び、スピードを上げた。
しかし、それがいけなかったのか、速さについていくことが既に困難だった体はそれ以上は進まず、足がもつれて派手に転んだ。
うつ伏せで転び、勢いのまま1メートルほど地面に擦り付けられ、摩擦で止まる。
男は自身に何があったのか理解もできず、心臓が激しく打ち付けられる痛みにその場で仰向けになり、呼吸を整える。
すると、今度は口の中が鉄の味だけになり、転んだ時に打ち付けた顎と体が痛みを訴え始め、
ようやくそれぞれの場所から血を流していることに気がついた。
寝転がり、息を整える男の周りに無数のサングラスの姿が見えた。
囲まれたと分かった時には、動く体力も気力も残ってはいなかった。

「はぁ。死にたくねーな……」

諦め気味に呟く男の前に、明らかに音の違う靴音が近づき、立ちはだかる。
頭だけを上げ、その人物を見ると、黒のスーツに赤いシャツ、黒いネクタイを締めた長身の銀髪の男が立っていた。
空いた首元から除く十字架の首飾りはシルバーで、左耳のピアスが妖しく光った。
火のついたタバコを咥えた唇は薄く、微かに弧を描く。周りの男達は銀髪の男に礼をし、声を揃えて「お疲れ様です、ボス」と緊張を含んだまま挨拶をする。
ボスと呼ばれたその男は、夜の闇と見分けが付かないほど黒い瞳をし、真っ直ぐに男を捉えていた。

「へへっ、ダンナァ、オレを殺してもなんも出ないですぜ?」

「分かっている」

感情を感じられない、低く艶のある声で答え、ボスはおもむろにシルバーの拳銃を取り出し、横たわる男に向けた。
見るからに高級と分かる腕時計に目を細めたが、銃を握る左手の薬指にシンプルな指輪を見つけ、ニヤリと笑った。

「ボスさんよぉ。左手に時計ってことは、アンタ右利きだろぉ? いいのかよ、利き手じゃなくてよぉ」

ボスは答えず、引き金を引こうとする。

「あの女、うまそ」

男が言い終わる前に、辺りに銃声が鳴り響いた。ボスの握る銃の銃口から細い煙が立ち上り、男の額には穴が空いていた。

「お前を殺して出るのはゴミだけだ」

ボスはそれだけ言い残すと、周りの男達に目で合図し、その場を去る。
後ろ姿を見送った男達は死んだ男の処理に取り掛かった。

路地とは打って変わり、昼のように明るい街に出れば、路地の出入口に1台の黒いリムジンが止まっていた。
ボスがリムジンに近づくと、先ほどの黒服たちと変わらない出で立ちの男が1人助手席から現れ、後ろの扉を開ける。
ボスはそのまま車に乗り込み、男はボスが乗ったのを確認すると助手席に戻り、すぐさま車はその場をあとにした。
車内から街の様子を眺める。つい先程男が1人、この街から消えたが、それを気にする者は誰ひとりとしていない。
この街の変わらない日常が続き、そしてまたどこかで誰かが消え、それでもまた新しい人間が入り、変わらない日常を繰り返す。
ここで生き残れるのは力のある者か、その者の身内か、力のある者のお気に入りか、力ある者を上手く利用する者だけだ。
リムジンはそのまま街を抜け、そのまま遠くからでも分かるほど大きな屋敷へと向かった。

ガードたちが警備する門を抜け、大きな噴水のある広場を抜け、手入れの行き届いた庭を抜ける。
地獄の門にも思える重厚で威厳ある作りの扉の前で車は止まった。
それと同時に助手席から男が出てきて後部座席の扉を開ける。
ボスは車から出ると咥えていたタバコを床に捨てて踏み消し、扉に歩み寄る。
すると、両開きの扉が勝手に開き、ボスは躊躇うことなく中へ入った。

正面玄関を真っ直ぐに行き、目の前にあるレッドカーペットの階段を上り、開け放たれたガラス張りの扉から続く中庭へ出る。
バルコニーには黒く長い、波打った髪を靡かせ、夜風にあたるガウンの女の後ろ姿があった。
絡まることなくさらさらと風に揺れるそれは美しく、ビロードを思わせた。
ボスはそのまま、大理石で出来たデッキの手すりに寄りかかる女の横に、同じようにして立った。

「タバコ」

「ん?」

女の色気を含んだ声に、ボスは答える。女は不機嫌な様子で顔を向けた。
長いまつげは付けたものではないと分かる自然さで、二重瞼のぱっちりした円い青みの強い緑目は不満の色を浮かべていた。
整っているはずの顔の眉間にはシワが寄せ、赤い口紅を塗った濡れた厚い唇も機嫌の悪さを伺わせた。
白い肌はほんのり上気し、右手に持った小さな空のグラスからも、少しだけアルコールが入っているのだと分かった。
女は再びムッとした表情でボスを睨む。

「タ・バ・コ。におうわ。わたし、タバコは嫌いなの。知ってるでしょ? やめたって言ったじゃない」

「1本だけだ」

「うそつき」

女はまた膨れてみせるが、すぐに吹き出し、火の灯った蝋燭を飾ったサイドテーブルにグラスを置く。
ボスの腕に絡みつき、甘えた声で囁く。
女の左手薬指に輝く、ボスと同じデザインの指輪がきらりと光った。

「ありがとう、あなた。わたしのこと、心配してくれたの?」

「当たり前だ。そうでなくともあの下等生物と同じ空気を吸っただけでも迷惑なんだ。
今後、俺の許可なく外に出るな」

「だって、退屈なんだもの」

「一言断れと言っている。
今回はたまたま見かけたからいいが、そうでなければあの街は皆殺しだ」

「あら怖い。じゃあ、一言言ったら出ていいのかしら?」

「黒服をつける。目の届く範囲で好きにしろ」

「はぁい」

話を聞いているのか聞いていないのか、女は始終ボスに擦り寄り、ハグを求める。
ボスはそんな彼女を振り払うわけでもなく、好きにさせる。
しばらく女に好きに甘えさせ、女がボスの腕に抱きついて落ち着くと、ボスはポケットから小さな箱を取り出した。
紺色の高級そうな箱を女に差し出せば、腕から離れた女は両手でそれを受け取った。

「あら、今日記念日?」

「いや。見つけただけだ。
お前が気に入ると思ってな」

「嬉しい。ありがとう、あなた」

女は幸せそうに笑う。ボスはその笑顔に、微かに表情が和らいだ。女は箱を開ける。
中に入っていたのは、小さなダイヤの台座にはめ込まれた、ルビーのネックレスだった。
箱をサイドテーブルに置き、ネックレスを早速身につける。
ダイヤとルビーが鎖骨の浮き出た女の首元で輝く。

「どう?」

「……ああ。よく似合っている」

ボスはそっと、女の頬に手を当て、唇に吸い付いた。口紅が乱れるのも構わずに女の厚みのある柔らかなそれを貪った。
2人はゆっくりと離れ、見つめ合う。
肌を火照らせた女が艶やかに微笑んだ。

「それじゃあ、わたしからもお返ししないといけないわね」

女はそう言うと、ガウンの紐を解いた。レースがあしらわれ、透けた黒い下着が露になった。白い肌が露になり、豊満で美しい円を描いた胸が挑発的に揺れる。スラリと長く細い脚をボスの脚に絡ませ、背中に手を回し、抱きつく。

「今夜は好きなだけ、よろしくてよ……?」

「これだから、お前は俺のお気に入りなんだ」

ボスはそのまま女を抱きしめ、横抱きにすると建物の中へ戻り、さらに上の階へ向かった。その奥の部屋へと美しく艶やかな妻を抱え入れ、乱暴に扉を閉めた。

その晩、サイドテーブルに灯った炎は一晩中消えることなく、激しく燃え続けたという。

ハーバリウムの幸福

 花澤ユリがハーバリウムを知ったのは、彼女が大学時代から勤務している書店で偶然見かけた本の表紙だった。
洒落た細長いガラス瓶の中に、水とは違う透明な液体と、その中に葉脈や花脈が透けて見える不思議な草花が浮いている様子は、
それまで花屋や道端で咲いた花と、図鑑やイラストで眺める花しか知らなかったユリに衝撃を与えた。
それから、彼女はハーバリウムの虜になったのは言うまでもない。
大学を卒業するまでは本や貯金、生活費にしか使わなかった給料は、
インテリアとして売られているハーバリウムに使われるようになり、同時に購入したハーバリウムを飾るためだけの棚に飾る。
それだけで、毎日が輝いて見えた。
 しかし、ハーバリウムを知ってから二か月経つ頃には、それも変わらない日常になった。
今ではすっかり馴染になったインテリアショップに足を運ぶだけの生活も新鮮味をなくしていた。
だからこそ、花屋の前を通ったときに見かけたポスターに目を奪われたのかもしれない。
〝ハーバリウムのワークショップ~植物標本を作りませんか~〟そんな二文に釘付けになった。
そうだ、ユリはポスターの日時と会場を手帳に書き込むと、足早にその場を去った。

 初めて自ら作ったハーバリウムを持ち帰った日、今まで購入したものと並べた。
白いバラのそれは、市販品のものと比べると不格好ではあるが、気にならないほど満足で、自然と口元が緩んだ。
 草や花をそのままの姿で乾燥させたドライフラワーや、生花に保存液と着色料を吸収させることで任意の色の花にし、
乾燥させたブリザードフラワーを瓶の中に自分のセンスを信じて配置、専用のオイルを流し込み、
草花から出る気泡が出来ると瓶のフタをきつく締める。
それを陽の光にかざし、葉脈や花脈を透かして見て、草花の形を確認、ガラスの反射を眺め、ようやく棚の空いたスペースに収める。
それは、ユリにとっての神聖な儀式であり、彼女の変わりない習慣になった。
 そんな彼女は、ハーバリウム作りで新たに挑戦したい方法を思いつき、
材料も閃くと、その足で心当たりのあるホビークラフト専門店へ向かった。
高校時代に来て以来、数年ぶりに訪れた店は、その頃よりも店舗を広く、新しく改装していた。
隣接する店はなくなり、その専門店一店になっていた。
コンクリートだけだった外装も、今では白を基調としたナチュラル風の外観にリフォームされ、
看板も新しく筆記体でシンプルなものへと姿を変えていた。すっかり雰囲気を変えた店に、ユリはため息をついた。
 新しくなった広い店内を見渡した。壁も照明も白く、商品は光を反射して煌めいていた。
輝きに圧倒されながら、ユリは天井から釣り下がるコーナー別の案内から天然石のコーナーを見つけると、
他には目もくれずそちらへ歩いた。大小様々、色も輝きも形も違い、箱や袋に入っているものから一点ものまで数多くのものが揃い、
値段も物によってバラバラだ。同じ石でも、色の濃さなどによって差があった。それが、ユリの心を鷲づかみにした。
この石がハーバリウムの中で生き続けることを想像するだけで、笑みを隠すことができなかった。
小さな感嘆の声を上げ、一つ一つの石を袋越し、箱越し、ガラスケース越しにじっくりと眺めた。
値段や数、必要としている色の微妙な違いも照らし合わせながら選ぶ時間は、気づかないうちに過ぎていく。
誰かに見られている視線など気づかないまま、ユリは目に輝きを映し出し、気に入ると白い歯を見せて笑った。
夢中であれこれと、天然石を手に取った。縦一列に並ぶ商品を見終わると、次の列を上から一つずつ手に取る。
そんなことを繰り返し、真ん中の商品を手に取ろうとしたとき、手が別の人間のものとぶつかった。

「ご、ごめんなさい」

「いえ、こちらこそ」

 声で初めて男性だと知り、顔を見た。
細い輪郭、二重の目を縁どる繊細で少し長めの睫、薄い唇は柔らかな笑みを浮かべ、
栗色の髪は長く、自然なうねりを作っていたが、きちんと後ろで一つに結ばれていた。
何より、先ほど手に取ろうとしていた茶色の天然石であるアンデシンにそっくりで、ユリは思わず見惚れた。

「あのー」

 再び声をかけられる。穏やかで囁くような、優しい、それでいて色気のある声。
また我に返ると耳まで熱くなるのを感じながら、ユリは俯く。

「すみません、失礼しました」

 口早で告げて、その場を立ち去った。急いでレジに商品を並べ、会計を済ませる。
一瞬、あの男のことが気になって振り向けば、まだユリを見ていた。
目が合い、軽く会釈されたが、ユリは曖昧に会釈を返し、店を出た。小走りになって駅へ向かい、電車に乗る。
心臓は何度も脈打ち、息が荒くなった。最寄りの駅につくと、ユリは電車を降りて帰る。
部屋の電気をつけ、ハーバリウムと本に囲まれた部屋に置いた作業台に、買った物を出した。
 商品の入っていた袋を見ると、中に小さなチラシも入っていた。
そういえば、店員が店の二階のスペースで、アクセサリーの展示会をしていると言っていた。その案内を入れられたのだろう。
ユリは改めて、そのチラシを取り出し、詳細を見てみた。
ネックレスやブレスレット、リングの写真に、展示会の名前と、会場、日程が書かれていた。
それをぼんやりと眺め、鞄から手帳を取り出した。
チラシの日程と、スケジュールの日程を照らし合わせ、ちょうど空いていると分かると、そこに場所と時間を記入した。
またあの一瞬を味わいと思った。好きなものを眺める時間と、あの、天然石のように澄んだ目と一瞬交わう視線の時間。
あの男が店にいる保証などなかったが、またどこかで会える気がして仕方がなかった。

 当日、ユリは店を訪れた。店は前より少し賑やかで、二階へと続く階段から何人か昇り降りしている。
やはり店と展示会の内容からか、女性客が多かった。
特に、二階から降りてくる女性層は若く、
時たま二人組の女性なんかは友人と「よかったね」「あの人もかっこよかった」といった会話をしている。
ユリは展示会の会場となっている二階へ向かった。
 白い壁紙と、磨かれた床。小さなスペースだった。
そこに、等間隔で並べられたショーケースと、長テーブルに黒い布をかけたものの上に、
いくつものアクセサリーが並べて置かれていた。どれも個性的なデザインで店では見かけないものばかりだ。
見ていて楽しいが、ユリにはどれも同じように思えた。
個性的になろうとして、いつの間にか周りに馴染み、個性も何もなくなってしまう。
このアクセサリーたちは、誰とも違うものを作ろうとした作者たちの主張が見えて、退屈を覚えた。
なぜ、人は草花のように自然に美しく、ハーバリウムのようにその美しさを保てないのだろう。

「えっと……この前の人、ですよね」

 あの声に、心臓が一度大きく跳ねた。また首を両手で包んでそのまま、ゆっくりと振り返れば、やはり、あの時の男がそこに立っていた。柔らかな笑みを浮かべて、ユリを見ていた。

「やっぱり! 覚えてますか? この前、下の売り場で」

「え、あ、はい。あの、あの時は本当に、失礼なことばかりで、すみませんでした」

 慌てて深く頭を下げた。

「いえいえ。僕もびっくりして、でもまさか、また会えるなんて思いませんでした。アクセサリー、お好きなんですか?」

「いえ、今日は本当に、たまたま。この前も、ハーバリウムっていう植物の標本があるんですけど、
それのための材料を揃えたくて来ただけで……」

「はーば、りうむ?」

「えっと、あの、ドライフラワーとかを瓶に入れて、特殊な液体につけて、お部屋とかに飾るんです。
今、インテリアなんかで人気になってるもので」

「ああ、知ってます! 青だったり赤だったりのお花が入れてある瓶ですよね? あれ、そういう名前なんですね」

 あまり明るく社交的に物を言えないユリとは違い、愛想がよく、含みのない柔らかな物腰とはっきりとした口調で話す人だ。
きっと誰に対してもそうなのだろうと分かったが、
それでも仕事以外で男性と接することがほとんどないユリにとっては新鮮で、少しくすぐったい。思わずはにかんだ。
あの綺麗な目を直視することができなかった。そんなユリに、男は思い出してポケットから名刺入れを取り出した。

「すみません、自己紹介まだでした。僕、石田アキラと申します。
ジュエリーデザイナーで、ここに他の人たちと合同で出展させてもらってます。
実は、この前も、出店の準備で偶然ここに来てたんです」

 名刺を一枚だし、差し出す。ユリは恐る恐る受け取ると、頬を染めながらアキラを盗み見た。

「花澤ユリと申します。すみません、私、アルバイトで書店員をしているので、名刺を持っていなくて……。本当にごめんなさい」

「いえ、そんな! 本屋さん、素敵ですよね。僕、読書とか大好きです」

 笑顔でそう話すアキラに、ユリは安堵を覚えた。

「そうだ、よかったら僕の作品、見てってくれませんか? 感想、聞かせてください。
もちろん、どんな感想でも構いません。遠慮なさらず言っていただきたいです」

 ユリは、躊躇いながらも頷いた。
アキラの作品が展示されているスペースに行くと、ショーケースの中に他の個性的なものと比べてシンプルなペンダントが飾ってあった。
バラのシルバーのペンダントトップが銀のチェーンに通され、そのバラの中に紫の宝石が埋め込まれている。
左右に棘のような細長い飾りもついており、棘の先端には黒いビーズがついている。
ユリは目を見開き、食い入るように見つめていた。先に見ていた二人組の女性が「綺麗」「可愛い」と言いながら、その場を離れた。
アキラはペンダントを見つめるユリの顔色を伺う。

「どう……ですか?」

「……こんな風に、なりたいな」

 思わず、そう呟いていた。その言葉に、アキラは身を乗り出した。

「それ、もっと詳しく聞いてもいいですか?」

「え、ああ、すみません……。変ですよね、こんなこと言うの。
バラに、宝石が埋め込まれてて、隠れた美しさを秘めたままの姿で留まっていて、
左右の棘が、それを乱されないように守っているようで、理想的で、こんな風に美しさを邪魔されなければいいのにと思って……」

 説明を終えたユリは、やはり変な人間だと思われたのではないかと不安になり、アキラの顔を見た。
アキラは喜びを隠しきれない様子で、ユリに思い切り頭を下げた。

「ありがとうございます! すっごく、新鮮で、そんなこと言われたことなくて、もう、とにかく嬉しいです!」

「いえ、そんな、ほんとに、変なことを言ってしまって」

「そんなことありません! あの、花澤さん、よかったら今度、お茶でもいかがですか? 
是非花澤さんの作品の話も聞かせてください。よかったら、写真でもいいので見せていただけませんか? 
花澤さんのこと色々知りたいです」

 ユリはアキラの言葉に赤面しながら、目を泳がせて戸惑う。それに、アキラも自身の発した言葉に気づき、慌てて弁明する。

「すみません、気持ち悪かったですよね?  他意は本当にありませんから。ただ、花澤さんとまた、話をしたくて」

 ユリは、顔が熱くなるのを覚えた。躊躇いながら、首を手で包む。初めて異性から誘われ、胸の高鳴りが耳にまで響く。

「あの、私で良ければ、よかったら、お茶させてください」

 アキラは嬉しそうに笑った。

「是非!」

 連絡先を交換した二人は、アキラの行きつけのカフェで待ち合わせることにして、その日は別れた。

 カフェで会う日。
特別な日にだけ着ると決めているタートルネックの白いワンピースに身を包んだユリは、
店前で少し遅れてきたアキラと合流すると店に入り、空いている窓際の席に着いた。
アキラはコーヒーフロート、ユリはローズティーを頼み、二人は改めて向き合った。

「改めまして、今日はありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。よろしくお願いします」

 展示イベントである程度の会話が出来たからか、ユリは余裕を持って受け答えをすることが出来た。
アキラもユリの余裕を感じてか、安堵のため息をつく。

「よかった。この前は突然で、すみませんでした。体調悪かったり、気分じゃなかったりしたら言ってくださいね」

 アキラの気遣いに、ユリは微笑み、頷いた。

「白色、よく似合ってますね」

「あ、ありがとうございます」

 褒められ、ユリはすぐに顔を赤くさせた。それを隠すため、携帯電話を取り出すと、写真を画面に映し出した。
以前、ユリが初めて作った白いバラのハーバリウムだ。

「これ、これです。私が作った、ハーバリウム」

 露骨な照れ隠しに笑っていたアキラは、ユリから携帯を預かると、真面目な顔をして眺めていた。
初めて誰かに見せたハーバリウムは、どう思われるのか不安を覚える。しばらくして、アキラは顔を上げる。
不安と恥ずかしさで俯くユリを真っ直ぐ見つめた。

「世の中には、こんなに不思議で、美しいものがあるんですね。
もともと生きていたはずのものが、沈んでもなお美しく留まっている……惹かれる理由がよく分かります。
このハーバリウム、すごく好きです。もっと教えてくれませんか? ハーバリウムのことと、花澤さんの、ことも」

 真剣な顔で、しかし最後の言葉は少し頬を染めて言うアキラに、ユリは顔を上げた。
見つめるアキラの目と目が合い、耳まで熱くなるのを覚えながら、それでも目を離すことをしなかった。

「あ、の……よろしく、お願いします」

 頭を下げ、再び上げれば、微笑むアキラが目に入る。
それに胸の高鳴りを感じながら、ユリはゆっくりとハーバリウムのこと、そして少しずつだが自分の話をした。
アキラはユリの話すことに笑ったり、神妙な顔になったり、微笑んだりしながら聞く。
話が途切れれば、今度はアキラが自分のことや作品の話をした。
ユリも相槌を打ち、笑い、驚き、時にははにかみながら話を聞く。
 正午に入店したというのに、いつの間にか西日が差し込む時刻となっていた。
二人は解散間際に次の約束をし、その日を終えた。
 そうして何度か会うことを重ね、趣味も息も合う二人が恋人になるまでにそう時間をかからなかった。
仲睦まじく、ゆっくりと関係を築いていった二人の仲は、一年が経とうとしていた。
 


       *



「アキラさん、お誕生日おめでとう。これ、プレゼント」

 ユリはアキラのお気に入りのカフェで、彼の好きな黒色のリボンを巻いた赤いバラのハーバリウムを渡した。
ユリの自作であり、中には小粒のアメジストが入っている。アキラは微笑み、受け取った。

「ありがとう。ユリの作るハーバリウム、すごく綺麗だ」

「そう言ってもらえて嬉しい」

 笑うユリだが、アキラはすぐにスマートフォンに目を落としてしまった。
少し表情を曇らせながらも、そこには触れず、ユリは話しかける。

「この後はどうする?」

「せっかくの誕生日で悪いんだけど、この後ちょっと女友達に呼ばれてるんだ。
なんか、人集めて待ってるんだって。ユリがいるから遠慮したんだけど、もう集めたからとにかく来いって言われて。いいかな?」

 アキラからの「女友達」という言葉に、また表情を曇らせながら、ユリはただ頷いた。

「もちろんよ。せっかくの誕生日なんだもの。楽しんできて」

「ありがとう。また連絡するから。あと、お詫びにここのお代も払ってく、気にしないでゆっくりしててね」

「うん。ありがとう」

 アキラは伝票を持って席を立つと、会計に向かい、それを終えると一度ユリのほうへ手を振り、店を出た。
笑顔で手を振り返したユリだが、アキラの後ろ姿を見送ると表情がなくなり、口元はきつく一文字に結んだ。

 アキラの女友達の多さは、付き合ってすぐの頃には分からなかったが、それなりに察してはいた。
時たま電話から聞こえてくる声や、付けた覚えのない女物の香水の匂いがしてくることもあった。
撮った写真を見せてもらう機会があったときも、必ず女の姿が映っていた。
誰なのか聞くと、アキラはあっけらかんとした態度でそれが女友達であると隠すことなくユリに伝えた。
 彼が嘘の得意な人間ではないことは分かっていた。彼は追いつめられると正直に話す。
ユリはそれに嘘はないと直感し、そのため女友達と遊んでいても浮気の心配はしていないフリなら出来た。
 だが、それでもユリにはどうしても許せないことがあった。
それは、明らかにアキラに対し好意を持つ女友達の存在だ。
アキラにはユリがいることを知りながら明らかな好意を剥き出し、
媚びるようなメッセージを送り、実際に顔を合わせた際にもその態度を見せていた。
アキラは、隠し事はないとすべて見せてくれる。それは愛情であり、彼が他の女になびくことはないと自負している。
だが、不安要素は取り除きたい。
 理由をつけては携帯電話を見せてもらい、友達の話は聞き漏らさず、女の嫌いなものや苦手なものを予想し、
時には彼女たちを尾行しては、嫌がらせを繰り返すようになっていた。無言電話、夜道に足音を立ててついていく、
郵便受けに虫の死骸や近くの泥土を入れる。彼女たちがアキラに関わった日だけを選び、アキラから足を遠ざけるように仕向けた。
今までなぜばれていないのか、それはユリにも分からない。
 一度だけ、ヒステリーを起こしアキラに電話をしてきた女がいた。
アキラが耳から遠ざけた電話のスピーカーからは、女の泣き叫ぶ声が響き、
その中で確かに「あんたの彼女の仕業だ」「早く止めさせろ」「騙されている」と言っていたのが聞こえた。
アキラはあまりの狂気に苦笑いを浮かべ、その女には一言「君、頭おかしいよ。悪い冗談はやめてくれ」と言って、電話を切っていた。
その後、一緒にいたユリに笑いかけ、その場でその女の連絡先を消して見せた。
ユリはアキラの胸に抱き付き、不安そうに震えながらも、口元には笑みを浮かべていた。
アキラはそんな彼女を抱きしめながら、ユリの様子には気づいていないのか同じように笑っていた。

 ここ最近、アキラはユリに少しだけ冷たかった。
今まではユリと話しているときに調べ物をすることもなかったが、先ほども忙しく画面をスライドさせていた。
ユリはアキラの一番の良き理解者であるために、彼にそのことを問いただすことはしないが、
それでも何か隠しているのではないかと疑ってしまう。

「綺麗に整えなきゃ……」

 ユリは呟き、カフェの席を立った。



        *



 誕生日から数日後。アキラは、ユリの部屋で、彼女のハーバリウムが飾ってある棚を眺めていた。
椅子に座り、作業をするユリに思い出して声をかける。

「そうだ、ユリ。今度、一緒にプールに行かない?」

 今まで誘われたことのなかったその言葉に、ユリは手を止め、アキラを振り返った。

「プール?」

「そう。誕生日に、久々に大学のサークルが一緒だった友達と会ったんだけどね。
あいつらが、久々に泳ぎに行かないかって。あれ、僕が前に水泳同好会だった話したよね?」

「うん。男の子だけの同好会で、一番泳げるって自慢してた」

「だって、本当に上手なんだよ? 今でもそれは変わらないって思ってる」

 アキラの自信に、ユリはくすりと笑う。

「せっかくだけど、私、泳ぐの苦手だから……」

「屋外で、すっごく綺麗で大きい場所だよ。新しく出来たんだって。ね、せっかくだから」

 アキラはユリに近づき、座る彼女を後ろから抱きしめる。

「一緒に行こうよ」

「でも……」

「心配しないで。他にも女の子来るから」

 耳元で囁くように言われ、ユリは一瞬、息を止めた。
そんなことを言われては、行くしかない。ユリは少しの間考えた後、口を開いた。

「……そうよね。せっかくだから、私も行く」

 アキラは微かに口元を歪めたが、すぐに笑った。

「じゃあ、また時間と場所は伝えるから、楽しみにしててね」

「うん」

 ユリは返事をしながら、新しくどんな水着を買えばいいのかを考え始めた。

 プールの日。ユリは前日、家から何駅か離れたショッピングモールで緑一色の、
上半身は胸から首までが隠れるタイプのビキニを購入した。
ビニールで出来たバッグに、体をすっぽりと覆い隠せるタオルとゴーグルも揃えて詰め込んだ。
プールは中学の体育以来、久しぶりだった。
泳ぐのは苦手だが、アキラが裸にも近い恰好で自分の知らない女と知らない所で遊んでいるよりはマシだ。

「ユリ! こっち」

 指定されたプール施設の前で、人に邪魔にならないように立っていると、愛する人の声にすぐさま反応した。
辺りを見渡すと、アキラが数人の男たちと一緒にいた。また、そのすぐ傍には、男たちと同じ数の女も。
 ユリは微笑み、アキラに近づく。アキラは躊躇うことなくユリの手を取り、自身の隣に立たせた。

「この子が僕の彼女だよ」

 はっきりと、言い淀むことなく紹介され、ユリは顔を赤くさせた。
男たちは冷やかしの声を浴びせ、女たちは自分のことのようにくすぐったそうに笑っている。

「初めまして、花澤ユリです。アキラさんから、お話聞いています」

 ユリはきちんと、アキラに恥をかかせないように挨拶をする。すると、男たちも女たちも、各々の自己紹介をした。
アキラが言っていた「女の子たち」とは彼女たちのことで、それぞれがそれぞれの男たちの彼女だった。
ユリは内心、一度は断ったがその後誘いに乗ってよかったと安心した。
もしあのまま断っていたら、アキラは一人だけ彼女を連れて来ない人間というレッテルだったかもしれない。

「自己紹介も終わったことだし、はやく入ろっか!」

 アキラの言葉に、男たちが次々と先を行く。ユリは自然と他の彼女たちに混ざり、次第に打ち解けあった。
どの彼女も派手過ぎず、活発そうだが真面目な雰囲気をまとっていた。一先ずは仲良くできそうだと、ユリはまた安堵した。

 着替えを終えて、プールに水着で集まった。
ここからは自由時間で、大きく広いプールに全員、特にユリを含めた彼女たちが感嘆の声を上げた。
久々に嗅ぐプールのにおいは人工的な科学薬品で、ユリは安堵を覚えた。

「僕は向こうであいつらといるから。大丈夫、ユリのことだけちゃんと見てるよ」

 アキラはユリにそう耳元に囁いた。ユリははにかみ、頷いた。
 大きなプールの中は真ん中に行くほどに深く、人もまばらになっていた。
ユリはプールの中で彼女たちと他愛のない遊びを繰り返す。
時たまアキラに目を向ければ、視線に気づいた彼がユリにその視線を返し、微笑み合った。
 そんな中、彼女の一人が「水中鬼ごっこをしたい!」と言った。
何でも、彼女がプールで遊ぶのは小学校以来で、久々に童心に返り、全員で遊びたいというのだ。

「ごめんなさい、私、泳ぐの苦手で……」

 他の彼女たちが同意する中、申し訳なく思いながらも、ユリはさすがに泳げないため、断った。

「大丈夫だよ! ねえ、ユリちゃん、一緒に遊ぼう?」

「そうよ、そんな難しいことじゃないし」

「逃げるのなんて、歩いても走ってもいいんだから!」

「ビート板だって貸し出しされてるし。ね、いいじゃない?」

 彼女たちに懇願され、ユリは渋々承諾した。ユリが泳げないことを考慮し、彼女たちはユリを鬼から外してくれた。
逃げる時間も多めに確保してくれ、ビート板も借りてきてくれた。
ユリは彼女たちに感謝と、あとでお詫びとお礼に飲み物を奢ることを約束した。
 鬼が決まり、ユリと彼女たちは周りへ散らばる。
ユリはとにかく逃げるため、不器用に足をばたつかせながら、ビート板を駆使して何とかプールの奥へと向かった。
浮いていることはできるし、周りはまばらでも人はいるのもあり、そこが一番安全だと思った。
 静かになったプールの真ん中で、ユリはふと、水面に映る自身の姿に目を向けた。
ビキニの緑が思っていたよりも鮮やかだからか、水面にはくっきりと緑が映っていた。
水面の揺れで、顔ははっきりと映らないが、代わりに豊満な胸を覆い隠す緑のビキニがちょうど四枚の花弁のようになり、
クローバーを彷彿とさせた。自身がクローバーになったようにさえ思えた。
プール底の深い青が余計に緑を際立たせる。
今、自分はあの透けるように美しい草花になっているようで、うっとりとその様子を眺めていた。途端。

「ユリちゃん捕まえた!」

 後ろから抱き付かれたと知ったのは、プールに沈んでからだった。勢いでビート板を手放してしまっていた。
息を吸おうとすれば、水が中に入り、それを吐き出そうとすれば、また水が口や鼻に入り込んだ。泳げない。沈んでいく。
ユリの体は重く、深く、水に捕らわれ奥へ奥へと惹き込まれていった。
手足をばたつかせるほどに深く沈み、ついにはプールの底まで足がつく。だが、そこから蹴って上に浮くことはしなかった。
ユリは弱々しくばたつきながら、気泡を吐き出しながらその場に留まる。脳裏には、アキラと初めて出会った日のことを思い出した。
思えば、あの日が人生の中で一番美しく、幸福と輝きに満ちていた。
誰に邪魔されることもなく、それでいて永遠のような一瞬は、ユリにとっての箱庭だった。
好きなものだけに囲まれた、永遠を彩る箱庭。ユリの意識は水に溶けていく。
 その時。水面が大きく揺れ、白い泡を吐き出した。薄れる意識の中、心地よい体温に抱かれた。
懐かしく、それでいて新鮮で、だが、感じ慣れた体温。微かに開いた目に映ったのは、目を細めてユリを見つめるアキラの姿だった。
愛おしそうに、口元には笑みすら浮かべていた。しかし、朦朧とするユリはそれに気づかない。
アキラはユリを抱きしめたまま、水面に上がろうとしなかった。
まるで、さらに奥へと沈もうとするように、ただユリを強く離すことなく抱きしめていた。
何も考えられないままにユリの意識が途切れる瞬間、アキラの物とは別の腕に体を掴まれ、
上へ浮き上がる水圧を頬に微かに感じ、ユリは目を閉じた。



        *



 あれから数週間が経った。溺れたユリは意識を取り戻したのち、プールのレスキュー隊によってアキラと共に助け出されたことを知った。
幸い、水は少量しか飲み込んでおらず、ユリもアキラも検査を受けたが体に異常はなかった。
鬼役だった彼女はユリに泣いて謝り、ユリはそれを咎めることなく笑って許した。
飲み物を奢る約束は、彼女たちと連絡を取り合い、日を改めて決めた。
 アキラは、ユリが無事なことに涙を浮かべて喜んだ。ユリはただ、あの時見たアキラの様子は気のせいだったと思い、二人は抱きしめあった。

 そして、二人は記念日を迎えた。二人が初めて出会った日のお祝いだった。アキラの家で、ささやかに祝った。
 ユリは、白いバラを黒く着色させたブリザードフラワーを使ったハーバリウムをアキラに贈った。

「ありがとう! 嬉しいよ」

 アキラは微笑み、ユリもそんな彼を愛おしそうに見る。そしてアキラは、ユリに細長い箱を手渡した。

「これは?」

「開けてみて」

 ユリは言われるままに箱を開けた。そこには、あの日、アキラが展示会に出展していたペンダントが入っていた。
しかし、一つ違うのは、ペンダントのチェーンが黒になっていたことだ。

「これ……」

「あの日、ユリに初めて褒めてもらった作品。嫌だった?」

「すっごく嬉しい。でも、私……」

「黒のチェーン、少しは首を目立たないようにしてくれるって、この前教わって。探すの大変だったんだ。
見つけてもすぐに売れちゃうし。ネットでようやく見つけたんだ」

 ここ最近、アキラが食事中でも一緒にいるときでも必死に調べ物をしていたのは、
この黒のチェーンを探すためだと知り、ユリは口元に手を当て、涙を浮かべた。

「君に是非、付けてほしい」

 ユリは迷わず頷いた。しかし、手に取るものの首に付けるのを躊躇う。
そんな彼女に微笑んだアキラは席を立ちあがると、ユリの後ろに立ち、彼女の手からペンダントを取り、首に付けてあげる。
ユリは両手で首を隠そうとするが手を止め、ゆっくりとアキラを振り返る。紫の宝石が煌めくシルバーのバラが、ユリの首元で光った。

「よく似合ってるよ。とってもよく」

 その言葉にユリははにかみ、立ち上がる。アキラは彼女を抱きしめ、顔を上げさせるとキスをした。

 乱れたベッドの上で、ユリはアキラの胸に頭を埋めながら、体に残る行為の余韻に浸り、ゆっくりと呼吸をした。
頭をそっと撫でられながら、ユリは自身の首で輝くペンダントトップをいじる。

「……ねえ、アキラさん。黒いバラの花言葉、知ってる?」

「ん? なに?」

「決して滅びることのない愛、永遠の愛、よ。……愛してるわ」

 アキラはくすぐったそうに笑うと、ユリの頬を撫でる。

「じゃあ、ペンダントを贈るってどういう意味か教えてあげる」

「なぁに?」

「永遠に繋がっていたい、って意味だよ。ユリ。……愛してるよ」

 ユリは愛おしげにアキラに微笑み、抱き付く。すると、ふとアキラが思い出したように口を開いた。

「そうだ、ユリ。今度、僕に告白してきた女の子と食事に行ってくるよ。
ユリがいること伝えたんだけどね。食事したら、諦めてくれるって。だから安心して。僕はずっと、ユリだけだよ」

「……ふーん。そっか。ちゃんと、良い思い出にしてあげてね」

 ユリは余裕を装って答えながらも、アキラの背中に回す手が微かに力強くなったことをアキラは見逃さなかった。
アキラは口元を歪め、微笑む。

「君も、楽しんでいいからね」

 ユリに聞こえないほどの声で呟き、アキラは彼女を愛おしげに抱きしめた。



                                 〈了〉

ハカセのアイした

 博士は考えました。どうすれば、心を持ったロボットが作れるのだろう。
新たな発見により知識は増え、時代が流れて技術は発展しましたが、それでもまだ、ヒトと同じ心を持ったロボットは出来ません。
来る日も来る日も、考えました。寝るのも食事も家族も忘れて、ただただひたすら考えました。
心を持ったロボットが出来れば、博士は偉大な発明家。
何よりきっと、今よりロボットと生きることが楽しくなるはずで、心があればロボットも成長して、
新しい可能性を生み出してくれることだろうと、信じて疑わなかったのです。
そんな博士は、日夜を問わず考えます。心を持ったロボットについて。
人間と成長する、ロボットについて。きっと待っているのは、心を通わせ合い、誰もが機械とともに笑い合う世界。
まずは、心について考えました。それから、感情について。人間の脳について。神経について。
すべてを一から、今までの知識と合わせて考えました。考えて、考えて、また考えて。
そうしてようやく、博士は辿り着いたのでした。心を持った、ロボットの作り方。
それは名案であると、博士は喜びました。早速作業に取り掛かります。ところで、その方法とは――。



 鳥のさえずりが響いていました。白い壁で出来たドーム状の建物は、朝の光を浴びてより一層白さを感じさせました。
辺りは森に囲まれているからか、人の姿は見当たらず、いくつかの監視カメラがのんびりと周りを警戒しています。

 建物の中は一階と二階に分かれていて、二階はフェンスに囲まれていました。
その二階にあるいくつかの部屋の一つの扉が開きました。中から出てきたのは、白衣を着た背の高い初老の男性。
もみあげまで繋がった無精髭が特徴的で、濃いクマの出来た垂れ目は焦点が合わず、大きな口を開けてあくびをすれば、
黄ばんだ歯が顔を覗かせました。ふけと白髪だらけの固い髪を掻き、
逆の手には冷めたコーヒーが淹れられた白いマグカップが握られていました。
マグカップの内側には、何層もの茶色い線になった跡が残っていて、それがしばらく洗われずに、
何度もコーヒーを淹れ直していることが伺えました。
しわくちゃなシャツは茶色や黄色の染みで汚れ、裾のほつれたズボンにきちんと入れられているのに、
サンダルを履いた靴下には穴が空いていて、足の小指が挨拶をしています。
男性は赤く充血した目を何度も瞬かせながら、一歩ずつ階段を下り始めました。
一階に辿り着くと、持っていたマグカップのコーヒーを飲み切り、書類が乱雑に山積みにされたスチールのテーブルの上に、
汚れた空のカップを置きました。
男性は無数の黒いケーブルが伸びた、奥の部屋へと向かいました。
鉄で出来た扉の横には、青く光るパネルが付いており、男性はそれを慣れた手つきで操作します。
ほんの数秒それをいじると、間を空けることなく鉄の扉は開きました。
空気の抜けるような音が辺りに響き、扉はゆっくりと両側に開いていきます。
ようやく開ききった頃には、男性は既に真っ暗な部屋に入っていました。
ぼんやりと光っている台に近づき、立ち止まります。
床を這っている様々な太さのコードはすべて、光るガラスケースの台へと続いていました。
台の上に横たわる鉄の塊は、人の形をしていて、四角い箱を重ねたような体は、人間とは呼べませんでした。
男性は、ガラスケースに手を置き、乾いてゴツゴツとした掌はゆっくりとした動作で、愛でるように撫でました。
乾いた目を細め、台から放たれている光に照らされながら、長らく剃っていない髭だらけの口元を不気味に歪めました。

「今、出してあげるからね」

 容姿とはかけ離れた、若々しく囁くような声。
柔らかな口調で、ガラスケースの中に声をかけ、男性は横についている大きな赤いボタンを押しました。
すると、ガラスケースはあっという間に台の中へと収納されてしまい、中のものは外の空気に晒されました。
ガラスケースが開いたと同時に、部屋の明かりがぼんやりと点き、男性は一歩、台から離れて見守ります。
台の上に横たわる人型機械の目が点滅したと思うと青く光りました。
それから、歯車を軋ませる音を立てて起き上がり、首を何度か左右に振り、ようやく男性の顔に目を向けます。

「やあ、おはよう。目覚めはどうだい?」

 ロボットは、自分の体に目を向け、じっくりと観察を始めました。
伸ばされたままの短い脚は四角く、腕も重く、体は思うように動きません。
自分がどこにいて、いったい何なのかも分からない様子で、再び男性に目を向けました。
今の状況を理解できていないことがわかると、男性は笑みを浮かべたまま、ロボットの手を取りました。

「ここは研究所。ぼくは博士。きみは、ぼくに作られたロボットだよ」

 短い言葉で簡潔にそう説明し、博士はロボットの頭を撫でました。
冷たい頭から、じんわりと博士の掌の熱を感知して、ロボットは頭の内側に不思議な感覚を覚えました。

「きみはぼくに作られたロボット。でも、ただのロボットじゃないよ。心を持った、人間に近いロボットだ」

 説明をしている博士の言葉を、理解することができずにいました。
ただ、笑っていることは理解ができたので、ロボットも同じ表情をしようと、じっと博士を見つめました。
しかし、どんなに見つめても、同じ顔になった気がしませんでした。

「きみはこれから、人間と同じように少しずつ学んで、成長していくんだ。
そして、将来は人間と共存する世界を担っていくんだよ。わかったかい?」

 ほとんどの言葉を理解することはできませんでしたが、優しい声と笑顔に安心して、ゆっくりとうなずきました。
博士はまた、ロボットの頭を撫でました。

「そうだ、きみに名前をあげよう」

博士は辺りを見渡して、壁に貼り付けられた一枚の絵を見つけました。クレヨンで描かれた、歪んだ羊の絵。

「きみの名前は、シープだ。羊だよ」

シープと名付けられたロボットは、その意味も羊が一体なんなのかも分からないまま、
しかし博士の声で呼ばれるそれが嬉しくて、また、うなずきました。

博士はぎこちなくも動けるようになったシープを連れて、研究室を出ました。
一歩一歩を慎重に歩くシープが愛らしく、博士は笑いました。

「まだ慣れないだろう。だが、すぐに感覚に慣れて、自分の体だと認識し、上手く動けるようになるよ」

 立ち止まったシープは首を傾げ、自身の両手に目を向けました。
ゆっくりと手を開く、握る動作を繰り返しますが、やはり違和感は消えません。
動かしているのは確かのはずが、指の関節の一つ一つを動かす感覚がずれて感じ、心地悪さを覚えます。
そのせいか、シープは両手をぶらぶらと揺らし、その微妙なズレを慣らそうとしました。そんな、シープの行動に博士は笑います。

「ははっ。感覚が合わなくて心地悪いんだね。大丈夫、それもすぐに慣れる」

 満足気な笑みを浮かべ、博士は再び歩き出しました。
シープはなぜ笑われたのかも分からず、しかしその穏やかさに悪い気はせず、博士の後につきました。
 博士に案内され、辿り着いたのは二階の一部屋でした。
扉を開けたそこには一人用の青いベッドと、勉強机以外には何も置いてありません。

「今日からこの部屋が君の部屋だよ、シープ。好きに使いなさい」

 シープは博士に背中を押され、部屋に入りました。
見るものすべてが新しく、懐かしく思え、シープはすんなりと部屋の存在を受け入れました。

「早速、今日から言葉と文字を覚えよう。君の成長がどれほどになるのか、楽しみだ。
今、本を持ってくるよ。まずは、簡単な言葉からだ」

 博士は部屋を出ました。シープは呆然と、博士の後ろ姿を見送りますが、ついていくことはしません。
歯車がドッドッと音を鳴らし、熱を押さえるファンの音がする以外、部屋は一気に静かになりました。
シープはまだ慣れない体を動かし、部屋をゆっくりと一周しました。
本当に、ベッドと机以外には何もない小さな部屋でした。
白い壁は、窓から差し込む太陽の光で薄く日焼けし、机の上は埃が溜まり、空気はどこか淀んでいました。
それでも、シープは部屋を気に入りました。触れる空気が、シープに馴染んでいたのです。
 シープがベッドに座っていると、博士が多くの本を抱えて戻ってきました。
大小様々なその本は、今にも崩れ落ちそうです。博士は勉強机の上に、本を置きました。
置いた途端に本は崩れ、何もなかった机の上は乱雑になり、溜まっていた埃が舞います。

「さ、これを開いてごらん」

 そう言って差し出したのは、ひらがなの本。シープは本を受け取ると、本を開きました。
開いたページは「は」のページ。博士はシープの隣に座ると、「は」の文字を指差しました。

「これは、『は』だよ。博士の『は』だ」

 シープはしばらく文字を見つめ、それから博士の声と言葉の処理を始めました。
博士の指差す「は」の形と、博士の発した「は」の発音、声を繋ぎ合わせ、シープは理解するという動作を行いました。

「ハ」

「そう、そうだ、『は』だよ! シープ、その調子だ」

 博士は興奮に達し、無精髭の顔は紅潮します。シープは、博士から伝わる悪い気のしない感情に心地よさを覚えました。
博士がページをめくってはひらがなを指差し、シープに教え、シープは博士の言葉を同じ要領で、
だんだんと処理も早くなり、機械の声を発しました。シープは言葉を覚えていきます。
そうしているうちに、いつの間にか体の違和感はなくなり、動作は未だぎこちなくも、気にしている様子はありません。
博士は日が暮れても、シープに言葉を教えることをやめませんでした。

 三日後。博士は寝ずにシープに言葉を教え続けました。
たまに、コーヒーを淹れに席を立つことはありましたが、それ以外はずっとシープの傍にいました。
それから、言葉と文字を覚えたシープに本を読ませ、分からないところは博士に訊ねさせることを繰り返します。
そうすると、いつの間にかシープには知識が増え、思考が増え、会話と動作が増えました。
シープは人間と大差ない感情を交えながら、博士と対話が可能になったのです。
シープは今、『ロボットと人間』を読み、博士に訊ねました。

「ロボット、ニンゲン、チガウ?」

「ああ、違うよ。ロボットは人間が作った物だ。人間が作って、どう動くか、どう考えるかをプログラムする。
でも、人間は誰にプログラムされたわけでもなく、自分が見て、感じて、憶えたことを元に行動する。
ロボットは、人間なしでは動けないけれど、人間はひとりで動けるんだ」

 何杯目になるか分からない冷めたコーヒーを飲みながら、博士は答えました。
やはり、カップは洗ったあとがなく、何層もの茶色の線が内側にこびりついていて、決して清潔とは言えません。
くまの消えない目は柔和に微笑み、隣で本を読むシープの頭を撫でました。

「だが、シープ。きみは特別だ。
ロボットでありながら、きみには自分で考えて、自分で動く能力がある。きみは新たな可能性なんだよ」

 シープは頭に感じる熱を心地よく感じながら、博士を見つめていました。
それから、再び本に目を落とし、ページをめくっていきます。

「カゾク、ナニ?」

「家族は、血の繋がった存在のことだよ」

「ロボット、カゾク、イル?」

「いないよ。生き物にしか家族という概念は存在しない」

「ハカセ、カゾク、イル?」

 博士はカップのコーヒーを飲み干すと立ち上がりました。

「いるよ。一人息子がね」

 そう言って、博士は振り返ることなく、部屋を出ました。
シープはそんな博士の後ろ姿を見送ると、また本を読み進めました。

 そうした生活を一か月ほど続け、シープは博士の身の回りの世話をするまでに成長しました。
今では、作業をする博士にコーヒーを淹れ、溜まった洗濯物を回し、
食べ物を貯蔵している機械のボタンを操作すれば自動で出てくる食事の提供、
乱雑な身の回りの整理まですることができます。
また、シープ自身も記憶や感情が増え、博士との対話にも感情の抑揚が表れるようになったのです。

「ハカセ、またネないでサギョウですか?」

「ああ、きみに関する成長データの整理をしなくちゃいけないからね。
だが、ここ最近、目立った成長が見られない。
この一か月著しく成長していたのに、今ではその反応も微々たるものだ。どうしたものか」

 博士は頭を抱え、白髪交じりの固い髪を掻きむしり、机に何度も額を打ち付け始めました。
そんな博士を見かねたシープは、淹れたてのコーヒーを博士の傍に置きました。

「ハカセ、ショクリョウコのショクザイがナくなりそうです。どうしたらヨいですか?」

「食糧庫、食材、そうだね、買わないとね。買う、そうだ、買い物、買い物だ、シープ! 買い物だ!」

「カいモノ?」

 博士は顔を上げ、椅子から勢いよく立ち上がると、ようやく整理整頓された机の上を再び散らかしました。
そうしながら、ようやく布製の鞄を取り出し、シープに持たせました。
それから、自身の服についているポケットというポケットを探り、
少ししてようやく黒くくたびれた革の財布を取り出し、シープに預けます。

「シープ、町へ出て買い物をしておいで。町に出るのは初めてだったね? 
この建物を出て、道をまっすぐ行けば、すぐにたくさんの建物が見える。それが町だ。
それから、町で買い物をするんだ。
いいかい、インスタントコーヒーを三百グラムと鶏肉を一キロ、にんじん、じゃがいもを一キロずつ買ってくるんだ。
買い物は、その財布に入っているお金で交換できる。本で読んだから一連の流れは分かるね?」

「はい」

「じゃあ、買う物を繰り返してごらん」

「はい。インスタントコーヒーをサンビャクグラム、トリニクをイチキロ、にんじん、じゃがいもをイチキロずつ。
カいモノは、サイフのナカのおカネでコウカン」

「そう、そうだ。シープは良い子だ。早速行ってきてくれ。
それと、なるべく多くの人やロボットと関わって来るんだよ」

「ワかりました」

 シープは初日のときのように興奮した様子の博士に安堵し、初めて建物の玄関に向かいました。
扉を開けて、シープは真っ直ぐ町へと続く石畳の道を歩き出しました。

 町に着くと、シープは目の前の光景に圧倒されました。
博士と同じような体つきをした人間や、シープと似たようなボディのロボット、
本でしか見たことのなかった女性という存在や子どもという存在が忙しなく行き交っているのです。
それぞれが博士とはまったく違う声質で叫び、笑い、声を上げ、話をしていることが新鮮でした。
シープは博士に言われたことを思い出し、道行くロボットに声をかけました。

「すみません、インスタントコーヒーをカえるおミセをサガしています。オシえていただけますか?」

 ロボットは答えず、シープのように感情を見せず、そのまま去って行きました。シープは不思議に思い、首を傾げます。

「ここらじゃ見かけないロボットだな」

 声をかけてきたのは、野菜を売っている店の男性でした。
博士よりも大きく太っていて、しかし身なりはしっかりとしています。
切りそろえられたヒゲとは逆に、頭には一本も髪が生えていませんでした。
シープは声をかけてくれた男性に近寄りました。

「ロボットが、コエをかけてもハンノウをくれませんでした」

「は?」

 男性は心底不思議そうな顔で、シープを見つめます。

「なんだ、お前、会話ができんのか?」

「はい」

「へー! 今じゃ会話ができる新型も出てるのか」

 男性は感心した様子でシープを上から下まで見ました。
しかし、他のロボットとは違う見た目をしているわけではないためか、余計に不思議そうにしていました。

「ロボットは言われたことをするもんしか見たことなかったからなぁ、すげぇなぁ」

「にんじんとじゃがいもを、イチキロずつください」

「ああ、わかったよ。しっかし、人間みたいに話す新型とは、すげぇなぁ」

 男性はしきりに「すげぇ」と言いながら、シープに言われた通りのものを用意してくれました。
シープはお金を払い、ものを受け取ります。

「トリニクのおミセをシりませんか?」

「それならこの店の隣だよ」

「ありがとうございます」

 シープは丁寧にお礼を言うと、隣の精肉店に入りました。
店番をしていたのはロボットで、鶏肉一キロを頼むとロボットは何も言わずに用意をし、
お金を受け取り、商品をシープに渡しました。
シープは、人間とロボットの違いを間近に見ながら、自分と他のロボットは違うのだとだんだんと理解していきました。
 残りはコーヒーのみとなり、シープは途方に暮れました。お店の場所が分からないのです。
精肉店のロボットには質問をしても答えてもらえず、先ほどの男性に聞こうと戻っても席を外していていなかったため、
誰に聞いたらよいのかも分からず、結局、シープは自力で探すことにしました。
何度か道行く人間に聞こうとしましたが、ある者は声をかけられ驚いて逃げてしまい、
ある者は泣き出してしまい、またある者は気味悪がり、そしてある者はシープでさえも危険を感じる目をしていたのです。
シープは、博士から与えられた穏やかさや暖かさとは真逆の感情に、初めて不安と恐怖を覚えました。
そして、自分を異質と見る目や好奇の目に、歯車が激しく軋んで痛むのです。

 どうしたらようのか分からなくなりました。
人間というのは、博士のように優しい人ばかりではないことを悲しいと思いました。
自分をただ無条件に守る存在。すべての人間がそうではないことが恐怖で、シープは頭が熱くなっていくのを感じました。
博士に撫でられた時の熱ではなく、歯車の痛みと共に与えられる嫌な熱。それが、シープの思考回路を蝕みます。

「だいじょうぶ?」

 そんな状態の中、聞こえてきた声に反応して、シープは下を見ました。
そこにいたのは、小さな人間。青い服、短いズボン。人間の男の子という存在だと知りました。
彼は他の人間のように淀んだ目をせず、初めて町に出てきたときに見えたキラキラとするものを持ってシープを見上げていました。
博士の見せる「好奇心」や「疑問」を含んだ、透き通る目は、シープを安心させました。

「おとうさんは? おかあさんは? いないの?」

「おトウさん?」

「いないの?」

 男の子から発せられる単語は、知識として知っていました。「家族」を構成する一つの要因。
博士は、ロボットには家族がいないと言っていました。でも、本当にいないのか、シープは初めて考えました。
何も答えられずに、ただ男の子を見つめていると、どこかから女の人が走ってきて、男の子を抱えてどこかに行ってしまいました。
男の子はシープを見つめたまま、何も言わずに女の人と去ってしまいました。シープはまた、ひとりぼっちになりました。

 結局シープはコーヒーが買えず、歯車の重みを感じながら博士のいる研究所に戻ってきました。
博士はシープが帰って来たと知ると椅子から飛び降り、シープに駆け寄りました。
その目は輝きに満ち、興奮と喜びでいっぱいでした。

「シープ! やはりきみはぼくの最高傑作だよ! 
素晴らしい、素晴らしい反応を見せてもらった、やはりきみは未来の希望だ、新たな可能性だ! 
すごい、すごいぞ」

 しかし、シープは喜ぶ博士を見ても不安と恐怖を拭うことができず、安堵することができませんでした。
男の子の言葉に答えられず、でも覚えてしまった何かを考えるという行為を止めることができませんでした。
何より、買えなかったコーヒーのことが離れず、シープの歯車の動きが鈍く、重く、痛みを増すのです。

「ハカセ、インスタントコーヒーがカえませんでした。ごめんなさい」

「なんてすばらしいんだ! ぼくは間違っていなかったんだ!」

 博士は、シープの言葉を聞いていなかったようです。
シープは、余計に痛みを覚え、博士を置いて食材を食糧庫に詰め始めました。
未だ喜び続ける博士の声が、建物に響き渡っていました。

 その夜。シープは与えられた自分の部屋のベッドに座りながら、今度は歯車の痛みについて考えました。
初めて目を覚ました日から、今日の朝までは感じたことのなかった痛みに戸惑い、
また、本で読んだ内容とは違う自分の作りに悩みました。
ロボットについて書かれた本では、ロボットは感情を覚えることがなく、痛みを感じることもないとあったはずでした。
しかし、内側を刺激するような鈍いものを痛みと呼ばず、
道行く人々の好奇の目から逃れなくてはというどうしようもない考えを恐怖という感情と呼ばないのなら、
一体、ロボットである自分が抱えているものは何なのだろう。
そもそも、自分は一体何者なのだろう。シープは、博士がそうするように、頭を抱えました。
そうしていると、今日の男の子の透明な目を思い出します。
女の人に連れられて去ってしまったあの子は、きっとあの女の人の子どもなのでしょう。
そしてあの女の人は、あの子の「お母さん」なのでしょう。
本の知識を繋ぎ合わせると、あれが「家族」という存在だということをシープは理解しました。

「そういえば、ハカセのカゾクってどこにいるんだろう」

 シープは、今まで一度も博士の家族を見たことがないことに気づきました。
いてもたってもいられず、博士の元へ向かいました。

 部屋を出たシープは、今も研究室にいるであろう博士の元へ向かいました。
博士はシープの眠っていた台の上で、寝息を立てていました。

「ハカセ」

 シープは眠る博士に声をかけました。すると、博士は目を覚まし、ゆっくりと体を起こします。

「シープ、どうした?」

「ハカセのカゾクは、どこにいるんですか?」

 シープは真っ直ぐ、博士に問いかけました。
博士は寝ぼけ眼のまま、シープを見つめ、それから優しく微笑みました。

「ここにいるよ。ずっといるじゃないか」

「ボクにはミえません」

「いいや、いる。ぼくの目の前に」

 シープは、言われていることを理解することができませんでした。
博士に言われた言葉の情報と、シープが覚えた言葉の情報を照らし合わせ、処理しても、やはり分かりません。

「どういうイミですか?」

「きみが、ぼくの一人息子だよ、シープ。たった一人の、大事な息子だ」

 そう言って、博士が差し出したのは一枚の写真。
シープは写真を受け取り、じっと写真に写る子どもを見つめました。
今日見かけた、人間の子どもと同じ格好をしています。

「それが、きみの本来の姿だ。きみは、元人間だったんだよ」

 シープの情報処理機能が、急速に熱を持ち、受け止めきれない情報を受け止め、処理しようと試みました。
しかし、処理していけばしていくほど、理解ができないものへと変わる。
ただ一つ、シープが理解する方法は、博士の言葉をそのまま受け取ることでした。

「ボクは……ニンゲンですか?」

「今はロボットだよ。完全な、成長型ロボットさ。ついに完成したんだ」

「ボクは、ロボット?」

「元人間のね。ぼくの長年の夢だった。どうすれば、人と同じように成長するロボットを作れるのか。
そうして辿り着いた答えが、人間をロボットに作り変えることだった。そしたら、ほら、きみが出来た」

「ボクは、ニンゲン?」

「ロボットだ」

「ボクは、ロボット?」

「もともとは人間だった」

「ボクは、ボク、は」

 シープの思考回路はショートを起こしかけ、しかし、歯車の痛みがシープの意識を繋ぎ止めました。
本来ロボットが持たない感情が内側で爆発を起こし、機械の体は処理できないものを受け入れる場所がありません。
それでも、シープはその場に立ち尽くし、博士と向かい合っていました。博士はシープに歩み寄ると、頭を撫でました。

「これからも成長を見せてくれ。きみは、新しい可能性だ」



 シープの腕は博士を貫いていました。赤く温かい液体が、シープの鉄の腕を伝い、床に血だまりを創りました。
博士はシープを見つめていました。その目は、あの男の子のように透明で澄んでいて、「疑問」に満ちていました。
博士は動きませんでした。シープは腕を引き抜き、床に倒れた博士を見つめました。
 シープはただ、何も言わずに研究所の機械を力の限り壊していきました。
煙と電気が大量に放出され、周りにあった書類や紙ファイルに飛び散った火の粉が付着し、次第に炎を作りました。
やがて、小さな炎はすべてを囲むほど大きくなり、シープは博士の隣に横になりました。

「ごめんなさい。おトウさん」

 いつかの時にも、誰かにそんなことを言った気がします。そんな記憶は、どこにもないけれど。
 炎に囲まれていく景色を見ながら、シープの歯車が軋み、やがてその動きを止めました。

〈了〉

******************
大学の課題で書いたものをアレンジして載せています。
掲載日 2018/08/18

ガラスの向こうの小さなお話。

ガラスの向こうの小さなお話。

紡がれた小さな物語は、それでも物語。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 世界最後のウソつき
  2. お題【春、超えたい境界線、朧月】
  3. お題【満月】 【月】
  4. お題【りんご】 【真っ赤なワイン】
  5. お題【醤油ラーメン】  【スケッチブックの最後のページ】
  6. お題【つま先へのキス、「さよならレディ」】
  7. お題【世界で一番孤独な君へ】
  8. お題【溶けたアイス】【芒】【アップルパイ】
  9. お題【壊れた時計】【オパールの瞳】【指切り】【コバルトブルー】
  10. 【ボスのお気に入り】
  11. ハーバリウムの幸福
  12. ハカセのアイした