それは不治の病(夜久)

「冷凍睡眠、実用化だってさ」
 そのニュースが出てからというもの、何度も何度も開いたニュースのページを開いた携帯端末を意味もないというのみ眺める素振りをしながら、わざとらしく声をかける。彼の目が使い物にならなくなって以来、他の感覚がそれを補うように鋭くなっている今、こんな見え透いた演技は見破られているのかもしれないが、それでも、そうせずにはいられなかった。
 返事はふぅん、とそれっきり。恋人との貴重な面会時間にそれっていうのは、ちょっとひどいんじゃないですか。なんて、冗談めかして言うことは少しだけためらわれたが、結局茶化さずにはいられないのが俺の弱さだった。
適当な相槌を打った唇はふてくされたみたく少しだけ尖っていたのだが、俺の続けた言葉のせいでいびつな笑みに変わってしまった。この笑顔をすることも随分と増えた。既に何も映さなくなってしまった瞳が虚空をまるで眺めているようにたゆたい、下瞼の押し上げられていない、唇だけが曖昧に弧を描くだけの諦めたような笑み。顔は俺の方を向いているけれど、その目がある場所は見かけこそほかの人と同じはずなのにまるでビー玉がはめ込まれているようにしか見えなくて居心地が悪い。きっとそれも、ばれているのだろう。喉の微妙な調子の変化も分かってしまうらしく、時折こいつは「母さん、また泣いてた」と妙に淡々と俺に言うのだ。そんなわけで、お互いの腹の内などわかりきっている仲だからこそ尚更、俺の感情の機微もこいつは拾ってしまうのだろう。
「……それで、俺にそれをしないのかって言いたいわけ?」
 苛立たしげに指先が病床の机をこつり、と叩いた。眉間の皺はくっきりと濃く、深く、刻まれている。
 冷凍睡眠をすることができるのは現段階では国際的な取り決めの中で指定されたわずかな難病だけ。ウン万人に一人だとか、テレビ番組で紹介されるような、現代の科学ではメカニズムさえ満足に解明できていない、治療の見通しが立たない病気だけ。こいつは、――透は、その指定された病気に今まさに侵されつつある最中だった。なんてことない頭痛から始まり、最初に視力を失い、徐々に五感を、やがては全身を蝕む原因不明の病。その病名は何度も何度も反芻して、小難しい漢字もそらで書けるほどだが頭の中でその名を紡ぐことさえ嫌だった。
「医者とか、おばさんとかにも言われなかったのかよ。さっき、来てたんだろ」
「言われたよ。でも、俺はしない」
「なんで」
「治る保証もないのに、そんな博打みたいなことしたくねーよ。補助金がどうとか言ってたけど、きっと金もかかるんだろうし」
 硬い意志を映すように声は頑なで、自然と互いに喧嘩腰寸前の物言いにもなってくる。本当は、こんな言い合いがしたいんじゃない。
「それでも、おばさんはきっとそれに縋りたいんだろ」
 母親の話を出すのは卑怯だとわかっていても、それでも使わずにはいられなかった。冷凍睡眠をして、それでこいつがいつかどこかの未来で完全に回復して、もう見ることができなかったあの笑顔を見せてくれるのなら、これ以上のことはないのだから。それにこれは、孫の顔を見せてやれないのにこうして付き合うことを受け入れてくれたあの人への、俺なりの贖罪でもあるのだ。それが自己満足にすぎないものであっても。
 透はそれきりうつむいて黙り込んでしまった。そうしてたっぷりと沈黙を保ってから、「母さんには悪いと思ってる、けど、」と彼の後先の短さを改めて突き付けてくるような弱々しい声で呟いた。大学生にもなって、まるで子供のように下唇をきつく噛みしめるものだから、そこは白く色を変え、今にも血が滲んでしまいそうなほどだった。
「……俺だって、」
 俺だって、不確かな技術に縋りたいと思っている。前例を見ればこの先弱り苦しむことが間違いないはずの遠くない未来を避けるためなら、たとえ彼が長い眠りにつくのが今生の別れになったとしても構わない、と。
 そう吐露しようとしたのだが、叶わなかった。
 お前がそれを言うなよ、と、透があまりにも絶望したような声で言うから。同時に、伸ばされた手が俺の二の腕にぶつかって、そこから自分の手がある場所を確かめるように、ぱし、ぱし、と二の腕を叩いてから、肩を強く掴んでくる。生気が感じられなかったはずの瞳が一瞬、鋭く俺を射抜いたような錯覚すら覚えるほどに、それは切実すぎる訴えだった。
「……目が覚めたらお前がいないかもしれないのに、どうやって生きろっていうんだよ。おれは、おまえの息子とか娘とか、ひょっとしたら孫とかと会うなんて御免だからな」
 そんなの、死んだほうがマシだ、と。何も言えない俺を置いてけぼりにして透は続ける。その声の震えがどういった感情から生まれたものなのか、どれだけ目を見たところでわかりそうになかった。
 涙なんか出てきやしない。それでも、いっそ泣いたほうが楽になれるのではないかというほど目の奥が熱く、鼻の奥がツンと痛かった。そっと唇を引き結ぶと肩を掴んでいた透の手がまるで俺の表情が見えているかのように、頬へそのかさついた手を添えてくる。空気をほとんど震わせもしない行為のはずなのに。
「ずるいんだよ、お前……」
 やっとのことで出た言葉は病室に空しく響くだけだった。ガラス玉のような瞳は夕日を照らしても虚ろなまま、時間だけが一刻一刻と着実にすり減らされるのを俺たちは待つことしか出来ない。

それは不治の病(夜久)

それは不治の病(夜久)

2016-05-16 「冷凍睡眠」

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-17

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