ウシミツドキの迷い人たち

ファミレスの怪

変化というものは、自分の意図しないところから始まることがある。
それも突然に。
僕が生活費を得るために働いていたコンビニ。そして、深夜の格好の暇潰し場所だったコンビニ。そのコンビニが潰れることになった。
まだ三十代半ばだというのに、頭髪は後退していて猫背。年季の入った冴えない眼鏡。見るからに気の弱そうな顔をした店長。
僕にコンビニが潰れることを打ち明けた時の彼は、猫背をさらに小さくし、視線は合わせないくせに上目づかいでチロチロと何度も僕の顔色を伺っていて、傍からみたら、きっと僕の方が解雇を言い渡していると思ったに違いない。そんな彼を見ていると、僕は正直言って、大げさだよってツッコミを入れたくなるくらいだったし、店を閉じると決めた時点で早く従業員に言えよって、文句の一つぐらい言いたいところだったけど、僕は、この店長がそんなに嫌いじゃなかったから、いじめるのはやめにして、ちょっと僕までしんみりした感じで、彼の言い分とやらに耳を傾けてみた。
「あの、とても言いにくいんだけども、その、もう自分的にもさ、前から無理だと思っていたんだけど。君にも申し訳ないって思いながら、とうとう言い出せなくて。その、君もなんとなく気付いていたとは思うけど」
なんとなく、なんかじゃない。この店が潰れることは、従業員全員が周知のことだった。店長が言わなくても、取引先の納品業者から、情報なんてすぐに漏れる。店の常連客だって知っていたくらいだ。
それでも、支離滅裂としか言いようのない彼の言葉のピースを心の中で並べかえ、つなぎ合わせてみる。
そして、ことの成行きについて、僕なりに分析してみた。
始まりがあれば、いつか終わりもある。
いや、違うな。
生命の終わり以外の終わりは、自分で決められる。
どこにでもいるようなオヤジ。サラリーマンを辞めて、親が残した土地を利用してコンビニ経営を始めたらしいのだが、そもそも性格的に経営なんてものに向いていなかったのだろう。彼の背中にどれだけのものが圧し掛かっていたのかは、いちアルバイトの僕としては、計りかねるけど、それでも辞めると決めた店長は、どこか隠居した老人のように清々しい表情になっていた。
約二年という短命の店だった。その間ずっと、僕はこのコンビニと店長の世話になったわけだ。陰気臭さが常に漂う店長の影響も大きかったに違いないが、コンビニが出来る前にあったというクリーニング屋も美容室も、ことごとく短期間で潰れたというから、そもそもこの場所自体が、商売に向いていなかったのかもしれない。
いつも貧乏神が入り口に立ちふさがっているような、そんな店だった。照明や音楽は妙に明るいのに、店全体はちっとも明るくなくて。弁当や惣菜の賞味期限が近づいていく時間が、一秒ごとに刻まれていくのが肌で感じられるような。諦めみたいなものが重く漂っているような。
でも、僕はこの店も店長も嫌いではなかった。むしろ「好き」に分類出来るくらいだった。店長も他のアルバイト仲間達も、社交的とはいえない僕にちゃんと距離を置いていてくれたし、決して広くはない店内で働いていても、気詰まりになることはなかった。
僕は、最後に店長に挨拶を終えると、コンビニの前に止めてあった自転車にまたがった。
ゆっくりと、そして力強くペダルをこぎ始めた。
その瞬間から、僕にとって、このコンビニは過去の産物となった。

早速、僕は新しいアルバイト先を探すことにした。ネットや携帯で仕事を探すことも確かにできる。しかし、これから働こうという場所を活字で探すより、自分の足で探すという方が、断然、僕に合っている。だから僕は、その足で、というか自転車で、アルバイトを探すことにした。
僕が住んでいる調布という町は、東京の西側に位置していて、すぐ隣は二十三区だというのに、都会とは違った雰囲気を持っている。田舎者の僕としては、東京の風も感じられつつ、大都会に対する気後れみたいなものを感じることなく暮らしていける町として、妙に居心地がいい。
おまけに少し足を伸ばせば、ゲゲゲの鬼太郎が暮らしていたという深大寺の森なんかもあって、ちょっと妖怪じみたところも気に入っている。
僕はコンビニがあった通りを背に、まっすぐ北へと向かっていった。すぐに交通量の多い通りに出た。旧甲州街道だ。そして、さらに北へ進むと、甲州街道に出る。この二本の幹線道路は並んで仲良く東西に流れているのに、それ以外の道はぐちゃぐちゃとしている。開発を長く見据えてこなかったような、場当たり的な道路ばかりで、自転車も乗りにくい。旧甲州街道を横切り、裏道をくねくねと曲がり、なんとなく僕は右の方へ進んで行った。
そのなんとなくというのが僕は好きだ。動物的直感というのだろう。こういう直感を僕は結構大事にしている。しばらく気ままに自転車を走らせ、ふと視線を先に延ばすと、十字路になった通りの一角にファミリーレストランが建っているのを見つけた。全国どこにでもある有名チェーン店。そのファミレスをぐるりと一周した後、一階部分の駐輪スペースに自転車を停め、僕はためらうことなく店舗となっている二階へ続く階段を駆け上がっていった。

そして今、僕はそのファミリーレストランの制服を着て、もくもくと真面目に働いている。夜十一時から明け方の六時まで。それが僕の勤務時間だ。
僕の生活は人と比べると少し変わっているらしい。深夜から明け方までファミレスで働き、家で一休みした後、大学へ通う。そして、夕方講義が終わると、そのままアパートに帰り、五時間ほど眠るのだ。そしてまた、ファミレスで働く。
そんな僕に、夜に寝ないのはおかしいとか、体内時計が狂うとか、周りの人たちは色々と言うけれど、僕にとってはそれが当たり前の生活で、すっかりその生活に慣れ親しんでしまっている。確かに、女の子とデートしたり、友達と飲みに行ったりすることは出来ないのも事実だけど、今のところ特に不自由は感じていない。

深夜のファミレスは深夜のコンビに同様、独特な時間が流れているような気がする。夜、蛍光灯の光に集まる虫達のように、行き場を失った人たちが、光に吸い寄せられて集まってくる。そんな人たちは、押しなべて抜け殻みたいだ。深夜の時間に家に帰らずに過ごさなくてはならない何かしらの理由を抱えている人たちというのは、みんな心をどこかに置き忘れたような顔をしている。
たまに終電を逃した女の子のグループなどがいると、店の雰囲気がガラリと変わるけれど、それでも深夜という独特な時間の力には勝てないようで、徐々に彼女たちの賑やかさが失われていく。ここに来ると、誰もが張り詰めた神経をほんの少し緩めてしまうようだ。無防備といっていいくらいに。
ファミレスという場所独特なものかもしれない。チェーン店ならではの安心感、そして軽薄なほど明るい照明が、迷える人達を照らすのではなく、不思議と逆に目立たなくさせているようだ。太陽を背にして立つ人物の顔が陰になってしまうのに似ている気がする。
人は悩みや問題を抱えると二つの方法を選ぶ。ひとつは誰かに相談する。ジョークのように笑い飛ばしてもらったり、悲劇として同情してもらったり。その後の流れは様々ではあるけれど。そしてもうひとつは、時間というものをひたすら費やして、その悩み自体が薄れていくのをじっと待つ。後者の人たちは、大体一人でやり過ごそうとする人が多い。
僕は正直なところ、他人の相談事にのることが得意ではない。その人が求めている答えを瞬時に、そして的確に判断して、言葉にすることが苦手なのだと思う。おまけに僕が今まで関わった人は、「君はいいよね、悩みなんかなくてさ」とか、「君に相談しても分からないだろうけど」なんて枕詞をつけてから、話しだす奴ばかりで、そう言われたら僕も「いや、君の気持はよく分かる」だとか「僕にも僕なりの問題が山積していて」なんて言う事すら馬鹿らしく、結局、間の抜けた「へえ」や「ふーん」と相槌を打っていると、話し終えた相手は満足そうに立ち去るのだ。
しかし、相談事にのることが苦手だからといって、他人に興味がないかというと、それは違う。違うというより逆で、僕という人間は、ものすごく人間に興味がある。だから、観察する。
つまり僕は、僕自身の暇を潰すべく、ファミレスの店員と客という関係だけの、僕には全くの関わりのない人たちを好きなだけ観察し、且つお金を稼いでいるのだ。
観察しながら、その人物の生い立ちから現在に至るまで、そしてそこに続く未来まで、僕なりのストーリーを自由に創作しては、勝手に心の中で笑ったり、同情したりする。ほとんど悪趣味と言えるかもしれない。だからといって、誰の迷惑にもならないような趣味なので、そっとしておいて欲しい。

さて、僕は同僚たちから「救世主」と呼ばれている。同僚といっても、僕を除いてたった二人なのだが。一人は厨房担当のリーさん。彼は中国人留学生で、勉強しながら、ここで学費を稼いでいる。彼の真面目さや几帳面さは、見ているこちらが、切なくなるほどだが、ファミレスにとっては、ありがたがられる存在だ。全て時間通り、分量通りを次から次へと的確にこなしている。無駄な動きが全くない。本当はロボットなんじゃないかと思ってしまうほどだ。彼を見ていると、ロボットに生まれた方が向いていたに違いないとさえ思ってしまう。ひとつだけ彼の難点を上げるとすると、その笑い声が、昔話に出てくる女の幽霊みたいに、ケケケケと不気味な点だけだろう。
それから、ホール兼、深夜責任者兼、厨房補助の櫻井さん。彼は、僕に最初に会った時に、満面の笑みで、「救世主君、よろしく」と言いながら、握手まで求めてきた人なのだが、とにかく暇さえあれば喋っているという、少し箍が外れちゃったような人だ。彼は自称ミュージシャンと言っているが、その素生は本当に謎で、客が使った箸なんかを使って、ドラムを叩くような振りをしたり、掃除用の箒でギターを弾く真似をしてみたりすることもあって、それは中々様になってはいるけれども、彼が好んで話す話題の中に、音楽というものが含まれることがほとんどない。おまけに家で飼っているペットが、時にはカメだったり、時にはフェレットだったり、ウサギだったりする。一体、どこまでが本当で嘘かが全く見当がつかなく、理解不能をさらに超越しまっているので、かえってそれが理解できてしまうといった矛盾を抱えながらも、人間としては嫌いなタイプではないから、一緒に働いている分には退屈しない。
そして、櫻井さんについてもう少し付け加えさせてもらうと、彼の風貌もまた妙で、僕には二十八歳と自己紹介したけれど、どう見たって、不惑と言われる歳は超えている。まるっきり嘘と分かるような嘘をサラリと述べて、僕の反応を無邪気としか言えない表情で楽しそうに見ているところなんか、ツッコミを入れるのも馬鹿馬鹿しくて、初対面なのにあの時はふたりで笑ってしまった。
そうだ。「救世主」と呼ばれている理由を言うのを忘れていた。なんてことない。僕が勤務するまでは、彼らは、ほぼ毎日といっていいほど二人で深夜の時間帯をこなしていて、昼間のような混雑はなにしろ、二人きりでの勤務は物理的に無理があったらしく、正直このまま誰も入って来なければ、二人で辞めようかという話になっていたらしい。だから僕はこの店にとっての「救世主」なのだ。

自分で言うのもなんだが、要領がいいほうなので、ファミレスの仕事は直ぐに覚えた。それにマニュアルがある仕事というものは、本当に楽だ。客との会話からレジの立ち位置まで、すべてマニュアルを読めば丁寧に書いてある。マニュアルさえ頭に入れてしまえば、これほど楽な仕事はないかもしれない。そのうちロボットだって働けるに違いない。

この店で働き始めてちょうど一カ月が経った頃、僕はひとりの客が気になり出した。深夜のファミレスもそれなりに常連客がいて、僕は直ぐにそんな人達の顔を覚えてしまったのだけれど、これは櫻井さんがどうしてそこまで知っているのかというくらい細かな情報まで補足してくれるので、すっかり覚え込まされてしまったという方が近いのかもしれないが、そんな客たちに紛れて、あるひとりの女性客がいることに気がついたのだ。
その女性は、必ず毎週水曜日の深夜十二時前後にファミレスにひとりでやってきて、そして三時過ぎにひとりで帰っていく。
僕が気になったのは、この女性がひとりでこの店に来るからというだけではなかった。彼女は誰が見ても心配になってしまうくらい、暗く思いつめた表情でやって来ては、帰っていくからだ。客の情報に詳しい櫻井さんに何気なく確認したが、彼女についての情報はあまり得られなかった。彼のストライクゾーンは、なぜか女子高生と熟女だったから、彼の好みからはすっぽりと外れていたのだ。誰だって興味が無いものの情報は乏しい。
歳は二十代前半くらいだろうか。彼女は大きな瞳で、綺麗に刈りそろえられたショートボブが良く似合っていた。どちらかと言うと美人の部類に入るだろう。もしも、少しでもその顔に笑みが浮かんでいたならばだが。
深夜のファミレスにやってくるような客で、底抜けに明るい奴なんて、酔っ払いぐらいしかいない。だから、彼女の様子は特異とはいえない。しかし、毎週やってくる度に、必ず暗い雰囲気を漂わせている彼女は、僕にとっては特異な存在だった。初めて姿を見かけるようになって一カ月ということは、毎週水曜日、計四回、彼女に会っているわけだが、その間、悩みを持ち続けるというのは、なんだかとても不健康だ。
彼女は必ず梅雑炊を注文する。これは僕たち従業員の中では貧乏食メニューと言われるもので、食事の中ではサラダなんかよりも一番安いメニューになる。
確かにこの店の雑炊は、卵もふんわりしていて美味しいし、深夜に食べるメニューとしては、悪くない。でも、正直なところ、雑炊なんか、家で簡単に作れると思っている僕にとって、わざわざ深夜にこの雑炊を食べにだけやってくるというのが理解しがたいのだ。
注文の仕方だって妙だ。呼び出しボタンを押さない。待っているとずっと押さずに、そして注文もせず、じっと窓を眺めたまま座っている。彼女の座る場所はいつも決まって、店の一番隅の窓側なのだが、そこから、ただじっと窓の外を眺めているのだ。
僕はいつも十五分間だけ待ってみる。でも、結局ボタンは押されないまま、痺れを切らした僕の方が足を運ぶことになる。注文を取りに行っても、なんとなく上の空で、メニューも見ずに注文するのだ。

今夜の彼女は、店に来た時から、いつもより顔色も悪く、暗い表情をしていた。それどころか、僕が席に料理を運んでいくと、料理を注文していたことすら忘れていたような表情をした。
しばらくして、食べて始めた彼女の顔には表情はなく、機械的に口へと運んでいるだけだ。
悩みを抱えて時間をやり過ごすにしたって、その思いつめ様は、不健康以外の何ものでもない。

この不健康さは良くないと、心の底から思っていたからだろうか。いつものように、僕なりの想像、いや、妄想に浸っていて、僕自身がいつも以上に上の空になっていたのは事実だった。
そんな僕は、この夜、大きな過ちを犯してしまった。普段から僕が、決してやらないと心に決めていたはずなのに。
ちょうど深夜一時を回った頃だったと思う。彼女の食べ終わった雑炊の器を下げようと席に近づいたとき、ふと彼女が視線を送っているものに気がついてしまったのだ。気づいただけならまだ良かった。声を発してしまったのだ。

「あの人」
小さな声だったにも関わらず、僕の声は彼女の耳に捉えられしまった。その瞬間、僕は本当にしまったと思った。心の底から。そして、厄介なことに巻き込まれると、後悔した。
彼女はまるで信じられないものを見るかのように、大きな目をさらに大きくして、僕の顔をじっと見つめた。僕はその視線から避ける為に、櫻井さんの姿を探した。しかし、櫻井さんは、注文の途切れたリーさんと変な日本語講座で盛り上がっていて、僕の救いの視線になんか気づく気配すらなかった。
彼女は言った。
「あなたには、見えるの?」
黙っている僕に、念を押すように、再び言った。
「ねえ、あなたにはあの人が見えるの?」と。
じっと射るように見つめる彼女の視線と、必死な気配に圧されて、僕は眩暈がしてきた。
いつまでも黙っている僕に、彼女は僕がその場から逃げ出すと思ったのか、僕の左腕をぎゅっと掴んできた。
掴まれた腕を見ながら、僕は僕が出来るだけ避けようとしていた厄介なことに巻き込まれてしまったことを悟った。
そして、とうとうやっちゃったなと、深く、深く、心の底から反省した。
そう、僕には人に見えないものが、見える。それは、族にいう幽霊というやつだ。
だから、僕は夜、大抵の人と同じように眠らない。いや、眠らないんじゃない。眠れないのだ。眠ろうとすると必ず誰かがやってくる。僕を起こしに。僕が意識を集中していれば、彼らはやってきても僕に近寄れない。だけど、眠ろうとする瞬間や、意識が途切れる瞬間は、僕に隙が出来るのか、彼らは接近してくる。だから僕は自分の身を守るために、彼らを寄せ付けないオーラを出し続けなくてはならない。これはかなりの体力や気力を要する作業だ。でも、そうしなければ、僕は真っ黒な世界へ引きずり込まれて、二度と戻れなくなってしまうだろう。
彼ら幽霊というものは、本当にどこにでもいる。昼間だっている。そして、人間と同じようにいい奴もいれば、悪い奴も。昼間の彼らは力が弱い。でも、夜になると活気づく。特に悪い奴らが。だから、僕は眠らずに、概ね深夜一時から三時までの魔の時間を何とかやり過ごすため、自分の生活リズムを他人と変えて、暮らしているのだ。
僕は、幽霊が見えることを誰にも言わないようにしている。小さい頃は自分に見えるものが当たり前の世界だと思っていたから、誰かれ構わずしゃべっていた。でも物心つく頃には、それが人とは違う能力だということを、そして、誰しもそんな能力を望んではいないし、気味が悪いとさえ感じるといくことを、体験を通して覚えるようになった。今、僕の周りの人たちは、僕にそんな能力があるなんてことを誰も知らない。知られちゃいけないのだ。
なのに、僕はどうかしていたのだろう。
声を漏らした。

その人は、甲州街道から縦に枝分かれした道路の住宅と住宅の隙間に立っていた。甲州街道は夜中でも交通量が多く、通り沿いにはファミレスや大型店舗もあって、かなり明るい道であるのに、その道は、まるでそこだけ光が当たらないかのように、ひっそりと暗い道だった。その人が立っているからではない。元々、光の当たらない場所なのだろう。このファミレスからの光も、すぐ近くだというのに、光彩の向きからか届いていない。
彼女は必死の表情で、僕にすがりつかんばかりに答えを求めてきた。
たぶん、これが、僕の運命だったのだろう。
僕は、後悔の末、導きだした答えとして、そう思う事にした。
店はほどよく空いていて、同僚たちは二人の会話で盛り上がっている。僕と彼女に関心を持つような人物は誰もいない。
僕は、彼女に答えた。
「あの細い路地に男の人が立っているのが、僕には見えるよ」
すると、彼女のその二つの大きな瞳から、堰を切ったようにボロボロと涙が流れ出した。
今まで彼女がひとりで抱えていたものを解き放つかのように、次々と溢れ流れる涙を見て、僕は正直、綺麗だなと思った。
「あそこにいるのは、兄なの。たったひとりの私の家族。一年前にあの場所で兄は車に轢かれて死んだの。真夜中にあんなところで。兄はなぜかあの道を横切ろうとして、急に飛び出し、車に轢かれた。即死だった」
「一年前か」
僕は思った。彼の姿は、全体が煙みたいにぼんやりとして、たぶんこのままだと自縛霊となって、あの場所に住み続けるに違いなかった。
「兄が死んで一年が経ったから、私、お花を置きにやってきたの。兄が死んだだろう時間に合わせて。お花を置いた時は誰もいなかった。ふと見上げるとこのファミレスがあったから、何気なく入って、この場所に座って、窓から外を眺めたら兄の姿が見えたの。私は慌ててまた兄の立っている場所に行ったのだけど、そこに兄の姿はなかった。どうしてか分からないけど、このファミレスのこの窓からだけ、兄の姿は見えるの」
「だから、君は毎週、この時間に来ていたんだね」
「そう、兄に会いに。兄が死んだ水曜日のこの時間にだけ現れる兄に会いに。でも兄の姿が見えるだけで、どうすることもできない。この場所からただ兄の姿を見ているしかない。どんなに兄に語りかけても、伝わらないの」

「ねえ、お願い」
彼女がそう言った瞬間、静寂を破る賑やかな声が出入り口から聞こえてきた。その音に弾かれたように彼女は僕の腕をぱっと離した。僕にとっては渡りに船、本当に助け舟のようだった。僕は、彼女に背を向けると、新しくやってきた客の方へと向かって歩いて行った。
それから後は、まるで普段とは別世界と思えるくらい店が混み続けた。僕は彼女のことが気になりながらも、目の前にある自分の仕事に没頭することにした。
深夜三時が過ぎた頃、彼女はいつものように帰り支度を始めた。その間、僕は結局忙しいまま、彼女の席の方へは近づくこともなかったし、彼女も何かを考えているような表情で、僕に話しかけることもなかった。
テーブルの呼び出しボタンを押せば、簡単に僕を呼ぶことができたはずなのに。
彼女はレシートを持ってレジまでやってきた。
僕は彼女が言いかけた「お願い」の続きが気になりながらも、敢えて彼女と目を合わせないようにして、レジに会計金額を打ち込んだ。
彼女は少し控え目な声で、「また来週の水曜日ここへきます」と言った。
僕は、頭を下げると、マニュアル通りに「ありがとうございました。またのご来店、お待ちしております」と言っていた。
そして、その自分の言ったセリフに気づいて、マニュアルに対して心で悪態をついた。
彼女を見送った後、僕は彼女が座っていたテーブルを片づけながら、窓の外を覗いた。さっき見た男性の姿は消えていた。

一週間が経った。僕は日常に追われながらも、彼女のことと窓から見えた男性の幽霊のことが常に頭から離れなかった。
そして、ちょうど一週間後の水曜日、彼女は再びファミレスの扉を開けて入ってきた。
その姿は、魂が抜けたようでもなく、暗い雰囲気に覆われてもいなかった。その表情は今までと違い、明らかに決意というものが現れていた。
彼女のその表情を見た僕は、誰にも気づかれないように、ため息を一つだけ深くついた。
その日は、まるで誰かが何かを示し合わせたかのように、客が少なく、暇な夜だった。
彼女はいつもの席で、窓の外ではなく、じっと僕を見つめていた。
僕は覚悟を決めて、彼女へと近づいて行った。
この一週間の間、実は僕なりに、彼女の兄だった人のことを調べていた。といっても情報は櫻井さんと、一年前の新聞記事だけだったが。
情報によると、一年前の事故は轢き逃げで、犯人は今も捕まっていないそうだ。時間帯も深夜ということもあって、目撃者もいなかった。このファミレスから見ていた客もいなかったそうだ。彼は誰も見ていないところで、轢かれ、そして道路脇に飛ばされたため、朝になるまで発見されなかった。早朝、犬の散歩で通った女性が家と家の影に挟まれるようにして転がっている死体を発見して、大騒ぎになったらしい。
僕はいつも思う。被害者にしろ、犯人にしろ、万が一、事故が起こること自体が避けられなかったとしても、もしほんの少しでもほんの一つでもお互いの行動やタイミングが違っていれば、こんな悲劇にはなかっただろうと。被害者は一瞬にして未来を奪われ、逃げ続けている加害者は、たったその一瞬の為に、一生自分が轢き逃げ犯だという十字架を背負って生きなければならない運命になってしまったのだから。

「お願い。兄を助けて」
彼女は僕の目をじっと見つめると、はっきりと言った。
死んでしまったものはどうしたって助からない。そんなことは彼女にだって分かるはずだ。
だから、彼女の言う、助けてとは、肉体的な意味を持たないことは分かり切っているのだ。
僕は「やってみるよ」と言って、目を逸らした。
そうしなければ、彼女の視線で僕の目が焼けてしまうのではないかというくらい、それは強くて熱い視線だった。
「でも、できるかどうか、やってみないと分からないよ」
僕は控えめにそう付け加えた。
彼女が頷くのを見届けると、僕は櫻井さんのいる厨房へと向かった。
そして、客にたばこを買ってくるようにと頼まれたので、ちょっと外に出てくると伝えた。深夜の客に慣れている櫻井さんは、全く疑う気配もなく「はいよー」と返事をして、僕の代わりにホールへ出てきてくれた。その姿を確認すると僕はファミレスを後にした。
外の空気が心地よかった。上着を着ていなければ寒いくらいの気温なのに、肺に入り込む空気がひんやりと冷たくて、ざわつく心を落ち着かせてくれた。
僕は彼女の兄が立っている場所へと向かった。ファミレスの窓から、彼女がきっと見ているに違いなかった。
僕は彼に近づくと、ゆっくり深呼吸して目を瞑った。

僕はファミレスに戻ると、すぐに櫻井さんにお礼を言って、仕事に戻った。そして、心配そうにしている彼女へさりげなく近づくと、何か言いたそうな彼女の口が動く前に僕はこう言った。
「来週の夜十二時四十五分に、この店の駐車場で待っていてくれるかな。僕は休みを取って、車でここまで迎えに来るから」
彼女は何も言わず、頷いた。
たぶん、僕の顔色を見て、何も言えなかったに違いない。
僕は自分でも分かるくらい血の気が引いていのだから。

それからの一週間は、あっという間だった。
そのあっという間に過ぎていく時間の中で、彼女との約束が、喉に刺さった取れない小骨のように、チクリチクリと心を突いた。
約束の日。僕は、近所のレンタカー屋からコンパクトな車を借りると、彼女の待つファミレスに向かった。本来ならば自分が働いているはずの時間に、違う目的でやってくること自体、まるで夢を見ているようだった。
彼女は、僕の指示通り、ファミレスの駐車場で待っていた。僕は彼女に近づくと、左手を伸ばして助手席のドアを内側からほんの少し開けた。そして、彼女が助手席におさまるのを確認した。
「ちょっと、ここで待ってて」
僕は静かに車から降りて、彼が立つ場所へと向かった。

車へ戻ってきた僕は、直ぐに車を走らせた。甲州街道から鶴川街道へ。多摩川を渡たると府中街道へと進んだ。僕は少し焦っていた。深夜なので、昼間ほどの渋滞はないにしろ、たぶんギリギリの時間だろう。
東名川崎ICに入ると、車はスピードを上げていった。

久しぶりの運転だったが、感は思ったほど落ちてはいないようで、安心した。
運転が軌道に乗ると、助手席に座っている彼女に視線を送った。
かなり緊張しているのだろう。怯えているようにも見えたし、泣きそうにも見えた。
僕は咳払いをひとつすると、静かに話し始めた。
僕自身のことを。
僕が話し出すと、車内の空気が少し震えたような気がした。
なぜ、僕は僕自身のことを、話そうと思ったのだろう。
女性と二人きりでドライブすること自体に慣れていなかったし、夜の高速をよく知らない女性と、おまけに後部座席には、これも良く知らない男性で、幽霊が乗っているという緊張感が常にあった。何とか、この張りつめた空気に抵抗したかったし、無言でいることも辛かった。
でも、一番の理由は、僕自身にあったのかもしれない。とうとう一線を踏み越えてしまったことへの決意を自分自身に言って聞かせたかったのかもしれない。

彼女は、僕が語り終えるまで、一言も話さなかった。
相槌さえも打たず、真っすぐフロントグラスの先を見つめる様子は、聞いているようでもあるし、聞いていないようでもあった。
でも、そんなことはどうでもよかった。僕は僕に語っていたのだから

記憶を辿っていくと、僕の記憶の始まりは四歳くらいからだと思う。
その頃には、すでに僕には人に見えないものが見えていた。
でも、僕にとって、生きている人が生活している姿と幽霊が同じ世界に暮らしていることは、何の疑問でもなかったし、むしろそれが僕の見えている世界だった。
彼らは、ふつうに僕たち生きている人間の世界に溶け込んでいた。人間と違うのは、ちょっとぼんやりしているというか、透けているところだった。
僕はある日、母に連れられて親戚の葬式に出かけて行った。
そこで、ふと気がついた。祭壇に飾られた大きな写真に写っている人物が、参列者と同じ場所にニコニコと笑って座っていたからだ。不思議に思った僕は、すぐに母に
「どうして写真の人があそこにいるのかな」と質問した。
周りにいた母以外の人は、初めは僕の冗談かと思って、笑っていたが、僕が詳しく話すと、急に声を潜めて、僕の周りから怯えるような目で遠ざかっていった。
それ以降も、そんな出来ごとが繰り返されるようになった。
そんな僕に母は言った。
「見えているものや見えていないものなんて、大した違いはないのよ。人間、大きく道を踏み外さなければ、何とかやっていけるものよ」と。
小さかった僕に、その意味がどのくらい伝わるかなんて母は気にもしなかった。
でも、度々繰り返される母のその言葉は、僕の心の中にしっかりと刻まれていった。

僕の母という人は、本当に変わった人だった。
ある日の深夜、突然、財布だけ手にして出かけたかと思うと、ペンキや刷毛を二十四時間営業のホームセンターから買って戻ってきた。そして、そのまま一睡もせず、家の壁という壁を真っ赤に塗り始めた。
ところが、途中まで塗った壁が気に入らないと言って、今度は青いペンキを買いに行き、それも気に入らないと言って、今度は白で塗り始める。
おかげで、あの時しばらくの間は、トリコロールのような家に住まなくてはいけなくなった。
ある時は、パン作りの道具を買ってきたかと思うと、家中を粉だらけにしながらパンをこね始めた。そしてパンを焼くのかと思いきや、発酵時間が待てないといってほったらかしにして、今度は庭いじりに没頭する。僕は仕方なくペンキやらパンやらの後始末に追われるのだった。
何かを思い立ったら、行動せずにいられないような、衝動的な感情のみで生きている人だった。
そんな母とは、父は正反対だった。
絵にかいたような真面目な人で、規則正しく起き、規則正しく寝た。何でも残さず食べたし、髪は乱れることなく、いつも丁寧に撫でつけられていた。煙草も吸わず、酒も飲まず、朝夕配られる新聞を、隅から隅まで読んだ。
その規則正しさが僕には哀れなくらいだった。そんな父と母がどうして結婚したのか僕は不思議でならなかった。
一度だけ、あまりに不思議で父に尋ねたことがある。そんな父も自分でも不思議で仕方がないという顔で、「まあ、ふたりとも自分にないものを求めたのかな」と曖昧な答えを呟いた。
僕には、衝動的に結婚したくなった母が、無理やり父に婚姻届を書かせたのかと思ったが、そうではないらしく、父が「惚れたんだよ」と少し俯き加減で答えた時は、ああ、父は母に恋をしたのだと悟った。
恋に理由はない。
そんな二人の歯車は最初から最後まで合わないままだった。
でも、二人の離婚の原因は僕にあるのかもしれない。
たぶん、僕がいなければ、それなりに二人でやっていったのかもしれない。人には見えないものが見えるという、普通ではない、僕という子どもが生まれてからは、ふたりの関係は一対一ではなく、二対一となり、自然とバランスが取れなくなったに違いない。
特に真面目で目に映るものしか信じないような父は、僕が幽霊を見えることに何より怯えているようだった。そして、それを素直に受け入れる母さえも怯えるようになった。
父は、少しずつ気配を消していくように僕たちの前から消えていった。一つずつ身の回りの物がなくなっていくように。そんな父のことを母は、許しているようだった。
それでも父は父親としての義務をきちんと果たしてくれた。僕たちとは一緒に暮らせなくても、僕が高校を卒業するまでは、しっかりと養育費を払い続けてくれた。定期的に電話もくれたし、手紙もくれた。
父は、今でも一人で静かに暮らしている。

僕が高校に入学してすぐ母は死んだ。赤信号の横断歩道を歩いて交通事故にあったのだ。即死だった。彼女はその時、両手に大きな荷物を抱えて歩いていた。だから、恐らく前が見えてなかったのだろう。

話しながら、僕は、母が死んだ時の事を思い出していた。
母が抱えていた荷物。それは、大きな段ボールに入れられた鶴の折り紙だった。しかも大量の。
あの日、僕は母と待ち合わせをしていた。母に呼び出されたのだ。突然母から電話がかかってきて、呼び出されることは、いつものことだった。衝動的に行動を起こす母は、いつも誰かの助けを要した。そして、その役割は常に僕だった。
僕は、大通りを挟んだ向こう側からやってくる母を目指して歩いて行くところだった。
母は、僕の存在に気づいている様子もなく、黙々と歩いていた。
その両手には、大きなダンボールを抱えていたので、そんな母を見て、またか、と少し苦笑いしてしまったのを覚えている。
それから彼女は、赤信号の交差点へと歩きだし、とめる間もなく、あっという間に、車に撥ねられた。
僕は、スローモショーンでも見るかのように、その光景をただ呆然と立ち尽くして見ているしかなかった。
頭を強く打って、大量の血を流している母は、誰から見ても即死だった。
ゆっくりと近づいた僕は、母の周りに沢山の何かが散乱しているのに気がついた。
母が倒れている場所、そして母の身体全体を埋め尽くすように、箱からこぼれ出た色とりどりの折り鶴が散乱していた。
動かない母の周りに散りばめられた、折り鶴。
それは、まるで何かの儀式のようにも見えた。
母は、大量の鶴に紐を通して千羽鶴にするつもりだったのだろうか。
それとも、そのままどこかへ届けるところだったのか。
いくつもの疑問とともに、母は旅立って行った。
母が死んだ後、母と関わっていただろう人達に聞いても、誰もその問いに答えをくれる人はいなかった。
葬式で、僕は母の姿を探した。幽霊になって、僕に会いにきてくれるのではないかと思ったからだ。交通事故の現場にも何度も足を運んでもみた。しかし、母の霊には会うことは出来なかった。
彼女はこの世に生まれた時から生に対する執着がなかった。自分の心の中に次々と起こる衝動を抑えられず、それを発散しなければならないと、いつも何かに追い詰められているようだった。私が本当にいる場所は、ここではないと常に感じているようでもあった。だから、肉体を離れて、やっと母は自由になれたのかもしれない。
あの折り鶴は、何も分からないまま、僕の手に残された。
それこそが、母の遺言であるかように。
初七日が過ぎて、僕と父は、話し合った。
結局、その大量の鶴をどうする事も出来ず、僕達は一羽ずつ空気を抜き、鶴のままの状態で丁寧に折りたたむと、段ボールに詰め直し、封をして、母の遺品とともにしまった。
折りたたみながらも、母の思いを掬い取れるのではないかと期待したが、鶴達はまるで一同で口閉ざすかのように、しんと静まり返っていた。

母を喪った僕は、今思えば孤独だったのかもしれない。唯一の理解者を失ったのだから。
ただ、その頃の僕には、既に母の価値観みたいなものがしっかり根付いていて、上手な生き方を身に付けていたから、何とかぐらつかずに乗り越えることができた。
自由に生きるのも不自由に生きるのも自分次第だと。
でも、自分の特殊な能力が、僕にとって一体どうゆうものなのか、なぜ僕にそんな能力があるのかなんてことは、一切考えないようにしていたのも事実だった。
そんな意味では、僕は未だに自分を受け入れていないのかもしれない。

「ありがとう」
話終えた僕に向かって、彼女は言った。
山積みになっていたミカンの山から、一個だけ零れ落ちたみたいな言い方だった。
そして、それは、しっかりと僕の手のひらの中にストンと落ちてきた。
彼女の「ありがとう」が何に対するものなのか、僕は敢えて考えないようにした。

僕はもう話すのをやめて、ラジオをかけようとした。
でもノイズがひどくて、諦めた。
再び、車内に沈黙が訪れた。
すると今度は、彼女が自分のことを話し始めた。自分とそして恐らく後部座席に乗っているはずの兄とのことを。
彼女と兄は、両親を幼い時に失くし、親戚の家に身を寄せながら、ふたり寄り添うように育った。五歳違いの兄は、必死で彼女を守ろうとしたらしい。時には二人を引き離そうとする大人達からも。
兄は中学卒業後、親戚に頭を下げ、学費となるお金を借りると、手に職をつける為に夜間の工業高校学校へ通い、昼は時間の許す限り、必死にアルバイトをした。
妹には小さい頃からの夢があった。美容師になる夢を。その妹の夢をかなえる為、兄はがむしゃらに働いた。
自分の借金と妹の夢を背負って。そんな兄は、どんなに辛くてもひと言も妹に愚痴を言わなかったらしい。妹が美容の専門学校へ通う事になってからも、兄は妹の生活費を稼ぐために昼夜関係なく働き続けた。
同じ東京にいても、生活はすれ違い、メールや電話をすることも減ってはいたが、毎月妹の通帳には、決まった額のお金が振り込まれていたという。
やっと妹が学校を卒業して、美容室で働き始めた頃、その事故は起きた。
妹もこれからは給料をもらえるようになり、少しは兄に楽をさせてあげられると思った矢先だった。兄の遺品を整理して、初めて分かったそうだ。妹の為に兄がどれだけ自分を犠牲にしていたかを。家には最低限の家財道具しかなく、クローゼットには、着替えが、それも使い古したものが数枚ある程度だった。
僕には兄弟がいないので、そして、ちょっと変わった家族の中で育ったので、精神的に誰かを頼ったり、頼られたりする関係自体がよく分からない。彼女の兄に対する思いは、正直いって僕には理解できないものだった。彼女の兄のように、誰かの為に自分を犠牲にする気持ちや、彼女のように失ってしまったものを、いつまでも追い続ける気持ちが、僕には新鮮に感じた。
そして、そんな関係が素直に羨ましいと思ったのは、初めてのことだった。僕も何かに執着して、何かを深く追い求めれば、今とは違う世界が見えてくるのかもしれない。
彼女の話を聞いているうちに、車は沼津ICへ到着した。そして、高速を下り、一般道へと入っていった。
僕の想像している終着点が近づこうとしていた。
深夜ということもあって、道路はかなり空いていた。想像よりも時間がかからなかったことに安堵もしていた。これなら、きっと間に合うに違いない。
ほとんどの信号に邪魔されることなく道路を進んでいくと、網代港の表示が見えた。
助手席から「やっぱり」と呟く声が聞こえた。
それから、彼女は、自分達がこの港町出身であることを話した。
生まれ育った港。二人の思い出の町。
両親が亡くなるまでの間、二人はこの町で暮らしていた。

港へ続く道を見つけると、その脇にある駐車場に車を止めた。
温泉街で有名な熱海からさほど離れていないのに、そこは、小さくとても寂しい港だった。
街頭の光も海へは届かず、黒い影の塊となって、波は砂浜に寄せては返していた。
僕は、運転席を下り、後部座席へ向かうと、その扉を開け放った。
それと同時に、彼女も助手席から降り、海へと向かって歩いて行った。
肩を寄せ合うように、ふたり並んで。
僕は、運転席へ戻ると小さくラジオをかけて、目を瞑った。
ラジオはノイズを出さなかった。
とても静かな海に、静かなバイオリンの曲が流れた。

目を瞑った僕は、一週間前のことを静かに思い出していた。
彼女に必死で頼まれた僕は、ファミレスを出ると、彼の立っている暗い道へと歩いて行った。
彼女の兄に近づいた僕は、心を澄ませた。この海のように深く静かに。
すると、彼の心がすっと僕の中に入ってきた。
―海が見たい。網代の海が―
彼の心がそう僕に伝えていた。
彼が、彼の人生で一番幸せだった時間、そして場所。
夕日を背に、海辺を歩く、三つの人影が浮かんできた。
小さな男の子と、その左右の小さな手を両親が繋いで歩く姿が。
海辺を散歩するその姿はとても温かで、幸せそうだった。
父親が幼い彼に何かを語りかけ、彼は満面の笑みで父親を見上げていた。
そんな二人を優しい眼差しで見つめる母親。
母親のお腹は膨らみ、小さな命が宿っているようだった。
家族四人で過ごした幸せな最後の記憶。
生活に疲れ切り、何もかも投げ出してしまいたくなったあの夜。
彼は突然その思い出の地に、向かいたくなった。
そして、暗い道を踏み出した途端、突然やってきた車に跳ねられた。
彼は、その思いを抱えたまま、自分が死んだとも分からずその場に留まってしまった。

網代の海。
静岡県のある、小さな港を僕はずっと前から知っていた。
僕の父。その父の唯一の趣味が、休日に電車に乗ることだった。それも新幹線や特急電車ではなく、在来線や各駅停車を好んだ。その日の内に戻れる距離だけを進み、そして、同じように帰った。どこかへ立ち寄るでもなく、写真を撮るでもなく、ただ電車の中から外を眺めるだけというそんな父の小旅行に、僕は、中学に上がるまでの間、何度もついて行った。父は、特に車窓から海を見ることを、とても楽しんでいるようだった。
小学校六年生の春休み。父と行った最後の小旅行。その最終地点が、この網代港だった。いつもは、当着地点へ降り立つと、すぐに反対側のホームへ向かい、元来た通りに戻るのだが、その日は、「少し、降りて歩こうか」と父が言いだした。天気が良かったからだろうか。でも、今までどんなに天気が良い日でも、父は電車を降りて散策するなんてこととは無縁だったし、あの日が最後の旅にするつもりだと、父も僕も決めていた訳でもなかった。
熱海からほんの少し離れた場所なのに、人気がなく、寂しい港をどうして父が降りようと決めたのかは、ついに聞けなかった。でもあの時、海の直ぐ近くまでやってきた父は珍しく饒舌で、「なあ、綺麗だろう」と何度も繰り返し言ったのを覚えている。確かに太陽が照りつけた海は宝石のようにきらきらと輝いて綺麗だった。その水面に父はいったい何を思っていたのだろう。この海の先に続く地平線よりも、もっと遠くを思っていたのかもしれない。

だから。あのファミレスの深夜、その港の名前を心で感じた時、僕の心が動いた。
これは、やはり僕の運命なのだと。

どれぐらいの時間が経っただろう。
まだ、外はまだ暗かったが、夜の気配を失いつつあった。
どうやら僕はいつの間にか眠ってしまったらしい。久しぶりの運転に疲れたのかもしれないが、こんな時間に眠るのは久しぶりだった。それよりも、誰にも邪魔されずに眠れたことに驚いていた。

目を開けると、うっすらと光を含んだ空を背に、こちらへ向かって来る人影があった。
彼女が戻ってきたのだった。
そう、ひとりで。
彼女の目は泣きはらしたかのように真っ赤だった。

助手席に座った彼女は、僕が何も聞かないのに話し始めた。
「海を見ながら、兄と昔遊んだ海辺に座っていると、すっかり自分の中でも忘れてしまったような出来事が、突然、思い浮かんできたんです。取るに足らないような、本当に些細な出来事ばかりでしたが、次々と記憶が溢れるみたいに。写真でしか覚えていない両親の顔までくっきりと現れて。ああ、これは兄の記憶なんだって、思いました。そしたら、涙が溢れてきて。
なぜか不思議と、自分の左側があったかいんです。誰もいないはずなのに。海風から私を守ってくれているみたいに、あったかいんです。兄の姿は見えなかったのですが、きっと隣に座ってくれていたんだろうって思います。
兄はきっとこの景色が見たかったのだと思います。だからあの日、この海を見に行こうと思い立って。そして、事故に合ってしまったのだと。この海を見られた兄は、きっと満足して、両親がいるあの世へと旅立ったに違いありません」

それから、僕達は静岡県にある小さな港町を後にした。彼女はよっぽど疲れたのか、車が走り出すと、すぐに眠ってしまった。とても幸せそうな寝顔だった。

この出来事が、僕のそれからの人生の起点となったのは、間違いない。
変化というものは、意図しないところから起こる場合もあるし、何か逆らえないような流れに流されるみたいに、いつの間にか起きていることもある。
僕は、食わず嫌いの塩辛や焼き鳥のレバーみたいに、自分自身で苦手として、目を背けていたものを、ほんの少し受け入れてもいいのかもしれないと思い始めていた。一旦受け入れてしまうと、案外、それは自分が想像していたものよりもそんなに悪くなかったりして、改めて気づくことだってあるのだから。
人と人とが縁があって出会うように、もしかしたら、僕は僕にだけ見える彼らと不思議な縁があるのかもしれない。それを受け入れようという気になった、そんなきっかけとなったのも事実だった。

一つだけ、補足しておこう。僕と彼女に「その後」があったかどうかということだ。
あの日から数日後、彼女が再び店にやってきた。ショートボブだった髪の毛をさらに短くして、髪の色も明るくして。そして、花が咲くように笑った彼女は、ほんの数日前に車で一緒に出かけた彼女とは、まるで別人のようだった。
女子高生と熟女がタイプの櫻井さんでさえ、思わずヒュウーと口笛を吹いたくらいだ。
そして、その横には、どんな嵐にも負けないくらい髪の毛をガッチリと立たせた青年が立っていた。席へと案内する僕に彼女が「彼氏です」と照れながら紹介してくれた。
残念ながら、現実とは、そんなに甘い話なんて簡単には転がってはいない。
でも、きっと彼なら、どんな人生の荒波からも、そのなびかない髪で彼女を守ってくれるだろう。
そう、信じたい。

その後も、僕は、自分自身に起きる変化をそっと受け入れ、次々に起こる出来事を楽しみながら暮らしている。

あの日から約五年経った今も、僕はまだこの町に住んでいる。東京の西側に位置する、都会と田舎の雰囲気が混じり合った調布という町に。
そこの、一軒家、といっても本当に小さな一軒家で、外見は将棋の駒を立たせたような感じの、強い風が吹いたらパタンと倒れてしまうのではないかというくらいの頼りない建物だけど、そこで、僕は猫一匹と暮らしながら、ホラー小説、これも僕の実体験なんかじゃなくって、まるっきりのフィクションだけど、そんなものを書く仕事をしながら、暮らしている。
僕の今の生活、そしてこの猫と暮らすこととなった話は、また今度しようと思う。

ウシミツドキの迷い人たち

ウシミツドキの迷い人たち

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-12

Copyrighted
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