曇り時々金

雨の日に家を出なければならない事情があるのは憂鬱だ。
今日も今日とて出勤日、時間を惜しんだ杜撰な食事を胃に詰め込むと、ビニール傘と鞄を持って、安普請を飛び出した。
 ふと、思うことがある。俺はこれから仕事をする。しかし、その仕事の殆どは誰かが書いたマニュアルの通りにやればいいものだ。なら、俺がやる必要はあるのだろうか? 誰か別の、もっと適任が居るのではないだろうか? マニュアルを読み解ける能力さえあれば、誰にでも出来ることなのに、どうして俺が誰でも出来ることを、こんなに辛い思いをしてやっているんだろう? 俺にはもっと、そうだ、何かは分からないが、俺にしか出来ない仕事があるはずだ。ああ、何かは分からないが。これさえ、分かってしまえば、今のくだらない会社なんてすぐ辞めてやる。自分のことを棚に上げて、俺を怒鳴ってばかりの上司に辞表を突き付けるのはさぞ痛快だろう。その時、俺の心は本当にやるべき仕事へ向いているんだ、こんなに満たされた瞬間は、長い人生でもそうそうあることじゃない。
 額に鋭い感覚、それが頭の中に広がる来るべき幸せな未来予想図をかき消した。傘に穴が空いているようで、そこから雨粒が漏れてきたらしい。
 見上げると、日の出の前の昏い空が水滴の星々を散りばめてビニール越しに広がっていた。
天を突く科学の塔たる高層ビル群に切り取られた、狭くて輝きを失った空。こんな空の下で、雨粒が砕ける音だけを聞きながら、行きたくもない場所へ向かっている。そりゃあ、今のところ現実から遊離した自由な思考だけは楽しいことを考えたくもなるってものだ。それがありえない未来のことであっても。
「ああ、こうやって降ってくるのが、水素と酸素の化合物なんてシケたモンじゃなくて、
金だったらいいのになぁ。色んな人が使った金が、大気中に散らばった後、上昇して、もう一回お金に凝固して降ってくるの」
 一人ごちた後、その言葉のあんまりにもあんまりな身勝手さと荒唐無稽さと馬鹿馬鹿しさに自分で恥ずかしくなり、周りを見渡して、一つ咳払いした。時間も時間、住宅地の誰も居ない道だった。
「何考えてるんだか、いや、こんなくだらないことを考えさせる雨が悪い。
実際、降ってくるのが金だったら俺は会社に行かなくていいんだから」
 我ながら天候に対して傲岸不遜な言い分だとは思ったが、どうせどうにもならないこと。好きに言うことにした。雨が降っても仕事はあるし、雨の代りに金が降ることなんてないんだから。雨が文句を言って来たら止めることにしよう。
 と、また額に鋭い感覚。しかし、今度は思わずその場に蹲った。
「痛たた……なんだよ?」
 何かが落ちてきたらしい、雨粒ではない何かが。それは俺の額を跳ねると、足元の地面へ落ち着いた。
落下物を拾い上げて、ペンライトで照らす。闇に浮かび上がったのは硬貨だった。この国のもので、もちろん使用できる。
「おっ」
 近くのマンションかどこかから落ちてきたのだろうか? 凄い偶然だ、言ってみるものだなぁ。
「もっとくれてもいいんですよ、へへへ」
 強欲なのは自覚するが、言うだけ言ってみる。もちろん、空はそれに答えない。
「まぁ、そうだよな」
 さて、この金はどうしたものか。着服するわけにもいかないが、わざわざ警察に届けるのも面倒な金額だ。いや、これこそ天の恵みという奴だ、貰ってしまおう。
 少し気分も良くなった、会社へ急ごう。そう思って、立ち上がり、足を踏み出した時だった。傘に何かが当たる感触。これも雨ではない。それも同じように地面に転がる。
「えっ」
 また、硬貨が落ちて来たのだった。拾い上げようと屈む。しかし、傘にまた感触が。そして、今度は間断なく、また感触が。また、また、また連続してやってきた。
「わっ、わっ、わっ」
 数十、数百の硬貨が傘を叩く。薄いビニールの傘は所々が破れ、金が貫通して道路へちらばる。
しかし、そこで燃え上がる俺の盗人根性。なんとか傘を裏返し、最大限に降ってくる金を受け止められるようにした。
 金は数分後に降りやんだ。俺の体は落下してくる硬貨を受け、傷だらけだったが、その甲斐あって傘にはすっかり大金が溜まっていた。一枚一枚は安いものだったが、これだけの数があれば一年は遊んで暮らせそうだ。
 先程よりも大きな金額になってしまったが、満身創痍の俺には警察へ届けるなんていう考えは無かった。とにかく、近くのコンビニかどこかでコイツらを入れる袋でも買おう。あと、シャツも買い替えなくては、傷薬と絆創膏も買おうかな。なんでもいい、金はあるんだ。
 暗闇の駅前に誘蛾灯のように光るコンビニの電灯へ足を引きずった。最後の方に直撃した硬貨のヘヴィな一撃が、俺の足から正常な機能を奪ったようだ。
 自動ドアを抜けると、酷い光景が広がっていた。俺と同じように硬貨を抱えた傷だらけの人がレジへ集っていた、まだ夜明け前だというのに。まさしく、コンビニの電灯は誘蛾灯のようで商品に沢山の蛾を集結させていた。
 レジの店員としても、何か異常な出来事が起こったことは把握しているようだが、会計しないわけにもいかず、怒涛の如く押し寄せる人々を相手していた。
 俺は目当ての商品を掴むと、人波を掻き分け、レジへ向かう。店員に品物を手渡した時だった、カウンター奥の扉から白髪の混ざった中年の男が飛び出してくる。どうやら、店長らしい彼は店内の隅々に響く大音声で言った。
「皆さま! 皆さまのお持ちの硬貨ですが、ただいまより取扱いを一時的に停止させていただきます! お会計は紙幣をお預かりし、紙幣のみをお返し出来る場合に限らせていただきます! これは、政府からの措置です! 詳しくはニュースや夕刊等をご覧ください! 繰り返します――」
 骨折のために療養した二週間を過ぎても、硬貨は降り続けた。理由は完全には解明されておらず、世界中の学者が頭を悩ませているとか。ただ、天気予報に茶色の丸いマークが表示されるようにはなった。
新しい天気となり、空から降る硬貨、いや旧硬貨というべきか、ともかく、旧硬貨の日が生まれた。
 そう旧、もう硬貨としてそれは使えない。空から硬貨が降ってくる、この怪現象についての政府の対応と言ったら、電光石火のものだった。俺が苦労して集めた硬貨達は、たんなる不燃ゴミにすぐさま変えられてしまった。空から無際限に降ってくるものに価値を付けることなんて出来るはずも無かった。
 退院してからの俺の生活はというと、結局は何も変わっていない。不満を胸に蓄えながら、日々を生きている。
 しかし、変わったこともある、硬貨の日だ。
 朝に窓を開けて、金属が道路を鋭く叩いているのを見ると、ため息が出るのを止められない。杜撰な食事を胃に詰めて、硬貨を弾くためにより重く厚くなった傘と鞄を持ち、家を出る。
 ああ、もしこの現象が俺の願いから起きたものだったとすると、もっとちゃんとしたことを願うべきだった。今でも後悔している。
 傘より重い、俺の憂鬱……

曇り時々金

曇り時々金

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-11

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