ジンベエザメの檻

 ゆるやかに滑り落ちていくのは、ぼくと、それからキミと、ついでにそのへんにいた野良猫と、くわえて空を飛んでいたフラミンゴ。
 リーンゴーン、リーンゴーン、という鐘の音が、落下の合図だった。
 落ちる先は海である。
 海であるが、どこの海かは不明である。
 ジンベエザメが一匹、泳いでいる。この前は、ダイオウイカだった。ダイオウイカの前は、シャチだった。
 海は、蒼い。
 底の方は、暗い。
 ぼくは、泳げるし、キミも、なんとか泳げるし、野良猫は、手足をばたつかせ辛うじて浮いている感じだし、フラミンゴだけが、さっさと水中を飛び出して逃げてしまったけれど、鐘の音が聞こえた際に海に滑り落ちる現象もすでに三度目のことであるから、まわりを観察できる余裕は、まァまァ、あるのだった。
 鐘の音は夜の公園のベンチに座っているときに、聞こえた。
 キミが片想いしている人のことを話している最中で、キミの好きな人というのは、ぼくらより三歳年上で、キミよりも細身で肌が白くて、視力が悪いために黒縁の眼鏡をかけていたのだが、さいきんコンタクトレンズにでもしたのか眼鏡をやめてしまって、キミはそれを残念がっていて、それから、ほんとうにごはん食べてるのかと疑いたくなるほどに華奢な肩で、私服がちょっと子どもっぽく童顔も災いして、どうにも中学生男子臭が抜けないのだけれど、そこもまた愛おしいのだとキミは語った。キミの好きな人の名前は、ぼくも知っていた。テレビに出ている人だから、名前だけは知っていた。
 ジンベエザメは安全だねと、キミが言う。海の中ではキミの声が直接、ぼくの脳に送りこまれてくるのだ。
 ダイオウイカのときは野良猫ではなくカラスが一緒で、ダイオウイカのおおきくて太い足に巻きつかれ、そのまま姿が見えなくなってしまったので、まるごと食べられたものと思われる。シャチのときは、動物園でシマウマを眺めているときに鐘の音が聞こえたせいで、一緒に落ちたシマウマが、おしりからがぶりと食べられてしまった。
 ジンベエザメが、ぼくたちを囲うように泳ぎまわり始める。声を発することはできないが、息をすることはできるから、おそらくこれは誰かの夢だろうと推測している。
 ぼくか、キミか、もしくは共に巻き込まれる生き物たちのか。
「ジンベエザメさん、ここ、どこの海?」
 キミが、ジンベエザメにかけた言葉が、ぼくの頭の中にも伝わってきた。ジンベエザメはなにも答えなかったが、先ほどよりも速度を上げて、ぼくたちのまわりをぐるぐると回り出した。
 キミの、花柄の黄色いフレアスカートがふくらみ、ちぢむ。裾がゆれて、ひるがえり、キミのことがお姫さまに見えてくる。
 テレビに出ている人を好きなキミ。
 叶わぬ恋に虚しさを感じながらも、好きでいることをやめられないキミ。
 一途なキミ。
 スノーホワイトカラーのカーディガンをはためかせ、じたばた暴れる野良猫を抱きかかえる、キミ。
 ぼくはキミのことが、やっぱり好きである。どうしたって、好きである。ひとりじめしたいくらい、好きである。キミのためなら死ねるくらい、好きである。ウェディングドレスを着たキミと、教会の鐘が鳴り響く中で、誓いのくちづけを交わす未来のことを、ぼくは妄想している。
 過去の二回は、カラスがダイオウイカに捕らえられ姿を消したときに、シマウマがシャチに食べられたときに、ぼくたちは元の世界に戻れた。
 今回はなんだか、元の世界に戻れそうな予感が、まるでしない。
 キミもそれを危惧しているのか、カラスがダイオウイカの足に巻き取られたときよりも、シマウマがシャチにかぶりつかれてもがいているときよりも、顔が強張っている。
「ねえ、わたしたち、ちゃんと戻れるのかな?」
 キミのか細い声が、ぼくの脳みそを撫でた。
 ぼくは「大丈夫だよ。絶対に戻れる」と力強く答え、キミを安心させるために笑顔を取り繕ったが、実際はどうだったか。
 笑顔の裏側でぼくは、とんでもない悪人のような微笑みを浮かべ、どうせならこのままキミと、野良猫と、ジンベエザメと、この海で暮らしていけたらなァと願っていたこと。キミには明かさないでおこう。
 なんせジンベエザメは、とにかくおおきい。

ジンベエザメの檻

ジンベエザメの檻

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-05

CC BY-NC-ND
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