1,050文字の歪み
学校のプールにイタチザメがひょっこり現れた夜だった。
ぼくとキミは修学旅行のしおりを作っていた。ぼくとキミは修学旅行委員なのだけど、先生がパソコンに打ちこんだしおりの原稿を印刷して、製本して、バスの中で行うレクリエーションを考えるだけの委員だった。修学旅行から帰ってくれば、任期満了となる。
「早く帰りたいね」と、キミは言った。
ぼくは「そうだね」と答えながら、ホッチキスを持つキミの右手を見た。
キミの右手薬指の爪は、いつも黄色い。
黄色いマニキュアをしているから。
右手の、薬指の爪にだけ。
まるでなにかの、おまじないみたいに。
「あのサメにダークチェリーパイをあげたい」と、キミは、プールで泳ぐサメを見つめながら、溜め息交じりにつぶやいた。
キミは、特別美しくはなくて、とりわけ、かわいいという部類でもなくて、ふつうで、なにもかもふつうで、ふつうじゃないことといえば、黄色いマニキュアを右手の薬指の爪にだけ塗っていることと、学校のプールにときどき現れるイタチザメに、恋にも似た感情を抱いていることと、それから、水の中でも息ができることくらいで。
でも、あれだよ。
それって案外、ふつうのことなのかもしれない。
黄色いマニキュアを右手の薬指の爪にだけ塗ることも、イタチザメに恋心を抱くことも、水の中で息ができることも、ぼく以外のヒトにはふつうのことなのかもしれないね。
ぼくはそんな思案に耽りながら、がしゃ、がしゃ、とホッチキスを動かすキミのことを盗み見た。
ぼくはキミが好きなのかもしれないし、嫌いかもしれないし、キミがサメに食べられたら嫌だなァと思うし、キミの細く白い脚にサメが噛みつく光景を観てみたいような気もするし、あのイタチザメのことを想ってダークチェリーパイを作るキミを見たくはないし、水の中で息ができるキミと水の中でキスをして、ぼくのからだのなかに酸素を送り込んでもらいたいなんて願望を、ひそかに宿しているので、おそらく迷路以上に複雑なのである。ぼくのなかは。
まっすぐにキミと向き合いたいと思うのに、なかなかどうして。
キミってば、サメに夢中なものだからさ。
「あお、って漢字さ、青じゃなくて、蒼って書きたくなるとき、ない?」
ぼくは「書きたくなるとき、あるね」と答えて、プールで優雅に泳ぎ回るイタチザメをにらんだ。
修学旅行の行き先は海底神殿。
ぼくたちは酸素ボンベが必要だけれど、キミには必要ないね。
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