不可能図形の住人

声をなくした男


ある朝、僕は突然声を失った。
何が起こったのか見当もつかない。いつも通りの1日を終え、いつも通りに就寝し、いつも通りに目覚めた筈なのに、声だけが、いつも通りではなかった。自分では声を出しているつもりで、骨を伝う音は僕の耳に届いているのに、他人には僕の声が微塵も聞こえないらしかった。職場に行くと皆に心配され、病院に行けと言って半ば強引に早退させられた。そうして病院に行ったは良いものの、どんな検査をしても医者は首を傾げるばかり。原因がわからないらしい。

「どこにも異常はありませんよ」

医者はバツが悪そうに言う。一応薬を出しておきます、なんて言って、一体何の薬を出すのやら。当たり障りのない定型文を口にする医者を前に、僕は途中から話を聞くことをやめた。処方箋を受け取り、診察室を出て、会計を済ませに窓口へ行く。

「お困りですか?」

3570円の受診料。4000円を出して、100円硬貨が4枚、10円硬貨が3枚、釣銭として僕の掌に落ちたとき、そんな言葉を耳にした。掌から顔を上げると、表情の見えない受付の女がこちらを見ていた。

「お困りなら、こちらを受診してみるといいかもしれません」

言って、女は名刺サイズの紙を1枚差し出した。
Kiichi OAT 鬼一眼々
それだけが書かれていた。

「あの、これ、」
「12番でお待ちの佐々木様」

問おうと声を出すと、やはり僕の声は他人に届かないようで、1つの仕事を終えた女は次の仕事を呼んでいた。僕は問うのも馬鹿らしくなって、足早に病院を後にした。

「鬼一眼々……」

誰かの名前だろうか?それにしては随分と禍々しい字面だ。鬼の眼。これが名前だとすると、その横に書かれたKiichi OATは会社名か何かだろうか。これだけの情報で、一体どこに行けというのだろうか。住所も何も書かれていない、この紙切れを頼りに……

「Kiichi OAT……あ!」

大通りに出て、スタバのある角を曲がって、それから少し歩いた先。何の気なしに顔を上げると、雑居ビルのフロア案内に紙切れにあるのと同じ文字列を見つけた。

「そんなバカな」

適当に歩いて、適当に目をやった先に目的の場所があるなんて、天文学的確立にもほどがある。カミサマなんてものが存在するなら、きっとそいつはお調子者の適当なやつだ。

「入って、みるか……」

その雑居ビルの3階に、その鬼一眼々とやらが営む何かがあるらしい。他にアテもないし、とりあえずという気分で僕は階段を上がってみることにした。エレベーターの無い5階建てのビル。上ると、曇りガラスが張られた茶色のドアにKiichi OATの文字。

「あのー……」

ドアノブを捻り、扉を押すと、そこには、

「うわあ!」

長身の男が至近距離に立ってこちらを見下ろしていた。驚いてドアノブから手を離す僕の代わりに彼は扉を開け、どうぞというような所作で入室を促す。

「あの、あなたが……鬼一眼々さん?」

問うてみて、そういえば僕の声は誰にも届かないのだったと思い出す。慌てて筆談のためにスマートフォンを取り出そうとすると、

「私は真神狼。眼々はむこうだ」

言って、男は部屋の奥を指し示した。

「え?!あの、あなた、僕の声が聞こえるんですか?!」
「そんなことはどうでもいい。入るのか、入らないのか」
「は、入ります!」

僕が室内に踏み込むと、背後で静かに扉が閉まった。
室内はよくある探偵事務所のような趣きだった。部屋の真ん中辺りに来客用と思しきソファーとテーブル。その向こうの窓際には、探偵が座りそうな少し大きめの椅子と机。その椅子には、日本人女性の平均より少し小柄な人影が1つあった。

「眼々、来客だ」
「お茶淹れてよ、狼」
「お前の趣向で、ここにはコーヒーしか置いていない」
「じゃあコーヒー」

ぼそぼそとした聞こえ辛い女の声がした。椅子のうえの人は言うと立ち上がり、窓の向こうの光を背後に歩いて来る。

「座りなよ、客人」
「え、あ、はい」

扉側のソファーに僕が座ると、その人は向かいに腰を下ろした。

「ほら、コーヒー」
「ああ」

真神と名乗った男は光のような速度でコーヒーを淹れてきて、テーブルにカップを3つ置くと女性の隣に座る。

「あの、僕、病院でこれを貰って、」

とりあえずあの名刺を出して、テーブルに置いた。向かいの女性は僕の言葉を聞いているのかいないのか、聞こえているのかいないのか、よくわからない様子でカップを手にして水面を見ている。

「あ、えっと、あの、」

聞こえていない可能性を考慮して、僕が筆談の用意をしようとすると、

「聞いているし、聞こえているよ。うちの名前は鬼一眼々。早く続きを話してよ」

と、彼女は、鬼一眼々は言った。

「……今朝、目覚めたら声が出なくなっていたんです」

僕はカバンの中を探るのをやめ、出されたコーヒーを一口啜った。

「いや、正しくは、僕には聞こえるんです。でも、他の人には僕の声が聞こえない。声が出せないと思われて、さっき病院に行きました。でも、原因はわからなくて……そしたら、受付でこの名刺を貰ったんです。ここを受診すると良いって」

記憶を呼び覚まそうとするとき、ヒトの視線は無意識に宙をさ迷う。そうした僕の視線がその必要を失い、真正面に戻ったとき、鬼一眼々の真っ黒な眼が穴をあける勢いでこちらを向いているのに気付いた。

「異変に気付いたのは、今朝?」
「はい」
「昨夜、最後に誰かと話したのは?」
「寝る前に彼女と電話をしました。その時は普通に会話ができていました」
「そうか。ひとつ、訂正しておきたい」
「?」

鬼一眼々は足を組む。ショートヘアだったものが伸びるのをそのままにしたような長い前髪の間から、虚無のような黒い眼が見える。

「ここは“受診”するような場所ではない」
「え、ああ、はい。そんな気はしていました」
「じゃあ、何だと思う?」
「……えーっと、」
「……」
「探偵、事務所?」
「……」

鬼一眼々ががっかりしたように少し肩をすくめると、不揃いな髪の先が鎖骨の辺りで遊ぶ。彼女は隣の男の方に身体を傾け、

「なあ、狼」
「なんだ?」
「やっぱり名前が悪かったかな?」
「いや、それ以前の問題だろう」
「……」
「眼々、多くのニンゲンはお前のように察しがよくできていない」

真神狼の言葉が僕にはこちらを見下しているように聞こえて、あまりいい気分ではなかった。しかし、目の前の2人が一体何者で、何を生業にしていて、これから僕にどのような利益をもたらすかわからない以上、僕には何を言うこともすることもできなかった。

「まあ、そんなことはどうでもいい」

自分から振っておいて、鬼一眼々は唐突に話題を振り切った。

「君、名前は?」
「佐藤です。佐藤太郎」
「佐藤さん、今夜、君の家に行っても?」
「はい?」
「君の家に行っても良いかと聞いている」

鬼一眼々はコーヒーを飲み干すとソファーから立ち上がり、元居た窓際の椅子に戻っていく。まるで、この話はこれで終いだとでも言うように。

「声の原因はだいたい見当がついたが、確証がない。それを今夜確認する」

椅子に座ると、机の上にあった紙に彼女は何かを書き始めた。それを合図に真神狼も立ち上がり、出口に向かうと扉を開け、こちらを向いた。

「“診察”は終わりだ。今夜、また会おう」
「はい?」
「……帰ってくれて問題ない。料金は今夜、結論が出てからだ」

名前の通り、まるでオオカミのような黄色い瞳が、男の顔の上であからさまな作り笑いを浮かべていた。

****

「寝る前に異常はなく、起きたら異常を来していた。そうなれば睡眠中に問題が発生したとみる以外にないだろう」

「普通に考えてね」という嫌味っぽい言葉を付け足して、鬼一眼々は言った。夜の11時。そろそろ寝ようかと思っていたとき、僕の自宅である安アパートの一室で来客を告げるチャイムが鳴り響いた。まさかと思いドアの覗き穴から外を見ると、本当にあの2人が立っていた。
そしてドアを開くと開口一番に鬼一眼々はそう言ったのだった。

「……上がらせてもらっても?」

ドアを開いた状態で僕が固まっていると、かなり短気かもしれない彼女が言った。僕は慌てて

「どうぞ」

と言って道を開けたけれど、そうしてからなぜ僕がこんな風に畏まらなければならないのかと少し不満に思ったりした。けれど、なぜか従ってしまう圧迫感が彼女にはある、というのが事実だ。

「じゃあ、寝ろ」
「はい?」
「結論はさっき説明しただろう?だから早く眠ってもらいたいんだよ」

靴を脱ぎ、部屋に入った彼女が言い放つと、僕の返答も待たずに後ろに控えていた真神狼が部屋の電気を消した。確かに風呂に入って歯も磨いて、布団も敷いてあったのでワンルームのその部屋ではもう寝られるのだけれど。あまりの唐突さに唖然としたが、明かりの消えた暗闇の中で、さっきから一言も発しない男の瞳孔がおよそ人間のそれとは思えない勢いで開いていることに対する薄気味悪さが勝っているのが現状だった。
僕は黙って布団に入る。鬼一眼々は髪から服まで真っ黒で、真神狼は野生動物のように息を殺している。今日出会ったばかりの人の横で眠れるか心配だったけれど、彼らの気配の薄さに、気づけば微睡み始めている自分が居た。

「ああ、やっぱり“彼女”か」

眠りに落ちる間際、夢の淵でそんな声を聴いたような気がする。

****

翌朝、目覚めると彼らの姿はなかった。

「……おい、どういうことだよ」

スマートフォンの時計は朝の9時過ぎを示していた。完全に仕事は遅刻。昨夜、彼らが来る前に設定したはずのアラームは鳴らなかった。

「あいつら……」

とりあえず会社にメールを入れて、ラインを見ると通知が23件。僕はそれに返事をしながら私服に着替えると、あの事務所に行くべく自宅を後にした。

****

「では、昨夜の観察をもとに得た答えを説明しよう」

この事務所は西向きらしい。午前のこの場所は陽が入りづらいようで、人工の明かりに照らされる様子は不自然だ。ソファーに昨日と同じ配置で僕を含めた3人が座ると、鬼一眼々は口を開いた。

「昨夜、睡眠に入った君に口づける女が居た」

言うと、彼女は昨日と寸分違わぬ所作でコーヒーを啜った。

「……は?」
「厳密に言えば、君に口づける女の幽霊が居た」
「幽霊?」
「ああ」

突然の発言に僕は思わず苦笑した。幽霊だって?何を突然、非科学的な。

「君は今、この女は何を突然非科学的なことを言い出すのだと思っているだろうが、これは紛れもない事実だよ」
「事実?何を突然、ありえないでしょう?」
「いいや、あり得る」

女の隣から、自然界の逆光の中の黄色い瞳がこちらを見ている。人間じゃないような瞳孔の開き具合をした、オオカミのような瞳が。

「君は女癖が悪いようだ。今は何人の彼女が居るんだい?10人くらい?」
「おい、一体なんの」
「ひっきりなしに騒いでいるカバンの中のスマートフォンには、彼女たちからの声が届いているのだろう?」
「いい加減にしてくれ、名誉棄損で、」
「そして5か月23日前に別れた女は2か月13日前に心を病んで自殺した」

苦笑に全てを流そうとした僕だったが、その具体的な指摘を前に閉口せざるを得なくなった。

「その女が、君から声を奪った犯人だよ。“愛を囁く相手は自分だけにして欲しい”とのことだ」
「……それで、」
「?」
「それで、どうやったら僕は元に戻るんです?」

平静を装ったつもりだったが、存外僕の声は震えていた。

「彼女の言うとおりにすればいい。他の女との関係を全て切り、生涯彼女のことだけを考えて生きればいい」
「そんなこと!」
「……」
「そんなこと、できるわけないだろう!」

怒鳴って立ち上がると、不自然なめまいがした。黙って話を聞いていた真神狼が立ち上がり、部屋の電気を消す。薄暗くなった部屋に、僕の目の前に、見覚えのある女の影がぼんやりと浮かんだ。それの両腕が僕の首に伸ばされ、違和感のある息苦しさが沸き上がった。

「そんな、こと……」
「随分と酷い別れ方をしたそうじゃないか」
「うっ」
「“金が無いならお前はもう要らない”、“遊びだったのに、本気になって”だったかな?」

いつも使う僕の言葉を寸分違わぬ形で再生する女の黒い眼は、吸い込まれそうなくらいの黒を模している。

「くるしっ……」
「放しておあげなさい」

鬼一眼々が言うと、息苦しさがふっと消え失せた。

「結論は以上だよ。今回はこちらによる解決は不可能な事案だったため、捜査費と人件費のみの支払いで」

それだけを言って、鬼一眼々は昨日のように立ち上がると窓際に戻っていく。僕は、僕の血液が頭に集中していく音を感じる。

「ふざけるな!こんなことに、」
「客人よ」

黙ってソファーに座っていた男が、口を開いた。

「何をそんなに憤怒している?」

窓からの光によってできた男の影が、頭の影が、イヌ科の生き物のような形に変化していく。ぬるりと動く影の造形に寒気がして男を見ると、ニンゲンの姿のそれは獰猛な肉食獣の顔をしていた。

「捜査をし、真実を見つけ、解決策を提示した。こちらの仕事は完遂された。早々に立ち去れ。さもなくば、」

僕は男の牙を見た。そこから記憶は途切れ、気が付いたら大通りのスタバの前に立っていた。恐怖に叫んだ僕の声は道行く人々に伝わっていて、このことを誰かに話したくて手に取ったスマートフォンの連絡先には誰のものも登録されていなかった。それから僕はあの事務所に行こうと何度か試みたけれど、終ぞそれがなされることはなかった。

****

私の名前は真神狼。“狼”は“オオカミ”ではなく“ロウ”と読む。わけあって彼女に貰ったこの名前を名乗り、人間社会の中、彼女の傍らに寄り添って暮らしている。

「他人の領域に入るのにノックの一つもしないなんて、呆れる程に無粋な男だったね」

ビルの隙間から夕陽を眺める眼々の横に行くと、彼女は唐突に、ひとりごとの様にそう言った。眼々の机の上にある紙には、何かの数式を解いたと思われる数字とギリシャ文字の複雑な羅列がある。答えを出したそれに対して彼女は完全に興味を失ったようで、窓の向こうで沈もうとしている太陽に手を翳して遊んでいる。

「つまらない話だった」

彼女の真っ黒な髪と眼と服が、夕日の赤に照らされて死んだ血液のような色をしている。一方、血色の悪い頬は、少し生き物らしい色に変わっていた。

「もっと面白い話はないものかなあ」

かつてヒトを食らう老狼だった私が、今、こんなニンゲンの小娘と共に暮らしているなど、あの剣術の達人が聞いたら笑うだろうか。

トントン……

「来客のようだよ、狼」
「ああ、そのようだな」
「今度はドアの真横に立っててみなよ。きっと客人は驚く」
「お前がそういうなら、そうしよう」

私とこの小娘の2人、この場所でニンゲンの手に負えない案件を扱う何でも屋を始めて、もう8年が過ぎていた

0人目の子供

「子供が、消えるんです」

妊娠して4か月。数日前に検診に行くと、胎児の姿が消えていることがわかった。突然お腹が軽くなった気がしたから、まさかと思ったら本当に。これでもう4人目になる。胎児の父はこれを気味悪がって、昨日とうとう一緒に住んでいたアパートを出ていった。こんな男ももう4人目。いい加減うんざりしていた時、病院でもらったよくわからない名刺のようなものを思い出した。

「エコーで人間の形がわかるようになる頃に、突然。なんの前触れもなく消えるんです」

会社の名前のようなアルファベットの羅列と人名。それしか書いていない名刺を頼りにどうやって行けばいいんだあのクソ受付女とか思ったけれど、適当に大通りを歩いて、スタバのある道を曲がったら辿り着いた。エレベーターのない5階建ての雑居ビル、その3階。子供がいなくなった身体は前よりも軽く思えて、すんなりと上ったその事務所で、私は今、話している。

「もう4人目なんです。夫は気味悪がって出て行ってしまって……本当にもう、どうしたらいいのか……」

来客用らしいソファーに座って、私は言うと涙を少し流してみたりする。気まぐれに訪れたそこには長身のイケメンが居て、彼は今、私の目の前に座っている。ラッキーだった。彼の上司のような人は女だけれど、この2人に仕事以上の関係はなさそう。両手で顔を覆ってみれば、私の気分はもう悲劇のヒロイン。あとは、この可哀想な依頼人にイケメンが手を差し伸べれば終わり。ハッピーエンド。

「助けてください……」

これでもかと言うほどにか細い声で言えば、今まで落ちない男は居なかった。今回だって

「……眼々」
「何?」
「これは、」
「大丈夫、狼、もうわかったから」

男の小さい溜息と、誰かが立ち上がる音。指の間から見やると、部屋の隅に掛けられたコートに手を伸ばす鬼一眼々とかいう女と、黄色い眼でこちらを見るイケメンの姿。

「客人、」
「狼さん、ちゃんと名前で呼んでください」
「鈴木さん、」
「桃花って呼んでください」
「……桃花さん、行くぞ」
「どこへ?」
「鬼一が原因を見つけた」

顔を上げると、真神狼が女に歩み寄り、女の手からコートを取ると後ろに回って着せようと広げる姿があった。それに対して礼も言わずに女はコートへ袖を通し、歩き出し、真神狼はそのあとを追う。

「桃花さん、早く」

そして私を急かす。私は急いでカバンとコートを持って、足早な2人についていく。忌々しい。あの女。

****

長身イケメンの男、真神狼が運転する車に乗って、事務所から少し離れた郊外の住宅地に行く。私は後部座席。女は助手席。2階建てのアパートの前を横切ろうとしたとき、鬼一眼々と名乗った女は「ここだよ」と呟いた。真神は車を停め、私に向かって「降りろ」というと、車を降りて助手席側に回り、ドアを開けて鬼一に降車を促す。落ち着いた、守るような所作。それが鬼一に向いていることを私は忌々しく思う。この女に関するすべてが忌々しく思える。男の優しさ全ては、可哀想な依頼人である私に向けられるべきなんだから。

「こっちだよ」

車を降りた鬼一は、こちらを見ようともせずに歩いていく。アパートの道路とは反対側の面には庭がある。101号室と102号室の住人はそのスペースを使うことが許可されていて、102号室の住人はそこで家庭菜園をしている。101号室の住人は特に何をするわけではなく、もうすぐ春が来る土には雑草の芽が無造作に顔をのぞかせているだけだ。
なぜ私がこのアパートに詳しいかというと、他でもない、この101号室の住人は私だからだ。数日前には3人暮らしになりそうで、2日前までは2人暮らしで、今は1人暮らしの部屋。

「この辺、かな」

鬼一はまるでここに来たことがあるような勝手知ったる足運びで庭に向かうと、隣の家との境目になっている塀の近くで地面を見下ろした。

「鈴木桃花、何か言っておくことはある?」
「は?」
「私が真実を語る前に、何か言っておくべきことはある?」
「……何よ、いきなり」

鬼一が立つその場所に思い当たることはあったけれど、この女がそれを知っている筈はない。昨日まで、ついさっき出会うまでは赤の他人だった。街をすれ違うことも稀だろう通り過ぎるだけの者だったこの女が、何を知っていることもない、筈、なのに。
鬼一にはまるで全知全能であるかのような不気味さがあった。春を待つ日差しの中で、この女の黒は別の次元の何かを思わせた。
私は可哀想な依頼人で、不気味なものを前に怯えている。この場合、それを十分に利用するのが得だと思って、私は不安で泣きそうな顔を作って隣に立つ真神を見上げる。

「狼さん、あの人は一体……」

言いかけて、言葉を飲み込んだ。そこには、今にも牙をむきそうな黄色い肉食獣の眼があったから。

「今、問うているとは眼々だ」
「あ、あの、」
「あるのか、ないのか」
「あり、ません」

答えると、真神はすっかり私への興味を失ったようで、ふっと視線を前方に移した。その視線を追うと、コートのポケットから小さいスコップを出した鬼一がしゃがみ込み、地面を掘り始めた。

「え、あの……」
「消えた子供は4人で合ってる?」
「……ええ」
「では、今までに授かった子供の総数は?」
「……4人に、決まっているでしょう」

鬼一は明らかな目的をもって地面を掘っている。私はその目的に心当たりがあるけれど、そんな筈はない。おかしい。たとえその答えに行きついたとしても、それがその場所にあるという確率とそれなりの面積の中でそこを掘り当てる確率を掛け合わせたら、一体どんな小さな数字になることか。
それなのに、忌々しい女はそれを掘り当てたようで、スコップを地面に置くと穴の中から白い欠片を1つ拾い、立ち上がった。

「いいや、5人だよ。最初に消えた子供を君が1人目だと言うなら、さしずめ0人目とでも言うべきか」

鬼一眼々は、白く小さな骨の欠片を掌で転がした。

「4人の胎児を攫ったのは、この0人目だよ」

傾き始めた陽を背景に、逆光になっている女の表情は読み取れない。

「“彼”は問うている。『なぜ、自分は殺されたのに、4人はそうではないのか』と」

鬼一の言葉を引き金に、私は最初の恋を思い出した。少し年上の、子供ができたと私が言った翌朝に姿を消した男との恋。

「そんなの、」
「……」
「私は悪くない。あの男が……あの男が!私とその子を捨てたからよ!」
「つまり君は、捨てられたから、捨てたのか?」

問う、鬼一の足元の影に、頭が潰れた乳児の姿が見えた。そう。ちょうどあのくらいの乳児だった。うるさく泣くから、存在が私以外に知れてしまう前に無かったことにしようと思って頭蓋を割った。小さく折りたたんで、その場所に埋めた。自我を持つ前の、第2の誕生の前だったから、人間にはカウントされないでしょう?

「私は悪くない。悪くないのよ!ねえ、真神さ……」

だから、私は殺人者ではない。可哀想で悲しい女だ。そう思い、地面を向いていた視線を隣に向けようと動かすと、ちょうど真神狼の頭部の影が、イヌ科の動物の造形に変わろうとしているのを見た。そこから顔を上げることができなくなった。

「眼々、それを戻せ。手が汚れる」

隣の気配は歩き出し、きっと忌々しい女の側へ向かったのだと思う。

「鈴木桃花」

夜のように澄んだ低音の声に呼ばれて、私は思わず顔を上げた。恐怖など瞬間に忘れて。阿呆のように男に媚びる。私はそういう人間だ。

「お前は別に珍しいものではない。有史以前からニンゲンは当たり前のように殺人を行ってきたのだから」
「私は、」
「お前は特別ではない。だが、その報いは必然だ」

鬼一の手から骨を拾うと、真神はそれを穴に戻して土をかけ始めた。

「君が子供を授かるたび、0人目は何度でも奪い続けるよ」
「は?何よそれ、それをなんとかして欲しくて私は」
「どうすることもできない。始まりで間違えた、君の責任だからね」

土を戻し、平らに均す。その作業が終わると、真神は鬼一の手に着いた僅かな土を払い落とし、そのまま手を引き歩き出す。その表情にはあらゆるものが入り交ざっていて、私は最初の分析を間違えていたことを知った。

「供養しようとも、除霊しようとも無駄だよ。失ってしまったものは、捨ててしまったものはもう永遠に戻らない」

そして、彼らは去っていった。

****

狼の運転で事務所に戻り、うちが飲み物を催促するといつもと変わらないコーヒーが入ったカップが渡された。

「後味の悪い案件だったな」

狼が淹れる飲み物は全て少しだけ味が薄い。まあ、イヌ科の動物だから仕方がないのかもしれないけれど、うちはそれがあまり好きではない。

「狼、コーヒー薄いよ」
「ん?そうか?」
「いつも言ってるのに。いつになったら直してくれるの?」
「あー、どうだろうな」

そしてそれを指摘すると、狼はいつも曖昧な返答をする。白黒はっきりつけたがる性分の彼が、なぜかそこだけグレーになる。不思議だ。

「まあいいや。うち、明日は大学に行くから。事務所はクローズにしておいて」
「なぜ」
「ん?」
「そうしたら、明日来た客とは永遠に会えない」
「まあ、そうだけど」
「開けておく。話を聞いて予定を立てるくらいは私にもできるからな」
「そう」

明日は何かが起こるような気がしていたからちょうどいい。ニンゲンであるうちよりニンゲンらしい彼が独自にどのような動きをするのか、少し興味もあったから。

蟻地獄


俺の名前は平塚八月。花の警視庁捜査一課に籍を置く中年刑事だ。中肉中背、柔道2段、最近足技を鍛えたくてカポエラを始めた。家族は妻と娘1人。去年から娘の服と俺のパンツは別で洗われている。別に悲しくなんかない。
そんな俺がカポエラで鍛えた下半身を使って階段を駆け上がっているのには理由がある。この雑居ビルにはエレベーターがないからだ。日本の首都東京にあって、5階建ての鉄筋コンクリート製であって、しかしエレベーターが無い。古い建物ならともかく、この建物は割と新しい。とりあえず、まあ、そんなこんなで俺は階段を上っている。目指すは3階のKiichi OATなる事務所。中年男と言えど、最近腹が少し出てきたと言っても、これくらいの運動で息を切らす俺ではない。変わり者2人が営む何でも屋で精神攻撃を受けても、俺は決してへこたれない。なにせ、俺は刑事だからな。

「おう!鬼一!いるか?」

曇りガラスがはめ込まれた扉を勢いよく開けると、コーヒーカップを片手に書類とにらめっこをしている男の仏頂面と目が合った。

「……平塚八月か。相変わらず無作法な訪問だな」

その黄色い眼をした長身の男は嫌味ったらしく言うとソファーに腰を下ろした。

「眼々は今日大学に行っている。あ奴と会いたいならば、まずはその低能な脳みそにアポ取りという概念を組み込むことだ」

こちらを見もせずに言う。真神狼と名乗るこの男の、こんな嫌味にももう慣れた。俺は傷ついたりしない。

「おお!相変わらずの仏頂面だなあ、真神!そんなんじゃあモテねえぞ!」
「生憎と、この造形は女受けが良い」
「だが、鬼一には効かないんだろう?」
「……す巻きにして海に流してやろうか?小童」

中年の俺を小童などと呼ぶのはこの男くらいだ。真神の外見年齢は30代前半くらいだ。そいつが俺を子ども扱いするのだから、事情を知らない奴が見たら小首を傾げるだろう。まあ、かく言う俺も、こいつらが話す“事情”の全てを受け入れているわけではないが。

「で、何の用だ?」

手にしていた書類をテーブルに放り、コーヒーを啜ってカップを置くと真神は脚を組んでふんぞり返った。向かいのソファーを指さして座れと命じる。こいつのこんな姿は、鬼一眼々が居る時には決して拝めない。鬼一の前ではまるで献身的なボディーガードのような振る舞いをする、この男の本質は恐らくこちらなのだろう。

「とある事件について、意見をもらいたい」

俺は命じられるままにソファーに座る。以前、鬼一のいないところでこいつの指示に反することをして、なんとも言えない不気味なことになったのを覚えているからだ。仕事のできる男は同じ失敗を繰り返さない。

「『自分にはできないから解決してほしい』の間違いだろう?」
「……ああ。まあ、そんなとこだ」
「フン。で、どんな事件だ?」

俺はカバンから写真を十数枚取り出す。

「一般人の連続失踪事件だ」

その中から被害者の顔写真を選び出し、失踪した順番にテーブルに並べていく。

「今月に入って13人が失踪している」
「過労社会で死にたくなっただけだろう」
「最初はそんなとこだろうと思ったんだがな」
「何かあったのか?」
「この13人全員、最後に目撃された場所が同じなんだ」

13人の顔写真の下に、目撃場所の写真を置く。

「『bar ANTLION』」
「どこにでもある普通のバーだ。で、このバーに入っていったこの13人だが、誰もここから出ていくのを目撃されていないんだ」
「なら、このバーのどこかに隠されているんだろう」
「と思って調べたんだが何もなかった」
「……」
「おかしなくらい、何もなかった」

神妙な声で、俺は言う。真神はと言うと、最初はどうでもよさそうな顔をしていたが、バーの写真を出すと少し興味を示したようにその写真だけを見た。こいつにとって、その上に並んでいる行方不明者は海辺の砂粒1つのような存在なのだろう。たとえ目の前でこいつらが惨殺されても、恐らくこいつは顔色一つ変えない。こいつの世界では、ニンゲンは鬼一眼々のみが必要で、唯一無二で、それ以外は羽虫以下の存在なのだろう。

「で、お前は何をして欲しいんだ?」
「このバーの秘密を探って欲しい」
「なぜこのバーを?」
「絶対に、被害者はこのバーに居るからだ」
「なぜそう思う?」
「刑事のカンだ」

俺が得意げに言うと、真神は目一杯のあきれ顔になった。

「……相変わらず馬鹿だな、お前」
「うるせえ!俺は俺自身を信じてるんだよ!」
「勝手に信じて勝手に死ね」

言って、真神はふと、鉄面皮に薄っすらと笑みを浮かべた。

「だが、今回はそのカン、正解だ」
「何かわかったのか?!」
「わかったも何も、写真に答えが写っているではないか」
「は?」
「まあ、馬鹿には見えないものだがな」

真神はバーの写真を手に取ると、至近距離で穴が開くほど見つめる。

「行くぞ」

そしてそれをこちらへ指ではじいて真神は立ちあがると、鬼一の机の上にある何かのキャラクターのぬいぐるみキーホルダーがついたカギを手に取った。

「行くって、どこに」
「そのバーだ」
「鬼一は?」
「大学に行っていると言ったはずだが?」
「いや、だから、鬼一抜きで行くのか?」
「……あ奴にこれは見せられん」

「さっさとしろ」と言って真神は扉へと歩を進める。俺は慌てて写真をしまい、嫌味な長身の男の後を追った。

****

――――8年前。
男の叫び声がしたという通報を受け、とある警察署勤務だった俺が現場へ駆けつけると、そこには返り血まみれになって路地裏に座り込む少女が居た。

「……いつになったら状況は動くんだい?」

その少女の辺りに文字通り“挽き肉”になって散らばっていた死体を集めると、奈良県出身の3人の男になった。俺は少女を連行してシャワーを浴びさせ、取調室に連れて行った。そこで少女は「うちがやった」と言って、それっきり口を噤んでいた。
少女がこの細腕で大の男3人を挽き肉にしたとは思えない。だが、現場に凶器らしい物は何一つなかった。目撃証言から考えて、別の場所で殺害したとも、少女がその返り血まみれの状態で移動したとも考えられない。
その日は晴天だった。犯人が他に居たとして、あの挽き肉の飛び散り具合から痕跡を残さずに逃走することは不可能に思えた。状況は彼女が殺人犯であることを示していて、彼女自身もそれを認めていて、しかし常識がその結論を否定する。
そうして数日が経った頃、ぼそぼそとした口調で18歳の少女は俺に問うた。

「今、捜査中だ」
「うちが殺したと言っているだろう」
「じゃあ、何で殺したのか教えてくれよ」
「……言ったところで、君たちはそれを受け入れない」

それから数日後、捜査は別の犯人が居るという仮定のもとに進みはじめ、少女は釈放されることになった。

「警察って、無能だね」

それだけを言い残して、少女は警察署を後にした。じりじりと蝉の鳴く8月のことだった。少女に家族はなく、署まで迎えに来たのは黄色い眼をした不気味な男だった。

それから暫くして、俺は警視庁に移動になった。東京の凶悪犯罪に関わる、忙しない日々。とある雑居ビルにある、若い女と大柄な男が営む何でも屋の噂を耳にするようになったのは、その夏から2年が経った頃だった。

****

初めてあの雑居ビルを訪れてから6年が経った。何があったわけでもないが、何もないとは言えない日々。連続失踪事件の現場に向かう途中、感慨深く思い出したのは、きっと俺が歳を取ったからだろう。

「着いたぞ。ここだ」

看板には『bar ANTLION』の文字。Antlionとは、確かカゲロウの英名だっただろうか。どこかで、あの透ける翅の儚い昆虫は幼虫の頃に砂の中で蟻の内臓を吸って育つと聞いたような、聞かなかったような……

「お前はここで待て」

言って、真神は店のドアに進んでいく。ちなみに、待てと言われて待つ刑事は居ない。当然、俺は真神の後を追った。

「……晩飯が食えなくなっても知らんぞ」

真神はそっとドアを押した。
カラカラとチャイムが鳴る。足を踏み入れると、背後で静かにドアが閉まった。薄暗い店内に客の影はなく、一人のバーテンらしい女がカウンターに立っているだけだ。

「いらっしゃい」

しっとりした声で、女が言う。空調の設定ミスだろうか。店内は肌寒さを超えて寒い。まあ、鍛えている俺にとってはこの程度の寒さ、屁でもないが。

「13人のニンゲンで一番美味かったのはどいつだ?」

入店し、開口一番に真神が言った。

「おい、真神。一体何を」
「馬鹿刑事は黙って居ろ」

天井からぶら下がるペンダントライトが、風もないのにゆらゆらと揺れる。ちらちらと動く仄暗い光が、不気味な男の横顔を照らした。
この不気味さには見覚えがある。あの日、あの夏の日に、こいつが鬼一を迎えに来たときの記憶だ。

「……お客様、一体何の話をされて」
「御託はいい。お前、わかっているだろう?私が何なのか」

長い前髪で目元が隠された女の薄い口元が、妖艶な笑みを浮かべた。

「……きっと、“14人目”が一番美味い」
「お前も馬鹿か」
「馬鹿はお客様の方では?なぜニンゲン風情の味方をする。気が狂ったのか?」

女の造形が、沸騰していくようにブクブクと変化する。肥大化していく。その影がバーカウンターを埋める程になったとき、ふと、姿が消えた。

「え?!」

俺は何が起きたかわからず、横に立つ男を見やる。男は、真神は、何やら少し不機嫌そうな顔をしていた。

「私はニンゲンの味方などではない」

「眼々の味方だ」それを聞いた後、とうとう現実に認識が追い付かなくなった俺の五感から聴覚がログアウトした。無音の中、一瞬、真神の顔が獣のそれになったように見えて、そして消えた。

「は?!おい、真神!どこだ!」

誰も“見えない”その場所で、テーブルがひっくり返り、椅子が粉砕し、酒瓶が割れて中の液体が飛び散る。何かが動く空気の流れを感じるが、そこには何も在るように見えない。

「真神……おい……」

数十秒の出来事だった。1分も経過しないほどの短い時間。「おい」と声がして、店の奥を見やると床を見下ろして立つ真神の姿があった。

「真神?」
「この下だ」
「……何が?」
「13人」

床を指さす真神の手の甲には、女に引っかかれたような傷ができていた。

****

本部に連絡をして、バーの床板をこじ開けた。

「うっ……」

そこには2メートル四方くらいの穴があって、“13人”だったものが詰め込まれていた。
Antlionの幼虫、蟻地獄は、砂の穴に潜み、獲物を捕まえるとその体内に内臓を溶かす体液を注入する。そしてすっかり溶けた内臓を、ちゅーちゅー吸って食事をするそうだ。そうして中身を失った外皮は黒く変色し、蟻地獄はそれを巣の外に捨てる。
このこととバーの名前とが、どう関係しているかはわからない。俺が見たバーテンらしい女は、その後捜索したが見つからずに終わった。それからしばらく、俺はまともに肉を食うことができなくなった。

****

勤務時間などとうに過ぎていたので、職場に戻ることはしなかった。けれど、13人の成れの果てを目撃したこのテンションで帰宅したところで、待っているのは娘の「ウザイ」という言葉。さすがの俺でも、それを耐えきる自信は今現在まったくない。従って、苦肉の策として俺は雑居ビルの事務所に行くことを決めた。

「ただいま」

そしてソファーに座って休んでいると、ありきたりな言葉と共に鬼一眼々が入室してきた。

「平塚?」

常人離れしたこの女の普通染みた言葉ほど面白いものはないけれど、今の俺にそれをからかう余力はない。

「おお、鬼一。邪魔してるぜ」

普通の大学生に扮した鬼一は本当に大学生で、こんな仕事をしていながら某難関大学を首席で卒業した後に院に進み、今は博士課程の2年だか3年だからしい。こんなやつが高学歴を背負っていずれ一般社会に出ていくのかと思うと世も末だ。

「狼、何かあった?」
「おかえり、眼々。特に何もない」
「……そう?」

真神はさっきまでとは180度角度が変化して、献身的なボディーガードの顔をしている。

「まあいい。これ」

鬼一は問うておきながら俺に興味がないようで、早々に話を切ると、一枚の紙切れを真神に渡した。

「帰りに花形の手下と会った。依頼だ。明日行くよ」

日常のように、友達の1人を話すように鬼一が出したその名前は、この近辺を仕切っている暴力団幹部の名だ。今日は警察が持ってきた仕事をして、明日は暴力団が持ってくる仕事をする、こいつらは警察も暴力団も手を出せない領域で商売をしているのだろう。絶対的中立であり、絶対的不可侵領域。こいつらが何なのか、俺は経験をもって知っているけれど、理解を常識が拒絶する。

「なあ、お前らってさ、」

問おうとしてやめた。あの夏の日の少女の真実さえ、俺はまだ知らないから。

「……なんだい、平塚」
「いや、やっぱ何でもねえ」
「恥ずかしくて聞けないなら、うちが問いの内容当てようか?」

疑問形で話しておきながら返答を待たずに観察による情報収集を始める鬼一を見て、俺は勢いよくソファーから飛び起きた。たった今考えていた、少しポエムじみた思考を当てられたら未来永劫真神にいびられる。

「おい、そんなことにとんでも推理使うんじゃねえ!」

一部の代償

俺が鬼一眼々と出会ったのは、8年前の夏の日だった。いや、出会ったというと少し語弊があるかもしれない。厳密に言えば“目撃した”だ。
東京のとある路地裏で、まだ少女の面影を残す彼女はチンピラ風の男3人と相対していた。男たちは明らかな敵意を見せていて、今まさに彼女に害をなそうとしているのがわかった。当時、20歳そこそこで既に裏社会でデビューしていた俺には、それがわかった。
そこは俺の兄貴分が管轄するエリアだった。ヤクザなどということをしながら正義感が強く、曲がったことが嫌いな兄貴分に倣って、俺には彼に似た正義感が既に培われていたから、大の男3人が少女1人をいたぶろうとしているその現場に、俺は分け入っていこうと一歩踏み出した。
瞬間、血肉が飛び散り、断末魔の叫びを残して男たちは“挽き肉”になった。

「……は?」

少し離れたところに居た俺は、その瞬間、何が起こったのか理解できなかった。今でもそれはよくわからない。ただ、その様子を見ていた彼女が、鬼一眼々が、その仄暗い眼に笑みを浮かべていた景色を今も鮮明に思い出せる。狂気というには劇的で、恐らくどんな言葉でも表現できない、ヒトの深淵の感情を見たような気がした。

「      」

そして彼女は俺の存在に気付いて、こちらを向いて何かを言った。それが何だったのか、俺はもう思い出せないけれど、きっとそれは狂気と憎悪と絶望を混ぜたような色をしていたと思う。

****

「花形敬暉」

夏でもないのにこんな過去を思い出したのは、恐らく今日、このとき、鬼一眼々と会う約束をしていたからだろう。交差点のスタバ前で立っていると、いつの間にかやって来ていた眼々が傍らでこちらを見上げていた。

「……なぜいつもフルネームで呼ぶんだ」
「“花形サン”が往来を歩いていたらコトだからね」
「相変わらず、変な気遣いをするんだな、眼々」
「“変”の定義がうちには理解不能だ」

俺から見るととても小柄な、日本人女性の平均よりやや低い身長の彼女は小首を傾げた。俺は彼女の周囲にいつもお目付け役のように付いて離れない男の影を探したが、あの黄色い瞳は見つけられなかった。

「狼なら、ここに来る途中にはぐれたよ」

俺の意図を察してか、眼々は言う。いつだって彼女は気味が悪いほどに察しが良い。

「はぐれた?」
「ああ。まあ、正確には人ごみの中で私が狼からはぐれて、仕方がないからそのままここに来たわけだが」
「連絡しなくていいのか?」
「スマホを事務所に忘れた」

彼女は完璧な頭脳と人知を超えるものへの理解を兼ね備えている。それだけの人間ならば、恐らく俺たちは彼女に対して恐れを成していただろう。しかし、そうならずにこうして交流をもっているのは、きっと彼女の抜けている部分を知っているからだ。

「時間だ。行こう。今日はどんな要件だ?」
「……真神を待たなくていいのか?」
「どのみち、彼はこの待ち合わせ場所を知らない」
「……じゃあどうやって合流する気なんだ?」
「さあ?」

真神と彼女がなぜ一緒に居るのかは知らないが、彼らと出会ってから8年、真神が彼女に対して抱いている感情には何となく見当がついている。俺でも見当がつくその感情を、しかし眼々本人は知らないようだ。他人に対しては察しが良いのに、いざ自分のことになると常人以上に鈍感だ。こうやって気にされない真神を見るたびに、さすがの俺も彼に対して同情する。可哀想な気がする。

「……今日は俺の兄貴分の用件だ」
「兄貴分?」
「中田勇作。前に会った筈だぞ」
「興味のない相手はすぐ忘れるから知らない」
「……そうか」

彼女の中で、人類は恐らく2つに分類されている。面白いものと、そうでないもの。前者は興味の対象として彼女に記憶されるが、後者はきっと短期記憶にすら留めてもらえないのだろう。きっと後者である大多数の人間を思うと、辛うじてでも前者に分類されている真神や俺は幸運なのだろう。それはつまり、俺にも可能性があるということだろうか?いつも共に過ごしている真神と同じ土俵に居るということだろうか?

「じゃあ、行くか」

俺は路駐していた車のカギを開け、いつも真神がしているように助手席の扉を開いた。

「乗ってくれ」

そして彼女が乗ったのを確認して、いつも真神がしているように静かに助手席の扉を閉め、反対側に回って運転席に乗り込む。少しの優越感を感じながら、俺は車のエンジンをかけた。

****

中田勇作、40歳、身長はそんなに高くないが、鍛え抜かれた身体は実際のサイズより大きく見える。ゆえに、眼々が近くに行くと2人はまるで親子のようだ。

「うちの家系は代々、18になると身体のどこか一部を失くすんだ」

中田勇作の事務所に着くと、武装した彼の部下に迎え入れられた。壁際で1列に並んでいる彼らを前にすると、普通の人間だったら恐れおののき、表情がそれなりに変化するだろう。しかし、そこはさすが眼々と言ったところ。その圧巻に全く動じる様子はなく、眼々は中田勇作と握手をした。

「まあ、座ってくれ」
「ああ」

……敬意を払うつもりも彼女にはないらしい。

「で、一部を失くすとは具体的にどのように?」

脚を組みながら眼々が言うと、中田勇作は左肩にぶら下がる義手を外した。

「こんな風に」
「いや、結果を問うているわけではない。過程を説明願いたい」
「突然消えるんだよ。俺の父は大腸、弟は耳、祖父は眼球だった」
「歴代の失われた箇所に規則性や共通性は?」
「ない」
「そう」

ぼそぼそと呟くように眼々は会話をすると、出された紅茶に何の躊躇いもなく口をつけた。いつもだったら、過保護なお目付け役が毒見をしてから渡しているところだ。俺は毒見の時を見計らって彼女の背後に控えていたというのに、とんだ肩透かしを食らった気分になった。

「で、君は私に何をして欲しいんだ?」

カップをテーブルに戻し、彼女が問う。

「俺の息子が今日、18になる。あいつは18年前の16時23分に生まれた」

眼々が腕時計を見る。中田勇作が言う時間まで、あと6時間。

「身体は時間まで正確に、その瞬間に奪われる。それを守ってほしい」

中田勇作が言う。正義感が強く、曲がったことが嫌いな彼は、眼々に対して頭を下げて見せた。

「頼む」

少しの瞬間、その後。俺は見た。
眼々が中田勇作を見て、その向こうの誰もいない空間を見て、そしてかすかに口角を動かす様を。その表情は、あの夏の日の彼女に似ていた。

****

「原因を排除する様を見たいなどと、君の兄貴分はまた面倒なことを言うね」

中田勇作の事務所の一室。準備をすると言って人払いをした眼々は、床に油性ペンで何やら模様を描き始めた。中田勇作はその怪奇現象を目に見えない何か、要するに幽霊や妖怪の類の仕業だと思っているようだったが、しかしそれが見えないままにことが解決することを拒んだ。自分の目で見て解決を見届けたいと、彼は言った。

「目に見えない何かの存在を肯定しておきながら、見なければ納得できないとでも言うのか」
「まあ、普通だったらそうだろう」
「“普通”の定義がうちにはわからない」

眼々が描く、その模様は部屋の半分に至った。ドアの対角線にある窓。その下から半分の床を、奇妙な模様が覆っている。眼々は油性ペンに蓋をして立ち上がると、ポケットから小さな紙切れを取り出した。

「これに書かれているものを買ってきて」

そういってこちらに差し出された紙切れには『岩塩、水(鉱水)、筆ペン』と書かれていた。

「時間が無い。30分で戻れ」

眼々は腕時計を見て呟く。俺はとりあえず近所のショッピングモールに向かって走り出した。

****

「眼々、」

メモにあった物を購入し、彼女が謎の模様を描いた部屋に戻る。戻ったぞと言いながら扉を開けようとして、中から声がするのに気付いた。

「おいおい、そこに入ると見られてしまうよ?」
「……たら呪ってやればよい。所詮ニンゲンなど、羽虫ほどの力も持たぬ弱きモノよ」
「随分な言いようだな。じゃあうちと勝負してみる?本当に人間が弱いかどうか確かめてみるといい」

そっと扉を開けてみると、そこでは眼々がパイプ椅子に座って、模様の描かれた床の方を向いていた。その床、模様が描かれた床には、これまでに見たことのない姿のものがいた。

「な、何だお前は!」

思わず怒鳴っていた。一見すると、着物を纏う小柄な老人。しかしよく見ると、3つの眼球は抜け落ち、腕は原始的なサルのようで、肉食獣のような牙をもち、剥き出しの足は骨だった。そんな、醜い造形のものが、眼々が描いた模様の上に立っていた。

「見タナ、ニンゲンの子供……」

俺の声に気づくと、それは誰かの叫びを纏って巨大化していく。こちらを向き、ひたひたと歩き出す。

「うわっ!」

憎悪のような、悲しみのようなものを、それは纏っていた。俺は咄嗟にナイフを取り出した。こんなものが役に立つかはわからなかったが、初めて見る異形の存在に、俺はすっかり思考を失っていた。

「見てないよ」

瞬間、誰かの手によって視界が閉ざされた。窓際のパイプ椅子に座っていたはずの彼女の声が近くにあった。これはきっと、彼女の手だ。

「見タ、見タ」
「見てない。でも、そこに居たら見られてしまうかもしれないから、早くどこかへ行きな」
「ミラレル、ヤダ、ミラレルハヤダ」

視覚を失った中で、俺を恐怖させた感覚が霧散するように消えていくのを感じた。少しして、俺の目を覆っていた手は離れていった。

「危なかったね」

傍らには眼々がいて、そういうと俺の手にある袋を取り、何もなかったかのように椅子の方へ戻っていった。

「眼々、今のは……なんだ?」
「さあ?」
「さあ、って」
「うちも知らない」
「知らない?」
「そう。知らない」

眼々は袋を椅子に置き、中身を確認すると、握りこぶし大の岩塩を手に取った。瞬間、それは彼女の手の上で1センチ程度の欠片に割れた。彼女はそのひとかけらをペットボトルの水の中に居れ、蓋を閉めるとがしがしと振り始めた。

「そろそろ始める。あの男と息子を呼んできて」

彼女の足元では、床の模様の上に菌糸のような植物が生え、小さな顔がいくつもこちらを向いていた。時計を見ると、針は16時13分を示していた。いつの間にか時は経ち、窓からは夕焼けが射し込んでいた。

****

「ここに立って」

眼々が示したのは模様の描かれた床の中心だった。中田勇作の息子、中田雄二は明らかに怯えた様子で、きょろきょろと辺りを見回しながら彼女の指示に従った。

「あと4分だ」

デンマークのデザイナーが作ったという、文字盤の色の配分で時刻を示す腕時計を見て眼々が言う。彼女は時刻を確認するとその時計を右腕から外し、そこに筆ペンでなにやら文字のようなものを書き始めた。

「大丈夫なのか?」
「問題ない。すぐに終わる」

文字は彼女の腕を一周して、手の甲に尻尾を置いて終わった。

「ひとつ、確認しておきたい」

眼々は筆ペンを俺に渡すと、中田勇作の方に向いた。

「依頼は、君の息子の一部を奪われることを阻止する、ということで間違いないか?」

そして彼女が発したその問いに、俺は前にもこんなことがあったのを思い出す。
彼女が今回のような怪奇現象を解決する場には何度か立ち会ったことがある。彼女は“依頼を”必ず完遂する。だがそれは、必ずしも依頼人を助けるものではなかった。結果として依頼人に不幸が生じるとき、彼女は決まって、直前に依頼内容を確認する。

「ああ。間違いない」

今までの、俺とは無関係な人間とは違う。今回の依頼人は、俺が慕ってやまない俺の兄貴分だ。彼に俺は、何かが起こると伝えるべきだ。そうする、べきだ。

「……そう。わかった」

しかし俺は何も言わなかった。それについて複雑な理由はない。ただ、俺の精神が“普通”の行いを拒絶した、それだけの話だ。『“普通”の定義がうちにはわからない』彼女の言葉が、脳内にこだました。

「来た」

ぼそりと呟くと、眼々は岩塩を溶かした水を右手にかけた。腕の文字が滲んで、黒い水滴が床に散らばった。彼女がその手を中田雄二に伸ばすのと、彼に近づく魔物が床の模様の上に入り、可視化するのとはほぼ同時だった。

「……ミタ、ナ」

それは、俺がさっき見た着物を纏う老人のようなものだった。さっきよりは大きく、四つん這いになって動くその高さは成人男性の平均身長と同じくらいの高さだった。それは口からどす黒い息を吐き、外向きに生えた牙からは死体のにおいがするような気がした。

「メ、ホシイ、メ、アイツニ、アゲル」

四つん這いの前脚が、雄二の顔に伸ばされる。

「うわあ!」

雄二が悲鳴を上げる。逃げようとして尻餅をついた雄二に対し、眼々はしゃがみ込むと彼の眼球にそっと触れた。黒い水滴を垂らす右手の指で、そっと。

「これはあげられない」

不思議だったのは、息子を助けてくれと頭を下げた中田勇作が、その息子の悲鳴を聞いても動じなかったこと。

「アア、メ、ドコ」
「もうないよ。だから帰りなさい」
「アアアア」

恐らく、清めやらなにやらの一種だろう。眼々が触れた雄二の目は、もうその化け物に認識されないらしく、目的を失った化け物は少しの間あたりをきょろきょろと見回したあと、すっとどこかに消えていった。

「もう大丈夫だよ」

眼々は立ち上がると、尻餅をついたままの雄二を見下ろして言った。

「良かっ」
「おい!」

全てが終わったと思った瞬間、声を上げたのは中田勇作だった。

「早くあの化け物を殺せ!」
「なぜ?」
「あの化け物が犯人なんだろう?だから殺せ!」

息子の危機にも動じなかった男が、錯乱気味に言う。

「依頼は、君の息子の一部を奪われることを阻止する、ということだけだった。手段の指定はなかった。これでもう彼の目が盗まれることはない。依頼は完遂された」

彼女が淡々と述べるあいだ、男は「殺せ、殺せ」と何度も繰り返していた。
やがて、何らかの異変に気付いた様子の男は、自身の両目を手で覆ってふらふらと歩き出した。

「やめろ、嫌だ、これは俺の目だ、俺の……」

瞬間、模様のない床の上に血が散らばり落ちた。男は、中田勇作は、両目から血を流して倒れて、それっきり起き上がることはなかった。

****

「未来の中田勇作が、あれに過去から身体を持ってくるように命じたんだよ」

エレベーターの無い5階建ての雑居ビル。その3階にある事務所で、眼々は真神狼が淹れた少し薄いコーヒーを飲みながら言った。

「ずっと前の親族から順番に、一つずつ。彼の目算では、自分たちに至る前に揃うはずだったんだろうね」

ソファーに座る彼女の横には、恨めしそうにこちらを睨み付ける黄色い眼がある。

「自分が奪われたのは誤算だったんだろう。だからあれを消そうとして私に依頼した。未来は予定調和の姿をしていたから、あれを消せばその姿が確定されるとでも思ったんだろう」

難解な言い回しをする彼女の言いたいことはつまり、こういうことだろう。生まれながらに多大な肉体的欠損を抱えていた中田勇作は、現実と虚ろとをさ迷う中であの化け物と出会った。彼は古い自分の血筋から順に一つずつ奪い、自身の身体としていくことを願った。そしてあの化け物は次元をさ迷い、それを実行した。
それが成された未来に位置する、俺たちの知る中田勇作は、その契約の瞬間、五体満足な姿になったのだろう。他でもない、その身体が過去の自身や息子から奪われたものだとも知らずに。そしてそれは、彼の息子から両目を奪うことで完成する筈だった。しかしそれは成されなかった。結果、完成された身体から両目が失われるという結果に至った。と、いうことだ。

「それにしても、狼、君はどうやってあの場所を嗅ぎ付けた?」

眼々にとって中田勇作は誰でもないただの通り過ぎてしまう存在でしかない。そしてそれは終わった。だからだろう。彼女は完全にそのことに対する興味を失ったようで、代わりに少しの疑問を自身の隣に投げかけた。問われた真神狼は少しだけ誇ったような顔をして、しかし、彼女が問う瞬間を思い出したのだろう彼はすぐさま不機嫌そうな表情をした。俺は彼が思い出したものを回想する。

**
あの時、両目を失った中田勇作を前にして、彼の部下達は狼狽し、恐怖し、そして眼々に対して憤怒した。

「てめえ!勇作さんになにをした?!」

一瞬だけ静寂に包まれたその部屋は、状況を理解した彼の部下たちの怒号にあふれた。当然、その全ては彼女に向けられていて、ナイフやら鉄パイプやらを取り出した男たちは、小さく華奢な彼女ににじり寄った。

「別に。うちは何もしていない」

一般的な人間であったら恐怖するだろうその状況においても、彼女は極めて冷静だった。冷静に、無感動に、無情に。彼女が佇む床の模様には透き通った奇妙な植物がたくさん生えていて、その蔓は彼女の足に絡みつき、奇怪な姿をした獣が彼女の背後から男たちを空虚に見つめていた。

「この男が愚かだっただけだ。自身の置かれる境遇を知りもせず、その身に余る望みを抱いた」

彼女は一体“どちら側の”ニンゲンなのだろう?そんなことを、俺は思った。

「ふざけんなあ!」

ひとりの男の叫びを皮切りに、男たちは各々手にした武器を振りかぶった。俺にはその情景がスローに見えた。歩みだす男たち。彼女は、眉一つ動かさずに、何かをしようと右手を持ち上げる。不吉なことが、なにか人知を超えた無慈悲なことがなされる。そんな気がした。

「お前ら!やめろ!」

彼らが死ぬ前に、彼女が人殺しになるまえに止めなければならない。そう直感した。その瞬間、

「貴様ら」

低い唸り声のような囁きが聞こえて、眼々の背後に目を向けると、そこには、どこからともなく現れた巨大なオオカミが鎮座していた。黄色い眼をした、土色の体毛を生やしたオオカミ。それは彼女を守るように寄り添い、武器を持つ者を威嚇した。

「これに一体、貴様らは何をしようとしている?」

人語を話すオオカミに、彼女の足元にあった不思議な植物は踏みつぶされていた。床の模様の上に、奇怪なものはもう見えない。そのオオカミを除いては。

「狼」

右手を上げかけた状態で止まっていた眼々は、そっと囁くように呼ぶとそのオオカミの顎の毛を撫でた。

「過保護だぞ、君」
「眼々」
「問題ない」

諭すような声色で彼女が言うと、オオカミは少し躊躇って、しかし受け入れた様子で模様の上から去った。オオカミの姿は、頭から順に消えていった。

「な、なんだ、あれ」

本能的な恐怖にさらされた中田勇作の部下たちは、一瞬ののちに腰を抜かして座り込んだ。

「ああ、あれはね」

眼々が、あの夏の日のような笑みを浮かべる。

「あれは私の半身だよ」

彼女が、上げかけた右手を持ち上げていく。季節はまだ、夏じゃない。

「眼々」

その右手は上りきる前に止まった。彼女を呼ぶ声が聞こえて、振り返ると真神狼が扉の横に立っていた。

「ああ、狼」
「何を一人でやっている」
「……別に」

眼々はいたずらが大人に見つかった子供のような顔をして、右手を下ろすと彼のもとに歩いていく。

「報酬はいつものところに。あと、説明が必要なようなら事務所においで」

それだけ言って、彼女はあの雑居ビルへと帰っていった。
**

彼女が発した「君はどうやってあの場所を嗅ぎ付けた?」という問いに対して、真神は少し考えたあとに得意げな顔になり、

「鼻を使った」

と答えた。

「狼、君……」

ドン引きという言葉がしっくりくる顔をして、眼々は真神から少し距離を置く。

「眼々?」
「寄るな。オヤジがうつる」

まるで小学生のような言葉。そんなものを発する彼女が口にした、「あれは私の半身だよ」という言葉を俺は脳内で反芻する。その意味を、彼女がもつ闇を、彼らの過去を、あの夏の日の言葉を考えて、しかし俺には何の答えも見いだせないことを思い知り、彼らに対して少しだけ畏怖した。

不可能図形の住人

つづく

不可能図形の住人

かつて神だった男と、全てを失った少女が出会って暮らしていく話

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 声をなくした男
  2. 0人目の子供
  3. 蟻地獄
  4. 一部の代償