世界の一週間
月曜日の朝、優衣は目を覚ましてすぐ、暗い気持ちになりました。今日の給食には大嫌いな酢豚が出るのです。
好き嫌いの多い優衣は、毎月こんだて表が配られると、すぐ覚えてしまいます。覚えたところでメニューが変わるわけではないのですが……みなさんが予防注射の日を忘れられないのと同じでしょう。
こんな日に限って、朝食はごはんとお味噌汁、そしておかずはほうれん草のおひたしでした。こんな葉っぱくさいもの、何がおいしいのかわかりません。
「お母さん、わたし、パンがいい」
「何言ってるの。わがまま言わないで、あるもの食べなさい」
「だっておいしくないんだもん」
「おいしいから食べてみなさい。ほら、かつおぶしとおしょうゆかけて」
優衣はかつおぶしとおしょうゆを、おひたしではなくごはんにかけて、おかかごはんにして食べはじめました。
「もう」
と、お母さんはため息をつきました。お母さんは優衣にたいして、あまり強い言い方をしません。
「ちゃんと野菜をとらないと、大人になってから病気になるぞ」
お父さんが言いました。お父さんも滅多に怒ることはありません。
優衣は返事をしませんでした。
(別にいいもん。大人になったら食べられるようになるかも知れないし。とにかく、今はいや!)
給食のことが気になって、午前中の授業はほとんど頭に入りませんでした。これだから嫌いなものが出る日は困るのです。
みんなにアンケートをとって、人気のあるものだけ出せばいいのに……と優衣は思っていました。「酢豚が好き」なんて言う子は、友達にもほとんどいません。みんなの好きなカレーやスパゲッティなら優衣だって喜んで食べます。
「いただきます」
日直が号令をかけました。目の前のお皿にはつやつやと光る酢豚が盛りつけられています。
優衣は酢豚の見た目も匂いも、たまらなくいやでした。どうしてお肉にお酢なんかかけるのでしょう?
「みんな、よく噛んで食べなさいね」
担任の畑中先生が言いました。畑中先生はお母さんやお父さんと違ってちょっと厳しい人で、どんなに嫌いなものでも一口は食べないと許してくれません。
牛乳で流し込むしかないのですが……実は、優衣は牛乳もあまり好きではないのです。
(なんで給食なんてものがあるんだろう?)
栄養なんかサプリでとればいいのです。嫌いなものを無理やり食べさせられる理由が、優衣にはどうしてもわかりませんでした。
同じ日、バングラデシュの男の子、カマールは、ガリガリに痩せた手でゴミ捨て場から芋のかけらを拾い、生のままかじりつきました。
火曜日、国語の授業中、陽斗はノートのすみに絵を描いていました。将来マンガ家を目指している陽斗にとって、漢字の書き順だの文法だのはどうでもいいことなのです。
陽斗の好きなマンガの主人公も、授業中は寝てばかりで、勉強はさっぱりできません。けれど、バスケにかけては超一流で、ジャンプ力なら誰にも負けないのです。あんな風になりたい、と陽斗は思っていました。学校の勉強なんかできなくたって、自分の好きなことで活躍できればそれでいいはずです。
高校生になったら出版社に「持ち込み」をして、すぐプロになる、という計画です。当然、大学なんか行くつもりはありません。
「変な絵」
いつかの昼休み、ノートをのぞきこんで言ったクラスメイトの言葉が、陽斗の耳の奥に残っています。その時、陽斗は黙ったまま、プロになることで見返してやろうと心に誓ったのでした。
ふと黒板を見上げると、主語とか述語とか、くだらないことばかり書いてあります。そんなこと知らなくても、ふだん喋るのに困ったことなんかありません。
無駄なのは国語だけでなく、算数もそうです。せいぜい九九ができればいいはずです。円の面積の求め方なんか何の役に立つでしょう。だいいち、今はパソコンで調べればほとんどのことはわかるのです。
社会だけは陽斗のお気に入りでした。先生がたまに面白いエピソードをくれるのです。「これはマンガのネタになりそうだ」と思ったことが何度かありました。
一方、理科の時間は苦痛でしかありませんでした。動物の身体の仕組みなど、どうして覚えなければいけないのでしょうか?
「どうして勉強をしなければいけないのか?」
納得できる答えを出してくれた大人は今まで一人もいません。だから陽斗は自分なりにこう考えていました。
(自分がやらされたから子どもにもやらせてるだけ。意味なんかない)
先週の漢字の小テストが返ってきました。まともに勉強しなかったので、点数は三十五点でした。先生が赤ペンで、
「次はがんばろう!」
と書いてくれています。がんばろうという気など、少しも起こりませんでした。
同じ日、ニジェールの男の子、ラミンは、貴重なノートを一枚やぶり、覚えたての字で両親に手紙を書きました。
「学校に行かせてくれてありがとう」
水曜日の夜、明莉は夕飯の後、歯ブラシを口にくわえたまま、居間でテレビを見ていました。歯みがきをしながらくつろぐのが好きなのです。
CMを見ている時、友達にメールで話したいことがあったのを思い出し、居間を出て、階段を上がっていきました。
「明莉、歯みがきしながらうろうろするのやめなさい。転んだら危ないでしょ」
階段の下でお母さんが言いました。
「うん」
明莉は口を閉じたまま返事をして、自分の部屋に入りました。
友達と何通かメールをやりとりし、ツイッターをチェックして、ついでに芸能人のブログを読みました。
それから、また居間に戻って、テレビの続きを見ました。しばらく見ていたのですが、あまり面白い番組ではなかったので、また部屋に行って、携帯電話と雑誌を持って戻ってきました。まだ歯ブラシはくわえたままです。
雑誌のページをめくっていると、お母さんが言いました。
「明莉、あんたまた出しっぱなしにして」
「何?」
「水。歯みがきしてる間は止めなさいって言ってるでしょ」
「うん」
うん、とは言ったものの、明莉にはお母さんの言いつけを守る気はありませんでした。しつこく言われると余計そうしたくなくなるのです。
友達から電話がかかってきて、長い歯みがきがやっと終わりました。
電話で話をしながら、明莉はお風呂の栓を抜き、新しいお湯を入れ始めました。お父さんが入ったあとのお湯になんて絶対につかりたくなかったのです。
その頃、ガーナの女の子、エクゥヤは、大きなバケツを持って、家から一キロ離れた井戸まで、その日三度目の水汲みに出かけていきました。
木曜日の夜、颯太はお父さんに一枚の紙を見せました。
「何だこれは」
お父さんは老眼鏡をかけて紙を見ました。
「もう六年生なんだから家の手伝いしろって言ってたでしょ」
「ああ」
「だから僕、考えたんだ」
皿洗い、五十円。風呂掃除、百円。おつかい、二百円。
「おこづかいくれるならやるよ」
「お前なぁ、家の手伝いはこづかいのためにやるもんじゃないだろう」
「だってお父さんは働いて会社からお給料をもらってるでしょ」
「そりゃ仕事だからな」
「家の手伝いは仕事とは違うの?」
「違う」
「何が違うの?」
お父さんはちょっと困った顔をしました。颯太はたたみかけるように言いました。
「ねぇ、何が違うの? なんで僕だけタダ働きしなきゃいけないの?」
「お前ももうすぐ大人だからだ」
「理由になってないよ。大人が働いたらお給料がもらえるのに子どもはタダっておかしいよ」
「わかった。じゃあ、毎月のこづかいをちょっと上げてやるから、それでいいだろ」
「いやだ」
毎月同じおこづかいをもらうのではなく、働けば働いた分だけお金がもらえる、ということが大事なのです。だから、こんな表まで作ったのです。
「じゃあ、手伝いなんかしないから」
と、颯太は遊びに行ってしまおうとしました。
「わかった、わかった。ちょっと待ちなさい」
しめしめ、と颯太は思いました。今まで、思い通りにならなかったことなんかほとんどありません。
「それにしても、この値段は高すぎる。皿洗いは十円、風呂掃除は二十円、おつかいは三十円だ」
「えー?」
いくらなんでも安すぎます。それではマンガだってろくに買えません。ゲームを買うとなったら一体どれだけ働けばいいのでしょう。
「ずるいよ。うち、ブラック企業?」
「だから、家の手伝いは仕事じゃないんだよ」
「仕事じゃないならやらない」
「しょうがないな。皿洗い二十円でどうだ?」
颯太は首を横に振りました。
「二十五円」
「五十円じゃなきゃやらない」
「よし、三十円から始めなさい」
「始めるって?」
「一ヶ月がんばったら上げてやるから」
颯太はしぶしぶ言いました。
「わかった」
学校の近くのコンビニに「アルバイト募集」のチラシが貼ってあるのを、颯太は通りかかるたびに見ていました。時給九百三十円。十時間も働けばもう一万円近くたまるのです。
早く高校生になってアルバイトがしたい、と颯太は思っていました。
同じ日、ペルシャの女の子、シャーディーは、じゅうたん織りの仕事を終えて、おかみさんからお給料を受け取りました。約束していたよりずいぶん少なかったのですが、くたくたに疲れていたシャーディーはもう文句を言う気力もありませんでした。
金曜日の昼休み、雨が降っていました。空良は教室で本を読んでいます。本の世界に夢中で、教室の後ろの方で起こっていることには気が付きません。気付いてないんだ……と、空良は自分に言い聞かせていました。
「ひでお菌ついたー」
「うわー、きったねー」
クラスメイトの秀夫は、いじめられていました。悪ふざけとはとても言えません。上履きを隠されたり机に落書きされたりということがしょっちゅうです。きっとクラス全員が「秀夫はいじめられている」と思っているでしょう。
けれど、止めようとする人は一人もいませんでした。空良も例外ではありません。
自分がいじめの標的になるのが怖い、というのもありましたが、それ以上に、秀夫はいじめられても仕方ない、という気持ちがありました。
でっぷりと太っていて、近寄ると嫌な臭いがします。髪の毛はぼさぼさでフケだらけ。勉強も運動も全然だめ。忘れ物は毎日。取り得は何一つありません。
本人が努力を(お風呂に入るとか忘れ物をしないとか)しないのだから、人に嫌われるのは当たり前だと、空良は考えています。いじめられたくなければ、まず秀夫の方が変わるべきなのです。
「ひでお菌、タッチ!」
本を読んでいる空良の肩に、誰かが触れてきました。他の誰かにうつせば自分は治る、というルールなのです。今、この遊びに乗らなければ、白い目で見られることになります。
ババ抜きのババではあるまいし、他の人にそっくりうつしてしまえる菌など、この世に存在しません。空良はそれを知っています。でも、そんなことを言っても白けるだけです。今はただこの「ひでお菌」を嫌がらなければならないのです。そして、本当にそんなものがあるなら、確かに嫌なのです。
「何だよー、やめろよー」
空良は本を閉じ、席を立って、笑いながら他のクラスメイトを追いかけました。
秀夫は自分の席に座って、大きな体をちぢこまらせてじっとしています。
(お前がいけないんだからな)
と、空良は心の中でつぶやきました。
同じ日、フィリピンの女の子、マリアは、お姉さんのジェニファーが病院で亡くなったと知らされました。小児肺炎という、うつる病気でしたが、「もっとそばにいれば良かった」と、マリアは一人で泣きました。
土曜日の午後、悠馬はリビングのパソコンの前にはりついていました。友達とチャットでおしゃべりしながら、オンラインゲームをしているのです。
「ごめん、今度からあんまり遊べないんだ」
「なんで?」
「ゲームは一日一時間って決められちゃってさ」
「マジで? 今どき?」
「そう、今どき、だよな」
「お前んちの親、古いなー」
「親じゃなくてじいちゃん。うち同居しててさ」
「あ、そうなんだ。そりゃ災難」
「本当だよ」
ゲームのやり過ぎは、目によくありません。勉強の時間が減れば成績も下がるでしょう。
けれど、そんなことより、おじいちゃんはゲームの内容が気に入らないんだと、悠馬は思っていました。悠馬が友達と遊んでいるのは、銃や戦車で相手と撃ち合うゲームなのです。
「戦争は遊びじゃない」
おじいちゃんはそう言いましたが、悠馬だってそんなことはわかっています。
確かに本物の戦争はゲームのようにはいかないでしょう。敵に撃たれるだけでなく、飢えや病気で死ぬこともあります。そして、死んだら終わりです。生き返ることは絶対にできません。
そういうことを、悠馬はよくわかっているのです。決して現実とゲームをごっちゃにはしていません。
おやつを食べながらできて、死んでも復活できる戦争なんて、現実にはあり得ません。そう、現実ではありません。これはゲームです。遊びなのです。
きちんと区別できているのに、おじいちゃんはわかってくれません。
「とにかく、クエスト行こうぜ。時間ないし」
「OK」
悠馬と友達は作戦を立てて、ゲームの中の敵を撃ちまくりました。
「よっしゃ、撃破!」
画面の中で大きな戦車が爆発して、悠馬は気分爽快でした。
同じ日、リベリアの男の子、ブアは、自動小銃を肩にかけて、軍用トラックの荷台で揺られていました。どこへ向かっているのか、ブアは知りません。わかるのは、やらなければやられるということだけです。
日曜日、畑中先生は電車に乗って、学校に向かっていました。プリント作りや連絡帳への返信など仕事がたくさんあって、休んではいられないのです。
日曜日ですが、車内は込み合っています。昨夜三時間ぐらいしか寝ておらず、先生は、吊り革につかまってうつらうつらしていました。
ある駅に着いた時、運よく座れたので、先生は少しでも睡眠を取ろうと、鞄を抱きかかえるようにして目を閉じました。
自分の前におばあさんが立っていることはわかっていました。本当なら席を譲るべきです。児童たちが見ているならきっと譲ったでしょう。けれど、今は一人で、何より眠くて眠くて仕方ないのです。
先生はまぶたを固く閉じました。
同じ日、ヤマノミ族の酋長、アリは、村の男たちに向かって言いました。
「エニセヨが怪我をして狩りに出られない。エニセヨの食べ物はみんなで取ってこよう」
男たちは何も言いませんでした。当たり前のことだと思ったからです。
(了)
世界の一週間