夏の冬眠

 夏になりまして、キミが眠る季節となりましたので、ぼくは海に泳ぎに行ったり、山に虫捕りに行ったりしますので、どうか途中で起きませぬよう、おやすみなさい。
 キミがなにかの拍子に夏も半ばで目を覚ましたとき、ぼくがいないと、キミは不安に震えるでしょう。ぼくの姿が見えないと、ぴいぴい泣くでしょう。キミってば、ぼくがいないと息をしていないも同然なのだから。ぼくはキミの呼吸器官です。眠っているあいだ、シーツや寝間着は都度交換してあげますから心配しなさんな。汗を掻くからね、夏は、なにをしていなくても汗を掻くのが、夏であるからね。
 それとキミ、今年はなにを枕元に置いてほしい。昨年は、うどんだったか。三食うどんが一週間続いても厭きないキミのことだから、眠っているあいだもうどんが恋しかろうと、スーパーマーケットで売っている袋に入った一食分のうどんを買ってきてあげたね。おかげでぼくは、夕食にうどんを食べる毎日で、うどんはもうしばらく見たくないよ。そういえば一昨年は枝豆だったが、あれは晩酌のつまみになってよかった。到底、売れそうにもない小説を書いて日々あぐねる傍ら、晩酌に缶ビールのプルトップを開ける瞬間ときたら、いやなことをなにひとつ忘れられるのだから、たまりませんなァ。海に潜ったときのあの、耳の中に膜が張る感覚も、蝉を捕まえたときの、蝉のからだのあの微妙な弾力感も、ぼくは好きなのですよ。
 ねェ、そういえばキミは、海で泳いだことも、山に虫捕りに行ったこともないのだよね、キミは。花火は、ぼくが、冬にやっている花火大会に連れていってあげたことがあるから、あの儚い美しさなんかは、覚えているはずだけれど。夏になると眠るキミは、夏の朝のみずみずしさも、日中のからだが燃えるような暑さも、暑さの名残で噎せ返る夕方の空気も、虫がさんざめく熱帯夜も、知らないのだよね。もったいないと思う。ああ、実にもったいない。
 さァ、キミ、そろそろ床に入る時季ではないのかい。
 もう間もなく、雨が上がる。そんな顔をするではないよ。ぼくはなるたけ、キミの傍にいよう。キミの眠る布団の傍で、キミのことを原稿用紙に綴ろう。どうせまた、世間様は認めてはくれないだろうが、キミは、キミだけは、ぼくの書く文章を好きだと言ってくれるのだから。秋になって目を覚ましたキミが、ぼくの小説を読んで楽しんでくれれば、本望であるのだから。
「おやすみなさい、キミ」
 布団を被り、目をつむったキミのひたいを、そっと撫でた。
 しろいなァ。しろい。
 かき氷の練乳みたいに、しろいキミ。
 今年はキミがうどんの次に好きな塩豆大福でも、枕元に置いておこうか。それからキミにすこしでも夏を感じてもらうために、蝉の標本でも作ろうか。かぶとむしも、いいかもしれない。海では貝殻を拾ってこよう。きれいな魚がいたら、水槽で飼っておいてあげるから。
 だからキミ、秋にはかならず、目を覚ますんだよ。いいね?

夏の冬眠

夏の冬眠

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-26

CC BY-NC-ND
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