夜明けのくじら

 ぼくは夜明けの頃に眠るから知っているけれど、夜明けの空にはくじらが泳いでいる。東から西へ、くじらは泳いでいく。ぼくは三時間しか眠らない人だ。新聞配達のおじさんは、またはおばさんは、もしくはお兄さんは、お姉さんは、勤労少年は、少女は、くじらを見たことがあるかもしれない。ラジオ体操をしているおじいさんも。
 そういえば、さいきん、くちびるに花が咲く。
 花の名前はわからない。花に興味がないから。美しいものを美しいと思う感覚はあるが、愛でる趣味はない。だいたい、花はくちびるの右端に咲くのであるが、眠って起きると枯れてしまう。人工着色料で色を塗ったような青い花だ。青い花であることを教えたら、キミは「水をあげたい」と言った。花が好きな人であった。
「たまには人間らしい生活をしなさいよ」
 石ころくらいの大きさの白い塊をやすりで磨きながら、キミはため息を吐いた。ぼくは、はんぶん眠っている。はんぶんは起きているから、キミの声を聞くことはできるが、はんぶんは眠っているから、キミの忠告は一向に身に染みてこないのである。
 ワニの歯を磨いて、お守りを作るのがキミの仕事で、ぼくは、主に本の表紙をデザインする仕事をしていて、夜明けの空にくじらが泳いでいる絵を描いたら、それが将来有望な若手小説家の新刊の表紙に選ばれて、その小説は異例のベストセラーとなった。内容はありきたりな、ひどくつまらないものだった。全体的にかぎかっこが多いと思った。すこしばかり浮世離れした女の子と、うだつのあがらなそうな地味な男の子が主人公の物語であった。地味な男の子の一人称なのだか、彼の言い回しがなんだか芝居がかっていて、読んでいて冷めた。くじらも、まるで関係のない内容であった。
 時刻は朝の六時三十分。いつもならば、ぼくはまだ夢の中である。いや、夢を見ているのかどうかもわからない。そもそもどこからが現実で、どこまでが夢かも判然としない。ぼくのくちびるに咲く花は夢か、夜明けのくじらは現実か。目の前にいるキミは現実のキミで、ワニの歯をせっせと磨くキミは夢幻か。
 きょうは、とつぜんキミがやってきたから仕方なく、眠かったがベッドから這い出た。ぼくのくちびるに咲く、青い花を摘みにきたのだったが、きょうはやや黒みがかっていて、あんまりきれいではなかった。けれどもキミは、ぼくのくちびるに咲いた花を摘みとり、それを目を細めて眺めた。花の根本からぷちっと摘みとられても、痛みは感じなかった。
「ねェ、キミのここにさ、花を描いてもいいかい」
とキミは、ぼくのあごを指さした。ぼくのあごに花を描く意図は不明であったが、好きにすればいいと答えた。ぼくは、はんぶん眠っていた。
 ぼくの仕事部屋から画材を持ってきたキミが、ぼくのあごに花を描く準備を始める。ぼくのあごに、何色の花を咲かせてくれるのか。いちばん好きな色が古代紫のキミのことであるから、紫色の花かもしれないと思った。
 そういえば夜明けの空が、紫色の日もある。くじらは、紫色の海を泳いでいる。
「摘んでおいてあれだが、キミは青い花が似合うよ。ぜひとも、ぼくが咲かせてあげたい」
 そう言ってキミは、ぼくのあごに絵の具をつけた筆をのせた。ひやりとしていて、気持ちよかった。

夜明けのくじら

夜明けのくじら

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-24

CC BY-NC-ND
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