銀河鉄道の修学旅行

1. バスの中で

 国立有川高等学校は、日本国内でも有数の進学校である。
 二十年前から始まった教育改革政策によって設立されたこの高校は、これまでの進学校とは大きく異なる一つの特徴を持っている。
 通常進学校とは、その名前の示す通り、上位の大学に進学することを目的として授業が組まれているのに対し、有川高校の教育方針はそもそも受験を目的としていない。
 このため一般科目の授業は、高度であるが時間数を最低限に抑えられていて、それ以外の多くの時間を大学や企業と連携した研修や見学会、果ては合同研究といった内容に割かれている。
 こうすることで、学生の段階から最先端の研究や急成長しているビジネスの現場に触れることが可能となり、通常の学生生活を送るよりもはるかに早く将来の働く自分をイメージできるようになっている。
 これを可能にしているのが「大学進学権」という、日本では唯一、有川高校だけが持っている特権だ。
 教育改革の目玉に掲げられていたこの特権は、簡単に言うと、指定の高校を滞りなく卒業した生徒に対し、一般的な受験を行うことなく、進学する大学を選ぶ権利を与える、という内容のものである。このおかげで生徒は受験というストレスから解放され、高校の段階から、自らの進路をじっくりと選ぶことができるのである。
 そういった特性から、有川高校の生徒は一年次から様々な研修会、見学会に参加することになる。中でも、一年に一度開催される「修学旅行」は、その規模も費用も、修学旅行という言葉からは想像できないほど大きなスケールで行われる。
 それは、ある時はアラスカの極寒の中を、オーロラを観測するために行軍したり、またある時は、ハワイの火山帯でマグマに囲まれながら、地質調査を行ったりしていた。
 そして本年度、有川高校の修学旅行はついに地球を離れ、宇宙へと活動の場を移すことになっていた。

「やっぱり男のロマンとしては、月面からのマスドライバーだと思うんだよ。せっかく地球から離れたところに居住区を作るなら、そこでしかできないことをやらないと面白くないだろ」
「それは確かに夢があるけどさ、どう考えたってまだまだ技術的な壁があるだろ。少なくとも、生活拠点の構想がもう少し定まってからじゃないと、シャトルの便利さを超えられないって」
 バスの後ろの席からは、明渡君と杉原君の議論が聞こえてくる。確か日本を出るときにも同じような会話をしていたはずだが、よくもまぁ話題が尽きないものである。
 今、私たち有川高校の一年生は、グアムからやや南東に位置する人工島の上を、大型バスでひた走っていた。この人工島は、地球上を周回する宇宙ステーション「ウラノス」へと、軌道エレベーターと言われる乗り物で移動するために作られた島である。
 宇宙開発をするための最初の大きなハードルは、まず、「地球をどう脱出するか」である。これまで一般的だったスペースシャトルの打ち上げでは、本格的に宇宙開発を行う場合、費用が高額になりすぎることが問題として指摘されてきた。そこで、人類の英知を結集して考え出されたのが、軌道エレベーターである。これは既存のエレベーターと同じような構造なのだが、これまでのものとは、とにかくケーブルの長さにおいて大きな違いがある。何せ、一本のケーブルを使って、地上と宇宙ステーションを行き来するのだ。
 建設は紆余曲折ありながらも順調に進み、軌道エレベーターの運用自体は、数年前から物資運搬のために開始されている。しかし、民間人の移動に使用され出したのはごく最近になってからだ。つい最近、某国の大統領が利用したということで、大きくメディアに取り上げられていた。それを踏まえて考えると、私たちのような普通の高校生に利用許可が下りたということが、いかに異例だったかよく分かる。
 そういう事情もあって、車内に耳を澄ませてみれば、明渡君と杉原君以外にも、宇宙談議に花を咲かせているクラスメイトが多数いることが分かる。
 加えて今回の宇宙旅行は、地球上空の宇宙ステーションに行って終わりではない。そこからさらに大型の宇宙船に乗り、月の周回軌道上に建設されている宇宙ステーション「アルテミス」まで、一週間近くかけて向かうというメインイベントが待っているのである。生徒の中に、にわか宇宙博士が多数誕生したのも、無理からぬことであった。
 ただ、私自身について言えば、この宇宙旅行を心から楽しんでいるとは、到底言えない状態にあった。
 何度も練り直した「ある計画」を携え、私はこれから、人生の中でも経験したことのない、大きな試練に身を投じなくてはいけない。
 車内の喧騒を聞くともなく聞きながら、心は、思惑の海に深く沈んでいた。

「……麻田さんはどう思う?」
 ぼんやりと外の景色を眺めていると、不意に名前を呼ばれた。隣の座席に座っている江藤さんに話しかけられたらしい。しまった、自分の世界に入り込んでいた。
「わ、私?え……、えっとそうね、うん、マスドライバーは技術的な課題もそうだけど、受け手側の安全性の問題もあるし、加速度が大きすぎて人の輸送ができないよね。月からの移動だけを考えるなら、手軽さで言ってもやっぱり軌道エレベーターが現実的かなって……、思うんだけど……、あれ?」
 話を進めるごとに、江藤さんの顔がぽかんとした表情になっていく。どうやら私は、話す内容を間違えたらしい。
「ご、ごめん、そういう話じゃなかった?ぼんやりしてて……」
 慌てて謝ると、江藤さんは活発そうな印象を与える顔に笑みを浮かべた。
「ううん、こっちこそ。あの二人ずっと話してるからね」
 そう言うと、後ろの席の明渡君と杉原君のほうを見る。
 江藤さんは、大きくてきりっとした目が印象的な、クラスでも一二を争うほど美人な女の子である。つややかで柔らかそうな髪はやや茶色がかっていて、背中にかかるぐらいの長さで切りそろえられている。陸上部で鍛えられた体はしなやかで、スカートからのぞく脚は、同性の私でさえ見とれてしまうほど芸術的であった。
 にも関わらず、本人には自覚がないのか化粧っ気はあまりなく、日焼けもそれほど気にしていない感じなのが、これまた好印象であった。
 しかし何の話だったのだろうと考えていると、「これこれ」と手元のパンフレットを広げて見せてくれた。そこには銀色の車輪のようなものが描かれている。それを見て納得がいった。修学旅行の全貌が明かされてからというもの、クラスの全員がずっと詳細を知りたくてたまらなかったものだ。
「このパンフレットってなんでこういうことしか書いてないんだろうね。重力がどう作られるかとか、推進力がどうとかなんてそんな詳しく書かなくていいのよ。みんなが一番知りたいのは、やっぱり客室だと思うんだけど」
 江藤さんはそう言うと口を尖らせる。
「確かにね。一度乗っちゃったら、外観や仕組みなんて乗ってる側からしたらあんまり関係ないし、やっぱり一週間も過ごすんだから、どんな部屋なのかってかなり重要よね」
 私たちが見ているこの銀色の車輪が、今回の旅行で最も長く過ごすことになる月地球間往復用の宇宙船、通称「銀河鉄道ハリー」だ。
 軌道エレベーターの最も大きな功績は、地球から宇宙空間へ出るためのコストを大幅に下げたことだ。スペースシャトルを打ち上げていたときは、一回の打ち上げで数百億円もの費用がかかっていたが、軌道エレベーターを使用すれば、その費用は五百分の一程度で済んでしまうのである。静止軌道まで出るには少し時間がかかるものの、そこまで出てしまえばあとは無重力の世界。推進力を得るだけなら、太陽光発電だけでも十分だ。
 さらに、宇宙船は地球上で飛行する必要がないわけだから、これまでシャトルタイプだった形状も変更可能だ。というか、無重力の世界を航行するのに、形などほとんど関係ない。そこである企業が、民間向けの宇宙旅行を計画するにあたり考案したのが、この銀色の車輪であった。操縦するためのコントロールルームは、車輪でいうと軸の部分にあり、この部分の両脇にはジェットエンジンのようなものが突き出ている。速度や進行方向はこれで調整するらしい。そして私たちが生活する部屋は、一番外側のタイヤにあたる部分にある。このタイヤ部分は常に回転し、外輪にあたる客室は、遠心力によって常に地上と同じくらいの重力が保たれるという仕組みらしい。
 さて、ここまで読んでも、いったい何が「鉄道」なのかさっぱりわからないが、その答えは、タイヤ部分の形状にある。通常、車や自転車の車輪は、軸以外のホイール部分とタイヤ部分が一緒に回る。しかし、この宇宙船では、タイヤ部分が連結された列車のような作りになっていて、ホイールの外側に敷かれたレールの上を走るようになっている。パンフレットではこのタイヤ部分を「客車」と称し、鉄道に見立てているわけだ。売り文句をそのまま使用させてもらうなら、「誰もが夢見た銀河鉄道が現実に!客室の内装はすべて高級寝台列車をイメージして作られており、旅の情緒に彩を与えます。他にも食堂車やトレーニングルーム、娯楽室などを完備。宇宙旅行に必要なすべてがここに」らしい。実際のところ、特に鉄道に見立てる必要はないわけで、もしかしたら単純にイメージ戦略の一つだったのかもしれない。
 一見意味がないように思えるこの仕様だが、売り出されるやいなや世界中で注文が殺到し、(けっこうな金額がするにも関わらず)即日完売となってしまった。これについては、いまだに私は納得がいっていない。長距離移動に寝台列車を使ったことがあるなんて人、この時代にどれだけいるというのか。父や母が「情緒的でいいよねぇ」なんて感想を漏らしていたが、いったいどんなイメージを抱いていたのか、見当もつかない。
 ただまあ、確かに宇宙旅行とはいえ、慣れてしまえば外の景色はずっと一緒だろうから、こういう趣向が凝らされているほうが、長く楽しめるのかもしれない。しかし問題は、一週間近く寝泊りする予定の客室の写真が、ほとんど公開されていないことであった。
 つい最近某国の大統領が乗った、と言った通り、軌道エレベーターを人の運搬に用いるようになったのは少し前からだ。したがって、宇宙ステーションから出発する銀河鉄道も、まだ一般への運用はされていない。即日完売したチケットというのは、私たちが無事に地球に帰ってきた後に出発する便のものなのだ。私たちが乗る段階では、ほとんどテスト運用じゃないか、と訝しく思ったものの、そういう事情があったから、特例的に許可が下りたのかもしれない。何より、こんなチャンスは今後二度とあるか分からないということで、一部の慎重論は抑え込まれてしまっていた。また、そういった事情ゆえに銀河鉄道の内部はほとんど公開されておらず、私たち(の、主に女子)は期待半分、不安半分という状態で、旅行に向かうことになったのだった。
「高級寝台列車って言われてもイメージわかないよね。アンティークって感じなのかな?写真だとけっこう広そうに見えるけど」
 江藤さんはパンフレットに一枚しかない客室の写真を、目を細めて覗き込んでいる。見る角度を変えていけば、写真であっても部屋の隅まで見渡せると信じているかのようだ。私も一緒になって写真を覗き込みながら、少ない知識でコメントする。
「私もテレビや映画でしか見たことないけど、寝台列車って狭いイメージよね。こう、二段ベッドが部屋にぴったりと並んでて、上の人は天井に頭ぶつけちゃう、みたいな」
「そんな感じだったら嫌だな……。いや、案外みんなでワイワイって感じで楽しいのかな?あ、でも見て、写真の部屋がスタンダードルームってなってるから、少なくとも二段ベッドではなさそう」
 ちなみに江藤さんは私の中で、クラスで話しやすい人第一位にランクされている。高校一年の六月と言う変な時期に編入し、しかもそのすぐ後に修学旅行に行くことになった私は、まだクラスにほとんど友達と呼べる人がいない。もともと人見知りだったのと、今回の修学旅行への気負いから、積極的に友人を作ろうという気持ちになれなかったのだ。
 江藤さんとは名前が近いこともあって、班分けなどで一緒になることが多かった。グループでの授業が多い有川高校の特色もあって、自然と言葉を交わすことが多くなり、いつしか普通にしゃべれるようになっていたのだ。もちろん、江藤さん自身の持つ、誰とでもすぐに打ち解けてしまう人柄も大いに関係している。もしかしたら、友達、と呼んでも差し支えないかもしれない。幸い、今回の修学旅行でも同じ班だ。
「そういえば、あとどれくらいで着くんだっけ?」
 江藤さんに言われて腕時計を見る。今は正午十分前だ。これからのスケジュールでは、軌道エレベーター発着場に着いてから昼食、午後一の便でいったん宇宙ステーション「ウラノス」に移動したのち、十七時頃に銀河鉄道「ハリー」に乗り込むことになっている。
「たぶんあと十五分もかからないんじゃないかな?ほら、向うに見えてる建物がたぶんそうじゃない。うっすらとだけど、エレベーターのケーブルみたいなのも見える」
 そう言って私が指差した方角には、木々の間から、一際大きく、背の高い建造物が見え隠れしている。空港からバスでおよそ四十分、この島の西側に建つ軌道エレベーター発着場は、だいたい東京ドーム十個分ほどの大きさがあり、そのほとんどが倉庫で占められている。この人工島は浮島で、地上に建設できる建物の重量が限られている。このため、本来の目的である「物資の輸送」を効率的に行えるよう、余分な施設はほとんど作られていないのだ。
「そっか、確かにそう言われれば、ケーブルがつながってる先が発着場だもんね。空港を出た時からうっすら見えてたけど、近くで見るとやっぱり不思議。先が見えないって、すごく変な感じ」
 江藤さんの言葉に私も頷く。今までにそういうものを見たことがないからか、「先が見えないケーブル」というものの存在を、どうも受け入れることができない。軌道エレベーターを、「天使の梯子」「蜘蛛の糸」などと表現する人がいるように、どうもその先にあるところが、私たちが行っていい場所ではない気がして、漠然とした不安を抱いていたのだ。
「私もそう思う。どんな建物でも、先が見えないってことがないからなのかな。なんか現実感がないっていうか……」
「うん、頭では理解してても、全然実感ないよね。CGですって言われたほうがまだ納得できる」
 しかも、これからあれを伝って宇宙空間まで飛び出すというのだ。もちろん勉強はしてきたから、原理も安全性も知ってはいる。しかし、人間なかなか、それだけで身をゆだねる気にはなれないものだ。
「今の段階でそんなこと言っててどうするの。これから一週間後にはアルテミスだよ。地球から三十八万キロメートルだよ」
 さっきまでの話を聞いていたのか、急に明渡君が割り込んできた。声がしたほうを振り向くと、さっきまで一緒に喋っていた杉原君も、こちらを見ている。明渡君は身長が高く、高校一年生ですでに百八十センチメートルを超えている。色白で面長な顔は優等生然としていて、実際の成績も見た目に違わず上位をキープしている。私が見る限りは、だいたい誰とでも楽しそうに会話をしていて、感情が下側にぶれることが少ない人、というイメージだ。教師陣にも気に入られている印象がある。
 ちなみに明渡君と杉原君は私たちと同じ班なので、これから何かと一緒にいることが多くなる。幸い二人とも、こちらに関係なく勝手に盛り上がってくれるタイプなので、私としては安心だ。ちょっと理屈っぽいところに注意しなければいけないが。
「うーん。なんか、そこまで行っちゃえば逆に大丈夫な気がするのよね。想像できることの外に出ちゃうと、怖いって感じないと思わない?それに三十八万キロって言われても、たぶん実感できないから、遠くに旅行したのとあんまり変わらないんじゃないかな」
 江藤さんはマイペースだ。
「そう思えるのに、なんで軌道エレベーターはダメかな?言っちゃえばただの長いエレベーターじゃん」
 明渡君も引き下がらない。
「確かにそうだけど、なんていうか、これは感覚の話よ。理屈は分かっても、ダメなものはダメ。杉原君は分からない?」
 江藤さんも困ったのか、杉原君に話を振る。
「まぁ……、分からないことはない、かな。ハリーとかアルテミスは、まだファンタジーなんだよ。それに比べたら、軌道エレベーターはずっと現実だ。現実的なほうが怖いってのは、人間の性じゃないの」
 杉原君は明渡君に比べると標準的な背格好だが、水泳部で鍛えて引き締まった体に、日焼けした顔が精悍な印象を与える。あまり饒舌ではないし、割と聞き役に回っていることが多いので目立つ方ではないが、彼がしゃべると周りはなぜか納得してしまう。そういう不思議な雰囲気を持った男の子だ。
「またそういうこと言って。構造を考えたら、ああいう風になるの当たり前だろ。人類は自らの知識をもって恐怖を克服してきたっていうのに、感覚で怖いって言うのはまさに退化だよ」
「そういう風に割り切れるのはお前くらいだよ。それよりほら、たぶんもう着くぞ」
 杉原君に促されて窓の外を見ると、つかの間木々にさえぎられて見えなくなっていた発着場が、思わず近くに迫っていることに驚く。遠くからではよくわからなかったが、ケーブルは一本ではなく、並列に二本並んだものが一セットで、それがさらに三セット設置されていることが確認できる。思ったより細いんだな、と思ったそのとき、
「うお」
「あ」
一番右端のケーブルを伝って、建物からカプセル形の物体が姿を現した。あれがエレベーターの本体か、と思う間にカプセルはどんどん加速し、姿が見えなくなっていく。
 思っていたより全然速い。
 あんなスピードで登っていくのかと思うと、不安は余計に大きくなる。
「はやー……」
「もう見えないや」
 それは一瞬の出来事だったが、目撃したみんなからは口々に感嘆の言葉が漏れる。地球から脱出するという実感が、今更湧いてきたのか。興奮した声が車内に広がる中、バスは速度を落とし、発着場の駐車場へと入り込んでいく。
 私もそろそろ、覚悟を決めなくてはならない。
 こうやってみんなの中にいると、つい自分が普通の女子高生として、旅行を楽しんでしまいそうになる。それが悪いというわけじゃないが、来るべき時に備えて、気を引き締めておかなければならない。
「そういえば……」
 声に気づいて隣を見ると、カプセルが消えていった先を、江藤さんがぼんやりと眺めている。
「蜘蛛の糸だったら、こっち側は地獄だよね。この先は、天国かな」
 いつもの彼女に似つかわしくない言い方が妙に印象的で、私はしばらく、その横顔を見つめていた。

2. 梶原という男

「皆さん、初めまして。私はこの発着場で皆様のガイドをさせていただきます、本条と申します。エレベーターが離陸するまでの短い時間ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
 二十代半ばと思われる女性がこちらに向かって頭を下げると、生徒たちからはまばらな拍手が起きる。
 軌道エレベーター発着場に到着した私たちは、そのまま建物内のレストランで昼食を食べ、少し休憩した後、生徒全員が集まれるホールで施設の概要を聞くことになっている。全員といっても数は少なく、ホールにはずいぶん余裕があった。
「軌道エレベーターは離陸って言うんだな。表現それで合ってるの?」
 隣からは、こそこそと話す明渡君の声が聞こえてくる。
「陸を離れるんだから、別に間違ってはないだろ」
 それに応答する杉原君。
「でもそれだと、全部のエレベーターがそうなるんじゃないの。シャトルは発射だし、もうちょっとかっこいい言い方はないか」
「そうだな……、じゃあ、地球を離れるから、離球だったらどうだ」
「エレベーターの中に茶室がありそうだな」
 お昼を食べているときもこんな感じでちょっとうるさかったが、江藤さんも嬉々として突っ込んでいくので、楽しくもある。こういうやりとりを聞いていると、結局杉原君も、あまり言わないだけで明渡君と根は一緒じゃないか、と思う。
「さて、皆様の最終目的地は、月の軌道上に建設中の宇宙ステーション、アルテミスということですが、そこまでたどり着くにはまだまだ長い距離を移動しなければなりません。その第一関門が、地球の重力からの脱出というわけです」
 本条さんの話がそこまで進むと、ホールの照明がやや落とされ、前方のスクリーンに映像が映し出される。
「こちらは皆様もよくご存じだと思いますが、スペースシャトル打ち上げの映像ですね。ほんの十年ほど前までは、このようにロケットを使用することが、地球から脱出する唯一の手段でした」
 スペースシャトルに続いて、人工衛星などの打ち上げの様子が流される。
「人類は長らく、ロケットを使って宇宙に物資を運んでいました。しかしこの方法には二つの大きな問題があったのです。誰か分かる人はいますか?」
 本条さんが生徒を見回す。ぱらぱらと手が挙がるが、それほどの人数ではない。いくら優秀な高校とは言え、この辺りは日本人の国民性だろうか。もちろん、私も挙げていない。
「はい、それでは奥の男の子。二つ言えますか?」
 内心、男の子はないだろうと思ったが、では何と言えばいいのかは分からない。難しい年齢だ。当てられた生徒からは、コストと安全性、という声が聞こえる。
「惜しい!一つは正解です。打ち上げコストの高さは、非常に大きな問題でした。もちろん安全性の問題もゼロではなかったのですが、軌道エレベーター建設直前では、事故率はかなり低くなっていたんですよ。あと一つ、分かる方はいませんか?」
 本条さんはそう言うと、もう一度私たちのほうを見回した。今度はさっきよりも手を挙げている生徒が少ない。正解は何だろうかと考えていると、突然本条さんは私のほうを向いて、「はいでは、そこのあなた」と掌を向けてきた。え、私?と思っておろおろしていると、隣に座っていた杉原君が立ち上がった。
「たぶん……、環境への影響?」
 ほっと胸をなでおろす。分からないと答えるのは嫌ではないのだが、目立ちたくないという思いが強いのだ。
 しかし、杉原君の答えも意外だった。環境への影響という言葉が、いまいちピンとこない。周りの生徒を見回しても、首をひねっている人が多い。いや、中には頷いている顔も見える。本条さんもその答えを聞いて大きく頷く。
「その通りです。一般的にはあまり取り上げられていませんが、ロケットの燃料は環境に悪影響を及ぼす物質となる場合が多く、打ち上げ回数が多くなるほど、環境を汚染していたんです。また大きな目で見ると……。あ、はい、そこのあなた、どうしました?」
 本条さんが説明を中断する。目線の先を見ると、ひとりの男子生徒が手を挙げていた。本条さんに促されると、おもむろに立ち上がる。
「でも、最新のロケットの燃料は液体水素と液体酸素じゃないんですか?それだと反応したあとは水しか出ないから、環境汚染にはならないと思うけど。それに、イオンエンジンってのもあるって聞いたけど、それはどうなんですか?環境汚染になるの?」
 本条さんは少し困った顔をしている。どうやらここまでの質問は想定していなかったらしい。
「えーと、そうですね。確かに液体水素を燃料としたロケットなら環境への影響は少ないですね。あと、イオンエンジンというものについて私はあまり詳しくないので……」
 回答を試みるも、歯切れが悪い。雰囲気から察するに、本条さんはこの発着場の正式な職員というわけではなく、ガイド専門の人なのだろう。もともと一般向けに公開されていない施設なのだから、ガイドを雇ったのも最近なのかもしれない。
 時間がたつにつれて、ホールにはざわめきが満ちてくる。たぶんみんなそれぞれの見解を喋りあっているのだろう。ああ、これはまずいなと直感的に思う。ホールの端では、座っていた先生が立ち上がるのが見える。しかし、たとえ静かにさせても、この弛緩した空気は変えられないだろう。優秀な子供というのは、こういうところで質の悪さが出る。
 その時、入口付近に立っていた男性が、立ち上がった先生の肩に手を置く。何か喋りかけたあと、ホール正面に向かって歩き出した。
 あれ、あんな人いたっけ?
 男性が突然湧き出たように感じて、私は首をひねる。
 男性はそのまま本条さんに近づくと、自分が替わろうというように頷きかけた。
「はいはい皆さん、申し訳ないけど、もう一度こちらに注目してくれるかな」
 マイクのボリュームを上げたわけではないのに、その男性の声は一瞬にしてみんなを静かにさせる力があった。威圧感と言い換えてもいいと思う。口調は柔らかいけれど、萎縮してしまうような響きがある。
「本当はこの説明が終わってから紹介していただく予定だったんですが、皆さんずいぶん熱心に勉強していただいているようなのでね。僕が代わりに答えましょう」
 年齢は三十歳ぐらいだろうか、彫りの深い顔立ちで身長も高い。制服を着てはいるが、この軌道エレベーター発着場の制服とは少しデザインが異なっている。
「まず自己紹介から始めましょうか。僕は、今回の皆さんの旅行の案内兼解説役を務める、梶原一輝です。普段は、ウラノスのスタッフとして働いています」
 ウラノスといえば、軌道エレベーターの到着地点にある宇宙ステーションだ。現在稼働している中では最大規模の宇宙ステーションで、その建設は国家をまたいだプロジェクトであったらしい。数多くの民間企業も出資しているようで、銀河鉄道ハリーも、その一角にホームを設けている。
「ちなみに今回の旅の目的地であるアルテミスには、ウラノスのスタッフがローテーションで派遣されているので、私も何度か作業に携わったことがあります。実はこのあたりの進捗状況や設備の概要などは、いわゆる大人の事情であまり公にされておらず、案内できる人間が限られているのですね。今回皆さんには、教育のためということで特別に許可が出ていますが、それでもかなりデリケートな問題もあるので、ある程度実情を知っている私が案内役となった、ということです。あ、ちなみに銀河鉄道には私も同行できるということなので、よろしくお願いします」
 そう言って梶原なる人は笑ってみせた。
 つまりは、お目付け役ということだろうか。確かに旅行の前に、守秘義務がどうのというような書類に印鑑を押したような覚えがある。
 それにしても、ウラノスの現役スタッフが案内役とは。彼らは宇宙開発の最前線で働く、現代の開拓者である。本条さんへの質問に割って入ってきた形だが、確かにこの人より詳しい人はいないだろう。
「さて、詳しい話はおいおいやるとして、まずは皆さんの質問に答えないとね。環境への影響に対して皆さんからは意見が出ていたけど、一つ目は確か燃料に関してだったかな?」
 ぐるっとホールを見回す。みんなさすがに、ウラノスのスタッフが出てきたとあって、やや緊張した表情をしている。
「ご指摘の通り、かつて先進国の主流は液体水素になっていました。しかし、エンジンの制作に高度な技術を必要とすることや、その技術が非公開であったことから、先進国以外の国では、採用のハードルがかなり高かったんですね。できるところからエンジンを買うにしても、すごく高価なものだったしね。国家プロジェクトとしてやるならまだしも、技術的に未熟な国や民間での打ち上げとなると、なかなかお金をかけることができない場合が多かった。無理に作って失敗しましたじゃあ、目も当てられない。そういう事情があったから、環境への影響には目をつぶって、比較的安価で失敗の少ない燃料を選択する、という国が多かったわけです。そういうわけで、環境負荷の大きいロケットの使用は、結局なくならなかったんですね」
 みんな頷いたりメモを取ったりしている。一拍おいてそれを見回したあと、彼はこう続けた。
「でもまぁ、君。こんなの調べればすぐわかることだよ。なんで質問したのか、意図が分かりません」
 瞬間、みんなの動きが止まる。硬直した生徒たちを前に、彼はさらに続ける。
「イオンエンジンの話もしてたけど、この質問もレベルが低い。イオンエンジンの原理を一度でも読めば、地球から飛び出すのになぜ不適かわかるはず。質問するのはかまわないけど、その質問から、自分のレベルの低さが分かってしまうということも覚えたほうがいいですね」
 質問をしたのは隣のクラスの男子生徒だ。あっけにとられた表情をしているその子に、ニコッと笑いかけると、彼は本条さんのほうに向き直る。
「ところで、環境への影響はこの話がメインではないのでしょう?まだ続きがあるのでは?」
 結局イオンエンジンの話はせずに、本条さんにバトンタッチする気のようだ。笑いかけられた生徒は恥ずかしさからか、顔を赤くしてうつむいている。
「さて、引き続きガイドさんから説明があると思いますが、皆さん本当に優秀な学校の生徒なのか疑問ですね。これなら少し前に見学に来ていたベトナムの高校生のほうがよっぽど熱心だった。これまで優秀で通ってきたのかもしれませんが、緩い環境でぬくぬくしていると、すぐに周りに追い抜かれてしまいますよ」
 梶原さんはそう言うと、みんなに向かってファイト!とガッツポーズをとる。それで自分の役目は終わったと判断したらしく、ホールの隅に移動していく。
「これ……、まじか」
「びっくりした……。ていうかイオンエンジンの話は、まぁ言われてもしょうがないと思わないでもないけど」
「まぁな、でも……相手があんまりよくないな」
 明渡君と杉原君の会話が聞こえてくる。思わず、「どういうこと?」と聞き返す。江藤さんも、聞きたそうな顔でこちらを見ていた。
「いや、俺たちもそこまで詳しくないんだけど……。同じクラスのやつから話聞いたことあってさ。あいつ石川って言って、けっこう癖のあるやつだって有名なんだよ」
 杉原君はそこまで言って肩をすくめると、「ま、とりあえずあとでな」と目線で前を見ろと合図する。本条さんの話が再開するようだ。
 私は、まだうつむいたままの石川君という男子生徒を盗み見た。周りの生徒が何か話しかけているが、返事はしていないようだ。
 これから先、何もないといいのだが。
 私にとっては、心の心配事をさらに一つ増やす出来事になってしまった。

 再び、正面には本条さんが立っている。梶原さんからバトンタッチされた時には笑顔が凍り付いていたが、今は明るく振舞っている。あの後で明らかに険悪になったホールの雰囲気を変えようと、一人頑張っているのだ。素直にすごいなと思う。もしかしたら、ガイドとしてのキャリアはけっこう長いのかもしれない。
「それでは話の途中でしたね。環境への影響についてですが、さっきまでは地球環境への影響の話でした。でも実は、今回の旅行に関係のある話はこれからなんです。大きな目で見た場合、環境というのは地球上だけに限りません。これから皆さんが向かう宇宙空間にも、ロケットは悪影響を与えてしまいます。さっき答えてくれた生徒さん。あなたは、もしかして、そのつもりで言ったんじゃないかしら?」
 横から杉原君が、「ええまぁ」と答えるのが聞こえる。「たぶんゴミの問題ですよね」と言葉を続けていた。
「すばらしい、その通りです。ロケットでスペースシャトルや人工衛星を宇宙へ運んでいた時代、打ち上げる物質のほとんどは燃料で占められていました。では無事宇宙へ脱出した後、その燃料タンクはどうなるのか。これらは当然のように、宇宙空間へ置き去りにされていたのです」
 つまり、その置き去りにされた燃料タンクが、ゴミというわけだ。ゴミ問題は地上でも宇宙でも、人類の頭を悩ます問題らしい。エントロピーの増大だ、などと考えながら杉原君の顔を見ると、思ったより真剣な目をしていて驚く。何か思うところがあるのだろうか。
「これらの廃棄物は、一般的には宇宙ゴミとか、スペースデブリと呼ばれています。かつては増殖の一途をたどっていて、二十年前の段階で数百万個にも及ぶデブリが存在するのではないかと言われていました。もちろんすべてがロケットのせい、というわけではないですけどね。これらは地球の周りを、時速一万キロメートル以上の速度で周回しているため、もし誤って衝突してしまうと……」
 本条さんはそこまで言ってこちらを見回すと、
「ボンッ、です」
と言い放った。
 ついさっきまであった険悪な雰囲気の代わりに、今は違う緊張感が流れていた。これから一週間は宇宙空間で過ごすのだ。事故のことを極力考えないようにしていたのは、きっと私だけではないだろうに。宇宙に携わる人は不安を煽るのが得意なのか。
「宇宙空間には酸素がないので、なかなかボンッとはいかないでしょう」
 ホールの隅から声が上がる。梶原さんだ。本条さんは突然の意見に驚き、「そ、そうですね」と愛想笑いをしていた。まさか、フォローしてくれるのだろうか。
 しかし期待に反し、梶原さんは、
「ただ、だからと言って無事に済むわけではないですが。大きなデブリと衝突すれば、宇宙船は木っ端微塵でしょう」
と続けた。
 ではなぜ発言したのか。私の困惑は深まるばかりである。と、横で江藤さんがたまらずといった感じで吹き出した。
「ふふふ、ごめん。あの人変な人よね。あれって天然でやってるのかな」
 驚く私の横で、江藤さんは口元を抑えて笑い続けている。
「ど、どうだろう……。でも、狙ってでも天然でも、この先あんな感じでこられるのは嫌じゃない?みんなすごい微妙な顔してる」
「そうね。でもあたし、説明書みたいに説明されるよりはいいかも。思ったことそのまま言ってくれる大人の人って、あんまりいないし」
 そういう捉え方もあるのか。今更ながら、江藤さんの人の好さにため息が出る。いや待て、こういうところが、江藤さんに友達が多い理由なのだろうか。よし、それならば、と私も捉え方を変えるために集中してみる。
「……麻田さん、睨んじゃダメよ」
 振り向くと、江藤さんがさらに吹き出しそうな顔になってこちらを見ている。恥ずかしさで顔が上気するのが分かるが、なんだか私もおかしくなって、一緒になって吹き出してしまった。
「なに笑ってんだよ」
 言われて横を見ると、眉を寄せた杉原君とにやけた顔をしている明渡君がこちらを見ていた。ごめんごめんとおしゃべりをやめる。
「あの梶原って人だって、普段はそういうとこで働いてんだぜ。たぶん、何も考えてないわけじゃないって」
 杉原君が不機嫌そうにそう言うのが聞こえる。彼はこの案内が始まってから妙にまじめだ。とは言え、杉原君が言うことには一理ある。とりあえず気を取り直し、話を聞くことに集中する。
「しかし皆さん、ご安心ください。スペースデブリは非常に恐ろしい存在ですが、この軌道エレベーターが建設されて以降はロケットの使用は格段に減り、さらに、建設直前に行われたスペースデブリ一掃作戦によって、デブリの数は大幅に減少しています。今はデブリとの衝突なんてめったに起こりませんし、主要なデブリは監視されているので、事前に回避することも可能です。ちょっと怖がらせてしまったかもしれませんが、軌道エレベーターは、宇宙環境の改善にも役立っているのですよ」
 本条さんは、ここでとびきりの笑顔でこちらを見る。そういう話だったのか、と趣旨を理解して、みんなほっと胸をなでおろしている。
「それではこれから、軌道エレベーターの構造を詳しく説明していきましょう。皆さんもここへ向かう途中に目にしたと思いますが、この島の西側から上空へ伸びているケーブルを伝って、エレベーターは静止軌道上の宇宙ステーション、ウラノスに向かいます。移動の原理はリニアモーターカーと同じで、地上から静止軌道間を、実に二時間という短時間で結んでいるのです」
 前置きは終わったということなのだろう。本条さんの口調からも幾分か緊張感が薄れ、すらすらと細かい説明を進めていく。新たな不安要素は出てきたものの、とりあえず今は、この日程をこなしていくほかない。幸いにも、自分の境遇に関して言えばそれほど悪くはない。私の目的も、意外とすんなり達成できるのではないかと、楽観的に考えるようにしていた。

 ※

「以上で私からの説明は終わりになります。皆様、ご清聴ありがとうございました」
 そういって本条さんが頭を下げる。生徒たちからは、最初の拍手よりも幾分心のこもった拍手が沸き起こる。本条さんは、心持ちほっとした表情をしているようにも見える。あれ以降は梶原さんも意見を挟むことはなく、静かに説明に聞き入っていたようだったが、やはりプレッシャーがあったのかもしれない。
「はい、ありがとうございました。皆さんもう一度大きな拍手で見送ってください」
 説明が終わったことを受けて、今度は学年主任の太田先生が話し出す。
「この後十分の休憩を挟んでから、私たちは十四時発の便に乗ることになっています。またこの後の引率は、私と副主任の今田先生、保健室の小橋先生と、さきほど紹介のあった、ウラノスの梶原職員の四名になります。ちゃんと先生方の話を聞いて、決して単独行動はしないように。それでは改めて、梶原さん、お願いします」
 えー、先生は来れないのー?と各クラスから声が上がる。有川高校では一クラスの人数がだいたい二十人程度と決められていて、今年の一年生は三クラスで構成されている。年度によって多少の差はあるものの、だいたい学年に四クラスか三クラスが普通だ。私はあまり大人数で授業を受けた経験がないので、編入したときには、さすが都会の学校は規模が大きい、と思っていた。しかし、周りの子たちの話を聞くと、どうやら学年に三~四クラスというのは少ないほうらしい。自分のところは十クラスあったという人もいて、ずいぶん驚かされたものだ。
 そういうわけで、ここまでは各クラスの担任、副担任と、太田先生、今田先生、小橋先生の、九人がついてきていてくれたのだが、これからは担任と副担任の先生とはお別れということらしい。小橋先生は保険の先生なのでまだ関わりがあるが、太田先生と今田先生は担任を持っているわけではないので、私たちとはあまり接する機会がない。いきなり親しい先生達から引き離されるような不安を感じ、みんな口々に不安を訴える。しかし、言われた先生達も困り顔だ。しょうがないだろ、そういう決まりなんだよ、という弁解が聞こえる。
「なんでだろ、やっぱりお金の問題?」
 杉原君が言う。
「うーん、それもあるかもしれないけど、確かウラノスやアルテミスって、一度に受け入れ可能な人数って決まってなかった?安全上のなんたらって」
 明渡君が答える。私もそんな話を聞いた記憶がある。もともとどちらの宇宙ステーションも、見学を想定した作りになっていないから、大人数の来訪には対応しきれないのだ。そのあたりが関係しているのかもしれない。
「はい、それでは皆さん、改めてよろしくお願いします。先生達がついてきてくれないのが不安なのはわかりますが、皆さんの安全は、私を含めたスタッフが保障しますので、どうぞご安心を」
 梶原さんが例のよく通る声で話し出す。さっきの記憶もあり、みんな曖昧に頷いただけだ。
「それではこれから軌道エレベーターに乗る際の注意事項を説明しましょう。軌道エレベーターは短時間で静止軌道まで上昇するため、すさまじい速度で移動することになります。当然そこまで加速するのに、まず皆さんには強い慣性力がかかります。体感的には、自分の体重が徐々に二倍くらいになるようなものですね。この状態が三十分間ほど続きますが、慣れない人にとってはけっこう辛いので、気分が悪くなったらすぐに私や先生方に言うように」
 目の端に、太った男の子が茶化されているのが映る。その子はその子で、力こぶを作ったりして周りを笑わせているようだ。あの男の子で90kgぐらいだろうか。だとしたら、加速中は180kgになったように感じるということか。さすがにちょっと想像できない。しかし、私なら90kgくらいに感じるということだから、彼を見ていると大丈夫ではないかと思えてくる。
「それを過ぎてさらに三十分ほど経過すると、皆さんはたぶん初体験ですかね、高度が非常に高くなるのと、エレベーターが減速しだすので、無重力に近い状態になります。不思議な感覚ですが、自分で自分を制御できなくなるので注意してください。なるべく捕まることができるものの近くにいると安心ですよ」
 この話には、さすがにみんな興奮を隠しきれない。今回の旅行では、銀河鉄道ハリーの客車に重力(という名の遠心力)がかかっているので、実は無重力を体験する時間はそう多くない。それがもう間近に迫っているというのだ。
「どうしよう、無重力だって。水浮かべて飲むやつできるかな?」
 これにはさすがの私も興奮し、思わず江藤さんに話しかける。がしかし、江藤さんは意外にも難しい顔をしていた。
「うん……、させてもらえるかわからないけど、頼んでみる価値はあるかも……。でもその前にさ、あたしたち、スカートはいてるんだよね……」
 はっと自分の足元を見る。そう言われればそうだ。これでは無重力を楽しむどころではない。何かいい手はないか、と思いながらふと隣を見ると、神妙な顔をした男二人と目が合った。杉原君は咳払いをしながら目をそらし、明渡君は、どうしたの?というように笑いかけてくる。さては聞いていたか。
「一応エレベーター内にもトイレはありますが、移動中は加速減速によって重力が安定しないので、できるだけ今のうちに行っておいてください。チャレンジしてもかまいませんが、自己責任でお願いしますね、宇宙に替えのパンツはないので」
 クスクスと笑い声が漏れる。第一印象の悪さは、無重力という響きの力もあってか、少しずつ薄れてきているようだ。
「あ、替えのパンツで思い出しましたが、女の子にはあとでショートパンツが配られるそうです。なので、とりあえず皆さん、スカートは気にせず、無重力を楽しんでください。それでは、細かい注意はその都度やるということで、十分後、もう一度このホールに集まったら出発します。それではかいさーん」
 皆さん、というところに意味ありげな響きを持たせ、梶原さんは説明を終える。それとともに、ホール内には弛緩した空気が戻ってきた。
「よかったぁ、さすがに考えてあったのね。麻田さん、トイレ行こ。無重力で何するか考えないとね」
 江藤さんがほっとしたように言い、ホールの出口に向かって歩き出す。「うん、行こう」とついていきながら、そっと男の子二人の様子を伺うと、二人とも眉間にしわを寄せながら、なにやら深いため息をついているところだった。

 ※

 現在十三時三十分。私たちは準備も万端に、搭乗ゲート前に並んでいる。女子はスカートの下にショートパンツを履くというアクティブスタイルだ。もう間もなく搭乗が開始されるということで、みんなやや緊張している。
 後ろでは担任の先生たちが手を振っている。ゲート自体はそこまで仰々しいものではなく、むしろ日本を出る時の空港のほうが立派なくらいだった。しかし明渡君によると、それと分からないようにしてあるだけで、かなり厳重なセキュリティ体制になっているらしい。私たちは修学旅行に向かう学生という身分であるから、手続きが簡素化されているのではないか、ということだ。
 ゲートに立つ職員の女性(ふくよかな白人だ)が私たちと搭乗券の顔写真を順次見比べていく。相手が子供ということもあり、職員の人たちもずいぶんリラックスしているようだ。私は緊張で顔が強張っていたせいか、「そんな顔をしていると写真と見比べられないわよ」と、おかしそうに言われてしまった。みんなにはクスクス笑われるが、私は私で真剣である。なんとか表情は取り繕ったものの、手荷物検査でも、中に入っているものを見咎められるのではないかと、びくびくしていた。幸いそれ以外で呼び止められることはなく、無事通過することができたが、最後まで職員さんの目が私を追っているように感じられて、気が気ではなかった。
 軌道エレベーターまではゲートを通過してからも少し距離がある。先頭を学年主任の太田先生と梶原さんが歩き、真ん中に保健の小橋先生、最後尾に副主任の今田先生が付き添う形で通路を進んでいく。
「これって、ちょっと不思議だな」
 唐突に明渡君が言う。何が?と応じる私たち。またくだらないことを言いだすのでは、と身構える。
「いや、空港に慣れてると違和感を感じないんだけど、ここってこんなに距離なくてもよくない?エレベーター自体はそんなに大きくないし、離れてるだけ不便だと思うんだけど」
 確かに、そう言われればそうだ。窓の外を見ると、エレベーターに荷物を運ぶのに、フォークリフトがせっせと荷物の上げ下ろしをしているし、建物との行き来もわざわざ専用の車を使っているようだ。明渡君が言うように、建物と近ければもう少し手間が省けそうにも思える。
「うーん……」
 みんなそれぞれに考え込む。私もそれらしい答えは思いつかない。「もったいつけて雰囲気を演出してるんじゃない?」と江藤さんが言ってみるが、みんなの反応は薄い。そもそも、ここは基本的に物資運搬用の施設である。輸送効率を落とすような設計は、採用されないと思うのだが……。
「あ、ちょうどいいじゃない。聞いてみようよ」
 そう言って江藤さんが指差した方向を見ると、ちょうど梶原さんがこちらに歩いて来るところだった。一瞬自分の耳を疑う。
「あの、ちょっと質問していいですか?」
 私たちが制止する前に、江藤さんが梶原職員を呼び止める。さすが江藤さん。第一印象の悪さは少し薄れたとはいえ、私も周りのみんなも、まだ話しかけるほど気を許せてはいなかった。呼び止められた本人も、意外そうな顔で江藤さんを見る。
「もちろん。でも手短に頼む。もうすぐエレベーターに乗り込むことになるから、後ろの先生に段取りの説明をしないといけなくて」
 さっきよりはくだけた口調で梶原さんが応じる。今回は、威圧感はそれほど感じなかった。
「ありがとうございます。あの、この通路のことなんですけど、なんでこんなに長いんですか?この施設って、空港みたいに滑走路はいらないから、もっと近くてもいいんじゃないかって思って……」
 ふんふんと頷く梶原さん。
「ああ、そういうことか。確かに不思議に思うかもね。でも理由はそんなに難しいことじゃないよ。もっとよく考えてみて」
 そう言って右手を挙げると、さっさと移動しようとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!ヒント!ヒントないですか?」
 負けじと食い下がる江藤さん。梶原さんはいったん立ち止まると、「しょうがないなぁ」と少し考え込む。
「ヒントはここに来るまでにもいっぱいあったはずだ。例えばこの施設の場所。空港からバスで結構走らなかったか?港からも距離があるし、それも不自然だよな。まるで不便に作られているようだと感じなかったか?」
 こちらを見ながらそう言う。
「君たちも日本人なら、ほかにこういう作りの建物を知ってるんじゃないかな。よく目にしているはずのものだよ。まぁ、ヒントはそんなところだな」
 そう言うと、今度は本当に去って行った。日本人なら知っている?どういう意味だろう。日本にある建物で、わざと不便に作られているものなんてあっただろうか。ふと考え込むと、何か頭に引っかかるものがある。
「もしかして……」
 私が言うと同時に、明渡君も同じ言葉をつぶやく。お互いの顔を見て頷き合うと、明渡君が「城、かな」と、答えた。
「城って、彦根城とかのお城のこと?確かに不便に作られてるって聞いたことある気がするけど、それって……」
「……敵が攻撃しにくいように、だろ」
 江藤さんの言葉を杉原君が受ける。
 一瞬みんな黙り込む。同じことに思い当たったのだ。
 この推測が当たっているとすると、それはつまりこの建物や、ひいてはこの島全体が、何らかの敵の攻撃を想定したものになっているということになる。
「……敵って、なんなんだろうね。お城みたいな作りってことは、自然災害を想定してるわけじゃないだろうし……」
 江藤さんがつぶやく。そもそもこの島は、軌道エレベーターのための人工島だ。自然災害であれば、設計段階から対策が打てるだろう。さっき梶原さんがほのめかしたヒントが、私たちが行き着いた答えと同じものならば、敵は人間ということになる。
「……言うか迷ってたんだけど、俺聞いたことあるよ。この島っていうか、軌道エレベーターな。確かプロジェクトが始まったときから、いろんな組織から反対されてたんだ。それもけっこう強硬にさ。物資を運搬してた船が、反対組織の船に囲まれて身動きとれなくなったり、建設に関わってる国の中でデモが起きたりしてさ。俺らがまだ子供の頃だったから、詳しくは覚えてないけど、その時はけっこう騒がれてたはずなんだよ。俺の父親が仕事で関わっててさ、母さんが愚痴ってるのを聞いた覚えがある」
 杉原君がそう話を切り出す。彼のお父さんの話は初耳だ。宇宙開発関係の仕事をしていたのだろうか。
「いろんな組織って例えば?この島の海域で漁をしてる人たちとか?」
 明渡君もこの話は初耳らしく、聞き返す。
「いや、そういうのもあったのかもしれないけど、俺が覚えているは違う。確か、各国の宗教団体だったんじゃないかな」
 宗教団体ー?と明渡君が疑わし気な声を上げる。さらに追及しそうになったところで、並んで歩いていた列が止まった。どうやら搭乗口に着いたようだ。先頭を歩いていた太田先生が声を上げる。
「はーい、それではこれからエレベーター内に乗り込んでいきます。一組から順番に、添乗員さんの指示に従って、座席に座ってくださーい」
 その声を聞いて、明渡君もとりあえず話を中断する。興味深い話だったが、続きは持ち越されることになった。まぁ、また後で話す機会はあるだろう。
「あ」
「お」
 そのとき、ちょうど戻ってきた梶原さんが通りかかる。
「分かったか?」
 彼は彼で、楽しそうに私たちに聞いてくる。
「……ずばり、敵対策、ですか?」
 そう江藤さんが答えると、彼は満足そうに微笑み、こちらに向かってビッと人差し指を向けた。そしてやはり何も言わず去っていく。
「……当たってるってことよね」
「まぁ、たぶんそういうことだろうね」
 江藤さんと明渡君が困惑した顔を見合わせ、杉原君はそれを苦笑しながら眺めている。
 私たちが真相にたどり着くには、どうやらまだもう少し、梶原さんから話を聞かなくてはならないようだった。

3. 軌道エレベーター

 私たちが乗り込む軌道エレベーターは、私が感じたままに表現するなら、「地面から突き出た銀色のタケノコ」である。中心は直径三十メートルほどの円筒になっており、上に向かうほどなだらかに細くなっていくのだ。中心から下側が地面より下に埋もれていることも、よりタケノコを連想させる。もっとも、実際のところ、この下側は上部とシンメトリーな形状になっているため、タケノコと言うより、先が尖ったカプセルと言ったほうが正確かもしれない。しかし私は、第一印象を大切にしたかった。目の前に現れた姿は巨大で愛らしく、一瞬、自分が小人になったような気分だったのだ。
 内部は、通路によって四つの部屋に区切られている。それぞれの部屋の定員は三十名で、私たちはクラスごとに分かれて乗ることになっていた。一つ部屋が余ることになるが、これには別のお客さんが乗るらしい。空港でも発着場でも、それらしい人は見なかったが、私たち以外にも客がいるというのは別段おかしなことではないから、みんな曖昧に頷いていた。
 添乗員さんはそれぞれの部屋に一名ずつ配置されていて、部屋を分けている通路の一角には、添乗員さん専用の小部屋が配置されている。なんとなく飛行機を思い起こさせる設計だ。
 この軌道エレベーターは、他の二機が物資運搬用として作られたのに対して、もともと人間を乗せることが前提の作りになっている。そのため、内部にはトイレや洗面所、自動販売機などが設置されているが、エレベーター本体の重量を極力軽くするために、最低限の設備にとどめてあるのだと言う。本条さんから受けた説明によると、加減速時にかかる慣性力の緩和のために、座席が特注であるほかは、物資運搬用のものと比べてほとんど違いは無いらしい。トイレも実際に使うにはコツがいるので、使用の際にはエレベーター内の職員に声をかけてください、と言われている。上昇するにつれて重力が弱まっていくので、排せつ物がエレベーター内部に飛散する恐れがある、とのことだ。恐ろしすぎる。
 といったように、中に入って普通に見る分には、珍しいことは特にないのだが、ふと上を見上げると、誰もが一瞬「あれ?」と思うだろう。まるで天井が鏡になっているように、床面と全く同じ景色が目に映るからだ。しかし、実際には天井が鏡張りになっているわけではない。単純に、天井にも床と同じように座席が配置されているのだ。これがまさに、この建造物が軌道エレベーターたる所以である。宇宙への上昇工程が半分を過ぎると、軌道エレベーターは減速に入るわけだが、ここでは私たちへの慣性力は天井方向に働く。これは普通のエレベーターに乗ったときにも起きる現象だ。上の階に向かって上昇し、目的の階で止まる寸前に、一瞬、体重が軽くなったように感じる、あれと同様のものである。ただ、地上なら特に問題はないのだが、ほぼ無重力状態となっている場合、減速時はその慣性力を遮るものがなく、力は天井方向にだけかかることになる。簡単に言うと、天井が床になってしまう、ということだ。
 そういう目でよくよく見ると、配置されているものはすべて床や壁に固定され、簡単には動かないようになっている。さらに、いたるところに取っ手がついていて、人が掴まることができるようになっている。これも、無重力状態になった時に事故が起きないように、ある程度配慮されているのだろう。
 そういう部分に気付きだすと、いやがおうにも緊張は高まってくる。他の生徒たちも私と同じであるようで、天井を見上げては、しきりに囁き合っている。みんなようやく、宇宙へと旅立つ実感が湧いてきたのだ。
「部屋に入ったら、速やかに座席に座ってシートベルトを締めて。みんなが着席し終わったら、すぐに発射するぞー」
 私たちのクラスが割り振られた部屋には、太田先生が一緒に乗り込むことになっている。一番前の座席から後ろに振り向き、みんなが着席したのを確認している。最後の一人が据わり終わったのを見届けて、添乗員さんに頷きかけた。
「皆様、本日は軌道エレベーターにご搭乗いただき、まことにありがとうございます。私は本日こちらの客室を担当させていただきます、グエン・ホアと申します。宇宙ステーションまでの短い間ではございますが、何卒、よろしくお願いいたします」
 流暢な日本語でそう言うと、添乗員のお姉さんはこちらに頭を下げた。褐色の肌をして、いかにも南国育ちというような、健康的な女性だ。
「すでに本館で説明を受けているとお聞きしておりますが、もう一度、簡単に昇降中の注意と、当機の設備を説明させていただきます」
 ホアさんが言うと同時に、前方のパネルに軌道エレベーターの全体図が映し出される。手元の端末を操作し、各部屋の作りや、トイレの説明を順次行っていく。イントネーションの関係か、時折歌うような調子になって、聞いていると心地よくなってくる。
「俺、乗り込むまでは、座席って上向いて座るもんだとばかり思ってたよ」
「分かる。スペースシャトルのイメージだよな。エレベーターなんだから当たり前なのかもしれないけど、進行方向に向かって座らないのって、なんか落ち着かないな。首が凝ったりしないか心配だよ」
 ホアさんが話している最中も、例によって横では明渡君と杉原君が雑談を交わしている。せっかく説明してくれているんだから、ちゃんと聞いたらいいのに、と思うが、私も同じことを思っていたので黙っておく。
「お、話が終わったみたいだぞ。ついに出発か?」
 杉原君の言葉を聞いて前を向くと、ホアさんが会釈をして席に座るところだった。まずいまずい、結局私も二人の会話に聞き入っていて、話をほとんど聞いていなかった。ホアさんが手元の端末を操作すると、前方の画面が切り替わり、今度は地上と宇宙ステーションとの位置関係が表示される。どうやらこれで上昇具合がわかるようになっているらしい。画面上部には、「しばらくお待ちください」と表示されている。
「ドキドキするね」
 横で江藤さんがそうつぶやく。私も無言で頷く。
「あ」
 江藤さんの声に前を向くと、パネルの文字が「上昇を開始します」に変化していた。それと同時に、甲高いモーター音が聞こえてくる。備え付けの小さな窓を見ると、外の景色がゆっくりと下に流れ出した。
 最初に見えたのは、軌道エレベーターが待機していた建物の内側にあるダクトや、何かの配線だった。しかし、それらが見えていたのはものの数秒で、軌道エレベーターはあっという間に建物を飛び出し、窓からはまばゆい光が差し込んできた。周りの生徒たちも、口々に感嘆の声を上げながら、首を目いっぱい伸ばして窓を覗き込もうとしている。私が座っている座席からは、窓に一瞬だけ木々が見えたかと思うと、あとは空の青一色になってしまった。前方の画面に目を移すと、もう地上百メートルを突破している。見ている間にも数値はみるみる上昇し、すぐにメートル表示からキロメートル表示に切り替わった。幸運にも窓際に座った生徒たちが、口々に「すごい!」を連呼している。すでに体は、いくらか重力の増加を感じている。が、まだたいしたことはない。それにしてもすごい速さだ。富士山だってものの数分だ、と興奮を覚えながら目を移すと、「現在地」と表示された点はまだ地上にへばりついて、全然動いていない。静止軌道上の宇宙ステーション「ウラノス」までは、実に三万八千キロメートル。宇宙への旅は、始まったばかりである。

 ポーン
 軌道エレベーターが上昇を開始してから、十五分ほどたったころだろうか。何やら気の抜けた音が聞こえてきた。その音が鳴ると同時に、前方に座っていたホアさんがシートベルトをいそいそと外し出した。その姿を見てピンとくる。おそらく飛行機と同じだ。ある程度安定したので、動き出していいという合図だろう。立ち上がったホアさんがこちらを向く。
「皆様お待たせいたしました。当機は無事に地球を離れ、静止軌道へと向かっております。ここから先、対流圏を抜けるまでは一定速度での運転となります。三十分程度の短い間ではございますが、ご自由におくつろぎくださいませ」
 ホアさんはそう言って会釈する。話の途中から、気の早い生徒はシートベルトをはずしにかかっていたようだ。ホアさんの会釈が終わる前に、部屋のあちこちから興奮した声が聞こえてくる。
「なお、当機は大気の状態や、ウラノスの状況によって急に揺れることがございます。安定稼働中であっても、なるべく座席に座ってシートベルトを締めていただくようお願いいたします」
 生徒たちのフライングにも動じることなく、ホアさんは落ち着いた表情で案内を終える。意外と、スチュワーデス上がりなのかもしれない。何となしにホアさんの動きを観察していると、真横からもカチャカチャと音が聞こえてきた。
「はー、緊張した。思ってたより普通だったね、拍子抜けしちゃった」
 うーん、と伸びをしながら江藤さんが言う。そういえば離陸してから今まで、江藤さんは全然喋っていなかった。本当に緊張していたのかもしれない。
「その辺プラプラしてくるね。もし飲み物とか聞かれたら、後でいいって言っておいて」
 ひらひらと手を振ると、そのまま左方向の女の子たちの塊に近づいていく。江藤さんと同じ、陸上部の女の子たちだ。基本的に江藤さんは部活の友達と仲が良く、ムードメーカー的な存在となっている。対して私はというと、江藤さんがいなくなった途端に、独りぼっちになってしまう。はっきりものを言わない性格が災いしてか、一部の気の強い子たちからは疎まれている気さえする。あまり無理をして妙な印象を持たれるのも嫌なので、ここはおとなしく江藤さんを待とうと決めた。
「はー。最初はけっこうドキドキしたけど、動き出しちゃうと結局暇だな。景色も基本空だし、見てもあんまりだな」
「まぁそんなもんでしょ。そういえば西口がカード麻雀持ってきたって言ってたから、そっち行ってみる?」
 後ろからは明渡君と杉原君の会話が聞こえてくる。感想は江藤さんと同じらしい。二言三言話してから、席を離れる音が聞こえてきた。よくわからないが、カード麻雀というゲームに参加することにしたのだろう。周りを見ると、同じように用意のいい子たちがトランプなどを取り出し、ゲームの準備を始めている。ふと一人で席に座ったままの自分があまりにも孤独に思えて、なんとなく立ち上がる。別に一人でいるのは嫌ではないが、このままではあまりに見栄えが悪い。うろうろしていれば、誰かに声をかけられるかもしれない。そう楽観的に考えて歩き回ってみるも、一言二言話しては離れ、また話しては離れ、という作業を繰り返すだけだった。何度かそうするうちに、すっかり気力も萎えてしまった。手持無沙汰になり、席に戻ろうとするも、もともと私が座っていた席には、今は他の女の子が座って横の子とおしゃべりしていた。その状況に途方にくれ、ふらふらと窓に近づく。外は空しか見えないことは分かっているが、部屋の中に一人で突っ立っているよりはましだろうと思った。
 窓から外を眺めると、下はまばらな雲とうっすらと見える海で、出発した島はとうに見えなくなっている。視線を前方に移しても、そこには何もない。ただ、青と群青が混ざった色の空間が広がっているのみである。この景色は自分の状況によく似ている、と自嘲めいたことを思いながら、ふと視線を上げてはっとした。
 それは、見慣れた空だったはずだ。
 日によって表情を変えることはあっても、見上げればいつも、私たちの上に何も言わず存在していた空。その空の様子が、違う。
「星……?」
 そう、それは星だ。私の中の知識がそう告げている。しかし、それまで見たどんな星空とも異なる光景が、そこには広がっていた。
 まだ太陽が沈んでいないのでうっすらとしか見えないのだが、その大気の向うに、明らかに大量の光の粒が隠れているのがわかる。銀河のうねりが見える。宇宙の濃淡がわかる。
 その異様な光景に、私は一瞬にして心を奪われ、立ちすくんでしまった。
 ここは地球ではない、宇宙でもない。まさにその中間地点。
 本当にこの先に進んで大丈夫なのだろうか。この先の世界は私たちを受け入れてくれるのだろうか……。
 それまでの沈んだ気持ちと混ざり合い、不安が私を押しつぶしそうになったそのとき、
「怖くなった?」
という声が聞こえた。
 横を向くと、いつの間にか隣に人が立っている。
「杉原……くん……?」
 やっとのことでそう言うと、彼はそれまでの私と同じように窓から上空を見上げ、顔をしかめた。
「すごい景色だよな。何ていうか、この潜んでる感じがまた怖い」
 そう言ってこちらを振り向くが、軽い言葉とは裏腹に、その表情には気遣いが見え隠れしている。私は一瞬混乱し、「カード麻雀は……?」と、どうでもいいことを聞いてしまった。彼は虚を突かれたように目を丸くしたが、一度苦笑すると、「麻雀は四人しか参加できないんだよ。俺はじゃんけんで負けた」と説明してくれた。「大丈夫?」という言葉で、ようやく私は自分が心配されていることに気付く。今度は恥ずかしさでいっぱいになってしまった。顔が上気するのがわかる。
「ご、ごめんなさい。大丈夫。私、なんかびっくりしちゃって」
 慌てて説明する私に、今度は彼も赤くなった。
「いや、大丈夫ならいいんだよ。麻雀見てたら、麻田さんが窓に近づくのが見えたからさ。あ、やべえなって……」
 私から顔をそむけて、窓のほうを見ながら答える彼を見ると、なんだかさらに恥ずかしくなる。それを悟られまいと思って、私も窓のほうを向く。
「あんまり見ないほうがいいよ。ここからの空が一番不気味なんだ」
 彼はまだ赤い顔をしながらそう言う。もう一度窓を覗き込み、じゃ俺は戻るから、と言って、そそくさと離れていった。その背中を見送りながら、私はもどかしい気持ちでいっぱいになっていた。何をやってるんだ。せっかく心配して話しかけてくれたんだから、ありがとうの一つでも言えばよかったのに。自分のふがいなさを心の中で罵る。
 しかし、杉原君の気遣いに、素直にうれしいと感じている自分もいる。この一か月、ずっと自分のことを孤独だと感じていたが、ああやって心配してくれる人もいるのだ。そう考えると、江藤さんがいなくなってから再燃していた孤独感が、ふっと消えていくのを感じる。
 さっきはうろたえて、大した会話ができなかったから、あとでちゃんとお礼を言いに行こう。
 いくらか軽くなった心でそう思いながら、もう一度窓の外を見る。不気味な景色は変わらないが、最初に見た時より、いくらか恐怖感は和らいでいた。
 しかし、もとの場所に戻ろうと窓から離れかけて、ある違和感に気付く。
 果たして、杉原君はいつこの景色を見たのだろうか。
 私が知る限り、窓の外はみんなちらっと見た程度で、まじまじと観察していた生徒はいない。まして杉原君は部屋の中心部にいたはずだ。あの位置からでは、上空の星空は見えない。
 見ると、すでに杉原君は輪に戻り、細長いカードを手にした明渡君に、何か話しかけているところだった。
 腑に落ちない思いで杉原君を観察していると、江藤さんが近づいてくるのが目の端に見えた。
「ホアさんが、飲み物何がいいかってー。あたしは紅茶にするけど、麻田さんも同じのでいいー?」
 あ、うんそれで大丈夫、と答えながら私も江藤さんに駆け寄る。
 とりあえず、さっきの違和感はあとで考えよう。杉原君が私の知らないところで窓の外を覗いていただけかもしれない。理由を聞いたら案外大したことない話だったということは多い。私は楽観的に構えるように頭を切り替え、席に戻っていった。

 それからしばらく、江藤さんやほかの友達とおしゃべりに興じていると、ポーンと気の抜けた音が鳴り響いた。なんだろうかと周りを見回すと、ドア付近に備え付けられたスピーカーから、男性の声が聞こえてきた。
「当機は現在、地表からおよそ百五十キロメートルの高度を上昇中です。まだ熱圏を進行中ではありますが、空気密度が十分に下がったので、これより再度加速いたします。一時的ではありますが、加速によって皆様にかかる重力が最大二倍程度まで増加いたします。ご気分が悪くなられた場合は、近くの乗務員までお声をおかけください。なお、加速中のお席からの移動は特に制限していませんが、筋力に自信がない方は着席することをお勧めいたします」
 アナウンスの最後のほうは私たち学生に向けたものだろうか、少し笑いを含んだ声だった。それを聞いた男の子たちが「来た来たー!」と声を上げるのが聞こえる。その中心にいるのは例の太った子だ。地上ではおどけてみんなを笑わせていたが、いざその時が来てみるとやはり不安らしい。みんなに笑いかける顔は明らかにひきつっている。その顔を見たせいか、私の緊張も高まってくる。おなかがキリキリ痛む。自慢ではないが、私は筋力に自信のないほうだ。
「どうしよう、早く席に座らなきゃ。歩けなくなっちゃう」
 私がおどおどしていると、真剣な顔をした江藤さんが「麻田さん体重いくつ?」と聞いてきた。ぼそぼそ答えると、額に手を当ててため息をつく。
「いいなぁ、あたしなんてもうすぐ五十キロ超えそうなんだけど。重力二倍だと百キロよ!歩けなくなったらあの二人呼んで手を貸してもらおう」
 そう言って明渡君と杉原君へと目配せする。あの二人は席に座る気はないようだ。にやにやしながら立ち上がり、何かしら話をしている。江藤さんの言葉をきっかけに、一緒に話していた女の子たちで、私は何々君に助けてもらおう、いやあの細腕じゃ無理でしょ、などというやり取りが始まる。
「まぁ大丈夫だって、乗務員さんにも男の人いたし、動けなくなったらなったで、助けてくれるよ」
 鷹揚と江藤さんが頷いて見せる。周りの女の子たちもそれに笑いながら、それでも念のためと、席に戻ることにした。江藤さんのおかげで少しは緊張がほぐれたものの、私も自分の筋力を試す気にはなれない。いそいそと席に戻りながら、誰に助けてもらうかという話の中で、私が杉原君を連想したことは内緒にしとこう、などと考えていた。
 席に戻る道すがら、これまではかすかに聞こえていたモーター音が、次第に大きくなってくるのを感じた。それと同時に体にかかる負荷がやや大きくなる。みんなも同じように感じたのか、席に戻るスピードを速める。例の太った男の子を見ると、意を決したように立ち上がっていた。周りの男の子たちが、おおーと歓声を上げる。私たちは席に座りながら、そちらの動向も見逃すまいと振り返る。
 その間にもモーター音は大きくなっていき、今や体重の変化は無視できるものではなくなっていた。
「ううー、なるほど。これは座って正解だったね、椅子がふかふかなのはこのためだったか」
 江藤さんが辛そうな声を上げる。実際、座っている分にはなんとか耐えられそうだったが、首への負担が大きい。これは我慢できないと、みんなでリクライニングを倒す。この座席がよくできていて、ちゃんと頭までクッション付きの背もたれが伸びていることで、全身の重みを支えることができる。この姿勢ならなんとか耐えられそうだと周りを見回すと、まだ頑張って立っている、同じ班の男二人の姿が見えた。よくやるなと思って観察していると、明渡君が頭を下げたと同時に態勢を崩し、膝立ちになった。それと同時にガッツポーズを取る杉原君。どうやらどちらが長く立っていられるか競っていたようだ。悔しそうな明渡君の横で、同じように杉原君も崩れ落ちると、二人でハイハイをしながらこちらに戻ってきた。
「あー、もう限界。俺らもその姿勢になる」
 二人して這うように椅子にしがみつくと、私たちと同じようにリクライニングを倒す。
「銀河鉄度に乗ったら、明渡氏がジュース買ってくれることになったから」
 息を切らしながら杉原君がつぶやく。え、おい、と明渡君が言い返そうとするが、それより先に江藤さんが「やったーありがとう明渡君!」と早口で言い放つ。明渡君は何か言い返そうとしていたが、そのまま黙り、「二人とも何がいいか考えといて」と力なく言った。くくくと笑いを漏らす杉原君と、ラッキーだったねと悪びれることなく笑いかけてくる江藤さん。私もつられてにやにやしてしまう。体は辛いが、だからこそ四人で共有する笑いは、心を温かくしてくれた。
 それに、確かこの状況もそんなに長くなかったはずだ。1Gで加速していくと説明されていたが、これは、一分間で時速二千キロメートルまで到達する計算になる。静止軌道まではおよそ三万八千キロメートルと途方もない距離であるが、それでも加速する時間は三十分間ぐらいだろう。しかも徐々に重力は弱まっていくのだから、あと十分か二十分したら、ずいぶん楽になるのではないかと思う。
 なんとかなりそうだと気を抜いたとき、後方から「おい!大丈夫か!」という声が響いた。
 顔を後ろに向けると、明渡君と杉原君が真剣な面持ちで振り返っているのが目に入った。その視線の先を見ると……、あれ、何もない……?
 いや、違う。何もないというのはおかしい。無性に不安にかられて違和感を感じ取ろうとする。何が違うのかはっきり思い出せない。私はさっきも振り返って、何かを見たと思うのだが……。そこまで考えて、頭の中に数分前の光景がよみがえる。
 そうだ!彼がいない!
 懸命に首を伸ばして床を見ると、先ほどまで立ち上がっていた太った男の子が倒れているのが目に入った。うつ伏せになっているため表情が見えない。周りで騒いでいた男の子たちもしゃがみこみ、しきりに声をかけている。何人かで立たせようとするが、地上での会話が本当なら、彼の体重は今や二百キログラム近くまで増加していることになる。十代の学生が何とかできるものではなかった。そのうち一人が抜け出し、助けを呼びに行こうとするも、この状況だ、なかなか思うように動けない。騒ぎを聞いた太田先生が立ち上がろうとするが、こちらは生徒よりも動きが鈍い。
 状況が緊迫しているのを見て取った明渡君と杉原君の行動は早かった。二人ともかなりきついはずだが、それなりに俊敏に倒れた男の子のところへ向かうと、みんなと協力してうつ伏せの状態から仰向けになるように体を動かし始めた。せーの、と声が聞こえるが、なかなか動く気配がない。人間の体というのは、結局は水分の塊だ。床に張り付いてしまえば、生半可な力ではひっくり返すこともできない。倒れた男の子の表情が見えないせいもあって、不安がこみ上げてくる。これはまずい。私だけではない、周りの生徒たちにもこの混乱は伝染していくだろう。こんな狭い空間で、しかも今は地球のはるか上空を移動中である。パニックが起きれば、収集がつかなくなってしまう。
 同じことを感じ取ったのか、江藤さんが何かを言いかける。だがその言葉は、私の耳に届く前に飲み込まれてしまった。悔しそうな横顔。さすがの江藤さんも、何を言えばいいかわからないのだろう。
 江藤さんに声をかけようとした瞬間、目の端でドアが開くのが見えた。私たちの状況とは無関係に、スムーズに動く自動ドア。それと同じように、この高重力状態を感じさせない足取りで部屋に入ってきた人間がいた。躊躇することなくスタスタと騒ぎの渦中へ歩み寄っていく。
「あ」
 私はなんとも情けない声を出しながら、その人を指差す。つられてそちらを見る江藤さん。その人は厳しい表情をしながら、携帯電話のようなものを取り出すと、二言三言それに言葉を発し、胸ポケットへしまう。そして聞き覚えのあるよく通る声で、「状況を教えてくれないか」と言った。
 倒れた男の子を動かそうとしていた一団の動きがピタッと止まる。輪が割れて、中から明渡君が出てくる。彼が一団を代表して状況を伝えているようだ。すでに汗だくになっているのが、ここからでもわかる。部屋に入ってきた男、梶原さんは明渡君の話にうんうんと頷くと、しゃがみこんで倒れた男の子に話しかけた。ここからではよく聞こえないが、倒れた子との会話はできているようだ。それがわかって少しほっとする。話し終わると梶原さんは男の子の横に回り、よっ、と声を出しながら、力を入れる。さすがに無理だろうと思っていると、なんとさっきまで床に張り付いていたのがうそのように、男の子の体はゴロンと回転し、仰向けの姿勢になった。唖然とする生徒たち。梶原さんはものすごく怪力なのだろうか。部屋に入ってきたときの足取りも重力の影響を感じさせなかったし……。
「とりあえずこれで大丈夫かな。加速はもう少し続くから、やっぱり君は頑張るのをやめて、席に座っといたほうがいいよ」
 倒れた子の肩を叩きながら、梶原さんが言う。立ち上がって周りを見回すと、厳しい表情になってみんなを一喝する。
「何ぼーっとしてるんだ。後は自分たちでできるだろ」
 その言葉に、男の子たちの一団はみんなびくりとするが、つい今しがた自分たちの無力感を味わったばかりである。何をすればいいのか、何ができるのかも分からず、下を向いて座り込んでいた。
 私たちも同じ気持ちで、何もできない状況に焦りを覚えつつ状況を見守っていると、「あ、あの……」と声が聞こえた。ふと声がしたほうを見ると、なんと倒れていた男の子が、どっこらせ、と上半身を起こすところであった。
「お、おい、大丈夫なのか」
 周りの男の子たちがざわざわとするなか、倒れていた男の子は少しうつむきながら、
「いやあの……、もう加速止まってるらしいから、普通に動けるよ……」
とつぶやいた。
 それを聞くや、みんな一斉に呆けたような表情になる。私も思わず江藤さんを見ると、江藤さんもこちらを振り返り、「まさか……」と言った。
 確かに言われてみれば、さっきより体が楽な気がするが、本当に……?
 みんなそろそろと体を動かし、太った彼が言うことが本当なのか確かめている。
「五分後にまた加速を開始するから、席についといたほうがいいんじゃないか?ま、もっとも、1Gで動けないようじゃそれも難しいかもしれないが」
 梶原さんの言葉に顔を上げると、また携帯電話のようなものを耳に当てたまま、こちらに笑顔を向けている。そうか、入ってきたときの電話は、加速を止めるものだったんだ。そう頭が理解するも、体はしびれて動かない。「じゃあまた」と言い部屋を出ていく梶原さんを見送っても、部屋には不可解な空気が流れている。静まり返った部屋の中で、太った彼が「俺、椅子に座るわ……」とつぶやく。彼が動き出すのを合図に、みんなもノロノロとそれぞれのシートに帰っていった。
 後ろに明渡君と杉原君が戻ると、江藤さんが、「お疲れ様」と声をかけた。二人は生返事をしながらため息をついている。
「ま、なんというか……、そういうこともあるわな、宇宙って初めてだし」
 明渡君がぽつりと言うと同時に、再加速の警告と、体への負荷が戻ってきた。

 ポーンと、すでに何度か聞いた音がスピーカーから流れてきた。
 あの後、著しく気分を盛り下げられた私たちは、ポツリポツリとおしゃべりをしながらも、乗り込んだ当初とは打って変わったおとなしい態度でシートに座っていた。たまに見る高度計は、すでに目的地までの三分の一程度のところまで上昇している。エレベーターの速度表示は、見たこともない数値になっていた。外は、もうほとんど映画などで見る宇宙と同じ景色になっていて、こうなると不思議と、最初に感じた恐怖感は湧いてこない。得体のしれないもの、という部分が、恐怖感をあおるのかもしれない。
 ぼんやりとアナウンスを待つと、
「皆様お疲れ様でした。当機はあと数分すると、地上と同じ1Gに戻ります。その後は減速に入りますので、短い時間ではございますが、無重力状態となります。無重力状態では体の制御が非常に難しくなりますので、なるべく近くの手すりなどにおつかまりくださいますよう、お願い申し上げます」
という男性の声が流れてきた。
 それを聞くや、みんなの顔に急に活気が戻ってくる。確かに体の負担もあまり感じなくなってきている。「ついに来た!」と叫び、そわそわと立ち上がり、屈伸を始める男の子の姿が見える。私でさえ、心が浮足立つのを感じる。
「あぁー、ついにか!」
 いつになく興奮した声に振り返ると、明渡君と杉原君が神妙な顔で立ち上がった。
「なになに、どうしたの?」
 江藤さんが聞く。
「どうしたもこうしたも、無重力体験ですよ。人生初のイベントに、気合入らないほうがおかしいでしょ」
 何を言ってるの、という感じで、明渡君が鼻を膨らませながら言う。彼にしては珍しい興奮ぶりである。
 江藤さんが「いつも冷静な明渡くんも、やっぱり男の子ですね」と冷ややかに言うと、ちらっとこっちを見た杉原君から、「おばあちゃん、僕らは楽しんでくるから、ゆっくり休んでてよ」と返された。
 すたすた去っていく後姿を見送りながら、私たちは顔を見合わせる。どちらともなく頷きかけると、素早くシートベルトを外し、ちょっと待て!と後を追いかけていった。

 とりあえず何かに捕まりながらじゃないと危ないだろうということで、まず私たちは壁際に移動することにした。おそらくこのイベントのためだろうと思われるが、このエレベーターには、部屋の壁や椅子など、様々な場所に取っ手のようなものが設置されている。壁のそばまで移動すると、それぞれに体を固定する場所を決めて、そのときを待つことにした。
「そういえば無重力状態ってさ」
「うん?」
 少し緊張した面持ちの中、江藤さんが明渡君に話しかける。
「何かで読んだ気がするんだけど、ずっと落ちてる状態と一緒なんだっけ?」
 明渡君が少し考え込む。
「あぁ……、確かに俺もそういう風に聞いたことがあるな」
「ちゃんと調べてないからよくわかってないんだけどさ、どういう意味なんだろ。スペースシャトルの映像とかで見る無重力状態ってさ、別にシャトルは前に向かって進んでるから、落ちてはないよね?」
「うん、確かにそうだね」
「ふと思ったんだけど、今って地上よりはだいぶ離れてるけど、それでも地球規模で考えたら、重力の影響がなくなるほど離れてるわけじゃないでしょ。なのに、なんで無重力になるの?」
 江藤さんの言葉に、珍しく明渡君が言葉に詰まる。しばらくうーんと唸っていたが、降参したように手を挙げた。
「……実は、俺もそんなに詳しいわけじゃないんだよね。というか、物理は苦手なほうでさ。目に見える話ならいいんだけど、原子が結合してーとか、強い力と弱い力があってーとか言われても、あんまり興味が湧かなくない?」
 明渡君は、諦めたように言った。顔には苦笑が浮かんでいる。
「そっち方面の話だったら、たぶん杉原のほうがよく知ってるんじゃないかな」
 そう言うと、明渡君はちらっと杉原君を見る。杉原君はちょっと面倒くさそうな顔になったが、どう説明しようかな、と前置きして話し出した。
「そんな難しい話じゃないんだよ。地球の自転ってあるだろ。これって、普段は周りの大気も一緒に動いてるから気にならないけど、かなり速い速度で動いてるわけ。二十四時間で地球一周するって考えれば、なんとなく分かるだろ?」
 そう言われて、私は前に海外に飛行機で向かった時のことを思い出した。あれはアメリカへ行った時だったが、確か機内で十二時間近く過ごしたはずだ。そこから考えると、地球はその飛行機と同じくらいのスピードで回っているということになる。
「でさ、地球がそれくらいの早さで回ってるってことは、俺らもそのくらいの速さで移動してるってことなのよ。小さいころに、バケツぐるぐる回して、中の水が出ないって遊びをやったことあると思うんだけど、地球の中心から見れば、俺らはあのバケツの中の水みたいなもんなわけ。つまり俺らはさ、地球の重力があるから何とも感じないけど、実際はすごい遠心力が体にかかってるんだよね」
 みんなふんふんと聞き入っている。
「で、こうやってどんどん高いところに行くと、地球の周りを回転してる俺たちのスピードは、地上よりももっと速くなるんだよ。そうすると遠心力もだんだん強くなって……」
「あ!重力と釣り合っちゃうんだ!」
 江藤さんがはっとした顔になって言う。その返答に、杉原君は嬉しそうな顔になる。
「その通り!それが、宇宙ステーションとかで無重力になる理由」
「へー!面白い、じゃあ、重力の影響がなくなったわけじゃないんだ。あれ、でも、それと落ち続けるのとが一緒ってのは、どうつながるの?」
 杉原君はうんうんと頷く。なんだか楽しそうだ。実は、私は理由を知っていたが、あえて黙って聞いている。杉原君の講義を受けるのが、妙に心地いいのだ。
「そうだな……。じゃあ、まずは、日本から西に向けて大きくジャンプする姿をイメージしてみてよ」
 江藤さんと明渡君が、二人とも考える表情になる。私はその姿に笑いそうになるが、なんとかこらえる。せっかくなのでと、私も地球の周りを滑空する自分の姿をイメージしてみる。
「普通のスピードでジャンプしたんじゃあ、重力に従ってすぐに落ちちゃう。でも、それがどんどん速くなるとどうなるかな。日本から出発して、中国に着地してたのが、インドになり、ヨーロッパになり、最後には日本まで戻ってくる?」
 うーんと考えている二人。またもや江藤さんが先に、ぱっと手を挙げる。
「もしかしたら、落ちない……?」
 嬉しそうに笑顔で頷く杉原君。明渡君はまだ困惑顔だ。
「地球は丸いからさ、めちゃくちゃ速いスピードで飛んでると、重力で落ちて行っても、先に下り坂が無限に続いてるのと同じで、地面にたどり着けないわけ。だからある意味では、無重力状態は、落ち続けてるのと一緒、と言えるんだよね」
 はー、なるほど!と江藤さんが声を上げた。
「そういうことなんだ。実感はないけど、私たちはすごいスピードで前に進んでるからってことで、説明がつくんだね」
 江藤さんはしきりに頷いている。しかし明渡君はというと、まだ渋い顔をしている。
「原理は分かったけど、俺そういうのがダメなんだよね。実感ができないことは、原理を教えられてもいまいち納得できないんだよ」
「でも明渡君、物理の点数悪くないじゃん」
「納得できないのと問題解くのは別。テストは解法を覚えればいいだけだからなんとかなるけど、この納得できない気持ち悪さはどうにもなぁ」
「医者志望は言うことが違いますなぁ」
 江藤さんが明渡君を茶化す。
「なんというか、こういうのを聞いて、分かったって気になるのが怖いというかさ。物理でうぃう原子の話とか、化学反応の話とか、遺伝子の話とかって、これこれこういう結果から推測すると、こういう理論になるはずだ、って話が多いじゃん。それも頻繁に覆されたりしてさ、そういう話を聞けば聞くほど、いまいち信じる気が起きないんだよ。まぁ、今の無重力の話とは、ちょっと違うかもしれないけど」
 明渡君が弁解がましく言うが、そう言われれば理解できなくもない。普段使っている道具も、電子機器などはもはやどんな原理で動いているか分からないものばかりだ。調べればわかるかもしれないが、はたしてその説明が本当かどうかというのは、確かめようがない。
「言うことは分かるんだけど、それだと最先端のものは何も受け入れられなくなるぞ。過去に証明されたものとか、実際の現象と合う理論なんかは、そういうものだって理解してかなきゃ。これまで研究してきた人たちの人生、もっかいやり直すつもりか?」
 杉原君が反論する。あまりこういうことを言うタイプではないと思っていたので少し驚いたが、理系の男の子らしい意見だ。
「それも分かるよ。分かるけどさ……、例えば神様がいることが証明されましたって数式で説明されたとして、それを信じるか?あなたの運命は最初から決まっていましたと言われて、それを信じるか?俺にとっては、それと同じような感覚なんだよ」
 明渡君には珍しく、突然子供じみたことを言う。いじけたような物言いに、江藤さんもなんとなく黙り込んでしまう。少し間をあけて、杉原君は「うん、そうだな」と言った。
「つまりそういうことだよ。そう証明されたと言われれば、そういうもんだと信じるってことだ。少なくとも、今の世の中はそうなってる」
 その言葉に、明渡君はさらに顔をしかめる。
「そうだよねぇ」と、私は思わず同調してしまう。明渡君がなおも言い返そうとしたところで、ポーンとアナウンスを知らせる音が聞こえた。
「お待たせいたしました。当機はこれより、減速に入ります。これに伴って一時的に無重力状態となりますので、お客様の安全のためにも、座席に座ってシートベルトをお締めになるか、お近くの取っ手などにおつかまりください」
 この知らせを受けて、いよいよかと周りの生徒たちがざわめく。これに気勢をそがれたのか、何か言いかけた明渡君はそのまま言葉を飲み込む。
「そうか、そうかもな……」
 そして、諦めたようにつぶやいた。
「ほらほら!そんな暗いこと考えてどうするの!無重力状態楽しみにしてたんじゃないの?」
 なんとなく沈んだ空気を察してか、江藤さんがいつものように盛り立てる。
「女子の恥ずかしい姿を見たいんじゃなかったのー?」
 そう言いながら私のスカートをひらひらさせる。ちょ、ちょっと!と言いながらスカートを抑える私。実際はハーフパンツを履いているので、別に見られても問題ないのだが、まぁ反射みたいなものだ。あははと笑いながら、なおも私のスカートに手をかけようとする江藤さん。逃げようと足に力を込めると、ポーンと勢いよく飛び上がってしまった。
「え、え、なに?」
 慌ててブレーキをかけようとするが、空中ではどうしようもない。上を見上げると、天井はすぐ間近に迫っていた。ぶつかる。そう思って手を前に突き出し、目をつぶる。次の瞬間、体に鈍い衝撃が走った。
 ……。
 あれ、思っていたより痛くないな。それに頭じゃなくておなかが痛いような……。
 恐る恐る目を開けると、天井は目の前にあるものの、どうやらぶつかってはいないようだ。なんで……?そう思って衝撃を感じたおなかを見ると、腕のようなものが見えた。
「様子を見に来てよかった。最初はもうちょっと慎重に行くもんだと思ってたんだが……」
 声が聞こえたほうを見て、びくりとする。思わず近くに梶原さんの彫りの深い顔があった。どうやらぶつかる寸前で、梶原さんに抱き止められていたらしい。
 私の動揺を知ってか知らずか、梶原さんは私に向かってレクチャーを始める。
「無重力状態で移動するのはけっこうコツがいるんだよ。よく水の中に例えられるけど、水中は水の抵抗があるから、実ははるかに動きやすいんだ。飛び出すときは、必ず先に何があるか確認してからやってくれ」
 注意を受けながら、ゆっくりと天井の座席に体を預けてくれる。私は、ごにょごにょと返事をするので精いっぱいだった。
「まずは、こういう座席の取っ手をつかんで移動して、慣れてきたら近いところにジャンプ。少しずつ距離を伸ばしていけば、だいぶ自由に移動できるようになるはずだ。三十分ぐらいあるから、ゆっくり練習して……」
 突然説明が途切れたと思ったら、梶原さんは今度は横にジャンプした。何事かと思うのと同時に、キャー!という悲鳴が聞こえる。慌てて振り向くと、同じように飛んできた……、いや、私よりもずいぶん勢いよく飛んできた江藤さんを、梶原さんがキャッチしているところだった。江藤さんは、私のいるところから少し横に逸れたところに飛び出してしまったようで、キャッチするためにジャンプした梶原さんの勢いと合わさり、斜め方向に離れていく。私は無意識にベクトルの授業を思い出していた。きっと宇宙空間で授業すれば、みんなの理解もずいぶん深まることだろう。梶原さんは江藤さんを抱えたまま器用に空中で反転すると、斜め方向の壁に着地した。
 彼は江藤さんに何か話しかけたあと、例のよく通る声で、私にしたのと同じように、無重力状態での移動方法を説明し始めた。最後に、とにかく慎重にやってくれ、と付け加えられていたが。
 説明が終わると、江藤さんを連れてこちらに移動してくる。一足飛びに来るのかと思いきや、今度は壁際を伝っている。慎重に、と言った手前、あまり派手なことをしないようにしているのかもしれない。私はあまり移動しないほうがいいだろうと思い、その場にとどまることにした。そのまま梶原さんと江藤さんを見守っていると、横から「大丈夫?」と声をかけられた。明渡君と杉原君だ。彼らはちゃんと壁を伝ってきている。
「麻田さんが大ジャンプした後、焦った江藤さんも飛び出しちゃってさ。止めようと思ったんだけど間に合わなかった。あの人が来てくれてて助かったよ」
 梶原さんのほうを見ながら杉原君が言う。二人ともよく見ると肩で息をしている。たぶん慎重に移動しながらも、できるだけ急いでくれたのだろう。私は二人の気遣いがうれしかった。
「ごめんなさい、アナウンスでも気を付けるように言ってたのに」
 私が謝ると、明渡君は首を振り、あれはしょうがない、と言った。
「減速に入ったらすぐに無重力状態になるんだな。俺もびっくりしたよ、杉原に止められてなけりゃ、俺が三人目になるところだった」
「スカートにも気を取られてたしな」
 あははと笑う明渡君に、杉原君がしれっと突っ込む。それはお前もだろ、と言い返す明渡君。正直スカートの話からは離れてほしいのだけど、なかなか自分からは言い出せない。もじもじしていると、「ちょっと麻田さん困ってるでしょ!
と言う声が聞こえた。
「ごめーん!大丈夫?どこかぶつけてない?びっくりしたよー!」
 気が付くと江藤さんが傍に戻ってきていた。私の体をくまなく点検し始める。大丈夫大丈夫、と笑いかけると、江藤さんは心底ほっとしたような顔をした。
「いやー、私のせいで麻田さんが怪我してたらどうしようかと、心配で心配で……」
 大きなため息をつくと、そのまま梶原さんのほうに向きなおり、ありがとうございました、と頭を下げた。そういえば私もまだお礼を言っていないことに気付き、同じように頭を下げる。
「いやいや、済んだことだし気にするな。こういうトラブルに対応するのが今回の仕事だからな。怪我がなくてよかったよ」
 本当に何でもない様子で、梶原さんは手を横に振る。
 江藤さんが何か話しかけようとしたところで、突然後ろから棘のある声が割って入った。
「さっきとずいぶん態度が違いますね」
 驚いて振り返ると、明渡君が険しい顔で梶原さんを睨んでいる。対する梶原さんは、不思議なものを見るような目で明渡君を眺めていた。
「さっき藤田を助けた時はずいぶん面倒くさそうでしたけど、今回はいい人ぶってる。やっぱり男と女じゃ、気合の入り方も違いますか?」
 突然、別人のような口調で梶原さんに詰め寄る明渡君。杉原君も驚いた顔でやり取りを見つめている。藤田君と言うのは、さっき動けなくなっていた太った男の子のことだ。確かに、彼が動けなくなった時、男子生徒は総出で助けようとしていたし、その後梶原さんに助けられたときの無力感も相当なものだっただろう。出発前のやりとりも相まって、梶原さんに好意的な生徒はほとんどいないと思われる。だがしかし、大抵のことは冷静に受け止め、むしろ茶化して返す明渡君だ。今の発言は、どうしても彼のイメージに合わなかった。
「うーん……」
 梶原さんが唸る。
「よく分からないけど……。俺は今も面倒くさいと思ってるし、気合の入り方も変わらないと思うんだけどな。そりゃ助けるなら女の子のほうがいいけど、どちらかというと、仕事だからしょうがないな、という気持ちだ」
 もはや梶原さんのこういう発言にはあまり驚かないが、こうはっきり言われると、助けられた身としては少し悲しくなる。
「それにな、助けられたくないなら、もっとよく考えてから行動してくれないか。君らが怪我すると、俺や他の先生たちが迷惑することになる。そうならないように俺が頑張るのは、当たり前だろう」
 まさに、面倒くさい、という顔で梶原さんが続ける。しかし明渡君は引かない。
「助けたくないなら、助けなきゃいいじゃないですか。別にこっちは望んでないですよ。いや、むしろそんな気持ちなら、助けられないほうがマシだ」
「おまえは、助けられてないだろ。こいつらが怪我したほうがよかったと言いたいのか」
 梶原さんの切り返しにぐっと詰まる明渡君。何か言い返そうとするが、梶原さんはそれを手を振って遮る。
「お前がどう思うか知らないが、俺の仕事は君らの引率と先生たちの教育の補助、それにトラブル対処だ。それには、体を張って生徒が怪我するのを防ぐ役目も入っている。その仕事をするのに、気合が入るも入らないもない。その場面に直面したら、必要なことをするだけだ。感情で結果が変わるようでは、プロではない」
 はっきりと言われ、明渡君は一瞬梶原さんを睨みつける。しかしすぐに目から力が抜け、うなだれた。
 それを見た梶原さんも力を抜き、明渡君の肩をぽんぽんと叩いた。
「まぁそう毛嫌いしないでくれよ。俺の性格が悪いのは生まれつきだ。君らの害になるようなことはしないし、その辺の石ころか、そうだな、エアバッグみたいなもんだと思ってくれればいいのさ。そっちが関わろうとしなけりゃ、俺から関わるようなことはしないよ」
「性格が悪いことには自覚があったんですね。てっきり天然なんだと……」
 江藤さんが心底驚いたという顔で言う。
「おいおい、どういう意味だ。まぁ始末が悪いのは、それに気が付きながら直す気がないってことだな。三十過ぎた男が独身なのには、それなりに訳があるんだよ」
くくくと笑いながら梶原さんが言う。「三十過ぎてそれはやばいでしょー」と江藤さんが突っ込むのに苦笑しながら、「じゃあそういうことでな」と踵を返す。すると突然、うなだれていた明渡君が梶原さんの手をつかんだ。ぎょっとする私たちを尻目に、明渡君は梶原さんに早口で何かつぶやいた。
「え?」
 その内容は、今までのやり取りからは全く想像できないもので、私は一瞬耳を疑う。梶原さんはきょとんとした表情で、「あぁ、別にいいけど」と答えた。明渡君が手を離すと、今度こそ梶原さんは去っていく。同じように他の部屋の状況も確認する必要があるのだろう、仕事として。
 梶原さんが部屋から出るのを見届けて、杉原君が口を開いた。
「お前があそこまで口を荒げるなんて、ずいぶん珍しいな。そこまで怒ってたとは気付かなかった」
「……」
 明渡君は黙っている。その顔からはさっきのような険しさが消え、何かを探るような目つきになっていた。
「よう明渡。なんか揉めてたみたいだけど、またあいつか?」
 突然後ろから声をかけられる。振り返ると、見慣れない男の子が三人立っていた。真ん中の子は太い黒縁の眼鏡をかけ、少し長めの髪は風が吹き荒れた後のような状態にセットされている。この無重力状態でもその状態をキープしているということは、相当な量のスタイリング剤が使われていると思われる。両隣の子たちも、眼鏡はかけていないが同じような髪形だ。左の子が茶髪で、少し背が高い。右の子は少しぽっちゃりしていて、しきりに前髪を触っている。全員制服をやや着崩していて、なんとなくだらしない感じがする。
「ああ、まあな。あんまり腹が立ったからつい言っちゃったけど、結局うやむやにされたよ。なんか脱力した」
「お前でもそうなのか。いや、あいつ最初は俺らのクラスにいてさ。やたら偉そうにするから俺も言ってやったんだよ。そしたらこっちのクラスに逃げやがって。それで追ってきたわけ」
 今の話からすると、新たに現れた三人は違うクラスの子たちということか。どうりで見慣れないわけだ。眼鏡の子と明渡君は知り合いのようで、今は、眼鏡の子が梶原さんを撃退した話を興味深げに聞いている。どうやら眼鏡の子がこのグループのリーダー格で、引き連れてきた二人は取り巻きのようだ。この二人はさっきから眼鏡の子の話にいちいち大きなリアクションで笑っているが、私にはいまいち笑うポイントが分からない。
「で、お前んとこは何があったの?明渡が怒るんだから相当だろ」
 ニヤニヤしながら、眼鏡の子が明渡君に聞く。しかし、明渡君が答えるより早く、麻田さんが会話に割って入った。
「私と麻田さんが壁にぶつかりそうになったのを、梶原さんが助けてくれただけ」
 その声には明らかに不穏な響きが混じっている。眼鏡の子は少し面食らった表情をしたが、それでも半笑いで続ける。
「なんだよ、女には優しいんだな。どうせ女子高生の体触りたかっただけじゃないの?あのおっさん、そういうのには縁が無さそうだし」
「あんたね……!」
 攻撃態勢に入る江藤さんの前に、明渡君が割って入る。
「いや、俺もそうじゃないかと思って腹立ったんだよ。最初とずいぶん態度違うじゃねえかって思ってな」
 その言葉に三人は、「やっぱりそうだろー」などと言い合いながらけらけら笑う。その間にも江藤さんから醸し出される雰囲気は危険なものになっている。眼鏡の子はそれを敏感に感じ取ったようで、こちらに向きなおると「じゃあ、俺らは行くわ」と言った。
「逃げられたままじゃすっきりしないし、他にも同じことするかもしれないからな」
 そう言うと、三人は梶原さんが出ていった扉に向かって移動し始めた。何やらコソコソと話し合って笑っているが、私はそれが江藤さんに対してであるように思えてならなかった。
「ふー」
 彼らのほうを見ながら明渡君が長いため息をつく。心なしかさっきより緊張が解けたような表情に見える。その明渡君に対してパンチを入れながら、江藤さんが突っかかる。
「ちょっと、どういうことか説明してくれるんでしょうね。あたしも麻田さんも、あの人に助けられたのはちゃんと見てたでしょ」
「いてて、ごめんごめん、怒らすつもりじゃなかったんだけど。こっち向かってる最中に、扉から石川が入ってくるのが見えてさ。あんまり梶原さんと仲良くしてる思われると、こっちまで標的になるかもしれなかったから」
 石川、というのはさっきの眼鏡の子のことだろう。言葉を発しなかった杉原君も、得心したような表情で頷いている。どこかで聞いた名前だと思ったが、そうか、軌道エレベーターの発着場でガイダンスを聞いていた時に質問して、梶原さんから手ひどくやり返された子だ。あの時は眼鏡をかけていなかったので気付かなかった。
「うわさで聞いてた以上だったな。明渡は知り合いなんだっけ?」
 杉原君が聞く。
「知り合いというか……、入学して最初に、部活の体験入部会があっただろ。あれで一緒のグループだったんだ。確か弓道部だったと思うんだけど、あいつあんまり力なくてさ、女子用の弓もうまく扱えなかったんだ。いや、そういうやつはいっぱいいたんだけどな。あいつはなんでか諦めが悪くて、何度もやっては失敗して、時間食ってたんだよ。それでついに弓道部の先輩から弓取り上げられて怒られてさ。それだけならただの痛いやつだったんだけど、聞いた話じゃ、その後弓道部に入ってずいぶん引っ掻き回して、その先輩をうつ状態まで追い込んだとかなんとか」
 明渡君の話にだんだん気分が悪くなってくる。その後はその話が広まってしまったからか、あまり悪い噂は聞かなくなったとのことだ。だが、さっきの雰囲気から察するに、性格自体は全く変わっていないようだ。
「それでまぁ、あいつの動きには警戒してたんだけど、ドアから出たところで梶原さんを睨んでるの見つけて、これはやばいかもなと思ってな」
「え、じゃあ、本当に怒ってたわけじゃないの?」
 思わず明渡君に聞くが、彼はそれに答えず、無言で頭を掻いている。それを横目に、杉原君が代わりに答えてくれた。
「そういうことだな。こいつらしくないなと思ってたら、演技だったわけだ。いや焦ったわ」
 やれやれといった感じで首を振る。苦笑した明渡君は、「まぁしょうがないじゃん、他に手が思いつかなかったんだよ」と弁解していた。
 今まで黙って聞いていた江藤さんだったが、ふーっと息を吐くと、重々しく口を開いた。
「理由は分かったわ。でも、それならなおさら、梶原さんにはちゃんと謝らないといけないと思うんだけど」
 それを聞いて、私も頷く。
「もちろんそのつもり。これが終わったら、たぶん自由に動けるはずだから、梶原さんにはちゃんと謝りに行くよ。さっき分かれ際に落ち合う場所を伝えたから、あの人なら来てくれると思う」
 最後の不可解なつぶやきはこれだったのか。ひとつ謎が解けた。
「それに……」
 明渡君が続ける。
「敵の話も、まだちゃんと聞けてないでしょ」
 そうか、それもあったか。
 私は、明渡君の目的はむしろそっちではないかと疑った。江藤さんは憮然とした表情だったが、言い返すことはなく、やれやれと首を横に振っていた。
「それにしてもずいぶん時間を食っちゃった。無重力の時間は限られてるんだから、もっと楽しまないと!」
 さっきとは打って変わった調子で明渡君が言う。そうだ、すっかり忘れていたが、無重力の時間は三十分ぐらいだったはず。このままでは、今回の修学旅行の目玉イベントを一つ逃してしまう。私は、とりあえず頭を切り替えてこの状況を楽しもうと、隣のイスに手を伸ばした。明渡君は言うが早いか、すでにふわふわと浮かんでいる。江藤さんに声をかけると、「そうね、切り替えないともったいないね」と、苦笑しながらも答えてくれた。そしてゆっくり振り返り、明渡君を見据えると、大きな声で叫んだ。
「でもやっぱり腹立つ!」
 江藤さんは突然そう言い放つと、壁を蹴って明渡君に飛び蹴りを入れた。ぐわっ、といううめき声と同時に、遠ざかっていく明渡君。唖然として見上げると、江藤さんは空中にとどまったまま、「エネルギー保存の法則!」と叫んだ。げらげら笑う杉原君の後ろで、明渡君が反対側の壁に激突するのが見えた。

4. 小さな冒険

 それからの三十分は大きなトラブルもなく、私たちは十分に無重力状態を楽しめたと思う。
 明渡君の激突はクラスの笑いを大いに誘い、本人はそのことにぶつぶつ文句を言っていた。しかし、その後も壁にぶつかる人間は続出していたため、あまり明渡君の失態が印象に残ることはなかった。原因を作った江藤さんはいつもの笑顔を取り戻し、明渡君の文句を聞いてはうふふと笑い流していた。私は、江藤さんはどっちかというともっと女の子らしくて、怒ったりなどしないものだと思い込んでいたから、実はけっこう驚いていた。それを江藤さんに話すと、
「いやー、そりゃ私だって怒ることあるわよ。あの石川って男にもそうだし、明渡君にもだけどさ。なんていうか、ああいう探り合いみたいなやり方ってすごく嫌いなのよね。男ならもっとスパッとやれっての」
などと男前なことを言われた。
「それに、女の子らしいって言うなら、情緒不安定な感じのほうが女の子らしくない?怒ったり泣いたり笑ったりさ、ころころ変わるほうが女の子って気がするんだけど」
 なるほど、確かにそれも女の子だ。むしろ、私が思う女の子らしい姿というもののほうが、実際の女の子像とは違うものなのかもしれない。
「江藤さんはじゃあ、なんだろう。泰然、って感じがする」
「泰然!?それじゃおじいちゃんみたいじゃん!」
 知っている言葉であてはまるものを探したつもりだが、江藤さんにはずいぶん笑われてしまった。
「まぁでも、そうかもね。いつものグループにいる時とはちょっと違って見えるかもね。麻田さんといると、こういう反応しなきゃっていうプレッシャーがなくて、地が出ちゃってるかも」
 そう言ってころころと笑う。そうなのか、江藤さんでもそういうプレッシャーを感じて過ごしているのか。意外に思いつつも、少し安心する。
「そうなんだ。江藤さんはそういうの感じてないのかと思ってた」
「まさか、そんなわけないじゃん。あたしもみんなも、たぶん多かれ少なかれ感じてる。きっと、そういう風に見えない人ほどいろんなことに気を使ってるんじゃないかな」
 江藤さんは私の後ろに目を移すと、
「たぶん、ああいう完璧そうなのにも、そういう悩みはあると思う」
と言った。
 振り返ると、明渡君と杉原君がこちらに向かってくるのが見えた。「おーい」と声を上げている。
 二人も無重力にはずいぶん慣れたようで、器用に壁を伝って来る。
「そろそろ減速に入るだろうから、一緒にいたほうがいいかと思って」
 このあと梶原さんに会いに行くと言っていたから、そのために戻ってきたのだろう。
「それにしても無重力はすごいな。水の中ともずいぶん違うし、本当にあらゆる力から解放されたって感じ」
「直線的にしか動けないことに慣れるのにちょっとコツがいったけど、慣れると全然力がいらないなぁ。宇宙では筋トレ必須ってのがよく分かるよ」
 二人ともさっきとは打って変わって興奮した口調だ。私たちもずいぶん楽しんだとは思うが、横目で見ていたこの二人の楽しみ方は一味違っていた。
 おそらく前もって打ち合わせでもしていたのだろう。手荷物に忍ばせていたペットボトルを取り出すや、中の液体を空中に浮かせて飲んでみたり、ボールを何度もぶつけあってみたり、移動中に方向転換を試みたり、明らかに何らかの意図を持った実験を行っていた。目をキラキラさせながら様々なことを試みる二人を見ていると、その情熱が少しうらやましくもなった。私にもああいう時期があったのだが……。
 試したいことはひとしきり終わったのだろう、今は二人とも満足した顔で話し合っている。
 ちょうど合流したタイミングで、アナウンスを知らせる音が鳴り響いた。
「当機はこれより、減速に入ります。減速時には地球からの重力の影響を受けないため、先ほどのように動きづらくなるということはありませんが、空中に浮かんでいると怪我をする恐れがあります。一度お席にお戻りになり、シートベルトを締めてお待ちください」
 アナウンスが終わると、いつの間にか戻ってきていたホアさんが、「こちら側の席にお戻りくださーい」と誘導し始めた。
「お席の番号は前と同じところにお座りください。速度が安定しましたらまた声をかけさせていただきます」
 言われるがままにホアさんのいる側のシートに着地する。そういえば無重力状態で動き回ったために、どちらが地球側で、どちらが宇宙側なのかが分からなくなっている。内装も上下がまったく同じ作りになっているので、見た目で判断することはまず不可能ではないだろうか。
「係員さんがいないと、どっちに座ればいいかわからないね」
 同じ感想を持ったのだろう、江藤さんが言う。うんうんと頷く私に対し、杉原君が「一応、判断できなくはないよ」と声をかけてくる。
「このエレベーターって、上下の真ん中で区切ると、ほとんど同じ構造になってるんだよね。シートが二セットあるのは見てわかるとおりだけど、実は通路も上下に二つ作られてるわけ。つまり、部屋の上下にそれぞれドアがついてるってことなんだけど、上に座るときと下に座るときじゃ、自分から見えるドアの位置が左右逆になるんだよ。だから、ドアの場所を覚えておけば、どっちに座ってるか判断することができる」
 すかさず江藤さんが「それ、最初に言ってもらわないと意味ないんだけど」と返す。
「え、いや、どっちにドアがあったかくらい、覚えてるだろ?」
「あたしって、どっちでもいいことって、覚えないタイプなんだよねー」
「え、そういう問題?」
 麻田さんは分かるよね、と杉原君はこちらに助けを求めてくる。私は分かっていたが、いやー、どっちだったかな、などと返答することにした。表情は緩んでいたから、バレバレだったとは思うが。
「いやいや、おかしいだろ、さっきの光景だよ、絶対覚えてるって!」
 杉原君はなおも悲しそうに言い募る。
「杉原、もしかしたらこれは哲学的な問いかもしれないぞ。物理的なドアの位置が問題じゃないかもしれない。心理的に人間は脱出口を左右どちらに求めるかという……」
「記憶力の問題だよ!」
明渡君が加わってきたことで杉原君は説明することを諦めた。「はー」とため息をついて、シートにうなだれる。
「そういえば明渡、この後で梶原さんに会いに行くんだろ。どこで落ち合うつもりなんだ?少なくとも石川がいないところじゃないとまずいだろ。あいつのことだから、また付け回してるんじゃないか」
「うん、それなんだけどな、さっきお前が説明してた、地球側の通路にしたんだ」
 明渡君は少しにやつきながら上側を指差す。杉原君は呆れた顔で明渡君を見る。
「地球側の通路ってお前、そりゃ今なら誰も通らないだろうけど、今は天井になってるんだぞ。無重力だったときならまだしも、どうやって行く気だ?」
 もっともなことを言われても、明渡君は涼しげだ。
「ここに入ってくるときに、見取り図があったのを覚えてるか?他に比べて小さな字だったけど、通路の天井側にそれぞれ、連絡口って書かれた場所があったんだ。これってどう考えても、通路同士をつないでるところだよな。ここを使えば、地球側の通路に行けるんじゃないか?」
「行けるんじゃないかって……、そりゃ使えれば行けるだろうけど、そんな簡単にいくのか?普通そういうところって、ロックされてるもんじゃないの?」
「そのときはそのときだよ。いろいろ考えたけど、他にいいところもなさそうだし、ダメだったら諦めればいいじゃん」
 明渡君はさらりと言い放つ。杉原君はなおも反論を試みていたが、「そもそも梶原さんにはそう伝えちゃったんだから、今更変更できないよ」と言われ、諦めたようだ。
「でも、梶原さんはその通路にどうやって来るの?石川君たちに見張られてたら、どっちにしても来られないんじゃない?」
 江藤さんが疑問を挟む。
「ああ、それに関してはね……」
 明渡君が苦笑しながらこちらを向く。やや間をおいてから、
「梶原さんに任せたんだよね」
と言った。
 静まる私たち。頭をかく明渡君。
「だってさ、しょうがないじゃん。それこそ俺らで何とかできる問題じゃないし、ここの構造だってあの人のほうが詳しいでしょ。下手にいろいろ決めちゃうより、そっちのほうがいいかと思って……」
「明渡君って……、割と適当なんだ」
 つい言葉に出してしまうと、明渡君は慌てたように言い募る。
「いやいや、そりゃ完璧とは言えないけど、作戦はこれくらいアバウトなほうがいいんだって。ガチガチに決めちゃうと、かえってトラブルが起きた時に動けないんだって」
 そういう面もあるかもしれないが、いくらなんでもアバウトすぎではないか。そう思い江藤さんを見ると、江藤さんもやれやれと首を横に振っている。
「あ、ほら、もう速度安定したみたいだよ。早く行かないと、梶原さんを待たせちゃまずいでしょ」
 前を見ると、ホアさんが説明を始めるところだった。三十分ぐらいすると宇宙ステーションに到着するので、それまでは自由にしてよい、という内容だ。ホアさんの話が終わるが早いか、明渡君に急かされて私たちは部屋を出る。この軌道エレベーターは、すべての部屋が通路によってつながっている。しかし、基本的にはトイレも飲み物のサービスも、それぞれの部屋に完備されているため、あまり出る必要がない。ゆえにここは、主に乗務員さんが移動するために使われていたのだ。自由時間になった今は各部屋の乗客へのサービスに忙しいのだろう、全く人気がなくなっている。
「確かこっちだ」
 明渡君は壁の見取り図を確認しながら、すいすいと進んでいく。悪いことをしているわけではないのだが、なんとなくドキドキする。小さいころに、知らないところへ自転車でこぎ出すような、そんな期待と不安が混ざった気分だ。
「この上が通路になってるはずだな」
 ちょうど四つの部屋を区切るような形で設けられている通路の、交点を少し過ぎた場所に来たところで、明渡君が天井を見上げながらつぶやく。私たちも同じように天井を見上げると、確かにそこだけうっすらと、一角に四角い切込みが入っている。
「はずだなって……、これどうやって登るの?梯子とかも見当たらないけど……」
 江藤さんが周りを見回す。明渡君を見ると、周囲の壁に手を当て、何かを探している様子である。
「うん……、たぶんこの辺りにあるんじゃないかと思ってるんだけど……」
 その様子を見ていた杉原君が、やれやれといった感じでため息をつく。
「たぶんこれじゃないか?」
 私たちがそちらに注目すると、杉原君は壁の一部をぐっと手で押し込んだ。すると押し込まれた部分十センチメートル四方程度がカチッと音を立てて開き、中からボタンのようなものが現れた。
「おー、きっとそれだ。杉原、押してみてよ」
 明渡君は杉原君に早く早くと急かす。杉原君は少しためらう様子を見せたが、明渡君の笑顔を見て諦めたように、ボタンを押した。
 一瞬、何も起きないのかと思った。だが、明渡君が発した「おっ」という声に天井を見上げると、先ほどの切れ込み部分がゆっくり開き、こちらに向かって、梯子を斜めにしたような簡素な階段が伸びてくる。さっき杉原君が押したボタンは、この扉を開けるためのものだったのだ。
「やるじゃん杉原。こっちが開いてて反対側が閉じてるってことはないだろうから、これで上側の通路に行けるはずだよ」
 明渡君は嬉しそうに言い、すたすたと階段を上っていく。展開の速さにややついていけない私と江藤さんは、どうしたものかと顔を見合わせる。明渡君に続いてしかめっ面の杉原君が、「セキュリティどうなってんだよ」などとぼやきながら上っていく。
「ほら二人とも、早くしないと誰かきちゃうよ。みんな上ったらこの階段は元に戻すんだから」
 明渡君からそう言われ、私と江藤さんも慌てて階段を上る。
「こんなことして大丈夫かな?見つかったらすごい怒られるんじゃ……」
 最初の高揚感はどこへやら、大事になりそうな予感に、私は不安の割合が七十パーセントくらいになってきていた。しかしそれを聞いた江藤さんは、
「そりゃ怒られるかもしれないけど……、首謀者は明渡君だし、話の通りなら梶原さんもいるはずでしょ。無理やり付き合わされて、って顔すれば、私たちは大丈夫じゃない?」
などと楽観的なことを言う。
「全然無理やり連れてこられたようには見えないんですけど」
 私たちのやり取りが聞こえたのか、明渡君が言い返す。江藤さんはそれには答えず、うふふ、と手を口に当てて上品に笑う。助けを求めて杉原君を見るも、彼は一瞬首を傾げ、「じゃあ、閉めるよ」と言って、階段を上った先にあるボタンを押した。
 開いた時と同じように音もなく収納される階段を見つめながら、私は、私のほかに不安を感じている人間がいないことを悟った。

 階段が完全に収納されると、私たちがいた空間は一瞬真っ暗になる。もしかしてこのままか、と焦るが、すぐに壁に備え付けてあるライトが点灯する。
「行こう、たぶんすぐだよ」
 私たちは明渡君に促されて階段を上りだす。この空間はもともと従業員専用の通路なのだろう、さっきまでいた通路や部屋に比べると、ずいぶん簡素な作りになっている。照明も薄暗く、階段がはしご状なことを除けば、さながらビルの非常階段のような印象だ。
 階段自体も大した長さではなく、踊り場を一度折れ曲がるだけで、すぐに出口が見えた。
「開けますよー」
 今度は明渡君が、開閉用と思われるボタンを押す。来た時とは逆に、天井に向かって階段が伸びていく。みんなに続き階段を上っていると、不意に階段がはしご状になっている意味に気付いた。そうか、重力が逆にかかっているときは、この階段の裏側を歩くわけだ。はしご状なら表も裏もないから、この階段一つで、重力がどちらに向いても対応できる。そう思って観察すれば、階段の下にもちゃんと、人が歩くことができるように空間が広がっている。気付いたことに嬉しくなり、下ばかり観察して歩いていると、前を歩いていた江藤さんにぶつかってしまった。
「あ、ごめん……」
「しっ、静かに」
 謝ろうとすると、明渡君の鋭い声が飛んできた。驚いて黙ると、出口の先から、かすかに声が聞こえてくることに気付いた。
「梶原さんの声だと思うけど、会話してるみたいだ。誰かいるのかもしれない、ちょっと様子を見よう」
 すでに出口は開き、階段は伸びているのだから、向こうからは誰かが来たことが分かっているはずだ。それでも、私たちは出口の直前で一度立ち止まり、聞き耳を立てる。
 どうやら声の主は、一人だけらしい。
「そうですね、ええ。はい。……いや、特に問題はないと思います。勘の鋭そうなのはいますが、まぁまだ気付かれてはいないでしょう。何かを詮索するにも材料が少なすぎる。……後を付け回っている生徒?ああ、いや、違います。いかにも優等生って感じの、背の高いやつです。……ええ、確かそんな名前だったと。……はい……そうです……はい、では十五分後にミーティングルームで」
 どうやら電話をしていたらしい。辺りをうかがいながら通路に出ると、こちらに気付いた梶原さんが、「おお、早かったな」と手を挙げる。
「怪しい会話でしたねー、優等生っぽい背の高いやつって、明渡君のことでしょ?」
 江藤さんが、にやにやしながらずばり切り込む。
「俺らがこうやって出歩いてるってこと、誰かにタレこんでるんですか。それなら、こんなとこで待ってなくったっていいのに」
 杉原君が棘を含んだ声で言う。それを聞いた梶原さんは目を丸くし、そして、吹き出す。
「タレこむってお前、警察かよ。ドラマかなんかの見すぎだ。それにそのセリフじゃ、お前たちまるっきり悪者側じゃないか」
 杉原君はやや顔を赤くする。
「優等生っぽい背の高いやつは、まさにその明渡君のことだが、何も今の状況を誰かに報告したわけじゃない。俺もいろいろあるんだよ、仕事が」
 苦笑しながら梶原さんが弁解する。
「悪いが内容は言えないぞ。もちろん相手もな。今聞いた内容から推測してくれ」
 内緒らしい会話を聞かれた割には、ずいぶん堂々としている。
「今の会話、俺らが聞いてたことは分かってたんですよね?」
 今まで黙っていた明渡君が質問する。
「もちろん。このタイミングでここに上ってくるのは君らしかいないからな」
 答える梶原さん。気付いていながら、あの受け答えか。ますます訳が分からない。
 明渡君は少し黙ったあと、鼻からムフーっと息を吐き出した。
「さっき言ってた通り、推測するには材料が足りなすぎる。でも、分かってて聞かせたってことは、そこまで重要な話じゃないってことだ、と思うしかない。それにさっきの話じゃ、十五分後には誰かとミーティングがあるんでしょ。時間がもったいないから、本題に入りましょう」
 悩ましい表情を浮かべながら、明渡君が話し出そうとする。と、すかさず江藤さんが蹴りを入れた。
「その前に言うことがあるんじゃないの」
 表情は穏やかだが、言葉には強い響きがこもっている。明渡君は一度固まり、
「……さっきは、二人を助けてくれたのに悪く言ってすいませんでした」
と頭を下げた。梶原さんはきょとんとしていたが、
「さっきって……、ああ、お前が急にキレだしたやつか。別に何とも思ってないよ。突然相手が怒りだすのには慣れてるんだ」
 慣れているのもどうかと思ったが、口調から察するに、本当に気にしていないように見える。
「それに、なんか理由があったんだろ。別に詮索はしないが、こじれないように気を付けろよ」
 その言葉に続いて、今度は江藤さんが改めて頭を下げる。
「助けていただいて、ありがとうございました」
 私も慌てて頭を下げ、「ありがとうございました」と言った。
「いいからいいから。さっきも言った通り、仕事だからやっただけだ。ほら、俺も時間がないんだ。早く本題に入ってくれ」
 梶原さんは面倒くさそうに、顔の前で手をひらひらさせる。明渡君は江藤さんを見て頷き、話し出す。
「それじゃ、軌道エレベーターに乗る前に話していたことについて、聞いていいですか。敵がどうのこうの、という話です」
「敵の攻撃を受けづらくするために、軌道エレベーターの発着場がああいう構造になっているってのは分かったわけだな。他にも知りたいことがあるのか?」
 梶原さんの質問に、明渡君は大きく頷く。
「ええ。その敵っていうのがいったい何なのか、それが知りたいんです。日本の城をヒントとして出したわけだから、当然相手は人間なわけですよね。杉原からは、この施設は建設途中から様々な反対運動があったと聞きましたが……、それと関係あることですか?」
 梶原さんは明渡君の質問を聞いた後も、口元に手をあてて黙っている。やがてうーんと唸りながら頭をかいた。
「それはなかなか難しい質問だな。答えてもいいんだが、俺が分かる範囲で、となるぞ。推測も多い」
 それでもいいか?と改めてこちらに聞く。私たちはそれぞれに頷いた。それを見て、梶原さんも頷く。
「君がさっき聞いたことは、ある意味では正しい。この施設の防衛は、そういった反対運動を起こしていた団体の攻撃を想定している」
「宗教団体ですか?」
 すかさず杉原君が聞く。
「一部はそうだったな。俺が知る限りでも、けっこう過激な工作を仕掛けてきそうなところがいくつかあった。そういう連中を警戒して対策が施されているのは事実だ」
「何か引っかかる言い方だなぁ」
 杉原君の感想を無視して、次は江藤さんが手を挙げる。
「そもそも、ここがそういうところから狙われる理由って何なんですか?軌道エレベーターって言っても、要は規模の大きいエレベーターでしょ?」
 梶原さんは一度言い淀んでから、江藤さんのほうを向く。
「ここが、天使の梯子とか、蜘蛛の糸とか言われていることは知っているか?」
 その問いかけを聞き、みんな一様にうなずく。私は、ここに向かうバスの中で江藤さんがつぶやいた言葉を思い出していた。天国に向かうエレベーター……。
「他にもバベルの塔だとか、いろいろと言われているんだが、とにかく今存在する宗教団体は、天に到達する建造物ってのがどうにも気に入らないらしい。彼らにとって、天界は神が住まう場所だからな。そこを目指した愚か者が罰を受ける話が多いことから分かるように、基本的に人間は、神の領域に到達してはいけないとされているのさ。だから、もろにそれを想起させるこのエレベーターは、いろんな宗教団体から反対にあったと、そういうわけだな」
「で、中には過激な反対運動を行うところもあった、というわけですか?それで大がかりな防衛対策を取ったと」
 明渡君が念を押す。それを聞いた梶原さんは苦笑し、「ここからは俺の想像だが」と話し始めた。
「俺は十年ぐらい前から宇宙開発関係の仕事に携わっているんだが、あるとき、軌道エレベーター建設の時に起きたデモやテロまがいの事件を調査する機会があった。いろいろあったが、資材運搬中のタンカーが足止めされたり、建設作業中の作業船に発煙筒が投げ込まれたり、まあ基本的に嫌がらせ程度のものが大半だったんだ。だが、ある時から少し違和感を覚える事件が混じりだした」
「違和感?」
「ああ。表向きにはそこまで大事故には至っていないんだが、何て言うか、一歩間違えば、建設そのものが中断しそうな事件と言うかな。例えば、このエレベーターのケーブルだ。これの強度をいかに保つか、というのが技術の肝になるわけだが、なぜか図面に一部修正されたような跡があり、強度低下要因になっていたことがあった。他にも、エレベーターの制御ソフトに、それまで発生しなかったバグが突然出たりもしたな。そういうやばいトラブルは、すべて大事になる前に修正されていたんだが、これはどうもおかしい。この建設に関わっているのは、先進国の中でも特に優れた技術を持った企業ばかりだ。そんな致命的なミスをぽつぽつ起こすなんてことは、考えにくい」
「誰かが仕組んだ、ってことですか」
 杉原君が不安げな表情で聞く。
「その可能性を、建設している側は捨てきれなかった、ということだ。たぶんな」
「たぶん、ですか」
「まあそこはしょうがない。調べることができたレポートにも、なぜそうしたか、判断の詳細までは書かれていなかったからな。だが少なくとも、そのあたりを境に、建設方針が大きく変わったのは事実だ。言っとくが、ここの防衛機能はあんな目に見えるものだけじゃないぞ。俺にも全貌が分からないほど、恐ろしく作り込まれている。ただの嫌がらせへの対応ではないのは確実だ。それに……」
「それに?」
 梶原さんは、思いのほか真剣な表情をしている。
「このエレベーターのケーブルは、カウンターウエイトまでの距離を含めておよそ十万キロメートル。総重量は一万トン以上になる。これが切れたらどうなるか」
 私は、バスから見上げた先の見えないケーブルを思い出した。あれが切れたら……。
「まずは遠心力と重力のバランスが崩れ、下側は発着場に降り注ぐ。切れた場所にもよるが、まぁ発着場は島とともに沈むだろう。さらに、上側は遠心力が勝るから、宇宙ステーションごと宇宙の彼方へ飛んでいくことになる。そうなれば、これまでの宇宙開発は水の泡。すべての努力はゼロに戻る。だから、リスクを考えると、たとえ小さな可能性であっても、絶対に摘み取っておかねばならなかったんじゃないかな」
 真剣な表情のまま、梶原さんは話を終えて黙り込む。
 いくら仮定の話とはいえ、今まさに私たちが乗っている軌道エレベーターのケーブルが切れる、などという話をしなくても、と思ったが、なるほど確かに、ここが破壊されたとしたら、そのインパクトたるや、ただのテロとは比較にならないものになるだろう。私は自分が乗ったエレベーターが宇宙をさまようところを想像し、どうか鉄壁のシステムで守られていますように、と祈った。
 私たちも黙り込んでしまったのを見て、梶原さんは、今度は軽い口調で話し出した。
「まぁ怖い話をしたが、もちろんすべて建造した企業側のミスだったという可能性もゼロではない。人間のやることだからな。それに、途中で不手際が発生しても、それを金と人手で最終的に問題ない形にするのが、大企業たるゆえんだと言えなくもない。真相は分かっていないんだから、あまり考えすぎるなよ」
 梶原さんは、そこでふと腕時計を確認する。そして、「そろそろ時間だな」と、つぶやいた。
「とりあえず話はここまでだ。まだ聞きたいことがあるかもしれないが、あとはハリーででも聞いてくれ。幸い俺も個室をもらえたんだ。訪ねてくれれば話をする時間はあるだろう。それに、どうせアルテミスに到着するまでは暇だ」
 そう笑って言うと、梶原さんは先ほど私たちが登ってきた階段に足をかける。
「一つだけ、いいですか」
 先ほどから考え込んでいた明渡君が、ぽつりと問いかける。
「なんだ?」
 梶原さんは足を止めてこちらに振り返る。
「今の話って、世間には全然公表されていないことですよね。建設途中に事故があったってことすら、公になっていないと思うんですけど……」
「まあ、そうだな」
 え、そうなの?と江藤さんが驚いた声を出す。
「それを、どうして僕たちに話してくれたんですか?僕らが言いふらしたりしたら、みんなが不安でパニックになるかもしれないし、ここの運用だって疑問視されるかもしれない。そんなこと、普通は僕らみたいな子供には言わないですよね」
 それを聞き終わると、梶原さんは特に表情を変えるでもなく、「ああ」と頷いて階段を降りだした。私たちは慌てて後を追う。
「どうしても何も、話しても問題ないと思ったから話しただけだ。今言ったリスクはその通りだが、君は、この後みんなの不安を煽るために言いふらすのか?」
 逆に聞き返された明渡君は言葉に詰まり、「いえ……」と答える。
「ここから帰ったらどっかに働きかけて、この軌道エレベーターを運用停止に追い込むか?」
 これにも「いいえ……」と答える明渡君。
「だろ。起こりえないリスクを考えても意味がないし、そもそも言えないなら、発着場で聞かれたときに適当に流すさ。もう少し考えて質問してくれ」
 そう言われた明渡君は、「すみません……」と言ったきり黙ってしまった。
 そのまま私たちは無言で階段を降り、もとの通路に出る扉の前まで戻ってきた。今度は梶原さんが壁にあるボタンを押す。来た時と同じように足元の扉が開き、そこから階段がゆっくりと射出される。それをぼんやりと見ていると、「そういえば」と梶原さんが話し出した。
「あんまり自分のことを子供というなよ。君らは少なくとも、超優秀な高校の生徒なんだろ。自分で考えて判断できるなら、そこに大人も子供もない。あるとすれば経験の差くらいのもんだ。そんなもの、その頭でなんとでもカバーできるだろ」
 そこで一度話を止め、射出しきった階段を降り始める。私たちも後に続く。
「ここからは宇宙空間だ。ここ五年くらいでずいぶん危険度は下がったとはいえ、まだまだ未知の世界。何が起こるか分からん。そういう時は子供とか大人とかではなく、自分の頭で、何が最善の行動かをしっかり考えることが大事なんだ。俺は、基本的に聞かれたことには答える。得た情報をよく考えて、しかるべき時には動けるようにしといてくれよ」
 梶原さんはそこで振り返り、「期待してるよ、優等生」と、明渡君の肩をたたいた。すかさず江藤さんが質問を挟む。
「じゃあ、さっきの電話の相手を教えてください!」
「それは内緒だ」
 間髪入れずにそう答えると、膨れる江藤さんを無視しながら、梶原さんは壁のボタンを押した。また音もなく、階段が天井に収納されていく。
「そろそろ到着だから、もう部屋に戻って椅子に座っておいたほうがいいだろう。あ、それとここの階段だけどな、普段はロックされてるから、今後このエレベーターに乗っても開けられないぞ。それに職員以外が開こうとすると警報が鳴るから、イタズラもしないように」
「え、さっきは普通に開いたけど」
 驚く杉原君。
「そりゃ俺が開けといたからな。ばれると俺も怒られるけど、あの通路に行くにはここを通るしかないからなぁ。うまくいってよかったよ」
 唖然とする私たちを尻目に、梶原さんはボタンの横のパネルを操作しだす。ピーという音が鳴ると同時にパネルを閉じ、「では解散!」と告げた。おそらく、あれで扉がロックされたのだろう。
「よくわかんない人だな……」
 去っていく梶原さんの後ろ姿を見ながら、杉原君がぽつりとつぶやく。その言葉には疲れが滲んでいた。
「うん、それに……」
 黙っていた明渡君がぽつりとつぶやく。
「一筋縄じゃいかない人だってのも良く分かったよ。結局あの人の掌の上で動いてただけだったのかなぁ」
 あーあ、とため息をつきながら、明渡君は元の部屋に向かって歩き出した。私たちもそれに続く。途中職員の人とすれ違って少し緊張したが、特に何を言われるでもなく、笑顔で会釈されただけだった。
 部屋に戻ると、もうほとんどの生徒は座席に座り、到着の準備をしている。私たちもいそいそと座席に座り、シートベルトを締めた。ふと壁のモニターを見ると、もう軌道エレベーターは宇宙ステーション目前まで迫っている。これから待ちに待った銀河鉄道の旅が始まるというのに、私も少し疲れを感じていた。
 少しゆっくりする時間があるだろうか。
 ぼんやりと説明を聞きながら、私はさっきの出来事を思い返す。
 頭を整理する時間が欲しい。そう思っていた。

5. 緊急回避

 宇宙ステーション「ウラノス」への到着は、意外とあっけないものだった。
 ゆっくりとスピードが弱まっていたため、「到着しました」というアナウンスが聞こえても、止まっていることに気付かなかったほどだ。到着して銀河鉄道に乗り込むまでは、再度無重力状態になる。しかし、今度は自由に移動できるわけではなく、目的の場所に向かって決められたルートを進まなければならない。これが大勢だと大変だ。しょっちゅう梶原さんや、他のウラノスの職員と思われる人が飛んできては、うまく移動できていない生徒を列に戻していた。
 途中の窓からはウラノスの外観が見えるのだが、これがまた大きい。
 天をつかさどる神様の名前を冠しているだけあって、その規模は想像を絶する。窓から外観を眺めると、まるで一つの街を見ているような気分に陥るのだ。大きな球体上の本体が中心にあり、そこから枝状に様々な施設が飛び出ている。この突き出した部分が、夜の街に影となって見えるビル群を想起させるのだ。突き出した枝の先には、宇宙船や人工衛星と思われる物体がくっついてる。銀河鉄道もすでに到着しているのだろうかと探してみるが、移動する間のわずかな時間では発見することができなかった。
 宇宙ステーション内部に入ると、ウラノスの艦長さんや広報担当と名乗る人たちが出迎えてくれていた。先生達と会話を交わした後は、こちらに向かって笑顔で手を振る。生徒たちに、よい旅を、というような言葉をかけてくれていた。艦長さんはヒゲをはやした五十代くらいの男性だ。それを見た明渡君と杉原君は「いかにも過ぎる」と笑いをこらえていた。私には、何のことかよく分からなかったが。
 移動の途中、梶原さんが艦長さんのもとに寄って挨拶をする場面にも出くわした。梶原さんは笑顔だが、艦長さんは少し嫌そうな表情をしているように見えた。梶原さんはああいう性格だから、やっぱり上司にも嫌われているのだろうか。艦長さんの態度を意に介さず接する梶原さんを見ていると、きっとこの人は誰に嫌われても平気なんだろうな、と思えてくる。相手が誰であれ自分のやり方を貫くのだ。そして怒られた時には「こういう性格なんだから諦めてくれ」と平気な顔で言う。これは、私も少し見習ったほうがいいかもしれない。
 先生達からの説明によると、銀河鉄道ハリーはすでに待機していて、いつでも乗り込める状態であるそうだ。点呼を取ったらすぐに乗り込み、部屋割りや生活方法など、詳しいことは、中の会議室で説明するらしい。ウラノスをもう少し見学したいという声も上がったが、この宇宙ステーション自体が大量の見学者を受け入れるようには作られていない。職員の数も少ないという理由もあって、却下されていた。
「それに、あまり無重力状態に長くいると、人によっては体調が悪くなる場合もあります。これから二週間近くにもなる旅のスタートですから、体調万全で臨みましょう」
 梶原さんもそう説明し、好奇心旺盛な生徒たちをなだめていた。

「ウラノスって確か、これまでで最大の宇宙ステーションだったよな? 意外と職員が少ないんだな」
 後ろから、杉原君の声が聞こえる。移動中、彼はずっときょろきょろしながら、明渡君にぼそぼそとしゃべりかけていた。
「うん、俺もそれ思った。窓から見える規模からするとめちゃくちゃでかいけど、職員は二百人くらいだって言ってたな。ということは、かなりの部分が自動化されてるってことだろ」
「いまだに地球では、人手でなんとかしてることって多いんだけどな。あー、俺も見学させてもらいてーなー」
 杉原君の口調からは、ずいぶんウラノスに興味があることが伝わってくる。お父さんが宇宙開発関係の仕事をしていたと話していたから、それも関係しているのかもしれない。
「でも、たかだか日本の学生を迎え入れるのに、ウラノスの艦長まで出てくるってすごいよな。この学校ってそんなに知名度があったんだな」
 慣れない移動を続けながら、二人の雑談は続く。他愛ない話を続けるということが苦手な私としては、ある意味うらやましい能力である。
「それな、俺も驚いてたんだけど、どうやら違うみたいだぞ」
 明渡君が声を潜める。
「違う?」
「うん、さっき梶原さんと艦長さんが話してるのが聞こえてきたんだけど」
「聞き耳立てたんだろ」
「……まあ、そうとも言うけど、とにかく、俺たちを待ってたわけじゃないみたいなんだよ。漏れ聞く話から想像すると、同じ軌道エレベーターに乗ってた誰かを待ってたみたいなんだけど・・・・・・」
「まじかよ。確かに軌道エレベーターは一般の人も乗ってるって言ってたけど、そんなVIPが乗ってたのか。そっちの部屋も覗きに行けばよかったなぁ」
「さすがにそれはできないと思うけど……、ん?なんだ、この音?」
 二人の会話を遮るように、突然背後が騒がしくなった。コントロールルームと思われる部屋から、けたたましい電子音が響いてくる。他の生徒たちも、ざわざわと不安気な声を上げる。
「皆さんはここで少し待機していてください」
 案内してくれた職員さんは、私たちを待たせたまま、来た道をすいすいと戻っていく。後ろにいた梶原さんと合流し、騒ぎの中心地へと素早く移動する。不安を覚えながら二人の様子を見守っていると、梶原さんは別の職員と奥のコントロールパネルと思われる設備に向かった。案内してくれた職員の人は、他の職員と何事か話した後、こちらに戻ってくる。職員さんはこちらに到着するや、緊張した面持ちで、「すぐに近くの手すりにつかまってください」と告げた。
「これからウラノスはしばらく揺れます。体が飛ばされないように、しっかりと体を固定してください。男子諸君は女の子たちが飛んでいかないように、しっかり守ってあげてね」
 こちらを落ち着かせるためだろう、口調はあくまで軽い。私たちに言った言葉を、生徒全員に伝えて回っている。みんな慌てて壁の手すりにつかまり、なるべく壁際に身を寄せる。職員さんは全員の準備が整っていることを確認すると、自身も手すりにつかまる。
 一泊おいて、、
「動くよー!」
と声を張り上げた。
 同時に制御ルームのほうからは、
「緊急回避―!」
という声が聞こえてきた。
 その声の鋭さに、みんな一斉に体に力を入れる。
 しかし予想に反して何も起きない。
 あれ、と思い少し力を抜いたその瞬間、捕まっていた手すりが、すさまじい勢いで私とは逆の方向に離れていく。ウラノス全体が、そちら側に急激に移動したのだ。
 完全に油断した。
 必死に手すりにしがみつこうとするも、体勢を崩していてうまく力が入らない。あっと思った時には、片手が手すりから離れてしまった。
 もうだめだ、と絶望する。
 しかし次の瞬間、背中に強い力を感じた。
「何やってんだ!ちゃんと掴んでろ!」
 声がしたほうを向くと、思わず近いところに杉原君の顔があった。彼も厳しい表情をしているが、私を抱えたまましっかりと体を固定している。私は言われるままに手すりをつかむ。そのまま杉原君に守られる形になりながら、時間にして一、二分ほどだろうか、私は無我夢中で手すりにしがみついていた。
 幸いにも大きな揺れは最初だけで、後は比較的小さな揺れですんだ。揺れが収まってから、私はまだ混乱する頭で必死に状況を把握しようとしていた。杉原君が守ってくれたおかげで、体は無事だ。通路の奥からは職員さんの「もう大丈夫だよー」という声が聞こえてくる。恐る恐る体の力を抜くと、そっと杉原君の手が体から離れたのに気付いた。
「た、助けてくれて、ありがとう」
「ちゃんと指示通りにしなきゃだめだよ。まぁ、とにかく、お互い無事でよかった」
 息を切らしながら、杉原君が言う。口調は冷静だが、彼の顔も若干青ざめていた。
 周りに目をやると、少し離れたところに江藤さんの姿が見えた。そのすぐ後ろには明渡君がいて、何やら言葉を交わしている。見る限り二人とも怪我はないみたいだ。たぶんこの男の子二人は、職員さんの言葉を忠実に実行してくれたのだろう。ほとんど余裕がない中、私たちのことまで考えて動いてくれていたのだ。その冷静さと行動力に、私は感動さえ覚える。
 私も、少しくらい近づけるように頑張らなくては。

 今回はさすがに全員無事とはいかなかったようだ。特に、私と反対側の壁につかまっていた生徒の中には、揺れた時に強く壁に体をぶつけた人もいたようだった。今はそういう生徒たちを保健の小橋先生が診ているが、何せこの場では手当てする道具もない。早く落ち着ける場所へ移動したいと、先生が職員さんに詰め寄る一幕もあった。
「ざっと見てきたけど、そこまでひどい怪我をしたやつはいなそうだな。少し休んでれば、痛みは取れるんじゃないか」
 先生達と手分けしてみんなの状態を見回っていた明渡君が帰ってきた。彼の家は古くから医者の家系らしく、本人も医者になるつもりで勉強しているらしい。「小さいころから親の手伝いでこき使われていたから、怪我人は見慣れてるんだ」と言っていた。
「でもやっぱり、俺も先生の言う通り、早いとこ移動したほうがいいと思う。まずは怪我の程度をちゃんと把握しないと……。あ、太田先生と梶原さんだ。話がついたかな」
 明渡君が見る先から、何やら話をしながら大人二人が宙を泳いでくる。相変わらず太田先生はぎこちないが、顔は真剣だ。近くまで来たところで、先生がみんなに向かって声をかけた。
「今しがたウラノスとハリー両方の許可が取れました。これからすぐに、ハリーのほうへ移動します。移動したら一度ホールに集まり、そこでまず怪我人を手当てします。それが終わり次第、梶原職員から詳しい話があります。それでいいですね?」
 太田先生が一度梶原さんに確認する。
「はい、まずは一度落ち着かないと。ハリーの居住空間内は擬似的に地球上と同じ重力がかけられていますので、怪我の処置もそちらのほうがしやすいでしょう」
 梶原さんの言葉に一度頷くと、太田先生は今田先生と小橋先生を呼んで、それぞれのクラスを引率するよう指示を出した。
「それでは奥のほうから順次移動を開始してください。怪我をしている生徒がいたら、近くの人が手伝うように」
 太田先生の号令で、みんな少しずつ移動を開始する。私もクラスの友人を手伝ったりしながら、のろのろと壁を伝って移動していた。途中江藤さんと二言三言言葉を交わしたが、お互いにあまりしゃべる気になれず、ほとんど無言で進んだ。アイボリーを基調とした通路は明るかったが、ぶつかって壊れた備品が漂っている場面に遭遇すると、みんなかえって恐怖が増長してしまうようで、終始うつむきがちであった。
「おい、大丈夫か?」
 前を行く明渡君が、唐突に杉原君に声をかける。杉原君は途中から何かを考え込んでいるようで、移動中も何度か通路の備品にぶつかりかけていた。
「ん、ああ、すまん。大丈夫」
 そう言いながらも、目は明渡君を見ていない。明渡君はその様子に心配そうな目を向けていたが、最終的には諦めたように進みだした。

 銀河鉄道への「乗車」は、思っていたより静かに行われた。怪我人を連れていたから、当然と言えば当然なのだが。

 パニックが起きた制御室から伸びる通路を、ふわふわと十分ほど移動すると、突然四方がクッションのようなものに覆われたロビーが目に飛び込んでくる。中央部分はガラス張りになっていて、そこからハリーの一部が見えている。おそらく本来であれば、ここが出発前の待機ルームとして使用されるのだろう。四方の壁に配置されているクッションはソファ替わりだろうか?寝そべると気持ちよさそうだが、無重力空間で必要かどうかはなんとも判断できない。まぁ、さっきのように急に動くことがあるのであれば、ソファにぶつかるほうが被害が少ないかもしれない。
 不安げに移動してきた生徒たちも、この部屋を通過するときはもの珍しそうに周りを見回していた。
 窓から間近に見えるハリーは、ウラノスほどではないにしても、十分巨大だった。この窓からは、車輪構造のハリーの、軸にあたる部分しか見えない。その軸だけで、すでに二階建ての一軒家ほどの大きさがあるのだ。それもそのはずで、軸から伸びている外輪部分には、数十もの客室と食堂車、トレーニングルームが配置されている。中央部分だけでこれだけ大きいのにも納得できる。
 クッションだらけの待機ルームから、さらに細い通路に入ると、一度ハリーは視界から消える。その先には人一人がちょうど入れるだけの小さな扉があり、今はその脇に、制服を着た女性と男性が待ち構えていた。
「お待ちしておりました。ようこそ銀河鉄道ハリーへ!」
 生徒の一団が近くまで移動すると、二人は通路の奥まで聞こえるように大きな声で、歓迎のあいさつを述べた。朗らかな声だったが、私たちの身に何があったかは聞いているのだろう、二人の顔にはねぎらうような表情があった。
「いきさつは聞いています。係員が案内しますので、どうぞ中にお入りください」
 狭い扉からはオレンジ色の柔らかな光が漏れていて、その光景になんとなく安心感を覚える。
 先頭にいた太田先生が扉をくぐり、生徒たちがそれに続く。同じく先頭にいた梶原さんは、扉の横で待機している。通り過ぎる生徒の状態をチェックしているようだ。私たちが扉に差し掛かるところで、梶原さんと目が合った。さっと私たちの状態を見ると、少し安心したように息を吐いた。
「特に怪我はないみたいだな。すまんが、目的地に着いたら君らも保険医さんの手伝いをしてくれないか。一人では大変だと思う」
 梶原さんは小声でそうつぶやく。私たちはそれぞれに頷き返した。梶原さんは目を細めると、「頼んだ」と言い、私たちから目を離した。
 中に入ると、みんな同じようにその内装に驚いていた。今までの軌道エレベーターやウラノスは、快適には作られていたものの、主にプラスチック樹脂や金属で構成されていて、どうしても「構造物」という印象が強かった。しかしこの銀河鉄道ハリーは、内部の柱や備品に、暗褐色の木材がふんだんに使用されていた。通路の絨毯や壁の絵画なども相まって、高級ホテルのロビーのようである。
「奥のエレベーターで、順次外輪部へとご移動ください。そちらにも係員が待機しておりますので、案内に従って大広間へ移動し、そちらで全員がお揃いになるまで、しばらくお待ちください」
 中にいた係員さんが、そう私たちに呼びかける。この人も外にいた人たちと同じ制服姿だ。人の流れに乗って奥に移動すると、そこに少し広くなっている空間があり、他の生徒たちがエレベーターを待っていた。エレベーターの大きさにもよるが、この人数だと、私たちが乗れるのはもう少し先になりそうである。
「おい、見ろよ」
 杉原君の声に振り向くと、やや興奮した面持ちで右手側を指差している。そちらを見ると、壁に設けられた窓の奥で、何やら多くの人が動き回っているのが見えた。
「もしかして、ここが運転室?」
 江藤さんが少し驚いたように言い、中を覗こうと首を伸ばす。私も同じように覗き込むと、中にいた女性の職員と目が合った。その女性はこちらに気付くと、笑顔で手を振り、すぐに作業に戻っていく。この人も制服姿だが、外にいた人たちより動きやすそうな格好だ。手際よく計器類のチェックを済ませていく。
「けっこう大きいんだなー。でもここだけ見ると、全く鉄道感がないな」
「まぁ、もともと鉄道感はあんまりなかったけどな。運転室っていうより、空港の管制室とか、そんな感じだよ」
 明渡君と杉原君の会話通り、円形の部屋の前方には大きなモニターがあり、脇にある様々な計器に向かって人が立ち並ぶ様は、空港の管制室を思い起こさせる。前方のモニターの左半分には銀河鉄道ハリーの全体図が映し出され、各部屋の監視カメラの映像が映ったり消えたりしている。右半分にはおそらく前方の景色が映し出されているのだろう。ほとんどが星空で占められた画面の中、端にウラノスの一部と思われる影が見える。部屋の中央の少し高くなっている座席は、今は誰も座っていない。きっと、この宇宙船の船長、いや、この銀河鉄道の場合は車掌や運転士と呼ぶのだろうか?そういう人が座るに違いない。
「麻田さん、前、前」
 江藤さんの声に我に返ると、周りが動き出すところだった。私は慌ててエレベーターのほうに向かって移動し出した。
 意外とエレベーターは大きく、一度に二十人ほどが乗ることができた。乗り終わると乗務員さんから、一人ずつエレベーターに備え付けてあるベルトのようなものを足に巻くように伝えられた。
「それを巻いておかないと、エレベーターが動き出したときに天井にぶつかってしまいますからね。皆さん必ず巻いておいてください」
 狭い中で足にベルトを取り付けるのは大変だったが、皆なんとか巻き終える。それを確認した職員さんは、
「それでは、外輪側に到着しましたらスタッフが待機しておりますので、そちらの指示に従って移動してください」
と言い、ドアを閉めた。
 エレベーターが動き出すと、足に巻いたベルトに力がかかるのが分かる。
「うわうわ」
 江藤さんが焦ったような声を出した。足に巻いたベルトが緩かったようで、するすると浮き上がり、みんなより頭一つ抜けた格好になる。
「あれ、急に背が伸びたね」
 明渡君が茶化すと、周りからクスクスと笑い声が漏れる。移動した安心感からか、先ほどのトラブルでの緊張感は少し和らいでいるようだ。
「焦った。天井まで行くかと思った」
 幸いベルトは足首でひっかかり、抜けてしまうことはなかった。
「江藤さん、手、手」
 私が声をかけると、江藤さんはこちらを見てはっとなる。
「ごめーん!つい」
 実は江藤さんは、浮き上がる際にとっさに私の腕をつかんでいた。それに引っ張られる形で、私もやや浮かび上がっていたのだ。しかも私の場合、足のベルトがしっかりと固定されていたので、両方に引っ張られる形になり、体がぐいぐいと引き伸ばされていた。
 江藤さんは慌てて手を離す。私は楽になったが、江藤さんはさらに少し上に上がる。
「おお、江藤さん成長期だね」
 笑いを含んだ声で明渡君が言う。
 江藤さんはその言葉を笑顔で受け流すと、
「あれ、明渡君。普段は無駄に大きいから分からなかったけど、けっこう危ないんじゃない?」
と言いながら、明渡君の頭を人差し指でぐりぐりと押した。
「え、嘘だろ。ありえない」
 明渡君は江藤さんの手を払いのけると、髪の毛を確認する。
「いやいや……、大丈夫だろ、そうだろ、杉原」
 杉原君に助けを求めるも、杉原君は杉原君で、
「いやーどうだろうな。俺もちゃんとは見てないから。明渡はけっこう髪の毛細いからなぁ」
とまじめな顔で言う。周りのみんなはつられて笑うが、明渡君はあくまで真剣な面持ちで髪の毛を触っていた。やはり、男の子にとっては重要な問題なのだろう。
 そうこうするうち、エレベーターが減速に入ったのだろう、江藤さんが下側に戻ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
 同じ目線になった江藤さんに、私は笑顔で答える。
 束の間、私たちに重力が戻ってくる。軌道エレベーターがウラノスに到着して以降、短い時間だったとはいえ、無重力状態で動き続けていたのだ。慣れないことを緊張状態で続けていたためか、なんだか久しぶりの感覚である。足にかかる自分自身の質量を、じっくりと味わう。なぜだか、それだけで心が少し休まる。
 それにしても、エレベーターはずいぶん長い間移動していた。それだけ、ハリーは巨大なのだ。足にかかる負荷はどんどん大きくなってくる。最後は、足腰にかなり力を入れなければ立っていられなかった。一瞬脂汗をかく。周りからも、小さなうめき声が聞こえてくる。
 チーンという音と共にエレベーターが外輪側に到着し、そこで再び重力から解放される。
「びっくりした。体がすごく重く感じたぞ」
 同じ感想がちらほら聞こえてくる。プールに長く浸かっていると、出た時に体が重く感じることがあるが、あれをさらにひどくした感じだ。
「なるほど。確かに、無重力には長くいるもんじゃないかもな」
 開いたドアをくぐるときに、明渡君がそうつぶやいたのが聞こえた。全く同感である。人間の体も頭も、楽なほうにはすぐに順応してしまうようだ。
 ドアの先には、同じように制服姿の職員さんがいた。
「ようこそ銀河鉄道ハリーへ。まずは奥のホールへ移動して、待機していてください。皆様がそろいましたら、当機の設備についてご案内させていただきます」
 促されるまま通路を移動すると、開け放ったドアの向こうに、体育館ほどの大きさのホールが見えた。絨毯張りの床に、柔らかな照明。備え付けのイスは簡素だが、座り心地がよさそうである。もちろん、今私たちは、ふわふわと浮いているので必要ないのだが。
 確かにここなら、全員を一堂に会して話をすることが可能である。先に到着していた小橋先生は、すでに忙しそうに動き回っている。それを見つけた明渡君は、すぐに先生のほうへと向かう。私たちもそれに続いた。
「手伝います。どんな状態ですか」
 明渡君が聞くと、先生は安堵の表情を浮かべ「ありがとう、助かるわ」と答えた。
「そこまで大きな怪我をした子はいないんだけど、打撲がひどい子が何人かいるわね。氷水は用意してもらったから、袋に詰めて配ってもらうのと、あと、包帯で患部を固定してくれると助かるわ」
「分かりました」
 話を聞くと、明渡君はホールをぐるりと見回す。氷水の入ったタンクと応急処置のための用具の位置を確認し、すぐにそちらへ移動していった。
「あの、あたしたちも何か手伝うことありますか」
 江藤さんが聞く。
「そうね。じゃあ一人は明渡君を手伝ってくれるかしら」
「俺が行きます」
 杉原君がすぐに応じる。
「あとは……」
 先生は少し考える。
「怪我の処置は何とかなると思うんだけど、ショックを受けている子が多いわ。不安を和らげてあげられるといいんだけど……。頼めるかしら」
「やります」
 江藤さんは即答だ。
「麻田さん、行こう」
 江藤さんは室内をぐるっと見回して、いくつかの集団を見つけると、
「まずはあっちから」
と壁を蹴る。
「みんな大丈夫?」
「あ、彩香」
江藤さんが最初に向かったのは、同じクラスで比較的仲の良いグループが集まっているところだ。江藤さんが到着するや、お互いの状況を報告し合う。見る限り、このグループは大丈夫そうだ。怪我の手当てもあらかた終わっていて、ややのんびりした雰囲気が漂っている。
「小橋先生からみんなの様子を見てくるように頼まれたんだけど、何か困ってることある?必要なものあったら取ってくるけど」
 それを聞いて、みんなそれぞれに考え込む。しかし、「いや、うちらは大丈夫だわ」と、奥にいた子が言った。
「いいの?奈津子」
 江藤さんが心配そうに聞く。奈津子と呼ばれた子は、江藤さんと同じ部活に所属している子だ。苗字は吾妻だったはずである。日に焼けた肌に黒目がちな顔が活発な印象を与えるが、今は肩に氷水を当てている。
「みんな動けないような怪我はしてないから、必要なものがあったら自分たちで取りに行くよ。他の子たちを見てあげて」
 江藤さんはじっと吾妻さんの目を見ると、
「分かった。じゃ、こっちは任せた」
と言って、みんなに手を振って移動しだした。私は付いていくので精一杯だ。江藤さんの後を追おうとして、不意に「麻田さん」と名前を呼ばれた。
「は、はい」
 自分の名前を呼ばれたことに驚いて、勢いよく振り返ると、吾妻さんが苦笑していた。
「そんなにかしこまらなくていいよ。ちょっとお願いがあって」
「な、何かな。あ、氷水変える?」
「ううん、まだ大丈夫。ありがとう」
 吾妻さんはこちらに笑顔を向けると、ちょっと言いにくそうに間を置いた後、「彩香のサポート、お願いね」と言った。
「あの子って、見た目は可愛らしいんだけど、性格は男勝りっていうか、けっこう気が強いところがあるのよね。慕ってくる子も多いんだけど、合わないタイプとはとことん合わないから。もしあの子がやばい状況になったら、助けてあげてほしいんだ」
 真剣な表情に思わず頷くと、吾妻さんは周りからすごい勢いで茶化された。
「出たー。やっぱり恋女房は言うことが違うわー」
「分かり合ってるって感じ、キュンキュンしちゃうー!」
 やんややんやとはやし立てられるのを、吾妻さんは恥ずかしそうに遮る。
「ごめん。気にしないで」
 ばつが悪そうに吾妻さんが言う。しかしそのとき、「あ!杉原君こっちに来るよ!」という声が聞こえると、「マジで?どこどこ?」と急にそわそわしだした。
「ホントだ。明渡君が手当てしてるのを手伝ってるっぽいね。もっと痛そうにしとかないと」
 言うが早いか、吾妻さんはぐったりしてみせる。私があっけにとられていると、
「あ、ごめん。そういうことだから、よろしく!」
とこちらに向かって手を合わせる。私は混乱しつつも「う、うん」と頷き、とりあえず江藤さんの後を追うことにした。
「なんか騒いでたみたいだけど、何か言われた?」
 追い付くと、江藤さんからそう聞かれる。
「ええと……、杉原君が来たから痛そうにしとかないとって……」
 前半部分は端折って話すことにした。江藤さんはそれを聞いてくすっと笑い、
「あのグループでは杉原君人気だからねー」と言った。
「人気なんだ。確かに、けっこうかっこいいもんね」
 私は何気なくそう応じるが、ウラノスが大きく揺れた時に助けてもらったことを思い出し、いまさらながら恥ずかしくなる。
「もちろんそれもあるけど、奈津子は地元が杉原君と一緒なんだって。で通ってた中学で野球部の練習試合があったらしくて、何の気なしに部活の合間に眺めてたら、そこにボールが飛んできたと」
「ふんふん」
「危ない!と思った時にはもう間近で、当たるのを覚悟したらしいんだけど……、そこで間一髪奈津子を守ったのが」
「杉原君なの?」
「そうらしいよー。ばっちりキャッチして、弾丸ライナーでボール返して、怪我してない?だってさー」
 江藤さんは最後にきざっぽく喋ってみせた。杉原君の真似らしい。
「すごーい。それで一目惚れってこと?」
「高校に入ってからも何かあったらしいんだけど、目下片思い中ってとこですかねぇ」
 思わず振り返ると、ちょうど明渡君と杉原君が吾妻さんのグループに到着するところだった。吾妻さんはここから見ても分かるくらいにしおらしくなっている。私はさっきまでとのギャップに思わず吹き出す。
「あの子もいい子なんだけどね。果たして杉原君が気付くかなー」
 やれやれという顔をしながらも、内情では応援しているのだろう。お互いのことをそれとなく思いやる姿を私はうらやましく思った。
 私には、サポートし合う仲間がいたことはあったが、こんな風に深く内情を共有できるような友達はいなかった。そもそも、同年代の友達が極端に少なかったからそうなのか。
 昔のことを思い出して感傷に浸っていると、不意に江藤さんが振り向く。
「あ、次はあそこ行くから」
 そう言うと江藤さんは、部屋の隅に固まっている男女混合の一団を指差した。
「……気合入れたほうがいいかも」
 江藤さんの最後の言葉に、私は首をかしげる。しかしその集団をよく見て、その言葉が意味するところを理解した。

「大丈夫?何か手伝うことある?」
 江藤さんが先ほどと同じように声をかける。こちらに気付いた女の子たちが、彩香、と声をかけてくる。氷水を当てている子が何人かいるが、みんなそれほど大した怪我ではなさそうだ。口々に、怖かった、痛かった、と言い合ってはいるものの、深刻さはあまり感じられない。
「突然だったからね、ホントびっくりした。あたしもたまたま大丈夫だったけど、次同じ状況になったら分からないもん」
 何人かが江藤さんを囲み、それぞれの状況を確認し合う。こういう場面を見ると、いかに江藤さんがみんなの精神的な支柱になっているかが分かる。
「たまたま大丈夫だったんだ?へぇ」
 とそこに、突然男の子の声が割り込んでくる。その声が聞こえたとたん、江藤さんを囲んでいた女の子たちが身を固くするのが分かった。江藤さんも表情を硬くして、声がしたほうを見る。
「何が言いたいの?石川君」
 その声を合図にしたように、この一団の中で最も大きい集団がばらけ、その中から、声の主である石川君が現れた。頭にぐるぐると包帯を巻き、両脇には軌道エレベーターの中で一緒にいた男の子たちが付き添っている。いかにも、重傷を負った、という出で立ちである。
「いや、別にー?ただほら、軌道エレベーターの中でも助けてもらってたじゃん、あのおじさんに。今回もそうだったのかなーと思ってさ。江藤さんって、おじさん受けいいもんね」
 にやけた顔から発せられた言葉に、江藤さんの表情が強張る。
「あのときは確かに助けてもらったけど、ウラノスの時は梶原さんいなかったでしょ。今回は偶然いい位置にいたのよ」
「ふーん。でもさ、実はどこが安全かとか、教えてもらってたんじゃないの?あの人ならそれくらい分かるでしょ。お気に入りの子には怪我させたくないだろうし」
「だから違うって……!」
 江藤さんのイライラが募るのが、傍から見ていてもよく分かる。それにしても、梶原さんに悪感情を持っているだけで、江藤さんにまでこんな嫌味を言うのか。私はその感情が理解できず、言葉が出ない。
「違うって石川君。江藤さんはあのおじさんに助けてもらったわけじゃないよ。さっきから本人がそう言ってるじゃん」
「飯田さん……」
 少し釣り目気味の女の子が、人をかき分けてこちらに近寄ってくる。意外にも、さっきまで石川君を取り囲んでいた集団からだ。石川君も驚いたような顔を向ける。
「あんまり決めつけちゃダメだよ。あたし見てたんだから。あのおじさんが江藤さんに何かを伝えるような時間もなかったよ」
 江藤さんも石川君も、無言でそちらを見る。なぜか江藤さんは、少し困惑している様子だ。
 飯田さんと呼ばれた女の子は、ゆっくり江藤さんのほうを向き、満面の笑みを浮かべた。
「だって江藤さん、あのときは明渡君に助けてもらってたじゃない。こうやってぎゅーってされてさ。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃう」
 抱きしめるジェスチャーを交えながら、かわいらしい声で言い放つ。
「それは……!」
 江藤さんも何か言おうとするが、言葉にならない。私は自分が杉原君に助けてもらったときのことを思い出した。その瞬間は見ていないが、確かにあのとき、江藤さんのすぐ近くには明渡君がいた。江藤さんも、私と同じような状況だったのかもしれない。
 それを聞いた石川君の顔に、また笑みが戻ってくる。
「そうだったんだ、ごめんごめん、勘違いしてたよ。明渡が助けたんだ。そういえばあいつもあのおっさんにはキレてたもんな。自分も負けじといいところを見せたってとこか」
 うんうんと頷きながら石川君は続ける。
「いや、それにしても江藤さんすごいね。あいつからアプローチを受けた子なんて、今まで聞いたことないよ。これはファンクラブも解散だな」
 そう言って石川君は、ぐるっと周りを見回す。いつの間にか周囲のざわめきは消え、女の子たちが少し距離を開けて私たちを取り囲んでいる。その中には、先ほど江藤さんと親しげに話していた女の子も混じっている。しかし、その表情は先ほどとは打って変わって、昏いものを孕んだものへと変化している。
「だからそういうことじゃないって。確かに明渡君には助けてもらったけど、それもたまたま近くにいたからよ。何も特別なことなんてないって」
「でもさっきは、いい位置にいたから大丈夫だった、って言ってたじゃない。何もないなら、素直に明渡君に助けてもらったって言えばいいのに」
 飯田さんは相変わらず笑みを浮かべたまま、話に割って入る。江藤さんは、その言葉を聞いてまた黙り込んでしまう。
 なんか、嫌な感じだ。
 どうして、江藤さんが攻められている?
 江藤さんは、ただみんなの不安を和らげるために動いているだけだ。なのにどうしてこの人たちは、こんな態度をとるのだろう。自分たちは怪我したのに、私たちは無事だったから?
 たとえそれが不満だったとしても、江藤さんを傷つける理由にはならない。江藤さんを笑う理由になんて、なりえない。
 それにもし、もし江藤さんが梶原さんをかばったという理由だけでこんな態度をとっているのだとしたら、私はそれを許さない。
 今まで感じたことがない怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。
 江藤さんの顔をうかがうと、何か言い返そうと言葉を探す唇が、小さく震えているのに気が付いた。その姿を見て、私も心が決まる。吾妻さんに託された言葉を思い出していた。
「江藤さんは明渡君に助けてもらってたんだね。揺れがおさまった時に二人が近くにいたのを私も見たから、そうだったのかなとは思ってたんだけど」
 急に喋り出した私に、石川君と飯田さんは不審者を見るような顔つきになる。江藤さんも驚いたような顔でこちらを見るが、私はできるだけそれを意識しないようにしていた。
「実は私も、同じように杉原君に助けてもらったんだよね」
 飯田さんの顔が強張るのを横目で確認し、私はさらに続ける。
「さっきの話からすると、私も杉原君からアプローチ受けちゃったのかな。あんまり意識してなかったんだけど、そうなると困っちゃうね」
 最後は飯田さんのほうをしっかりと見つめて言う。彼女は即座に、
「そんなことあるわけないでしょ!」
と言い返してきた。
「え、でも……。私もぎゅーってされたよ。明渡君が江藤さんにしたのと、同じような感じだと思うんだけど……」
 その言葉を言い終わると同時に、飯田さんは顔を赤くして、恐ろしい形相でこちらに詰め寄ってきた。
「あのね、勘違いしないでよ。杉原君があなたみたいな変なのに気があるわけないでしょ。覚えてる?あのときスタッフの人が、男の子は女の子を守るようにって言って回ってたでしょ?杉原君はちゃんとそれを守っただけ。あなたが近くにいたからしょうがなくよ。あんな揺れなんだから、力が入るのは当然でしょ。あなたに気があるなんて、絶対ありえないから!」
 最後は叫ぶように言う。
 私はその剣幕に気おされたように、
「そ、そっか……、そうなんだ……。わたしが勘違いしてたってこと……?」
と聞き返す。飯田さんはまだ肩をいからせながら、「だからさっきからそう言ってるでしょ」と釘をさしてくる。私は一度うなだれ、「そっか……」とつぶやく。
 そして、
「でも、それなら、きっと明渡君もそうだよね」
と笑顔で言った。
 飯田さんは一瞬呆けたような顔をした後、私の意図に気が付いて、怒りに顔をゆがめる。
「明渡君は……、だから……」
 私は、ぶつぶつと言葉を漏らす飯田さんを慎重に観察していた。
 きっと今、飯田さんの頭の中では、相反する回答がせめぎ合っている。どちらをとっても、自分に都合がよくないところが残る回答だ。少なくとも、杉原君が私に気があるとは、絶対に認めないだろう。そうである以上、明渡君のことだけを言い続けることはできないはずだ。
 飯田さんが言葉に詰まったことを確認して、私は周りの様子をうかがう。
 石川君はすでに興味を失った顔だ。もともと江藤さんを追い詰めることにはそんなに熱心ではなかったのだろう。彼にとっての敵は、あくまで梶原さんなのだ。
 周りを取り囲んでいた女の子たちも、まだお互いに何かひそひそとささやき合ってはいるが、明らかに先ほどより敵対ムードが薄れている。江藤さんの友達の顔からも暗い影は消え、気の抜けた表情になっている。
 たぶん、これで大丈夫だろう。まだ飯田さんがどんなことを言い出すか分からないところはあるが、彼女は自分で自分が言ったことを否定した。あとはどんなことを言っても、関心を失ったギャラリーを引き戻すことは不可能だろう。
 飯田さんはまだ何か言いたそうな顔でこちらを見ていたが、私はタイミングよく部屋に入ってきた太田先生を見つけ、
「ごめんなさい、先生が来ちゃった。また後でね」
と言い、江藤さんを連れてその場を離れることにした。
 途中、江藤さんが「ありがとう、ごめんね……」と力なくつぶやく。
「ううん、大丈夫。いつもは江藤さんが私をフォローしてくれてるから、何かしなきゃと思って」
 平静を装って答える私のほうを見て、江藤さんはもう一度、ありがとう、とつぶやいた。
 しばらく無言で移動する。ホールの中央付近まで来たときに、江藤さんが「そういえば」と言った。
「飯田さんが杉原君のこと好きだって、よく分かったね。知り合いだったってわけじゃないんでしょ?」
 その声が普段どおりに戻っていることを感じ、私は少し安心する。
「うん、ほとんど初対面。でも、直前で同じように杉原君のことを目でちらちら追ってる人を見てたから、もしかしてそうなんじゃないかと思って」
「それってもしかして……、奈津子のこと?」
 江藤さんが目を丸くしてこちらを見る。私は苦笑し、「あたり」と答えた。
 実際吾妻さんと会っていなかったら、あの場を切り抜けられたかどうかわからない。吾妻さんには江藤さんを助けてあげてと言われたが、彼女は間接的に、江藤さんを守ったのだ。
「あ、でも……、さっきの話は吾妻さんには言わないでほしいの……。誤解されたくないから……」
 あの場を切り抜けるためだったとはいえ、杉原君を利用したことには違いない。それに杉原君に助けてもらったことは本当だ。変に話が広がって、吾妻さんを傷つけるようなことにはしたくなかった。
「そりゃあ、もちろんよ。もし奈津子が麻田さんのことを誤解してたら、あたしがきっちり訂正しとくから」
 江藤さんが力を込めて言う。私は、「よろしくお願いします」と頭を下げる。その後、どちらともなく笑いが込み上げてきて、二人でしばらく笑い合った。緊張の糸が途切れたのだろう。江藤さんの目に滲んだ涙は、笑ったからだけではないと思った。
 笑いがおさまった後で江藤さんは、
「麻田さんのこと、これから真理子って呼んでいい?あたしのことは彩香って呼んでよ」
と言った。当然断る理由もないので、私は首をぶんぶんと縦に振って承諾する。
 それにしても、あんなに強い怒りを感じたのは久しぶりだ。
 私は心地よさと疲れを同時に覚えながら、同じ班の男の子二人が待つ方へと向かって、床を蹴った。

「明渡先生、診察ご苦労様です」
「まだ先生じゃないよ。それに小橋先生の手伝いをしただけだし。それより、そっちこそいろいろ飛び回ってたみたいだけど、大丈夫だった?」
 男の子二人に合流して江藤さんが声をかけると、明渡君が意味ありげに聞いてくる。石川君がいたグループから戻ってきたのを見ていたのだろう。杉原君も心配そうな目を向けている。
「大丈夫大丈夫、真理子が助けてくれたから。ちょっと危なかったけど」
 真理子、と江藤さんが私を呼んだことに、明渡君はちょっと眉を上げてみせた。だがそれより、私が江藤さんを助けたという部分に興味を持ったようだ。
「へぇ、麻田さんが……」
「あ、ほら、太田先生が何か話しそうだよ。梶原さんも後ろに控えてる」
 何か聞いてきそうな気配を感じて、慌てて話を逸らす。さすがに本人たちの前では話せない。明渡君は残念そうな顔をしたが、すぐ前を向いた。
 今私たちは、ホールの入り口を囲むようにクラスごとに分かれて集まっている。入り口には太田先生と梶原先生が立ち、メモを手に何事か話し合っている。先ほどまでは、ハリーの乗務員と思われる女性と何かを話していたが、今はその人は部屋を出ている。
 マイクを手に持った太田先生が梶原さんを見て頷くと、おもむろに話を始めた。
「みなさん、まだ混乱していると思いますが、とりあえずは大きな怪我を負った人はいないと聞いています。それに関しては本当によかった」
 その言葉に、一部の生徒が不満そうな顔をするのが見える。石川君がいるグループもその一部だ。
「先ほどのトラブルを受けて、私たちのほうでも今後の予定をどうするか検討しました。もちろん、どんな場所へ行くにせよ、予期せぬトラブルというのは起こりうるものですが、今回は場所が場所だ。皆さんの安全を最優先に考えなければならないということは、私たち全員の意見として一致しています」
 太田先生は一度言葉を切ると、ぐるりと生徒を見回す。
「さて、ではどのような行動をとるのが一番安全か、ということですが……」
 どこからか、「地球に帰るのが一番安全に決まってるじゃん」という声が聞こえてくる。私も声には出さなかったが、そういう話になるのではないかと懸念していた。
 太田先生は一度咳払いをすると、その声を無視して話を続ける。
「ええと、どういう行動をとるのが一番安全か、ということですが、私と梶原職員、それにウラノスとハリーの艦長で話をしたところ、このままハリーで地球を出発し、アルテミスに向かうのが最善だろうという結論に至りました」
 予想外の言葉に全員があっけにとられた後、すぐに部屋中に不満の声が飛び交う。何でですか、余計危ないじゃん、といった声が多い。
「静かに、静かにしなさい!」
 太田先生の声で生徒たちの声は少しトーンダウンするが、それでもざわめきは続いている。
「それについて皆さんが納得できないのは分かりますが、一度落ち着きなさい。これから、なぜここを出発するのが一番安全かということについて、梶原職員から話があります。まずその話を聞いてから判断しなさい」
 太田先生が声を張り上げる。「よろしくお願いします」という声と共にマイクが梶原さんに渡される。みんなの前に立った梶原さんには、これまでのこともあり、強い敵意を持った目が向けられている。
「太田先生からも説明がありました通り、私のほうから、なぜこのまま出発するほうが安全か、ということについてお話したいと思います。ですが、まずその前に皆様にお詫びしなければならない。不測の事態だったとはいえ、結果的に怖い思いをさせてしまった。中には怪我を負った生徒までいる。今回の事態は、ひとえに我々ウラノスチームの力不足によるものです。誠に申し訳ありません」
 予想に反して、梶原さんは深々と頭を下げる。みんなまだ顔には不満げな表情を浮かべているが、素直に謝られたことで、とりあえず騒ぐのを我慢しているようだ。
「質問していいですか?」
 静まり返ったホールに声が響く。そちらを見ると、石川君が手を挙げていた。先ほどの意地悪そうな表情は跡形もなく消え、いたって真面目そうな顔をしている。
「どうぞ」と梶原さんが促した。
「僕も頭を打って怪我をしたり、他にも治療が必要な生徒たちがいると思うのですが、それについてはどうするつもりですか?あと、こういった怪我に対する補償に関しては、何か考えておられますか?」
 梶原さんは石川君の質問を聞き終えると、一つ頷く。
「治療に関してですが、このハリーには先進国の医療機関と同じ程度の設備が備わっていますので、発進し次第、順次手当てを行うことができます。逆にウラノス側には簡易的な療養設備しか備わっていないため、本格的な治療を行う場合は発着場に戻るしかない。先ほどのトラブルで、現在軌道エレベーターは停止しているため、戻るにしてもだいぶ待たなくてはなりません。緊急度を考えると、やはりこのハリーへ移動したほうがよい、との判断です。それともう一つ大事なことがあって……」
 そこで梶原さんは一度言葉を切ると、周りを見渡してから太田先生に何か話しかけた。太田先生も同意するように頷く。
「説明が長引きそうなので、先に動かしてしまいましょう。皆さん、一度近くの取っ手につかまり、体を固定させてください」
 その声でホールに緊張が走る。もしかしてまた揺れが来るのか……。
 皆が必死で近くの取っ手にしがみついたのを見届けると、梶原さんは手にした携帯電話でどこかに連絡する。それにしても、やはりここも無重力を想定しているためか、いたるところに取っ手が備え付けられている。言われないと気付かないほど、周りのデザインと調和しているのはさすがだ。
 梶原さんが電話を切って少しすると、体に少しだけ力が加わってきた。電車が発車するときと同じような感じだ。
 辺りを見回すと、横にいた明渡君が天井を見上げているのに気が付いた。つられて見上げると、私たちよりも上に浮かんでいた生徒たちが、床側にゆっくりと降りてくるところであった。降りてくる生徒たちも何が起きているかよく分かっておらず、慌てて取っ手を握り変えている。
「そうか、そういえばここは、銀河鉄道なんだった」
 明渡君がぽつりとつぶやく。上側にいた生徒たちが私たちのところまで降り切り、ぽかんとした顔で床に座り込む。その光景を見て、私は何が起きているかを理解した。
 そう、重力が発生しているのだ。
「もう取っ手を離してもいいですよ」
 梶原さんの声が聞こえる。突然無重力状態から解放された生徒たちの多くは、まだ状況をうまく呑み込めていないようだ。
「よっこらせ」
 隣の杉原君はいち早く立ち上がると、屈伸を始める。
「はー、やっぱりこのほうが落ち着くなー」
「そうか?俺は無重力も楽でよかったんだけど」
「楽は楽だけど、なんかみるみる体が衰えていきそうじゃん。精神的に落ち着かないよ」
「そうか?まぁ確かに、体のほうは弱くなっていきそうだけど」
 落ち着いた口調で明渡君と杉原君が会話しだす。不思議とこの二人は、この状況に少しも困惑していないようだ。かく言う私もパンフレットを読み込んでいたため、さほど驚いたというわけではなかったが。
 全員が座りなおすのを確認し、梶原さんが説明を続ける。
「それでは改めて。見てわかるとおり、皆さんの体には重力、いや、正確には遠心力がかかっています。ちょうど地球上と同じように、1Gと同じ力が加わっています。こうすることで体は格段に安定し、治療する場合にも都合がいい。この銀河鉄道ハリーは、大きな車輪のような形をしています。今いるこの部屋は、その車輪の外輪部分に位置し、現在、その外輪部分をぐるぐると一定の速度で周回しています。それによってこの部屋、客車と呼ばれていますが、この客車を含め、基本的な生活スペースは、地上にいるのと変わらない生活が送れるようになっているのです。これがまぁ、銀河鉄道という名前の所以ですかね、艦長?」
 突然梶原さんが後ろを振り返る。それを合図にしたように、梶原さんが背にしていた扉が音もなく開くと、中から梶原さんと同年代らしき男性と女性が出てきた。
「詳細な説明ありがとうございます、梶原さん」
 女性のほうが一礼する。男性のほうはにこやかな表情をしながら、「久しぶり」と梶原さんに手を差し出す。梶原さんは差し出された手を握り返しながら、
「お久しぶりです、社長。今回の旅行ではお世話になります」
と言った。梶原さんはこちらに向きなおると、突然現れた大人二人の紹介をはじめる。
「こちらは、今回の旅でハリーの艦長を務めるケリー女史と……」
 紹介された女性が前へ出る。豊かな金髪と気が強そうな目元が印象的だ。
「このハリーを有する世界的な運輸企業、金城トランスシティの社長である金城正樹氏です。今回の旅では、この二人が責任を持って皆さんをアルテミスまでお連れします」
 男性のほうが進み出て、こちらに頭を下げる。物腰は穏やかだが、目には強い光が宿っている。金城トランスシティの名前は聞いたことがあるが、社長がこんなに若いとは思っていなかった。
「皆様、ようこそ銀河鉄道ハリーへ。今回の旅で艦長を務めさせていただく、ケリー・マーティンです。一応艦長という肩書だけど、この船は私を含めてたった三十人で操縦しているから、まぁ、そのまとめ役ぐらいに思っていただいてけっこうよ。もしくは、変り者たちの愚痴を聞く係かしら」
 ふふっと笑う姿は、とても宇宙船の艦長を務める猛者には見えない。
「今回は変り者が一人多いからね。いつもより愚痴を聞く回数が多くなるかもしれない」
 笑いながら金城社長がコメントする。その目は梶原さんを見ているから、変り者というのは梶原さんのことを言ったのだろう。梶原さんは面白くもなさそうに肩をすくめる。
「さっき梶原が言ったように、この宇宙船に銀河鉄道という名前がついているのは、客車や食堂車などの個別の部屋が、まるで列車のように外輪部分を周回することに由来しています。今は内装ばかりが話題になっているけど、ちゃんとした理由もあるのよ」
「形からすると、列車というかモノレールと言ったほうが正しそうですが」
 梶原さんがぽつりと言う。ケリー艦長は梶原さんを軽く睨むと、
「あなたはいつも一言多いわね。だからまだその年で独り身なのよ」
と言い返す。
「それはお互い様では?」
 梶原さんも負けていない。ケリー艦長の目に獰猛な火が灯るのを察したか、金城社長が割り込んできた。
「まぁまぁ二人とも、喧嘩はあとで。まだ出発の準備があるから、私たちはお暇しますよ」
 ケリー艦長は不満そうだったが、しぶしぶ従う。梶原さんは相変わらずの表情だ。
「それでは皆様、また後でお会いする機会もあるでしょう。当機の設備はどれも一流のものであると自負しています。どうぞごゆっくりおくつろぎください」
 金城社長は私たちに向かってお辞儀すると、ケリー艦長を伴って扉から出ていった。
 突然の珍客の乱入で、私たちはなんとなく毒気を抜かれてしまった。いくら有川高校が特別な進学校で、生徒たちが将来を嘱望された子ばかりであるとはいえ、実際に世界有数の企業の社長に会うことなどほとんどない。畏怖と憧れをないまぜにしたような顔の生徒たちが、そこかしこに見て取れる。
「……とりあえず、話の続きを始めましょう」
 梶原さんは咳払いをすると、重力が発生した直後に喋っていたところまで話を戻した。
「どこまで話したか……。そう、皆さんの治療という面においても、ハリーに移動するほうが、都合がよかったわけです。そして、ウラノスが緊急回避行動をとらざるを得なかった原因についてですが……」
 梶原さんはそこでなぜか言葉を言い淀む。一瞬こちらを見たような気がしたが、思い過ごしだろうか。
「……、スペースデブリの衝突を避けたためです」
 梶原さんの言葉に、生徒たちがざわめく。それもそうだ。軌道エレベーターの発着場でも、スペースデブリについては安全であるとレクチャーを受けたばかりである。
「あー、すみません。皆さんのお気持ちはよく分かるのですが、もう少し説明させてください」
 梶原さんが声を上げると、ざわめきは少しトーンダウンする。
「軌道エレベーターに乗る前に説明を受けたとおり、基本的にデブリは監視されています。その情報はどんな国の、どんな目的を持った機関でも自由に閲覧することができ、安全な運行に役立てることができます。しかし、稀にこういった、監視されていないデブリに出会うことがある。こういうものに出くわした場合、残念ながら今でも、緊急回避するしか手段がないのです」
「でも、スペースデブリはほとんどが一度除去されたって言ってませんでしたか?それなのに、そんなに危ないデブリが放置されているんですか?」
 生徒から疑問が飛ぶ。ふと横を見ると、杉原君が強張った顔をしているのが見えた。張りつめた、と言ってもいいかもしれない。
「ああ、今君が言った通り、ちょうど十年前に、スペースデブリはそのほとんどが除去されました。軌道エレベーターの建設が技術的に実現可能となり、世界的にそのプロジェクトの動向が注目されていた時です。各国のエキスパートたちが集まって丸一年議論を交わし、世界中から優秀な宇宙飛行士が選出された。過去に例がないプロジェクトだったためにトラブルも数多く発生したが……、彼らは命を懸けて仕事をやりきった」
 梶原さんはそこで一度言葉を切り、呼吸を整える。こちらで聞いていても、途中から声に力が入ってくるのが分かったほどだ。梶原さん自身、そのプロジェクトには強い思い入れがあるのかもしれない。
「だが残念ながら、これ以降もデブリとのニアミス事故、あるいは接触事故は無くなっていません」
 呼吸を整えた梶原さんは、むしろ淡々と話を続ける。生徒のざわめきもいつしか静まっていた。
「それは、今この瞬間も、デブリが発生し続けているからです。発生源は様々ですが、多くは廃棄された人工衛星から。特に軍事衛星の場合は、存在自体が秘匿されている。人知れず打ち上げられ、周回している軌道も公にはされない。さらに悪いことに、寿命が来たら、機密を守るために自爆するものまである。軍事衛星の存在意義に関してはある程度仕方ないと思う部分もあるが、廃棄に対してはあまりにルーズだ。そしてこうやって発生したデブリは、デブリ同士でぶつかり合ってさらに多くのデブリを発生させる。ウラノスやその他多くの宇宙ステーションでも、デブリを見つけたらその都度対策を取っていますが、何せ数が多いので追い付いていない、というのが現状です」
 梶原さんの説明を聞き、私たちは返す言葉がない。準備をしていた時には漠然としか感じていなかった宇宙への不安が、ここにきて具体的な重みを持って心にのしかかる。
「それで、なんで地球に帰らずに、このまま出発ってことになるんですか?すでにこんな危ない目にあっているのに、さらに危険に突っ込んでいこうっていうのが分からないんですけど」
 私たちが静まる中、石川君が言葉を返す。その発言を聞いた生徒たち数人が、もっともだという風に頷くのが見える。梶原さんはそれに頷き返す。
「その疑問にこれからお答えします。先ほど説明したように、未登録のデブリと言うのは、最近発生した可能性が高く、仮に人工衛星の残骸だとすると、周辺にまだ多数のデブリが存在していることが考えられます。この場合、軌道エレベーターの運行は危険が伴うため、安全が確認されるまで休止になります。続けてデブリの襲来があった場合は、先ほどと同様の緊急回避を続けなければなりません」
 その言葉を聞き、周りの生徒たちの顔が強張る。
「それに対して、ハリーでアルテミスを目指す場合、基本的にデブリは地球の軌道上を回っているわけですから、地球から離れるほうが衝突のリスクは格段に下がります。もちろん宇宙旅行に危険が無いなどと言うつもりはありませんが、それはこのプランにもともと含まれていたリスクです。デブリがあったからと言って危険性が増えたわけではない。逆に言うと、この説明が長引くだけ、デブリに対する緊急回避に巻き込まれる可能性が高まっていると言えます」
「またそんな脅すようなこと言って……」と横で明渡君がつぶやく。周りの生徒たちも互いに顔を見合わせたり、目に見えて落ち着かなくなった。
「したがって、皆さんの治療に適している点と、先ほど説明したリスクの観点から、銀河鉄道ハリーにて、月の宇宙ステーションであるアルテミスを目指すことが最善であると結論付けました。何か質問はありますか?」
 最後は石川君のほうを向いて言う。石川君は少し黙った後、
「……いや、特にありません。それより、こうしているほうが危険なら、早く出発してください」
と言った。
 梶原さんはそれに頷き返すと、手に持った携帯電話からどこかに電話を掛けた。先ほど訪れた二人のどちらかだろうか。
「それでは、暖機運転が終わり次第出発します。少し揺れると思いますが、まぁ大したことはありません。この後、ここのスタッフが皆さんをそれぞれの個室に案内しますので、まずは少し体を休めてください。あと、空港で預かった荷物も各部屋に届いているはずなので、各自チェックしてください。足りないものがあれば早めに申告するように」
 梶原さんが早口に説明する途中から、部屋全体にわずかな揺れが響いてきた。耳を澄ますと、かすかに機械がうなるような音が聞こえる。エンジンの駆動音だろうか。
 何かが一段落した、という雰囲気が伝わったのだろう。生徒たちもまだ不安げな顔をしてはいるものの、互いに雑談をするなど、余裕が見られるようになった。部屋の前方では、梶原さんの説明の後を受ける形で、今度は太田先生が話し始める。今後のスケジュールや諸注意などだ。当然ながら生徒たちはあまり聞いていない。 しかし、
「夕食は二時間後なので、遅れずに食堂車に集まるように」
という言葉を聞くと、急に空腹を覚える。私の体も現金なものだ。
 太田先生の話が終わると、すでに待機していたハリーのスタッフたちが、それぞれに生徒たちを引率して部屋から出ていく。そういえばと思って杉原君を盗み見ると、さっきまで強張っていた表情はどこへやら、今は弛緩した顔であくびをかみ殺している。
「なんかどっと疲れたねー」
 江藤さんにそう話しかけられ、私も頷く。お腹は減っているが、とりあえずゆっくりと休みたい。軌道エレベーターからここまで、緊張のしっぱなしだった。あとは荷物のチェックをしないと……。いつも持っているリュックが手元にないと、どうにも落ち着かない。
 そんなことを考えているうちに、見覚えのある女性のスタッフが私たちのクラスの前に立って案内を始める。私はそわそわした気持ちを抱えながら、みんなと一緒に立ち上がった。
 ついに、銀河鉄道での旅が始まる。
 そう思って歩き始めた途端、この先自分がやろうとしていること、やらなければいけないことが頭をかすめ、一瞬目がくらむ。
「大丈夫?」
 よろけた私に、江藤さんが声をかけてくれる。私は何とか返事をし、何事もなかった風を装って歩き出した。
 頭をかすめた不安を振り払い、私は前を向く。
 考えること、悩むことは十分やった。結論は変わらない。私にしかできないことを、やりとげなければならない。
 今までずっと、そうしてきたのだから。

6. 銀河鉄道

案内された部屋は二人用で、幸いなことに私は江藤さんと同室だった。
来る途中に見ていたパンフレットでは散々煽られていたが、実際に客室に入ってみると、思ったよりも狭い。セミダブルサイズのベッドが二つに、こじんまりとした机と椅子があるぐらいのもので、余分な装飾はほとんどなかった。内装はブラウンを基調とした配色で落ち着いているが、女子高生が見てテンションが上がるものではない。壁際にテレビも備え付けてあるが、電波が入るはずはないから、おそらく映画でも観れるのだろう。
「意外と普通っていうか、親世代向けって感じね。これってそんなに大々的に宣伝するとこ?」
江藤さんも同じ感想を口にする。彼女は部屋に移されていたスーツケースを開け、中身を点検しているところだ。窓側のベッドに荷物をポンポンと乗せていく。
「彩香ちゃんの荷物、けっこう少ないんだね」
平常心を装って江藤さんの名前を呼んでみる。江藤さんは特にこちらに振り向くこともなく、
「そうかな?あんまり意識してなかった。洗濯サービスもあるって書いてたから、服は洗えばいいかって思ってたんだけど」
と言った。自然に名前を呼べただろうか。今は「ちゃん
付けが精いっぱいだ。
それに、実際に江藤さんの荷物は、女の子が長期旅行に出かけるにしては少ないように思える。大きめのスーツケース一つに、手荷物用の小ぶりの鞄が一つだけだ。ベッドに並べているスーツケースの中身を見ても、必要最低限のものしか持ってきていないのがよく分かる。
そういえばよく考えたら、現在のこの銀河鉄道ハリーの乗客は、ほとんどが有川高校の修学旅行関係者だ。特に観光するわけでもないし、知り合いばかりで着飾る必要もないとなれば、こんなものかもしれない。かく言う私もそんなに荷物が多いほうではないが、ある事情によって、他の人より余分に荷物を持ってきていた。日本を出立するときに空港で預けたきり、今の今まで手元に帰ってこなかったその荷物が、実はなにより心配だった。江藤さんの横に置かれた私のスーツケースをいったん脇によけて、後ろにあったリュックを手に取る。
「よいしょ」
そのリュックは、外側にオフホワイトのハードシェルカバーが備え付けられていて、外からの衝撃にとにかく強い。ごそごそと中身を確認していると、江藤さんが興味深げに眺めてきた。
「真理子、ここにもそれ持ってきたんだね。いつも思うけど、体に対して大きすぎない?」
江藤さんの指摘通り、私の身長が百五十五センチメートルなのに対して、このリュックは縦五十五センチメートル、横幅が四十センチメートルと、なかなかの大きさだ。ハードシェルの存在感も相まって、より膨張して見える。
「うん、まぁそうなんだけど、このリュックの中身って三分の一はクッション材だから……。このくらいの大きさじゃないと、結局必要なものが入らないのよね」
私はそう言って、スーツケースよりも先にリュックの中身を入念に点検する。このリュックは優れもので、ジッパーを全部開けると、ハードシェル部分が下側だけを残してすべて解放され、中身をひっくり返すことなく、一度で内容物を確認できるようになっているのだ。解放されたところだけを見れば、さながら大ぶりの引き出しを見ているようである。
私は先に小さなポケットに入れてある荷物を確認した後、内容量のほとんどを占めている、長方形の物体を取り出した。リュックのシェル部分と同じオフホワイトの外装は、使い込まれてややくたびれているが、中身は自分専用にフルカスタムされた、一級品のラップトップである。そこらのハイエンド機と称されるパソコンとは、レスポンスやパフォーマンスで一線を画していると自負している。
まず私は、外装に異常がないかを点検し、そっと画面を開いて電源を入れた。一瞬反応した画面は一度暗転し、排気音と共にすぐに立ち上がる。いくつかのソフトを立ち上げてパソコンの状態を確認し、問題ないことが分かると、私の周りをどんよりと覆っていた不安が少し取り除かれた。つくづく、自分はコンピューターなしでは生きていけないと思う。
ふと江藤さんを見ると、自分の荷物を整理し終わって安心したのか、ベッドのクッションにもたれてスースーと寝息を立てていた。安らかな寝顔に、思わず微笑んでしまう。私はもう一度ラップトップの画面に目を移すと、その中で眠っているはずのもう一人のパートナーに、簡単な挨拶を済ませた。
最後につるりと画面を撫で、ラップトップの画面を閉じる。次に、自分のスーツケースの荷物整理に取り掛かった。ただし、江藤さんを起こさないよう、慎重に、だ。
スーツケースの中身を整理しだして間もなく、部屋に備え付けられたスピーカーから、
「間もなく発進いたします。少々揺れますので、お足もとにご注意ください」
というアナウンスが流れてきた。そのあとすぐに、ずずず、という、地響きのような揺れが伝わってきたが、さっき梶原さんが言っていた通り、ほとんど気にならない程度のものだった。窓から外を見てもよく分からないが、雰囲気から察するに、おそらく動き出したのだろう。
スピーカーからはさらに、
「当機は一度、地球がご覧になれるように大きく旋回いたします。人類最初の宇宙飛行士、ガガーリンが言った言葉を、どうぞ思い浮かべてご鑑賞ください」
というアナウンスが流れた。
それは、「地球は青かった」だろうか、それとも「神はいなかった」だろうか。どちらにしても、宇宙に飛び出す最初の言葉としては、気が利いているように思えた。
そもそもこの宇宙船は、構造上、外輪部分のもっとも外側にあたるところが床になっているので、進行方向を見るための窓がほとんどない。江藤さんを起こさないと、と思いベッドを見ると、江藤さんはすでにクッションを抱いて起き上がっていた。よかった、さっきのアナウンスで起きたのだな。そう思って近寄ると、江藤さんは眠そうな目をこすりながら、
「真理子、これやばい」
と言った。
地球を見た感想かと思って窓を見たが、まだ外は黒々とした星空が見えるだけである。怪訝な顔をして振り返ると、クッションを持った江藤さんは、さらに自分が尻に敷いていた掛け布団をつかみ直すと、勢いよくベッドにもぐりこんだ。
「え、また寝るの?」
驚いて聞き返した私に対し、
「このベッドも、枕も、クッションも、全部、超、高級品

と返答し、また寝息を立て始めてしまった。あまりに満足げな寝顔に、私は起こす気力を失う。
江藤さんの姿に一人苦笑しながら、窓へと向きなおる。ぼんやりと眺めていると、左端から、母なる地球が姿を現した。
太陽の光を受けながら輝くその姿が、次第に窓を覆い尽くしていく。白と青のコントラストは美しく、不思議な調和を保っていた。海面に反射する日の光と雲の影、ポツリポツリとしか島が見えないのは、ここが赤道付近だからだろう。こうして見る限り、地球は海に支配された星だった。
驚くのは、まだ地球からそんなに離れていないにも関わらず、陸地が全く隆起して見えないことだ。せいぜい立体感を持って見えるのは雲ぐらいで、それでも低い位置にあるものは、空に浮かんでいるというより、海面を滑っているようにしか見えない。
私たちは、普段雲が浮かんでいるところを「空」と認識しているのに、ここから見る景色では、そもそも空というものを感じることができない。それはもはや、空間とも呼べないほどの、ささやかな隙間であった。
改めて、自分はなんと小さな存在なのか、と感じる。だが、それでいて不思議と何かが吹っ切れるような感覚があった。
私は地球が見えなくなるまでの五分間、じっと窓の外を見続けた。何を考えていたわけでもなかったが、その景色に飽きることもなかった。地球が完全に姿を消してからも、少しの間窓の外を眺めていたが、江藤さんの「ううん……」という寝言に、はっと我に返る。私は少し迷った末に、江藤さんと同じようにベッドに潜り込むことにした。精神的に疲れていたからか、すぐに眠気がやってくる。うとうとしながらタイマーを一時間後にセットし、目をつぶる。目の裏には、なぜか杉原君の姿が浮かんだ。
頭はほとんど動いていないのに、その瞬間、ある確信が私の中に芽生えた。
きっと彼も、私と同じように地球を見続けていたに違いない。そして、私と同じように、自分の小ささについて思いを馳せたに違いない、と。
ほとんどただの直観にすぎないその考えは、しかし私の心にすっと染み込み、杉原君の印象をまたひとつ変化させた。意識が消えゆく中、無心で地球を睨む杉原君のイメージだけが、鮮明に心に残った。

 ※

結局江藤さんは、私が起こすまでずっと寝ていた。地球が大変きれいだったという話をしても、「まぁ、また帰りに見れるでしょ」と、さっぱりした顔で答えていた。
また、実際江藤さんが評価したように、一見地味に見えたこの部屋の調度品は、あらゆるものが最高級と言える品質のもので構成されていた。ベッドのマットレスは柔らかすぎず硬すぎず、適度に体重を支えてくれた。掛け布団は全く重みを感じないのに、その中にくるまると驚くほどの暖かさに包まれた。部屋の温度も湿度も完璧にコントロールされ、顔を洗うために、蛇口から出した水の温度や水圧さえも考え抜かれているような気がした。唯一欠点があるとすれば、その構造ゆえの閉塞感だろうが、私はもともと部屋に閉じこもっていても苦ではないタイプだったし、なにより同室の江藤さんが、持ち前の明るさで閉塞感をかき消していた。結果、最初期待外れだと感じたこの部屋は、数時間後には、ある意味自宅よりも快適な部屋に格上げされていた。
リラックスできる場所というのは様々あるが、自分の部屋が何より勝るのは、結局精神が解放されるからだと思っている。そういう意味で他人との共同生活というのは、どこかしら疲れるものがあるはずなのだが、これに関しては江藤さんの存在は大きかった。
江藤さんはそもそも、他人に気を使うというよりはむしろ、他人に気を使わないことでこちらの気持ちを安らかにする人だった。私との共同生活でも、こちらに全くかまわずに寝るし、私のお菓子をパクパク食べるし(これすごく美味しそう!食べていい!?)、お風呂上りは普通にノーブラでキャミソール、かわいらしいパンツ姿でうろうろしていた。
江藤さんが言うには、相手が私だからできる、ということらしいが、私はどちらかというと人と打ち解けるのが苦手なほうだから、明らかに江藤さんの人徳によるものだろう。
気を使わない相手と過ごすと、不思議とこちらも気を使わなくなってくるものだ。ある人と親密になるには、時にあっけらかんと相手の好意に甘えたり、無防備な姿をさらす勇気も必要である。
そんなこんなで、共同生活初日から江藤さんの自由さに振り回され気味だった私は、自然とタイムキーパーのような役割を担うことになった。江藤さんは今後のスケジュールは私に聞けば分かると思っている節があったし、私もそれに応えたかったという思いもあった。
「そろそろ夕飯の時間だから、支度しようか」
私が声をかけると、それに応えて江藤さんはきびきびと準備をし始める。お風呂上がりでリラックスしていた表情が引き締まり、いつも見る江藤さんが戻ってきていた。
「食堂車があるんだっけ?」
制服に着替えながら江藤さんが言う。私も準備をしながら、それに頷く。食堂車はそれなりにしっかりしたレストランらしいので、念のため制服で来るように、と事前に言われていた。朝食ですら(念のために)着替えていかなければならないらしい。
この宇宙船の周りをぐるぐる回る列車には、様々な設備が完備してあった。食堂車はもちろん、トレーニングルームから会議室、図書室、シアタールームなど、暇つぶしができそうな部屋はリゾートホテル並みに充実していたし、救護室の設備は、もはや大病院と言っても差し支えないぐらいであった。常駐の医師が二人いて、専門の機械が必要なければ、たいていの手術すらこなしてしまうらしい。手当てのためにはこっちに移ったほうがいい、という先生たちの判断は、至極真っ当だったのだ。
そして、これだけの設備を持った上で、私たち有川高校の生徒七十目名程度が泊まれる部屋があるのだから、当然この外輪部分はおそろしく長い。これから食堂車に移動しなければならないが、地図を見る限り、どう考えても二百メートルは歩かなければならないようだった。
「けっこう移動距離があるから……、もう出たほうがいいかも」
私たちは頷き合い、簡単な手荷物を持って外へ出た。
「とりあえず、こっちかな」
見取り図を見ながら、食堂車方面に向かって歩き出す。
宿泊用の部屋がある車両は、基本的にすべてが同じ作りになっている。真ん中に人が二人並んで歩けるほどの通路があり、その通路の両側が宿泊部屋だ。私たちが泊まっている二人部屋の場合は、一つの車両に八部屋、家族用の部屋は、一つの車両に四部屋ある。そのほかに一人用の部屋もあるらしいが、こちらは一車両分しか用意されていないらしい。まぁ、こんなところに一人で来る人なんてめったにいないだろうから、それで大丈夫なのだろう。
車両を移るたびに、ぽつぽつと同じクラスの生徒と合流する。江藤さんは早速、備え付けのベッドの品質がいかに素晴らしかったか熱弁していた。ちなみに女子生徒と男子生徒が泊まる部屋は、食堂車によって区切られているため、向かう途中で男子生徒に出会うことはない。校則などないも同然の有川高校でも、さすがにそういうところは配慮しているようである。
車両を移動するうちに徐々に人数が増え、通路を通るのが大変になってきたあたりで、ようやく食堂車に到着した。
重厚な扉の向こうから、私たちに気付いたウェイターの男性が扉を開け、恭しくお辞儀をする。
扉を通った先は、まるで別世界であった。
映画のセットのようなレトロ調のダイニングテーブルと椅子が、余裕を持った感覚で設置されていて、真ん中にはグランドピアノが置かれている。私たちが入ってきた方と反対の壁には扉が二つあり、その扉の片方からは、忙しそうにウェイターが食器を運び出している。それから察するに、あの扉の向こうが厨房なのだろう。部屋全体には、すでに香ばしいにおいが充満していた。
そして、さらに素晴らしいのが、この現実的な空間とかけ離れた、外の景色である。食堂車は、さっきまでいた客車よりもはるかに開放的な空間で、窓も多い。やや明かりを抑えた照明のおかげか、その窓から見える星空は、これまでに見たどんな夜空よりもコントラストが際立ち、幻想的だった。
おおー、という野太い声がしたほうを向くと、厨房へ続く扉の一つ横の扉から、男子生徒たちが顔を出していた。ぞろぞろと入ってくる男子生徒たちの中には、周りと楽しそうに話す明渡君と杉原君の姿も見える。
「席は決まっているから、間違えないで座るように。こっちから一班、二班、三班という順番だ。全員が揃った班から、食事を出してもらうからな」
すでに食堂車に来ていた太田先生が声を上げる。どうやら自由に座るわけではなく、班ごとに食事を取る形式になっているらしい。不満そうな生徒も見受けられるが、私にとっては、こういう形のほうが楽だった。
「あたしたちはこっちのテーブルみたい」
江藤さんについて部屋の窓際に設置してあるテーブルに向かうと、すでに明渡君と杉原君が着席していた。おっす、と声をかけてくる。江藤さんも、おっす、と返答を返す。
「さすがに腹減った。持ってきたお菓子にも限りがあるから、食べるの相当我慢したよ」
杉原君が今にも倒れそうな顔で言う。私たちでさえ、このいい匂いに空腹が我慢できないのだ。育ちざかりの男の子にとっては拷問だろう。
「内装の雰囲気からするとフレンチかな?でもこの匂いは……」
明渡君が鼻をひくひくさせたところで、奥の扉から料理がいっせいに運ばれてきた。ウェイターの手には、椀に盛られた白いものが見える。
「和食だ!」
次々と運ばれてくる料理は、白米を筆頭にどれも親しんだものばかりだった。複雑な出汁のにおいが食欲を誘う。まずご飯と共に運ばれてきた料理はお刺身で、とろりとした外見は、まさに今が食べごろだと主張している。
「はー。まさか、宇宙に来て刺身が食べられるとは。正直あんまり期待してなかったんだけど」
明渡君がほっとしたような顔で言う。四人全員の料理が運ばれてきたところで、明渡君がおもむろに手を合わせる。私たちもそれに習う。
「では、今日もちゃんとご飯が食べられることに感謝して……」
「いただきます」
最後はみんなで一緒に言った。
江藤さんはクスクスと笑っている。
「何?明渡君って、クリスチャンなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……。なんか自然と口から出た」
真面目腐った顔でそう言うのが面白くて、私もつられて笑う。
「いや、まぁなんとなく分かるよ。こんなとこまで来て普段と変わらないものが食べれるんだからな。技術の進歩はすごいよ」
杉原君が明渡君に同意する。彼はすでにご飯を口に運んでいる。
「限りない欲がすごい、とも言う」
明渡君もご飯を頬張りながら、淡々と言う。
その後も、創作懐石料理ともいえるようなメニューが続く。山菜の煮物や汁物、漬物にいたるまで、レベルが高いものばかりだ。
途中でシェフが顔を出してくれたが、意外にも白人の男性で、にこやかにみんなに話しかけていた。
メインとして出されたのは魚料理だったが、これはどちらかというとムニエルに近いもので、やや洋風だった。表面はこんがり焼かれているが中はふわふわだ。香辛料の香ばしいにおいが鼻を突き、食欲を誘う。
「あー、ソースが絶品だわ」
江藤さんが声を上げる。甘酸っぱいソースがやや塩気のある魚の身と相まって、複雑な旨みを作り出していた。
「でもこれ、きっと来る人に合わせて作ってるんだろうな。他の国の人なら、それ相応の料理を出すんだろう」
「すごいな。そんだけレベルが高い料理人が宇宙船に乗ってるってのも、また不思議だ」
思いのほか楽しい食事会は続き、メインの料理を食べ終わったころにコーヒーと紅茶が運ばれてきた。私は紅茶派だったが、他の三人はコーヒーを手に取る
「そういえば、梶原さん見なかったね」
江藤さんが思い出したように口を開く。
「他のクラスの時間に食べたんじゃないの?」
当然という感じで杉原君が答える。
「うん、そうだとは思うんだけど、ここに来るまで、梶原さんって主にうちのクラスについてた印象ない?なんとなく、ご飯も一緒なのかと思ってたんだけど」
そう言われてみれば、そう思えなくもない。みんな一時考え込む。
「じゃあ……。これ終わったら梶原さんの部屋に行ってみる?」
明渡君が唐突に提案する。
「えぇ!?いいの?ていうか、どの部屋か分かってるの?」
驚いたように江藤さんが言う。しかし、その顔はまんざらでもなさそうである。
「ここに書かれている内容によりますとですね……」
明渡君がおもむろに、修学旅行のしおりを取り出す。一度咳ばらいをしてから、諸注意の部分を読み上げる。
「銀河鉄道ハリー滞在時の注意事項について。原則として、男女間の個室の移動は禁止。また、消灯時間を過ぎてからの部屋の移動も禁止とする。宇宙船内は自由に散策してよいが、立ち入り禁止区域にはむやみに近づかないこと。と書いてあります」
みんな一様に頷く。
「つまり、先生たちの部屋を訪ねてはいけないとは、書いていないわけ。まして梶原さんはウラノスの職員なんだから、このルールの適用外でしょ。だったら、部屋を訪ねるのに何ら問題はないと思わない?」
明らかに強引な理論である。私は念のため、
「男女間の個室の移動は禁止、だから、私たちはダメなんじゃ……」
と、発言してみる。
「それは解釈の問題だよね。男女間というのを、生徒に限った話と取るならオーケーだし、先生達も含めると取るならアウトだし。どちらにしても、俺たちは問題ないんだけど」
澄ました顔で言うが、明渡君のこの顔は知っている。軌道エレベーターの中でこっそり階段を移動したときにも見せた、ばれなきゃいいんでしょ、の顔である。
私と江藤さんは、しばし黙り込む。
やがてお互いに顔を見合わせると、どちらともなく頷き、明渡君を見る。
「そうね、つまり……、解釈の問題だから」
江藤さんがそう言う。明渡君は満足そうに笑うと、
「じゃ、そういうことで」
と言ってナプキンで口を拭いた。
杉原君は、やれやれという顔をしながら明渡君を見ているが、口元はわずかにほころんでいる。きっと彼も、元来のところではこういうことが好きなのだ。
「確か、シングルルームは一つの車両に固まっていて、この食堂車からそんなに離れていなかったはずだ。まだ消灯時間までは結構あるから、ちょっと探せばすぐ見つかると思う」
手元の食器を簡単に片づけながら、明渡君が言う。それに対して、杉原君がさらりと答える。
「シングルルームは、この食堂車から俺ら側に四つ移動した車両にあったよ。どの部屋が梶原さんの部屋かは分からなかったけど」
澄ました顔で言うが、きっと杉原君も、あとで行くつもりだったに違いない。明渡君はそれを聞いてにやりと笑い、よし、と頷いた。
それぞれが飲み物を飲み終わると、何食わぬ顔して立ち上がる。そのまま移動しようとして、私はあることに気付く。
「そういえば、このまま一緒に向うの出口に向かうのは怪しまれない?いったん別の出口から出て、私たちはこの食堂を迂回したほうがいいと思う」
この食堂車は、乗客が食堂を突っ切らなくていいように、ちゃんと迂回路がある。そこを通れば、私たちが男子側の客車に向かう姿を見られずに済む。
「確かに。麻田さん冴えてるわ!」
江藤さんにそう言われ、少し照れる。「じゃ、向こうで落ち合おう
と言い合って、そそくさと移動する。私たちは食堂車を出たところで旋回し、急いで迂回路へ向かう。
二人とも、自然と顔がにやけていた。
仲間と一緒にルールからはみ出すのは、なんと楽しいものか。自分もずいぶん明渡君に影響されたものだと思いながら、江藤さんと共に小走りで通路を駆けていった。

 ※

結論から言うと、私たちの試みはほとんど意味がなかった。
というのも、明渡君たちと合流してこそこそと男子側の車両に入ったところ、通路には私たちと同じような男女混合のグループやカップルがあふれていたからだ。
結局みんな考えることは同じで、食後の自由時間をそれぞれの部屋で過ごすことを良しとしなかったようである。確かによく考えれば、ルールも「男女間の個室の移動」を禁じているだけで、車両を行き来することは禁じていない。一度今田先生が通りかかり、生徒の一団に目を向けたが、結局何も言わずに自分の車両にさっさと戻ってしまった。
「なんだー、心配して損した」
江藤さんは露骨に拍子抜けした顔になっている。杉原君も同じような顔つきで、
「思ってたより緩いんだな。でもこれじゃ、誰かが部屋移動してても分からなくないか?」
と言った。
確かに、先生たちが見張っているわけでもないから、このまま男子生徒の個室に女子生徒が入っても、確認のしようがないのではないか。
そう思った次の瞬間、
「うわ、なんだ!?」
すぐ前にある部屋から、けたたましい警報音が流れてきた。それと同時に扉が開き、中から女子生徒が飛び出してくる。
それからしばらくして警報は鳴りやみ、向かいのドアからハリーの職員さんが駆けつけてきた。扉の前で泡を食ったような顔をしている女子生徒を見つけて、優しく声をかける。
「何か異常がありましたか?」
女子生徒は、ためらいがちに事情を説明する。話を聞くうちに、職員さんは納得したような表情になった。
「ああ、なるほど。そういうことでしたか。申し訳ありません、私共の説明不足でした。現在皆さんが宿泊されている個室には、特別なセキュリティが設けられていまして……。最初に配られたIDカードは皆さん持ち歩いていますね?」
その後の職員さんの話を要約するとこうだ。
部屋に入るためには、扉の横に取り付けられた端末にIDカードをかざさなければならないのだが、このIDカードには顧客情報も登録されていて、入室可能かどうかをそれによって判断している。さらに各部屋には、生体認証システムも完備されているため、IDカードを持たずに入室することもできない。仮にIDカードを誰かと交換したとしても、IDカードの情報と生体認証システムが読み取った情報に違いがあれば、それもエラーとして警報が鳴るらしい。
「要人が乗車することを想定して、ここまでのセキュリティシステムになっています。今回皆様に対しては、先生方からの要望で、男性の生徒さんと女性の生徒さんが部屋を行き来することができなくなっています。申し訳ありませんが、ご理解ください

気遣うような笑顔を見せると、職員さんは一応部屋の中を点検し、恥ずかしそうにしている男子生徒に会釈をして去って行った。
「なるほど、このシステムがあるから、先生たちは何も気にせず部屋に戻れるわけか。よくできてるな」
杉原君が感心したように言う。
「あとは……」
目線を横に向けると、それを受けた明渡君が頷く。
「うん、梶原さんの部屋がどうなってるか、だな」

 ※

明渡君が少し緊張した面持ちで、扉横のインターホンを鳴らす。
やや間があって、
「はい」
と深みのある声で返事があった。
安堵した顔の明渡君。
梶原さんの部屋を探して、十五分ぐらい前にシングルルーム用の車両にたどり着いたはいいものの、ぱっと見、どれが梶原さんの部屋なのか分からなかった。これもセキュリティのためか、空室とそうでない部屋の区別も、外からではつかなかったのである。
このため、私たちはとてもシンプルな方法を使うことにした。
つまり、片っ端からインターホンを鳴らしたのだ。最初の一つはどうやら空き部屋で、しばらく待っても誰も出てこなかった。二つ目は小橋先生の部屋で、出てきた先生に対して、明渡君が詰まりながらもなんとか対応するという、珍しい一幕があった。小橋先生はどうやら明渡君がお気に入りだったようで、部屋に上がっていったらどうかと、ずいぶんしつこく誘っていた。しかし明渡君は、ここぞとばかりに優等生らしい振る舞いを見せ、なんとか誘いを回避していた。それを隠れて見ていた江藤さんが、
「男女間の個室の移動は禁止じゃないのかよ」
と毒づくため、杉原君が苦笑しながらなだめることにもなった。
そんなこんなで、ようやく三回目にして梶原さんの部屋にたどり着いたのである。明渡君の安堵の表情も頷ける。
「あ、お休みのところすみません。明渡です。少しお時間ありませんか」
インターホンにそう話しかけると、少し間があってから、
「思ってたより早かったな。ちょっと待ってろ」
という返事が返ってきた。明渡君がこちらを見て手招きする。少し離れた場所で成り行きを見守っていた私たちも、そそくさと扉の前に移動する。音もなく扉が開くと、ラフな姿の梶原さんが現れた。
「お、全員そろってるな。来るとしても、もう少し日にちがたってからかと思ってたんだが」
「思い立ったらすぐなタイプなんで!」
江藤さんが明渡君を遮って言う。
「まぁ、そういうことなんで」
江藤さんの後で、苦笑しながら明渡君が続ける。
「できれば、中に入れていただけると嬉しいんですが……」
梶原さんは意味ありげな顔をしてから、腕組みをする。
「勝手に入ることができないのは知ってるんだな。さっき警報が鳴ってたから、それでか?まぁいい、そこに全員のIDカードをかざせ」
梶原さんは扉の外に取り付けてある端末を指差す。言われたとおりにすると、梶原さんは部屋の中にある端末を操作しだした。
「これでよし、と」
操作が終わると、ピピピと音がした。
「これで君ら全員、俺の部屋に入っても大丈夫だ。あ、このことはあまり他の人には言うなよ。特に先生達にはな。それでなくても、あんまりいい印象を持たれてないんだから……」
言いながら、梶原さんは部屋の中に消えていく。慌てて後を追って中に入ると、何やらスパイシーな匂いが漂っている。
部屋は基本的に私たちと同じ作りだが、幾分狭く、部屋の右側にダブルサイズのベッドが一つだけ置かれている。窓際には小さな机と座り心地の良さそうなオフィスチェアが置かれていて、今はそこに梶原さんが座っている。
机の上にはラップトップが置かれ、その横にはなぜかカップラーメンが置かれていた。部屋に充満する匂いは、ここから発せられていたのだ。
「まだ飯の途中なんだ。狭くて申し訳ないが、適当に座っといてくれ」
シングルルームにしては広い作りだが、さすがに五人もいると窮屈に感じる。とりあえずベッドに並んで座る。
「ご飯って、そのカップラーメンですか?まさかそれだけ?」
ラップトップの画面を見たままカップラーメンをすする梶原さんに、江藤さんが話しかける。
「さすがにそれはない」
そう言って、梶原さんは横に置いてあるビニール袋に手を伸ばす。
「おにぎりもかなり買ってきている」
そう言うとこちらに向かって、梅入りのおにぎりを突き出してきた。
「炭水化物ばっかりじゃないですか……。いやいや、そうじゃなくて、食堂では食べないんですか?部屋食主義?」
江藤さんがそう聞くと、梶原さんはカタカタとキーボードを操作していた手を止め、こちらに向きなおった。
「あのな、君らが食べたディナーな、いくらするか知ってるか?コースで一食一万円以上するんだぞ。俺は仕事で来てるから、ここのチケットに関しては金が出てるけど、食事は一日当たりの日当が決まってるの。朝昼は食堂車に行くこともあるかもしれないけど、晩飯なんて食べに行ってたら、この渡航一回で今月の給料全部なくなるんだよ

まったく、と梶原さんは呆れたような顔をする。その話を聞いて、私たちは居心地の悪い思いをしながらお互いの顔を見る。美味しいとは思ったが、まさかそんなに高級な料理だったとは。今回の渡航では、月に行くまでがおよそ一週間、月の宇宙ステーションであるアルテミスに三日滞在し、また一週間かけて地球に戻るというスケジュールだから、ディナーだけで二十万円近いお金がかかっていることになる。
「そうなんだ、知らなかった……」
杉原君が神妙な顔をして話し出す。
「明渡んとこは親父さん開業医だし、お金はまぁ大丈夫なんだろうけど、うちはどうしたのかな。そんなに余裕があるとは思えないんだけど……」
「杉原……」
眉をひそめて、杉原君が黙り込む。これにはさすがに明渡君もコメントできないでいる。杉原君の家の経済状況が分からないので何とも言えないが、有川高校は一応国立なので、授業料は特に高くない。受験ですさまじい倍率を潜り抜けなければ入ることができないため、必然的に勉強ができる環境が整っている富裕層の子供が多いのだが、中には確かに、中流家庭や、あるいは貧しい家の子供もいる。そういう子供たちがディナーの料金を知ってしまうと、何も気にせず食べることができなくなってしまうかもしれない。子供は意外と、自分の家の経済状況を肌で感じているものである。
「俺もカップラーメン食べようかな……」
ぼそりと言う杉原君。
「お前がそうするなら、俺もそうするよ。部屋で一緒に食べようぜ。俺、シーフード味がすごい好きなんだよ」
明渡君がすかさず言う。話が話だけに、気にせずにディナー食べろよ、とは言えないのだろう。
「あたしも別に食堂車で食べなくていいよ」
これは江藤さんだ。
「あとで売店見に行って、何があるか見よう」
「いや、江藤さんはこっちの部屋入れないじゃん」
「そうだけど、気持ちの問題でしょ」
頬を膨らませて、江藤さんが明渡君に言い返す。そのとき、ふと名案が浮かんだ。
「あ、じゃあ、ここで食べるのはどう?」
三人が一斉に私のほうを見る。急に注目されて少し恥ずかしくなるが、一気に言うことにした。
「梶原さんの部屋なら全員入れるし、ちょっと狭いけど、おにぎりとかパンとかなら何とか食べれるでしょ。それに梶原さん夜は食堂車行かないんだから、時間も気にしなくていいし。どうかな?」
「それ!超楽しそう!」
江藤さんは本当に楽しそうな顔をして言う。
「それだよ。なんで気付かなかったんだろ」
明渡君は真面目な顔だ。
「みんな……。本当にいいのか?」
杉原君は申し訳なさそうな表情だが、目には期待を浮かべているのが分かる。
よかった。うまく話がまとまりそうだ。
せっかくこんな素敵なメンバーでチームを組めて、宇宙旅行に来ているというのに、晩御飯は一人だけカップラーメンを食べるなんて、そんなこと絶対にさせられない。いやむしろ、みんなでカップラーメンを食べてこそ、絆も深まるというものだ。
「いや、ダメに決まってんだろ」
そこに冷や水を浴びせるように、梶原さんがばっさりと言い放つ。
「なんで!せっかく話がまとまりそうだったのに」
江藤さんが食ってかかる。
「なんでもなにも……、普通に食堂車で食べればいいだろ。俺の部屋を勝手に候補にするな」
「だから、それができないから言ってるんですけど。高くてとても食べれないって、梶原さんが言ったんじゃない」
「だからそれは、俺の場合だ。お前たちには当てはまらない」
江藤さんが憮然とした表情で黙り込む。
梶原さんは私たちを見回して一つため息をつくと、ゆっくりした口調で話し出した。
「そもそもな、この旅行に関しては、君らの親御さんたちはお金をほとんど出していない」
その言葉でみんな固まる。あれ?そうだっけ?
「いやまぁ、ほとんどと言っても、たぶん何十万円かは出していると思うけど、それもたぶん積立だ。普通に働いてるなら何とかなるだろ。でもな、この宇宙旅行、コストは大幅に下がったとはいえ、それでも一人何一千万円近くはかかってるんだぞ。比較的裕福だからなんとかなりますとか、そういう次元じゃないんだよ」
みんな驚きのあまり言葉が出ない。そういえば確かに、記憶の中にある修学旅行のための費用は、五十万円程度だった。その当時は、高校の修学旅行でも結構するんだな、と思ったが、よく考えれば、それで宇宙旅行に行けるはずはない。
「じゃあ、お金はどっから出てんの?」
杉原君がおずおずと言う。
「基本的には、国からの援助と寄付だ」
「寄付ー!?」
みんなの声がそろう。
「君らが思ってる以上に、国からの助成金は多いぞ。例えば大学では、予算の大半が上位の大学に振り分けられているように、高校への助成金も、大半が上から十番目くらいまでの学校に振り分けられている。そこから補てんする分があるのと、あとは、君らの学校の卒業生からの寄付、だな。これもまぁ莫大な金額だ。君たちの先輩の経済力たるや、とてつもないものだ」
そこで梶原さんはいったんキーボードを打つ手を止めると、こちらに向きなおった。
「だから、別に金は気にしなくてもいい。ちゃんと食堂でうまい飯を食べろ。何事も、上の世界を知っとくってのはいい経験になるもんだ」
そういうと杉原君の肩をポンポンとたたく。
「梶原さん、あなたもしかして……」
明渡君が何かを言いかけて、そして「いや、なんでもないです」と言ってやめた。
梶原さんは左の眉を上げただけで、それには特に追求せず、もう一度杉原君に向きなおる。
「あとな、君のうちの経済状況についてだが」
その言葉を聞いて、杉原君が硬直する。
「あ、そうだ。一応言っとくが、俺はこの話はここでしかしないし、君らもここで聞いたことは忘れろ

杉原君はまだ固まったままだ。その姿に困惑しながら、私たちはあいまいに頷いた。
「少なくとも君の家庭の経済状況は、有川高校の授業料や君の修学旅行代を払ったぐらいで困窮はしない。それは俺が保障しよう。もちろんそれで、君のお父さんの代わりになるとも思ってはないが……、だが少なくとも、そういう面で不自由はさせていない。それは確かだ」
杉原君は衝撃を受けた顔をしている。パクパクと口を開いた後で、「梶原さん、あんたは……」とつぶやいた。私はぼんやりと、さっき明渡君が言いかけた言葉と一緒だな、と思っていた。違っていたのは、梶原さんがちゃんと答えたことだ。
「俺は、十年前のスペースデブリ一掃作戦の生き残りだ。杉原さんにはずいぶんお世話になったよ。あの人だけは、俺の性格も笑って受け流してくれた。危機管理のいろはは、全部あの人から教わったようなもんだ」
梶原さんはそう言って窓の外に目を移し、しばし口を閉じる。
「ま、とにかく、補償については大丈夫だ。そっちは気にせず、今をちゃんと楽しめばいい」
梶原さんがそう言い終わると同時に、杉原君は突然立ち上がった。梶原さんを凝視している。何か言おうと口を動かすが、結局それは言葉にならず、あっと思った時には、部屋の扉に向かって駆け出し、飛び出して行ってしまった。
「杉原!」
それを追って明渡君も出ていく。
残された私と江藤さんは、気まずい思いをしながら互いの顔を見る。梶原さんはというと、落ち着いた表情で扉のほうを見つめている。一つ息を吐くと、こちらに向きなおった。
「さてと、そろそろ俺も仕事に戻らなきゃならん。君らも部屋に戻ったほうがいい。何より、俺の部屋から君ら二人だけが出てくるところを誰かに見られるというのは、なんとしても避けないといけないし……」
よっこいせ、と椅子から立ち上がると、梶原さんは私たちをエスコートして扉まで連れて行ってくれた。
一度外を確認してから、ゆっくり扉を開ける。
「あそうだ、部屋に備え付けてあるテレビでは、世界中の映画が見放題だぞ。特に一九九十年代のハリウッド映画は名作が多くてお勧めだ。暇になったら見てみるといい」
抑えた声でそう言うと、半身になって私たちが通る道を空けてくれた。それに習って外に出る。不意に江藤さんが、
「また来てもいいですか」
と聞いた。
梶原さんは一瞬きょとんとした顔をしたが、
「ああ、もちろん。でも見つからないようにしてくれよ」
と言った。江藤さんが頷くのを見ると、梶原さんは満足そうに笑い、「じゃ」と言って、ゆっくり扉を閉めた。

部屋に帰る道すがら、江藤さんがぽつりと、
「杉原君、お父さんいないのかな」
とつぶやく。
「さっきの話からすると、たぶん」
そのまま少しの間、私たちは黙って歩く。
少し迷ったが、私は、知っていることを話すことにした。
「……スペースデブリ一掃作戦って、確か軌道エレベーターを建設する前に、安全性を確保するためにやってたんだよね。それのおかげで今があるんだけど、作業の最終段階で、大きな事故が起きたの」
「事故?」
「うん。江藤さん、ケスラー・シンドロームって知ってる?」
江藤さんは首を横に振る。
「うん。スペースデブリって、回収される前の段階ですごい数になってたんだけど、それでも宇宙空間のほうがはるかに広いから、そこまで大きな問題にはなってなかったのね。でも、これがある密度を超えると、それぞれのデブリ同士がぶつかり合って、連鎖的に衝突が拡大して、自己増殖するような事態になるって言われてたの。そうなると、宇宙ステーションや人工衛星まで巻き込まれて、とてつもない被害が起きてしまう。これが、ケスラー・シンドロームって言うんだけど……」
「うわ、それ怖すぎ。で、それが起きちゃったの?」
今度は、私が首を横に振る。
「ううん、厳密には起きてない。回収作戦が始まったのが臨界点のかなり前段階だったし、宇宙開発事業自体が、その時は下火だったしね。だけど、回収がほとんど終わって、その処理方法を検討してた時、回収したデブリの一つが爆発したらしいの」
江藤さんが息を飲む。
「回収されたデブリは、大きな網のようなもので一か所に集められていたらしいんだけど、爆発の衝撃で、その周辺のデブリが破壊されて散らばって、さらに他のデブリにぶつかって、っていうのが繰り返されて……」
「それって、さっき言ってた……」
「うん、デブリを回収して、宇宙空間の一か所に集めたことで、限定的にケスラー・シンドロームを起こしやすい状況を作ってしまったのよね。で、回収作戦を行っていた宇宙船も巻き込まれて、乗組員全員が、その……」
これ以上は言葉にするのをためらわれた。梶原さんの話が本当なら、その中に杉原君のお父さんがいたことになるのだ。
江藤さんは口を両手で覆ったまま、言葉を発しない。
「……たぶん、梶原さんはその宇宙船には乗っていなかったんだと思う。回収作戦には大勢の宇宙飛行士が参加したんだけど、少し離れた場所にある宇宙ステーションが拠点だったらしいから、そこにも休憩中の宇宙飛行士の人たちがかなりいたみたい。梶原さんは、そこにいたんじゃないかな」
梶原さんが「生き残り」と表現したことは、そういう意味なんだと思う。
「……どんな、気持ちだったんだろ」
ぽつりと江藤さんがつぶやく。その目は少し充血しているように見える。
十年前の事故だから、梶原さんはそのとき二十代前半といったところだろう。私たちとそう違わない。そんな年齢で、目の前で知り合いが事故に巻き込まれて死ぬ。その時梶原さんは、自分の無力を呪ったのだろうか、なんとしても助け出そうと足掻いたのだろうか。今の梶原さんを見ても、それをうかがい知ることはできない。
私たちはそのまま無言で歩き、部屋にたどり着く。ドア横のプレートにカードを押し当てると、音もなく扉が開いた。
どちらともなくベットに倒れ込み、さっきの出来事を思案する。
「杉原君と明渡君、もう部屋に戻ってるかな……」
ぽつりとつぶやく江藤さんに対し、私は何とも言えない。
窓のほうを向いて黙っていた江藤さんだが、少ししてから突然「あーもー!」と声を上げて起き上がった。
「考えるの疲れた!先にシャワー浴びてくるね」
そう言い残し、江藤さんはバスルームに消えていく。と思ったら顔を出し、
「ごめん、バスローブ取って」
と言った。慌ててバスローブを取って手渡すと、意外にも江藤さんは、すでにさっぱりした表情になっていた。
「とりあえず、あたしは杉原君が何か言いだすまで、この話題は触れないことにする。それに、本人以外には、こういうことってどうしようもないもんね」
最後に、私に対してありがとうと付け加えると、江藤さんは今度こそバスルームの扉を閉めた。江藤さんなりに、気持ちに折り合いをつけたのだろう。
江藤さんが「らしさ」を取り戻したことで、私の気持ちもなんとなく軽くなる。
ベッドに座って、窓を眺める。
星の海は何事もなかったかのように、部屋を出る前と同じ景色で迎えてくれる。
そのまま景色を見続けてもよかったが、どうにも頭の中がごちゃごちゃしている。ふと梶原さんの言葉を思い出し、テレビの電源を入れた。映画を見れば、少なくともその間は余計なことを考えずに済むかもしれない。なるべく頭を空っぽにできるものがいいなと映画のリストを眺めていると、バスルームからまたしても声がかかる。
「ごめーん、洗顔取ってー!」
私は苦笑しながら、「はーい!」と答える。笑いがおさまらないまま洗顔を探し、江藤さんに手渡す。濡れそぼった江藤さんのお礼を聞きながら(ありがとうー!)、今度は、江藤さんと一緒に、どんな映画を観るべきか考えることにした。

 ※

その後、朝食時や授業(さすがに修学旅行らしく、航行中に授業がある)のときに会った杉原君は、こちらが拍子抜けするほどに普通の態度だった。それは明渡君も梶原さんも同じで、江藤さんがいなければ、あのときの会話は全て自分の夢だったのではと疑いたくなるくらいであった。もっとも、私も江藤さんも、目配せをするくらいで、口に出すことはなかったのだが。
授業も本格的なものではなく、どちらかというとレクリエーションのようなものが多かった。
もともと有川高校の生徒は受験から解放されているため(とはいえ、学年を上がるためのテストは過酷なものになると聞かされていたが)、授業も受験を意識したものではなく、様々な知識を総合的に使用して問題解決を行うような内容が多かった。それにせっかく宇宙にまで来ているのである。この環境を最大限に利用しないわけがなかった。
例えば、最初に集まって説明を受けたホールは、一日に一時間だけ設けてある無重力タイムに、「体育」として使用された。梶原さんをはじめ、ハリーの乗組員の方々が講師となり、無重力の中での動き方をレクチャーしてくれた。ケリー艦長も講師として招かれていて、音楽に合わせて優雅に空中で泳ぎ回って見せてくれた。これには梶原さんも、素直に感心して拍手を送っていた。最初に見た時は軽口をたたき合っていたが、二人が一緒にいるところを見ていると、実は仲がいいのだろうということを感じさせてくれる。
また、明渡君以下理系気質の生徒たちが並々ならぬ興味を示したのが、無重力下での、様々な実験の概要を説明してくれる授業だった。地上と同じように化学反応が進む場合とそうでない場合でどんな違いがあるのか、重力というファクターが反応機構や反応速度にどんな影響を与えるのか。一つ例が紹介されるたびに質問が飛び、説明する側もうれしそうな顔をしながら、熱意を持って対応してくれていた。
特に、無重力下での新薬開発の話になると、明渡君の鋭い質問が続いた。あまりに厳しく問い詰めるので、説明してくれる職員さんと口論になりかけ、太田先生が慌てて止めに入る場面もあった。
その後も、無重力下での生物の交配や成長の研究の話となると、あからさまに眉を顰める生徒がいて、非難がましい意見が相次いだ。一時、生徒間で肯定派と否定派に分かれて議論することになるなど、この授業も大いに盛り上がったと言える。もっとも、技術の発展を模索する側と倫理的な問題を追及する側で議論がかみ合うわけもなく、不毛な戦いとなってはいたのだが。
このように、銀河鉄道ハリーに滞在する間の授業は様々な趣向が凝らしてあったのだが、さすがに同じ生活が六日目となると、この非日常な環境にも慣れてくる。人間の素晴らしくも悲しいところは、どんな環境にもある程度慣れてしまえる、ということだと思う。
最初は何度も覗いていた窓も、全く景色が変わらないということを思い知ると、むしろ見るのが苦痛になるという生徒もいた。
ようするに私たちは、ハリーでの生活に飽きてきていたのである。
この間にも私と江藤さん、明渡君、杉原君の四人は何度か梶原さんの部屋を訪れていた。しかし、最初のような事件が起きることはなかった。梶原さんの大富豪のプレイングがめちゃくちゃ巧みで、誰も負かすことができず明渡君が弟子入りを申し出たり、江藤さんが、梶原さんの部屋にあったお菓子をこっそり食べて怒られたり、そんな平和な日々が続いていた。杉原君は何事もなかったかのように梶原さんと会話していたが、なんとなく、あの事件のあとから口調が改まったような気がする。正確に言うと、より親し気な、それでいて礼儀正しい口調になった気がするのだ。
そのことを江藤さんに話すと、
「あたしもそれは思った。たぶん、あの後で何か梶原さんと話したんじゃないかな。杉原君、すっきりした顔してるし」
と言われた。どういう解決になったのか気になるところではあったが、江藤さんも明渡君もほとんどこの話には触れなくなったので、私も心にしまい込むほかなかった。
それに何より、アルテミスに近づくにつれて、私自身の心の平安を保つのが難しくなっていたというのもある。授業を受けていても映画を観ていても(すでに十本近くに上る)、これからやらなければいけないことがどうにも心にのしかかり、集中できない。何度も見返したプログラムをもう一度精査したり、手順をおさらいしたりした。
ラップトップを開いたり閉じたりしている姿に、江藤さんは不思議そうな視線を向けてきたが、何かを問われることはなかった。
明渡君や梶原さんも、おそらく私の異常を感じ取っていたと思う。ふと視線を感じたり、何かあったら声をかけろよ、なんて優しい言葉をかけてくれたり。それでも私は、結局誰かを頼ることはなかった。
果たして私は、何かしてほしかったのだろうか、そっとしてほしかったのだろうか。自分の気持ちさえ、説明できる状態ではなかった。

六日目の夜。
この日は午前中に体育があり、体を動かして疲れていたにも関わらず、なかなか眠ることができなかった。私は何度も寝返りを打った末に、思い切って消灯時間を過ぎた船内を散歩することにした。
薄手のパーカーを羽織って部屋から出るとき、江藤さんが身じろぎをしたが、起こさずにはすんだようだ。
薄暗い通路をゆっくりと歩く。
時間を確認すると、夜中の二時過ぎだった。
人気は全くと言っていいほどなく、静けさにどこか安心感を覚える。
いくつかの車両を通過すると、ハリーに備え付けられたバーの明かりが見えてきた。立ち寄るわけにはいかないが、なんとなく中をのぞくと、バーテンダーと幾人かのお客さんがいるのが見えた。その中の男性の背中に見覚えがある。一人は梶原さんだ。一緒にいる女性は、あの豊かな金髪からして、おそらくケリー艦長だろう。時折笑い合いながら、静かに飲んでいるようだ。
私はしばらくその後姿を見ていたが、バーテンダーの男性と目が合ってしまったため、そそくさと逃げ出すことにした。
一人で歩いたことで、私の不安は少し薄らいでいた。相変わらず心に焦りはあるものの、前よりは気分が落ち着いていた。
もう少ししたら戻ろう。そう思って車両を移ると、前方の部屋の扉から、通路とは異なる明かりが漏れていることに気付いた。
船内はこれまでにずいぶん散策したと思ったが、この部屋には入った記憶がない。こんな時間に明かりが漏れていることに興味を覚え、扉に近づき、脇のプレートを見る。
Observation room
つまり、展望室、ということだ。
意味を考え、少しがっかりする。展望室というからには、ここから外の景色を見ることができるのだろうが、何せこの宇宙船は、私たちが宿泊している部屋も、食堂車も、廊下も、いたるところから外の景色を眺めることができる。しかも外の景色はどこまでいっても宇宙空間。基本的に変わらないのだ。
初日だったら楽しめたかもしれないが、あいにく私は、すでに宇宙空間への興味を失いつつあった。
素通りしようかとも考えたが、まぁせっかくだ。ここを覗いてから帰ることにしようと思い、中に足を踏み入れた。
部屋の中は思った以上に広く、ぱっと見、映画館のような作りになっている。床は緩やかに前方に向かって傾斜していて、そこに五十人程度が座れるだろうか、一人掛けのソファがずらっと並んでいる。
私は展望室という名前から、ガラス張りの部屋を想像していた。しかし実際は、壁や天井、床に至るまですべてが白塗りになっていて、窓らしいものは一つもなかった。
不思議に思いながら座席の横を歩いて前方に向かうと、
「あれ、麻田さん?」
という声が、部屋の中央辺りから聞こえてきた。
人がいると思っていなかった私はかなり驚き、急いで声がしたほうに顔を向ける。
「こんな時間に一人で何してんの?深夜徘徊?」
ソファでくつろぎながらこちらを見るその人物は、自分のことを差し置き、ずいぶん失礼なことを言ってくる。まぁ、否定できるわけでもないのだが。
「杉原君こそこんなとこで何してるの?もう二時過ぎてるよ」
私の言葉に、部屋の中央やや後ろの座席に座っている杉原君は、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「考え事。ここを独り占めしてぼーっとしてると、いろいろ悩みが片付いてく気がするんだよね。この時間になると誰もいなくなるってことに気付いて、夜な夜な忍び込んでるんだよ」
「こんな何もない部屋で?」
私が聞くと、杉原君は笑いを浮かべたまま、ちょいちょいと手招きする。近づくと、自分の隣の座席を指差した。座れという意味らしい。よく分からないまま言う通りにする。私が座るのを確認すると、彼は「ちょっと待ってて」と言って一度席を離れ、部屋の隅のパネルを操作しだした。
ほどなくしてポーンという音が鳴ると、部屋のライトが一段暗くなる。
杉原君は小走りで私の横の席まで戻ると、「もうちょっとしたら、映るから」と言った。
映画でも始まるのかな……。そう考えた時、さらに部屋のライトが暗くなり、ほとんど何も見えない状態になった。思わず杉原君の腕をつかむ。
「大丈夫だって」
杉原君が苦笑しながら言うのが聞こえる。
ぼんやり周囲が明るくなったと思った次の瞬間、
私たちは宇宙空間に浮かんでいた。
それまであったはずの壁や天井、床がすべて消え、周りには果てしない宇宙が広がっている。そして前方には、これまで宇宙船の構造上はっきりと見ることができなかった月が、私たちの最終目的地である月が、眼前いっぱいに広がっていた。
私は驚きのあまり声が出ない。
思わず浮かせた足をそのままにしながら、前方の月を見る。その右方向には……。
「アルテミス……」
いまだ建造中で、明日見学する予定の宇宙ステーション、アルテミスが、月からの逆光を受けて黒々とした姿を浮かび上がらせていた。
あまりに現実離れした光景に、逆に少し冷静になる。まだ恐怖が残っているが、思い切って足を下ろしてみる。
見る限り足元も何もない空間だが……、やはり地面についた。つまりこれは……。
「全面スクリーンになってるんだよ」
杉原君の声がした。
「すごいよな、ここまで高精細で、継ぎ目が全く分からない全面スクリーンなんて、今までに体験したことないよ」
そう言うと、有名なテーマパークの名前を挙げる。「あれもすごかったんだが、ここは技術が一世代進んでいる」と評価する。
「ここって、俺らが泊まってる部屋からは真逆の位置にあるし、しかも開いてる時間が限られてるから、使う人がほとんどいないんだよね。それに操作もセルフサービスだから、来たとしても操作が分からないとただの白い部屋だし」
私は気持ちを落ち着けるため、一度深呼吸をした。
「びっくり、した。もう、外の景色は見飽きたと思ってたんだけど……。これは反則」
「最初は月も小さかったんだけど、さすがに明日到着となるとでかさが分かるよな。これだけ大きな天体が地球の衛星になってるってこと自体が謎らしいんだけど、いろいろな説があって面白いよ、例えば……」
杉原君が月についての知識を話し出す。それも興味深いが、その前に引っかかった言葉があった。
「最初は小さかったって、杉原君いつからここのこと知ってたの?」
話を遮られた杉原君は一瞬黙り込むが、観念したようにソファに体をうずめた。
「……。一日目から」
ぼそりとつぶやく。
「一日目って……、その、一日目?」
質問しようと思うも、あの日のことをうまく表現できずに、一日目、というフレーズをただ繰り返すだけになってしまった。
ちらりとこちらを見てクスリと笑うと、杉原君は目を前に向けたまま話し出した。
「まぁ、そうだな。その一日目だよ。あの後、明渡が追ってきてくれたんだけど、なんとなく部屋に戻る気も起きなくて、そのまま一人でぶらぶらしてたんだよね。最初は売店に寄ったりシアターに行ったり、あんまりうちの生徒に会わないように行動してたんだけど、最終的に行くところがなくなって、この部屋の前にたどり着いたんだ。そしたらちょうどあの、艦長さんだっけ?あの金髪の女の人、と鉢合わせして、俺の顔を見て何かに気付いたのか、展望室に誘ってくれてさ。最初は俺も驚いて、無言で景色を見てたんだけど、なんか話してもいいかなって気になって、梶原さんの部屋で起こった一部始終を話したんだよ」
思った通り、まさにあの出来事のあとで杉原君はここに来たのだ。私と同じように、気持ちを持て余して歩き続けて。つい、自分と重ねて考えてしまう。
「そしたら、あの艦長さんも、俺の親父のこと知ってるって言って、その時の思い出をいろいろと聞かせてくれたんだよ。あの艦長さん、梶原さんと同期なんだって。スペースデブリ一掃作戦には参加してなかったらしいんだけど、訓練なんかは一緒にやって、うちの親父が教官みたいな立場だったらしい」
そこで杉原君は一呼吸置く。
「麻田さん、スペースデブリ一掃作戦で、何が起きたかって知ってる?」
私は以前に江藤さんに説明した内容を思い出し、無言で頷く。
「よかった。話が早い。だいたい予測はついてると思うんだけど、うちの親父はさ、そのときの事故で死んだんだ」
 杉原君はさらっと言ってのけたが、本人の口から聞くその事実は重い。私は言葉を返すことができずに、彼を見つめ続けていた。
「……。実は俺さ、親父のことってあんまり覚えてないんだよね。事故で死んじゃったのが、俺が六歳のときだし、その前も仕事で家を空けることが多かったし。だから実際のところ、俺の頭の中にある親父の記憶って、写真とか人から聞いたエピソードを、後からそう思い込んだだけなんじゃないかって、そう思うことが多くてさ。時間がたてばたつほど、どれが本当の記憶で、どれが自分が組み立てた記憶なのか分からなくなって……、何ていうか、ずっともやもやしてたんだよ。そんな中で突然梶原さんから親父の話を聞かされてさ、ちょっとパニックになったんだよね」
最後は恥ずかしそうに言う。
きっと、記憶の話は、私たちだってそうなんだと思う。ただ杉原君は、お父さんについては、その記憶を頼りにするしかないのだ。父親が今も生きている人たちと違って、新しい思い出が積み重なることがないのだから。だから、自分の父親に関する記憶が本物かどうかにこだわってしまう。そういうことなのだろう。
「艦長さんの話を聞いた時は、一回衝撃を受けた後だったから、意外と冷静に聞けたんだよね。でいろいろ話をして、その中で一個だけ、はっとするエピソードがあってさ」
私は、うん、と相槌をうつ。
「艦長さんが、そういえば、あなたがお父さんに会いに来たところを見たような気がする、って言ったんだ」
「あなたって、杉原君?」
「そう。正確には、俺と母さんだな。軌道エレベーターのプロトタイプが出来上がってすぐに、親父に会いに俺と母さんがウラノスに来てたよね、って言われたんだ。それを聞いて、なんか記憶のふたが開いたみたいに、ぐわーっていろんな場面がつながってさ。出来上がったばかりの軌道エレベーターでウラノスに上がって、親父と母さんと飯を食って、無重力の中泳いで。なんかそんな場面が、一気に頭の中にあふれてきたんだ。実は今までも、突然そういう場面がフラッシュバックすることがあったんだけど、それが全部つながって、一つの映像になったんだ」
その話を聞いて、私は軌道エレベーターの中での杉原君の言葉を思い出した。
「そういえば、軌道エレベーターに乗ってたとき、杉原君、私が外の景色に圧倒されてるのに気づいて、声かけてくれたよね。そのとき杉原君、ここからの景色が一番不気味なんだって言ってた。そのとき、なんで杉原君知ってるんだろうって思ったんだけど……」
「うん、そうなんだ。俺、一度来たことがあったんだよ。俺自身も不思議に思ってたんだけど、それで全部つじつまが合ったんだ」
杉原君は泣き笑いのような顔になっている。一度言葉を区切ると、今度は真面目な顔になって言う。
「そのあともいろいろ考えたんだけど、もしかすると、この思い出って、自分で封印したのかなって思ったんだ」
「自分で?どうして?」
「時期からすると、親父が死んだのがそのすぐあとになるから、かな。この記憶もまた曖昧なんだけど、親父の葬式とか、そのあとの生活も、マスコミの取材とか好奇心に駆られた野次馬の押しかけとか、すごく大変だったような気がするんだよ。うっすら覚えてるのは、晴れた日でも、カーテンを閉め切った部屋で母さんと飯を食ってる場面とか、小学校に行く途中に知らない大人からしつこく声をかけられたりとか。だから、自分で親父に関する記憶を、嫌な記憶と共に忘れようとしたのかなって、思ってさ」
話の内容に、言葉が詰まる。黙っていると、それを察したのか、杉原君がこちらに向きなおった。
「急に重い話して、ごめん。なんか、そういう気分になったんだ」
深々と頭を下げる。
私は首を横にぶんぶん振って、こっちこそごめん、と頭を下げる。勢い良く下げた頭はそのまま杉原君の頭にぶつかり、鈍い音を立てた。
「痛っ」
二人同時に声を出し、一拍おいてどちらともなく笑い出した。
「話してくれて、うれしかった。実はあのとき、杉原君が声をかけてくれなかったら、私は宇宙に行く前に心が折れていたかもしれない。そのときのことも含めて、本当にありがとう」
今度は私が頭を下げる。
「いやいや、それこそ全然大したことないことだよ」
私の言い回しに、少し不思議そうな表情を浮かべて杉原君が手を振る。
私も、今の話とこの不思議な空間に感化されたのだろうか、自分の話をしてもいいような気になっていた。杉原君はどう思うだろう。困惑し、私から距離を置くだろうか。しかし、きっとそうはしないだろうと、私は確信していた。
「私も、話、していい?」
そう言うと、杉原君はこちらを見て意外そうな顔をする。しかしすぐに笑顔になると、「朝まで付き合うよ」と言った。私は頷き、深呼吸をすると、記憶を呼び起こした。すべては、二年前のあの日から始まったのだ。

 ※

「……そういうわけだから、明日は私がうまく動けるように、見守ってて」
最後は苦笑しながら話終えると、杉原君は口元に手を当てて何やら考え込んでいた。最初の笑顔はどこへやら、真剣そのものの顔だ。
あまりに長く考え込んでいるので、少し不安になって顔を覗き込む。
「あの、みんなに、迷惑はかけないようにするから……」
幾分か弱気な言葉が口をついて出る。
杉原君はうーんと唸った後、ぼそりと言った。
「それ、俺も手伝えないかな」
その言葉にぎょっとする。私はあくまで、一人でやり通すつもりだったのだ。
「え、いや、ダメだよ!ほとんど犯罪行為だし、私の問題なんだから……」
説得しようとするも、杉原君の目に宿った光は強烈だった。
「でも、さっきのプランを聞くと、どう考えても助手がいたほうがいいでしょ。一人でやるには、困難なところが多すぎる」
そう言うと、私の立てたプランの弱いところをズバズバと指摘してくる。こういうところで頭がいいのは憎らしい。
話し出した当初の予想と違うほうに傾きつつあるのを感じ、私は焦った。なおも説得を試みようとする私に対し、ついに杉原君は、
「もう俺も決めちゃったから。ここまで聞いてほっとくことはできないよ。明日決行となれば時間が足りないでしょ。俺を説得するより、二人でやる場合にどうやったらより成功率が高まるか、それを考えたほうがいいと思うんだけど」
などと言い放った。
それを聞き、私も折れざるを得なくなってしまった。きっとこのまま振り切っても、彼は明日必ず手を出してくるだろう。それならば、なるべく杉原君には安全な役をやってもらい、成功率を高めるほうが、確かに建設的だ。
私はしぶしぶ頷き、プランを練り直すことにした。心にかかっていたプレッシャーが軽くなっていることには、気付かないふりをしながら。

銀河鉄道の修学旅行

銀河鉄道の修学旅行

国立有川高校の今年の修学旅行は、なんと月に建造中の宇宙ステーションだった。 ちょっとだけ未来の世界で繰り広げられる、高校生たちの冒険と青春。ライトミステリーの青春SF風味、みたいな感じです。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1. バスの中で
  2. 2. 梶原という男
  3. 3. 軌道エレベーター
  4. 4. 小さな冒険
  5. 5. 緊急回避
  6. 6. 銀河鉄道