紅蓮蝶

64Dー5081

  囚人番号:64Dー5081  新井 清美(あらい きよみ)

 新井 清美は、九歳の夏に誘拐された。
 下校途中だった清美は、突然、見知らぬ男に車の中へ引きずり込まれ、手錠をはめられ、目隠しをされ、猿ぐつわを噛ませられて、男の自宅に連れていかれた。
 目隠しと手錠のまま監禁され、清美はそれから毎日、暴行としか言えない方法で犯された。
 警察に助け出されたのは、その二週間後のことである。
 二週間という時間は、助け出されるには遅すぎた。
 清美の心についた傷が、より深く裂けるのに充分な時間だった。
 助け出された時、清美の心には深い、底の見えないほどの深い傷が残っていた。谷間のようにえぐり込まれた傷の底には闇が淀んでいた。
 それでも、生きている限りは生きていかなくてはならない。
 非日常的な日々が終わった後は、日常的な毎日に混ざり直さなければならない。性的暴行を受け続けた体に、消えることのない非日常の残り香をまとわせたまま。
 その香りは、日常を過ごす人たちの態度をも変えてしまっていた。友達も、先生も、両親でさえも、清美に対してよそよそしい態度をとった。
 彼らは皆、事件に巻き込まれ、けして無事とは言えない体で保護された清美に対して、どんな態度で接していいのか分からなかったのだ。
 清美は幼く、彼らの心情を察するには人生経験が足りていなかったから、理由が分からずに、さらに深く傷ついた。
 自分はもう皆とは別なのだと、皆と同じでいられるほど普通ではないのだと、そう思った。
 三年後、十二歳になって、清美は自殺を考えるようになった。
 腫れ物に触るような他人の対応から、自分が普通ではないことを嫌でも思い知らされる。性的暴行でえぐられた心の傷には濃厚な闇が膿んで、もう死ぬより他にないと思った。
 初めて死への衝動を感じたその日、清美は猫を一匹殺した。
 死ぬのが恐かったので、自分が死ぬ代わりに猫に死んでもらった。
 それは、死への練習とも言えた。人間が死を受け入れるには、何段階かの心の準備が必要なのだ。いきなり死ねるようなものではない。
 清美はその練習を、猫を殺すことで行った。いつか、自分が死ぬ時のために。
 猫を殺すと、不思議と清美の心は癒された。
 一ヶ月に一度ほどの周期で清美は死ぬことを想い、そして、猫が殺された。
 丁度十二匹目の猫を包丁で切り刻んだ後に、清美は中学生になった。
 学校が変わっても、清美の体に染み着いた非日常の匂いが薄れることはない。どこかから事件の噂が漏れて、周囲からは好奇の視線と、よそよそしい態度と、その両方に晒されることになった。
 清美は、いよいよ死にたくなってしまった。
 どのぐらい死にたくなったかと言うなら、清美の自宅の近辺から、一日にして野良猫がいなくなったほどだった。
 しかも、それだけでは足りなかった。
 清美は血でぬめる包丁を片手に近所の民家に押し入って、ペットとして飼われていた猫も殺した。
 猫のいる家庭を次々と訪問しては、次々と猫を殺して回った。その 際、清美の凶行を止めようとした人間も清美は刺した。
 結果、清美は五十四匹分の器物破損と三人分の傷害罪によって、現行犯で警官隊に取り押さえられた。
 捕まって三ヶ月後、精神鑑定を経て、家庭裁判所で非公開の裁判を受けた結果、清美の処遇が決定された。
 清美の行き先は特別養護医療少年院、俗称、『ファンタジー園』だった。

64Dー5063

 特別養護医療少年院──。

 それは、低年齢化の進む凶悪犯罪に対応するために造られた施設である。
 少年法では裁ききれないほど、精神に問題を抱えた少年たちを収監、更生させる刑務所だ。清美のように、児童支援施設での更生が難しい、少年法に抵触しない年齢の少年も引き受ける。
 ファンタジー園というのが、その場所の俗称だ。
 建物のコンセプトがそうなのである。
 刑務所と言うよりはラブホテルと言った方が近い、お城のようなデザインの外観にそれが集約されている。その内部の、ファンタジー映画のセットのような細工の施された内装は、全てパステル調の淡く温暖な色で塗られていた。
 ファンタジーによる癒し、である。
 収監される少年たちの多くが童心を失っている。虐待や貧困、過剰な暴力など、少年たちは日々、殺伐とした生活を余儀なくされ、その結果が犯罪行為に結び付いている。
 子供の時には子供の感性でいなくてはならないのだ。成長というのは足し算であり、一から二、二から三、順番に数字を足していかなければ、健全な成長は望めないのである。
 ファンタジー園に送られる子供たちは現実を突き付けられすぎて、一の次に五を飲み込まされるような生活を送ってきたのだ。それではどうやっても計算が合わなくなる。合わなくなった数字が歪みを呼ぶ。
 童心という名の失った数字を与えるために、ファンタジー園という建物が機能している。
 ファンタジー園は、少年犯罪者のためのおとぎの国なのだ。
 おとぎの国であるから、ここには時間などない。刑期という時間もここには存在しない。仮に刑期があったとしても、それは釈放の基準にはならない。
 釈放されるのに必要なのは、何年服役したかではなく、精神科医の『更正終了』というサインだった。書類にそのサインが貰えない限り、少年たちはおとぎの国から抜け出すことを許されない。
 ここを抜け出す方法はただ一つ、精神的にも肉体的にも大人になるしかないのだ。
 しかし、大人になり、仮釈放されることがあったとしても、本当の意味でファンタジー園から抜け出せる人間は少ない。
 彼らには物語がついて回る。
 世間を震え上がらせた猟奇的な犯罪から始まった物語は、一度始まってしまえば、もう二度と終わらない。危険人物が釈放されたとマスコミが吹聴して回る。ネットが後を追う。物語を終わらせることが許さない。元猟奇犯罪者を正常な一市民として受け入れる場所も、職場も、ほとんどない。家族との絆さえ壊れてしまっている。
 そこには、終わりのない物語のやりきれなさがある。
 世間が終えることを許さない物語。大人のためのネバーエンディングストーリー。
 ファンタジー園には希望も、夢もなく、ただ、虚無だけが巣喰っている。 


 護送車によって鉄の門をくぐり、車を降りて正面玄関からファンタジー園に一歩踏み入れたその時、清美は虚無の匂いを嗅いだ。
 監禁され暴行を受けた二週間に嫌というほど感じた、希望も夢も立ち入ることを許さない虚無の匂いと同じ匂いを、ファンタジックに造られたこの場所に感じた。
 護送役の屈強な看守に腕を掴まれ、清美は生活区と呼ばれる区画まで引きずられるように歩かされる。
 ファンタジー園には六つの区画がある。中央の広いホールをたくさんの監房が囲んでいる生活区、集団で食事をするための食堂区、教室や図書室のある教育区、労役をするための工場区、同じく労役のための農園区、そして病棟だ。
 囚人の生活は時間割によって決められている。
 起床は朝六時半。
 朝食の後は昼まで就学し、昼食をとると夕方まで労役に励む。
 夕食の後は自由時間だ。
 就寝は二十一時。
 ただし、精神科医によるカウンセリングを受ける時間は、労役や就学を抜けてもよい。
 日曜日は休みの日で、全ての就学と労役が免除される。
 清美が入所した日はちょうど日曜日だったので、生活区の中は朝の九時でもにぎわっていた。
 六角形に造られたホールには十個ほどテーブルが置かれ、囚人の少年たちが将棋や囲碁、トランプなどに興じている。
 並べられた椅子に座って、壁に取り付けられたテレビを見ている少年もいる。
 看守に連れられて清美が入ってくると、一瞬ざわめきが途切れ、新入りに向かって一斉に好奇の視線が注がれた。
 清美は誰とも目を合わさずに歩いた。
 囚人の唯一の安息の場である監房は、六角形のホールの壁に沿って造られている。蜂の巣のような造りだと、清美は思った。
 ホールに面した監房の入り口は鉄格子で仕切られていて、格子の隙間から中で何をしているか覗き見れるようになっていた。囚人にプライバシーなどない。
 これから何年も暮らすことになる自分の監房に清美は案内された。
 監房はそれぞれ二人部屋で、六畳ほどの畳敷きの空間には、二組の折り畳まれた布団に小さな文机が二つと、洗面台があった。
 監房の隅は畳一枚分ほど堀り込まれて一段低くなっていて、そこはコンクリートで固められていた。剥き出しの洋式トイレが設置されている。トイレ用の緑のスリッパがコンクリートの床に置いてあった。
 ホールはお城の中のような西洋風の作りであるのに、監房だけは和室であることに、清美は違和感を覚えた。
 ただ、洋風建築に混ぜられた、鉄格子で仕切られている和風の部屋には、どこかエキゾチックな魅力も感じた。ファンタジーというのはこういうことなのかもしれない。
 監房の中では清美よりも二、三歳年上の少年が、畳の上にぺたんと座り込んで本を読んでいた。中に入らなくても、鉄格子の隙間からその様子をうかがい知ることができる。
 看守は引き戸のように段違いになった格子戸の右半分を横に引いて開け、清美に中に入るように促すと、
「仲良くやれよ」
 とだけ短く声をかけて立ち去った。
 眼鏡をかけた少年は本から顔を上げて、「こんにちは」と清美に挨拶した。少年の顔には、鼻の頭から両頬にかけてソバカスが散っていた。そのソバカスが、どこか少年に健康的な雰囲気を与えていた。
 清美は格子戸を閉めて、「こんにちは」と挨拶を返した。ホールの床が続く入り口で靴を脱いで、一段高くなった畳に上がり込み腰を下ろす。
 清美が腰を落ち着けるのを待ってから、少年は声をかけた。
「僕の名前は楠アリス。君は?」
「清美。新井清美」
 清美が言うと、アリスはにっこりと微笑んだ。
「清美くん、か。早速だけど、ここで一番大事なことを一つだけ教えてあげる。ここに来たぐらいだから君もマトモな人じゃないと思うけど、みんなそうだよ。狂ってる。死にたくなかったら気をつけなさい」
 そう言うと、アリスは上着をめくり上げた。覗かせた色白の腹部には、小さなクレーターのような刺し傷の痕が醜く残っていた。
「前にルームメイトだった子に、柄を尖らせた歯ブラシで刺された。突然、僕のことが白い竜に見えたらしくて」
「…白い竜?」
「そう。ファルコンっていう名前の」
「どうして白い竜だと歯ブラシで刺すの?」
「僕が見つからないようにするためさ」
「誰に?」
「ファルコンに」
 意味が分からなかった。清美の困惑した表情を見て、アリスは笑った。「ここには、信用できる人とできない人の二種類しかいない。その選別を間違うと僕のような目に合う。清美くんは信用してもいいのかどうか、外で何をしてこのファンタジー園に閉じ込められることになったのかを聞かせてもらいたいんだけどね」
 アリスに促されて、清美がたどたどしく五十四匹の猫を殺した話をすると、アリスは真面目な顔で、
「清美くんは、僕が猫に見えたりしないだろうね?」
 と言った。
 清美が大きく首を横に振っても、アリスは笑わなかった。
「死にたくなる度に誰かを殺したくなると言うなら、猫に見えなくたって安心はできないよ。でもまぁ、僕も似たようなモノだからね。清美くんも僕には気をつけるといい。ここで生きていくなら、疑い深いぐらいで丁度いい」
 そう前置きして、アリスも自分の罪を語り出した。 



  囚人番号:64Dー5063 楠 アリス(くすのき ありす)


 楠アリスは過食症だった。
 受験のストレスである。
 エリートになれと言う父親の過大な期待に応えられなかったのだ。
 父親の期待ほどに頭のよくなかったアリスには、毎日がストレスの塊だった。
 アリスは絵を描くのが好きな子供だったが、父親はそれを許さなかった。いい高校に入り、いい大学に入り、エリートになれと、それだけを繰り返し要求した。
 それがアリスの人生のためだと信じて疑わなかった。
 父親は中卒の肉体労働者で、薄給でこき使われながら、現場で幅を利かせる管理職のエリート達に強いコンプレックスを抱いていた。学歴さえあれば俺だって──、そんなコンプレックスの裏返しで、自分の子供に過大な要求を突き付けていたのである。
 アリスが勉強以外のことをしていると、父親は酷く怒った。
 こっそりスケッチブックに絵を描いてるところを見つかろうものなら、スケッチブックをビリビリに破られ、あげく、殴られた。反抗心も粉々に打ち砕かれる程の、徹底的な暴行を加えられた。
 アリスは父親に対して、奴隷が暴虐な主人におぼえるような恐怖心しか感じていなかった。
 暴力から生まれる恐怖心から逃れるために、アリスは懸命に勉強した。テストで百点なら問題ないが、九十点ならば、足りない十点分、十発殴られるのだ。元々アリスは頭のいい方ではない。必死に勉強した。
 勉強して、勉強して、勉強している内に、それに比例してストレスも溜まっていった。
 溜まったストレスは食べることに発露された。
 食べている時だけはストレスを忘れられる。
 食べていない時は不安を感じる。
 満腹になるために食べているのではなく、食べてストレスを忘れるために食べているので、満腹になるとアリスは喉に指を突っ込んで食べた物を吐いた。吐いて、また食べた。
 そうやっていると、どうしたって食べる物が足りなくなる。家の中にはそれほど食べる物はない。なくても食べる物が欲しい。食べる物を買うお金が欲しい。
 やがてアリスは万引きを始めた。店から食料を盗む。食料だけではなくお金も盗んだ。吐くためのお金を、吐くための食べ物を盗み始めた。
 だが、そんな無理のある日々も長くは続かない。子供の犯罪だ、バレなはずがない。
 ある日、アリスはコンビニの店員が目を離したレジから、お金を盗んでいる現場を押さえられた。
 警察に連れて行かれ、身柄を引き受けに父親がやってきた。家に帰ると、父親に顔が腫れあがるまで殴られ続けた。
 その時もアリスは空腹を感じていた。何か食べたくて仕方なかった。ストレスから逃れたかったのだ。
 殴られる痛みと、痛みからくる恐怖と、恐怖からくる不安と、そして、空腹。
 アリスは、殴られすぎてぼんやりしてきた頭の中で、ふと、こんなことを思った。


 この男なら、食べてもいいんじゃないだろうか。 
 この男なら、食べてしまってもいいんじゃないだろうか。


 その夜、父親を包丁で刺した。
 アリスは父親の死体から太股の肉を切り落として、フライパンで炒めて食べていたところを、母親の通報で駆けつけた警官に捕まった。 



 アリスの話を聞いて、清美は震えあがった。
 目の前の少年は、自分の父親を殺して食べたのだ。
 その理由は、結果とどこかズレていて噛み合わない。
 清美が自殺したいと思って猫を殺したのと同じように、アリスはおなかがすいたから父親を殺して食べたのだ。
 ごく素直な感情で、怖いと思った。
 先ほど聞いた白い竜の話も、程度の差はあれ、そういう種類の話なんだと理解できた。白い竜に見つからないようにするためには、白い竜を刺さなければいけないのだ。
「ここに来てからは吐くために食べるようなことも少なくなったけど、でも、夜中におなかがすくと、なんでもいいから近くにあるモノを食べたくなる時がある。まぁ、我慢してるよ。僕も我慢してるんだから、君も、死にたくなっても僕を殺すのは我慢してね」
「うん。頑張る。だから、本当に、アリスくんもボクを食べちゃ嫌だよ?」
 小さく震えた声で清美は答えた。
 アリスはちらりと清美の太股に目をやってから、「分かった。我慢する」と返事をしてにっこり笑った。


 その日は、アリスと雑談して終わったようなものだった。
 ファンタジー園の規則や、本の借り方、生活用品の購入の仕方、洗濯物を出す曜日、明日から始まる労役のことなどを詳しく説明してもらった。
 昼と夜に食堂で出された食事は、初めて食べる少し黄ばんだご飯やお世辞にも美味しいと言えない粗末なおかずに食が進まず、半分ほど残した。
「すぐに慣れるよ」
 と、アリスは美味しそうに食べていたが、清美は慣れることができるか不安になった。
 さらに慣れないのはトイレだった。隠す物が何もない。丸見えなのだ。衝立さえない。用をたす姿をアリスに見られていると思うと恥ずかしかった。
 三年ぐらい前までは衝立もあったそうだが、陰に隠れて悪さをする人がいるので撤廃されたそうだ。
 悪さってなに──、と聞くと、アリスは平然と、「セックス」と答えた。
「年頃の男の子ばかりが長く収監される場所だからね。そういうコトもあるさ。僕にそっち趣味はないけど、夜にオナニーぐらいはするよ。たまに出しておかないと、夢精して下着を汚すからね。下着は原則一枚、洗濯に出して二日後に返ってくるのに穿き替えて、今穿いてるのはまた洗濯に出さなきゃいけないから、日が悪いと二日間、汚れた下着で我慢、ということにもなる」
 清美くんもオナニーしたくなったら遠慮しなくていいからね──ずいぶん言いにくい類の話をさらりと言われたが、その点に関して清美の憂慮はなかった。まだ精通を経験していなかったのだ。
 それどころか清美は勃起さえしない。
 清美は、セックスにひどい嫌悪感を持っていた。いや、嫌悪感という生易しいものではない。恐怖だ。性というモノを知る前に、幼い体を乱暴にレイプされたからである。心に負った深い傷は、清美の性に関する体の成長や反応を、全て止めてしまっていた。
 だからその後、「清美くんは可愛い顔してるからね。ここではモテるかもよ」と冗談めかして言ったアリスの言葉には、体が震えるほどの恐怖を感じた。
 他人の性欲の対象になるのは、清美にとって恐怖以外の何物でもない。
「それに、清美くんの太股は美味しそうだ」
 付け足すように呟いたアリスの声には、別の意味でも恐怖を感じた。比喩でもなんでもなく、美味しそうに見えているに違いなかった。
 ファンタジー園に入所した最初の夜は、明日から始まる生活への不安と、隣に敷かれた布団で眠る、人間を食べる少年のことが気になって、よく眠れなかった。

日常1

 早朝、六時半。
 ホールの壁に埋め込まれているスピーカーからクラシック音楽が流れ、その音で清美は目を覚ました。
 昨夜はなかなか寝付けずに、長い時間、布団の中で目を閉じてぼぅっとしていたが、それでも少しは眠れたらしい。寝たつもりはなかったが、目を覚ましたということは眠っていたということだ。
 眠気が残ってぼんやりした頭を二、三度振って体を起こす。
 耳にしたことはあるがタイトルも作曲者も知らないクラシック音楽を聞いていると、隣の布団で眠っていた同居人が目を覚ました。
「むー」
 とか「ふにぃ」とか、言葉にならない小さな呻き声をあげて起き上がった同居人は、ぺたりと布団の上に座り込んで、猫のような手つきで目をぐしぐしこすった。
「おはよう」
 清美が朝の挨拶をすると、アリスが寝ぼけた声で、「にゃぁ」と鳴いた。アリスは全身で朝に対する倦怠感を表現していた。
 おずおずと畳を手探りして、眠る前に枕元に外しておいた眼鏡を手に取る。
 眼鏡をかけると幾分すっきりしたようだ。両手を高く上げて伸びをしながら大きな欠伸を一つもらして、「さぁ、布団をたたむよ」と清美に声をかけて布団をたたみ始めた。
 刑務所では、布団のたたみ方、積み上げ方まで規則で決まっている。
 清美はアリスを見習って布団をたたんだ。敷き布団、掛け布団、毛布、敷布、枕の順番に、部屋の隅に布団を積み上げる。
 布団を片付け終えた頃、流れていた音楽が途切れ、スピーカーからは「点呼!」と短い声が聞こえてきた。
 点呼は朝と晩の二回行われる。夜の点呼ならば昨晩に体験した。二人並んで鉄格子の前に正座し、回ってきた看守に名前を呼ばれたら返事をするのだ。
 夜の点呼の時は、そのあと監房に鍵をかける。朝はその逆で鍵を開ける。
 昨日の夜もしたように、正座して鉄格子と向き合っていると、しばらくして、堅太りした看守の男が前に立った。イノシシに似た顔の看守は、手に持ったボードを見ながら番号を読み上げる。
「64Dー5063、楠アリス」
「はい」
「64Dー5081、新井清美」
「はい」
 アリスにならって返事をする。
 点呼を取ると、看守は胸ポケットから鍵を取り出して鉄格子の錠を開けた。
 自分の点呼が終わっても、全員分の点呼が終わって「終了」と合図があるまで正座して待っていなくてはならない。「終了」の合図があってようやく、パジャマを脱いで服に着替えられる。
 ファンタジー園は刑務所でありながら囚人服がない。私服でいいのだった。
 髪型も自由だ。
 点呼が終わって、七時に「朝食」の号令がかかるまでの間に、着替えをして顔を洗う。
 身支度を終えても、まだ監房から出てはいけない。この時に監房を出ていいのは、給食係に選ばれた囚人達だけだ。
 彼らは急いで食堂へ行って朝食の準備をする。給食係は朝が慌ただしい代わりに、昼食と夕食の準備のため、就学や労役の時間が三十分ほど早く終わる。
 七時、朝食の号令を聞いて、清美とアリスは監房を出た。他の少年たちと一緒にホールを抜け、食堂のある地下フロアに移動する。 食堂に入ってすぐの所に置いてあるプラスチックのトレイを手に持ち、朝食の付け渡しを待つ列に並ぶ。
 小学校の時の給食と同じ仕組みだ。横に並んだ給食係が、一人一品ずつ、トレイに朝食を乗せていく。
 今日のメニューは、ロールパンが二つにコンソメスープ、サラダ、チーズ、牛乳だった。
 これらの食事は毎食ごと、給食センターから届けられる。予算をケチっているのか、安っぽい味がしてあまり美味しくない。清美は今日も、半分ほど手をつけて後は残した。
 アリスが、「食べないなら貰うよ」と、隣からフォークとスプーンでひょいひょい食べていくので、残したはずの朝食はいつの間にかトレイの上から消えていた。
 朝食を終えると監房に戻り、支給された筆記用具と教科書を持って、八時半までに教室へ行く。
 教室は二つ。中学生用の教室と高校生用の教室だ。
 ファンタジー園に入所している囚人の数は五十一名。その内、十三人が中学生で、十五人が高校生だ。残りの二十三人は、高等教育を拒否した囚人か、高等教育を終えた囚人だ。そういう囚人達は、この時間も労役に出る。
 生徒数が少ないので、学年に関係なく、中学生は中学生、高校生は高校生で同じ教室に集められる。過疎化の進んだ村の学校と同じ要領である。
 それぞれの学習速度に見合ったプリントを渡され、教科書を見ながら問題を解いていく。間違ったところや分からないところは、各教室に二人ずついる先生が教えてくれる。個別教育なのだ。
 高校生用の教室に行ったアリスと別れて、清美は中学生用の教室に入った。初めて入った教室には外人の先生がいて、清美は少し驚いた。
 長身を場違いなタキシードで包み、鼻の下に八の字の髭を生やした黒髪の外人──どことなくヒトラーに似てる──は、流暢な日本語で、
「君の愚かさ加減が知りたいので今日はこれをやりたまえ」
 と言って、清美に小学生用のプリントを渡した。
 国語、算数、社会、理科のプリントを終えて提出すると、外人の先生は髭の先をちょいちょいといじりながら採点し、
「うむ。そんなに愚かでもないようだ。よろしい。実によろしい。明日から普通に中学一年生の授業をするので覚悟しておきたまえ。私の教育は厳しいが、その厳しさがいつか癖になるぞ。君も大人になれば分かる」
 そう言って笑った。ヘンな先生だと清美は思った。
 もう一人いた先生は柔和そうな顔立ちで二十代半ばの日本人に見えたが、その外人の先生が「ファウスト君」と名前を呼んでいたので、彼も外人なのかもしれない。

 何度かの休憩を挟んで十二時になると昼食の時間だ。
 昼食が終わった十三時からは労役が始まる。
 清美に与えられた仕事は、外にある農園に出て、畑の雑草をむしったり、薔薇園で薔薇の手入れをしたり、飼育小屋でウサギやニワトリの世話をすることだった。
「君は猫を大量に殺してきたそうだが、生き物を育てることによって、素朴な命の大切さを学んで欲しい」
 と、農園担当の看守が言ったが、清美自身は命の大切さを分かっているつもりである。命をかろんじているつもりはない。命の大切さを実感しているからこそ、清美は自分の命を絶ちたくても絶てずにいたのだ。
 その結果、代償として猫の命を必要としたが、殺してもいい生き物だと思って殺したわけではない。
 自分の命と等価だと思っている。
 等価だからこそ猫を殺したのだ。自分が死ぬように猫が死んだ、それだけのことだ。
 本当は、自分が死んでしまいたいのだ。
 学ばせてくれると言うなら、命が大切なモノではないことを学ばせて欲しい。自分の命など重要なモノではなく、死ぬに安いことを教えて欲しい。
 殺したいのではない、死にたいのだ。
 自分が死ねない限り、身替わりに猫を殺してしまう。
 飼育小屋のウサギがニンジンを食べる姿を見ながら、清美はそんなことを考えた。
 十七時に労役の時間が終わる。夕食を食べ、十八時からは自由時間だ。
 清美はお風呂道具を一式持ち、アリスと連れ立ってシャワールームに行った。労役で流した汗を洗い落としたかったのだ。
 シャワールームは、二十時までなら自由に使っていいことになっている。
 トイレに仕切りがないぐらいだから、もちろんこの場所にも仕切りなどない。タイル張りの壁から等間隔に5本、ジョウロの先のようなシャワーノズルが並んでいるだけだ。
 見ず知らずの人の前で裸の体を晒すのは恥ずかしかったし、そうすることにはどこか恐怖心さえ感じたが、これも慣れていかなければ仕方ない。
 おずおずとシャワーを浴びている清美の顔色を見て心中を察したのかアリスが笑う。「銭湯と一緒さ、気にするコトはないよ。まぁ、そうやって身構えるのは大事だけどね。頭のおかしいヤツもいるしさ。そう言えば前に、僕の裸を見ながらオナニーし始めたヤツがいてね。オカズにされるのもシャクだから、思いっきりアソコを蹴っ飛ばしてやった。清美くんも同じコトをされたらそうなさい。そういう輩は甘いトコ見せるとつけあがるから」
 まぁ、喧嘩すると懲罰なんだけどね──、ソバカスの散らばった頬でにっこり微笑むアリスに、清美もぎこちなく笑みを返した。
 シャワーを浴びてからは、ホールのテーブルに座ってアリスとトランプをした。
 二人でする大富豪は、お互いの手の内が読めすぎて逆に白熱した。自分の手札に無いカードは相手が持っているのである。心理戦が勝敗を左右した。
 二勝三敗の戦績を積み重ねたところで、「点呼!」という声がホールに響いて、清美とアリスは監房に戻った。時間は二十時。
 点呼を受けると監房には鍵が掛けられ、仮就寝の時間が始まる。仮就寝とは、寝てもいいし寝なくてもいい時間のことだ。清美とアリスは布団にくるまって、雑談をしながら過ごした。
 そして二十一時。
 就寝を知らせる緩やかな音楽が流れ、ホールと監房の明かりが落とされる。
 ホールの照明が薄暗いオレンジ色の非常灯に替わり、その頼りない明かりだけが、弱く、鉄格子の隙間から監房へ侵入してくる。
「おやすみなさい」
 小声でアリスに言葉をかけて、清美はゆっくりとまぶたを閉じた。
 今夜はなんだか、安心して眠れそうな気がした。 

日常2

 二週間が過ぎた。
 刑務所の生活は、毎日同じことの繰り返しだ。
 昨日と同じ生活を今日も送り、今日と同じ生活を明日も送る。うんざりするほどに変化の乏しい生活。
 起床、食事、労働、就寝、きっちりと時間が決められており、ほんの少しでもそれが狂うことはない。変化が起こるとするなら、それは罰を受ける時だけだった。
 清美は一度、囚人の少年二人が喧嘩を始めた場面を目撃した。自由時間でのことである。
 喧嘩の理由は分からない。
 ホールのテーブルに座って、アリスとチェスを楽しんでいたら、突然怒号が上がって、遠くのテーブルに座っていた二人が喧嘩を始めた。
 取っ組み合いは長くは続かず、すぐに体の大きい少年が相手の少年を床に組み伏せ、馬乗りになって上から殴りつけていた。
 格闘する少年二人の周囲に人だかりができて、口々にはやしたてる。歓声があがる。皆、娯楽に飢えているのだ。喧嘩の様子は、またとない娯楽の一つだ。
 ホールを見回っている看守が三人ほど駆けつけ、二人を引き離した。
 殴っていた方は、引き離されても興奮が覚めることはなかった。叫び声をあげながら、看守の腕をふり払ってまだ相手を殴りに行こうと暴れている。
 次の瞬間、少年は看守に背負い投げで投げ飛ばさた。
 背中から床に叩きつけられて、叫び声が喉に詰まる。息が止まる。
 そのあとは、二、三発ほど容赦のない蹴りを入れられて、痛みで大人しくなったところを引きずられ、看守と共にホールから出て行った。
「懲罰房に入れられるのさ」
 横目で見ていたアリスが呟く。
「懲罰房?」
 清美は耳なれない言葉に首を傾げた。
「裸に剥かれて、1メートル四方ぐらいの狭い部屋の中に放り込まれるのさ。その部屋には、天井に監視カメラとスピーカーがある以外、何もない。床の中央には小さな穴が一つ開いてて、それがトイレなんだ。垂れ流せってコトだよ。そこに放り込まれたら、あとは反省する以外、何もしちゃいけない。二日もいれば気が狂いそうになってくるよ。狭すぎて、足をのばして眠れないしね。反省するまで出られないんだから、嫌でも反省するさ」
「アリスくん、詳しいね」
 清美が言うと、アリスは、「入ったことがあるんだ」と笑った。「初めてここに来てしばらくは、おなかがすくたびに暴れてたからね」
 殴られていた少年は、怒りがおさまらないようだった。
「俺は悪くない! 殴りかかってきたのはあっちの方だろ! 懲罰ってなんだよ、ふざけんなよ糞がっ!」
 看守に向かって怒鳴っている。
「あーあ…」
 アリスが呟いた。「どんな理由があっても、看守に口答えするのは『抗弁』って言って懲罰の対象なんだよ。まぁ、喧嘩するとどっちも罰を受けるから、叫びたい持ちも分かるけどね…」
 叫んでいた少年はついに、怒りの矛先を看守に向けた。
 看守の胸を強く殴る。
 防刃チョッキを着込んだ看守はその拳に怯む様子もなく、無表情のまま少年の罪を宣告した。
「抗弁および看守暴行! 危険物所持の疑いがある! 検身する!」
 警棒を片手に看守が鋭く叫ぶと、少年の顔に脅えの色が浮かんだ。顔色がさっと青ざめたのが遠くからでもわかる。
「や、やめろよ…!」
 言った少年の顔面を、看守は警棒でぶん殴る。
 衝撃で床に倒れた少年の服を、看守は乱暴に剥ぎ取った。
「立て」
 裸の少年に命令する。頬の痛みで少年は立てない。
 立とうとしない少年をにらむと、先ほど殴った頬と逆の頬を蹴り上げた。小さく、バキッ、と音がして、血と一緒に歯のかけらが口からこぼれ落ちた。
「立て」
 冷たく言う。
 少年は痛みをこらえて無理やり立ち上がる。ふらついているが、そのまま寝ていたらさらに暴行を受けることは明白だった。
「足を開け」
 看守の命令で、少年は両足を広げて立つ。
「足を閉じろ」
 次々と命令が下され、動作が遅れると剥き出しの太股を警棒で殴られていた。
 足の次は両手をあげさせられ、手の次は口を開いて中を見せる。
 そのあとは反対側を向いて床に四つんばいになり、尻を高くあげて肛門を晒し、自分の手で肛門を広げて直腸の中に武器を隠していないか見せる。
「検査!」 
 と叫んで、看守はさらに、少年の肛門に警棒を突っ込んでぐりぐりとえぐった。
 少年の悲鳴がホール中に響く。
 その様子を見て、清美の体は震え出した。恐い。頭の中に悪夢がちらつく。誘拐されていた時の記憶。目の前の光景と同じ種類の暴行を、清美も過去に受けていた。あの時突っ込まれたのは、警棒ではなかったけれど。
 アリスの声がどこか遠くに聞こえる。
「アレをされるとさ、反抗する気力が一気に失せるね。尻に警棒を突っ込まれてまで反抗できるヤツなんかいないよ。僕も前にアレをやられてね、あの時ばかりは泣いて謝った」
 そう言ってアリスは笑ったようだが、清美はその顔を見ていなかった。デジャヴにも似た感覚で、じっと、目の前の暴行を見つめていた。
 検身が終わり、肛門から警棒を引き抜かれた少年は、立ち上がって服を着ながら、悔しそうに顔を歪めてぼろぼろと泣いていた。 
「…清美くん?」
 アリスに肩を揺すられて、清美はゆっくりと視線を戻す。怪訝そうな表情のアリスと目が合った。清美は、「なんでもないよ」と無理に笑って、視線を逸らした。
 逸らした先にも看守がいた。眉をしかめて、離れた所から暴行の現場を見ている。
 その看守はずいぶんと若かった。看守として就職しているのだから二十歳以上なのだろうが、十六、七ほどの年齢に見えた。看守の制服を着ていなければ、囚人と見間違えるほど幼い容貌である。
 クマのぬいぐるみを腕に抱いた、小学生ぐらいの少年と手をつないでいたせいだろうか、余計に看守には見えなかった。
 若い看守は、服を着終えた少年の元に駆け寄って心配そうに声をかけた。
 少年の手を引いて歩き出そうとするが、足下がおぼつかないのを見てとると、肩を支えて歩き出し、ホールから出ようとしていた。看守のうしろをクマのぬいぐるみを抱いた男の子がついていく。
「あの人は…? 看守、だよね……?」
 清美が呟くと、アリスは清美の視線を追って、「そうだね。小鳥遊 陽介(たかなし ようすけ)、という名前だよ」と言った。
「まぁ、看守みたいなモノ、だね。他の看守とはちょっと違う。警棒を持たないしね。介護担当なんだよ」
「優しい人なの?」
 清美が訊くと、アリスは微妙な顔をした。「そこまで優しくもないかな。僕は前の担当者の方が好きだったよ」
「前の担当者って?」
「遊遊さんっていうんだけどね、いつでも親身になってくれる優しい人だったなぁ…。殺されちゃったけどね」
 物騒な言葉をアリスがさらりと言うので、清美はぎょっとした。そんな清美の顔を見てアリスはいたずらっぽく笑う。
「暴力を受け続けた囚人の怒りってどこに向くと思う?」
 清美が答えられずにいると、アリスは、「答えは簡単、さらに弱い者へ、さ」と言った。
「弱い、って…。看守が?」
「そう。優しくて、親切で、武器を持ってない、一番弱い看守。」
 アリスの顔から笑みが消えた。「この場所で誰かを信用しちゃったら、殺されるに決まってるじゃないか」
 アリスの目が冷たすぎて、清美は視線を逸らした。陽介という名前の看守は、ちょうどホールから出て行くところだった。
「他の看守と違って介護担当の人なら、一緒にいて安心ってことなのかな」
「うん、基本的にはね。優しくするのが仕事の人だから。でも、あの人には気をつけた方がいい。よくない噂がある」
 一呼吸置いて言う。「囚人の少年に手を出すらしいんだ」
「手を出す、って?」
「レイプさ」
 アリスはきっぱりと言った。「看守が陰で、囚人に対して不当な暴力を振るったり、性的虐待をしたりって話は聞かないわけじゃないよ。所長や他の人に告げ口しようものなら、連帯してる看守連中にもっと酷い虐待を受けるから表面化しないだけさ。ココを支配してるのは看守なんだ」
 アリスは、クマのぬいぐるみを抱いた少年を指さした。「ほら、陽介さんのうしろに少年がいるだろう? あの子の名前は有希(ゆき)っていうんだけどね、その有希ちゃんが言ってたんだ、陽介さんに犯された、って。それ以来、有希ちゃんは陽介さんのお気に入りになってしまったらしくてね。いつもああやって有希ちゃんをそばに置いてる。清美くんも犯されたくなかったらあの人のそばには行かない方がいい。目をつけられたら終わり、さ」
 アリスの話を聞いて、清美は陽介という看守に嫌悪感を抱いた。絶対に陽介のそばにはいかないようにしようと、堅く心に決めた。清美の心に、刑務所という場所に対する恐怖心が芽生えたのは、この時からである。
 この場所には、自分を保護する何物もないのだと思い知った。
 懲罰房や検身という暴行は、自分の背中、すぐ後ろにべったりと張り付いているのだ。あの少年のように、何かの拍子に一歩後ろへ下がってしまえば、自分の身は暴虐の闇に飲み込まれてしまう。
 ホームシックを感じた。
 いや、ホームシックという生易しいものではない。逃亡心だった。この場所から一秒でも早く出たい。
 誘拐された時に感じたのと、まったく同じ感覚だった。
 ここにはいたくない。
 もう、ここから出たい。
 願望ではない、気が狂わんばかりの渇望である。

 同じ日にアリスが起こした事件も、清美の心情に拍車をかけた。
 その夜、清美は悪夢にうなされていた。
 誘拐され、性的暴行を受けていた現実の時間は、夢の中に保存されて今でも清美を苦しめている。
 夢の中で、男が、動けない清美の太股に唇を這わせている。あの時と同じように、ぬるりとしたおぞましい感触が太股に走る。
 ぞっとした。
 恐怖心が背筋を駆け巡る。
 頂点に達した恐怖が夢を拒否して、清美は飛び起きた。
 そして、監房の薄明かりの中で、もっと恐い光景を突き付けられた。

 アリスが、清美の開いた両足の間に顔をうずめている。

 布団を剥され、いつの間にかパジャマのズボンを脱がされて、剥き出しの太股の内側にアリスが舌を這わせている。
 夢の中と同じ感触にぞっとする。
「わあ!」
 清美は悲鳴をあげた。
 悲鳴は鉄格子の間を通り抜けて、ホールの中に大きく響いた。
 慌てて足を動かすと、膝がアリスの顎を蹴っ飛ばした。
「痛っ……!」
 蹴られた顎を押さえて、アリスが体を起こす。
 清美は布団を胸元まで引っ張って、体を隠した。
 アリスは顎をさすりながら「ごめんね」と呟いて、照れ笑いを浮かべた。
「ごめんね。なんだかおなかがすいて、我慢できなくなっちゃって…。舐めるぐらいならいいかなー、なんて」
 冗談ではない。食べられるのも嫌だが、舐められるのも嫌だ。
 ホールの中に駆けつける靴音が響いて、看守が姿を現した。清美の悲鳴を聞きつけたらしい。ホールの明かりが非常灯から通常の明かりに切り替わる。
「何があった!?」
 鍵を開けようとする看守に、清美は慌てて、「なんでもないんです!」と答えた。
「悪い夢を見て、うなされちゃって…!」
 清美の嘘に、アリスが少し驚いた顔をする。
 看守は、「次は罰則を与えるからな、気をつけろよ」と不機嫌そうに呟いて立ち去った。
 また、ホールの明かりが落とされる。
「僕のために嘘をついてくれてありがとう…。ごめんね」
 薄明かりの中、消え入りそうなほど小さな声でアリスが呟く。
 清美は「うん」とだけ短く答えた。
 清美がとっさに嘘をついたのは、アリスのためではなかった。自分のためである。
 ファンタジー園の中でのみ許される、懲罰という名の合法的な暴行を見たくなかったのだ。目の前で検身のような暴行が行われたら、清美はその光景に対する恐怖に震えなければならない。

 この小さな事件は誰にも知られることなく終わったが、同時に、清美が安心して眠れる夜もこの時に終わった。 

98Cー3024

 一ヶ月を過ぎた頃には、清美の心はジャムのようにどろどろになっていた。
 心に芯となる部分がない。
 芯になるほど強固な意志など何もない。
 頼れる人さえいない。
 心の底から信じられる人などいなかった。
 虚無だ、と清美は思った。
 ファンタジー園には虚無しかない。看守の使う暴力の裏側にあるものは虚無でしかない。ここに収監されている少年たちも虚無の申し子だ。猫を殺すこと、人を食べること、そこには何があると言うのだろう。何もない。虚無だ。
 散らした猫の命だけを心の支えに生きてきた清美にとって、それに気がついてしまった今、心の輪郭を強固にする物など何もなかった。心は支えを失って、どろどろにこぼれてしまっていた。
 そんな状態では、人を信じることなどできなかった。
 アリスに気を許せなくなった。
 起きている時はいい。だが、眠っている時は無理だった。自分を食べようとする人間の隣で安心して眠ることなど不可能だった。アリスの心が虚無に襲われた時には、また、布団の中に潜り込んでくるに違いないのだ。次は舐められるだけでは済まないかもしれない。
 他の少年たちも似たようなものだった。
 前に喧嘩で懲罰房に連れていかれた少年は、統合失調症だった。幻覚や幻聴、妄想に悩まされており、注意力散漫でキレやすい。凶悪な犯罪を犯す少年の多くが、この病を抱えている。
 そういった少年とコミュニケーションをとる自信が清美にはなかった。ちょっとしたことで喧嘩になって一緒に懲罰を受けるのも、検身されるのも嫌だ。
 全部で六十六匹の猫を殺した自分が、この中ではまだまともな方だと思うと、やりきれない気分になった。
 誰かに自分の気持ちを相談できればいいのだが、信用できる人などいないのだ。看守に、特に少年に性的虐待をするらしい、小鳥遊陽介という看守に相談するのは死んでも嫌だった。
 カウンセラーや教師など、ファンタジー園の職員も同じだ。彼らはみんな、看守と同様あっち側の人間であって、信用するに足りなかった。
 日曜日、清美は一人、ファンタジー園の中を歩いていた。
 一人になりたかったのだ。一人になれる場所を探していた。
 ファンタジー園の中にはプライバシーなどない。朝、鉄格子と白い壁の部屋で目を覚ましてからはずっと、どこにいても看守や囚人の目がそこらじゅうにある。
 壁と人に囲まれた息の詰まる毎日。それでも、どこかに一人になれる場所があるはずだった。
 労役も学業も休みとなる日曜日は、比較的自由にファンタジー園の中を歩き回れる。ホールから図書館、中庭にあるグラウンドまで移動する自由がある。それ以外の場所は鉄格子で区切られて、そこから先へ行くことはできない。
 清美はうろうろと歩き回って、そして、ドアを発見した。位置としては、教室と図書館があるフロアの突き当たり。一番奥にある場所だった。
 そこに部屋があることを清美は知らなかったが、知っていたら来なかっただろうと思った。金属製の重そうなドアには、赤い文字で、『立ち入り禁止』と書かれていたからだ。
 見るからに不吉な感じのする扉だった。『立ち入り禁止』と書かれた場所に勝手に入れば懲罰を受けるのは明白だ。
 だが、その時の清美には、懲罰の存在を気にする余裕がなかった。どうしても一人になりたかったのだ。
 その上、何気なく金属の取っ手に手をかけたらドアが開いてしまったので、懲罰という言葉を思い出す暇さえなかった。
 清美はそろりと中に忍び込んだ。
 部屋の中は意外と広い。
 それは、部屋の中に物がないせいでそう見えるのかもしれなかった。
 中には大きな木製の机と、部屋の真ん中にぽつんと置いてある木製の椅子、それに、壁際に置かれた粗末な簡易ベッドしかない。簡易ベッドの上には、寝具とは違うオレンジ色のボロきれが乗せてあった。
 しっかりとドアを閉めて、清美は真ん中に置いてある椅子に座った。
 椅子に座ると、対面した机の上に、タバコの箱とZippoライター、吸殻の一本も入っていない綺麗な灰皿が置いてあるのに気がつく。看守が使っている部屋なのだろうか。
 だが、今は誰もいない。
 清美は深く息を吐いた。
 窓の外から降り注ぐ日の光が優しい。
 ようやく、一人になれた気がした。
 長居をして看守に見つかるのは嫌だが、今は少しだけ、こうして一人でいたいと思った。誰もいない部屋の中、人のたてる音がまったく聞こえない場所が、こんなにも心休まるなんて知らなかった。
 いや、自分は最初からこの安らぎを知っていた、と清美は思った。
 猫を殺した後、手の中で小さな命の火が消えた時に、清美はこれと同じ安らぎを感じていた。
 あの時も、一人になりたかっただけなのだと清美は気がつく。
 人の目から逃れて、独りを感じたかっただけなのだと。
 猫の瞳から光が失われて、自分を見ているモノがなにもなくなる瞬間に感じる安らぎ。猫を殺した時と同じ癒しを、今の清美は感じていた。

 しかし、そんな清美の安息も三十秒ほどで打ち砕かれることになる。
 人がいたのだった。
 しかも、看守が。
 その看守は、大きな机の陰にいたのだ。
 ひょい、と机の下から現れたので、清美は酷く驚いた。驚いた理由はもう一つある。その看守は、清美の一番会いたくない看守、あの、小鳥遊陽介という名前の看守だった。
 陽介は清美の姿を見てにっと笑うと、
「Zippoにオイルを入れようと思ったら、ライターオイルを落としちゃってね。こぼれるんだから始末に悪い」
 と言って、机に付属されている椅子に座った。その手には、ライターオイルの缶と雑巾が握られていた。
 机の上に置いてあるタバコとライターが誰の物なのか、清美にもよく分かった。
「拭いていたら誰か入ってくるじゃないか。看守仲間かと思ったら、まさかこんなに可愛いお客さんが来るとは予想外だったよ。立入禁止、って文字が読めなかったのかい?」
 笑いながら言う陽介に、清美は震える声で「ご、ごめんなさい」と呟いて、椅子から立ち上がろうとした。
 怖かったのだ。
 怒られることにではなくて、陽介と同じ部屋にいることが。
『目をつけられたら終わり、さ』
 という、アリスの言葉を思い出す。
「いいんだ。座ってなさい」
 その語調は少し強かったので、清美はびくりとして椅子に腰を落とした。看守の命令に素直に従うというルールが、この一ヶ月の間で、清美の体に染み着いていた。
 陽介は清美の名前を呼んだ。意識して避けていたので話したことはなかったが、陽介はちゃんと清美の名前を知っていた。
「君とは、少し話をしてみたいと思っていたんだ。男ばかりのむさ苦しい環境だからね、可愛い子が入ってくれば目に止まるさ」
 にこにこと笑って陽介は言う。「それで、清美くんはどうしてここに入ってきたんだい? ベッドで寝にきたのかい?」
 陽介はちらりと簡易ベッドに視線をやってから、清美の顔に戻した。冗談めかして言っていたが、清美には冗談だと思えなかった。
 興味深そうに顔に注がれる視線に、清美は恐怖感を覚えた。それは性的な興味からする視線のように思えた。
 清美が何も言わずに小さく震えていると、陽介はいぶかしげな顔をした。
「なんだか具合が悪そうだね。本当にベッドで休んでいくかい? 介抱してあげるよ?」
 冗談ではなかった。この男に介抱されたら、何をされるか分かったものではない。
 陽介が椅子から立ち上がって近づいてこようとしたので、清美は逃げようと思った。
 立ち上がろうとしたが、恐怖で震える足はうまく動かなかった。
 陽介はすぐに清美の目の前に立って、その手を伸ばした。
 陽介の手がそっと額に触れて、びくっと身をすくめたその時、背中で、ドアが開く音がした。
 入ってきた人物を見て、陽介は一瞬、ぎょっとした表情を浮かべた。額に触れていた手を引っ込める。
 清美も後ろを向いて、その人物を確かめた。
 それは、腕にクマのぬいぐるみを抱いた小学生ぐらいの男の子だった。アリスが「有希ちゃん」と呼んでいた少年だ。陽介に性的虐待をされている少年の名前。
 有希は清美と陽介の様子を見て、信じられないといった表情を浮かべた後、すぐに怒りを表す表情に変えて、「陽介さん、浮気してたでしょ!?」と叫んだ。
 怒りを足で発散させるように、ずかずかと部屋の中へ入ってくる。
 陽介は小さくため息をついて、「在処(ありか)くん…」と呟いた。
 アリスが言っていたのと名前が違う。
 有希は陽介と清美の間に割って入って、キッと清美を睨みつけたあと、陽介に言った。
「あんなにいっぱいぼくを抱いて、愛してくれたのに、どうして浮気なんかするのさ! ぼくに飽きちゃったの!?」
「浮気してたワケじゃないよ」
 困ったなぁ──と頭を掻きながら陽介が弁解する。
 なんだか様子がおかしかった。浮気という言葉は、性的虐待から遠いように思えて、清美は戸惑った。
「ねえ、在処くん。どうやら君は、俺に犯されたって言い触らしてるみたいだけど、ヤメてもらえるかなぁ。俺、クビになっちゃうんだけど…」
 ため息をつく。「そもそも、それは在処くんの妄想であって、俺は一度だって君を抱いたコトはないんだよ? いや、別にあったコトにしてもいいけど、他人には言わないようにして欲しいな」
「なんで隠そうとするのさ」
 陽介の言葉を聞いて、有希が悲しそうに目を伏せて言う。
「初めての時、宿直室の王様みたいなベッドの上で、ぼくを無理に抱いたくせに。だけど、ちゃんと愛してるって言ってくれたよね。嬉しかったんだよ。ぼく、忘れてないもん…」
 そっと呟く有希の声が震えていく。瞳に涙が溜まっていた。「陽介さんがぼくを愛してくれてるって思うから、ぼく、なんだって我慢したのに…。それからだって、何度もこの部屋で……」
 そう言った時、ついにポロポロと涙をこぼした。
 陽介は「うーん…」と唸って、「だんだん、宿直室が王様の部屋になっていくなぁ」と呟いた。
「在処くん、看守の宿直室に王様みたいなベッドはないよ。そもそもベッドさえない。畳張りの部屋で、あるのはカビ臭い布団だけだ。あと、この部屋に何度も来てたのは有希ちゃんであって、在処くんではないだろ?」
「嘘つき…」
 有希は涙声でそう呟いたきり、うつむいて、肩を小さく震わせてぐすぐす泣いた。
 目の前で交わされる会話はちっとも噛み合っていなくて、清美は首を傾げる。
 陽介が泣いている有希に触れようと手を伸ばすと、有希はその手を乱暴に払った。キッと鋭い視線で陽介を睨みつける。
 その表情は今までとどこか違っているように見えた。同じ人物でありながら、一瞬の内に別の人に変わってしまったかのようだった。
「在処をイジめるんじゃねえ! テメェ、たかが看守の分際で何様のつもりだ! ぶっ殺すぞ!」
 口調まで変わっている。
 陽介は眉根を寄せて、「樹里(じゅり)くん…」と少年の名を呼んだ。 


  囚人番号:98Cー3024 如月 有希(きさらぎ ゆき) 

 如月有希は、十八年間、地下室の中で育てられた。
 有希の母親は、出会い系サイトで知り合った複数の男性と刹那的な恋愛を重ねていて、有希を身ごもった時には、父親が誰なのかさっぱり分からなかった。
 酒とタバコと不摂生によって生理不順だった有希の母親は、最初、妊娠していることにも気がつかなかった。
 おなかが変に膨れてきて、ようやく、妊娠したのかもしれない、と気がついたほどだ。それまでは単純に、太ったのだと思っていた。
 子供を作るつもりも、育てるつもりもなかったので堕胎したかったのだが、気がついた時にはもう四ヶ月を過ぎていて、どこの産院に行っても堕胎を断られた。
 仕方がないので産むことにした。
 産んでから、殺すなり捨てるなりすればいいと思った。
 半年後、有希は、自宅のトイレの中で、誰にも知られず母親の股から引きずり出された。
 出生届けは出されなかった。
 最初から、殺すつもりだったのだから。
 だが、実際その場になってみると、母親は、殺すのも捨てるのも寝ざめが悪い、と思った。ただそれだけの理由で、有希が生存する権利は保証された。
 出生届けが出されていない有希が家にいるところを見られるのはまずいので、その存在は地下室に隠されることになった。
 台所の床にある扉を開けると、ワインを貯蔵するための地下室がある。そこが有希の揺りかごになった。
 地下室の中で、有希は拾ってきた犬猫のように適当に育てられた。
 十八年も、そんな環境で命を繋いでこれたのは奇跡に等しい。
 地下室にあるのは、天井からぶら下がった裸電球と、大きなダンボール箱にバスタオルを敷いた寝具と、洋式の簡易トイレと、戯れに与えられたクマのぬいぐるみと、小さなワンセグテレビだけだった。
 食事は日に一回、母親が運んでくる。母親に来客があったり、家を留守にしている時は食事が出ない。
 お風呂は週に一度。母親がバスルームに連れていって、タバコをくわえながら乱暴にシャワーを浴びせ、乱雑に拭いてから地下室に戻した。
 絶対的に不足している愛情の量と、絶対的に不足している食事の量によって、有希の体は、寝具のダンボール箱以上に成長しなかった。
 小さな子供のままで、体の成長は止まってしまっていた。
 四方を壁に囲まれた孤独な生活。
 その中で動くものといえば、映りの悪い、小さなテレビしかなかった。
 有希は、テレビから流される情報だけを摂取して成長していった。テレビだけが友達で、テレビの世界だけがこの世のすべてだった。
 そんな有希が、子供らしい素直な反応でもってテレビ番組のお気に入りのキャラクターになりきって、孤独な心を慰めるようになるのは当然だった。
 だが、他人がまったく存在しない地下室の中で行われたその行為は、有希の心をゆっくりと蝕んでいった。
 次第に、自分とテレビ番組のキャラクターの区別がつかなくなっていったのである。
 結果、有希の心にはたくさんの人格が生まれた。
 地下室で育った孤独な少年は、そういう方法で友達を獲得したのだった。
 過酷な現実の中、妄想の友達と戯れるうちに有希は十八歳になり、その年、地下室から連れ出されることになった。
 発端は、母親がツイッターで知り合った男に首を締められて殺されたこと、だった。
 死体だけが発見されてまだ犯人が解らなかった頃、犯人の手がかりを求めて警察が家を訪れ、手がかりと一緒に地下室にいた有希も発見された。
 有希は、最初は普通の病院に、その後、ニレの木が美しい、エルムストリートのある精神病院に移送された。深刻な妄想癖と、多重人格の治療のためである。
 しかし、その精神病院にいたのも半年に満たなかった。看護婦を刺し殺したからだ。
 健全な発育を促すため、という目的で、治療の一環に芸術活動があった。粘土をこねて動物を作ったり、絵を描いたり、遊技療法的な効果も期待されたのであろう。
 その中に、版画を彫ることも含まれていた。
 版画を彫るために渡された彫刻刀が、有希の中の、ある人格を刺激した。昔、ホラー映画を見た際に生まれた友達が目を覚ました。
 長い爪のように、彫刻刀を右手の指に一本ずつ括りつけた有希は、看護婦の腹を刺した。理由などない。
 その人格になった以上、刺さなければいけなかったのだ。
 フレディ、というのが、その時の人格の名前だ。 


 陽介はしゃがみこんで有希と視線の高さを同じくすると、小さな両肩を掴んで、暴言を吐き続ける有希にそっと語りかけた。
「樹里くん、君だと話にならない。有希ちゃんを出してもらえるかな。有希ちゃんと話がしたいんだ」
「うるさい! 有希もイジメる気なんだろ!」
「イジメないよ」
 優しく言って、陽介は有希に呼びかける。「出ておいで、有希ちゃん」
 陽介の言葉に、一瞬、有希の表情が消えた。
 無表情になった。
 少し、顔色が青ざめたように見えた。
 それから、顔にすぅっと血の気がさした。表情が生まれる。
 樹里とは違う、柔和さを感じさせる表情だった。
「陽介さん…」
 小さく呟いて、有希は謝罪の言葉を口にした。「ごめんなさい。また迷惑をかけちゃったね…。違う人が出てきてるのは分かっているんだけど、ぼくはいつも、彼らの一歩後ろにいる感じで、自分ではどうにもならないんだ…。ごめんね。どうして在処くんは、誰かを困らせる嘘ばかりつくのかな……」
 泣きそうな顔をする有希の髪をよしよしと撫でて、陽介は「いいんだ」と微笑んだ。
「でも一応、病棟に行こうか。今日はまだ行ってないんだろ?」
「うん…」
 中腰から立ち上がって、陽介が有希の手を引いた。
 病棟には精神科医がいる。
 ここでようやく、清美にも状況が飲み込めた。
 有希には、人格がいくつもあるのだ。「犯された」と語ったのは確かに有希の体だが、そう言った時の人格は違う人格だったのだ。
 そして、その在処という人格の語った言葉は多分、愛されたい想いから生まれた妄想の言葉。

 有希と手をつないで歩き出した陽介は、顔だけ振り返って清美に視線を合わせると、
「他の看守がやってくることはないだろうから、しばらくはここにいてもいいよ」
 と言った。
「一人になりたい時だってあるだろうしね。人の目に触れてばかりじゃ息も詰まる。俺も、実はこの部屋に逃げてきたんだ」
 笑顔で言う陽介の言葉に、清美の胸はどきりとした。
 清美の心情を、陽介は正確に見抜いていた。
 有希の手を引いて陽介が立ち去った後、清美はしんと静まり返った部屋の中で、独り、大きなため息をつく。
 信じられるものを、また一つなくした気分だった。
 アリスの聞いた噂話を鵜呑みにして陽介を嫌悪していたが、どうやらそれは間違っていたらしい。
 嫌う理由など一つもなかったのだ。もう、自分さえも信じられなくなった。
 噂だけで人を嫌っていた自分が恥ずかしい。
 自己嫌悪に襲われている清美の耳に、ふとドアの開く音が響く。
 もう一人の来客が、部屋の中に現れた。

32Aー1145

 部屋に入ってきたその少年は、色を持っていた。
 持っているように見えた。
 ファンタジー園にやってきてから初めて、色を持った人間に会ったような気がした。
 なぜなのかは分からない。
 少年の体からは、虚無の匂いが感じられなかった。
 ファンタジー園の中に漂う、目に見えない虚無の色から、少年は完全に独立していた。その理由は分からなかったが、少年が身にまとっていた振り袖の赤が、そう思わせたのかもしれなかった。紅色の衣装から覗いた肌の、人形のような白さが、そう思わせたのかもしれなかった。肩の辺りで真っ直ぐに切られている艶やかな黒髪と、澄んだ瞳の色が、黒水晶のような輝きを放っていたせいかもしれなかった。
 一言で言うなら、赤い着物を纏ったその少年は、とても綺麗だった。
 清美は最初、少女が部屋に入ってきたのだと思った。
 だが、このファンタジー園は少年だけを集めた施設であり、少女の囚人がいるはずはない。ここにいる以上、少年であることは明白だった。
 それに、匂いが違っていた。
 嗅覚で感じるのではない、本能や直感で嗅ぐ匂いが、女性のものとは違っていた。
 ただ、他の囚人や看守から感じる男性の匂いとも違っていた。女性でないことは分かる、分かるが、男性であるかどうかも分からなかった。性の匂いを感じさせなかった。
 その少年は綺麗すぎて、まるで作り物のように見えた。性別をもたない人形のようだ、と清美は思った。
 少年は清美と目を合わせると、「おや」と呟いて不思議そうな顔をした。少年の声は、ヴァイオリンをそっと鳴らしたような艶っぽい声だった。
 それからドアを閉めて、体重を感じさせない歩き方で清美の横を通り過ぎ、大きな机の前で立ち止まった。
 机の上に忘れられたタバコを眺めてから、上半身をかがめて机の裏側に視線をやる。そこは、陽介が隠れていた場所だった。今はもういない。
 少年は誰もいないことを確認して振り返ると、机の縁に軽く腰掛け、「誰もいないのかい?」と尋ねた。
 尋ねられた清美は、瞬時どきりとした。今まで、どこか別の世界のものを見るように少年を見ていたのだ。
 少年の言葉に、急に現実感を取り戻した。
「う、うん。ついさっきまではいたんだけど、みんな出ていっちゃって…。しばらくは誰も来ないんだって」
 どぎまぎしながら清美が言うと、少年は「ふぅん」と呟いて、紅を引いたように赤い下唇の先に、そっと人さし指をあてた。
「じゃあ、これは運命かね」
「…運命?」
 清美が尋ねると、少年は花が開くようにふんわりと笑った。「今日、僕は、君とここで出会う運命だったってことサ」
 そう言った後、少年は自己紹介をした。
「僕の名前は美津里(みつり)。ここ五ヶ月ぐらい独房にいたンだ。だから、君の顔を知らない。新しく入ってきた子かい?」
 うん──、と答えてから、清美も自分の名前を名乗った。
「ねえ、独房ってどういうこと? 悪いことでもしたの?」
 清美が問うと、美津里は笑いながら手をひらひらと振った。
「悪いことなンかしてないよゥ。正しい行いをしただけサ。まぁ、一人になりたいとも思ってたからね、丁度良かったのサ。ここじゃあ、一人になるには独房に行くより仕方ないンだからね」
 一人になりたかったという美津里の気持ちが、清美にはよく分かった。
「けど──」
 と口を挟む。「独房に行くには、悪いことをしなくちゃダメなんじゃないの?」
「まぁ、ね」
 美津里はそっと言葉をこぼした。「でも、悪いことってなんだい? ここを支配してるのはファンタジー園の善悪でしかない。たとえば、看守の使う暴力はどうかね。あれは善行かい。看守のすることは絶対的に正しいということになってるが、暴力で人を支配するのは悪だろうサ。この場所は善悪が狂ってるンだよ。ここでは、マトモな人間ほどおかしいと思われる。まわりはみんな狂人なんだから仕方ないさね。マトモな人間より、狂人の方が多いンだからね。囚人も、看守も、みんなキチガイだよ。自分が狂ってることにさえ気付いてないンだ」
 ため息をついて、美津里は言葉を続ける。「僕は嘘をつくのが嫌いだからね、いつだって真実を語るのサ。暴力が悪いと思えば素直にそう言う。そうすれば、看守のキチガイどもは、反省が足りないだの、狂ってるだの罵って、時には僕をぶん殴ってから独房に放り込む。僕の言葉が理解できない程に狂ってるンだろうねェ。僕は間違ったことなんか言っちゃいないよゥ」
 清美には、美津里の言っていることがよく理解できた。
 確かに、検身や懲罰という名前で、看守の暴力が正当化されてしまうのはおかしい。どんな理由であれ暴力は悪だ。その悪業を疑うことなく、正しい行いとして暴力を行使する看守は、どこか狂っていると言えた。
「美津里くんの言ってること、分かるような気がする…」
 清美が言うと、美津里は相好を崩した。「やっぱり、君と僕はここで出会う運命だったのかもしれないね」
 そう言って笑う。
「看守はね、僕のことを恐れてるのさ。僕の語る言葉が真実だから、恐くって仕方ないのさ。嘘と暴力しか持ち合わせていない看守には、どうやったって囚人を救うことなどできないンだからね。嘘と暴力と、間違った善悪じゃあ、誰も癒されないよゥ。ここにいる少年たちを虚無から救うことができるのは、真実を語れる僕だけサ」
 清美くんは僕の言葉が理解できるかい──、美津里が言う。清美は小さくうなずいた。初めて、理解できる言葉を喋る人間に出会ったような気がした。
「よろしい」
 美津里は微笑んで、机から腰を浮かせた。「じゃあ、清美くんは僕が救ってあげる。この場所に足りないのは愛だよ。僕はそれを持ってる」
 清美の隣を通り過ぎ、簡易ベッドに歩み寄った美津里は、ベッドの上に置かれていたオレンジ色の布を手に取った。布には、所々に皮製のベルトが付いていて、寝具には見えなかった。
「それはなに?」
 清美が問うと、美津里はおや、という顔をして、「拘束衣さ」と説明した。
「知らないのかい? なら、これが初めてだねェ。一度着てみるといい。ここでは初めてのことが多すぎて、最初は絶対にパニックをおこすのサ。そこに看守どもはつけこんでくる。悪辣な手段だよゥ。自分を強く持とうとしたら、パニックにならないように準備しておくしかないのサ。そうしないと、ファンタジー園の虚無の中に飲み込まれてしまう」
 自分を強く持つ──。
 それは、ここ数日、清美が見失っていた物だった。
 美津里が拘束衣を広げて目の前に立つ。清美は、拘束衣を着やすいように椅子から立ち上がった。
「これは、暴れる囚人に着せて身動きをとれなくさせるための服なんだよゥ。リンチしたい囚人に着せる服でもあるンだけどね」
 拘束衣は、前後を反対に着る浴衣のような構造だった。生地が厚く、ずしりと重い。
 美津里は清美の腕を『×』に交差させ、皮のベルトを背中の方へ引っ張って両腕を固定した。
 そのまま椅子に座らせ、足の部分にある皮のベルトと、胴体の部分にあるベルトを引いて、椅子に括りつけた。
 清美は身じろぎしたが、縛り付けられた体は少しも動かない。
 布一枚で体の動きが封じられてしまうことに、清美は驚いた。
「ぜんぜん動けない…」
「そうだよ」
 美津里は苦笑した。「こうなってしまうと、あとはもう、看守どもに好きにいたぶられるだけサ。正しい行いの意味さえ知らないヤツらにね」
「美津里くんは、着せられたことがあるの?」
 清美が言うと、美津里は、「あるよ。何度も」と涼しい顔で答える。
「この部屋は、面談室と言うンだ。問題があるとされる囚人を、話し合いで更正させるための密室さ。こんな服を置いといて何が話し合いだい。ふざけるンじゃないよゥ。どいつもこいつも狂人さ」
 美津里の口調が、憤りを感じさせる口調に変わった。
「愛を知らない人間に愛を説くのは疲れるよゥ。あいつらには、僕の言葉なんかちっとも通用しないのサ。清美くんとは大違いだよゥ。たとえば──」
 美津里は、机の上からライターオイルの缶を拾い上げた。陽介が忘れていった物だ。
 缶の口を開けると、いきなり清美の体にオイルを振りまき始めた。拘束衣にオイルが染み込んで、刺激臭が立ちのぼる。清美は驚いて言葉をなくした。
「たとえばこうして、清美くんを炎で浄化してあげると僕が言ったらどうするかね? 愛の意味を知っているなら、喜んで僕に身を任せるはずだよゥ。それをあいつらは、理解できないからと僕に拘束衣を着せて、暴行して、狂ってると罵るのサ。憐れな人達だよゥ」
 清美は絶句していた。
 突然のことに頭の中が混乱して、正確に状況を把握することができなかった。
「前に白い竜を刺した時だって、いくら説明してもあいつらは僕の言葉を理解しなかった。あの子をそそのかす悪い竜からあの子を隠すには、白い竜を殺さなくてはならないのサ。べったりとあの子の体に巣くってたンだからね。刺さなきゃ。ぶすぶすに刺し殺さなきゃ。あの子を愛してるからねェ。人を救いたいと思えばこそ、僕は竜とだって戦うのサ」
「その竜って…」
 おずおずと清美は口を挟んだ。「もしかして、ファルコンって名前の?」
「そうだよゥ」
 美津里がうなずくを見て、清美は一気に絶望した。
 目の前にいるのは、アリスを刺した少年だ。
「突然、僕のコトが白い竜に見えたらしくて」
 そう言って脇腹の傷跡を見せた、アリスの姿を思い出す。
 とっさに逃げ出そうとしたが、拘束衣が椅子に体を押さえつけて身動きがとれなかった。清美は、背中に氷柱が生えたような感覚を味わった。
「ところで、清美くんはどうしてこのファンタジー園に来ることになったンだい?」
 美津里に問われて、清美は、合計六十六匹の猫と三人の人間を刺した話をした。美津里の機嫌を損ねるのは得策ではなかった。
 震える声を抑えつけて、できるだけ話が長くなるように語ったが、陽介が言い残していった通り、この部屋には誰も入ってこなかった。
 清美は、話しながらも、この状況から抜け出す方法を考えている。
 だが、いい方法など思い付くはずがなかった。
 とりあえず分かったのは、美津里に拘束衣を脱がしてもらわなければ、ここから逃げ出すのは不可能であることだけだった。
 清美が話し終えると、美津里は艶やかに微笑んで、「業の深いこと」と囁いた。
「ね、ねえ!」
 清美は、体を拘束する衣装を内側からもぞもぞと動かしながら声をあげる。「コレ、もういいでしょ。脱ぎたいんだけど……」
 その、ささやかで重要なお願いは、あっさりと美津里に無視された。
「じゃあ、僕の話もしてあげようね。僕はさ、罪深い人間を虚無から救う使命を与えられたのサ。神様からね。そう、アトレーユ星に住む神から、電波が届くンだ」
 ほら、ごらんよゥ──、美津里が着物の衿をはだける。素肌の白い胸には、赤黒く盛り上がった、一本の傷跡が走っていた。
「これはね、母親に包丁で刺された跡、サ。でも母親を恨んじゃいないよ。そりゃあ、あの時は確かに恨んだがね、後になって神様から教えられたからねェ。あの人は、神の使命を妨害する悪魔に取り憑かれて、それで僕を刺しただけだってね。それに、この怪我だって僕が乗り越えなきゃいけない試練だったのサ」
 いとおしげに傷跡を撫でる、美津里の細い指。
「神様は僕のこの傷口から、体の中に受信機を埋め込んでくれた。僕の心臓を、銀色の円盤と交換してくれた。おかげで、今はあの頃よりも、神様の発信する電波がよく聴こえる…」
 最初に美津里を見た時、どうして美津里から虚無の匂いを感じなかったのか、清美は理解した。
 彼は、すでに虚無を突き抜け、超越し、虚無の向う側にいるのだ。人として越えてはいけない一線を、美津里は越えてしまっていた。
 ねェ──美津里は言う。

「紅蓮蝶、って、知ってるかい?」 

 着物の衿を正して傷跡を隠すと、そう問いかけた。
 清美は答えない。ただ、小さく首を横に振った。
「人はね、みんなサナギなんだよ。肉体という繭に包まれたサナギ。蝶は、進化する生き物なんだよ。イモムシがサナギになって、サナギの内部で肉体がどろどろに溶けるという、死ぬような環境におかれて進化する。進化を拒否したらそのまま死ぬだけサ。他の動物だって、程度の差はあれ、そういうモノだろう?
 環境に適応できなくなれば、肉体を進化させて生き残るか、そのまま死ぬか、どちらかを選ばなくちゃいけない」
 僕は──、美津里の独白は続く。
「そういうことを神様から教わったのサ。人はみんなサナギから抜け出し、肉体にこびりついた罪を清算し、清らかな蝶になれるンだ。
 僕は自分の家に火をつけて母親ごと燃やしてやった時にね、確かに見たンだ。蝶だよ。火の粉の中から、真っ赤な蝶が舞い上がってくるのを、僕は見たンだ。それは炎の蝶。炎の羽で空をあおぐ、紅蓮の色の蝶。綺麗だったよゥ。人はみんなサナギさ。罪を浄化した後、救われた人達は誰もが──」
 美津里が艶やかに微笑む。 

「紅蓮蝶になるンだ」 

 ぞくっ、と、清美の背中が震えた。
 美津里の熱を帯びた口調は、清美の体に絡みついて体温を奪った。不意に、拘束衣に染み込んだライターオイルの匂いが鼻につく。
「み、美津里くん、なにをする気なの…?」
 震える声で清美は言ったが、美津里が机の上から持ち出した物を見れば、聞くまでもないことだった。
 美津里の手に握られているのは、銀色のZippoライター。
 艶やかな笑みを浮かべたまま、華奢な親指でライターの蓋を弾くと、美津里は炎を灯した。
「清美くんの罪を、浄化してあげるンだよ」
 清美が「やめて!」と叫ぶ間もなく、美津里がライターを放った。
 くるくると回転しながら宙を飛ぶライターの軌跡が、清美にはスローモーションのように見えた。
 ライターは窓から差し込む太陽の光を反射して、銀色の輝きをまき散らす。
 やがて、ゆっくりと、柔らかく、清美の太股の上に受け止められた銀の光は、瞬時に赤く燃え上がった。
 拘束衣に吸い込まれたオイルの川を逆流しながら、津波のように炎が押し寄せる。氾濫した炎の波が清美の体の上を荒れ狂う。
 ぶすぶすと音をたてて、体を覆う拘束衣が燃え上がる中、清美は、死にたくないと思った。
 あれだけ死を望んでいたはずの心が、瞬間、力強く死を否定した。
 死にたくない。
 生きていたい。
 それはごく単純な、それゆえに最も力強い真理。
 誰に傷つけられても、誰に裏切られても、誰を傷つけても誰を裏切っても、生きて、いたい。
 猫の、ひいては自分の死をもてあそんでいた清美が、ずっと忘れていた不変の真理を、その時、立ち昇る炎の中ではっきりと思い出した。
 清美は叫び声をあげた。悲鳴ではない。雄叫びだった。生きる意志を口から溢れさせた。
 体の内側から力の塊が弾けた。
 拘束衣と炎に封じ込められた体を解き放つための力が、全身にみなぎってくるのを感じた。
 清美は必死に椅子にくくられた体を揺すり、拘束衣を破り捨てようと力を込める。拘束衣のベルトは強固にその力を跳ね返して、清美の体を離さない。暴れる体に引きずられて、椅子がガタガタと揺れる。
 暴れる清美の姿をうっとりと眺めていた美津里が、
「ふふ、まるで火のついたイモムシ」
 と、小さく笑う。
 腕を、足を、体を包んだ炎の先端がちろちろと舌を伸ばして、清美の左の頬を舐めた。痺れるような痛みが走って、肉の焼ける匂いが漂う。
 真っ赤な炎が目に飛び込んで、清美の左の視界は黒く閉じられた。熱によって凝固した眼球が白く濁る。
 清美は痛みを奥歯で噛み殺して、死にもの狂いで持てる力の全てを爆発させた。
 その、瞬間に──。
 拘束衣の金具が弾け飛んだ。
 清美の体を強く拘束していた皮のベルトが、炎によって焼き切られたのだった。
 椅子から立ち上がった清美は、素早く、体を包む炎を投げ捨てた。
 はらりと脱げた拘束衣は火の粉を散らして舞い上がり、前に立っていた美津里に舞い下りると、優しくその体を包んだ。
 呆気にとられた美津里が意志を取り戻し、優雅な動作で炎を払った時には、もう、美津里の体は燃えていた。
 真っ赤な炎が赤い着物に伝って、帯を、垂れた振袖の先を駆けのぼっていた。
 美津里はきょとんとした顔で小首をかしげ、ただ黙って、自分の体が赤く燃えたつ様子を眺めている。
 分からない手品の種を『どうしてだろう…』と考えている、そんな表情に見えた。
 清美はへたりと床に座り込んだ。清美の服に炎は燃え移っていなかったが、剥き出しの腕を、素足を、顔の左半分を焼き焦がされていた清美には、もう、立っているだけの気力がなかった。
 不意に、「あぁ、そうか…」と美津里が呟く。
 呟いた美津里は、炎に包まれたまま、優しく微笑んでいた。
「そうか、そうだね。今日ここで、僕と清美くんが出会ったのは、運命、なんだものね」
 ふふ、と笑うと、美津里は窓に向かって歩きだした。
 炎が揺れて、美津里の体から火の粉がこぼれる。着物の形をなぞって燃えている炎は、大きな蝶のように見えた。
 窓の前に立って、そっと窓を開けた美津里は、くるりと振り返ると、窓枠に腰を下ろした。
 見つめる清美と、美津里の視線が絡む。
 燃え盛る美津里の向こうには、青い空が広がっていた。
 「僕を、救ってくれてありがとう…」
 それが、美津里の最後に残した言葉。
 すっと背を逸らした美津里は、そのまま、窓の外へ落ちていった。
 落ちていく炎がたくさんの火の粉を舞い上げる。
 その、火の粉の中に。
 清美は、小さな蝶の姿を見た。
 炎で形作られた、小さな蝶の姿を見た。

 それは、紅蓮の色の蝶。
 それは、炎の羽を震わせて飛ぶ、真っ赤な蝶。
 それは、罪を浄化した人間が、肉体というサナギから抜け出して変化した、清らかな姿。

 舞い上がる蝶は、ゆっくりと清美の方へはばたいてくる。
 炎の羽で一つ、二つはばたくごとにボロボロと炎をこぼして、その形を崩しながら。
 炎で造られた体を、まき散らす火の粉に変えてすり減らしながら。
 紅蓮の色の蝶は、清美の目の前に来た頃には完全に崩れて、空気に溶けるように消えた。

82Fー5091

  囚人番号:82Fー5091 雨宮 卯月(あまみや うづき)


 雨宮 卯月は、先天性無痛症という病気だった。生まれつき、体は痛みを感じなかった。
 だから卯月は、痛みというモノを知らなかった。
 子供の頃に、痛みという代償を払って当然憶えるべきことを、憶えることができなかった。
 打撲しようとも、裂傷しようとも、卯月の体は何も感じない。痛みを感じないのだから、危険を感じることもなかった。危険を感じなければ恐怖もない。
 死の恐怖、それさえも感じなかった。
 卯月が学習したのは、
『足の骨が膝から飛び出していると歩きにくくなるから、二階の窓から飛び降りて遊ぶのはやめよう』
 などの、痛みや恐怖とは別の文脈でのことだった。
 そんな卯月であったから、当然、他人の痛みも分からなかった。自分の痛みさえ感じないのだ、他人の痛みなら尚更だった。
 頭から血を流して泣いている人を見ても、足の骨を折って呻いている人を見ても、その人達が何をしているのか卯月には理解できなかった。
 自分の感覚にのっとってその人達の気持ちを想像するなら、それは、何も起きていないのと同等だった。泣く意味も呻く意味も解らない。卯月なら、その状態のままでも普通に生活できる。
 自分の、そして他人の痛みをまったく理解できない卯月であったから、どのぐらいの怪我で人が死ぬのかということも、正確に理解していなかった。
 だから、十四歳の時に起こした殺人事件も、卯月にしてみれば、殺すつもりなどまったくなかった。どの程度で人間が死ぬのか、分からなかっただけだ。
 その日、街を歩いていた卯月を、十七、八歳ぐらいの、二人組の不良が取り囲んだ。喝上げするために、である。暴力を匂わせる恐怖でもって金銭を差し出させるのが喝上げであるが、卯月に恐怖は通用しない。
 当然のように断ると、不良の一人に殴られた。殴られるのは面白くないので殴り返した。
 卯月は喧嘩をしたことがなかったが、痛みを感じないのだから負けるはずがなかった。たとえ、前後から同時に殴られたとしても、痛みによって卯月の動きが止まることはない。前方の一人を平気でぶん殴ることができる。二人相手でも問題なかった。
 そうして喧嘩しているうちに、二人組の片方がふらふらと倒れた。卯月はその男に馬乗りになって、滅茶苦茶に殴りつけた。髪を掴んで、そいつの頭をガンガンとコンクリートに叩きつけもした。
 痛みというものを知らないのだから、卯月は加減というものも知らない。
 その時は、ただ、相手を動けなくしてやろうと思っていただけだ。
 どのぐらいの痛みを与えれば戦意を喪失するのか解らなかったから、とりあえず自分の感覚を基準に、

 ”自分ならこれぐらいやられれば動けなくなる”

 まで殴った。自分の感覚で言うそれが、死、であることに、卯月は気づいていなかった。
 残った一人が恐怖にかられ、ナイフを抜いた。抜かれたナイフは、頭から血を流してぴくりとも動かない少年を殴っている卯月の、右の肩に刺し込まれた。
 右肩に生えたナイフの柄を、卯月は不思議そうに眺めた。
 喧嘩は体一つでやるものであって、ナイフが出てくるとは思っていなかったのだ。
 なるほど、ナイフで刺すのも有りらしい──、そう納得した卯月は、平然と刺さったナイフを抜いた。
 そして、 

 ”自分ならこれぐらいやられれば動けなくなる”

 まで、相手を刺した。


 二人の少年を二度と動けないようにした後、卯月はすぐに、駆けつけた警官に捕まった。
 卯月はぴんぴんしていたが、実際は肋骨四本と、強く殴りすぎて両手首の骨を骨折しており、右肩には深い裂傷があった。本人は元気だったが重傷だった。
 警察病院に入院して半年、体が完全に治癒してから裁判を受け、結果、卯月は二件の殺人によってファンタジー園に送られることとなった。


 窓にスモークの貼られた護送車によって厳重に護送された卯月は、重々しい鉄の門をくぐり、中世のお城を模して造られた、ファンタジー園の正面玄関に降り立った。
 両脇を看守に挟まれながら玄関を抜け、通路を抜け、六角形に広がったホールに案内された。
 ホールの中は、収監された少年達からこぼれる喧騒で溢れている。皆、卯月と同じように罪を犯した少年達だ。
 卯月がホールに踏み入ると、一瞬喧騒が途切れ、新しく入ってきた仲間へ視線が集中した。
 興味深そうに眺めている者、愛想よく笑っている者、睨みつけるように見ている者──、様々な視線を浴びながら、卯月は、これから長い間お世話になる自分の監房に案内された。
 案内した看守は鉄格子の扉を開けながら、「同室の者と仲良くやるように」と声をかけて去った。
 洋風のホールの壁を掘って造られた監房はなぜか和室で、その畳の上に、同室となる少年が座っていた。
 卯月は一瞬、監房に入るのをためらった。
 それというのも、監房の中にいる少年の姿が、少し異様だったからだ。
 少年の体は、包帯でぐるぐると巻かれていた。
 火傷の痕、だろうか。赤い着物からのびる腕にも首にも、包帯の隙間から、浅黒く変色した皮膚がのぞいていた。少年は可愛らしい顔立ちをしていたが、その顔の左半分には、目を出す隙間もないぐらいに厚く包帯が巻かれている。
 火の中に飛び込んだとしか思えないほどの大火傷だった。
 卯月は意を決して監房に入り、「こんにちは。卯月といいます」と挨拶した。
 少年は包帯に巻かれた顔を向けて、右目だけで卯月と視線を合わせると、自己紹介をするでもなく、
「ねえ、ここで一番大事なことを教えてあげる。君もここに来たぐらいだから狂ってると思うけど、みんなそうだよ。死にたくなかったら気をつけなさい」
 と言った。
 全身に大火傷を負っている少年に言われると、妙な説得力があった。
「その火傷は、どうしたの…?」
 おずおずと卯月が尋ねると、少年は小さく笑った。
「これはね、そうだなぁ…」
 少し考え込んで、ポツリと、「救われた証、かな……」そう呟いた。
「救われた?」
 意味が分からない。
 卯月の不思議そうな顔を見て、少年がくすくすと笑った。
「そう、救われたの。罪を炎で焼いてもらうことで、生きていたいって、そう思えたから」


 ──だから今度は、ボクがみんなを救ってあげるの──


 少年は、「ねえ、卯月くん」と卯月の名前を呼ぶ。
「卯月くん、君は──」
 少年の顔から笑みが消える。 


 「紅蓮蝶って、知ってる?」 

紅蓮蝶

紅蓮蝶

特別養護医療少年院──。そこは、心に闇を抱える少年たちを収監する刑務所。その場所にあるのは、暴力と、心の病と、虚無。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • ホラー
  • 成人向け
更新日
登録日
2016-04-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 64Dー5081
  2. 64Dー5063
  3. 日常1
  4. 日常2
  5. 98Cー3024
  6. 32Aー1145
  7. 82Fー5091