命の華

全体的にメリハリに気を遣いました。

『来るな! おまえは「無理だ」「止めろ」というだろう。だから聞けない。俺は進むのをやめない。俺にできる一切の努力を諦めない』
『王子、あえて退くのも兵法です』
 風がびょうびょうと吹いていた。砂煙に巻かれてイグニスは咄嗟に彼の名を呼ぶ。
『王子……ロージリール!』
 これが最後と、なぜかわかってしまったから。
『聞かない! 砂漠の秘宝はすぐ目の前だ。今再び他国に奪われるくらいならばここで、俺の手で!』
 黒雲を巻いて、遠雷が鳴る。隊商の脚は速い。ロージリールはどうにか追いついた。駱駝の側面にぶら下がる綱を切った。鋭い、手入れの行き届いた黒い刃で。
(今度……こそ……父上に、安心していただくのだ……イグニス、後は頼んだぞ。俺は……俺はもう……いつ死んでもかまわない。この、命の花の種さえ取り戻せば……)
 
 寝ていたはずなのに、その頬はぬれていた。
 大昔にもなるのにいまだにこんな夢を見るのは凶兆のしるしなのではないのだろうか。
 まあ、今居る場所はあらゆる意味で地上と異なる世界なので逆夢であるかもしれない。
 ここは精霊界。
 死んで精霊に生まれかわった者たちが集う場所。次元を異にしているので普段、人間達には見えない。
 そこの住人がのんべんだらりと暮らしているワケではない。精霊にはそれなりの仕事というものがある。
「ローズゥ、ねえ、ローズ、どこにいるのォ」
 くるくる巻き毛のブロンドヘアの花精ルシフィンダがまだ追っかけてくる。
 低木のたくましい緑の枝に身をもたせかけながら、ロージリールは思った。
(おれさまは薔薇(ローズ)なんかじゃない。そんなに雨を降らせて欲しければ、それなりの礼儀を尽くせってんだ)
 そうは言ってもここのところあまりに上手くゆかないので雨を降らせる修行も怠りがちだ。
 いっこ下のルシフィンダが涙を流しているのが目に見えるようだ。ロージリールは器用に枝の上で寝返りを打った。
「ローズゥ……」という声が遠くからでも聞こえてくる。すると不意に、何かを蹴りつける、どかっという音がして、恐ろしい、階級も高く性格も厳しいイグニスが睨みつけた。さらっさらの金髪をさらりと肩に流して、彼の従者が瞠目するのを監視していた。
「いつまでさぼっている気です」
 いつもおなじみの木の枝から転げ落ちてしまったロージリールはのろのろと身を起こした。
「ああ今、行くよ」彼は渋々立ち上がった。温かなぬくもりが地面から立ち上ってくる。
「なあ、ここんとこの暑さは並みじゃないぜ?」
「おや、そう。ここは火山ですからね」
 ひとだったとき、イグニスはロージリールの従者だった。だから同じ精霊界に生まれかわってもいつも礼儀正しくしゃべるのはイグニスだ。その行動に礼を欠くようになったのは、最近。だって自分の方が格上ですからね?
 彼は神様。精霊界に生まれた時から。
 ひとであったとき、より多くの徳を積んできた証。だからひとであることに限界がある。ひとは老いる、ひとは死ぬ、ということも、ロージリールよりもよく知っている。
 新米の神(かれ)に与えられたのは、風精を使う、という課題。風雷の神として、どれだけ風精の信頼を得られるか、上手に操作できるか。
 その第一の課題に取り組むにあたって、たった一人、彼が選んだ風精が、ロージリールだった。

「ったく、なんでイグニスには居場所がばれちゃうんだ」
「おや、気付いてなかったんですか?」
「何に気付いてないってんだ? おれさまが」
 ロージリールお得意の「おれさま」が出てくるともう、上機嫌だ。イグニスは彼のオリーブ色の髪をなでつけるとちょっとほほえんだ。ロージリールははねのける。
「あなたの風に、です。死にたくない、ここで諦めたくない、そう、血の涙を流しているのです、あなたは。あの頃からずっとね」
「……何だそりゃ」
 ロージリールは口をとがらせて、ぷいと横を向いてそれだけ言った。彼はよく知らないが風はいつも友達だった。本人にとって当たり前過ぎるくらいに。 ロージリールが砂漠の国の第八王子だった頃も、よく乳母やから言われた。
 彼が生まれた日、どこからともなく花の香りが風にのって部屋中に漂い、それが王の目を引いたのだと。
 後々、王は周囲の反対を押し切り、八歳の彼を花の守り人とすることとした。 彼は王家に伝わる泉の花を、賊からも、他国の魔の手からも守らなければならなかった。砂漠で唯一水源を湛える地、それを知らせる貴重な花。それは薬と用いれば万能薬となった。
 だから砂漠に台頭し、王城を水で潤し、民を守るのが王家の役目。
 花は他の誰にも触れさせてはならなかった。花の不思議な力を狙いにやってくる者達には勿論のこと。
 だから、その泉の花を守るため、神殿奥、花のありかまで猫の子一匹、近づける訳にはいかない。そのために王家は花の番人を付けた。
 ロージリールは選ばれたのだ。
 彼自身、必要とされるのが誇らしかった。
 身内の誰もが自分のことを言祝いでくれるのがうれしかった。
 だが、それだけではなかった。
 花を守る、というのは王家を離れる、ということだった。
 大好きな人たちからも。
 ある日、泉の花を守る神殿から火が出た。出火元は不明。黒装束の男たちの暗躍がささやかれ、一時は取りざたされていた。男達の目的が、泉の花だということは明白だった。
 失態だった。
 ロージリールは花を守る役目から解かれ、代わりに奪われた花の種を取り戻しに一人旅立った。その広大な砂漠で供もつけずに……実質上、死刑を申し渡されたのと同じだった。
 そう、それは彼が十二歳の時。

 そのとき風が吹いた。
 花の神殿には焼けた臭いと踏み荒らされた花園だけが残った。彼がいた故郷はもう、どこにもない。
 ……日に何度花を見に園に降りただろう。何度得意の笛の音を鳴らしただろう。
 神殿の中は清く、明るくて楽しかった。
 譜面をめくり、楽曲を選ぶと、調律(チューニング)の音がする。どれだけそこに集まる人々が……花の番人であり見目麗しく若い司法官である彼を愛してきただろう。
 その空間を守りたいと、いくら望んでも、彼にはできなかったのだ。
 彼が自分自身を罰したのは、彼らの心のよりどころと安らぎを奪ってしまったからだ。
 自分がもっと気を引き締めていれば……自分さえしっかりしていれば……その思いは今もまだ胸の奥底にこごっていた。死のその瞬間まで。
 寂しくはなかった。つらかったのは己の役目を遂げられなかったこと。そして賊を追う身の幼さだった。自分で見つめる掌の頼りなさと十二歳という年齢は、存在は、あまりにも小さかった。
「馬鹿。馬鹿だな、俺。独りって、こういうことをいうんだな……」
 焼け付く空を見ながら彼は心の中で一人ごちた。
 日よけのフードが砂煙にバタバタいわされた。風はそれまで以上に彼を守った。
 王家から一度切り離され、花の守人の役目を遂げられず、次は花の種を取り返す役目に代わった。
 違うのは、誰も側にいないということ。初めて、自分がどこにも味方をつくっておかなかったことに気づき、ロージリールは後悔した。

 花の精ルシフィンダが風精ごときに隷属するのも変だし、いちいち雨を降らせてくれと頼むのもおかしい。
 彼女なら、ここに、あそこに、こっちにも、と指示だけよこせば分を果たしたことになる。それでなくとも世話する範囲が広いのだ。
 しかし花の王は生まれかわっても花の王、というおかしな威厳は残っている。 部下として持つとおおいに扱いに困る類だ。
 だが、イグニスは彼の全てを認めた。今となっては泉の花など下界の事。 イグニスは、彼を信じているのだ。ロージリールは決して自分の役目を放棄したりしない。命をもってやり通す。あのときのように……。
 いまやひとであった頃よりよほど小さな存在になりはててしまっているけれども。そのロージリールがひととしての苦しみを引きずっているなどと、他に誰が気付いただろう。
 彼よりももっと永く生きてしまったイグニスが茶に口を付けつつ遠い目で頷いていた。
「実感は湧きにくいけれど、遠い昔、になるんですねえ……でもあなたは本当に、お変わり無さそうで、うらやましいことです」
「なんだ、文句があるならかかってこいよ」
 しつけの良くない子豚がぷいぷい言うようにロージリールは突っかかった。
「文句、とまではいかないところが厄介ですねえ。あなたはあなたですから」
「なんだそりゃ」
「あなたはあなた自身の言葉しか信用しない。そして言葉自体に浮かされるようにして災禍に飛び込んでいく」
「見てきたように言うじゃないか」
「まあ、一応、それなりに」
 ね、とまるでゆりかごを揺らして赤子をあやすようにイグニスは言った。
「おまえが言うと眠い。諦めてるっていうか、なめてるっていうか、気が抜ける」
「大丈夫。ここはあのように恐ろしいことなどないところ……もう、全ての苦しみから免れてもいい頃です」
 いつか見た夢の続きであるかのように、突然許しを得た。しかも願った通りに。ロージリールは目頭を押さえた。
「おまえに……何が……わか…る……」
『信じています』
 彼がロージリールを失って、どれだけ永く永く、己を責めてきたかしれない。どれだけ彼(ロージリール)を死に追いやった運命を呪ったかしれない!
 だが、イグニスがひととしての死をかいま見たとき、開放感が心を満たした。王のいる世界へ自分も逝ける。悲しむことはない、そう思った。
 実際はそれから何度も命を失いかけながらも現世へと舞い戻り、六回も花畑を辞退した。安穏とした死を与えられるのを自分に許すことができなかったからだ。
 彼は職として激しい戦場において、死者を弔う儀式を請け負っていた。地上は荒れていて、自分の命さえ危ういというのに、そうせずにいられなかった。
 長期間同じところへ居続けるのも限界があった。森の民として、長い呪文と儀式には一通りの技能を備えてきたがそれはただのひととして振る舞うのには奇異なのだ。
 他の誰にも興味を抱かせない用心もいるし、気取られてもいけない。見破られてはいけない。油断はできない。
 一見、若いだけのひととしては、してはいけないことや、できてはおかしいことがある。
 詩人のまねごとをしたこともあるが、言葉が古く、流行歌はうまく歌えない。
 一生、ひとりぼっちで過ごした。いや……
 周囲に多くひとはいたけれど、彼にとっても相手にしてもお互いにとってお互いが理解の外だった。
 イグニスをおいて、ひとり死地へと向かっていったロージリール。イグニスは心だけ老いたまま死を迎え、今また彼を救えなかった自分への罰とし、あがないの日々を送り続けるつもりだった。
 イグニスはふと、赴任したての頃を思い出していた。

『うわあー! 助けてくれー』
『死ぬ、死ぬ、死んじゃうよーッ』
 崖下に上から落ちてきた大岩に挟まれて、身動きのできなくなった風精が二人いた。見過ごしてはおけないイグニスは思わず、座っていた丘の上から腰をあげ、大声で 
『今助けますからね! 雷を落としますよっ』
『うーわー、殺されるゥー。何とかしてロージリール! このままじゃ感電死しちゃうよ』
(なんですって? 今……なんと?)
 大岩は目の前。腕力でどうにかなるものではなさそうだ。その下から小声で聞き覚えのある声が。
『だから、言ったろ。あいつは目的のためなら手段も選ばず結果も顧みない、鬼のような奴なんだよ。あいつと組むと消し炭になるぜ』
 他の風精がそろって頷いた。
『新しい神様が優しいひとだったら、とりっこだったけど、これじゃ、ロージリール並じゃないと、とてもついて行けないね』
『おれさま並みってなんだ、おれさま並みって』
『さあ、お祈りの時間だよ。目をつぶって』
 不吉な合図と一緒に群雲が立ち昇り、雷が、
 ピシャアアァアア!
 大岩は割れた。まっぷたつに。
 そんな必要がどこにあったというのか、地層の断面まできれいに見える。
 その場ですくんでる風精……たち。確かに助けろ、とは言ったものの、一歩間違えれば他まで黒こげにされていただろう。素早く逃げた風精が一言。
『物騒なやつ』
『え……その声、口調……まさか、あなたは』
 空と地で、視線が交錯した。光る目をした風精は言った。
『え、ええとな? おれさまを使役したけりゃあ、夕食のときおれさまを選べ。そんだけだ』
『あ、待ってください、王――』
 イグニスもなりたての神なのでその辺はまだ不案内だった。とにかく言われたとおりにしようと思って夕食後。ずらっと並んだ風精たちに見上げるように微笑みかけられながら戸惑った。
『今のところ読み書き計算、歴史と世界観は上出来じゃ。実技も呪語も明瞭。優秀な方だ。選ばれた者は幸運じゃ』
 精霊界の支配者上天意様は言った。ところは御山(みやま)の天辺で、ひとり、パートナーを選ぶ。それで仕事の打ち合わせができる。
 しかし上天意様は知っている。まるで牛刀で鶏を殺すようなイグニスの性格を。
 ところがイグニスは選ばなかった。いや、選べなかった。どこを見てもあの生意気な、いや元気いっぱいだったロージリールが見あたらなかったから。
『どれどれ。イグニスもいよいよ風精を使う訓練を始める時期だと思うておったが、どうかな?』
 風雷の神となって初めて得た師が言う。
 風精達は、
「神様、ワタシ達の中から、相方にふさわしいと思われるタイプをお選び下さい」
「簡単そうに言うけれど、ええと、一体どういう趣向なのかな?」
 彼は驚きで戸惑うばかり。 
「ワタシ達は神様のお仕事をサポートするのが役目です。ここでどうぞ一人、お選びになってください」
「決まりですから!」
 まるで女の子のような声で、風紀取り締まりのような風精がぴしっと背を正して言った。他の風精も真剣にこちらを見つめている。
 容姿がかわいいの、一歩退いて観察しているのクールビューティなのやんちゃそうなの、おなかを減らせて落ち着かないの、かりかり爪を噛んでるの、やけに色っぽいの、腹に一物ある感じの、切れ上がった目のやら、いっぱいいる。
「悪いけれど……そのたった一人が、ここにはいないようだ。遠慮する」
 するとほぼ全員がうれしそうに目を輝かせた。

「何だろうか」
 不思議そうにしていると、風精達は顔を見合わせた。
「ここにいる誰も、ご所望ではないのですね」
「一人を除いた風精の、誰も任に及ばないと」
「……一人を除く……?」 
「ご案内、致します」
 山の頂上はやけに空気が乾いて少し、冷たかった。そこは天空の庭。細い道を通ってたどり着いた場所。
「冷える、な……」
 イグニスは薄手の衣をかき合わせた。
 風に向かって見透かすと、ぽつん、とそこに何か見えた。暗闇の中、彼は水の入った水鏡盤をかき回していた。
 案内、と言った風精はそこで立ち止まった。
「あの水鏡は選ばれた二名が覗く新しい世界を映すもの」
「新しい……? 君は行かないんだね……?」
 振り返って見るとシナモンの香りのする黒髪の風精は頷いた。
 イグニスが人影に近寄ると、不意に水面を叩いたしぶきが降りかかった。背を向けたままの影が呟き……いや、それははっきりとこちらに放った台詞だった。
「やっと来たか。イグニス・トゥルー」
 イグニスはその場に立っていられなかった。跪いてその名を呼んだ。
「ロージリール、様……!」
「わかってるのか? オマエはおれさまを選んだんだぜ」
 あまりのことに震えるイグニスに、
「つまり、あなたさまは『あの場にいない、たった一人の風精』をお選びになったのです」
 それだけ告げて、黒髪の風精は気配を消した。
 ロージリールは彼の肩に純白の衣を着せかけた。不器用にひだをつくって言い放つ。
「けっ、これでもう、逃げられないぜ」
「ず、ずるいですよ、そんなの……何にも知らされてない……」
「オマエは話せばわかるやつだと思っていたけど、話さないとわかんなかった? ごめんな。でもおれさまを選んでくれてうれしいぜ」
 にこっと笑むとロージリールがふわっと舞い上がり彼の額に指を突きつけた。
「他に何か、言うことは? あるのかないのか、はっきりさせろ」
 イグニスは一気に張りつめていた緊張の糸がほどけるのを感じていた。
「ふっ、……あはは、はははっ。ここにいたんですか。ここだったんですね、やっと、やっと……あなたに会えた」
 そう言ってイグニスは大きな衣ごと彼を抱きすくめた。
「何でそんなに無防備なんだ。俺にだってオマエを殺すくらい、わけないんだぞ。空飛べるし」
 バシャア、と怒ったように盛大に水盤の水をひっかけるロージリール。苦笑しつつイグニスは、
「ええと、もう、死んでますから……怖いものなしってことで」
「馬鹿だな、こっちの世界にだって、死に等しい苦しみはある。どれだけ心配したか。いつ死が訪れて、おまえがこっちへ来るかと」
「心配、なんて……してくれたのですか」
「おまえ、おれさまを何だと思ってる。元、おまえの上司だろうが! 心配ぐらいする権利はある!」
「権利だなんて……他に言いようは無いものですかね。あいかわらずな物言いですね」
「ここ最近、めっきりふけこんでな。物忘れがひどい」
「わ、私よりずいぶんとお若くていらっしゃるのに、いいわけがそれですか? もっと大事なことがあるでしょう」
 ロージリールは一瞬、視線をそらした。
「……イグニス。約束は守ってくれたか」
 彼は一呼吸おいて尋ねた。
「ええ。別になんということもありませんでしたよ」
 こともなげに答えるイグニス。
「父は……王はなんと仰ったのか」
「めでたし、と」
「それだけか」
「全部は……忘れました」
「息子一人の命くらい、なんでもない、と言うことか」
 彼は空を仰いで星を睨んだ。
「そうでもないご様子でしたよ。私なぞよりもよほど、早く御崩御なさいましたので」
「そう言えばそうだった」
 ロージリールは目尻をこすって赤い眼を伏せた。
「ここで水鏡をかき乱して、何を知りたかったのですか。何を……見たくなかったのか」
「いや……そういえば……父王は何の未練もなくみまかったのか、とな」
 イグニスはふと、少年の横顔に、ある種の不穏を感じた。言葉に出さずゆっくりと、だが曖昧に頷いた。
「あなたが、そうだったから……ですか」
 風精の少年が気付くと、よほど心配そうなイグニスの視線があった。見つめる瞳は真剣で、心の奥底まで見抜かれてしまう……そんな気がして彼は身じろいだ。
「あなたは、そんな風に思って、彼をここで待ち続けたのですか」
 風精の彼は鼻であしらうように頭を反らした。
「まさか」
 けれどそれ以上何も言わなかった。だから、イグニスはそれが本心なのか、聞くことができなかった。
「……? そういえば」
「なんだ」
「あのとき言いましたよね、あなたを使役するとかなんとか……」
「あっ、ああ。それはどうでも……えーと。どうでも、ってことはないんだっけか……?」
 ロージリールはこめかみの辺りを押さえて思案する様子。
 しかたなくイグニスが口をはさんだ。
「説明はないのですか。せめてマニュアル的なものは」
「そういったものはない」
 なんだか必要以上にきっぱりと断言されて、イグニスは問わずにいられなかった。
「説明も使用上の注意も存在しない、となればこちらも心配です。一体、私は何をすればいいのでしょうか」
「馬鹿だな、イグニス。おまえがおれさまを選んだように、おれさまもおまえを選んだ。だから、わかるはずだ。地上にいた頃から……おれさまたちは」
「お言葉ですが、死に別れてどれだけ経ってると……」
「今更好きには言わせておかないぞ。おまえのうっとおしい呪詛のような文句はずっと、聞いてたんだからな、ここで」
 恥ずかしかったゾォ、と首を抑えるロージリール。そんな風に言われて恥ずかしかったのは本当はイグニスの方だったかもしれない。
「あれは……もう二度と、あなたに仕える事ができないと思って……っ」
 赤面のイグニス。
「第一、あなたは自覚というものに欠けていて、奔放過ぎるきらいがありました。どうしてぽんぽん災いの渦中に飛び込むんですか」
「あのな、今更……」
「今更なのはわかっています。ただ、生前、お話ししたかったことが山ほどありました。死んだらチャラ、なんて事では気が済まない」
「だから! 俺はもう人間止めてからこっち、人間界のことは疎くなる一方で……」
「では、私の事も……?」
「いやァ、わっ、忘れてはいないけどさ。これでも毎日忙しいっての? とりまぎれてて、ごめんな。迎えにも行ってやれなくて」
「『忙しい』って?」
「だ、だからァ。いろいろあるんだよ」
「いろいろって、便利な言葉ですね。この上なく」
 イグニスが冷たく言うと、ロージリールはぷいと他へ目をやった。
「以前と立場が逆ですね。もちろん、私の言葉は理解してらっしゃいますよね?」
「いーじゃないか。おれさまたちらしくやってやろうぜ」
 イグニスは水盤の縁に両手を置き、覗き込んだ。
「……」
 何も見えない。
「私はあなたを『使役』する立場、なんでしょうから、言うことを聞いてもらいますよ」
「一応、な」
「一応、ですね。念書を書いて頂きましょうか。あなたの行動一切を私の指示の元、行うようにと」
 イグニスにとってはほんの入り口のようなものだった。ロージリールは反発した。それも予想済み。
「そんなことをしたらおれさまはからっぽになってしまう。おまえの言うこと鵜呑みにしてたら一歩も動けなくなる」
「それでいいんです。あなたは放っておくといたずらにつっ走りますから。ぶっちぎりで」
 哀しそうに言うイグニス。
「私はあなたにもっとご自分を大切になさってほしいだけです」
「そんなのわっかんねーよ! おれさまにあったのは義務、義務、義務! それだけだったんだからな」 
 水鏡がはじけるような音を立てて、黒々と生じた台座の歪みを水盤の水が潤した。
「それでも、あなたは私をおいてお亡くなりになった。結局、私は何もできなかった。あなたを助けられなかった」 
「そんな、大昔のことはどうでもいいんだよ! 今の話をしてるんだ!」
「今も昔も関係ないッ」
「おまえにはがっかりだよ。昔とちっとも変わってねえ」
 二人の儀式は見事に失敗した。
 互いを認め合い、心を合わせて築く世界は、ここにはなかった。

 正午、イグニスは苦悩していた。
 自分はまたあのときのように、彼を死地に向かわせ、苦しめるのではないか、と悩んでいた最中。
 こともあろうかという大事の知らせ。
「大変、大変! たいへんだよゥ」
 木陰で躰をならしていたロージリールが上着を脱いで息をついた。
「なんだなんだ、ルシフィンダ。スズメバチかモグラの大将か? それとも鳥か蛇か蜘蛛じゃないだろうな」
「それどころじゃないんだわっ。御山が火事になっちゃって大変なんだってば」
「なんだって? 風雷の神様には申し述べたのか」
 ロージリールは百年にいっぺん、あるかないかというほどの剣幕で言った。 うっかり正面から対峙したルシフィンダは窒息しかけた。
「え、あ……きゃっ。イグニス様はとっくに天辺へお向かいになったです、はいッ」
 ぎくしゃくと答えるルシフィンダ。
「どうもあっついと思ったんだよな、この空気。それよりふに落ちない点もあるにはあるが、みんな、そこから火や煙は見えるか?」
「見える、見えるよォ! 黒い煙がァア!」
 空飛ぶ花の精は金切り声で訴えた。
「大変だ、大変だ! みんなで御山を守るんだ!」
 その場にいた風精全員がロージリールを見つめた。
「ローズ、火気がすごい勢いで広がるのは目に見えている。じきに他山の神様が駆けつけてくれるかもしれない、でも」
「神様付きじゃない俺たちじゃ、相手にして貰えないだろう。ここはイグニス様を信じてお手伝いしよう。君が唯一、得意とする力で」
「おれさまはローズじゃないし……おれさまには誰かに期待されるような大それた力はない」
 すると風精たちは一勢に彼につかみかかり、一番年かさの風精が天へ祈った。
「イグニス様、この御山の守り神様。我々も戦います。だから彼と共におそばに呼んでください。一緒に、この危機に立ち向かわせてください」
 その場はシンとした。やがて風精たちの下敷きになっていた『彼』がむすっとした顔のまま、
「いっとくが瞬間移動みたいなまねはできないぞ」
 彼より若い風精ががなった。
「なんで? イグニス様はあんたを選んだんだろ? 契約の儀も滞りなく水盤を二人で囲んで未来への展望を伝えあったんじゃ!」
「できなかったんだよ。悪かったな! 水盤の台座は壊した。おれさまのせいだ」
「な、なにィ!」
 全員、自力で飛んで天辺までたどり着いた。それは恐ろしく体力を消耗する。そんな中でもさすがは精霊界に属する猛者達。大勢で儀式一切の道具を運び出す。
「おい、おいっ。どーするんだこんなもん! なんなんだこれは」
「指南書だよ。わかんないの? 避難するの! このままここにあったんじゃみんな焼けちゃうよ」
「落ち着け。火はまだここには来ていない」
「じきに来る! この中でわかっていないのは、君だけだ。ロージリール」
「そんなことはない」
「とにかく燃えたら困るものから順次に移動させる。君もぼやぼやするな。火は上に向かうんだ」
 山頂にあわただしく床をふむ音が辺りいっぱいに響く。燃えたら困る巻物(スクロール)が、誰が落としたか床に散じた。
「君、拾え」
 言われるまでもない。ロージリールが巻物に触れるとぴりっとしびれが走った。ハッとして見つめ返すと、その風精は侮蔑の意味をこめてはっきりと言った。
「この役立たず。巻物にも拒絶されていやがる」
「……っにおっ」
「よせ、喧嘩してる場合か!」
「上等だ! おれさまがあの炎を消してやる」
「あー、ほら! 冗談はまた今度な。忙しいから。はいはいっと。邪魔じゃま、ほらどいてー、どけよこら」 
「冗談なものか」
 年上の風精を押しのけて、ロージリールは走り去った。
「ルシフィンダ! 来ーい!」
 と、叫びながら……
 ちりちりと焦がされる木々の匂い。自分たちの躰をあぶってゆく炎。ロージリールは唱えた。
『風よ、いにしえの尊(たっと)き記憶、今呼び覚まし、その力を我が前に現し給え』
 ルシフィンダが炎の勢いにむせる。熱い空気が肺を焼く。
『花よ、永久(とわ)の喜びを一身に受けたる薫り高き誉れの王よ。我々に聖なる守りをもたらせ給え。……えとえと、後何回唱えるんだっけ」
「指を折るな」
 はっし、とその細い指先をつかんでロージリールがもう一度呪を唱えに入る。
 その横顔は勇士のようであり、いっそ神秘的なオーラを帯びていた。
「守りは任せた」
 その横顔を見て赤くなるルシフィンダ。決して迫りくる炎の熱気のせいなどでなく。
『風よ、巻き起これ。その力、炎竜を捕らえ天まで連れ去れ』
『王よ、王よ……王よ、守り給え、守らせ給え……守り給え……ッ……!』
 ルシフィンダはきつく目をつぶった。こうなれば一蓮托生だ。涙を流せばほほが焼ける。彼女は自分のなすべきことをするのだ、と直感的に判断した。
 ゴオォオオ!
 風が吹いた。辺りの炎は一瞬、音を無くした。再び風が吹いたとき、赤くうねる凶暴な何かが螺旋(らせん)を描いて天へと昇っていった。
 記録的な局地的大嵐に御山が見舞われたのはそれからすぐのことだった。
「や、まーた来たの?」
 冷笑を浮かべ、その男は趣味の悪いまだら模様の鞭をしならせた。
「また来たの、じゃない! 御山に火気を持ち込んだのはやっぱりキサマか」
「や、ちょっと最新の兵器を試してみただけなんだけど。いやいや、さすがだね。この雨じゃあ今日はアレだから、出直すよ」
「アレってなんだ、アレって。いい加減にしろ。でないと、実力行使でいくぞ。そもそもなんで御山(うち)でそんなもの試す」
「や、もうね、口に出すのもおこがましいんだけど、嫌みでやってるの。わかってくれるかな?」
「勝手にひとの御山でほざくのは止めてもらおう」
「や、まあ……そんなことで、藪をつついて蛇を出しちゃったかなー、みたいなー」
「ふざけきったことをッ」
「君の怒った顔を見られて僕は満足だ。なにせ僕には科学と兵器と実験しか興味も能もないものだから」
 イグニスの視線が迷うように一瞬ぶれた 
 心に声が響く。
 風によって草花の香りと泥臭い臭気が瞬時に伝わった。その中にロージリールの切なげな声が混じる。
 イグニスは振り払うように頭を振った。
「それは何を指して、言っているのか?」
「ん? や、だから宣戦布告までにと思って」
 イグニスの怒りが火を吹いた。脳天気なお隣さんはその場で粛正された。
「なあ、なんで炎を天へ送ったんだ? へたすりゃ天辺まで一気に燃え上がったかもしれないんだぜ」
 現場を見ていない同期の風精たち。不思議そうだが、それでは才がない。
「うるせえなあ」
 当の本人は上から下までぼろぼろ。声までがらがらだった。
「先輩、ちゃんと上天意様のお話は覚えてましたか? 御山は火山。あんな炎のエネルギー、地下へ送ったら一巻の終わり。でしょ」
「おまえって、勉強できたのか……」
 パッパと衣についた埃を払って立ち上がるロージリール。心の中で舌を出しながらも、昨日と今日でまるで変わった彼らの態度にいらだっていた。だから今まで以上にロージリールはかたくなに心を閉ざした。
 アンナコトだけでひとの見る目が変わるなんて、いかにもお安いサクセスストーリーだ。
 御山の土は下流域まで流されてしまい、泥だらけの高原の花は今年はもう、咲かないと言う。
「まるで年間降水量の半分は降っちゃったみたいィ」
「雨が降っても降らなくても文句を言われるのか、おれさまは」
「二度目になるところ、だったんですよ」
「それを言うなよ」
「あなたと誓いを立てた聖地に火が移って、また、燃えてしまうところでした」
 正直なところ誓いはまだ立ててない。
 まだ修行もままならない風精が胸を張る。
「案ずるな。二度目はない」
「疑いはしませんが、その自信はどこから?」
 彼はこともなげに、
「さっきのでわかった」
 あの火力を逆に利用して、上昇気流を起こして雨雲を呼ぶのだ。風精ならできて当然のことだ。ただし、一人でやるのは至難の業だ。まさに奇跡と言っていい。
 聖地のほとんどはすすけて見る影もなく、どんよりと薄気味悪く佇んでいた。
 なかなか降りやまない雨が壁に、傷ついた大樹の幹にしみをつくり、最後にはきれいさっぱり洗い流してしまった。いや、それどころか木の幹も花のつぼみもふやけてしまうかというほどその雨は続いた。
 今日も今日とてイグニスは。
「あーッ、長雨のせいでびしょびしょじゃないですか。責任とって下さい」
「雨を降らせるのは、ここんとこ毎日練習してたんだけど、一回もうまくいかなかった。はっきり言ってこれは偶然のたまもの、だ」
 もう何度も試したが、我が儘な雨は一向に止んでくれる気配がない。
「で?」
「こうして雨は降らせられたけど……じつはどうやって降り止ませるのか、わからない」
 見れば山向こうの、別の精霊丘の方まで湿ってしまっている。苦情が来たら、イグニスが対応せねばならないだろう。
「あなたってひとはっ、やることが極端過ぎるんです!」
「まず降らせるとこまでがうまくいかなかったんだ。止ませるところまで気が回るかよ」
 ロージリールはまったく悪びれる様子もなく、しれっとして言った。
「あなたってひとは!」
 怒ってた背中がずるっと崩れて、思わず笑ってしまったイグニス。泣き笑いのような顔になっている。
 そのままイグニスはロージリールを抱きしめると、静かに泣いた。ロージリールは妨げるような事はしなかった。
 押しのけようとすればできただろう。ただ、少しだけそのままでいいと、彼には思えたのだ。
「俺はわりと早めに人生卒業してしまったからな。泣くってのがどういうものか忘れてしまったけれど、俺にも泣けると思う。おまえがそばにいるなら、きっと……」

  <真実の名>
 
 上天意様に一日休暇をイグニス共々いただき、花の精ルシフィンダと高原に出たロージリール。
 それは良いのだが、出かける前が大変だった。
「よォ、ローズ、せいぜい骨休めしてこいよ」
「いまのとこ危険なのは隣の御山くらいだから。ね、ローズ」
「へいへい、呼び名は気に食わねえが、ようは下見してこいっていうのか?」
「まさかァ。休暇中のローズにそんなこと頼めるはずがないじゃないか」
「な、ローズ」
「ね、ローズ」
 ニタニタ笑いに見送られて気持ちの良いはずはない。全員が全員、ロージリールを「ローズ」と呼ぶ。これには堪らず、怒って良いのか呆れて良いのか、彼は悩んだ。
 末に額に苦悩の皺を寄せて叫んだ。
「俺の名前はロージリール! お花ちゃんでも茨姫でもなーいッ」
「まさかまさか。そんなこと思ってもみなかったよローズ」
「かわいいのは顔と名前だけだし、ローズは」
「殴るッ。オマエはもー殴る。そこになおれッ」
 本当に気の毒なことに、捕まった彼だけをおいて他の風精はことごとく散っていった。ロージリールは同情のあまり、不憫になり、彼を放した。その彼は思いっきりこう言った。
「ありがとう、ローズはやっぱり弱いものの味方だね!」
「どういう夢を見てるんだ! おまえ」
 ……などということがあった。彼のおつむは最初から心配なものだったが、そのあと、きっちり殴り倒され、同期の風精によって回収されたという。
 一方、ロージリールの方は休暇に出たのはもちろんのこと。雨のため東屋で談笑……のはずが。
「あー、あー! ルシフィンダ、オマエのせいだぞ、ローズ、ローズと毎日、連呼して! あいつらまで!」
 あくまで責任を追及するロージリール。
「知らない、知らない。ローズのほんとのお名前なんて、知ーらない、知ーらない。ただあたしはローズがお花だったらいいなって」
「だから気にくわなかったんだ、最初から!」
 ちょっぴりだけシュンとする花の精の傍らから、不思議そうな声。イグニスだ。
「おや、あなたはご存じなかったのですか」
 ロージリールは怪訝そうにした。
「花の王は花の名が冠せられている事をですよ。生まれたときに付けられたその名があなたを導いたはずです。彼女は察知しただけ」
 ロージリールは不思議そうに頭を傾げ、目をきょときょとさせた。思い当たることがあるのか、そっと自分の名を呟く。本当の名を。
「ろ、ずまりィ……? ……あれっ、花の……名前?」
「……聞いてませんよ」
「なあんにも聞いてないない」
「……うそつけ」
「わあん、ローズが怒るゥ」
「私は笑ったりはしませんよ。大切なことです。あなたにとって、ね……」
 だが今はロージリールにとって、そんなとってつけたような親切心が、自分で思いもしないくらいおかしく感じるほどうれしかったらしい。
 彼はしばらく上機嫌で崖のてっぺんから下界を眺めていた。
 雨がほんの少し、小雨になってきた。
 時が、ゆるやかに流れ始めた。

 了

命の華

一応、ごはん!で指摘されたことを元にちょっぴりだけ進化しました。

命の華

ネヴァーエンディング・ストーリーな感じです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-01-20

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