Samsara ~愛の輪廻~Ⅲ(連載中)

愛の輪廻— 命に限りがあるように不滅の愛は存在しないかもしれないけれど、死と再生を繰り返す永遠の愛は在ると信じたい……。



~めぐみ、その愛 Ⅰ~

01.過去のない女(1)

健介はERから廻されて来た患者の寝顔をじっとみつめていた。
肌理(きめ)が細かく陶器のように透き通った白い肌、桜貝を合わせたような形の良い唇、長い睫毛(まつげ)
不安げに小刻みに震えている。ふだん濃厚な白人女の顔を見慣れているせいか、日本人形のような
清楚で可憐な美しさが彼の眼に新鮮に映った。



「よう、ケン! 日本に残してきた”カノジョ”が恋しくなったか?」
いつの間に来たのか同僚のライアンが後ろに立っていた。
「…可哀そうに、まだ身元もわからないらしいぞ。それにしてもひでぇー話だよな……」

—―三日前、この若い女は路上に倒れているところを救急車で搬送されて来た。
  目撃者の話では、住宅街を制限速度を超えて走っていたタクシーがカーブを曲がり切れず
  街路樹に衝突した。アラブ系と見られる運転手は意識を失った客を路上に放置し猛スピードで
  逃げ去ったらしい。9.11以来アラブ系に対して当局の取り締まりが厳しく、おそらく
  不法滞在の運転手は怖くなって逃げだしたのだろう。
  幸い彼女は翌日には意識を取り戻した。外傷はほとんどなくMRIやCT検査の結果、脳には
  異常は見られないが、ショックのためか一時的に記憶を失い自分の名前すら憶えていない。
  所持品はタクシーの中に残したままで身元を確認できるようなものは何も身に着けていなかった。
  血液検査の結果に異常が見つかり、血液疾患の専門医である健介のところに廻されてきた——


「ナースの話だと英語もかなり出来るそうだ。観光客じゃ、なさそうだな。てことは、こっち住みか?
結婚指輪はと… ないから、独身だな。それにしても綺麗な顔をしているな…」
ライアンはあれこれと自分勝手に詮索し興味津々と言うように女の顔を覗き込んだ。

「しっかし、おまえは相も変わらずだなあー。例のシンディとはその後、どうなった?」
「彼女とはとっくに過去形さ。目、覚ましたら知らせろよ、顔拝みにくるから。
じゃ、またあとでな」
陽気なイタリア系アメリカ人のライアン・カペリーは片目を瞑って病室を出て行った。
ライアンと健介は同じメディカルスクールの同期だった。



健介は病室の窓の外に目をやった。
ここ数日、初夏を思わせるような陽気が続いている。この分だとポトマック川沿いの桜も今週
いっぱいで終わってしまうかもしれない。
(日本で最後に桜を見てからもう何年になるだろう…)
彫りの深い横顔に翳りが走った。


______________________________



有賀健介は両親の顔も名前も知らない日米の混血児だった。
三十二年前、南カリフォルニアの病院に事故で瀕死の重傷を負った身元不明の若い男女が運ばれて
来た。男は死亡、脳死状態の母体から帝王切開で胎児が取り出された。偶々同じ病院に居合わせた
日本人夫婦がその子を引き取った。横浜の貿易商、有賀健二郎と妻の友美だった。
長年子供に恵まれず不妊治療を続けていた二人は、養子にした健介を実の子のように溺愛した。
成長するにつれ日本人離れしていく容姿から、虐めにあうことを懸念しインターナショナルスクール
に通わせるなど、両親の深い愛情に包まれ幸せな幼年期を過ごす。だが彼が八歳の時、健二郎は
経営に行き詰まり会社は倒産、多額の負債を抱え込んでしまう。結局、健介を残し妻と無理心中を
図った。
一人になった健介は親戚中をたらい回しにされた挙句、中学生になると養護施設に送られた。
そこにも自分の居場所はなく、悪い仲間と吊るんで非行に走る。幸い米国籍を有していたため、
アメリカの里親制度(フォスターホーム)の対象となり十六歳の時に渡米した。
そこは横浜時代のような裕福な家庭ではなかったが、目の色、肌の色、髪の色の違う子供たちを
わけ隔てなく受け入れてくれた。

抜群の成績でハイスクールを出た健介は、奨学金で東部の名門大学、メディカルスクールを共に
首席で卒業した。アメリカで医者になるには四年制の大学を卒業後、さらに四年間の医科大学院(メディカルスクール)
を終業しなければならない。そして、一年のインターンシップ、二年間の研修期間を経て一人前の
医者となる。




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「気分はどうですか? どこか痛むところはありませんか?」
「……」
外見からは想像もできないような流暢な日本語に女は驚いたように健介の顔を見た。

「有賀健介といいます。今日から貴女の主治医です」
「ありが、先生?」
健介はにっこりと頷いた。

「わたしは… 」
彼女は言葉に詰まった。その表情は不安と困惑に満ちている。
「今は何も心配しないで。大丈夫、必ず記憶は戻ります。検査の結果、脳にはなんら異常は
認められませんから、事故による一過性のものでしょう」
健介の言葉に安心したのか彼女の表情が少し和らいだ。

「ただ… 血液検査の結果にちょっと問題があるので、そっちのほうはもう少し詳しい
検査が必要になります」
彼女の顔が再び曇った。
健介は、しまったと思った。記憶喪失という重圧に押しつぶされそうになっている患者に
さらなる不安を煽るようなことを今、口にすべきではなかった。

「いや、大丈夫、あくまで念のためなので…」
不用意に言ってしまったことを打ち消すように慌てて言葉を続けた。
だが、廻されてきたカルテにはかなり重度の貧血で早急な骨髄検査が必要と記されている。
「とにかく、検査してみましょう」と言う健介の言葉に女はこくりと頷いた。



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一週間が経過したが、依然として記憶は戻らず身元も不明のままである。
地元警察に家族や友人からの捜索願も出ておらず、ワシントンの日本大使館に問い合わせても
在留邦人や日本人渡航者の中にそれらしき該当者はいなかった。
骨髄検査の結果、AA(再生不良性貧血)であることが判明した。
重症と診断された場合の治療法としては、まず骨髄移植が選ばれる。それが不可能な時は、
免疫抑制療法(ATG)がおこなわれるが、治療開始から効果が得られるまで少なくとも
二、三か月は要する。

病院側は女の対処に苦慮していた。身元不明の人間をずっと入院させておくわけにはいかない。
とは言え、人道的な立場から病人を無闇矢鱈に放り出すこともできない。
結局、もう一週間様子を見て家族や身元引受人が現れない場合は公的機関に委ねるという結論を
出した。



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輸血と感染症に対する抗生剤の投与などの当座の治療で女の症状は小康状態を保っていた。
が、骨髄移植が無理なら免疫抑制療法などの根本的治療を早急に始めない限り回復は見込めない。


「彼女の主治医として、一刻も早くATGを始めたいと思います」
健介は上司である血液内科の医長に掛け合った。
「ケン、君の気持ちは解るが、上の決定には逆らえんよ」
「しかしこのままでは… 治療を受けさせるために身元引受人が必要というなら、
僕がなります」
健介はなおも喰い下がった。
「落ち着きたまえ。一時の感情や安っぽいヒューマニズムで行動すれば、きっと
あとで後悔することになるぞ」
普段は冷静沈着な部下が、いつになく熱くなっている様子に医長は健介を諭した。

病院側の、公的機関に丸投げしこれ以上身元不明の女と関わりたくないという姿勢に健介は
どうしても納得がいかなかった。それは単に目の前で苦しむ自分の患者になにもできないと
いうジレンマだけではない。同じように身元不明者として、我が子の顔を見ることなく
死んでいった母親への想いが心のどこかにあるのかもしれない。



「くそっ!」
やり場のない怒りをぶつけるようにソーダの空き缶を乱暴にゴミ箱に投げ捨てた。
「そんなかっかすんなよ。血圧上がるぞ、ケン」
ちょうどコーヒーブレイクでカフェテリアに姿を現したライアンが声をかけた。

「話は聞いたよ。おまえ、まさかマジで彼女の身元引受人になる気じゃないだろな?」
「俺は本気さ!」
「いまだに家族も誰も現れないんだぞ。訳アリかヤバい筋の女って可能性もある
わけだし…」
「だから、見殺しにしろって言うのか!?」
健介は声を荒げた。

当初は病院関係者の誰もが、身元が判明するのにそう時間はかからないだろうと楽観視
していた。が、二週間経過しても家族が現れないどころか、行方不明者や捜索願の対象者
リストにも該当者がないことから、麻薬密売、犯罪がらみのマフィアやジャパニーズ
ヤクザの女かもしれないという(まこと)しやかな噂が立ち始めた。
彼女のことをミステリアスな ”オリエンタルビューティー” と呼ぶ者さえいた。


「彼女になんか可愛い日本の名前つけてやったらどうだ? 名無しのゴンベイのままじゃ
可哀そうだよ」
頭に血が上っている同僚を(なだ)めるようにライアンが提案した。
そう言われてみると、彼女のことを”君”とか”貴女”としか呼んでいないことに気づいた。
「そうだな…」と言ったまま暫く黙っていたが『めぐみ』にしようと、ぽつりと言った。

「メグミ?… メグ、か… そう言えばハイスクール時代の元カノにメ―ガン、愛称メグ
っていう髪の綺麗な()がいたっけな… メグ、それいいよ、いいよ。なんか彼女のイメージに
ピッタリだ! じゃ、これからさっそくメグのところに行こうぜ」

いつものように一人ではしゃいで、さっさと彼女の病室に向かった。
二人は昔から月と太陽、陰と陽のように対照的だった。いつも物静かで自分の感情を表に
出さないポーカーフェイスの健介に対し、ライアンはとにかく明るい。いつも誰彼へとなく
ジョークを飛ばしその場の雰囲気を和ませる。子供からも好かれ小児科医はまさに彼の
天職だと、健介はいつも思っている。


「ハァ~イ、メグ! 気分はどう?」
「……」
「このドクター・アリーガが、君に素敵な名前を付けてくれたよ。
メ・グ・ミ… 君はきょうから”メグ”、僕は”ライアン” そう、君と僕で
”メグ・ライアン” ハハハァ! どう、気に入った?」


ライアンのワケの分からない話に『めぐみ』は俯きかげんにくすっと笑った。
それは、彼女がここへ来て初めて見せる綺麗な笑顔だった。

02.過去のない女(2)

病院側が提示した期限が過ぎ、健介は周囲の反対を押し切る形でめぐみの身元引受人になった。
理事会は、彼女の病状が回復するまでという条件付きで彼の行動を容認した。
さっそく免疫抑制療法(ATG)によるめぐみの再生不良性貧血の治療が開始された。
点滴と薬剤投与による治療は発熱、嘔吐、腹痛、血尿等の副作用を伴うかなり辛いものだったが、
主治医、健介の献身的とも言える努力の甲斐があって、彼女の病状はみるみる回復していった。
だが、依然として記憶の方は戻る気配がなかった。


「ATGは順調に効果を上げているようだな」
検査結果の数値を見ながら医長は満足げに言った。
通常の三分の一近くまで減少していた血液細胞の数が増え、ほぼ正常値までに戻っている。

「ええ、この分だと後二週間くらいで寛解(かんかい)になりそうです」
「今回、君は実に良くやったよ」
「いえ、副作用に耐えて彼女がよく頑張ってくれました」
健介の顔には一人の患者を救えた医師としての満足感や充実感だけでなく、何か別の感情が
現れていた。

「ところでケン、君のボストン行きが正式に決まったよ。来月早々には
行ってもらうことになりそうだ。どうだ、来週当たり休暇を兼ねて現地に
下見に行ってみては?」
この病院の医師はエクスチェンジ・プログラムの一環として、ボストンにあるボストン総合
病院(ボスジェネラル)へ送られ一年間勤務することが定例になっている。
それに選ばれる者は将来有望な医師として期待されている証拠でもある。

「来月から、ですか…」
健介は困惑した表情を浮かべた。
「ケン、君にとってはビッグチャンスだぞ… まさか、メグのことで
躊躇っているんじゃないだろうね。悪いことは言わん、もうこれ以上
彼女に深入りするのはよした方がいい」
「…すみません、もう少し考えさせて下さい」



健介は医長室を出て屋上に上がった。
この二か月はあっという間に過ぎた。ポトマック河沿いの桜並木はいつの間にか姿を消し、
ついこの間まで新緑に輝いていた木々も今は夏の強い日差しを浴びて精彩を欠いている。
一人の患者にこんなにも情熱を注いだことはかつてなかった。そして、一人の女を
こんなにも愛おしいと感じることも一度もなかった。



***************************************



「よう、ボスジェネラル行き決まったそうじゃないか。ビーコンヒルのリッチな
アパート暮らしかぁー。おまえもいよいよエリート医師の仲間入りだな」
さっそく噂を聞きつけてやって来たライアンが冷やかすように言った。

「まだ、行くと決めたわけじゃない…」
「アホかおまえ! なに迷ってる? …あっ、常に冷静沈着、長年その顔と
身体をムダにしてきたドクター・アリーガも、ついに女の魔力に堕ちたか!
悩むことはない、惚れちまったんなら、一緒に連れて行けばいいじゃん」
「おまえは、いいよなあー。いつもお気楽で」
呆れたように健介は頭を振った。

あと二週間の治療でめぐみの血液疾患はほぼ完治する。だが、それまでに記憶が戻る
とは考えられない。ここを退院すれば彼女の身柄は公的機関に委ねられる。
日本国民であることが立証されない限り、パスポートのない日本人に日本大使館は
関知しない。おそらくはDC内にある公共の施設に送られ、そこで社会復帰への
準備をすることになるだろう。ホームレスたちと肩を並べているめぐみの姿を想像
するだけで、健介はたまらない気持ちになる。

「メグのこと、本気で愛しているんだろ? だったら何も迷うことはない。
向こうへ行けば、噂なんか気にせずに堂々と二人で暮らせるじゃないか。
ケン、一度くらい自分の気持ちに正直になれよ」
ライアンはいつになく真剣な顔をした。

「けど、俺がいくらその気でも…」
「大丈夫、彼女もおまえに惚れてるよ、保証する。おまえが優秀なのは認める。
なんせメッドスクールじゃおまえは常にトップ、俺はドンケツだったもんな。
けど、こと女に関しては、俺のほうが100倍上だからな」
「……」
「なにぐずぐずしてる、さっさと告ってこいよ!」

いつもの陽気なライアンに戻り健介の背中をポーンと押した。


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病室にめぐみの姿はなかった。
彼女は最近、夕暮れになると屋上に上がりじっと遠くをみつめていることがある。


「もう、病室に戻ったほうがいいよ。風邪でも引いたら大変だ」
手すりに両肘をのせ、めぐみはポトマック川の方向をぼんやりと眺めていた。
その横顔は、記憶を取り戻せない焦りと不安と哀しみに満ちている。
六月のワシントンには日本のような梅雨はない。日中はかなり蒸し暑かったが、
陽が落ちると風がひんやりと冷たい。

「なぜ、そんなに優しくするの? めぐみさんって誰? 昔の恋人?
先生にとってそんなに大切な人だったの? 先生にはとても感謝しています。
身元引受人にまでなって病気を治してもらって。でも、もう一人でも大丈夫。
退院すればソーシャルワーカーの人が、これからの事いろいろ相談に乗って
くれるそうだから」
健介に背を向け夕日を眺めていためぐみは、振り向くと興奮気味に一気に捲し立てた。

「どうしたの、急に? いつもの君らしくないよ」
(ライアンのやつ、また余計なことを言ったな…)健介は心の中で舌打ちをした。

「ボストン行きのこと、聞いたんだね?」
「ええ。そんないい話、なぜ迷う必要があるの?… 自分がどこの誰かも
分からない可哀そうな女への同情?憐れみ? それとも医師としての正義感?
私、そんなのイヤなんです!」
「そんなんじゃない‼」
自分でも驚くくらい強い口調で否定した。

「二か月以上経っても誰も探しに来ないのよ。噂の通り、犯罪者かヤクザの
女かもしれないわ。もう、これ以上私なんかと関わらないほうが、」
健介の唇があとの言葉を遮った。

「好きだ、好きなんだ! 一緒について来てほしい。ずっと、俺のそばにいて
ほしい…」
健介はめぐみの細い躰を抱きしめた。
暗い過去を引き摺り常に感情を内に秘め生きてきた彼にとって、こんな風に
自分の感情を露わにしたのは初めてだった。


過去を失くした女と消してしまいたいような過去を持つ男が、新しい土地で
それぞれの過去と決別し再出発しようとしていた。

03.新天地(1)

七月に入り東部地方は本格的な夏のシーズンを迎えた。
四日の独立記念日には家族、友人、隣近所の親しい者同士が家の庭や公園などのバーベキュー
グリルの完備した場所に集まり、賑やかなパーティーを繰り広げる。
夜になると港や川べりなどで盛大な花火大会が催される。家庭での花火が禁止されている
アメリカでは、日本のような夏に子供たちが庭先で花火を楽しむ光景は見られない。
独立記念日と大晦日の二日間だけは解禁になるので、全米各地で二週間以上も前からスーパー
や量販店の店頭に大小様々な花火が並び、その日は子供だけでなく大人までが花火に興じる。


ライアンの家では毎年恒例の『カペーリ家の独立記念日BBQ』が開催される。
DCに隣接するバージニア州郊外にある彼の実家には親類縁者が集まり、陽気なイタリア系
移民のカペーリ家には、その日は英語とイタリア語が飛び交い深夜までお祭り騒ぎが続く。
ライアンの両親は移民三世で、小さなレストランを切り盛りしながら五人の子供を育て上げた。
なかでも医者になった三男坊のライアンは両親にとって自慢の息子である。
身寄りのない健介を自分たちの息子同然に扱い、感謝祭やクリスマスなどの祝日には必ず招待
してくれる。だが、家族だけが集う席にはアパートの自室に一人でいるよりもかえって孤独を
感じ、だんだん足が遠のいていった。ただ、この独立記念日の行事だけは毎年のように参加
している。

「ええ、皆さ~ん、ちょっと聞いて下さ~い!」
宴会が佳境に入った頃、ライアンが突然カラオケ用のマイクを握り大声を発した。
「今年の独立記念日(フォースジュライ)は、三つ、祝うことがありま~す!
ここにいるメグの病気が全快したこと、ケンのボスジェネラル行きが決まったこと、
そして… ジャジャ~ン! 二人はめでたく一緒になりま~す!!」
一斉に大きな歓声と口笛と拍手が沸き上がった。
「おい、よせよ、ライアン!」
「いいから、いいから… めでたし、めでたし、乾杯!」


健介の制止も聞かず、アルコールの回ったライアンはすっかり浮かれている。
皆も彼につられて二人に祝福のキスやハグを浴びせかける。
こうして、カペーリ家の賑やかな独立記念日の宴は深夜まで続いた。



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ボストンの夏は日本のように湿気がありかなり蒸し暑くなる。
街の中心地にある公園ボストンコモンの中は緑が生い茂り、風があると比較的凌ぎやすい。
噴水の周りで小鳥たちが水浴びをし、大人が芝生に寝っ転がって読書や昼寝をしたり、
子供たちがボール遊びに興じている光景はどこか長閑(のどか)で、一時(いっとき)猛暑を忘れさせてくれる。


「高村、じゃないか!?」
「……」
「俺、俺だよ、2-Bの三沢徹」
「… バスケ部キャプテンの、三沢?」
「そう! うわっ、奇遇だなあー。何年振りになるかな?」
「最後の同窓会の時以来だから… かれこれ十年になるよ」

耕平は思わぬところで高校の同窓生と出くわした。
三沢徹は体育会系のがっちりした身体を持ち、抜群の運動能力と明晰な頭脳を兼ね備えた
校長自慢の優等生だった。ストレートで東大の工学部に入り、十年前は確か母校で教鞭を
取っていた。

「紹介するよ、妻のキャロライン。高校のクラスメートの高村耕平」
「ハジメマシテ、ドーゾヨロシク」
ブロンドで青い瞳の三沢の妻の流暢な日本語に耕平は少し驚いた。
「彼女、日本に留学してたから、日常会話くらいはできるんだ」
「そうか… こちらこそよろしく」
「こっちには、学会か?」
「ああ、まあ… おまえは?」
「四年前からMITで教えてる。こっちはいいぞ、日本みたいな
しがらみがなくて」
三沢に抱かれて眠っていた子供が目を覚まし『スワンボートに乗りたい』とむずかり
はじめた。
「息子のショーン、三歳になったばかりなんだ… もっとゆっくり
話がしたいな。どうだ、明日の晩予定がないなら家へ来ないか?
このすぐ近くなんだ」
「ゼヒ、キテクダサイ」
「ありがとう…」
「じゃ、電話待ってる。ホテルまで迎えに行くから」
三沢は耕平の滞在先のホテルを聞き自分の携帯番号を記したメモを渡すと、息子に
せがまれスワンボートのあるパブリックガーデンの方に歩いて行った。


学生時代、三沢とはそんなに親しい間柄ではなかった。
これが東京の渋谷公園あたりで出くわしていたなら家にまで招待されることはないだろう。
異国の地で十年ぶりに出遭った同級生に人懐かしい親近感を覚えたのかもしれない。
耕平は正直億劫だった。最後の同窓会の時は陽子も一緒だった。
あれから十年、妻との死別、再婚、不倫、離婚、愛人の出産・・・ 耕平の人生は実に
波乱万丈だった。それを一々他人の三沢に話す必要はないが、家に招かれれば近況くらいは
話さないわけにはいかないだろう。

現在の耕平はバツ2の独身である。
杏子は入籍を強く迫ったが最後までそれだけは拒んだ。生まれた子供は認知したが、
母方の島崎の姓を名乗り杏子が親権を握っている。出産後すぐにベビーシッターに預け
さっさと仕事に復帰した。今は実家の母親に全面的に子育てを丸投げしている。
子供まで設けておきながら結婚を拒否した男に対して杏子の両親の心象は悪く、耕平は
息子に会うことも儘ならない。
小学二年になった舞は、父親の不倫が原因で家庭が崩壊したことを感知しているようで、
耕平に心を閉ざしてしまった。また以前のように義母の静江に娘の養育を委ねている。
長野の病院を辞めマンションを売却し成都医大に戻った。結局、亜希と出逢う前の元の
生活に戻ってしまった。耕平は今でも亜希のことを一日たりとも忘れたことはない。
街で彼女と似た女の後ろ姿を見かけると、つい後を追ってしまう。

今回ボストンに来たのは、医大の先輩が帰国するためそのポストの穴埋めに耕平に声を
かけてくれた。かねてからアメリカでの臨床経験を積みたいという希望もあり、暫く
日本を離れて何もかもやり直したいという思いもあった。
当分の間はホテル住まいをしながら適当なアパートを探すつもりでいる。
四年もここに暮らす三沢なら土地勘もあり、生活面でも良いアドバイスが得られるだろう
が、やはり招待は断るつもりでいた。


二歳くらいの男の子をベビーカーに乗せた若い母親が、耕平の座るベンチの前を通り
過ぎた。爽やかな柑橘系の甘い香りが漂う・・・
長野のマンション近くの公園で戯れる亮と亜希の姿が、ふと彼の脳裏を過った。


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「高村、今朝は本当に驚いたよ。まさか、こんなところで高校の同期に
会えるなんてな… 都合が悪くなかったら、ぜひ来てくれよ」

三沢に断わりの電話を入れようとした時、ホテルの部屋の電話が鳴った。
突然出くわした同郷人に望郷の想いが募ったのか、同級生に今の生活を自慢したい
のか、三沢の声は耕平の訪問を強く望んでいる。

「…実は、半月ほど前に同じ階に引っ越してきた、ボスジェネラルの
内科医をしている若いカップルも呼んであるんだ。彼は日米のハーフで
英語はもちろん日本語も堪能だし、おまえとも話が合うと思うよ。
あと、カミさんの友人が二、三人来るくらいの気の張らないホームパーティー
だから」


「… じゃ、お言葉に甘えてお邪魔するか」
耕平は迷ったが、新しい職場となるボスジェネラルの医師が来るという三沢の
言葉にそそられた。

04.新天地(2)

健介とめぐみがボストンで新しい生活を始めて半月が過ぎた。
二人の新居であるハイライズコンドミニアムは、日本で言うタワーマンションで、十五階の部屋
からはボストンのダウンタウンの名所が一望できる。健介の勤務先の病院まで徒歩で通える距離
にあり、買い物や交通に便利な立地条件の良い場所にある。


「うーん、いい匂いだ。ひとついい?」
「ほんとに、こんな物でいいのかしら?」
「うまい! 上等、上等、これならみんなに受けるよ」
めぐみは、キッチンに立ちっぱなしで隣人のホームパーティーに持参する一品を作っていた。

三沢夫婦とは、ここに越してきた日に偶々顔を合わせお互い自己紹介した。
以来エレベータやロビーで会うと挨拶を交わす程度の付き合いをしている。めぐみとの関係は
将来結婚する予定で、二人とも横浜出身とだけ言ってある。健介は他人との交際を極力避けている。
今夜のこともあまり気乗りはしないが無下に断るわけにもいかず、社交辞令として顔を出すつもり
でいた。

「メグ、大丈夫か!?」
「ええ。ちょっと、ふらっとしただけ…」
めぐみは冷蔵庫に寄りかかり辛うじて身体を支えている。
額に手をやると微熱があった。再生不良性貧血の治療は終えたものの完治したわけではない。
当分の間、定期的な血液検査を続け用心する必要がある。数値が下がれば貧血や感染症に
罹りやすくなる。

「すぐに横になったほうがいい」
健介はめぐみの身体を抱きかかえるようにしてリビングのカウチに寝かせた。
「悪いけど、今夜は一人で行ってきて」
「ああ。せっかく作ったんだから、料理だけ届けてくるよ」
「私は大丈夫だから、ゆっくり楽しんできてね」
「俺一人で楽しめるわけないだろ… おとなしくいい子にしてろよ。
すぐ戻ってくるから」
めぐみの額に口づけし部屋を出て行った。


健介と暮らし始めてからめぐみは記憶を取り戻せない焦燥感より、記憶が戻る恐怖を感じる
ようになった。行方不明になった自分を誰も探そうともしない。どう考えても幸せな人生を
送っていたとは思えない。過去が甦る時、それはもしかしたら悲惨な現実に引き戻される
瞬間かもしれない・・・
健介は優しかった。はじめはその優しさが同情や憐れみからきているようで、彼の気持ちを
素直に受け入れることができなかった。だが今は、できれば過去を失くしたまま、ずっと
『めぐみ』として健介と生きて行きたい願うようになった。



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"Hi Caroline, how's it going?"
"Alright. Where is Meg?"
"Well, she's not feeling good, so decided to stay home."
"Oh, really? That's too bad."
"Here is some dish she made for tonight."
"Thank you. Umm... smells delicious! Won't you come in, Ken?
I know you don't wanna leave Meg alone but can you stay for a little while?"
"Sure."
"Honey, Ken is here!"


「こんばんわ、お邪魔します」
「ちょっと聞こえたけど、めぐみさん具合悪いんだって?」
「ええ、大したことはないんですが… たぶん引っ越しの疲れや何かが出たんだと
思います」
「そうか、それは残念だな… 紹介するよ、高校時代の友人の高村耕平。
君と同じお医者さんだ」
「はじめまして、有賀健介と申します」
「高村です、よろしく」
さっきまでのキャロラインとの英語の会話とは一変して、健介の全くアクセントのない
綺麗な日本語に耕平は驚いた。

「実はね、今聞いたばかりなんだけど、高村も来週からボスジェネラルに勤務する
そうなんだ。もっとも彼は外科だけどね」
「そうなんですか… スタッフは皆プロフェッショナルで働きやすい職場ですよ。
と言っても、僕も移って来たばかりですが… もし、何か僕でできることがあれば、
いつでも知らせて下さい」
「ありがとう、そう言ってもらえると心強いです」

耕平は会ったばかりのこの青年医師に好感を持った。
先輩医師に対して控えめで礼儀をわきまえた態度は、日本の大学病院の若い医師たち
の中でも少数派になっている。部屋に残してきたフィアンセが心配なのか、挨拶を
交わすと早々に引き上げて行った。


「いい青年だなあ」
「ああ、今時の日本の若いのはひどいのが多いからな。うちに来てる留学生の中にも
頭はいいんだが、常識がないと言うか、信じられないようなのがいるからな」
耕平も大きく頷き、二人は思わず苦笑した。

「メグがつくってくれたもの、おいしそうよ。さめないうちにたべてみたら?」
キャロラインがテーブルの上に置いた皿の中を見た男二人は顔を見合わせた。
「おい、これ ”おやき” じゃないか?」
「そう、みたいだな…」
三沢は一つ手に取り口に運んだ。
「中にチーズが入っていて今風のアレンジだけど、これ確かにおやきだよ…
うーん、なかなかイケるぞ」
「お、や、き??」
「うむ… 長野地方の家庭料理で、小麦粉を使った皮に野菜やなんかを炒めたものを
包んで焼いて食べるんだ。子供の頃、おふくろがおやつ代わりによく作ってくれたよ。
各家によって中身の具が違ってて、うちのは野沢菜やナスのみそ炒めが多かった。
懐かしいなあー」
三沢は久しぶりの郷土料理に郷愁を誘われたのか、青い目の妻に詳しく説明した。

「まあ、トールったら、すっかりノスタルジックになっちゃて。
コーヘイさんのおうちはのは、どんなだったの?」
「うちは、シイタケやしめじなんかのきのこ類と細かく刻んだ人参を炒めたもの
だった。子供の頃、人参がダメだったもんで、おふくろの苦肉の策らしい」
「じゃあ、チーズ以外はこれと全く同じだ、ほら」
三沢はおやきを半分に割って中身を見せた。
一口食べた耕平は、あっと声を出しそうになった。

   ——「おやきとチーズなんて完全にミスマッチだよ」
     「まあ、そう言わないで試食してみて」
     「……」
     「どう?」
     「うまい!」
     「でしょう…」——

「どうした、高村?」
おやきを手に持ったまま、じっと感慨に(ふけ)っている耕平に怪訝そうに尋ねた。
「めぐみさんっていう人、横浜出身なんだろ。なんで、おやきの作り方
知ってるんだろ?…」
「そう言われてみればそうだが… 母親が長野出身とか、料理の本でレシピを
見たとかじゃないのか」
何歳(いくつ)ぐらいの人?」
「キャロ、メグって何歳ぐらいだと思う?」
「そうねぇ… 20だい、ぜんはんかな? でも、にほんのじょせいは、
わかくみえるから、もうすこしうえかも。とってもきれいなひとよ。
いろがしろくて、まるでジャパニーズドールみたい」
そばかすの多い赤ら顔のキャロラインは羨ましそうに言った。
「そうだな、今の日本の若い()みたいにケバケバしたところは全然ないな。
どちらかと言うと、清楚で古風な感じがする。けど、小顔ですらりと伸びた肢体は
今風の美人だけど…」
「まあ、トールったら、するどいかんさつりょくだこと!」
キャロラインは夫の腕をぎゅっとつねった。


耕平の心中は穏やかではなかった。
三沢夫婦の語るめぐみの人物像は亜希とぴったり符合する。そして、あの”おやき”は
まさしく彼女の作るおやきの味だった。だが、もし亜希だとすれば、なぜめぐみという
偽名を使わなければならないのか、それとも、やはり別人なのか・・・
耕平はどうしても『めぐみ』に会ってみたくなった。

05.過去との遭遇(1)

週末のクインシーマーケットはショッピングやストリートパフォーマンスを楽しむ観光客、地元の
ボスト二アンたちで賑わう。
フレッシュな野菜や果物を売るワゴンから日用雑貨や土産物など様々な品を取り扱う店がたくさん
入っている。シーフードを中心としたレストランの数も多く、オープンカフェで名物のロブスター
ロールやクラムチャウダーなどが手ごろな値段で味わえる。


「やっぱ、本場のロブスターは旨いな」
「クラムチャウダーもとっても美味しいわよ」
土曜の昼下がり、健介とめぐみはオープンカフェで遅めの昼食をとっていた。
そこへキャロラインがベビーカーを押しながら二人のテーブルに近づいてきた。
息子のショーンはすやすやと気持ちよさそうに眠っている。三沢の姿はなかった。

「コンニチワ!」
「あれ、今日はトールさんは一緒じゃないんですか?」
「ええ、コーヘイさんにTの、のりかたをせつめいしながら、あさから
しないをあんないしてるの。2じにここでまちあわせているんだけど…」
腕時計を見ながら言った。
同じコンドミニアムの上の階に空き室が見つかり、高村は先週引っ越して来たらしい。
同じ病院に勤務しながら大きな総合病院の内科と外科ということもあり、あのホームパーティーの
夜以来一度も顔を合わせていない。

「トール、Tのえき、まちがったのかしら…」
キャロラインは心配そうに辺りを見回した。
ボストン市内にはレッドライン、オレンジライン、ブルーライン、グリーンラインと、東京の地下鉄
のような色分けされた交通システムが完備している。郊外にも延びていて駐車場を探す煩わしさが
ないため、通勤やショッピングに利用するボスト二アンも多い。地元ではそれを『T』と呼んでいる。
ワシントンから持ってきた健介の愛車も地下のパーキングに置いたまま、郊外の大型ショッピング
モールへ行く以外は今のところほとんど乗っていない。

「メグ、ちょっと、みててもらってもいいかしら?」
めぐみに耳打ちするとキャロラインはマーケット内のレストルームへ向かった。
母親がそばを離れるや否や、ベビーカーの中のショーンが目を覚まし泣き出した。
めぐみが抱き上げ背中を撫でててやると、すぐにまた寝息を立てはじめた。
その手慣れた様子に健介は少し驚いた。


「よう、うちのカミさんは子育てを放棄してショッピング?」
大きく手を上げ三沢が二人に近づいてきた。
「あなたのほうこそ、おそかったじゃないの!」
ちょうどそこへ戻って来たキャロラインが夫の顔をじろりと睨んだ。

「コーヘイさん、しょうかいするわ。こちらがケンのたいせつなフィアンセ、
メグよ」
「はじめまして」


めぐみは少しはにかんだようににっこりと微笑み高村に挨拶した。


***************************************



耕平は十八階にある自室から港の夜景を眺めながらマルボロに火をつけた。
昼間の出来事がまるで映画のワンシーンのようで、どうしても現実と結びつかない。
何か不思議な光景にでも遭遇したような気がする。


三沢の子供を抱いているめぐみを見た瞬間、耕平は凍りついてしまった。
それはまぎれもなく亮を抱いている亜希の姿だった。
彼女は驚いたり動揺した様子もなく、まるで初対面のように平然と挨拶を交わした。
それが演技や偽りではなく、亜希が完全に記憶を失くしていることはすぐに分かった。
医者である耕平には記憶喪失がどういうものか頭の中では十分理解できる。
だが現実に、つい半年前まで自分の妻で会った女が夫であった男のことを完全に忘れて
いるという事実に直面すると、やはり理屈では説明がつかないくらい大きな衝撃である。

最後に会った時よりずっと顔色も良く亜希は幸せそうに見えた。
有賀健介が造血器官、血液疾患の専門医であることから、おそらく医者と患者として
出逢ったのだろう。二人が愛し合っていることは一目瞭然である。
この半年間、彼女の安否を気遣い無事を祈りながらも、一時は絶望的になり最悪の事態も
想像した。とにもかくにも亜希が生きていてくれたことに耕平は安堵した。


_________________________________



『耕平、今ニューヨークにいるの。明日JFKから最終便でそっちへ行くわ。
 ローガン空港まで迎えに来て!  杏子』


杏子は耕平のパソコンにメールを入れた。
耕平が(かた)くなに入籍を拒み最後まで自分の意思を通したことが、どうしても許せない。
あんなに辛い思いをして彼の子を妊娠出産したというのに、妻の座をゲットするどころか、
未婚の母として生きる羽目になってしまった。結局、耕平の心は一度も自分に向けられることは
なく、彼の心はいまだにあの小娘に占領されたままである。

偶々目にした一枚の写真を見て、杏子は即ボストン行きを決めた。
マサチューセッツ工科大で客員教授をしている三沢徹のブログの中で『10年ぶりに再会した友』
と題して耕平と自分の家族の写真を載せていた。そして、耕平の傍らには半年前に失踪したはずの
あの女が写っているではないか・・・
身内にムラムラとした怒りが混み上げ居ても立ってもいられなくなった。

06.過去との遭遇(2)

ボストンの暑い夏も終わりを告げ、九月に入るとようやく秋めいてきた。
ワシントンに移り住んでから二か月が過ぎた。めぐみの体力は順調に回復し、週一回の
検査も月に一度となり、日常生活に支障をきたすことはほとんどなくなっていた。
健介は新しい職場にも慣れ精力的に仕事をこなしている。
当初、同じコンドミニアムに住む日本人と知り合いになったことから、煩わしい付き合いや
めぐみのことを色々と詮索されるのではないかと懸念していた。が、三沢夫婦とも高村とも
顔を合わせば挨拶を交わす程度で、お互いの生活を干渉することなく良好な隣人関係を保っている。


「今日ねえ、トリ二ティー・チャーチで高村先生を見たの」
食後のコーヒーを入れながらめぐみは思い出したように言った。
市の中心街にあるこの教会では毎週金曜日の午後、パイプオルガンによる讃美歌の演奏があり
誰でも自由に鑑賞することができる。めぐみはその音色に魅せられたようで、初めて健介と
行って以来毎週のように通っている。
「へぇ、めずらしいね、一人でチャーチなんて…」
「一人じゃなかったわ。日本人っぽい綺麗な女性と一緒だったから、つい
声をかけそびれちゃった」
「そう…」
高村は六年前に妻と死別し一人娘を妻の実家に預け、以来独身をとおしていると三沢から
聞いていた。


「誰かな、今頃?」
突然、玄関のチャイムが鳴った。
「サプライズ‼」
ドアを開けると、両手を高く掲げたライアンが立っていた。
「わぉ、なかなかいいとこじゃん! ハァ~イ、メグ。元気そうだね、
顔色も良くなってますます美人になったよ」
相変わらず彼の舌は滑らかだ。
「どうした、急に? 電話くれたらローガンまで迎えに行ったのに…」
「二人を驚かせたくてな。それに、飛行機じゃなくて車で来たんだ」
「車、どこに停めてるの?」
「地下のパーキング。俺も今日からここの住人、ヨロシク!」
「?…」
この近くのMCH(マサチューセッツ・チルドレンズ・ホスピタル)での仕事が決まり
下の階に越してきたという。健介とは繁茂にメールのやり取りをしているのに、一言も
そんなことは言ってなかった。

「それならそうと、知れせてくれればよかったのに…」
「なんか、おまえの真似して後を追っかけてるみたいで… それに、」
やけにニヤニヤと口元が緩んでいる。
「実は、俺さ… 結婚したんだ。式とかはまだ挙げてないけど…」
「はあ!?」
「つまり、その…デキ婚。来年早々には俺もついに”ダディ”ってわけよ」
「そうなんだ、おめでとうライアン!」
「ありがと。メグだけだよ、そんな風に素直に祝福してくれるの…」
ライアンは複雑な笑みを浮かべた。
相手は同じ職場のナース、モニカらしい。彼女はヒスパニック系アメリカ人で、めぐみ
とも親しかった。ライアンの母親は保守的で敬虔なカトリック教徒。息子の相手が同じ
イタリア系の娘でないばかりか、婚前に子供を作ったことにショックを受け二人の結婚に
猛反対している。ライアンは母親の反対を予想し、モニカの妊娠が分かるとすぐこっち
での就職先を探していたらしい。

「それで、モニカは?」
「こっちが一段落してから迎えに行くつもりなんだ… と言うわけで、
これからは何かとお世話になりますので、どうぞ宜しくお願いします」
日本式に深々と頭を下げてみせた。
「もちろんよ。私たちでできることは何でも、ねえ、ケン」
めぐみの言葉に健介も大きく頷いた。
「やっぱ、持つべきものは友だなぁー。ぜんぶ話すと、なんか腹へっちゃた」
「あ、今すぐ何か作るね」
めぐみはいそいそとキッチンの中に入った。


「メグ、まだ記憶戻らないのか?」
「うむ…」
「けど、体調も良さそうだし幸せそうで安心したよ。あっちの方もうまく
いってるんだろ?」
「……」
「おいおい、まさか、いまだに清く美しい関係なんてことはない、よな?」
「え、うん、まあな…」
健介は言葉を濁した。

二人はまだ結ばれていない。
若い男と女が二か月も同じ屋根の下に暮らしながらそういう関係にならないのは
不自然かもしれないが、めぐみの身体のことを気遣い健介は自制している。
抱きたいという欲望、衝動がないと言えば嘘になるが、肉体関係ありきの恋愛では
なく、今は彼女が傍に居てくれるだけで十分に満たされている。


******************************



「へぇー、結構いいところに住んでるじゃないの。煩わしい日本を脱出して
独身貴族を謳歌してるってとこかしら…」
嫌味たっぷりに言いいながら部屋中を見回した。
「勇樹、どうしてる?」
「母親のことはどうでもよくても、やっぱり血を分けた息子のことは気になる?
元気にしてるわよ。『親は無くとも子は育つ』あれってほんとね」
杏子はバージニアスリムを銜え火をつけた。

「私、暫くこっちにいようと思うの。マタ二ティー休暇もたっぷり残ってるし。
ここにおいてもらってもいいでしょ?」
スーツケースの異様な大きさが気になってはいたが、相変わらず地球は自分中心に
回っているような、相手の都合も気持ちも無視した杏子の言動に耕平はうんざりした。
「このコンドには日本人の知り合いも多いようだし… あの三沢君が
まさか、ブロンドの奥さんもらうなんてねぇ…」
反応を探るように耕平の顔を伺った。
なぜ杏子がここに来たかすぐに察しがついた。ネット上に流れたクインシーマーケット
で三沢一家と撮った写真の中の亜希に気づいたにちがいない。

「お荷物になった愛人を捨てて元妻とボストンくんだりまで逃避行ってわけ?」
「誤解だよ! 彼女は今ある男性と幸せに暮らしてる。頼むから亜希には
近づかないでくれ、そっとしておいてやって欲しい。実は……。」
耕平はこれまでのいきさつを説明した。

「そんな小説や映画の中のような話、信じろって言うの? 二人して
私を騙そうとしてるんじゃないの!?」
「君が信じようが信じまいが事実は事実だ。三沢には俺のことを何んと
言ってもかまわない。けど、頼む、亜希のことだけは黙っていてくれ。
その条件を呑んでくれるなら、好きなだけここに居てもいいから」
杏子は返事を焦らすように二本目の煙草に火をつけた。

「分かった、彼女の正体はバラさないわ。でも、現実にそんな事があるんだ…
なんだかちょっと面白くなってきたわ」
意味あり気な含み笑いを洩らした。
「もしまた彼女を傷つけるような真似をしたら、俺、今度は絶対に
許さないからな!」
興味本位の杏子の態度に不快さを露わにした耕平は、彼女の暴走に釘を刺すように
声を荒げた。その真剣さにさすがの杏子も一瞬たじろいだ。


亜希に対する耕平の愛の中には杏子が邪推するような男女間の生臭い感情はもはや存在しない。
むしろ、年の離れた妹を心配する兄、愛娘の幸福を願う父親の心情に近いものがある。
有賀健介は真剣に亜希のことを愛している。彼となら今度こそ幸せになれるだろう。
願わくば彼女が記憶を取り戻すことなく彼と結婚し、このまま『めぐみ』として生きて行って
ほしい。それが今の耕平の偽らざる気持ちだった。

07.過去との遭遇(3)

ライアンはモニカを連れボストンに戻って来た。
二人の結婚、ベビー誕生、それと四人の再会を祝し郊外にあるシーフードレストランで
食事をすることになった。

「モニカ、シートベルトきつ過ぎないか? ケン、安全運転でたのむぞ」
「イエス、サー!」
お腹の目立ってきた妻をいたわり甲斐甲斐しく世話を焼くライアンの様子がめぐみの目に
微笑ましく映った。
三十分ほどでレストランに着くと店の前は長蛇の列ができていた。
ここは日本でいう、いわゆる”行列のできる店”で、予約を入れておいたはずなのに何かの
ミスで名前が入っていなかった。これからだと一時間待ちになるが、他の二組との相席なら
すぐにテーブルを用意できるという。相手方がかまわないなら、せっかくここまで来たの
だからということになり、相席することにした。


「あれ、君たちだったのか」
相席のカップルは三沢夫婦、高村と連れの女性だった。
「どんな連中と相席になるか正直ひやひやもんだったけど、よかったよ」
三沢はライアンたちに気づくと自己紹介をはじめた。
「高村のガールフレンドの杏子さん。実は彼女も俺たちと同じ高校の同窓生
なんだ」
先週トリ二ティー・チャーチで高村と一緒にいた女性だった。
「ワシントンで同じ病院にいた親友のライアンと奥さんのモニカです。
今度MCHに勤務することになり、下の階に引っ越してきたばかりなんです」
「そうなの… そばに、しょうにか、ないか、げかのおいしゃさんがそろって
とっても、こころづよいわ」
キャロラインは嬉しそうに微笑んだ。

一通りの自己紹介が済むとタイミングよくテーブルの用意ができ、案内役のホステスに
促されそれぞれ席に着いた。長テーブルに三沢夫婦と高村たちが向かい合って座り、
その横に健介とめぐみ、ライアンとモニカが向かい合う形になった。
ほどなくウェイターが飲み物のオーダーを取りにきた。男性陣はそれぞれ好みのビール、
キャロラインと杏子はワイン、妊娠中のモニカはオレンジジュースを注文した。

「じゃ、私も同じものを」
「あら、もしかして、めぐみさんもおめでた?」
斜め向かいに座る杏子が間髪を入れずに言った。
ATGの治療以来アルコールを一滴もくちにしていないめぐみは困惑したように
『いいえ』と小さく首を横に振った。
彼女の表情が一瞬、曇ったのを二人の男は見逃さなかった。

「失礼だよ!」
高村は強い口調で杏子の無神経な発言を制した。
「あ、僕たちは当分の間二人だけの時間を楽しみたいので、子供はしばらく
お預け。なっ、メグ」
健介はそう言うと、めぐみの肩に腕を回し抱き寄せるような格好をした。
「いいなあ、若い二人はアツアツで。俺たちも負けてらんない、なっ、キャロ」
三沢も真似るように妻を抱き寄せた。


飲み物が運ばれ乾杯した後は、自然と二組のカップルに別れそれぞれの話題で盛り上がった。
だが、めぐみは時おり送られてくる高村の連れからの鋭い視線を感じていた。



****************************************



レストランを出たのは九時を廻っていた。
部屋に戻るとどっと疲れを感じた。めぐみは今夜自分がとても惨めな存在に思えた。
子供の誕生を喜び幸福そうなライアンとモニカの姿を目の当たりにした所為かもしれない。
健介の愛に応えられないでいるばかりか、気遣ってくれる彼の優しささえも苦痛に感じて
しまう自分が情けなかった。杏子の鋭い視線はそんなめぐみの心に刃物のように突き刺さった。


「なんか疲れたね。大丈夫?」
「ええ、でも楽しかった。ライアンたち、とっても幸せそうだったし…」
めぐみはリビングのカーテンを少し開け、窓に凭れかかるようにダウンタウンの夜景に目を
やった。
「…ライアン、きっといいパパになるでしょうね」
「ああ、超親バカになるよアイツは」
親友の父親ぶりが目に浮かぶようで健介は可笑しくなった。

「ケンは子供、嫌い?」
「えっ?」
「ATGの副作用って、どのくらい続くの? ずっと生理も戻ってこないし
私って、女としてもうダメなの?」
振り向いためぐみの瞳が潤んでいる。
「何バカなこと言ってるの、そんなわけないだろ」
健介は笑みを浮かべめぐみの躰を引き寄せようとした。が、彼女は力いっぱいそれを払いのけた。


「だったらなぜ、私を…(抱いてはくれないの?)」
喉まで出かかった言葉を呑みこんだ。
「ごめんなさい、変なこと言って。先に寝るね、おやすみなさい」
口にしてしまったことを後悔するように健介とは目を合わさず一人寝室に引き上げた。



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「メグ、これから祝杯だ!」
ドアを開けると、右手にシャンペン左手に花束を抱えた健介が立っていた。
「いったい、どうしたの?」
「もう、薬とも注射ともお別れだよ。今日からはアルコールも解禁!」
健介はシャンペンを勢いよく開けると二つのグラスに注ぎ、一つをめぐみに渡した。
「ほんとに、もう大丈夫なの?」
「ああ、名医が言うんだから間違いないさ」
最新の検査結果が出て血液細胞の数値が正常に戻ったことが分かった。

「乾杯! ほんと良くがんぱったな」
「ありがと、名医のおかけです」
「どう、半年間の禁酒のあとのシャンペンの味は?」
「とっても、美味!」
「けど、今夜はハーフグラスだけだぞ。いきなりだと身体がびっくり
するからな」
「イエス、サー!」
めぐみはお道化て敬礼する真似をした。

「メグ…」
「ん?」
「…いつか、聞いたよな『めぐみ』は昔の恋人の名前か、って…」
「ええ」
笑顔が消え健介の表情が少し強張った。

「俺を産んでくれたおふくろの名前、らしい…」
母親が唯一身に着けていたペンダントの裏に『Megumi』と彫られてあったこと。
養父母の自殺、養護施設で育ったこと、非行に走ったことなど自分の暗い生い立ちを
語りはじめた……。

「けど、今の俺にとって『めぐみ』は死んだ母親の名前なんかじゃない。
めぐみは、この世の中で何よりも大切で誰よりも愛している女の名前だ」
愛おしむようにめぐみの手を握りしめた。

「抱いてケン、おねがい、あなたに愛されたい…」
健介の手を自分の乳房に押し当てた。
透き通るような白い肌は上気し、ほんのりと桜色に染まってゆく・・・

健介は躊躇うことなくめぐみの躰を抱き寄せ唇を重ね合わせた。

08.ケープ・コッドの紅葉

十月になるとアメリカ北東部の紅葉がはじまる。
その美しさとスケールの大きさで有名な『ニューイングランド地方の紅葉』は
マサチューセッツ、バーモント、ニューハンプシャーなど各州を北上し十一月
中旬あたりまで楽しむことができる。


「今度の週末、小旅行することにしたよ」
十月の第二月曜日はコロンブスデーの祝日で三連休になる。
「どこへ?」
「近場だけどケープまで。実は、もういい宿をとってあるんだ」
「ほんとに? ケープ・コッド、一度行ってみたかったの」
めぐみは声を弾ませた。
Cape(ケープ)Cod(コッド)は、ボストン市内から車で一時間、大西洋に突き出た釣り針状の半島である。
白い砂浜、美しい海岸線などボスト二アンたちの避暑地として人気のスポットで、
夏休みには宿泊・日帰りの海水浴を楽しむ大勢の家族連れや若者たちで賑わう。



「うわぁ、きれい!」
橋の下を流れる水の青さと鮮やかに紅葉した木々の美しいコントラストに、めぐみは
少女のような歓声を上げた。
運河に掛るこのサガモア・ブリッジを渡るとケープ・コッドに入る。夏の週末はこの橋の
あたりからひどい渋滞になるが、今の時期は連休初日とはいえ車もスムーズに流れている。
市内に入るとニューイングランド地方特有の美しい白い家並みが続く。古い町並みを保存
するための建築規制があり、銀行や郵便局、商店などの建物もしっくりと街の風景に溶け
込んでいる。


「ここだよ」 
健介はコロニアルスタイルの大きな一軒家の前で車を停めた。
『リズの家』と書かれた小さな看板に気づかなければ普通の民家と見間違えるような
宿だった。

「ようこそ、リズの家へ!」
上品な初老の婦人が笑顔で二人を迎えてくれた。
この宿のオーナー、エリザベス・バーミンガハムは夫の死後、住まいだったこの豪邸を
あまり手を加えずほとんど原型のままの状態で民宿(ベッド・アンド・ブレックファースト)
にした。一日三組限定の宿は家庭的な雰囲気と彼女の人柄で人気がある。
病院の同僚からこの宿のことを聞いた健介はぜひ一度めぐみと訪れてみたくなった。

「凄いわねぇ」
邸内を案内されためぐみは健介の耳元で囁いた。
玄関のドアを開けるとすぐ、シッティングルームと呼ばれる家の客人を招き入れるための
小さな部屋がある。今はそこにデスクが置かれ宿のゲストを迎えるためのレセプッションと
して使われている。
二階にはそれぞれバスルーム付きのゲストルームと、ゲストが自由にのんびりと読書や
お茶を楽しめるようにと、ライブラリー兼ファミリールームがある。
一階には大きなリビングルームとダイニングルームがあり、窓の外には青々とした芝生と
イングリッシュガーデンが広がっている。所々に白いベンチや椅子、テーブルが設置され
屋外でも朝食やアフタヌーンティーをゆったりと楽しむことができる。

「どう、気に入ってもらえたかしら?」
「ええ、もちろん。とっても素敵なお(うち)ですね」
お世辞ではなくめぐみは心からそう思った。
「親戚の家にでも遊びに来たつもりで、のんびりとくつろいで下さいな」
「ありがとう、そうさせていただきます」
英国生まれのリズのクィ―ズ・イングリッシュのアクセントが、アメリカ英語に慣らされた
耳に心地良く響いた。健介もこの宿を選んで良かったと思った。


二人は夕食までの時間を利用して周辺を散策した。
リズの家から歩いて二十分程のところにケープ・コッドの青い海が広がる。
ついこの間まで大勢の海水浴客で賑わっていたことが嘘のように、どこまでも続く白い砂浜は
人の姿も(まば)らで秋の浜辺はひっそりと静まりかえっている。

「きれいだなあー。小さい頃よく湘南の海に行ったな…」
水平線の向こうに沈んでゆく夕日を見ながら健介は独り言のように呟いた。
「秋の海もすてきね」
めぐみもうっとりと静かな海をみつめている。

真夏の喧騒と冬の極寒の中間にある秋の海の静寂は、なぜか人の心を癒してくれる。
肩を寄せ合い砂浜に座る二人は無言で穏やかな海原をじっと眺めていた。


****************************************



夕食後、二人は広いリビングで他のゲストたちとの会話を楽しんだ。
初老のカップルはここの常連で、毎年紅葉の季節になるとケープ・コッドを訪れ『リズの家』
で週末を過ごしているという。


「秋のケープは最高だね。夏は人が多すぎて、どうも遺憾」
「でも、夏は若者が多くて活気があって、それはそれでいいものよ」
「リタ、おまえさんはなんでいつもわしの言うことに逆らうのかね…」
夫のジャックは妻の顔をじろりと睨んだ。

「まあまあ、二人とも相変わらずね。メグとケンはこうなっちゃダメよ」
リズがホームメイドのデザートと淹れたてのコーヒーをワゴンに乗せ運んできた。
「おっ、待ってました。リズ特製のピーカンパイのお出ましだ!」
「そうそう、これを食べなきゃ、秋になった気がしないわ」
「あら、やっと二人の意見があったわね。このパイを”夫婦円満のパイ”
とでも名付けましょうかね。さあさあ、あなたたちお二人もコーヒーが
冷めないうちに召し上がれ」
「いただきます」
長年連れ添った熟年夫婦の微笑ましい光景を見ながら、二人は食後のひと時を楽しんだ。


「ところでリズ、あの曲を弾きこなせるゲストは未だに現れないのかね?」
ジャックは二切れ目のパイを口に運びながら窓際のピアノに目をやった。
「いいえ、まだ誰も。難しすぎるのね、きっと…」
リズは悲し気な表情を見せた。

「このピアノはどなたが弾かれるのですか?」
昼間はじめてリビングルームに案内された時から、めぐみはこのグランドピアノのことが
気になっていた。
「ここにあるピアノは、この家のゲストのための物なのよ……」
リズに代わってリタがピアノの由来を話してくれた。

ピアノは二十年前に事故で亡くなったリズの娘が愛用していたものらしい。
彼女は当時、ボストンにあるクラシックの名門ニューイングランド音楽アカデミーで
ピアノを専攻していた。才能に恵まれ将来を期待されていたが、突然二十二歳の若さで
この世を去った。リズは民宿を始めた当初から娘の形見のピアノをゲストに解放している。
いつの日か、彼女がいつも弾いていた『あの曲』を演奏してくれるゲストが現れることを
願いながら。だが、十年経ってもこのピアノからその曲が流れることはなかった。


「いったい、どんな曲なんですか?」
クラシックのことは良く分からないが、健介はその曲に興味が沸いた。
「これなのよ」
リズから手渡された楽譜はおたまじゃくしが(うごめ)いている様で彼にはちんぷん
かんぷんだった。

「ラ・カンパネラ…」
楽譜を手に取っためぐみがぽつりと呟いた。
「メグ、まさか知ってるの?」
「ええ、『ラ・カンパネラ』イタリア語で鐘という意味で、元々は
パガニーニがバイオリン用に作った曲なんだけど、それをリストが
ピアノ独奏用に編曲したものなの」
めぐみの詳しい説明に健介をはじめ一同は驚きの表情を見せた。
「弾けるの?」
「たぶん…」
トリニティー・チャーチでパイプオルガンの演奏を聴いていると、自然に指が動く不思議な
体験を何度がしていた。
「メグ、ぜひ弾いてみてくれない?」
リズは瞳を輝かせた。

めぐみはピアノの前に座ると、呼吸を整えるように小さな深呼吸を一つした。
白魚のような綺麗な指が鍵盤の上を軽やかに舞いはじめると、ピアノはまるで本物の鐘の
ような音色を醸しだした。めぐみはほとんど楽譜を見ずに目を瞑ったままピアノを弾いている。
感極まったようにリズの目からはらはらと涙が零れ落ちた。
五分間の演奏が終わった後も皆は余韻を味わうようにじっとしたまま、部屋の中はしーんと静まり
かえっていた。


「ブラボー!」
いつの間にかリビングルームに入って来た中年の男が、その沈黙を破るように大きな歓声を上げ
めぐみに拍手を送った。
「アレックス、あなたも聴いたでしょ! まるでアイリーンが戻って
きたようでわ」
リズが興奮冷めやらぬ様子で男に話しかけると、彼も大きく頷いた。

「お嬢さん、君は素晴らしいピアニストだ。この曲をここまで弾きこなせる
なんて、いったいどこでピアノを?」
「……」
「日本で、彼女は日本でピアノを習っていました」
咄嗟に言葉の出てこないめぐみに代わって健介が応えた。

クラシックの趣味のない健介でさえ、今目の前で聴いためぐみのピアノに身体が震えるような
感動を覚えた。


________________________________


アレックス・ジョンソンはリズの娘、アイリーンの婚約者だった。
二人はニューイングランド音楽アカデミーで出逢い恋に落ちた。アレックスは才能ある
バイオリニストで、一時はボストン・シンフォニーのコンサートマスターまで務めたことも
ある。今は現役を退き子供たちにバイオリンを教えたり、ボランティアで演奏活動をして
いる。フィアンセの死後もずっと独身をとおし、今でも週末にはバイオリンを抱えボストン
近郊の自宅からリズの家へやって来る。

アレックスはケースの中からバイオリンを取り出した。
彼のストラディバリウスから情感豊かな美しい音色が流れはじめた。その感傷的な旋律は
心に深く沁み入り、めぐみの頬に涙が伝わる・・・
曲が一変し躍動感溢れる明るく軽やかなメロディーになると、アレックスが「さあ」と言う
ようにめぐみを促した。彼女はピアノに向かいアレックスに合わせて再び鍵盤を弾き始めた。


「ありがとう、お嬢さん」
演奏が終わるとアレックスはめぐみに握手を求め、その手にそっとキスをした。
彼の青い瞳が潤んでいる。

「素敵な演奏だったわ。すっかり感動しちゃった、ねえ、あなた?」
「ああ、素晴らしかったよ。何んという曲なのかね?」
ジャックは答えを求めるようにめぐみの顔を伺った。

「クライスラーがバイオリンとピアノのために作曲した『愛の悲しみ』と『愛の喜び』と
いう二曲です。コンサートのアンコールなどで、よく対になって演奏されます」
めぐみの説明にアレックスはにっこりと頷いている。

「ところで、メグはどっちが好き?」
「私は”喜び”のほうが好き」
健介の問いかけにめぐみは迷うことなく即答した。
「そう言えば、アイリーンもそうだったな…」
アレックスは想いを馳せるように宙を仰いだ。

めぐみはふと、遠い昔、今夜のように誰かとこの曲を演奏したような気がした。

09.過去からの訪問者(1)

土曜の夜、耕平と杏子は三沢からダウンタウンにある日本食レストランに誘われた。
妻が同窓会に出席するため息子を連れペンシルべニアの実家に里帰りした留守に、彼女の苦手な
寿司を食べたいらしい。


「三沢君、金髪の奥さんには頭が上がらないのかしら…
やっぱり、国際結婚は日本男子には不利なようね」
杏子はさっきから鏡に向かい念入りに化粧をしている。
「亜希のことは絶対、口にするなよ」
「分かってるわよ。でも、記憶喪失ってほんとにあるのね。
私たちのことまるで覚えていないなんて… 例の御曹司のことも
忘れちゃったのかしら? 今度の男も超美形の内科医だし、彼女も
やるわね。なんで男は、ああいうタイプの女に弱いんだろ…」
相変わらずの亜希に対する悪意と敵意に満ちた杏子の言葉に、耕平は不快な気分になった。
「早くしないと、約束の時間に遅れるぞ」
三沢とは下のロビーで待ち合わせていた。
「もうすぐ終わるわよ。綺麗にしてないと、いつどこで青い瞳の
大富豪との出逢いがあるかもしれないでしょ」
「先に下りてるから」
呆れたように耕平は一人で部屋を出た。



ハーバー近くにあるその店は外人客と日本人客の半々くらいで賑わっていた。
日本食レストランも生存競争が激しく、新しい店ができたと思えばすぐに消えて行く。
この店は老舗の部類に入り、ネタの新鮮さには定評がある。経営者も従業員も皆日本人で
あることも最近では珍しい。

「やっぱ、寿司は旨いっ!」
「お寿司も食べさせてもらえないなーんて、三沢君、超かわいそー!
なんで大和撫子と結婚しなかったのよ?」
「よーく言うよ、高三の時にこの俺をふったのはどこの誰でしたかねえー」
久しぶりの寿司に舌鼓を打つ三沢は上機嫌で酒のピッチも速い。杏子もつられてさっき
から何本も銚子を空けている。

「それにしても、杏子と高村がそんな関係とはな…」
「そんなに驚かないでよ… もっとすごーいこと、教えてあげましょうか?」
「なに?なに?」
「おい、二人ともピッチが速すぎるぞ」
杏子をけん制するように耕平は口を挟んだ。

「聞きたい? 実はねえ、私たち、子供までいるの」
「え、マジで?」
三沢が顔を伺うと耕平は黙って頷いた。
「じゃ、なんで結婚しないんだよ?」
「この人、前の奥さんのことが、どーしても忘れられないんですって」
耕平は一瞬、ぎくりとした。

「優しくて美人で可愛かったもんな、陽子さん…」
「ねえ、おたくの隣人のめぐみさんっていう人、どことなく陽子に似てない?」
杏子は耕平に視線を向けた。
「ああ、そう言われてみると、確かになんとなく感じが似てるな…
細面の美人で、おとなしくて控えめで、清楚で、可憐で…」
「ストップ! もういいわよ。三沢君もやっぱりああいうのが好みなの?
虫も殺さないような顔してるくせに、ほんとは凄いのよああいうタイプ。
ベッドの中では娼婦に豹変して、男を次々と変えてゆく…」
「それって、男の理想じゃん。なっ、高村?」
「悪いけど俺、先に帰るよ。なんだか頭痛がしてきた」

耕平は堪り兼ねたように席を立った。



____________________________



週末のベイエリアは賑わいを見せていた。
観光客の中には日本人旅行者らしき姿もちらほらと見られる。このまま自宅に戻る気になれず、
ベンチに腰掛け停泊する船の灯りをぼんやりと眺めていた。
耕平の心は重く沈んでいる。ボストンに来たことを後悔し始めていた。
亜希の無事な姿を確認し安堵したのもつかの間、今度は杏子という爆弾が彼の心を煩わせている。
今夜の様子からして、爆弾が炸裂し再び亜希の幸福を破壊するのも時間の問題かもしれない。
繊細なガラス細工の中にあるような彼女の幸せを耕平はどうしても守ってやりたかった。


「まあ、きれい!」
背後で若い女の声がした。
振り向くと日本人カップルが通り過ぎて行った。
その男の後ろ姿が一瞬、耕平の眼を捉えた。



****************************************


ケープ・コッドから戻って暫くしてアレックスから健介のPCにメールが届いた。
彼と『リズの家』でアドレスの交換をしていたことをすっかり忘れていた。
アレックスはめぐみの才能を高く評価しているようで、自分の主催するクリスマスのミニ
コンサートにぜひ参加してほしいという旨の内容だった。
健介も正直、めぐみのピアノには驚かされた。素人目にも習い事の域を超え、本格的に
やっていたことは一目瞭然である。ピアノに向かうめぐみは生き生きとしていた。
封印されたままの彼女の過去を垣間見たようで、健介は複雑な思いがした。


「メグ、アレックスが君にぜひ彼の演奏会に参加してほしいそうだよ」
「まさか? 嘘でしょ!?」
めぐみは信じられないと言うように驚いている。
「リズに聞いたんだけど、彼って凄い人なのよ。ボス響でコンマスまでに
なったそうなの。彼のストラド見たでしょ、あれは最高級品。ポルシェの
二台くらいは軽く、」
「ちょ、ちょっと待った! そのコンマスとかストラドってなに?」
少女のように瞳を輝かせ興奮気味に飛び出すめぐみの音楽用語が、健介にはさっぱり
分からなかった。

「あ、ごめんなさい。私ったらすっかり舞い上がちゃって…」
めぐみはぺろりと舌を出した。
「…コンマス、つまりコンサートマスターは、オーケストラの中での
バイオリンの第一演奏者のことを言うの。ストラド、ストラディバリウスは
数千万円もするバイオリンの名器。要するにアレックスは半端じゃない
バイオリニストだ、ってことを言いたかったの」
「へえ、全然そんな風には見えなかったけどな… けど、その凄い人が
君の才能を認めたわけだから、俺のカノジョも、超すごいじゃん!」
健介はお道化てみせた。

「やってみれば、メグ?」
「でも…」
「ピアノのことだったら、毎週水曜ならニューイングランド音楽アカデミーのを
自由に使っていいそうだよ」
「ほんとに!?」
彼女の顔が一瞬、ぱあっと輝いた。


結局めぐみはアレックスの申し入れを受け、十二月の演奏会に向けて来月から本格的に
レッスンを開始することにした。

10.過去からの訪問者(2)

「あなたは、ピアノもおやりになるの?」
リズは窓際のピアノをじっとみつめる男に声をかけた。
アレックスの知り合いだというその若い日本人は、妻とヨーロッパへ向かう途中
ニューイングランドの紅葉を観賞するためここに立ち寄った。


「いえ、僕はバイオリンだけで精いっぱいです」
「じゃ、アレックスと同じでね。奥さまは?」
「子供の頃に少しだけ…」
男の妻ははにかむように応えた。

「そう、よろしければ自由に弾いてくださいな。自分では弾けないくせに
私、ピアノが大好きなの。この間もあなた方のような若いカップルがここに
いらしてね。彼女のほうが、アレックスも感心するほどのピアニストで、
二人でちょっとしたミニコンサートを開いてくれたのよ」
リズは嬉しそうに微笑んだ。

「そう言えばアレックス、才能あるピアニストが今度の演奏会に参加して
くれることになったと、ずいぶん喜んでいました。もしかしたら、その人の
ことかな?」
「ええ、たぶん彼女に間違えないわ。あの曲をあんなに素晴らしく弾けるの
ですもの」
「どんな曲なんですか?」
リズの持ってきた楽譜を手にした男の顔色が変わった。

「こんな難しい曲を楽譜を全く見ないで弾いたのよ。まるで、本物の鐘の音の
ようだったわ…」
あの夜のことを思い出したようにリズはうっとりした表情を浮かべる。

「どんな、人ですか?」
「あなたの奥さまのように、とてもチャーミングな日本人女性よ。
あっ、そうそう、確かあの夜皆で撮った写真があったはず…」

リズから写真を受け取った男は食い入るようにじっとみつめたまま、
金縛りにでもあったようにその場を動こうとはしなかった。


「どうなさったの、崇之さん?」
男の妻は心配そうに夫の顔を覗き込んだ。


*************************************


「高村先生、実はまた一名お願いしたいんですが…」
耕平は前任の医師から引き続き、旅行代理店からの依頼で急病や怪我をした日本人旅行者を
診ている。ボストンを訪れる日本人の数が年々増加し、先月もツアー客の一人が足を骨折し
運ばれて来た。今回は新婚旅行中に風邪をこじらせたに二十代の若い女性だった。


「ホテルの部屋でゆっくり休養すれば大丈夫ですよ。明日の出発にも
支障はないでしょう」
「ありがとうございました。あの、主人が、先生にご挨拶したいと
外で待っているのですが…」
女は主人と言う言葉を少し恥じらうように口にした。
初々しい若妻ぶりが耕平には微笑ましかった。
「それは、ご丁寧に。じゃ、入ってもらって下さい」
女はいそいそと夫を呼びに行った。

「失礼します」
「あっ…」
耕平は思わず声を上げた。
「高村先生、その節は父が大変お世話になりました」
事前に耕平のことを聞いていたようで木戸は平然と挨拶した。
「麗子、君は先に行っててくれないか。父のことでちょっと先生に
お話があるから」
新妻は少し怪訝そうな顔をしたが、夫の指示に従って部屋の外に出て行った。

「先生!彼女は、亜希は無事だったのですね!?」
さっきまでの冷静さを失い興奮気味に言った。
「どうしてそれを? 彼女に会ったのですか?」
「いえ、……。」
木戸はケープ・コッドの『リズの家』でのことを話した。

「木戸さん、亜希のことでぜひ君に話しておかなければならないことが
あります。ここではなんですから、あとでホテルのロビーででもお会い
できませんか?」
「わかりました」

二人は木戸の滞在先のホテルで会うことにした。



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『リズの家』で亜希の写真を見て以来、崇之は心の動揺を抑えることができないでいる。
アレックスと連絡が取れず出発を明日に控え、彼女の消息を確かめる術がないと諦めて
いた矢先、高村がこっちの病院にいることを知った。


「すみません、待たせてしまって。急患が入ったもので」
「こちらのほうこそ、お忙しいところを恐縮です」
約束の時間に遅れ急いで駆けつけたのだろう、高村の息は少し上がっている。

「奥さんはいかがですか?」
「薬が効いているようでずっと眠っています」
「そう、それは良かった」
「先生は亜希にあったのですね!?」
崇之は一刻も早く本題に入りたかった。

「ええ… 実は、彼女は今めぐみという名で、ある男性と幸せに暮らしています」
「めぐみ?? どういうことですか?」
「記憶喪失って、ご存知ですよね……。」


「まさか、そんなことが!?」
崇之は絶句した。
亜希の記憶の中から自分たち二人の存在は完全に消失してしまっていると、高村は
説明した。彼の言葉がにわかには信じられなかった。

「木戸さん、君も結婚して新しい人生が始まったばかりですよね。
亜希も、めぐみとして有賀健介という青年医師と出逢い、新たな人生を
歩もうとしています。君も僕も、かつて彼女を愛し愛された男として
亜希の幸せをこのままそっと見守ってやるべきだとは思いませんか?」
前妻に対する深い愛情が滲み出ている言葉だった。

「彼女は今、ほんとうに幸せなんですか?」
「彼はとても良い青年です。亜希のことを心から愛しています。
彼となら今度こそきっと幸せになれると思う、いや、ならなくちゃいけない。
そうでしょ?」
「……」


高村の言う通り、亜希のことを信じてやれず幸福にできなかった二人の男は
過去の遺物として彼女の前から黙って消え去るべきかもしれない・・・
そうしなければならないと、崇之は自らに言い聞かせた。

11.過去からの訪問者(3)

部屋に戻るとアレックス・ジョンソンからメッセージが入っていた。
明日時間が許せばぜひ会いたいという。崇之も彼に会えないままボストンを発つのは心残りだった。
アレックスとは数年前ヨーロッパで知り合い、以来ずっと交流が続いている。ロンドンへは明日の
夕刻便で出発する予定なので、ニューイングランド音楽アカデミー近くのカフェで昼食を伴にする
ことにした。


「よう、タカユキ、暫くだったね」
「アレックス元気そうじゃないか」
「あっ、そうそう、結婚おめでとう! あれ、新妻は一緒じゃないのかい?」
「うむ、ちょっと風邪をこじらせてしまって」
「そうか、それは残念だな」
アメリカ人にしてはどちらかと言えば寡黙で物静かな彼が今日はやけに饒舌で表情も明るい。

「アレックス、なにか嬉しそうだね。いい事でもあった?」
「わかるかい?」
青い瞳を輝かせた。
「今ね、なんか凄い宝石の原石を発見したような気分なんだ」
クリスマスコンサートに参加する、例のピアニストのことを言っているのだとすぐに分かった。
それがリズの言うように、本当に亜希のことなのかどうか確かめてみたかった。

「それって、まさか『リズの家』で偶然出会ったとかいう日本人のこと?」
「実はそうなんだ。ジムも一目で気に入ってね。来月の演奏会に向け、
直々にレッスンをつけてくれてるんだ」
ジェームズ・スタインベックはすでに現役を退いてはいるが、アレックスと同世代の有名な
ピアニストだった。今は週三回、音楽アカデミーで教えている。その指導力と厳しさには
定評があり、逃げ出す学生も少なくないという。

「もうすぐ彼女、レッスンに現れる時間だ。どうだ、君も一緒に来ないか?」
アレックスは腕時計を見ながら言った。
 

やはり亜希のことだった。
昨日、高村が言ったように彼女のことはこのままそっとして、もう二度と逢わないつもりでいた。
だが、アレックスの言葉に崇之の胸は高鳴り心が揺らいでいる。この目で彼女の無事な姿を
確認したい、最後にもう一度だけ彼女のピアノが聴きたい・・・
崇之はアレックスと伴に音楽アカデミーに向かった。


**************************************


ピアノの背後にある椅子に座るスタインベックは、腕組みをし目を閉じたまま演奏にじっと
聴き入っている。ショパンのエチュードの中でも最も難易度の高いとされる曲だ。


「どうだ、ジム?」
アレックスが近づき小声で囁いた。
スタインベックは長年来の親友に黙ったまま頷き親指を大きく掲げてみせた。

崇之は胸の動悸が激しくなるのを感じた。目の前にいるのはまぎれもなく亜希である。
彼女のピアノは音大時代の、聴く者の心に迫ってくるようなダイナミックさを取り戻していた。
同時に粗削りな部分がすっかり消え、その分繊細さが加わり洗練された優美な音色を醸し出している。
スタインベックのような指導者を得て、眠っていた才能が一気に開花してのかもしれない。

「オーケイ、メグ。今日はここまでにしよう。最後にテンポが速くなるのを
注意すれば、あとは完璧だ。グッジョブ!」
「ありがとう、ジム」
「じゃ、また来週」
次のクラスがあるのか、アレックスと崇之に黙礼するとスタインベックは慌ただしく部屋を
出て行った。
振り向いためぐみはアレックスに気づくと、にっこりと軽く手を上げた。
額に汗を滲ませ上気した白い肌がうっすらと桜色に染まっている。
彼女の生き生きとした表情は眩しいくらいに輝いていた。


「メグ、紹介するよ、友人のタカユキ。彼もバイオリンをやってるんだ」
「とても素晴らしい演奏でしたよ」
「え? あっ、ありがとうございます」
突然の賛辞に驚いたのか、めぐみは照れくさそうに礼を言った。

高村の話を半信半疑で聞いていたが、亜希がまったく自分のことを覚えていない様子に大きな
衝撃を受けた。彼女の記憶の中から例え高村が消えたとしても、自分のことは残っているかも
しれない。そんな淡い期待が心の片隅にあった。
長野の別荘で過ごしたあの豊潤な時間も、初めて結ばれた古都の冬景色も、葉山の家で愛を
確かめ合った日々も… 崇之が忘れようとしても決して忘れることのできない二人の想い出は、
亜希の記憶の中からすべて消し去られてしまったのか・・・


「どうした、タカユキ? まさか新婚ボケじゃないだろうな!」
茫然としている崇之を冷やかすアレックスの言葉に、はっと我に返った。
「新婚さん、なんですか?」
「ああ、ホヤホヤのね。ハネムーンの真っ最中で、明日はヨーロッパにお発ち、なっ?」
崇之は何も言えず笑顔で返した。
「わぁ、羨ましい! ヨーロッパか、一度でいいから行ってみたいなぁ~」
夢見る少女のような表情を浮かべ、めぐみは宙を仰いだ。
崇之は込み上げてくる感情を押し戻した。本来なら二人は今頃パリで暮らしているはずだった。

「メグだってクリスマスコンサートの後は、ポップスやボス響から
じゃんじゃんお呼びがかかって、来年の今頃はヨーロッパツアーに
参加しているかもしれないぞ」
「イヤーだ、アレックスったら。そんなわけないでしょ!」
めぐみはアレックスの肩をぽーんと叩いた。

「ヨーロッパから直接日本に帰国するのかい?」
「うむ」
「残念だな、君にもぜひ来月のコンサートに来てほしかったな」
「僕もとても残念だ…」
ステージの上でスポットライトを浴び演奏する亜希の姿が目に浮かぶ。

「めぐみさん、一曲リクエストしてもいいですか?」
「……」
「あなたが弾く『さすらい人』をぜひ聴いてみたいんです。
お願いできますか?」
「…ええ、私でよければ」
突然の申し入れに最初は戸惑ったようだが、めぐみは快く承知した。
「さすらい人か… 彼女も好きだったな…」
アレックスは独り言のように呟いた。


シューベルトの幻想曲、第二楽章の瞑想的な旋律が静かに流れる・・・
ピアノに向かうめぐみの後ろ姿に、二人のバイオリニストはそれぞれに最愛の恋人の
面影を追っていた。

12.感謝祭

毎年十一月の第四木曜日は、アメリカ人にとってクリスマスに次ぐ大きな祝日、感謝祭である。
前日の水曜日から日曜日にかけて家族のもとへと急ぐ人と車で陸も空も大渋滞となる。
ちょうど日本の帰省ラッシュと同じように民族大移動が始まるのである。北東部はすでに本格的な
冬を迎えており、大雪にでも見舞われようものなら最悪の場合、四日間の休暇中に家路に着けない
こともあり得る。


「ねえ、この七面鳥(ターキー)ほんとに明日までに解凍できるの? 
まだカチカチよ」
「レシピによると、大丈夫のはずなんだけどな…」
「ライアンに聞いてみれば?」
「ダメダメ、サンクスギビングのターキーも満足に焼けないのか!って
バカにされるに決まってるよ」
母親との仲がこじれたままでバージニアの実家に帰らないと言うライアンたちの為に、今年の
感謝祭のディナーは健介とめぐみが担当することになった。

「昨日さ、カフェテリアで高村先生とばったり会ってね。
トールさんはキャロラインの実家に行くしガールフレンドは日本に帰ったとかで、
一人みたいだから招待したけど、いいよね?」
健介は初めて会った時から高村に好感を持ち先輩医師としても尊敬している。
「15ポンドのターキーだもの、あと2~3人呼んでも平気よ」
「あっ、あの例のヤツまた作ってくれないかな? あれ、ビールのアテに
最高なんだよな」
「そうね、先生もいらっしゃるなら、ちょうどいいかも」
高村はめぐみの作るチーズ入りおやきをとても喜んでくれた。


____________________________


「ようし、これであとは焼き上がりを待つばかりだ」
翌日、健介は15ポンドの七面鳥を相手に奮闘していた。
ロースト・ターキーは低温でじっくり焼き上げる。普段より早めの感謝祭の夕食に間に合わ
せるには、下処理と詰め物をして午前中にはオーブンの中に入れなければならない。
この日は昼過ぎになると各家庭のキッチンから香ばしい匂いが漂う。日本人が年末に、家々の
台所から一斉に洩れてくるおせち料理の匂いで年の瀬を感じるのと同様、アメリカ人も感謝祭や
クリスマスのロースト・ターキーの焼き上がる香りで一年の終わりを実感する。


「ハッピー・サンクスギビング!」
昼過ぎ、手作りのパンプキンパイと花束を抱えたライアンとモニカがやって来た。
「はい、これは未来の大ピアニストのために!」
ライアンは(ひざまず)いてめぐみに花束を差し出した。
「もう、またライアンったら。そんなにからかわないでよ」
「でもメグ、ほんと凄いわよ。あのスタインベックの弟子になるなんて…
来月のコンサートには絶対、行くからね!」
「それまで、もってくれればいいけどな…」
ライアンは妻のお腹に手をあてた。
予定日までまだ一か月以上もあるというのに、モニカはすでに臨月のような大きなお腹を
かかえている。

「誰かな?」
健介の携帯が鳴った。
高村からだった。今朝から風邪気味で皆に移すと悪いので今日は遠慮すると言う電話だった。
「先生一人で大丈夫かしら…」
めぐみは心配そうに言った。
「あとで食事でも運んであげよう」
「そうね」

「おお、いい匂いがしてきたぞ。どうやらターキーとの格闘は上手くいった
ようだな、ケン」
「正直、こんな大変なもんだとは思わなかったよ」
ライアンは七面鳥の丸焼きに初挑戦した健介の健闘を称えた。
「けど、グレイビーは俺にまかせろよ。なんたって、うちのおふくろの味
だけは、…」
あとの言葉を呑みこむと、いつになく沈んだ表情になった。

「大丈夫、来年は親子三人バージニアのお家でお母さんのターキーを
思いっきり味わっているわよ。天使のようなベビーの顔を見れば、
誰だって何だって許してしまうもの。エンゼルは神の使いでしょ、
敬虔なカトリック教徒のお母さんが神の意志に逆らうわけないじゃない。
ねえ、ケン?」
二人を思いやるめぐみの言葉に健介も大きく頷いた。

「ありがとうメグ、あなたの言う通りだわ。ライアン、この子の名前
アンジェラにしましょうよ」
「うん、いい名前だ。きっと天使のような子になるぞ」
ライアンにまたいつもの明るい笑顔が戻った。


*******************************


耕平はベッドの中で玉子酒を啜っていた。
その温かな液体は、朝から何も口にしていない空っぽの(はらわた)に沁み渡り寒気のする身体を
心地よく暖めてくれる。めぐみが作ってくれた玉子酒、それは静江から陽子、そして亜希へと
伝承された高村家の味だった。

杏子はビザの更新のために帰国した。
三人で寿司屋に行った夜、彼女はひどく疲れた顔をして明け方に戻って来た。三沢もあれ以来
ロビーで会っても、まともに目を合わせようとはしない。おそらくあの後どこかで二人だけの
二次会を楽しんだのだろう。そんなことはどうでも良かった。子供という接点だけで繋がって
いる杏子との冷え切った関係を耕平は持て余している。
自尊心の人一倍高い杏子は、自分の愛を受け入れない男を決して許そうとはしない。
耕平を苦しめることに生き甲斐を見い出しているとさえ思えるような彼女の言動には恐怖心
すら覚える。


気を取り直すように、めぐみの作った”おやき”を口に入れた。
記憶の中で唯一残されていた音楽が彼女を生き生きと甦らせた。
眩しいくらいに輝く彼女の笑顔を見るたびに、耕平は救われる思いがする。



____________________________


十二月に入ると、コンサートに向け追い込みのハードなレッスンが続いた。
水曜の午後に加え、来週からは土日の午前中も他のメンバーたちとの合同練習が始まる。
健介の心配をよそにめぐみは張り切っていた。週末の夜、二人は感謝祭の日の礼にと、
高村から食事に誘われた。


「この間のお礼のつもりだから二人とも遠慮しないで、さあ、どんどん
注文して。あの玉子酒のおかげで風邪が一気に吹っ飛んだ。あっ、ケンの
ターキーもなかなかのものだったよ」
「じゃ、遠慮なくいただきまーす!」
健介は久しぶりの寿司にぱくついた。

「コンサートの準備は順調?」
「ええ、先生もぜひいらしてね。あっ、でもクラシックお好きですか?」
「好きだよ。そんな風に見えない?」
「はい、いえ、ごめんなさい…」
「以前にも同じようなこと言われたことがあったな…」
高村は苦笑した。
「あ、でもこっちのドクターは手術中に好みの音楽をかけるそうですね」
「そうそう、ちょっと日本では考えられないけどね。最初のオペの時に
曲は何にするって聞かれてびっくりしたな」
アメリカでは手術中に執刀医の好きな音楽を流す。気持ちをリラックスさせるためのようだが、
最近の若い外科医の手術室にはロックミュージックがガンガン鳴り響くことも珍しくないらしい。

「それで、高村先生のテーマ曲は何なんですか?」
「エルガー」
「まさか、『愛の挨拶』だったりして?」
「あたり!」
「うわ、ロマンティック! 聞いた、ケン? あっ、分かんないか…
あなたはクラシックまるでダメだもんね」
寿司を頬張っていた健介が()せかえした。
「だいじょうぶ? ほら、お茶飲んで」
「ひどいなあ、俺だってベートーベンくらいは知ってるよ。
で、その愛のなんとかって、どんな曲?」
「エルガーはすっごい愛妻家だったの。『愛の挨拶』は、まだ二人が
婚約中に彼が未来の奥さんのために作曲して贈った曲。ねえ、先生?」
高村はにっこりと頷いた。

「さっきから気になってるんだけど、メグも先生も変わった寿司の食べ方
するね」
「そうかな…」
二人はガリをハケのように使って醤油を寿司ネタにつけている。
「でも、こうするとネタとシャリが離れないで上手く食べられるでしょ」


めぐみは実演して見せた。
彼女の仕草を黙って見つめる高村の眼差しに健介は何か暖かいものを感じた。

13.無情の雪

「十二月のシカゴなんて、どんな罰ゲームだよっ!」
同僚の代理で急遽、学会行きが決まった健介は朝から不機嫌だった。
ボストンから二時間ほどのフライトだが、この時期のシカゴ周辺は大雪になることが多い。
そうなると空港は欠航便が相次ぎ大混乱する。


「大雪にならないといいわね」
めぐみは恨めしそうに窓の外に目をやった。
明け方から降り出した雪が地面を白く覆いはじめている。
「じゃ、行ってくるよ。金曜の夜には戻るから」
「気をつけてね」
「このまま雪がひどくなるようだったら、今日のレッスンはキャンセルしてほうが
いいぞ。風邪でも引いたら大変だから」
「わかってる。でも心配しないで… いってらっしゃい」
めぐみはいつもの笑顔を浮かべた。


健介を見送った後アレックスや他のメンバーたちと音合わせのため、いつもより早めに家を
出た。
「メグ、これからレッスン?」
「ええ… まさか、こんな日にお出かけ?」
臨月を迎えたモニカが、ダッフルコートに厚手のスキー帽、ブーツと手袋という重装備で
エレベーターに乗り込んできた。ライアンの忘れ物を病院まで届けるという。
「ダメダメ、雪道で滑って転んだりしたら大変じゃない。
いいわ、私が届けてあげる」

モニカから紙袋を受け取るとコンドミニアムから最寄りのTのステーションへと急いだ。
外はすっかり雪景色に変わり歩道はすでに真っ白な雪で覆われていた。



_____________________________________


「ドクター・タカムラ、至急ERへ応援に行ってください‼」
午前中のオペを終えカフェテリアでコーヒーを飲んでいる耕平のもとへ、研修医が血相を
変えて飛びこんできた。交差点で信号待ちをしていた列に雪でコントロールを失った車が
突っ込み、多数の負傷者が出ているという。

「酸素!輸血!挿管準備!… 急げ‼」
救急隊員が続々と怪我人を運び込み、ERの中は野戦病院のようになっていた。

「先生、出血がひどくて血圧がどんどん下がっています! 
意識レベルも低下してます!」
研修医が耕平に向かって声を上げた。
目の前に横たわる若い女は顔面蒼白で右肩から肘にかけて裂傷があった。
傷口から鮮血がどくどくと流れ出し白いシーツがみるみる真っ赤に染まっていく・・・


「しっかりするんだ、亜希!!」
耕平は思わず彼女の名を叫んでいた。



**************************************


健介のもとに事故の一報が届いたのはその日の夕方になってからだった。
最終便でボストンに戻る予定が、シカゴ地方は何年かぶりの大吹雪に見舞われオヘア空港は
全面閉鎖された。結局、健介が病床に着いたのは事故から二日目の昼過ぎになった。
鎮痛剤が効いて眠っているめぐみの傍にライアンとモニカが付き添っていた。


「ケン、ごめんなさい。私がいけないの、メグに頼んだばっかりに。
私の代わりにこんなことになってしまって…」
「メグにはほんとに感謝してるよ。モニカとアンジェラの二人を
守ってもらって」
涙ぐむ身重の妻をいたわるようにライアンはモニカを抱き寄せた。

「二人ともそんなに気にするなよ。命には別状ないんだから。
それより、そばに付いててくれてありがとな」
ライアンから事故に遭った経緯を聞かされていた健介は、二人の気持ちを思いわざと平然と
振る舞った。
「俺たちよりドクター・タカムラだよ、ずっとメグのそばに付いていたのは。
ナースが感心してたよ、日本のドクターはあんなにも患者に親身になるのかって。
彼にメグのAAのこと、話しておいてよかったな、ケン」
「……」

高村にめぐみの血液疾患のことを話した覚えはなかった。
ERの医師たちからも出血多量でかなり危険な状態だったと聞かされた。彼女を救ったのは
ドクター・タカムラの迅速かつ的確な判断があったからだと、彼らは口々に言う。



____________________________


「どう、傷口は痛まない?」
「はい、名外科医のおかげです」
めぐみはベッドの上でぺこりとお辞儀をした。
「でも、先生のエルガーが聴けなかったのは残念!」
「緊急オペにテーマ曲は流れないよ」
「あっ、そうか」

二人の楽しそうなやり取りをドアの外で耳にした健介は、なぜかすぐにノックをするのが
躊躇われ、その場に立ち尽くしていた。
暫くして高村が病室から出てきた。


「先生、このたびはお世話をかけました」
健介は先輩医師に慇懃に頭を下げた。
「君もシカゴで足止めをくらって、大変だったね」
「噂では聞いてましたが、冬のシカゴは最悪です」
「そうらしいね… ケン、あとでちょっと僕のオフィスに寄ってくれないかな」
「わかりました」


病室に入ると、さっきまでの高村との会話の様子とは一変し、めぐみは右手を悲しげに
みつめていた。
「どう、気分は?」
「うん、だいじょうぶ」
「コンサートのことは残念だけど、『命あっての物種』だからな」
「そうね… でも、アレックスたちに迷惑かけることになって…」
「そうだ、彼から電話があったよ。そのことはくれぐれも気にしないようにって。
次のコンサートのためにも、今は一日も早く元気になることだけ考えてほしいって」

クリスマスコンサートは一週間後に迫っていた。
その日のために頑張ってきためぐみの心中を思うと、どうしても晴れの舞台に立たせて
やりたかった。



_____________________________



高村のオフィスで、健介は事後前後のめぐみのCT写真をじっと眺めていた。
ガラスの破片が右上腕部に突き刺さり、かなり深い部分で神経の一部を損傷している。
リハビリで日常生活に支障がないくらいの機能回復は望めても、繊細な指の動きを
要求されるピアニストとしての微妙な感覚を取り戻すのは困難かもしれない。


「彼女には当分この事は黙っておいた方がいいだろう」
「そうですね…」

二人の医師の顔に苦悩の色が浮かぶ。
失われた記憶の中から甦ったピアニストとしての才能が、今まさに開花しようとした矢先
無情にもその命を奪われてしまった。

14.過去への誘い(1)

崇之はバイオリンケースを抱え再びローガン空港に降り立った。
ホテルに向かうタクシーから外の景色に目をやり、ふーと溜息を吐いた。
わずか二か月余りの間にボストンの街は、鮮やかな紅色(くれない)から真っ白な雪景色に様変わりしている。
燃えるような紅葉の中、音楽アカデミーのピアノに向かう亜希の眩いばかりの美しい笑顔が脳裏に
浮かぶ……。

父の祥吾から彼女が自分の前から去った本当の理由を聞かされた時、愛する女の真意を見抜け
なかった浅はかさを悔い自らを責め続けた。
父と伴にあらゆる手段を使って行方を捜したが、結局、亜希の消息を掴めないまま不本意な結婚に
踏み切った。麗子との仮面夫婦のような生活を、自らに課せられた贖罪として受け入れようとした。
だが、二度目の亜希との再会は、崇之の中でずっと(くずぶ)り続けている彼女への想いを再燃させた。
高村のように、めぐみとして生きる彼女をそっと見守ることなど到底できない。亜希への恋情をどうする
こともできない。彼女の記憶を呼び戻し、もう一度この手で抱きしめたい……
アレックスから彼女の事故の知らせが入ったのは、そんな悶々とした日々を送っている時だった。


____________________________________________


事故から一か月、新たな年を迎えた。
めぐみの腕の傷は癒え、リハビリによって手の動きも以前と変わらないほどに回復していた。


「メグ、アレックスからまたメールがあったよ。ジムも会いたがっているそうだ。
今度の水曜にでも行ってみたら?」
アレックスからの再三の誘いにも関わらず、事故以来めぐみは一度もアカデミーへ行こうとは
しない。
「私、もうピアノをやめることにしたの」
健介に背を向け鍋のシチューをかき混ぜながらあっさりと言った。
「なんで? ピアノはリハビリにもいいじゃないか…」
「見て!」
健介の前に右手の親指と人差し指を掲げた。火傷の痕の水膨れができている。
「昨日ね、アイロンがけをしている時にやっちゃったみたいなの。
でも、全然気づかなかった… だから、ピアノはもう無理」

めぐみは何でもないようにさらっと言うと、またシチュー鍋に向かった。
やはり当初懸念したように、指に麻痺が残ってしまったようだ。
そのことを薄々感じ、アレックスからの誘いを断り続けていたのだろう。

「そっか。まっ、ピアノが弾けなくたって日常生活に不自由ないなら
どうってことないよな」
めぐみに合わせるつもりで軽く言ってのけた。
背中を向かたまま、めぐみはこくりと頷いた。
この時、彼女の心の奥底に潜む悲しみを健介はまだ気づいてなかった。


**********************************


午前中の外来を終え一階のロビーに下りてくると、受付の辺りに人だかりができ何やら騒がしかった。

「ケン、君は確か日本語ができるんだったよね、ちょっと助けてくれないかな?」
顔見知りの事務長が困り果てた様子で健介のところに駆け寄って来た。
受付職員の差別的な応対が気に食わないと日米ハーフらしき女が文句を言っているが、彼女の英語は
かなりブロークンで要領を得ないらしい。


「どうかされましたか?」
健介は丁寧な敬語で話しかけた。
スラングを駆使したブロークン・イングリッシュで事務員に詰め寄っていた女は、突然の日本語に
驚いたように振り向いた。
褐色の肌に細かく縮れた髪の毛、一見黒人風だが顔の造りはどう見ても東洋人である。
肌蹴(はだけ)たコートから胸の谷間を誇らしげに覗かせ、安物のジュエリーをところ狭しとつけている。
いかにも水商売風の女だった。

「えっ? あっ、アンタ、もしかしてケン!?」
女は健介の顔と首から下げているIDを何度も見比べた。
「あたし、あたしよ。ほら、横須賀の”ホーム”で一緒だったマ・リ・エ!」
「……」
「…それにしても、出世したもんね。あのケンがドクターだなんて…
いや~だ、まだわかんないの? 自分の童貞を奪った女の顔も思い出せない
なんて、ずいぶんじゃん!」
大げさにウィンクする女のあけすけな物言いに健介は赤面しそうになった。
周りに日本語が解る人間がいないのが幸いだった。

健介は養父母の死後親戚中をたらい回しにされた挙句、十三歳の時に横須賀にある日米の孤児を
収容する施設に送られた。そこで出会ったのが二歳年上のマリエだった。日本人の母親と黒人兵の
間に生まれたマリエは、まだ赤ん坊の時に施設の前に捨てられていた。
姉御肌で年下の孤児たちの面倒を良く見てくれた。外で虐められそうになると身体を張って相手に
向かっていった。中学を卒業すると施設を飛び出し、基地の周辺にあるバーで米兵相手の商売を
しているという噂はあったが、その後の彼女の消息は誰も知らなかった。


「…マリエ!?」
「やっと、思い出してくれたみたいだね。今さ、ここにいるの。一度来てみて」
マリエが差し出したビジネスカードにはダウンタウンにあるカラオケバーの名前が記されていた。


******************************************


めぐみはあの事故以来はじめて音楽アカデミーを訪れた。
さっきからずっとピアノの前に座ったまま、じっと鍵盤をみつめている。
健介の前ではああ言ったものの、ピアノに触れれば、もしかしたら麻痺した指が以前のような
感覚を取り戻してくれるかもしれない、奇跡が起こるかもしれない、そんな一分の望みを胸に
ここへ来た。が、いざピアノを前にすると、鍵盤に触れるのが怖くなった。

めぐみにとってピアノは、真っ暗に閉ざされた記憶の中から漏れてきた一筋の光だった。
過去の自分と現在の自分を結ぶ唯一の接点だった。
健介と暮らし始めた頃、記憶を取り戻すことを恐れていた。だが今は、例えそれがどんなに
悲惨なものであっても、過去を取り戻し、正面から向き合い、すべてを清算した上で、
健介との今の愛を育んでゆきたいと思うようになった。


瞑想するように静かに目を閉じた。
『別れの曲』の楽譜が瞼の裏に鮮明に映し出される……
子供の頃から慣れ親しんだ練習曲、ショパンのエチュードの中で最も好きな曲。
大きな深呼吸をして、めぐみは恐る恐る鍵盤の上に両手を置いた。
脳からの指令が両手に伝達され十本の指は鍵盤の上で軽やかに舞いはじめる、左手の指は
伴奏を、そして右手の指はホ長調の甘美なメロディーを奏でる、はずなのに……
右手の五指は、まるで金縛りにでもあったように鍵盤の上で固まったまま、何の動きも
見せようとはしない。
(動いて! お願いだから、動いて!)
めぐみは鍵盤の上に顔を埋めた。小さな背中が大きく震えている。


その様子を部屋の片隅でじっと見守る男の姿があった。
同じ音楽をやる者として、彼女の悲しみ、苦しみ、絶望が、痛いほど伝わってくる。
そばに駆け寄り力いっぱい抱きしめてやりたいという衝動を、崇之は必死で堪えた。

15.過去への誘い(2)

「うわ、可愛い! まるで本物の天使みたい。見てケン、このちっちゃな手!」
めぐみが久々に見せる満面の笑顔だった。
一月の下旬、ライアンとモニカに女の子が誕生した。
二人はモニカの病室を訪れ、アンジェラ・マリア・カペーリと対面した。

「どうだ、可愛いだろ?頭も良さそうだろ? 絶対すっげぇ美人になるぞ~」
ライアンはすでに娘にデレデレの親バカぶりを発揮している。
「メグ、抱いてやって」
モニカに促され、めぐみは小さな赤ん坊を愛おしむように抱き寄せた。
「なーんか、メグ、ぴったり板についてるじゃん。二人だけの時間を楽しみたい
なーんて悠長なこと言ってないで、おまえもはやく親父になれよ!」
健介の肩をぽーんと叩いた。

ライアンにはめぐみが子宮摘出手術を受けていたことは話していない。
彼女がどんな経緯で子宮を喪失したのかわからないが、もしかしたら子供を産んだことがある
のかもしれない。赤ん坊に注ぐ優しい眼差しを見ているうちに健介はふと、そんな気がした。



モニカの見舞いを終えた後二人が院内にあるカフェテリアで昼食を摂っていると、近くの
テーブルにいたマリエが声をかけてきた。

「あら、また会っちゃったね」
めぐみに気づくとぺこっとお辞儀をした。
「ケンも隅におけないねぇ、こんな綺麗なカノジョがいるなんて…
あっ、もしかして奥さんだったりするぅ?」
「紹介するよ、フィアンセのメグ。横須賀の施設で一緒だったマリエ」
健介が婚約者の前でなんの躊躇いもなく『ホーム』を口にしたことに少し驚いたようだった。
「そっか、アンタも結婚するんだ…」
マリエは独り言のように呟き天を仰いだ。
「…あっ、もう行かなきゃ。ケン、店に来てね、絶対よ! じゃ、バイバイ」
めぐみに手を振ると慌ただしくカフェテリアを出て行った。

「びっくりした?」
「ちょっとね。でも、私は好きよ、ああいうタイプ。
あんな風にものをはっきり言える人に悪人はいないもの」
めぐみはくすっと笑った。


マリエとの再会は健介に十六年間の日本での人生を思い起こさせた。
最初の八年間は、両親の愛情に包まれ何不自由ない横浜山の手での贅沢な暮らしだった。
最後の八年、特に十三から十六歳までの三年間は、記憶の中から消してしまいたいような
酷い生活だった。

横須賀のホームの孤児たちは、ほとんどが日本人の母親と米兵との間に生まれた混血児
だった。日米のハーフとはいえ父親の顔も知らず、まともに英語を話せる者など一人も
いない。外見はどうあれ中身は皆、日本国籍しか持たない正真正銘の日本人だった。
だが、世間はそうは見てくれない。ホームを一歩出れば『外人、あいの子』と、冷たい
視線を浴びせられる。美形のハーフでモデルやタレントなどにスカウトされ、その種の
業界でそれなりの成功を修める者はほんの一握りである。大半は非行に走る。
万引きから始まり、かっぱらい、恐喝、麻薬、売春、傷害事件等々、大なり小なり一度は
アブナイ事に手を染めてしまう。
健介も中学に上がると酒や煙草はもちろん、基地の兵隊から流れてくる大麻にも手を出した。
卒業前には地元の暴走族との喧嘩で傷害致死事件に巻き込まれ、危うく少年院に送られる
ところだった。幸い英語も話せ米国籍を有していたため、ホームの園長の計らいで渡米が
実現した。

医者になった健介はホーム出身者の中の数少ない『勝ち組』と言えるだろう。
そして、マリエは間違えなく『負け組』の一人だろう。彼女がホームを飛び出してから
どんな人生を送ってきたのかは、今の様子から容易に想像がつく。
健介はやるせない気持ちで胸がいっぱいになった。
年下の孤児たちの世話をする十五歳のマリエの姿がふと、脳裏を掠めた。

16.過去への誘い(3)  ※性描写あり

めぐみは、チェスナッツ・ヒルの閑静な住宅街にあるアレックスのアトリエ兼自宅に来ていた。

「メグ、君にどうしても会いたいという男がいるんだ」
「……」
「覚えてる、タカユキのこと?」
「ええ…」
「君がピアノを断念したことを知って、とても残念がってる。
彼も僕やリズ同様、どうしてももう一度メグのピアノを切望している
一人なんだ」
「アレックス、気持ちは嬉しいけど私はもう無理。弾きたくても、
この指が動いてくれないんだもの…」
悔しそうに右手の拳を握りしめた。


「右手がダメでも左手があるじゃない!」
いつの間にかリビングルームに入って来た崇之は、両手に抱えきれないほどの楽譜の束を
テーブルの上に置いた。
第一次世界大戦で右手を失ったピアニストの要請で、モーリス・ラベルが作曲したと
いわれる『左手のための協奏曲』をはじめ、右手のためのピアノ曲の楽譜ばかりだった。

「うわっ、タカユキ、それにしてもよくこれだけ集めたもんだなあ…」
手に取りながらアレックスはしきりに感心している。
「…おっと、もう子供たちが来る時間だ。君たちはここでゆっくりしてるといいよ」
リビングに二人を残し慌ててアトリエへと向かった。

「こんなの、私には絶対無理だわ」
楽譜の一つに目を通しためぐみは首を大きく左右に振った。
「大丈夫、君なら絶対できる!」
崇之は力強く言い放った。
「でも、なぜ、そんなに…」
たった一度会っただけの彼の真剣な眼差しがめぐみにはどうしても理解できない。

「君のピアノには聴く者の心に響く何かがある。リズの心に若くして逝った
愛娘を思い起こさせたように、アレックスの心に最愛の恋人を甦らせたように。
聴く者それぞれの心を癒し満たしてくれる何かが… 」
崇之は胸にこみ上げてくる感情を払いのけるように立ち上がると窓際に歩み寄った。

「あ、そうだ、この間の『さすらい人』のお返しに、僕のバイオリン
聴いてくれる?」
気を取り直すように部屋の隅に置いてあったバイオリンケースを持ち上げた。

「あの曲はタカユキさんの心に、いったい何を思い起こさせたのかしら?」
めぐみは悪戯っぽい表情を浮かべる。
「さあ… 忘れようとしても忘れられない初恋の人、かな?」
崇之も同じように悪戯っぽく応えた。


崇之のバイオリンから甘く切ないメロディーが静かに流れる……
イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩にフォーレが曲を付けた歌曲、
『夢のあとに』
     ——夢の中の幻想的な世界で出逢った美しい女と激しい恋に
       落ちる男… やがて夢から醒め無情にも一人現実に取り
       残された男は、女の幻を追い求め嘆き悲しむ―—


情感あふれる物悲しく優美な旋律がめぐみの心に深く染み入り、ピアノを断念して以来
心の奥底にできた空洞を徐々に埋めてゆく……
それはやがて全身に広がり、心地よい甘美な快感となって躰を優しく包んでくれる。
まるで愛する男に抱かれているかのように、身も心も潤い満たされてゆく……


(やめないで!…)
曲が終わりに近づきクライマックスを迎えると、めぐみは心の中で思わず叫んでいた。


*******************************************



気がつくと、マリエのアパートのカウチに横たわっていた。
飲み慣れない日本酒を立て続けに何杯も飲まされた所為か、一気に酔いが回った。
彼女の肩に掴まって店を出たところまでは覚えているが、その後の記憶がまるでない。


「どう、気分は?」
「……」
マリエはいきなり服を脱ぎはじめた。

強い体臭と安物の香水が入り混じった強烈な匂いが鼻をつく。
朦朧とする健介の眼前に一糸纏わぬ裸体があった。
父親から譲り受けた褐色の肌の色が豊満な肉体をスリムに引き締め、黒人特有の
シャープでしなやかなフォルムを創っている。
痩せぎすの十五歳の少女の面影はどこにも残っていない。

「あんたのフィアンセと違って、あたしはプロ並みよ。
ケンを天国に連れてってあげる」
いきなり健介の股間のものを握りしめると深い胸に谷間に擦りつけた。
「よせよ…」

彼女の大胆な行動を制止しようとする健介の感情を無視するかのように、身体は
しだいに自由を奪われ理性を失ってゆく……
マリエはすでに硬くなりはじめたものを口に含むと指と舌を駆使し容赦なく弄ぶ。
健介の呼吸は荒々しく乱れ下半身はすでに激しく波打っている。
マリエは馬乗りになり自分の中に押し入れると、腰を大きく上下に動かし激しい
ピストン運動を繰り返す……

「ああ、いいわ!… ケン、あんたがずっと好きだった…」
「あああ、もうダメ!… ファック ミー!」
淫らな言葉を口にしながら恍惚とした表情を浮かべる。

女体の中に吸い込まれた下肢はまるで全身の血流がその一点に集結したかのように
充満し、マリエの中で一気に放出された。
鮮烈な快感が全身を貫き健介は思わず野獣の雄叫びのような声を発した。
マリエは盛りのついた雌猫のような呻き声を洩らすと、放心したように健介の上に
覆い被さった。


「どう、ケン? 人形のように可愛いあんたのカノジョとじゃ、
こうはいかないでしょ? 今度はもっとイイことして、あ・げ・る」
煙草を銜え旨そうに一服すると天井に向け大きく煙を吐き出した。
その仕草は、いつか観た映画の中に出てくる娼婦の姿そのものだった。
健介は堪らない気持ちになった。


「泊まっていけばいいのに…」
「おまえとはもう二度と逢わない」
「ケン、あんたは必ずまたここへ戻って来るわ」

マリエは卑猥な笑みを浮かべながら二本目の煙草に火をつけた。

17.聖バレンタインの夜

二月のボストンは雪に見舞われる日が多く野外での活動はかなり制限される。
映画やスポーツ観戦など屋内での娯楽を楽しみながらボスト二アンたちは春の到来を待つ。
アレックスの次の公演、イースター・チャリティーコンサートの日程が決まった。
今回は事故や病気で身体の自由を奪われた障害者、生まれつきハンディキャップを持つ
子供たちを招待することになった。それは、めぐみのピアニストとしての復活を願う
アレックスたちから彼女へのエールでもあった。


「アレックス… 私、やってみるわ」
めぐみは彼らの暖かい気持ちに応えるため、そして障害を持つ子供たちに少しでも勇気を
与えることができるなら、とコンサートの参加を決めた。
それともう一つ、彼女にピアノを続ける決心をさせたものがある。それはタカユキだった。
彼のあまりに熱心な説得と、あのバイオリン演奏に心を動かされた。

「そうか、それは良かった。じゃ、さっそく来週からレッスン開始だ」
「また、アカデミーのピアノを使わせてもらってもいいの?」
「もちろんさ。ジムも前のように協力したいと申し出てくれてる。それに、
今回はタカユキも参加することになってね。君がいつでも練習できるようにと、
公演までの二か月間ピアノのあるスタジオを借りるそうだ」
めぐみには彼がそこまで自分のためにしてくれる理由がいまだに解らなかった。

「ねえ、アレックス、タカユキさんって、いったいどういう人なの?
新婚なんでしょ? それに、仕事とか…」
「心配しなくてもいいよ。彼は日本では半端じゃない金持ちらしいから。
君のピアノを心から愛する凄いスポンサーが現れたと思えばいいさ」
「でも… 」
めぐみはまだ納得がいかなかった。



_______________________________



「ほんとにこれ、左手だけで弾いてるのか? 俺みたいな凡人からすると
ピアニストというよりは、まるで曲芸師だな」
「でしょ、私はとてもこんな風には無理だけどね」
ラベルのCDを聴きながら健介はしきりに感心している。
めぐみがピアノを再開したことを心から喜んでいる。彼女に笑顔が戻り、
事故前のような生き生きとした姿を見るのが嬉しかった。

「けどさ、そのタカユキとかいう人、いったい何者?
二か月も家を留守にしてチャリティーコンサートに参加するなんて…」
「アレックスの話だと、すごいお金持ちらしいわ」
「あ、もしかしてメグに一目惚れした大富豪の爺さんだったりして…」
冷やかすようにめぐみの顔を伺った。
「イヤーだ、そんなわけないでしょ。それに、彼は新婚ホヤホヤで、
ケンとおなじくらいか、もしかしたら年下かもよ」
「へえ、そうなんだ…」
アレックスの友人だと聞いていたので、てっきり彼と同年配の男を想像していた
健介は少し意外な気がした。

「ああ、そうそう。来週の金曜、ナイトシフトなんだ。まったくついてないよな、
今年はバレンタインデーと週末が重なるというのに…」
月に一度、夕方から深夜、深夜から早朝までの当直が回って来る。
「仕方ないわよ、お仕事なんだもん」
「この埋め合わせはきっとするからさ」
健介は済まなそうに言った。

アメリカのバレンタインデーは日本のように女性から男性限定でチョコレートを
贈る習慣はない。愛する人たちに自分の思いや感謝を伝える意味合いが強く、
恋人・夫婦・親子・祖父母と孫・友人、今ではペット宛へと、カード類も豊富に
揃っている。その日は花やスイーツなどの贈り物をしたり、夫婦や恋人同士は
外食のディナーを楽しんだりする。


************************************



「ああ、ごめんなさい。どうしてもここでドジっちゃう…」
めぐみは大きな溜息をついた。
火木土の週三日、崇之が借りたスタジオでのレッスンが始まった。
コンサートではピアノ協奏曲と、バイオリンとピアノのためのオリジナル曲の二曲を
演奏する。オリジナル曲はピアノのパートを特に左手のピアニストに考慮し、崇之が
自ら作曲したもので『希望』というタイトルがつけられた。

「大丈夫、そんなに焦らなくても。まだ時間はたっぷりあるから。
今日はこのくらいにしよう。今夜は彼とバレンタインデーのディナーなんだろ?」
「残念ながら、彼、深夜まで仕事なの」
「そうなんだ… じゃあ、これから僕に付き合ってくれる?」
楽譜を片付けているめぐみに向かって言った。

「……」
「バレンタインデーにお互い一人の夕食なんて侘しすぎるよ。
そう思わない?」
「でも…」
めぐみは戸惑った。

「心配しなくても、シンデレラにならないうちに、ちゃんと家まで送るから。
パリ直営の店がダウンタウンのホテル内にオープンしたんだ。フレンチ、
嫌いじゃないよね?」
「ええ…」


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「悪い、待たせて」
「遅いじゃない! バレンタインデーのディナーはブロンドの妻と、
夜のベッドは大和撫子となんて、あなたも大したものね」
「そんなに虐めるなよ。さあ、行こうか」
三沢は杏子を促した。

「ちょっと待って! 彼女、あなたの隣人じゃない?」
エレベータの手前まで来ると杏子は急に立ち止まった。
「ああ、確かにメグだ。連れの男誰だろ?」
「三ツ星レストランでバレンタインのディナーとは、さすが御曹司ね」
二人が最上階のレストランまで直通のエレベーターから降りて来るのを見て呟いた。

「木戸グループの次期CEOよ」
「木戸グループって、あの戦前の木戸財閥の?」
「だから言ったでしょ、ああいう虫も殺さないような大人しい顔して、
やることは凄いんだから。なんだか、すごーく面白くなってきたわ…」

薄ら笑いを浮かべながら杏子は三沢とホテルの部屋に消えて行った。


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コンドミニアムの下に車が横付けされている。
運転席から男が出て来て助手席のドアを開けた。中から降りて来る女の姿を見て健介の
足が止まった。二人は短い会話を交わすと男は運転席に戻り、車はそのまま闇の向こうに
走り去った。


「あれ、どうしたの? まだ十時前よ」
めぐみは少し驚いた様子で腕時計を見た。
「ボスの粋なはからいでね… ハッピー・バレンタイン!」
健介は真紅の薔薇の花束を差し出した。

「うわ、きれい! ありがと」
「いまのが、タカユキさん?」
車が走り去った方向に目をやり、さりげなく聞いた。
「え? うん… ケンが今夜は仕事だって言ったら、みんなで
食事に行こうってことになったの」
車で送ってもらったのを見られたことに一瞬驚いたようだが、動揺した様子もなく
応えた。
「そっか… けど、やっぱ凄いよな、”BM” 乗り回すなんて。
俺のポンコツとはえらい違いだ」
健介は無理に笑顔を作った。
「なんか、こっちにいる間だけリースしてるみたい」
「じゃあ、ディナーもさぞかし高級なところへ連れて行ってもらたんだろうな?」
自分でも嫌になるくらい皮肉っぽい言い方になった。

「ううん… アレックスの行きつけのカジュアルなイタリアンのお店。
なんだが、ちょっとワイン飲み過ぎちゃったみたい…」
めぐみは俯きかげんに頬のあたりを抑えた。
外灯に照らし出された顔はほんのり上気し、ふだんとは違う何か艶めかしい色香が
漂っている。

「愛してるよ、メグ…」
いきなりめぐみの躰を抱きしめ激しく唇を奪った。
何か得体のしれない嫉妬心が身内にふつふつと沸き上がり、健介は高揚していた。

18.疑念

朝、オフィスに着くと一番にメールをチェックするのが健介の日課になっている。
今朝PCを開くと不審なEメールが入っていた。


      『貴方はあの女の本性を知らない。
       可愛い顔の仮面の下には、男の心を弄び翻弄し
       平然と裏切る魔性の女。
       エリート医師の次は富豪の若きバイオリニスト…

               聖バレンタインデーの目撃者より』

明らかにめぐみを中傷する悪意に満ちた文面である。
はじめは単なる悪質な悪戯だと思った。が、だとしたら誰が、いったい何のために・・・

「ドクター、ドクター・アリーガ! 501号のスミスさんの
検査結果が届いてますよ」
「ああ、分かった。ありがとう」
健介はナースの声で我に返った。
その後は仕事に追われメールの事はすっかり忘れていた。


「よう、ケン!」
ロビーの待合室にいたアレックスが声をかけてきた。
電話やメールのやりとりだけで会うのは久しぶりだった。

「アレックス、どこか悪いの?」
「いや、ちょっと風邪気味でね。念のためインフルエンザの注射を
打ってもらおうと思って。先週ケープに行ったのが悪かったかな。
なにせこっちよりだいぶ気温が低いからね… あ、そうそう、リズが
君たちによろしく言ってたよ」
『リズの家』には紅葉見物以来行っていなかった。

「またぜひお邪魔したいな。僕たちからもよろしく伝えて。
相変わらず毎週行ってるんでしょ?」
「それが忙しくてここんとこ、ちょっとご無沙汰だったもんだから、
バレンタインデーにその分埋め合わせしたってわけさ」
「えっ? 先週の金曜はメグたちと食事に行ったんじゃなかった?」
「いや、あの日は昼過ぎには皆と別れてケープに向かったから、
僕は行ってないよ。あの後みんなで行ったんじゃないかな」
「そう…」

健介はあの夜のことを思い起こした。
めぐみは確かにアレックスと彼の行きつけの店へ行ったと言った・・・
タカユキの車から降りて来ためぐみの姿、上気した顔、そして、今朝送られて来た
メールの文面が頭の中で交錯した。


**********************************


「やっぱり、私には無理! 片手でピアノを弾くなんて曲芸師みたいな真似、
絶対できないわ」
めぐみはさっきから何度も同じ個所でつまずき苛立っていた。
演奏会を一か月後に控え、思い通りに弾けないことに強い焦りを感じている。


「今日はもう、よそう。二、三日ピアノから離れて、コンサートのことも
忘れてリラックスしたほうがいいかもしれないな。
ボス響、戻ってるから気分転換に週末にでも彼と二人で行ってくれば?」
「……」
「バレンタインデーの夜に付き合ってもらったお礼だよ」
シンフォニーホールでのチケットを二枚めぐみに手渡した。
「ありがとう、タカユキさん」
「どういたしまして。あっ、もし万が一彼の都合がつかない時は、
電話してくれればすっ飛んで行くから」
悪戯っぽくウィンクした。

(ケン、いっしょに行ってくれるかしら…)
ジャズやR&Bを好みクラシックの苦手な健介の顔を思い浮かべながら、チケットを
握りしめた。
タカユキの思いやりが嬉しかった。彼にはいつも心の中を見透かされているような
気がする。彼のバイオリンは常にめぐみをのピアノを優しくリードしてくれる。
まるで、ずっと昔からパートナーであったかのように、阿吽(あうん)の呼吸で息が合う。
その一体感に陶酔してゆく自分に気づき、演奏中にはっとなることがある。

あのバレンタインの夜、二人だけで食事に行ったことを健介に正直に言えなかった。
不思議なくらいすらすらと嘘をついてしまった。そんな自分に嫌悪感すら覚える。
めぐみは自分の中で芽生えたタカユキに対する感情にどう対処したら良いのか困惑していた。

19.不信の時

「ねえケン、今度の金曜、コンサートに付き合ってくれない?」
「クラシックの?」
「うん、あまり好きじゃないのわかってるけど、ボストンシンフォニーの
チケット二枚もらったの…」
遠慮がちに切り出した。

「ああ、いいよ。あそこの音響システム抜群らしいね。チケットも
結構するんだろ? 誰にもらったの、アレックス?」
「…ええ」
「確か、バック・ベイだったよな。じゃ、車よりTのほうがいいね」

めぐみはまたしても本当のことが言えなかった。
ボストン交響楽団の本拠地、ボストン・シンフォニー・ホールはダウンタウンの西方、
バック・ベイ地区に位置し、目の前に地下鉄の”シンフォニー駅”がある。

「早めに出て、どっかで晩飯しようか?」
「ほんと? 久しぶりね、外で夕食なんて。何が食べたい、お寿司?」
「寿司もいいけど… あそこは、ほら、バレンタインの夜にアレックスたちと
行ったとか言ってた、イタリアンの店?」
「え? ああ、あの店、週末は凄く混むみたい、予約も取らないし…」
健介がバレンタインの夜のことを口にしたことに、めぐみは一瞬ドキリとした。



健介はカマをかけてみた。
”バレンタイン”と言う言葉にめぐみは微妙に反応した。やはり、彼女は嘘をついているの
だろうか、本当に自分は裏切られているのだろうか・・・
頭の中にあのEメールの文面がちらつく。健介は居ても立ってもいられない気持ちになった。
そして、めぐみの真意を確かめるためにある行動に出た。



_________________________________



めぐみは朝からウキウキした気分だった。
ボストン交響楽団の生の演奏は初めてだった。しかも本拠地であるシンフォニーホールは、
その歴史と音響設備の素晴らしさには定評がある。
健介は定時より早めに病院を出ると言って出勤した。もう間もなく帰宅するはずである。
めぐみの携帯が鳴った。


「メグ、悪い、今夜行きそうにないよ…」
担当の患者の容態が急変しオペに立ち会うことになったと言う。
「…ほんと、ゴメン!」
「だいじょうぶ、そんなに気にしないで」
済まなそうに何度も謝る健介にそれ以上何も言えなかった。

「楽しみにしてたんだろ… 一人が嫌なら、仲間の誰かを誘えば?」
「うん、でも… また今度にするわ。夜、遅くなりそう?」
「ああ、たぶん日付が変わってしまうと思う」
「そう、じゃ、がんばってね」

健介にああは言ったものの、本心は残念でならなかった。
シンフォニーホールまでダウンタウンから地下鉄のグリーンライン一本で行ける。
夜になっても駅周辺は比較的治安は良く安全である。一人で行くべきかどうか、
めぐみは迷った。

(もし、彼の都合が悪くなったら、すっ飛んで行くよ…)
冗談とも本気ともつかないタカユキの言葉を、ふと思い出した。
テーブルの上の携帯に目をやった。いったん手に取ったが、すぐに元に戻した。
もし、タカユキと一緒に行くことになれば、また健介に嘘をつくことになる。
これ以上嘘を重ねてはいけない・・・
頬杖をついたまま何度も溜息を洩らした。

リンビングルームのカッコー時計が五時を告げると、意を決したように再び携帯に
手をかけた。着信音が三回鳴って、彼が出なければ切ろうと思った。
一回、二回、そして、三回目が鳴り続いた。

「もしもし」
切ろうとした瞬間、タカユキの声が返ってきた。
「あ、あの、私、めぐみです…」
「やあ、え? 確かコンサートは今夜だったよね… あれ、まさか
彼の都合が悪くなったとか?」
「ええ、まあ…」
躊躇いがちに応えた。
「ほんとに? じゃあ、これから迎えに行くから下で待ってて」

タカユキはめぐみの返事を待たず電話を切った。


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健介はコンサートの開演時間に合わせるように帰宅した。
めぐみの姿はなかった。一人で行ったのだろうか、それとも、やはりあの男と・・・
ジャック・ダニエルを立て続けに何杯も呷った。
姑息な手段を使って愛する女を試すような真似をしている自分がひどく情けない存在に思えた。
同時に、めぐみへの不信感が一気に募った。


健介は夜の街に出た。
気が付くとダウンタウンの外れにあるマリエのアパートに方角に向かっていた。

「やっぱり、あたしの躰が恋しくなった?」
マリエは勝ち誇ったような笑みを浮かべ健介を招き入れた。
「逢いたかったわ、ケン…」
部屋に入るや否や、いきなり抱きつくと激しく唇を求めてきた。
そのまま健介の前に跪くとジッパーを下ろし両手で弄りはじめた。
巧みな手の動きによって十分に反応した健介は、マリエの躰を床に押し倒し荒々しく
服を剥ぎ取る・・・
乳房に触れようとした瞬間、健介の手が急に止まった。マリエの乳房は、はちきれん
ばかりに張り詰め硬くなった乳首が黒ずんでいる。
服の上からは目立ったなかった下腹部の膨らみが健介の眼球を捉えた。

「マリエ、まさか!?…」
「みごと、一発で命中したみたいよ、ケン!」
マリエは薄笑いを浮かべながら両手で下腹部の膨らみを擦る。
全身の力が抜け健介の躰は急速に萎えていった。
「いや、やめないで! ほら、もうこんなにびしょ濡れよ」
股を大きく広げなおも自分の中に導こうとするマリエの手を払いのけ、健介は
立ち上がった。

「あたし、産むわよ!」
床の上で露わな姿を呈したままマリエはきっぱりと言った。

20.過去との再会(1)

イースターチャリティーコンサートの初日が一週間後に迫っていた。
リハーサルや準備に追われ、めぐみの帰宅は健介より遅くなることが多くなった。


「ごめんなさい、明日のリハーサルの打ち合わせが長引いちゃって。
今すぐ何か作るね」
「別に気にしなくてもいいよ」
背中を向けたままボトルの酒をグラスに注ぎ一気に呷った。
この一か月、正確にはあの日、めぐみがシンフォニーホールへ行った夜以来、健介の
酒の量がぐっと増えた。

「ケン、そんな飲み方、身体に毒よ。病院で何かあったの?」
「あった、あった、大ありだよ。ピアノやバイオリンを優雅に爪弾いてる
人たちと違って、俺の仕事は毎日ストレスの連続でしてね。ここで飲むのが
お気に召さないなら、出て行きますよ」
健介は立ち上がると一瞬、足元をふらつかせた。

「ダメよ、ケン! 今夜はもうよして」
阻止するように玄関のドアの前に立ちはだかった。
「どけよ!」
めぐみの身体を払いのけるようにして外へ出るとドアを乱暴に閉めた。


三月末とはいえ、夜の街を歩いていると冷え冷えとする。
一気に酔いが醒めると、めぐみに悪態をついた自分が急に恥ずかしくなった。
彼女はあの夜のこと、タカユキを誘い一緒にコンサートへ行ったことを自ら告白した。
だが何か釈然としないものが健介の中で(うごめ)いている。それに加え、マリエのことが
心を悩ませている。
健介はこの一か月、最悪の精神状態にあった。が、このまま酒に逃げ場を求めるような
生活を続けるわけにはいかない。健介の足はマリエの働くカラオケ・バーへと向かった。


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「マリエなら調子悪いつって昨日から休んでるよ。まったく、あのボテ腹のままで
ホステス続けるつもりかね。困ったもんさ」
このバーの韓国人経営者、五十がらみの女が吐き捨てるように言った。
カラオケ・バーとは名ばかりで、店の中は薄暗く濛々と煙が立ち込める中、ホステスと
客が抱き合っている。いかにも胡散臭そうな店だった。
昔、横須賀のどぶ板通りに米兵相手に同じような怪しげなバーが乱立していたのを、
健介はふと、思い出した。



「誰だい?」
「俺、ケンだよ」
「何しに来たのさ?」
マリエはドアを開けると、ぶっきらぼうに言った。
化粧っ気のない素顔がやつれて見える。

「具合、悪いんだって?」
「ただの風邪さ」
額に手を当てると熱があった。
ピンクのネグリジェの上から膨らんだ下腹部が透けて見える。

「ちゃんと、医者に診せてるのか?」
「ケン、あんたは相変わらず優しいね。昔とちっとも変ってやしない。
そんなだから、あたしみたいな女に引っかかるんだよ」
マリエは乾いた笑みを浮かべた。

「心配しなくても、この子はあんたの子なんかじゃないよ。
もう五か月、勘定が合わないだろ…」
下腹の膨らみをそっと撫でた。
「…あんたがあんまり幸せそうだったから、ちょっと意地悪して
やりたくなったのさ」
「相手は子供のこと知っているのか?」
「ああ、たいした男じゃないけど、子供のことすごく喜んでくれてさ…
生まれたらちゃんと籍入れるって言ってくれてる」
「そっか…」
健介はマリエの嬉しそうな表情を見て安心した。
彼女のこれまでの人生は辛いことが多すぎる。同じホームの釜の飯を食った
仲間としてこれ以上不幸になってほしくない。

「ケン、」
「ん?」
「カノジョ、大事にしてやんなよ。あのこ、いい()だよ。
あたし学はないけどさ、いいヤツか悪いヤツかは一目見りゃすぐわかるんだ。
あのこ、あんたと同じ綺麗な澄んだ瞳してた」
「彼女もマリエのこと、いい人だって言ってたよ… 身体、大事にしろよ。
俺でできることがあったら知らせてくれ」

携帯の番号を書いた紙をテーブルの上に置いて、健介はマリエのアパートを
後にした。

21.過去との再会(2)

コンドミニアムの中上階にあるベンチに座り、めぐみは夜空を眺めていた。
この階にはコンド住人の共有スペースとクラブハウスがある。夏は夜になってもプールや
ジャクージ、バーベキューグリルなどを利用する住人で遅くまでにぎわうが、この時期は
まだひっそりと静まり返っている。
健介を愛していながら、タカユキの人柄と才能に魅了され心が奪われてゆく自分を、
どうすることもできない。涙が頬を伝わる・・・


「こんな時間に一人で、星空見物?」
「あ、先生…」
耕平に気づくと慌てて目頭を押さえた。
「彼は当直? それとも、犬も食わない何んとかってヤツかな?」
めぐみの横に腰を下ろし夜空を見上げた。

「先生は、嘘をついたことありますか?」
めぐみはベンチからすうっと立ち上がり手すりに両肘をついた。
「ある、ある、数えきれないくらいにね。嘘をついたことのない人間なんて
この世の中には、まずいないだろうな」
「そうね。人間って狡くて、自分勝手で、欲張りで… 同時に二人の(ひと)
平気で好きになったりして、ほんと、嫌な動物… 」
耕平に背を向けたまま、めぐみは呟いた。

突然、路上で車が急ブレーキをかける音がした。
ほどなく遠くからけたたましいサイレンの音が鳴り響き、近くまで来るとピタッと止まった。
真下を除くと救急車が赤いランプを点滅し怪我をした子供を運んでいる。傍らには必死で
子供の名を呼ぶ母親らしき女の姿が見える。
その様子をじっとみつめていためぐみが、急に両手で耳を塞ぎ地面にしゃがみ込んだ。
何かに怯えるように身体が小刻みに震えている。耕平は彼女を抱き起した。

「亮‼ 亮を助けて、お願い! 亮‼ 亮‼… 」
「大丈夫、心配しなくても亮は大丈夫だから…」
腕に抱かれたまま泣き叫ぶように愛息の名前を繰り返す。耕平は子供を宥めるように
元妻の背中を擦る。
「私がいけないの、亮を一人にして。亮を助けて、お願い、亮を…」
亜希(めぐみ)は苦しそうに頭を抱えた。
たった今目にした光景が、彼女の中でずっと眠っていた我が子の事故の記憶を呼び起こした。
亜希の脳内は今必死で過去の記憶を取り戻そうとしている・・・


「耕平さん…」
暫くして、深い眠りから覚めたように耕平の腕の中で虚ろに宙をみつめた。
「…亮は、あの子は死んだのよね…」
ぽつりと口にすると、悲しそうに再び目を閉じた。
涙で濡れた長い睫毛が震えている。

「思い出したんだね?」
亜希は小さく頷いた。
「私… 亮のところへ、亮とタクのことろへ行くつもりで……。」
崇之のもとを去った後、亜希は死を決意し成田からワシントンへ旅立った。
あの日、桜が満開のポトマック川の畔、拓也からプロポーズされた想い出の場所に向かう
途中あの事故に遭った。

「私は、また同じあやまちを繰り返そうとしているのね… 
ケンを愛しているのに、木戸君のことを…」
声を詰まらせ耕平の胸に顔を埋めた。

「いいか亜希、俺がこれから言うことを良く聞くんだぞ… 」
子供に言い聞かせるように耕平は切り出した。
「成瀬亜希は、もうこの世には存在しない。めぐみとして生まれ変わったんだ。
過去のことは忘れてケンと正式に結婚し、これからは有賀めぐみとして幸せな
人生を送るんだ。彼は君のことを心から愛している。だから、今すごく苦しんでる。
木戸さんにも彼のことを愛している奥さんがいる。誰かを傷つけたり苦しめたりして
手に入れた幸福なんて本物じゃない。そんなもの決して長続きはしない。
そうだろ?」
亜希は静かに頷いた。

「…人間は嘘つきで貪欲でどうしようもない動物かもしれない。だけど、
人の心を思いやるために嘘をつくことができる優しい生き物でもある。
ケンには木戸さんとの過去のことは一切話さず、このまま彼と二人で
新たな人生を築いていくんだ。俺が不幸にした分、亜希にはどんなんことが
あっても幸せになってもらいたい」

耕平は前妻の躰をぎゅっと抱きしめた。

22.過去との再会(3)

本番に向け最終のリハーサルが公演会場で行われていた。

「いいなあ、音に何とも言えない艶がある。
あの二人、完全に二人だけの空間を創っているな。まるで恋人同士のようだ…」
スタインベックはさっきからしきりに感心している。
「そりゃあ、そうさ。二人は本物の恋人同士だからな。
訳あって、一緒にはなれなかったが……。」
崇之からすべてを打ち明けられていたアレックスは二人の過去を話した。

「そうか、二人の間にそんな悲恋物語があったとはな… それにしても、
恋人を取り戻そうとするタカユキの情熱、執念には凄いものがあるな。
けど、もうその必要はないんじゃないか、メグはすでに今の彼に心を
奪われているよ。彼女のピアノにはっきり表れている」
「確かに、おまえの言う通りかもしれんな…」


ホールの隅で二人の会話を耳にした健介は、いたたまれない気持ちになり会場を抜け出した。
音楽的なことは解らないが、演奏中に何度もみつめあう二人、男が投げかける熱い眼差し、
それに応える女の悦に入ったような表情・・・
それは確かに、愛し合う男女の姿以外のなにものでもなかった。


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イースターチャリティーコンサートは大盛況のうちに幕を下ろした。
不幸な事故を乗り越え、左手のピアニストとして復活しためぐみの演奏は絶賛され、
地元紙などに紹介された。同時にパートナーを務めたバイオリニストが、日本の
大企業の次期社長であることも大きく取り上げられた。


「それにしてもすげぇなあー。アルマーニのスーツをビシッと決めたイケメン
バイオリニスト、おまけに大金持ちの一人息子かぁー。ケン、気をつけろよ、
うかうかしてたら、メグを寝取られるぞ!」
新聞に載った木戸崇之の写真と経歴を見ながらライアンが冷やかすように言った。

「そうかもな… 俺、帰るよ」
淡々とした口調で言うと健介は席を立った。
「おい、待てよ、冗談だよ。まさか本気にしたわけじゃないだろうな?」
ライアンは慌てて後を追いかけた。
ここ最近元気のない親友を心配し、久しぶりに金曜夜の”ハッピー・アワー”に誘い
男同士の時間を楽しむつもりでいた。

「どうしたんだよ、ケン? おまえ、近頃ちょっと変だぞ。
メグとなんかあったのか?」
「そんなのあるわけないだろ… やっぱ、今夜は帰るよ」


ライアンを残し健介は一人で店を出た。
腕時計を見るとまだ九時前だった。このまま真っ直ぐ家に帰る気がしなかった。
めぐみと顔を合わせるのがだんだん苦痛になっている。彼女が自分からどんどん
遠のいて行くような気がしてならない。



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「なんだケンだったの。あたしを指名するなんて誰かと思ったら。
ここはあんたのようなエリートドクターが来る店じゃないよ」
営業用の濃い化粧と派手な衣装に身を包んだマリエは不愛想に言った。

「元気そうじゃないか」
「ああ、この通り食欲も性欲も全快さ!」
おつまみ用のピーナッツを頬張るとVサインを掲げた。
「そっちは元気なさそうじゃん。カノジョと喧嘩でもした?」
水割りを健介の前に置いた。

「木戸財閥の、御曹司か… 」
吐き捨てるように言うとグラスの酒を一気に流し込んだ。
「…なにがドクターだ、なにがエリートだ、そんなもん糞くらえ‼
漫画本や弁当の万引きから始まって、喧嘩、喝あげ、麻薬、挙句の果ては
危うく人殺しになるところをアメリカくんだりまで逃げて来た男、それが
俺の正体じゃないか‼」
拳を握りしめドンとテーブルを叩いた。

「どうしたのさ、そんなに荒れて?」
マリエは心配そうに顔を覗き込んだ。
「やっと… やっと、めぐり逢えたんだ、愛とおしいと思える女に…
それなのに…」
健介はボトルの酒を呷った。
「やめなよケン! もう帰りな」
「おまえまで俺を見放すのかよ…」
虚ろな目でマリエを睨みつけた。

「いい加減にしなよ! なにがあったか知らないけどさ、あんたは
昔から相手のことばっか考えて自分を犠牲にするようなとこがあったけど、
そんなにカノジョに惚れてるなら、そんなに大事なら、どんなことが
あっても放すんじゃないよ。こんなとこでく゚だ巻いてないで、さあ
もう、とっとと帰った、帰った」
マリエは健介からボトルを取り上げた。


店を出ると雨が降っていた。
めぐみと一緒になろうと決めた時、彼女の過去などどうでもいいと思った。
心のどこかで彼女の過去も自分と同じように暗くて悲惨なものだと決めつけていた。
いや、むしろそうあってほしいと願っていたのかもしれない。ところが、現実は
そうではなかった。めぐみには結婚寸前に引き裂かれた富豪の恋人がいた。
記憶を失くした今でも、健介の理解の域を超える感性という世界の中で二人は
強く結ばれている。そこには自分の入りこむ余地などない。
冷たい雨に打たれながら健介はどこ行くあてもなくただ歩き続けていた。

23.春の嵐(1)

コンサートは終わった。
めぐみはまたしても本当のことが言えなかった

Samsara ~愛の輪廻~Ⅲ(連載中)

Samsara ~愛の輪廻~Ⅲ(連載中)

耕平と離婚、新たな愛を選択した亜希だったが崇之の将来を思い自ら身を引く。死に場所を求め拓也との想い出の地ポトマック河畔の公園に向かう途中事故に遭う。有賀健介はワシントンの総合病院に勤務する日米ハーフのイケメン内科医。暗い過去を引き摺り自分の感情を内に秘め生きてきた。ある日、ERから廻されてきた身元不明の女の担当医になる。常に冷静沈着、これまで医者として患者に私情を挟むことは決してなっかったが、可憐で美しい女の魅力に惹かれ医師と患者以上の感情を抱くようになる。やがて二人はそれぞれの過去と決別し健介の新たな勤務地ボストンで同棲生活を始める。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-04-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01.過去のない女(1)
  2. 02.過去のない女(2)
  3. 03.新天地(1)
  4. 04.新天地(2)
  5. 05.過去との遭遇(1)
  6. 06.過去との遭遇(2)
  7. 07.過去との遭遇(3)
  8. 08.ケープ・コッドの紅葉
  9. 09.過去からの訪問者(1)
  10. 10.過去からの訪問者(2)
  11. 11.過去からの訪問者(3)
  12. 12.感謝祭
  13. 13.無情の雪
  14. 14.過去への誘い(1)
  15. 15.過去への誘い(2)
  16. 16.過去への誘い(3)  ※性描写あり
  17. 17.聖バレンタインの夜
  18. 18.疑念
  19. 19.不信の時
  20. 20.過去との再会(1)
  21. 21.過去との再会(2)
  22. 22.過去との再会(3)
  23. 23.春の嵐(1)