千年呈露の祈り

【呈露/ていろ】隠れていたものが、表面に出てくること。

 追南はもうすぐ死ぬらしい。
 と白萩が気づいたときにはもう、そこには床に伏す追南の姿しかなかった。いつもどおりの姿形。しかし触れた瞬間崩れ落ちるような、そんな儚さを纏って。

「来てくれたのか」
「うん」

 古い、和室だった。
 紙と木の匂いが調和して揺らぐ、いつもの部屋。白萩が、追南と話をするときに使う部屋。その部屋に、追南は伏していた。
 最初のうちは庭や厠へ出歩いていたものの、今ではもうそこから微動だにしない。厠へは、白萩が眠っているうちに行っているようだが、それ以外では、白萩が見ていようと見ていなくとも、そこから動くことはなかった。

 この部屋に縛り付けられているみたいだ、と言ったのはどちらからだろうか。
 よく二人で他愛のない話をした部屋。茶を飲み食事をした部屋。仲間を呼んで大勢で過ごした事もある。
 その部屋で固まったように伏して、時間の経過と生きる追南。時間が過ぎるのを待って何になるだろう。それは恐らく死ぬのを待っている事にならないだろうか。その事で白萩は一度抗議した。しかし追南にはそれ以外にすることがなかった。じっとして、時間を待つくらいのことしか。
 追南は動けない。動けないのは体だけでなく、精神も、なのだろうか。
 白萩はひどく心配した。心配性とは程遠い性格の白萩だったが、今時だけは人が変わったようであった。追南の精神が崩れ落ちる寸前なのに対して、白萩の精神は張り詰めた糸のように緊張していた。

 この部屋の、紙と木の匂いは昔から変わらない。その奇妙さすら感じさせる調和した香りは、人や、時間、何ものもが踏み入っても変わることはなかった。
 しかし、追南との関係はどうだろう。
 追南がもう時期死ぬかもしれないと分かった瞬間、それは一瞬にして崩れ去った。長く時間を過ごした仲なのに、今は話が交わらなく、混ざらない。会話がない訳ではない。しかしその会話の流れが、常に何かを警戒しているようなのだ。
 おそらくその何かが何かは、追南も分かっているだろう。
 白萩は言葉を噤んだ。何度言葉を交わせども、全て暗闇の渦に巻き込まれてしまうから。全ての言葉が、辛くなるだけだから。
 
 故に、この部屋からなるべく離れないようにする。この、崩れ落ちそうな追南から離れないように、白萩はこの家に留まる事にする。
 この部屋に縛り付けられたのは追南だけではない。
 白萩も、いつの間にやらこの部屋に括り付けられていたのだ。


「蝉が鳴き始めたな」
 といきなり声がするものだから、白萩の心拍は跳ね上がった。音のない部屋にいきなり声が落とされる。白萩は、その音の発信体が追南だとすぐに気づくことができなかった。背を向けて、布団を頭までかぶって、もはや人型ともつかぬ形は、白萩の意識から遠く離れたところにあった。

「そうだね」
 と、本を閉じて白萩は返事をする。
 蝉の声。
 それまで気づかなかったが、確かに蝉の声がする。しかし、どこか遠くで。
「何度目の蝉だろうか」
「君の場合、千回は聞いているんじゃないの」
「そうかもな」
 追南は季節を重んじる人間であった。白萩はそれをよく知っている。春には花を愛し、夏にはその熱と生きる。秋には豊作を祝い、冬には深雪に隠れるように暮らした。
 その追南が、季節の訪れを、こうして伏しているうちにも見つけることが出来たのだ。

 追南はまだ、死なない。
 白萩は確信した。追南の魂はまだ死んでいない。今はこうして伏しているが、じきによくなるだろう。そうして夏の世界に飛び込んでいく。太陽が燃やす夏の世界に。

「……来年も、さ、」
 来年も、きっと蝉の訪れを感じることが出来るだろう。追南と共に。きっとその頃は、今年のことなどすっかり忘れて、夏の熱の中に生きているだろう。
 そうして、白萩はその夏の日を文に記し、追南は絵の具に夏の思いを宿らせるだろう。
 追南は、いつか白萩の詩に絵をつけてやると言った。それがその時だといい。去年のことを追南が絵の具で塗りつぶし、その上に言葉を並べていく。
 それがいい。
 来年は、そうしたい。

「……あの、来年さ、」
「来年はもう、無理だろうな」

 ばたん、と乱暴に本を置く。
 本を置いて、そして白萩は身を乗り出す。しかし乗り出したのはいいが、それからどうしようか思いつかない。どうしようとしたのだろうか。いっそ、目の前にある布団の塊を殴ってやろうか。

「千回も聞けばもう飽き飽きだ。来年はもういい」
「……よくない」
「もういいんだ白萩。白萩には分からないだろうが、僕は永らえすぎた」
「よくない!」

 ばし、と白萩の手が、追南の頭辺りを叩いた。布団をかぶっている為分からないが、おそらく頭の辺りだろう。

「よく、ないよ。君はまだ永らえる。千年生きてきたなら、二千年生きたらいいじゃないか。私はおそらく百年も生きられないと思うけど、でも、君は二千年を生きるんだ」  
 まだ死んではいない。
 追南はまだ死んでいない。死なせてはいけない。
 夏の香を感じることの出来る魂が、遠くの蝉の声を見つけることが出来る冴えた神経が、まだ生きている。
 まだ生きられる。この夏も、それからほかの季節も、追南は生きていける。
 絶対に生き延びさせる。自分と共に。
 白萩は瞬時にして強い願いを込めた。そうして追南の永遠を祈った。

「白萩」
「なに」
「蝉を」
「蝉?」
「蝉を捕ってきて欲しいんだ」
 そうしたら、何か変わるかもしれない。何か分かるかもしれない。そう追南が言う。
「どうして」
「何となく。蝉を捕ってきて欲しい。脱け殻でもいい、いや、むしろ……、脱け殻がいい」
 その時初めて、追南と目が合った。
 布団から這い出た追南の姿が弱々しく見える。それと同時に、その這い出る姿が脱皮のようにも見えた。

「頼める、か」
 追南の口調がやけに深刻なので、白萩は何も言うことが出来ない。
 何か言わなければ。返事の言葉を、何か。

 追南の姿を目に収める。瞬きをする。そうして、黙って頷く。それくらいしかできない。

「ありがとう」

 頷く、それだけでもいいのかもしれない、と思ったのは頷いた後であった。
 しかしその感謝が白萩の耳に届いた瞬間、追南の全ての言葉が、全ての姿が、自分のための遺言のような気がして、悲しく思えた。



 それから、毎日。
 白萩は林に入って蝉の脱け殻を捕ってきた。一日ひとつ。その日見つけた一番きれいなものを。
 そして、その脱け殻を追南の目の前に置いていった。一日一日増えていく脱け殻は、日に日に列を成していく。追南の頬の分くらいから、やがては顔の分くらい。
「いずれは君の体の分よりも並べてみせるよ。それまでに体調をよくすれば、君の勝ちだ」
 そう白萩は追南に告げる。
 追南はその都度「どうだろうか」とはぐらかしていたが、白萩は追南が次第に良くなってきているのではないかと思った。脱け殻の数が増えると共に、追南の口数が増えたのだ。
 そして、脱け殻の数は首辺りにさしかかる。

「もうすぐ君の胴体までたどり着くよ」
「そうだな」
 などと言葉を交わし、夏の日々を過ごした。伏した追南と、その横にいる白萩。
 
 来年は、きっとよくなっているはず。
 よく、なりますように、と、白萩は毎日祈りを欠かさなかった。

 そうして、脱け殻が胸部辺りに差し掛かった頃。夏の日が、終わりに向かっていた頃。

 その夏の日と、これからの夏の日は永遠の終わりを告げた。
 夏の烈日の中、脱け殻の横で伏したまま。

 追南は死んだ。



 やがて、これから、の無い肉体は、ただ朽ちるばかりでしかない。なら、早く埋めてやろう。追南なら土葬がいい。そのままの姿で、土に埋めるのがいい。

 いつも蝉の抜け殻を探した林に入っていく。いつもながら、ここは暗い。
 適当な奥地に、ざく、ざく、と手で土を掘る。土を掘って、穴を作る。
 白萩は、追南の死んだ翌日に土を掘りに行ったが、一日でその穴は完成しなかった。翌日に行っても完成はせず、結局三日を使ってその穴を完成させた。降り注ぐ蝉の声は御経のように聞こえた。

 家から、追南の脱け殻を連れて、林に入る。
 追南の体は軽く、白萩でも軽く持てるほどであった。その姿はすでに違う人に見えて、白萩はその姿を見ないようにした。 

 ぽっかりと暗く深く開いた穴に、追南の姿を埋める。顔は見ない。うっかり見てしまわないよう、すぐに土をかける。
 顔に土をかけたら、胴体にも、足にも、土をかけていく。見えなくする。ぽっかりと開いた穴を、埋めていく。

 きっとよくなる、はずだったのに。

 追南が死んだ日、追南はいつもと同じ姿をしていた。いつもの夏と変わらない姿。伏しているのは眠っているからで、じきに目を覚ますだろう。そして、しまってある画材を取り出して、色を白紙に並べ始めるのだ。

 どうしてこんなにいきなりに。
 そう急がなくてもよかったはずだ。
 何が彼をそうさせた?
 何が彼の衝動を引き立てた?

 白萩には分からない。
 千年を生きたという生き物は、こうしてすぐに目の前から消えるものなのだろうか。それとも、千年を生きたからではなく、生き物だから、こうして消えたのだろうか。
 土の下に追南がいるという感覚は、理知的な白萩を惑わせる。意識を凍えさせる。いっそ鳥肌がたつほどに。しかし蝉の経はそれを許さず、熱ばかりを煽っていく。

 土を全てかけ終わる。そこには、最初から何もなかったかのように平坦な世界が広がっている。
 熱の大地に両足を突き立て、蝉の声を聞き、汗を流す。林の天井を見つめたら、木漏れ日のせいで目が痛くなった。しかしそうしなければ、白萩の思いの結晶は、雫となって土の大河に届くだろう。
 追南のことは笑わなくてはいけない。ああ死んでしまったかと、笑うべきなのだ。
 それにここは、気分が悪い。薄暗い林の中。姿の無い蝉が木霊する、自分しかいない場所。いつまでもここにいるわけにはいかない。
 林の出口を目指して、足を踏み出す。踏み出す気力がなくとも、行かねばならない。
 しかし、踏み出した右足の、何かをざくりと潰した感覚にぞっとして立ち止まる。
 目を伏せて、それが蝉の姿だと気づくまでに、少し時間がかかった。伏せた目は雫を溜める器にはならなかった。

 追南は蝉に生まれ変わるらしい。
 後に追南の家で見つけた、遺書ともとれる手紙に、そう書いてあった。
 手紙は簡潔なもので、ほんの走り書きのようなものだった。
 その走り書きの隅に、次は蝉に生まれ変わるから待っていて欲しいという言葉が書いてあったのだ。
 白萩はその手紙を破り捨てた。

 蝉に生まれ変わるくらいなら、生まれ変わらないほうがいいだろう。
 生まれ変わる? それはもはや、輪廻転生の呪いじゃないか。折角、永遠の最後と思い、綺麗に埋めてあげたのに。
 白萩は、破り捨てた手紙の切れ端を、また細かく破く。どこまでも小さく破いていく。こんな手紙は有効ではない。原型が何だったか分からないくらいに破いてやる。そして、それから、毎日集めた蝉の脱け殻も砕いてやろう。未だ布団の横で並ぶ、葬列のような脱け殻を。追南の頭の天辺から、ちょうど心臓の辺りまで並んだうつろな形。
 決して追南を生まれ変わらせはしない。

 線香の香が、部屋を包んだ。
 この線香は、破り捨てた手紙と、崩れた蝉の脱け殻のための手向けだ。追南のためには何もしない。埋めてやったのだからそれだけでいいだろう。
 今までずっと変わらなかった木と紙の匂いも、今は線香でかき消されている。部屋の匂いは変わりはて、追南もいなくなって、ここは知らない部屋のようだ。 
 ただ変わらないのは、未だ外の世界が熱の中にあり、蝉の声がけたたましく響いているということだろうか。もう傾いているはずなのに、まだ夏は去らない。
 いっそのこと、その夏の熱で全て燃やし尽くしてくれたらいい。何も残さないくらいにきれいに。

 ざああと蝉の時雨れる頃。
 白萩の望んだ夏の日はもう一生来ないというのに、今年の夏はとても長い。

千年呈露の祈り

(100825 120225修正)

千年呈露の祈り

【呈露/ていろ】隠れていたものが、表面に出てくること。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-06

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