デメテルとマグノリア

 花冷えの季節に青い花を見た。
 小さい、草っ原にたくさん生えているような花じゃない。大きめの花びらを五、六枚つけた、川原にあるでっかいたんぽぽくらいの大きさだ。マフラーを手放せないでいるのに、もう花? 
 ぼくは近づく。辺りの芝生もくすんだ茶色を晒している中で、悪目立ちってくらいに目立っているそれ。青、といっても色々だけど、この花を目にした瞬間、あぁこれが青色なんだな、と納得してしまった。
 風が吹く。
 手を伸ばした先の青い花は、消えていた。
 

「わたしは桜の花よりも、ハクモクレンが好き」
 首をかしげたぼくに、魔女さんは「大きな花びらのね、白い花の咲く木」と教えてくれた。さすが魔女さんだ。と言ってもこれはもちろん、本名じゃない。植物や動物に詳しくて、築何百年にもなりそうな、森の奥の家に住んでいるから、魔女さんと呼んでいるのだ。ぼくの兄さんのお嫁さんの妹。彼女もおばさん、より、魔女さん、のほうが気に入っているらしかった。
「この森にはないの。街中の街路樹…だったかな」
 頷いた。魔女さんが言うなら間違いない。たぶん。
「桜、見に行った?」
「まだ。人が多いのは好きじゃない。夜桜見に行かないかって、誘われたけど寒いし、断った」
「ふふ。らしいなぁ」
「魔女さんは? なんで桜は好きじゃないの」
 ぼくが訊くと、「好きじゃないまで言ってないよ」と、魔女さんはころころ笑った。
「人のことは言えないかもしれないね。わたしも人ごみは苦手だし。大きな公園の木だと、夜のお客さんのためにランプなんかが付けられちゃうでしょ? あれは…うん、苦手だな。きれいな花を人間だけで独り占めしようとしてるみたい」
 それに、と魔女さんは付け足す。テーブルの上に並べた野草を選びながら、
「桜の花が落ちるときって、必ず萼が上に来るでしょ。なんだかぞっとしない?」
「そう……なの?」
 そこまで注意して見たことはなかった。
 ぼくが思わずノートから顔を上げると、
「あ、やっと顔、見せてくれた」
 はにかみ笑いが返ってくる。おとななのに、魔女さんはたまにとても子供っぽい。
「今度見てみるといいよ。散ってるものじゃなくて、花が丸ごと落ちちゃうの」
「うん」
 二人とも無言になる。ぼくは宿題をしているし、魔女さんは食べられる葉っぱとそうじゃないものをより分けるのに忙しいのだ。でも、ぼくはこの時間が好きだった。兄さんが家からいなくなってから、ぼくは一人になる時間が増えた。遅く帰ってくる父さんと母さんはそれを心配して、ぼくと魔女さんを引き合わせたのだった。魔女さんは、自分で作った野菜や洋服、バッグなんかを売りにいくほか、ほとんど森から出てこない。だから見かねた兄さんのお嫁さんが「ほら、家族なんだから!」と、強引に話を持ち出して成立させてしまったのだ。どちらも自分から人に話しかける性格じゃないから、挨拶をしたきり、会話が続かなかったのだ。それで自然と、こんなふうに、それぞれ好きなことをするようになった。
 ぼくが下校してから、森が暗くなってしまう前までの時間。静かに時計の秒針の音が響く時間。
「サクちゃんさんは嫌いなのよね、この季節」
 サクちゃんさん。ぼくの兄さんのことだ。
「春は溶けていくからいやなんだって」
 ぼくは終わった宿題をわきによけた。魔女さんの入れてくれた紅茶をすする。今日はシナモンが入っている。おいしい。魔女さんは戸棚から、砂糖の焼き目がくっきりついた焼き菓子を出してくれる。お礼を言って、すぐにそれを口に運んだ。
「溶ける? 面白い表現」
「あの人変わってるから。空気がもやっとしてるのが、ってことじゃない?」
 とはいえ、一応擁護はしてみる。
 空気があったまる。でもそれだけじゃなくて、春がすみ、って言葉があるし、ゆるんだ空気の中に、いろんなものが溶け出していくふうに見える…って、サクちゃんは言いたいのかもしれない。寒さをあちこちに潜ませながらも、あらゆるものの輪郭をゆるりと崩していく。変わり者で、そして几帳面な兄さんは、曖昧なものを嫌っているかもしれない、そういえば。二人で分けろって言われたお菓子を、きっちり二等分してないと不機嫌になってたような人だ。
「しっかりしてるもの、サクちゃんさん。姉さま、いいひとと結ばれて良かったわ」
 魔女さんも焼き菓子を手に取る。良かった、と言うわりに、表情が暗かった。
「わたしは溶けるからこそ好きよ。溶け合うの。調和。全部がまぜこぜになって、巡ってゆく」
 ひとりごとみたいに、魔女さんは窓の外に目線をやった。まだ森の奥には冬が居座っている。針葉樹の落とす灰色の影のすきまに、絹の糸みたいな細い光がちらちらと見えていた。
「混ざって、巡って。いのちが循環するようすをね、感じられるから」
 ぽかんとしているぼくに気づいたのか、魔女さんははっとしてように瞳を揺らした。
「ごめんごめん。変なこと言ったね」
「魔女さん、さみしいの?」
「どうして」
「なんとなく。そんな感じがしたから」
「……ううん」
 いつも通りでもちょっと違う。靴ひもの結ぶ硬さが変わった、くらいの違和感があった。でもぼくは、それ以上のことを聞くことができなかった。

「青い花? んなのあちこちに咲くでしょ」
「あれじゃなくて、もっと大きいさ、このくらいの」
「魔女さんに聞けば?」
 「……」
 すぱー、と細いタバコの煙を吐き出す母さん。だから、それができなかったからこうして話してるっていうのに、この返しはあんまりだ。
「でも、夢の中だったんだろう? じゃ、本当にあるやつじゃないかもしれない」
 食器を洗いながら父さんが言う。うちはみんなで家事を分担していて、今日の皿洗いは父さんが担当なのだ。けして母さんの尻に敷かれているわけではない、と、思う。
「二人共ロマンがあるねー。まぁでも、青って珍しいんだっけ?」
「そうそう。花の元々持っている色素の関係でね、種類によっては、今も研究中のものがあるんだったかな」
「ふぅん」
「いや、そろそろ本格的に春になるのかぁ。眠くなって困るなぁ」
「父さんは年中そんな感じだし………」
 もうこの話を切り上げることにして、ぼくは自分の部屋に戻る。
 持っている植物図鑑には、ぼくの見た青い花に似たものはなかった。やっぱり父さんの言うとおり、現実にない、ぼくが想像しただけのものかも。そう考えると、魔女さんに話さなかったのは良かったことなのかもしれない。そんな花はない、と言われてしまったら、ぼくは恥ずかしさでどうにかなってしまう。
「ん?」
 恥ずかしいのか。そうか。
 自分で思ったことなのに、なんか意外だった。
 でも、どうしてあの花は消えてしまったんだろう。それこそ「本当には存在しないもの」だから、掴めるわけがないってことなんだろうか。想像のものには触れない。決まってるわけじゃないけど、空想小説によくある設定な気がする。それともまた、別の理由? 別の――花の幽霊とか。 見える人には見えるまぼろしとか。……だめだ、推理小説で使っちゃいけない禁じ手みたいじゃないか。本の読みすぎもよくない。突飛な方向ばっかりに考えが向かってしまって、集中できない。
 ここは羞恥心を押さえ込んで、魔女さんに聞くのが一番だ。明日の朝、学校に行く前に魔女さんの家に寄ろう。朝は忙しいだろうか。だったらぼくも手伝いをすれば良いのだ。野菜の収穫だとか、植木鉢への水やりだとか、掃除とか。いつもお世話になっているから、それくらいのことはしなくちゃ。むしろ、今まどうしてやってこなかったんだろう。家に押しかけてきてお菓子食べるだけ食べて帰る、失礼な子供だって思われていたかもしれない。
 魔女さんとはこれからも、仲良しでいたい。そのためならぼくだって、これしきの努力は惜しまないのだ。

 でも、次の日。
 これから、は、やってこなかった。
 
 太陽が顔をのぞかせたすぐ後の時間、ぼくは魔女さんの家に向かった。せまい川を越えて、きれいに整えられた道を、いつものように。
 ただ、魔女さんの家がまとう雰囲気は、いつもと違っていた。カーテンが閉じられている。玄関のあたりに溜まっている落ち葉が風でぶわっと広がって、あちこちに茶色と黒をばらまいた。
 玄関のベルを鳴らす。数回やっても返事はなく、ぼくは諦めてきびすを返した。あまり考えられないけど、もしかしたら魔女さんは起きるのが遅いのかも。それか、今日に限って体調を崩しているのだ。急ぎの用事じゃないし、また今度にすればいい。
 がっかりしている自分をそうやってなだめて、来たばかりの道を引き返す。と、家の隣、畑から物音がした。何か倒れるような、重い音だ。 
 そうか、畑でお仕事をしているのかもしれない。
 ぼくは家の角を曲がって、そこで、魔女さんを見た。畑にうつぶせになるようにして倒れている。隣には手袋と、はさみやたくさんの手入れ用の道具。
 ぼくは地面に張り付いてしまっていた足を無理やり動かして、慌てて駆け寄った。
「魔女さん! どうしたの大丈夫」
「…ん、――が、ね」
 小さい声で聞き取れなかった。ぼくよりも大きい魔女さんの体を起こすのは一苦労だったけど、なんとか呼吸しやすそうな姿勢にすることができた。
 白い肌にも長い髪にも泥が付いていたから、取り出したハンカチでそれをぬぐった。
「ハクモクレンが、散っちゃう」
 魔女さんが好きだって言ってた花だ。
 でもぼくはどうして魔女さんがそう言うのかわからなくて、黙ってしまう。魔女さんは、はにかんだ顔でぼくの耳に口を寄せた。
「わたしが花の妖精って言ったらびっくりする?」
「え」
「うふふ。嘘だけど……そう、なりたかったなぁ」
 言って、魔女さんは目を閉じる。
 なんの知識もないぼくにだって、このままにしておくわけにはいかないことは判断できる。でも魔女さんの手はぼくを引きとめるみたいにシャツを力強く握りしめていて、口からはかすかな、淡雪みたいな言葉がこぼれていた。
「姉さま、言わなかったんでしょう。わたしの体のこと。もうとっくに、ここからなくなってたっておかしくなかったのに」
 体がなくなる。
 それって、つまり。
「お話しして楽しいひとに出会ったら、頑張ってしまうわ」
「ぼくのせいで無理してたの」
「無理じゃないのよ」
 咳き込んでも、それでも魔女さんは言葉をつないだ。ぼくもそれをやめさせてしまうことができなくて、ただ、耳を傾けた。
「わたしの初めてのお友だちよ。昔から、姉さまのあと付いてっておまけ扱いされて、でも自分からお友だちなんて作れなくて。作り方がわからなかったの。お花たちしか、ね、お友だち、いなかったの」
 魔女さんの大切にしている植物。それらはみんな、魔女さんの友達だったのだ。役に立つもの、なんかじゃない。ぼくは少しだけ、自分に嫌気がさしてしまった。魔女さんを、物知りな便利屋さんだと思ってなどいなかったと、自信をもって言うことはできない。花や色々なことを魔女さんが教えてくれたのは、自分の友達のことを、知って欲しかったからだったのかもしれないのに。
「ありがとうね。……今度、ハクモクレン、一緒に見に行こう?」
 ふ、と魔女さんの手から力が抜けていく。
 春の空気そのものみたいに、やわらかに美しい魔女さんの手。何でも自分で作る指の先だけは荒れているのだと、今さら知った。
 

 魔女さんは小さい頃から体が弱く、今までも何度か入退院を繰り返していたらしい。お医者さんにそれほど長くない、と言われたのをきっかけにして、あの家に住むようになったのだそうだ。一人でふさぎ込んでしまった魔女さんを気の毒に思った「姉さま」が、ちょうど良くぼくを見つけて、そしてあの、二人で過ごす時間が始まった、というわけだったのだ。
 魔女さんのあの家は、そのままとって置かれることになった。いつ彼女が帰ってくるかわからないから、勝手に売りに出すなんてやめてくれと、姉さまが譲らなかったのだ。 街の役人は、「あの家がなかったら開発が進むんだが」とぼやいていた。森を切り開いて、人間が住みやすい場所にしたいのだそうだ。
魔女さんが大事にしている植物はどうなるんだ? 役人の持ってきた案に大反対をしたすえ、ぼくたちが代わる代わる手入れすることになった。使う人がいないと、建物はあっという間にボロボロになってしまうから。
「でも、ぼくがいいんですか?」
 お邪魔する機会は多かったとはいえ、血の繋がりもないただの子供に出入りを許可していいんだろうか。おそるおそる尋ねると「当たり前だ」と、兄さんが言った。
「あの人の、人間の一番の友達はお前なんだろう」
 姉さまも頷いている。だから、そうすることにした。
 いま、ここよりずっと都会にある病院に魔女さんは入院している。また前のように生活することもできるのだそうだ。
 ただ、苦しい治療や辛いリハビリが待っている。ぼくも魔女さんを応援しに行きたいけど、働ける年齢じゃないぼくにはお金がなかった。だから代わりに、たくさんの手紙を書いている。学校で楽しかったこと。大変だったこと。魔女さんの庭に咲いた花のこと。最近覚えた料理。サクちゃんさんと姉さまがケンカして、なぜか姉さまがうちにやってきたこと。でもすぐに仲直りしたこと。便箋が真っ黒になるくらい、ぎゅう詰めにして送り続けている。
 返事はぼくの手紙の半分くらいしかこないけど、でも良いのだ。書けなかったぶんは、魔女さんが退院してから一緒に話すために取ってあると思えるから。
 ハクモクレンの季節までは、まだ少し先だ。というか、初雪が降ったばかりだから、まずはこの冬を乗り切らないといけない。都会はこっちよりもあったかいらしいから、少しは過ごしやすいんだろう。今回一緒に見れなくても、また次の年に見に行ける。
 ぼくは魔女さんが元気になるまで、待ち続けるつもりだ。
      

 氷雪の中に咲く、青い花を見た。
 大きめの花びらを五、六枚つけた二輪。同じ背丈に伸びたそれは、時々もたれ合うみたいに風に揺れて、またひとつとひとつに戻る。絡まらない細い葉。
 近寄れば、花びらもそれぞれ色合いが異なっているのがわかる。人間の表情みたいだな、とぼくは思った。喜怒哀楽。曇った青も白っぽい青も、晴れた青も全てが、この花をつくる色なのだ。
 ぼくは近寄り、手を伸ばす。足元で尖った音がした。
 さわれる、と思ったそのとき、ぼくの肩にかかる手があった。切りそろえられた爪。白くて細くて、先が少し荒れていて。

 ハクモクレンが咲きほこるまで、もう少し。

デメテルとマグノリア

デメテル(豊穣の神さま)は春の星座、乙女座のモデルだということでこじつけました。
本日で、星空文庫に投稿を始めてから一年になります。今後ともよろしくお願いいたします。

デメテルとマグノリア

春をめざしたかった。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted