Samsara ~愛の輪廻~ Ⅱ(完結済)

愛の輪廻―― 命に限りがあるように不滅の愛は存在しないかもしれないけれど、死と再生を繰り返す永遠の愛は在ると信じたい……



~亜希、その愛Ⅱ~

01.運命の再会(1)

耕平と亜希は結婚一年目を機に静江の家を出て二駅ほど離れたところにマンションを購入した。
東京と違って専有面積が広く価格も手ごろで、耕平の都内のマンションを売却した分で大半を支払い終える
ことができた。徒歩で最寄りの駅まで二十分足らず、近くには緑に覆われ広々とした公園もあり、二人は
とても気に入っている。
家を出ることは若い二人に配慮した静江の提案で、彼女とは今でも実の親子のような関係が続いている。


穏やかな春の昼下がり、耕平は公園のベンチに腰掛け日曜版の分厚い朝刊に目を通していた。
傍らのベビーカーの中で亮が気持ちよさそうに寝息を立てている。目鼻立ちの整った利発そうな顔をしている。
二歳の誕生日を迎えた頃から急に言葉数が増え、赤ん坊から幼児に脱皮したように何にでも興味を示すように
なった。耕平は家にいると自分に(まと)わりついてくる亮が可愛くてたまらない。男の子用の玩具を見ると、つい
買ってしまう。まだ歩き始める前から本格的な野球道具を買い揃え、いつか父子でキャッチボールをする日を
楽しみにしている。『あなたは亮に甘すぎる』とよく亜希に(いさ)められる。そう言う彼女も耕平の眼から見ると
舞には甘く亮には厳しすぎる面がある。
小学生になった舞もまた、急におしゃまな少女に変貌してきた。髪形や服装を気にするようになり、ヘタな
ことを言おうものなら、どこで覚えたきたのか「パパは女の気持ちがわかってない!」なんてことを平気で
言ってのける。


「高村先生!」
一人の青年が声をかけてきた。
「その節は父がお世話になりました。…木戸です」

半年前から耕平は週一回、非常勤で東京の病院に戻っている。
二か月ほど前、彼の父親が脳梗塞で倒れ成都医大に運ばれてきた。幸い命は取り留めたが
左半身に麻痺が残った。

「ああ、木戸さんの… その後、お父さんのリハビリはどうですか?」
「おかげさまで順調です。先週からこちらに移って来て、週三回セラピストに来て
もらっています」
「それは良かった。ここは東京と違って空気もいいし、時間がゆっくり流れているから
焦らず気長に続ければ、かなりの回復は期待できますよ」
「そうなってくれればいいんですが… お子さんですか? 可愛いなあー」
木戸はベビーカーの中の亮に目をやった。

「こうやって眠っている時は静かでいいけど、やんちゃ坊主で困ります」
耕平は目を細めった。
「お一人ですか?」
「いや、六歳になる娘がもう一人。今、家内と一緒に池の周りを散歩しています」
「そうですか… じゃ、僕はこれで失礼します」
木戸が立ち去ろうとした時、ちょうど亜希が舞を連れて戻ってきた。

「あ、亜希!?」
「木戸、くん?」
二人は信じられないと言うように顔を見合わせたまま暫く言葉を失っていた。

「知り合い?」
どちらへともなく耕平が聞いた。
「ええ。亜希、いや、奥さんは音大時代の僕の ”大恩人” です」
真面目な顔で応える木戸が可笑しくて亜希は思わず噴き出した。


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木戸崇之と亜希は同じ音大に通っていた。
亜希がピアノ科二年の時、崇之のバイオリンの追試でピアノ伴奏をしたことがきっかけで親しくなった。
当時の彼はヨーロッパに留学し、すでにその才能に注目が集まっていた。木戸家は戦前の財閥の流れを汲み、
その家系は元華族や皇族とも血縁関係がある、いわゆる『華麗なる一族』だった。
崇之はその家柄と端正な容姿から女子学生の間で ”貴公子” と呼ばれ憧れの的だった。当の本人はそれを
ひどく嫌い、わざと下品に振る舞ったり平気で猥談をしたりしたが、ちょっとした仕草や言動の中に育ちの
良さが滲み出るのを亜希は見逃さなかった。
成金がどんなに頑張ってみても、つい ”お里が知れる” 行動をとってしまうのと同じように、人は自分の
生まれ育った環境を隠し通すことは容易ではないのだろう。
崇之のたっての希望で亜希が伴奏者に決まった時、女子学生の妬っかみと嫌がらせは相当なものだった。

亜希の通う音大は金持ちの子女が多かった。むろん、それなりの実力は要求されたが、それ以上に親の財力
寄付金がものを言った。高校までの亜希は常にコンクールで一位二位を独占していたが、学内の選考会では
いつも辛酸をなめていた。
亜希に中退を決意させたのは、イタリア留学を決める三年の春の選考会だった。直前に急逝した母、美沙子
へのレクイエムでもあるその演奏は誰をも感動させ、二位との差は歴然としていた。
今回ばかりは選考会のメンバーもそれを認めざるを得なかった。それで一旦は ”イタリア行き” を手にした。
だが数日後、緊急理事会が招集され選考会の決定は(くつがえ)された。理由は、亜希が銀座のクラブでピアノ弾きの
アルバイトをしていたことが問題視された。
大学側は学生のアルバイトを禁止しているわけではないが、場所が夜のクラブだったことが大学の品位を
著しく傷つけるというものだった。そして、亜希の代わりに二位だった理事長の遠縁にあたる学生が選ばれた。
崇之をはじめ、学生や一部の教授は理事会の決定に猛烈に抗議してくれた。が、亜希の退学の意志は固かった。
母の強い希望で入学したものの、最初から場違いのところに居るという違和感が常に付きまとっていた。
母が亡くなった以上、三年で中退することに何の躊躇いもなかった。むしろ、これでピアノから解放される
という安堵感さえ覚えた。



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「大、恩人?」
耕平は怪訝そうに聞き返した。
「ええ、留年の危機を救ってもらったのだから、僕にとっては大恩人です。
あ、先生は父の命の恩人だから、お二人にはたっぷりと恩返しをしないといけませんね。
……じゃ、失礼します」
木戸は爽やかな笑顔を残し公園の向こう側に消えて行った。
あの辺りには昔から大きな別荘がいくつかある。下界を遮断するようにどれも森の中にひっそりと
(たたず)んでいる。

「あの木戸グループの御曹司と亜希がご学友だったとは… お見それしました」
「やーだ、耕平さんったら。…木戸君、日本に帰ってたんだ。ヨーロッパにずっといると
思ってたのに……」
「お父さんのことで、急遽こっちに呼び戻されたらしいよ。一人息子だから、ゆくゆくは
木戸グループの後継者になるだろうしね」
「そうなんだ。才能あるのに、もったいないなあ……」


あれから四年、亜希は崇之のことをすっかり忘れていた。
彼の才能に魅了され淡い憧れを抱いていたこともあった。”貴公子” の奏でるバイオリンの音色に
酔いしれた学生時代が亜希の頭をふと、過った。


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崇之の心臓はまだ高鳴っている。
四年ぶりに自分の前に現れた亜希は人妻になっていた。二十五歳になる彼女が結婚していてもなんら
不思議はない。ただ、相手の男が高村耕平だったことに動揺した。
父の手術を執刀した外科医については母の雅子が必要以上に調べ上げていた。医師としての資質、経験、
評判はもちろんのこと、出身大学、家族構成に至るまで。その中には、ひと回りも年の離れた後妻の
ことも含まれていた。それが、亜希だったとは・・・


入学した当初から、成瀬亜希は気になる存在だった。
俗に言うところの ”ひと目惚れ” というやつかもしれない。着飾った人形のような良家のお嬢さんが
多いキャンパスで、彼女だけはいつも自然体で崇之のことを特別扱いせず普通に接してくれた。
デートに誘い、生まれて初めて断られた相手でもあった。ピアノ伴奏を頼んだのは、単に彼女に下心が
あったためだけではない。周りの学生たちのレベルが習い事に毛の生えた程度のものなのに対し、
ピアノ科の学生の中で亜希の実力は他を寄せつけなかった。にもかからず、彼女の才能はなかなか認め
られずにいた。
彼女の家庭環境のことはうすうす知っていたが、そのことが影響しているとしたら絶対に許せない、
抗議すべきだと熱くなったりもした。だが当の本人である亜希は覚めた目で理不尽な世の中を直視し、
冷静に現実を受け入れていた。そんな彼女に比べ、稚拙で世間知らずの自分がひどくちっぽけな男に
思え、自分の想いを告げることを躊躇った。大学を辞めた後、アメリカに行ったことは風の便りで耳に
していた。

歳月は確実に亜希を大人の女へと変貌させた。が、透明感のある自然体の美しさはあの頃と少しも
変わらない・・・
かつて密かに想いを寄せた学友との再会に、崇之は身体の中に何か熱いものが甦ってくるのを感じた。

02.運命の再会(2)

一か月ほどして、大学病院の耕平宛に木戸家から快気祝いの招待状が届いた。
別荘の庭でガーデンパーティ―をするらしい。印刷された招待状の中に『カジュアルの集まりなので、
舞ちゃんや亮ちゃんもお連れ下さい』と、崇之の手書きのメッセージが添えられていた。


「どうする、亜希?」
この種の集まり、特に病院関係のものに二人で一緒に出席することはほとんどない。
耕平が単独で行くか欠席のどちらかだ。やはり世間は、ひと回りも年の離れた夫婦を良い意味でも悪い
意味でも注目する。二人でいると、まず夫婦には見られない。年の離れた兄妹、教師と教え子、ひどい
場合は不倫の関係みたいな好奇な目で見られることもある。耕平はそんなことをいちいち気にしては
いないが亜希に嫌な思いをさせたくないので、そういった類の招待はなるべく辞退することにしている。
ただ、今回はちょっと事情が違うので亜希の意向も確かめることにした。

「耕平さんは?」
「俺は別にどっちでも… 君しだいだよ」
それは耕平の本心だった。
亜希はしばらく考え込んでいたが、「じゃあ、行ってみる?」と言った。

「…森の向こうの別荘にはちょっと興味あるし。でも、ほんとにいいのかしら、子供たちまで
連れて行って? 舞はともかく、亮はちょろちょろしてじっとしてないから…」
「外でやるバーベキューだし、まさか庭に国宝級の美術品があるとは思えないし、大丈夫だろ。
よし、みんなで行くとするか!」
亜希が言うように別荘見物も悪くないなと思った。

「ねえ、こういう場合どんな物を持って行けばいいの? やっぱり、高級なワインとか?」
「そうだな… 杏子にでも聞いてみるか、彼女そういうの詳しいから」
「杏子さん、日本に帰ってるんだ」
「ああ、なんか当分こっちにいるらしいよ」
「そうなんだ…」


社交家で華やいだ雰囲気を持つ杏子なら、こういう集まりにぴったりだと思った。
耕平と寄り添う姿は誰が見ても似合いの夫婦だろう・・・
一度、三人で銀座のレストランで食事をしたことがある。偶々、近くの席に以前耕平が担当した
患者の老夫婦が居合わせ挨拶にやってきた。ごく自然に杏子に向かって「奥様ですか、その節は
先生には大変お世話になりまして…。」と始めた。その場の成り行きで否定することもできず、
三人で気まずい思いをしたことがあった。
あの時以来かもしれない、亜希が公の場に耕平と二人で出席するのを躊躇うようになったのは。



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昨夜のアルコールが抜けきっていないのか、後頭部のあたりがズキズキする。
傍らで眠る杏子が大きく寝返りを打った。シェネル5の強い香りが漂う。その匂いが堪らないと
いうように耕平は煙草に火をつけた。


杏子とこんな関係になったのは、非常勤で成都医大に戻るようになって暫くしてからのことだった。
担当の患者が死んだ夜、ホテルのラウンジで一人飲んでいるところを偶然出くわした。
酒の勢いも手伝ってそのまま部屋に行ったのがきっかけだった。
最初のうちは金曜の朝一番の新幹線で東京に向かい最終で長野に戻っていたが、週末は製薬会社の
接待なども多く、泊まる回数が次第に増えていった。
女との情事の後どんなに遅くなっても起きて待っている妻の顔を見るのは、やはり辛いし気が引ける。
それで、金曜の夜はホテルか杏子のマンションに泊まり土曜の朝一で家に帰るようになった。
こういう生活がもう半年以上も続いている。

耕平はもちろん今でも亜希のことを愛している。杏子とは成り行きでこうなったまでで、何度も別れ
話を切り出した。が、その都度「あなたの家庭を壊すつもりなんて全然ないわ。週一でジムに通って
いるくらいに思えばいいじゃない。お願い、もうしばらく私のジム通いに付き合って」と、さらりと
交わされる。妻を裏切っているという後ろめたさがある一方で、杏子との濃厚なセックスを不倫など
ではなく、”週一のジム通い” と正当化している狡猾な自分がいる。
アラフォーの自立した女が何も求めず、ただ ”大人の関係” を続けたいという。
男にとってこれほど都合のよい浮気相手はいないだろう。


昨夜は銀座で同僚たちと遅くまで飲んでいた。杏子のマンションに着くと深夜を廻っていた。
さすがに今朝は身体が鉛のように重たくてだるい。一旦はマンションを出て東京駅に向かったが、
二日酔いのまま新幹線に揺られて長野まで帰る気になれず、いつものホテルでタクシーを降りた。
チェックインするとすぐに家に電話を入れたが、どこかに出かけているのか留守電になっていた。
携帯もなかなか繋がらない。自分は勝手なことをしているのに、妻が電話に出ないことに少し
苛立った。気を取り直しもう一度かけなおすと、すぐに亜希の声が返ってきた。

「あ、俺だけど… きのう飲み会で遅くなって、今起きたとこなんだ。来月の学会の資料も
まとめておきたいし、こっちにもう一泊して明日の朝一で帰るよ」
タクシーの中で考えた口実だった。
「そう、大変ね。でも、あんまり無理しないでよ」
夫の行動に何の不信も抱いていない、いつもと同じ明るい声が返ってきた。
「今、どこ?」
「お天気いいから、亮と公園に行くところ。舞は今晩、ユイちゃんちで ”お泊り” だから」
楽しそうな家族連れで賑わう公園の中の二人の姿を想像すると、耕平はすまない気持ちでいっぱいに
なった。
「そっか… 次の週末はどっかいいとこ連れて行くから」
「いやーだ、忘れたの? 来週の土曜は ”別荘見物” じゃない。あ、杏子さんに例のこと
ちゃんと聞いといてくれた?」
杏子の名が出て、耕平は一瞬たじろいだ。
「いや、明日にでも電話してみるよ」
「じゃ、お願いね」


電話を切ると、シトラス系の爽やかな香りが無性に恋しくなった。
ついさっきまで、()せかえるような濃厚な匂いの中で雄の本性を剥き出しにしていたくせに・・・
(俺はいったい何やってんだろ…)
重い身体を引き摺るように耕平は再びベッドの中に潜りこんだ。



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昼間は初夏を思わせるような陽気のせいか、公園内は大勢の子供連れで賑わっていた。
午後になると一人二人と帰り支度をはじめ、いつの間にか辺りはひっそり静まり返っている。
遊び疲れたのか、亮は腕の中で眠ってしまった。寝顔を見ているとだんだん拓也に似てくるような
気がして、はっとなることがある。赤ちゃんの時は「ママ似ね」と、よく言われたが、成長するにつれ
顔つきが変わっていくように思う。耕平は気づいているのだろうか・・・

このところ亜希は少し疲れていた。自分がとても無理をしているような気がする。子育てにも自信が
持てない。少々反抗期気味の舞をどう扱って良いのかわからなくなる時がある。どこかに遠慮があって
その分、つい亮に自分の感情をぶつけ叱ってしまう。
耕平は大学病院に戻ってから東京泊まりが多くなった。家にいる時は極力子供たちとの時間を大切に
してる夫に愚痴っぽい話はしたくない。こんな時、静江がそばにいてくれたら良い相談相手になって
もらえるが、一人暮らしの姉が倒れその看病のために千葉へ行ったままだった。
陽が落ちると少し風が出てきた。頬にひんやりと心地よい。このまま人気のない真っ暗な家に帰る気が
しなかった。


「亜希!」
背後で自分の名を呼ぶ声がした。バイオリンケースを抱えた崇之だった。あの日以来ここで何度か
出遭っていた。この公園を通り抜けたところに別荘に続く私道がある。

「どうかした? こんな時間に亮ちゃんと二人きりで」
崇之は心配そうに尋ねた。
「ううん… 今夜、高村は東京泊まり、舞もお友達の誕生会で ”お泊り” なの。
夜風があんまり気持ちいいんで、なんだか家に帰りそびれちゃって。木戸君は?」
「ずっとこっちに置いたままだったから、メンテに行ってその帰り」
バイオリンケースを持ち上げる格好をした。
「…駅からまっすぐ帰るつもりだったけど、なーんか急に歩きたくなって。
今そこでタクシーを降りたとこ」
「そうなんだ…」

「もう一度、聴きたいなあ…」
夜空を見上げながら亜希は独り言のように呟いた。
それに応えるように崇之はいそいそとバイオリンケースを開けた。

「えっ、うそ、ホントにいいの!? うわぁー 木戸崇之のバイオリンが星空の下で
聴けるなんて、最高のぜいたくぅー!」
瞳を輝かせ少女のような弾んだ声を上げた。

「じゃ、Just for you―」
そう言うと、あの追試の時と同じフォーレの『夢のあとに』を弾きはじめた。
心に沁み渡るような物悲しく美しい旋律が夜空に響く――
亜希は静かに目を閉じた。曲がクライマックスに達すると突然、涙が溢れだした。感情が高まり
身内に熱く込み上げてくるものをどうすることもできない・・・
崇之は手を止め、そっとハンカチを手渡した。彼女が流した涙の意味は分からない。ただ、亜希を
このまま誰もいない家へ帰してはいけないような気がした。

「晩ごはん、まだだろ? ちょっとイケるピザの店があるんだ。
これから付き合ってくれない?」
亮が目を覚ましキョトンとした顔で崇之の方を見た。
「いっしょにピザ食べに行こうか?」
亮は「うん」と大きく頷いた。

タクシーで二十分ほどのところに、そのイタリアンレストランはあった。
ナポリの港町をイメージした洒落たインテリアの店内は若いカップルが目立つ。ウェーターは
亮に気づくとすぐに子供用の椅子を用意してくれた。耕平とこういう店に来ることはない。
子供たちが一緒だとファミレスのようなところが多いし、二人の時はもう少し(かしこ)まった感じの
店に行く。と言っても、最近では二人で食事にでかけることは滅多にない。
母親の心配をよそに、お腹が空いたのか亮はおとなしくピザを頬張っている。おかげで亜希は
久しぶりにワインを片手に崇之と学生時代の話や音楽の事を思いっきり語り合うことができた。


「木戸君、きょうは本当にありがとう。すっごく楽しかった」
「こっちこそ。初めてのデートはみごとにフラれたもんな、覚えてる?」
崇之は悪戯っぽい笑みを浮かべ片目を瞑った。

「木戸君…」
「ん?」
「絶対、バイオリン続けてね」

崇之はそれには応えず「また亜希のピアノが聴きたいな」とだけ言うと、待たせてあった
タクシーに乗り込んだ。

03.ときめきの時間(1)

木戸邸の別荘でのガーデンパーティーは、庶民が庭で楽しむようなささやかなバーベキューパーティ―とは
桁違いの、豪勢なものだった――
一流ホテルのシェフが肉や魚介類を大きな炭火のグリルで豪快に焼き、目の前で切り分けてくれる。
外国人招待客を意識した焼き鳥や寿司の屋台もあり、職人が注文に応じて江戸前寿司を握ってくれる――
さながら、在外日本大使館や領事館の園遊会といったところだ。
子供同伴を心配していたが、庭の一角に遊び場が設けられ保育士の資格を持つ派遣のベビーシッターたちが
招待客の小さな子供の相手をしてくれる。


杏子の広告代理店は木戸グループの関連会社とも取引があるらしく、木戸一族の事情に精通していた。
なんでも、現当主である崇之の父、木戸祥吾は婿養子らしい。先代の崇正には男子はなく三人娘の長女、
雅子が跡を継いだ。次女の節子は前政権で大臣まで務め上げた大物政治家の息子に、三女の妙子は皇族
とも血縁のある旧大蔵省の官僚にそれぞれ嫁がせている。旧態依然とした政略結婚が今もなお続いている
というわけだ。今回祥吾が倒れたことで俄然、二十六歳の若き後継者、崇之の花嫁候補に注目が集まって
いるらしい。

「高村先生、その節は大変お世話になりありがとうございました。
先生がいらっしゃらなければ、今頃どうなっていましたことやら…」
「いいえ、すっかりお元気になられたようで何よりです」
「まあ、崇之の言う通り、ほんとうに素敵な奥さまですこと… 
どうか、ごゆっくりなさって下さいましね」
亜希のことを上から下までじろりと見て言った。

「今日はお招き頂きましてありがとうございます」
丁重に礼を言うと、雅子は軽く微笑み返し慌ただしく次の客のところへ向かった。
根っからの社交家らしく寡黙な夫に代わって招待客の間を蝶のように飛び回っている。

「まさに、”ソーシャル・バタフライ” だな」
「ああいうタイプ、ちょっと苦手かも」
小声で囁くと亜希はくすっと笑った。
「?… 木戸さんのお母さんとは初めてだったの?」
「ええ…」


亜希の話によると学生時代の崇之は、親しい友人でさえ自分の家や別荘に招いたことはなく、家族の
話をするのを極端に嫌っていたと言う。貧乏人が自分の親や家のことを隠したがるのと同じ心理かも
しれないと、耕平は思った。



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一人になるのを見計らったように崇之がそばにやって来た。
「見せたいものがあるんだ」と言って、いきなり亜希の腕を掴み走り出した。パーティ―会場の庭から少し
離れたところに、そこだけちょっと趣の異なる一角があった。鉄製(ロートアイアン)の扉を開け足を一歩踏み入れると、
そこはまさしくバーネット夫人の小説『秘密の花園』にでも出てくるようなイングリッシュガーデンだった。
五月の暖かい光を浴びて赤・白・黄色の薔薇が咲き乱れ、甘い香りが辺り一面に立ち込めている。
花たちに囲まれるように白いフレームで縁取られた全面ガラス張り、ヴィクトリアン調のコンサバトリーが
半円状に突き出ている。亜希は一瞬、英国の田舎町にでもいるような錯覚に陥った。
崇之に促され中に入ると、二十畳ほどのスペースの中央に、その存在感をアピールするかのようにどっしりと
した構えの年代物のグランドピアノが置かれていた。かなり古い物のようだが、手入れが行き届いていること
が一目でわかる。


「三年前に亡くなった祖母が、とても愛したものなんだ…」
いとおしむようにピアノに触れた。
崇之の祖母、木戸美貴は外交官だった父親の仕事の関係で少女期の大半を英国で過ごした。
幼少の頃からピアノをはじめ、亡くなる直前まで弾いていたという。晩年はこの別荘に移り住み、
ここでアフタヌーンティーをしながら崇之のバイオリンを聴くのを何よりも楽しみにしていた。

「何か、弾いてみて!」
「……」
亜希が戸惑っていると、崇之はさあ、と言うように目で促した。
躊躇いがちにピアノに向かい小さな深呼吸をひとつして鍵盤の上に十指を滑らせた。
きちんと調律された古いピアノは、その外観からは想像もつかないような美しい音を奏でる。

「凄いわ!」
感嘆の声を上げると同時に手を止めた。
「続けて…」
「ダメ、今の私じゃ、このピアノが可哀そう…」
亜希はピアノから離れ外の景色に目をやった。そして、ふーと小さな溜息をついた。


「実は、頼みがあるんだけど… 」
崇之はおもむろに切り出した。
「…来月にはヨーロッパに戻る。それまでの間ここへ来て、昔のように伴奏して
もらえないかな?」
「ダメよ!そんなの絶対、無理!」
とんでもないと言うように亜希は首を左右に大きく振った。

「週に一回、一時間でいいんだ、君の都合のいい時に。高村先生は、確か金曜は
東京泊まりだよね? 舞ちゃんが学校から帰るまでの間、亮ちゃんは今日みたいに
ベビーシッターにここへきてもらえばいいし。頼む、このとおり!」
崇之は一気に捲し立てると懇願するように両手を合わせた。

「ち、ちょっと待って、木戸君。そういう問題じゃなくて、今の私じゃ、とても
あなたについていけないわ」
「君なら大丈夫、すぐに取り戻せる。さっきの聴いただけで僕にはわかるよ」
崇之の顔は真剣だった。
強く拒んだものの、家事や子育ての日常から離れ、こんなところでピアノが弾けるなんて
夢のような話だと思った。

「亜希が言い出しにくいなら、僕から直接、先生に頼んでもいい」
崇之の真剣さに亜希の心は揺らいだ。

「ほんとに、私でいいの?」
「君以外には考えられないよ」
「わかった。じゃ、高村には私から話してみる…」



その夜、耕平に昼間の話をした。
夫がどんな反応を示すか不安だったが、意外とあっさり「いい話じゃないか」と賛成して
くれた。毎日家事や育児に追われて大変なんだから、週に一度くらい自分だけの時間を持つ
のは良いことだ、とも言ってくれた。



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亜希からその話を聞かされた時、正直ほっとした。
相変わらず杏子との関係は続いている。妻を裏切っている罪悪感から、これで少しは解放される
ような気がした。だがその一方で、何か漠然とした不安もある。
今日、木戸邸で偶々耳にした招待客の会話のせいかもしれない・・・

――「あら、崇之さん、お相手お決まりになったのかしら。綺麗な方ね。どちらのお嬢さまか、
   ご存じ?」
  「いいえ。でも、とてもお似合いね」――

二人の中年婦人が、亜希と崇之を遠目に見ながら話していた。
確かに二人は似合いのカップルだ。崇之は音楽や文学をやる芸術家タイプにありがちな、少し
神経質で繊細な感じはするが、端正な顔立ちとすらりと伸びた肢体はいかにも今風の若者らしい。
ふだんは化粧っ気がなくTシャツにジーンズというラフな格好の亜希も、今日のように薄化粧をし
花柄のワンピースなど着るとパッと人目を引く華やかさがある。とても子持ちの主婦には見えない。
妻を信じてはいるが、杏子と自分がそうであったように男と女の関係なんてちょっとしたきっかけ
で始まる・・・

亜希の前では理解ある夫の台詞を口にしながら、心底では妻の浮気を心配する小心者の自分が
少しばかり可笑しくなった。

04.ときめきの時間(2)

亜希の ”秘密の花園” 行きがスタートした。
金曜午後の二時間、それは彼女にとってまさしく至福の時だった。主婦であり母であることに不満はない。
ただ週に一度、生活感のまるでない非日常的な空間で音楽に浸って過ごす豊潤なひと時――
それは、疲れた肌に高価な美容液を一滴垂らすと翌朝しっとりと潤いを取り戻してくれるような、毎日の
生活でちょっとくたびれた心と身体をリフレッシュし、活力を与えてくれる。
病院のボランティアで出会った子供たち、亜希のピアノを瞳を輝かせて聞いてくれたあの子たちがピアノを
弾く喜びを教えてくれた。崇之は、忘れかけていたその喜びを再び亜希の中に呼び戻してくれた。

「じゃ、あっちにいるから適当にやってて」
そう言うと、崇之はいつも三十分ほど姿を消す。亜希が気を遣わずに自由に弾けるようにとの、彼の優しい
心遣いだった。そして、頃合いを見計らって珈琲や紅茶、クッキーなどのスイーツを携えて戻ってくる。
それから、取りとめのない雑談がはじまる。海外での苦労話や失敗談などを面白可笑しく聞かせてくれる。
あとは、彼のバイオリンに合わせて伴奏したり、美貴が遺した楽譜のコレクションの中からピアノと
バイオリンのための曲を選んで合奏したり・・・
時間はいつもあっという間に過ぎて行く。
母の厳しいレッスンが始まった幼い頃から音大を中退するまで、こんな風に純粋に音楽を楽しんだことは
一度もなかった。



崇之のところに来るようになって半月余りが過ぎた頃だった。
「なーんか、きょうはイマイチ乗らない」と言ってずっと窓際の揺り椅子に座ったまま雑誌を捲っている。
バイオリンに触れようともしない。気分に左右されるなんて彼はやっぱり芸術家なんだ、と亜希は変に感心
していた。手持ち無沙汰だが一人でピアノを弾く気にはなれない。崇之の前での独奏はやはり気後れがする。
彼がその気になるまではと、部屋の隅の書棚を物色した。木戸美貴はかなり本格的にピアノをやっていた
ようで、専門書をはじめ音楽に関する書物が本棚にぎっしりと詰まっている。その中の一冊に目が留まった。
五年前に行くはずだったイタリアの音楽アカデミーの写真が表紙を飾っている。

(もしあの時、留学していたら… 拓也に出逢うことも、耕平と結婚することもなかった。
いったい、どんな人生になっていたんだろ…)

「今ごろ、どうなってたと思う?」
いつの間にか崇之が後ろに立っていた。亜希の心の中を見透かすように言った。
「さぁ… でも、子持ちの主婦ってことは絶対にありえないな。一流のピアニスト?
それもないか… たぶん、自分の才能に絶望して挫折を繰り返し、生活は貧乏のどん底。
日本に帰るにも帰れず、淋しく夜の街角に立っている、ってとこかな…」
黙って聞いていた崇之は思わず噴き出した。

「すっごい想像力だなあ。けど、娼婦の亜希なんて、それこそゼッタイにありえない!」
「それって、もしかして女としての商品価値がゼロってこと?」
崇之は大げさに頷いて見せた。
「ひどーい!」
亜希は口を尖らせた。コンサバトリーの中に二人の笑い声が響く。
崇之といると、なぜかほっとする。学生時代に戻ったような、自分が自分らしく背伸びしないで
自然体でいられる。


「これから、ドライブしよう!」
「え?」
突然のことに亜希が驚いていると、「ベビーシッターにはもう延長の了解とってある。
舞ちゃんは今夜”お泊り”だろ? 今からだと、どこがいいかな……」
亜希に有無を言わせず、ガイドブックを取り出しさっさとページを捲っている。
さっきまで気分が乗らないと、気難しい音楽家の表情を見せていたのに。もしかしたら、
今日は最初からドライブに行くつもりだったのかもしれない。だとすれば、芸術家かどころか
たいした役者だ。亜希は可笑しくなった。

「今からじゃ、あんまり遠出はできないから… 軽井沢あたりだな。旧軽に南仏料理の
旨い店があるんだ、どう?」
「旧軽井沢か… 確か、堀辰雄の小説に出てくる古い教会があったよね。見てみたいな」
「よっし、じゃあ、決まりだな!」


すっかり崇之のペースにはまった感じだが、五月晴(さつきば)れの空の下、風をきって走れば
さぞかし爽快だろう・・・
亜希はまんざらでもなかった。




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亜希は最近、生き生きとしている。
週一の ”別荘通い” がそうさせているのは明らかだ。そのことをつい、ベッドの中で
杏子に漏らしてしまった。


「気をつけたほうがいいわよ」
「?…」
「私たちと違って、若い二人はいったん火が付くと、始末に負えなくなるかも。
特に音楽だの文学だのという抽象的な世界にいる人たちって、感性とか感情で精神的に
強く結ばれちゃうから、肉体関係の男女よりずっと厄介なことになるわよ。
太宰?有島?だっけ、軽井沢の別荘で不倫の果てに心中したの……。
来月、御曹司ヨーロッパに戻るそうじゃない、恋の逃避行なーんてことにならないよう
お気をつけあそばせ!」

耕平の気持ちを刺激し動揺するのを楽しむように杏子は言う。
確かに近頃の亜希がふと見せる表情の中に恋する女を感じることがある。
気のせいだと思っていたが、杏子に指摘されると逃避行はともかく、彼女の話もまんざら
当たってなくはないかもしれない・・・

     ――均整の取れた綺麗な姿態、小ぶりだが形の良い乳房、透明感のある
       瑞々しい素肌―― その裸体が夫以外の男と重なり縺れ合う…
       恍惚とした妻の表情……

想像しただけでも我慢ならない。ありえないと思っていた亜希の不倫がにわかに現実味を
帯びてきた。耕平はベッドから起き上がると、気持ちを落ち着かせるように冷蔵庫の中の
缶ビールを一気に呷った。


「今日は帰るよ」
耕平はそそくさと帰り支度をはじめた。
「やっと、予約取れたのに。あの店いつも二か月待ちなのよ…」
杏子は唇を尖らせた。
(ちょっと、刺激が強すぎたかな…)仕方ないと言うように自分も身支度を整え、二人は
別々にホテルを出た。


________________________________


マンションのエントランス前に外車が横付けされている。
運転手に『ここでいいよ』と言って少し手前でタクシーを降りた。腕時計を見ると九時を
ちょっと廻っていた。
車の助手席のシートを倒し後部座席から眠っている子供を抱き上げる男の姿が見えた。
続いて若い女が降りてきた。男は女に子供を返すと運転席に戻り、ウィンドーを下ろし、
二言三言短い会話を交わした。女が軽く手を上げると、それに応えるように男のBMWは
小さく警笛を鳴らし、ゆっくりと闇の向こうに消えて行った。

今追いかければ、マンションの中に入った亜希をエレベーターの前で捕らえることができる。
が、耕平は立ち止まったまま煙草を取り出し思案するようにゆっくりと一服した。
何か見てはいけないものを見てしまったような嫌な気分だった。これがもし、決定的な不倫
現場を目撃したというなら、堂々と詰問できる。だが、今目にした光景は、妻が男友達に
車で家まで送ってもらっただけのことで、時間も際立って遅いわけではない。
が、何か釈然としない。このまま家に帰り、何も見なかったように普通に振る舞えば良いのか、
それとも、見たことを告げ妻の反応を(うかが)うべきか・・・
決め兼ねるように、耕平は二本目の煙草に火をつけた。



呼吸を整えるように一つ大きく息を吐き、ドアのチャイムを押した。
覗き穴で確認したのか、亜希はドアを開けると同時に「あれ、今夜は泊まりじゃなかった?」
と、少し驚いた様子で言った。

「急に飲み会中止になってね」
「そう、じゃあ電話してくれればよかったのに」
「新幹線に乗る前に留守電に入れておいたけど…」
耕平はリビングの電話に目をやった。

「ごめんなさい、まだ見てなかった… ついさっき帰ったばかりなの」
亜希は一瞬、あっという表情を見せたが、動揺した様子もなく言った。
「どっか出かけてたの?」
さりげなく聞いた。
「実はね、木戸君と亮と三人でピザ食べに行って、さっき下まで送ってもらった
とこなの。駅の向こうにあるお店なんだけど、週末は混むみたいで、けっこう
待たされちゃった」

亜希があっさり木戸に送ってもらったことを白状したので、耕平はちょっと拍子抜けした。
それにしても、駅前のピザ屋までBMWのコンバーティブルを走らせるなんて、金持ちの
お坊ちゃんのすることは違う。

「お腹空いてる? それともビールにする?」
「いや、駅弁食ったし、シャワー浴びてもう寝るよ」
さっきまでの緊張感から解き放たれると、耕平はどっと疲れを感じた。



疲れているはずなのに目が冴えてなかなか寝付けない。
マンションの前で見た光景が目の前にちらつく。二人はあの別荘の中で本当は何をしている
のだろう。詳しくは知らないが、ピアノがある場所は母屋とは離れたアトリエのような空間
らしい。別荘には常時、管理を任されている初老の夫婦と若いお手伝い、それに亮のために
派遣のベビーシッターがいる。とは言え、二人は密室状態の中にいる。

ピアノとバイオリンの合奏—— それは互いの心と躰を一体化させ、高揚させる最高の前戯
となりうるだろう——

絡み合う二人の姿が耕平の脳裏を過る。心臓の鼓動は激しく高鳴り、身体中が汗ばむ。
すでに股間のものは硬くなっている・・・
堪り兼ねたように、背を向けて眠る亜希の躰を背後から荒々しく求めた。
それはまるで、夫を裏切っている妻への無言の抗議、制裁を加えるような妻の意思も感情も
無視した一方的な行為だった。



*************************************


いよいよ別れの日が来た。
崇之は明日の朝、東京へ戻り夕刻の便でヨーロッパへ発つ。最後の夜はお礼の意味を込めて、
どこか静かな場所でゆっくり食事がしたいと言っていた。
耕平は朝から体調が優れず病院を休んでいる。病気の夫を放っておいて食事に行くわけにも
いかず、別れの挨拶をするため亜希は別荘を訪れた。



「ごめんなさい、ドタキャンしちゃって」
「残念だな、亜希と ”最後の晩餐” できなくて。 まっ、しょうがないか…
(君はもう人妻だから)」
最後の言葉を飲み込み、崇之はいつもの笑顔を浮かべた。

「この一か月、ここへ来て、ピアノ弾かせてもらって、あなたとおしゃべりしたり
お茶したり。なーんか夢の中にいたみたい…」
亜希は遠く見るように庭に目をやった。
ついこの間まで初夏の太陽の下で色鮮やかに咲き誇っていた薔薇たちが、今は六月の冷たい
雨に濡れて寒そうに震えている。

「…木戸君、ほんとうにありがとね。あなたから素敵な時間をもらったのに何も
お返しできなくて… その代わりって言うのも変なんだけど、最後にもう一度だけ
聴いてくれる」
いつかの夜、公園で崇之がしたように「Just for you」と言って亜希はピアノに向かった。


すらりと伸びた綺麗な指が鍵盤の上を軽やかに舞う。
その繊細で力強い動きによって奏でられる7オクターブの音色は、まるで本物の鐘の音の
ように美しくコンサバトリーの中に響き渡った。
リストがピアノ独奏用に編曲した ”ラ・カンパネラ”― 鐘の音を表現した(きら)めくような
高音部の美しい曲だが、何度も繰り返される2オクターブの跳躍などピアニストに高度な
技巧が要求される難しい曲でもある。

五年前、この曲で亜希は幻の”イタリア留学”を手にした。あの時会場にいた崇之は鳥肌が
立つような感動を覚えた。あの頃の彼女のピアノはこれでもか、これでもかというくらい
挑戦的で力強く聴く者の心に迫ってくるようなものがあった。
当時のような迫力こそないが今はその分、角が取れたような優しさがある。何年もピアノ
から遠ざかった生活をしているとはとても思えない。そんな彼女の才能を捥ぎ取った、
あの理不尽な理事会の決定に崇之はあらためて激しい怒りを覚えた。

最後のクライマックスを迎え4分半の演奏が終わった後も、崇之は余韻を味わうように
目を閉じたまま暫く動かなかった。亜希も渾身の力を出し切り放心したようにピアノから
離れようとしない。


「君の ”ラ・カンパネラ” やっぱり凄いよ!」
高揚を抑えきれないように椅子から立ち上がると亜希の背後に歩み寄った。
そして、彼女の躰にゆっくりと腕を回し「ずっと好きだった」と囁いた。
熱い吐息を感じた亜希の躰がぴくりと動く。間髪を入れず崇之の唇が耳たぶからうなじの
辺りを容赦なく這いまわる。堪り兼ねたように亜希の口から嗚咽が漏れた。
「君が欲しい…」躰を抱き寄せ激しく唇を奪う。これまで封じ込めていた想いが堰を
切ったように一気に溢れ出し、高まる感情をもはやどうすることもできない・・・

「ダメよ! 今あなたに抱かれたら、私は、もう…」
後に続く言葉を自ら遮るように力いっぱい崇之の身体を押し退けた。そして、
「さよなら、木戸君」と言い残し亜希は ”秘密の花園” を飛び出した。

05.暗雲(1)

崇之がヨーロッパへ戻ってから半月が過ぎた。
何の音沙汰もない。あんな苦い別れ方をしたのだから当然かもしれない。
CDプレイヤーからクライスラーの『愛の悲しみ』が流れる――コンサートのアンコールに『愛の喜び』
と対になってよく使われるピアノとバイオリンのために書かれたこの曲を、二人でよく演奏した。
崇之は情緒たっぷりで感傷的なメロディーが続くこの”悲しみ”を、亜希は躍動感あふれる明るく爽快な
”喜び”を好む・・・
彼と過ごしたあの豊潤な時間が、今は遠い昔のように懐かしい。


本格的な梅雨の季節に入り連日うっとおしい天気が続いている。
身体が気だるく熱っぽい。食欲もまるでない。天候のせいだと思っていたが、そのうち激しい吐き気に
襲われるようになり産婦人科の門をくぐった。三か月だった。亮が二歳になった時、亜希は次の子を望み
耕平も賛成してくれた。だから子供ができても不思議はない。むしろ喜ぶべきことなのに、亜希の心は
この梅雨空のようにどんよりと曇っている。

また以前と変わらない平凡で平和な日常が戻って来たはずなのに、何かが違う。崇之と軽井沢に行って
家まで送ってもらったあの夜以来、何かが狂いはじめた。何もやましいことはなかったのに、なぜか
本当のことが言えなかった。耕平はそれを見破り二人の仲を疑った。そのことを知らしめるために、
言葉で問い正す代わりに妻に屈辱的とも言えるような行為を強要した。
あんな夫は初めてだった。嫌悪感さえ覚えた。あれ以来、崇之に惹かれていく自分をどうすることも
できなかった。そして、耕平との間に生じた心の溝が徐々に深まっていくのを感じるようになった。

お腹の子の父親は夫に間違えないのに子供の誕生を告げるのを躊躇っている。
耕平はまだ崇之との仲を疑っている。亜希自身、この妊娠に戸惑いを隠せない。肉体関係はなくても
他の男に心を奪われたのは紛れもない事実で、気持ちの上で夫を裏切ったことに変わりはない。むしろ、
その方が躰を許すことよりも罪が深いのかもしれない。
そんな母親に抗議するかのようにお腹の子供は母体を苦しめる。酷いつわりと貧血で体調は最悪だった。
それに加え、日に何度もかかってくる無言電話が亜希の神経を(わずら)わせていた。



********************************


「こんにちわ」
「あら、いらっしゃい。ちょっと見ない間にまた大きくなったわね」
静江は亮を抱き寄せた。入院していた姉の病状が安定し千葉から自宅に戻っている。
亜希は、陽子の月命日には必ず花を携えて線香を上げに来る。『もういいのに』と何度言っても
それだけは欠かそうとしない。前妻の母親への義理立てだけで続くものではない。彼女にはそう
いう古風なところ、人を思いやる優しいところがある。別居してからも電話でよく話をするし、
何かあれば『お母さんお母さん』と頼ってくる亜希が実の娘のように可愛いかった。
久しぶりに会う亜希は顔色が冴えず、心なしか痩せたような気がする。


「亜希ちゃん、どこか悪いんじゃないの?」
心配そうに尋ねると、少しはにかんだように首を振った。
その様子から察した静江が「もしかして、おめでた?」と言うと、亜希は小さくこくりと頷いた。
「そう、よかったわね。亮もこれでお兄ちゃんになるんだ」
膝の上でお菓子を頬張る孫の頭を撫でた。

「耕平さん、喜んだでしょ?」
「まだ… 話してないの」
亜希は俯いたまま、か細い声で言った。
「耕平さんと、何かあったの?」
「……」
「ひとりで抱え込まないで、私にも話してちょうだいな」
娘を思いやる母のような静江の言葉に促され、亜希はこの三か月間の出来事を打ち明けた。


「そう、私が留守の間にそんなことがあったの。辛かったでしょ… でもね、亜希ちゃん、
あなたはその人と何もやましいことしたわけじゃないんだから、正々堂々としていればいいのよ。
そりゃ、夫以外の男性に心がときめいたり揺れ動いたりするのは褒められたことではないけど、
長い結婚生活の間にはそんなこと一度や二度はあるものよ。でも、そのこと耕平さんには絶対
言ってはダメよ。男はね、妻がよその男の人と話をするだけでも嫌なものなのよ。
…きっと、この赤ちゃんは二人の仲が元通りになるようにって、神様が授けて下さったのよ。
すぐ、耕平さんに報告しないとね」
静江の話を聞いているうちに気持ちが楽になったのか、『ありがとうお母さん』と言うと、
亜希は明るい表情で帰って行った。



__________________________________



居間に戻った静江はほっとした思いで熱いお茶を入れなおした。
だが、亜希の話の中で一つ気にかかることがあった。
最近、無言電話や『あなたの夫は不倫している』と言ってすぐに切れる悪戯電話があるという。
まさか、あの耕平が浮気をしているとは考えられないが・・・

静江はふと、陽子の高校時代の友人が東京のホテルのレストランで食事をしている耕平と島崎
杏子を見かけた、と話していたのを思い出した。東京から転校して来た杏子は同級生を小馬鹿に
したようなところがあり、地元では誰も良い印象を持っていない。
あの時は、高校の同窓生なのだから一緒に会食することくらいあるだろうと思っていたが・・・
あの杏子ならやりかねないと思った。彼女は昔から耕平に対して好意以上のものを持っている。
そのことで、娘の陽子がずいぶん悩んでいる時期があったのを覚えている。
静江は何か嫌な予感がした。


**************************************


今月は陽子の月命日が休日と重なったため耕平たちを呼んで一緒に食事をすることにした。
亜希からその後連絡がないのも気がかりだった。気のせいか二人の様子がどことなくぎこちない。
つわりのせいかもしれないが、亜希の顔色が悪いのも気になった。


「お義母さん、きょうは、ご報告がありまして……」
食事が終わって暫くすると耕平がおもむろに切り出した。
「…実は、来年二月に、三人目が生まれることになりました」
耕平はちょっと照れくさそうに言った。
「そう、それはおめでとう。よかったわね、亜希ちゃん」
何も知らなかったように嬉しそうに微笑みかけると、亜希もにっこりと頷いた。
(何事もなくて何より…)
二人の間に波風が立つことなく『事』が無事に収まったことに安堵した。
「ちょっと、子供たち見てくるわね」
二階でテレビを観ている孫たちの様子を伺いに静江は居間を離れた。

—― 「まだ、疑ってるの!?」  
   「君だって、ほんとのところは分からないんじゃないのか!?」
   「ひどい! あんまりだわ…」――

下に降りてくると、居間から二人の激しいやり取りが聞こえた。
やれやれと言うように静江は溜息をつき二階に引き返そうとした時、耕平の慌てた声がした。

「どうした、大丈夫か!?」
亜希が下腹を抑え苦しそうにうずくまっている。
「お義母さん、すぐ田代先生に電話してください!」
田代産婦人科は舞と亮が生まれた病院で、この近くにある。
耕平は亜希を抱きかかえるように家の前に駐車してある車に乗せ病院に向かった。



_____________________________



暫くして、亜希が流産したと連絡が入った。
耕平は深夜近くになって憔悴しきった顔で戻って来た。

「大変だったわね… 亜希ちゃん、大丈夫なの?」
「出血があるんで、二、三日は入院になると思います」
「そう… あなたも疲れたでしょ。今、熱いお茶いれるわね」
「子供たちは?」
「ママのこと心配してなかなか寝付けなかったけど、さっきようやく。
今夜はこのままここで寝かせてあげて」
「すみません」
「耕平さん、」
静江は咳払いを一つして居住まいを正した。

「…どうして、亜希ちゃんのこと信じてあげられなかったの?」
穏やかな口調だが少し責めるような目で耕平の顔を見据えた。
耕平はえっ、と言うように義母を見返した。
「亜希ちゃん、先月ここへ来たのよ。あなたが木戸さんっていう人と彼女の仲を疑って
いることで、ずいぶん悩んでいたわ。耕平さんの赤ちゃんを授かって、これでやっと
舞とも亮とも血の繋がった子供ができるのに、このままじゃ、あなたに喜んでもらえ
ないんじゃないかって…」
耕平は黙って俯いたまま茶を啜った。

「あの()があなたを裏切るような真似するわけないってこと、耕平さんが一番よく
分かっているはずよ。愛する人に裏切られる苦しみ、悲しみを一度でも味わった人間は、
決して愛する人を裏切らないわ!」
亮が生まれてくる経緯を熟知している静江は語気を強めた。
耕平は下を向いたまま、ふーと大きく息を吐いた。静江はさらに続けた。

「女ってね、お腹に子供を宿すと神経が過敏になって、情緒不安定って言うの、
ちょっとしたことでイライラしたり涙が出たり…
あなたがさっき亜希ちゃんに浴びせた言葉は、夫が妊娠中の妻に対して決して口にしては
いけないことだったわね」
耕平が実の娘の婿であればこうもはっきりと口にはできないだろうが、遠慮がない分、
静江の口調は強く耕平を叱責するものになった。

「妙な電話がかかってくるようだけど、お願いだからもうこれ以上あの()を悲しませる
ようなことだけはしないでちょうだいね」
耕平の浮気に釘を刺すようにきっぱりと言い放った。
義母にすべてを見透かされ弁解の余地はなかった。
重苦しい空気が流れる。そんな沈黙を破るように耕平の携帯電話の着信音が鳴り響いた。


「もしもし、えっ!? 分かりました。じゃ、直接そっちに向かいます」
田代医院からだった。出血が止まらず附属病院へ転送するという。
「詳しいことはあとで連絡します。子供たちお願いします」
それだけ言うと、耕平は血相を変えて飛び出して行った。
その只ならぬ様子に静江は亜希の無事を祈るばかりだった。

06.暗雲(2)

耕平が附属病院の夜間救命に駆け付けると亜希はすでに手術室の中にいた。
ここに搬送されて来た時には子宮内にかなりの量の出血があり、すでに出血性ショック状態で意識が
混濁していた。当直の医師が『子宮全摘の緊急オペになるようです。岡田先生が執刀されますが、
立ち会われますか?』と聞いた。『いや、お任せします』とだけ言うと、耕平はベンチに座り込んだ。
とても妻の手術に立ち会えるような精神状態にはなかった。


(こんなことになったのは全部、俺のせいだ…)
耕平は両手で頭を抱え込んだ。
亜希から妊娠を知らされた時、どうしても素直に喜べなかった。脳裏に木戸崇之の姿がちらつき、
妻への不振を募らせた。亜希ときちんと向き合うことを避け、杏子に逃げ場を求めていた。
子供の誕生を伴に喜ぶどころか、つわりで辛そうな妻に優しい言葉ひとつかけてやれなかった。
亜希を苦しめ精神的、肉体的に追い詰め、こんな最悪の結果を招いた原因はすべて自分にある。
今、手術台の上にいる妻が子供を失くした上に子宮喪失の事実を知った時の悲しみを(おもんぱか)ると、
胸が張り裂けそうになる。



_______________________________________



長い夜が明けた。
回復室から病室に移された時、すでに窓の外は白み始めていた。
亜希は深い眠りから覚めた。身体の上に重りを乗せられたような圧迫感はあるものの、麻酔が
覚めきっていないのかあまり痛みは感じない。頭の中は靄がかかったようにぼんやりとしている。
流産したことまでは覚えているが、その後の記憶がはっきりしない・・・

「亜希…」
自分の名を呼ぶ耕平の声がする。応えようとするのだがうまく言葉にならない。
「…もう大丈夫だよ、何も心配いらないから……」
何がどう大丈夫なのか、言葉の意味が分からない・・・

—―病室の壁が白い… 田代医院のは確かピンクがかった淡いベージュのはずなのに…   
  耳元で心拍数や血圧を測るモニターの電子音がする… 医師や看護師たちの慌てた
  ような靴音、救急車の赤く点滅したライト、けたたましいサイレンの音・・・
  
「ここはどこ? 私は、うっつ…」
突然、鋭い痛みが腹部を襲った。
「鎮痛剤の投与、お願いします!」
ナースコールをする耕平の声が遠くで聞こえる・・・

亜希は再び深い眠りに落ちていった。



「高村先生、仮眠室で少しお休みなったらどうですか?」
中年の看護師長が耕平に声をかけた。
「ありがとう、でも大丈夫です」
亜希のそばにずっと付いていてやりたかった。そうする以外に今、自分が彼女にして
やれることは何もない。
「じゃあ、熱い珈琲でもお持ちしますね」
師長は少し笑みを浮かべて病室を出て行った。

彼女の眼には一睡もせず亜希に付き添う耕平が、若い妻を溺愛する夫の姿に映ったのかも
しれない。



**************************************



「お幸せですね。あんな優しい旦那さまがいらして… 先生、ゆうべは一睡もせずに
そばに付きっ切りでしたよ」
手際良く傷口の処置をする師長の言葉に亜希は黙って微笑み返した。

「松木さん、私、いったいどんな手術を受けたのですか?」
「あとで、岡田先生のほうから詳しい説明があると思います」
松木は一瞬手を止めたが、患者の顔を見ずに答えた。
まだ二十代の若い女性にとって子宮を失うことがどんなに残酷なことか、ベテランの
看護師長は熟知している。ましてや、今回のように事前に知らされることなく突然の場合、
そのショックは計り知れない。こういう場合は、担当の医師から淡々と事務的に事実だけを
告げられるほうが良い。あとは、夫や家族の理解と愛情が心のケアをしてくれる。

「高村先生も同席されるそうです。午後からオペが入っているようなので、
夕方になるかもしれませんね」
「そうですか…」

亜希は窓の外に目をやった。耕平のいる脳神経外科の病棟は中庭を挟んで反対側にある。
夫が同席するということは何か悪い病気でも見つかったのでは、と少し不安になった。



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「どう気分は?」
夕方遅くになって疲れた顔をした耕平が病室にやって来た。

「あなたのほうが病人みたい。寝てないんでしょ、大丈夫?」
「俺は平気だよ」
無理に笑って見せた。
徹夜の後、マンションに帰り数時間の仮眠を摂っただけで、子供たちの着替えを持って
静江のことろに行き、午後からオペをこなした。耕平はさすがに疲れていた。

「子供たちどうしてる?」
「心配しなくても大丈夫、お義母さんがちゃんと見ててくれるから。
亮はさすがに寝る前にベソかいたようだけど、舞がお姉ちゃん風吹かせてしっかり
面倒見てたらしい」
「そう… 早く退院しないとね」
「焦っちゃだめだ。今は何も考えずにゆっくり養生しないとな…」
耕平は時間を確認するように腕時計に目をやった。
ほどなくして、担当医の岡田が婦人科の川辺を伴って病室に現れた。


「気分はいかがですか? 傷口は痛みませんか?」
岡田は穏やかな口調で言うと耕平と軽く目礼を交わした。
年は五十代前半、頭の毛が薄く少々肥満気味で外科医と言うよりは商店街の愛想の良い
世話役といった風体だ。
「いえ、お陰様で大丈夫です。岡田先生、この度は大変お世話になりました」
夫と同じ病院の先輩医師ということもあって、亜希は少し緊張した面持ちで挨拶した。

岡田は緊急事態でやむなく子宮を摘出した経緯を分かりやすく丁寧に説明した。
一通り言い終わると、『今後のことは川辺先生のほうから』と言って、若い婦人科医と
交代した。川辺は三十そこそこの痩せぎすで度の強い眼鏡をかけた、いかにも優秀な女医
といった感じがする。
「子宮が無くなっても卵巣が残されている限り女性ホルモンの分泌は継続しますから、
妊娠が不可能なだけで女性機能は以前と何ら変わりはありません」
川辺は言葉の抑揚もなく淡々と通り一遍に説明した。


(子宮がない!?… 子供が二度と産めない!?…)
一瞬目の前が真っ暗になった。涙が込み上げてくるのを必死で堪えた。
医者の妻として夫の同僚の前で無様な姿だけは晒したくない。その思いが何とか感情を
コントロールさせた。医師たちが『お大事に』と言って病室を出て行くや否や、亜希は
枕に顔を埋めた。
   ――きっと、この赤ちゃんは耕平さんとの仲が元通りになるようにと、
     神様が授けて下さったのねーー

静江のあの言葉だけが亜希を支えていた。その子を失ったばかりか、もう二度と子供を
産むことができない・・・
何もかも奪われてしまったような喪失感が亜希を覆った。



(すまない…)
泣き崩れる妻を眼前になす術がなかった。
震える背中を擦りながら、あらためて自分が亜希にもたらした事の重大さを痛感した。
これ以上愛する妻を苦しめることは絶対に許されない。
耕平は、今度こそ何があっても杏子との関係をきっぱり清算することを心に誓った。

07.不倫の代償

鬱陶しい梅雨、夏の酷暑を経て青空一面に鰯雲が広がる爽やかな季節を迎えた。
退院した亜希は順調に回復しすっかり元の体調を取り戻していた。明日は舞が小学生になって
初めて迎える秋の運動会だった。


「パパ、あしたはちゃんとキレイに撮ってよ!」
ビデオカメラの手入れをしている父親に向かって舞は少し命令口調で言った。
「パパ、とってよ!」
最近、姉の言うことを何でもオウム返しにする亮がそれを真似る。
「はい、はい、了解!」
「返事は一回でしょ、パパ」
「でしょ、パパ」
舞の体操服とはちまきにアイロンをかけながら亜希は三人のやりとりを嬉しそうに聞いている。
耕平は週末の東京泊まりを辞め、土日は子供たちの面倒を見て家事もよく手伝ってくれるように
なった。静江の言う通り壊れかけた耕平との関係を修復してくれたのは、この世に生を受けること
はなかったが、やはり ”あの子” だった。払った代償はあまりにも大きいが、以前のような
優しい夫と子供たちの生活を取り戻すことができ、亜希は幸せだった。

「じゃあ、明日のお弁当は腕によりをかけないとね!」
「ママ、頑張ってよ!」
「がんばってよ!」
「亮の名前”オウム君”に変えないとダメだな」
「あ、パパそれ、いいかも…」
家族の楽しい会話が続く中、突然、耕平の携帯が鳴った。
発信先を確認すると少し険しい表情になって自室へ向かった。このマンションは3LDKだが、
三畳ほどの納戸のようなスペースがあり、耕平はそこを書斎代わりに使っている。

「病院から?」
「うむ…」
暫くしてリビングに戻って来た耕平の表情はまだ硬い。
「じゃあ、これから病院へ?」
「いや、大丈夫。亮、ボール持っておいで、パパとお外で遊ぼう」
耕平は気を取り直すように息子を連れだした。



電話は杏子からだった。
長期間のニューヨーク出張を終え先週帰国したばかりだった。亜希の入院前に日本を離れて
いたので、その間の事情は何も知らない。彼女が留守の間に『雨降って地固まる』のごとく
夫婦関係が修復しすべての歯車が順調に回り始めたところだけに、杏子の声が悪魔の囁きの
ように聞こえた。
ニューヨークで新しい恋人でも見つけて彼女との関係が自然消滅してくれたらなどと、虫の
いい事を考えていたが、そんなに都合よく物事が運ぶ道理はない。
学生時代同様、今回の事も杏子に振り回された感がある。そもそも、彼女の言葉を真に受け、
亜希と木戸の中を勘ぐり始めた。そして、妄想にでもとり憑かれたように妻への不信を募らせ
ていった。

人一倍自尊心の高い杏子のことだから、一歩間違えば大変な事態を招く。いや、もしかしたら
案外あっさりと別れに応じてくれるかもしれない・・・
耕平は最善の別れ方をあれこれと想定した。『自業自得、身から出た錆』とはいえ、これから
直面する難問題のことを思うと気が重くなった。



****************************************



「やっと、逢えたわね…」
綺麗にネールアートを施した長い指でメンソールの煙草を揉み消した。
メンズ仕立てのカチッとしたスーツを着こなし脚を形良く組んでいる姿は、いかにも
仕事ができる女、という感じがする。
「…ねえ、食事はあとにして、うちへ来ない?」
杏子の思惑とは違うが、彼女のマンションのほうがレストランやホテルよりも都合が
よかった。



「淋しかったわ、耕平…」
部屋に着くといきなり抱きついてきた。
「きょうは、大事な話があって来たんだ」
杏子の躰を制しソファに座ると煙草を銜えゆっくりと火をつけた。
「あとじゃ、ダメなの?」
不服そうにグラスにブランデーを注ぐ。
「もう、終わりにしよう…」
耕平は静かに切り出した。
「何なの、今回は?」
杏子は、またかと言う顔をした。

「亜希が、流産したんだ…」
「そう、それはお気の毒さま。でも、考えようによってはそのほうが良かったんじゃ
ないの。あなただって自分が父親じゃないかも、って疑っていたわけだし…」
「そんな言い方はないだろ」
悪意のある冷たい言い方に耕平はむっとした。
「それで、奥さんが可哀そうになって私と別れよう、ってわけ?
いやよ、絶対に別れないから!」
冗談じゃないわ、と言うようにグラスの中身を一気に(あお)った。

「耕平、私もあなたに大事な話があるの…」
「……」
「…実はね、妊娠してるの私。もう、四か月よ」
「はあ!?」
耕平は一瞬、自分の耳を疑った。

「そんなに驚かなくていいじゃない。あなたの子供に間違えないわ、私には金持ちの
御曹司のボーイフレンドはいないもの。なんなら、DNA鑑定しましょうか?」
杏子は不適な笑みを浮かべる。
耕平は嵌められたと思った。なにが『大人の関係』だ、なにが『あなたの家庭を壊す
つもりはない』だ。

「俺たち、そんな関係じゃなかったはずだろ!」
「私だって子供なんて欲しくなかったわ。最初は堕すつもりだった。
でもね、もうすぐ三十八よ。おそらくこれが最後のチャンスだと思うと…
それにあなたの子供だし、どうしても生みたくなったの」
それまでの態度を一変させ、急に甘えるように耕平に擦り寄ってきた。
「認知してくれとか、奥さんと別れてくれとか言ってるんじゃないの。ただ、
これまで通り週に一回ここへ来てくれればそれでいいの。お願い、耕平」
耕平はもうたくさんだ、と言うように杏子の躰を払いのけドアノブに手をかけた。

「絶対に別れないから! あなたの可愛い奥さんがこのことを知ったらどう思う
かしらね。自分が流産した時期を同じくして夫が愛人を孕ませていたなんて…
私なら手首を切るか、ヨーロッパでも地の果てでも恋人のあとを追うわ、きっと!」
杏子はヒステリックに毒づいた。


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杏子のマンションを出た後、頭の中が真っ白でどこをどう歩いたのかまるで覚えて
いない。気が付くと新幹線に乗っていた。亜希の入院以来、金曜の夜帰宅するのは
習性になっているらしい。
車内販売の缶ビールを立て続けに二本飲んだが、なかなか酔えない。三本目を飲み
干すと酔いの代わりに急に睡魔が襲ってきた。半時間ほどうとうとして目が覚めた。

耕平は窓の外に目をやった。車体は闇の中を突っ走っている。車窓に寄りかかり
深い溜息をついた。そう言えば昔、自分と同じような男を描いたハリウッドの
映画を観た気がする―― 妻を愛する男が、ふとしたきっかけで知り合った女と
不倫関係に陥り泥沼のような深みにはまって行く。最後は相手の女が殺人鬼と化し
妻や子供に危害を加えようとする―― 
確か、そんなストーリーのホラームービーだった。杏子の顔がその殺人鬼を演じた
女優の顔とだぶる。


耕平は再び深い溜息をついた。
亜希を悩ませていた、あの悪戯電話の正体はおそらく杏子だろう。強引に別れを強いれば
彼女の激しい性格からして、平気で亜希を傷つけるような行動を取り兼ねない。
と言って、このまま杏子との関係を続けるわけにはいかない・・・
耕平は、出口の見えない真っ暗なトンネルの中に迷い込んだ野良犬のような心境だった。



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「もしもし、今ねえ、珍しいお客さまが見えてるの…」
「?…」
「…杏子さんよ」
耕平はぎょっとした。杏子が家に来たことはこれまで一度もなかった。

「耕平、しばらくね。実家に帰ってたから、久しぶりに亜希さんや子供たちに
会いたくなってお邪魔してるの」
「いったい、どういうつもりなんだ!?」
妻がそばにいることも忘れ思わず声を荒げた。
「…明日、東京に戻るから金曜あたりどこかでランチでもどう?
電話待ってるわ。じゃ、奥さまと代わります」

杏子は平然と会話を続けた。
耕平は背筋が凍る思いがした。あれ以来何かと口実を設けて彼女と逢うのを避けている。
そんな男の態度に業を煮やし、自分は本気だと言う警告の意味を込めて直接行動に出たの
だろう。このまま放っておいたら次は何をしでかすか分からない・・・




金曜の午後、重い足を引き摺りマンションに向かった。
早めに帰宅したのか杏子はすでに部屋着に着替えていた。リビングのソファに深々と座り、
相変わらず煙草をふかしている。妊婦の自覚などまるでない。本当に妊娠しているのかと
疑いたくなった。


「やっと、来てくれたわね」
煙草を揉み消し耕平を見上げた。
「家まで押しかけてくるなんて、どういうつもりなんだ?」
「近くまで行ったからちょっと寄っただけよ。素敵なマンションじゃない。
奥さんも相変わらず若くて綺麗ね、羨ましいわ… 子供たちもすっかり大きくなって。
舞ちゃん陽子に似てきたみたいね。亮ちゃん、赤ちゃんの時はママ似だと思ったけど、
やっぱり男の子って父親に似てくるのかしら… ちょっと神経質そうなところ、
どことなくあの御曹司に似てない? やっぱり前の男も同じタイプの、」

「そんなことよりこれからの事、ちゃんと話し合おうじゃないか」
耕平は黙って聞き流していたが、これ以上聞くに堪えなえいと言うように杏子の話を
遮った。
「だから、この前も言ったように、私は別に認知とか養育費なんていらないの。
ただ、あなたの子供が欲しいだけ。週に一回来てくれさえすれば、二度と家に
押しかけるような真似はしないわ」
「けど、こんなこと一生続けるわけにはいかないだろ!?」
「じゃ、とにかくこの子が生まれるまで… あなただって今このことが奥さんに
バレると困るでしょ? これまで通りちゃんと来てくれたら、あなたの家庭を壊す
ようなことは絶対しないから。約束するわ」


前にも聞いたような台詞だと思った。
子供が生まれたら、また杏子の要求はエスカレートするだろう。だが、今はとりあえず
彼女の言い分を聞くしかない。やっと流産のショックから立ち直った妻に、二度と子供が
産めない妻に、夫の愛人の妊娠はあまりにも残酷すぎる。不本意な杏子との不倫関係を
継続してでも、それだけは絶対に回避しなければならない。
耕平は自らに苦渋の選択を強いた。

08.聖夜の再会

東京の夜景をタクシーの窓越しにぼんやりと眺めていた。
成田からスムーズに流れていた車が、都内に入るや否やひどい渋滞に巻き込まれた。
この分だと世田谷の自宅までまだかなりかかりそうだ。


「お客さん、お疲れのところ申し訳ないです。師走に入ってから忘年会や
なんかが増えたんですかねぇ、金曜の晩はずっとこうですよ」
空港からの上客に初老の運転手は愛想がよかった。
「かまいませんよ、別に急ぎませんから」
崇之はシートに(もた)れ目を閉じた。

 ——『とても良いお話なのよ。相手のお嬢様、小さい頃からピアノを
   習ってらして、あなたともきっと気が合うと思うの。
   お父様もあれ以来、気弱になられたみたいで、あなたの将来のこと
   とても心配なさってるの… 』―—

家路を急ぐような気分ではなかった。
母親からの話をはじめのうちは強硬に拒んでいたが、父の事を思うと心が痛んだ。父の祥吾は
自分が引退するまで好きな事を存分にやれば良いと、崇之の音楽に理解を示してくれている。
そんな父が倒れて以来すっかり弱ってしまった。

もう一つ、彼に帰国を決心させた理由がある。
この半年間、儘ならぬ恋を忘れるため崇之は悶々とした日々を送っていた。だが、亜希への想いは
募る一方。このままではいけないと、彼女への想いを断ち切るためにも今回の見合い話を受け入れる
ことにした。
突然、タクシーが急ブレーキをかけた。


「すいません、前が急に停まりやがって!」
前の車が赤信号で急停止したため危うく追突しそうになった。
崇之は我に返って窓の外を見た。一帯に高層マンションが立ち並んでいる。その一角から一組の
男女が出てきた。女は男にぴったりと寄り添っている。街灯の下で明るく映し出された男の顔を
見た崇之は、あっと小さな声を上げた。信号が青に変わり車が動き出した。
一瞬ではあったが、あれは確かに高村耕平だった。女はもちろん亜希ではない。二人は一見して
只ならむ関係とわかる男女だった。


『今、あなたに抱かれたら、私は…』
別れ際に残した亜希の言葉がずっと耳元から離れない。
彼女の肌のぬくもり、髪の匂い、息遣い… たまらなく恋しい。
人妻であるがゆえに、苦しめたくないがために、あの日以来ずっと彼女への恋情を封印してきた。
それなのに、高村は亜希を裏切っているというのか・・・
崇之の身内に言い知れぬ激しい感情が沸き上がった。



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杏子との ”不本意な不倫関係” は順調に続いていた。
耕平が週一回のマンション通いを怠らない限り杏子の機嫌は良かった。
安定期に入ると彼女の食欲も性欲も増大した。亜希のような華奢な体形とは異なり、元々
上背もあり肉感的な身体はすでに服の上からでもはっきりと妊娠が確認できる。


「今日ねえ、検診に行って面白い話、聞いちゃった」
大きなドーナッツを頬張りながら聞きたい、と言うように耕平の顔を覗き込んだ。
彼女がどこの病院に通院しているのかさえ知らない。
「どこで産むつもり?」
「奥寺レディースクリニック。ほら、知ってるでしょ、広尾にある奥寺総合病院?」
耕平はあっと声を上げそうになった。それは、亮の実父、奥寺拓也の父親が経営する病院である。
拓也のことは耕平意外は誰も知らない。静江にさえ亮の実の父親の名は明かしていなかった。
それにしても、あそこを選択するとは杏子らしいと思った。

「ああ、あのセレブが通うとかいう、ゴージャスが売りのとこだろ」
「そうそう、耕平、案外詳しいじゃない。あそこの院長の奥さんって、
例の木戸家の娘らしいわ」
「どういうこと? 三人娘じゃなかったのか?」
「なんでも、先代が外に作った子供らしいわ。そういう訳アリの娘だから、
かなりの額の持参金付の結婚だったんじゃないの。あそこの資金源のバックは
木戸財閥だったのね…」

杏子の話を頭の中で整理した。
木戸崇之と奥寺拓也の母親同士が姉妹なら、二人は従弟同士と言うことになる。と言うことは
つまり、亮と崇之は血が繋がっている? だとしたら、杏子がいつか口にしたように、亮が
崇之に似ていても不思議はない。なぜなら二人は同じ遺伝子を共有しているのだから。
もしかしたら、亜希は崇之の中にかつての恋人の面影を見ていたのか・・・
(ダメだ、ダメだ! 俺はまた同じ過ちを繰り返そうとしている…)
耕平は慌てて首を大きく左右に振った。

「へえー、そうなのか。ところで、再来週なんだけど…」
杏子がこれ以上木戸の話を蒸し返さないよう話題を変えた。
「再来週って、クリスマスイブ?」
今年のイブ、つまり耕平と亜希の三回目の結婚記念日はちょうど二週間後の今日になる。
「ああ。その日はちょっと無理みたいだ。クリスマスの日に子供たちを
ディズニーランドへ連れて行く約束、ずっと前からしてたから。
そのつもりで金曜の晩はホテルも取ってあるし…」
耕平は恐る恐る杏子の反応を伺った。
「せっかくイブの夜は豪華なディナーでも、と思ってたのに… 
ま、子供との約束じゃ、しょうがないか…」
「悪い、この埋め合わせはするから!」
口を尖らす杏子に手を合わせ拝むような格好をした。


実は、耕平には別のプランがあった。
その日は静江に子供たちを預け、亜希と二人で結婚記念日を祝うつもりでいる。
クリスマスコンサートに行き六本木のホテルで食事をし一泊する――
三年前、亜希と初めて結ばれた夜と同じコースだ。こんなことは口が裂けても杏子には
言えない。だから、ディズニーランドの話をあっさり了承してくれたことに内心ほっとした。



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クリスマスイブ、耕平は三年前と同じコンサートホールに来ていた。
亜希は今日も先に来てロビーで待っていた。
あの日、眩いばかりの彼女の若さに戸惑い、すぐに声がかけられなかった。
耕平はあの時と同じように大理石の柱の陰から妻の姿をそっと眺めた。この日のために
新調したベルベットのドレスに身を包んだ亜希は輝いていた。真紅のドレスは彼女の肌の
白さを強調し、同色のルージュが整った顔立ちをいっそう際立たせている。
三年の歳月は確実に、完全に、彼女を(さなぎ)から美しい大人の蝶に変身させた。


「ごめん、待った?」
「ううん、ひと足違い。私も今着いたところ」
「そっか」
「でも、このチケットよく取れたわね。高かったでしょ?」
「大丈夫。クリスマスとアニバーサリーのダブルのお祝いだもんな」
この半年間、心労を重ねた妻へのせめてもの労いと感謝の気持ちだった。

「亜希…」
「?…」
「綺麗だよ、すごく良く似合ってる」
「え、ありがと…」
夫の突然の言葉にはにかむように微笑み返した。

「で、子供たちは、大丈夫?」
耕平は照れを隠すように話題を変えた。
「お母さん、ケーキとフライドチキンを買って早めに来てくれたの。
枕元に置くプレゼントも準備できてるし明日の朝、二人ともきっと
大喜びよ。お母さんにも何か素敵なプレゼント買って帰らないとね」
「ああ、そうだな」
今夜の二人のために静江は孫たちの子守を快く引き受けてくれた。



開演10分前のベルが鳴った。同時にバイブレーターモードに切り替えておいた
耕平の携帯が内ポケットで動いた。
(いったい何なんだよ!?)
発信先を確認すると、亜希に先に行くよう促しロビーで電話を受けた。

「もしもし耕平、今すぐ来て!」
ヒステリックな杏子の声だった。
「どうしたの?」
耕平はうんざりとした口調で言った。
「クリニックへ行ったら血圧が高くて尿タンパクもおりてるから、今夜は
大事をとってこのまま入院したほうがいいって言われたの…」
典型的な妊娠中毒症の初期症状である。あれだけ不摂生を重ねれば当然かも
しれない。
「おとなしく病院のベッドの上で安静にしてれば大丈夫だよ」
杏子を宥めるように言った。
実際、万全の医療スタッフに囲まれているのだから心配することはない。
こんなことくらいで、妻との大切な記念日を台無しにされてたまるか!と、
大声で叫びたくなった。

「お願い耕平、すごく不安なの… 今夜だけでいいからそばに付いてて。
ディズニーランドは明日なんでしょ?」
杏子に嘘をついていたことをすっかり忘れていた。
「とにかく、またあとで連絡するから」


電源を切りホール内に入ろうとした。が、急に足が止まった。
耕平はこの数週間、自分の気持ちの中に変化が生じているのを感じていた。
それは杏子に対してではなく、お腹の子供に対してである。妊娠を聞かされた時、
正直おぞましいとさえ思った。だが、杏子の腹が迫り出し胎動が始まり、自分の
分身がそこに確かに存在するという事実を目の当たりにして、その子に対する
愛情が芽生え始めた。亮の時は、血の繋がりはなくても愛する女の分身として
愛おしむことができた。母親は誰であれ、この子は血を分けた紛れもない自分の
分身である。耕平はすでに、生まれることなく二人の息子を失くしている。
杏子のように高齢出産の初産で妊娠中毒症になった場合、確かに流産や早産の
リスクは高い・・・


「すまない、急患なんだ。あとで電話する…」
亜希の耳元にそう言い残し耕平はコンサート会場をあとにした。



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亜希はロビーのソファに座り夫からの連絡を待った。
コンサートが終わった直後は着飾ったカップルたちで賑わっていたロビーも、
それぞれのイブの夜を過ごすため皆足早に会場をあとにした。
今はひっそりと静まり返り、彩どりのオーナメントで飾られた大きな樅の木だけが
誇らしげにロビーの中央を陣取っている。
携帯の着信音が鳴った。


「そう… じゃ、しかたないね。いいわよ、お仕事なんだから、そんなに
気にしなくても…」
緊急オペになり今夜の食事は無理だと言う。
(それはないでしょ!)と言いたいところだが、すまなそうに何度も謝る夫に
それ以上のことは言えなかった。こんなことなら、家で子供たちとチキンの
ディナーにすればよかった・・・
亜希はフーと小さな溜息を洩らした。

ソファから立ち上がった時、ツリーの向こうから誰かがこっちをじっと見つめて
いるのに気づいた。互いの視線が交差する。亜希は金縛りにでもあったように
その場に立ち尽くした。
崇之の唇が『アキ』と動き、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
それを制止するように、背後から若い女が突然彼の名を呼んだ。
崇之は振り返ると、そのまま出口のほうへ消えて行った。


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亜希はレストランの予約をキャンセルした。
チェックイン済みのホテルに戻りルームサービスで簡単な夕食を取った。
テーブルの上に耕平がリクエストしておいたのだろう、シャンペンのボトルと
メッセージ付きの薔薇のブーケが置かれている。
「Happy Aniversary!」と印刷された文字が亜希の眼に空々しく映った。

ホテルを出て小雪の舞い散る夜の街をどこ行くあてもなく歩いた。
クリスマスカラ―一色に塗り替えられた街は活気に満ち溢れている。街路樹の
イルミネーションが闇の中で暖かい光を放ち、幻想的な世界を創り出している。
聖夜を恋人たちが肩を寄せ合い語らいながら行き交う。同じ空間に居ながら
自分ひとりだけがとり残されているような、淋しさとみじめさが込み上げてきた。

バッグの中の携帯が鳴った。
画面に『木戸崇之』の名前が表示された。彼の番号を消去していなかったことに
初めて気づいた。亜希は躊躇った。が、着信音はなり続ける・・・


「もしもし…」
「亜希、今、大丈夫かな?」
夫がそばにいないことを確かめるように言った。

「ええ…」
「さっきは驚いたよ」
「私も… 木戸君、日本に帰ってたんだ…」
「うむ… 亜希、元気だった?」
「……」
この半年間のことが胸に去来し言葉に詰まった。

「もしもし?」
「ええ… あなたのほうは?」
「……」
崇之はそれに応えようとせず、長い沈黙が流れた。


「…逢いたい」
そのひと言に凝縮された崇之の切ない想いが、彼の息遣いと伴に電話の
向こうからひしひしと伝わってくる。
亜希の心は高鳴り、思わず(私も)と言いそうになるのを必死で堪えた。

「私たち… もう、逢わないほうがいいわ。逢ってはいけないのよ」
自分自身に言い聞かせるように亜希は電話を切った。
胸の奥に大切にしまっておいた感情が一気に溢れ出し頬を伝わった。



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ホテルの部屋に着くと深夜を廻っていた。
耕平はひどく疲れていた。そばを離れようとするとヒステリックに興奮し、
血圧を上昇させる杏子の腕を振り切って帰ることもできず、結局、妻との
大切な夜を台無しにしてしまった。
携帯にメールが入っていた。

 ——『お疲れさま。ホテルに戻ったらゆっくり休んでね。
    薔薇の花束ありがとう!』——

彼女の優しさが今の耕平には辛かった。
杏子のように感情を露わに責め立てられたほうが、ずっと楽かもしれない。
亜希を誰よりも愛している。彼女を絶対に失いたくない。杏子との間には初めから
愛だの恋だのという感情は存在しない。幸福な結婚生活の中でふと、魔が差したと
しか言いようがない。あくまで浮気のつもりだった。だが本気ではないからと言って
不倫が許されるわけはない。現に今も不本意とはいえ、週に一度杏子を抱き、
亜希を欺いている自分に激しい嫌悪感を抱いている。

耕平はベッドに潜り込み、小さな子供が母親に甘えるように自分の躰を背を向けて
眠る亜希の躰にぴったりと密着させた。洗い立ての髪の匂い、フローラル系の甘い香りが
耕平を優しく包む・・・
何もかも忘れ、今はただ妻の肌のぬくもりを感じながら朝までぐっすり眠りたかった。


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日に日に醜く崩れて行く自分の体形を鏡で見ながら杏子は大きな溜息をついた。
体重が急増し浮腫みのせいで自慢の足が像のように腫れている。
耕平を自分のものにする最後の手段として選んだ苦肉の策とはいえ、予想以上に辛い
妊婦の現実に辟易している。

杏子は元々子供が苦手で、自分の子供を欲しいと思ったことなどなかった。だが、
子煩悩な耕平が自分と血を分けた子供の存在を知れば必ず気持ちが傾くという確信が
あった。現に少しづつ彼の態度に変化が生じている。
幸いなことにお腹の子は男だった。亮がいくら愛する女の子供とはいえ所詮は他人の
子、遺伝子を共有する実の息子に敵うわけがない。最初の計画では、子供が生まれて
から認知を要求するつもりでいた。が、杏子の中でも我が子に対する気持ちの変化が
現れてきた。血縁関係のない亜希の子が戸籍上では耕平の実子で、自分の子が私生児
扱いされるのはどうしても納得がいかない。


(計画を変更しなくちゃ…)
杏子の口元から不適な笑みが零れた。

09.愛しい我が子

新しい年を迎えた。
今年は暖冬の影響で長野地方も雪のない新年となった。静江は姉の快気祝いと新年会を兼ねた
親戚の集まりに出席するため明日から泊りがけで千葉に出かける。甥夫婦が子供とディズニー
ランドへ行くというので舞を一緒に連れて行くことになった。
祝いの品や舞に持たせる土産物を買うため亜希は駅前のデパートに立ち寄った。


「亮ちゃん!? まあ、こんなに大きくなって…」
品物を見繕っていると、初老の女性が亮に話しかけてきた。
木戸家の別荘の管理を任されている夫婦の妻、滝だった。
「滝さん、お久しぶりです」
「あら、亜希さん、すっかりお元気になられたようね」
入院中、知人の見舞いに来ていた滝と出くわしていた。
「おかげさまで… 源蔵さん、お元気ですか?」
「はい、丈夫なだけが取り柄ですから… そうそう、崇之さま、昨日こちらへ
おいでになりましたよ。亮ちゃん、またママと遊びにいらっしゃいね」
「うん!」
亮は嬉しそうに大きく頷いた。
もう二度と逢わない決心をしたはずなのに、崇之が別荘に来ているという滝の言葉に亜希の
心は揺らいだ。



翌日、亜希は下校した舞と亮を連れ長野駅に向かった。
静江とは新幹線のホームで待ち合わせていた。
「亮もいっしょに来ればいいのに。おばあちゃんもそう言ってるのに…」
舞は自分だけディズニーランドへ行くことに少し気が引けるようだった。
「亮はまだちっちゃいから迷子になったら困るでしょ。今度パパが一緒の時に
みんなで行こうね」
「うん、おみやげ買ってきてあげるね。亮、なにがいい?」
「ミッキーマウシュ!」
亮は回らぬ舌で姉に言った。
「オッケー、分かった。ママは?」
「ママはいいから、思いっきり楽しんできてね」
「うん!」


静江と舞を見送りマンションに着くと、すでに日はどっぷりと暮れ小雨が降り出していた。
エレベーターの前まで来て郵便物を取り忘れているのに気づいた。
「お手紙とってくるからここで待っててね」亮にそう言い聞かせロビーの椅子に座らせると、
エレベーターの向こう側にあるメール室まで引き返した。請求書やダイレクトメールに混じり
差出人の住所も名前もない亜希宛の封書があった。東京都内の消印が押してある。
不審に思ってその場で開封すると、コピー用紙の中央にワープロ打ちで短い一文があった。
   
『貴方の夫、高村耕平と島崎杏子は不倫関係にある』
(まさか…)一瞬、亜希の脳裏に二人の姿が過った。が、すぐに悪質な悪戯だと思い握り
つぶしてバッグの中に押し込んだ。
ロビーに戻ると亮の姿が消えていた。辺りを見回したがどこにもいない。
マンションの出入り口は自動扉になっている。入る時は暗証番号が必要だが出るのは小さな
子供でも簡単に出られる。

亜希は外に飛び出した。さっきまでの雨が雪に変わっている。亮の名前を呼びながら必死で
探し回ったが見つからない。不安と焦りが次第に募っていく・・・
通りの向こうがやけに騒がしく人だかりができていた。

「子供が轢かれた‼ 救急車はやく‼」

亜希が駆け付けた時、亮は頭や耳から血を流し道路の上に倒れていた。



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崇之は安易に見合いをしたことを後悔していた。
相手の松宮麗子は名門女子大の仏文科卒、目下花嫁修業中、家柄も経歴も申し分ない良家の
子女である。母の雅子がたいそう気に入り積極的にこの縁談を進めている。
イブのコンサートも雅子が勝手にセッティングし、明日はここでの食事会に両親ともども
招待しているらしい。
崇之は自分の意思とは無関係なところで事がどんどん運ばれていることに困惑していた。
亜希への想いを断ち切るための見合いのはずが、彼の心はすでに大きく揺らいでいる。
タクシーの中から目撃した光景が頭から離れない。もし高村が本当に亜希を裏切っているの
なら、彼女を諦める理由がなくなる。お手伝いの滝から彼女が入院していたことを聞かされた。
コンサート会場で見た亜希はどこか淋し気だった。
ピアノの前に座り鍵盤を指で弾いた。ここで過ごした亜希との濃密な時間が甦る。
彼女のピアノがもう一度聴きたい・・・


「崇之さま、さっきから何度も電話が鳴っていますよ」
「ありがとう、滝さん」
滝から受け取った携帯の着信履歴を見てすぐにかけなおすと、亜希の取り乱した声が
返ってきた。
「木戸君、亮が… ごめんなさい電話なんかして、車に轢かれて、
私のせいなの、高村と連絡が取れなくて… 亮が、」
「亜希、落ち着くんだ! どこの病院? わかった、これからすぐ行く」
電話を切ると崇之は別荘を飛び出した。


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救急病院に到着すると亜希は手術室の前のベンチでうな垂れていた。
「亮ちゃんは?」
「頭を強く打ってて、意識がなくて… 私がいけないの、亮をひとりにした
ばっかりに、私のせいなの… 亮に、もしものことがあったら……」
目に涙を溜め亜希は自分を責め続けた。
雪に濡れて冷たくなった身体が小刻みに震えている。そっと肩に腕をまわすと
堪えていたものが堰を切ったように崇之の胸に顔を埋め声を出して泣いた。

「お父さんか、お母さんのどちらか、親戚、お知り合いの中にABRHマイナスの
方いませんか!? 輸血が必要なんです!」
若い看護師が慌てた様子で二人に向かって早口に言った。
亜希が何かを言おうとする前に、崇之は立ち上がり看護師の後に続いた。


「木戸君、ABRH-だったの!?」
暫くして戻って来た孝之に向かって亜希は信じられないという顔をした。
AB型RHマイナスは非常に稀な血液型で、日本人では二千人に一人位の割合しか
いない。亮が生まれた時はじめてこの血液型の詳細を知った。

「ああ、けっこう珍しいからな… それより、高村先生からまだ連絡ないの?」
息子が瀕死の重傷を負っているのに父親がこの場にいないばかりか、連絡すら取れない
ことに崇之は憤慨していた。
「ずっと携帯が繋がらなくて、メールも入れてるんだけど…」
成都医大に電話をしたが、耕平は定時に病院を出ていた。常泊しているホテルにも
今夜はまでチェックインしていない。耕平はいったいどこで何をしているのだろう。
夫と連絡が取れないことに亜希は苛立った。

「どこか、先生の立ち回りそうなところに心当たりは?」
亜希は首を横に振った。が、少し考えてからバッグの中の例の封筒を取り出し
崇之に渡した。
「ここかもしれないわ…」
感情のない醒めた言い方だった。
最初は単なる悪戯だと思ったが、無言電話の件もあり、今はもしかしたらと言う
気持ちになっていると、亜希は淡々と話した。

タワーマンションから出て来たあの男女の姿が崇之の脳裏に鮮明に蘇った。
そして、高村の亜希への裏切りを確信した。


手術中を示す赤いランプが消え、ドアが開き中から険しい表情の医師が出てきた。
「手術は、一応無事に終わりましたが… 非常に危険な状態です」と言うと一礼して
引き上げて行った。
亜希はその場に崩れそうになるのを危うく崇之に抱き留められた。



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耕平は東京駅発の『あさま』に飛び乗っていた。
イブの夜の埋め合わせにと杏子にせがまれ都心のホテルへ食事に行った。
携帯をうっかり彼女のマンションに置き忘れ、気づいた時はすでにタクシーの中だった。
九時前になってようやく亜希のメールで亮の事故を知った。
今しがた担当の医師と直接連絡が取れて詳しい説明を受けた。頭部を強打したことによる
脳挫傷、及び頭蓋底骨折だった。脳内にかなりの出血と浮腫があり、大部分は手術で摘出
したが依然として昏睡状態が続き予断を許さない状態だった。
担当医は耕平が脳神経外科の専門医だとわかると患者の父親であることも忘れ、自分の
所見を率直に述べた。


耕平はシートに凭れ目を閉じた。
家にいるといつも纏わりついてくる亮の姿が瞼の裏に浮かぶ。例え一命を取り留めたと
しても、二度と再び、あの愛くるしい笑顔を見ることはないだろう。
父子で楽しむはずだったキャッチボールも、サッカーも、釣りもキャンプも・・・
目頭を押さえながら耕平はふーと大きく息を吐いた。



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麻酔が覚めても亮の意識は一向に回復の兆しをみせなかった。
「ごめんね亮、ママがいけないの、あなたをひとりにしたばっかりに…
亮、お願いだから目を覚まして…」
小さな手を握りしめ物言わぬ我が子にずっと語りかける亜希の姿が痛々しい。
崇之はなす術もなく、そんな彼女をそばで見守るしかなかった。
やっと連絡が取れ、高村は最終の新幹線でこっちへ向かっているという。
顔を見れば殴りかかりそうで、できれば彼がここへ来る前に病室を出たいと思った。
だが、今の亜希を一人にすることはとてもできない。



深夜近くになってようやく高村が病室に着いた。
亜希の傍らに崇之がいることに少し驚いたようだが、すぐに息子の枕元に駆け寄った。
「亮、遅くなってごめんな、なんでこんなことに…」
高村は絶句した。
「…母親が付いていながら、どうして亮をこんな目に…」
自責の念で打ちひしがれる妻に追い打ちをかけるような残酷な言葉だった。
崇之は思わず拳を握りしめた。これ以上ここにいると本気で高村をなぐりそうで、
黙って病室を出た。


「亜希、遅くなってすまなかった。…さっきは酷いことを言ってしまって、本当に
悪かった」
変わり果てた息子の姿を目の当たりにして、つい口走ってしまった妻への暴言を
詫びた。

「木戸さんに、世話をかけたみたいだね」
耕平はさっきまでいた木戸の姿が見当たらないのに気づいた。
なぜ彼がここにいたのか、間接的に聞くような言い方になった。

「あなたと全然連絡が取れないし、お母さんも千葉に行っているし、
どうしていいか分からなくなって木戸君に電話したの。きのう駅前で
お手伝いさんに会って、こっちに来てること聞いていたから」
亜希の言葉の中には(あなたさえもっと早く来てくれたら、また疑われるような
真似はしなかったわ!)という夫に対する強い非難と抗議の気持ちが表れている。

「そうか… 礼も言わずに悪いことをしたな」
耕平は心底そう思った。
「…お義母さんには知らせたの?」
静江は亮のことを実の孫、いや、それ以上に可愛がっていた。亮の容態を考えると
一刻も早く静江と舞に逢わせたやりたい。

「いいえ、まだ… 耕平さん、お母さんや舞に知らせるの明日の夜まで
待ってほしいの。ディズニーランド、明日なの…」
亜希は今日別れ際に舞と亮が交わした会話の内容を伝えた。

「…亮、お姉ちゃんがミッキーマウスのぬいぐるみを買ってきてくれるの
とっても楽しみにしてた。だから、きっと… 舞が帰ってくるまで、
頑張れると、思うの……」
あとは涙で言葉にならなかった。




結局、亮の意識は戻らないまま静江と舞が来るのを待っていたかのように、
二人が千葉から駆けつけた後すぐに息を引き取った。
三歳の誕生日を目前にした短い生涯だった。小さな棺の中には、約束通り
姉が買ってきてくれたミッキーマウスのぬいぐるみが納められた。

10.逃避行(1)

亮の葬儀からあっという間に一か月が過ぎた。
弔問に訪れる人の数も減り昼間一人になると、どうしてもあの日の事を思い起こしてしまう。
あの時、亮を一人にさえしなければ、あの封筒さえ開けなければ・・・
突然我が子を奪われた悲しみと夫への不信感で亜希の心は重く沈んでいた。
崇之に逢いたい。何度も携帯を握りしめた。が、そのつど思いとどまった。今、崇之に
逢えば闇雲に彼の胸の中に飛び込んでしまいそうで怖かった。コンサート会場で彼の
名を呼んだ若い女の存在も心に引っかかる。


「もしもし亜希ちゃん、一緒にお昼しようと思って、今駅まで来ているんだけど
これからそっちへ行ってもいいかしら?」
静江は亜希のことを心配していろいろと気遣ってくれる。
今週末から姉の家に行く予定があり、ちょうど舞の小学校の開校記念日と重なるので
一緒に連れて行くという。

「あなたも一緒に東京まで出て、耕平さんと美味しい物でも食べてゆっくりしてくると
いいわ。結婚記念日に散々な目に合った分、取り返していらっしゃいな」
イブの夜のことが頭を掠めた。

「じゃあ、せっかくだからお母さんのお言葉に甘えて、耕平さんにあの時の埋め合わせ
させちゃおうかな」
とてもそんな気分にはなれないが、静江の優しい思いやりに亜希はわざと明るく応えた。
耕平はこの一か月、判で押したように金曜の夜は”直帰”している。”あの事”を確かめる良い
チャンスかもしれないと思った。

今まで亮のことで頭がいっぱいで、耕平を問い詰めるようなエネルギーは亜希の中に残って
いなかった。だが、『耕平と杏子が不倫…』というあの文面は片時も脳裏から離れない。
もし本当だとして、そのあと具体的にどうするかはまだとても考えられない。
ただ、事実かどうかだけでも確かめてみたかった。


________________________________



金曜の午後、亜希は静江と舞と三人で東京へ向かった。
耕平には一緒に千葉へ行くことにしてある。
「ママのサプライズ、パパびっくりするかなあー?」
「そりゃ、千葉にいるはずのママがいきなり目の前に現れたら、パパ驚いて
腰抜かすかもよ」
「楽しみぃー!」
何も知らない二人は新幹線の中で会話を弾ませていた。


東京駅で二人と別れた。
耕平が成都医大を出るまで、まだだいぶ時間がある。
亜希も千葉に行くと知ると、今日はこっちに泊まると言って朝自宅を出た。
不倫が本当なら病院からまっすぐホテルか杏子のマンションに行くだろう。
時間つぶしに街をぶらついた。都心を一人で歩くのはあのイブの夜以来だった。
いたるところに聖バレンタインデーのディスプレーが店のウィンドーを飾っている。

  ——『バレンタインデーに生まれる男の子なんて、超ラッキー!』
   『ラッキー!』——

今年の二月十四日、その日は家族にとって特別な日になるはずだった。
弟の誕生を心待ちにする舞と亮の無邪気な姿が脳裏にちらつく・・・
バレンタインの贈り物を買い求める賑やかな人波をを避けるように亜希はタクシー
乗り場へと急いだ。


六時を廻った頃、耕平が職員専用通用門から出て来た。
携帯で何かを確認してから大通りで客待ちをしているタクシーに乗り込んだ。
亜希は少し遅れてその後を追った。車は都心にあるホテルとは逆方向に走っている。
暫くすると高層マンションが立ち並ぶウォターフロントに出た。
その一つのマンションのエントランスでタクシーは停止した。耕平は手慣れた様子で
暗唱番号を入力すると、ドアの向こうに消えて行った。

杏子のマンションの詳しい所在地は知らないが、東京湾を一望できる場所だと聞いた
ことがある。あのワープロの文面が事実だと確信した亜希はこれ以上の追跡は止めよう
と思った。が、耕平の乗って来たタクシーはエンジンをかけたまま一向に動く気配が
ない。車を待たせておいて二人でどこかへ出かけるつもりかもしれない。
亜希はタクシーを降りてマンションの入り口まで歩き、物陰からそっとガラス張りの
ドアの向こうを(うかが)った。浮気の追跡調査をする探偵の真似事をしているような自分が
ひどくみじめだった。


暫くして、耕平の腕を掴みゆっくりとドアに近づいて来る女の姿が見えた。
コートの上からでもはっきり確認できる大きなお腹を抱え、妊婦特有の歩き方をする
島崎杏子を目の当たりにして、亜希は耕平が待たせておいたタクシーに飛び乗った。
慌てて車の後を追いかけてくる夫の姿が、サイドミラーの中でどんどん小さくなって
行った。



************************************




週末で賑わう都心の雑踏の中を彷徨っていた。
さっきからずっと携帯の着信音が鳴り続けている。二人の不倫は半ば予測していたが、
杏子の妊娠は想定外だった。どうしても許せなかった。夫の愛人の妊娠、二度と子供が
産めない妻にとってこれ以上の屈辱はない。
気が付くと高速バスのターミナルまで来ていた。どこ行くあてもなかったが、一刻も
早く東京を離れ、できるだけ遠くへ行きたいと思った。
また携帯が鳴った。電源を切ろうとして発信先が夫ではないのに気づいた。


「亜希… 今、話しても、いいかな?」
躊躇いがちな優しい声が亜希の耳元で囁いた。
「逢いたい… 逢いたい、あなたに逢いたい!」
夫の裏切りを知った今、崇之への想いを制するものは何もなかった。



崇之は世田谷の自宅を出て新宿駅へ車を走らせていた。
電話の悲痛な声が彼女に何があったかのすべてを物語っている。
あの日以来、亜希のことばかり考えていた、彼女のことしか頭になかった。
高村に亜希を愛する資格などない。ただ、最愛の息子を亡くした男に追い打ちを
かけるような行動だけは取りたくなかった。が、もはや二人の間を阻むものは
何もない・・・


「ずっと、逢いたかった…」
「私も…」
人目を(はばか)ることなく二人は熱い抱擁を交わした。
「どこか、遠くへ行こう…」
崇之の腕の中で亜希は大きく頷いた。


二人だけの居場所を求め、崇之の車は首都高、東名、名神、・・・
闇の高速道路を突っ走った。
夜明け前、朝靄に煙るに二条城を臨む古都のホテルに到着した。
自制を解かれた二人の躰は、奪われた時間を取り戻すかのように激しく求め合い、
愛を交わし… ようやく一つに結ばれた。

11.逃避行(2)

冬枯れの古都の街は訪れる人の姿も(まば)らでどこもひっそりとしている。
鴨川べりの小さな店で二人は遅い昼食を取った。


「冬の京都もいいなあ…」
崇之は窓の下の川の流れに目をやった。
市街地を真っ直ぐに流れる鴨川は四季それぞれに美しい顔を持つ。春は堤を淡いピンク
一色に染める桜並木、夏は京の風物詩である納涼床、秋は色鮮やかな紅葉、そして冬は
シベリアから飛来するユリカモメが姿を見せる。

東京を離れ崇之とこうしていることが亜希にはまだ信じられなかった。後悔はしていない。
だが、この先のことを考えても何も見えてこない。もう耕平のところには戻れない。
と言って、こんな逃避行をいつまでも続けるわけにはいかない・・・

「冬のヨーロッパも悪くないよ。二人で向こうで暮らそうか…」
まるで亜希の心の中を覗いたように崇之は言った。
帰国した本当の理由、自分の意思に反して結婚話が進められていること、木戸の家を
捨てる覚悟があること、欧州での具体的な生活のこと・・・
これからの二人の未来図を少年のように瞳を輝かせ熱く語りはじめた。
だが、亜希には彼の話すことがどれも現実味のない夢物語のように聞こえる。

亜希はふと、亡くなった父、圭一郎のことを思った。
地方の富裕な旧家の長男として生まれ、幼いころから絵が上手く数々の賞を取り地元では
神童ともてはやされた。東京の美大に進んだが、親の猛反対から仕送りを絶たれ中退せざる
を得なくなった。父に才能があったかどうか亜希にはわからないが、生活苦は父から才能
ばかりか絵を描く意欲さえ奪ってしまった。死の直前には現実から逃避するように酒に溺れ、
絵筆を持つことなく荒んだ生活を送っていた。
崇之は確かに豊かな才能に恵まれている。彼のバイオリンは優雅で表現力に満ち溢れている。
だがそれは持って生まれた才能だけで創り出されたものではない、彼の育った環境が大きく
影響している。今の崇之の生活基盤は木戸家の資産、親からの援助の上にある。
それらすべてを失った時、果たして彼のバイオリンは今と同じように高貴で優美な音色を
醸し出すだろうか・・・


「聞いてる!?」
自分の話に乗ってこない亜希を諫めるように言った。
「えっ、うん…」
「後悔してるの?」
亜希は大きく首を振った。
「そうじゃないけど… あなたの言うようにそんなに簡単にいくとは思えないの」
「大丈夫、何も心配はいらないよ。亜希は一日も早く先生と正式に別れることだけを
考えていればいい。そんな厄介なことにはならないさ。彼には君を愛する資格も
離婚を拒否する権利もないからな。当面二人で住むところはちゃんと確保するから。
とにかく、明日東京に戻ろう」
「うん…」
崇之の前向きな言葉に少し気持ちが軽くなった。
「…実はね、私… まだ、あなたに話していないことがあるの……」
亮の父親が耕平ではなかったこと、子供が産めない身体になったことを崇之はまだ知らない。
辛い過去だが、彼にはすべて話しておかなければならない。

「そっか、いろいろあったんだね… けど、亮ちゃんも彼の本当のお父さんも
天国に行ってしまったわけだし、二人の分まで亜希は幸せにならなくちゃいけない…」
亜希の手をぎゅっと握りしめた。
「…成瀬亜希に戻ったら、すぐに結婚しよう。世の中には子供のいない夫婦なんて
五万といるよ。君は跡取りを産むための木戸家の嫁になるんじゃない、木戸崇之の
妻になるんだから。二人で生きていこう」

崇之の言葉は涙が出るほど嬉しかった。先行きの不安はあるが、とにかく今は
彼のことを信じてついて行くしかないと思った。


___________________________



亜希の前ではああ言ったものの前途多難、いくつもの高いハードルをクリアしなければ
いけない。まずは婚約寸前まで母が話を進めている松宮麗子との縁談を一刻も早く白紙に
戻す必要がある。亜希に再会する以前の崇之なら、すんなり彼女と結婚していただろう。
木戸家の長男、一人息子として幼い頃から家を継ぐことが命題とされてきた。
十代の頃はそんな自分の宿命に反発したりもしたが、崇之の音楽に対する父の理解が
精神的な支えとなって、いつの頃から自分の立場を受け入れるようになった。

亜希との再会、それは自分の人生を変える運命の(ひと)との出逢いになった。
彼女のことをこんなにも愛してしまったからには、もう絶対に後戻りはできない。
崇之は木戸の家との決別を心に誓った。

12.決別

帰京した二人はとりあえず、亜希は都内のホテルに崇之は世田谷の自宅に戻った。


「崇之さん、黙って家をあけて今までどこにいたの? そろそろ、
結納の日取りや何かも決めないと……」
「お母さん、何度も言ってるようにこの話はなかったことにして下さい」
「麗子さんは木戸家にとって申し分のないお相手だし、あちらのご両親も
あなたのこと、とても気に入っておられるのよ。いったい何が不満なの?」
「僕には心に決めた人がいます」
崇之はきっぱりと言った。

「なんですって? どちらのお嬢様?」
「今はまだお話しできません」
「どういうこと? 母親のわたくしにも言えないようなお相手なの?
崇之さん、あなたはこの木戸家の跡取りですよ。木戸の家にふさわしい
それなりのお家のお嬢様でなければならないこと、お分かりよね」
予想していたこととは言え、雅子にとって息子の結婚相手は木戸家にとって
不足のない嫁、良家の子女が絶対条件である。
「とにかく、今回の話は白紙に戻してください!」
「そんなこと、できません!」


「どうしたのかね、二人とも大きな声を上げて?」
二人のやり取りを聞きつけ父の祥吾がリビングルームに入って来た。
「あなた、崇之ったら松宮家との縁談お断わりしてほしいなんて
言い出して。親にも紹介できないような人と結婚したいだなんて…」
雅子は興奮のあまり声を詰まらせた。

「好きな人がいるんなら、縁談を進めるほうがかえって先方に失礼に
なるんじゃないのかね。そもそも、崇之の意思も確かめず勝手に
突っ走るから」
「あなたはいつもそうやって崇之の肩ばかりお持ちになるのね。
少しは木戸の家のことも考えて下さらないと…」
総領娘の雅子は幼い頃から何をおいてもお家が一番と言う教育を徹底して
受けてきた。
「崇之も、相手のことが話せないとはどういう事なんだ?」
「すいませんお父さん、もう少しだけ時間を下さい。ここへ連れて来て
必ずお二人には紹介しますから」
まだ人妻である亜希のことをここで両親に言うことはできない。
彼女のことが発覚すれば、雅子はどんな手段を使っても阻止するだろう。

「分かった。雅子、先方には一にも早くお断りしなさい」
祥吾はそれだけ言うと自室に引き上げて行った。
いつも最後の決断は父が下す。祖父の崇正が見込んで婿養子に迎えただけあって世間
一般の婿養子とは異なり、家の実権を握り妻の雅子も最終的には夫に逆らうことはない。
そんな父を崇之は子供の頃から尊敬している。だが、いくら寛大な祥吾でも息子が人妻に
恋をし結婚まで考えていることを知ったら、尋常ではいられないだろう。




***********************************



亜希は窓際に佇み、夕日が東京の街を(くれない)色に染めてゆく様子をぼんやりと
眺めていた。崇之と再会してから急展開していく自分の人生に少し戸惑っている。
耕平と築いた家庭、それは子供たちに囲まれた平凡だが幸せな毎日だった。
これから崇之と歩もうとしている人生、それは本当に彼の言うように、あの
”秘密の花園” で過ごしたような時間の延長線上にあるのだろうか・・・



「亜希、これから祝杯だ! 例の見合い話、カタがつきそうだよ」
夜になってワインを携えた崇之がホテルの部屋に来た。
大きな肩の荷を下ろしたように彼の表情が晴ればれとしている。
「さあ、次は君の番だ。僕も一緒に先生に会うよ。そして、離婚届にサインしてもらう… 
あれ、これってちょっと変かな?」
「それって、すごーく変!」
二人は思わず噴き出した。
深刻なはずの離婚話をこんな風に話せるのも崇之を悩ませていた問題が一つ解決した
からだろう。

「明日、長野へ行ってくるわ」
亜希は少し顔を強張らせた。
「本当に、ひとりで大丈夫?」
「ええ」
耕平と顔を合わせるのは気が重い。が、避けて通れない道ならなるべく早い方が良い。


_______________________________




翌日、亜希は長野駅からまっすぐ静江のところへ向かった。
彼女には京都から電話を入れ崇之と一緒に居ることを知らせていた。


「お母さん、心配かけて本当にごめんなさい」
「耕平さんから事情を聞いた時は、もうあなたのことが心配で心配で…
京都から連絡もらって、ほっと胸をなでおろしたのよ」
「すみません、勝手なことして…」
「仕方ないわね。私があなたの立場でも同じことをしたかもしれないわ」
静江は苦笑を浮かべた。

「亜希ちゃん… 耕平さんのこと、やっぱり許せない?」
「……」
「そりゃそうよね… 取り返しのつかない酷いことをしてしまった、って
耕平さん憔悴しきってた。でもねえ、私には分かるのよ。”あのひと” に
振り回されてこんな事になったってこと。あなたのことを誰よりも愛して
いるってこと。できればやり直したいって願ってること」
返す言葉が見つからず亜希はうつむたまま黙っていた。


「舞、どうしてます?」
「ちゃんと学校には行ってるわよ。あの子なりにパパとママの間になにか
大変なことが起きてるってことは、分かってるみたいだけど…」
今度のことで舞が小さな胸を痛めていることが亜希には一番辛かった。

「…これからの事は、あなたたち二人が決めることで私がどうこう言うこと
じゃないけど、亜希ちゃん、これだけは覚えておいて。
耕平さんとどんなことになろうとも、ここはあなたの実家なんだから、何か
あったらいつでも帰っていらっしゃいね」
静江は目頭を押さえ声を詰まらせた。

これまでの亜希の人生はあまりにも辛いことが多すぎる。実の娘同然に思って
きた彼女にはどうしても幸せになってもらいたい。だが、亜希が木戸崇之と
一緒になることに静江は一抹の不安を覚えていた。


_________________________




亜希は一週間ぶりにマンションに戻った。
ここには家族の思い出がぎっしりと詰まっている。ついこの間まで二人の明るい
声が響いていた子供部屋には、まだ亮の匂いが残っている。
子供たちが『パパのお城』と呼んだ、耕平が唯一喫煙を許された狭い書斎には
煙草の臭いがこもり、いつものように読みかけの書物が散乱している。

耕平を憎んでいるわけではない・・・
家族思いで子煩悩で、人一倍優しいくせに照れ屋で、妻への愛情表現が苦手な、
とっても ”昭和な” 夫だった。イブのコンサートで照れくさそうに放った一言を
思い出し、亜希はくすっと笑った。『綺麗だよ、すごく良く似合ってる』おそらく
あれが最初で最後、最大級の妻への褒め言葉だったかもしれない。
耕平との関係は、心ときめくような恋愛や身を焦がすような恋心からはじまった
わけではない。ゆっくりと愛を育み、家族をつくり、子供の笑い声が絶えない、
幼い頃からずっと憧れていたような平凡で暖かい家庭を二人で築き上げた・・・


亜希は頭を大きく左右に振った。
ここにいると、楽しい思い出ばかりが甦ってくる。感傷に流されそうになる自分を
振り切るようにスーツケースに身の回り品を詰め、亮の位牌と写真を持って足早に
マンションをあとにした。

13.海の見える家

東京駅に着くと崇之が迎えに来ていた。

「先生とは会えたの?」
「ううん… 急用ができて、来週の金曜に都内で会うことにしたの」
「まさか、逃げてるんじゃないよな? 次もこんな調子なら弁護士立てて、
きっちり話をつけてやる!」
話の進展がなかったことにひどく苛立っている。
あのマンションで耕平と離婚話をする気になれず、東京で会うことは亜希のほうから申し
入れた。だが、崇之には言い出せなかった。

「これから、どこかへ行くの?」
崇之の車は滞在中のホテルの前を通過してもなお走り続けた。
「ああ。それは着いてからのお楽しみ!」
さっきまでの表情とは一変し口元が緩む。
車は東京を出て横横道路に入った。逗子インターで下りて海岸線を暫く走ると高台にある
一軒の家に着いた。


「ここが日本を発つまでの二人の ”愛の巣” 」
崇之は片目を瞑りニヤリと笑った。
ベランダに面した広いリビングルームにはグランドピアノがあった。
眼下には湘南の海が広がり、葉山マリーナに停泊するヨットの灯りが見える。

「どう、気に入った?」
「ええ… でも、ちょっと贅沢すぎない?」
崇之が木戸グループの関連会社の取締役に名を連ねていることは耕平に渡した名刺から
知っていたが、いったいどのくらいの年収があるのか亜希には見当もつかない。
同年代の平均年収とは桁違いである事は確かのようだ。音大性は百万円前後の練習用の
バイオリンが持てれば恵まれているほうだが、崇之は学生時代からすでに数千万以上する
名器、ストラディバリウスを使いこなしていた。

「ピアノ付の物件、けっこう苦労したんだぞ。ちゃんと調律も
済ませてあるし…」
亜希の反応にがっかりしたように口を尖らせた。
「凄くいい音だわ。ありがと!」
彼の気持ちに応えるように嬉しそうに鍵盤を弾いて見せた。

「なにか弾いてみて」
「なにがいい?」
「うむ、そうだな… ”さすらい人” が聴きたい」
「OK」

シューベルトの幻想曲第二楽章――
     瞑想的な物静かな音色がゆっくりとリビングに流れる。
     終盤になると、亜希の右手と左手がダイナミックに交差し
     ピアニスティックな旋律が響き渡る・・・


「愛してるよ。もう絶対、放さないから… 」
そっと耳元で囁くと、崇之は亜希の躰を愛おしむように抱きしめた。



***************************************



早めに病院を出たせいか、待ち合わせのホテルのティーラウンジに約束の時間よりも
だいぶ前に着いた。三本目の煙草に火をつけた時、亜希が少し遅れてやって来た。


「ごめんなさい、こっちで呼び出しておきながら遅れてしまって」
「いや、俺も今来たとこだから…」
亜希は灰皿に目をやってくすっと笑った。
半月ぶりに会う妻は、ほのかな色香を漂わせ男に愛されている女の顔をしている。

「すまない。誤ってすむようなことじゃないけど… 君には本当に酷いことを
したと思ってる」
煙草を揉み消し居住まいを正すように両手を膝の上に置いた。
「…ただ、俺は、」
「もう、よしましょ」
耕平の言葉を遮り、バッグの中から離婚届と茶封筒を取り出しテーブルの上に置いた。
左手の薬指からはすでに結婚指輪は消えている。
離婚届けの二名の証人欄の一つには木戸崇之の署名と捺印がある。
封筒の中にはマンションの鍵と指輪が入っていた。

「なるべく早くお願いします」
亜希はうつむいたまま目を合わせずに言った。耕平も黙って頷いた。
「木戸さんと、一緒になるんだね」
「ええ…」
少し恥じらうように頷いた。

できることなら離婚届をびりびりに引き裂いて、この場で土下座してでも連れ戻したい。
自分のしたことは決して許されることではない、彼女を愛する資格がないことは誰よりも
一番良く分かっている。自分が今できることは離婚に同意して、一日も早く彼女を自由の
身にしてやることしかないだろう。だが、耕平は亜希のことが心配でならない。
木戸は本当に彼女を幸せにできるのだろうか・・・


突然携帯が鳴った。
耕平は我に返り、発信先を確認するとすぐに切った。ここでこのまま亜希と別れると
思うと堪らない気持ちになった。
「亜希、あのさ…」
最後まで言い終わらないうちにまた着信音が鳴る。
舌打ちをして電源を切ると上着のポケットに乱暴に押し込んだ。

「もうすぐなんでしょ、そばに付いててあげないと」
夫の仕草から発信相手を察したようで、笑みを浮かべながら言った。
それは皮肉でも嫌味でもない、いつもの優しい妻の微笑だった。

「じゃ、もう行くね」
亜希はそれだけ言うと椅子から立ち上がりロビーの向こうに消えて行った。



***********************************



「やっぱり彼女、御曹司とデキてたのね。若いのにたいしたもんだわ。
『外科医の妻から資産家の愛人へ華麗なる転身‼』 三文雑誌なら、さしずめ
こんな見出しがつきそうじゃない」
耕平が無造作にテーブルの上に置いた離婚届を手に取り、杏子は好き勝手なことを
言っている。

「愛人?」
彼女が口にした”愛人”という言葉に引っかかった。
「そりゃ、正妻の座はムリでしょ。いくら御曹司が見初めた相手でも、木戸財閥に
相応しい良家のお嬢様でないばかりか、高村先生の ”お手付き” なのよ」
杏子は卑猥な笑みを浮かべた。

(亜希が愛人!?)そんなこと絶対あってはならない。が、確かにあの木戸家が
すんなり彼女を嫁として受け入れることなど考えにくい。例え結婚できたとしても、
ああいう一族の中で跡継ぎを産めない嫁の立場は悲惨なものだろう。
木戸はそんな妻を守ってやれるのだろうか…

「私が証人になってあげるわね」
杏子は勝手に離婚届けの証人欄に記入し始めた。
「ねえ、これ出す時、ついでに私たちも籍入れちゃわない?
そうすれば、この子も耕平の実子として戸籍に載るわけだし…」
大きく迫り出した腹を擦りながら猫なで声を出した。


(この女のおかげで俺は大切なものをすべて失ってしまった…)
目の前にいる杏子が、いつか観たホラー映画の愛人役の女優に見えた。


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耕平があっさりと離婚に応じてくれたこと、三年間の結婚生活がたった一枚の
紙切れであっけなく終わってしまったことに、亜希は一抹の淋しさを感じた。
もちろん泥沼の愛憎劇を望んだわけではないが、心のどこかで耕平が引き留めて
くれること、その素振りでも見せてくれることを期待していたのかもしれない。
先行き不透明な崇之との恋に生きる決心をしたはずなのに、これでもう絶対に
後戻りはできないと思うと、急に耕平との穏やかな愛が懐かしくなった。

葉山マリーナに近づくと、車窓の景色が陸地から相模湾の海岸線へと変わって行く。
あの高台に(そび)える白い家だけが、亜希が戻れる唯一の場所となった。

14.好きだから(1)

高村との離婚が正式に成立したことを確認した後、崇之は一人で世田谷の両親を訪ねた。
いきなり亜希を二人に引き合わせれば父はともかく、母とは修羅場になる可能性がある。
事前に彼女のことを話しておいたほうが賢明だと判断した。


「…名前は成瀬亜希といいます。ついこの間までは、高村亜希でした」
崇之はおもむろに切り出した。

「ま、まさか、あの成都医大の高村先生の!?…」
「そうです。僕たちは真剣に愛し合っています。彼女と結婚するつもりです。
認めていただけないのは覚悟の上で、木戸家の嫁ではなく、僕の妻になる人を
お二人に紹介したいと思っています」
両親の顔を交互に見ながらきっぱりと言った。

「崇之さん、あなた正気なの? そんなこと許されるはずがないでしょ!
あなたは木戸家の長男であり唯一の後継者なのよ。木戸の家をわたくしの
代で断絶させるようなこと、断じて許しません」
雅子の声は震えている。
父に援護を求めるように祥吾の顔を伺った。

「私もこの結婚には断固、反対する!」
いつも物静かな父が興奮気味に声を荒げた。
母の反応は予想通りのものだが、いつもと違う父の様子に崇之は困惑した。

「なぜですか、お父さん?」
「絶対に遺憾、ここへ連れて来る必要もない。今すぐ別れなさい!」
祥吾は不自由な左手を震わせ、右手で杖を掴むと足を引きずるように部屋を出て行った。
息子と一度も目を合わせようとはしなかった。こんな理不尽な父の態度を見たのは、
生まれて初めてだった。



________________________________


祥吾は自室に戻ると気持ちを落ち着かせるため、脳梗塞で倒れて以来主治医から
止められている葉巻を銜えた。
別荘の快気祝いの席で高村亜希を目にした瞬間、祥吾の心臓は凍り付きそうになった。
あの頃の美沙子と瓜二つの美しい容姿、一目で成瀬美沙子の娘だと判った。


山口県下の城下町、それが二人の故郷だった。
祥吾は代々続く造り酒屋の次男坊、美沙子は県庁勤めの父を持つ堅実な公務員の家に
生まれた。母親同士が遠縁にあたり幼い頃から顔見知りだった。
高校へ入る頃からお互いを意識し始め、暗黙のうちに将来を誓い合う仲にまでなった。
一浪して東大に合格した祥吾の後を追うように二年後、美沙子は親の反対を押し切って
音大を受験し上京した。祥吾が四年の時、実家の事業が倒産の危機に見舞われた。
それを救ってくれたのが父の友人、木戸崇正だった。
祥吾は木戸家の婿養子となり、美沙子は黙って彼の前から姿を消した。
数年後に偶然再会した二人は、長年の想い遂げるように一夜限りの契りを結ぶ。
あれから二十七年、美沙子と再び逢うことはなかった。

パーティーの後、興信所を使って高村亜希のことを調べた。
やはり美沙子の娘だった。当時、彼女は氏家圭一郎という絵描きと暮らしていた。
だが亜希は戸籍上、非嫡出子、『父』の欄は空欄になっている。いくら二人の間に
正式な婚姻関係がなくても、圭一郎が実父なら認知くらいはするだろう。
祥吾は亜希の生年月日から、もしかしたら自分の娘ではないかと思い始めた。
だがいずれにせよ、亜希が高村耕平と結婚し幸せに暮らしていることに安堵していた。

(崇之の相手が撚りによって…)
運命の悪戯にしてはあまりに残酷すぎる。亜希が血を分けた娘かどうか、美沙子が
亡くなった今DNA鑑定でもしない限り真相を明らかにする術はない。
最悪の事態を回避するためには二人の仲を引き離すしかない。
だが、もし娘でないとしたら、親子二代に渡って愛する者同士が引き裂かれる
という悲劇が繰り返されることになる。祥吾は運命を呪いながらも自らに苦渋の
決断を強いらなければならなかった。



*************************************



祥吾の決断は即、実行に移された。
崇之は木戸グループの取締役のポストをすべて解任された。個人名義以外の銀行預金の
凍結、クレジットカードも差し押さえられ、事実上すべての収入減を絶たれた。
(敵は兵糧攻めにきたか…)
それにしても、父の異常とも思える強硬な態度が崇之にはどうしても理解できなかった。


「きょうは小川さんの来る日じゃなかった?」
通いの家政婦の姿が見当たらず亜希がリビングの家具を磨いている。
「もう、断ったわ。二人だけだからそんなに汚れないし…」
「金の事なら心配いらない。君にそんなことしてほしくないよ」
「掃除くらいしないと身体がなまっちゃう。ほら、あなたも手伝って」
布きれを丸めてボールを放るように崇之に投げつけた。

「よーし、絶対に負けないからな! こうなったらさっさと婚姻届け出して
日本を脱出するか。ストラドを売れば向こうでの当面の生活はなんとかなる」
「そんなこと、絶対ダメよ‼」
亜希は掃除の手を止め崇之の前に仁王立ちになった。
「冗談だよ、そんなおっかない顔すんなよ」
崇之は笑った。が、このままではエンゲージリングはおろかこの家の来月分の
家賃さえも危うくなる。
「ちょっと出かけて来るよ。夕方までには戻るから」
崇之のBMWがエンジン音を轟かせ坂道を下って行った。


冗談にせよ崇之がバイオリンを手放すと口にした時、京都で抱いた不安が一瞬、
亜希の胸を過った。生活苦のためにストラディバリウスを手放す―― それは、
バイオリニストとしての魂を売るにも等しい。そんなことは絶対あってはならない。
このまま木戸家からの経済制裁が続けば、崇之は精神的に追いつめられ苦悩する。
そしてそれは必ず彼のバイオリンに現れる。
亜希は場末の酒場でピアノを弾いてでも生きて行ける。が、木戸崇之のバイオリンは
優雅で気高い ”貴公子” そのものでなければならない。




夕方、亜希が坂の下の店から帰宅すると窓から明かりが洩れていた。
崇之の愛車は車庫にはない。恐る恐る玄関のドアを開けるとリビングルームに
『パガニーニのバイオリン協奏曲第一番』が流れている。この曲で崇之は数々の
コンクールを独占してきた。亜希はその場に立ち尽くし彼の演奏を最後まで聴いた。
そして、何かを決意したように頬に伝わる涙を両手で拭った。

15.好きだから(2)

「崇之ったら、本当に信じられませんわ。きっと、あの(ひと)(たぶら)かされているに
決まってますわ」
収入源を絶たれた息子からその後、何の音沙汰もないことに雅子は苛立っていた。

「あんな虫も殺さないような顔をして、やはり”お里”は隠せませんわね。
あなた、この報告書をごらんになって… 私生児ですって、汚らわしい!」
身震いするような大げさな格好をして夫の前に亜希の身上調査書を広げて見せた。
美沙子が妻に愚弄されているようで祥吾は不快だった。

「わたくし、明日にでも葉山へ行ってみようと思いますの。少し(まと)まったものを
渡せば別れてくれるでしょう、きっと。崇之に同席されると困るので、あの子を
ここへ呼びつけていただけませんかしら?」
「いや、私が行って話をつけてくる」
美沙子に瓜二つの娘がこれ以上妻に侮辱されるのは耐え難い。直接、亜希と言葉を交わして
みたいという思いもあった。

「なにもあなたがわざわざ出向いて行かれなくても… でも、そのほうがよろしいかもね。
それじゃ、わたくしが崇之をここへ呼びますわ」
いつになく夫が息子ではなく自分の味方に付いてくれることに雅子は満更でもない様子だった。



__________________________


「とにかく行ってみるよ。もしかしたら僕たちのこと認める気になったのかも
しれないしな…」
話があるからと、母から突然自宅に呼びつけられた。
いっこうに降参しない息子に業を煮やし条件交渉にでも入るつもりなのか、
崇之は母の真意を測り兼ねていた。

「あ、待って。私も下の店まで一緒に行くわ」
「やっぱ、車ないと不便だよな」
「いいじゃない、運動不足にならなくて。お金のかからないエキソサイズだと思えば」

崇之はついに愛車のBMWを売却した。
亜希は二人で腕をくんでこの坂道を歩くのが好きだが、彼が大の車好きで特にあの
車には愛着を持っていたのを知っている。
こうして、木戸家の経済制裁はじりじりと崇之を追いつめていた。



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坂道を上って家の前まで来ると急に激しい動悸と息切れに襲われ、亜希はたまらず
玄関先でうずくまった。
「大丈夫かね?」
初老の男は心配そうに亜希の顔を覗き込んだ。
「ええ、もう平気です」
右手にステッキを持つその男が崇之の父、木戸祥吾だとすぐに分かった。
「ちょっと、中に入れてもらってもいいかね?」
亜希は慌てて玄関の鍵を開け祥吾を招き入れた。



「酷い親だと、思っているだろうね…」
ソファに座った祥吾は眼下に広がる海を見ながら独り言のように呟いた。
その横顔は苦渋に満ちている。
「もうお分かりだと思うが、今日は君にお願いがあって来ました」
目の前の亜希に視線を戻し静かに切り出した。

「それ以上おっしゃらないで下さい。私、崇之さんとはお別れするつもりで
いますから… やっと決心がつきました」
きっぱりと言い放つ亜希に祥吾は困惑したような表情を浮かべた。

「どういうことか、聞かせてもらえるかな?」
亜希は頷くと、祥吾に背を向けるように窓際に立ち遥かかなたの水平線に目をやった。
その美しい立ち姿に祥吾は絵画の中の女を見ているような気がした。

「私、崇之さんのこと愛しています。それと同じくらい、いえ、もしかしたら
それ以上に彼のバイオリンが好きです。
もうご存知かもしれませんが、私の父は売れない絵描きでした。
理想と現実の狭間で苦悶し最後は自らの命を絶ってしまった。生活苦が父の才能も
人間性も蝕んでしまった。崇之さんは絶対に父のようになってはいけない。
でも、私がそばにいれば… 」
亜希は声を詰まらせた。

「崇之さんのバイオリンはすでに翳りを見せています……
私は彼の前から姿を消します。だからお願いです、崇之さんにすべてを
返してあげて下さい」
窓際を離れ祥吾の前に(ひざまず)いた。
目に涙を溜め懇願する亜希の姿に祥吾は込み上げてくる感情を押し殺した。

「崇之は決して承服しないだろう。そして君の後を追い続けるだろう…」
「大丈夫です。彼は必ず木戸家に戻ります」
亜希はきっぱりと言った。

「君は、どうするの? 高村先生とは離婚したと聞いたが…」
「私は… 私は、こう見えても結構タフなんです。一週間カップ麺だけでも
生きていける人間なんです。でも、崇之さんには無理ですよね…」
そう言うと、亜希は何かを思い出したようにくすっと笑った。

「ごめんなさい。なんか、格好のいいことばかり言っちゃいましたけど、
もしかしたら、これが別れを決心した本当の理由かもしれません」
「ぜひ、聞きたいね」
「崇之さん、カップラーメンとカップ焼きそばの作り方の違い、
知らなかったんです。あ、こんな話してもお分かりになりませんよね」
「知ってますよ。カップ焼きそばは、湯を入れた後に小さな穴をこじ開けて
湯切りをしてからソースと青のりを入れるヤツでしょ?」
亜希は信じられないと言うように祥吾の顔をみつめた。
「私もかつては貧乏学生だったからね」
人懐っこい笑顔を浮かべた。

「亜希さん、君はそれで本当にいいんだね?」
亜希が大きく頷くと、祥吾の顔から笑顔が消え懐から封筒を取り出し
テーブルの上に置いた。
「手切れ金、ってことですか?」
亜希は顔を強張らせた。
「それはちがう! 気を悪くしないでほしい、だが君にもこれからの
生活がある。これだけは、ぜひ受け取っていただきたい」
祥吾は深々と頭を下げた。

「お気持ちだけは有り難くいただきます。でも、これを受け取ったら
私は、崇之さんを本当に裏切ったことになります」
亜希はテーブルの上の封筒を押し戻した。
その毅然とした態度に祥吾は封筒を懐に納めざるを得なかった。

「もし、何か私で出来ることがあれば、いつでも知らせてほしい」
名刺の裏に携帯電話の番号を記し亜希に手渡した。

「最後にもう一つ、お願いしてもいいかな?」
「?…」
「ショパンの夜想曲、弾いてもらえないだろうか… 知っているよね?」
窓際のピアノに目をやった。
「ええ、母の好きな曲でしたから… 」
意外な祥吾の言葉に亜希は戸惑いながらピアノに向かった。


郷愁を誘うような美しい旋律が流れる・・・
ピアノに向かう亜希の姿に祥吾はかつての恋人の面影を見ていた。

16.好きだから(3)

亜希はベランダの手すりに(もた)れ夜空を見上げた。
眠らない都会の空にはない満点の星空だった。
いつもより多めに飲んだワインのせいか顔が少し火照っている。
冷たい夜風が頬にひんやりと心地よい。


「もう、終わりにしない、こんなオママゴトみたいな生活… 」
「?…」
「別れてほしいの」
「なにそれ? 酔ったの?」
突然の亜希の言葉が崇之には理解できなかった。

「私… きっと夢を見てたのよ。平凡な日常に突如現れた白馬に乗った
王子様に恋をする。王子様が与えてくれる贅沢な暮らしが本当の幸福だと
勘違いしてた。夢から醒めたら、王子様は白馬を奪われ丸裸になっていた。
そしたら、急にまた元の平凡な生活が恋しくなった。ただそれだけ」
亜希は乾いた笑みを浮かべた。

「親父、ここに来たんだね?」
「ええ、いらしたわ。とても理解のあるお父様じゃない」
「いったい、何言われたんだ?」
「私… 小切手受け取ったわ。あなたと引き換えに」
「嘘だそんなの!」
「ほんとよ! こんなこと続けていたらお互いダメになるだけ。
あなたのようなお坊ちゃまには貧乏がどういうものか分からないのよ。
酔っ払いに絡まれながら生活のためにピアノを弾くみじめさが!
あんな生活に二度と戻りたくない! だから、お金を受け取ったの」
「嘘だ、君にそんな真似ができるわけない!」
崇之は拳をぎゅっと握りしめた。

「さすが木戸家ね、半端な額じゃなかったわ。高村と縒りを戻して、
開業医の妻の座をゲットするのに十分な額よ」
亜希は不敵な笑みを浮かべた。
崇之は堪り兼ねたように彼女の頬をぴしゃりと平手打ちにした。

「これで分かったでしょ、私の正体が‼ もう二度と私の前に現れないで、
二度と私の幸せの邪魔をしないで‼」

崇之の後ろ姿に浴びせかけるようにヒステリックに叫んだ。
玄関のドアを乱暴に閉める音がベランダにまで響いてくる。


「これで、よかったのよね… 」
亜希は夜の海に向かってそっと呟いた。
遠く相模湾に浮かぶ船の漁火がまるで蛍の群れのように綺麗だった。




***************************************




昼過ぎ、カーテンの隙間から差しこむ眩しい光で目が覚めた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。辺りを見回し葉山の家ではなく、
世田谷の実家にいることに気づいた。
明け方まで銀座の店を何軒も梯子した後タクシーで辛うじてここまで辿り着いた。


「どう、気分は? こんなになるまで飲むなんて仕様がないわねえ」
雅子がリビングに入って来た。
水差しと薬を盆にのせソファに横たわる息子のところに運んで来た。
言葉とは裏腹に顔には満面の笑みを湛えている。
起き上がると後頭部のあたりに殴られたような痛みが走った。
昨夜の飲み方は尋常ではなかった。

「崇之さん、これであなたも目が醒めたでしょ? 悪い夢でも見たと思って
早く忘れておしまいなさい。少々お高いレッスン料になったようだけど、
まっ、これも仕方がないわね… この薬お飲みなさい、少しは楽になるわよ」
雅子は甲斐甲斐しく二日酔いの息子を介抱する。

「お父さん、亜希は本当に金を受け取ったんですか!?」
部屋に入って来た祥吾を睨みつけるように言った。
「最初からそのつもりだったのよ、きっと。もういいじゃありませんか、
終わったことなのだから…」
「お父さん、答えて下さい‼」
崇之は父に詰め寄った。

「ああ…」
祥吾は庭に目をやり息子に背を向けたまま短く応えた。
父親の言葉に崇之はがっくりとうな垂れソファに沈みこんだ。

「じゃあ、麗子さんとの事、進めてもいいわね?」
間髪を入れず雅子が言った。
「その話はお断りしたんじゃなかったのかね?」
「こんなこともあろうかと思って、先方にはまだお伝えして
いませんでしたの」
今回ばかりは夫の意向を無視し、自分の意思を通した雅子は得意げな顔をした。
「しかし、」
「進めて下さい… 」

父親の言葉を遮り、崇之はまるで夢遊病者のような感情のない表情でぽつりと言った。
一週間後、両家の間で結納が交わされ崇之は松宮麗子と正式に婚約した。

17.春の別れ(1)

「来週あたりが見ごろになりそうですね」
信号待ちで停まった交差点の両側に桜並木が続いている。
開花予想では東京の満開は来週末になるらしい。
運転手の言葉に促されるように耕平は窓の外に目をやった。

「悪いけど、ここで降りるよ」
慌てて財布を取り出し料金を支払うとタクシーを飛び降りた。
まるで宝物でも見つけたように一本の桜の木に向かってまっしぐらに歩き出した。



「満開の桜より、こっちのほうが風情があっていいなあ…」
木陰のベンチにすわり五分咲きの花を眺めていた亜希は驚いて後ろを振り向いた。

「私は、咲き乱れているくらいのほうが桜らしくていいと思うけどな…」
「元気、だった?」
「ええ」
短く応えると亜希は再び桜の花を見上げた。
その横顔はどこか淋し気で愁いを含んでいる。最後に会った時に比べ、心なしか
顔色も冴えない。

「亜希… 幸せかい?」
「……」
「ごめん。元亭主の余計なお節介だったな」
口にしてしまったことを後悔するように慌てて言葉を続けた。
「そうね」
耕平の顔をじろりと見て笑うと亜希はまた視線を桜の花に戻した。

「来週、日本を発つの」
「そっか…」
二人は無言のまま暫くじっと桜を眺めていた。


「耕平さん、」
「ん?」
「…あの時は言えなかったけど、私、あなたと出逢えてほんとうによかったと
思ってる。ありがと…」
亜希の瞳が潤んでいるように見えた。
胸のあたりが熱くなり、耕平はとっさに何も気の利いた言葉が返せなかった。

「もう、行かなくちゃ」
ベンチから立ち上がろうとした時、近くでサッカーに興じていた小学生たちのボールが
亜希の足元に転がってきた。拾い上げると少年の一人に投げ返してやった。その瞬間、
ブラウスの袖がひらりと捲れ細い腕が露わになった。
コイン大の青痣(あざ)が耕平の目を捉えた。

「どこかでぶつけたみたいだけど、なかなか消えなくて…」
視線を感じたのか、亜希は恥ずかしそうに袖口を直した。
「電話でお別れするつもりだったけど、泣いちゃいそうで… 
お母さんと舞によろしく伝えてください」
「分かった… 亜希、」
「?」
「…幸せになれよ」


耕平はそれ以上何も言えず、桜並木を通り抜けて行く亜希の後ろ姿をいつまでも
見送っていた。



***********************************




「遅かったじゃないの、どこに寄り道してたの!?」
ソファにどっかりと座り肩で息をしながら耕平を睨みつけた。
大きく前に迫り出した腹、浮腫んだ手足、臨月を迎えた杏子は自分の身体を
持て余している。感情の起伏が一層激しくなり、いったん機嫌を損ねると
駄々っ子のように手が付けられなくなる。

「デパート数件回ったけど、君のいうブランドのは全部売り切れてたよ」
「ほんとにちゃんと探したの? この雑誌、先週発売になったとこなのよ!」
マタニティー雑誌に紹介されたフランス製のベビー用品がどうしても欲しいと
休日だというのに耕平は朝から振り回されていた。
これ以上彼女の我儘に付き合わされるのは御免だと思っているところへ、
ちょうどタイミング良く携帯が鳴った。耕平はベランダに出た。


「高村先生、お休みのところすみません。附属病院にいた川辺です。
実は、奥さまの検査結果について至急お知らせしたい事がありまして…」
川辺は亜希の術後をフォローアップしていた婦人科医である。
二月に受けた最終の血液検査の結果に異常があると言う。
病院を移り、後任医師との連絡ミスから報告が遅れたことを謝罪した。

「…(はん)血球減少が顕著に見られます。それぞれの数値もかなり低いです。
本当に申し訳ありません、すぐにご報告できなくて…」
川辺の声が少し上擦っている。
「とりあえず、この番号に今すぐ送ってもらえますか?」
検査結果が気になった。
ファックスが始動するまでの数分間がひどく長い時間に感じられた。


転送されて来た検査結果の数値を目にした耕平は愕然となった。
同時に、亜希の白い腕にくっきりと浮かび上がった痣の青さが彼の脳裏に
鮮明に蘇った。

18.春の別れ(2)

祥吾は書斎の窓から庭にある満開のソメイヨシノを眺めていた。
崇之が生まれた時、孫の誕生を祝い崇正が記念に植樹したものである。
明け方から降り出した雨に打たれ、風が吹くたびに花弁(はなびら)が舞い散っている。


(あの()はどうしているだろう… )
机の上にある携帯に目をやった。
かかってくるはずのない電話をあの日以来、心のどこかで待ち続けている。
亜希は約束通り崇之の前から姿を消した。最悪の事態は回避できたという安堵感はあるものの、
雅子のよう諸手をあげて喜ぶ気にはなれない。崇之は父親が金ですべてを解決したことに嫌悪し、
あれ以来祥吾に堅く心を閉ざしてしまった。

「旦那さま、成都医大の高村先生からお電話でございますが、
そちらにお繋ぎいたしましょうか?」
ドアの外でお手伝いの声がした。

「ご自宅にまでお電話をして申し訳ありません。実は、急を要する事でして、
御子息のあちらでの連絡先をお教えいただきたいのですが… 」
どうやら高村は崇之が日本にいないという前提で居場所を探しているらしい。

「息子はこちらにいます、と言っても今は留守にしていますが」
「ああ、よかった。まだ日本におられるのですね」
安堵した様子が電話の向こうから伝わってくる。
「お差し支えなければ、どういった用件がお聞かせ願いませんか?」
「実は、亜希、さんのことで至急お伝えしなければいけない事がありまして」
高村はまだ二人のことを知らないようだった。
祥吾は、亜希のことで急を要するという話の内容が気にかかった。
幸い今日は崇之も雅子も不在で都合が良かった。


「私の方でも二人のことで先生にお話したい事があります。都内におられるのなら
ご足労ですが、ここへ来てはもらえんでしょうか?」
「分かりました。今からすぐそちらへ伺います」


________________________________


一時間ほどで世田谷の木戸邸に着いた。
応接室に通されると、木戸祥吾は待ち構えたように椅子から立ち上がり耕平を迎えた。

「お呼び立てして申し訳ない。実は… 結論から申し上げると、亜希さんと息子は
一緒ではありません…」
「?…」
耕平には祥吾の言葉の意味が解せなかった。
「…私が、二人を別れさせました」
祥吾の表情は苦渋に満ちている。

「そんな! じゃ、亜希はいったいどこにいるんですか!?」
予想もしなかった事態に祥吾を詰問するような口調になった。
「すみません、失礼な言い方をして。御子息は彼女の居場所を
ご存知でしょうか?」
「おそらく、知らんでしょう… 急を要すると言っておられたが、
どういうことですか?」
「すぐに治療を始めないと命にかかわるような深刻な病気に罹っている
可能性があります……」


耕平は詳しく説明した。
――血液検査の結果、亜希の赤血球、白血球、血小板の細胞の数が減少している
  ことが判明した。赤血球の数だけ減る通常の貧血とは異なり、全てが減少した
  場合、まず再生不良性貧血(AA)が疑われる。また、急性白血病やMDS
  (骨髄異形成症候群)などの可能性もあり、診断を決定するには一刻も早い
  骨髄検査が必要となる。いずれにせよ、数値から判断すると亜希は重症の部類に
  入り最悪の場合、骨髄移植が必要となるかもしれない――


(……)
祥吾の顔から血の気が引いた。
葉山の家の前で苦しそうにうずくまっていた亜希の姿が脳裏を過る。

「助けてやって下さい! 私にできることはなんでもします。
どうか命を救ってやって下さい!」
祥吾は懇願するように言った。
その只ならぬ様子から、単に息子との仲を引き離した女に対する贖罪や、
同情だけではないと耕平は直感した。

「木戸さん、失礼は承知でお伺いします。なぜ、二人は別れなければ
ならなかったのですか?」
「あ、骨髄提供者は血縁関係のある親や兄弟のほうが適合の確率が高いのですね?」
耕平の問いかけに、何かに思い当たったように祥吾は逆に聞き返した。
「ええ、兄弟姉妹間で四分の一、稀に両親と一致することもありますが… 
耕平は質問の意図を測り兼ねた。
祥吾は暫くの間じっと押し黙っていたが、意を決したように重い口を開いた。

「彼女は… 亜希は、私の娘かもしれんのです…」


(木戸崇之と亜希が兄妹かもしれない…)
耕平は言葉を失った。



************************************



「亜希はそのことを知っているんですか!?」
ドアの外で祥吾の話の一部始終を聞いていた崇之は血相を変えて部屋に飛び込んで来た。

「いや、彼女は何も知らない… 崇之、許してくれ、亜希さんは金など
受け取ってはいない。お前を裏切るような真似はできないと突っ返された」
父の言葉に崇之はその場に崩れるように座り込み頭をかかえた。

「とにかく今は、彼女を見つけることが先決です。亜希の行きそうな場所に
心当たりはありませんか?」
「先生のところに、戻ると… 」
耕平の問いかけに応える崇之はまるで魂の抜けた抜殻のようだった。
三人は押し黙ったまま、応接室には重苦しい空気が流れる・・・


「木戸さん、貴方と亜希の間に親子関係は成立しません」
その沈黙を破るように耕平がおもむろに切り出した。
「貴方の血液型は、確かB型ですよね。亜希はAB、彼女の母親はB型です。
B型同士の両親からAB型の子供が生まれる可能性はありません。
父親の血液型はAもしくはAB型、ちなみに亜希の父親はAB型でした」
亮がAB型RHマイナスという特殊な血液型であったため、両親の血液型について
亜希から詳しく聞いたことがあった。

祥吾はがっくりとうな垂れた。崇之は放心したように微動だにしなかった。
非情にも木戸父子の上に再び愛する者同士が引き裂かれるという悲劇が繰り返された。
耕平の脳裏に五分咲きの桜を見上げる亜希の横顔が浮かんだ。
それは、初めて彼女に出逢った日、新幹線の車窓に寄りかかり虚ろに宙を見つめていた、
あの淋し気な横顔と同じだった。


応接室のガラス戸の向こうに手入れの行き届いた木戸邸の庭が広がる。
樹形の整った見事なソメイヨシノの大木から、儚い一生を終えた美しい桜の花弁が
まるで雪の結晶のようにひらひらと舞い落ちていた。


___________________________



昨日まで都内の桜はどこも満開だった。
夜半から今朝まで降り続いた雨の所為で今は散りはじめている。
路上に積もる濡れた花びらたちが、雨上がりの柔らかな春の陽差しを浴びて
キラキラと輝いている。


「花の命は短くて… とは、ほんと上手く言ったもんですね… 」
フロントガラスに落ちた花弁をウィンドーワイパーで掃いながら、運転手は客に
話しかけてきた。

「これから海外旅行ですか、どちらに行かれるんです?」
タクシーはすでに東京を離れ千葉に入っていた。

「お花見に行くんです」
車窓に寄りかかり外の景色を虚ろな眼差しで見ながら客は応えた。

「外国で、お花見ですか?」
運転手はミラー越しに若い女の顔を怪訝そうに見た。

「ええ… ワシントンの桜は、ちょうど来週あたりが見ごろなんです」
「アメリカで花見とは、豪勢で羨ましなあー。でも、お一人で?」
「主人と子供が先に行って、向こうで待っているんです」
女はそう言うと、シートに身を沈め目を閉じた。


亜希の瞼の裏には、ポトマック川沿いに続く満開の桜並木を元気に駆け回る
亮と拓也の姿が映っていた。




ー了ー

Samsara ~愛の輪廻~ Ⅱ(完結済)

Samsara ~愛の輪廻~Ⅲに続きます・・・

Samsara ~愛の輪廻~ Ⅱ(完結済)

耕平と亜希が結婚して二年の歳月が流れた。 亜希は家事と育児に追われながらも平凡で幸福な日々を過ごしている。 耕平も愛する家族に囲まれ公私共に充実した生活を送っていたが、杏子の強引な誘惑に一夜を伴にしたことから、 ずるずると不倫の関係を続けることになる。そんな中、亜希は音大時代の先輩、木戸崇之と再会する。 彼はかつて亜希に密かな想いを寄せていた。音楽という共通の感性を持つ崇之の出現に亜希は心ときめくものを感じる・・・

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-04-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01.運命の再会(1)
  2. 02.運命の再会(2)
  3. 03.ときめきの時間(1)
  4. 04.ときめきの時間(2)
  5. 05.暗雲(1)
  6. 06.暗雲(2)
  7. 07.不倫の代償
  8. 08.聖夜の再会
  9. 09.愛しい我が子
  10. 10.逃避行(1)
  11. 11.逃避行(2)
  12. 12.決別
  13. 13.海の見える家
  14. 14.好きだから(1)
  15. 15.好きだから(2)
  16. 16.好きだから(3)
  17. 17.春の別れ(1)
  18. 18.春の別れ(2)